高尾正徳の生涯とその事業
著者
室田 保夫
雑誌名
関西学院史紀要
号
22
ページ
39-88
発行年
2016-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/14331
高尾正徳の生涯とその事業
室田
保夫
江 戸 幕 藩 体 制 が 崩 壊 し、 明 治 期 を 迎 え 文 明 開 化 が 訪 れ た が、 視 覚 に 障 害 の あ る 人 へ の 対 策 は、 こ れ ま で あ っ た 当 道 座 な ど の 生 活 防 衛 的 な 自 主 組 織 も 解 体 さ れ、 新 し い 近 代 的 な 形 に 変 容 せ ざ る を 得 な か っ た。 明 治 中 期 頃 か ら 私 立 の 盲( 唖 ) 学 校 や 訓 盲 院 等 が 各 地 に 創 設 さ れ、 主 に 基 礎 的 な 教 育 と 彼 ら の 職 業 訓 練 の 場 と し て 位 置 し て き た 。 し か し 彼 ら は こ こ を 卒 業 し た と は い え、 更 な る 高 等 教 育、 大 学 等 で 学 ぶ 教 育 か ら は 疎 外 さ れ て き た。 そ う し た 中、 一 八 八 九( 明 治 二 二 ) 年 に 創 立 さ れ た 関 西 学 院 は、 戦 前 か ら 視 覚 に 障 害 の あ る 学 生 を 多 く 受 け 入 れ て き た 実 績 が あ り、 そ れ は 高等教育機関における当時の実情から鑑みると、きわめて注目すべき事実である。 関 西 学 院 で そ の 先 鞭 を つ け た の が 大 正 初 期、 神 学 部 で 学 ん だ 熊 谷 鉄 太 郎 で あ る 。 熊 谷 は 好 本 督 の 援 助 を 受 け な が ら 関 学 で 学 ん だ 後、 「 盲 人 伝 道 」 の 道 を 志 す こ と に な る。 そ し て 当 時、 大 阪 市 盲 唖 学 校 で 学 ん で い た 岩 橋 武 夫 と 出 会 う こ と に な り、 岩 橋 も 関 学 の 門 戸 を 叩 く こ と に な る。 岩 橋 は 実 家 に 点 訳 機 を 設 置 し た り し て、 視 覚 障 害 者 福 祉 の た め の 運 動 を 関 西 学 院 学 生 時 代 か ら 始 め て いった 。岩橋は関学を卒業後、大正末期に イギリスのエジンバラ大学に 一年半、その後ロンドンを中心 にして約半年間、イギリスの視覚障害者の為めの支援事業と実態を視察、調査して一九二八年に 帰国することになる。そして母校関西学院の英語の教員として研究と共に障害者のための福祉活 動を継続的に行っていく。イギリスで調査したことは福祉の専門誌である『社会事業研究』に論 文 と し て 発 表 し、 そ し て『 愛 盲 ― 盲 人 科 学 A B C 』( 日 曜 世 界 社、 一 九 三 二 ) と い う 著 作 を と お して先駆的な福祉の実情にも触れている 。さらに昭和初期、 世界ライトハウスの生みの親、 マザー 夫人が来日し、それを契機にして日本でのライトハウス運動は岩橋をして、一九三五年に世界で 一三番目のライトハウスの設立に結実せしめたのである。 関学は学院側の理解と支援もあり、岩橋の関学教員就任後に 多くの視覚に 障害のある学生を受 け 入 れ て い く こ と に な る。 そ こ に は キ リ ス ト 教 主 義 を 標 榜 す る 関 学 の 教 育 方 針 が あ り、 ま た C ・ J ・ L ・べーツの「 Mastery for Service 」の精神が存したことも無視できない。そして実際、そ の柱となったのは岩橋である。すなわち関西学院で教鞭を執りながら、学生たちに その道の開拓 者となるように教育もしていった。関学に集い岩橋の謦咳に接した人物として大村善永、本間一 夫、瀬尾真澄、下沢仁、高尾正徳らを挙げることがことができる 。大村善永は「満州」で盲学校 を設立し、また終戦後は東京でシロアム教会を創設した。また本間一夫は東京で日本点字図書館 を設立する。下沢仁は本間の点字図書館の仕事の同労者となったし、瀬尾真澄は故郷大分で視覚 障害の人々に対する事業で貢献した。 ここで紹介する高尾正徳は戦後、故郷の島根県でライトハウスを立ち上げ、また中央の日本盲 人会連合の会長としての重責を果たした人物である。ところで高尾については上記の関学の出身
者として、 その先鞭をつけた熊谷鉄太郎、 大きな業績を上げた岩橋武夫、 そして本間一夫らに比し、 井口淳「今も出雲に咲いている花」 『昭和に生きた盲人たち』 (一九九三)や吉田トキ江「先達に 学び業績を知る 今も人々に生きる希望を与え続ける高尾正徳」 『視覚障害』 二六三号 (二〇一〇) で触れられている以外、これまで十分に高尾について研究がなされてこなかった。吉田は高尾の 事業の同労者として、また身近に彼の背中を見てきた人物像を記している。しかし両論文とも紙 幅の制限もあり、 簡単な伝記の域を出るものではなかった。ちなみに出身大学の『関西学院事典』 には紹介されていない。ただ高尾には追悼文集として高尾正徳先生胸像建立委員会編になる『光 を も と め て 高 尾 正 徳 先 生 を 偲 ぶ 』( 島 根 ラ イ ト ハ ウ ス、 一 九 九 二 ) が あ る。 押 し 並 べ て 高 尾 に ついての史料は少ないが、この著作には彼の簡単な自伝も掲載され、また多くの人達の追悼文か らなっており、彼の業績や人となりを知る上に於いてきわめて貴重なものとなっている 。 この小論は高尾正徳という人物に ついて、今回渉猟した史料を利用して、その生涯を辿り彼の 足跡をみていくものである。ただ、まだ史料蒐集等を含め十分でなく、高尾とその周辺について は今後も調査を継続していかなかれ ば ならないことはいうまでもない。そのための基礎作業とし て生涯に渉る彼の事績を概観することが、当初における小論の目的である。 一、誕生、養子、そして帰郷 ◆誕生と養子 高尾正徳は一九一五(大正四)年一二月二一日、島根県飯石郡飯石村(現三刀屋町)多久和に
生まれた 。父は萬之助、母はヂ ンで生家は農家であり、一〇人兄弟(男七、女三)でその五男で あった。一八年三月、三歳の年に松江市嵩山の本覚寺(島根県松江市上東川津町四三七)の養子 となる。本覚寺は曹洞宗の禅寺であった。養子に出された理由はその寺に叔母が嫁いでおり、ま た五男というように男の兄弟が多く、 かつ本覚寺に子供がいなかったからと推測できる。 したがっ て実の両親から幼少期育てられたわけではない。寺の養子となったことから、自然に寺の中で育 ち、 そういった環境の中で暮らしていくことになる。養父たる和尚は三〇代後半で、 人望が篤く、 いろいろな役員を引き受け、檀家の些細な問題の相談にも応じて多忙な毎日を送っていた。小学 生になって日曜日にはお経を学び、寺では「 小 こ ぼ 坊 」と呼 ば れ、三年生の頃には法要や法事等に駆 り出され、高尾自身「豆小僧の役」を勤めたと述懐している。 高 尾 に と っ て 実 家 か ら 養 子 に 出 さ れ た と は い え、 義 理 の 両 親 は「 本 当 に よ い お 父 さ ん で あ り、 やさしいお母さんであった」 (『光をもとめて』一三頁)と回顧しているように、血は繋がってい なくとも素晴らしい家庭環境のもとで起居し育てられたことは幸福であったと言える。正徳の義 父に対するエピソードとしてあげている一つを紹介しておこう。それは高尾が和尚に嘘をついた ことに対する時のことである。小学校三年生だから、一〇歳くらいの思い出であろうか。 和尚さんは、し ば らく黙ってうつむいておられたが、やがて、すっと立って本堂の方に 行か れた。仏さまを拝まれるお経の声が聞こえてくる。私も、 恐る恐る本堂に行き後ろに 座った。 い つ も の お 経 と ど う も 違 う。 お 経 が 終 る と、 和 尚 さ ん は 涙 声 で、 「 こ ん な 子 供 に 育 て た 私 を お 許 し く だ さ い。 い た ら な い 私 を ど う ぞ お 許 し く だ さ い 」 と 泣 い て お ら れ る。 …… 略 …… 大 声 で 泣 き な が ら 和 尚 さ ん に 抱 き つ い た。 和 尚 さ ん は 私 の 頭 を 撫 で な が ら「 い や い や、 わ し が
迂 闊 だ っ た よ、 わ し が 悪 か っ た。 嘘 を い う な な ん て 教 え た こ と が な か っ た か ら な、 ハ ッ ハ ッ … … 」 私 が 涙 を 拭 い て 坐 り な お す と 、 私 の 方 に 向 き な お っ て 、「 小 坊 、 じ ゃ あ 覚 え て お き な さ い 。 正直は一生の宝という言葉があるということを」 。 かくて高尾は「爾来、 今日まで私の心の弱さを時に は戒しめ、 時に は叱咤激励の警鐘となって、 この耳に和尚さんの声が聞こえてくる」 (『光をもとめて』一四頁)と記している。義父はこうし た人間としての生きる基本的なことを叱責するということではなく、自己の問題として、あるい は親として、もしくは宗教者の課題として捉え、教え諭していったのである。その真摯な気持ち を幼いながら高尾は感じ取り、感謝の念を忘れなかった。そして寺から川津小学校に通うことに なる。 川津小学校の沿革史に よれ ば 、学制が発布された翌年の一八七三(明治六)年に 西川津民舎に 設置、一九一九(大正八)年には島根県八束郡川津村尋常高等小学校と改称されている。本覚寺 からはかなりの距離があったが、元気に通学していたのだろう。ちなみに小学校の同窓生は当時 の高尾を「思え ば 遠い昔、高山の麓の本覚寺の住職をお父様として四年の間、上川津から小学校 まで山を越え谷を渡り、肩から鞄をかけて友達に手を取られて私の家の前を通われた子供の頃の 姿が、今でも鮮明に頭に浮んでまいります」 (『光をもとめて』八二頁)と回顧している。 ◆視力の低下、帰郷 こうした幸福な少年時代を過ごし、順風満帆な人生を送っていたが、思わぬ災厄が待ち構えて いた。高尾は川津小学校の四年生の春ごろから視力の低下を来たし、予想だにしない不幸に見舞
われることになる。その時、絶望に打ちひしがれている高尾に対し、養父は「小坊、おまえも目 が 悪 く な っ て た い へ ん だ な。 で も、 仏 さ ま は、 私 た ち に も う 一 つ の 目 を く だ さ っ て い る の だ よ。 それは心の目だ。肉体の目は見えなくなっても、 心の目を大きく開いてよく向こうを見つめ、 真っ すぐに進むのだ。 必ず立派な人に なれよ。 お父さんも仏さまに よくよくお祈りしてあげるからね」 (『光をもとめて』 一五頁) と高尾の手をとって、 「心眼」 の存在を懇々と諭したということである。 し か し こ の 養 父 も、 高 尾 が 目 を 患 っ て 間 も な く 他 界 す る こ と に な る。 こ の 養 父 を 失 っ た こ と が、 視力の低下のことよりも彼にとっては大きな悲嘆であった。そして五年生の夏になって、目の病 気と和尚(養父)の死去に伴い、彼は故郷の飯石村に帰り、二学期から地元の小学校に通うこと となるのである。そこは実の両親が起居し、 兄弟たちと一緒の暮らしが待っていた。一九二五年、 大正末期の夏のことである。 彼 が 通 う こ と に な っ た 飯 石 小 学 校 は 一 八 七 四( 明 治 七 ) 年 に 島 根 県 第 一 九 中 学 区 多 久 和 小 学 校 と し て 創 立 さ れ、 寿 福 寺 本 堂 を 仮 校 舎 と し て 開 校 し た。 そ の 後、 飯 石 小 学 校 と な っ て い る。 一 九 〇 九 年 五 月 に は 木 造 の 立 派 な 校 舎 が、 そ し て 二 七 年 に は 二 階 建 て の 校 舎 が 建 立 さ れ て お り、 高尾はこの校舎で学んだ。ちなみに小学校の先輩に長崎で被爆し多くの著を上梓し、平和運動に 情熱を傾けた医者永井隆がいる 。 高尾は「教科書も読めない程に 落ちた視力では、中学はとても無理。進学を断念し、高等科に 席を置かせてもらい、一応卒業証書だけはもらって、暫く家にいることとなった」 (『光をもとめ て』一六頁)と回顧している。飯石小学校の記録によれ ば 、高尾の卒業は一九二八(昭和三)年 三月に なっている 。したがって高尾は一三歳の時に、飯石小学校を卒業したのである。しかし卒
業した高尾は実家にて、農作業や養蚕に多忙な母に代わって炊事や洗濯等の用事をする日々を送 ることになる。つまり卒業後は家事という役割が与えられ、大阪に出る一九三三年までの数年を 過ごすことになるのである。しかし彼の心にはこうした生活に対する忸怩たる想いがあったと推 察される。 二、大阪府立 盲 学校時代 ◆転機ー賀川豊彦との出会い 母 の 代 理 的 な 仕 事、 炊 事 当 番 等 の 家 事 に 明 け 暮 れ る 高 尾 の 生 涯 に 大 き な 転 機 が 訪 れ る こ と に な る。彼の記憶からすると、 それは一九三二 (昭和七) 年の晩秋のことである。 「神の国運動」 でもっ て山陰地方を訪れていた賀川豊彦の講演を木次の地で兄と二人で聞いたことである。偶然とはい え、 賀川の講演こそが高尾の人生を大きく変えたといっても過言ではない。賀川は「神の国運動」 の一環として全国を講演してまわっていたのだが、たまたまこの年の秋に島根県の奥出雲地方を 歴訪する機会を持った。 そ も そ も「 神 の 国 運 動 」 と は、 一 九 二 八( 昭 和 三 ) 年 春、 キ リ ス ト 教 の 聖 地 エ ル サ レ ム で 世 界 宣教大会が催されることになり、 日本基督教聯盟の全国基督教協議会は「社会信条」を制定した。 翌年四月には国際基督教連盟会長モット博士が来日するのを機会に日本基督教聯盟主催の特別協 議会が持たれ、賀川豊彦案に基づき、全国伝道運動が計画されることになる。同年一一月六日と 七日に東京本郷中央会堂においてその創立総会とも称せる第一回の全国協議会が開催された。そ
し て プ ロ テ ス タ ン ト 各 教 派 は 一 致 し て、 「 神 の 国 運 動 」 を 展 開 し て い く こ と と な っ た の で あ る。 そ し て 翌 一 九 三 〇 年 よ り、 日 本 各 地 に お い て そ の 運 動 が 組 織 さ れ、 大 々 的 に 展 開 さ れ て い っ た。 同年九月二日から四日かけて御殿場東山荘において第二回全国協議会が開催され、九月四日付で 「 宣 言 」 が 発 せ ら れ て い る。 こ の 運 動 は 社 会、 農 村 や 都 市 に 入 っ て キ リ ス ト 教 を 生 か し て 行 く こ とが、多くの課題解決につながって行くという方針であり、超教派の多数のキリスト者が動員さ れ て い っ た。 こ の 運 動 に つ い て の 機 関 紙 が『 神 の 国 新 聞 』( 週 刊 紙 ) で あ り、 こ れ は『 明 星 』 を 改称したものである。 ◆賀川の木次での講演 ― 「体で祈る」 当時の『神の国新聞』を紐解いてみると、賀川執筆の「山陰地方神の国運動」という報告があ り、そこに は一九三二年一〇月九日から一九日までの伝道活動が掲載されている 。賀川は九日に 岡山から伯備線で松江に到着する。松江と米子にて講演会をもち、一二日、再度松江着、島根半 島の秋鹿村の信用組合を訪問し、対岸の宍道町に 出、自動車に て木次に 向かっている 。難波力の 宅で二五人の人々と「キリスト教の教訓」を学んだとあり、夜は木次座にて一般集会、七五〇名 の参加があったと記されている。また難波力は「島根県木次神の国運動」 という表題で、賀川の 講演について以下のように報じている。 当 地 日 本 協 同 教 会 は 参 加 の 予 定 な り し も、 賀 川 氏 と 信 仰 上 に 根 本 的 相 違 あ り と し て、 主 催、 援 助 を な さ ず、 イ エ ス の 友 会 員 と し て、 難 波 司 会、 義 侠 的 に 青 年 団 の 援 助 あ り、 又 仁 多 郡 横 田 村( 当 地 よ り 八 里 ) の 救 世 軍 の 戦 友 八 名 予 期 せ ざ る に 、 当 日 援 助 せ ら る。 神 の 伏 兵 御
用意を感謝す。 午後二時 キリスト伝の教訓 場所 難波力宅 出席者 三十名 午後八時 於木次劇場 会員六百十名 この木次劇場での会は、司会難波力の下で行われ、賀川は「甦生日本の精神的基礎」という演 題で講演した。文中の横田村の救世軍の戦友とは、救世軍横田小隊からの派遣であろう 。おそら く高尾は兄とこの夜の木次劇場での講演会に参加したものと推察され、時期は一〇月一二日のこ とである 。講演内容に ついては記録がないため、高尾の思い出から賀川の講演を聞いてみること にしよう。 皆さん、心の貧しさは罪悪に つながります。庶民を貧困から脱却させるために と、権力者は 戦 争 と い う 手 段 に 出 る。 個 人 も 社 会 も 恨 み、 憎 み、 争 い、 お 互 い に 潰 し あ い、 さ な が ら に し て 生 け る 地 獄。 残 念 で す が こ れ が 現 実 の 姿 で す。 こ れ で あ っ て い い で し ょ う か。 明 る く 豊 か で 楽 し い 生 活 を 夢 み た こ と は あ り ま せ ん か。 今、 私 た ち が 住 ん で い る、 生 活 し て い る こ の 社 会に天国を、この地上に祈りと愛と連帯によって神の国を創造しようではありませんか 。 そして賀川は祈るだけではなく「叩けよ、さら ば 開かれん。この手で叩くことによって、初めて ドアが開かれるのです。心で祈ると共に体で祈らね ば なりません。実践です。行動です。皆んな で手をつなぎ、肩を組んで愛の実践に立ちあがりましょう。神の国の実現をめざして」 (『光をも と め て 』 一 七 頁 ) と 述 べ た と い う。 賀 川 独 特 の ア ジ テ ー シ ョ ン 的 演 説 で あ っ た か も し れ な い し、
正確に講演内容を再現しているかの確証はないが、賀川のこのような声が高尾はもちろん兄の心 にも響いたのである。 後 日 何 回 も こ の こ と を 回 顧 す る が、 「 心 で 祈 る 」 と 共 に「 体 で 祈 る 」 と い う 教 え が 高 尾 の 琴 線 に触れ、彼はこの教えを生涯、座右銘の如く心に刻んだのである。講演の正確さ云々よりも、彼 の心中に刻まれたこの言葉の記憶が真実でなかろうか。そして翌年三月、家族の反対を押して兄 と 共 に 大 阪 に 出 る 決 心 を す る。 兄 は 西 宮 の 賀 川 の 主 催 す る 一 麦 寮 に 、 高 尾 は 賀 川 の 教 会 に 行 き、 そして大阪府立盲学校の門を叩くことになる。まさに賀川の進言によって新しい扉を己が手で開 いていくことになった。ちなみに関学の一年先輩に当たる本間一夫も、函館盲学校時代に函館に 来た岩橋武夫と熊谷鉄太郎の講演を聴き、関学へ進む決心をしている 。人は往々に して心に 響く 言葉によって人生の指針や生き方を学ぶ場合がある。この高尾兄弟の場合も琴線に響く言葉の力 の証左なのかもしれない。 二、大阪府立 盲 学校時代 ◆大阪府立 盲 学校入学 か く て 高 尾 は 一 八 歳 の 春、 「 親 の 心 配 を 押 し 切 っ て 」 兄 と 共 に 大 阪 に 行 き、 希 望 ど お り 大 阪 府 立盲学校(現大阪府立視覚支援学校)に入学する。府立視覚支援学校所蔵の史料によれ ば 、高尾 は一九三三(昭和八)年四月、中等部の鍼按科に入学し、四年間の学びを終えて一九三七(昭和 一二)年三月二二日に卒業する。すなわち四年間、盲学校で学ぶことになるのである 。
大阪盲学校は一九一四(大正三)年一〇月、吉田多市、志岐与市の両氏に よって大阪市西区北 堀江通四丁目に大阪府の認可を受け大阪訓盲院として開設されたことに始まる 。一九二四年四月、 「盲学校及び聾唖学校令」によって盲学校として文部大臣より認可された。一九二五(大正一四) 年三月、大阪市天王寺区大道四丁目(現大阪教育大天王寺キャンバス)に移転し、社団法人天王 寺盲学校と改称される。一九二八年三月には大阪府に移管され、大阪府立盲学校と改称されるこ とになった。戦後は一九四八年四月、小学部の義務制実施、中学部と別科を廃し、中学部、高等 部( 理 療 科、 音 楽 科、 別 科〔 あ ん 摩 科 〕) が 設 置 さ れ る。 二 〇 〇 八( 平 成 二 〇 ) 年 四 月 一 日、 学 校名を大阪府立視覚支援学校に改称されるが、このように大阪府立盲学校は一〇〇年以上の歴史 を有する学校である。 高尾が入学したのは一九三三年四月であり、大浦正三校長時代であった。翌三四年一月に児童 生徒の実態調査が行われている。それによれ ば 初等部七四名、中等部鍼按科一六五名、中等部音 楽 科 四 名、 別 科 五 名、 研 究 科 五 名、 合 計 二 九 四 名( 男 二 〇 四 名、 女 九 〇 名 ) で 他 府 県 出 身 者 は 一一七名である。通学二三〇名、寄宿舎六四名である。三〇〇名近い大規模校であり、その四割 が他府県出身者で占めていた。大きな事件としては同年九月二一日に室戸台風によって校舎の屋 根や天井壁等が大破、大被害を受ける。一九三五年五月、大浦校長の死去に伴い、六月に樋口謹 一(新潟盲学校) が校長職に就く。学校では 「盲人野球」 「相撲」 等のスポーツに も力を入れており、 また弁論大会においても優秀な成績を修めている。例え ば 三五年六月一五日の庶務日誌に は高尾 の活躍が「尚校内の弁論熱は依然として旺盛で、 盛に一般学生の大会にも出場して優勝している。 ……略……高尾正徳君(大阪商科大学にて優勝)などが大活躍した。中でも、高尾氏は国語調の
情熱的弁論を行い一般人の注目をひいた」 と記録されている。 このように高尾の弁論の才能はこの盲学校時代に すでに 頭角を現しており、関学入学後も弁論 部に入部し更なる磨きがかかることになる。 ◆ 盲 学校での生活 盲 学 校 時 代、 高 尾 は 昼 間 は 学 校 に 、 そ し て 夜 は 治 療 院 で 働 き、 「 流 し あ ん ま 」 を や っ て 生 計 の 足しとした。また近くに夜間の英語学校(天王寺英語学校)があり、そこで学びたい欲求に駆ら れる。しかし寄宿舎は、夜間は外出が禁止という規則があったが、石黒藤九郎教師が熱心に学校 側を説得し、許可されることとなる。この石黒の行為に対して、高尾は生涯感謝の念を忘れてい ない 。 高尾は盲学校で富山出身の新井という人物と親友となっており、彼との間では英語のみ使用す るという和歌山での四〇日間にわたる共同生活の思い出も書いている。そして「新井君は神戸神 学校に、私は関西学院大学に」 (『光をもとめて』二二頁)と将来構想をもっていた。彼は神戸の 神学校に進んだが数年後に亡くなる。さらに『光をもとめて』には盲学校時代の同級生山内利則 の「あの頃……」という文章があり、彼は同級生仲間には「オタカサン」と呼 ば れていた。また 「馬喰会」 という食事の親睦会のようなものもあり、 そこには同級生九名でもって組織されており、 学校近くの細川大宅がメンバーの屯するところであった。枚挙に遑がないほど多くの思い出があ ると山内は追想しているが、 眼は不自由であっても多くの仲間があり、 彼らの青春がここにはあっ たのである。
その後、高尾は盲学校時代から、熊谷鉄太郎や岩橋武夫と出合い、関学進学への夢をさらに 強 固なものにしていった。夜学の英語学校に通うようになったのもこうした学びの欲求があったか らに他ならない。岩橋は関学入学に充当なる準備をして新しい扉を開いていったのである。 ◆永井隆の診断書 既 述 し た よ う に 飯 石 小 学 校 の 先 輩 に 永 井 隆 が い た が、 高 尾 と 意 外 な 繋 が り も あ っ た。 大 阪 府 立 盲学校時代の高尾の診断書が永井隆記念館に残されている 。 診断書 大阪府立盲啞学校 第二学年生 右者 急性肺炎治癒後ニツキ 向七週間 激動ヲ除クヲ要ス 右 診断候也 昭和九年五月七日 島根県飯石郡飯石村一九八一 医師 永井 隆印 診断書には大阪府立盲啞学校となっているが、実際は大阪府立盲学校生であり、永井の誤記で あろうか。しかし永井が出雲の地を離れ長崎に行ってからの二人の交友については調べられてい ない。
三、関西学院時代 ◆関西学院専門部文学部社会学科 高 尾 が 晴 れ て 関 学 専 門 部 文 学 部 社 会 学 科 に 入 学 す る の は、 一 九 三 七( 昭 和 一 二 ) 年 四 月 の こ と である。関学にこの社会科が設置されるのは一九一五年のことである。彼が賀川の教会とも親し く、また賀川の生き方に共鳴していたことから、この「社会科」へ入学したものと思われる。関 西学院に 残されている「学籍簿」 に よれば 、彼は関西学院専門部文学部社会学科に「聴講生」と し て 入 学 し て い る。 入 学 月 日 は 一 九 三 七( 昭 和 一 二 ) 年 四 月 一 〇 日 で、 「 體 操 免 除( 身 体 ノ 故 障 ニ 因 ル )」 と 記 さ れ て い る。 ち な み に 専 門 部 時 代 の 成 績 は 飛 び 抜 け て い い わ け で は な い が、 弁 論 部 に 属 し た り し て 活 躍 し た。 卒 業 は 一 九 四 〇( 昭 和 一 五 ) 年 三 月 一 六 日 で あ る。 「 聴 講 修 了 者 」、 及び「社会科」として記されている。 彼の生活の拠点は寮であった。学業や寮費等に ついての経済的な面では援助者があった。それ は東京にいる兄の知己で許平という人物である。 許は台湾の人で貿易会社を経営している人物で、 全面的な援助があった。また入学した年の四月に、ヘレン・ケラーが初来日し、各地で講演会を もつが、関学にも五月一四日来校し、中央講堂で講演会を開いている。おそらく高尾もこの講演 を聞いたことと思われ、大いに刺激を受けたに違いない 。 当 時、 関 学 に は 英 語 教 員 と し て 岩 橋 が い た が、 視 覚 障 害 の あ る 学 生 を 積 極 的 に 受 け 入 れ て お り、また専門部文学部英文学科に本間一夫、神学部本科に瀬尾真澄、そして神学部予科に下沢仁 が い て、 彼 の 先 輩 と し て 在 学 中 で あ っ た。 専 攻 は 違 っ て い た が、 こ の 四 人 は 仲 が 良 く「 四 人 組 」
と も 呼 ん で い る。 当 時 の こ と を 本 間 は 「 私 が 借 り て い た 家 や 美 し い 学 院 の 芝 生 に 集 ま っ て よ く 語 り 合 っ た も の で あ り、 岩 橋 武 夫 先 生 に 招 待 さ れ て 学 院 の 食 堂 で ご ち そ う に な っ た り、 発 破 を か け ら れ た も の で あ る。 四 人 共 よ く 勉 強 し て 成 績 も 決 し て 悪 く な か っ た が、 特 に 高 尾 氏 は い く つ か の 部 に 参 加 し て 晴 眼 者 と 共 に 活 躍 し、 大 学 で は 弁 論 部 の 部 長 も 務 め た よ う で あ る 」( 『 光 を も と め て 』 五 九 頁 ) と 回 顧 し て い る。 既 述 し た よ う に 彼 の 弁 論 の 能 力 は 大 阪 府 立 盲 学 校 時 代 か ら そ の 片 鱗 が 窺 え る が、 関 学 時 代 に も 弁 舌 爽 や か で 政 治 家 的 な 素 質 が あった様である。 ◆高尾と本間一夫について こ こ で 高 尾 と 本 間 一 夫 と の 関 係 に つ い て 記 し て お こ う。 そ の 端 緒 は 高 尾 が 府 立 盲 学 校 四 年 の 頃 に始まる。本間の記憶からすると、 その出会いは高尾が入学する前年、 一一月八日のことである。 向かって右端が高尾、その隣りが本間、瀬尾、一人おいて下沢 (島根ライトハウス所蔵)
その日、越岡ふみが創設した関西盲婦人ホームによる集会が広田神社(西宮市)でもたれた。盲 婦人ホームは大阪府立、市立両盲学校のクリスチャンに呼びかけて野外礼拝をもった。ここには 関学一年生の本間一夫、瀬尾真澄、下沢仁が参加しており、また越岡ふみ、つね子姉妹、中村京 太郎、喜久田倫章も参加していた。礼拝後に懇親会が持たれたがその時、司会役を買って出たの が高尾であった。司会を引き受け「皆に自己紹介をさせたり、讃美歌を歌わせたり、おしまいに は確か自作の童話を話して座を盛り上げるなどして、こういう盲人の会に初めて出席した私を驚 かせたり感動させたりしたものだ」 (『光をもとめて』五九頁)と述懐している。また本間は関学 時代の高尾について次のように回顧している 。 私よりも一年おくれて文学部の社会科に 入ってきた高尾正徳氏は、 よく学びよく動いた人で、 専 門 部 か ら 大 学 に 進 ん で か ら は 弁 論 部 の 部 長 を 長 く 務 め る な ど、 エ ネ ル ギ ッ シ ュ に 活 動 し ま し た。 …… 略 …… た く さ ん の 晴 眼 学 生 の 中 で 盲 人 は こ の 四 人 だ け だ っ た の で す か ら、 事 あ る ご と に よ く 集 り ま し た。 夜、 校 内 の 芝 生 に た む ろ し て 校 歌 や 軍 歌 を う た っ た り、 仁 川 の ほ と り を さ ま よ い な が ら 将 来 の 抱 負 を 語 り あ っ た り、 点 字 の 書 か れ た ト ラ ン プ で 他 の 友 人 も 交 え てツー・テン・ジャックをよくやりました。 そ し て「 こ の 四 人 の 精 神 的 後 盾 に な っ て お ら れ た の が、 岩 橋 武 夫 先 生 で し た 」 と 述 懐 し て い る。 この岩橋と共に、次にみるようにベーツ夫妻も彼らの良き支援者であった。 ◆関西学院時代の回顧 高尾は関学時代に ついて「学院長はカナ ダ の出身で、シーゼ ーエル・ベイツ先生といい、信仰
厚く、人徳、識見共に秀でた方であり、教授陣からも学生からも慕われてこられた。私たち目の 不自由な学生には格別気を配っていただき、奥様からの招きで、度々、院長のお宅にもお邪魔を したことがある。最近は、公立の各大学が障害者に門戸を開放しているが、従来、特に戦前は関 西学院大学が唯一であった。これは大先輩の岩橋武夫先生や熊谷 哲 ママ 太郎牧師によって道をつけて いただいたものであるが、 ベイツ院長の格別な配慮であることも忘れてはならないであろう」 (『光 をもとめて』二九頁)と回顧している。 高 尾 は 専 門 部 を 終 え る に あ た っ て、 謝 恩 会 の 席 上「 一 年 生 の 時 代 は 同 情 の 時 代 だ っ た。 二 年 生 は 理 解 の 一 年 間 で あ っ た。 三 年 に し て 友 情 の 一 年 に す る こ と が で き ま し た 」( 『 光 を も と め て 』 四一頁)と挨拶したと回顧している。同情から理解へ、そして友情への道程について、的確に表 現しているが、ここには「盲人」であるということの障碍のあったことが推察されるが、それが 友 情 へ と 進 化 し て い っ た と い う 満 足 感 も 窺 え る。 そ し て 専 門 部 の 文 学 部 三 年 間 の 学 び を 終 え て、 一九四〇年三月に卒業を迎えることとなった。 ◆結婚 高 尾 は 関 学 専 門 部 の 卒 業 式 を 終 え た 後 の 三 月 三 一 日 に 、 同 郷 の 土 屋 あ や め と 賀 川 と 関 係 の 深 い 大阪生野田島町聖浄教会で結婚式を挙げた。それは法文学部の試験合格の日でもあった。媒酌人 に は 同 志 社 大 学 講 師 の 竹 内 愛 二 夫 妻 で あ っ た。 竹 内 と 高 尾 の 関 係 に つ い て は ま だ 不 明 で あ る が、 高尾が専門が社会科であり、竹内が当時から関学と関係を持っていたからかもしれないが、興味 ある組み合わせである。
さてこの結婚に際しては『朝日新聞』の大阪版に おいて「盲人、初の大学生 関学専門部を一 番 で 卒 業 し て 進 学 」 と い う 見 出 し で、 写 真 入 り で 紹 介 さ れ た 。「 ベ ー ツ 関 西 学 院 長、 中 村 大 阪 盲 人 会 長 ら 多 数 来 賓 名 士 か ら 祝 辞 の 雨 を 浴 び、 見 え ぬ 目 に 感 激 の 涙 を 浮 べ て ゐ た 花 婿 が 話 題 の 主、 高尾正徳君(二十六年)だ。……略……同君は宗教的情熱を活かして盲人保護法の立法をめざし 政治、社会学を専攻するかたはら校外では盲児童の実地指導を行ふことになつてゐるが、この希 望の首途に新しい光明たる新婦土屋あやめさん(二十六年)と結 ば れた」と紹介されている。 妻のあやめについては「高尾君と同県で大阪回生病院看護婦養成所を経て府社会課に 勤務、勇 士遺家族の母子保護に活動してゐた健気な銃後の女性で高尾君のことをきくやその志を遂げさせ てあげたいと話はとん〳〵拍子に進み、竹内同志社大学講師夫妻の媒酌で同君の試験合格の日を 選んで挙式になつたものである」 と報じている。 竹内愛二は戦前、 関学教授の中島重が主催した 「社 会的基督教」運動にも関わっており、また賀川が指導的役割を果たした「神の国運動」とも深い つながりがあった。そして戦後は同志社から関西学院に移り、ソーシャルワーク理論の草分け的 な人物である 。 二人の新居は阪急西宮駅北口の近くに 構えた。近所に は越岡ふみが経営している「関西盲婦人 ホ ー ム 」 が あ り、 「 府 盲 同 級 生 の 松 島 加 代 子 さ ん も こ こ に い て、 何 か と お 世 話 に な っ た 」( 『 光 を もとめて』三三頁)と述懐している 。 ◆法文学部法律科 かくして高尾は専門部を終えて、一九四〇(昭和一五)年四月に 関西学院大学の法文学部法律
科政治学専攻に進学した。まだ全国的にも珍しく、正規の大学生となったのである。四二年九月 に卒業するまで二年半、法文学部で学ぶことになる。しかし、時代は戦争一色となり、一九四一 ( 昭 和 一 六 ) 年 一 二 月 八 日 に は、 日 本 が 真 珠 湾 を 攻 撃 し、 ア ジ ア 太 平 洋 戦 争 が 勃 発 す る。 関 学 も こうした戦争の波に飲み込まれていくが、高尾の法文学部での生活はこのような戦時体制の時代 であった。法文学部で法律と政治を修めた高尾は関学での学びを次のように整理している。 そういうことで学院を終えましたが、学院に おいて私は社会政策というものは組織団体に よ る 創 意 に よ っ て 英 知 を 結 集 し て、 団 体 の 名 に お い て 社 会 に 訴 え、 政 府 や 関 係 方 面 に 働 き か け る 必 要 性 を 感 じ ま し た。 つ ま り、 組 織 力、 集 団 だ か ら な し う る 力 の 必 要 性 を 会 得 し た の で ございます。 又、社会事業というものは、教育事業に おきかえても同じことかと思いますが、これは愛 情 と 情 熱 を 裏 付 と し た 個 人 の 行 動 に よ っ て の み 実 現 す る も の だ と い う こ と を 学 び、 以 後 自 分の信念といたしております 。 も ち ろ ん こ の 回 顧 は 彼 が 後 に 表 し た も の で あ っ て、 戦 後 社 会 の 彼 の 活 躍 や 県 会 議 員 や 社 会 活 動、 あるいは福祉活動を意識してのもので、当時が合理化された所もあると考えられる。しかし、高 尾の法学科での学びは彼の戦後の政治活動に、そして社会事業活動に生かされていくことは言う までもない。高尾が卒業した年月日は一九四二 (昭和一七) 年九月一九日のことである 。したがっ て高尾は文学部社会学科三年間と法文学部二年間半、合計五年間半の学び、弁論部での活躍等が あったこと、それが後の彼の生涯に重要な経験、学修であったことは容易に推察されるところで あろう。
卒 業 に あ た っ て 、 就 職 に 骨 を 折 っ た の は 関 学 の 先 輩 で 東 京 在 住 の 本 間 一 夫 で あ っ た 。 当 時 、 日 刊 『 点 字 読 売 』 が 発 刊 さ れ た こ と も あ り 、 高 畠 編 集 長 ら に 就 職 の 斡 旋 を し た が 、 こ れ は か な わ ず 、 東 京 盲 人 会 館 に 就 職 す る こ と と な る 。 四、東京 盲 人会館時代、そして疎開 ◆東京へー東京 盲 人会館 一 九 四 二( 昭 和 一 七 ) 年 九 月、 関 西 学 院 を 卒 業 し た 高 尾 は 先 輩 本 間 の 紹 介 も あ り、 同 年 一 〇 月 か ら 東 京 盲 人 会 館 で 働 く こ と に な る 。 ま さ に ア ジ ア ・ 太 平 洋 戦 争 の 最 中 の こ と で あ る 。 ち な み に こ の 盲 人 会 館 は 、 一 九 三 七 年 四 月 の ヘ レ ン ・ ケ ラ ー 来 日 を 機 に 建 設 の 議 が 浮 上 し た も の で あ る 。そして皇室から一万円の下賜金があり、建設委員会が立ち上がり、委員会と中央盲人福祉 協 会 が 設 立 資 金 の 寄 付 金 を 集 め に 奔 走 し た 結 果、 六 万 七 四 〇 〇 円 余 が 集 ま り 翌 年 土 地 を 購 入 し、 一九三九年七月に工事が完成した。会館は二階建て床面積は三〇〇坪であり、広い庭、噴水を配 したモダ ンな作りであった 。そして一九四〇年一〇月四日、会館設立認可の許可がおり東京の援 助を受けながら、財団法人としてスタートした。当初、その事業は①盲人の職業補導ならびに 授 産、②盲人の教育ならびに慰安、③中途失明者の指導、④失明防止に関する事業、⑤その他、目 的遂行上必要と認むる事業、となっている 。 関 学 の 先 輩 本 間 に よ れ ば 、 高 尾 は 上 京 す る や 否 や、 「 点 字 友 の 会 」 と い う 団 体 を 結 成 し、 「 晴 盲 の 有 志 を 集 め て 結 成 し 」 種 々 の 運 動 を 始 め た が、 こ う し た 精 力 的 な 活 動 に つ い て 本 間 は「 彼
の 手 腕 に は ほ と ほ と 敬 服 し た も の で あ る 」( 『 光 を も と め て 』 六 一 頁 ) と 評 価 し て い る。 本 間 は 一九四三年六月に戦争の最中、 結婚式を挙げるが、 そのときも友人として「例の悲壮調の名演説」 (『光をもとめて』六一頁)をしたと回顧している。 ◆山梨への疎開 し か し 戦 争 が 激 化 し 東 京 は 空 襲 が 激 し く な り、 山 梨 県 在 の 松 井 新 二 郎 の 実 家 に 疎 開 し て い る 。 この間の経緯について、 松井新二郎は 「高尾さんは、 私の失明後の文字どおり心の友でありました」 として、当時を「彼(高尾 ― 筆者注)との出会いは、戦前のことであります。彼が東京盲人会館 で福祉の仕事に取り組んでいた当時、私は大学の研究室で勉強していたのです。彼は失明の先輩 でもある関係であれこれとアドバイスをしてもらっていました。東京の激しい空襲の中で夢を語 り、 将来を論じあったものです」 と述懐している。そして、 疎開に ついては次のように回顧する。 御存じのように 戦火もいよいよ激しくなり、目の見えない私たちは勧奨疎開といって地方へ の 疎 開 を 余 儀 な く さ れ ま し た。 そ こ で、 高 尾 夫 妻 を 私 た ち の 郷 里 の 山 梨 に 誘 い、 共 に 東 京 の 戦 火 を 避 け る こ と に い た し ま し た。 幸 い 私 の 郷 里 の 絶 対 に 安 全 と い わ れ る 土 蔵 の 階 下 に 落 ち 着 い て も ら い ま し た。 奥 様 の 出 産 も こ こ で 無 事 に す ま せ、 さ さ や か な 安 ら ぎ の 生 活 が で き た わ け で す。 で も 間 も な く 戦 火 は 山 梨 ま で の び て 危 険 が 迫 っ て ま い り ま し た。 そ こ で、 高 尾 さ ん に 余 儀 な く 郷 里 に 帰 っ て も ら う こ と を す す め ま し た。 山 梨 に あ っ て も、 毎 日 の 空 襲 警 報 下 で、 共 に 盲 人 工 場 の 建 設 を 夢 見 て い た だ け に 、 郷 里 へ の 引 き 揚 げ は、 不 本 意 そ の も の の よ う でした。思え ば 、共に苦しんだこの六か月は忘れることができない思い出です。
しかし、今に して思え ば 、それが神様からの導きであったかもしれません。高尾さんが引 き 揚 げ て 間 も な く、 絶 対 安 全 を 誇 っ て い た 土 蔵 も 見 事 に 焼 夷 弾 の 直 撃 に よ り 消 失 し て し ま い ました。 郷里に引き揚げる折に 、 あの鼻づまりのような、 ワンオクターブ高いあの声で、 別れていっ た彼の声が耳元に聞こえてきます 。 高尾と松井たちは視覚障害者たちの将来の夢を描きながらも、戦争という時代状況の中で、そ れを断念し、 高尾も松井のもとで疎開を余儀なくされたのである。ちなみに松井新二郎 (一九一四 ― 一九九五)は一九三六年、陸軍に幹部候補生として入隊したが、日中戦争で失明し、三九年に 除隊となっている。既述したように、松井とは東京で邂逅することになるのだが、いわゆる失明 軍人としての松井と彼が働いていた東京盲人会館での出会いであったろうか。 ◆帰郷 戦 争 が 激 化 す る に し た が い、 日 本 全 土 に お い て 空 襲 の 危 機 か ら 逃 れ る こ と は で き ず、 山 梨 県 と て 安 全 で は な か っ た。 甲 府 の 松 井 の 実 家 ま で 空 襲 に さ ら さ れ る こ と と な る。 「 こ の と き 松 井 は、 家財道具はおろか、苦労して点訳した心理学・哲学の専門書、こつこつ集めてきた盲人に関する 文献、論文執筆に欠かせないカナタイプといった、彼の研究を支える知的財産をもすべて失って しまった」 のである。松井は戦時中、甲府から日大の心理学の研究に 通うという生活をしていた のだが、そうした夢も戦争の為に犠牲となった。かくして高尾は戦争の終結少し前の一九四五年 四月に、出雲に帰郷することになるのである。それは賀川に触発され、一八歳で大阪盲学校(大
阪) 、関西学院(西宮) 、そして卒業後の東京、戦争疎開先、山梨甲府と転々と移住した後の帰郷 であった。帰郷後、彼には「三療」の資格もあり、実家とは離れた所で生計をたてて起居してい た。ちなみに高尾夫妻は山梨の松井宅で出産したとあり、子供とのささやかな家庭生活であった と思われる 。 五、戦後ー島根での青年団活動と政治活動 ◆戦後の出発 一 九 四 五 年 八 月 一 五 日、 日 本 は ポ ツ ダ ム 宣 言 を 受 諾 し、 無 条 件 降 伏 で も っ て 敗 戦 と な り、 高 尾 は島根奥出雲の地でその日を迎えることになる。年齢も三〇歳になっていた。日本は連合国軍最 高司令官総司令部( G H Q )の指導下に置かれ、占領政策の中で新しい歩みをしていかね ば なら なかった。それは民主主義国家としての再出発であった。一九四六年一一月には、これまでの大 日本帝国憲法に代わって日本国憲法が発布され、翌年五月から実施されることとなる。法律と政 治 で 学 ん だ 高 尾 に と っ て、 「 主 権 在 民 」 を 謳 っ た 新 し い 憲 法 は 今 後 の 日 本 再 生 の た め に 大 き な 意 味を持つということは自明の理であり、期待したことでもあったろう。 高 尾 に は こ の 憲 法 を こ の 出 雲 の 地 に お い て も 根 付 か せ て 行 き た い と い う 強 い 思 い が あ っ た。 か くして彼は新憲法の普及運動をし、各地で講演・啓蒙活動を展開していく 。そしてそれと時を同 じくしての活動が県下での青年団運動であり、県会議員への立候補であった。
◆青年団活動と県会議員 高尾は終戦後、郷里の島根で今後、日本の再建に は若い力が必要と感じ、青年団を組織し指導 していくことになる。初代島根県連合青年団長の肩書がある小林文慶は「高尾正徳さんのおもい 出」として次のように回顧している。 私 が 高 尾 正 徳 さ ん に 最 初 に お 会 い し ま し た の は、 確 か 昭 和 二 十 一 年 の 若 葉 の 候 と 思 い ま す。 出 雲 市 の 当 時 の 公 民 館 で、 県 連 合 青 年 団 結 成 の 為、 県 下 の 青 年 団 の 代 表 が 集 ま っ た 事 が あ り ま し た。 そ の 時、 眼 が わ る く 女 性 に 手 を ひ か れ 入 場 し た 青 年 が あ り ま し た。 会 が 始 ま り ま す と 、 そ の 青 年 が 立 っ て 、 と う と う と 青 年 団 活 動 の あ り 方 に つ い て 演 説 を は じ め ま し た 。 仲 々 雄 弁 で 論 旨 も 明 快 で 迫 力 が あ り 、 青 年 運 動 に 対 す る 燃 ゆ る 様 な 情 熱 が 感 じ ら れ ま し た 。 眼 が わ る い 為よけい目立ちました。 その時が高尾正徳さんとの最初の出合いだった様に思います。 その年の十一月五日終戦後初めての県連合青年団が結成され、私が団長に 推され高尾正徳 さ ん は 副 団 長 に 選 ば れ ま し た。 そ の 後、 私 は 慶 応 大 学 医 学 部 に 勉 強 に 帰 る 為、 第 二 代 目 の 団 長を高尾正徳さんにお願いしました 。 このように、高尾は戦後の青年団活動に 小林が指摘しているように 「燃ゆる様な情熱」でもっ て取り組んでいったのである。そして島根県連合青年団の団長として活躍する。この時副団長に は後の総理大臣となる竹下昇がいた。 ま た 一 九 四 七 年、 戦 後 初 め て 地 方 選 が 行 わ れ、 高 尾 は 立 候 補 し 県 会 議 員 に 当 選 し た。 し か し、 後述するように、高尾は島根ライトハウスの設立に力を注がなけれ ば ならなくなり、県議は一期 で降り、副団長の竹下昇に譲ることとなる。これによって竹下の政治活動が始まっていくと言え
ば 、興味深い構図でもあろう。 ◆ヘレン・ケラーの再来日と日本 盲 人会連合の創設 第二次大戦後、焦土と化した日本では、新しく国家再建と国民主権に 基づいて、新生日本の復 興が行われていった。それはもちろん、視覚に障害をもった人たちにも共通していた。そうした 中 で 一 九 四 八 年 八 月 、 ヘ レ ン ・ ケ ラ ー が 再 来 日 す る 。 彼 女 の 来 日 は 戦 後 日 本 の 復 興 へ の 勇 気 付 け と 障 害 者 福 祉 へ の 尽 力 、そ し て 個 人 的 に は 親 し い 友 で あ る 岩 橋 武 夫 と の 再 会 と い う 目 的であっ た 。 この機に乗じて、 岩橋が中心に なって日本盲人会連合(日盲連)を創設する運動が起こされた。 一九四八年八月一七日、 一八日の両日、 大阪府貝塚市(二色ケ浜)の大阪府海洋道場において「盲 人の文化的、経済的向上と社会的地位の躍進を図り、進んで平和日本の建設のため、真に人道的 使命に 立脚し、社会公共のために 寄与せん」 という理想を掲げ、全国九地域の代表と盲人施設の 代表七〇人の参加を得て日本盲人会連合(日盲連)の結成大会が開催された。発起人代表である 岩橋武夫の経過報告があり、議長に岩橋が選 ば れ、その組織が創設されたのである。会長には岩 橋武夫が就任し、副会長として磯島慶司と大野加久二が就くことになった。ただ結成大会には高 尾の恩師岩橋はじめ、関学関係の同窓が入っているが、高尾の名は見あたらない。宣言には「時 は来た。 新時代の太陽は昇らんとしている。 今回、 はる ば る来朝せんとするヘレン ・ ケラー女史の、 献身的愛盲の赤誠に応へ、ここに挙国的な盲界の一大統合を期した我等は、敗戦の混迷と彷徨よ り起ち上り、盲人の文化的、経済的向上と、社会的地位の躍進を図り、進んで平和日本建設のた
め、真に 人道的使命に 立脚し、社会公共のために 寄与せんことを誓う」 というものであった。ま た決議として「一.我等は日本盲人の福祉と文化の向上のため、平和の戦士たらんとことを期す る。一.我等は世界的標準に立つ盲人社会立法の制定を期する。一.我等は旧職業の保全と、新 職業の開拓育成に努める。一.我等は、今まさに展開しつつあるヘレン・ケラー・キャンペーン に 対し、全面的に 協力する」 と訴えている。関学時代の恩師でもある岩橋やその門下生が尽力し ており、この会の発展に高尾も協力したと推察される。それは各地において盲人協会の支部的な 拠点の創設であり、 次にみるように高尾の故郷では「島根県盲人協会」が創設されることになる。 ◆島根県 盲 人協会の創設 島 根 県 盲 人 協 会 は こ の 一 九 四 八 年 夏 の ヘ レ ン・ ケ ラ ー の 来 日 が 大 き な イ ン パ ク ト を 与 え た こ と に依拠している。この年、県会議員でもあり、連合青年団長でもあった高尾が中心になり、盲人 協会の設立のための準備をし、翌年春、この協会が創設されることになる。小川幹雄によれ ば 発 足当時は「中央との連携のもと、ヘレン・ケラーによって急速に高まった障害者対策、その成果 として、身体障害者福祉法の制定への運動であり、また、県内行事としては、盲教育の PR 活動 の 一 つ と し て、 『 盲 人 文 化 祭 』 の 開 催 で あ っ た。 松 江・ 宍 道・ 木 次・ 出 雲・ 大 田・ 浜 田 と、 県 内 各地を回り、大きな成果を上げた。内容は、盲学校の生徒による点字・算盤実習、合唱・演劇も 盛り込み聴衆の注目を浴び、島根県に おける『盲人福祉運動』に 大いに 寄与したものである」 と している。会長には高尾が就いた。高尾は一九九〇(平成二)年まで四〇年以上にわたって島根 県盲人協会の会長を務め尽力していった。また高尾は島根県立盲学校との関係も持っている。
そもそも島根県立盲学校の濫觴は一九〇五 (明治三八) 年五月二〇日、 福田与志が創設した 「松 江 私 立 盲 唖 学 校 」 に 始 ま る 。 一 九 〇 七 年 に は「 私 立 松 江 婦 人 会 盲 唖 学 校 」、 一 一 年 に 「 財 団 法 人 私 立 松 江 盲 唖 学 校 」、 二 三 年 に 「 島 根 県 立 盲 唖 学 校 」 と 改 称 さ れ て い る 。 戦 後 、「 島 根 県 立 盲 学 校 」 と「 島 根 県 立 聾 学 校 」 と に 分 離 独 立 と な っ た。 盲 学 校 は 当 然 ラ イ ト ハ ウ ス と は 関 係 を 密 にしていた。高尾は学校の PT A の会長職にも就いている。元島根県立盲学校長増田忠三は「昭 和二十九年頃と思うが PT A 会長の適任者がなくライトハウスの園長は PT A の P に該当すると 解釈し高尾先生に会長をお願いし、およそ二十六年間の長きにわたりお世話になった」 (『光をも とめて』七四頁)と述懐している。 六、島根での福祉活動 ◆島根ライトハウスの創設をめぐって 高 尾 の 戦 後、 そ し て 彼 の 人 生 と も 称 し て も い い が、 畢 生 の 事 業 は 彼 の 生 ま れ た 故 郷 島 根 に 視 覚 障害児・者のための施設を創ることであった。その中心となっていたのが島根県盲人協会であっ た。そしてライトハウス創設への端緒は一九五八(昭和三三)年二月に「島根ライトハウス設立 準備会」が発足したことによる。当初の課題は資金集めであった。それには「愛の鉛筆運動」と し て 、 小 ・ 中 学 生 徒 に 鉛 筆 を 購 買 し て も ら い 協 力 を 仰 ぐ と い う 募 金 活 動 が 展 開 さ れ る こ と と な る 。その結果、二〇〇万円の寄付金が集まり、それを基金として建設用地を購入することができ た。そして「島根県や市町村補助金、年賀ハガキ募金の配分金等四〇〇万円をもって松江日赤の
産科病棟を購入し移築、ようやく法人設立の夢が現実となる準備が整」 ったとある。 一九五八年二月一六日に 設立発起人会(代表に 古瀬庸)が開催され、法人設立を決議し、厚生 省 に 認 可 申 請 が 開 始 さ れ る。 そ し て 翌 五 九( 昭 和 三 四 ) 年 の 三 月 二 六 日 に 法 人 の 許 可 を 受 け た。 理事長に古瀬庸が、そして常務理事に高尾が就いている。かくて四月一日に盲児施設「島根ライ トハウス」が創設され、四月二一日に島根ライトハウスの竣工式が挙行された。全国で七番目の ライトハウスである。その場所は松江市西川津町三五六六 ― 七であり、 その園長に高尾が就いた。 ちなみに定員は四〇名、職員一〇名である。 ま た 一 九 六 二 年 八 月 に は 点 字 図 書 館「 ラ イ ト ハ ウ ス・ ラ イ ブ ラ リ ー」 の 竣 工 式 が 挙 行 さ れ た。 そして同年一一月にはライトハウスの事業を助ける「愛の灯運動」を展開している。 ◆世界 盲 人世界会議への参加 高尾は生まれ故郷に ライトハウスを創設することが悲願であったが、それが実現し、障害者福 祉への視野は世界に向けられていくことにも注目していく必要があるだろう。世界盲人福祉協議 会 第 四 回 総 会 は 一 九 六 四( 昭 和 三 九 ) 年 七 月 三 一 日 に ニ ュ ー ヨ ー ク の 国 連 本 部 第 四 会 議 場 で 開 会し、八月一一日にスタットラー・ヒルトンホテルで閉会式が挙行されるが、この会議に高尾は 参加することになる。高尾夫妻と木村龍平夫妻は七月二八日に羽田から出立する。この会議には 三五の国から一八一名の参加があり、そのテーマは「変遷しゆく世界の盲人諸問題」であり、福 祉・教育・技術・行政・職業・読書等の分野から活発な議論が展開された。こうした会議に出席 できたのも高尾にとって、視覚障害者福祉の世界的水準を理解するにおいて、多大の恩恵があっ
たものと思われる。 この会議に出席した関学の先輩本間一夫は帰国後、加藤善徳と共著で『欧米の盲人福祉をたづ ねて ― 世界盲人福祉会議と欧米の盲人施設 ― 』という著作を上梓しているが、それに高尾のこと も、 折 り に 触 れ て 書 か れ て い る。 た と え ば ニ ュ ー ヨ ー ク で の ホ テ ル に つ い て は、 「 僕 等 の 部 屋 は 七 階 の 七 一 六 号 で す が、 高 橋 親 子 組、 村 越・ 岩 井 組、 木 村 夫 婦 組、 岩 橋 夫 婦 組 等 が こ こ に 居 り、 高尾、和波、堀等の組がジョージ・ワシントンホテルから通っております」 と記している。また 八月一〇日にはボストン郊外のパーキンス (盲学校) を訪れているが、 この段には 「朝ニューヨー クから飛行機で来た高尾正徳さん夫妻も一緒でした」 とあり、高尾は本間らと一緒に パーキンス 盲学校を訪れている。高尾のその後の行動についての詳細は不明であるが、二週間余、種々の施 設や機関、団体を訪問し、八月二七日、帰国する。高尾の回顧によれ ば 、この会議出席を機会に 約一ケ月間、米国における盲人福祉の実態やボランティア活動等を視察したとされている。 ◆ソ連の 盲 人事情の視察 ニューヨークでの世界盲人福祉会議出席後、三年後の一九六七年、今度はソ連に 行く機会が訪 れる。日盲連の当時の機関紙『愛盲時報』には「全ソ盲人協会からの申入れ受諾」という記事が あり、ここには「日盲連は五月二二日の理事会の決議と、五月三十一日の正副会長会議における 選考で、 全ソ盲人協会中央理事会から申し入れのあった両国視察代表団交換を、 日本代表団高尾、 長 谷 部 両 副 会 長、 中 道 理 事 の 三 氏 を 決 定 し た。 出 発 は 九 月 七 日 の 日 航 国 際 機 で モ ス ク ワ に 行 き、 二週間滞在し、同月ハバロフスク、ナホトカ経由で、帰国の予定で事務局からソビエト大使館に
その旨を回答返書した」 とある。これを受諾した理由としては、これまで欧米に おいては情報が 豊富にあり、盲人の実態、福祉法規、諸施策について知ることは出来るが、ソビエト及び共産圏 のそれについてはほとんどわかってなく、視察は相当に成果が見込まれるものと期待された。そ して、 来年八、 九月には逆にソビエトから視察を受け入れ相互の情報交換を計っていくこととなっ た。高尾にはこうした絶好の機会が与えられたのである。 かくして高尾らは九月七日に 空路モスクワに 向かって飛び立ち、 視察を終えた後、 九月二八日、 船 に て 帰 国 す る こ と と な る。 一 行 は モ ス ク ワ に 滞 在 し、 以 後 は「 二 十 二 日 ま で モ ス ク ワ の ほ か、 レニングラード、ウクライナ、コーカサスと各地の盲人協会、学校、補導所、授産所、工場等を 視察し、二十二日にはクレムリン宮で日本の厚生大臣に相当する社会保障相に面会懇談し、各地 視察と共に 日ソ両国の友好を深めた」 とその成果を報告している。このように 高尾は一九六七年 九月は日ソ盲人親善使節団の一員(団長)としてモスクワ等の各地を歴訪し、社会主義国の障害 児・者施設の見学、調査に携わることが出来た。つまり前年度の米国、そしてソ連という二大陣 営の社会事業施設のあり方を学ぶ機会となったのである。高尾と同行した長谷部薫は『盲人が見 てきたソビエト・ロシア』という小雑誌を刊行している 。また、日盲連が中心に なり、翌年一一 月に ロシアの使節団を受け入れている 。ともあれこのソビエトとの交流は高尾も大きなインパク トがあったことと思われる 。 また後年になるが一九八三(昭和五八)年に は、吉田トキ江らと共に 、日中盲人友好使節団の メンバーとして訪中し、中国各地の盲人事情を視察している 。このように して、高尾は米国、ソ 連、そして中国と経済体制が違う大国を訪問し、それぞれの視覚障害児・者対策の実情について
学ぶ機会を得たのである。 七、日本 盲 人会連合での活動をめぐって ◆日本 盲 人会連合会長に就任 既述したように戦後、日盲連がスタートしたが、高尾は一九五八(昭和三三)年の大会から日 盲連の副会長に就いている。当時の会長は鳥居篤治郎で、他に副会長として大野加久二、秋本梅 吉の二名が就いている。それ以前は理事として長くその役職にあったが、この時より、重責を担 うことになった。さらに会長職に就任する。 一九七二(昭和四七)年七月、日盲連の大会が宮城県仙台で持たれた。高尾は前会長の金成甚 五郎に代わって、第四代の日本盲人会連合の会長に就任することになる。高尾はその就任の挨拶 として次のように会長としての所感を述べている。少し長い引用となるが、高尾の会長職への覚 悟が開陳されており、労を厭わず見ておくことにしよう。 岩橋、鳥居、金成三代の会長を中心として多くの先輩に よって築かれた名誉ある日盲連の 歴史と伝統を堅持しつつ、 新しい時代の要請に応えて、 組織の近代化と体質の改善、 会員意 識の高揚に努め、 少なくとも一〇万会員を当面の目標として、 組織の拡大、 強化を図りたい。 幸 い、 有 力 な 副 会 長 並 び に 理 事 諸 氏 に よ る 執 行 部 の 発 足 を 機 会 に、 集 団 指 導 体 制 を 確 立 し、 全国盲人の世論を結集して、統一的・重点的施策の推進に邁進したい。 わ が 国 の 盲 人 を 含 む 身 障 者 対 策 を 見 る に、 「 身 障 者 は 低 所 得 者 な り 」 と の 前 提 の 上 に 立 っ
て 障 害 保 障 で は な く、 羅 列 的 な 生 活 援 護 の 面 が 浮 彫 り に さ れ、 盲 人 自 身 も ま た「 盲 人 は 弱 者 な り 」 と の 世 間 の 観 念 を 何 ら か の 抵 抗 も な く こ れ に 甘 ん じ、 自 ら の 努 力 を 怠 り、 む し ろ 世の同情や恩恵にのみすがるごとき風潮が見られることは、きわめて遺憾であります。 盲 人 が 一 般 社 会 に 伍 し て い く た め に は 人 一 倍 の 実 力 と 努 力 が 要 求 さ れ ま す。 「 盲 人 が 社 会 に 銅 貨 と し て 通 用 す る た め に は、 銀 貨 の 値 を 持 た ね ば な ら な い。 銀 貨 と し て 通 用 す る た め には金貨の値が必要であります。 」と…。 今年度実現した盲婦人家庭生活訓練事業費や歩行訓練士養成のための予算も、ようやく政 府 が 盲 人 対 策 の 転 換 に 踏 み 切 っ た 現 れ と し て 高 く 評 価 す べ き で あ り ま す。 近 年、 各 地 に お い て 建 設 が 進 め ら れ て い る 盲 人 福 祉 セ ン タ ー を 中 心 と し て、 お 互 い に 学 習、 研 修、 さ ら に 生 活 訓 練 等、 各 種 日 常 活 動 を 推 し 進 め て い く こ と こ そ、 盲 人 団 体 の 果 た す べ き 新 た な 役 割 ではないでしょうか。 失明によって失われた権利と奪われた自由を取り戻すために は、われわれ自らの努力と適 切 な 国 家 施 策、 さ ら に は 一 般 社 会 の 正 し い 認 識 の 三 者 が 相 俟 っ て、 初 め て そ の 実 現 が 可 能 で あ り、 全 国 の 盲 人 が 平 和 に し て 文 化 的 な 豊 か な 生 活 が 営 め る 日 の 一 日 も 早 か ら ん こ と を 念 じ つつ、より高い理念のもとに会員諸氏とともに前進したい所存であります 。 こ の よ う に 高 尾 は 会 長 職 に 就 き、 新 し い 構 想 を 披 瀝 し て い く。 日 盲 連 の 重 要 な 事 業 と と も に 、 大きな役割の一つに国への要求、とりわけ予算獲得にも力を発揮していくことが要求されている ことはいうまでもない。島根在住の高尾には、度々の東上が要求されたし、多くの会員の要求に も耳を傾けながらの会長職であったと思われる。このように高尾は地方と中央との架け橋的役割
も果たしていった。 ◆日 盲 連の活動から こ の よ う に 日 盲 連 の 会 長 に 一 九 七 二 年 七 月 に 就 任 す る こ と に な っ た が、 そ の 時 代 の 高 尾 を 理 解 するために機関紙『愛盲時報』を紐解くことによって、し ば し彼の報告や主張を聞いていくこと にしよう。 「 一 九 七 二 年 を 回 顧 し て 」 と い う 論 文 で 政 治 状 況 を「 四 次 防 予 算 の 棚 上 げ 騒 ぎ で 幕 を 開 け た 一九七二年は、巷に浅間山荘事件などを目撃しながら沖縄返還、佐藤内閣の退陣と田中内閣の誕 生、そして日中国交恢復、衆議院の解散と総選挙と霞が関周辺は大きくゆれ動きつつも歴史的偉 大な足跡を終っていきました」と回顧している。そして日盲連の動きに関しては「日中国交正常 化の波は異常な程のハリブームを呼び、晴眼者を対象とした鍼灸養成所の新増設への機運を高め 中央教育制度審議会の答申は特殊教育、なかんずく盲学校教育の制度改正をもたらし、国民の権 利意識と福祉優先のニードは堀木裁判を勝訴の判決となってあらわれて参りました」とし、さら に具体的に「青年、婦人研修会、社会人野球大会、点字競技会、邦楽演奏会、音楽家大会など年 会行事を成功裡にこなし、特にこの年度より盲婦人家庭生活訓練事業の実施計画と、適切な運営 の指導」を行う等きわめて活発な活動が展開された、と総括する。個人的にも「各種行事の合間 を縫って六月より今日まで北海道より九州まで二十余都道府県団体に出向き、 幹部の方々を始め、 会員の皆様方と親しく交わる機会を作り、日身連、全鍼連、理教連の首脳部ともまた文月会や全 視協の諸君とも積極的に意見交換の機会をもって参りました」と報告している。高尾にとって会
長職は全国的な組織であるとともに、国際社会の関係も問われ、会の舵取り、予算折衝や種々の 要求、政治的解決等々、その責任の重さを痛感した年であったと思われる。ただ、今後この職務 の遂行に粉骨砕身していくほかなかった。 会長職に就いた仙台大会に 引き続いて、翌一九七三(昭和四八)年の二六回大会は福井で行わ れた。日盲連が一九四八年八月創設されて以来、二五周年を迎えての記念大会となった。ここで 今後の四半世紀の方針として「自由の確立」 「人権の確立」 「生活の充実」の三本柱が確認されて い る。 高 尾 も 七 四 年 に「 年 頭 に あ た っ て 」 の 中 で、 「 二 十 一 世 紀 へ の 長 期 展 望 の も と、 福 祉 の 原 点に立ち返り、日盲連の進路を定め、来るべき四半世紀の具体的運動目標を樹立すべく取り組ん でまいりました」 と述べている。 一九七五年の「年頭に あたって」 では「戦後三十年、ようやく平和と福祉の国づくりも世論の 支持を得て軌道に乗り、日盲連においても昨年五月の高知大会において、二十一世紀への長期展 望のもと進路の設定を行ない、重点目標を確認し、行動を開始いたして参りましたが折からの石 油危機や物価の変動、日に日に悪化する交通事情、さらに追い打ちをかけるように表面化してき た療術問題など、実に席暖たまる暇の許されない一年でありました」と述懐している。 一九七六年の「年頭に あたって…」 では「福祉年金の大幅増額、福祉手当の新設といった大き な喜びのうちに迎えた昭和五十年もあわただしく終りをつげました。あん摩等中央から引き継い だ療術法制化阻止、日増しに悪化する交通事情の中での安全対策と安全設備の全国統一基準の設 定、山梨大会を始め青年・婦人・音楽・文芸・点字競技等各種行事の実施、職員三十名を配して の日本盲人福祉センターによる組織会員に対するサービスステーションとしての平常業務、そし