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髙 橋 一 郎
Area Study of Australia from Small History
Ichiroh T
AKAHASHI ɂȫɔȾ 歴史、社会における出来事は、その時代を大きく転換させて後世まで細かく伝えられるもの から、歴史教科書には載ることもなくその場のニュースで扱われた程度のものもある。本稿で は後者を掘り起こすことでこれを【小史】と位置づけ、オーストラリアにおけるいくつかの事 案を取り上げることにした。文化多元主義を採り、多くの移民で成り立っているオーストラリ ア社会において、いわゆる教科書的な【歴史】【通史】では計り知れない(あるいは載らない) 多くの事案が埋もれているのではないかと筆者は考える。本稿では、それら事案を扱うことを 通して、オーストラリア社会の側面を明らかにすると共に、多文化主義の中にある、オースト ラリア的なるものを探る一端としてみたい。筆者の専門分野である地域研究で、学際的なアプ ローチを試みる。小史から探るオーストラリア社会の最初のアプローチとして、本紀要掲載の 桜花学園大学保育学部が留学で送り出す(1)、Queensland 州(クイーンズランド州=以下 QLD州と記す)南部からその隣の New South Wales 州(ニューサウスウェールズ=以下 NSW 州と
記す)北部の地域を扱うことにする(2)。 ᴮǽÂùòïî Âáù Ɂ۰ᤢ ‒ǽᦻഈǾഈǾഈɥ˹॑ȻȪȲᄉࠕఙ Byron Bay(バイロン湾)は、NSW 州北部に位置し、QLD 州との州境に位置する街である。 今日では、多くの観光客(3)で賑わうオーストラリア屈指の観光地である。しかし同地は、他の オーストラリアの街と異なり、幾多の変遷を経て今日に至っている。その移り変わりを通して、 オーストラリア社会の一側面を明らかにしていきたい。 イギリスのオーストラリア入植後240年余のオーストラリアは歴史的には「新しい」分類に 入る地域である。その結果、入植に伴う開拓時の背景がそのまま今日の発展につながっている 場合が多い。歴史の継続性を考えるとある意味自然の流れである。ところが Byron Bay は、当 初の産業は事実上消えて、現在の観光業に転換した希有な例となっている。その背景を探るの
1950年代 Byron Bay の鯨ステーション(9)
が本項の趣旨である。
Byron Bay の地名は1770年、オーストラリア探索航海時のキャプテン James Cook(4)が停泊地
にて、海軍中佐 John Byron の人名から採った地名である(5)。当地が観光地として賑わっている ことは上述のとおりであるが、40年前までは観光地でもなく、宿泊施設等も整っていない地 であった。その他の街が観光ホテルを多く建てているのとは対照的である。同地はオーストラ リア大陸最東端に位置し、周辺では暖流が通過するため豊富な魚資源を有していた。 19世紀の入植から Byron 地域で発展した産業は林業と鉱業であった。海外線近くに生育す る質の良い材木は、内陸地からの輸送に手間が掛かった当時では、大変魅力的であった。連邦 政府成立前のイギリス植民地時代より、NSW 植民地政府は Byron Bay に1880年代波止場を作 り、1894年には鉄道が開通し、Sydney(シドニー)への直行便も創設された。1930年代にな ると、砂場の採鉱が盛んになった。産業ベースとしてオーストラリアでは初めてジルコンの採 鉱が海岸線のビーチで行われた(6)。当時はこうした産業活動に反対はなかったものの、大量の 砂を海岸線から掘る採掘は、ビーチを痛め、周辺の環境を確実に悪化させた。来訪者は「なぜ 海辺に近い林が死んだような状態になっているのか不思議がった」(7)という。採掘活動を状況 を一変させたのは1954年の台風直撃である。これにより多くの施設が稼働不能となり、結果 的に産業構造の転換に Byron 地域が進んでいくことになる。なお、同地はその後、環境に対す る意識の高まりを受けて、採掘で黒ずんだ砂浜の白い砂浜化活動によって徐々に元の姿に戻し ていくことになる。 第㧞次世界大戦後間もない1950年代から 1960年代にかけて、Byron Bay は「悪臭が漂っ ている街」と言われていた(8)。同地には食肉 処理工場があり、豚の臭いや魚の臭いで充満 していたという。台風で多くの海岸施設や建 物が破壊された。そうした機会に接し、新た に鯨を扱う埠頭(Whale Station)が1954年に も創設され、食肉加工の街として産業が成り 立っていた。今日では大きな反捕鯨運動があ るオーストラリアであるが、当時は反捕鯨の 動きはなく、年間120頭との上限を決めて捕 鯨を行っていた。鯨は主にペットフード用に 加工されていたという。ところがこの鯨用の 埠頭は1962年に閉鎖となる。これは反捕鯨 とは関係なく、単純に鯨の捕獲量が少なく なって産業として成り立たなくなったことに よるという(10)。
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1950年代から1960年代にかけて、Sydney(NSW 州)と Brisbane(QLD 州)は州都としてそ れぞれ発展した。Byron Bay は両州の境界線に近く、両地域からサーファーの間で人気の場所 として訪問客を増やしていった。サーフィンで有名な地、Goldcoast (ゴールドコースト)は Byron Bay から㧞時間弱の距離にある。そんな中、サーファーの間でも Byron Bay が「訪ねる
べき場所」となった背景には Goldcoast より南に位置して気候が涼しいこと、サーフィン文化(11) の熟成に伴い、一層その地位を高めていったことが背景にあった。 1973年、Byron Bay 近郊で行われた祭典が一つの転機になったと今日いわれている(12)。 Aquarius Festival(みずがめ座祭)と呼ばれたその祭典では、ヨガ、仏教、その他多数の精神 主義的思想が紹介された(13)。折からのアメリカの若者による【ヒッピーブーム】の影響もあり、 精神主義を重んじる姿勢は Byron Bay に集う若者にスムーズに受け入れられていった。そうし た風潮は、既存の価値観を否定する方向に進み、それがマリファナの栽培と吸引につながった。 それを急襲する形で取り締まる警察との反目に進み、これらがその他の問題である環境問題等、 反政府、新たな価値観を主張する若者がサーフィン文化と組み合わさって独自の自立性と反権 威の風潮が Byron Bay に広がっていった。ビーチサイトの風紀の乱れと、それを取り締まる警 官との反目は、そのまま既存の考え方と若者の新たな価値観との違いを浮かび上がらせた。 1950年代には問題にならなかった環境問題も1970年代から1980年代にかけて、大きなうねり となり、Byron Bay は環境問題に関するキャンペーンの地として知られるに至った。開発に反 対し環境を守る活動家、反政府運動に力を入れる者などが Byron Bay に集まった。 かつての過激な活動は影を潜めたものの、そうした反体制的姿勢は、今日も垣間見ることが
出来る。地元発行の独立紙【Byron Shire Echo】(14)は、従来の鉱業採掘の環境への影響を危惧し、
太陽光利用の開発を主張するとともに、常に新たな開発に、その意義を厳しく問うている。 今日の Byron Bay は、観光地としてその地位を確立したが、現在においても㧡階以上の高層 建造物を認めておらず、数十階の高さを持つ建物が乱立する Goldcoast とは一線を画している。 また、一度は消えた鯨の群れも今日復活し、沿岸より鯨を見ることも出来る。Byron Bay の開 発も進んでいて、かつての悪臭漂う面影も消えた。しかし精神主義を重んじ、反体制的な中心 地として活動が盛んであった頃の面影は残している。 ブルーカラーの㧝次産業からツーリズムで成り立つ㧟次産業へ。入植時のキリスト教精神と 文化の多様性、環境と開発等々、様々な狭間の中で、Byron Bay はバランスをとりながら発展 している。入植当時の産業から大きく転換したオーストラリアの希有な街として留めておく地 域である。 ᴯǽᦪᤍɥࡼɞߴխ ‒ǽɴ˂ʃʒʳʴɬȻᦪᤍ オーストラリアにおいて最初に鉄道が敷かれたのは1850年代である。この年代は、今日に
至るも最も人口増加率が高かった時である。オーストラリアにて金が発見され、それまで流刑 囚の行き先であり、一般的に自由移民の対象にはなっていなかったオーストラリア大陸が一転 して競ってでも早く行きたいち地なったのであった(15)。それに伴い、採掘された物資の運搬、 またそこで働く人のための日常品輸送など、鉄道の役割は人口増加と共に増した。モータリゼー ションが発展した1960年代までの100年余、オーストラリアは【鉄道の時代】であった。QLD における鉄道は、1865∼1867年にかけて建設されたのが最初である。これは主に羊毛輸送を 目的として内陸より海外線まで線路が敷かれた。そして1875年、地方から州都(当時は植民 地都)の Brisbane までの直通線が完成した。これにより、それまで川や海を介して運搬して いた輸送物資が鉄道によって運ばれることになった。大陸全体でいえば、1917年に西の州都 Perth(パース)まで線路が延び、これによって太平洋とインド洋に面している東西の都市が つながった。当時機関車はイギリスからの輸入に頼っていたという(16)。オーストラリア大陸 各州と QLD 州では一点、大きな違いがあった。それは他の州が、州都を中心に鉄道網が発展 したのに対して、QLD 州はそうならなかった点である。これは他州より内陸に開拓面積が広 いのと、QLD 州内で、㧠つの独立した鉄道線がそれぞれの都市に存在したためであるという(17)。 1932年、QLD 州内の鉄道総延長が㧝万キロを超え、10,500km となった(18) 。人口の少ないオー ストラリアにとって、鉄道輸送は一貫して貨物が中心で発展してきた。しかし1960年代から 1990年代にかけて、日常品の輸送ラインは道路網の充実に伴い廃線し、代わって輸出用の鉄 鋼や石炭の輸送のために新線が敷かれるなどの変現があった。その結果、2018年時点で QLD 州内の鉄道総延長は8,000km となっているのが現状である。今日、オーストラリアにおける鉄 道の存在意義も大きく変化している。引き続き採掘等の鉱業物資運搬の役割と共に、2000年 代に開業した The Ghan(19)に象徴される旅客観光、それも年配と裕福層を対象としたスローラ イフに焦点を当てての展開に新たな進路を模索している。 ‒ǽÑÌÄ ࡻȻᦪᤍ オーストラリアの鉄道を語る場合、QLD 州独自の展開を記しておく必要がある。それは第 㧝次、第㧞次の世界大戦において、それぞれ国の北部に向けての人員と軍需品の輸送を受け持 つ役割があったことである。特に1941年に日本が参戦し、オーストラリア北部の準州の州都 Darwin(ダーウィン)が爆撃を受けたことにより、同じ北部に位置する QLD 州にとって危機 が直接迫っていることを実感できる事態となっていた。また鉄道は、州北部への輸送のみでな く、当時オーストラリアが戦線を展開していたニューギニア島からの帰還兵や捕虜の輸送など にも鉄道は使用された。そうした戦時における鉄道の不可欠性から、鉄道当局は従業員の疎開 を戒め職務続行を指示している。1942年㧝月29日付けの QLD 鉄道関係者への週報には「従業 員各位。今後、空襲、侵略、または侵略の試みがあった時においても、鉄道従業員においては 引き続き通常通りその職務を遂行しなければならない」と記されている(Queensland Railways Weekly Notice No. 4/42, 29th January, 1942)(20)
。この時代には QLD 州で独自の機関車の製造も可 能になっていた。結果として大きな鉄道事故もなく戦争時が過ぎた。戦争に合わせて鉄道技術
国民投票 徴兵制 No 投票の主張(23)
国民投票 徴兵制 Yes 投票の主張(27)
も飛躍を見た時代でもあった。
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1917年11月、Brisbane 郊外南西に位置する Warwick 駅に降り立った連邦首相 Billy Hughes
(ヒューズ)(21)に卵が投げつけられて実際 Hughes に当たる事件が起きた。Huges は自らの政策 を訴えるためのキャンペーンで各地を演説していた。それに対する反対行動として卵が投げつ けられたものであった。今日の感覚では、公務執行妨害として直ちに逮捕されてその政治的背 景を調査されるのが常である。ところがその日、卵を投げた男は、その場所から追い出された のみで、一切のおとがめがなかった。そればかりか、捕まえるように動かなかった地元警官の 緩慢な行動から、Hughes は改めて国(連邦政府)として一貫した姿勢をとらないと国内の治 安が保てないとして、それまでなかった連邦警察(Federal Police)の発足に向けて動くのであっ た。 Hughes は元労働組合委員長で、その後労働党(ALP)(22)より出馬して議員になり連邦首相に なった人物である。ところが第一次世界大戦の戦時内閣として徴兵制を提案し、労働党より除 名されていた。 戦時中は、国の一大事との観点から国全体の統 一的行動と速やかな行動が求められていた。しか し連邦国家のオーストラリアでは、警察に関して はその管轄が州に属していた。オーストラリア連 邦発足前から、連邦と州の【二重行政】が案じら れていた。既得権を主張する州政府(旧植民地政 府)と国全体の利益を主張する連邦政府との「縄 張り争い」である。連邦制発足にあたって作られ たオーストラリア連邦憲法ではその点をどのよう に扱うかこそが最大の解決しなければならない問 題点であった。そのため、憲法第51条は細かく、 事案別の管轄権を示したものになっていた(24)。 特に歳入面における連邦と州の棲み分けには、草 稿者の腐心がうかがいとれる(25)。 Huges が連邦首相時、QLD 州首相は労働党の T. J. Wran(ラン)であった。Huges と同じく労働組 合出身の Wran 州首相は、労働党を除名された Huges 連邦首相を軽蔑していたという(26)。こうし た背景の下、反 Hughes の色合いの濃い QLD 州 内で起きた卵ぶつけ事件に際して、「なぜ逮捕し ないのか」との問いに QLD 州警察長官が「担当
官は州の法律のみしか知りませんでした」と嘘ぶいて取り締まらなかったことに Huges 連邦 首相の怒りが頂点に達した。本拠地の NSW 州に帰宅する途中に、直ちに連邦警察の設置を指 示し、それに関して「身の危険」と「大臣を守る」ことの必要性を説いていたという。この卵 ぶつけ事件は何度も言及され「利用」されたとも言われている(28)。 他方、州政府側にも言い分はあった。それは戦時の非常時を口実に、国家統制を強める連邦 政府の姿勢に「組合潰し」の意図を感じ取ったからである。Huges 連邦首相の行動は、州の権 限低下と出身母体より除名された者への復讐と受けとられ、彼の行き先の演説には危険が伴い、 Huges 自身、拳銃を常時携帯していたという。しかし卵をぶつけられた時には電車内に拳銃を 置いていたという。 当時の国を二分しての論争となっていたのが【徴兵制】の可否であった。一度否決された徴 兵制に関する憲法改正国民投票は、二度目の投票でも否決された。オーストラリア全体で、賛 成1,015,159票、反対1,18,747票(46%対54%)で否決された。また、州別のカウントでは、西 オーストラリア州とタスマニア州の州内では過半数が賛成に投じた。オーストラリアの憲法改 正の条件である①投票総数の過半数の賛成②過半数の州の賛成(㧠州の賛成が必要)、のいず れの条件も満たさず否決された。 卵ぶつけ事件は、一地方で起きた小さな事例として国民の記憶に留まっていないが、QLD 州内においては、連邦首相に対しても屈しなかった誇りとなる物語として伝えられているとい う(29)。今日の Warwick 駅は貨物専用駅となって乗客は扱っていない。 政治的には、第一次世界大戦の非常時を通して、連邦政府と州政府とのパワーバランスに変 化が生じたのは明らかで、QLD 州の、連邦国家に屈しない姿勢の事例とは裏腹に、歴史の流 れとしては、州政府が連邦政府の事実上「管轄下」に収められるような形態に進んでいった。 国家としての統率を求められる戦争時には必然の流れでもあった。 ᴰǽɿ˂ʟɭʽ୫ԇ៎ौɁ٥NJNJ Çïìäãïáóô ‒ǽ෩ᅔɥࡼɞΙϏᜊɁ̾ந 海で囲まれたオーストラリアの領土は必然的に人を海に引き寄せる。しかし、海はふしだら な不道徳を持ち込むところ、との価値観が19世紀には歴然としていた。その際のキーワード となっていたのが、「太陽」「サーフィン」「女性の肌」であった。1838年から1902年までの長 きの間、Sydney(シドニー)の砂浜と港では朝の㧢時から夜の㧤時まで海水浴、水泳が禁止さ れていた。水泳の世界チャンピオン Annette Kellermann は1907年、海水浴場で、着ていたワン ピースの水着が短すぎるとして、当局に逮捕された。続いて Beatrice Kerr は Kellermann の路 線を引き継ぎ、競技の際「大胆な水着」を着用したが、それはあくまでも泳ぐためにより良い ものとして支持されたものであることが述べられた。20世紀に入ると、水着はより短いもの になっていく。1927年、Sydney にて男性用ワンピース水着が発表された。肩から背中にかけ
て肌を出すもので、ビーチで着用するには露出が過ぎるものとされた。しかしその流線型の水 着が競泳ではより良いタイムを出すものであることから、その水着名をスピード(Speedo)と 命名された。1932年、ロサンゼルス五輪にてオーストラリアの Clare Dennis が200メートル平 泳ぎで金メダルを獲得したが、「上背部を見せ過ぎ」とも評された(30)。 1946年、フランスで発表された女性の上下分離した水着が発表された。同年、北太平洋マー シャル諸島上のビキニ環礁で行った核実験と同じほどショッキングなものであった、とのこと から【ビキニ】と呼ばれるようになり、今日水着の形態の名称として定着した。 ‒ǽɿ˂ʟɭʽ୫ԇ ビキニの水着は直ちに受け入れられたわけではなかった。社会的に認められるには十年以上 の歳月を必要とした。Sydney の Bondi Beach(ボンダイビーチ)では1961年10月、75人の女 性がビキニの水着のため同ビーチから出て行くように命令された。また Joan Barry は「不快な 水着のため」罰金を科せられている。しかし同年年末、地元当局が Bondi Beach に白旗を掲げ、 ビキニの着用が許可された。さらに翌1962年になると男性誌 Playboy が初めてビキニ女性を表 紙に載せるなど、社会的認知が向上していった。 一般的にビーチ文化というのは休暇の数日から数週間海辺で過ごす休日を意味するが、オー ストラリアにとって、ビーチ=水と砂浜、はオーストラリア文化の根本的な部分を担っている ものと考えられている(31)。こうしたことから、オーストラリアの水着のデザイン、生産は秀 でていたという。
Surfers Paradise で1940年代からビキニの水着を売っていた Paula Stafford は、その短かった
水着について、「戦時下では布地は配給制で十分確保できなかったのもその原因」と述べている。 Surfers Paradise の店では洗練された水着が並びサーフィン文化の最盛期を迎えた。その後、 Sydney でのビキニパレード、国内各地、海外へと彼女のデザインした水着の販売、輸出、と 続いた。 1952年、一人の女性モデルが警官より Surfers Paradise のビーチより退去するように言われた。 その理由が「Paula Stafford のビキニは透けている」という理由であった。この事案は彼女の知 名度を飛躍的に高めた。翌日は㧡人のモデルと写真家をビーチに並べて反骨心を示した。しか し Paula Stafford の娘 Sybil は「(母親の行動が)社会モラルを堕落させた」としてシドニーの 全寮制の St. Vincent’s College を退学させられたという(32)。 サーフィン文化に、権力に対する姿勢という前衛的なものが常に付いていた。行き過ぎた行 動を取り締まる当局との対峙はいつの時代にも見られた。Surfers Paradise で有名なメーターメ イド(Meter Maid)は駐車の有料化に対抗して、反権力を支持する背景に1964年に誕生したも のである。金のビキニを着用し頭にはティアラで飾った女性が、パーキングメーターが切れそ うな車輌に㧡セントのコインを「補給」して罰金を科せられるのを防ぐ役割を担うもので、駐 車メーター導入に対する当局への反骨と、同メーター導入に伴い訪問者が減り景気の影響を心 配している地元商人によって考えられたアイデアである(33)。そして合計50万豪ドル(昨今の
$1=¥75で計算して3,750万円)が「補給」されたという。半世紀以上の歴史を経て、メーター メイドの役割も変化した。駐車メーターの方式も変わり、コインを入れる方式ではなくなった。 今日では観光名物の一つとしてメーターメイドは位置付けられており、観光客と一緒に写真を 撮る有料サービス、イベントに出演するサービス等、エンターテイメントの一端として存続し 活動している(34)。なお、上述の Byron Bay にも駐車メーターは導入されたが、Goldcoast のよ
うなメーターメイドが現れることはなかった。 生活の場と密接したものとしての海、砂場、ビーチ、波止場、これらのキーワードはオース トラリアの文化に大きく関わっており、サーフィン文化は時には反権力、環境保護等に過激な 行動も伴ってきた。Goldcoast において、活動家が活躍する時代の1990年代が過ぎ、今は、開 発と自然とのバランスをとりながらも経済的活動への理解度が深まり、激しい対立軸は見られ ない。また Goldcoast マラソン大会、F1レース開催に見られるように(モーター)スポーツへ の関わりを積極的に発信している街である。オーストラリアで進む、海外資本による開発(特 に華僑)が、従来培ってきたサーフィン文化とその思想と相容れるものであるのか、長期の不 況や失業率が増加した時が、サーフィン文化の危機を迎える可能性がある。【海】を休日の地、 ではなく生活の地、と考えるオーストラリアには、女性の水着をはじめとした前衛的な発想と 行動がサーフィン文化の醸成に影響を与えたことは間違いないと言えよう。本項ではその一部 を歴史の一コマとして記した。 ᴱǽÃï÷òá ̜͔NJNJᑱᠨȞᒲขȞᴼ 1944年、オーストラリア NSW 州内陸部 Cowra(カウラ)にて捕虜として捉えられていた日 本人兵士が脱走を試み、231名が亡くなる事件があった。地元では Cowra Breakout(脱出)と 呼ばれている。この事件はオーストラリアでは歴史教科書に載り、戦時中の日本兵について考 える機会となっている。しかし、あくまでもオーストラリアではこれを「脱走事件」と捉えて いる。他方日本では、当時【捕虜】の概念が存在しなかったことから、本件を「他人の力によ る自決」と捉えている。歴史的事実は確定していても、そこに至る背景は未だに十分理解され ていない側面があることがオーストラリアの歴史書物より感じ取れる。本項では日本ではほと んど知られていないこのカウラ事件の事実関係と両国における理解の温度差を探ってみた い(35)。 当時 Cowra の戦争捕虜収容所はオーストラリア最大であった。収容されていたのは南太平 洋で捕虜になった日本兵、アフリカより送られてきたイタリア兵など枢軸国の軍人4,000人以 上であった。事件のあった当時、Cowra 収容所の捕虜は1,100人余であったという。1944年㧤 月㧡日未明、日本兵が一斉に小屋に火を付け脱走を試みた。80棟の内、20棟が焼けたという(36)。 日本兵は食事用のナイフとフォークを持っての脱走であり事実上の丸腰であり、オーストラリ ア側の機関銃の銃口が日本兵に向けられた。亡くなった捕虜は231名。しかし射殺以外にも首 をつっての自殺、銃で撃たれても命に別状のない状態でも自刃する者が36名いたことが記録
として残っている。 1934年捕虜の正当な扱いを国際間で定めるジュネーブ条約の批准を巡って、海軍省はこれ に反対している。「日本の軍人は捕虜にはならない。なるぐらいなら死を選ぶ」との建前に基 づく主張であった。また、戦地に赴く陸軍兵士各自に渡されていた【戦陣訓】には「生きて虜 囚の辱めを受けず。死して罪科の汚名を残すことなかれ」と記されている(37)。こうした考え 方に基づいて行動している日本兵にとって、オーストラリアで受けた扱いには戸惑いと驚きが あった。捕虜として食べ物と衣服が支給され、怪我の治療にも当たってくれる対応は、死刑を 予想していた日本兵には想定外のことであった。 ここでオーストラリア側から繰り返し述べられていたという「捕虜は不名誉なことではない」 という言動に、日本兵の内面に戸惑いと苦闘が芽生え始めたという(38)。そんな中、増えすぎ た捕虜に対応するため、下士官と兵を分離する案がオーストラリア側より提示され、それに難 色を示した日本兵が、カウラ事件の引き金になった。上下関係を重視する日本人(軍)におい て、下士官と兵は深く結びついており、そこをランク別の横割りでの分割が及ぼす大きな影響 をオーストラリア側は気がついていなかったというべきであろう。分離提案をきっかけに、戦 陣訓の考え方に沿った行動を求める声が上がり、それに表だって反対はできない中、全員の投 票を経て脱走決行が決まったという(39)。 カウラにおける捕虜脱走を報じる当時の新聞(40) 脱走時に兵が「武器」としたナイフ(41) 残った家族に影響があることを恐れ、捕虜になった兵士は皆仮名を付けていたという。オー ストラリアに残る、事件後の軍事裁判時の取り調べ資料(42)でもその仮名によって記録されて いて本名はどこにも載っていない。ここでの脱走とは、分離を受け入れず暴動を起こして潔く 死して捕虜であったことの記録を残さない、という考えである。「一様に決着せる死の行動なり」 とした脱走の目的は他力による死であったことが事件後の調べで明らかになった。 事実関係は軍事裁判で詳細に調べられている。しかしここでの日本とオーストラリアの戦争 とそれに関わる兵の考え方の根本的な違いに、今日でも完全に理解されているとは言いがたい 溝がある。脱走とは本来、自由を求めての行動である。ところが、カウラ事件では日本軍兵士 は、撃たれて命を落とすことを目的として暴動を起こして火をつけたのであった。【脱走】の
戦時ならではの特別な事態と考え方に文化のギャップがあり、通常の「逃げようとしたから撃 たれた」と見る視点に、日本兵の「逃げる形にして撃たれ、本懐を遂げる」という自決の覚悟 とは大きな開きがある。オーストラリアの歴史書は、事実関係と日本兵の実状を、「事実を記 録する歴史」としては正しく記述しているが、自らの命を投げ打つ覚悟での脱走に至る「日本 兵の葛藤を理解した上での記述」までは踏み込まれていないと感じ取れる(43)。「自由を求めな い脱走」が持つ特殊性こそ歴史の㧝ページとして刻み込まれるべきものであることを確認でき た。 ɑȻɔNJNJȈߴխȉȞɜڀᩖțɞȈ୫ԇȉ 本稿ではオーストラリア史でその事細かな内容が世界的に知られているものではない【小史】 に属する事案をいくつか取り上げ、学際的なアプローチからオーストラリア地域研究として考 察を行った。多文化主義のオーストラリアではそれぞれの民族がそれぞれの思いで移民として オーストラリアに根付き社会貢献をしている。多民族国家ゆえ、それぞれの民族に、アイデン ティティ、歴史、将来のビジョン等があり、それをオーストラリア史の通史の中に入れずに扱 わないことは、多文化国家の本質を見誤る可能性も生じるものと筆者は考えた。引き続き、オー ストラリアの歴史文化にアプローチする場合には学際的な視点が不可欠であり、地域研究とし てのアプローチを続ける必要性を改めて感じた。一見脈略のない本稿で扱ったそれぞれの事案 も、多文化国家オーストラリアとして考えた場合、いくつかのリンクが感じられるものである。 「小史」からみる「文化」を掘起こし、オーストラリア社会の理解を進めていくのを筆者の今 後の課題とする所存である。 ᜲ ⑴ 桜花学園大学保育学部国際教養こども学科では、㧟年次に約㧝年間、オーストラリアの保育資 格 取 得 の た め 留 学 を 必 修 と し て 取 り 入 れ て い る。 そ の 際 の 滞 在 地 は、Queensland 州 の Goldcoast(ゴールドコースト)と、Brisbane(ブリスベン)である。 ⑵ 本稿の地名は英語表記とし、最初に記すときのみ括弧で日本語を併記する。 ⑶ 年間50万人の観光客が訪れている。 ⑷ James Cook(1728‒1779)南半球探索の命を国より受け同地域を探索航海し、オーストラリア とニュージーランドに上陸しイギリス旗を立てて両地の領有を宣言する。オーストラリア大陸 では今日のシドニーにて領有宣言後、航海は大陸に沿って北上した。地名の命名は海外線に停 泊及び移動の際に次々と行われた。Byron Bay もその際に付けられたものである。
⑸ Peter SPEARITT, Where History Happened, 2018, National Library of Australia, p. 47.
⑹ 背景として、アメリカより鉄鋼合金の需要が多かったことが挙げられる。 ⑺ SPEARITT, op. cit., p. 48.
⑻ Ibid. ⑼ Ibid. p. 49. ⑽ Ibid.
⑾ 内陸開拓からフロンティア精神を重んじたアメリカ開拓時代と異なり、オーストラリアでは、 開発発展が海外線に沿って進んだ。そこには「メイトシップ」と呼ばれる仲間意識重視の風潮 を生むとともに、サーフィン文化と呼ばれる自由を重んじ、拘束や規制に反感を示すものが確 立されていった。
⑿ SPEARITT, op. cit., p. 49.
⒀ 開催地は Nimbin(ニンビン)。Byron Bay の北西約75km に位置する。 ⒁ 1986年に発刊。
⒂ Melbourne(メルボルン)郊外の Balarat(バララット)で中心に金鉱夫で街は賑わった。詳し くは拙著「ユーレカ砦事件」参照。
⒃ SPEARITT, op. cit., p. 115.
⒄ Ibid. ここでいう QLD 州内の㧠つの都市とは、Brisbane、Rockhampton(ロックハンプトン)、 Townsville(タウンズビル)、Cairns(ケアンズ)を指す。 ⒅ この総距離は、今日の日本における JR 東日本と JR 北海道の総距離を合算したものにほぼ等 しい。 ⒆ 2003年に営業開始した南北直通縦断列車である。Darwin(ダーウィン)と Adelaide(アデレー ド)の両州都を結ぶ路線である。なお列車名の Ghan(ガン)自体は以前から存在している。 直通路線開通に合わせて豪華観光列車としてその名がより一般に知られることになった。 ⒇ 筆者訳。現在 Brisbane の Central Station に「戦時中の鉄道」と題して掲示されている。原文は
以下の通り。
29th January, 1942 Queensland Railways Weekly Notice No. 4/42
In the event of air raids, invasion, or attempted invasion by the enemy every railway employee must continue to present himself for duty as usual or as otherwise instructed until such time as he is informed by his superior officer that it is no longer necessary for him to do so.
William Morris Hughes(1862∼1952)第㧣代オーストラリア連邦首相。
Australian Labor Party の略称。オーストラリア政治の㧞大政党の内の一つで1890年の植民地時 代に結党されたものを源とする。
SPEARITT, op. cit. p. 124.
連邦憲法第51条は39項まであり詳細に分野別に連邦政府と州政府の管轄を記している。 成文憲法としては異例の、特定の地域の時限条項(西オーストラリア州にのみ関する事案)を
組み込んだ。これは西オーストラリア州の連邦参加に対する不安を払拭させるために必要で あった。
SPEARITT, op. cit., p. 121. Ibid.
Ibid. Ibid.
Toby Creswell, The History of Australia in 100 Objects, 2016, Penguin Random House, p. 278.
Ibid., p. 280. Ibid.
‘History of the Golad Coast Metermaids’ https://www.metermaids.com/our-history 2020/1/3閲覧 頭のティアラが、カーボーイハットに替わっているが金のビキニファッションは昔のままであ
る。
参考番組「初めて戦争を知った 第㧝回」1993年㧤月㧞日 NHK 第一テレビ放映。 SPEARITT, op. cit., p. 58.
前掲番組で、当時の日本兵が、心の苦闘を証言している。 同上。
SPEARITT, op. cit., p. 54. Ibid. p. 58.
Australian War Memorial(戦争記念館)に詳細な記録と遺物が残されている。 SPEARITT, op. cit., p. 59.