は
じ
め
に
︱︱ ﹁ ホ ー ム ﹂ の 再考 数世代にわたって本国を離れていた人々が一度も足を踏 み入れたことのない土地をどのような意味において「ホー ム」 (故 郷) と 捉 え る の か (あ る い は 捉 え な い の か) 。 こ の 場 合、 郷 愁 の 対 象 が 帰 還 先 (本 国) で あ る と は 限 ら ず、 か つ て の 移 住 先 で あ る 場 合 も あ る。 「ホ ー ム」 と は そ の 人 個 人の出身地であったり、その民族の先祖といわれている人 の出身地であったりする必然性はない。重要なのは故地と の結びつきに対する記憶や信仰であり、ときにそれは戦略 性をも帯びる。 近年、国際的な人口移動を対象とした文化人類学的な調 査・研究が進むにつれ、移住した人々が出身国に戻るとい う、いわゆる帰還移民を対象とした研究がなされるように なった ( Long and Oxfeld 2004 ; Tsuda 2009 ; 大川 二〇一 〇) 。 そ こ で は、 出 身 国 に 戻 る 人 々 の 多 元 的 な 経 験 が 帰 還 移 民 ( return migration ) や 循 環 移 民 ( circular migration ) 、 帰 郷 ( homecoming ) と い っ た 異 な る 含 意 を 持 つ 用 語 に よ り 分 析 さ れ て き た。 だ が 多 く の 研 究 は、 帰 国 (帰 還) と は 一方向的かつ完結的な概念であると理解し、移民にとって の祖国や故郷が持つ意味を単純化して捉える傾向があった ( Gmelch 1980 ) 。したがって、 「帰還」とは単に移民が出身 国に戻るだけでなく、頻繁な往復や第三国への再移住、出 身地と同時に移住先も「ホーム」として認識されるという 多元的な故郷認識といった問題を内包していることが十分 に議論されているとは言い難い。特集2
「
三
つ
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* 1奈倉京子
他方、トランスナショナリズム研究やディアスポラ研究 では、複数の国家を頻繁に往復する人々を考察の対象とす ることにより、国境を越えたライフスタイルや脱領土的な ア イ デ ン テ ィ テ ィ (ホ ー ム ラ ン ド) を 過 度 に 重 視 す る 傾 向 がある ( Ong and Nonini 1997 ; Ong 1999 ; Tsuda 2009 ) 。 た と え ば 日 系 ブ ラ ジ ル 人 を 研 究 す る ツ ダ・ タ ケ ユ キ ( Tsuda ) は、 「エ ス ニ ッ ク な 帰 還 移 民 は、 移 民 受 け 入 れ 国 と輩出国の双方につながりをもつトランスナショナルなコ ミ ュ ニ テ ィ に 生 き て い る。 し か し、 一 般 的 な 移 民 と 異 な り、 国 境 を 越 え て 結 び つ く こ と は、 二 つ の ホ ー ム ラ ン ド (エ ス ニ ッ ク な ホ ー ム ラ ン ド と 出 生 の ホ ー ム ラ ン ド) の 間 で 構築される」と述べている ( Tsuda 2009: 9 ) 。 だ が こ の よ う な 枠 組 み で は、 か つ て の「祖 国」 (祖 先 の 出 身 地 で あ る が そ こ で の 生 活 経 験 が な い) に 戻 っ た 移 民 た ちが、絶えず自己認識を問い直し、場合によってはかつて の移民先を自己の故郷として改めて認識したり、どこにも 故 郷 を 見 出 し て い な か っ た り、 「二 つ の ホ ー ム ラ ン ド」 以 外 の 場 所 (時 に は 創 造 さ れ た 場 所) に「故 郷」 を 見 出 し て いるような現象を十分に捉えることができない。このよう な反省を踏まえ、人類学的視座から移民の故郷認識につい て 調 査 を 行 っ た 研 究 を 参 照 し た い。 た と え ば 市 川 哲 は、 ニューギニア・チャイニーズにとっての移民母村と移民先 との関係を、中国、パプアニューギニア、オーストラリア という三地域に注目することにより、海外華人の故郷認識 について考察した。現在、パプアニューギニアやオースト ラリアに居住する海外華人にとって、祖先の出身地として の「ホ ー ム」 中 国 は、 「間 接 的 な 経 験」 に 基 づ く 文 化 的・ 民族的アイデンティティの対象として重要性を持つが、実 際には「直接的な経験」に基づく生まれ育った場所が現実 的 な ホ ー ム で あ る と 認 識 さ れ て い る こ と を 明 ら か に し た (市川 二〇〇九) 。 さらに、確固としたホームをどこにも見出せない帰還移 民 が 独 自 の 組 織 を 作 り、 「ホ ー ム」 の 代 替 の 場 を 創 造 し て いく事例について人類学的考察を行った研究にも注目した い。たとえば、足立綾は、フランスの「ピエ・ノワール」 (「黒 い 足」 を 意 味 す る、 仏 領 ア ル ジ ェ リ ア 帰 り の 引 揚 者 た ち を 指 す 俗 称。 公 称 は「ア ル ジ ェ リ ア か ら の 引 揚 者」 を 意 味 す る「ラ パ ト リ エ・ ダ ル ジ ェ リ les rapatriés d Algérie 」) を 対 象に、一九七〇年代から、出身地域や出身校、職業を同じ くする人々が親睦を深めることを目的としてできた友の会 や、各地に離散した「同胞」たちの連帯を 改めて 深めるた め の 文 化 団 体 の「セ ル ク ル・ ア ル ジ ェ リ ア ニ ス ト」 (セ ル ク ル) と い っ た 組 織 的 な 活 動 に つ い て フ ィ ー ル ド ワ ー ク を 行った。セルクルの活動は、記憶を継承する場、失われた ホ ー ム を 代 替 す る 場 と な っ て い る と い う 存 在 意 義 が あ る (足立 二〇一二:六三―八六) 。
このようにホームに代わる場を作り出そうとする移民の 試みは中国系移民にも見られる。筆者は、帰国華僑が時間 と 空 間 を 共 有 す る コ ミ ュ ニ テ ィ (場) で あ る「帰 国 華 僑 の 家」を事例とし、そこで帰国華僑としての特異性、アイデ ンティティを再生産させていく様相について考察した。そ して個人や家族レベルの記憶・経験や、個別の行き来を中 核として構成される社会関係を実証的に検討することによ り、 「帰 国 華 僑 の 家」 の 場 の 意 義 と 機 能 を 示 し、 そ れ に よ り帰国華僑の多元的かつ動態的な「ホーム」について考察 し た。 「帰 国 華 僑 の 家」 は、 帰 国 華 僑 の 居 場 所・ 拠 り 所 の 不安定さ故に必要とされているのである。安定した、永久 的な居場所を「ホーム」とすると、中国か元移住先国かと いった国家レベルにせよ、地元の人々との関係や文化の相 違 な ど に 係 る 社 会・ 文 化 レ ベ ル に せ よ、 確 固 た る「ホ ー ム」 を 見 い だ せ な い 帰 国 華 僑 は、 「帰 国 華 僑 の 家」 を あ る 種「ホ ー ム」 の 一 つ と し て 代 用 し て い る の で は な い か (奈 倉 二 〇 一 一) 。 つ ま り、 特 定 の 土 地 と の 結 び つ き に お い て は確固としたホームを見いだせないが、それ故につながり の結集したプラットホーム的な「ホーム」を創造できる積 極的な側面もある。 また、脱領域的な移動が、必ずしも国境を無効化すると は限らず、実際の居住地や移民先の政治状況や社会的・文 化的背景といった地域的特徴から多大な制限を受けること も 無 視 で き な い (飯 島・ 大 野 二 〇 一 〇 ; 蘭 二 〇 〇 六) 。 た とえば、中国残留孤児の日本への引き揚げについて研究し た 蘭 信 三 は、 「単 に 望 郷 で 祖 国 に 帰 国 す る だ け で な く、 日 中関係の変化、日中両社会の変化、さらにはそのバランス の 変 化 の 中 で 考 察 す る 必 要 が あ る」 と 述 べ て い る (蘭 二 〇 〇 六: 八 ) 。 こ れ は 移 民 を 取 り 巻 く マ ク ロ な 国 際 社 会 の 状況にも目を向ける必要性を示唆している。 これらの研究を踏まえ、本研究は、ある特定の土地に所 属意識を見いだすことができず、土地と所属意識の結びつ きから抜け落ちる人の「ホーム」について考えることを射 程としている。ここで「ホーム」という語を使用する意図 について説明しておきたい。本稿で用いる「ホーム」は、 当事者の望郷の念や安住の地といった精神的拠り所として の「故 郷」 ・ 帰 属 意 識 を 表 す こ と も あ り、 当 事 者 自 身 の 直 接的な生活経験を伴わない祖先の出身地としての「故地」 「祖 地」 を 表 す 場 合 も あ る。 国 家 を 基 準 と す る 場 合 は、 こ れは本特集のリード文で提示されている「祖国」という概 念になるが、根本的に同じ考え方に基づいている。即ち、 「祖 国」 も「ホ ー ム」 も、 移 民 と 国 民 国 家 と の 関 係 は 避 け られないことを考慮しながらも、移民がある国民国家に帰 属意識をもつことを前提としているわけではなく、周囲を 取り巻く環境の変化の中で、移民が個人として絶えず自己 の 拠 り 所 (あ る い は 自 分 の 存 在 意 義) を 問 い 直 し 続 け、 そ
れ ぞ れ の 場 面 で「場 所」 (生 き 方) を 選 び 取 る 側 面 に 注 目 している。このような移民個人の経験のなかで、国家は自 己との結びつきの対象の一つにすぎないと考える * 2 。 このような眼差しから、本稿では、帰国華僑のライフヒ ストリーの収集と分析を行うことにより、中国―移住先の 二国間関係に留まらない複数地点を結ぶことで形成される 空間に生きる人々の「ホーム」の意味を問い直す。まだ見 ぬ祖先の出身地を懐かしむことや「間接的経験」に基づく 漠 然 と し た 故 郷 認 識 を 抱 く こ と、 な ら び に 代 替 と し て の 「ホ ー ム」 の 意 義 を 問 う と い っ た 想 像 レ ベ ル で の 故 郷 意 識 の 考 察 に 留 ま る こ と な く、 中 国 系 移 民 (帰 国 華 僑) に と っ ての「ホーム」が、中国政府のプロパガンダ、移住先での 現地化、一九六〇年代から七〇年代の中国の政治動乱、改 革・開放後の経済発展、といった多様なファクターの中で 絶えず意味づけなおされる流動的な存在であることを、あ る特定の個人、Xさんとその家族に焦点を当て、彼女らの 生活世界から実証的に切り込むことによりに明らかにしよ う と す る。 X さ ん は、 ミ ャ ン マ ー (生 ま れ 故 郷 の オ テ ィ エ ゴ ン〈 Othegon 〉) 、 中 国 (江 西 省 の 撫 州 と 福 建 省 の 厦 門) と いった移住先国と「祖国」の双方の複数地点における生活 経験をもつ。彼女の実体験の聞き取りから「ホーム」を浮 かび上がらせてみたい。
Ⅰ
X
さ
ん
の
歩
み
と
越境
す
る
家族
二〇〇八年一二月二一日。筆者は福建省厦門市思明区に ある「思明区僑聯センター」で清掃や接客の仕事をしてい た X さ ん (一 九 五 三 年 生 ま れ) と 初 め て 出 会 っ た。 「思 明 区僑聯センター」は、思明区に居住する帰国華僑が活動を 行ったり、帰国華僑聯合会の幹部等が会議や親睦会を行っ たりするために帰国華僑聯合会 * 3 によって創設された場所で ある。その日、厦門市インドネシア帰国華僑聯誼会 * 4 の一部 の人たちがそこに集まり、社交ダンスを楽しんでいた。筆 者はインドネシア帰国華僑のXさんの誘いを受けてそこに いた。筆者はXさんと出会った当時、厦門大学の寮に住ん でいた。大学から「思明区僑聯センター」まではバスで約 一 〇 分 の た め 行 き や す く、 し ば し ば 彼 女 を 訪 ね る よ う に なった。二〇〇九年三月に筆者が日本へ帰国してからも互 いに連絡を取り続け、毎年一回は厦門を訪れて近況を報告 し合っている。筆者は二〇一二年八月から九月にかけて、 Xさんとともにミャンマーを訪れ、ミャンマーで生活する 彼女の親戚や同級生を訪問した。本稿で用いるXさんのラ イフヒストリーは、このような長期にわたる継続的な関係 の中で得られた聞き取りに拠るものである。以下で取りあげ る 彼 女 の 語 り の デ ー タ は、 事 前 に ア ポ イ ン ト メ ン ト を 取ってインタビューしたものではなく、自然な会話の流れ の中で得られたものである。 X さ ん の こ れ ま で の 歩 み は、 表 1 に 整 理 し た 通 り で あ る。Xさんはミャンマーのオティエゴンという小さな町で 生まれ、中学時代の後半までそこで過ごした。姉が二人、 妹が一人、弟が二人いる。一九六九年、まずXさんと姉が 帰 国 し、 そ の 後、 両 親 と 弟 が 帰 国 し た。 現 在、 両 親 は 他 界、姉の一人は香港、もう一人は福建常山華僑農場、弟二 人は福建にいる。Xさんは一九七八年に靴下製造工場の同 僚 で ミ ャ ン マ ー (タ ウ ン グ ー) か ら 帰 国 し た 男 性 (一 九 五 四 年 生 ま れ) と 結 婚 し、 一 男 一 女 を も う け た。 上 の 娘 は 結 婚し、広東省深圳で生活をしている。下の息子は北京の大 学院在学中にアメリカへ留学し、帰国して博士号を取得し た 後、 広 東 の 大 学 で 研 究 員 を し て い る (二 〇 一 二 年 の 時 点) 。 現 在 X さ ん は 先 に 紹 介 し た「思 明 区 僑 聯 セ ン タ ー」 の仕事を辞め、孫の世話をするために一年の大半を深圳で 生活し、時々厦門へ戻ってくるという生活を続けている。 X家で最初にミャンマーへ移住したのはXさんの父方の 祖 父 で あ る 。 祖 父 は 福 建 省 安 溪 の 出 身 で 、 一 三 歳 の 時 に 移 住 し た 。 祖 父 は ミ ャ ン マ ー で 三 人 の 妻 を 娶 っ た 。 一 番 目 の 妻 は 華 人 、 二 番 目 の 妻 は ミ ャ ン マ ー 人 、 三 番 目 の 妻 は 祖 父 と 同 じ 安 渓 出 身 の 華 人 で あ っ た 。 こ の 三 番 目 の 妻 を X さ ん 1953年:ミャンマーのオティエゴンに生まれる。 1960年:「覚華小学校」(中華学校)入学(4年制だった)。 1964年5月~1965年3月:ヤンゴン・ミャンマー華僑中学(6年制だった)。 1966年5月~1967年3月:7年生(中学3年生)の時、オティエゴンにあるミャンマー政府に属する中学 に転校。 1968年5月~1969年2月:9年生(中学5年生)の途中で中国に帰国。 1969年:中国に帰国。江西に配属。江西についてから「撫州一中」に入学。 1969年2月~1969年7月:中学2年生に編入(ミャンマーで中学2年生相当まで終えていたが、中学3年 生に編入すると半年で卒業しないといけなく、その後は農村に行かされることが多かったので2年生 に編入した)。当時は「文化大革命」中で、教育が停滞していた。 1970年9月~1973年7月:高校入学~卒業。 1973年~2003年:撫州の靴下を生産する工場で退職まで働く。 1978年9月:ミャンマー帰国華僑の男性(1954年生)と結婚。 2005年:戸籍を厦門に移す。 2010年3月~4月:帰国後初めてミャンマーへの親戚訪問。 2012年8月~9月:帰国後2回目のミャンマーへの親戚訪問。 表1 Xさんの歩み
は 継 祖 母 (「 后 奶 奶 」) と 呼 ん で い る 。 二 番 目 の 妻 と の 間 に 子 ど も は な い た め 、 X 家 の ミ ャ ン マ ー を 起 点 と す る 家 族 の 系 譜 は 父 方 の 祖 父 と 一 番 目 の 妻 と の 間 に で き た 家 族 ( 拡 大 家 族 を 意 味 す る ) と 、 三 番 目 の 妻 と の 間 に で き た 家 族 か ら な る 。 本 稿 で は 前 者 を 家 族 ① ( 図 1 を 参 照 ) 、 後 者 を 家 族 ② ( 図 2 を 参 照 ) と す る 。 X さ ん は 家 族 ① の 系 譜 に 属 す る 。 家 族 ② の 成 員 の 中 に は 、 台 湾 、 シ ン ガ ポ ー ル 、 タ イ 、 ア メ リ カ へ 移 住 し た 者 が 多 く 、 ほ と ん ど 連 絡 を 取 っ て い な い 。 そ の た め 、 X さ ん に 家 族 に つ い て 尋 ね た 時 、 家 族 ① の 成 員 に つ い て は 第 五 世 代 ま で 辿 る こ と が で き た が 、 家 族 ② の 成 員 については第三世代までしか辿ることができなかった * 5 。 X さ ん 一 家 は 伯 父 一 家 (家 族 ①〈1〉 ) と は 同 じ 家 に 住 ん で い た。 同 じ 系 譜 に 属 す る 同 輩 の 従 兄・ 従 姉 (家 族 ① 〈2〉 や〈4〉 ) と は 関 係 が よ く、 今 で も 密 に 連 絡 を と っ て いるのは彼らである。 Xさんの記憶によると、一九六三年、六四年頃から華人 に対する風当たりが強くなり始め、Xさん一家は帰国を選 択することとなった。彼女の記憶を裏付けるような出来事 と し て、 た と え ば 一 九 六 七 年 六 月 二 六 日 に ラ ン グ ー ン (現 ヤ ン ゴ ン) で 発 生 し た 華 僑 排 斥 事 件 が あ る。 こ の 事 件 の 背 景には、中国の文化大革命における革命外交路線とミャン マーの「ビルマ式社会主義」との衝突があったが、同時に ミャンマーのネーウィン政権による内政問題の外交問題へ の転嫁という側面もあった。一九六二年にネーウィン政権 が成立して以降、経済の国有化政策が急激に進展し、流通 の停滞などにより深刻な物不足に陥り、人びとの不満が高 まっていた。一九六七年にコメ不足が生じ、商店や倉庫を 略 奪 す る 人 び と が 現 れ、 軍 政 権 は 対 応 に 苦 慮 し 始 め て い た。こうしたなかでちょうど同じ時期に、華僑の「バッジ 事件」が一九六七年六月に発生した。文化大革命の影響を 受けて、ラングーンの一部の華僑華人学生が毛沢東バッジ を着用し始めたため、当局はこれを禁止した。これを不満 とした学生はデモを行い、当局と衝突するようになった。 この衝突は、ラングーンにある在ミャンマー中国大使館の 極左派の支持を受けて、日々激化していった。ネーウィン はこれを利用し、民衆の不満の矛先を華人に向け、内政の 危機を回避しようとした。その結果、数十名の華人が殺害 さ れ、 多 数 の 負 傷 者 が 出 た (範・ 金 二 〇 〇 九 ; Steinberg and Fan 2012: 93-118 ) 。 ところがこのような華僑排斥の状況のなかで、中国への 帰国を選んだ人は残留を選んだ人よりも少なかったようで あ る。 X さ ん の 親 族 (家 族 ① ②) の 中 で 帰 国 を 選 ん だ の は 彼女の家族のみであったし、帰国した人はオティエゴンに 残った人よりも少なかった。また彼女の同級生のほとんど が帰国しなかった。その理由について、彼女とオティエゴ ンを訪れた時に、かつての同級生に尋ねたところ、①旅費
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第 3 第 2 第 1 〈4〉〈3〉 〈2〉 〈5〉 緬 安渓“后奶奶” 安渓 仰 仰 仰 (華) (華) (華) (華) (華) 小学生 中学 7 年生 新留学 華 (華 ) (華 ) 仰 荷 荷 荷(養子) 福建 福建 福建 孩子 香港 后妻 〈1〉 先妻 曼 ? 仰 2007 生 1990 生1987生1984生 2001 生 2005生2001生 曼:曼德勒在住(マンダレー/Mandalay) 荷:荷西光在住(オティエゴン/Othegon) 仰:仰光在住(ヤンゴン/Yangon) 新:新加坡(シンガポール/Singapore) :華人 :緬甸人(ミャンマーの地元の人) ( 華 )( 緬 )?
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② ① (華) (華) (緬) (緬) ( 緬 ) (華) ( 華 ) 荷 緬 美 新 緬 美 美 美 美 美 美 台 台 台 ・ 荷 (二重国籍) 泰 台 ↓ 仰 仰 ↓ 台 美 ↓ 仰 台 ↓ 美 台 ↓ 仰 台 ・ 仰 (二重国籍) 養子 ( 緬) 台 (二重国籍) 仰 第 3 第 2 第 1 ’70’80 Sitkwin ※同一男性。 妻が他界後その 妹と再婚した。 台:台湾在住 荷:荷西光在住(オティエゴン/Othegon) 仰:仰光在住(ヤンゴン/Yangon) 美:美国在住(アメリカ/America) 泰:泰国在住(タイ/Thailand ) 新:新加坡在住(シンガポール/Singapore) :華人 :緬甸人(ミャンマーの地元の人) ( 華 )( 緬 ) 安渓 “后奶奶” 台 (二重国籍)?
第 3 第 2 第 1 〈4〉〈3〉 〈2〉 〈5〉 緬 安渓“后奶奶” 安渓 仰 仰 仰 (華) (華) (華) (華) (華) 小学生 中学 7 年生 新留学 華 (華 ) (華 ) 仰 荷 荷 荷(養子) 福建 福建 福建 孩子 香港 后妻 〈1〉 先妻 曼 ? 仰 2007 生 1990 生1987生1984生 2001 生 2005生2001生 曼:曼德勒在住(マンダレー/Mandalay) 荷:荷西光在住(オティエゴン/Othegon) 仰:仰光在住(ヤンゴン/Yangon) 新:新加坡(シンガポール/Singapore) :華人 :緬甸人(ミャンマーの地元の人) ( 華 )( 緬 )?
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② ① (華) (華) (緬) (緬) ( 緬 ) (華) ( 華 ) 荷 緬 美 新 緬 美 美 美 美 美 美 台 台 台 ・ 荷 (二重国籍) 泰 台 ↓ 仰 仰 ↓ 台 美 ↓ 仰 台 ↓ 美 台 ↓ 仰 台 ・ 仰 (二重国籍) 養子 ( 緬) 台 (二重国籍) 仰 第 3 第 2 第 1 ’70’80 Sitkwin ※同一男性。 妻が他界後その 妹と再婚した。 台:台湾在住 荷:荷西光在住(オティエゴン/Othegon) 仰:仰光在住(ヤンゴン/Yangon) 美:美国在住(アメリカ/America) 泰:泰国在住(タイ/Thailand ) 新:新加坡在住(シンガポール/Singapore) :華人 :緬甸人(ミャンマーの地元の人) ( 華 )( 緬 ) 安渓 “后奶奶” 台 (二重国籍) 図1 家族① Xさんの父方祖父の一番目の妻との間の家族 図2 家族② Xさんの父方祖父の三番目の妻との間の家族がなかったため、②中国に行ってからどのように生計を立 てていったらよいかわからなかったため、③両親が帰らな いと決めていたので、離れがたかったため、ということで あった。ある男性は、兄弟姉妹が多く、彼は長男だったの で家に責任があり戻れなかったと話していた。帰国はまず ヤンゴンから中国広東の広州まで飛行機で行き、列車で昆 明 ま で 行 っ た。 昆 明 に 中 国 政 府 の 関 係 者 (僑 務 弁 公 室 の 人) が 迎 え に 来 て、 空 港 か ら 昆 明 に あ る 華 僑 旅 行 社 へ 連 れ て行ってくれた。そこで登録票が配られ、個人情報を記入 した。その中の内容で最も重要だったのは、今後、国の手 配 に 従 う か、 自 分 で 生 活 し て い く か を 選 択 す る 欄 で あ っ た。Xさん姉妹は国の手配に従うことを選んだ。こうして 江 西 に 行 く よ う に 手 配 さ れ 、 江 西 に 到 着 後 、 撫 州 第 一 中 学 ・ 高校 (「撫州一中」 。中高一貫の学校) に行くことになった。 以 上 の 経 緯 か ら わ か る よ う に、 X さ ん は ミ ャ ン マ ー に 渡 っ た 家 族 の 中 で は 第 三 世 代 で、 ミ ャ ン マ ー (オ テ ィ エ ゴ ン) で 生 ま れ 育 ち、 も と も と 中 国 で の 直 接 的 経 験 は な か っ た。このような出生背景をもちながらも、ミャンマーで生 活をしていた帰国前は、まだ見ぬ中国に強い故郷意識を抱 いていた。以下では、ミャンマーと帰国後の生活環境の描 写から、Xさんにとって中国はどのような存在として認識 されていたのか、そしてその認識がどのように変化したの か、それはなぜかということについて検討していく。
Ⅱ
複合的
な
﹁
ホ
ー
ム
﹂
1
ミ
ャ
ン
マ
ー
︵
オ
テ
ィ
エ
ゴ
ン
︶
の
記憶
と
つ
な
が
り
中国に帰国する前の記憶 最 初 に ミ ャ ン マ ー へ 渡 っ た 祖 父 は、 い く つ か の 場 所 を 回った結果、土地が安く、米の工場が建てやすかったため オ テ ィ エ ゴ ン に 落 ち 着 き、 当 初 は 華 人 が 経 営 す る 工 場 (油 か 米 の 工 場、 定 か で は な い) で 働 い た。 そ の 後 数 人 で 出 資 をして米の工場を建てた。祖父は商売に長けており、工場 で儲けた後は、金貸し業を営んでいた。父は一九三〇年代 に日本軍の攻撃から逃れるために安渓に一時帰国したが、 ミャンマーが独立した後、一九四八年にミャンマーに戻っ てきた。しかし家は日本軍に焼かれていたため、一時、伯 父 (帰 国 し な い で 農 村 に 隠 れ て い た) の 家 に 身 を 寄 せ て い た。その後、祖父、父、伯父の三人で雑貨店を始め、商売 を拡大していき、富を蓄えていった。Xさんによれば、父 が一九四八年にミャンマーに戻ってから中国に帰国するま での約二〇年間が、X家が最も裕福な時期だったそうであ る。こうしたなかでXさんは 、幼少時代を経済的に裕福な家 庭で 過ごし た 。一日 五元で 家族 八人を 養えた 時代に 、 父は 娘三 人を学 校へや った 。一 人あ たり月 六〇元 かかる ので 、 三人 で月二 〇〇元 はか かった 。 当時は 、女 子に 教育を 受け さ せ る こ と は 珍 し い こ と で あ り 、 隣 家 に 住 む 親 戚 の 女 性 に 、「 女 の 子 は ど う せ 嫁 に い っ て し ま う の だ か ら 、 教 育 す る 必 要 は な い 」 と 言 わ れ た こ と を 、 X さ ん は 記 憶 し て い る 。 Xさんは中学からヤンゴンの中華学校に通っていたが、 中 学 二 年 の 頃 か ら、 華 僑 排 斥 の 雰 囲 気 が 高 ま っ て き て、 ミャンマー語中心のカリキュラムに変わり、一九六六年、 中学三年の時、オティエゴンにあるミャンマー政府に属す る中学に転校した。そのため、Xさんはミャンマー語の読 み書きができるようになった。他方で、夜になると中国廟 で行われていた中国語の塾に通っていた。華僑排斥の雰囲 気に反して学校では同じ長机の隣に座っていたミャンマー 人のクラスメートと仲が良く、他の華人もミャンマー人の クラスメートと打ち解けていたため、ミャンマー語も覚え た。しかし、家に帰ってミャンマー語を話すと祖母に叱ら れ た。 「ミ ャ ン マ ー 語 を 話 す よ う に な る と、 祖 国 を 忘 れ て しまう」と言い、両親にも子どもにもミャンマー語を使わ せないように注意した。雇っていたミャンマー人の召使い にもミャンマー語を使わないように言い、閩南語を覚えさ せ た。 こ の 状 況 か ら、 家 庭 で は 父 方 祖 先 の 出 身 地 (安 渓) の習慣に基づいて生活していたことがわかる。 筆者が二〇一二年八月~九月にXさんに同行し、オティ エ ゴ ン を 訪 問 し た 際、 彼 女 の 従 兄 で あ る A 氏 の 家 (家 族 ① の〈2〉 ) に 滞 在 し た。 た だ し 訪 問 時 に A 氏 は 不 在 で あ っ たため、 A氏の息子B氏 (家族① 〈5〉 ) 夫妻の世話になっ た。B氏は四〇代で大卒であり、精米・販売と黒豆の貿易 に従事している。 B氏によると、オティエゴンには中心部と周辺の村々の 人口を合わせて約二五〇〇世帯が住んでいる。そのうち華 人家庭は約二〇世帯ほどで、みな中心部で生活している。 この集住地区に住む華人の家は外観から「華人」とわかる 特 徴 が あ っ た。 門 に は「福」 の 字 や 対 聯 (対 に な っ て い る Toungoo Othegon YANGON N 0 0 10 20 40 80 miles 10 20 40 60 80 km 図3 オティエゴン(Othegon)の位置
掛 け 軸) が 貼 ら れ、 家 の 中 に は 旧 暦 の 書 か れ た カ レ ン ダ ー があった。他方で仏教を信仰しておりすべての家で仏壇を 見ることができた。筆者が調査した時期はちょうど中元節 の時期に重なり、閩南の習慣に従って粽を作ったり、道で 三角に折った紙を燃やしたりしている風景も見られた。今 回の訪問で驚いたのは、独身の華人女性が多いことであっ た。華人男性も女性も、結婚相手として華人を好む傾向に あるという。とくに、女性は家庭が貧しく、裕福なミャン マー人男性に嫁ぐ場合を除いて、華人男性と結婚したいと 思っている。このように華人を結婚相手に選ぶ傾向が強い ことが、オティエゴンの華人コミュニティを維持する要因 の一つとなっている。 オティエゴンの約二〇世帯の華人家庭は何らかの親戚関 係にあり、お互い知らない者はいない。華人と地元のミャ ンマー人は住み分けがされている。図4・5で示したよう に、中心部には三本の道があるが、第一と第二の道は「唐 人 街」 (チ ャ イ ナ タ ウ ン の 意 味) と 呼 ば れ、 華 人 の 民 家、 雑貨店、元中華小学校、廟等が並んでいる。第三の道には ミ ャ ン マ ー 人 が 住 ん で い る。 「幼 い 頃、 第 三 の 道 に は 一 人 ではほとんど行きませんでした。怖かったです」とXさん が話していた。 華人はミャンマー人とは異なる彼ら特有の習慣に従って 生活をしてきた。華人の廟の「玉皇宮」は、華人が輪番で 管 理 し て き た。 毎 年「玉 皇 大 帝」 の 誕 生 日 (春 節 初 九 日) の 前 日 に 向 こ う 一 年 の 当 番 を く じ 引 き で 決 め る。 当 番 に なったら農暦の毎月一日と一五日に香を焚きに来ることに なっている。清明節の時に、親族が台湾や大陸などへ移住 してしまい、誰も墓参りをすることができない墓を代わり に掃除をして供養するのも、当番の仕事である。また、墓 地を作り、墓参りをすることも華人の習慣であり、一般に 地元のミャンマー人はそれらを行わない。このような習慣 の 違 い は あ る が、 華 人 と ミ ャ ン マ ー 人 は 衝 突 す る こ と な く、華人排斥の気運が高まった時でさえも、両者の関係は 良好であった。華人はミャンマー人の仏堂のためにしばし ば 寄 付 を し て き た し 、 華 人 も 仏 教 を 信 仰 す る よ う に な っ た 。 ミ ャ ン マ ー 時 代 の X さ ん は、 「小 中 国」 (彼 女 が オ テ ィ エ ゴ ン で の 生 活 空 間 を 中 国 語 で こ の よ う に 表 現 し た) と も 呼 ぶべき中国と同じような空間に取り囲まれていた。こうし た生活空間においてXさんは、必然的に華人として生活し てきたことが分かる。この時期のXさんは、オティエゴン という土地で華人としての生活を実践し、それによって華 人としての意識を持っていた。その意味において、この時 期にXさんの中では、土地と帰属意識とが結びついていた と言える。
209 中国系移民の複合的な「ホーム」 Othegon Station 450 m 3 km Village Village Pagoda Pyay Road Chinese Cemetery To
Min HLa To Okpho
Ye Kwaw Village 570 Houses
Kyoe Pbyu Village 400 Houses Nyawrg Win Village
450 Houses
Village 300 Houses Kyoun Pin Village
150 Houses Lay Te Village
200 Houses Kye Talin Village
380 Houses Small Village N 3 2 1 Monk Police Station Hospital To Yangon Market Chinese Road Chinese Road
Myanmar Residents Myanmar Residents
Chinese Stores Classmate Relative Relative Relative Relative Relative Myanmar Elementary and Junior High School
Myanmar Buddism Temple Railroad Chinese Shool (Before) Chinese Temple “玉皇宮” 3 2 1 ※We stayed at this 図4 オティエゴンの中心部 Othegon Station 450 m 3 km Village Village Pagoda Pyay Road Chinese Cemetery To
Min HLa To Okpho
Ye Kwaw Village 570 Houses
Kyoe Pbyu Village 400 Houses Nyawrg Win Village
450 Houses
Village 300 Houses Kyoun Pin Village
150 Houses Lay Te Village
200 Houses Kye Talin Village
380 Houses Small Village N 3 2 1 Monk Police Station Hospital To Yangon Market Chinese Road Chinese Road
Myanmar Residents Myanmar Residents
Chinese Stores Classmate Relative Relative Relative Relative Relative Myanmar Elementary and Junior High School
Myanmar Buddism Temple Railroad Station Chinese Shool (Before) Chinese Temple “玉皇宮” 3 2 1 ※We stayed at this 図5 ミャンマーの親戚の住む場所
ミャンマー再訪、国家認識と個人の自己実現との矛盾 彼女は中国に帰国して以来、これまで二度のミャンマー へ の 親 戚 訪 問 を し た。 一 回 目 は 二 〇 一 〇 年 三 月 か ら 一 カ 月、二回目は筆者も同行した二〇一二年八月から一カ月で ある * 6 。 彼女は、四〇年振りにミャンマーに足を踏み入れた一回 目 の 訪 問 の 感 想 を 次 の よ う に 語 っ た。 「幼 い 頃 を 過 ご し た 所へ戻り、今もそこで暮らす人々の生活が中国に到底及ば ない様子を見て心が痛みました。帰国した時、中国も貧困 の時期で辛い日々を送ってきたことを思い出しましたが、 今はとても良くなりました。ミャンマーも早く貧困から抜 け出してほしいです」 。「ミャンマーは電力不足で毎日五時 間くらいしか電気が使えませんでした。お金のある人は自 家発電を利用しています。本当に不便でした。お金のある 人だけが自分の家を持ち、良い生活を送れます。汽車はと ても古く、交通が不便です。親戚がいなければミャンマー には行きません。やはり中国、厦門の方が良いです! 中 国 は 保 障 の あ る 時 代 に 入 り ま し た」 。 そ し て、 従 兄 に 帰 国 し た こ と は 良 か っ た か と 聞 か れ た 時、 「当 時 は 帰 国 の 選 択 が正しかったかどうかはわからなかった。私たちが帰国し てからミャンマー政府の政策が変わり、華人も商売ができ るようになったと聞いた時には帰国したことを後悔したけ れど、中国の経済発展を見ると、帰国したことは正しかっ たと思う、と答えました」 。 これらの語りから、発展した中国と貧しいミャンマーを 対比させ、中国全体の発展によって、Xさんやその家族が 帰国を肯定できるようになったことがわかる。だが、Xさ ん の 厦 門 の 生 活 (家 屋、 収 入) を 知 る 筆 者 か ら 見 る と、 ミャンマーの親戚の方が物質的に豊かな生活をしているこ とは一目瞭然であった。Xさんの家族のレベルで比較をす ると、ヤンゴンとオティエゴンに住むミャンマーの親戚の 経済状況の方が良好である。華人の多くが日用品を売る雑 貨店を営んでいたが、Xさんの親戚も例外ではない。Xさ んのヤンゴンの親戚には、宝石店や建設会社を経営する者 もいる。前出のB氏も、精米と黒豆の貿易で高い収入を得 ている。黒豆の売買は政府が独占していたが、一九八八年 にそれが停止し、売買が民間に開放された。この機会に目 を つ け て 黒 豆 を 扱 う 華 人 が 増 え、 B 氏 も そ の 一 人 で あ っ た。また、ヤンゴンとオティエゴンに住む親戚のほとんど が、B氏も含めて大学を卒業している。この点が中国で進 学 を 目 標 と し て い た X さ ん に と っ て 最 も 辛 い こ と で あ っ た。つまり、個人の自己実現から見ると、Xさんは「発展 し た 中 国」 で の 生 活 に 満 足 し て い る わ け で は な い の で あ る。 今回の訪問で世話になったB氏夫妻は、Xさんにとって 「後輩」である。Xさんは、 「同輩とは話すことがたくさん
あるが、下の代とは共通の話題が少なくてあまり話すこと がない」 、「同輩が亡くなったらミャンマーにきても面白く ない」と話していた。ミャンマーの親戚は共通の経験や記 憶を共有できない世代に変わってきており、この事実は将 来、Xさんのミャンマーの親戚との実質的な親交が希薄化 することを示唆している。他方で、A氏を含めた従兄たち も中国に来たがっているが、それは中国に興味があるから ではなく、Xさんの母親に会いたいからであると言う。幼 い頃、近所に住み、良くしてもらったからだ。 つまり、国家の発展やイメージの向上は個人の国家に対 する誇りを高めるが、その一方で、国家全体に対する感情 は、個人的なつながりの親疎に左右されることが見て取れ る。
2
重層的
な
中国認識
想像の中の理想郷・中国 華僑排斥が激しくなった一九六〇年代後半、Xさんの家 庭では、父の雑貨店から始めた商売が軌道に乗り、家庭の 経済状況は非常に良好であった。だが商売ができなくなる 不安から、一九六七年、中国に帰国すべきか否かについて 家 族 で 話 し 合 っ た。 こ の 時 父 は、 中 国 へ の 帰 国 に 反 対 し た。父は一九三〇年代に安渓に一時帰国した時、中国に対 してあまりよくない印象を抱いたようである。また福建省 の武夷山に戻っていた父の姉の夫側の親戚からの手紙で、 中国の生活環境が良くないことを知っていた。祖母も帰国 に強く反対し、親を残して子どもだけで帰国することにな ればそれは親不孝にあたると怒った。それでもXさんは、 中国に帰国する思いを強く持ち続けた。家族一緒に暮らす のがいいと母が父を説得し、最終的にXさんの父母と弟も 中国に帰国することになった。 Xさんが中国への帰国を強く望んだのは、中華学校で受 けた教育の影響であったという。彼女がミャンマーで生活 し て い た 当 時、 ヤ ン ゴ ン に は 大 き な 中 華 学 校 が 二 つ あ っ た。 南 洋 中 学 (略 し て「南 中」 ) と 華 僑 中 学 (略 し て「僑 中」 ) で あ る。 中 国 語 で 教 育 す る 学 校 は、 小 学 校 に つ い て は小規模なものがあちこちにあったが、中学校については 二つの中華学校のどちらかに進学するケースが多かった。 Xさんは僑中に進学した。そこでは「祖国は中国である」 という思想教育が施された。学校では大使館を通して入っ てきた映画や『人民画報』等の雑誌をよく見ていたため、 中国の変化を知り、国の発展を誇りに思うようになり、着 実 に 前 に 進 ん で い る 中 国 に 少 し ず つ 好 印 象 を も つ よ う に なった。中国に関する情報源が多くあったため、まるで中 国にいるような感じだったと言う。こうして中国は素晴ら しい国であると思い込み、中国「中毒」になっていたと振り返る。これに加え、中国語など中国文化を学び、中国に 理解があったので帰国しても困らないと思ったこと、そし て中国の高校、大学で勉強したい、教師になりたいという 夢があったことが、中国に戻りたかった理由である。 X さ ん が 中 国 に 帰 国 す る 時、 ク ラ ス メ ー ト が 裏 に メ ッ セージを書いた顔写真をプレゼントしてくれた。今でもそ の写真を大切に保管している。その中にはミャンマー人の クラスメートがミャンマー語で書いたものもあった。華人 の 友 人 が 送 っ た メ ッ セ ー ジ の 中 に「毛 主 席 の 好 い 戦 士 に なってください」 (「做一個毛主席的好戦士」 ) というものが あ っ た。 X さ ん は、 当 時 を 振 り 返 り、 「共 産 党 も 仏 教 と 同 じように一つの信仰のようだった」と話す。 つまり、帰国以前、Xさんは教育の影響から中国を美化 し、中国に自己実現の可能性を求めていたのであった。 帰国後の中国認識の変化 帰国後江西省の撫州で生活することになったXさんは、 撫州第一中学・高校の中等部二年次に編入した。寮生活を し て い た が、 そ こ に ミ ャ ン マ ー 帰 国 華 僑 の 学 生 し か い な か っ た。 ル ー ム メ ー ト だ っ た「僑 友」 (と X さ ん は 表 現 す る。 ミ ャ ン マ ー 帰 国 華 僑) 二 人 と 姉 妹 の よ う に 助 け 合 い な がら生活をした。彼女たちは一九七七年か七八年に香港へ 渡っていった。香港へ行ってからもXさんの生活を心配し て、しばしば衣類などを送ってくれた。今までずっと連絡 を取り続けている。当時は文化大革命中で教育が停滞して いたため、高校を卒業するまでの間、授業を受ける機会は ほとんどなかった。 高 校 卒 業 後 の 一 九 七 三 年 か ら、 靴 下 製 造 工 場 に 配 属 さ れ、そこに退職年齢まで勤めた。工場で働き始めた時、彼 女は「天から地へ突き落された気持ち」になった。もとも と大学に進学したかったのに、理想とは異なる方向に人生 が進んでしまったからだ。結婚・出産後は家事と育児中心 の 生 活 に な り、 「多 く の こ と を 犠 牲 に し た」 と い う 気 持 ち が強く残った。このような理想を打ち破る撫州での生活経 験は、撫州への愛着を失わせた。 一 九 八 五 年、 親 戚 の 男 性 (夫 の 母 方 の 祖 父 と こ の 男 性 の 父 親 が 兄 弟、 つ ま り 夫 の 大 お じ の 息 子 に あ た り、 「表 叔」 と 呼 ん で い る) が 厦 門 に あ る 夫 の 母 方 の 祖 母 の 家 屋 の こ と を 教 え て く れ た。 夫 の 母 方 の 祖 父 母 も ミ ャ ン マ ー に 移 民 し た。新中国成立後の土地改革の時、家屋も分配され、同じ 村の農民に住まわせていたが、村人がその家がもともと誰 のものか覚えており、無関係な村人の手に渡ることがない よ う に、 「表 叔」 に 管 理 さ せ て お り、 権 利 書 は ず っ と 彼 の 元にあった。権利書はXさんの夫に戻ったが、対面の家の 人がずっとこの家屋を占領しており、自分のものにしたい ために度々嫌がらせをしてきた。また、家屋のある村は、
四川などから来た出稼ぎ労働者が多く住むようになり、治 安が悪くなっている。 こ の よ う に 生 活 環 境 や 近 隣 と の 人 間 関 係 が 良 好 で は な く、また撫州には工場から提供された住まいがあるにもか か わ ら ず 厦 門 へ 引 っ 越 す こ と に し た の は、 X さ ん 夫 妻 が 「祖 先 の 家 屋 を 豊 か に す る と、 子 孫 も 繁 栄 す る」 (「祖 屋 富 起 来、 後 輩 也 発 展」 ) と 表 現 し た よ う に、 祖 先 の 家 を 守 り た い と い う 考 え か ら で あ っ た。 僑 郷 (華 人 の 父 方 祖 先 の 出 身 地) に 普 遍 的 に 見 ら れ る こ と で あ る が、 海 外 か ら の 送 金 で出身母村に「洋楼」と呼ばれる豪華な家屋を建てること がしばしばある。人が住んでいないこともよくあり、実用 的に機能しているとは思えない。一見無意味な豪邸を建て るのは「祖先の家屋を豊かにすると、子孫も繁栄する」の 観念からきていると思われる。これは日本的な親孝行に留 まらない、祖先に対する義務をも伴うものである。 二 〇 〇 五 年、 撫 州 時 代 の 同 級 生 (ミ ャ ン マ ー 帰 国 華 僑) で「福建省厦門市帰国華僑聯合会」の幹部をしている友人 の 助 け で 厦 門 に 戸 籍 を 移 し た。 厦 門 に お い て X さ ん 夫 妻 は、自分たちは「外地人」であるという意識を強く抱いて いるという。厦門にはミャンマー帰国華僑聯誼会があり、 メンバーとして活動に参加しているが、この会の中心メン バーは一九八〇年代からずっと厦門に住んでいる人々で年 齢層も高く、融け込めていない。 ミャンマー時代は同じ文化的背景を持つ人々と時間と空 間を共有していた。つまり、特定の土地、人、文化習慣、 「ホ ー ム」 (帰 属 意 識) が 結 び つ い て い た。 帰 国 後、 固 定 的 な土地を基盤にした人間関係を持たないXさんにとって、 移 動 と と も に 土 地、 人、 文 化 習 慣、 「ホ ー ム」 (帰 属 意 識) がそれぞれ乖離していったのである。 重層的な中国認識 帰国後、三〇年以上にわたる最も長い時間を生活してき た 場 所 は 撫 州 で あ り、 同 級 生 や 同 僚 も 撫 州 に い る。 し か し、 「あ そ こ に は 気 に か け る 人 が い な い」 の で、 撫 州 に 再 び戻って生活したいとは思わないと言う。苦楽を共にした ルームメートが香港に移住してしまったことも影響してい る。 彼 女 の 籍 貫 (父 方 祖 先 の 出 身 地) は 安 渓 だ が、 彼 女 自 身 は そ こ に 一 度 も 行 っ た こ と が な い。 撫 州 に い る 時、 「出 身 は ど こ で す か」 と 聞 か れ る と、 「私 た ち に は 家 が あ り ま せ ん、帰国華僑です」と答えていた。厦門で出身地を聞かれ た 時 は、 同 じ 福 建 省 内 と い う こ と を 意 識 し て「安 渓 人 で す」と答えるようにしているが、すぐに「でもあなたの言 葉は安 渓 の発音ではないですね」と言われてしまう。 Xさんとオティエゴン駅の看板の前で写真を撮った時、 筆者が「ここはあなたの故郷だね」と言ったところ「故郷
じ ゃ な く て 出 生 地」 と 答 え た。 理 由 を 尋 ね る と、 「故 郷 と 言った場合、祖籍を指すと思う。だから私の故郷は安渓。 オティエゴンは出生の場所」と言った。また、A氏の息子 のうち、ヤンゴンに住む子ども夫妻とその孫を訪ねた時、 週末の塾で中国語を勉強している一一歳と七歳の子と話を し た。 七 歳 の 子 に「X お ば さ ん は 中 国 人? ミ ャ ン マ ー 人?」と聞くと「彼女は中国人。中国語を話すから」と答 え た。 「彼 女 は ミ ャ ン マ ー 語 も で き る よ」 と 言 う と「彼 女 は中国人でもあり、ミャンマー人でもある」と答えた。す るとXさんが「私は中国人だよ。祖先が中国人だからね。 祖先が中国人だったらミャンマー語を話せてもミャンマー 人に変わることはないんだよ」と子どもに言って聞かせて いた。 こ う し て 見 て く る と、 彼 女 に と っ て の 中 国 は、 ミ ャ ン マー時代に理想的国家だと美化していた想像上の中国、帰 国してから最も長い直接的経験のある撫州、そして厦門と いうように、想像上の中国から現実的な中国へと変化して いった。その過程で自己実現が果たせず、裏切られた気持 ちを抱かざるをえなかったのであるが、それをミャンマー に残って暮らす親戚に対しては「発展した中国」にいると いうことで、自分を癒しているように思えてならない。加 えて、父方祖先の出身地の安渓、直接的生活経験のある場 所としての撫州、厦門、そして「発展した中国」と彼女に とっての中国認識は重層的であり、語る対象によっても中 国の顔は変化する。
お
わ
り
に
︱︱ つ な が り に 求 め る ﹁ ホ ー ム ﹂ Xさんの物語には、一九六〇年代のミャンマー軍政府に よる華僑排斥、中国の政治動乱期を経て、改革・開放後に 経済発展を遂げ、国際社会におけるプレゼンスを高めてい くといった大きな時代背景が個人へ与えてきた影響が映し 出されている。 このような国家と国際社会の動きに人生を左右されてき たXさんの経験と語りを、本特集の鍵概念である「三つの 祖国」の観点から解釈してみたい。冒頭で述べた通り、本 稿では「祖国」と「ホーム」の概念に対する考え方は軌を 一にしているが、国家のみを基準にしていないため、ここ では「三つのホーム」に置き換えてまとめていくことにす る。 ま ず、 ミ ャ ン マ ー (オ テ ィ エ ゴ ン) 時 代、 家 庭 で は 父 方 祖 先 の 出 身 地 (安 渓) の 習 慣 に 基 づ い て 生 活 し て い た こ と か ら、 「ル ー ツ の ホ ー ム」 を 意 識 し て い た こ と が わ か る。この華人コミュニティでは、現在も華人を結婚相手に 選ぶ傾向が強く残されており、家屋に見られる装飾や祖先 崇拝、ならびに華人特有の習慣に従って生活していることも、 「ル ー ツ の ホ ー ム」 に 自 己 を 位 置 付 け て い る 側 面 が 見 て 取 れ る。 つ ま り、 生 活 の 拠 点 か ら 見 れ ば ミ ャ ン マ ー (オ テ ィ エ ゴ ン) が「暮 ら し の ホ ー ム」 に な り う る が、 実 際 に 彼女が生きてきた生活空間から見ると、そこには「中国」 (華 人 コ ミ ュ ニ テ ィ) の み が 存 在 し て い た こ と が わ か る。 加 え て、 ミ ャ ン マ ー (ヤ ン ゴ ン) の 中 華 学 校 で 受 け た 教 育 内容の影響から中国を美化し、中国に自己実現の可能性を 求めて帰国を選択したのであったが、Xさんにとって帰国 する前の中国は「理念のホーム」として捉えられていた。 つ ま り、 ミ ャ ン マ ー 時 代 の 彼 女 に と っ て 中 国 は、 「ル ー ツ の ホ ー ム」 で あ り、 「理 念 の ホ ー ム」 で も あ り、 両 者 は 重 なり合っていたのである。ところが、中国に帰国後、江西 (撫 州) で 土 地、 人、 文 化 習 慣、 帰 属 意 識 が 乖 離 し た 状 態 は、 か つ て ミ ャ ン マ ー で 思 い 描 い て い た「ル ー ツ の ホ ー ム」が「理念のホーム」ではなかったことに気づき、落胆 し、 「暮らしのホーム」としても居心地の悪さを感じ、 「三 つのホーム」のどれにも当てはまらない状態に置かれた。 現在は特定の場所を拠り所の基準として見た場合、かろう じて厦門が「暮らしのホーム」になりつつあるが、今後も 常態となるかどうかは定かでない。なぜなら、現在Xさん は二人の子どもが生活する場所と厦門とを行ったり来たり しているからである。 しかし、Xさんが生活してきた場所・人は、今も彼女の 前から消えてなくなってはいない。むしろ、今もなお点と 点 の つ な が り を 維 持 し 続 け て い る。 こ こ で 言 う「点」 と は、Xさんと親密に関わる人であり、その大切な人の所在 地である。つまり、Xさんはつながりの複合性が創り出す 「ホ ー ム」 の 中 に 生 き て い る の で あ る。 そ の つ な が り は、 変わらない部分を持ち続けながらも、周囲を取り巻く政治 的・ 経 済 的・ 社 会 的・ 文 化 的 な さ ま ざ ま な フ ァ ク タ ー に よって、あるいはホームを語る対象によって新たに意味づ けられ続ける流動的な性質をもっている。 このようなつながりが創り出す「ホーム」は、ジェイム ズ・ ク リ フ ォ ー ド ( James Clifford ) の「ル ー ツ」 の 概 念 を 彷 彿 さ せ る。 「ル ー ツ」 は、 起 源 を 表 す roots と 経 路 を 表 す routes の 両 方 の 意 味 で 使 わ れ、 ク リ フ ォ ー ド は こ の 概念を用いてローカルな文化や伝統と見なされてきたもの が、人の転地により構築されてきたことを説明しようとし た。 こ れ は「旅 の 翻 訳」 と も 言 い 換 え ら れ る (ク リ フ ォ ー ド 二 〇 〇 二) 。 X さ ん に と っ て の「ホ ー ム」 は、 roots (起 源) よ り も routes (経 路) の 方 が 先 行 す る の で は な い だ ろ うか。つまり、つながりの複合性が創り出す「ホーム」と は、 routes (経 路) そ の も の で あ る。 さ ら に、 X さ ん に と っ て の roots (起 源) は 一 つ で は な く、 複 数 存 在 す る と 解 釈 で き る。 す な わ ち、 国 家 レ ベ ル で は 中 国 と ミ ャ ン マー、ならびに地方のレベルでは、父方祖先の出身地の安
渓、出生地のオティエゴン、初めて中国を知ったヤンゴン の中華学校、帰国後最も長い間生活をした撫州、現在の生 活の基盤である厦門である。Xさんはこれらすべての過去 と 現 在 の roots (起 源) を 抱 え な が ら 未 来 に 向 か っ て 進 ん でおり、過去・現在・未来とそこで生きる生活空間の総体 が「ホーム」として立ち現れていると考える。 ◉付記 本 稿 は、 国 立 民 族 学 博 物 館 共 同 研 究(若 手) 「帰 還 移 民 の 比 較 民 族 誌 的 研 究 ―― 帰 還・ 故 郷 を め ぐ る 概 念 と 生 活 世 界(二 〇一一 ~ 二〇一三、代表・奈倉京子) 」の成果の一部である。 ◉注 * 1 一 九 八 九 年 六 月 ま で の 国 名 は ビ ル マ で あ る が、 現 地 語 の 発 音 と 日 本 語 に お け る 言 葉 の 定 着 度 を 重 視 す る と い う 観 点 か ら、本稿では現在の国名のミャンマーに統一する。 * 2 西 川 長 夫 は グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン の 中 で 国 民 国 家 を 捉 え な お す 際 に 移 民 の 動 向 に 注 目 し て い る。 こ れ ま で の 移 民 研 究 は 国 益 の 側 か ら の 研 究 が 中 心 で 移 民 の 側 か ら の 観 点 が 弱 か っ た こ と を 指 摘 し、 故 郷 を 離 れ て 移 動 を 余 儀 な く さ れ た 人 々 の 経 験 の 中 に、 次 の 時 代 の 可 能 性 が 読 み 取 れ る と 展 望 を 述 べ て いる(西川 二〇〇一:三九三―三九六) 。 * 3 通 称 僑 聯。 帰 国 華 僑、 海 外 華 人 の 国 内 の 家 族 や 海 外 華 人 を 対 象 に、 日 常 生 活 に 必 要 な さ ま ざ ま な サ ー ビ ス を 提 供 し、 ま た 帰 国 華 僑 と 海 外 華 人 の 架 け 橋 の 役 割 を 担 う、 半 官 半 民 の 仲 介 的 組 織 で あ る。 僑 聯 は 中 央 政 府、 省、 市、 県、 鎮、 村 に そ れ ぞ れ 存 在 す る。 中 国 に は 帰 国 華 僑、 海 外 華 人 の 国 内 の 家 族 や 海 外 華 人 の た め に 政 策 決 定 を し た り、 サ ー ビ ス を 提 供 し たりする組織が僑聯を入れて五つある(詳細は、奈倉 二〇一 一: 二 二 ― 二 四 を 参 照) 。 僑 聯 以 外 の 組 織 は 完 全 に 政 府 機 関 に 属 す る た め、 海 外 華 人 に 向 け た 政 治 的 活 動 を し に く い が、 僑 聯 は 政 治 的 権 力 が な く、 表 に 出 や す い た め 政 治 的 宣 伝 が し や す い と い う 特 徴 が あ る。 ま た、 僑 聯 の 特 徴 は、 帰 国 華 僑、 海 外 華 人 の 国 内 の 家 族 や 海 外 華 人 に 対 し て さ ま ざ ま な 相 談 に 柔 軟 に 対 応 し、 手 助 け を し て い る と こ ろ に あ る。 帰 国 華 僑 か らは「娘家」 (妻の実家)として慕われている。 * 4 改 革・ 開 放 以 降、 広 東 や 福 建 と い っ た 華 僑 の 出 身 地 を 中 心 に 組 織 さ れ 始 め た。 帰 国 華 僑 聯 誼 会 は、 帰 国 華 僑 に よ る 自 発 的 な 民 間 の 組 織( 「社 会 団 体」 ) で あ る が、 中 国 で は 登 記 せ ず に 任 意 団 体 と し て 活 動 す る の は 違 法 で あ る。 活 動 を す る た めには「主管単位」 (行政機関ないし準行政機関といった「管 理 す る 資 格 が あ る と 認 め ら れ た」 組 織) を 通 じ て「民 政」 と いう行政部門に登記を申請しなければならない(李妍焱 二〇 一二:二三) 。 帰国華僑聯誼会の場合、 僑聯が主管単位となっ ている。 * 5 し か し、 家 族 ② の 成 員 と つ き 合 い が な い と い う わ け で は な い。 ア メ リ カ 在 住 の 伯 母 は、 「后 奶 奶」 の 子 だ が、 よ く 一 緒 に 遊 ん だ の で 仲 が 良 く、 し ば し ば 連 絡 を 取 っ て い る。 X さ ん の 息 子 が 北 京 の 大 学 院 在 学 中、 ア メ リ カ へ 留 学 し た 時 に は、彼に伯母と連絡を取るように言った。 * 6 二 〇 一 二 年 八 月 か ら 九 月 に か け て、 筆 者 は X さ ん の 二 回
目 の 親 戚 訪 問 に 同 行 し た。 こ の 時 訪 ね た X さ ん の 親 戚 は、 ヤ ン ゴ ン で は、 家 族 ① の〈3〉 の 妻 と〈4〉 、 家 族 ② の ①、 オ テ ィ エ ゴ ン で は、 家 族 ① の〈2〉 と そ の 息 子〈5〉 の 家 族、 家 族 ② の ② で あ っ た。 こ れ に 加 え て、 X さ ん の 夫 側 の 家 族 も 訪 ね、 タ ウ ン グ ー に 住 む 夫 の 母 親 と 妹 た ち 三 人(妹 は み な 独 身 で 一 緒 に 生 活 を し て い る) と、 ヤ ン ゴ ン に 住 む 妹 一 人 を 訪 問 し た。 こ の う ち ヤ ン ゴ ン に 住 む 人 た ち は、 X さ ん の 親 戚 も、 ま た 夫 の 妹 も、 み な ヤ ン ゴ ン 北 西 部 の 郊 外( Thamine 駅 の 近 く) に 住 ん で い た。 X さ ん は ヤ ン ゴ ン 滞 在 中、 義 理 の 妹 の家に泊まった。 ◉参考文献 足 立 綾(二 〇 一 二) 「ピ エ・ ノ ワ ー ル を 名 乗 る と い う こ と ―― 過 去 の 共 有 を 求 め て」 石 川 真 作・ 渋 谷 努・ 山 本 須 美 子 編『周 縁 か ら 照 射 す る E U 社 会 ―― 移 民・ マ イ ノ リ テ ィ と シ テ ィ ズ ンシップの人類学』世界思想社、六三―八六頁。 蘭 信 三(二 〇 〇 六) 「序 言『中 国 残 留 孤 児』 の 問 い か け」 『ア ジ ア遊学』八五、勉誠出版、四―一一頁。 飯 島 真 里 子・ 大 野 俊(二 〇 一 〇) 「フ ィ リ ピ ン 日 系『帰 還』 移 民 の 生 活・ 市 民 権・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ―― 質 問 票 に よ る 全 国 実 態 調 査 結 果(概 要) を 中 心 に」 『九 州 大 学 ア ジ ア 総 合 政 策 センター紀要』四号、三五―五四頁。 市 川 哲(二 〇 〇 九) 「新 た な 移 民 母 村 の 誕 生 ―― パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア 華 人 の ト ラ ン ス ナ シ ョ ナ ル な 社 会 空 間」 『国 立 民 族 博 物館研究報告』三三巻四号、五五一―五九八頁。 大 川 真 由 子(二 〇 一 〇) 『帰 還 移 民 の 人 類 学 ―― ア フ リ カ 系 オ マーン人のエスニック・アイデンティティ』明石書店。 ク リ フ ォ ー ド、 ジ ェ イ ム ズ(二 〇 〇 二) 『ル ー ツ ―― 二 〇 世 紀 後期の旅と翻訳』毛利嘉孝他訳、月曜社。 奈 倉 京 子(二 〇 一 一) 『中 国 系 移 民 の 故 郷 認 識 ―― 帰 還 体 験 を フ ィ ー ル ド ワ ー ク(京 都 文 教 大 学 文 化 人 類 学 科 ブ ッ ク レ ッ ト 五) 』風響社。 奈 倉 京 子(二 〇 一 二) 『帰 国 華 僑 ―― 華 南 移 民 の 帰 還 体 験 と 文 化的適応』風響社。 西 川 長 夫(二 〇 〇 一) 『[増 補] 国 境 の 越 え 方 ―― 国 民 国 家 論 序 説』平凡社。 範 宏 偉・ 金 向 東(二 〇 〇 九) 「中 国 ビ ル マ 関 係 の 分 裂 と ビ ル マ の 華 僑 社 会 ―― 同 化 時 代 の 開 始」 『社 会 シ ス テ ム 研 究』 一 九 号、一二九―一四七頁。 李 妍 焱(二 〇 一 二) 『中 国 の 市 民 社 会 ―― 動 き 出 す 草 の 根 N G O』岩波書店。 Gmelch, G.( 1980 ) Return Migration. Annual Review of Anthropology 9: 135-159. Long, L. D. and E. Oxfeld ( eds. )( 2004 ) Coming Home? Refugees, Mig rants, and Those Who Stayed Behin d. Ph iladel phia:
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Tsuda, T. ( ed. )( 2009 ) Diasporic Homecomings: Ethnic Return Migration in Comparative Perspective. Stanford: Stanford University Press. 厦 門 市 印 尼 帰 僑 聯 誼 会 編『印 聯 会 訊』 (二 〇 〇 四 ― 二 〇 一 三 年) 、内部発行。 ◉ 著者紹介 ◉ ①氏名…… 奈倉京子 (なぐら・きょうこ) 。 ②所属・職名…… 静岡県立大学国際関係学部・専任講師。 ③生年・出身地…… 一九七七年・静岡県。 ④専門分野・地域…… 文化人類学、中国。 ⑤ 学 歴 …… 東 京 女 子 大 学 現 代 文 化 学 部、 東 京 女 子 大 学 現 代 文 化 研 究 科 修 士 課 程( 現 代 文 化 基 礎 論 専 攻 )、 中 国 中 山 大 学 人 文 学 院(現社会学与人類学学院) 博士課程 (文化人類学専攻) 。 ⑥ 職 歴 …… 京 都 文 教 大 学 人 間 学 部 文 化 人 類 学 科 教 務 補 佐( 三 二 歳 、任 期 三 年 )、 静 岡 県 立 大 学 国 際 関 係 学 部 専 任 講 師( 三 四 歳 )。 ⑦ 現 地 滞 在 経 験 …… 中 国( 雲 南 民 族 学 院〈 現 雲 南 民 族 大 学 〉民 族 学 院・ 中 国 語 の 習 得 お よ び 修 士 論 文 作 成 の た め の 現 地 調 査・ 資 料収集、 二五歳、 一年間、 中山大学人文学院 ・ 留学生、 二七歳、 四年間、厦門大学歴史学院 ・ 博士研究員、三〇歳、二年間) 。 ⑧ 研 究 手 法 … … 中 国 、 と り わ け 香 港 、 台 湾 、 東 南 ア ジ ア 地 域 と の 関 係 が 密 接 な 所 で の 長 期 に わ た る 生 活 経 験 を 通 し て 、 日 常 生 活 の レ ベ ル か ら 人 々 の 営 み や 社 会 の 特 徴 に つ い て 客 観 的 に 理 解 す る と い う 姿 勢 を 身 に つ け る こ と が で き た 。 そ し て 地 図 を 国 境 線 か ら 見 る の で は な く 、 地 域 か ら 見 る 面 白 さ を 体 感 し た 。 この経験が中国系移民を捉えるための視座を与えてくれた。 ⑨所属学会…… 日本文化人類学会、日本華僑華人学会。 ⑩研究上の画期…… 二〇〇八年の北京オリンピック、 中国メディ ア は 国 内 の 盛 り 上 が り だ け で な く、 海 外 の 中 国 系 移 民 の 中 国 に 対 す る 関 心 も 報 道 し、 さ か ん に「 中 華 民 族」 を 謳 っ て い た の を 見 て、 グ ロ ー バ ル 時 代 に お け る「 中 華 圏」 の 意 味 に つ い て 考 えさせられた。 ⑪推薦図書…… ユ エ ン フ ォ ン ・ ウ ー ン 『 生 グラスウィドウ 寡 婦 ― ― 広 東 か ら カ ナ ダ へ 、 家 族 の 絆 を 求 め て 』( 池 田 年 穂 訳 、 吉 原 和 男 監 修 、 風 響 社 、 二 〇 〇 三 年 )。 小 説 体 の エ ス ノ グ ラ フ ィ で あ る が 、 筆 者 の 豊 富 な フ ィ ー ルドワークに基づいており、 専門書としても一読の価値がある。