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和泉式部日記研究の諸問題とその整理 (一) : 附 和泉式部日記歌と家集の関係一考

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-37-したが' 時代の控勲川士7議」.剥丁周慧産山和讃Lbt上上

和泉式部日記研究の諸問題点とその整理

附和泉式部日記歌と家集の関係一考

昭和の初期よ-現在迄'和泉式部日記の研究は'これと併行し て'和泉式部伝記の研究及び和泉式部歌集の研究という三方面よ-進められてき'其等の注釈書'研究書'雑誌掲載論文の数は'大小 とりまぜると'蒐大な数にのぼっている.例えば'大橋清秀氏の 「和泉式部日記の研究」 (昭和三十六年十一月初音書房刊)附篇に 収録した「和泉式部日記研究文献目録」には昭和三十六年十月迄の 研究文献が網羅的に掲載されているが'その収録分のみで既に四百 を上越す論文や註釈書を数えることができる。こういった多-の註 釈書や論文名をみた時'初めて和泉式部日記の研究をやりだそうと する者は、一体この中のどれから読んでみたらよいのかこの中のど れが主要な論文なのか'見当がつかず戸惑うに違いない。しかし' その様に多い文献を通して'研究の中心課題は'和泉式部日記の作 者は誰であるかという点をめぐってにあったと言う事ができるだろ ぅ。この論争は'もともと和泉式部日記が'和泉式部の自作である ことを立証させる様な積極的外部徴証'内部徴証を有していないの で'その結着をつけるためには'特に広い範囲にわたって'大小の 諸問題を詳細に検討した上で'綜合判断を下すより他なかった。だ から多-の研究者達が'作者考をめぐって百兄を提出したわけで' 近年出版の大橋清秀氏の「和泉式部日記の研究」やそれにつゞいて 出された吉田幸一氏の「和泉式部研究」などの六百貢から八百貢に 及ぶ大著も'研究の史的展開上から位置づけると'それ迄出されて いた諸問題点とそれに関する論考を'集大成してみたものと言うこ とができよう。これらの著書が世に出る迄には'中間期にでた川瀬 一馬氏の論文なども'その結論は否定せられたけれど作者考研究へ の関心を惹起する契機とな-えた点で価値は大きくまた尾崎知光 氏の「和泉式部日記考註」もそれ迄の註釈書の域を出て研究を進め た点で大きい功献をなしている。大橋氏の「和泉式部日記研究」の 特徴は'これまでの作者考をめぐっての和泉式部日記研究者達-そ れが自作説論者であれ'他作説論者であれー彼等がもつと早くから 再考してみるべきであ-ながら'しかも'清水文雄氏が昭和七年十

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一月の岩波講座「文学」の中で「和泉式部集の歌と和泉式部日記」 と超した論文中において始めてと-あげて以来その再吟味もなきれ ずに来てしまっていた和泉式部家集と日記の相関々係'という点に 着眼されたところに、この研究書のもつ第一の意義がある。その約 三年後に出された吉田幸一氏の「和泉式部研究〓 (古典文庫刊) は'第六章の「日次的構成から見た素材配置の方法と作品形成過程 の究明」で'旧歴とその月齢推算を試み'これと'従来'使用され ていた小右記'御堂関日記'日本紀略'本朝世紀等の古記録に記載 されたる長保五年当時の晴雨の気象状況の併用をもって'月や日時 の分明でなかった日記内容を日次的に再構成しようと試みられた研 究方法と'第九章三の 「源氏物語に投影した和泉式部日記」 の中 で'和泉式部日記と源氏物語の成立上の先後関係を検討するに'大 橋氏が'「和泉の歌が同時代の文学である源氏物語や枕草子の影響 を受けていると考えられる」  ︻論究日本文学第九号昭三三・日 「 和泉式部の歌と同時代の文学」︼ とされたのとは逆に'紫式部日 記中にみる和泉式部評は'彼女が和泉式部日記を読んでいた上で行 った評であるという考え ︻岡一男「源氏物語の基礎的研究」3-9) や'葵巻の源氏と紫上が同車しての賀茂祭見物のモデルとして'帥 宮と式部と切同車見物事件が用いられたとの推定 ︻島津久基「源 氏物語講話」巻六︼ や'夕顔巻で源氏が夕顔を某院へ同車した条 と、帥宮が式部を南院へ伴ってゆ-条の'事実及び表現の類似性は' 和泉式部日記が紫女によって利用せられたのだとする推測.︻島津 氏前掲書巻三︼ や'宇治十帖における浮舟対句宮又は薫のモデル に'和泉式部対帥宮 (島津氏前掲書巻三︼'或いは和泉式部対為 尊・敦道二親王の影像を匂宵一人に写出させたとする考え ︻岡一 男前掲書・「和泉式部日記と宇治十帖」日本古典鑑賞月報第5号昭 三二・9) 及び胡蝶巻での'源氏が橘をまさぐりつ∼'夕顔・玉 宴母子の面影を偲ぶ歌は'和泉式部が、帥宮よ-賜はせた花橘につ けて、御兄弟である為尊・敦道南親王を偲んで詠んだ歌に相類似し ていると云う考え ︻島津氏前掲書巻三︼ を積極的に支持されて いる点などは'特にこの研究書のユニークな意見である。それから 同書の補記 ︻p七九二︼ において'神作光一氏による実隆公記 の調査によって'現存伝写本中の最善本である所の'伝三条西芙隆 筆三条西本和泉式部日記は'その伝の通-'三条西実隆によって' 一四八八年(長亨二年)二月十四日'芙隆三十四才の時に書写し終 ったことが判明されたと云う事が記るされているのは'実に朗報で あ っ た 。 こうした主要著書によって和泉式部研究も一落着をなしてきたの を機に本稿では'今迄の日記作者考、及びそれに関聯性のある和泉 式部歌集中の日記歌との重複歌と日記との関係等'色々と取-上げ られてきた諸問題点を'一度全部摘出整理し'それらが如何に考え られ解決されているかを検討しっつ'今後の研究問題の何辺にある かを考えてゆきたいと思う。 まず叙述方法として'問題の部と解答の部とに分けて整理し'最 初は問題事項のみを要約列挙してどのような問題が今迄論考されて きたかその全貌がわかるよう計-、次に解答の部にうつり各項の問

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-39 -山剛非重巨仙 ヽ 石 T ・ m J -U ・ l ・ V . 一   ヽ J V ⊥ l ー・ Ut I 題点について逐1吟味し七ゆくことにする. 問題の部は日記の段数順に問題事項を挙げ'ま雪最初にその問 題を提起したところの研究著名及びその掲載論文または書名を記る Ltその下に'当該問題の在所段数を尾崎知光著「和泉式部日記考 註」の段数区分に従って'示めした。 問題の部 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 二 「を-すぎてさてもこそやめきみだれてこよひあやめのねを やかけまし」 の歌は五月五日の詠であるに異論はないが'この「きみだれて」を 五丹雨が降って」に同時に「心が乱れて」の意がか-されていると する通説に従うと'史実(本朝世紀) ではこの日(長保五年五月五 冒)は晴天となってお-'「きみだれて」の雨天の描写とは一致し ないこと。 尾崎知光「和泉式部日記考注追考」p210-214'  第十四段 二'右の「きみだれて」の歌の後、少くとも十日位は経過してい ると文中の語句よ-推量出来る日数経過の後に'又もや「五月五日 にな-ぬ。雨なはやまず」という日附の逆行現象があること。 岡田希雄(岩波講座日本文学「和泉式部」昭六・7)・尾崎知 光 前 掲 書 」 同 貢 。                               第 十 九 段 三㌧師宮に連れ出されて同車して院に着いた夜は'「月もいと明 ければ」とか'後文で「宮にて月の明か∼-しに」と其の夜の事を 回想しているところからみて'連れ出された夜は月のよほど明るい 晩'即ち満月前後の夜と一応日時を推定するが'この夜から二㌧三 日後のやは-「月のいみじうあかき夜」に宮が式部の許にでかけた ところ'来客の串を見てそのま∼引き返してしまった翌日「まつ山 になみたかし」の歌をつかわしたが'その日は折から「雨ふるほど な-」とあり'丁度本朝世紀六月二十日「天陰微雨屡降」の記事と 合致するところから'この日を六月二十日と決定する。と'この六 月二十日から月末迄十日間に'「ひさし-」 「まどほ」 「ひさし く」が三つも重ねられ'「まどほ」という辺で六月末の記事は終る べきであるのに'その後に続いて'「女はまだはしに月ながめてゐ たるほどに人のい-くれば」云々と'月夜の様子から月齢を考えて も「到底六月下旬のことではあ-得ない」記事がありへ又その後も 宮の「ひさしう御文もなし」とあ-'尚そのあとに小舎人童が訪ね て来る記事があって'次にやっと「か-いふほどに七月になりぬ」 とある。こうような日次の不合理性をどう解すべきか。 鈴木一雄「和泉式部日記の一考察」言語と文芸昭三七・7 第二七∼三四段 ヽ ヽ ヽ 四'「夕ぐれにはかに御車をひきいれてお-させ給へば、まだみ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ えたてまつらねぽいとはづかしう恩へど」 (「考注」段章によると 第三十七段)とあるが'この日以前に式部は既に宮に夜数回会って いるのに、何故このような叙述がなされたか、 尾崎知光「和泉式部日記考注」 第三七段

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ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 五'「九月廿日あま-ばか-のあ-あげの月に御目さまして」 (三条西本)の傍点の月日は'寛元本・応永本では「九月十余日」 となっている。どちらが本来的であろうか。「夜は明けながら'尚 月は空に残っているのを有明の月といふ。これは二十日前後でなけ ればみられない。諸本に﹃九月十日余-﹄とあるのはこの意味で非 なることを完訳は詳論しているが、三条西家本によれば問題なく自 然である」 ︻尾崎知光「和泉日記考注」p9 3・及び鈴木一雄「注 釈」中でも同意見︼ という風に考えられてきていたわけである が、この通説に対して'前記日記々述に続いて「-とのみしてあ かさんよりはとて、妻戸をおしあけたれば'大空に西へかたぶきた る月のかげ遠-すみわたりてみゆるに--・我ならぬ人も鳶ぞみんな が月のありあけの月にしかじあはれはたゞいまこのかどをうちたゝ かする人あらん」の条で西に傾いた月と書かれているが'二十日を 過ぎた月では'この時刻に「まだ西に傾いているとはいいがたい」 と反論されるが'これを如何に考えるか。 森田兼吉「和泉式部日記の帥宮の歌について」 (平安文学研究 第二十八輯'昭三七・6).「和泉式部日記三系統本の性格序 説」 (国学院雑誌昭三六・6)'吉田幸一「和泉式部研究一」 ( P 3 -3 -3 -1 )                               第 四 三 段 六㌧和泉式部歌集の中では独立歌である8-5番歌(岩波本清水文雄 校訂和泉式部歌集通し番号) 「消えぬべき露の我身はもののみぞあ ゆふくさはに悲しかりける」の歌は日記中では、「草の色さへみし にもあらずなりゆけばしぐれんほどのひさしもまだきにおぼゆる' 風に心ぐるしげにうちなびきたるには'ただいまもきえぬべき露の わが身ぞあやふく草葉につけてかなしきまゝに」と'地の文とな ってしまっている矛盾を如何考えるか。 ■ 清水文雄「和泉式部集の歌と和泉式部日記」 (岩波講座文学昭 七 ・ 日 )                                       第 四 五 段 七 ㌧   「 か -い ふ ほ ど に 十 月 に も な -ぬ ' 十 月 十 日 ほ ど に 」   か ら 「十一月ついたちころ」に及ぶ迄の二十日間内の記事の中には'日 次的な記事が二十四条もつめ込まれ、贈答歌も'全日記歌数の四割 に近い五七首にのぼ-'明らかに日程過剰であるが'この点を如何 に考えるか。 鈴木1雄﹃十月十日ほど﹄から﹃十一月ついたちごろ﹄までの 間(「未定稿」 第八号昭三六・3)へ 吉田幸一「和泉式部研 究 」   ( p 3 -2 )                         第 四 九 段 -第 七 四 段 八'「みるや君さようちふけて山の端にくまな-澄める秋の夜の 月」の歌は'前文に「か-いふほどに十月にもな-ぬ」とあって' 十月以後の歌だが'十月以後を秋の夜の月というのは疑問である。 小室・田中「和泉式部日記詳解」・尾崎知光「和泉式部日記考 注 」                                       第 五 七 段 九㌧ 「その夜の時雨常よ-も木々の木の葉残-ありげもなく聞ゆ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ る に ' 目 を き ま し て ﹃ 風 の 前 な る ﹄ と ひ と -ご ち て 」 と あ る 「 風 の

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-41 -.・ 0ノ 前なる」という独白語句は'和泉式部続集中の5 3番歌「八日おちつ 1 もりたる木の葉を風のさそふもうらやましくて。日を経つゝ我何事 ′ h ) を思はまし風の前なる木の葉な-せば」及び0 3番歌「宵のおもひ。 1 いとへども消えぬ身ぞ憂きうらやまし風の前なる木の葉なりせば」 9 ヽ ヽ と二首ある和泉式部の自作歌のうちで'5 3番歌は、詞書が「八日」 1 となってはいるが'前後の配列からみて「十月二八日」であること は間違いなくその点、日記中で「風の前なる」と口吟んだ頃も十 0ノ 月末頃であるから'この「風の前なる」という文句は'彼女が5 3番 = U の自作歌を即興的に口吟んだとは考えられはせぬか。又'堤中納言 物語中の「風の前なる」は'式部のこの歌を引き歌としているので はないか。更に、この事からして'和泉式部日記は'「式部時代を 余り下らない頃の第三者の手によって記るきれた」ので粛なかろう )   C め ヽ 清水文雄「和泉式部集の歌と和泉式部日記」 (文学第十八号昭 七・日)へ 田中栄三郎 「和泉式部日記の和歌に関する考察」 (国語と国文学昭十・3)田中・小室「和泉式部記日記詳解」 ( 白 帝 出 版 三 五 ・ 日 )                           第 六 二 段 十'和泉式部歌集中では'帥宵の歌としてでている425番歌「なほ ざりのあらましごとに夜もすがらおつる涙は雨とこそふれ」は'日 I 記中では'上旬が帥宵'下旬が式部と'二人によって唱和された連 歌となっている事実をどう考えるか。 清水文雄「和泉式部集の歌と和泉式部日記」 (前出)第七八段 十一、長保五年十二月十八日に帥宵が式部を南院に迎え入れる前 にある「梅ははや咲きにけ-とてをればらる花とぞ雪のふればみえ ヽ ヽ ヽ ける」という式部の詠歌が'和泉式部歌集続集には'「正月朔'雪 ヽ ヽ ヽ のうちふるをみて」と正月朔の日附をもって載っているのをどう考 えるか。 清水文雄「和泉式部集の歌と和泉式部日記」 (前出)第八一段 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 十 二 ' 「 と し か へ -て 正 月 一 目 ' 院 の は い ら い に ' 殿 ば ら か ず を つ-して」云々の文で'寛弘元年当時'「院の拝礼」は'御堂関白 記では正月三日の条に「参冷泉院'内府諸卿等皆来、有拝礼」とあ る記事よ-'日記の「一日」は三日の誤-ではないか。 岡田希雄 「和泉式部」 岩波講座日本文学へ 「和泉式部日記詳 解」、「和泉式部日記新註」'「和泉式部日記考注」'伊藤博「未 定稿」昭三.四・4宮本芙万子「和泉式部日記著作についての一 試論」 (「平安文学研究第二六輯昭三三・6)    第八八段 十三'「うへの御かたの女房いでゐて物みるに'まづそれをば鬼 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ で'、﹃この人をみん﹄とあなをあけさわぐぞいとさまあしきや」の 「あなをあけ」を堤中納言や狭衣など'平安後期の作品にあるよう に'「明り障子に穴をあけ」て覗き見する意と解されるが'そうな ると和泉式部日記成立年代が下るのではなかろうか' 伊藤博「和泉式部日記自作説への一疑問」 (未定稿第六号 昭 三 四 ・ 4 )                                     第 八 八 段

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. lr 十四㌧日記の最終は「かきなしなめ-と本に」という表現で終っ ヽ ヽ ヽ ているが'この手法は源氏物語以前の作品には決して見当らぬが' 平安後期作品である堤中納言物語中の「はなだの女子」 「愚はぬ方 にとま-する少将」の段に 「本にも侍る」 とか 「本にも ﹃本のま ま﹄と見ゆ」と'ここで日記と共通せる表現法をみるところから' 日記の成立年時を平安後期と見なしうるのではなかろうか。この意 見に対してどう考えるか。 伊藤博前出論未定 稿第六号昭三四・4 第九三段 十五㌧超第考。即ち'古写本の起算では'「和泉式部日記」はま た一方で「和泉式部物語」とも書かれてさてお-'日記及び物語と の二様の名称を冠せられているが'何故このように二様に名付けら れたか'起源や由来を考えると共に'和泉式部日記自体の内容や性 格の吟味をした時'どちらの名称で呼ぶべきか。それを決するに当 っての'日記文学の本質の考究。 池田亀鑑「日記紀行文学の本質」 (国語と国文学 昭二・4)I 「自照文学の様式」 (国文教育 昭三・5)、「異本和泉式部」 (文学第六号 昭六・日) 「日本文学書目解説平安朝下 昭 七・5)'「日記文学と紀行文学」 (改造社日本文学講座第五 巻随筆日記篇昭九)'今井卓繭「平安朝日記の研究啓文社」 昭 十・10) 「平安時代日記文学の研究」 (明治書院昭三二・10) 十六'和泉式部日記は主人公を第三人称で以て描写している事' この事実は'他の他作物語と同様に和泉式部日記が第三者の手によ って書かれたことに拠るのではないか。 今井卓酪「平安朝日記の研究」(啓文社昭十・10)'「平安時代 日記文学の研究」 (明治書院昭三二・1 0)0 十七'寛元本系(It飛鳥井雅章筆本 2'宝玲本 3㌧黒川家 旧蔵本 4㌧田中家旧蔵本)和泉式部日記奥書の信感性について。 奥書よじ和泉式部日記は俊成の作な-とした説(川瀬一馬「和泉 式部日記は藤原俊成の作」(青山女子短大紀要第二輯'昭二八・9) をどう考えるか。 十八'他作説にたつ今井卓爾氏のいわれるような印象批評上の諸 点は果して他作説のきめ手とな-うるか否か'この点に就いてどう 考えるか。 今井卓爾「平安朝日記の研究」 (啓文社昭十・10) 「平安時代 日記文学の研究」 (前出) 十九'和泉式部日記成立年時は何時か。 他作説 平安中期 - 後期 今井卓繭「平安朝日記の研究」啓文 社 昭 十 ・ 1 0 平安末期 - 鎌倉 川瀬一馬「和泉式部日記は藤原俊成 の 作 」 自作説 宮の亮去後 岡田希雄岩波講座日本文学「和泉式 部 」 昭 六 ・ 7

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- 43-寛弘四年十月二日以後 玉井幸助「和泉式部日記新註」 寛弘四年十月二日後幾年をへずして 鈴木1雄古典文庫「和泉式部日記」. 解説昭二三・6 寛弘四年十月二日後よ-服表中'五年秋頃 岡一男「源氏物語の基礎的研究」 寛弘五年十月二日頃にはほぼ完成 大橋清秀「和泉式部日記の研究」 寛弘五年十月二日よ-も数カ月以前に完成 吉田幸一「和泉式部研究〓 式部の老後往時を回想してか-宮田和一郎「更科・和泉式部・紫式 部日記講義」日本文学社昭十・2 二十㌧引き歌考及び難解語句・文章の解釈。 二十一、和泉式部日記歌と和泉式部歌集との重複歌の関係に就い ての考察 清水文雄「和泉式部集の歌と和泉式部日記」岩波講座「文学」 昭七・日 二十二㌧和泉式部日記及び和泉式部歌集の現在伝写本の系統的研 究 清水一雄「和泉式部集の形態に関する研究」国文学試論第一輯 昭八・9「和泉式部日記考」-文芸形体学的研究試論として1 国 文 学 試 論 第 三 輯 昭 十 ・ 1 2 二十三、和泉式部伝記及び伝説考 以上'第十四項迄は段別・段順にみる問題点をこまかい語句解釈 上の論点を除いて掲げ「日記」の研究及び本日記を教材とした時' 調査に便なるよう心がけ'次に第十五項から第二十三項迄は全体的 な問題点のみをと分けて列挙してみた。これに'更に、鈴木知太郎 氏が昭和二九年古典文庫「和泉式部日記」の解説中で附言されてい るように、未だ別項目空>lててまで論じでいる文献がないようであ る'執筆動機考を本項目に加えると、ほぼ現在迄の和泉式部日記の 研究問題点は'以上の項目中に於て包括され得ているかと考える。 解答の部 右の項目中'本稿では'日記本文にそって提起されてきた日記作 者考に関係する第一四項迄の問題と第二十一項の問題に対して、今 迄出されている意見の整理を私見と共に試みようと思う。 まず一、の「きみだれて云々」の歌の解釈は'通説通-「きみだ れて」に「五月雨が降って」と「心が乱れて」の意ありとすると' ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 「折-すぎてさてもこそやめきみだれてこよひあやめの根をやかけ ヽ ヽ まし」の傍点語句より五月五日の詠と推定されるが'史実上'とい っても長保五年五月の天候に就いての記録は'本朝世紀と日本紀略 以外ないのだが'五日に当るこの日は'「晴天」となっており史実 と一致しない事を、尾崎氏は「和泉式部日記考注」の中で始めて指 ● 摘された。これに対して'吉田氏は'三条西本と寛元本では「て」

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であるに対し'応永本は'「の」となっている事へ応永本は'吉田 氏が「和泉式部研究この'第三章「原典への復原と三系統本の祖 本'三」で述べ、又図示(p1 -6)されておられるように、現在の三 条西本及び寛元本系諸本が'それよ-分岐して生まれたと思える祖 本'これを氏はB本と呼んでおられるのだが'このB本が生まれた 時と同時に'応永本も、B本の祖本たるA本から分岐して生まれ た'つまり'応永本は三条西本や寛元本系の祖本と同時代に出来た ● 本であると云うところから'三条西本の「て」に'必ずしも絶対臥 な信を置かな-てもよい事'及び'「﹃きみだれ﹄ は古-から五月 の異名としても用いられていた」事'例えば、崎輪日記の「安和二 年閏五月条﹃五月雨の甘よ日のほど﹄とあるのは五月甘余日のこと 、 ヽ ヽ ヽ ヽ で五月雨が降っている甘余日の意味ではない」ことから'この場合 の「きみだれて今宵」も晴天であったという史実に着目して「原歌 は﹃きみたれの﹄であったのが'他方の三条西本'寛元本系の共通 祖本においては﹃の﹄が﹃て﹄に改変されたのである」 (P3-2)と 断定され'鈴木一雄氏「和泉式部日記注釈六」 ︻解釈と鑑賞昭三 五・-︼ や遠藤嘉基氏「和泉式部日記」 ︻日本古典文学大系) の補注三二で述べておられるように三条西本々文をあくまで尊重し て考えてみるのではな-'応永本々文を採用した上に立って'応永 本のように第1句が仮定をあらわす 「折すぎば」 を採用し'「根杏 やひかまし」は根を引いて袖にかける-訪ねるの意とし「まし」を 意志表示に解した上で「時期を逸したならばせっか-の日頃の精進 が役に立たな-なってしまうから'五月五日の今宵決行しよう」 「という風に思ってお-ます。すぐに帰る予定ですから'帰-まし てから」 (P3- 7・3-8) と解されている。氏のこの御説に立った場合 は'何よりも史実と.の不一致が解消すること'また不1敦より'作 者の虚構か日次の記慣らがいかとの疑点が解決するわけだが'それ には'日記中に8ヶ所ほど使用されている「まし」の用法をも考え 「まし」 が1体当時'意志表示としてどれだけ使われているか' 又'「五月雨」が五月の異名としてどれだけ用いられているか'及 ● び「の」の方をとったとき1首全体の口調が他の和泉式部歌の表現 法からみても適当と感じられるものか'などについて詳察してみる ことも必要かと思われる。 二'右の歌のあと少な-とも十日経過後に、日記本文には'又も や「五月五日にな-ぬ'雨なはやまず」という文章が入って-る。 ヽ ヽ しかもこの五日も'本朝世紀の記録では天晴である。そうして応永 本 々 文 に よ る と ' こ の 「 五 月 五 日 」 な る 日 附 は 「 五 月 六 日 」 に な -ぬとかかれている所から'六日というのは、五月中の降雨日'十' 十六'十八'十九'二十㌧甘一㌧甘四㌧甘八日以上の中の十八日の ヽ ヽ 誤写と見なしてみたら'日記々事と天候とも大体合うからよかろう と考えられた。この尾崎氏の思考過程を更らに受けついで五月五日 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ の「ひるつかた川の水まき-た-とて人々みる」の記事を'日本紀 略(扶桑紀略にも同様の記事がある) の記事と対照して「五日」は 十八日でな-「十九日成申。天陰大雨降'休也 ○廿日己酉。天陰 雨降,今日可レ被レ修二仁王会︼也.而牟軒かかが訂肝cS (以下文 省略)」の条に相当Lt十九日が「十九l亀l五」と誤写されたと

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-45-0 判断され'また応永本「六日」の方は「伝承書写者が前に五月五日 の﹃おぼかたに﹄の歌があるから'ここでも五月五日では重複する とでも考へて≡ハ﹄に改めた」のだろうと述べていられる。(吉田 幸一「和泉式部研究こ第六章p3-4)。日記二十段(尾崎知光「和 泉式部日記考注」段章に従う)を'長保五年五月十九日の事とする には'誰れも異論のないところであろう。 第四項の問題は'始めて'尾崎知光氏が「和泉式部日記考注」三 七段の語釈中で問題として取-上げられたもので'三条西本では 「か-て二日ばかりあ-て夕ぐれににはかに御車をひきいれてお-ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ           ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ させ給へばまだみえたてまつらねば'いとはづかしう恩へど」 (≡ 七段)とかかれた後'再び五八段でも「女帝のさまにてやをらおは ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ しましぬ。昼などはまだ御覧ぜねば恥かしけれど'さまあしうはじか -るべきにもあらず」と書かれているが'応永本系統及び群書類従 本では'三七段は「昼はまだみえまゐらせねば」と「昼」の字が加 わって五八段と相似た文章表現になっている。あとの五八段で'式 部は昼間始めて宵に自分の顔をみせたことになっているから「ここ ではまだ昼間はお目にかかっていない筈である。その意味からも' ﹃昼は﹄の有る本文は」は採択できかねる。「然し既に式部は夜に は数回宵と逢っているから'一体ここは何について」いとはづかし う 思 ヘ ビ と 「 云 っ た も の か ' そ の 点 が 問 題 と な -' よ -分 ら ぬ 。 」 が「今仮-に本文を尊重して'夕暮のこと∼し、﹃このやうな時に はまだみえたてまつらねば﹄と解し」ておこうと述べられている。 これについての私見は'まず'この三七段に至る間の文章でどんな 時刻に帥宮が式部を訪問してきているかを調べてみると'七回あ わ ら ざ -' 一 ㌧   「 西 の つ ま ど に 円 座 さ し 出 で て い れ た て ま つ 」 -、 白 分 も   「 心 づ か い せ ら れ て も の な ど き こ ゆ る ほ ど に 月 さ し い で ぬ 。 」 (曇語臥野早による) 二'「宵れいのしのぴて消しまいた-' 女さしもやはとおもふうちに日ごろのおこなひに困じてうちまどろ み た る ほ ど に ' か ど を た ゝ ぐ に き ゝ つ -る 人 も な し 」     ︻ 一 五 段 ︼ 三 ㌧   「 か ら う じ て お は し ま し て -﹃ か -ま ゐ -く る こ と ぴ ん あ し と 思 ふ 人 々 あ ま た あ る よ う に き け ば -・ -お ぼ か た も つ ゝ ま し き う ち にいとゞ.ほどへぬる﹄とまめやかに御物語し給ひて'﹃いざ給へ' こ よ ひ ば か り 人 も 見 ぬ と こ ろ あ -。 心 の ど か に も の な ど も き こ え ん ﹄ と て 車 を さ し よ せ た ま へ ば ' 我 に も あ ら で の -ぬ 。 人 も こ そ き け と 思 ふ / \ い け ば , い . た う 夜 ふ け に け れ ば し る 人 も な し 」   ︻ 二 二段︼  四㌧ 「﹃よさ-はかたふたが-御むかへにまゐらん﹄とあ -' ﹃あな見ぐるLt つねには﹄ と恩へどれいの車をさしよせて ﹃ほやほや﹄とあればヾよべの所にて物語し給ふ」  ︻二五段︼ 五㌧ 「またの夜おはしました-けるもこなたにはきかず」  ︻二七 段︼ 六'「女はまだはしに月ながめてゐたるほどに人のい-くれ ば--れいのたびごとにめなれてもあらぬ御姿」  (三〇段︼ 七'そしてこの三七段の'人の中傷で訪問が大へん久し-途絶えて しまったあと「夕ぐれにはかに御車をひき入れてお-させ給へば」 と い う こ と に な -' 以 上 ' 訪 問 時 刻 は ' い づ れ も ' 「 月 が き し の ぼ る頃Lt 「月が出てしまった頃」'「門を叩-に聞きつける者がいな い夜更け時」であった。だから'今回は'ずい分永い問来なかった

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上'しかもまだ「宵」にもならぬ夕ぐれ時だったから、はっと恥し ぐあわてた気持になることに不思議を感じなくてもよいのではなか ろうか。だから'氏が「考注」  (三七段︼ で'五八段と本段の 本文の似ているところよ-「同一系統の資料から出た」のではなか ろうか'或は'応永本々文のままで考えれば'まだ「この段では式 部は宮にお目にかゝつてゐない」のではなかったか'などと考えて おられるけれどもそう考えて見ずともよいのではないかと思われ る。吉田氏も'尾崎氏のこの意見や森田氏の 「和泉式部日記作者 致」  ︻言語と文芸'昭三六・9) 中の御説に対して、同じよう にお考えのようである。私のこの見解も'昭三四年度二月提出の早 稲田大学修士論文に掲載した意見であるが'今も変わってはいない ため'ここに再掲してお-。 ヽ ヽ ヽ ヽ さて'第六項の条'「九月廿日あま-ばかりのありあげの月」を どう考えるか。三条西本通-「廿日」とみるか'又同項掲載論文の 中で森田氏が始めて'「理科年表」昭和三六年の陰暦九月十六日か ら二四日迄(現行太陽暦十月二三日から十一月二日迄) の月の出入 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 及び南中時刻をみると'二一日から二四日-らいの間は'月南中時 は'五時1五分 - 七時四1分(東京時間)間で'京都との時差は 約一五分'式部日記当時でも一時間以内の誤差と出来るが'「手習 ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ の背景となった時刻に西に傾いた月としてしるされたとは思えな ヽ い。月の--運行は--南中時から一時間くらいの経過では西に憤 いたという感じは'さしておこらない。手習の文の状貴は南中時か ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ . ヽ ヽ ヽ らかな-後の頃と見なければならず」'また'帥宮の 「秋のよの有 明の月のいるまでにやすらひかねてかへ-にしかなという歌も、ま だ上-つつある'もしくは上ったばか-の月に寄せて」よんだ歌で な-'「西へ傾斜しながらもなは没するに間のある月であれば︰-︰ う つ て つ け 」 で あ る こ と か ら ' 結 局 ' 日 記 の 本 文 の 月 は 十 七 日   -十九日頃の月が想定され、「この日は九月廿日以前だ」 と言われ る。又'吉田氏も「和泉式部研究〓 (第六章p3-7)中で'森田氏 のこの考えを全面的に支持されてお-'他にも'有明は'倭訓某に 「十六夜以下は'夜は己に明くるに'月はなは人らである故に云ふ な-」とあるよ-'応永本系本文を底本として採用されているとこ ろの小室・田中氏「詳解」には'「九月十よ日ばか-の」を'「九 月十七'八日頃」の有明月と推定されている事例を補足しておられ るのである。 いま'式部時代の「有明け月」の使われ方をみてみるに'例を源 氏物語にとると'「秋の末つかた (私注・九月の末の頃) 四季にあ てつゝし給ふ御念仏の'この河づらは網代の波も(私注・氷魚と-は九月よ-始まる) この頃はいと耳かしがまし---姫君たちはい と心細-つれLU、まき-てながめ給ける頃'中将の君(薫) ひさし く参らぬかなと思ひ出で・.-︰あ-明の月のまだ夜ふか-さしいづる ほどにいてたちて」 (橋姫) とあ-'九月末つ方の夜ふけにさし出 た 月 ' 「 二 月 の 廿 日 あ ま -世 に し ら ぬ 心 地 こ そ す れ 有 明 の 月 のゆくへを空にまがへて」 (花宴)へ 「三月廿日あま-のほどにな ん都離れたまひける、二'三日かねて大殿に夜にかくれ--・明けぬ れば夜ふか-出給ふに有明の月いとあかし」 (須磨) 「八月廿日の

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- 47 ほ ど な り け り ' あ り 明 の 月 い と は な や か に さ し い て ∼ 」   ( 椎 本 ) 等 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ とあ-'廿日又は廿日あま-がやは-用法として1般的ではある. 又'「手習の背景となった時刻に'西へ傾いた月としてしるされた とは思えない」といわれるが'これは理科年表に基づ-科学的結論 で ' 少 し も 作 者 の 心 象 と 云 う も の を 考 慮 し て い な い 。 そ れ に ' 西 へ傾いた月というが'どれ程の状態で西へ傾いていたかは何ら記る されていない。ニュースの報道や観察記録のような正確な逐次的な 観察文ではなく'この手習書きを書き始めたのは'夜も明け離れ' すっか-明る-なってしまった時点で'昨夜の事を'せっかく自分 を訪ねてきたのに'家人が起きて戸を開けるのが遅れたぽっかりに 帰ってしまわれた帥宮に弁解の意図も含めて拝情あふれる文をすら すらと口調よ-スピード感をもって叙してゆく場合'そこに有明月 が中天よ-やや西に移行していたたけで'月の状態を正し-述べる 必要のない場合は'「大空に西へかたぶきたる月」と虚構を書-や も知れない。極端な場合を考えれば'帥宵が訪ねてきた場合もそう だったと同じように'妻戸を明けて月を眺めるという時期も'家人 が朝になって戸を開け放してから庭に降-たかもしれないLt或い は'端近に伏したままであって'一人で妻戸をあげて庭に降-立 ち ' 月 の 状 態 に 深 -目 を と め た こ と な ど な か っ た か も し れ な い 。 「月のかげ遠-すみわた-て見ゆる」というのにすぐ続いて「き-たる空のけしき」とあるのも'疑えば'き-たる空の景色の中で' 月影が遠くすみ渡っていると云うのも'正確ではないとそれも又難 ヽ ヽ ヽ ぜられそうになってしまう。以上'どうしても十よ日を採用せねば な ら な い こ と で も な い よ う に 感 じ も す る の で あ る が -0 第六項'「きえぬべき露の我身」の歌が、日記中では地の文とな っている現象に対しては'それは日記中でも元来は独立した歌であ ったのだと考えてよいのではなかろうか。この事は'すでに江戸期 の国学者である六人部是番も言っていることであって'管見に及ん だ静嘉堂本和泉式部家集の貼紙の一つに、彼は「今本-タレテ下ノ 句欠テ上旬文ノ詞ノ中二入タリ。其ヨシ日記二注セリ。」 と記して ある。更らに'清水文雄氏のこの論文が出た翌々年、同じ岩波講座 「文学」誌上に'玉井幸助氏が「和泉式部日記中の五首贈答歌」と いう論文をおかきにな-'全-完全に清水氏の疑点に解答を出され ている。即ち誤写理由として'「‖'日記の文章が和歌を地の文に 融合せしめるような技巧を至る所に用いている。日'日記の苗写本 が'和歌の別行から書き出してはいるが'末を本文に書きつゞけて ある事'臼'この歌の中のあやふ-さはにの語がや∼難解であった 為」であったからなのであった。これに更に私見を加えると'日記 中では「あやふく草」と誤記されている「あやふ草」については' ズ レ バ   ヲ   ノ   ニ   レ タ ル   ヲ       ズ レ バ   ヲ     ノ   ホ ト リ 和泉式部歌集中にも'「観レ身岸額離レ根草'論レ命 江 頭 ニ ル ガ レ 不 レ 繋 舟 」   ( 上 記 の ご と -よ ま れ た の だ と い う こ と は ' こ の 達 作 歌群の頭文字を拾うことで解かる) の文句を一字づつ歌の上旬の薦 一字目に据えてよんだ四十三首一連の歌群があるが'この題中の' 「岸の額に根を離れたる草」というのが'即ち「あやふ草」のこと である旨、図書寮本和泉式部家集の頭註に記るされている. 。「この 詩の句朗詠無常の所に出た-'作者つまびらかならず朗詠一本に羅

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乱の詩とす'今全唐詩羅乱の詩の所を考ふるにこの詩なし'この詩 はふる-人のいひなれし詩とおぼし。枕草子にあやふ草は岸のひた ひにおふらんもげにたのもしけなくあはれ也とあるも'まさしくこ 9詩を思ひてかゝれたるなるべし」と。大橋氏が'「和泉式部日記 研究」 (p1 -7) に玉井氏の「新註」に書かれているとして引用され ているのを見る一文は'実は王井氏の説が'この由豆流説に拠って いるの翌と考えられるのである。 第七'第八項'に就いては末考。次稿にゆづる。 第九項'「風の前なる」という独白語句の解釈に就いてo鈴木1 雄氏は'「解釈と鑑賞」  (昭三七・-) の中で'この語句に対 する従来の出典説を三つに分けられた.即ち'二引き歌あ-とす る説'二㌧仏典語が口ずさまれたとする説'三'和泉式部自作歌と 関係あ-とする説'である。この申'一㌧ の和泉式部以前の引き歌 は'現在のところでも尚未詳のままで到っている。吉田氏の「和泉 式 部 日 記 研 究 〓 第 九 章 二 ' 引 き 歌 か ら 見 た 成 立 年 時   ( p 5 -9 -5 -1 ︼ の中に於ても'従来の「詳解」'「新註」及び 「考注」 に出た出輿 以外の新発見は見出されていない。二'の仏典語も「新註」に掲載 せる'倶舎論「寿命猶如風前燈燭Lt法苑珠林「命和風中燈」'仏説 解憂経「念々即無常如風吹燈炎」の三例が「新註」以後の註釈書に も踏用きれるだけである。管見したところでは'この外にも図書寮 本和泉式部家集続集の1-4番歌「いとへども云々」 の頭注にも 「﹃宗 鏡録﹄云命和風真之残灯剰郡磨滅云々」という在来の諸註には収録 されていない新見の仏典語名がのっていることをも'この際附記し ておこう。こうして'今迄見出された出典例からみるに'この「風 の前なる」 の語句は'当時巷間に胎英していた仏典用語であった ズ レ バ ヲ ノ ニ レ タ ル ヲ ズ レ バ ヲ ように思われる。式部歌集中の「観レ身岸額離レ根草'論レ命 え ノ ほ と り ニ ル ガ レ 江 頭 不レ繋舟」の語とかまた'式部歌集以外にも伊勢大輔集 いはお や相模集などにも見える「巌の中に住まゝほし」という語などは' 「風の前なる」と共に当時の女性によ-用いられた語句であったの であろう。式部が自分の文章中に自作の歌を引き歌として用いるな .ど余程特殊な場合であろうLt尾崎氏の例え'第三者の創作になる としたって'作中人物の式部に'式部の白作歌の一端を口吟させ るなどと云う場面を描-のは'当時の発想法にはないと言われる ︻「考注」第六二段︼ 御説に私も全-同感である。 第十項'和泉式部歌集中で、帥宮詠歌としてでている独立歌4-5番 歌 「なほざ-のあらましごとによもすがら落つる涙は雨とこそふ れ」が日記では'上旬帥宮'下旬式部の連歌となっている現象を' 前述第六項の'歌集中では式部の独立歌となっている「消えぬべき 露の我身と云々」の歌が日記中で地の文となっている現象と併考し て'清水氏は「そこで以上--鼻も大胆なる臆測をあへてすれば現 存和泉式部日記は敦道親王と式部の恋の贈答歌を順次輯録された歌 集の如きものを資材として撰述されたもの」と結論されるに至-' それ以後'日記作者考に一大影響を与え'最初「和泉式部日記」は 式部の自作な-といっていた人達が他作説に転じた-'或は他作説 者にとっては'その説を支える一大論拠として使用されるに至った のである。この点非常に影響の大きかった結論であった。この「な ( 帥 宵 ) ど 4 T J h H ノ ら こ ÷ \ ′ 「 旧 ま ど 六 ま ナJ ( 式 部 )

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さ - 49 -こ こ ろ は そ き こ と の ナこ ま は▲ せ▲ つ▲ る▲ を▲ IV hU,l某 右 r 用 / 讃 = ズ イ ー カ I.∨ 1 . 三 ・ 日 ( 帥 宮 ) を き り の あ ら ま し こ と に 夜 も す が ら ( 式 部 ) との給はすれば おつる涙は 雨 と こ そ ふ れ   御 け し き 例 よ -も う か び た る 事 ど も の 給 は せ て 云 々」と云う日記中で帥宮と式部の二人によって唱和された連歌が' ( 帥 宮 歌 ) 歌集中では「なをざ-のあらましことによもすがらおつる涙は雨と こ そ ふ れ   と の た ま は す れ は こ こ ろ は そ き こ と の た ま は せ つ る を 云 々」と帥宮一人の一首和歌となってしまっているのをどう考えれば よいか。ここに考察に都合がよいように'日記文と歌集中の歌とを 対照してみよう。 日記文(三条西本底文'イ本は応永本) いとかなしくて物もきこえで ィ 、 な げ く ●       ●         ●       ●       ●       ●         ●       ●       ●       ●         ●       ●       ●       ●       ● つ -づ -と な -け し き を 御 覧 し て なをきりのあらましことに夜もすがら 0     0     0     0       0     0     0 との給はすれば おつるなみたは雨とこそふれ 御けしき例よりも引封盟叫る-事ども.63掛かかttJ明けぬれ 一 メ は お は し ま し ぬ ' な に の た の も し き こ と な ら ね ど ' つ れ づ ′   ▲ ▲ ▲ れのなぐさめに思ひたち仙 つるをさらにいかにせましなど ヽ ×   ×   ×   ・   ●     ●     ● おもひみだれて聞ゆ う つ ゝ に て お も へ は い は ん か た も な し 和泉式部歌集正集 (国歌大観四〇六二七'岩波文庫本四二五番歌) つ -ぐ と な -け し き を 御 覧 じ て なをざりのあらましことによもすがら おつる涙は雨とこそふれ 0     0       0     0       0       0     0     0 とのたまはすれば ▲ ▲ ▲ ×   ×   ×   ●     ●     ●     ● こころみだれて 四〇六二八・四二六 うつゝにて思へばいはんかたもなし

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この両文を対照比較してどのように感じられるであろうか。文の 右側に附した符合・。▲の箇所を日記と歌集と'対校して辿るに' まず岩波文庫本 ︻四二五︼ 番歌の詞書は'日記の・点部分と一文 句も還っていない。「とのたまはすれば」というのも日記中では帥 宵歌と式部歌とをつなぐために各詠の中間にあるのに対し'歌集の 方は「雨とこそふれ」 のあと'次の詞書の先頭に移動して'日記 「うかびたる事」に対して詞書は「こころばそきこと」となり'次 の歌集中の詞書の文句「のたまはせつるを」は日記文の( )でか × × × こんだ文章を除いたかたちと尤りP日記文の「おもひみだれて」が × × × 「こころ」と変わっているだけである。これを見て清水文雄氏は ( 山 本 註 ) 「 要 . g I 〇 六 一 八の詞書の初一部 ︻とのたま はすればという詞 書 の 文 句 の 。 と ︼   は ' 日 記 の 宮 J j 周 ∵ ほ . 6 ; _ 仲 順 沌 挟 ( 0 . = 篭 -'これ以下は大体これに相当する日記地文の圏点の個所︻御けし き例よ-もうかびたる事どもの給はせてという文のこと︼ を前後 相結合した如き形をなしている。この事実よ-して正集Aの歌は' 一見五五五の上・下一句を一人の詠とLtその間に入る「との給は すれは」を次の歌の詞書の初頭に持ってきたものと解してもよさそ うである」と言い'歌集中にみる岩波文庫本四二五番歌は'日記の 朗宮と式部の連歌を一首詠に改作してしまった日記歌の抜琴歌と考 え て も よ さ そ う だ と 解 や れ て い る の で あ る . と こ ろ が 後 に い う よ う な理由でそう断定されることを変えられるのであるが'私はそれも 後述するような理由から何ら抜琴歌だとする考えを変える必要はな い上に、氏の説以外にも次のよケな理由から'日記から最初は連歌 のかたちで歌集中に抜琴されていたのに'転写の際に書写者の誤っ た判断で一首の和歌に改められてしまったとの推定によ-抜琴歌だ と見なすのである。即ち'その理由の一つは'和泉式部集の現存諸 伝本の原本は'歌二行書きであったことである。水戸彰考館乙本が 巻頭に掲げる'枠を施した中に模写せる原本の梯形を伝える雛形 は,歌二行書きで巻末にも「下巻原本歌二行六十二転」と朱書して あるLt清水浜臣旧蔵本も水戸彰考館乙本と同様'一葉歌五首'一 首二行 (一貢十行) 書きの雛形を掲げ'歌一首一行書きの図書本 も'原本では歌二行書きであった旨を巻末に記るしているLt内閣 本は二行書きの写本である。つま-現存写本の原本は皆歌一首が二 行に書かれていたわけで'この事実よ-我々は現存写本等の原本の 書写形式を再現して考えてみる必要がある。そうすると'原本には 該当場所は'左の如-' 「 つ く づ く と な -け し き を 御 ら ん じ て 岩波四二五番 なほざ-のあらましごとに夜もすがら ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ とのたまはすれば おつる涙は雨とこそふれ 現在の歌集はこの傍点を施した 詞書の部分をそっ-りそのまま 次の詞書の先頭へ′移動させてし まったかたちである (   )   こ こ ろ ば そ き こ と の た ま は せ つ る を こころみだれて うつゝにて思へばいはんかたもなし 今 宵 の こ と を 夢 に な さ ば や       一 と 丑 日 払 ヽ   ナ ) へ ノ ' ' け ヽ   ] 小 こ ていたため'

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 51 -い上に,氏の説以外にも次のよケな理由から'日記から最初は連歌 iT遠目のことを薦ノほた と書かれていたのが'転写の際に ‖ 詠者である式部の名前も帥宮の名前も共に上・下旬に記るさ れていなかったこと'から二人唱和の連歌であるという確証が 得られぬこと' 7 . 7 5 . 7 . 5 目 連歌の噸序も下旬の次に上旬がそれに唱和されると云う逆順 5 . 7 . 5 7 . 7 でなく'上の句のつぎに下の句がつゞけられている点'和歌と 同一の順序であること' 目 上・下旬の歌の意味もこれを続けて一首の和歌とみても何ら 不自然でないこと'続けてよんでもご-自然な上旬から下旬へ の流れであること' 囲 上旬と下旬の間は各句の独自性を主張させるには弱い「との たまはすれば」という非常に簡単な繋辞でつながれt Lかもす ぐ一行おいて「とのたまはせつるを」という相似た文句が続い 日 記 まへちかきすいがいのもとにをかしげなる .   .   ●     ●                                   ×   ×   ×   ×   × -まゆみの紅葉のすこしもみぢたるを 到射せ給ひてかうらんにおしかゝらせ給ひて ●       ●               ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ● こ と の は ふ か -な り に け る か な ○     ヽ     0     0     0     0     0     0 とのたまはすれば ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ● しら露のはかな-おくとみしほどに ていたため' に'-書写者はここで戸惑って「とのたまはすれば」という詞書をそ っ-り下旬の直後'次の詞書の先頭へと移動させてしまったのだと 思う。実際'このように書き直さぬ前と書き直したあととでは通読 したときに明快さがちがう。書き直さない前のかたちでは'もし私 が和泉式部日記を読んでいない者であった場合'やは-この同じ場 所に不審をいだいてみるだろう。所が'現在見るごと-書き改めて みると'そのような不審感は消えて前後の意味的なつなが-も実に 明快である。即ち'こう書き攻めることによって転写者が該当場所 で抱いた不審感を書写者な-に解消でき得たのであったろう。も し. 'この連歌が'同じ-日記中よ-連歌の抜琴きれた例として歌集 中に残る岩波本通番号四〇六番と四〇七番連歌の如く' . . , 。 × × × × まゆみの木のおいたるをみせ給ひて 歌 集 四 〇 六 ●       ●       ●       ●       ●       一               ●       ●       ●       ●       ●       ●       ● こ と は ふ か -も な り に け る か な 0     0     0     0     0     0     0     0 とのたまはすれは 四 〇 七 ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ●       ● しら露のはかなくおくとみしほどに

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7 ● 7 5 ● 7 ● 5 と'あるように'先さに下旬がよみ出され'次いで上旬がこれに唱 和されている場合は'その詞書も前記岩波文庫本四二五番歌と全-同様の「i)のたまはすれば」という表現であるにもかかわらず'そ のまま抜琴されて'日記中にみる連歌の形を保ってきているのを見 ることが出来る。即ちへ同じ連歌であっても下の句が先きで次に上 の句が唱和されている場合は'詠者名はたとえな-ても'二人唱和 の連歌であることが解-やすいため'書写者の誤解を防ぎ得たので ある。清水氏も'一度は先述したように「正集Aの歌は一見日記五 五五の上・下旬を一人の詠とLt その間にいる﹃との給はすれは﹄ を次の歌の詞書の初頭に持ってきたものと解してもよさそうであ る」と考えてみられた。ところが'そう結論されず'帥宮歌と式部 との贈答歌を日記中にみるのと同じ順序に並べていた歌集のごとさ もの=これを氏は仮定的歌集と15んでいる-を資として作ったと云 う結論にもってゆかれたのは'この連歌の次に書かれている日記の 地の文が'「然し尚詳細に点検するに﹃物も聞えでつく-1と﹄泣 いている沈痛な心境からは「おつる涙は云々」の日記の用語に従え ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ば「うかひたる」応酬は出て来ない筈である。日一つ 「おつるなみた 云々」を女の詠とすると次にくる地文及び五五六の歌への連絡に不 自然が生じてくる」からだといわれているのである。右の氏の文か ら推察するに'氏は「うかびたる」と言う語を陽気な雰囲気をあら わす「浮き浮きした」と言う意に解されているらしい'が'「うか びたる」という語は「世の中といふものさのみこそ今も昔も定ま-ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ たること侍らね。なかにつけても女の宿世はうかびたるなむあはれ ヽ に侍る」(源氏物語帝木巻・紀伊守のことば)とあるように'「定ま らず'不安で'心細い」という意味であって「陽気な'明るい」意 味に解すべきでない。日記中の「うかびたる事ども」とあるに該当 する歌集中の詞書が「こころばそきこと」となっているのは'この 二つは違った意味の言葉ではな-'日記の「うかびたること」の語 意が'「こころばそきこと」の意に相当することを知る日記歌を歌 集に抜琴した者か'或は後の書写者が当時のわか-やすい言葉に言 い変えたにすぎない。そうすると'何ら地の文とその次の五五六番 歌との連絡上に不自然な点が見当らない。と言うことは右記の清水 氏の仮説の論拠が成立しないと言うことである。この論につづいて 私は、和泉式部日記歌と和泉式部歌集中において重複する歌とのも つ関係に就いて述べたいと思うが'それ迄に急いで残りの項目につ いて簡単に私見を述べてお-ことにする。第十一項の問題は'第十 八項のところで考えてみたいと思う。 第十二項'御堂関白記では、寛弘元年正月当時の院の拝礼は'正 月 三 日 の 事 な の に ' 日 記 で は 「 一 日 」 と な っ て い る 点 を ど う 考 え る かに就き今迄の意見を整理するとt Ht式部白身の記憶錯誤によるという説 岡田希雄「岩波講座日本文学和泉式部」 宮本芙万子「和泉式部日記著作についての一試論」 (平安文学 研究第二六輯昭三三・6)大橋清秀氏は宮本説支持 ヽ ヽ ヽ ヽ ● 岡田氏説は'只'御堂関白記の寛弘元年正月三日の「参冷泉院内 ● ● ● ● ● ● ヽ ヽ ヽ ヽ 府諸卿等皆釆有礼拝」の文が日記の「としたちかへりて正月一日院 ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ

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- 53 -たること侍らね.なかにつけても女の宿世はうかびたるむ m召耶姥付 ネ 幸 カ 「 F i l l T n ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ           ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●     ■     ●     ●     ●     ●     ● の は い ら い に 、 殿 ば ら か ず を つ -し て ま ゐ -給 へ り ' 宮 も お は し ま すを云々」に相当すると考えると「一日」は「三日」の誤-であろ うと言われているだけで'誰れによる誤記と考えられるのか不明で あるが'宮本芙万子氏は'権記々載によると'長保二'三'五年 は'院の拝礼は正月一日に行なわれているが'寛弘元年からは正月 三日に行なわれるようになっている。この事から'日記執筆時には 正月三日に行なわれていたのだが'南院入-の前後の年からこの拝 礼が以前行なわれていた正月一日から三日に変わったという記憶が 漠然と残っていたので'執筆当時正月三日に行なわれていたにもか かわらず>一日と誤記したのではないかとの御説である。 33 錯誤ではな-'帥宮の慣例日だったのを式部が正確に記述し たにすぎないという説 吉田幸一「和泉式部日記の平安後期成立説に対する検討と批 判」 (王朝文学第五号昭三六・2) 「和泉式部研究こ (古典 文庫三五・IOp3-8-4-・摘-4)森田兼吉「和泉式部日記作者 致」 (言語と文芸昭三六・9) 藤原忠平や師輔の時代は貞信公記九一〇'九二四年の二例や九暦 九四九・九五〇年の二例によると正月二日に院の拝礼にゆき'道長 になると正月三日に変わってきている事'及び'日本古典全書山岸 徳平校註「和泉式部日記」解説(昭三四・5) によると'長保元年 (一〇〇〇)'正月一日に院の拝礼が行なわれた外は'御堂関白記 ・権記・小右記九九三年一例へ長保三㌧ 六'寛弘二㌧四'五'七' 八年は皆三日であるのに'院政期の中右記・山椀記・台記の記録に よ る と 一 般 に 正 月 一 日 と な っ て い る と 述 べ ら れ て い る 事 ' 等 に よ っ て'結局へ 人(「公卿・諸臣」) によって院の拝礼に行-日は'二日 か三日か大体定っていたろうが'それでも私的都合で参上日を異に していた可能性もあるのではないか'即ち'帥宮も'道長は三日に 院参したにしろ'南院は冷泉院の多分南隣-という近さであるとい う地理的条件と'冷泉院は帥宮の父君であるという事よ-、毎正月 一日四時半(申一点) よ-朝廷で行なわれた中朝拝に列席される前 に院に出向いたのであるとの御説である。 臼 院の拝礼が正月一日に行なわれるのが慣例となっていた院政 期頃に'第三者によって日記が作られた為'当時の慣例日たる一日 と記るされたのだと云う説 伊藤博「言語と文芸」昭三五・5㌧ 「未定稿」昭三四・4' 山岸徳平・村上治著「情輪日記・紫式部・和泉式部日記」 (法 文館昭三一・9)山岸徳乎校訂日本古典全書「和泉式部日記」 解 説 以上の三説がある。日か日かと云う問題になるのだが'さてどう であろうか。ことに目とするには、「正月三日が公式の ﹃院の拝 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 礼﹄の日と規定されていたわけではない。たまたま道長個人がこの ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 年のこの日に﹃院の拝礼﹄に参ったまでゞある。それ故へ これをも ヽ     ヽ     ヽ     ヽ           ヽ     ヽ           ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ     ヽ って親王'公卿'諸臣にまで通用せしめることはできないと思ふ。 要するにこの時代は'摂関'諸卿、諸臣がそれぞれにおいて三ケ日

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の間に随時に院に参上していたと見るべき」である。 ︻吉田幸一 「和泉式部日記研究二第七草四'「院の拝礼」の記事についてP ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 4 -6︼ との御説は「正月一日'院のはいらいに殿ばらかずをつくし ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ て ま ゐ -給 へ -。 宮 も お は し ま す な る を 、 み ま い ら す れ は ' い と わ かううつくしげにておは-の人にすぐれ給へり--・-れぬれぽこと ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ はてゝ、宮いらせ給ひぬ'御おく-に上達部かずをつ-して居給ひ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ て御あそぴあ-」の「殿ばらかずをつ-して」・「上達部かずをつ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ くして」 と言う日記の`言葉と'「正月三日参冷泉院内府諸卿等皆 卦」 ︻御堂関白記寛弘元年正月三日︼・。記述との間に,次のよ うな疑問を感じさせる。氏の御説に従って敷術すれば'当時院の拝 礼は'「公卿諸臣の都合で'」'「正月二日あるいは三日という風」 な「おはよその慣例が」'「個人的に」 出来ていて 「それに従って ゐた」Lt 「それも私的都合で参上する日を異に」する事もありえ ヽ たので、帥宮は一日中朝拝前に院に出向き'一方道長の方は'「た ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ またま道長個人」の都合で「この年のこの日に﹃院の拝礼﹄に参つ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ たまでゞある」ということになる。が'御堂関白記に「内府諸卿等 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 皆釆」とされているのだから、寛弘元年正月三日には「内大臣や三 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 位及び参議以上の人々」は皆んな院の拝礼に行ったということにな る。そうして'大臣始め大・中納言'参議及び三位以上の人の事を 上達部とよぶのであるから'御堂関白記の内府諸卿と云うところを 言い換えれば'上達部たちは皆んなやってきたと言うことになる。 そうするとへ正月一日の、帥宮が個人的な都合で中朝拝の前に院へ 参ったときも'式部が事実を正確に書き記したのだとすると'これ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ も又「院のはいらいに殿ばらかずをつ-してまゐり給へ-」 とあ -' そ の 次 に 「 宮 も お は し ま す な る を み ま い ら す 」 と あ る か ら ' こ の時冷泉院へ拝礼にまいったのは'帥宮一人の個人的な都合や慣例 などでな-'他の多勢の殿ばらこぞって参上したのであり'帥宮 ヽ ヽ ヽ ヽ も そ の 中 の 一 人 と し て ま じ っ て い る わ け で あ る 。 こ の   「 参 -給 へ -」と言う表現は'中朝拝の始る前に院に行こうとする帥宮の御伴 に南院へと数をつ-してやってきたと云う意味ではな-'冷泉院へ の拝礼のためにである。或は帥宵を御迎えに来たのだと仮りに解釈 しても'冷泉院と宮の邸は隣接していたかとも思われる程近いの に'そんな近-迄やってきてしかも帥宮が院へまいるというのに一 緒に達いて行かないなど∼は考えられない。と云う事は彼等も帥 宵 と 共 に 一 日 に 冷 泉 院 へ の 拝 礼 を す ま せ た と い う こ と に な る 。 ど ち ら に し て も ' 日 記 描 写 に よ る と ' 数 を 尽 -し て お い で に な っ た 殿ばら-上達部は正月一日院の拝礼を行なわれたのに又もや'御堂 関白記の記事によると全上達部が揃って院へ拝礼に出かけたという 事にな-'こう考えるとどうも'日記の一日の院の拝礼に上達部が 参ったのも'関白記の記すところの内府諸卿皆釆の記事の日とは同 じ日でどちらかが日附を誤ったと考えてみた方がよいのではなかろ うか。やは-「式部日記」の方に誤記があるように思われる。私案 として、右の三説の外に'日記は最初 「三日」 と書かれていたの だが'院政期頃になると院の拝礼は正月一日に行なわれるのが慣例 となっていたため、後人が「三日」を「一日」ゐ誤りとみて書き改 めてしまったと言う場合だって考えられるように思う。

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- 55-参ったときも'式部が事実を正確に書き記したのだと 第十三項の「障子に穴をあける」の障子は何も平安後期より用い られた明-障子の意ではなく'その反証として'吉田氏「和泉式部 研究二第七草㈲「﹃明-障子﹄について」 (P4 -9) で源氏物語中 よ-四例'(「障子の端つ方に懸金したる所に'穴のすこしあきた る」 (椎本)'かいまみせし障子の穴も(早蕨)'「おろしこめたる 中の二間に立て隔たる障子の穴よ-」 (宿木)'「障子の懸金のも とにあきたる穴」 (手習)) 用例をあげておられ'日記成立年時が 平安後期迄おし下げて考える例証にはなり得ないわけである。 第十四項は「-・と本に」で終っている終結語句は、何も源氏以 前の作品には決してないと言う形ではないと云う反論を「.吉田幸一 氏は前項と同著第七章jJ「日記の﹃結び﹄の手法について」P4-7-4 -8の中で詳述されていられる。即ち'この中で'和泉式部日記以前 で「-と本に」とかかれているのは崎輪日記上・下巻「かげろふ のにきの一のまきとぞなにごとも本に」 (図書寮本) 「よいたう更 そイ けてぞたゝきくノなるとに本に」 (図書寮本)及び宇津保物語「 なかよ-わけたるなめ-とはんにこそ侍めれ」 (「楼上の下」前田 家本) や枕草子抜文 「-・それよ-あ-きそめたるなめりとぞ本 に」 (陽明文庫三巻本) 等に見え'そのうち自作の日記 (又は随 筆)に作者自身がつけたものと解される例は蟻輪日記下巻の例がそ れに当ることよ-'伊藤氏説を肯首出来ない旨述べられ'また「と ぞ本に」又は「と本に」の書き振-は'晴蛤日記に始まる日記作者 が自作の末尾に古物語形式に対応して騰化法終止を意図した技巧で あると考えておられる。 以上第十四項目迄'日記本文に即して作者考と関係のある諸点 で'現在までの意見を要略整理することをこころみた。第一五項か ら二十項にわたる問題は一まず次の機会にゆずることにして'第二 十一項'日記歌及び歌集歌中に重複する歌との関係に開Lt各論者 の御説を読んで感ずる点を要約してみたい。 和泉式部日記作者考に関する研究で'昭和初期よ-三十年代半ば 迄の諸論文の展開状態を史的に検討した時、自作説'他作説双方に ‖和泉式部歌集と日記との関係日和泉式部歌集の性格'に関する考 察が欠けていた事を感ずる。特に他作説者の諸論文には、誰でも気 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 付かれるように'原歌稿とか原歌集とかの語が使用されているの に'それがどのような性質のものなのか、何故それを設定せねばな らぬのか'果して真にそれを設定せねばならないのか等となると何 一つ説明されていない。これ要するに'第三者説の研究者が、和泉 式部日記を他作と判断した-或いは自作説から他作説に転じたり或 いは断定を蹟蹟し出しているのをみる一根拠は'清水文雄氏の次の ごとき一連の論文t I 「和泉式部集の歌と和泉式部日記」  ︻岩波 講座文学昭七'・‖︼ 2'「和泉式部集正集の形態に関する研 究」  ︻国文学試論第一輯昭八・9︼ 3㌧ 「和泉式部正集の成 立」  ︻国文学致第一巻第一輯昭十・日︼ 4 「和泉式部日記考」 ︻国文学試論第三輯昭十・8︼ の計四籍の'就中最初の「和泉式 部集の歌と和泉式部日記」・の結論に影響されたからである。そうし て清水氏の御説こそ'爾来昭和三十年代前半迄'唯丁の原歌稿想定 の理由と原歌稿なるむのの概念を説明された論文であ-'この点伊

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藤博氏が「清水文雄氏は岩波文庫﹃和泉式部歌集の解説で﹃日記制 限の資料となったものと考えられる原歌集﹄ということばを使用さ れ'玉井幸助博士も﹃和泉式部新註﹄の解説で家集にある日記の歌 と'家集にもれている日記の歌とが﹃高次の一群をなして、和泉式 部月記の素材ともいうべき原歌稿の形をもっていたのではないか﹄ と憶測されている。」か-「清水氏は﹃原歌集﹄ということば'玉 井博士は﹃原歌稿﹄ということばを」使用されているが「具体的に どう云う姿」か'何故それを「想定しな-てほならないか」につい ては 「何ら述べておられない」  ︻「原和泉式部集の想定-日記成 立に関する仮説I」'「文学・語学」 第七号全国大学国語国文学会 編三省堂昭三三・3) といっていられるのは、前記清水氏の論文 を一見されていなかったからで'岩波本解説中の清水氏の御説は 「和泉式部集の歌と和泉式部日記」の簡約文にすぎない。 では、清水氏のいわれる 「原歌稿」'「原歌集」 とは一体どのよ うな思考過程を経て想定されるに至-'どのような内容をもったも のかと云うことである。氏は「四一〇五五より最後に至る二十六首 (a) Ed i謁は岩波文庫本通し番号によると八七七番歌「よのつ ママ ねにことともさらに云々」から九〇二番歌「遺しばの零とおきゐる 人によ-云々」という正集最後の歌迄二六首のグループ歌群をさ す。︼  「及び「初頭四〇六〇三よ-四〇六三二に至る三十首(b) 山本註 ︻bとは岩波文庫本和泉式部歌集通し番号によると'四〇〇番歌 「手枕の袖にもしもはおきけるを云々」 から四三〇番歌 「-れ竹 のよよのふること恩はゆる云々」 迄の三〇首のグループ歌群をさ す)」、 即ち'「a及びbは現存和泉式部日記中に含まれる女の歌 のみを順次抜琴した如き形にある」こと'「両もbは本来aの後尾 に接続すべき」ものであること 「一目瞭然たるところで」へ 「正集 山本註 A歌群 ︻国歌大観では四〇六〇三番歌よ-四一〇七六番歌'岩波 本和泉式部歌集通し番号では四〇〇番歌よ-最後九〇二番歌・迄の 一大歌群のこと) の主要部分に対する何人かによる附加的色彩濃 厚」であるが'この事から' 二現存和泉式部日記は現存和泉式部正集中にいるa・b歌群を 資材として創作したか 二t a・b歌群が現存和泉式部日記から抜琴されたか 三、日記及びa・b歌群の拠った共通の原形が存したか の三つの見方が立てられる。このうち二 はt a・b歌群中には 式部の歌に対する師宮の歌が一首も載せられていないことからも先 づ考えられない。では'歌集中の歌は日記からの抄出歌かという に、氏はこの見方に対しても次のような理由から否定されている。 いかにも三条西本々文よ-正集Aの詞書及び歌が採られたといって も矛盾を感ぜしめないようだが'唯、前掲問題第六項にてすでに私 見をのべたところの「消えぬべき云々」の歌が日記中で地の文とな っている事実'及びこれも前掲問題第十項で私見をのべたところの 「なをざ-のあらましごとに夜もすがら (師宮)'落つる涙は雨と こそふれ(式部),」と云う日記中での連歌が'歌集中には帥宮一人 の一首和歌となっている事実を理由にa・b歌群が現存和泉式部日 記から抜率されたとは考えられないと結論づけられた。そうしてこ

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