文学研究における「言語」の問題 : 象徴/アレゴリー論を手がかりとして-(2)
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(2) 文学研究における「言語」の問題. 森本. Vergangenh2i-)がそこにまどろんでいるのか、誰に. する。それは、イメージという直観的な契機を直観そのものにはもは. 知性は、イメージが既にわたしのものである限りにおいて、それを 自らの側に引き寄せ、自らの内に本来与えられた普遍的なものと結合. 進展を追ってみなければならない。. とによってであるim,)われわれとしては、まず引き続く「内面化」の. (外なるもの)として、主観性の限界を印づけている。デリダがへゲル体系の読み直しを企てるのは、まさにこうした箇所に着目するこ. 前提されているこの過去的-非現前的な源泉は、いまだ内面化されな. 出して眼前に見ることのできないものであり、しかも表象や思考といっ. の見地に由来するいまだ真に自由ではない関係である。この関係の 下では、私は単に(内なるもの)(daslnneユiche)に過ぎず、イメー ジは私にとっての(外なるもの)(dasmirAuBerliche)である。 それゆえ私は、差し当りまだ、私の内面の中の立穴(Schacht)に眠っ ている様々なイメージに対して十分な力をふるえず、このイメージ. rn). ゲルは、想像力(Einbi-dungskraft)と呼ぶ。. 「表象」 である。第一次的に. この段階で、主観の領域においては、(内なるもの). Macbt)として. 働き、自己を確証し、イメージを 「偶然的なもの」 (Akzidente亡es) として服従せしめ、自らをイメージの魂(See-e)と化し、想起し(sicb. 普遍がイメージを支配する実体的な力(substantie--e. ず普遍とイメージがあってそれが-っつ-という形の統1ではな-、. (aug①m①in)な表象に、(外なるもの)であるイメージが取り込まれ、 ひとつとなる(Einbeitをなす)。それは、化学的な結合、つまりま. である普遍的. 想起(内面化)されたイメージから表象をこしらえる働きのことをへ-. が、自分の前に立てられたものとしての. 定され定在化された形で、知性の眼前に立てられることになる。これ. や依存することなく、我がものとする そのように読み換える という一種逆説的な飛躍である。こうしてイメージは、はっきりと規. -. を「任意に」呼び出すことができない。どれほど多くの過去のイメI ジ(Bild2rde(. もわからない。. これは、人間の精神(知性)が、自らにとって絶対的に異質であり 「他者」でしかありえないものを、自らの内面へと取り込んでくる最 初の場面の描写である。ここでイメージに関して、それが既に知性の 内にありながら未だに精神の「力」(MacFt)の及ばないものとして、 その本質的な異質性を強調されている点は注目に値する。「ヘ-ゲル は、そこにイメージが蓄えられている『夜のごとき立穴』について何. も説明してはいないが、これを、想像力、記憶、思考等にとっての不 v.)意識が「生命と 可欠の前提として、端的に要請しているのである(A 現前」(LebendigkeitundGegenw&rtigkeit)(S454)という「昼」. を生きているのに対して、(外なるもの)としての「過去のイメージ」. -. ぜならそれはまだ「思考されて」おらず、「理性性の形式」 へと高 められていないからである。それと私との間にあるのはむしろ直観. このイメージは私のものであり、私に属している。しかし差し当り. どろんでいる。それは知性の内に既にありながら、知性が自由に取り. は、「夜のごとき立穴」(dern㌢ht-icbeScbacht)の中に無意識的にま. 二. た精神的営為を可能にする源泉なのである。説明を与えられないまま い. それはまだ私との等質性(Homog①neit㌢)を持つにはほど遠い。な. (bewuBtlos)蓄えられているとへ-ゲルは言っている。. 0.
(3) ることとされる(S456)。へ-ゲルの世界では、普遍と特殊、(内な. erinnern)、顕現する(sichmanif①stieren)ような仕方で一体化してい. ている。第一次的な想起が調達するイメージは、端的な外面性ではな -知性の内にある(外なるもの)であるとはいえ、その素性からして. とはいっても、まだイメージが帯びている直観的な内容の制約を受け. るもの)と(外なるもの)とが、前者主導の形で統一されてゆく螺旋. 表象の統一は、直観の内に直接的に存していた「全体性」(rota-itat)が、知性という心的領域で再樹立されたものであり、「確証され. いう悟性的な営為を準備する重要なステ-ジである。. 二次的な定在」(S459)の段階へと進む。これが音声記号としての言. そこで、知性は「感覚・直観・表象という直接的な定在よりも高次の、. 差し当りは直観との繋がりを残していなくてはならない。従ってそれ を一方の構成要素とせざるをえないこの第1次的な表象は、まだ完全. 状の階梯が描かれるわけだが、その中でもこの表象の成立は、思考と. た全体性」であるとも言われているが、重要な点は、知性の側から見. りで彼は、表象を作り出す段階としての想像力が「芸術における形式. の自己充足的全体性の図柄を描き出している。それゆえこの節の終わ. 性が自分で納得し満足する時、それが精神自身の形成する「力」によっ て「確証された」全体性なのである。そしてこれは既に、あの「象徴」. 体が持っているものとは異なる新たな二項の同一性を樹立しえたと知. して調整されているということである。こうした準備の上で、直観自. 内在する一般性と和合するような性質を帯びた既に(内なるもの)と. それは第1に知性が任意に選択できるという点で、また第二に「存在. を帯びてはいる. かにこの自分の方から設定する記号表象である「音」も、直観的性質. ろう。貨幣による経済的価値の表示が、いちいち現物を持ち出す回り -どさを解消し、しかも取扱いの自由をもたらすのと同じである。確. に喚起できるような仕組みを作れば、直観への言及は回避できるであ. -、自分の方から設定した特別な表象によって、普遍的表象が自動的. 階に留まる限り、イメージという契機を介して直観的なものに足をと られ続ける。しかし、いちいちイメージから表象を作り出すのではな. に知性が自立的・任意的(wi))ktir)ich)に作りだしたものとは言えない。. たとき「内面化」という操作は、具体的な表象を構成するために必要. 語を産出する段階である。「記号」(z①icben)がなぜ象徴的な表象より も高次なのか。それは次のような理由からである。知性は、表象の段. な(外なるもの)を知性の内部に調達するための機制であり、この段. 的なもの(dasFormeue)をなす。なぜなら、芸術は真に普遍的なもの. すると同時に消滅する」(S459)という特異な時間的性質を帯びる点. 階でのイメージは、単純に外から内に入ってきたものとしてではなく、. あるいは理念を感性的定在の形式において、つまりイメージの形式に. で、通常の直観とは異なるのである。こうして「言語によって、たと. -紙幣が紙という「実物」であるのと同様-が. おいて描出するからだ」と言っている。. え完全に直観や感性的なものなしで済ますことはできないとしても、. 少な-とも、人間のより高次な精神活動において複雑な感性的構築物 (6) を直接作り出さな-てはならないといったことは殆どなくなる」ので. 更に目一ハ体的にへ-ゲルは、この想像力のより自由な作用として、象 徴、アレゴ--、詩(ないし文学)を生み出すような空想(pbantasi①) を位置付けている(S457)。しかし彼の議論によると、想像力のレヴュ. 三. ある。直観内容の制約から自由になり、「魂」である知性が自分を衰 文学研究における「言語」の問題. 森本. ルでは、確かに普遍と特殊の確証された全体としての表象が成立する ■・・-.
(4) 文学研究における「言語」 の問題. な1歩なのである(「記号は或る重大なもの(etwas. 作り出す知性の活動は「生産的記憶(差し当り抽象的なムネモジュ-. ない。この無関係性はまさにアレゴ--的な関係であり、この関係を. で表示する時、この音はそれが記号表示している内容とは何の関係も. 節化されたライオンのイメージと1体化していなければならない。と ころが、この表象的に分節化された対象を「ライオン」という者達鎖. のライオンの直感像ではないライオンなるものの一般的表象であるだ ろう。しかしその場合でも、表象の普遍的契機は頑の中に措きうる分. 例えばライオンの表象という場合、確かにそれは、もはやあれこれ. 駆使できるのである。(S458). 性は、象徴化するものとしての知性以上に、その任意性と支配力を. ペクトから見れば、「記号表示する」(b①z①ichnend)ものとしての知. 化しているものとは何の関係もない。従って直観の使用というアス. ある。これに対して記号の場合、直観固有の内容はその直観が記号. 観「固有の」(①ig①n)規定性が、その本質と概念からして、ともか -それが象徴的に表現している内容であるような、そうした直観で. な直接的な直観である。つまり、中に他者の魂を安置し保存するビ ラ-ツドである。「記号」は「象徴」とは異なる。後者は、その直. 記号は、それが自ら持っているのとは全-違う内容を表象するよう. 説明されなければならない」 S457)。そしてここで言われる記号が、 アレゴ--的な性格を帯びていることは既に明らかである。. Gropes)として. メージであり、これは知性の自立性がよりはっきりと告知される重大. すための感性的素材を窓意的に設定したもの、それが記号としてのイ. 森本. 個別的にしか生じておらず、これを内面化することで一般的な結合関 の悪意性が、主. 以前に感性的な直観が置かれていたのと同じ身分(但し一段高次の) にあることを自ら露口王する。つまり差し当りまだ名と表象との結合は. 理に従えば、この知性が作りだした記号あるいは「名」は、ちょうど. であった。その点はもちろんへ-ゲルもこころえている。弁証法の論. 機である。それゆえ美学的思考において、アレゴリーは股下されたの. なものとイデア的なものの概念的な同一性を破壊しかねない危険な契. 対応が知性の任意性(Willktir)をより多-反映しているという点にあ る。「任意性」とは消極的に言い換えれば「窓意性」 であり、質料狗. の高位に置いているのである。ただその根拠は、「記号」と表象との. に、象徴的な表象よりもアレゴ--的な「記号」の方をヒエラルキ-. で見る限りヘーゲルは、カントやこの時期の大方の美学的言説とは逆. 〔記憶の女神〕)」と呼ばれている。注目すべきことだが、この局面. 四. う「ことがら」に言及できるようになる。表象に左右されない自立的. れたライオンの一般的表象をともなうことすらなしに、ライオンとい. 剥き出しの直観を越えた表象が可能となったように、この記憶の働き において、例えば「ライオン」という名を理解する際には、分節化さ. 認識する」ことができるようになる。つまり、想像力の働きにおいて. 「直観やイメージなしに、名の中で事象(Sache)を、事象と共に名を. ばれる段階である(S46)).こうして名が再び内面化され定着すると、. 備しなおし、これをもう一つの表象である意味と同一化する(identifizi①ren)、という形で遂行される。これが「名を保持する記憶」と呼. それは先ほどと同じで、まづ名・記号を内面化された表象として準. 観的な確証を通じて定常化されるのである。. 係へと昇格させなくてはならないのである。「記号」. ネ.
(5) 自立的な、よりeigentlichな活動の局面へと弁証法的に自らを高める。. 田心考にいたるというように、知性(主観的精神). はより高度な、より. な思考の可能性がこれによって開かれるのである。「名はイメージを. 導原理とした総合を、その都度確証してゆくのである。イメージとし. 常に既に内面的なものとして読み直すことで、a))gemeinな契機を指. してゆ-。というより、Einh①itを形成するのに必要な外面的契機を、. その過程で知性は、自分にとって外的な契機を我がものとし、自分に とって本来内面的でaugemeinなものとして所持している契機と縁合. 欠いた単純な(①infacb)表象である。名において、われわれは思考す る(denken)」(∽462)0. 名によって、表象や直観の制約を受けない形での事象の取り扱いが、 知性の内部で可能になる。確かにこれは自立的な精神作用のより高度 な発現であるはずだが、しかし、ちょうどイメージという表象段階で (7). の(内面化された外なるもの)が、1面では主観への制約であった. を可能にするのは、こうした外面的契機の内面化的な読み直しという. ての直観の内面化において典型的なように、象徴的な統一という措像. にとって自己自身の中での自己の「外化」(EntauBerung)でもある。. 理論的操作である。しかし読み直されたとはいっても、外面的契機は、. (内面化された外なるもの)は、知性. 名の記憶としてのみ事象を内面化する時、知性はeiロS㌢h-iches(中. ように、名というこの段階での. 性的/事物的なもの)となる。それは主観がそれ自体としてはSache. 言わば素性からして知性にとっての他者でなければならない。内面化 は、知性ないし精神の側から言えば、(外なるもの) に対するその勝. ら自由になろうとして、一日一形成された統一、例えば表象の統一その. でない限りで、「何か全-空虚なもの」(①twasgaロZL①er①s)、「精神. れわれが言葉をよりよ-記憶(暗記). ものを、再びそれ自体外面的なものとみなすような、より高次の統一. 利であり直観の制約から自由になることであるにもかかわらず、知性 は、そこに安住せず、既に内面化したものに纏いついた他者性の影か. ない時であるとか、外国語に親しめば親しむはどその言葉を自動的・. 能にするし、それはまたこれらすべての通行が、精神の完全な自己実. を欠いた語の保持者」、「機械的記憶」(dasmechanisch①Ged㌢btnis) になることだ、とヘーゲルは言っている。この文脈で彼は、例えばわ. 機械的に駆使できるようになるといった、言葉にまつわる現象を念頭 に置いている。まさにこうした一種の自己疎外を通じてこそ「思考」. 現が遂げられた最終局面からの回顧的な展望に過ぎないことが. できるのは、その意味を意識し. を可能にするという言語の驚-べき逆説性を、ヘ-ゲルはこの記号論. 台回しを演ずる精神自身に. わかっているからこそ、先行き不安に. あり他者である対象世界も、本来的には絶対精神によって措定された ものであり、精神の1契機である.自己と他者との区別を意識し、他. 五. ば、思考の単にexistentiellな反面であり、悟性的な認識作用として. 舞. へと向かってゆ-。言わばこのあくなき不敵足が弁証法的な運動を可. の箇所で的確に記述したのである。. -. ヘ-ゲルに即した言い方をすれば、主観にとって(外なるもの)で. 陥ることもなく追体験してゆけるのであ鮎). -. 者を自己への制約として否定的に受け取っていることそのものが、有 文学研究における「言語」の問題. 森本. の思考の内に再び総合されてゆかねばならない。知覚から表象を経て. もちろん精神を欠いた機械的記憶は、体系的なコンテクストで見れ. 6.
(6) そして「外なるものの内面化」とは、この展開の具体的な過程そのも. (9). niinftigkeit) によって、有限 性を克服し自らの無限な真実態へと還帰するべく「駆り立てられて」. ゆ-。自己差異化と再自己同1化への推転を措くこの弁証法が、それ 自体としてあらかじめ象徴論的な構図を描いていることは明らかであ る。つまりⅩとyという異質な項の問に本性的な類似性を見出し、両 者を同一化するという手続きがここにも見出されるのだが、それは何 よりも、この体系の「全体」が「Ⅹはyである」という述定の確証を. れば、「全体」が常に既に他なるものを述定的に同1化する意味秩序. をなすものとして企てられていることによって、或る「内面化」の段. である限りなしで. の持つ二面性、つまり既に内面化され精神. 階で停滞することな-次のステップに進んで行-という物語が措ける のである。(外なるもの). の支配に従っているという性質と、(外なるもの). 的なdialektikeにおける主語と述語の形式的・論弁的(diskursiv). 済ます訳にはゆかない他者性 精神の制御がおよばない非等質性 との葛藤は、この全体の象徴性が保全されている限りにおいては、む. (treibend)エンジンであ. しろ内在的な精神の展開を「駆り立てる」. しかし、「全体」が(外なるもの)-他者を許容しない以上、当の. 根抵的な同1性-絶対性の存在も、また体系全体の描写を通じてそれ. 「前提」として、すべてに先だってあらかじめ措定されるしかない。. 本質的に含まれる契機の自己開陳にすぎないから、「全体」としての. が再び確証されるという方法論的酪信そのものも、先行する実践的=. が、絶対者、つまり主体と客体、(内なるもの)と(外なるもの)と の究極的な同一性を「前提」とするヘーゲル哲学の独創なのではなく、. のパラ 宗教的な図式、つまり超越者への象徴論的言及という「前提」 フレ-ズなのである。そしてもちろんこうした(体系としての象徴). 的な契機としてこの判断の内部に措定される。判断の「外」に在って. 自然的経験の枠組を厳し-限界づけた批判哲学に、自然それ自体の全. ないのである。もちろん述定は「述べ」であり、主語・述語へと展開. され「伸べ」られることを必要とする。この思考の展開が体系となる。. るをえなかっ)た. 体性や合目的性という理念的なオプションを付加すべきだと考え(ざ カントにおいて、既に骨格図を描かれていたことは. その成立を偶然的に制約するような他者を、述定の「全体」は許容し. ような判断(田心考)の自己確証なのである。他者は、概念の自己否定. 実質化された述定の「全体」は、何か他のものについての(他に依存 した)判断なのではな-、存在するものの全体とびったり重なりあう. 運動は何ら他のものに依存せずに生起することになる。つまり、この. 自己差異化(外へ出ること)と再同一化は、同一的なもの(概念)に. する、そうした実質的な運動として読み変えるのであ軸)しかもこの 「全体」 の象徴論的な完結性そのものは、いずれにせよ説明以前の. み出し、かつこの外なる対象が同時に自己自身であることを再び確証. な連結を、形而上学的に解釈し直す。つまり述定の構造を、自己同一. り続けるだろう。. -. 的な「概念」が、いったん自己の外へ出て自己と区別された対象を生. めざして構築されるという点に示されるのである。ヘ-ゲルは、伝統. 「述べ」の「全体」があらかじめ象徴論的に閉ざしている、言い換え. 限な主観的精神の「段階」の特性である。そしてこの主観性も本来的. 六. には絶対精神であるから、「理性活動の推進力」(dietreibendeVer.. 森本. のであり、同一的-絶対的なものがいったん自己の外へ出て行-とい う動作を、逆向きに描写した表現であると言うことができる。しかも. 文学研究における「言語」の問題. -あるいは、tatige.
(7) 言うまでもない。観念論の持つ存在=神学的(onto-theologica)) な資質が、全体的=絶対的な象徴性を導入させるわけだが、もう1方. トに触れておかなければならない。. 美学的なものをめぐる哲学的議論が、概念と直観の総合という認識. I.''.''',!L,. 時に自発的つまり悟性的な能力であることによって、感性と悟性、あ るいは直観と概念を連結・媒介する機能を与えられるからである。そ. れが経験の構成にとって欠かせない媒介力である限りにおいて、想像. OrgandesVerstandes)となる.. もcritica-な場面であり、それはへ-ゲルにおいて、直観が表象を介. りが、『純粋理性批判』の中でも、感性と悟性とがきびすを接する最. ここですぐさま注意しておきたいのは、想像力が召喚されるこの集. I.!:... の資質である「批判」がこうしたイデオロギ-を真に必要とするのか どうかは、別の哲学的問題であるだろう。. 論的問題に直結していることば、周知の通りである。元来異質なもの. I,. ところでわれわれの関心事は、この時期の象徴/アレゴ--論的な. が「ひとつである」ことが美と呼ばれる限りにおいて、美学は象徴論. ・.:,". 発想の実効性を見極めることにある。ヘ-ゲルの言語記号論は、象徴. である。しかし、内面的・精神的な契機、芸術にとっては「内容」と. なる契機である概念が、悟性と理性という異なった次元を持つことが、. '・::I;:'I・1.. 論的思考が最も重要=危機的(critica-)な現れ-徴候(symptom) を呈する場面として読むことができるのだが、そこでの議論は決して. 問題を複雑にする。この点の困難は、錯綜した「想像力」(EinbiT. の理論をこしらえざるをえなかったカントにおいてよ. I:I::;1:!i.::. 単純に記述的なものではな-、既に体系=象徴論的な関心に裏書きさ. dungskraft). I.!:ii.!t,.. れている。言い換えれば、記号における主観と客観との続一という描. り明瞭に読み取ることができる。. 認識論的なコンテクストでは、「想像力とは、対象が現前しなくて. Jr.:-::.. 像は、記号論そのものから出てくるのではなく、体系内の一つの特殊. ''.]tT'';i'i='::.:=:;.:.'';:.二.:;'芯パ「,.I.. も直観的に表象する能力であ3]'と定義されている。これは単純に読 ''・J(I?;I,. めば、記憶=想起の能力である。しかし、カントは同じ箇所で、記憶'],.I:'.. な局面として記号論を解釈する語り手(絶対精神の立場から回顧的に. 7 I:. の注釈に依存するように見えるという. ';・'.. '.・..;:.i1.. 体系を展開させている哲学者). 力は「超越論的な」瑠を遂行する「悟性の器官」(d. は生産的想像力が、単に感性的な表象化の能力であるだけでなく、同. ':,. こ七である。従って問題は、この僻轍を成り立たせている、記号論的. 次元からより高次の次元への体系論的な漸進的移行が、果たして真に 可能であるのか、逆d1111口えば、記号論的なものの制約を受けずに「全 体」先取り的な立場から記号論を制約するという議論が成功している のかどうか、というようにパラフレ-ズできる。もし記号論が体系の の内面化. 内部においてすら、特異な、他へと還元できないような位置を占める のだとすれば、そこで第一次的に展開される(外なるもの) の論理は、「上方」からの正当化の根拠を見失い、回収されざる なるもの)というモンスタ-を再び呼び込んでしまうだろう。. ところでカントが思い着いた超越論的漬鐸というテクニックは、こ うした怪物を処理する方策であったはずである。それゆえ、ヘ-ゲル. I:.;.;... 七. (外. の体系における記号論の位置について検討する前に、われわれはカン 文学研究における「言語」の問題. 森本.
(8) 文学研究における「言語」 の問題. の呼びだしの機械的な動作に過ぎず、総合や調和のアプリオリ性と折 り合うわけではないからである。従って体系の中に導入される際、こ. り、カントの生産的想像力はへ-ゲルの想像力や記憶に相当すると解. 解釈を施されることになる。しかし、それはいずれにせよ真の総合を. 保証するものとはなりえないのである。そのことが、体系の中での想. 像力の位置の多義性にも反映して-る。 カントの場合、いま述べたように、自然認識が成立する文脈で登場. する想像力は、結果的に悟性に吸収されてしまうように見える。なる. るのではな-、確かに自由ではあるが、悟性の作用一般と共鳴する調. も、悪意的ないし無規則であったり、ましてやカオス的であったりす. 規定的な悟性規則に導かれることのない形象化の力は、しかしここで. 活動場面を設定するのである。「ここ. (『判断力批判』)では、想像力 はいよいよ固有の直観の能力として姿を現す。その生産的な、しかも. 定してしまうこうした場面とは別に、言わばもう1段高次の想像力の. る。それゆえカントは、特殊的な直観を悟性的な普遍規則によって規. 性のdiskursivなl般性を表示する記号とさして変わりがないのであ る。想像力は、つねに「記号」性へと引きずられる危険性を帯びてい. ない式」. として、. 釈できる。実際前者の生産的想像力は、「悟性の最初の適用」. 「図. に過ぎず、悟性に適合する仕方で直観を調達するだけなら、それは悟. 「記号」より優位にある。しかし、もし想像力が単に悟性の器官. 感性的な所与をあらかじめカテゴ-ー適合的な仕方で形式化し悟性自. 概念がいかにして直観に適用されるか、という問いに一つの解答が与 えられるわけだが、こうした方策は、(外なるもの)杏(内面化され た外なるもの)として読み直すというへ-ゲル的な内面化のテクニッ クと同じものである。そして見方によっては、カントにおけるこうし た方策こそ、結果的に直観の独白な所与性を抹消し、そのことでアブ -オ-な「総合」判断の基礎づけという当初の目的を逸脱し、「認識 論的主観主義」そのものを破綻に導-ものだ、と評価することも可能. なのであ態) (外なるもの)と(内なるもの)、レア-ルな契機とイデア-ルな 契機を媒介する場面を想定するとき、われわれはつねに記憶=想起と いう作用(と、それを能力として実体化した にぶつか 「想像力」) る。カントもへ-ゲルもそのことをよく見抜いているわけだが、それ でも観念論哲学の構想の中で、この作用そのものが中心主題となるこ とはありえない。なぜなら、記憶-想起それ自体は「書き込み」とそ. 際、悟性と感性は、この 「戯れ」 の中で共鳴し調和してしまうのであ り、この調和が「美」となる。. の中に普遍的・概念的なものを自由に探し当てようとする。そして実. 和的な表象の戯れ(Spie))となるので濁る」。想像力は、特殊な直観. (17). 身に供給するための「図式」を作り出す。媒介者そのものを本来的に は悟性の側に位置づけるという方策によって、アプリオリな純粋悟性. はど彼の体系の中では、先に (第4節)触れたように、想像力の における悟性概念と直観の総合は、全-次心意的な概念表示に過ぎ. (14). の能力として主観主義的な. と同様の場面と見なしうることである。そして、ここでも「媒介」の. の法則」に従うものであり「心理学」. の作用は直観と概念を媒介する「内面化」. ′\. カギとなるのは想像力と記憶なのである。もちろんカントは経験的な. して悟性的思考へと繋がれるあの「心理学」の最も基底的なステ-ジ. 森本. の領分に属するものとして、超越論的な議論の枠外に追いやる。しか しこの区分は、超越論的な議論の整合性をねらった技術的な処置であ. 想像力を、「連想(Assoziation). (16).
(9) ..7'.:1. この1見御都合主義ともとれる美的調和の幻視が、前節で述べた( 体系としての象徴) の存在-神学的な設定と同根であることは論をま たない。なるほど批判哲学の創設者は、この調和が構成的なものであ ることは否認する。しかし、いわゆる「反省的」な判断力が直観の内 「悟性」によって既に秩 -I:・:I,.:;I::.:.::. に悟性と共鳴するようなものを見出しうるのは、結局のところ(外な るもの)としての自然そのものがより高次の '.!.、[.... I:, ::.. =... ';・=:I.,::I.:・';'・::i..,7:.I.?['1,.;:. ''.. '. -]. I.I,. I.. 1:.. I..I:I.1.,',: I;..:.'1.. i.:''.I::.‥. diskursivな悟性に対して「直観的悟性」(intuitiverVerstand) I:::;.:.[':'':... であるような神の知性である。デュ-ジンクによ. -:i. 絶対的な同一性をむしろ出発点に据えるべきと考えるへ-ゲル的な体 系を準備したわけである。 8. なるもの). 森本. 以前の所与であり、「夜のごとき立穴」に眠るカオスに過. 単に悟性的なもの (B)は、克服されなければならない。単に主観 に達していないからである。 的な普遍は、真の具体性(個別性) (c) しかし、単なる直観(A) はなお低級である。それは、わたしの. (内. でもあると言えなくもないが、いずれにせよそこに露呈した無理が、. ぎないから。. さて、カントの超越論的「想像力」は、悟性的な概念に直観を調達. する媒介として(B)から(C) へ至る局面に登場する。一方第5節 で見たへ-ゲルの心理学的な「想像力」は、(A)から に近づ (B) -辺りに位置づけられている。だから悟性は、ここではまだこれから 求められるべきものである。. へ-ゲルの場合、想像力の後に記憶と言語(記号)がやってくる.. イメージから表象へ、そして言語への移行は、一言で言えば所与の多. 数性を縮減する過程である。ヘ-ゲルは、十八世紀以来盛んだった言. 語起璽洞を意識しな軸i,言語が擬音語のような直接感性的なも. 繋がる自然的起源を持つという発想を批判する。感性の多様性と言語. のような精神の所産との間には差し当り絶対的な懸隔が置かれる。ヘ-. のや無意味なものの過剰」においてではな-、「文法」的なものにお. いてこそその本来の姿を示すのである。言語の端緒において存在した. を生み出すのである。(S459). 論理的な本能が、言語における文法的なもの(dasGrammatische). --を言語の内に作り入れる(einbildet)悟性の所産である。この. によってである。実際言語における形式的なものは、自らのカテゴ. られ、それら自体が元来帯びていた意味が縮減され抹消されること. そうしたものが、感性的な直観そのものとして、記号へと切り詰め. ゆく。それは、. る判断力の位置の動鞄をきたしている。その不整合はカントの魅力 かもしれない無自覚的な身振り言語のようなものは、やがて衰退して. の場合、われわれの自然認識の限界が堅持され、しかもそこに留まり きれなかったために、想像力の二重化が要請され、「体系全体に於け. ゲルの場合も、分節化された音の体系としての言語は、「感性的なも 「直観された理念」としての美の観念を作り出したのであ恕)カント. れば、ヘ-ゲルはまさにこのコンセプトをカントから引き継ぐことで、. のまま直観(存在). -. 序づけられているからでなければならない。この悟性は、われわれの. I.'.:I-.:i:'.:... 文学研究における「言語」の問題. .九. ".:.ll..,..
(10) 文学研究における「言語」の問題. ような外面性の形態」(S462)、つまり言語音である.. 調達することが、悟性が自らのカテゴリ-を直観の内に「作り入れる」. 観の側からの総合であり、形式的に過ぎるものと映る。「より高次の」. 念論の立場から見れば、今述べたような意味で、それはいまだ単に主. 念の実在性を自己確証するための決定的な媒介力として登場する点で 共通しているのである。. しかもこのコンテクストでは、総合が「対等」のものではなく、直 観に対して魂を吹き込む悟性が優位に立つことも明らかである。それ は文法的なものへの肯定的な評価からもうかがうことができる。近代 の主観主義の立場からすれば、悟性的な規則こそ第一義的なものであ り、悟性/感性の二項対立は、明らかに前者が優位に立つ形で描写さ. を支配する文法の出現、それをもたらす機械的記憶、こうした局面が. いまや、体系的な関心の下で、消極的な評価を受けるに至るのである。. 実際にそうした評価の典型的な場面を検討してみよう。『美学講義』. の中では、まさに悟性・アレゴリ-・文法が同列に並べられ、否定的 に取り扱われている。. 寓意(アレゴリ-)がまず第1になすべきしごとは、人間界ならび. に自然界に属する1般的抽象的な状態や性質(--)を人格化し、 したがって1個の主体として捉えることである.しかしこの主体的. なものはその内容からいってもその外形からいっても真にそれ自体. において一個の主体あるいは個体であるのではな-、ある一般的表. 象を抽出したものであるにとどまる。それはただ主体性の空虚な形. 式をたもっているにすぎず、いわば文法的主体ともいうべきもので. 〔寓意は〕 その意味が悟性によって抽象さ. れたものであってみれば、これを形態化する創造的考案に関しても、. あるにすぎない。(--). ではな-、直観が独自の「意味」を限りな-縮減させ、あらかじめ悟. 悟性のはたらきの所産であるというのは、正当であ&S'. 想像に固有の具象的な直観や心情の深さから発するよりも、むしろ れた直観の最高のモデルこそ、「最高度に内面性の刻印を帯びている. 性的形式にかなう形に調整されてのみ可能となる。そしてこの縮減さ. れるしかない。従って両者の総合は、決して両者の対等の調和的融合. 直観と概念の真の媒介として描かれた悟性的な総合、つまり音声言語. っまり「想像する」ことなのである。前節で触れたように、これは概. し、これは両者の体系構成におけるカテゴ-ー配置の違いから生じた. 両者の違いは、カントにおけるdiskursivなものからintuitivなも のへの推転が、ヘ-ゲルでは逆に第l次的にintuitivな表象から、む しろdiskursivな文法-言語への推転として描かれる点にある。しか. の成立として語られているのである。. 想像力を介した悟性による直観の思考、超越論的総合のハイライナと して描いた場面が、ここではまさに言語の成立として、しかも「文法」. 段階に設定される理性的な総合が要請される所以である。いったんは. 唯一の 「総合」 であるように見える。しかし真の同一性を指向する観. 言語の成立としての悟性的総合は、われわれが経験的に見出しうる. 一〇. 念と直観とが総合される最も基底的な場面である。そして、カントが. れは、カントにおける生産的想像力が調達する既にカテゴリ-性を帯 びた直観図式によ-似ている。自分にとって都合の良い仕方で直観を. 言語音は、感性的な制約を最大限に切り詰められた直観である。こ. 森本. ものであり、カントの生産的想像力とへ-ゲルの記憶は、同様に、概. (22).
(11) こうした股下が、体系論的な関心から出てくること、またこうした. レゴ-ー」である。これに対して「古典的」芸術は、言うまでもなく、. 徴的」段階である。先に引用した、悟性・アレゴ-ー・文法を股下し た条りは、ヘ-ゲルの分類における「象徴芸術」の中の最終段階、つ. 内容と形式、理念とその現象形態とが完全に適合し合一している「象. ルの『美学講義』の体系の中でも極めて注目すべき地点である。周知. まり「古典的」芸術への前段に位置づけられ、隠聴や直愉といった表. 議論の推移のパタ-ンが、既にカントに始まっていることは、6節と 7節で触れた通りである。このアレゴ--が置かれた局面は、ヘ-ゲ にように、彼は芸術の段階的な分類を行うに当たってカテゴリ-の濫. 理念が単に盲目的に表現を求めているのではないが、いまだ普遍的意. 現様式も具体例として検討されている。この局面は、なるはどもはや. 用とも言うべき独特の序列を作り出す。彼が用いる古典的/象徴的と いう二項対立は、普通の分類では象徴的/アレゴ--的とされるもの. 定されている。しかしながら、この意味と表現との区別および比較と いうことこそ、実際上あらゆる表現の理解において問題となる論点で. 'e5)である.理念は、へ-ゲルの場合、. であ態)ところでへ-ゲルにおいて美は「理念の感性的な現象」 味と形態とが区別・比較されながら結合しているにすぎない段階と規 単に経験を越えた理性の産物というのではなく、6節で触れたように、. あることは言うまでもない。「象徴芸術」の冒頭に述べられるように、. (dassinnlicheScheinenderlde. 概念が自己の外へ出て実在性を身にまといつつ、自己の同一性を再確. (zufallig)に結びついているが、「l般に芸術は、意味と形態とが類. 「象徴はまず表の記号であ毎記号においては意味. 証している、そうした絶対的な統1である。主観的なものと客観的な ものとの統一(つまり真理)が、更にもう一度、感覚的なものの内に. 即.T的に「現象」したとき、それが美だと言われるのであ態例によっ 縁関係をもち、相融合して具体的統一をなしていることにこそ、その. が、象徴論的な述定構造の「全体」の先取りであることは明らかであ る。『美学』における「象徴」というカテゴリ-の限定は、この全体. 部に立ち入ることは、われわれの関心事ではない。この展開の原動力. 伝え得るものであるためには「外へ出ること」が必要であり、外化は. 主観という(内なるもの)は自由にそれを選択し支配することができ るのである。一般に「有意味な記号としての表現」は、それが他者に. 本質を有する」。しかし言語記号の成立過程の記述に従えば、むしろ 直観的形態という(外なるもの)が偶然的・任意的であるからこそ、. て、体系は幾重にも折り重ねられる「同一化」の階梯である。その細. の象徴論的性格を隠蔽するための、ド・マン秒表現を借りれば、「防. 別され比較されうるような外面的なものの書き込み、記憶(aus-we. 物質的な「指標作用」(Anzeigen)を要請する.指標とは、互いに区. 「象徴的」芸術とは、「理念がそれ自体においてなお抽象的で、未. ndiglernen)、反復可能性であ&A'たとえ類縁性や融合を語ること. 衛的・イデオロギー的・検閲的な」戦略であると言えるだろう。 規定であり、したがってまたそれに適合した現象をそれ自身にそなえ. でこうした区別性を再び同一的なものへ遠帰させるにせよ、美学が. 文学研究における「言語」の問題. 11. 「表現の理論」である限り、その出発点は区別の観察と吟味にこそあ る。『美学』の第一局面が「記号」である必然性は、時間的=歴史的. ておらず、それ自身にとって外的な自然界の外物や人間界の出来事に. ヽ‖u.U. 森本. 対立している」段階である。理念という普遍的なものが先にあり、自 らにとって偶然的な表現を探しているというこの様式は、まさに「ア. (27).
(12) 文学研究における「言語」. の問題. の構造という共時的観点から理解する. れてゆ-にせよ、芸術一般の構造的基盤としての らざるをえないであろう。 の唯一の現実的なモデルは記号である。. しての側面が独自に着目可能でなければならない。現象の意味と理念. の意味とが区別・対立しうることば、いずれにせよ美の必然的な構成. 要件である。つまり「暖昧さ」と呼ばれているアレゴリ-的な分裂こ そ美にとって本質的なものであり、美が「表現」である限り帯びるで. あろう「記号」性の証左なのである。だからこそ、体系論的な観点を. 質-ならば、芸術はしょせん暫定的な段階にとどまるものであり、宗. 歴史的に位置づけられた「古典的」芸術の余りのはかなさ、芸術1. それが明らかであるからこそ、ヘ-ゲルは記号-アレゴ--としての. えなかったのである。そして、「古典的なもの」を準備する段階に再. 般が過去のものであるという断定。体系上の関心からもたらされる芸. 離陸を可能にする唯一現実的なモデルだからである。なるほどへ-ゲ. 作用こそが「古典的なもの」. 的な総合の逃れ難さを浮き彫りにしていると言える。機械的記憶によ る言語記号の創造こそが、感性的なものと主観的なものとの唯一現実. 術のこうした消極的な評価は、逆に見れば、芸術を規定する単に悟性. つまり普通に言う「象徴的なもの」. ルは、「古典的なもの」における内容と形式の即一的な統一を語る。. 的な総合のモデルとして、美的なものを呪縛し続けるのである。. ルがその叙述の中で幾度か「象徴的表現のなごり」. 記憶を特徴づける名と意味との総合は「空虚な秤」(dasleereBand). 的にへ-ゲル的な意味で美的なものではないのである。しかし、記. 相互浸透とは似ても似つかない。それは語の通常の、あるいは古典. であり、象徴的芸術を特徴づけるような、形式と内容の相互補完・ に依存することなしに、. 「古典的なもの」を「語る」. 行う唯1の活動であるのだから、記憶こそが真理であり、美的なも. 憶による総合は、知性が理念の感性的な現象として生起するために. るものを規定するということではな-、「表現」としての芸術の構造. を持つためには、抱懐するものを忘れ、機械のような外面性に到達. のはその防衛的・イデオロギー的・検閲的な翻訳なのである。記憶. ゲルの定義するようなものであるのなら、それが理念そのものではな -、理念の感性的な「現象」(Scb①in) である以上、外面的な形態と. 「われわれは名において思考する」とへ-ゲルは言う。しかし名と. 意味するドイツ語が示しているように、外へと向かうことである。. 来的意味」との軌範を不可避的に引き起こす。実喝もしも美がへ- できなければならない。それは、ausw①ndig-erロenという暗記を. ゲルが「象徴の暖味さ」として指摘している「本来的意味」と「非本. が記号論的に語ることを要請するのである。そしてこの構造は、ヘ-. が見出されるのである。それは、単に歴史的に先行するものが後に来. ことばできないということの一つの徴候. てよいであろう。そこには「象徴的なもの」. に言及し、それ杏. の象徴賛美と同様、さして説得力のあるものではない。ただ、ヘ-ゲ. ギ-シア神話を例にしての貝体的な記述そのものは、この時代のほか. への. び文法的主体とアレゴ-ーが登場するというのも、単に悟性的な記号. 教と哲学へ向かって「止揚」されねばならないことになる。. 「統一」. 三. 「象徴」を、芸術一般がそこから出発する発端として位置づけざるを. 実際、主観と客観の. 「記号」性は常に残. べきである。とすれば、歴史的=弁証法的な観点からはそれが克服さ. な観点からではな-、「表現」. 森本. 否定する仕方で内容と形式の即一性を肯定しているという点は着目し. (30).
(13) (-・⊥知覚よりは思考が、象徴よりは記号が、絵画や音楽より は「書かれたもの」が芸術のパラダイムである限りにおいて、想起. 外面的で表面的なものにとどまるのである。. ものと理解されるものとの関係、書かれた文字と意味との関係は、. は、ヒエログ-フ的な無言の書き込みであり、そこでは知覚される. してこうしたアレゴリ-こそが、ヘ-ゲル以前も以後も、まさに歴史. と、これがアレゴリ-の力であり、またアイロニ-の力でもある。そ. continuity)としてのアレゴ--である。それを通じて意図されてい. ではな-、離接・分離・不連続(disjunction,dissociation,and. はしばしば言われるような、総合し和解させる力としてのアレゴ--. dis・. ると思われるものとは全-違う、あるいは対立さえする何かを言うこ. よりも記憶が芸術のパラダイムであるとも言えるだろう。またその. であるが、それは芸術が、記憶と同様、. 限りにおいて芸術は実際、プルーストの言葉を使えば、決して二度 と捉えることのできない、再び見出されえない過去に属するのであ. て説明することはできないのである。通常の歴史という概念そのもの. するものである以上、『アレゴ--性』を歴史というようなものによっ. という概念の構成を、つまり歴史の哲学、哲学の歴史の構成を可能に. る。芸術は「過去のもの」. が、アレゴ--の効果の三なのである(]%). よそのところデ-ダやド・マンと同じ論点を巡るものであると言える。. 正確に紹介したものではない。しかしわれわれが検討した問題は、お. 第5節から8節にかけての検討は、脱構築におけるへ-ゲル読解を. 経験の内面化を永久に置き去りにするという根抵的な意味において そうなのである。理念的な内容を物質的に書き込み、そうすること でそれを永久に忘却する、その限りにおいて芸術は過去的なもので ある。『美学』における二つの中心テ-ゼ. のアレゴリ-の位置を見定めることである。最も意外なことは、「表. その論点とは、歴史的なものとして構成される体系の「隅石」として. が和解する 象」と「芸術はわれわれにとって過去のものである」〕 とき、確実な哲学的カテゴ--としての美的なものは犠牲となる。. 象」における象徴的な同1性. 〔「美は理念の感性的な現. それゆえ『美学』が美と呼んでいるものが、われわれが象徴的な形. なもの」をなすことが認められているにもかかわらず が、体系に とっての基礎とはならないということ、そうではなく言語が、そして. そしてそれこそが、「芸術の形式的. 式の暗示性と関係づけているようなものとは極めて隔たった何かで. あることが明らかとなるのであ態). それをあからさまに言語的なものとしては語らないカントの場合には. 「生産的想像力」による経験の総合が、真に現実的な同l性の唯1の. モデルとなることであった。主観主義を貫徹しようとする限り、体系. なるはど先行する存在-神学的な象徴論は、この悟性的なものを有限. の現実的な礎石は悟性的な総合の局面に見出されるしかない。そして. ston㊤)のように機能する」 と結論づけている。デ-ダは、ド・マン. の暫定的階梯として克服する物語を措きはするが、現実的にこの「隅. 三. の追悼講演の中でこのヘーゲル論を取り上げ、次のように述べる。. ゴリ-的にも論理的にも、体系全体にとって欠陥を帯びた隅石(corner・. -. -. 右」の内在的な制約を抹消することばできないのである。それは、第 文学研究における「言語」の問題. 森本. 「彼は、ヘ-ゲル主義の内に或る特殊なアレゴリーを見ている。それ. (33). ド・マンは、ヘ-ゲルの体系を論じながら、「アレゴ-ーは、カテ. 9.
(14) 文学研究における「言語」の問題. な立穴」にまどろむ(外なるもの)を田心い出させるからである。なる. いまだに直観の偶然的制約を引きずっているものと映り、「夜のよう. なぜそうなのか。それは既に第5節で検討した通り、表象の総合は. る。言語のレヴュルで言えば、一九世紀にしばしば言われたアレゴ. 己認識から逃れようとする防衛的な戦略とのあいだの葛藤に変化す. 時間的な苦境の中に見出されるという自覚と、こうした否定的な自. する時間的関係の中に位置づけられる。それは、自己が紛れもな-. すらっていられないのは、われわれ自身が、自己を自己として確証す. か。絶対者自身、つまりわれわれ自身である。絶対者が無時間的にや. を図るべく、われわれ自身である絶対者は、いったん時間性の中へ、 自らの外へ出ることを要請される。その筋書きはだれが書いているの. 「歴史という概念そのものがアレゴ--の効果である」とはそうい うことである。存在=神学的な防衛戦略として象徴的なものの再確証. つなのであ態). はど(外なるもの)と(内なるもの)との真の総合は、実はそうした. 生起すべきものであった。しかしカン-はそうした真なる総合を現実. 的に1言い換えれば経験的に 語ることは可能でないこと、それ これを不満として「直観的悟性」という神的な知性をモデルにした保. 持・解消の力学(Aufbebungの運動)を描こうと試みる。しかし結 果的には彼の体系そのものが、その「語りえなさ」を露呈させること. になる。というのもまさに披こそ、主観的なものの現実的な. ー. 印を見出さざるをえないからである。. 間性の対立であり、(内面化された外なるもの)と意識に現前しない. 象徴とアレゴリ-との対立は、宥和を導-歴史と分離をもたらす時. からである。存在=神学的に前提される全体的・絶対的な同一性の. な普遍記号法のアイデアを批判する。なぜなら概念が自己を外化する. となるのである。ヘ-ゲルは、ライプニッツに代表される十七世紀的. ル自身が暗示するアンビヴアレンツを顕在化させるなかで、理解可能. (エクリチュール)という概念なども、ヘ-ゲ. 「述定」は、体系そのものが悟性的な総合における主語と述語の単に 文法的な結合を「隅石」としている限りで、現実的には分離され非連 続化されるしかない。そして、絶対的な「述定」が産み出すべき象徴 は、原理的に非時間的な同一性であるにもかかわらず、それが時間的 に展開されざるをえないという点にこそ、ヘ-ゲル的体系の最も本質 的なアレゴ--性が見出されるのである。. きる。例えばデ-ダの. (外なるもの)との対立である。それはまた、何度も言及してきたよ うに、悟性的なものの肯定的かつ否定的な評価と関連づけることがで. に悪意的な支配にしかありえないことを、体系の「隅」に書き込んだ. 確に洞察し、語り得る同一性が悟性的なものによる感性的なものの単. では「心理学」的な∼記述において、思考・記憶・記号の連関を的 る地点に、アレゴ--的なもの、つまり記憶という時間的な機能の刻. ここ. リーに対する象徴の優位とは、この執扮な自己神秘化の形態の一. 主観と客観との弁証法は今や、アレゴリ-的記号の体系の内に存在. 垂雪. 制約を保持しながら、つまり(外なるもの)の外面性を保持しながら、 それが(内なるもの)と同1であることを確証する、そうした仕方で. という点に、如実に現れている。. 一次的な「表象」の総合を体系の基礎として措定することができない. 森本. は指し示すに留まるしかないことを見抜いたのである。ヘ-ゲルは、. -.
(15) せよ、数学的な記号表記法にせよ、文字と概念との直接的連結に象徴. ぅ発展階梯を完成させるかに見えながら、実際には思考の可能性のた. である限りにおいては、魂を吹き込まれることなくわれわれを囲擁す る見知らぬ死者の墓となる。そのとき言語は、直観・表象・思考とい. 真の具体的な様式は音声言語のみであり、エジプトのヒエログ-フに 的な総合を見出すのは悟性的抽象に過ぎないからである。既に触れた. だ中に、あの「生ける現在」に型糾せず、知性が魂を吹き込むことの. たあらゆるもの、つまり終末論以外のあらゆるものは、(エクリチエー. の形態」としての音声の特権性の失効でもある。「ヘ-ゲルが思惟し. ように音声が唯1の真なる直観的媒介であるのは、立ち現れては瞬間. の記憶であり、物質的な書き込みとその保持. できない「夜のような・過去のイメージ」を再び書き込むのである。 もちろんこれは、「最高度に内面性の刻印を帯びているような外面性. 「名」. 的に消える特性を持ち、主観に対して最小限の感性的制約しか及ぼさ ないからであった。しかしこうした仕方で直観を調達する悟性の作用 とは、音としての である。それが最も完全に機能し「思考」をもたらすのは、知性-悟. ル)についての省察として読み直すことができる」. もしも記号が、自らを忘却することで想起させようとする精神の逆説. まさに記号は、魂の記念であるとともに忘却の記録なのである。だが. 直観である。つまり、中に他者の魂を安置し保存するビラ-ツドであ る」(S458)と言ったへ-ゲルの比噛の的確さがここでも目を引-。. それが自ら持っているのとは全-違う内容を表象するような直接的な. 連続性、つまりアレゴ--的な関係を実証するのである。「記号は、. 記される自己の魂を忘却し、(内なるもの)と(外なるもの)との非. 的弁証法の体系の中で、つまり一般に自らの本質が体系そのものの. は確実性のあるものとなるのか。もし疎外の「止揚」が計算可能な. し、精神が自己自身にとって不在となるとき、こうした操作の帰結. 同じ等価の体系に属するにいたり、それらの作用が以下のような同 じ問題を提起するのである。意味が失われ、思考がその他者に対立. が言われていた。今や計算、機械、そして無言のエクリチュールが. そこで、それらの作用の必然性、それが直視されねばならないこと. 『精神現象学』の序文が、悟性、形式性、数学的なもの、否定的な もの、外面性そして死が等価であることを述べていた。そしてまた. 読解は、確かに1つの解釈に過ぎないかもしれない。しかし彼の読み. とするデリダの. 性が、「精神を欠いた語の保持者」あるいは「機械的な記憶」. 直しを正当と思わせるような裂け目が、ヘ-ゲルの体系自体の内に含. となる. 場合であることを、ヘ-ゲルは的確に見抜いていた。しかし、ド・マ ンが言うように「名とは、ヒエログ-フ的な無言の書き込みであり、. まれていることも確かなのである。. 的な企投だとすれば、この投げ出しは真に再回収可能だと言えるであ ろうか。回収されない忘却の可能性を知っていたからこそ、『パイド. 内に包摂されるような弁証法の内部で、叙述することが可能なので. 一五. 確実性を持たないとすれば、それでもなお疎外について語り、思弁. ロス』の中でプラトンは、文字を弾劾したのではなかったか。音声と. の問題. あろうか。もし死への投資が完全には回収されえないとすれば、否. 意味との関係は、外面的で表面的なものにとどまる」。機械的な記憶 において知性は、物質的な刻印に身を委ねることによって、そこに表. そこでは知覚されるものと理解されるものとの関係、書かれた文字と. (36). しての言語そのものは、記憶されるべき「過去」の物質的な書き込み 文学研究における「言語」. 森本.
(16) 文学研究における「言語」の問題. 献する仕方で作用することのないもの、それでも純粋な欠損として. 否定的なものとして作用しはするが、そのようなものとして出現す ることがな-、つまり自らを「現前させる」ことがなく、意味に貢. されえないような「否定的なもの」とは何であるのか。要するに、. 定的なものの作用についてなお語ることができるだろうか。「止揚」. 森本. 作用し続けるであろうような、そうした否定的なものとは何である. のi:・‥.. ill. の問題はどのように取り級. IE;i. す。「差延」「痕跡」「間隔化」「散種」といった一連の「概. びついている。デ-ダとド・マンのへ-ゲル読解は、象徴/アレゴ--. 第5節以降の観念論体系におけるアレゴ--論・記号論の検討が示す ように、象徴/アレゴ--というトポスは、われわれの認識能力との は、機. 械的記憶の解釈として出てきたものであると言えるであろ 言語に おける非現前的な契機が、言語の意味といったものをどう規定してゆ -のか、また言語を通じてのわれわれの相互理解が、記憶という本質. (記号). の裏側に読み出す「記憶」. (Gedacht・. の対立の中に、西欧思想の最も根本的な構制とそこに含まれ. いったい何が問題であるのか。文学の言語がまさにその遂行である. ような言語の「アレゴ-ー性」(a--egoricity)から常に目を逸らさな. いこと、その効果について常に配慮することであろうか。もちろんこ. れは不正確な言い方であり、アレゴリ-的な離反や複数性が記号作用. 合う行為のパラダイムとなる。しかし、こうした認識を一種の批判的. でなければならないのである。そうした意味で (文学)とは、あらゆ る意味作用のモデルであり、何事かを語り、書き込み、読み、理解し. それゆえアレゴ--の論理1は、その展開が今後に 一般の特性である限り、われわれはあらゆる意味作用に対して警戒的. つまり象徴. 関係において言語をどのように位置づけるか、またその論述をどのよ うな理論的な構えにおいて展開するか、という基本的な問題と深-結. 的な動作によって可能になるのはそもそもどういう機制によってなの. 思想史的エピソードとしてこの二項対立を取り扱うためではなかった。. る象徴/アレゴ-ー論の検討という形で進めたのは、もちろん一つの. この考察を一八世紀末から一九世紀初めにかけての観念論美学におけ. というメタ=フィギュアによって規定してゆ-可能性を探ってきた。. 沿いながら、差し当り (文学) を、「ジャンル」的同1化を不可能 にするような言語のあり方として捉え、そうした様態を「アレゴ--」. われるべきなのかという問題意識から出発している。デリダの議論に. われわれは、文学研究において「言語」. ー0. る裂け目を摘出する視点を開いたのである。. 礎. 念論を越えて生き残ったへ-ゲル的「内面化」の論理の枠組によって いまだに強-規定されている限りにおいて、脱構築が「内面化」(Erinnerung). -. ゆだねられた最も重要な言語理論のモデルであると言えるのである。. nis)の論理. - -. (39). か、こうした問いはより立ち入った言語哲学的な考察を要請するであ ろう。そして、二〇世紀の言語学や言語哲学の多くが本質的には、観. のメカニズムを、精神としての自己に現前することのない、回収=再 自己固有化(reappropriation)不能な記憶刻印の作用として読み直. こうした問題意識から出発してデリダは、ヘ-ゲル的な「内面化」. I.
(17) な知として提起することが真に重要なのではない。問題は、アレゴ--. としての(文学)が常に隠蔽され抑圧されてい㌃という事実を直視す ること、そして象徴的同1化のイデオロギ-に対して、実践的にあら がうことである。. であろうとするのか、またなぜしばしばそれ. 文学の理論が、なぜ常にジャンル分類(内容による、あるいは詩学 的なカテゴリーによる). 修&;]'もまたしかるべき効果を生じるのである.しかし、それが修辞. であり「時間的配列」(periodization)という愉(trop㊤)であることが. 忘れられ、すべてがそこへと帰趨する絶対的な前提として思念され始 めるとき、この「歴史」なるものは、既に悪しき思弁の産物でしかな. いので砿i.. ルの関係を体系化するとき、また集団のあるいは個人の意識の展開、. だからである。「表象モードの違いに即して様々な芸術形式やジャン. われわれの殆どはヘーゲル主義者であり、しかも極めて保守的なそれ」. 「自覚するとしないとに関わらず、また好むと好まざるとに関わらず、. 語を語り、書き込み、読み、理解する行為において提示され続ける不. た抵抗の思想であるからではない。象徴化する力に対する抵抗は、言. 論の誘惑にあらがうことである。しかし(文学)がメタ=フィギュア としてのアレゴリ-であるのは、繰り返すように、単にそれがこうし. 弁的解釈学や美学的思考の形をとって繰り返し姿を現す(体系=象徴). 重要なのは、そうした修辞の絶対化に抵抗すること、歴史主義や思. つまり進歩や後退として、歴史的な配列を構想しようとするとき、わ. 断の実践なのである。(文学)にとって問題なのは、否定の思想をそ. が様式の歴史として語られるのか。それは、ド・マンが言うように、. れわれはへ-ゲル主義者である(]%)作品の意味を作家の個人史や時代. れ自体「自己同一的」な言説として宣言することではない。そうでは. 本質的に、いかなる理論によっても「回収」しっくすことができない のである。なぜなら、もしそうした回収を試みようとすれば、言語が. 反したりしながら、無限に多様な言語行為を遂行する。その事実性は. て、あらかじめ設定され「内面化」されたル-ルや規範に従ったり違. 実際われわれは、「現に今・このように」語り理解する行為におい. 在するというその事実に就-こと、その一回性を前面に際だたせるこ とが重要なのである。. 伝-、その都度語り理解する行為があるという事実、まさに言語が存. 状況の展開によって解釈し、テクストの内在的な特質をそのジャンル 文学の「理論」はそのような仕方でしか可能. とではな-、ヘ-ゲルの体系そのものにおいてそうであるように、 (体系=象徴)のただ中に、それを解体させる(外なるもの). 発生するあらゆる瞬間とあらゆる場所で新たな理論が必要となるから0 しかし、この個別的・特異的な表出と理解の存在ということこそが、. 性が書き込まれざるをえないことを、見届けることである。なるほど、. 時代区分やジャンル分けは索出的な装置として生産的に見える。修辞. の問題. 右. 言語使用の最も単純な事実なのである。元来(文学)とは、こうした 文学研究における「言語」. 森本. ががんらい認識論的な道具として機能するという意味で「歴史という. の可能. ことば、確かに困難である。しかし重要なことは、単純に外へ出るこ. 音声中心主義の不可避性との証左でもあるだろう。「理論」的なスタ ンスをとろうとする限り、ヘ-ゲル的な(体系-象徴)論の外へ出る. でないと信じるとき、われわれは最も執謝なへ-ゲル主義者なのであ る。それはまた近代的な主観主義の根強さと、デリダの言うロゴス-. 的な構造に還元する. -.
(18) 文学研究における「言語」の問題. 面化」とは主観による多様性の縮減であった。言い換えれば、個別事 によって一般性へと還元する操作である。これは、あ. ノ\. Spirit,edited. and. trans・. )atedwithanintroductonandexp)anatorynotesbyM・J・Petry,10)・. 仙Hege),Hegel.sPhilosophyofSubjectiue. 260⊥.以下、本書からの引用はパラグラフ番号のみを行間に指示する。. (.[stwAusgabe}Werke)0].S453.Zusatz,Suhrkamp,)986,S・. ㈱G.W.F.Hegel.Enzyklop&diederphilosophischenWissenschaften目,. 理想社、一九八九年、一七六頁。. ヘ-ゲル美学とヘルダ-リ.ン』 ㈱四日谷敬子『歴史における詩の機能-. 川言語に関するへ-ゲルの言及を広-扱ったものとしては、TheodorBodam・ mer,HegelsDeutungJerSprache,F・M2iner,)969がある。また、麻 生健『ドイツ言語哲学の諸相』東大出版会、一九八九年、第四章は、『精神 現象学』の文脈での言語論を論じる。. 注. へ進もうとする指向によって特徴づけ. "Th2PitandthePyramid:. の考え方が、J.H.Herbartの心理学 えるこうした 「無意識的保存」 の影響を受けていると推測している。. IntroductiontoHege)'sSemiology",inMargins.fPhilosophy,Univ・. 愉JacquesDerrida(tr).byAlanBass).. of. Mental. -. -. AdBerliches)とは、分節化された音(derartiku)ierteTon)、つまり. なければならない。そうした内にある外なるもの(Einsoinnerliches. れの思想について知り、はっきりした現実的な思想を所有するのは、 思想に対して対象性の形式、つまりわれわれの内面とは違う存在の 形式を、それゆえ外面性(dieAuBerlichkeit)の形態をあたえるとき であるが、この外面性は、同時に最高度の内面性の刻印を帯びてい. 「知性を通じて言語記号(Sprachzeichen)は、外なるもの(ein Ber)iches)から、内なるもの(einlnnerliches)へと変化させられ、 この変化した形式において保持される (--)。われわれがわれわ. Univ.Press,)988,p.)52.. ㈲wi))em. 仰. こうした問題について積極的に語るためには、「翻訳」「(言語)行為」. 「規則=法」「約束」「肯定」といったトポスを巡る言語哲学的な議論. へと進むことが必要があり、それはわれわれにとってまた新たな課題 となるであろう。本稿は、象徴論的なモデルに内在する形で、その自 のイメージに依る限り破壊的な杏. 己解体的な論点を摘出したことで満足せざるをえないのだが、それは 象徴論的・「内面化」的な「理論」. への試みなのである。. 定と見えるにもかかわらず、「別様に」見るならば、(文学)として の言語を象徴論的な言説に押し込めて萎縮させてしまわないための、 新たな「肯定」. Au・. ofChicagoPress]1982,p・69・)08・デリダの思想とへ-ゲル記号論の られている。脱構築における「別様に」というモ-ドは、これに対し ヘ-ゲル 「書字と像 関連については、以下を参照。佐々木俊三 て「言語」の複数性を議論の出発点に据えるものであ態)もちろん、 『エンチクロペディ』の言語論に寄せて 」、東北大学文学会編 『文化』第四六巻第一・二号(一九八二年)一-∵九頁。 Actit,ity,Corne)) Theory A.deVries,Hegel.s. まり常に一個の大きな「言語」. 換えれば、自己「回顧」的・「透視」的な 主観主義の原理に立脚 した学知の形態である。それは現象の複数性から規則の単一性へ、つ. らゆる科学の基本的な操作であるとともに、近代の反省的な1言い 3.Reidel,)978.p,405なおP2-ryは、フロイトを先取りするとも言. 象を「形式化」. 写しようとする試みなのである。ヘ-ゲルにおいて見たように、「内. いう行為の事実を、象徴論的な理論的回収のモデルとは「別様に」描. ることば、われわれが言語を用いて何事かを語りまた理解していると. こうした見地から言えば、脱構築がアレゴ--論によって行ってい. び肯定してゆ-か、という問題なのである。. の問題とは、この一回的な行為としての言語の事実性をどのように再. 見なされているのではないだろうか。文学の理論にとっての「言語」. 特異な表出として発生し、特異な理解を通じて伝達されてゆくものと. 森本. -.
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