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古代中央アジアの[シャン]善国の主簿ソーンジャカについて(2) : [シャン]善国の官僚とその家族関係

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(1)Title. 古代中央アジアの[シャン]善国の主簿ソーンジャカについて(2) : [ シャン]善国の官僚とその家族関係. Author(s). 山本, 光朗. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 65(2): 1-12. Issue Date. 2015-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7706. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第65巻 第₂号 Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 65, No.2. 平 成 27 年 ₂ 月 February, 2015. 古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて(2) ― 鄯善国の官僚とその家族関係 ―. 山 本 光 朗 北海道教育大学旭川校史学研究室. On Som jaka, who was Chu-po(主簿),or Chief of General Affairs Section, ・ of Shan-shan(鄯善)State in Ancient Central Asia(2) ― An Official of the State of Shan-shan and his Family Relation ―. YAMAMOTO Mitsuo Study of History, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education. ABSTRACT Cozbo(=Chu-po 主簿)Som jaka, who was a governor(rajadhara)of Cad́・ota province in ・ the State of Shan-shan (鄯善)which was in the south-east of Hsinchiang Uighur Autonomous Region in the 3rd-4th century AD, had mother and a son who was a scribe that was classified as the educated class, and had a brother Alýaya who was ogu, or most jaka seemed to have been of a high-ranking official, in the State of Shan-shan. Cozbo Som ・ good background like this, therefore, Mahiri, a king of the State of Shan-shan dispatched him from the Capital Kroraina(楼蘭)to Cad́・ota province, and made him rule Cad́・ota jaka ruled there in effective way to some extent. His rule, Province to the west. Cozbo Som ・ na)disobeyed him and however, did not perfectly succeed, for local noblemen(ajhate jam ・ there was much uncollected amount of tax left in his local government. The central government was not so strong in State of Shan-shan, but local noblemen were so strong on the other hand. We, therefore, could say that politics of the State of Shan-shan were not characterized by centralization as some scholars had pointed out, but by a tendency of decentralization of power.. 1.

(3) 山 本 光 朗. はじめに 私は前稿「古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて ⑴」において1,紀元前2C以前から,紀 元後5C中・末期(448年,または491-493年2)まで,中国の新疆維吾爾自治区の東南地域(東部はロプ=ノル 地域,西部はニヤ遺跡群に及ぶ地域)に存在した鄯善(以下では「シャンシャン」と表記する)国の,マヒ リ王の治世(283-310年,または303-330年3)の4~22年に実在したことが確実な,主簿(cozbo4)ソーンジャ jaka,またはソーンジャクSom jak-a)の事跡について触れた。そして,そこでは,この人物がシャ カ(Som ・ ・ ンシャン国西部のチャドータの町(ニヤ遺跡群地域)において,有力な人物として,「太守5(rajadhara)」 となり, 統治した姿について明らかにし,同時にニヤ遺跡群北部から出土した木簡に記された漢字名「蘇且」 なる人物と同一人と見なし得る可能性があることなどについて指摘した6。 小稿はそれを受け,こうした有力な人物の家族・親戚関係等について検討を加え,かの人物の有力さの背 景は何であったのか,それが古代中央アジアのシャンシャン国の,どのような特殊性を反映したものなのか 等について,明らかにするものである。 なお,以下で,小稿が扱う現地文書カロシュティー文書の内容等については,基本的にA.M.Boyer, E.J.Rapson,E.Senart,および P.S.Nobleらが解読・編集したKharos・・thī Inscriptions discovered by Sir Aurel Stein in Chinese Turkestan(以下Kh.I.と略記する), Parts, I-III, 1920, 1927, 1929, Oxfordに拠っていること をあらかじめ断っておく。. 1 主簿ソーンジャカの母と息子 前稿で明らかにしたように7,シャンシャン(鄯善)国西部のチャドータ州(ニヤ遺跡群地域)において, 4C初め頃, 「太守(rajadhara) 」として統治した主簿ソーンジャカには,母と書記ナンダセーナという息子 がいた。小稿ではまず,この点を再度押さえ若干の補足を行うことから始める。 ソーンジャカの母はその名を明らかにしないが,マヒリ王7年3月5日の日付があるカロシュティー文書 No.415文書に, 1  拙稿「古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて ⑴」(『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編) 』 64-1,2013年,pp.61-76.)。 2  馮承鈞「鄯善事輯」1943年,『西域南海史地考証論著彙輯』 (1976,中華書局香港分局)所収,pp.17-18。 3  マヒリ王治世の実年代に関しては諸説があるが,代表的なものは283-310年としたJ.Broughのものと,303-330年とした 榎一雄のものである。これについてはそれぞれ,J.Brough, Comments on the third-century Shan-shan and the History of Buddhism, 1965, BSOAS, XXⅧ-3, pp.594-605,榎一雄「法顕の通過した鄯善国について」1967年,『榎一雄著作集』(汲古 書院,第1巻)所収,pp.121-126,を参照されたい。 4  チョーヅボー cozboと「主簿」の対応を最初に指摘したのは,榎一雄である。榎一雄「中央アジアオアシス都市国家の 性格」,『榎一雄著作集』(汲古書院)第1巻(1992年)所収,p.357参照。cozbo=主簿説の問題点については,市川良文「職 掌からみたカローシュティー文書中の Cozboと漢語の主簿」 ( 『西南アジア研究』54,2001年)が分かりやすい。ただ cozbo= 主簿説の問題点は,決定的に否定も肯定も出来にくいところに問題がある。私は榎説が客観的に見て妥当性が高いと考えて おり,小稿でもその立場から論を進めている。 5  前稿「古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて ⑴」ではrajadhara-の訳を「国守」としたが,小稿では以 下で,「太守」の訳を与えることとする。 6  後述,第2章参照。 7  拙稿「古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて ⑴」 ,pp.71-74参照。. 2.

(4) 古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて(2).  コータン人らがチャドータの町を掠奪した時,その時,かの女ツィナーを若い3人のコータン人が連れ去った。彼ら は来た。キンツァイツァのルトゥの農場で,主簿ソーンジャカの母に,贈物としてかの女ツィナーを与えた。コータン 人らは,息子・娘らと一緒に(かの女ツィナーを)与えた。 (yam kala khotaniye cad́・ota raja [parasitam ti], tam ・ ・ ・. . kalam mi ta striya tsinae khotaniye tre manave8 aǵ ajhidam ti. ayida(m ?)ti. kim tsayitsa lut・huasa got・ham mi cozbo ・ ・ ・ ・ ・ ¯ jakasa matuae las¯・i titam ti ta stri tsinae. sadha putradhitarehi titam ti khotaniye.) som ・ ・ ・ ¯. とあり,以前,コータン人によってチャドータの町が略奪されたことがあり,その時,連れ去られた女ツィ 9 」として,主簿ソーンジャカの母に与えたことが ナーを,コータン人が息子および娘と共に, 「贈物(las¯・i). 記されている。この文書で注目すべき点は,略奪したチャドータの女ツィナーらをコータン人が,主簿ソー ンジャカの母に「贈物」として贈ったというくだりであって,このことから,ソーンジャカの母,ひいては ソーンジャカ自身が,外国人たるコータン人にとって一定の敬意を払う存在で,社会的に上位にある人物で あったことが分かる。 ついで主簿ソーンジャカの息子については,中央アジアの考古学者 Steinがニヤ遺跡群のN.V遺跡で発見 した,羊皮製10のカロシュティー文書の書信,No.385(遺物番号N.(V).xv. 34611)の内容から,その存在が判 明する。すなわち同文書の裏側(内側)に,次のような記述があり,不十分ながらもその具体的な姿が認め られる12。なお,前稿では本文書の説明と本文末尾を省略したが,小稿では本文全文を出し再検討の結果を 加える。  主で,見目麗しき人,生ける神,愛する父,偉大なる人である,主簿のソーンジャカの足下に,書記のナンダセーナ が敬礼(し),健康を送ります,計り知れないほど無限に多く。あなたが健康であるので,私は喜んでいます。私も,あ なたの恩恵により健康です。このように知らせます,全てはあなたのご明察どおりです。あなたが,ここにいる私に仕 事を送れば,そのように,私は怠りなく受けます。文書配送人により(?) ,滞りなく,送ります。.  また,私は,そこの人から,沙門サンガラタから敷物(arnavái)13を,スヤンマからフェルトを,チャルのジモーヤ からフェルト1枚を,マラヴァラのクウィニェー(ヤ)からフェルト1枚を得るべきです。彼らに,はっきり命令がある べきです。彼らはいそいで,これ(ら)をここに送るべきです。.  また私は,報告します,ここで…支払われるべき(kicamaǵa14)です。文書配送人らの手で,茜草(rotamna15)が送ら ・. れるべきです。報いることが出来ます16。. (bhataraǵ as a priya[darś anas a pratyakhksa]devatas a priyapitu mahamta cozbo somjakas a padamulammi divira ・. ¯. ¯. ・. ¯. ・. ・. ¯. ・. 8  T.Burrow, A Translation of the Kharos thi Documents from Chinese Tuekestan (以下 A Translation.と略記する), London, ・・ 1940, p.84, No.415のNotesにより,manareの語をmanaveと改め解釈した。 「贈物」と訳すことについては,T.Burrow, The Language of the Kharos thi Documents from Chinese Turkestan, 9  las¯・i-を‘ ・・ Cambridge, 1937 (以下では Kh.D.と略記する), p.115, las¯・i-を参照。 10 羊皮(sheepskin)製については,M.A.Stein, Ancient Khotan, Oxford, 1907, pp.344-345参照。 11 Stein, Ancient Khotan, p.409. 12 v. Kh.I.,I, p.138, N.(V.)xv.346, Document on leather. 13 以下のarnavái-, namata-等と,それらが「税物」として徴収されたらしいことについては,拙稿「カロシュティー文書 No.714について」(『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編) 』 ,52-2)を参照されたい。 14 kicamaǵaの語義についてはとりあえず Kh.D., p.82, kicamaǵa-を参照. na-およびH.W.Bailey, Dictionary of Khotan-Saka, Cambridge, 1979, p.366, rrūnai-を参照. 15 Kh.D., p.114, rotam ・ 16 この部分の訳は分かりにくく,とりあえずBurrow, A Translation, p.78, No.385によっている。. 3.

(5) 山 本 光 朗. nam dasena namakero, arogi pres・eti, bahu aprameyo [a]dhimatra. s・omi [s・atosmi]17 yo tuo aroǵesi. aham ca aroǵemi ・ ・ ¯ ¯ tahi prasadena. evam ca viñati saca, sarva tahi divyañanam mi. yo tuo iśa mahi karya choris・yasi, taha ahu uparyam ・ ・ ・ ¯ ¯ ́ mr・dhena pad・ichami. lehare [aśes・e] visajema. avi ca mahi adehi jam nasa paride gim nidavya śramam na sam garatha[sa] ・ ・ ・ ・ ¯ ¯ ¯ paride arnavái, suyam masa paride namata, caru jimoyasa paride namata 1, maravara kuv́iñeyasa paride namata 1. ・ ¯ ¯ ¯ tes・a pid́・ita anati siyati. cavala [e]da iś a pres・eyam ti. avi vim ñavemi iś a kicamaǵ a .. .. ś a iś a a mi. lekha[raǵ a]na ・ ・ hastam mi rotam na prahidaǵa bhaveyati. śa[khya] pratikarya karam nae.) ・ ・ ・. この書信の差出人は,チャドータではない別処に派遣された書記ナンダセーナで,父の主簿ソーンジャカ に宛てたものであるが,受取手の主簿ソーンジャカが居たのは,想定外の事情が無い限り,この書信が発見 された, ニヤ遺跡群中北部のN.V.xv建物址であった筈である。また,書信は羊皮製のカロシュティー文書で, この種の文書は,多くの場合,急用の書信に使用されたものなので18,書記のナンダセーナが別処に派遣され, その旅中,ある場所から急用として発信したものと見なすことが出来る。なお,「別処」がどこであったか については,前稿において主簿ソーンジャカの「所領地(kilme)」ではなかったかと推定したが19,本稿で は後文で,それを改めて首都クローライナであった可能性について触れる。 書信の内容は,まず冒頭で, 「貴方が健康で,私は喜んでいます。私も,貴方の恩恵により健康です」と 述べていることから,ナンダセーナが以前に一度,父ソーンジャカから旅中において職務に関する書信を受 け取っていたことが判明し,同時に,この人物が「別処」に一定期間,滞在していたことが分かる。 書記ナンダセーナの,父ソーンジャカ宛の書信は,  このように知らせます,全てはあなたのご明察どおりです。 と現地の状況報告で始まり,主簿で,後に触れるように太守(rajadharaǵa)であった父ソーンジャカに宛 てた依頼が書かれている。すなわち,父ソーンジャカ治下の民,沙門のサンガラタやスチャンマ等から,敷 ・フェルト(namata)を送らせるよう依頼しているわけであるが,この個処は彼らからの税 物(arnavái) 物の未徴収分があって,それを送らせる必要が生じたものと見られる。そして,最後に,父ソーンジャカに na)を送るよう依頼している。 対しておそらく染色に使用した茜草(rotam ・ 「敷物(arnavái)」「フェルト(namata)」そして「茜草」などは,この国において,税物として徴収さ れたものであるが20,このことをふまえれば,主簿ソーンジャカに,教養階層に属する「書記」21ナンダセー ナなる息子がいて,彼が旅中から,税物の未徴収分を送付させるよう父ソーンジャカに依頼したことになる。 このような「税物」に関わった案件で,何故に,息子で「書記」のナンダセーナを派遣したか,この点が不 明であるが,この書信が示す内容は,明らかに息子で書記のナンダセーナが不足した「税物」を送らせるよ う主簿ソーンジャカに依頼しているわけであるから,その送らせる「地」が,税物が集積された首都クロー. 17 v. Kh.I.,Ⅲ, Index Verborum, p.374, s・omi-. 18 羊皮製文書が旅中あるいは急用に使用された事例は,たとえば本稿の第4章で引用したNo.272文書(スピ族の侵入事件と チャドータ州の不穏に関する命令を記した王命)が羊皮製文書であったことなどからも分かる。 19 拙稿「古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて ⑴」 ,p.73参照。 20 拙稿「カロシュティー文書No.714について」(『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編) 』 ,52-2,2002年) ,pp.2735を参照。 21 教養階層に属する書記の存在については,拙稿「古代中央アジアの死生観について」 ( 『北海道教育大学紀要(人文科学・ 社会科学編)』,63-2,2013年,pp.59-60を参照。. 4.

(6) 古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて(2). ライナとする以外は考えにくい趣がある。このように本来,「税物」の案件は,担当役であるaǵeta, yatma, gha等の官人などが関わる筈であるが,その職務がむしろ私的な息子である,しかも「書記」であっ s・ot・ham ・ たナンダセーナに任されたことの理由は審らかにし得ない。 . 2 主簿ソーンジャカの兄弟,オーグのアリアヤ ⑴ オーグのアリアヤの書信 主簿ソーンジャカの一族には,母と息子の他に,兄弟がいたことが確認出来る。 先の, 息子の書記ナンダセーナからの書信(No.385文書)が発見されたのと同じ,N.(V.)xv家屋址からは, 長方形木簡2枚組のカロシュティー文書No.370が発見されていて,その上板表側には,  主で,主簿のソーンジャガ(=ソーンジャカ)の足下において開けられるべきである。(bhataraǵas a cozbo somjaǵasya ・. padamulam mi vyalidavya.) ・. ¯. ・. と宛名が書かれ,下板表側から上板裏側にかけて,  神々と人々に愛されたる人,見目麗しき人,善き名を得たる人,愛する兄弟の,主簿ソーンジャカに対して,無限に 多く,オーグのアリアヤ(Alýaya)が,健康と幸福を問います。.  このように(私は知らせます),すなわち,私は貴方の兄弟で,親戚です。 ……… 彼は …… 貴方らのために送り ました(?)。もし天子(?)が………するなら,愛の存在により(?)………………………… 。また,彼は子どもで ある息子を,人からの負債の受け渡しとして,そこに送りました。.  私が貴方に知らせる,いかなることも,必ず主簿である貴方は,全霊で監督せねばなりません。すなわち,我らの農 場に,クローラ(イナ)人の男たちが住んでいました。彼らは,我らに債務をつくりましたが,かの者たちは,夜に, そこへ逃げました。かならず,この者たちは,貴方により監督されよ。注意の言葉と, ジャスミン (hasta-vars・aka)1と,? (ac¯h́o..)5とを送りました22。. (priyadevamanuśas a priyadarśanas a sunamapratigrahitas a priyabhratu cozbo somjakas a, ogu alýaya arogya kośalya. ・ ¯ ¯ ¯ ¯ 23 pariprichati, puna puno bahu aprameyo. evam ca s aca ahu tahi bhratara ñatiyomi (?) . -----------(vi)[s a]jita ・ ¯ ¯ tusmahu karyena. yati deva(putra?) ……… …………………………… priti bhav[e]hi. avi ca kud・ aǵa putra atra. vis arjita yo jam nas a paride av́ amici24 danagraham na. avaś a tahi cozboas a sarvabhavena jheniǵ a siyati, yam ca ・ ・ ・ ¯ ¯ ¯ vim ñav́ emi. s aca asmahu got・ham mi kroraim ci mam nuś ana asitae huam ti. te asmehi daram taǵ a huam ti, te jam na ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ¯ ti. avaśa es・a tahi jheniǵa h (u) tu. manasim karo matra prahi[da] hasta vars・aka 1 [a]c¯ h́o.. 4 1.) ratriyae atra palayitam ・ ・. という本文が書かれている。 この書信の冒頭の文言から,その差出人である,オーグのアリアヤ(ogu Alýaya)が,主簿ソーンジャ 22 hasta-vars・aka はKh.I.,ⅢのIndex Verborum, p.379では -vars・aǵaとして出ているが,その理由は不明である。また, (<Skt. vr・s・a-)であろう。ただしhastaNo.311文書ではprahud・ a“贈物”として1つが贈られている。vars・akaは“牡牛”. との組み合わせの語義は不明である。ac¯ h́o..については語義は全く不明。. 23 ñatiyo -miからなるdenominative化した用例か,不明である。Cf. Burrow, Kh.D.,§97, aroǵemi. 24 av́amici の語義については,Burrow, Kh.D., p.78に,avamicae = apamityakaとあり,これと関連させ“debt”の訳をし ておく。. 5.

(7) 山 本 光 朗. カの「兄弟で,親戚」であった,すなわち実の兄弟であったことがまず分かる。また,彼が帯びたオーグ ogu なる官名は,シャンシャン国において最も高位のofficialと認められるもので25,このことから,主簿ソー ンジャカには,シャンシャン国において最も高位のofficialであったオーグになったアリアヤなる兄弟がいた ことが,判明する。 このオーグのアリアヤが出した上の書信の,前半の内容は,「天子(devaputra)?」などの文言が含ま れていたようであるが,その詳細は殆ど不明である。ただし,後半には,  我らの農場に,クローラ(イナ)人の男たちが住んでいました。彼らは,我らに債務をつくりましたが,かの者たちは, 夜に,そこへ逃げました。かならず,この者たちは,貴方により監督されよ。注意の言葉と,ジャスミン?(hastavars・aka)1と,?(ac¯ h́o..)5を送りました。. とあって,アリアヤの「我らの農場」に,複数のクローラ(イナ)出身人がいて,アリアヤらに債務をつくっ たにもかかわらず,そこから逃げ出し,主簿ソーンジャカの居るチャドータ(=ニヤ遺跡)に向かったこと, そして彼らを「監督」するよう,すなわち捕捉するよう依頼すること,など用向きが書かれ,最後に, 「注 意の言葉」 ,ジャスミン?(hasta-vars・aka)1と,?(ac¯ h́o..)5とを送った旨が記されている。 後半については,内容としては比較的明瞭ではあるが,問題は,ソーンジャカの兄弟の,オーグのアリア ヤが,この書信をどこから出したか,すなわち文中の「我らの農場」が,どこにあったかという点が疑問と して残る。このことを決定する材料は本文中にあまりないが,ただ,既述したように,前半に,「天子 (devaputra)?」らしき言葉があること,またオーグなる官名がシャンシャン王の最高位の官僚であった ta nagara)」と呼ばれたクローライナであった ことから,当時,シャンシャン王が居て「大都市(maham ・ 可能性がまず浮かび上がる26。 ⑵ オーグのアリアヤに関する王命文書 さて,主簿ソーンジャカの兄弟,オーグのアリアヤは本当に首都クローライナに居たのかという問題であ るが,この点については,N.(V.)xv遺址から,先に検討した2文書の他に,シャンシャン王が主簿ソーンジャ カ等に宛てた,オーグのアリアヤに関する王命文書 No.214が出土していて,その内容が参考になる。  大威力ある大王が記す,主簿たちコーリサとソーンジャカとに言葉を与える。すなわち今,私は,貴方らの統治のため, オーグのアリアヤにより,コータンナに使節を送った。オーグのアリアヤの手で,コータン(ナ)大王に馬の贈物を, 27 私は送った。この者と馬に(edas a aśpas a) ,サチャからと,チャドーダから,保護(parivanae)28が与えられるべきで ¯ ¯ ある。サチャから,10杯(vacari29)の麦粉(Skt. saktu)と10杯の干果物,2袋のウマゴヤシを,レーメーナまで。同様. 25 オーグが最も高位のオフィシャルであったことについては,Kh.D., pp.80-81を参照。 26 シャンシャン国西方の直近の都市はケーマ(Khema)で,その先はコータン(Khotan-a) ,そしてそのコータンがケーマ を支配下に置いていたので,オーグのアリアヤがいた都市として西方は考えにくい。やはり東方の都市だった筈である。 27 edas a aśpas aをBurrow, A Translation., p.40, No.214は, “for this horse”と訳すが,意味上からも,上記のように並列的 ¯ ¯ に訳すべきである。 28 parivanae-は,paripa¯ n・ a“Schutz, Shirm”(Bötlingk, Sanskrit Wörterbuch, 1879-1889, reprinted in1976, Meicho Fukyūkai, vol.2, p.41)と,paripan・ d・ ika“accumulated”(Edgerton, Hybrid Dict., p.326)との類推が必要。ここでは前者の 意味にとる。また“食糧”とする解釈もある,Burrow, Kh.D., p.104を参照。 29 vacariについては,Thomas, AO.,XIII, p.57が“some sort of cup or vessel”とし,Kh.D., pp.48, 117は“jar; some kind of vessel”と推測した。語源不明だが,“杯”の仮訳をする。. 6.

(8) 古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて(2). にチャドーダから15杯の穀物(小麦),15杯の干果物,3袋のウマゴヤシを,ケーマまで。オーグのアリアヤは … 大 威力・大王…,大いなる大王…。. (mahanuava maharaya lihati. cozboana kolýisa somjakas a ca mamtra deti. s a ca ahun[o] ogu alýayena khotamnammi. ・ ・ ・ ・ ¯ ¯ ́a dutiyae vis ajidemi, tumahu rajakicas a karam na. ogu alýayas a hastam mi khotam na maharayas a as ́ pa prahod ・ ・ ・ ・ ¯ ¯ ¯ ¯ ́ prahidemi. edas a aśpas a sacade cad・odade parivanae dadavo. sacade satu vacari 10 phalitaǵa vacari 10 dui goniyam mi ・ ¯ ¯ aśpista[v́e] remenam mi. emeva cad́・odade am na vacari 10 4 1 phalitaǵa vacari 10 4 1 aśpistav́e goniyam mi 3 yava ・ ・ ・. mi ogu alýaya ------- mahanuava < maharaya ?> ------ maha maharaya -------) khemam ・. この王命文書は,シャンシャン国王が,2人の主簿,おそらくサチャ州の主簿であったコーリサと,チャ ドータ州の主簿であったソーンジャカとに与えた命令が書かれているもので,両州の統治に関連して,コー タン王に馬の贈物をする使者としてオーグのアリアヤを派遣するが,サチャからレーメーナまでの食糧と餌 をサチャ州が提供し,チャドータからケーマまでの食糧と餌をチャドータ州が提供するよう指示した内容に なっている。 地名サチャは,首都クローライナ30の西方にあって,チャドータ(=ニヤ遺跡)から見れば逆に東方にあっ た州で,Steinが発掘調査したEndere遺跡である可能性が高い。レーメーナはサチャの西方で,チャドータ の東方にあった町と見られ,またケーマはチャドータの西方にあり,当時コータンの支配下にあった扞弥 (=Uzun-Tati)が該当地である31。 この書信については,以前若干検討したことがあり32,供出命令に記された食糧・餌の量の比率からして, サチャ~レーメーナ間はチャドータ~ケーマ間の2/3の距離であったことが分かるのであるが,問題は,この 時,シャンシャン王がサチャ,チャドータ両州の統治(安全?)のため,コータン王に馬の贈物する使節と して,主簿ソーンジャカの兄弟,オーグのアリアヤを派遣したことであって,その使節行を援助するため両 州の主簿に,食糧と馬の餌の支給方を命じる書信を出していたわけである。これらのことから見て,オーグ のアリアヤがその使節として出発した地は,王が居たシャンシャン国の首都クローライナ以外には考えにく い。 つまりカロシュティー王命文書No.214によって,オーグのアリアヤが,シャンシャン王の使節として国都 クローライナから,サチャ,レーメナ,チャドータ,そしてケーマを経て,コータン王に馬の贈物をするた め公的旅行を行い,途中の州サチャそしてチャドータから,食糧・馬の餌を支給される予定になっていたこ とが分かるわけであるが,この王命文書の内容から,オーグのアリアヤが当時,王都クローライナ(クロー ライン)に居たことは殆ど疑う余地がない。 オーグのアリアヤは,最高位の官人として天子=シャンシャン王,ここの場合はマヒリ王(治世 283 -310年,または303-330年33)の側近として仕え34,基本的にクローライナ(又はクローライン)に居住したと 見るのが妥当である。. 30 シャンシャン国の首都がクローライナであったことについては,まず榎一雄「鄯善の都城の位置とその移動について」 1965年,『榎一雄著作集』(汲古書院,第1巻)所収,を参照されたい。pp.51-54参照。 31 とりあえずまず,M.A.Stein, Serindia, 1921, Oxford, pp.1255-1256を参照。 32 拙稿「漢代中央アジアの地理概念」1989年,藤岡謙二郎編『講座考古地理学』 (学生社)第5巻所収,pp.125-126. 33 注3を参照。 34 拙稿「カロシュティー文書に見える漢人について」 ( 『西南アジア研究』No.48,1998年) ,pp.23-28, および拙稿「カロシュ ティー文書No.165について」(『北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編) 』 ,52-2,2002年) ,p.72を参照。. 7.

(9) 山 本 光 朗. 3 オーグのアリアヤとNo.575文書 前節で,オーグのアリアヤがシャンシャン国の首都クローライナ(又はクローライン)に居住していたと 結論づけたが,この推定は,次のNo.575文書の内容からも強化される。 カロシュテー No.575文書は,オーグのアリアヤとその息子が証人として登場する,王門(=王城)での 裁判結果を記した証書である。 この文書が作成された時期は,下の引用文をみると, 「大威力・大王・侍中のマイリ(マヒリ)天子の17年, 初1月22日」のこと,すなわちマヒリ王17年1月22日のことで,この治世年の仮定的実年代は299年か319年 のことである35。また,本文中にチャドータ在住のスグダなる男の名が出ているが,この人物については以 前私が,書記ラムショーツァの事跡を扱った際に,排行としてその兄弟らしいということを指摘したことが あるが,そこでは,この人物は4世紀前半のマヒリ王治世期に行動したことを確認している36。 この上下二枚板からなるNo.575文書は,上板表側に, リィペーヤからの授受に関する,この文書はスグタが保持すべきである。 (itam ca lihitaǵa lýipeyasa paride dhanagrana prace sug¯́ udasa dharidavo) ¯. ・. この封印は主簿タンジャカ(タンジャク)のもの。. ¯. (esa mudra cozbo tamjakasa) ・. ・. ¯. とあり,下板表側から上板裏側にかけて次のような文言が記されたものである。  大威力・大王・侍中のマイリ(マヒリ)天子の17年,初1月22日,その時においてのこと。主簿チャクヴァラが,チャ ドーダから,チマガなる名の男を連れて来た。かの男チマガを,主簿コーリィサが連れて行った。 [彼は]リィペー(ヤ) に売った。リィペー(ヤ)は立ち上がり,かの男チマガを,チャドータのスグタに売った。彼(リィペー(ヤ))は,3 歳のラクダ1頭,5ミリマの小麦(am na),氍毹(毛織り敷物)371枚,フェルト381枚,アヴァリカ?(avaliḱa)1枚 ・ の代金を受け取った。. その後,かの男チマガの主人たるパルヴァタ人のクワイチが出て,王門に訴えた;  「かの男チマガはクワイチ自身のものであり,主簿のチャクヴァラから代金をリィペー(ヤ)は取るべきであった, リィペー(ヤ)から代金をスグダが取るべきであった,スグダは取るべきである,リィペー(ヤ)からの,3歳の ラクダ1頭,5ミリマの小麦,氍毹(毛織り敷物)1枚,フェルト1枚,アヴァリカ(avaliḱa)?1枚… (yo am ña orovaǵa bhui ?)を」,と。 ・. これに関して,リィペーヤはスグタに7歳のラクダ1頭を与え,解決した。今後,スグタ,スナンダ,リィペー,リィ パトガに,この授受に関して,将来2度目の言葉を起こさせるべきではない。.  かの地での証人は,太守(rajadharaǵa)で大人の主簿タンジャカ,オーグのアリアヤ,息子のアルダラサ,ショータ ンガ(税徴収人39)のウグラとである。王国の書記で沙門の私,ダルマプリヤにより書かれた。あらゆる場所において権. 35 注33で引用したJ.Broughと榎一雄の2論文によって計算した,実年代の仮説である。 36 拙稿「古代中央アジアの書記ラムショーツァ一族の農場経営について― 書記一族の生活から見た鄯善国の社会 ―」2012 年,(『西南アジア研究』77号),pp.8-11を参照。 37 拙稿「カロシュティー文書No.714について」,p.32参照。 38 同上,p.33-34参照。 ga)‘税徴収人’の諸説については拙稿「カロシュティー文書No.580について」,pp.101-103を参 39 ショータンガ(s・ot・ham ・. 8.

(10) 古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて(2). 威がある。. (samvatsare 10 4 3 mahanuava maharaya jitugha mayiri devaputrasa mase pradame 1 tivase 20 2 atra khksunammi ・ ・ ・ ¯ ¯ ¯ ́ bhudartha cozbo cakvala cad・odade mam nuśa anida cmaǵ a nama te mam nuśa cmaǵ ena cozbo kolýisa nida [sa] ・ ・ ¯ lýipeyasa vam ti vikrida lýipeya uthida te mam nuśa cmaǵena cad́・oti suǵutasa vam ti vikrita gid́・a muli ut・a trevars・aǵa 1 ・ ・ ・ ¯ ¯ am na milima 4 1 kośava 1 namata 1 avaliḱa 1 tato pac¯a tasa mam nuśasa cmaǵasa parvati <kuv́ayici> bhat・araǵa ・ ・ ¯ ¯ ¯ nikhasta rayadvaram mi garahitam ti se mam nus ́a cmag ́ a <kuv ́ ayiciyas a> tanu huda cozbo cakvalasa paride muli ・ ・ ・ ¯ ¯ 1ýipeyasa gim nitavo huda, lýpeyasa paride muli sug¯́ udasa gim nidavo huda sug¯́ udasa gim nidavo huati lýpeyasa paride ・ ・ ・ ¯ ¯ ¯ ¯ ¯ ́ a 1 yo amña orovaǵa bhui. eda prace lýipe satavars・aga uta 1 ut・a trevars・aǵa am na milima 4 1 kos ́ava 1 namata 1 avalik ・ ・ ・ ・. sug¯́ utasa tita, nic¯e kitam ti. ajuvadaya sug¯́ utasa sunam dasa lýipe <lýipatǵasa> vam ti eda dhanagrana prace pac¯akalami ・ ・ ・ ¯ ¯ ¯ ¯ bhiti mam tra na uthavedavo tatra sakhks・ i rajadharaǵ a mahatva cozbo tam jaka ogu alýaya putra ardharasa ・ ・ s・ot・ham gha ugrasa ca. lýihida maya raja divira śramam na dham ¯ apriyena sarva deśam mi pramana.) ・ ・ ・ ¯. この文書中にある,  主簿チャクヴァラが,チャドーダから,チマガなる名の男を連れて来た。  リィペー(ヤ)は立ち上がり,かの男チマガを,チャドータのスグタに売った。  その後,かの男チマガの主人たるパルヴァタ人のクワイチが出て,王門に訴えた;  王国の書記で沙門の私,ダルマプリヤにより書かれた。あらゆる場所において権威がある。 というくだりから見て,この事件が起こり,裁判がなされ,そして裁判の判決に関する証書(=No.575文書) が作成されたのが,シャンシャン国の首都であったクローライナであったことはほぼ間違いない。ただし, この文書が発見されたのがそのクローライナではなく,チャドータ=ニヤ遺跡であった理由は,この判決証 書の所有者が,この文書の上板表側に「リィペーヤからの授受に関する,この文書はスグタが保持すべきで ある」とあるように,他ならぬ(チャドータ在住の40)スグタだったからなのであり,判決後スグタはこの 判決の証書をチャドータに持ち帰ったので,チャドータ=ニヤ遺跡から出土したと考えるのが妥当である。 以上の点を押さえた上で,No.575文書の内容を吟味してみると,首都クローライナにあった王門,すなわ ち王廷で行われた裁判において,証人としてその名が出たオーグのアリアヤとその息子アルダラサが,クロー ライナ在住であったことには疑問の余地がない。. 4 主簿ソーンジャカ一族とシャンシャン(鄯善)王国 以上の論証で,先の,ニヤ遺跡のN.(V.)xv 家屋址から出土したNo.385文書,すなわちオーグのアリアヤが, 兄弟である主簿ソーンジャカ宛に出した書信に書かれていた, 「我らの農場」がクローライナ(クローライン) にあったことはほぼ確実になったものと思われる。 ところで,同じニヤ遺跡のN. (V.) xv 家屋址からは,もう1通,主簿ソーンジャカに関するきわめて興味 深いカロシュティー文書が発見されている。それは私が以前扱った羊皮製のカロシュティー文書 No.272で. 照のこと。 40 拙稿「古代中央アジアの書記ラムショーツァ一族の農場経営について」 ,pp.5-8参照。. 9.

(11) 山 本 光 朗. あって41, マヒリ王(治世 283-310年,or 303-330年42)と見られる王が主簿ソーンジャカに対して出した王命 文書である。  また,昨年来,貴方らにはそこで,スピ人に対し非常に警戒すべきであった,このため貴方と国人らは,都市の中に 居た。今は,スピ人達は皆すべて行ってしまった。以前,彼等が居た,かの地に彼等は居た(居る)。貴方らの国は解放 された。.  …またさらに,そこで,任務に当たる(ath́ov́ae)43貴人(ajhate jamna)44たちが,主簿のソーンジャカを非常に拒ん ・. ・. 45. di) ,と聞く。彼らはこのように,良く行なわない。私はこの者一人に,王国を任せたのである。 でいる(abomata karem ・ 全ての者が統治すべきというのではない。今後,二度と拒むべきではない。主簿のソーンジャカを拒む,かの者達はこ こ王門に送るべきである。ここで罰せられよう。11月17日において。. (avi paruvarsa uvadae supiyana paride sutha atra tumahu upaś amgidavya huadi, ityartha tusya rajiye jamna ・. ・. ・. ・. nagaram mi asidetha. ahuno supiye [sa]rvi gatam ti. atra purva asidae huam ti, tatra asitam ti. tumahu rajam mi niryoǵa ・ ・ ・ ・ ・ jakena at・h́ov́ae ajhate jam na sut・ha abomata karem di. taha na lam caǵa46 huda. … avi ca śruyadi yatha atra cozbo som ・ ・ ・ ・. . karem di. ekisya etasa raja picavidemi. na sarva jam nasya rajakaryani kartavo. idovadae na bhuya abomata kartavya. ・ ・ ¯ ¯ yo mam nuśa cozbo som jakena abomata kariśati, se mam nuśa iśa rayadvaram mi visajidavo. iśemi nigraha labhis・yati ・ ・ ・ ・ ¯ mase 10 1 divase 10 [4] 3) ¯ ¯. 「11月17日」の日付だけが入り,スピ族の侵入と退去とを伝えた,この革製の王命文書の正確な年代につ いて確定する術は殆ど無い。ただ,私が以前述べたように47,スピ族の侵入は,マヒリ王の次のヴァシュマ ナ王6年(316年か336年48)前後に1度あったことが確認でき,また別のNo.578文書では49,スピ族に対する 警戒が記されていて,その文書には, 「マイリ(=マヒリ)王11年2月2日」の日付が記された,ラクダの 死亡をめぐる争いの調停文も記されていて50,これを参考とするなら,スピ族の侵入事件は,マヒリ王11年 (293年または313年51)前後の比較的長期間のどこかに措定されよう。 いずれにせよ,カロシュティー文書No.272に記されたスピ族の侵入事件に関して言えば,現在までカロシュ ティー文書で主簿ソーンジャカの名が現れるのは,確認出来る限りでは,マヒリ王の治世4年から22年の間. 41 この文書については,拙稿「カロシュティー文書No.272について―鄯善国とスピ族―」 ( 『北海道教育大学紀要(人文科学・ 社会科学編)』55-1,2004年)も参照されたい。 42 注35に同じ。 43 at・h́ov́ae の意味については,F.W.Thomas, Some Notes on the Khars・・thī Documents from Chinese Turkestan, AO, XII, 1934, p.47, note 1とBurrow, Kh.D., pp.13-4, 73,およびEdgerton, Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary, 1 st ed. 1953, p.134 -upaga “concerned with” による。 44 cf. Burrow, Iranian Words in the Kharos・・thi Documents from Chinese Turkestan, BSOS., VII,1936, p.509. a¯za¯d “noble; free”, Mackenzie, A Concise Phalavi Dictionary, 1971, Oxford, p.15. 45 abomataの語義については,Burrow, Kh.D., p.75による。 caǵaの語義は,Burrow, Kh.D., p.114, lam caǵa-, およびEdgerton, Buddhist Hybrid Sanskrit Ditionary, p.460, lañcaka46 lam ・ ・ “excellent, fine, good” による。 47 拙稿「カロシュティー文書No.272について―鄯善国とスピ族―」 ,pp.30-31。 48 注35に同じ。 49 Kh.I.,Ⅱ,pp.214-215所載のNo.578文書のUnder-tablet, Rev.を参照。 50 Kh.I.,Ⅱ,pp.214-215所載のNo.578文書のUnder-tablet, Obv.の⑴行目参照。 51 注35に同じ。. 10.

(12) 古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて(2). のことなので52,この文書の時期は,マヒリ王治世期であった可能性がきわめて高い53。 ところで,小稿がここでNo.272文書の内容で注目すべきとするのは,スピ族侵入の混乱期において,主簿 na)がソーンジャカの統治 ソーンジャカが治めていたチャドータ(=ニヤ遺跡)で,貴人たち(ajhate jam ・ を認めず,勝手に統治を行ったという事態が出来したことであった。そして,それに対してシャンシャン王 マヒリは,それらの貴人たちを,王門すなわち王宮に送るように命じ,その者を王宮において処罰すると宣 言したことである。 これらのことは,主簿ソーンジャカがシャンシャン王マヒリにより首都クローライナから派遣され統治を 命じられた官人であったにもかかわらず,それを必ずしも受け入れない,地方土着の「貴人たち(ajhate na) 」の存在がシャンシャン王国にあったことを示している。すなわち,上の文書の, jam ・  またさらに,そこで,任務に当たる貴人(ajhate jamna)たちが,主簿のソーンジャカを非常に拒んでいる, ・. と聞く。 na)たち」とは,現地チャドータの貴人たち,すなわち とある, 「そこで,任務に当たる貴人(ajhate jam ・ 現地チャドータの土着豪族と見られるので,上文はその彼らが必ずしも,首都クローライナから来た官人, 太守で主簿のソーンジャカをスムーズに受け入れたわけではなかったことを示している。 そしてさらに,同じニヤ遺跡のN.(V.)xv家屋址から発見された,主簿ソーンジャカ宛の王命文書 No.309 を見ると54,次のような記述がある。  以前,貴方がそこで太守(rajadhara)55になる時,その時,そこから,koyimamdhina(収税吏が集めた?)56小麦150 ・ ・. ミリマを,ここにもたらすはずであった(?)。貴方が太守になった時,その後,この小麦はもたらされていない。. (yo tahi purva atra rajadhara huamti, tam kala adehi koyimamdhina amna milima 1 Sa 20 20 10 iśa anisyati(?). yam ・. ・. ・ ・. ・. ・. ・. kala tuo rajadhara hudesi, tade uvade eda am na na anidae. hemam tam mi imade anadi lekha [hu]ati sa am na ・ ・ ・ ・ mi anidavya huati na im ci calmadanam mi visajidesi.) calmadanam ・ ・ ・ ¯. この内容を見ると,主簿ソーンジャカがチャドータの「太守(rajadhara)」になった時,「そこから, dhina(修税吏が集めた?)の穀物150ミリマ(約7200ℓ57,日本の400斗)」を王都に送る筈であっ koyimam ・ ・ たが,それが未だ送られてきていないことを,シャンシャン王が指摘(譴責)していることが分かる。この na)たちが,主簿のソーンジャカを非常に拒んでいる」 ことは上の, 「そこで,任務に当たる貴人(ajhate jam ・ という状況と,必ずしも無関係とは言えないのではないかと思われる。すなわち,現地土着の「貴人(ajhate na)たち」の反抗があって,このようの遅延が生じた可能性を否定することは出来ないであろう。 jam ・ . 5 結 語 以上,これまで種々検討してきたが,それらをまとめると以下のようになる。. 52 Kh.I.,I, p.113. 53 拙稿「カロシュティー文書No.272について―鄯善国とスピ族―」pp.30-31において述べた,このスピ族の侵入はヴァシュ マナ王治世であったとする説は誤りで,スピ族の侵入はマヒリ王からヴァシュマナ王治世に起こり,この文書で扱ったスピ 賊の侵入はマヒリ王治世のものと見なすべきである。ここに訂正しておく。 54 Kh.I.,Ⅲ, p.323. 55 前稿まで私は,rajadhara-の語に対して「国守」の訳をしたが,本稿ではそれをより分かりやすい「太守」に改める。 dhinaの語釈については,とりあえずBurrow, Kh.D., p.84, koyimam dhi-を参照。 56 koyimam ・ ・ ・ ・ 57 拙稿「古代中央アジアの鄯善国の主簿ソーンジャカについて⑴」 ,p.72,注23参照。. 11.

(13) 山 本 光 朗. 3~4Cの交に,中央アジアのシャンシャン(鄯善)国西部のチャドータ州において,太守(または‘国守’, rajadhara, rajadharaǵa)として一定有力であった主簿ソーンジャカには,母と息子がおり,母は隣国のコー タン人から,かつて略奪されたチャドータの女ツィナーとその娘・息子らを「贈物」として贈られたことが das ena < Skt. Nandasena)は知識階層に属した書 あり,また主簿ソーンジャカの息子ナンダセーナ(Nam ・ ¯ 記であったが,父ソーンジャカの指示で他所に出かけ,「書記」であったにもかかわらず,税物などの調査 を行っていた。 また,太守の主簿ソーンジャカの一族には,オーグという官人であったアリアヤなる名の兄弟がいて,こ の人物は,チャドータの東方の,シャンシャン国の首都クローライナ(クローライン)にあって,農場を経 営するかたわら,シャンシャン国の最高位の官人オーグ(ogu)として,王を補佐し,チャドータなどの地 方統治のためシャンシャン王がコータン王に贈物をする際の使節として,首都から西行しチャドータ等から 糧食の補給を受けつつコータンまで使節行をしたことが窺えた。またオーグのアリアヤには,息子で,主簿 ソーンジャカからすれば甥に当たるアルダルサなる者がいて,No.575文書において,「太守(rajadharaǵa) で大人の主簿タンジャカ,オーグのアリアヤ,息子のアルダラサ,ショータンガ(税徴収人)のウグラ」と 記されたように,太守タンジャカなどと共に証人として名を連ねる人物であった。 太守の主簿ソーンジャカは,以上のような家族関係を背景にして,シャンシャン王マヒリ(Mahiri)によっ て,首都からチャドータ州の「太守rajadhara」として派遣された人物であったと見なすことが出来,一方 でシャンシャン王の強力な後ろ盾のもとチャドータにおいて統治をしたのであるが,マヒリ王(治世 283 -310年,or 303-330年)治世期に属するNo.272王命文書に記されていたように,スピ族の侵入事件後のチャ na)たち」が主簿ソーンジャカの ドータ州において,「そこで,任務に当たる(at・h́ov́ae)貴人(ajhate jam ・ 命令に服さないことや,王命文書 No.309において, 「穀物150ミリマ(約7200ℓ,日本の400斗)」を,主簿ソー ンジャカが徴収してを王都に送れなかったことなどは,必ずしもその統治が十全に行われたものではなかっ たことを示している。 以上,これらのことをふまえて小稿が結論とすることは,官僚の最高位オーグであったアリアヤを兄弟に 持つ主簿ソーンジャカは,シャンシャン(鄯善)王マヒリによりチャドータ州の太守として首都より派遣さ na)たちの反抗等があって必ず れ統治したが,一定有力であったその統治形態も,地方の貴人(ajhate jam ・ しも万全ではなかった,すなわち中央アジア古代の統治の実情は,本来かなりの程度,地方分散型であった のではないかということである。榎一雄はかつて,シャンシャン国について,「三世紀中頃から四世紀中頃 に至る間のクロライナ王国(=シャンシャン王国,筆者)は,頗る強力な中央集権体制をもった国であった ことが知られる」と述べたが58,小稿で見る限り,その「中央集権体制」の実情は,地方貴族(ajhate na)たちの反抗,税物の未納入等があって,それほど強固な官僚支配とは言えないものであった。 jam ・ なお,小稿で見た,首都クローライナと地方のチャドータ州との“対立”の姿は,クロライナ=シャンシャ ン国の成立に関してある種の示唆を与えるものであるが,この点については稿を改めて論じるつもりであ る59。 (旭川校教授). 58 榎一雄「中央アジアオアシス都市国家の性格」 ,p.33参照。江上波夫「中央アジアの東西交流と文化交流」(1987年,世界 各国史『中央アジア史』(1987年,山川出版社))pp.265-266は榎説を完全に踏襲している。 59 江上波夫「中央アジアの東西交流と文化交流」は, 「征服王朝」との関わりで第1鄯善王国,第2鄯善王国という見方を 導入しているが,仮定として興味深い点がある。. 12.

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