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鹿児島俳諧史

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庫  兄  島  俳  譜  史

鹿 児 島 俳 譜 史

野  中  常  雄 Tuneo Nonaka (-) 俳語とは俳譜の連歌の略称である.この俳語連歌は連歌の源であり,正系であったのであるが正 風連歌が起るにつれて,正系ではないという風に考えられてきて正風連歌と離れてしまった。俳語 史の第一頁はここにはじまるといっていいであろう。和歌の余興であった連歌が本来の滑稽的な要 素を失い,法式が煩蛮となり,連歌道として厳粛味。宗教味を加えてくると,その窮屈さから解放 されて,自由なものを欲するようになるのは自然である。連歌から分れたというよりも,連歌の否 定として俳譜が生れたともいえるであろう。宗祇の時代のように,正風連歌が最も盛んであった時 にも,連歌師は余興として俳語の連歌をよんだのである。しかしこれは連歌の余技以上には考えら れていなかった。 ところが山崎宗鑑が出るに及んで,はじめて全く俳語連歌の中に没入し,また荒木田守武も千句 を独吟し,俳譜が連歌と対立すべき素地をつくった。江戸時代に入って桧永貞徳が出,西山素因が 出,芭蕉に至って蕉風の俳譜をおこし,俳語に夷の芸術的生命を賦与したのであった。 さて中央を遠く離れた鹿児島ではどうであったろうか。島津義久の家老に上井覚兼という人があ った。この人の日記(註l)がのこっていて,天正二年八月四日(1574)から同十四年十月十五日まで書 かれている。この中には,連歌に関する記事が相当多く出ており,その頃鹿児島における連歌がど んな様子であったかを知ることができる。また二三例をあげると 此夜-誹語などにて探行まで慰贋也   (天正十三年一月二十九日) 此晩連歌事果酒宴共也誹語など良久被成-- (天正十三年七月十一日) 誹請雑談にて月待申降出        (天正十四年八月二十三日) などとあるから,連歌の余興としての俳語も行われていたようである。 本稿では連歌の余興としての俳藷ではなく,連歌より分れた,いわゆる併託について述べたいと 思う。しかし,管見に入った資料も少なく,俳語の歴史を述べるというところにまでは連していな い。ただ年代順にわかっているだけを記述するに過ぎないが,一応まとめてみたいと思う。 (ニ) 袷永貞徳門の句を瑛題したものでは発冠井令徳撰の「見出集」と安原貞宝撰の「玉海集」とがそ の双壁とされている。 「玉海集」にとられている句は発句2620句あまり,付句580句あまり,作者 658人である。その中で薩摩は大山氏以下10人, 40句である。九州では肥前1人10句,豊後2人 5句だけであるから, -き遠の地としては薩摩は多いのであるが,どういう事情からであったろう か。まずこれらの句をあげてみよう。

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鮮   中 (1)立春 着ていは-名に大ふくの茶の小袖 花  花の轟をむすぶの神や雨の宵 牡丹 犀風草こすは始王墓か花の三 軍重 曹二を構う草をと りたる田の字哉 唯  露を看て時雨にはく か唯の声 瓜  はんてんやいはぽこんていこまの爪 鹿  う しならで鹿に笛吹さんろかな 薄  はらみつつ出すはすすきの発句かな 木実 四国狩のく らふやさぬき円座柿 水鳥 へら鷺てそ くいひを鴛鷺の会哉 (2)桜鯛 花の波のう Lは煮ぞよき桜鯛 (3)牡丹 作る詩もL Lのゐんふむぼたん哉 雪  花の兄-Kまけしあねはの敬の雪 (4)鷺  金衣朝暮御経の声や高閣寺 月  さ らしなの月 うすの内もてりふ哉 (5)月  智闇は雲のはらみか月 と ま り (6)夏草 ひらき見るほ文か恐々金銀花 冬月 見さい見さいさい鳥さえ、たもち月夜 (7)梅  花の香や鎌倉中をむめかやつ (8)立春 いはふ餅は事変よけふのはる (9)月  ほを持や薄に移る 月のふね 雪  ひたしろや御所の御もんの敬の雪 (10)蚊  蚊層にましる蟹やいなひかり 常  雄  〔研究紀要 第6番〕   7プ 土筆 ひの袴き るや焼野の土筆 蝶  雪に似たる富士野の喋や駿河舞 牡丹 富貴天に有やぼたんの花の雨 菖蒲 大和ふきの軒の菖蒲やなら刀 扇  あふき相撲とれるや風の神祭 雑夏 韓火でするや鵜飼の夜の紙 相撲 つかみたをすすまふや四十八てんぐ 菊  曾我菊の淵もやとらが涙川 霧  屋根の谷にひひくほ木玉あられ哉 水鳥 鉄抱にあたるなたねか鳴ちどり 木実 落ふるる身となりつねや丹波粟 雪  しのに物おもひ荷物や篠の雪 牡丹 花王横はいつ く も土御門 雑秋 大臣の知行と こ ろや拒畠 水鳥 虎ならで千里がはまや千鳥かけ 雪  大淀の雪の女敬や伊勢大輔 木実 折てくふ味やよしつねゑほしかな (1 )は大山氏の旬である。大山氏は名前は記されていない。句数も玉侮集の作者の所には, 22句とあるが, わたくLが調べたところでは20旬しか見当ちなかった。 (2)は武林氏守泉(3)は森村氏吉行, (4)は大 坂民政重, (5)は膏肢氏秀幸(6)は是枝氏盛延, (7)は兼次,姓は記されてない, (8)は農技氏快温, (9)は沢田氏朱秀, (10)は園田氏重好の旬である。 貞徳は連歌はその用語に雅言を用い,俳譜は俳言(俗語・漢語)を用いるものとし,俳語の本質 は滑稽だとは考えていたが,それを内容に求めないで専ら形式の中に見出そうとした。即ち言語の 技巧に滑稽を求めたのである。故事の引用・詩句の翻案・縁語掛詞の使用など修辞にカを用い,単 なる言語の遊戯に終始していた。上にあげた句も貞門の句風をよく表わしている。特に薩摩の風土 が感ぜられるといったようなものはないようである。 上にあげた人達7)中,快温・朱秀・重好・政重4人を除いては, 「玉海集」以外では,これらの人達 について書いたものは,まだ管見には入らない。甲については「新撰俳語年表」 (諾,盃莞璽笥) にも出てお。, 「俳著作者名寄」 (習笥櫨語長莞芸3)にも 季吟 北村氏 拾穂軒 とある。また「称名墓誌」(註2)にも, 山 岡 元 隣 -(八人賂) 一快温サツマノ佐 一(四人略)

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18 鹿  見  島  俳  譜  史 ○柿本寺卵塔中にあり。魂定石なり。初山伏にて周防坊と号す。寛陽公の命あり,還俗し葺右ヱ門と改む。御 船奉行となり,吟味役兼山川地頭を給ふ。寛永十五年島原の城東に犀を越,賊二人を討坂たり。北村季吟門 人,俳歌を学,俳講師山崎宗鑑が著す新続筑波集に多く快温の旬を戟す。又俳帯玉海集にも載せたり。元緑 八乙亥歳四月甘九日,莞棒大僧都法印快簿と記す。 とある。文中に宗鑑が著す「新統筑波集」とあるが,宗鑑には「新統筑波集」の著はなく,時代も 違うから,季吟の「新統犬筑波集」と思い違いをしたのであろう。 「新統犬筑波集」には46ヶ国, 727人の旬4269句がとられているが鹿児島関係では重好4旬,快温9句,朱秀10句,謙也30句が ある。 (≡) 貞門から談林へと移ったのであるが談林系の俳人としては,鹿児島からは一人も知られていない。 談林を経て蕉風が確立され,九州にもその影響はあったのであるが,鹿児島にはどんな影響があっ たか,よくわからない。ただしかし,注意すべき人に樺山鉦文資茂がある。 「称名墓誌」に, ○上山寺観音堂の後小高き所にあり。初名忠相雨着ヱ門,後に五郎兵衛と称す。俳歌を好む。鉦文は其俳名な り。摂津大阪に行き,芭蕉の高弟園女を師とす。本藩蕪門の俳語鉦文に始る。ある寺にて園女と面謁の時, なにはつに梅のみこしの柳かな    鉦  文 菊のりやその名も高き国のはな    園  女 或年京師にて二月十五日桜の花見に行きしに,寺僧集まり酒宴しけるが鉦文を見て,旬をせよと噸り責けれ ば,短尺を出して, はなもちれけふは衣東署十五日    鉦  文 と書き,枝につけたりしに,衆僧みて大に赤面し,ぴとり二人づつ立去れるとぞ.元緑十四年辛巳十月五日代 官役となる。固十六年喜界島代官に渡海す。 (中略)享保二年酉六月十六日老を告け鉦文と更む。同十三年代申 七月甘七日年七十七,無茸鉦文居士,右脇に樺山鉦文資茂と記す。

とあるO鉦文の事は「新撰俳譜年表」にも出てお。, 「四国・九州俳譜史」 (殿苧欝品莞)にも

鹿児島の事にも2頁ぐらい触れているが,その大部分は鉦文の事に費している。これは「称名墓誌」 をもとにして書いているようである。鹿児島における蕉風は,今のところ,この程慶にしかわかっ ていない。 この頃珍重という人があった。 「称名墓誌」に, ○今井八着ヱ門良寛,砲原山洲崎茶毘場の西卵塔中にあり。俳歌を学び俳名を珍墓と云ふ.延事四丁卯十月初 九日仙梅里傑山英居士,辞世 水に絵をかく のこと くや歳暮ぬ 文選冒して田上村悟性専属頭観音堂の後に逆石を建て,前面に仙梅望,右脇に天十月九日と記せり。 賢人の手油もなしこ と し竹 人 質 の 鞭 切 音 や秋の竹 鶏の息もけむるや今朝の霜 また翠柏・琴蜂等があった。 「称名墓誌」に, ○波江野次右ヱ門通元,奄原山実性院の右脇七八間許り卵塔中にあり。下町の市人なり俳歌を好み伊勢の安楽 坊に入る。俳名を聴准ゝ軒翠柏と云ふ。明和三丙成七月十有五日,翠相通寿居士

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長路   中   常   雄   〔耕究紀要 葬6番〕 渋柿やひあたる枝のふくれ鳩 ○瀬戸山琴蜂,不断光院卵塔中光明寺の垣涯四間許にあり。正解者の石像なり。本府上町市人にして,金左ヱ 門藤原安貞と云ふ。俳歌を好み琴蜂は俳名なり。業を芭薫門人浪華の野蚊に受,後肥後の三椎に行く。明和 八年辛卯六月甘三日,年八十,取直軒是実車相居士,観世音蓮台の下に太鼓の如き円なる石を設け.法号を 記し,左に姓名,右に忌日を記す。後に文あり。平生観音を信じ,法華を読諭す,よて円通大士の像を安ん じ百年の後,窮葬られん等を自ら記し置く,明和四年丁亥八月彼岸の事なり。 何 古 木 花 なき枝も桜の曲        春雨や鞭にぬ く る野山の日 なにしらぬこころも澄り川政        栗 栖 野 や 月を替る犬の声 夏柴に見するや沖の初時雨       雪触て軒をまはるや探山鳥 大阪に於て無実の罪に遭ひ御用ありし時,古狸の子の糸民にかかりてばたつくも一興 にや      人 突 ん 牛 も角挽師遺かな と戸口を出るとて,くそ犬のもとに帰るや雪の道 「俳句碑巡礼」 (iB謂駕篭所)に「鹿児島に無尽塚」 (慧蜂)とある。今鹿児島市にある南州寺の 門をはいると,右側に一つの壕がある。正面に「芭蕉翁」裏面に「明和七年彼岸日」と刻してある。 一番下の台石に「祖翁今歳二膏年の遠忌に当る。然るに墳墓是まで南林寺子安道の処今般相国寺に 移し奉る。以て長く翁の遺風を仰がんことを垂望す明治廿一年十月十二日旭蕎楳山門人」 ;とある。 明治廿六年が二膏回忌に当るのであるが,この頃は各地で二膏回忌が取越して行われたようである から,ここでも取越して行ったのであろう。相国寺といったのは南川寺が臨済宗相国寺派に属する 寺であるからであろう。明和七年は琴蜂の役する前年に当り,年代的にも矛盾はないようである。 最初琴蜂が建てたのを,明治になって,今の位置に移したのであろう。 上にあげた句だけでは琴蜂の句はすぐれているとは言えない。しかし禅枝・柴草・窓巴等の弟子 があり,指導者として栄えていたのではなかろうか。 「称名墓誌」に, ○山沢禅杖,敬原山実性院の東卵塔申先塾の側に在り。諒盛容五着ヱ門と称す.俳語を好み業を琴蜂に受く。 禅杖は俳名なり。仕て御供冒附となり,小十人頭に至る。致仕告老,寛政七年乙卯十二月甘三日蓑虫庵鉄梅 禅杖居士,年七十二,著す所の麦薬笠都廻花屋偵三虚蔵の道記等家に蔵む。 麦の穂の う なたれ笠や供揃 (慈眼公御髪窒高野御登山御供して鹿児府を立しとき) 香のぬけぬ梅よ 八百五十年  (宰府天滞宵八膏五十年法楽) 壁に向はたのき耳なし富頭巾 (寛政七年の冬十月和田助堅禅杖の轟像を写時に自評) ○伊東助左ヱ門藤原清風,田之浦長英寺にあり。琴蜂門人俳歌を学び俳名を柴草と云ふ。文化元年甲子十二月 五日,徳峯院柴革遊仙居士,行年六十九。 ○相良窓巴,浄光明寺塔頭東海院にあり。五輪石なり。上町市人にて休右ヱ門と称す。俳語を好み,琴蜂門 人,窓巴は俳名なり。文化四卯年六月廿日梅暁舎周阿窓巴居士。 辞世 たまたまの月にみしかき夜なりけり 七夕 七夕や我自宅に も露の う く (四) 鹿児島城下だけでなく,地方でも次第に行われるようになったようである。出水に大根壕といラ のがある。同町杉本寺の境内にあったのであるが同寺は廃寺となり,今は土木出張所になっている。 壕は出張所の桧の木の下に苔むしている。正面の中央に「芭蕉翁」向って右に「鞍つぼに小坊主の

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80      鹿 児  島  俳 藷  史 るや大根引」の句を,左に「遊行五十三世他阿尊如上人」と刻し,裏面には 芭蕉翁逝後正百年英。建碑於薩出水町杉本精舎之浄域,貴之行状入管所知,故唯刻芭蕉翁三字,以代碑文。書 之者誰。遊行五十三世他阿尊如上入所筆也。誰作是。挙郡之俳客立蘇也。誰協其力。其友春○也。鳴呼貴之風 韻古之通愛俳諸共緒余猶為者,流之宗師噴々尊奉百年如一日。期其永久何英。斯石然欲見共通之及平。遠別西 海之浜亦有斯石。立蘇遠来請記其事。其尊師之厚,信道之探,錐日未学専固信夫。故悦両誌之。 寛政五契丑冬  賀 山 伯 茸 撰 賀山伯葦は鹿児島の人で,学を以て島津氏に仕えた人である。 「俳句碑巡礼」にこの碑を「春扇 g抄うそ 建」とあるのほ誤りで,建てたのは立蘇で,春属は協力者であった。立薪は坂井林右ヱ門という出 水の市人で俳譜をよくした。師承関係は不明である。享和二年66才で投している。 「出水風土誌」

(詣讐芸)に

俳人立蘇は風流界に名高く,或時久しく廻回して家に帰りLに,さしもに時めきし家も蔵も皆人手に渡り屋敷 跡には折しも茄子の花盛りなりLが,低個展久しうせし立蘇矢立を取ってすらすらと書き記せLを見るに 世は夢よ茄子に変る蔵の跡 と詠み,叉市来村にて稚会あるを聞伝へ,会に臨み強いて加会を麟ひしに漸其末席を許されぬ,然りと錐も垢 着き汚れし乞食坊主の風体なれば列座の人々皆軽侮の眼を似て之を迎へたり,然るに祉しなからと差出せし料 紙には 蓑虫もよもぎにつれて床の上 とあるを見て二度吃驚の声を後に親然として立去れり とあるも このほかには句は遣っていない。 「諸国翁墳記」に「翁壕 物云-ば唇寒し秋の風 谷山慈眼寺内 由光・乙彦・卓堂・巴雪・其 志」とある。わたくLは何度も行って調べてみるが,まだ見当らない, 、建碑の年代もはっきりしな いが,こうして各地に芭蕉碑が建てられ,句会も催されるようになったようである。 (五) 加治木町本誓寺墓地に千鳥庵水巴の墓がある。黒川山に向って建てられ,高さ四尺程もあろうか, 正面に「音誉妙観大姉」,右側に「文化二乙丑年正月十五日」と役年を,左側に「賦命六十四,誹名 水巴,立山善兵衛,養母」と四行に書かれている。享年は「称名墓誌」には44とあるが,この64 が正しいであろう。 「称名墓誌」に 加治木の市人立山長兵衛女なり.向江町に妹す。名は美江という襲女にして,三味線を弾じ,叉俳歌を好み, 伊勢の春緒を師とす。初め洋々園水巴といえり。後に武州の俳人玉司来りて千鳥の旬を聞て,千鳥庵の号を与 う云々 とある。水巴の俳歴や春渚を師とした因縁,玉司との関係なども調べてみたがまだ何等の手がかり も得ていない。句も「称名墓誌」に 干 潟 に も 自 波 立 る 千 鳥 か、な 明 月 や つ る べ の水も すて ら れず 加治木騎手にて於千万君三味線を聴き給いし時,命に応じて一句奉る 雲 の 上 に 声 は つ か し き 蛙 か な

(6)

⋮ ー 0 野   中   常   雄   〔研究紀要 葬6巻〕    8I 紅葉せぬ山も秋なり鹿の声 本尊寺墓地を歩いていると森山則房(詔八)という人の墓があり,傍に追撃句碑があって,承巴・ 仙聾・知遊・石蔦らの句が刻まれていた。 〇〇時に散る さ-お しき紅葉かな    水  巴 わたくLが知り得た水巴の句は以上の5旬に過ぎない。これだけで見ると水巴の句は,わかり易い 句であり,見立てが気がきいている。いわゆる俗受けのする句風のようである。水巴の墓の右側に 追悼句碑が建っている. 水巴先姉-花吹風に乗じ去て○早七七の日数にあ-里兼て交り乃連中石燈○を築き旬を害しるし風雅○○法界 迫菩供養をなせり鳴呼世の聞へもなを睦しからぬや霊光陳からずは難波津のあしきを撫志のあほれなるを請ふ ものならし 人いづこ梅は垣根にありながら    琴 敬 正面上段に 春の日にみしかき花の粧ひかな いつのまに消えしものか略啓の雪ヽヽ 蝶二も来て遊ぶ○なし花の庭 心 な き 風 の誘いし桜か南 散る花や惜しき昨日も-むかし 正面下段には 散路に名を残しけり よ しの山 ちる梅やおもひ越せとかぜそよぐ 散梅や木陰はい と ど春寒し 風止んで勿体な しやいか巾 琴箱にもたれかか甘て温繋(但東か)かな ≡y,tvirHW.',;│tf蝣!!蝣ii'I! i,v¥>'f]IIM"一,1; 左側に かの峯にさりとはあたらちり桜  鹿府和水 落るともくちぬその名や玉梓 しらぶればその名ゆかしや鞭草 ち る 華 や 楯に残る零の月ヽ▲ 切れいかや風に引れて西の空 h 雪消えて野川にたまる行衝かな けふや明日と長閑符Lに春寒し 花と散る路に も道の光か南 月陰は敬に残して雪解かな 羽も垂れて鳥もおどろく花の雨 鷺 の 羽 で 掃く 塵や坂の前 ≡ 二 ≡ l i f ォ   ≡     % v 無 常 と は 誰初ぞ散さ く ら  惰歌 以上23.旬が美しい筆蹟で刻まれている。ここに名を連ねている俳人23人は,和水が鹿府と肩書し てあるだけであるから,他は皆加治木の人であったと見ていいであろう。、水巴らの存在は加治木地 方に俳句をひろめることとなったのであろうが,詳しい事がわからなくて残念である。

「額題発句集」 (野元)には

〒飯や雀ささやく軒の要 サツマ黙々 茸狩や物落したる人の撰 サツマ三桃 が出ており, 「新類題発句集」 (芳蕊葦年)にも 三寸に髪あらたまる南かな 鶏の尾を別ちけ り春の風 焼野原敬一本の青さかな 暑さます入日や桐の集の光 築山や五月薗掲に雨のくも をと り子や立並びたる袖の波 大隈涼石 さつま食草 さつま楓犀 さつま達而 大隅戯咲 きつま巨谷 木瓜の実やとられまLとて針の申 サツマ斐文 三日月の後もしらけす星月夜 大隅雪道 老が目に始は太しはつ暦 淡雪に御注連の竹の青さかな 山吹や洗ひし絹について居る 丸いのは都の山や雲の峰 夏引のいとしき母の手業かな 露ともにそのまま落ちし一葉かな さつま秀山 さつま立成 さつま桃早 さつま扇風 大隅有朗 さつま山加

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82 庫  鬼  島  俳  輩  史 明の宿りもかへぬ-末哉 さつま筒水 木柿に背中おされて行く野哉 サツマ玉包 央すぎし遊女まねかむ後の月 サツマ非丘 初鴨や刈らぬ水田に波を立て 大隅要道 あげがたや鴨の首出す田のくぼみ サツマ達辞 らの句が出ている。句には何の新しさも感じられないが,俳人が相当ふえてきたことを物語ってい る。 (六) 「俳譜発句題叢」 (評議1820品)には宝暦頃から当時までの俳人2072人の発句を察題的に編■し てある。件者は対席・八丈島にまでわたっており,当時の俳人の分布をも知ることができる。鹿児 島は薩摩が8人,大隅が1人はいっている。 ( ってい る。 ある。 なお九州では筑前49人,筑後17人,豊前17人,豊後29人 肥前38人,肥後14人,日向3人,壱肢1人,対馬8人とな )硲々・三桃・斐文・雪道の句が1句ずつ配ているカき「額題発句集」に出ていたのと同じ句で 茸はれつ賞ひ?梅の牡なりけり  育酢甲 帰る雁浪どこまで行事ぞ    〝 伐れ伐れと人はいふなり木下闇    〝 生れLも.この小造ぞ冬木立   〝 梅が香や嵐こぼるる桶の水・ 脊 梁 菅鴇や 朝起鳥よ 霜の上   巳 水 鷺 と■'英.日 英 日 の 遊我  育巨門司 春雨やいつ引くとなく夜の汐    〝 年寄れと糞をかけたり子規    〝 梅の花物あらはなる気色かな   琴 州 凧 や 月 の 表 か 敬 の 声   只 冬 鹿児島は九州でも多い方ではないが次第に行われるようになたことを示している。なお「新撰俳語 年表」には,龍門司・其鹿・桃戴・月窓・有中などの名が出ている。 市営バス常盤終点から10分も行くと鹿児島市武岡に「桃岡八田発生幽栖之地」と書かれた大き な碑がある。すぐその近くに高さ3尺直径1尺ほどの碑があって,円柱の正面には, 境 み て は 雪 ま つ       はせをの翁 竹の気しき哉 裏面には「天保九年戊成十月十二日」と刻し七ある。この句碑の事は「芭蕉壕」昭吾嘉会墓刊)に も出ている。碑の横に石燈ろうがあって, 48人の俳人の名が記されている。 正面 山骨・水月・知水・立育巨・得鴬・園之・昌交・立正・懐玉・水哉・雨橘・琴雪・素秋・宜水・応門・栗 山 右側 冬扇・卑千・桃言・立水・朗冬・吸月・蓬笠・紅楓・仙〇・月宗・洞魚・錦笑・芦角・石水・杉水・桐 婁 左側 某得・風船・禾山・〇〇・岩水・杜〇・〇〇・桃車・蘇門・其蝶・李井・其育・禾村・塊奄・琴船・楓 育 吟徒 亀田小姑氏は「四国・九州俳帯皮」の中で, 再来さつまの国是として,他国人の入り難く随って俳請人も少きは当・然であるが嘉永頃の版本を見ても,大隅 Sffi -左右之 高山 石川氏,柏邑 同 柏原氏 とあるに対し,さつまはただ 風葦 蔵戸上町 原田氏

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野   中   常   雄   〔研究紀要 算6番〕    83 という比較にもならぬほどであった。 と言っているが,これは党にあげた例を見てもわかるように亀田氏の誤解である。両国とも島津藩 であったから同じ条件のもとに考えなければならないし,事実どちらがどうという事はなく,同じ ような進み方をしている。奄美大島でもこのほど文化六年十二月建立の蕉芭句碑(春立ちてまだ九 日の野山かな)が発見されたという事であるが(謂苫詣晶忍苦書目)近世末に於てほ鹿児島地方 でも俳句をたしなむ人が相当ふえたようである。 また本尊寺墓地には明治八年に現した原田嘉右ヱ門の墓がある.墓碑の左側から背面にかけて楽 ′′ 水.風骨・一葉ら26人の追悼の句ならびに半歌仙が刻まれている。俳語がさか.夕に行われていた事 I を知り得るが,これらについては後にゆずることにする。俳諸県という論題にそむいて,ただ管見 に入った材料の羅列に終ったが,ここで明治以前を一応終ることにする。 (註1 )上井覚兼日記は島津義久の加判役であった上井伊勢守覚兼の日記で,天正二年八月四日(1574年)よ り天正十四年十月十五日まで書かれているoこ一の間,四年九月六日より十一年十一月三日までは全く欠†    l ■ けていも。記事は彼の方が精細になっている.公私にわたって記してあり,即ち芸緒連歌等についても 記してあるので,その方の参考にもなる。お経等については,この日記をもととして,森来襲彰氏か ∫ 「薩南の芸百EJ (「国語と国文学」,昭昭十九年十一月)と超して論じておられる。今度東京大学史科編纂 所編で,岩波書店から上巻が出版された。わたくLが参考したのは旧玉里文庫から移した鹿児島大学図 書館所蔵の写本であった。 .I (註2 )ノ 称名墓誌は本田現車の著で正編3巻と備考1巻とから成っている。備考には伊地知季彬(後に季安と 改む)の補遺が附してある。薩藩内のもろもろの寺地山野に通っている家基を探討し,貴となく膿とな く徳を成し材を達し,よろずに名を称する事のあるもりを集め,いろは順に分別し,その路伝を記述し た書である。備考は親字が「凡そ名もあり基もあり正集に入るべくして其所を見ず.或は名あり基なく. 考に拠るなき者あり。為に備考1巻を作る。」といっているのによって明かであるが,親字が稿を起し たのは文化甲成(11年)の秋であったが丙子(13年)め冬, 54才で捜訪博採の途でにわかに捜したの で,季安が補ったのが補選の部分である。伝写によって人員には多少があるらしいが, 「薩藩草書」第4 編(明治42.年刊)中の「称名基誌」には正編に484人,備考に169人,補遺に256人のしてある。本稿 はこれによった。 参   考   文   献 1.上井 覚兼 上井覚兼日記 2.本田 親字 称名墓誌(薩薄幸宰第4編の申) 3.亀田力、蛙 四国,九州俳誇史(俳句講座第10巻の中) 4,西村 燕々 俳句碑巡礼(俳句講座第7巻の申) 5.・・出口 対石 芭薫家         r 6.野中 常雄 俳人千鳥庵水巴と原田嘉右ヱ門とについて(歴大教育学部,研究紀要.第3巻) 7 ・.その他鹿児島県下の風土記・郷土史 -1954.

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