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近代大阪における都市下層社会の展開と変容 : 1930年代の下層労働力供給の問題を素材に

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近代大阪における都市下層社会 の展開 と変容

1930年 代 の下 層 労 働 力 供 給 の 問題 を素 材 に

1課 題 と視角 2近 代大阪の都市下層社会 一概観 1)明 治期の都市下層社会 ①都市 人口の動向 ②近世都市下層社会の解体 ・変容 2)大 正期の都市下層社会 ①都市発展 と社会的矛盾 [目 次] ② 大 正 期 の ス ラ ム ー多 様 な要 素 の複 合 3)昭 和 戦 前 期 の 都 市 下 層 ① 巨 大 都 市 と貧 困問 題 ② 「不 良 住 宅 地 区」 の 実 態 4)小 括 31930年 代 の下層 労働者 と労力供給 言韻 業 一二 つ の 事 例 か ら 1)歴 史的前 提 一1870∼90年 代 の宿 と口入 2)港 湾 労 働 者 の 場 合 ① 港 湾 労 働 者 と労 力 供 給 請 負 業 者 ② 小 括 3)浴 場 労 働 者 の 場 合 ① 社 会構 成 と地 域 的 分 布 ② 労 働 条 件 ③ 供 給 の あ り方 一部 屋 と 口入 屋 ④ 職 場 と して の 浴 場 ⑤ 小 括 4む す び にか え て 1.課 題 と視 角 本 稿 の 課 題 は,都 市 社 会 で ふ つ う に働 き,暮 らす 人 々の 生 活 と労 働 の 具 体 像 解 明 を基 礎 に据 え なが ら,近 代 の 巨 大 都 市 ・大 阪 の 全 体 史 を描 い て い く作 業 の 一 環 と して,都 市 下 層 社 会 の 歴 史 的 展 開 につ い て 論 じる こ とで あ る。 近 世 以 来 の 展 開 をふ ま えて,近 代 大 阪 にお け る都 市 下 層 社 会 の 変 容 と拡 大 の 動 向 とそ の 社 会 的 構 造,そ こで の 人 々の 生 活 の あ りよ う につ い て 概 観 し,1930 やと くち いオし キ ー ワ ー ド:宿 と 口 入,長 町, 港 湾 労 働 者,労 力 供 給 請 負 業,浴 場 労 働 者

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年 代 の 具 体 的 事 例 の 分 析 も行 う。 日本 の 近 代 都 市 史 研 究 にお い て,都 市 下 層 社 会 論 は重 要 な分 野 を な して き た。 特 に,欧 米 の ポ ス トモ ダ ンの理 論 に よ る影響 を強 くうけ た1990年 代 以 降 の 研 究 で は,都 市 下 層 民 を排 除す る近代 社 会 の 犯 罪 的性 格 が 強 調 され たD。 そ こで は,都 市 下 層 社 会 が,近 代 の ジ ャ ー ナ リズ ム に よ って,怠 惰 や 不 衛 生, 無 秩 序,無 規 範 な どを特 徴 とす る特 異 な社 会 と して 描 か れ た こ とを強 調 し, そ の こ とか ら,逆 に近 代 社 会 が,勤 勉 で 衛 生 的 で 秩 序 だ っ た,規 範 あ る 「良 民 」 に よ って 構成 され る均 質 な社 会 とい う性 格 を持 って い た こ とを浮 か び上 が らせ たの で あ る。 しか し,社 会 史 研 究 の 問 題 と して 考 え た場 合,こ の よ う な議 論 に は落 と し 穴 が あ る。 こ こで は,「 下 層 社 会 」 と 「一 般社 会 」 とい う対 比 を前提 に,下 層 社 会 を孤 立 した 「社 会 」 と して 分 析 し,そ の 特 異 性 を強 調 し 「近 代 社 会 の 陰 画 」 と して 描 く傾 向 が 強 い 。 そ の ため 都 市 下 層 民 を地 域 の 社 会 的 諸 関 係 の 中 に位 置 づ け る視 点 や 作 業 が 不 十 分 とな るの で あ る。 しか し,実 際 に は,都 市 下 層 民 が 集 住 す る地 域 は,近 代 都 市 の 社 会 構 造 全 体 の 中 に位 置 付 い て い た。 したが って,都 市 下 層 を一 つ の 構 成 要 素 と して 含 み 込 ん だ地 域 社 会 の 構 造 的 把 握 が 必 要 に な る。 そ こで,本 稿 で は,ま ず 前 半 で,近 世 ∼ 近 代 の 都 市 社 会 にお い て,多 くの 場 合,集 住 地 域 と して の 特 徴 を持 って 存 在 した都 市 下 層 社 会 につ い て,都 市 大 阪 全 体 の 展 開 も視 野 に入 れ て 見 て い く。 下 層 民 の 集 住 地 域 が 時 代 ご とに ど の よ う に形 成 され 展 開 したか,ま たそ の 特 徴 は何 か,に 注 目 しなが ら近 代 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 を概 観 したい 。 そ の 上 で,後 半 で は,1930年 代 の都 市 「下 層 」 労 働 者 に つ い て,具 体 例 を 挙 げて 論 じたい 。 注 目 した い の は,「 宿 と口入 」 の問 題 で あ る。 現代 日本 にお け る 「格 差 社 会 」 化 ・「下 流 社 会 」化 とか らん で問 題 に もな っ てい る,不 安 定 1)成 田龍一 「近代都市 と民衆」(同編 「近代 日本の軌跡9都 市 と民衆』吉川弘文館1993 年,同 著 「近代 都市空間の文化経験』 岩波書店,2003年 に収録)な ど。 2)湯 浅誠 『反貧困 一 「すべ り台社 会」 からの脱出』(岩波新書,2008年)な ど。小野 将 「「新 自由主義時代」の近世 史研 究」(『歴史科学』200号,2010年)も 参照。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容161 雇 用 の も とにあ る労 働 者 の 職 業 紹 介 と宿 泊 を担 う営 業 者 の 存 在2)に注 目す る 。 近 世 以 来 の 展 開 も念 頭 に置 きつ つ,当 該 期 の 「下 層 」 労 働 力 の 供 給 をめ ぐる 問 題 につ い て 考 え たい 。 大 阪 の 都 市 下 層 労 働 者 の 中か ら,二 つ ほ どの 職 種 を 取 り上 げ,そ の 共 通 性 と差 異,相 互 関 係 につ い て 検 討 す る こ とに した い 。 以 上 を通 して,近 代 大 阪 の都 市 下 層社 会 研 究 の 到 達点 を確 認 す る と とも に, そ の さ らな る深 化 に向 けて,若 干 の 課 題 提 示 が で きれ ば と考 え る。 2.近 代 大 阪 の都 市 下 層 社 会 一概 観 1)明 治期 の都 市 下 層 社 会 ① 都 市 人 ロの 動 向 は じめ に明 治 時 代 の 大 阪市 街 地 の 人 口動 向 につ い て見 よ う3)。大 阪市 街 地 の 人 口は,18世 紀 後 半 の約42万 人 を ピー クに,そ の 後,減 少 を続 け,明 治元 年 で あ る1868年 に は約28万 人 とな っ た とされ る。1870年 代 に も人 口の停 滞 が 続 い たが,松 方 デ フ レの影 響 で 農村 が 深 刻 な不 況 に あ えい だ1880年 代 は じめ か ら都 市 へ の 流 入 人 口が 増 大 した こ とに よ って,大 阪 市 街 地 の 人 口 は,順 調 な増 加 へ と転 じた。 そ の 後,大 阪 市 街 地(1889年 か ら大 阪市 に)の 人 口 は,1891年 に48万 人 に達 したが,そ の 後 の 増 加 はや や 鈍 り,1896年 に よ うや く50万 人 を越 えた 。 1890年 代 に入 っ て か らの 人 口増 加 の鈍 化 は,中 心 市 街 地 の 人 口が す で に飽 和 状 態 にあ っ た こ とを意 味 す る。 一 方 で,大 阪 市 を取 り巻 くよ う に存 在 して い た西 成 郡 ・東 成 郡 で は,1880 ∼90年 代 を通 じて,ほ ぼ一 貫 して増 加 した。 こ れ は,市 街 地 中心 部 の 人 口が 飽 和 した ため,周 辺 部 へ の 人 口流 入 が 増 加 した もの と見 られ る。 旧 来 の 市 街 地 の 外 縁 部 に は1880年 代 以 降 工 業 化 の 進展 に と もなっ て,新 しい工 場 の立 3)以 下,本 章 の 記 述 は,小 山仁 示 ・芝 村 篤樹 『大 阪府 の百 年』(山 川 出版社,1991年) の ほ か,新 修 大 阪市 史 編 纂 委員 会 『新 修 大 阪市 史』 第五 巻 ∼ 第七 巻(大 阪 市,1991 ∼94年)を 参 照 して 筆者 が作 成 した 日本 近代 史(桃 山 学 院大 学 経 済 学 部 ・学 科 基 礎 科 目)の 講 義 用 ノー トを も とに して い る 。 特 に注 記 しな い 限 り,統 計 デ ー タ な ど もそ れ らの 成 果 に 依拠 して い る 。

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地 とそ れ に伴 う住 宅(多 くは長 屋)の 建 設 も進 ん だ ため,市 街 地 の 外 延 的 拡 大,す な わ ちス プ ロ ール 化 が 始 ま っ たの で あ る。 1897年,大 阪市 は第 一 次 市 域 拡 張 を実 施 した。 これ は,旧 市 街 の外 縁 部 に 会 社 ・工 場 が 立 地 し,人 口が 流 入 した こ とや,築 港 事 業 を は じめ とす る都 市 建 設 の 進 展 に と もな って 市 街 地 が 拡 大 したの を う けた もの で あ っ た。 大 阪 市 は,行 政 区域 を越 えて 拡 張 して い く社 会 的 ・経 済 的 な意 味 で の 都 市 域 を後 追 い す るか の よ う に,そ の 範 囲 を拡 大 し,都 市 自治 体 と して の 財 政 基 盤 の 強 化 を 目ざ した。 この 第 一 次市 域 拡 張 の結 果,大 阪 市 の 人 口 は75万 人 に達 し,さ らに工業 化 が 本格 的 に進 んだ20世 紀 の初 め に は100万 人 を突 破 したの で あ る。 こ う して1880∼1900年 代 にお け る工 業化 と都 市 開 発 の進 展 に よ って,大 阪 は,規 模 の 面 で も,構 造 の 面 で も近 代 的 な巨 大 都 市 に成 長 したの で あ る。 ② 近 世 都 市 下 層 社 会 の 解 体 ・変 容 近 世 か ら近 代 へ の 移 行期 に あ た る19世 紀 の後 半 期 にお い て,大 阪 の都 市 下 層 社 会 は,ど の よ う に変 化 した だ ろ うか 。 この 時 期 は,近 世 以 来 の 下 層 民 集 住 地 の 典 型 で あ っ た長 町(名 護 町 と も呼 ばれ た)が 近 代 的 なス ラ ムへ と変 容 を遂 げ る一 方 で,市 街 地 の 外 縁 部 へ の 人 口流 入 に よ って 無 秩 序 な市 街 地 化 と 過 密 化 が 進 展 し,新 た なス ラ ム も形 成 され て い っ た。 長 町 と その 変 容 長 町(な が ま ち,日 本 橋 筋 三 ∼ 五 丁 目)は,近 世 ∼ 近 代 にお け る大 阪 最 大 の 「貧 民 」 集 住 地 域 で あ る。 この 地 域 は,近 世 か ら木 賃 宿(薪 代 て い どの 安 価 な宿 賃 で 泊 まれ る宿 屋)と そ こ に宿 泊(事 実 上 は居 住)す る膨 大 な 日雇 層 の 集 ま る下 層 民 集 住 地 域 で あ っ たが,1880年 代 以 降,農 村 か らの 激 しい人 口 流 入 に よ って 膨 張 ・拡 大 して い く4)。 4)以 下,長 町 に つ い て は,北 崎 豊 二 「明 治 前期 に お け る大 阪 の 絞 油 業 と油 絞 雇 人 の 労働 運 動 」(同 「明 治 労働 運 動 史研 究 』 雄 山 閣 出 版,1976年),原 田敬 一 「治 安 ・ 衛 生 ・貧 民 一1886年 大 阪 の 「市 区 改 正 」 一」(『待 兼 山論 叢 』 史 学 編19,1985年, 「日本 近代 都 市 史研 究』 思 文 閣 出版,1997年 に増 補 の う え再録)な どの ほ か,屋 久

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容163 そ う した膨 張 の 過 程 で,近 世 にお い て 長 町 に都 市 下 層 民 の 集 住 地 が 形 成 さ れ る上 で 重 要 な軸 とな って い た木 賃 宿 仲 間の 特 権(無 宿 空 人 別 の 人 々 を宿 泊 させ,彼 らに 日雇 の 仕 事 を斡 旋 す る仕 事 を独 占的 に行 う)が 解 体 した点 が 注 目され る。 そ の 結 果 木 賃 宿 は,単 な る 日払 い の 長 屋 へ と変 容 しなが ら,依 然 と して 日雇 層 を 中核 とす る膨 大 な都 市 下 層 民 の 集 住 地 と して 膨 張 を続 けた の で あ る。 1888年 に鈴 木 梅 四郎 とい う新 聞記 者 が 記 した 「大 阪 名 護 町貧 民 窟視 察記 」5) に よ る と,長 町 の 「貧 民 」(都 市 下層 民)の 職 業 は,以 下 の よう な もの で構 成 され て い た。 a.傘 や 団 扇 の 製造 な どに関 わ る職 人 た ち(多 くは 自 らの店 舗 を持 た ない 通 勤 の 職 人) b.車 夫(人 力 車 や荷 車 を曳 く人夫)を は じめ と した 日雇 の力 役仕 事 に従 事 す る 人 々 c.屑 拾 い,乞 食 な どの最 底 辺 の窮 民 的職 種(数 の上 で は これが 最 大) d.門 付 芸 人(町 家 の 門前 で 芸 を して賃銭 を稼 ぐ人 々)を 中心 と した多 様 な 芸 能者 e.女 性 や子 供 も多 く含 ん だ マ ッチ工 場 な ど近代 産業 の労 働 者 f.長 町 の 表 通 りに開 か れ た 露 店 も含 め て,零 細 な小 売 商 人 これ らは,全 体 と して,(1)成 年 男 子 を主 な担 い 手 と した 日雇 い や 職 人, (2)家 族 全 員 を担 い 手 とす る,ほ とん ど不 熟 練 の 窮 民 的 な労 働 力 をそ の 構 成 要 素 と して い た と言 え る。 これ は,一 方 で は,近 世 以 来 の 巨 大 都 市 に普 遍 的 に見 られ た裏 店 の 民 衆 世 界6)と共 通 の性 格 を持 つ と言 える が,他 方 で は,職 人 健 二 「近 世 大坂 の 酒 造働 人 口 入 屋仲 間 と都 市社 会 」(塚 田 孝編 『大 阪 に お け る都 市 の発 展 と構 造』 山 川 出 版社,2004年),拙 著 「近代 大 阪 の都 市 社 会 構 造』(日 本 経 済評 論 社,2007年)第 二 ∼ 四 章 を参 照 。 5)鈴 木梅 四郎 「大 阪 名護 町貧 民 窟視 察 記 」(1888年,西 田 長 寿編 「明 治 前 期 の都 市 下 層社 会 』 光 生館,1970年 所 収)。 6)吉 田伸 之 「表 店 と裏 店 一商 人 の 社会,民 衆 の 世界 」(同 編 著 「日本 の 近 世9都 市 の 時代 』 中央 公論 社,1992年,同 著 「巨大 城 下 町江 戸の 分節 構 造』 山川 出版社,2000 年 に 収 録)。

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的 な要 素 が 少 な く,最 底 辺 の 窮 民 に偏 って い る点 に は長 町 固 有 の 特 徴 が あ っ た と言 え よ う。 ま た,1890年 前 後 は,大 阪周 辺 部 を 中心 と した工 業化 の進 展 に と もな って,マ ッチ 製 造 の よ う な近 代 産 業 の 労 働 者 も増 加 して い た点 が 注 目され る。 マ ッチ や 傘 な どの 製 品 は,日 本 ・中国 ・東 南 ア ジ ア を舞 台 とす る 「ア ジ ア 問貿 易 」 の 主要 製 品 と して の性 格 も持 っ てお り,近 世 以 来 の 長 町 の下 層 民 は,こ う して ア ジ ア規模 の経 済 変動 に も巻 き込 まれつ つ あ っ た の であ る。 さ らに,都 市 下 層 民 と地 域 との 関 係 とい う点 で 見 逃 せ ない の は,長 町 で は 近 世 以 来,木 賃 宿 や 質 屋 ・金 貸 しな どを通 じて 地 主 ・家 主 た ちが 下 層 民 に吸 着 して い た とい う事 実 で あ る。 彼 らは,そ の 日そ の 日を生 きる こ とで 精 一 杯 の 下 層 民 た ち に宿 を提 供 し,仕 事 の 仲 介 も行 う一 方 で,月 払 い よ り も割 高 な 日払 い 家 賃 を下 層 民 か ら搾 取 し,き わめ て 高 利 で 金 を貸 し,布 団 や 蚊 帳 な ど の 損 料 貸 しや,粗 末 な食 事 ・物 品 な どの 販 売 も行 って い たの で あ る。 しか し,先 述 の よ う に,木 賃 宿 の 営 業 的 な特 権 が な くな り,地 域 住 民 の 負 担 で 学 校 を経 営 す る学 区制 度 の 導 入 に伴 って 地 主 た ちの 財 政 負 担 が 増 加 した 上,1870年 代 末 か ら1880年 代 にか け て コ レ ラの流 行 が この 地域 を襲 う な どの 問 題 が 生 じた ため に,膨 大 な下 層 民 に吸 着 す る こ との 有 利 さ は次 第 に失 われ て い っ た。 そ の 結 果,1886年 以 降 に は,大 阪府 の提 案 を きっ か け に,長 町貧 民 移 転 問 題 が 発 生 した。 これ は,長 町 の 長 屋 を撤 去 し,都 市 下 層 民 を市 街 地 外 部 へ 移 転 あ るい は拡 散 させ る とい う もの で あ り,そ の 基 底 に は,こ の 地 域 を長 年 に わ た って 支 配 し,下 層 民 に吸 着 して きた地 主 ・家 主 た ちの 利 害 の 変 容 が 存 在 したの で あ る。 結 局,1891年 に大 規模 な ス ラム ク リア ラ ンス が行 われ7),日 本橋 筋 に沿 っ て 立 ち並 ぶ 木 賃 宿 を 中核 に した近 世 的 な長 町 の 構造 は解 体 し,こ の 地 を追 われ た都 市 下 層 民 は長 町 の 東 西周 辺 地 域 や南 西 部 にあ た る釜 ヶ崎 地域 へ と移 動 し, 新 た な流 入 人 口が そ れ に加 わ る形 で,近 代 的 なス ラ ム を形 成 して い くこ とに な る。 7)加 藤 政洋 「大 阪 の ス ラム と盛 り場 一近代 都市 と場所 の系 譜 学 一』(創 元 社,2002年)。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容 165 近 代 的 ス ラム の 形 成 1890年 代 は,日 清 戦 争 を経 て 日本 の 資本 主 義 が大 き く発 展 す る時 期 で あ り, 市 街 地 周 辺 へ の 人 口流 入 が 増 大 し,新 た なス ラ ムの 形 成 が 進 ん だ。 先 に見 た長 町 の 周 辺 で は,長 町 の 長 屋 街 の 解 体 後,日 本 橋 筋 の 東 西 周 辺 地 域 に 中小 零 細 工 場 の 集 積 と新 た な長 屋 の 建 設 が 日清 戦 後 に進 み,住 工 混 在 の 街 が 形 成 され た。 この 地域 は,3)② で述 べ る 「八 十 軒 長屋 」 もそ うで あ る よ う に,主 と して 家 族 持 ちの 都 市 雑 業 層 が 居 住 す る地 域 に な って い く。 一 方,長 町 の 南 西 方 向 にあ た る関 西 鉄 道 線 路 と南 海 鉄 道 が 交 差 す る地 点 の 南 側 に は,釜 ヶ崎 と呼 ばれ るス ラ ムが 形 成 され た 。1897年 の第 一 次市 域 拡 張 後,関 西 鉄 道 の 南 側 が 今 宮 町 とされ たが,こ こ に は新 た な 「追 い 込 み 式 」 の 木 賃 宿(二 階 建 て の 宿 の う ち,多 くは二 階 部 分 に,多 人 数 の 単 身 者 が 「ザ コ 寝 」 す る大 部 屋 が 用 意 され た もの)が 群 を な して 建 設 され た。 また 日雇 労 働 者 が 集 ま り,彼 らに 日々の 仕 事 を周 旋 す る 「寄 せ 場 」 と呼 ばれ る空 間 も形 成 され た。 そ の ため,こ の 釜 ヶ崎 は,当 初 は家 族 持 ち も少 な くなか っ たが,し だい に単 身 の 日雇 労 働 者 が 集 ま る地域 に な る8>。これ は,第 二 次 世 界大 戦 後 の 「釜 ヶ崎 問題 」 の起 源 をな す 。 西 浜 町 南 大 阪 に は,も う一 つ 大 きな都 市 下 層 民 の 集 住 地 が 存 在 した。 そ れ が 西 浜 町 で あ る9)。近 世 に は 大 坂 三 郷 に付 属 す る 「え た」 身分 の村 で あ っ た 渡 辺 村 は,1887年 に西 浜 町 と改 称 した。 近 畿 地 方 を 中心 に,各 地 の被 差 別 部落 か ら の 流 入 者 が こ こ に集 中 した こ とに よ って,貧 困 層 が 集 住 す る地 域 と して 周 辺 部 へ 膨 張 して い っ た。 西 浜 町 は,1897年 の第 一 次 市 域 拡 張 で大 阪市 に編 入 され るが,人 口増 加 は 8)前 掲 加 藤 「大 阪 の ス ラム と盛 り場』 の ほか,釜 ヶ崎資 料 セ ンタ ー編 「釜 ヶ崎 歴 史 と現 在』(三 一書 房1993年)な ど を参 照 。 9)福 原 宏 幸 「都 市 部 落住 民 の 労 働=生 活 過 程 一西 浜 地 区 を中 心 に 一」(杉 原薫 ・玉 井 金五 編 『大 正/大 阪/ス ラム(増 補 版)』 新評 論,1996年,初 出 は1986年,所 収)。

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続 き,1910年 代 に は全 国最 大 規 模 の都 市 部 落 へ と膨 張 す る(1920年 の 人 口 は 16000人 に も達 した)。 じつ は,西 浜 の 中心 部 に は,近 世 以 来,皮 革流 通 に た ず さ わ り,大 きな富 を築 い た皮 問 屋 の 系 譜 を ひ く有 力 者 が い たが,部 落 の 周 辺 部 で は人 口流 入 と貧 困 層 の 増 加 に よ って ス ラ ム化 が 進 展 し,社 会 問 題 化 し た。1910年 前 後 に は,こ う して膨 張 した周 辺 部 に あた る木津 北 島町 の児 童 た ちが 一 般 地 区の 小 学 校 で 差 別 を受 け,や む を得 ず 部 落 内 の学 校 に越 境 入 学 し, あ るい は不 就 学 を余 儀 な くされ る とい う問 題 も発 生 した。 この 時 期,被 差 別 部 落 で は,警 察 や 部 落 の 支 配 層 が 主 導 す る形 で 「自主 的 改 善 」 を 目ざす 部 落 改 善 運 動 が 進 め られ て い たが,部 落 内 の 改 善 に努 め て も 外 部 か らの 差 別 が な くな らない 状 況 へ の 不 満 が 広 が っ た。 そ れ に連 動 して, 西 浜 部 落 の 内 部 で も,貧 しい 借 家 人 層 と,地 域 支 配 層 で あ る地 主 ・家 主 との 間 で借 家 紛 争 が 頻 発 し,階 級 的 な対 立 も強 ま っ た 。 こ う した 矛 盾 の 深 ま り は,1920年 代 の水 平 運 動 を準 備 して い くこ とに な る。 2)大 正 期 の都 市 下 層 社 会 ① 都 市 発 展 と社 会 的 矛 盾 都 市 人 口の 増 大 と住 宅 難 1914∼19年 の第 一 次 世 界 大 戦 は,日 本 経 済 の飛 躍 的 な発 展 を もた ら し,工 業 化 の 進 展 に と もな って 大 都 市 へ の 人 口集 中 と都 市 化 が 大 き く進 ん だ。 こ こで も,ま ず 大 阪 市 とそ の 周 辺 の 人 口動 向 につ い て見 よ う。1910年 代 に は,大 阪 市 を取 り巻 く東 成 郡 ・西 成 郡 にお い て 人 口が 急 増 し,1914∼1919年 の 人 口増 加 率 は,東 成 郡44%,西 成 郡50%に も上 っ た。 これ は,大 阪市周 辺 部 へ の 工 場 建 設 と労 働 力 人 口 の流 入 に よる もの で,急 速 に市 街 地化 が 進 展 し, 住 宅 難 が 深 刻 な社 会 問 題 とな っ た'°)。 この 時 期 の 住 宅 問 題 は,二 つ の 内 容 を持 って い た 。 第 一 に,住 宅 の 絶 対 的 な不 足 とそ れ に伴 う家 賃 の 高 騰 に よ る借 家 問 題 の 発生 で あ る。1920年 に は大 10)第 一 次 大 戦 期 ∼1920年 代 の住 宅 問 題 に つ い て は,大 阪都 市住 宅 史編 集 委員 会 『ま ち に住 ま う 一大 阪都 市住 宅 史 一』(平 凡社,1989年)を 参 照 。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容167 阪 市 内 で5万 世 帯 分 の 住 宅 が 不 足 して い る とされ,1912∼1921年 に大 阪市 内 の 平均 家賃 は約2倍 に高 騰 した 。住 宅 の 不足 分 は,1戸 に2世 帯 以上 が 同居 す る 「間貸 し ・間借 り」 に よ って 補 われ た。 ま た第 二 に,粗 造 長 屋 の 建 設 と無 秩 序 な市 街 地 化 の 進 行 に よ って 住 宅 環 境 悪 化 と過 密 化 が 問 題 に な った こ とで あ る。 こ う した住 宅 環 境 の 劣 悪 な地 域 は,「 不 良住 宅 地 区 」 と呼 ば れ た 。 都 市 の 急 膨 張 に よ る都 市 住 民 の 生 活 困 難 とい う社 会 的 矛 盾 が 深 刻 化 した の で あ る。 米 騒 動 の 勃 発 第 一 次 大 戦 に と もな う好 景 気 で,大 都 市 周 辺 部 へ の 人 口集 中 とス ラ ム形 成 が 進 ん だが,単 身 の 日雇 層 が 集 ま るス ラ ム とな っ た釜 ヶ崎 はそ の 典 型 で あ っ た11)。釜 ヶ崎 を含 む今 宮 町 で は1913年 の人 口11200人 が1916年 に は23500人 に倍 増 し,1920年 に は さ らに49000人 に倍 増 した。 また,大 戦 景気 に よる物 価 全 般 の 上 昇 に くわ え,都 市 へ の 急 速 な人 口集 中 に よ って 農 業 生 産 が 停 滞 し た こ とを背 景 に,米 価 は上 昇 を続 けて い た。 1918年8月,政 府 が ロ シ ア革 命 に干 渉 す る た めの シベ リア 出兵 を決定 す る と,米 の 思 惑 買 い や 売 り惜 しみ が 広 範 囲 で 発 生 し,米 価 は未 曾 有 の 急 騰 を示 した。 大 阪 で は通 常 は1升20銭 の米 価 が,7月 には30銭 に達 し,8月 は じめ に は40銭 へ と急 上 昇 し,8月12日 には,な ん と56銭 に達 した。 富 山県 の 漁 村 地 域 で 発 生 した 「女 房 一 揆 」 が8月 は じめ に県 外 で 報 道 され る と,西 日本 を 中心 に米 の 廉 売(安 売 り)や 生 活 難 救 済 を求 め る大 衆 行 動 が 全 国 に広 が っ た。 大 阪 で は8月ll日 に天 王寺 公 園周 辺 と今 宮 町で,群 衆 に よ る廉 売 要 求 の 騒 動 が 発 生,12日 以 降 は 陸軍 第 四 師 団の 軍 隊 も出動 して そ の鎮 静 化 にあ た った が,騒 動 は16日 まで続 い た 。 以 上 の よ う に,米 騒 動 は,第 一 次 大 戦 期 に蓄 積 され た 都 市 の 社 会 的 な矛 盾 が 暴 発 して 起 きた もの で あ り,そ の 後,階 級 的 な社 会 運 動 が,都 市 を舞 台 に 11)以 下,米 騒 動 に 関 す る 記 述 は 前 掲小 山 ・芝 村 「大 阪 府 の 百 年 』 な ど に よ る。

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して 多 彩 に展 開 され る 口火 と もな った事 件 であ る。労 働 運 動 や借 家 人 の運 動 部 落 解 放 運 動 や 都 市 周 辺 農 村 にお け る小 作 人 の 運 動 な どは,い ず れ もこ う し た都 市 的 な社 会 的 矛 盾 の 蓄 積 を不 可 欠 の 要 因 と して 生 じたの で あ る。 大 阪 府 方 面 委 員 制 度 大 阪府 は,米 騒動 の際 に寄 せ られ た寄 付 金 を基 礎 に,1918年10月,貧 困者 に対 す る監 視 と救 済 の ため の 新 制 度 と して 方 面 委 員 制 度 を創 設 した12)。 そ の 内 容 は,次 の よ うな もの であ った。 お お む ね小 学 校 の 通 学 区域(学 区) を単 位 に設 定 され た 「方 面 」 と呼 ばれ る エ リア ご とに,数 人 の 委員 を任 命 し, 彼 らが 貧 困 世 帯 の 調 査 を実 施 し,方 面 カ ー ドに登 録 した上 で,公 的 救 助 の 斡 旋 や 職 業 紹 介,生 活 指 導 な どを行 い,貧 困 問 題 の 解 決 をめ ざ した。 方 面 委 員 制 度 が,現 在 の 民 生 委 員 制 度 の 前 身 に な っ た こ とは よ く知 られ て い る。 方 面 委 員 制 度 は,地 域 の 「世 話 役 」 的 な有 力 者 を組 織 的 に動 員 して 貧 困 層 の 把 握 と保 護 ・救 済 を行 う一 方 で,暴 発 の 要 因 とな る下 層 民 衆 を 日常 的 に監 視 す る役 割 を も担 っ たの で あ り,都 市 の 「安 全 装 置 」 で あ っ た。 ② 大 正 期 の ス ラム ー多 様 な要 素 の 複 合 大 都 市 へ の 流 入 者 は,し ば しば先 に流 入 した 同郷 者 を た よ って 集 住 し,同 郷 的 な結 合 に も とつ く集住 地 を形 成 した。 特 に1920年 代 以 降 の大 阪 で は,在 日朝 鮮 人 や 沖 縄 県 出身 者 の 集 住 地 が 注 目され る。 まず 朝 鮮 人の 増 大 につ い て 見 よ う'3)。1910年 の 韓 国 併 合 に よ って 日本 の 植 民 地 とな っ た朝 鮮 半 島 か ら大 阪 へ の 流 入 者 は,1923年 に済州 島 一大 阪 間 の航 路 が 開 設 さ れ たの を きっか け に1920年 代 半 ば以 降,急 速 に増 加 した。 当初 は, 12)大 森 実 「都 市社 会事 業 成 立 期 にお け る 中 間 層 と民 本 主 義 一大 阪 府 方 面 委 員 制 度 の 成立 を め ぐって 一」(『ヒス トリア』97号,1982年),松 下 孝 昭 「一九 二 〇年 代 の借 家争 議調 停 と都 市 地域 社 会 一大 阪市 の 事例 を中心 に 一」(『日本 史研 究』299号,1987 年)の ほ か,前 掲拙 著 「近 代 大 阪 の 都 市 社 会構 造』 第 七 章 を参 照 され た い 。 13)佐 々 木 信 彰 「1920年 代 に お け る 在 阪 朝鮮 人 の 労働=生 活 過程 一東 成 ・集住 地 区 を 中心 に 一」(前 掲 「大 正/大 阪/ス ラム』 所 収),杉 原 達 「越 境 す る 民 一近 代 大 阪 の朝 鮮 人 史研 究 一』(新 幹社,1998年)な ど を参 照 。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容 169 単 身 男 性 の 出稼 ぎの ため の 流 入 が 多 か っ たが,し だい に居 住 人 口 に 占め る女 性 の 割 合 が 増 加 し,世 帯 形 成 や 定 着 が 進 ん だ と思 われ る。 彼 らは,こ の 時 期 に東 成 区の 鶴 橋 木 野 町 猪 飼 野 町 東 小 橋 町 な どに集 住 地 を形 成 し,大 阪 市 内 の 各 所 に も小 規 模 な集 住 をつ くる形 で 散 在 した。 次 に沖 縄 県 出身 者 につ い て 見 る14)。1920年 代 の 沖 縄 県 で は,糖 価 の 暴 落 に よ って 主 要 産 業 で あ るサ トウ キ ビ生 産 が 大 きな打 撃 を う け た こ とを きっか け に 「ソ テ ツ地 獄 」 と呼 ばれ る厳 しい 困 窮 が 生 じ,本 土(本 州 地 域)へ 労 働 力 の 激 しい 流 出が 見 られ た。 大 阪 へ の 流 入 も多 く,1920年 代 後 半 に は沖縄 県 か ら大 阪 府 へ の 出稼 者 は毎 年5000人 ほ どに の ぼ っ た 。彼 らが従 事 した仕 事 は, 男 性 は 日雇 や,雑 工 業 の 中小 工 場 の 労 働 者 が 多 く,女 性 で は紡 績 工 場 の 女 工 に な る もの が 多 か っ た。 ま た彼 ら も先 に流 入 した縁 故 者 や 同郷 者 をた よ って 集 住 す る よ う に な り,大 正 区 の三 軒 家,小 林,恩 加 島地 区や 此花 区 の 四貫 島, 港 区の 市 岡 な どに集 住 地 を形 成 した。 彼 らの 生 活 ・労 働 状 況 は,お お むね 過 酷 で あ っ たが,1930年 代 に な る と,一 部 は重 工 業 労 働 者 に参 入 す る もの も出 て きた。 3)昭 和戦前期 の都市下層 ①巨大都市 と貧困問題 だ いお おさ か 「大 大 阪」 の誕 生 大 阪市 は,1925年,第 二 次 市 域 拡 張 を実 施 した 。 これ は,第 七 代 大 阪市 長 ・ せき はじ め 関 一 が 主 導 す る形 で進 め た もの で あ る15>。大 阪 市 域 外 縁 部 へ の 人 口流 入 と無 秩 序 な市 街 地 化 に伴 う社 会 矛 盾 の 激 化 に対 応 す る 目的 で,東 成 郡 ・西 成 郡 の 44か 町 村 を大 阪市 域 に編 入 した 。 そ の結 果,大 阪市 の 人 口 は211万 人 に達 し, そ の 時 点 で 東 京 を抜 い て 全 国最 大 の 都 市 とな っ た。 注 目 したい の は,そ の 後 (1925→40年)の 人 口 増 加 の 推 移 で あ る。 14)冨 山 一 郎 「近代 日本社 会 と 「沖 縄 人 」』(日 本 経 済 評 論社,1990年)な ど を参 照 。 15)第 二 次 市域 拡 張 も含 め た 戦 問 期 の 大 阪 市 に お け る都 市 政 策 の 展 開 とそ の 歴 史 的 特 質 に つ い て は,芝 村 篤樹 『関 一 一都 市 思 想 の パ イ オ ニ ア ー』(松 籟 社,1989年), 同 『日本 近 代都 市 の 成 立 一1920・30年 代 の 大 阪 一』(松 籟社,1998年)を 参 照 。

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旧 市 域133万 人 →154万 人16%増 新 市 域78万 人 →170万 人120%増(2.2倍 に増 加) 大 阪 市211万 人 →325万 人54%増(1.5倍 に増 加) 上 の 旧 市 域 ・新 市 域 そ れ ぞ れ の 人 口推 移 を見 る と,都 心 部 の 旧 市 域 にお け る人 口の 停 滞 ・減 少 に対 して,周 縁 部 の 新 市 域 で は人 口増 加 が 続 く,と い う 動 向 が 読 み とれ る(ド ー ナ ツ化 現 象)。 そ の結 果,新 市域 ・旧市 域 の比 重 は こ の 間 に逆 転 し,新 市 域 の 人 口増 加 に よ って 引 き起 こ され る問 題 は,こ の 時 期 の 都 市 的 課 題 の 焦 点 とな っ たの で あ る。 失 業 と貧 困 の 深 刻 化 1920年 代 か ら1930年 代 の初 頭 は,日 本経 済 が不 況 にあ えい だ時期 であ る16)。 特 に1930年 の 昭和 恐 慌 の 影響 が 大 き く,同 年 に大 阪 の失 業 率 は5.5%と な り, 失 業 者 数 で は東 京 を抜 い て 「全 国 一 の 失 業 都 市 」 と も言 われ た。 しか し,こ の 間 も都 市 へ の 流 入 人 口 は減 る どこ ろか,む しろ増 加 し,大 阪 は,膨 大 な貧 困 人 口 を,旧 市 域 の 周 縁 か ら新 市 域 にか けて の 地 区 を 中心 と して 抱 え込 む こ とに な っ たの で あ る。 こ う した不 況 に と もな う貧 困 状 況 を端 的 に示 す の が, 「不 良住 宅 地 区 」 の増 大 と在 日朝 鮮 人 の増 加 とい う事 実 で あ っ た 。 まず 「不 良 住 宅 地 区」 の 増 大 につ い て 見 る。 都 市 雑 業 に従 事 す る下 層 住 民 が,粗 造 の 裏 長 屋 に密 集 して 居 住 す る地 域 は,旧 市 域 と新 市 域 の 境 目か ら外 側 にか けて 広 が っ た。1937年 に大 阪市 が 実 施 した調 査 に よる と,大 阪市 内の 「不 良住 宅 地 区 」 は333か 所 に上 り,「不 良 住 宅 」 は1万7896戸 あ った とされ て い る。 こ う した裏 長 屋 に居 住 す る人 々の 劣 悪 な生 活 環 境 や 貧 困 が 問 題 化 し 続 け たの で あ る。 次 に在 日朝 鮮 人 の増 大 に つ い て。 大 阪 府 内 に居 住 す る在 日朝 鮮 人 の 人 口 は,1932年 に は10万 人 を突破 した。 彼 らの 労働 と生 活 の状 況 を見 る と以下 の よ う な点 が 指 摘 で きる。 第 一 に,高 い 失 業 率 と低 賃 金 の 重 労 働 を特 徴 とす る 16)以 下,昭 和 恐慌 期 の社 会 問 題 につ い て は,前 掲 小 山 ・芝 村 「大 阪 府 の 百 年 』 を参 照 。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容171 過 酷 な労 働 環 境 で あ る 。 昭和 恐 慌 に あ えい だ1930年 当 時 の失 業 率 は,先 述 の とお り大 阪市 全 体 で は5.5%と 推 定 され るが,在 日朝鮮 人 は18%と 高 か った 。 彼 らが 働 く職 場 は,ガ ラス 工 場 や ゴ ム工 場 な ど,多 くは雑 役 労 働,あ るい は 日雇 い や 土 方 仕 事 な どが 中心 で,賃 金 につ い て も民 族 差 別 に よ って 日本 人 の 下 層 労 働 者 よ り も低 位 に置 か れ た。 第 二 に,彼 らが 居 住 した東 成 区 な どの 集 住 地 はい ず れ も 「不 良 住 宅 地 区」 で,劣 悪 な居 住 環 境 の も とに置 か れ た こ とで あ る。 単 身 者 は,大 人 数 が 飯 場 や バ ラ ック小 屋 に寝 泊 ま りす る よ う な場 合 が 少 な くなか っ た。 ま た長 屋 な ど に住 居 す る人 々 も含 め た東 成 区小 橋 町の 在 日朝 鮮 人 の 場合,1人 当 た りの畳 数 は0.55畳 で あ っ た 。 当時,方 面 委員 が 救 済 の対 象 と した要 保 護 世 帯 で も1人 当 た り1.5畳 で あ っ たか ら,彼 らは,ス ラ ムの 最 底 辺 の 生 活 を余 儀 な くされ た と言 え よ う。 ② 「不 良 住 宅 地 区 」 の 実 態 八 十 軒 長 屋 の 場 合 上 に述 べ た 「不 良 住 宅 地 区」 の 具 体 例 と して 挙 げ られ るの が,日 本 橋 周 辺 の 裏 長 屋 群 で あ る'7)。中 で も1890年 代 に建 設 され た 「八 十軒 長 屋 」 と呼 ばれ た長 屋 は,大 阪 府 ・大 阪 市 が そ れ ぞ れ 住 民 調 査 を実 施 した こ とで 詳 しい 実 態 が わか る貴 重 な事 例 で あ る。 八 十 軒 長 屋 に は,「 大 大 阪 」誕 生 前 夜 の1924年 時 点 で,79戸 の 長屋 住 居 に 129世 帯504人 の 住 民 が い た 。129世 帯 の うち50世 帯 は 「間 借 り」 世 帯 で, 二 階 建 て に な って い る住 戸 の 一 階部 分 と二 階部 分 を シェ アす る形 で2世 帯(場 合 に よ って は3世 帯)が 同居 す る場 合 が 少 な くなか っ た。 長 屋 の 居 住 環 境 を見 る と,室 数 で は,全 体 の40%近 くが1室 しか使 用 して お らず,2室 以 下 をあ わ せ る と全 体 の75%に も及 ん だ。 畳 数 で は,7.5畳 以 下 が 全 体 の72%に の ぼ った(1世 帯 当 た り7.2畳,1人 当 た り1.9畳)。 家 族 の 人 数 が ほ ぼ4人 で あ っ た こ とを考 え る と,か な りの 高 密 度 で 居 住 して い た 17)前 掲拙 著 「近代 大阪の都 市社会構 造』 第八章 を参照。

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と言 え よ う。 生 活 設 備 を見 る と,井 戸 と上 水 道 は,同 じ敷 地 内 に住 んで い た 家 主 が 各1つ を専 用 す る ほか は,長 屋 内 の 他 の128世 帯 が 井 戸3つ と水 道 栓 1つ を共 用 す る とい う状 態 で あ った 。 ま た この 時期 普 及 が 進 ん だ電 灯 は,1個 を 「共 用 」す る世 帯 が14%あ る ほか,1個 専 用58%,2個21%,3個 以上7% とな り,一 部 とはい え 「共 用 」 さ え見 られ た。 便 所 は,新 し く建 て られ た24 戸(46世 帯 が 居 住)に は1か 所 ず つ あ っ たが,家 主 の 住居 を 除 け ば,残 りは 2か 所 の 共 同 便 所 を,じ つ に82世 帯 が 共 用 す る有 り様 で あ っ た。 八 十 軒 長 屋 の 土 地 ・家 屋 ・居 住 をめ ぐる階 層 関 係 は,以 下 の よ う に整 理 で きる。 じつ は,長 屋 が 建 つ 敷 地 は,住 友 吉 左 衛 門(住 友 合 名 会 社 社 長)の 所 有 地 で あ り,不 在 地 主 で あ る こ の住 友家 を頂 点 に,そ の住 友 か ら土 地 を借 り, 地 代 を納 め なが ら借 家 経 営 を行 い 現 地 に居 住 して い る家 主,家 主 か ら住 戸1 戸 を借 りる世 帯,そ の1戸 の うち二 階 な どの部 分 に 同居 す る 「間借 り」 世 帯 これ らが長 屋 の社 会 関係 を構 成 す る人 々で あ る。 現 地 に居 住 す る家 主 は,1か 月 数 百 円(借 家 人 の5倍 以 上)の 高 収 入 を得 る存 在 で,当 然,家 屋 も広 々 と した もの で あ っ た。 裏 長 屋 に住 む借 家 人 た ち との 格 差 は歴 然 で あ り,こ う し て 裏 長 屋 の 世 界 に は,地 主 ・家 主 ・借 家 人 の 問の 階 層 関 係 が 存 在 したの で あ る。 長 屋 住 民 の 職 業 は,世 帯 主 につ い て は1880年 代 まで の 長 町 と同様,屑 物 収 集 に関 す る職 業 が 少 な くなか っ たが,世 帯 員 の 世 代 で は,雑 貨 品 工 業 が 多 い もの の,工 業 的 職 種 に就 く者 が 多 く,一 部 に は熟 練 度 の 高 い 工 場 労 働 者 もい た。 こ こ に は,都 市 下 層 民 の職 業 面 にお け る上 昇 傾 向が 読 み 取 れ る と とも に, ス ラ ム と一 括 され る地 域 が,実 際 に は多 様 な要 素 を含 んで 成 り立 って い た こ とが 示 され て い る と言 え よ う。 大 阪 市 の 新 市 域 を 中心 に存 在 した 「不 良 住 宅 地 区」 は,そ れ ぞ れ が こ う し た生 活 諸 関 係 を持 って お り,集 住 地 を単 に外 部 か らだ け見 て 「ス ラ ム」 と見 なす の は一 面 的 で あ り,そ の 地 域 の 特 性 を職 業,居 住,消 費 な どを通 じた 社 会 的 関 係 の 中で 捉 えて い くこ とが 必 要 で あ ろ う。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容 173 不 良 住 宅 地 区 改 良 事 業 と都 市 下 層 民 1927年 か ら,こ の八 十 軒 長 屋 を含 め た 日本 橋 周 辺 の 長屋 群 に対 して大 阪市 は 「不 良住 宅 地 区改 良事 業 」 を進 め た'8)。大 阪市 は,同 年3月 の不 良住 宅 地 区 改 良 法 の 施 行 を う け,全 国 で最 も早 く事 業 に着 手,翌28年 に は事 業対 象 地 区 の 指 定 が 認 可 され,改 良 住 宅 の 建 設 が 始 ま っ た。 指 定 され た 地 区 は,下 寺 町 三 ・四 丁 目,北 日東 町 ・南 日東 町 東 関谷 町一 ・二丁 目,広 田 町 の各 一 部 で, 総 面積 は1万8796坪 ・戸 数1200に の ぼ り,6か 年 計 画 で,約710万 円 もの予 算 が 計 上 され た。 同年 度 の社 会 事 業 費通 常 予 算38万 円 と比 べ れ ば い か に大 規 模 な事 業 で あ った か が わ か る。 この事 業 に よっ て1943年 ま で に鉄筋 コ ンク リ ー ト建 て の3棟 を含 む市 営 改 良 住 宅 が 建 設 され た。 しか し,地 区指 定 と事 業 構 想 の 発 表 か ら問 もな く,裏 長 屋 の 住 民 た ち は事 業 実 施 に抵 抗 す る運 動 を開 始 した。 住 民 らは,① 移 転 料 の 金 額 に不 満,② 一 時 移 転 先(今 宮 地 域)に 不 満,③ 事 業 に よ って 自分 た ちの 生 活 が 奪 われ る, な ど と訴 え たの で あ る。 当 初 は立 ち退 きに反 対 し,の ち に は,よ り有 利 な条 件 で の 立 ち退 きを求 め る運 動 に変 化 したが,彼 らの 主 張 の 前 提 に は,裏 長 屋 で 育 んで きた生 活 へ の 愛 着 が あ っ た。 この 紛 争 は,長 屋 をめ ぐる重 層 的 な居 住 関 係 を反 映 して 複 雑 化 し,住 民 と 家 主,地 主(住 友 家 ら),大 阪 市 の 問 で,い くつ もの 紛 争 が発 生 した 。 国粋 会 の 侠 客 の 仲 裁 もあ っ た ため,地 主 ・家 主 は一 定 の 譲 歩 を見 せ,大 阪 市 も移 転 条 件 改 善 を行 っ た よ うで あ る。 結 局,移 転 条 件 の 改 善 を と もな って 改 良 事 業 は遅 延 ・縮 小 しなが ら も実 施 され たの で あ る。 改 良 後 の 住 民 生 活 を見 る と,居 住 条 件(設 備 ・畳 数 ・家 賃)の 大 幅 な改 善 だ けで な く,大 正 期 以 来 の 地 域 改 善 政 策 の 効 果 もあ って,住 民 の 教 育 水 準 や 健 康 状 態 も向 上 した。 また社 会 関係 の 面 で は,問 貸 し ・間借 り関係 が 減 少 し, 相 対 的 に所 得 水 準 の 高 い 新 住 民 が 入 居 した ほか,重 層 的 な関 係 が 解 消 され て 大 阪 市 に よ る住 民 の 直 接 管 理 が 実 現 す る な どの 変 化 が あ っ た。 裏 長 屋 時 代 の 18)前 掲 拙 著 「近代 大 阪 の都 市 社 会構 造』 第 九 章 を参 照 。

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社 会 関 係 は大 き く再 編 され たの で あ る。 じつ は改 良 事 業 の 対 象 と して この 地 域 が 選 ばれ た背 景 に は,こ の 地 域 の 都 市 下 層 民 の 生 活 が 持 って い た一 定 の 上 昇 可 能 性 が 存 在 した。 ま た,立 ち退 き に抵 抗 した住 民 の 主 張 か らは,ス ラ ム とはい え,大 都 市 大 阪 に移 り住 み,ま が りな りに も世 帯 を形 成 し,長 屋 内 で 共 同性 を育 み なが ら働 き,暮 ら して き た都 市 下 層 住 民 の 自負 を読 み 取 る こ と もで きる だ ろ う。 4)小 括 本稿 で述 べ て きた 内容 を,19世 紀 か ら20世 紀 の都 市 下 層 社 会 の 変容 とい う 点 に即 して 整 理 す る と,次 の よ う な点 が 指 摘 で きる。 第 一 に,大 阪 の 都 市 下 層 社 会 は,近 世 以 来 の 下 層 民 集 住 地 と して 代 表 的 な 地 位 を 占め た長 町 の 変 容 ・解 体 を軸 に,工 業 化 ・都 市 化 が 進 む 中で 新 た なス ラ ム を形 成 して い っ た。 そ こ に は,釜 ヶ崎 と 日本 橋 周 辺 とい う性 格 の 異 な る 下 層 民 集 住 地 が 生 まれ た。20世 紀 に は,さ らに拡 大 ・多様 化 し,被 差 別 部 落 と して の 性 格 を持 つ 西 浜 町 が 膨 張 を続 け た だ けで な く,在 日朝 鮮 人 や 沖 縄 県 出身 者 の 集 住 地 も形 成 され た。 こ う して,そ れ ぞ れ が 個 性 を持 つ 下 層 社 会 を 一 つ 一 つ て い ね い に研 究 ・叙 述 す る こ とが さ らに進 め られ るべ きで あ ろ う 第 二 に,19世 紀 の段 階 と20世 紀 の 段 階 で,権 力 に よる下 層 住 民対 策 の性 格 が 変 化 した こ とで あ る。 つ ま り,「貧 民 」 の単 純 な排 除 か ら,生 活 改 善 を伴 っ た介 入 と秩 序 化 へ の 転 換 で あ る。 こ う した変 化 は,こ の 間の 都 市 政 策 の 歴 史 的 変 化 を反 映 して い る。 そ こ に は,居 住 をめ ぐる住 民 の 諸 権 利 を,不 十 分 な が ら もそ の 前 提 に組 み 込 む形 で の 住 宅 政 策 の 登 場 とい う変 化 が あ っ た と考 え られ る。 第 三 に,都 市 下 層 住 民 の 主 体 性 に関 わ る問 題 で あ る。 彼 らは単 に近 代 的 市 民 の 「陰 画 」 で もな けれ ば 受 動 的 な存 在 で もなか った 。 工 業 化 と都 市 化 が 進 展 し,大 き く社 会 が 変 動 す る 中 にあ って,近 代 の 都 市 下 層 民 は,流 入 者 が 結 婚 し,集 住,定 着 す る形 で 裏 長 屋 にそ の 生 活 世 界 を構 築 して い っ た。20世 紀 段 階 の 都 市 政 策 の 影 響 も受 け なが ら,昭 和 戦 前 期 に は,都 市 下 層 住 民 の 結

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容175 集 ・運 動 や 権 利 自覚 に も とつ く生 活 条 件 の 改 善 と市 民 的 な成 長 も一 定 て い ど もた らされ た。 不 良 住 宅 地 区改 良 事 業 をめ ぐる立 ち退 き問 題 は,そ う した変 化 を象 徴 す る もの で は ない だ ろ うか 。 以 上 の よ う に,大 阪 の 都 市 下 層 社 会 は,近 世 以 来 の構造 を変 容 させ,19世 紀 末 以 来,新 た な流 入 人 口 を受 け とめ なが ら,巨 大 都 市 大 阪 の 発 展 を底 辺 で 支 え る重 要 な役 割 を果 た しつ づ け たの で あ る。 3.1930年 代 の 下 層 労働 者 と労 力供 給 請 負 業 一 二 つ の 事例 か ら 本 章 で は,1920∼30年 代 の都 市 「下層 」 労 働 者 につ い て,「 宿 と口入 」 の問 題'9)に注 目 して論 じる。 不 安定 雇 用 の も とに あ る労働 者 の職 業 紹介 と宿 泊 を担 う営 業 者 の 存 在 に注 目 しなが ら,近 代 にお け る 「下 層 」 労 働 力 の 供 給 の 問 題 につ い て 考 え たい 。 具体 的 な素 材 と して は,1920∼30年 代 大 阪 の都 市 「下 層 」 労働 者 の 中 か ら, 二 つ ほ どの 職 種 を取 り上 げ,そ の 共 通 性 と相 互 関 係,差 異 に も留 意 しなが ら 検 討 す る こ とに したい 。 分 析 にあ た り,① 都 市 内 地 域 へ の 空 間 的 な展 開 の 特 徴 に も注 目す る こ と(都 市 内地 域 史 の視 点),② 在 日朝鮮 人労 働 者 の 問題 に も 可 能 な限 り触 れ る こ と,の 二 つ に留 意 して い きたい 。 1)歴 史 的 前 提 一1870∼90年 代 の 宿 と 口 入 ま ず 前 提 と して,近 世 か ら近 代 へ の 移 行 期 で あ る19世 紀 後 半 の 大 阪 に お け る 都 市 下 層 社 会 の 状 況 に つ い て 見 て お く2°)。 2.1)② で 述 べ た よ う に,近 世 ∼ 近 代 移 行 期 の 大 阪 で は 長 町 と呼 ば れ た 日 本 橋 筋 に 沿 っ て 形 成 さ れ た 木 賃 宿 街 が 下 層 民 の 集 住 す る 場 所 と して 知 られ て お り,1880年 代 に は 日雇 仕 事 や,屑 拾 い ・乞 食 の ほ か,傘 や 団 扇 の 職 人,マ ッチ 工 場 の 労 働 者 な どが,あ る い は 単 身 で,あ る い は 家 族 持 ち と して 裏 長 屋 19)塚 田 孝 「宿 と口 入 」(原 直 史 編 『身分 的周縁 と近世 社 会3商 いが むす ぶ 人 び と』 吉 川 弘 文館,2007年)参 照 。 20)以 下,19世 紀 後 半 の 木賃 宿 や 大 阪 府 の宿 屋 業 取 締 に つ い て は,前 掲拙 著 「近 代 大 阪 の都 市社 会構 造』 第 二 章 を参 照 。

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形 態 の 木 賃 宿 に暮 ら して い た。 近 世 に は,長 町 の 木 賃 宿 は 「無 宿 空 人 別 」 と呼 ばれ た無 籍 の 流 入 者 を宿 泊 させ る と と もに,「 三稼 」 と呼 ば れ た米 揚 き ・酒 造 ・油 絞 りを代 表 とす る 日雇 単 純 力 役 労 働 に 口入 す る機 能 を独 占的 に果 た して い た。 しか し,近 世 後 期 の 段 階 で す で にそ の 特 権 は,様 々 な分 野 で 非 公 認 の 口入 業 者 が 登 場 す る こ とで 脅 か され て お り,1870年 代 初 め に は,大 阪府 の布 令 に よ り,そ れ まで の独 占 的 な 口入 の 権 利 は失 われ る に至 っ た。 とはい え,1880年 代 半 ば に な っ て も長 町周 辺 は,家 賃 日払 い の 裏 長 屋 に, 多 数 の 「貧 民 」 が 集 住 す る地 域 で あ り続 け,密 集 した住 居 と衛 生 環 境 の 悪 さ な どか ら,こ の 時 期 に流 行 した コ レラの 被 害 を う け た だ けで な く,そ れ を拡 大 す る原 因 と もな っ た ため,大 阪 府 は,こ れ らの 貧 民 を農 村 部 へ 移 転 す る計 画 を立 て,そ の 実 行 策 の一 つ と して1887年,宿 屋 取 締 規則 を制 定 した。 この 規 則 で は,木 賃 宿 の 大 阪 市 街 地 内 で の 営 業 を禁 止 し,さ らに宿 屋 と雇 人 請 宿 業(様 々 な業 種 へ の 日雇 労 働 者 の 口入 を担 っ た業 態)と の 兼 業 を も禁 じた。 しか し半 年 もた な い翌1888年 に,大 阪府 は雇人 口入 営 業取 締 規則 を制定 し, 米 揚 き ・油 絞 り ・蒲 鉾 摺 り ・麺 打 ち ・手 拭 い 打 ち な どの 日雇 稼 人 を 口入 す る 業 者 に限 って は,警 察 署 の 許 可 を得 て 稼 人(労 働 者)を 宿 泊 させ る こ とが 可 能,と い う形 に修 正 したの で あ る。 以 上 か ら,近 世 以 来,「 三稼 」 以外 も含 め た多 様 な職 種 に広 範 に展 開 した, 「宿 と口入 」 の機 能 を併 せ 持 つ労 働 力 仲 介 業 者21)が,近 代化 の過 程 で も,都 市 の 巨 大 化 に伴 って 流 入 す る下 層 民 の 受 け皿(同 時 に搾 取 機 構 で もあ っ た)と して 根 強 く存 続 して い く様 子 が うか が え る。 そ こで,浮 か ぶ の は次 の 二 つ の 課 題 で あ ろ う。 第 一 に,明 治 前 期 の 大 阪 府 の 法 令 に見 え る 「雇 人 請 宿 業 」 に は,お そ ら く 「三稼 」 以外 も含 め た多 様 な業 態 の仕 事 に従事 す る労 働 者 に 「宿 と口 入」 を提 供 す る者 が 含 まれ る と見 られ,こ う した多 様 な実 態 を検 討 す る必 要 が あ る こ 21)前 掲 塚 田 「宿 と口 入 」 を参 照 。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容 177 とで あ る。 第二 に,現 代 の不 安 定雇 用 や 「貧 困 ビジ ネス」 の問題 も意 識 しなが ら22),1890 年 代 以 降 の,こ う した下 層 労 働 力 に吸 着 す る仲 介 業 の 実 態 とそ の 歴 史 的 展 開 を具 体 的 に た どる形 で 明 らか に して い く必 要 が あ る こ とで あ る。 以 下,本 稿 で は,上 記 の 課 題,特 に第 二 の 点 に向 か うた め の さ さや か な一 歩 と して,関 連 す る先 行研 究 に学 びつ つ,若 干 の事 例 紹 介 と考 察 を行 いた い 。 2)港 湾 労働 者 の場 合 ① 港 湾 労 働 者 と労 力 供 給 請 負 業 者 こ こで は,島 田克 彦 氏 の 研 究23)の要 点 を紹 介 す る形 で,1930年 代 初 め の 大 阪 港 にお け る港 湾 労 働 者 で あ る 「仲 仕 」 につ い て 見 て み よ う。 1935年10月 に大 阪 地方 職 業紹 介 事 務 局 が作 成 した 『労力 供 給 請負 業 者 に関 す る調 査 』24)とい う史 料 が あ る。 これ は,大 阪 市 ・堺 市 ・岸 和 田市 ・京 都 市 ・ 神 戸 市 の 労 力 供 給 請 負 業 者 とそ の 類 似 業 者(総 数1095)を 対 象 に,特 に 「職 夫 及 び土 木 建 築,運 輸 関 係 労 務 者 等 を対 象 とす る供 給 請 負 業 」 に重 点 を置 い て 調 査 した もの で あ る。 具 体 的 に は,代 表 的 業 者 の 詳 細 な営 業 状 態 調 査(第 一 調 査)と ,全 て の 業 者 の 名 称 ・所 在 ・経 営 種 別 ・所 属 労 働 者 数 ・年 間 取 扱 件 数 な ど基 礎 デ ー タの 調 査(第 二 調 査)を 実 施 して い る。 なお,大 阪 市 内 の 対 象 業 者 は722で あ っ た。 まず 供 給 業 者 の 行 政 区別 分 布 を見 る と,業 者 数 ・所 属 労 働 者 数 ・年 間 取 扱 件 数 にお い て 港 区 ・大 正 区 ・此 花 区の 三 区が 最 多 で あ り,此 花 区 は工 場 雑 役 夫 が 多 い こ とで,港 区 は,港 湾 で働 く仲 仕 が多 い こ とで 際立 っ てい た こ とが わ か る(表1)。 特 に,港 区 は,仲 仕 を専 門 に供 給 す る業 者 が築港 地 区 に分 厚 く分 布 し,大 阪 港 と安 治 川 の 港 湾荷 役 労働 の大 量 需 要 に応 じてい た 地域 で あ った 。 22)前 掲 湯 浅 『反 貧 困』,小 野 「「新 自由 主 義 時代 」 の 近 世 史 研 究 」 な ど を参 照 。 23)島 田 克 彦 「1920∼30年 代 の都 市 に お け る労 務 供 給 請 負 業 者 」(「ヒ ス トリ ア』175 号,2001年),同 「戦 前 期 大 阪築 港 にお け る港 湾 運 送 業 と労 働者 一1932年 ・築港 沖 仲 仕 争 議 を中 心 に 一」(「ヒス トリア』178号,2002年)を 参 照 。 24)大 阪 市 立 大 学 学術 情 報 総 合 セ ン ター 所 蔵 本 を利 用 した 。

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表1大 阪市 における労 力供給 請 負業者 数(区 別)と労働 者数 区 業者数 所属労働者 仲仕 土木建築 工場雑役 人夫雑役 そ の他 年延取扱数 北 区 55 1,144 449 344 297 36 18 344,901 此花 区 81 13,160 792 785 11,502 一 81 686,532 東 区 30 2,141 656 1,369 116 一 一 725,462 西 区 18 375 142 129 20 34 50 83,718 港 区 216 4,329 2,953 438 920 16 2 1,242,803 大正 区 106 2,621 608 484 1,217 243 69 789,675 天王 寺 区 13 207 50 87 一 一 70 73,181 南 区 31 394 47 160 37 一 150 50,040 浪速 区 23 633 197 136 50 一 250 105,785 西淀 川 区 38 1,541 434 523 181 385 18 214,045 東淀 川 区 21 260 8 59 137 39 17 74,970 東成 区 2 26 一 26 一 一 一 4,800 旭 区 14 367 45 299 21 一 2 108,445 住吉 区 46 405 33 344 11 一 17 128,308 西成 区 28 311 134 69 69 39 一 106,928 合計 722 27,914 6,548 5,252 14,578 792 744 4,739,593 備 考:大 阪地 方 職 業 紹 介 事 務 局 『労 力 供 給 請 負 業 に関 する調 査 』1935年 。島 田論 文 より。 そ こで,中 谷 組(経 営 者 は 中谷 庄 之 助)を 例 に,沖 仲 仕 を供 給 す る仲 仕 業 者 の 実 態 をみ る と,同 組 は 日本 郵 船 の 船 内 荷 役 を三 菱 倉 庫 の 下 請 け と して 担 う築 港 の 代 表 的 業 者 で あ っ た。 中谷 組 で は,本 船 の 発 着 や 天 候 の 条 件 に左 右 され て 業 務 期 間 ・荷 役 量 な どに変 動 が 多 い 船 内 荷 役 業 務 にい つ で も応 じ られ る よ う に,中 谷 の 配 下 で あ る 「下 請 負 人 」 が,人 夫 部 屋 や 下 宿 を もう けて 多 くの 仲 仕 を寄 宿 させ て い た。 荷 役 作 業 にお い て 中 間監 督 者 と して の 役 割 を果 たす 「監 督 」 「助 監督 」 「小 頭 」 と呼 ばれ た リー ダ ー た ち は,下 請 負 人 と して 「部 屋 」 を もう け(親 方 か ら 「部 屋 分 け」 を認 め られ,「 元 部屋 」 に対 す る 「下 部屋 」 と して 分 立 し,そ の 下 請 け とな る慣 習 が あ っ た),常 傭 仲 仕 を抱 え る とと もに,築 港桟 橋 付 近 に 日々集 合 す る 日傭 仲 仕(「 鮫 鯨仲 仕 」 とも呼 ば れ た)を も,必 要 に応 じて 臨時 に雇 い 入 れ た。 供 給 業 者 は,こ う して 元 部 屋 ・下 部 屋 の 関 係 で 結 ばれ,重 層 的 な構 造 を持 って い たの で あ る。 港 湾 荷 役 労 働 は,① 時 期 的 波 動 性 が 大 き く,② 機 械 化 困 難 な筋 肉労 働 か つ 危 険 労 働 で あ り,③ 一 定 の 「熟 練 」 とチ ー ム ワ ー クが 要 求 され る集 団 作 業 で あ った た め,④ 親分 一乾 分 関係 を介 した労 働 者 の結 合 を特徴 と して いた。1930

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容179 年 代 当 時 の 労 働 組 織 は,10∼20人 ほ どの 「ギ ャ ング」 と呼 ば れ る単位 に よっ て 構戒 され,こ の 「ギ ャ ン グ」 で は,小 頭 の 統 括 の も とで ウ ィ ンチ マ ン ・デ ッキマ ン各1∼2人,ヒ ラの仲 仕10∼20人 が 作 業 に従 事 した。 ま た,こ う した供 給 業 者 の 多 くは労 働 下 宿 を兼 業 して い たが,労 働 下 宿 で は,労 働 者 か ら宿 泊 料(1日55∼90銭)を 取 る と と もに,紹 介 先 か ら労 働 者 に支 払 われ る賃 金 の10∼15%を 紹 介 料 と して徴 収 し,さ らに 「親 方納 」 な ど の 名 目で 一 定 の 金 額 を天 引 き した上 で,月2回 の 賃 金 払 い まで の 「前 借 」 金 や 被 服 の 貸 与 も行 い,そ こか ら も利 子 を搾 取 した とい う。 そ う した搾 取 もあ って,労 働 者 の 各 下宿 での 滞在 期 問 は2か 月 ∼6か 月 と短 期 間 で あ り,当 時の 大 阪 市 に よ る聞 き取 り調 査 で は,下 宿 で の 搾 取 に対 す る労 働 者 の 不 満 も大 き か っ た様 子 が うか が え る。1932年 に築 港 で発 生 した沖 仲仕 の争 議 を主導 した 大 阪 運 輸 交 通 労 働 組 合 の 安 治 川 支 部 で は 「部 屋 制 度 廃 止 」 を運 動 方 針 と して 議 論 して い た こ と も確 認 で きる25)。 ② 小 括 以 上 の 沖 仲 仕 と彼 らの 供 給 業,そ して 部 屋 につ い て 注 目 して お きたい の は 次 の 点 で あ る。 第 一 に,「 宿 と口 入」 とい う両機 能が 実 質 にお い て 一体 の もの と して,仲 仕 や 土 木 建 築 作 業 員,工 場 雑 役 夫 な どの 供 給 業 の 分 野 で 存 続 し,そ の 労 働 力 需 要 に応 じる と と もに,宿 機 能 に よ る流 入 下 層 民 へ の 居 所 「提 供 」 と搾 取 が 存 在 し,行 政 当 局 か ら も,労 働 者 か ら も問 題 視 され て い た こ とで あ る。 第 二 に,宿 と口入 の 両 機 能 が,1930年 代 の時 点 で 「兼業 」 とされ,形 式 と して は分 離 可 能 な業 態 と して 認 知 され て い た こ と は,お そ ら く1)で 述 べ た 19世 紀 後 半 の変 化 を前 提 と して い る こ とで あ る26)。 第 三 に,港 区 に は在 日朝 鮮 人(な い しは 中国 人)の 経 営 す る供 給 業 者(い 25)前 掲 島 田 「戦 前 期 大 阪 築 港 に お け る港 湾 運 送 業 と労 働 者 」 を参 照 。 26)こ こか らは,1890年 代 か ら1920年 代 まで の 変遷 とい う検 討課 題 が 浮 上 す るが,今 後 の 課 題 と した い 。

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ず れ も専 業 で 下 宿 を経 営 して い ない)が6軒 存 在 し,い ず れ も20∼30人 規 模 の 労 働 者 を抱 え る零 細 業 者 で あ っ た こ と,港 区以 外 に も朝 鮮 人(・ 中国 人) を経 営 者 とす る供 給 業 者 が 散 見 され る こ とに注 目 して お きたい(表2)。 表2在 日朝 鮮 人(・中国 人)の労力 供給 請負 業者 Na.索引番号営業所名称 業者 (代表者) 氏名 営業所の所在地 経営種別専業・蘇 区分 所属労働者数 年間延べ 取扱件数 備考 仲仕土木建築工場雑役諸人夫その他 計 1 14 邊 致正 北区毛馬町98 個人 兼業 18 18 250 1934年11月開業 2 31 森本組 朴 王大 北 区生 江町101 個人 労働下宿 10 10 3,200 3 92 金本組 金 用伊 此花区四貫島嘉永町7 個人 専業 22 22 3,929 4 99 安田組 安 小夢 此花区四貫島宮居町2 個人 専業 20 20 5,000 5 130 揚 開東 此花 区春 日出町中6-10 個人 労働下宿 10 10 20 3,600 6 135 宮本 金 鐘立 止ヒ花区春日出町中6-151-15 個人 労働下宿 23 23 3,520 7 278 福田組 李 世奉 港 区石 田元町3-14 個人 専業 21 21 5,250 8 279 呉 点世 港 区石 田外村町2-14 個人 専業 10 2 12 2,851 9 280 斐 恩睾港 区石 田外村町2-14 個人 専業 18 10 28 4,050 10 281 任 斗聖 港 区石 田外村町2-14 個人 専業 15 8 23 3,920 11 282 金 哲鏑 港 区石 田外村町2-14 個人 専業 7 12 19 3,300 12 283 方 徳乖乍港 区石 田外村町2-14 個人 専業 8 2 8 18 3,208 13 339 富栄組 T1光 保 港区八幡屋松之 町2-208 個人 専業 2 3 5 1,725 14 502 南 尚元 大正 区鶴町2-81 個人 専業 17 17 5,620 15 577 中村組 徐 定鏡 西淀川区野里町860 個人 専業 9 9 630 1934年9月 開業 16 592 李 鐘律 西淀川区野里町730 個人 専業 7 3 10 2,500 17 600 金本組 金 貴明 西淀川 区伝 法町南1-33 個人 専業 150 1 151 4$000 18 658 宗 在淑 住吉 区天王寺町3505 個人 労働下宿 14 14 3,600 19 659 諸 民鏑 住吉 区天王寺町3514 個人 労働下宿 15 15 3,870 20 669 朴 容順 住吉区北田辺町102 個人 専業 5 5 1,440 21 670 朴 陽伸 住吉区北田辺町154 個人 専業 10 10 3,600 22 671 朴 奎歴 住吉区北田辺町42 個人 専業 3 3 720 23 717 朴 敬範 西成 区汐路通4-4 個人 労働下宿 24 24 $030 合計 92 290 97 0 18 497 121,813 備 考:『労 力 供 給 請 負 業 に関 す る調 査 』247-289頁 より作 成 。専 業 ・兼 業 区分欄 の「兼 業 」は何 との兼 業 か は不 明,「労 働 下 宿 」は労 働 下 宿 兼 業 の意 味 。 年 間延 べ 取 扱 件 数は,1933年12月1日 ∼34年11月30日 に,日 々各業 者 が 供 給 し就 労 させ た労 働 者 の 延 べ 人 数 。 3)浴 場 労働 者 の場 合 次 に,銭 湯 で 働 い て い た 「浴 場 労 働 者 」 につ い て,や や 詳 し く取 り上 げ よ う27)。浴 場 労 働 者 につ い て は,大 阪 市社 会 部 調 査 課 『本 市 に於 け る浴 場 労働 者 27)池 本 義 史 「昭和 初 年 大 阪 に お け る 銭 湯 の社 会 史 的研 究 一大 阪 市 社 会 部 報 告 を素 材 に 一」(『桃 山 学 院 大 学佐 賀 ゼ ミ第6期 生 卒論 文 集』2010年)を 参 照 しつ つ,原 史 料 とな る 大 阪 市社 会 部 報 告 を再 読 して 再構 成 した 。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容181 の 生 活 と労 働 』(社 会 部報 告146号,1931年9月)と い う史料 が あ る。 この調 査 は,1930年 末 現 在,大 阪市 内 の1251浴 場 に3568人 い た とされ る浴場 労 働 者 の う ち,323浴 場 の1020人 を対 象 に,そ の社 会 構 成 や 労働 条 件,生 活 実 態 につ い て 調 査 した もの で あ る。 「観 察 の重 点 を特 に部 屋 制 度 に置 い て 」 昭和 恐 慌 下 の 失 業 問 題(=不 安 定 雇 用 問 題)の 観 点 か ら調 査 を行 った 点 が 注 目され る。 ① 社 会 構 成 と地 域 的 分 布 「浴 場 労 働 者 」 とは,「 三 助 」 「補 助 」 「流 し」 「下足 番 」 「番 台 」 な どの総 称 だ とい う。 この う ち,「 三助 」 とい う呼称 は,銭 湯 で 「釜焚 き」 「湯 加 減 の 調 整 」 「番 台 」 の 三業 務 を 「助 」 け た こ とが そ の語 源 とされ,浴 場 労働 者 全 体 の 呼 称 と もされ るが,こ の 調査 で は,関 東 の三 助 は 「流 し」(浴 場 内 で客 の背 中 を流 す 人)の こ とを指 す が,大 阪 で は火 夫(釜 焚 き)と 向 番(湯 舟 の 掃 除 や 店 廻 りの 仕 事 をす る)の 二 者 を指 す と して い る。 大 阪 の 銭 湯 で は,そ の 大 半 が,火 夫 と向 番 の 二 人 を雇 っ て い た(「 二枚 風 呂」 と呼 ん だ)が,市 周 囲部 の 小 さい 銭 湯 で は1人 だ け を雇 う 「一 枚 風 呂」 もあ り,そ う した銭 湯 で は 「補 助 」 とい う名 の 見 習 い 労 働 者 に仕 事 を手 伝 わせ た,と して い る。 この 調 査 で 対 象 とな っ た1020人 の 男女 比 は,男 性874人,女 性146人 とな って お り,女 性 が14%を 占め た 。職 務 別 で は,下 足 番301(う ち女 性33), 三 助462(0),補 助179(53),番 台 兼 雑 用78(60)と な り,す べ て 男性 であ る三 助(火 夫 と向 番)が45%を 占 め,下 足 番35%が 続 い た。 女 性 は番 台 や 補 助 が 多 か っ た(表3)。

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表3日 給 ・月給 別浴 場労 働者 の職 務別構 成 と平 均 日給 ・月給 区分 下足番 三 助 補助 番台業務 合計 日給労 働者 人 数 平均 日給 37(17%) 44銭 128(57%) 112銭 36(16%) 75銭 23(10%) 94銭 224 月給労 働者 人 数 平均 月給 264(33%) ll.97円 334(42%) 27.06円 143(18%) 17.44円 55(7%) 14.90円 796 合計 301(30%) 462(45%) 179(18%) 78(8%) 1,020 備 考:「本 市 に於 ける浴 場 労 働 者 の生 活 と労 働』(以下,「生 活 と労 働 』と略す)7-8頁 より作 成 。 ()内 は,ヨコの 合 計 に対 する百 分 比 。 ま た,「 内 地 人 」 「朝 鮮 人 」 の 区分 で は,1020人 の うち381人(37%)が 朝 鮮 人 で 占め られ,過 酷 な労 働 を強 い られ る浴 場 労 働 で は,他 方 で の 湯 銭 値 下 げ問 題 の 圧 力 もあ って 「賃 金 の 低 廉 な朝 鮮 人 を使 用 す る傾 向 益 々顕 著 」 とな り,下 足 番 な どはす で に朝 鮮 人 が 過 半 を 占め る状 態 だ っ た とい う。 行 政 区別 の 朝 鮮 人 数 で は港 区105人,北 区43人,東 成 区38人,此 花 区37人,天 王 寺 区34人 な どが多 か っ た(表4)。 表4大 阪 市浴場 労 働者 の行 政 区別 内地 人 ・朝鮮 人 割合 内地 人 朝鮮 人 区分 実数 割合 実数 割合 合計 旧市 域 448 61% 288 39 736 北 区 71 62 43 38 114 此 花 区 56 60 37 40 93 東 区 41 72 16 28 57 西 区 43 64 24 36 67 港 区 133 56 105 44 238 天王寺 区 31 48 34 52 65 南 区 44 86 7 14% 51 浪速 区 29 57 22 43 51 新市域 191 67 93 33 284 西 淀川 区 19 83 4 17% 23 東 淀 川区 36 61% 23 39 59 東 成 区 66 63 38 37 104 住吉区 52 70 22 30 74 西 成 区 18 75 6 25 24 合計 639 63 381 37 1,020 備 考:「生 活 と労 働 』2頁 より作 成 。 池 本 論 文 の表 を加 工 ・修 正 して作 成 。 行 政 区別 の 人 数 を見 る と,内 地 人 ・朝 鮮 人 と も港 区が 最 多 で,計238人 と

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近 代 大 阪 に お け る 都 市 下 層 社 会 の 展 開 と変 容183 全 体 の23%を 占 め て お り,北 区ll4人(ll%),東 成 区104人(10%),此 花 区93人(9%)な どが こ れ に 続 い て い た 。 年 齢 構 成 は,20歳 以 下 が52%,21∼25歳 も25%を 占 め,有 配 偶 者 は9% に と ど ま り,大 半 は 単 身 の 若 年 男 性 労 働 者 で 占 め られ て い た 。 ま た 教 育 程 度 は,不 就 学 ・尋 常 小 学 校 中 退 が29%,尋 常 小 学 校 卒 業 が48%を 占 め,高 等 小 学 校 中 退 ・卒 業 や 中 学 校 以 上 は 計19%に と ど ま っ た 。 さ ら に 出 身 地(出 生 地)は,国 内 で は 石 川101人 ・富 山76人 ・福 井49人 の 北 陸 三 県 が 計22%を 占 め,三 丹(丹 後 ・丹 波 ・但 馬)を 含 む 兵 庫92人 ・ 京 都19人 も計ll%と や や 多 か っ た 。 ち な み に,大 阪 府 内 出 身 者 は67人(7%) で あ っ た 。 ② 労 働 条 件 まず 給 与 につ い て 見 よ う。 本 調査 の対 象 とな っ た浴 場 労働 者1020人 は,日 給 者224人(22%),月 給 者796人(78%)で 構 成 さ れ て い た が,い ず れ も 「住 込賄 附 」 で あ っ た(表3)。 日給 者 の 職 務 別 平均 日給 は,三 助1円12銭 下 足 番44銭 補 助75銭 番 台94銭 で あ り,月 給 者 の 職務 別平 均 月給 は,三 助27円06銭,下 足 番ll円 97銭,補 助17円44銭,番 台14円90銭 で あ っ た(同)。 三 助 の 月給30円 前 後 とい う額 は,「 好 景 気 時代 の 月給40円 ない し45円 と比 較 す る と2割 ∼4割 の 低 下 」 とされ,「 深 刻 な る不 況 と朝 鮮 人 労働 者 の浸 入 が如 何 に彼等 の労 働 条 件 を低 劣 な ら しめ つ つ あ るか 」 を示 す と調 査 者 は述 べ て い る。 しか し,朝 鮮 人 労 働 者 の 「浸 入 」 に よ って 労 働 条 件 が 悪 化 した とい う見 方 は転 倒 して い る と言 え よ う。 労 働 時 間 は,統 計 的 に は把 握 され て い ない が,通 常,浴 場 の 営 業 時 間 と勤 務 時 間が 一 致 す る状 態 で,午 前5時 ごろ か ら翌 日の 午前1∼2時 に まで及 ん だ とい う。 一 部 に交 代 制 が 存 在 した三 助(火 夫 と向 番)で1人 ず つ の 労 働 時 間 は15∼16時 間,交 代 制 の な い 下足 番 や補 助,番 台 で も15∼16時 間 は勤 務 す るの が 通例 であ った とい う(な お,休 日 は月2回 の銭 湯 公休 日だ けで あ った)。

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ま た就 労 期 間(特 定 の 浴 場 で の そ れ か,浴 場 労 働 者 と して の そ れ か は不 明 で あ るが,お そ ら く前 者)は,3か 月 以 下31%,6か 月 以 下13%,1年 以 下 16%と,1年 以 内 が6割 を 占め,全 体 と して 流動1生が 高 か っ た。 ただ し,1年 超3年 以 下 が19%,3年 超 も13%い た点 に も留 意 して お きた い(ほ か に不 明 8%)o 以 上,① ② で 述 べ て きた点 を ま とめ て お こ う。 第 一 に,浴 場 労 働 者 は,長 時 間で 労 働 強 度 の 大 きい 単 純 労 働 で,単 身 男 性 を主 体 と してお り,流 動 性 も高 く,賃 金 水準 も重工 業 大経 営 の基 幹労 働 者(月 収100円 ほ ど)と 比 べ て3分 の1程 度 と不 況 下 で 低 迷 して お り,典 型 的 な都 市 下 層 労 働 の 一 つ で あ っ た と言 え よ う。 第 二 に,不 況 に よ って 賃 金 低 下 の 圧 力 が 強 ま る も とで,在 日朝 鮮 人 の 参 入 が 進 み,港 区の44%を 筆 頭 に,全 体 平 均 で も4割 近 くもの朝 鮮 人 が浴 場 労 働 者 と して 就 労 して い た こ とが 注 目され る。 ③ 供 給 の あ り方 一部 屋 と ロ入 屋 次 に浴 場 労 働 者 を供 給 して い た 「部 屋 」 と 「口入 屋 」 に注 目 したい 。 浴 場 労 働 者 の 供 給(入 職)方 法 は,1020人 の う ち 「部屋 」 を通 じて183人 (18%),「 口 入屋 」 を通 じて219人(21%),「 そ の他 」(知 人 や 同郷 関 係 な ど の 縁 故 を通 じて)523人(51%),不 明95人(9%)と な っ てお り(表5),調 査 で は 「往 時 三 助 とい へ ばそ の 殆 ど全 部 が 部 屋 か ら就 労 した 「部 屋 子 」 で 占 め られ て い た時 代 と比 較 す る と,封 建 社 会 の 遺 物 と して 諸 種 の 弊 害 を伴 ひ易 い 部 屋 も漸 次 時 代 の 流 れ と共 に没 落 の 過程 を辿 りつ つ あ る」 と指摘 してい る。 そ こで,部 屋 と口入 屋 の 実 態 を見 て み よ う。

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近代 大 阪 にお ける都市 下層 社会 の展 開 と変容 185 表5大 阪市浴 場 労働者 の行 政 区別の雇 用状 況 区分 部屋 口入屋 そ の他 不 明 合計 旧市域 127 ( 17) 146 ( 20) 414 ( 56) 49 ( 7) 736 北 9 ( 8) 22 ( 19) 82 ( 72) 1 ( 1) 114 此花 21 ( 23) 23 ( 25) 49 ( 53) ( ) 93 東 6 ( 11) 9 ( 16) 23 ( 40) 19 ( 33) 57 西 11 ( 16) 20 ( 30) 36 ( 54) ( ) 67 港 44 ( 18) 46 ( 19) 138 ( 58) 10 ( 4) 238 天王 寺 20 ( 31) 5 ( 8) 36 ( 55) 4 ( 6) 65 南 11 ( 22) 5 ( 10) 28 ( 55) 7 ( 14) 51 浪速 5 ( 10) 16 ( 31) 22 ( 43) 8 ( 16) 51 新市域 56 ( 20) 73 ( 26) 109 ( 38) 46 ( 16) 284 西淀 川 3 ( 13) 3 ( 13) 13 ( 57) 4 ( 17) 23 東淀 川 6 ( 10) 17 ( 29) 23 ( 39) 13 ( 22) 59 東成 17 ( 16) 26 ( 25) 41 ( 39) 20 ( 19) 104 住吉 22 ( 30) 22 ( 30) 24 ( 32) 6 ( 8) 74 西成 8 ( 33) 5 ( 21) 8 ( 33) 3 ( 13) 24 合計 183 ( 18) 219 ( 21) 523 ( 51) 95 ( 9) 1,020 備 考:『生 活 と労働 』13頁 より作 成 。()内 はヨコの 合 計 に対 する百 分 比 。 a.「 部 屋 」 調 査 当 時,大 阪 市 内 に存 在 した浴 場 労 働 者 専 門の 「部 屋 」 は8つ あ り,就 労 中403人,「 助 」 と して就 労 中51人,「 求 職 中」62人 の合 計516人 が そ の部 屋 子 と して 抱 え られ て い る状 態 で あ っ た(表6)。 そ の 半 数近 い249人 を抱 え る最 大 の 部 屋 が,西 区 にあ っ た大 阪 浴 場 作 業 株 式 会 社 で あ り,同 社 は六 つ の 部 屋 が1926年 に合 併 して会 社 組 織 に な っ た もの で あ っ た と され て い る 。 表6大 阪市 内における主 要な「部屋 」とその概 要 部屋 子 の就 労状 況 No. 屋 号 ・名 称 ・経 営 者 な ど 住所 1就労 中 「助 」 求 職 中 計 1 大阪浴場作業株式会社 西 区北 堀 江 一番 町19 183 39 27 249 2 天満屋 こと津知 田亀吉 港 区東 田中 町6-591 70 12 7 89 3 鰻秀こと佐々木栄太郎 南区大宝寺町東之町223 35 0 8 43 4 今西松蔵 天王寺 区大道4 20 0 5 25 5 加 瀬太 一 住 吉 区 山王 町1-24 5 0 1 6 6 愼原四郎兵衛 北区扇町公園 大阪浴場内 30 0 7 37 7 栄屋こと前田竹次郎 西淀川 区南浦江2 60 0 7 67 8 椿 庄蔵 住吉区長峡町57 1 不 明 不 明 不 明 不 明 合計 403 51 62 516 備 考:「生 活 と労 働』16-22頁 より作 成 。各 部屋 と就 労 状 況 の対 応 関係 には一 部推 定 も含 む 。 椿(原 史 料 で はH部 屋)の 就 労 者 は不 明 で あるが,少 なくとも140∼150人 にのぼ るという。 池本 論 文 掲 載 の 表 にデ ータをくわえて作 成 。

参照

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