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〈資料〉近代沖縄の新聞にみられる蘇鉄(ソテツ): 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

当山, 昌直

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(38): 25-70

Issue Date

2015-03-27

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/18765

(2)

〈資料〉近代沖縄の新聞にみられる蘇鉄(ソテツ)

当山 昌直

はじめに

沖縄県教育委員会は、明治 31 年から昭和 20 年までの戦前の新聞から自然と人との関

わりをテーマとした内容の記事を抜き出した『沖縄県史 資料編 24 自然環境新聞資

料 自然環境2』(以後県史資料編と略す)を 2014 年に刊行している。県史資料編には、

これまで自然科学分野でよく知られていなかった近代沖縄の自然に関する情報が多く含ま

れており、自然科学の研究資料としても貴重と思われる。このような中、当山ら(2014)

(1)

は、県史資料編の中からジュゴンに関する情報を収集し、ジュゴンの絶滅または絶滅状態

の大きな原因と一つとして爆薬による漁があったことを報告している。

そこで、今回は、近代沖縄におけるソテツの利用状況や中毒事故等については県史資料

編より抽出し、該当する記事または部分を掲載することにした。短期間の作業のため、内

容の検討は行っておらず、記事の紹介のみにとどめた。今後のソテツ研究の一助になれば

幸いである。

1.方法

調査した近代沖縄の新聞は、県史資料編に掲載されているものを対象とした。次に収録

されている明治 31 年から昭和 20 年までの新聞

(2)

の中から、「蘇鉄」「ソテツ」をキーワー

ドにして検索を行い、ヒットした記事を抜き出した。さらに県史資料編の全文に目を通し

て関連する項目の点検も行なった。

2.結果

検索の結果を記事の掲載年月日順に表1に示す。次に表1に基づいて記事内容を示した。

記事は、整理番号、和暦、月日、新聞紙名、掲載面、みだし、記事内容の順で記した。なお、

記事内容を県史資料編から抜き出して転載する方法については、下記の要領により行った。

TOYAMA Masanao: Information on The Cycad (Cycas revoluta) in Pre-war Okinawan Newspapers

(1) 当山昌直・仲地明・城間恒宏(2014)近代沖縄の新聞にみられるジュゴンの情報.沖縄史料編集紀要 (37): 39-58.

(3)

1.掲載方法は、基本的に県史資料編の凡例にしたがった(県史資料編より抜粋)。 ①旧漢字はなるべく新漢字に直した。ただし人名・固有名詞・漢数字については原則として原文のとおりとした。 ②送り仮名、仮名遣いは、原文のとおりとした。ただし、変体仮名は平仮名に書きかえ、「ゐ」「ゑ」はそれぞ れ「い」「え」に改めた。 ③誤字・脱字は基本的に原文のとおりとし、できるだけ行間に「ママ」を並記した。 ④新聞の活字が抜けているものや不鮮明で読めないものは□であらわした。なお、県史資料編では内容等から 判断されるものについては行間に「*」を付して文字を補ったが、本稿では「*」をとった。 ⑤編者による注記などは[ ]に入れて表記した。 ⑥振り仮名は原文に付されていても一般的な読み方である場合には省略し、必要最小限にとどめた。 ⑦省略箇所に適宜、[前略][中略][後略][略]を付した。使い分けは以下のとおりである。 [前略]抜き出し箇所より前の項目や段落を省略したことを示す [中略]抜き出し箇所内において、項目や段落を省略したことを示す [後略]抜き出し箇所より後の項目や段落を省略したことを示す [略]文章の一部を省略したことを示す ⑧みだしの副題については、「/」を付してみだしと並べた。 ⑨人物が関連する記事について、内容によっては住所番地は◇で示し、人名はイニシャルとした(読みは任意)。 事件・事故関係は内容によって住所氏名を省略した。 2.県史資料編で記されている圏点や文字飾りなどは省略した。 3.内容を変えない範囲で読みやすいようにレイアウト変更を行った。 4.蘇鉄とは関連しない部分については、略した。略の仕方については県史資料編の凡例の方法で 行った。 5.みだしに「蘇鉄」の文字がみられても、後日の新聞に同様な内容が詳しく報じられ、県史資料 編では内容が省略しているのは、ここでは掲載対象から外した。 表1.県史資料編の検索により得られた蘇鉄関連の新聞みだし(-:不明を示す) 番号 西暦(和暦)月/日 新聞紙名 面 みだし 1 1898(M31)5/5 琉球新報 1 久米島紀行(つゝき) 2 1898(M31)5/5 琉球新報 3 中毒患者数 3 1898(M31)9/21 琉球新報 3 蘇鉄中毒 4 1898(M31)9/23 琉球新報 2 渡名喜島の飢饉 5 1898(M31)12/3 琉球新報 3 鳥島饑饉の詳報 6 1898(M31)12/5 琉球新報 3 鳥島饑饉の詳報 7 1899(M32)2/26 琉球新報 3 久米島たより 8 1899(M32)3/18 琉球新報 2 粟国島たより 9 1899(M32)8/1 琉球新報 3 蘇鉄の中毒 10 1899(M32)9/29 琉球新報 2 学会彙報 11 1899(M32)10/1 琉球新報 2 三宅驥一氏 12 1899(M32)11/21 琉球新報 2 伊平屋島飢饉後の景況 13 1900(M33)3/5 琉球新報 3 蘇鉄の中毒 14 1900(M33)11/13 琉球新報 2 齋藤郡長の粟国島談 15 1901(M34)4/11 琉球新報 2 国頭雑信 16 1901(M34)4/17 琉球新報 3 蘇鉄の消毒薬 17 1901(M34)8/1 琉球新報 3 蘇鉄の中*毒 18 1901(M34)9/7 琉球新報 3 蘇鉄の中毒

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番号 西暦(和暦)月/日 新聞紙名 面 みだし 19 1902(M35)2/9 琉球新報 2 国頭間切りの饑飢 20 1902(M35)2/11 琉球新報 2 久米島の饑飢 21 1902(M35)3/11 琉球新報 2 那覇署長の伊平屋島談 22 1902(M35)3/19 琉球新報 2 国頭間切の飢饉 国頭間切の飢饉に就て 国頭間切凶荒見聞記 23 1902(M35)3/21 琉球新報 2 甘蔗の欠乏と蘇鉄 24 1902(M35)3/27 琉球新報 2 国頭通信(三月二十四日発) 25 1902(M35)3/29 琉球新報 2 国頭間切飢饉の実況 26 1902(M35)4/1 琉球新報 2 国頭間切飢饉の実況 27 1902(M35)4/3 琉球新報 2 国頭間切飢饉の実況 28 1902(M35)5/9 琉球新報 2 国頭の饑饉と薪木の低落 29 1902(M35)5/15 琉球新報 2 国頭地方飢饉の近況 30 1902(M35)5/19 琉球新報 2 ヒートの大猟(詳報) 31 1902(M35)7/3 琉球新報 3 蘇鉄の中毒 32 1902(M35)11/11 琉球新報 3 粟国島事情(一) 蘇鉄の中毒 33 1903(M36)11/5 琉球新報 2 座間味間切長の事跡(下) 34 1904(M37)9/13 琉球新報 3 蘇鉄の中毒患者 35 1904(M37)11/17 琉球新報 3 蘇鉄の中毒 36 1904(M37)12/17 琉球新報 3 蘇鉄の中毒 37 1905(M38)7/5 琉球新報 3 中毒のかぞママかず 38 1905(M38)9/3 琉球新報 2 八重山群島(十四)  山野に於ける天然の生産物 39 1905(M38)11/5 琉球新報 3 蘇鉄の中毒(三人死亡) 40 1906(M39)4/1 琉球新報 5 島尻郡の澱粉製造高 41 1906(M39)4/11 琉球新報 2 菊池氏の沖縄観(三) 42 1906(M39)11/16 琉球新報 3 蘇鉄の中毒 43 1906(M39)11/20 琉球新報 3 蘇鉄の中毒(一家斃る) 44 1906(M39)12/12 琉球新報 2 鳥島の窮状 宮古島の風害余聞 45 1906(M39)12/28 琉球新報 2 宮古郡の暴風被害の状況 46 1907(M40)1/29 琉球新報 2 鳥島の状況 47 1907(M40)2/14 琉球新報 3 一家九名(全部)蘇鉄の中毒/二人は死亡 48 1907(M40)3/1 琉球新報 2 アンドレー博士と語る(二)/久米島は旧火山 49 1907(M40)4/17 琉球新報 2 渡名喜島の飢饉 50 1907(M40)6/25 琉球新報 2 与那国島の飢饉 51 1909(M42)3/31 琉球新報 2 蘇鉄葉輸出状況 52 1909(M42)5/21 沖縄毎日新聞 2 蘇鉄の培養 53 1910(M43)6/13 沖縄毎日新聞 3 沖縄みやげ(六)毒蛇と自然界 54 1911(M44)7/6 琉球新報 2 慶良間一斑(三) 55 1911(M44)7/11 琉球新報 2 慶良間一斑(六) 56 1912(M45)7/27 琉球新報 3 蘇鉄を食て中毒/▽二名は死し一名は重症

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番号 西暦(和暦)月/日 新聞紙名 面 みだし 57 1912(M45)7/30 琉球新報 3 蘇鉄中毒者遂に死す 58 1912(T01)8/11 琉球新報 5 又もや蘇鉄の中毒/▽夫妻共に死す 59 1913(T02)3/1 琉球新報 3 半年間の中毒者 60 1913(T02)8/4 沖縄毎日新聞 2 『琉球諸島』(一) 61 1914(T03)3/19 琉球新報 1 博物学上より見たる琉球 ( 三 ) 62 1914(T03)6/24 琉球新報 3 飛耳張目 63 1914(T03)8/30 琉球新報 3 蘇鉄に中毒して/▽乳呑子を残して一家全滅 64 1914(T03)9/18 琉球新報 2 粟国事情 65 1914(T03)9/24 琉球新報 2 八重山の暴風被害 66 1914(T03)11/7 琉球新報 2 宮古通信/▽伊良部より 67 1914(T03)12/2 琉球新報 3 伊良部通信 68 1914(T03)12/15 琉球新報 2 粟国だより 69 1915(T04)2/16 琉球新報 2 渡名喜島の惨状/一千の島民饑に泣く 70 1915(T04)2/16 琉球新報 3 蘇鉄の実と売薬商 71 1915(T04)2/22 琉球新報 3 寄合話(廿六) 72 1915(T04)2/24 琉球新報 2 渡名喜島現況/一千の島民飢に泣く/回復期は五十日後 73 1915(T04)2/25 琉球新報 2 饑饉彙報 74 1915(T04)3/3 琉球新報 2 琉球饑饉史(六) 75 1915(T04)3/9 琉球新報 2 琉球饑饉史(十二) 76 1915(T04)3/11 琉球新報 2 琉球饑饉史(十四) 77 1915(T04)3/12 琉球新報 2 琉球饑饉史(十四マ マ) 78 1917(T06)6/22 琉球新報 3 蘇鉄中毒/▽二人は死亡し/▽七人は苦悶す 79 1918(T07)1/15 琉球新報 3 伊平屋の饑饉/◇島民甘藷の欠乏に苦む 80 1918(T07)1/16 琉球新報 2 琉球みやげ(七) 81 1918(T07)2/21 琉球新報 3 甘藷欠乏の悲劇/ =蘇鉄を食つて死す 82 1918(T07)2/23 琉球新報 3 本県で最も適当な副業(一)/*県当局の調査せる物は十五* 83 1920(T09)8/7 沖縄時事新報 2 天然記念物調査/中野理学博士来県 84 [1921(T10)3/8] [沖縄タイムス] - 三年余も研究して漸く見届けた「蘇鉄の毒」/麑島高農教授吉村博士/泰西の学説を否定 85 1927(S02)7/9 沖縄タイムス - 県衛生課で……蘇鉄の毒素を研究/鹿児島高等農林の吉村博士の指導を受けて 86 [1927(S02)7/9] [沖縄タイムス] - 薬用や滋養に富む蘇鉄の研究/吉村博士近く発表 87 1927(S02)10/13 沖縄朝日新聞 2 蘇鉄地獄の食料(一) 久米島の旱害につき 88 1928(S03)9/8 沖縄昭和新聞 2 琉球の地割制度(二) 89 1932(S07)9/16 沖縄朝日新聞 - 久米島 植物採集記(2) 90 1939(S14)8/27 沖縄日報 2 蘇鉄の話(一) 91 1939(S14)8/28 沖縄日報 2 蘇鉄の話(二) 92 1939(S14)8/29 沖縄日報 2 蘇鉄の話(三) 93 1939(S14)8/30 沖縄日報 2 蘇鉄の話(四) 94 1939(S14)8/31 沖縄日報 2 蘇鉄の話(五)

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番号 西暦(和暦)月/日 新聞紙名 面 みだし 95 1939(S14)9/1 沖縄日報 2 蘇鉄の話(完) 96 1940(S15)2/14 沖縄日報 2 支那向け輸出 ソテツ味噌/大量注文に応じ得ず 97 1940(S15)3/13 沖縄日報 2 含水酒精の原料に 蘇鉄も登場す/甘蔗の生取引を照会 98 1940(S15)3/15 琉球新報 1 酒精原料に蘇鉄使用/酒精会社で調査 99 1940(S15)3/18 琉球新報 2 酒精原料に甘蔗代用/原料会社で計劃 100 1940(S15)4/1 沖縄日報 2 蘇鉄も重要資源に/澱粉製造業勃興す/南洋殖産五万トン目標 101 1940(S15)5/2 沖縄日報 2 座間味村で 蘇鉄の切干/急救飯米特配を陳情 102 1940(S15)5/13 琉球新報 2 蘇鉄を原料に 代用品発明 103 1940(S15)5/24 琉球新報 3 節米に蘇鉄食!/離島渡嘉敷村で切干貯蔵/一日一回は飯米代用に実行 104 1940(S15)7/11 琉球新報 4 蘇鉄 105 1940(S15)7/30 沖縄日報 2 蘇鉄味噌の原料と 販路の開拓を/醸造元・鶴田氏調査に来県す 106 1940(S15)8/1 琉球新報 3 けふの話題 107 1940(S15)9/19 琉球新報 3 蘇鉄の実や麦の代用食で凌ぐ/離島粟国村へ飯米増加要望 108 1940(S15)10/2 琉球新報 1 蘇鉄の実から 家畜の飼料/厚生省技師が資料調査 109 1940(S15)10/5 沖縄日報 2 蘇鉄澱粉/価格を指示 110 1944(S19)12/11 沖縄新報 2 蘇鉄で中毒死 111 1945(S20)1/23 沖縄新報 2 〝何でも食へるぞ〟/野生植物の食糧化 112 1945(S20)2/5 沖縄新報 2 決戦食はこれで/学童動員し野草蒐め 113 [昭和]□年□ / □ [紙名不明] - 水無月と………面白い動植物季節/沖縄測候所の発 114 □年□ / □ [紙名不明] - ◇世界一の大蘇鉄 1. 明治 31 年 5 月 5 日 琉球新報 1面 久米島紀行(つゝき)   黑岩恒 本島の民家は何れも石墻を高くし或は福木、榕樹等を栽えて暴風を防ぐ中には砂地を広く堀り窪 めて其底に芽屋を結び更に四囲に石壁を周らしたるものもあり中々の名案と云ふベし海浜には黒き 壊土の畠地あり甘蔗苧麻を栽うるを見る村落の問には桑樹多し一ケ処の井水海浜に在り深三四尺水 量極めて少し沿海の地蘇鉄は少からされども阿檀は割合に多からす[略] 2. 明治 31 年 5 月 5 日 琉球新報 3 面 中毒患者数 昨年中の中毒患者は三十五名にして内死亡者七名これを細別すれば赤メイバイ魚患者七名死亡者 なし河豚にて十二名死亡五名ワタマ蟹にて一名カース魚アカメ魚オーメ魚にて患者四名死亡者なし ハマシキリにて三名死亡者なし蘇鉄にて八名死亡者一名なりと云う

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3. 明治 31 年 9 月 21 日 琉球新報 3 面 蘇鉄中毒 粟国島西村◇◇番地平民SU二男M(三十一年)仝三女K(二十七年)の二名は去る十二日蘇鉄 に赤豆粟の三品を混合したるものを食し午後四時頃よりは腹痛劇しかりし故医師を招き診察せしめ たるに毒物腹中にありとて吐剤を投したるも嘔吐を催ふせざりしより遂に灌腸術を施したりしも三 女Kは絶命し二男Mは生命には別条なしと云ふ 4. 明治 31 年 9 月 23 日 琉球新報 2 面 渡名喜島の飢饉 渡名喜島は桃原村の前後其他二ケ所に平坦なる耕地あれど尽く砂地にして面積広からす降雨せさ ること旬余なれは乍ち乾燥して蕃薯の如きは往々枯槁することありと云ふ東岡西岳の側傍には掌大 の地面を拓き蕃薯を植へ多少の水田其間に散在せりと雖も水利の便を欠き収穫至て僅少なり蘇鉄は 東南及ひ北方の山野に生長し山林河川等なし戸数百六拾七人口九百六拾四名あるを以尽く島中に住 居して衣食するものとすれは三分一は蘇鉄を食ふも尚ほ足らすと云ふ故に古来商業を尊ひ大島群島 に渡り貿易を以て生計を営み来りしも廃藩置県後該島の商業大に発達し収支相償はすして勢転業せ ざるを得ざるに至る依て爾後漁業者毎年増加して現今に於ては七拾四艘の刳舟と相当の漁具を有す 而るに農事は全く婦女子の手に放任せる故耕耘の方法不完全にして牛豚履み糞の外他に肥料を施す 術を知らす毎年五六月に至れは平坦の畑地は都て蕃薯を堀り取り粟を植へ付け其成熟するを待ち再 ひ蕃薯を植る習慣ありて本年六月四日逓かに暴風吹き起り未だ熟せざる粟及び岡側の蕃薯都て吹き 枯らされ後其一滴の降雨なく同月廿九日再度の暴風ありて粟は一粒も穫る能はず蕃薯も八分通りの 収穫を減し蘇鉄に米粟を交へて食料とせり此の米粟は那覇より買ひ入れたるものにして輸入高概略 二百俵以上に及ふも尚ほ足らす目下貧困の者は米を買ふに銭なく畑に至るも芋なく専ら蘇鉄を以て 常食とせり而して蘇鉄の製造法は至て錯雑にして直ちに食用とならず設令多少の蘇鉄を有する者と 雖とも天気の都合に依り製法完斎せさる時は或は一食二食を減することありと云ふ況や蘇鉄敷地を 有せさる者に於ては親類及ひ近隣の恵を受け飢饉を凌き居るも顔色青白にして一病人の如き者あり 島内青年の男子は毎年陰暦六月廿五日以降久米島に渡りて漁猟を働き十一月頃帰島す而るに本年は 非常の飢餓に遭遇し該島に渡り小屋掛け其他漁猟準備を終るまての食料を用意すること能はす終に 出船の気力を沮喪し鬱々として島内に蟄居せる故益々食料の欠乏を来せり本年の如き凶歳は八十歳 以上の老翁も未た嘗て見聞せすと云ふ刻下飢餓に迫り居る者百八十五名にして男九十七人女八十人 あり依て該島間切長より救助を願出たるを以て島尻郡役所に於ては不取敢粟百俵余紛米拾俵余を送 りこれら窮迫者の救助に充てたりと云ふ 5. 明治 31 年 12 月 3 日 琉球新報 3 面 鳥島饑饉の詳報 鳥島饑饉の概況は兼て報道せしが今其の詳報を得たれは左に続々掲載して以て読者諸君に報道す ることとせん 暴風後経過の状況 本年八月廿四日の暴風には蕃薯の損害は殆んと十分の六強にして其蕃薯葉は 枯死し到底再茂の見込なきに依り被害の少き蕃薯の新芽を選みて漸く九月より十月に及んて移植を

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終れり其後生茂の結果は宜きも其成熟を待て食糧に充つるは来年三月以降なりと云ふ左れとも本島 は霜露の害を蒙ること往々ありて例年四五月頃植付の蕃薯さへ寒気甚敷に遭遇すれは忽ち腐敗する ことありと云ふ本年の移植は殊に其期節を後るゝ四五箇月余に及ひ居れは若し一朝霜露の降下に際 会せは本年の蕃薯は十分に成熟する能はさるにはなきかとの老人の話にて候例年十二月以降に至れ は蕃薯の葉は悉く枯稠して一葉をも止めす更に来春期に及んて新芽を出す趣きに有之其間の食料と する蕃薯は株毎に一個つゝ大なるものより堀取り食料と為すの順序なるも本年は風害少き部分は僅 に十分の三強に過きされは目下現に株根より箆を以て大なる蕃薯を捜り堀り以て蘇鉄等と混用し食 料に供する次第にて有之候然れとも此れとても本年中しか支へ得ること能はさる位にて加ふるに最 早麦種蒔時期に付己むなく蕃薯は採取し本月中旬頃より麦植に従事せり被害後栽培の蕃薯を試みに 採堀するに未た指頭の如きものたになし家屋の全倒は三軒にして未た小屋掛の儘にて本年中には建 築の見込なしと云ふ半倒の分も過半は修繕せしも余は材料なき為め風害を蒙りし其儘にて漸く雨露 を凌き居境遇に有之候(未完) 6. 明治 31 年 12 月 5 日 琉球新報 3 面 鳥島饑饉の詳報 島民生計の状況 島民目下の生計は余程困難を極めし故早や既に出稼の為め鹿児島県徳の島へ渡 航せし者五十四名の多きに至りたる次第なるか抑も仝島本年の農作物は去る八月の暴風の為め非常 の風害を蒙りしより収穫高頓に減少し従て島民の食料に不足を来し糊ロ常に困難なるより壮丁の男 子は大概漁業に従事し獲物の幾分を干魚となし徳の島に齎らして穀物其他の日用品と交換し夫れも て漸く露命を繁きし有様なるか折悪くも目下冬季に向ひ海上常に荒波を打寄する時節柄なれば従て 獲物減少し生計常に不如意勝なるより遂に徳の島に渡航し斯く口稼をなす次第なりと云ふさて又仝 島民中目下最も困難を極めしものは十戸人員六十四人にして是等の多くは老若婦女子にして労力其 の他の仕事をなして自活の道を謀る術なきものにして殊に中には疾病に悩みし憫然のものもありて 目今糊口に窮し見る目も悼はしき悲境に立至りたる有様なりしが其の他の島民には本年中は先づ免 や角して風害残余の蕃薯を以て食料に充て得るとの事なれは一時救助を見合せ目下生活に最も困難 なる十戸のものより救助を施したりと云ふ又た仝島民中八戸のものは右の困窮者と異なり平日の貯 蓄もありし故左程生計に困難を感せざるより救助米を附与するの必要なしとて是れ又救助を施さゞ りし斯くて又右困窮者近日の食料は指頭大の蕃薯に蘇鉄を混交し来りしが仝島は元来蘇鉄稀有の土 地柄にして例年二月の候鹿児島県下沖永良部島より購入し来りしも折悪く本年は該島も饑饉の悲運 に遭遇し蘇鉄購入の途全く絶へたるより仝島民は一層困難を感したる次第なりと云ふさて又た本年 中は仝島産出の蕃薯を以て漸く食料に充つるを得るも来る十二月以后に至れは島民日常の食料全く 皆無を告け唯頼む所は単に暴風後栽培しある末熟の蕃薯と徳の島出稼人の賃銀其の他の補助に依る の外別に良策なし是れ迚も上陳の如く指頭大の末熟の蕃薯を間断なく続々採掘して食料に充つると せは来春の収穫従て減少し再度の饑饉は到底免るへからすとて彼此憂慮を抱く有様にて返す返すも 実に不敏の次第なりさて又た鳥島饑饉の詳報てふ標題には少々お門違ひの感あれとも仝島教育の事 を一言せんに島民中二三を除くの外は目に一丁字なきより仝島駐在巡査山里勝奬氏は公務の余暇に 仝島児童三十名程を一堂に集め尋常護本の素読及ひ作文等の教授に余念なかりし由なるか仝氏の談 話に依れは教授する所の子弟も大に勉強し其父兄等も余の厚意を謝し今日となりては余程学問の必

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要を感し未頼母敷心地すると語りたりと云ふ(未) 7. 明治 32 年 2 月 26 日 琉球新報 3 面 久米島たより   久米島生 [前略] 饑饉 去らぬだに島民の怠情にて生計常に困難なるに昨年暴風の結果にて農作物不振にて目下島 民に於ては其困難は一方ならす候島民中一日三食の中二食は蘇鉄若くは菜類のみ食し芋は漸く其一 食に宛つる程に有之猶甚しきに至ては三食共蘇鉄菜類のみを食する者も有之実に憫然之次第に御座 候左れは孰れの家にても蘇鉄を屋外に曝さぬ所は無之其臭気鼻を突くばかりに御座候 [後略] 8. 明治 32 年 3 月 18 日 琉球新報 2 面 粟国島たより [前略] サガヤ屋原 と申処へ村山と唱て一面に蘇鉄繁殖致居候処右蘇鉄葉のみ銘々へ叶掛致し叶金は毎 年旧十二月八日に殺し村中配当仕候牛代へ振向け居申候処近年に至ては島長か百姓中へ案内なしに 伐採するなと我儘勝手の振舞有之人民は不平たらだらに御座候 9. 明治 32 年 8 月 1 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 客月二十三日の事とか国頭郡大宜味間切田港村KK(天保元年生)妻U二男Kの三人蘇鉄に中毒 せし旨該村々頭の届出に接し駐在巡査は早速現場へ出張し中毒前後の顚末を取調たるに客月二十日 の朝Kは蘇鉄粉に白米を混合して粥を焚き妻U二男K一同朝飯を喫し間もなくKは妻Uを連れ田畑 手入れの為め家出をなし家族等は宅にありて各々家業を稼きしに其の当日は何の異状もなかりしか 翌廿一日正午項ママよりK及ひ妻U両人共少々頭痛を催せしに例の風邪と思ひ其の儘々烟ママへ出掛け同日 午后六時頃帰宅せしに七時頃よりは両人共少々不愉快を感し同九時頃に至りては非常に腹痛を起し 吐瀉をなせしより漸次身体衰弱して余程苦悶の体なりしより翌廿二日に至り医師の診察を乞ひしも 妻Uは薬石効なく遂に死亡しKは服薬後漸次吐瀉の度数を減し目下治療中の由又二男Kは今ママに別條 なしとの事にて妻Uは平良医師の診察に依れは蘇鉄にて中毒せし叚鑑定したりと云ふ 10. 明治 32 年 9 月 29 日 琉球新報 2 面 学会彙報 東京帝国大学理科大学植物学教室在勤三宅驥一氏は蘇鉄の受孕作用研究の為め去二十五日入港の 金澤丸より来県池畑に投宿[略] 11. 明治 32 年 10 月 1 日 琉球新報 2 面 三宅驥一氏 帝国大学理科大学植物学教室在勤三宅驥一氏か蘇鉄の受奶作用研究の為に来県の由は既に前号の

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紙上に報道せしか聞く所に依れは仝氏は目下昼夜を兼ね師範学校なる博物実験室に在りて蘇鉄の受 奶に関し調査中なるか調査上の要点は精虫にありとの事なり[略] 12. 明治 32 年 11 月 21 日 琉球新報 2 面 伊平屋島飢饉後の景況 近頃該島より帰りたる人の直話を聞くに客年仝島に於ては前代未聞の大飢饉に遭遇し島民殆んと 頻死の悲境に立ち至りしより世の慈善家の義侠心に訴へ義損金を募集して漸く島民の飢餓を凌きし 事は今ま尚ほ世人の記憶に存する所ならんか[略]故に昨年飢饉の際状況視察の為め仝島へ出張せ し島尻郡長齊藤用之助氏は島民に勧誘するに勤勉貯財の必要を説き吏員及ひ人民等に向て其の実行 を促かせしに島長名嘉氏は大に感服本年一月に至り各村より人民聡代を集会せしめ勤勉貯財法風俗 改良法等の規約を設定せしに爾後其の成績著しく揚かり居るとの事なるか先つ其の規約の重なるも のを列挙すれは[略]三、荒蕪地を開拓利用して蘇鉄を植へ附け凶年饑饉の際食物の用に供する事[略] 13. 明治 33 年 3 月 5 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 事少しく旧聞に属すれとも交通機関の開けさる離島の事とて再昨二日始めて我か社の耳に入りた れは取敢へす爰に報道す本年一月三十日零時三十分頃の事なりとか慶良間島渡敷間切仝村◇◇番地 平民FT女房K(安政六年生)長男T(十七)二男U(八)長女U(十二)家族四人蘇鉄の中毒に 罹りたる由なるか其原因は仝二十八日仝村◇◇番地平民SK方より乾蘇鉄一舛計りを貰ひ来り翌廿 九日其の蘇鉄に少許の白米を混炊して粥を焚き牛汁とゝもに母子四人正午、晩二度の食事をなせし 処翌朝五時頃となりては女房Kは何にか物に酔ひたる心持にて身体の工ママ合も不断の如く勝れず時々 嘔吐を催して吐瀉をなし胸部に稍々苦痛を感する等其の他三人も病勢に軽重の差こそあれ右Kと大 同小異の病状なりしか仝日午后二時頃に至りては漸次軽快に赴き翌三十一日には四人とも仝ママく平状 に復したる次第なりとさて該蘇鉄は本年初頃SKか取り入れたる物にて凡そ一俵位のものより僅か 三舛計り残り居りしを手籠に移し置き其の内一舛位は右FKへ贈与し残る二舛は自分が喫したる処 Kも右同様稍々不快の感ありしか目下流行の感冒と心得其の侭々打過ごしたる次第なりと 14. 明治 33 年 11 月 13 日 琉球新報 2 面 齋藤郡長の粟国島談 [前略] [略]食物 仝島民中十中八九は蘇鉄を以て常食となしたる姿にて仮りに仝島民を八百人とすれ は其の中百人は唐芋二百人は唐芋と蘇鉄残る五百人は年か年中蘇鉄を常食となす有様にて仝島一ケ 年の収穫高は平均四十三石以上に上ほり居るとの事にて粗末なる粟飯さへ正月及ひ盆祭の外は一切 賞味せしこと絶てなかりしといふ[略]薪木 は余程不自由の土地にして重もにアダン葉に蘇鉄葉 を以てこれに充つる由なるか其の採取方法は自分の持地なる蘇鉄畑に至り鎌を以て其の葉を切り落 し一週間位を経過したる後銘々宅へ持ち運ぶよしにて終始輪伐をなす姿なるか中には蘇鉄畑の分配 を受けさるものは「サラカキ」抔を以て薪木用に供する有様なりといふ(未完)

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15. 明治 34 年 4 月 11 日 琉球新報 2 面 国頭雑信   仝上[一二子] [前略] 国頭地方の飢饉 此年は未曾有の寒気にて玉走る霰にあわれ命の蕃藷は根葉打枯され国頭地方一 体に飢饉を迎へねはならぬ有様と相成候唐木や麦粟は続々輸入せられ蕃藷粕は一舛六銭余に値を高 め蘇鉄は所在に採掘せられ伝ふ臭気にも何となく悲歎の涙に臉を湿され候伊平屋島は殊に甚しとの 事に候 [後略] 16. 明治 34 年 4 月 17 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の消毒薬 此の程国頭地方の或る村落に於ては唐芋欠乏の為め先月頃より蘇鉄を採食する由なるか元来蘇鉄 を食して其の毒に当り甚たしは即死するものさへありたる事は屢々吾人の耳にする所なるか或る実 験□の語る所に依れは茲に一の妙薬ありそは何の造作もなく其の毒に当る時手早く家鴨の生血を取 りて之れを飲まし玉はれ忽ち全癒して中毒の為め非命の死を遂くるか如き憂なしと云ふ時節抦注意 すべき事共なり 17. 明治 34 年 8 月 1 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 客月二十六日午后八時頃の事なりき国頭郡羽地間切屋我村◇◇◇番地MU(慶応二年生)長女K (一ママ年)長男M(八年)の三人蘇鉄(小豆と混合して食したる由)を食せしに其夜は何の異状もなか りしか翌二十七日よりUは腹痛を煩ひしも蘇鉄の中毒とは気附かさりしに漸次全身衰弱を来し人事 不省の姿となりて仝日午后九時頃死亡せり又長女Kは母か煩ひ居るを心配し祖母を迎へに我部村前 垣原に行き祖母同行帰宅の途□稍々不快の感ありて歩行も自由ならざるに依り祖母に背負はれて帰 宅せしに祖母も流行の感冒と心得居りしに漸々衰弱して人事不省の有様となりしを以て祖母もいと 不思議に思ひ長男Mに向て前後の模様を問ひしに前夜蘇鉄を食したることを聞き初て蘇鉄の中毒な ることを悟り直に人を遣ひして医師を迎ひにやりしに医師の診察を受くる猶予もなく仝日午后八時 死亡又長男Mも仝日八日午后四時頃死亡したりと 18. 明治 34 年 9 月 7 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 客月二十四日の事なりき中頭郡美里間切山城村◇◇◇番地平民YK(明治元年生)女房G(仝二 年生)長男M(廿五年生)長女K(仝廿八年生)二男K(仝廿年生)の五人仝日午前八時頃曩きに 喰ひ残したる蘇鉄を唐米と混合して朝食を食せしに仝日正午十二時頃よりは稍々腹痛を感し仝日午 后二時頃に至りては腹痛ますます劇烈と相成り仝日午后三時頃となりては大に苦悶の体にて折々大 声を発して藻掻き居るにそ隣近所の人々早くもこれを聞き附け直に走せ集りて介抱に尽力なしなか ら一方には恩細ママ間切仲泊の雇医大嶺某に急報して来診を乞ひしに医師は仝日午后九時頃薬剤を携帯

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して入り来りしもK及ひ女房Gは余程重症にて医師の治療を受くる間隙もなくKは仝日午后八時頃 Gは仝日午后七時三十分頃夫婦枕を並へて果敢なき最期を遂けたる由なるか長男M女M二男Kの三 人は早速解毒剤を服用せしため至りて軽症なりとの事なれは一命は留り止めるならんといふ 19. 明治 35 年 2 月 9 日 琉球新報 2 面 国頭間切りの饑飢 国頭間切宇嘉美野喜辺にては目下大饑飢にて三食とも蘇鉄のみを食し居る由にて村民は大抵衰弱 し歩行さへ自由に出来さるもの多しと云ふ 20. 明治 35 年 2 月 11 日 琉球新報 2 面 久米島の饑飢 仝島は二三ヶ月前より唐芋欠乏し島民は蘇鉄のみを食し居る由なるが昨今は増々饑飢に迫り居れ りと云ふ 21. 明治 35 年 3 月 11 日 琉球新報 2 面 那覇署長の伊平屋島談 此れ迄で島は昨年暴風により非常に饑饉に迫られ居ることは暫々本紙に記載したるが今那覇警察 署長の巡視談を聞くに左の如し仝島民の食物 同島に昨年暴風の際潮雨暴風に吹き荒らされ植物は 総て枯死して皆無の姿なれは島民は三食共に蘇鉄の切干に海苔と等分に混和し夫れに唐芋を少し交 せて味噌醤油は愚か海水にて味を作り煮て雑炊の如くにして食する由なるが其の唐芋の大さは筆の 柄位の大さなりと[略]蘇鉄の採取 蘇鉄の採取は一人一日に採取する高は四五人の家人が一週間 位の食料を支ふるとのことなるが之れを切り干しにする処は総て海岸の砂原にてなし居れりと[略] 仝島饑饉と蘇鉄 仝島民は今通り蘇鉄を採食しても仝島は野原広くして蘇鉄多く如何にしても尽き る恐れなければ此れより段々暖気にも向ふ折柄なれば遠からすして饑饉の困難を免かるゝならんと 云ふ 22. 明治 35 年 3 月 19 日 琉球新報 2 面 国頭間切の飢饉 社友の通信に拠れば国頭郡国頭間切は昨年十月に於ける暴風の結果昨今に至りては古来未曾有の 惨情を呈せりと云ふ 元来同間切は交通極めて不便なる上耕地亦至て少なく例年なりとも食料は常に欠乏勝ちにして甘 藷豊作の年にあらざれば蘇鉄を用いざることなし況んや昨今の如く中頭郡さへ全く欠乏を告くるに 於てをや [後略] 国頭間切の飢饉に就て 国頭間切飢饉の情況は別項通信にもある通りの次第なるが過日郡長出覇の際県庁に報告したる趣 きは同間切人民が蘇鉄を食することは年々の例にして近来も矢張り之を用い居れどもこれ例年の事

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別に救助を仰ぐべき必要なし云々 又警察部に来りたる報告に拠れは昨年二度の暴風に甘藷を吹荒されたる為め食料は専ら蘇鉄を以 て充し居る趣きなり 乍然昨今の情況を以て年々の例とするは些と軽く見過ぎたるの疑なき能はざるなり同間切に於て 蘇鉄を食料に充つるは成程年々の例には相違なきもこれ芋の不足を補充するに過ぎず本年の如きは 勝連与那城の如き耕地の広き場所柄さへ既に甚しく欠乏せるの今日国頭間切の宇嘉、辺野喜辺なれ ば全然蘇鉄によるの外なかるべし 例年の蘇鉄は耕地の少なき為め芋の補充として用ゆるものなれども本年は近来稀有の風害に加ふ るに金融の逼迫林産物の不捌け等種々の事情混集せりこれにても年々の例視するは不当の視察と云 はざるを得ざるなり只今日の疑問は果して官の救助を仰くべき程度に達し居るや否やの点にあり 国頭間切の人民が異常の困苦に迫れるは少しく同間切の事情に通するものゝ直ちに同情を表すべ き事柄なりとす本県中哀なる生活をなし居るものは八重山の或部分を除いては国頭間切の各村なり 其蘇鉄を食料に供せざるの年なきを見ても知るべし尤も林産物には富める故平年なれば之を以て米 麦抔に換ゆるの方便もあれとも本年の如き金融逼迫の年に際しては困苦窮迫の状実に見るに堪へざ るものあるべし 斯る通知に接する以上は兎に角其実況を視察するの必要あり視察の結果によりては大に世の仁人 義士に訴へて以て国頭人民の困苦を救助するの方法を講することあるべし 国頭間切凶荒見聞記   在国頭 漂蕩生稿 昨年十月の暴風は非常に吾が農産物を害し就中常食用蕃藷の如きは悉皆吹き枯らされ十月中は不 充分なからも田畑芋或は蘇鉄抔を以て常食に充て居たりしも十二月比よりは蘇鉄も払底し宅地或は 畑地抔には野菜迚全く無し漸く杣山々野内より艾葉等の天然菜抔を採取し辛くも命を繋ぎ居る有様 にて最早杣山々野抔に於ても野菜類相絶し他に常食用に供すべきものなきも蕃藷の出先干今見込相 立たす実に古来未曾有の凶荒なり [後略] 23. 明治 35 年 3 月 21 日 琉球新報 2 面 甘蔗の欠乏と蘇鉄 近来は甘藷欠乏の為県下各地方五六分通りは蘇鉄を食料に供し居る由なるか蘇鉄には一種有害の 分子を含み能く能く注意して調製をなさゝるに於ては不慮の災難に罹り中には可惜生命を失ふて取 り返しの付かさる悲運に遭遇することは数々我輩の聞知する所なるか先つ其の三ヶ年間の中毒患者 及ひ死亡者の数を挙くれは左の如し  明治三十二年 患者四 死亡者―  同 三十三年 仝 四 仝  ―  同 三十四年 仝 八 仝  五 24. 明治 35 年 3 月 27 日 琉球新報 2 面 国頭通信(三月二十四日発)   於大宜味 天南

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[前略] 郡役所よりも書記岡山竹次郎氏出張致し候に付同伴して二十三日正午名護を出立致し候羽地間切 源河村までは飢饉と云ふ有様は少しも見へざりしが大宜味間切津波村に入りては家々に干しある蘇 鉄を見て忽ち飢饉の感に打れ候村事務所に就て聞けは芋は少しもなく唐米と蘇鉄を常食と致し居る 由に候塩屋村にての話に拠れは当間切にては津波と喜如嘉村が甚しく津波の如きは年内より蘇鉄を 用たる趣きに候 [後略] 25. 明治 35 年 3 月 29 日 琉球新報 2 面 国頭間切飢饉の実況   於奥間村 天南 [前略] 十二時過ぎいよいよ国頭間切役場に到達致し候間切長はヤツキになりて過日社友より受けたる通 信の無実なるを弁し候先つ弁駁の要領を左に記載可致候 第一 蘇鉄を食ふことは年々の例にして之を食ふからと云ふて飢饉とは云ふべからず云々第二昨 年暴風の為め甘藷を傷害せられ芋は辺戸村抔三日に一食位ひに過きざれども唐米ある故食料には左 支へなし云々、第三旧正月に豚を食ひたるものなしとあれどもこれは芋欠乏の為め屠殺して却つて 例年より多く食ひたり云々第四要するに芋は大に欠乏を告けたれどもこれが為め餓死するが如き惨 状には決して至らず先つ平生の生活は例年と左程異なりたる所なし云々第五薪木も槫板も半値とあ れども薪木は平生二銭のものが現金引換へなれは一銭四厘物品との交換なれば一銭九厘にて林産物 は切出しさへすれは直ちに捌けると申居候 同し吏員の内にも林産物の相場は例年と少しも異ならずと申すものもこれあり何分信を置き難き 節少なからず候彼等は報告を怠りたるの罪を問はれまじきやの心配を以て充され居り候故事実を問 ふも兎角弁じがましき候向あり実見したる上ならでは迚も実情得難しと覚悟致し此日は大抵にして 切り上げ候 本日午前十時より刳舟一艘を貸し辺野喜村へ赴き実況を視察致し候この村は七十余戸の村にて候 へども荒屋破垣一目貧村たるを表彰致し候間切内にてもこの村と其北隣なる宇嘉村が最も窮迫致し 居る趣きに候この村は芋と云ふては少しもこれなく全然蘇鉄にて生命を繋き居る有様にて候尤も林 産物と交換して僅かばかりの唐米は用い居る由に候へども他は実に些細のものにて候 小学校の校長を訪問し飢饉の為め生徒の出席抔には影響せずやと相尋ね候へば出席には別に影響 せざれども食物の悪しき故にか概して不活発となれりこの南に佐手と云ふ村ありこの村は今猶ほ芋 も欠乏せざる故該村の生徒と較ぶれば体力に於て稍異なる所あるが如し云々と語れり これより宇嘉村を視察致し候この村も窮迫の程度に於ては辺野喜と甲乙これなく矢張り全然蘇鉄 を以て命を繋き居るものと云ふて差支これなく候 宇嘉に於て駐在巡査の話を聞くに辺戸村は耕地も広く人民も稍豊かにして元来宇嘉辺野喜抔と比 較になるべき村にはあらねど昨年風当り尤も烈しかりし故旧年内よりの窮状は尤も惨憺たりしが昨 今は船便もあり随つて唐米も来りたるを以て稍其度を減したり旧年末の頃は北風勝ちにて船も来ら ず附近の各商店共米も品切になり金融逼迫の為め林産物は現金売買容易に行はれず左りとて遠方ま

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で薪木槫板を持行き交換する訳には参らず山野抔も各自配当したるに依り山野を所有せざる者抔は 蘇鉄にも困ると云ふ始末にて食物の為め一□□顔も膨れたるものありき左れど来月の中旬に至れば 麦もとれるし又今よりは船便もあれば最早気遣ひなしと語れり 辺野喜、宇嘉の二村は本年旧七八月即ち芋かとれる迄は今日の如く蘇鉄に依頼するの外他に生活 の途これなく候猶ほ委細の事は後便にて報道可致候

二十五日午后九時奥間村の客舎にて認む

26. 明治 35 年 4 月 1 日 琉球新報 2 面 国頭間切飢饉の実況   於大宜味 天南 国頭間切の飢饉は略前便より報道致したる通りの実況にて候那覇にては目も当られぬ惨状ならん と想像致し居候処辺戸村の如き旧年末より正月にかけては北風のみにて船便全く相絶へ為めに各店 共唐米品切れと相成り土地の産物とて食料に供すべきものは蘇鉄の外には皆無の有様その蘇鉄さへ 山野を所有せざる者は買入れて用ゆると云ふ始末なりしも金融逼迫の影響はこの辺に及ふこと一層 甚しく山より薪木槫板抔伐り出すも現金にて引取るもの少なく種々雑多の事情混迫して一時は非常 の窮境に瀕したること全く事実と存し候乍去二月(旧)以来は米も来り目下宜名真(辺戸村の内) の商店には唐米も十俵位ひはこれある由に候又林産物の如きも伐り出しさへすれば現金引換へは少 くとも品物との交換は容易く行はれその上来月の下旬よりは新麦を収穫すれば一時惨状の第一に数 へられたる辺戸村は最早少しも気遣ふことなかるべく候 [後略] 27. 明治 35 年 4 月 3 日 琉球新報 2 面 国頭間切飢饉の実況   於名護 天南 [前略] 余は現に宇嘉村に於て村民の昼餐を求め一すゝりすゝりたることこれあり候余も田舎を遍歴し随 分粗食を喫したることもこれあり候へども一日位ひ断食するとも迚も喉を辿るべくも思はれず候然 るに居合したる人々の話に拠ればこれ等は蘇鉄の料理中では先以て上等の部類と申し候 序でに蘇鉄の拵へ方から料理法を一寸御話可致候先つ蘇鉄の幹をとり刀にて其皮を削り去り之を 一分位の厚さに切り清水にてよくよく洗ひ然る後積重ねて醗酵させ之を干して用い候之を俗にキカ ラーと申し候余裕あるときには芋葛を製する様にして葛をとることもこれあり候乍去葛抔は余程贅 沢の方にて斯んな飢饉の折には及びもつかぬことにて候 調理法はキカラーを器につひて糊をたく様にするもあり又味噌を入れてたくもあり砕かずに野菜 抔を入れて煮るものもこれあり候余が試みたるは糊にて漸く箸にかゝる位ひ之に油を菜にして食ふ ものもあり奮発した処で味噌(と云ふも蘇鉄にて製したるものと知るべし)汁を添ゆるもこれあり 候 唐米を用ゆることは前々便にても報道致したる次第なるが都人士の中には芋がなければ唐米を用 ゆる故却つて美食で結構ではないかと疑ふものも可有之候へども大鍋に三合位ひの米を入れ野菜や ら蘇鉄やらごつたまぜに煮て食ふ訳にてだしの様にして用ゆるに過ぎずこれとても三日に一食或は

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五日に一食と云ふ有様にて候 [後略] 28. 明治 35 年 5 月 9 日 琉球新報 2 面 国頭の饑饉と薪木の低落 国頭郡にては二三ヶ月前より蘇鉄を常食する程饑饉に迫り居りしが近頃に至りては薪木を以て唐 米と交換するもの非常に多くなりたる為め薪木は増々低落する模様なりと云ふ 29. 明治 35 年 5 月 15 日 琉球新報 2 面 国頭地方飢饉の近況 国頭地方中飢饉甚だしき所は北方の村落にして其の他は左程の苦痛を感ぜず軈て大麦、米穀等の 収穫期に至らば先つ先つ安心するならんとの予想なりしも折悪しくも数ケ月の旱魃のため痛く影響 を被り目今の所にては全郡通して蘇鉄を混食し居る姿にて加之も昨年来金融逼迫のため一層困難を 来たし昨今は三度の食事も甚だ覚束なき有様にて昼食杯は麦の粉に黒砂糖を交ぜ糠味噌汁の如き食 物にて兎や角露命を繋ぎ居る次第なりと 30. 明治 35 年 5 月 19 日 琉球新報 2 面 ヒートの大猟(詳報) 本月二日午前十時比百頭余の海豚(ヒート)名護湾に寄り来るを見るや沿岸の各村人民にして刳 船或は伝馬船を所持せし人々は孰れも乗り出し海岸を距る凡そ八合位の沖合より追ひ来り所持船な きもの共は思ひ思ひの器具を携へ海中へ飛び込み四方八方より散々に打ちたれば長大なる大魚も勢 ひ逃る能はす午后三時比迄には全く捕獲したり然り而して其捕獲せし頭数を挙くれは許田、数久田、 世富慶、東江、城、大兼久、宮里、宇茂佐の八ケ村分並に糸満人其他の局部の者共が捕獲せしもの 等を合すれは都合一百三十頭余なりき而して其数量を聞くに小き者五百斤大き者三千斤なりと依て 之れを五百斤平均にせは其数量六万五千斤なり之を壱斤代価四銭(目下相場五銭なれども日々本部 今帰仁其他より陸続来り買ふもの多き為め今や一面識もなきものには容易に売らざる有様なり)と すれは其総金高二千六百円なり鳴呼本郡に於ては昨年十一月風災の結果今や名護人民も重もに蘇鉄 を常食とし極々困難の場合斯る大魚の捕獲ありたりしは全く天与の幸福と言ふべし因に記す右は余 が最初に浜に於て調へたる概数にて漏れなく調査せしものと言ふ能はさるは遺憾の至りなりと雖も 然も斯る大魚殊に非常の捕獲数なれは必ず県報にも掲載せらるゝ積りなれは猶ほ其詳細の所は官報 を待ち賜へ(実見生投) 31. 明治 35 年 7 月 3 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 蘇鉄の中毒も魚の中毒と同しく能くある事にて人々の注意すへき事なるか去六月二十三日島尻郡 仲里間切比嘉村JS(六十八年)仝人妻 K 仝人長男SR(廿九年)仝人三女K(二十六年)仝三女 K私生児N(五年)の五名蘇鉄を芋に混して食したる為め其毒に当りて三女K仝人私生児Nの二名 は仝日夜にSの妻K仝長男Sの二名は仝廿五日に死亡し家主Sも亦た医療の甲斐なく仝月二十七日

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遂に死亡したりと云ふ 32. 明治 35 年 11 月 11 日 琉球新報 3 面 粟国島事情(一) [前略] 同島 は那覇を距る西々北三十海里余の所に在ありて周囲三里位の一小島なり戸数七百四十余、 人口四千八百余あり土地は平坦にして山林なく全島畑と蘇鉄畑との二種にして村内住家の外は絶て 樹木なきの有様なり畑は甘蔗を除く外甘藷を始めとして粟麦黍大豆等の雑穀を生産し蘇鉄畑は殆ん と全畑地の過半を占め其生産する所の蘇鉄を以て毎年食料の補足とし其葉は乾枯せしめて一年中の 薪料に供するなり蘇鉄を以て毎年食料の補足とするは本島人の目より観れは聊か異様の感あれとも 上記の如く同島は面積に比し人口割合に多きか故に普通の雑穀のみにては到底其全体の需用に応す る能はさるを以て勢ひ蘇鉄を以て其食料の補足とせさるへからさる事情あり又た山林なきか故に薪 木に乏しく従て蘇鉄葉を以て其用に供せさるへからさるなり是れ生活の情況に於て本島と大に其趣 きを異にする所以なり 蘇鉄の中毒 宮古郡下地間切仲地村KH(三十八)妻K(三十八)長女M(十八)長男H(十三)二女K(七年) は去十月二十一日蘇鉄を蕃薯に混じ煮飯となし一同昼食を為したるに仝日午后七時頃より一同全身 に倦怠を生し間もなく嘔吐し且つ下痢する等の一層の苦悶を為し言語も通せす人事不省の容態とな りたれば近隣の者共周章直に医師を招き治療に手を尽したれと長女M長男Hの二人は其翌二十一日 午前四時にK夫婦は同日午后五時に死亡したる由二女Kは経過宜しく次第に快癒の様子にて生命に 別条なかるべしといふ 33. 明治 36 年 11 月 5 日 琉球新報 2 面 座間味間切長の事跡(下) 蘇鉄植付の事 本県各地方一般凶歳の際食料欠乏を告くる時は蘇鉄を以て一時の窮を済ふの常な るが殊に仝間切は那覇を距ること二十二海里の慶良間群島の一にして交通極めて不便なるを以て凶 荒に備ふる蘇鉄の保護は本島に比し最も注意を要する事なるに然るに島民一般前述の思慮なく随て 伐採すれは随て保護するの道なく伐採のまゝ一時の需用に充たしたるに任せ漸次荒廃に帰するを憂 ひ一昨三十三年より島民を奨励し農事の余暇を以て毎年植付ける事とし既に各村に於て其植付反別 一町歩余宛あるに至れり [後略] 34. 明治 37 年 9 月 13 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒患者 慶良間島渡嘉敷間切仝村のAU仝Uの両名は去月十八日正午十二時頃蘇鉄の断片を米に混し雑炊 にして食したるに両人とも数時間の後は頭痛と共に顔色蒼白となり二三度も吐瀉を為したるも中毒 とは思はず同日の夕食及翌日も同様の食事を為したるに病状次第に重くなりて腹部は次第に膨張し

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数度の嘔吐を催して身体著しく衰弱したるを以て大に驚き始めて医師の診察を受け服薬せしも其甲 斐なく遂に去二十二日午前六時頃死亡したる由なり 35. 明治 37 年 11 月 17 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 宮古郡平良間切仲宗根村士族SE(卅九年)仝次男J(十二年)仝三男J(十年)は去月廿九日 午前九時頃仝日の朝飯に蘇鉄の雑炊を各々一椀位宛を食せしに約四時間を経過せる後に三人共に口 腔及咽頭に一種刺すか如き感覚を生し続て同粘膜の分泌物を各流出し同時に嘔吐を催し胃腸は堅硬 とりて拘攣し蘇鉄の中毒に相違なけれは直なママに医師の治療を受け居れたりといふ 36. 明治 37 年 12 月 17 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 宮古郡平良間切荷川取村のSKは去月十六日午后二時頃蘇鉄に甘藷の葉と噌味を混入して昼食を 調理し妻K長男K(三十二年)四女K(十六年)長男妻M(廿九年)長女K(八年)孫二女K(四年) 孫三女M(当年五ケ月)と共に食し夜八時頃に至りK夫婦及ひ長男Kの三名にて中酒四合を傾け遊 る後ち家族一同芋と味噌汁にて夕食をすまして寝に就きたる□翌十七日午前一時より孫K同二時頃 より長男妻M同朝八時頃より毒ママKは孰れも腹痛を覚え忽ちにして人事不省の状態に陥り早速応急の 手当を為したる甲斐なくKは仝朝三時頃Kは午后二時頃Mは仝朝八時頃孰れも死亡せりといふ四女 Kは午前二時頃より腹痛を催し並に下痢を為し午后四時頃二回嘔吐を為したるも生命には別条なく 其他の人々も別に異状なかりしと 37. 明治 38 年 7 月 5 日 琉球新報 3 面 中毒のかぞママかず 宮古郡下地間切国仲村のTK(四十九年)は去月十五日午前十時頃昨年干哂せし蘇鉄を養豚用と して調理したるに如何にも味ある摸様あるより食慾生し乃ち之に煮魚を交ぜ長女K(七年)長男K(六 年)と共に食したるに翌日より三人とも頭痛すると共に大熱を発し数回嘔吐を為し人事不省の大患 となり三人とも遂に死亡したり[略] 38. 明治 38 年 9 月 3 日 琉球新報 2 面 八重山群島(十四)  山野に於ける天然の生産物 八重山全島の山野に於ける天然の生産物は実に枚挙するに遑あらざるを以て茲に其最も著名にし て有益なるものゝみを摘載し以て之を世に紹介せん [中略] 蘇鉄 従来本群島に於ては専ら飢饉の予備として其繁殖を図りたるも近年に至り工業上必要なる 植物となり其葉は干して帽子花瓶手籠等の材料に供せられ又実及び幹は澱粉を製し得るのみならず 酒精製造の原料に供せらる故に他日其製造法の盛んなると共に充分需要の見込みあり [後略]

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39. 明治 38 年 11 月 5 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒(三人死亡) 国頭大宜味間切塩屋村のYT姪K(十三年)下男K(十二年)仝K(十四年)の三人蘇鉄の中毒 にて死亡せり其顚末を聞くに去月十六日は旧の九月十八夜とてYTに於ては慣例に依り月待の宴を 開き去三月採取せる蘇鉄の料理を肴に家族親類都合十五名にて飲食せり当時は勿論翌日に至りても 何ともなかりしに其翌十八日午后十二時頃より上記下男のKは大に熱を発して嘔吐甚しく仝Kも亦 其翌十九日午前四時頃より発熱しKと同一の苦悶を為し引続きKも同様熱を発したるにぞ家族は始 めて先日食せる蘇鉄の中毒なるに気つき医師を招きて治療を施したれど時既に後れたりしにや仝日 三名とも相前後して死亡したり斯くと見て他の十二名の人々も大に驚き解毒剤を服したるに孰れも 多少の中毒はありしも重症には陥らずして全治し最早や平常の健康に復し居れりといふ 40. 明治 39 年 4 月 1 日 5 面 琉球新報 島尻郡の澱粉製造高 其筋の調査に係る昨三十八年中島尻郡に於ける甘藷及蘇鉄の澱粉製造高甘藷澱粉の原料は 一百二十六万七千八百四十三斤(価格六千〇七十二円六十銭)にして之に対する製造高は 十二万五千七百五十八斤(仝六千四百四十円七十六銭)となり又た蘇鉄澱粉は原料八千五百斤(仝 約三円五十銭)にして之に対する製造高は二百四十五斤(仝約九円三十一銭)なり即ち通計原料 百二十七万六千三百四十三斤其価格六千〇七十六円十銭にして之に対する製造高は十二万六千円 〇〇八銭其価格六千四百五十七銭なり 41. 明治 39 年 4 月 11 日 琉球新報 2 面 菊池氏の沖縄観(三)   (大阪毎日所載)

憐れなる粟国島(続)

彼等は殆んど食ふべき食物を有せず粟国の自然を飾る美はしき蘇鉄は彼等のためには実に一日も これ無かるべからざる生命の鍵なるを知らずや米なく粟なく甘藷なき―有るも素より需要に充るに 足らずし―島民は僅に蘇鉄の幹によつて腹を充し薪を有せざる彼等はまた僅に蘇鉄の葉によつて炊 煙を揚げ居るなり余等を迎へたる島役場の吏員は曰く我等は目下米を絶ち粟と麦とによりて僅かに 腹を肥し居れりと役場員然り島民に至つては嘗て米の飯の口に入る事なきたゞ非常の珍味として南 京米の粉米の輸入せらるゝあるのみ平常口にするところのものは即ち蘇鉄の幹より製せる粗悪の穀 粉と少許の麦若くは甘藷をつき雑て製せる内地にては犬も食はぬ食物なり [後略] 42. 明治 39 年 11 月 16 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒 国頭郡名護間切名護村桶職HU(四十一年)妻K(四十年)長男U(十五年)次男E(五年)の 四名は去十一日夕飯に蘇鉄と南瓜を混せたる雑炊を食したるに暫時にして腹痛及び吐瀉を催したる を以て直に医師の診療を受け応急の手当を為したれども其甲斐なくU、K、Uの三名は翌十三日未

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明に死亡し次男Eは経過稍々宜しく先づ以て生命には別條なしとなり 43. 明治 39 年 11 月 20 日 琉球新報 3 面 蘇鉄の中毒(一家斃る) 国頭郡名護間切名護村HU(四十二)は去る十二日午后六時頃夕飯に本年三月より貯はへ置きた る蘇鉄を炊きU妻K(四十年)長男U(十年)次男E(六年)一家四人共に食せしがU及KUの三 名は翌十三日午后六時に至り中毒して死し同日午后八時半にはEも中毒して死にたりと 44. 明治 39 年 12 月 12 日 琉球新報 2 面 鳥島の窮状 鳥島といへば誰も知る如く過船噴火したる島にして当時の住民等は救ふべからざるの悲境に陥り 早速久米島具志川間切へ移住することとなりたるが鳥島には硫黄の産出あるを以て貧民出稼し今尚 ほ幾多の住民存在して硫黄の採屈に従事せる由なるが過日の暴風に際し硫黄採屈の為めに設けられ たる建物は殆んど破壊せられ硫黄業さへ中止せんとするの悲境に迫り暴風後即ち先月中旬頃よりは 料食に窮し住民一般に未熟の甘藷を採り又は蘇鉄を食する等憫状を極め居れり之が為め徳の島より 料食を輸入せんが為め船を差し向けたるも徳の島とても剰余の量食を有するに非らざれば僅々米三 俵大豆五俵を買入れたるのみにて之亦直ちに食ひ盡し目下久米島等へ移り行くもの多し云々と某氏 の私信に見ゆ 宮古島の風害余聞 十一月中旬に於ける宮古島の風害に就きては当時の紙上に報じ置きしことなるが其の風害の度に 至りては昨年当地の暴風のそれよりも一層の惨状を極めたりとのことにて親しく同地を視察して近 日帰着せる旅客の談に依るに去月十一日より十三日に懸けての暴風は宮古島に有らん限りの暴威を 振ひたるが如く木となく草となく其の独特の色を失ひ黄又白色に変じ山に富みたる宮古全島当盤の 松を除くの外満目嘯々一点の緑を残さず宛然荒涼たる枯野と化し去り甘蔗は葉裂け茎折れて其の風 致ある姿は再び見るべからず試に之れを採りて砂糖を製せしに到底黒糖となすこと能はざる程にて 今後僅に白下を製することを得べきか甘藷は風の吹くが儘にて蔓を揉みちきられ葉は黒枯れとなり たれば挿苗の見込なきのみか既に食料欠之し三食を減じて二食となし漸く口糊を凌くのみなれば遂 には家畜牛豚を挙げて屠殺し尽し蘇鉄を食し生を繋ぐ有様にて只四方松原村附近のみ其の災害を逃 れ居れり小学生徒の出席数も劇に減少し適々通校する生徒も遅刻甚だしきに依り同島の某小学校校 長が其の原因を精査せしに生徒は食すべき朝飯なく早朝より畑に出でゝ僅に芽を生ぜる甘藷を堀り 集めて帰り之れを朝飯として食したる上登校すといふ 45. 明治 39 年 12 月 28 日 琉球新報 2 面 宮古郡の暴風被害の状況 宮古郡暴風雨の状況は取敢へす当時の紙上に報したるか尚ほ其一般の被害の状況、農作物の被害、 暴風後貧民の生計状熊ママ等に区別せは左の如し

一搬

ママ

被害の状況

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本郡は前後二回(第一回は十月廿日より廿三に至る間第二回は十一月十一日より十三日に至る間) 七日間の暴風雨にて殊に十一月十一日より十三日に至る暴風雨の如きは三十年来初めての強風雨に て為めに最も頑強なる阿亘葉蘇鉄松樹に至る迄(位置により)枯れ果て福樹の外他植物にして緑葉 を有するものなく中幹より或は根部より吹き倒され一見火災後の如き観あり建物は兼て暴風に顧慮 し築造せられしのみならず旧癈に属するものは十月の暴風雨に倒潰せられしを以て此度の暴風には 割合に其被害少く狩侯ママ村に十二軒の全潰ありしのしマ マのみにて各村共二三軒の潰家ありしのみ [後略] 46. 明治 40 年 1 月 29 日 琉球新報 2 面 鳥島の状況 鳥島詰の巡査下村哲一氏か去る九日発送したる報告書に依れば目下鳥島に居住せる鉱夫等は食料 欠乏の為め大に困却を来し居る由なるが今其の報告の内容を少しく記載すれば左の如し 鳥島にては昨年九月十一日以後滊船の航海全く絶へて範多、河都の事業主は金きんいん員及び米味噌□全 く欠乏したるより昨年十一月以来電報にて幾回となく滊船の来航を促したるも其の後一回の返電 もなく島民一同憂慮措くは能はず已むを得ず範多の事業は本月六日より原鉱採堀を中止し居住民 百九十八名は滊船の来航を毎日待ち兼ね居るも其の甲斐なく大に困却を極め居りしに村事務所に於 ても食料全く尽きたるを以て本年に於ては再参集会を催し徳ノ島又は沖永良部へ刳舟より渡航し 其そ こ処より電報にて滊船の来航を促したるに知多丸は十二月十五日鳥島へ航行したる旨返電ありたる も一月九日の今日迄該船入港せざるより他府県人四十名と島民中の小児等は皆蘇鉄又は大豆にて糊 口を凌ぎつゝあるも知多丸にして本月中旬頃迄に入港せさりし時は島民一同餓死するに至るべしと 云ふ而して範多の原鉱採堀の事業も全部引き揚け知多丸より仝島を出発せんとて鉱夫等は昨今荷物 の片付け杯ママに余念なかりしとぞ 47. 明治 40 年 2 月 14 日 琉球新報 3 面 一家九名(全部)蘇鉄の中毒/二人は死亡 所は宮古郡平良問切島尻村◇番地IS方家族九人残らず蘇鉄の中毒をなしたる顚末を聞くに宮古 郡は過日の暴風来食に窮し蘇鉄を採らざる宅は極めて少き由なるが右S方も二ケ月前蘇鉄を採り来 り薄く刻みて日に干し四五日前に水に浸し更に洗浄して藁に包み置き三四日を経たる後之を取り出 し豚油を混せて煮付け家主S(七十六)を始め長男K(四十五)金三妻M(四十七)孫K(二十四) K妻K(二十五)孫K(十一)仝K(七)仝K(三)曾孫M(四)の九人共去る二十九日の夕飯よ り卅日の朝飯迄甘藷と共に喫食せしに三四時間を経て何れも腹痛を催ふし漸々苦痛を覚え遂嘔吐を 始むるに至れり斯くてMは其日に死しKは二日目に死亡したるも他の七人は漸く蘇生するを得たり といふ 48. 明治 40 年 3 月 1 日 琉球新報 2 面 アンドレー博士と語る(二)/久米島は旧火山 [前略]

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博士は琉球諸島の植物採集を終りて徳之島より大島に赴く由にて同動植島の物に就て語りたり 大島は山高ければ国頭よりも植物多く大島よりも種子ケ島屋久島又多し屋久島は山深く高くして 動植物も全く他の島々と異なり大隅以南の島嶼中最も古きものなり植物は大島には蘇鉄あれど屋久 島には生ぜす猿、狐、狸は屋久島に住めども大島には絶えてなし之れによりて見れば屋久島は九州 本土と等しく地層年代は他の種子ケ島大島琉球の諸島よりも古くして此等の諸島嶼は屋久島より後 に出来たるものなり [後略] 49. 明治 40 年 4 月 17 日 琉球新報 2 面 渡名喜島の飢饉 島尻郡渡名喜島の飢饉に就きては過日の紙上に於て報したるが其後其筋の出張員実地に臨み調査 したる報告によれば仝島は戸数百八十四戸人口千百七十九人にして其中五十一戸は殊に貧に窮せる ものにて先日来粟国島より蘇鉄を購入し又は共有金二十六円を使用して口糊を凌き居たるが就中十 余戸は食するに道なく三度の食事さへ碌々有り附くこと能はざる有様にて取敢へず郡役所より三斗 入粉米五俵及金二十六円を救助せる由 50. 明治 40 年 6 月 25 日 琉球新報 2 面 与那国島の飢饉 昨年前後二回の暴風ありたる為め与那国島にては今年へ掛けて大に農作物の不作を来たし近年稀 なる飢僅の惨状に陥り島民の困難一方ならざるより[略]四月三日と云ふに暫く仝島を難れ翌四日 辛うじて目的地なる与那国島へ到着したりと云ふ夫れより二氏は早速各戸に就きて其窮状を調査し 之を六級に分ちて一人に就き八合乃至三舛宛の救助米を与へたる後別項記載の如き備荒貯蓄の規約 を設けたりとの事なり今回の飢鐘に就いては昨年十二月頃より甘藷の欠乏を来し所蔵の米粟も消費 し尽くし一月頃よりは殆んど蘇鉄も蔬菜のみを以て辛き生命を繋ぎ留めたる程にて一時は随分の困 難も経たることなれど追々新麦の収穫せらるゝあり昨今に至りては甘藷も多少熟し掛れるものある 上に敦れも可なりの豊作あれば今に飢僅の窮苦を免れ得べしとなり 51. 明治 42 年 3 月 31 日 琉球新報 2 面 蘇鉄葉輸出状況 本邦に於ては専ら本県及大島に産する蘇鉄葉神戸港輸出額は昨年中七百六十九万枚に達し一昨年 よりは百七十三万枚を増加せり蓋し本品は造花「アーチ」の原料として其大部分は独逸に向つて輸 出せられ居りしも昨年は米国に向て一時に多量の輸出を見し為め前年に比し稍増加を呈せし者とす 由来独逸は植林条例の発布と同時に関税を引上げ大に自国の植材を保護し居れる由なるも同地方は 気候の寒き為温室を以て栽培せざるへからざる不便あるを以て関税引上後も依然同国に向て引取ら れ居る者毎年多額に計上せられ居れり而して前々年独逸に於ける関税改正の際外国商館は思惑的買 進を企図せしもの多く従つて稀有の出増を告げしが爾来捗々しき注文の入り来らざりしを以て内地 停滞漸く加はり上半年に入りては少なくとも三千余俵の堆荷を見るに至りたり偶下半年に米国方面

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より一時に多量の注文入り込みしを以て此の盛況は能く上半年に於ける減退を填補せしのみならず 却て前年に比し稍増加を呈したりき品積は十五センチメートルを最短として百二十センチメートル に及び長短に由り十種に分たれ居り主産地は琉球大島たり是海外に於ける嗜好は専ら葉の密集せる ものなるも本邦産中海外の嗜好に適するものは独り大島産たるのみなればなり截伐期は七月前後に して適度に乾燥を了へ順次内地へ廻送するものなるが輓近本邦に於ても染色法の稍完成せしやにて 現今紫、緑、青、赤、白色に染めたるもの亦輸出せられ居るといふ因に本品は乾燥後熱に触るれば 柔軟となり容易に染色し得る耳ならず冷却後は再び硬質を帯び昨年末の市価は十五センチメートル 一枚二厘なりと云ふ 52. 明治 42 年 5 月 21 日 沖縄毎日新聞 2 面 蘇鉄の培養 過日の暮れ方独り杖を携へて他郷に多年放浪しながらも猶ほ切々憧憬れたる奥武山の山容水色を 眺むべく出掛けて先づ公園を一と廻りして見た成る程其の見晴らしの区域は狭いが残半の生涯を送 るには左程不足を感じない丈けの箱庭的嫌ひはあれど其の閑雅なる風致は慥に備はつて居る、而し て其の帰り掛けに城間氏の別荘(公園内)に立寄り兼ねて噂に聞ていた蘇鉄を見たが其の品の佳い ことと其の数の多いことゝいつたら実に目の醒むる程で迚も外では見られない雅観であつた今試み に城間氏より聞いた蘇鉄の培養談を数寄者の為めに聊か書いて見やう 産地採取者及価格 佳品の産地としては豊見城村の真玉橋、志茂田兼城村の賀数、国頭村の与那、 殊に中城村の奥間、上原は最も多いそうである、それで何ういふ所にあるかと云ふに大抵高い土山 の麓に上から崩れて来る砂土に覆はれて圧迫されて表面に苗子の頭を出し得ないで土中に叢生密集 し其の親木も疲頽痩衰の姿で辛じて小さい葉を出しているから試みに其の根元を五六寸掘つて見る と小苗が現はれて来ることがある、さうすると此は望みあるものとして尚ほ三四尺或は五六尺位ま で掘りて之を取るのである又た俗に猫株と云ふのは必ず岩山の頂上に現はれてある、山から取りて 来るのは小寒から清明の頃まで、鮒や鰻の漁師が此の期間は不漁だから蘇鉄取りに転業するそうだ、 劣等品は内地に輸出せられ価格は品により一定しないが最低のものが一個二銭で五六十銭以上のも のになれば当地で観賞用に供せらるゝ。其の最上品になると山出しの儘で二十円に上るものもある そうな― 植付及手入 山から取りて来ると直ちに仮りに地植して置く、さうして夏至の期節までには大抵 根が付いたか枯死したかゞ判明するが故に愈々根が付いたとすれば鉢に上げるのである又た其の生 枯が不明の時には二三度□も抜き取りて見て差支へはない若し根の生じない場合には根元を切りて 液汁の出ない様に之を日に乾すか又は焼金を充てゝ液汁の乾くやうにするのは甚だ必要である、蘇 鉄の根の付かないのは多分液汁が浸み出す為めである而して其の土は所謂「ニービ」に限る」ママ 木の僻せを直ふす時期は夏至より処暑頃までの暑中で其の以外に造ると枝を折るの虞れがあるか ら蘇鉄愛養家は之を知りて居なければならぬ爪取りは小寒大寒の中で其の外遣つてはいけない蘇鉄 の鉢植は必ず土を盛らす故に水は上から灑ぐと利かないから水を盆か桶に入れて之に鉢を浸して水 を吸収せしむるのである水を屢々遣ると葉が伸び過ぎて甚だ見苦しくなるから鉢に発生している苔 の枯れざる程度に遣れば充分と云はなければならぬ又た蘇鉄には肥料は一切入らない世間では能く 蘇鉄には釘を打てば好いと云ふものもあるが若し漫りに釘を打つと枯死せしむるを免かるまい想ふ

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