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後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿

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Academic year: 2021

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全文

(1)

後漢

六十

訳稿

一 

は後

に活

人物

であ

り、

に皇

んで、

の平

は中

人物

て活

た。

三国

を建

る曹

備、

の父

平定

に、

かわ

って

いた事

は、

周知

の通

であ

の乱

に主役

て活

た皇

、何

故次

の時

る人

り得

か、

は極

て限

役割

はた

た曹

らが

三国

六朝

い時

り拓

かに

いて

を抱

た。

稿

はそ

る朱

の訳

に終

ので、

十分

な結

は得

いな

つい

て言

る視

ら抜

られ

ころ

に原

いか

と思

る。

は、

(

)

の人

であ

る。

い 時 に 父 を 亡 く し 、 母 が い つも 絹 織 物 を 売 って 、 仕 事 と し て い た 。       案 ず る に 、儁 の母 が 主 人 亡き 後 、 絹 織物 を売 っ て生活 の た つ き と し て い     た事 は あ た かも 蜀 漢 国 の 先 主 劉 備 の母 が 、夫 の死 後 、履 を売 り席 を 織 っ て     生 業 と し た のと 、 同 じ事 情 であ っ た 。 な にも 此 の時 代 に限 っ た事 で は な か     ろ うが 、未 亡 人 が子 供 を抱 え て、 生活 をす る ため に は 、此 の様 な 事 が通 常     であ っ た の であ ろう 。   儁 は 親 孝 行 で 有 名 と な り 、 県 の 門 下 書 佐 と な った 。 義 を 好 み 財 を 軽 ん じ た の で 、 郷 里 のも の は 、 こ れ を 敬 ま った 。       案 ず る に、   ﹁孝 ﹂   ﹁義 を 好 む﹂   ﹁財 を軽 んず る﹂ と言 っ た事 は 、当 時 の     人 た ち の賞 讃 す る行 為 であ っ た 。 此 の事 は改 め て 説 く ま でも な い 事 で はあ     ろ うが 附 記 す る。   時 に 同 郡 の 周 規 が 、 三 公 の 府 に 辟 召 さ れ た 。 洛 陽 に 出 発 す る に あ た り 、 郡 の会 計 の庫 か ら 銭 百 万 を 借 り て 衣 裳 代 と し た が 、 後 に な って ね わ か に 督 促 ざ れ た 。 規 の 家 は 貧 し く て 、 借 り た 銭 を 返 却 す る 備 え が な か っ た 。       案 ず る に、 三 公 の 府 に辟 召 さ れ た 場合 に は、 衣裳 代と いう 名 目 で 、金 銭     が 必要 であ ったら し い。 三 公 の府 に群 召 され る事 は 名誉 で はあ る が 、同 時     に 莫 大 な出 費 も 伴 う事 に な る。 或 いは公 府 辞 召 の制 が始 めら れ た 時 に は、     な か っ た事 かも 知 れ な いが 、 後 漢 末 に は極 め て普 通 の事 でも あ っ た のであ     ろ う 。そ し てそ の出費 を補 う た め に 、任 官 後 に、 種 々 な形 で蓄 財 を行 っ た 15

(2)

  

想像

難くな

銭と

個人が用意を

るには

あまりに

  

額と

るか

らである

   

なお

返還を求められた

規と郡

役人と

、言

上で

  

が起

たようで

事、後段

より

推測される

こで母

の商

の絹

で、

のた

に弁

た。

      案 ず る に、 原 文 に は ﹁ 規 の ため に 解 対 す﹂ と あ り 、  ﹁規 はう け こた え     ( 11 占 対 ) を 記 録 され て い た の で、儁 は ︹規 の︺ た め に銭 を 用 意 し て 、そ     の 事 件 を解 決 し た﹂ と 李賢 の注 が 加 え ら れ て い る。   母 は 財 産 が な く な って し ま った の で 、 深 く 怒 り 、 儁 を 責 め た 。 儁 が 言 った 。   ﹃ 小 さ な 損 失 は 大 き な 利 益 に あ た る の だ 。 初 め は 貧 乏 で も 後 に は富 豪 に な る のが 必 然 の 理 だ ﹂ 。 と 。

  本 県 ( 上 虞 ) の長 で 、 山 陽 郡 出 身 の 度 尚 は 儁 に 会 って 、 彼 を め ず ら し い奴 だ と し 、 会 稽 郡 の太 守 の 韋 毅 に 推 薦 し た の で 、 儁 は 郡 の役 職 を 歴 任 す る こと に な った 。       案 ず る に 、  ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 三 八 、列 伝 二八 の度 尚 伝 注引 ﹃ 謝 承書 ﹄ によ れ     ば 、度 尚 は上 虞 長 に 赴 任 し 、儁 を 門 下書 佐 に抜 擺 し た が 、儁 の人 柄 に感 嘆     し 、  ﹁ 不凡 の操 ﹂ あ り と し たと 見 え る。       な お尚 は上 虞 長 から 文安 ( 河 北 省 文 安 ) の令 に移 り 、 延熹 五 ( 一 六 二)     年 にお こ っ た長 沙 ・ 零陵 の賊 の平 定 に活 躍 し た の であ る か ら 、儁 が 門 下書     佐 に抜 懼 され た時 期 も 、 延熹 五年 を 去 る こと遠 か ら ぬ、 一 五〇 年 代 後 半 の     事 と推 測 さ れ る。   後 に 、 会 稽 太 守 の 尹 端 は儁 を 主 簿 と し た 。       案ず る に、 会 稽 太 守 の韋毅 が 何 時 、 此 の地 を去 り、 尹 端が 何 時 、 会 稽 太     守 に 任 じ られ た の かは っ き り し な い。 と こ ろ で、 後 漢 書巻 七 、 桓 帝 紀 に     ﹁ 延熹 九 ( 一 六 六) 年 、陳 留 太 守 韋毅 が 臧 に坐 し て自 殺 し た﹂ と いう 記 事     が あ る。 こ の 陳 留 太 守 韋 毅 が会 稽 太 守 であ っ た韋 毅 と 、同 一 人 物 であ っ た     可能 性 は 高 いであ ろう 。 こ の 事 に つ い て は 、 藤 田至 善編 ﹃ 後 漢 書 語彙 集     成 ﹄   ( 一 九 六   、京 都 大 学 人文 科 学 研 究 所) は同 一 人 物 と し て扱 っ て いる     が 、 李 裕 民 編 ﹃後 漢 書 人 名 索引 L   ( 一 九 七 九 、中 華 書 局 ) に は 、桓 帝 紀 に     見 え る韋 毅 と 、朱 儁 伝 に見 え る 韋毅 と を 別 人 と し て扱 っ て お り 、 しか も 朱     儁 伝 に見 え る 韋 毅 を 霊 帝 時 代 (一 六七 ∼ 一 八 九) の会 稽 太 守 と明 言 し て い     る。 或 いは 李氏 の言 う よう に 、鋼 人 かも知 れ ぬが 、 一 まず は藤 田氏 の扱 わ     れ たよ う に 同 一 人 物 と 考 え ておく 。   熹 平 二 (一 七 三 ) 年 、 端 は 賊 の許 昭 を 討 って 失 敗 し 、 負 け て し ま っ た の で 、  ︹揚 ︺ 州 の 刺 史 か ら 奏 上 さ れ て 棄 市 ( 死 刑 ) の 罪 を 受 け る 事 に な った 。       案 ず る に、許 昭 に つい て は、 ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 八 霊帝 紀 、 熹 平 元 (一 七 二)     年 、十 一 月 の条 に ﹁十 一 月 、会 稽 の人 許 生 が 自 ら越 王と 称 し て 、郡 県 を 寇     し た﹂ と あ り 、注 引 の ﹃ 東 観 記﹄ に は 、  ﹁ 会 稽 の許 昭 が 衆 を 聚 め て自 ら 大     将 軍 と 称 し 、 父 の許 生 を立 てて越 王と なし 、郡 県 を攻 め破 っ た。 ﹂ と あ る。     同 じ記 載 は ﹃後 漢書 ﹄ 志 十 二 ﹁ 天 文志 ﹂ にも 見 え る。 又 同 書 巻 六 八、 伝 五     八  臧 洪 の伝 には 、許 昭 を妖 賊 と し て扱 い、   ﹁ 会 稽 の妖 賊 許 昭 が 、兵 を 句                                   ヘ   ヘ    へ     章 ( 浙 江 省 慈 谿 ) に起 こ し 、自 ら 大将 軍 と 称 し 、 そ の父 許 生 を 立 て て越 王     と な し、 城 邑 を 攻 め破 り 、衆 は 万 をも っ て数 え た﹂ と記 す 。 結 局 此 の乱 は     尹 端 の 失 敗 はあ っ た が 、臧 洪 の父 、旻 に よ っ て平 定 され た の であ っ た。       ま た 、此 の乱 の平定 に は 、孫 堅 も ︼ と 役 買 っ て いた よう で、  ﹃ 三国 志 ﹄     呉 志巻 一 、孫 破 虜 伝 に は 、孫 堅 が 十七 歳 ( 一 七 三年 、憲 平 元 年 ) の時 、 父     と とも に海 賊 胡 玉 を平 定 し 、呉 郡 の仮 尉 に任命 さ れ た記 事 に 続 いて 、  ﹁会                                        ヘ    ヘ   ヘ    へ     稽 の 妖 賊 許 昌 が 句章 に起 ち上 っ て 、自 ら陽 明 皇帝 と称 し た。 其 の子許 韶 と     と も に 諸 県 を煽 動 し 、衆 は 万を も っ て数 え た。 堅 は 郡 の司 馬 と し て 、精 鋭     で勇 敢 な も の を召 し、 千 余 人を 得 た 。州 ・ 郡 の兵 と 合体 し て討 ち、 これ を     破 っ た。 こ の 年 は熹 平 元 年 であ っ た﹂ と見 え る。 賊 の諱 が昭 と 昌 と な っ て     文 字 は違 うが 、乱 の起 っ た 年も 熹 平 元 年 と同 じ であ る か ら、 同 一 人物 と み     て よ い であ ろう 、果 し て裴 松之 は ﹁霊 帝紀 に 言 っ て いる 、昌 はそ の父 を越

(3)

    王 と し た﹂ と 注 し てお り 、許 昌 と 許 昭 同 一 人 物 であ る こと は疑 いな いであ     ろ う 。     許 昭 の 乱 は こ の よ う に し て 平 定 さ れ た の だ が 、 最 初 、 昭 が 乱 を 起   こ し た 時 、 失 敗 を し た 尹 端 は ど う な っ た か 。 朱 儁 伝 の 口語 訳 を 続 け   て い こ う 。   儁 は そ こ で 粗 末 な 衣 服 を ま と い 、 聞 道 を 行 き 、 数 百 金 を も って 京 師 に 行 き 、 所 管 の 役 人 に 賄 賂 を 送 り 、 州 か ら 中 央 に 送 ら れ て 来 た 上 奏 文 を 訂 正 さ せ る事 に 成 功 し た 。 そ れ で 端 は 左 校 に 輸 作 さ れ る ( 流 刑 ) に 止 ま った 。 し か も 端 は 罪 が 軽 く な った 事 を 喜 ん だ も の の、 そ の 理 由 は 分 ら な か った し 、 儁 も ま た つ い に そ の 事 を 端 に 言 う 事 は な か った 。       案ず る に当 時 も官 界 が 腐 敗 し て いた事 が よく 分 か る。 公 正 であ る べき 裁     判 が 、 或 る いは役 人 の処 分 が 、金 銭 に よ っ て左 右 さ れ て いた 。 そ れ に し て     も 、数 百 金 と いう のは 、 か って の周規 のた め の 費 用 に対 し 、 較 べ よう も な     い 大 金 であ る。儁 は これ を ど のよう に し て工 面 し た の であ ろ う か。 も し私     財 を投 じ たと す れば 、彼 が 財 を軽 んず ると 評 さ れ る理 由 も 、 こ こらあ たり     に あ る のだ ろう 。

 交

阯刺

史時

に太

の徐

し、

再遷

て蘭

(

省繹・

)

に任

  

案ず

るに

の下

級官吏として、

使われて

、少くと

太守が交替した

とに

。そして

孝廉として

中央

推薦されて、

時の

慣例通り、

蘭陵県

令とな

た。

は人

に比

て、

に対

のす

た才

を持

て蘭

の属

た東

の相

て中

に報

され

た。

ま交

で賊

こる

が、

の地方

の刺

や太

たち

で、

これ

防ぐ

でき

った。

万余

が、

にそ

め破

た。

(一

八)

なわ

ち朱

の刺

た。

  

案ずるに、

霊帝紀には

﹁光和元年、

正月に

、合浦

阯の

烏濤蛮が叛

き、九

招き引き入れて、

郡県を攻め

﹂と見え

。梁

との

関係

よく

らない

は儁

に命

じ、

て、

せ、

の上

調

た官

兵と

て、

五千

の兵

た。

  

案ずるに、

朱儁は

郷に

は、家兵

を引き連れる

勢力ま

に至

。此

点も母親

育てられ、

裕福

生活

ら出発した

備と

似通

ている

に分

て交

に入

る事

た。

に行

と、

を引

て前

せず

使

て、

の拠

る郡

て、

の備

のあ

る所

い所

せ、

の軍

の威

に明

にし

て、敵

の心

た。

て、

の七

の官

り、

つい

に梁

を斬

た。

て降

る者

は数

に及

らず

平定

た。

はそ

で都

れ、

十斤

を賜

り、

され

た。

と黄巾

e

 潁川

四年

の乱

こる

で、

の大

の多

の才

のあ

こと

ので、

に任

て、

の皇

甫嵩

に、

の河

の賊

ち、

こと

これ

を破

た。

17

(4)

  案 ず る に 、後 漢 書 巻 七 一 、 列 伝 六 一 の皇 甫 嵩 伝 に は次 の よう に 見 え る。   ﹁黄 巾 の乱 が お こ り 、 群 臣 を 召 し て会 議 し た と こ ろ、 北 地 郡 ( 陝 西省 環 ) の太 守 であ っ た皇 甫 嵩 は、 党 錮 の禁 を解 く のが よ い事 、 宮 中 に蔵 われ て いた銭 をど ん ど んと 出し 、 ま た宮 中 の西 園 にあ る馬 を放 出 し て、 軍中 に 分 け て や る のが よ い事 など を 提 案 し た。 霊 帝 は これ に従 っ た 。 こ こに お い て天 下 の精 鋭 な 兵 を発 し、 ひ ろく将 軍 を選 び 、 皇 甫嵩 を左 中 郎 将 と し て、 節 を持 ち、 右 中 郎将 朱 儁 と と も に 、 五校 尉 や 洛 陽 申 心 の三 河 地 方 の騎士 を 発 し 、精 鋭 な る 軍 隊 を募 り、 四 万余 人 を得 た 。 嵩 と儁 が そ れ ぞ れ 一 軍 を率 いて、 と も に 潁 川 の黄 巾 を 討 っ た 。   儁 はす す ん で賊 の波 才 と 戦 い、戦 争 に敗 れ た 。 嵩 はそ こ で進 ん で長 社 を 保 っ た。 波 才 が 大衆 を 引 き い て城 を 囲 んだ 。 嵩 の兵 は少 な く 、 軍 中 のも の は皆 恐 れ た。 そ こ で嵩 は軍 吏 を 召 し 出 し て 言 った 。  ﹁( 孫 子 も 言 っ て い る よう に) 、 戦 いに は不 思 議 な変 化 と いう も のが あ っ て、 数 の多 寡 に よ っ て 勝 敗 が 定 ま る も の で は な い。   ( 李 賢 の注 に は ﹁ 孫 子兵 法 日。 凡 戦 者以 正 合 、 以 奇 勝 者 也 。故 善 出 奇 。無 窮如 天 地 。 無 竭如 江海 。 戦 勢 不 過 奇 正。 奇 正 之 変 。 不 可勝 也 ﹂ と あ る )今 、賊 は草 を 使 っ て 陣営 を作 っ て いる。 火 事 を起 こし 易 いのだ 。 も し 夜 に 乗 じ て火 を 放 っ た な らば 、 き っ と 大変 驚 く 事 であ ろう 。我 が 軍が これ に乗 じ て兵 を出 して 之 を討 ち、 四 方 か ら合 体 す れ ば 、 あ の戦国 時 代 に斉 の田単 が挙 げ た火 攻 の 功 績 と同 じも のが 成 し遂 げ ら れ よ う そ ﹂ と。   ( 李 賢 注 、  ﹁ 田単 斉 将 。 守 即 墨 城 。燕 師 攻 城 。 田単 取 牛 千 頭 。 衣 以 五采 。束 矛盾 於 其角 。繋 火 於 其 尾 。 穿 城 而出 。 城 上 大 譟。 燕 師 大 敗 。 事 見 史 記 ﹂) 。 其 の夕 、 遂 に大風 が 吹 いた 。 嵩 は そ こ で軍 隊 に命 令 し て 苣 を 束 ね て城壁 に 登ら せ、精 鋭 な兵 隊 で、 ひ そ か に囲 み の外 に 向 か わ せ、 火 を放 って大 いに とき の声 を 挙 げ さ せ 、城 壁 の上 で は燎 を 挙 げ て之 に呼 応 さ せ た。 嵩 はそ こで鼓 を撃 って敵 陣 に走 り込 ま せ た の で、 賊 は 驚 き乱 れ て 逃 げ 出 し た。 た ま た ま霊 帝 の 派 遣 し た騎 都 尉 曹 操 が兵 を将 いて 到着 し た の で 、嵩 ・ 操 は朱 儁 とと も に、 兵 を 合 し てさ ら に 戦 い、 大 い に之 を 撃 ち破 り 、斬 首 数 万級 に及 ん だ。   ( 陳 寿 ﹃ 三 国志 ﹄ 魏 志 巻 一 、武 帝 紀 に は、   ﹁光 和未 。 黄 巾 起 、 拝 騎都 尉。 討 潁 川 賊 ﹂ と あ るだ け で、 皇甫 嵩 。 朱 儁 、波 才 と 言 っ た語 旬 は 一 切見 えな い。 )朝 廷 は嵩 を都 郷 侯 に封 じ た 。 嵩 と 儁 は勝 に 乗 じ て進 み、 汝 南 ∵ 陳 国 の黄 巾 を 討 ち、 波 才 を 陽 糴 (河 南 省 禹 ) に 追 い、 彭 脱 を 西華 ( 河南 省 西華 ) に撃 っ て 、並 び に之 を破 っ た の で、 其 の他 の賊 は 降 服 し た り 、散 り散 り にな っ た り し て 、三 郡 は ことご と く 平 定 され た。

上、

よれ

の賊

て皇

の功

であ

た。

にも

かわ

らず

は次

のよ

に見

る。

甫嵩

はそ

こで

を上

の力

のせ

いに

であ

こで進

西郷

に封

せら

、鎮

郎将

に遷

た。

ちな

に皇

は都

に封

た。

朱儁

と黄

O

南陽

こし

上使

し、

は十

万、

郡守

を殺

し、

の城

に屯

る事

に及

だ。

は撃

て曼

が、

はさ

に趙

を大

し、

はよう

やく

んと

ついに

に達

し、

に拠

た。

の徐

せ、

八千

に及

んだ

む事

六月

八月

に至

たが

った。

役人

は上

て、

呼び

たが

の張

上疏

しあ

た。

は白

を用

い、

は楽

じ、

を過

て、

に克

た。

(

用が

るが

る)

は潁

を討

て、

り、

つれ

て南

もき

と設

ます

に臨

んで将

を代

は、

兵家

のに

ころ

です

て、

の成

を督

のが

ろし

いで

ょうし

はそ

で召

のを

た。

(5)

はそ

こで

はげ

を撃

これ

を斬

た。

の大

た韓

いだ。

は兵

なわ

た。

し、

を結

び、

を起

こし

て城

に臨

だ。

こで

西南

はす

の人

に赴

た。

を率

いて

の東

を攻

こで退

小城

を守

たが

おそ

を申

し出

た。

の張

び徐

これ

を許

た。

た。

て、

る。

ろ、

主が

た。

て来

のに

は賞

味方

よう

にと

のだ

は中

は統

れ、

が賊

いる

だけ

のだ

てや

ても

める

こと

いが、

を討

てば

こら

十分

であ

る。今

投降

を受

れば

に天

に逆

にす

るだ

だ。

は有

と見

れば

ち進

み戦

し、

不利

れば

を願

い出

る、

を許

て戦

のは、

はな

い﹂

こで

め込

で連

たが

てな

た。

り返

た。

は分

いる。

は今

の囲

は固

いが

る、降

たが

入れ

られ

よう

い。

のぐ

いで戦

理由

であ

る。

のも

にす

こと

て十

の場

いて

おや

であ

を取

り払

て、

せて

るに

こし

こと

はな

みが

のを

て、勢

いと

必ず

から

てく

るだ

ろう

志が

る。

ち破

り易

い方

であ

るL

しば

て囲

た。

は果

て城

を出

て戦

てき

た。

はそ

で撃

ち、

いに

を破

た。

に乗

て逃

を追

かけ

こと

は万

に及

だ。

は遂

に降

た。

かし

は忠

が積

で、

つい

これ

た。

は懼

て安

ず、

た孫

を大

て、

に駐

た。

これ

た。

は逃

た。

は追

て西

に至

た。

これ

た。

(

の注

西

は今

の鄂

の南

り、

はそ

の南

る。

の河

の北

にあ

る)

たび

万余

を斬

り、

つい

に解

た。

の春

は使

し、

し、

を右

に拝

に凱

り、

五千

を増

され

て銭

(

)

に封

れ、

を特

に加

られ

た。

  

案ずるに、

戦功は

回の

皇甫嵩と

とは

朱儁

  

単独

と言え

よう。と

ろでここに

見られる

人物

中、張

  

並と言

、河

間鄭

(

河北省

任丘)

あり、

張良

子孫と見える

が、

  

時代にはよ

くあ

るこ

とで

わしい

。 ﹃

後漢書﹄巻八十下、

列伝七

  

十下文苑伝

簡単な伝が見える

﹁文才があり、

車騎将軍朱儁に

いて

  

征す﹂とあるか

ら、

この

にお

黄巾討伐をさ

す事疑

あるまい

  

はこの

別部司馬とな

。賦

碑文

  

嘲など十九

篇を著わし、同

草書をよくした

。ま

徐瓔は

  

い玉

、広

陵海

西

(

江蘇省

東海)

後漢書﹄巻四十八

、列

  

十八

ある

。父

淑は

将軍とし

有名

  

賢注

引く

﹃謝

書﹄

よれ

﹁淑

孟氏易、春

羊伝

礼記

周官を

  

﹂とあ

州刺史に

時、

張忠が南

  

陽太守で

職権

濫用し、

ちろん

董太后

が背後

にい

19

(6)

あ っ た か ら 、乱 脈 な 行 為 があ り、 臧 財数 億 に及 び 董 太 后 は 瓔 の赴 任 にあ た り、 彼 に 圧力 を かけ 、忠 の事 を よ ろし く と頼 んだ が 、 瓔 は ﹃私 は国 家 のた め に働 く ので 、 いう こと は 聞 け な い﹄ と 答 え た 。董 太 后 は怒 り 、忠 を にわ か に司 隷 校 尉 に遷 し 、今 度 は忠 が 謬 に圧 力 を か け た。 し かし 膠 は荊 州 に致 ると 、 忠 の 臧 銭 一 億 を暴 き 、大 司 農 に張 簿 を 送 りそ の罪 を 暴 き 、 あ わ せ て 五郡 太 守 及 び そ の 属 県 の汚 職 者 を 上奏 し た の であ る。 張 曼 成 が 殺 し た楮 貢 は 、 おそ らく 張 忠 の 後 任 と し て南 陽郡 の 太 守 に 赴 任 し てき たも ので あ ろ う 。南 陽 の黄 巾 平 定 後 も 、張 忠 は膠 を 怨 み に思 い、 宦官 とグ ル にな り 、膠 の 罪 を で っ ちあ げ 、罪 にあ て よう と し たが 、 膠 には賊 を破 る の功 が あ っ た の で、官 を免 ぜ ら れ 家 に帰 る こと にな っ た 。後 又 た官界 に復 活 し、 袁 術が 盗 み 持 っ て いた国 璽を 献帝 に献 上 し た りし て いる。   と ころ で、   ﹃ 三 国 志﹄ 巻 四十 六、 呉志 一 、孫 破 虜 伝 によ れば 、孫 堅 が 朱 儁 と 行動 を 共 にし 、 汝 ・ 頴 の黄 巾 の平 定 から宛 城 に拠 っ た 余賊 の平 定 にま で、 協 力 し た と見 え る。 孫 堅が 鰲 平 元 年 に 会 稽 の妖 賊 許 昌 を 平 定 し た こと は前 に述 べ たが 、そ の際 に 功 をも っ て、 塩漬 ( 江 蘇 省 塩 城 ) の 丞 に除 せら れ、 数 年 にし て吁 蹌 ( 安 徽 省 吁 胎) の丞 、 さ ら に 下郵 ( 江蘇 省 那) の丞 に と遷 っ て い っ た。 な お裴 注引 江表 伝 には ﹁ 堅 歴佐 三県 、 所在 有 称 、吏 民親                   ヘ   へ 附 、 郷 里 知 旧 、好 事 少 年 、往 来 者 常 数 百 人 、 堅接 撫 待 養 、有 若 子 弟 焉 ﹂ と あ る。 中 平 元年 に黄 巾 の乱 が勃 発 す ると 、 中 郎将 朱 儁 は堅 を佐 軍司 馬 に 任 じ ても ら う様 に請 い、 許 さ れ た。 堅 の郷 里 の 少 年 で、 下 郵 に いたも のは 皆 、 従 わ ん こと を願 った 。 さ て 堅 は 又 商 旅 及び 淮 ・ 泗 地 方 の 精 兵 を募 っ て 、千 人 余 りを 得 、儁 と 力 を 合 わ せ て奮 撃 し 、 堅 の向 う と ころ 、敵 は前 進 す るも のが な か っ た。 裴 注引 呉書 で は、 堅 は 勝 に乗 じ て深 入 し たが 、西 華 ( 河南 省 西華 ) に お いて 利 を失 い、 創 を被 っ て地 に仆 れ 、部 下 に救 い出 さ れ た話 が 見 え る。   そ れ は さ て おき 、陳寿 の本 文 は 、汝 、潁 の 賊 は苦 し み、走 っ て宛 城 を保 っ た と 続 く 、堅 は自 身   面 に当 り、 城 壁 に登 っ て先 登 を 切 っ て 入 り、 遂 に 大 い に之 を破 っ た。 儁 は実 状 を皇 帝 に報告 し た の で、 堅 は別 部 司 馬 に拝 さ れ た 。 裴 注 は こ こ に ﹃ 続 漢書 ﹄ によ っ て儁 の略 伝 を 引 いて いるが 、 黄巾 の 乱 平 定 に 至 るま で のと こ ろ 、特 に取 り あげ る こと は 記 し て いな いが 、車 騎 将 軍 に 任 ぜ られ た と いう点 は、   ﹃ 後 漢書 ﹄ に見 え な いと こ ろ であ る 。

七 朱

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⇔ 張

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  案 ず る に、此 れ らが 黄 巾 の余賊 と 呼 ば れ る も の であ ろう 。彼 らが 山 谷 に 拠 っ た と いう の は興 味 のあ ると こ ろ で、 こ う い った 地形 の複 雑 な と ころ が 、賊 を働 く の に都 合 が良 か っ た の であ ろ う。 江 東 の山越 を思 わ せる 。   な お こ こに挙 げ ら れ て いるも の の中 で 、張 白騎 、 劉 石 . 平 漢 . 大 計 . 司 隷 ・ 掾 哉 ∵ 雷公 ・ 浮 雲 ・ 白 雀丁 楊 鳳 ・ 于 毒 ・ 五 鹿 ・ 白 繞 ・ 畦 固 . 苦 哂 の 諸 集 団 は ﹃ 後 漢 書 ﹄ にお いて は 、 こ の朱 儁 伝 に し か、 そ の名 は 見 え な いが 、 子 毒 ・ 白繞 ・ 畦 固 等 は 陳 寿 ﹃ 三国 志 ﹄ 中 に 少 しく 言 及 す る 所が あ る。

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(7)

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上奏

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た。

  案 ず る に、   ﹃ 三 国志 ﹄ 巻 八、 魏志 八、 二公 孫 陶 四張 伝 の中 、 四張 の   人 が 張 燕 であ る。今 はそ の全 文 を 紹介 す る のを 省 くが 、そ れ によ る と 、本 の 姓 は楮 であ っ た と いう 、 張 牛 角 の部 下と し て活躍 し 、牛 角 が 戦 死 し た後 、 仲 間 に推 さ れ て そ の部 衆 を 帥 い、姓 も 張 と 改 め た。 袁 紹 が 公 孫 瓊 と冀 州 を 争 っ た際 に は、 遭 を助 け たと 見 え る 。   な お こ の張 燕 伝 の裴 注 引 張 瑠 ﹃ 漢紀 ﹄ に は、左 校 ・ 郭 大 宝 ・ 左 髭 丈 八が 一 つ のグ ループ を な し て いた よう に 記す 。   又 た案 ず る に ﹃ 三国 志 ﹄ も ﹃ 後 漢書 ﹄ 張 燕 伝 も 、燕 が 人 を 遣 わ し て 、朝 廷 に 降 ら ん事 を 乞 う た と見 え る。張 燕 は戦 って 朝 廷 の 軍 に勝 っ 事 が でき る のに 、敢 え て降 服 を申 し出 た のは 何故 であ ろう か 。朝 廷 に降 服 す る事 に よ り 、賊 で は なく な っ た と い う 名 分 を得 よう と し た のであ ろう か。 ま た朝 廷 と し て は 、各 地 の豪 族達 が よう や く反 朝 廷 の気持 ち を表 面 に出 し て 来 た際 であ る か ら 、燕 の武 力 を逆 に利 用 し て、 これ ら諸勢 力 に対 抗 さ せ る メリ ッ トが あ ると 判 断 し た のであ ろう 。 そ れ を思 わ せ るも のと し て 、対 象 は張 燕 では な い が 、張 燕 伝 の裴 注引 ﹃ 九 州 春秋 ﹄ に、   ﹁ 霊帝 は 黒 山等 の諸 賊 を討 つ 事 が でき な い ので 、使 を遣 わし て 、楊 鳳 を黒 山 校 尉 と な し 、諸 山 賊 を領 さ せた ﹂と 見 え る。朝 廷 側 か ら働 き か けも 張 燕 の場 合 考 え られ る。

ついに朝

は燕

を平

し、

を預

せ、

挙げ

計報

のた

の官

でき

た。

  案 ず る に 、張 燕 は 平 難 中郎 将 では あ るが 、同 時 に郡 の太守 と同 じ 権 限 を 持 つ事 に な り、 事 実 上 は後 漢 朝 公 認 の 半 独 立状 態 を 作 り 出 し た の であ る 。 な お前 に引 用 し た ﹃九 州 春 秋 ﹄ では 、張 鳳 が 孝 廉 を挙 げ 、会 計 報 告 のた め の官 吏 を派 遣す る事 を 許 さ れ た事 にな って いる 。

は後

ち、

河内

め込

でき

て、

に近

た。

  案 ず る に、 張 鳳 が 先 に降 服 を願 い出 た の は 、 便 宜的 な も ので あ っ た か ら 、 独 立 が 公認 さ れ るや 、 そ の勢 いを 逆 に利 用 し て 、反 旗 を 飜 し たも の で あ ろう か。 た 父し こ の事 は ﹃ 三 国志 ﹄ 張 燕 伝 には 見 え な い。   こ こ に お い て 、 儁 を 河 内 太 守 に 任 命 し 、 家 兵 を 率 い て こ れ を 撃 た せ た 。       案 ず る に、朱 儁 は会 稽 郡 の 賊 を討 伐 し た の に始 ま り、 黄 巾 の平 定 に 至 る     ま で の経 歴 を認 めら れ 、 こ の た び も 黄 巾 余 賊 た る張 燕 の平 定 に遣 わ され     た。 そ し て此 の 時 も 家 兵 を 率 いて 出撃 し た。 これ は官 兵 の弱 体 化 、 ひ いて     は後 漢 王朝 の 衰 退 を意 味 す るが 、 朱儁 が 依 然 と し て 家兵 を保 持 し て いた事     は 、場 合 によ っ て は反 朝 廷 の立 場 に立 つ 可能 性 を 、少 く と も 武 力 の面 で は     有 し て いた事 を 示そ う 、 換 言す れば 曹 操 や劉 備 と 同 じ道 を歩 き 出 し て いて     も 、そ う 不 思議 で はな い状 態 に あ っ たと も いえ よ う 。 そ の 後 、 諸 賊 は 多 く 袁 紹 に よ って 平 定 さ れ た 。 そ の事 は 袁 紹 の 伝 ( ﹃ 後 漢 書 巻 七 十 四 列 伝 六 十 四 ) に 見 え る 。     案 ず るに 袁紹 伝 で は、 紹 が 初 平 二 (一 九 一 )年 、冀 州 牧 韓 馥 から そ の地   位 を奪 っ た 後 、 同 四年 穴月 に于 毒 を討 ち、 さ ら に 左 髭 丈 八、 劉 石 、 青 牛   角 、黄 龍 、 左校 、郭 大 宝 、 李 大 目 、 于氏 根 ら を 討 ち 、黒 山 の賊 張 燕 及 び屠   各 、烏 桓 ら と 戦 い、両 軍 と も に戦 いに 疲 れ 、退 いた と あ る。 ただ し ﹃ 三国   志 ﹄ 魏志 六 、袁 紹 伝 で は 、陳 寿 は紹 が 冀州 牧 とな っ た 経緯 は詳 述 し て いる   が 、黄 巾 余 賊 と の 戦 いに つい て は、 一 言 も触 れ て いな い 。 何 か拠 る 所 があ     る の であ ろう か。或 い は記 す には 足 り な いと 判 断 し た の であ ろう か 。 裴注     に引 かれ た ﹃ 英 雄記 ﹄ に は 、 こ の事 が見 え る から 、 范曄 は ﹃ 後 漢 書 ﹄ を 撰   す る にあ た り、   ﹃英 雄 記 ﹄ 等 の資 料 に よ っ て、 紹 と 黄巾 余 賊 と の戦 いを記     し た も の であ ろう。     陳 寿 は ﹃ 三 国志 ﹄ 魏 志 巻 一 、 武 帝紀 、初 平 二年 に、曹 操 が白 繞 を 、 翌 三   年 に 于毒 ・ 畦 固 ・ 匈 奴 於 夫 羅 を 撃 っ た 事 を 記 す 。 ま た ﹃ 資治 通 鑑 ﹄ 巻 六 .21

(8)

十 、 漢 紀 五 十 二 、初 平 四 年 の条 は、 . ほ ぼ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 袁 紹 伝 に よ っ て記 述 を 進 め て い る。   張 燕 は ﹃ 魏 志﹄巻 一 武 帝 紀 及 び ﹃後 漢書 ﹄ 巻 九 献 帝紀 に よれ ば 、建 安十 ( 二 〇 五) 年 に至 っ て 、 よう や く 漢朝 と 言 っ ても 、実 権 は曹 操 が 握 っ て い た のだ が 、 そ の 漢朝 に十 余 万 を 率 いて 降 服 し、 列 侯 に封 じ ら れ た 。 ま た ﹃魏 志 ﹄ 巻 八、張 燕 伝 に は、 燕 は袁 紹 と公 孫 瑣 と が 冀州 を争 っ た 時 に は 、 瑣 を助 け て紹 と 戦 っ て敗 れ、 次 にそ の袁氏 が 曹 操 と 戦 い、曹 操 が 勝 っ て冀 州 を定 め る に及 ん で、使 を遣 わし て王師 を助 け ん こと を求 め て、 平北 将 軍 に任 ぜ られ 、 安 国亭 侯 、邑 五百 戸 に 封 じ られ た と 見 え る。 初 平 四 年 よ り、 建 安十 年 に至 る 十 三年 間 、 独 立 を保 つ 事 が でき た のは 、当 時 、 陝 西 地方 は 董 卓 系 の軍 閥 が 卓 の死後 争 い合 いを 続 け 、河 北 では 曹操 と袁 紹 及 び そ の 遣 児 が 覇 を争 い、 い ず れ の地方 から も 、 こ の太 行 山 脈 を中 に し て、 東 西 に広 が る 地 域 に拠 る張 燕 に 干渉 す る余 裕 が な か っ た か ら であ ろう し 、張 燕 も天 下 の 清 勢 を観 望 し、 曹 操が 袁 氏 をほ ぼ 平 定 し た のを チ ャ ン ス と 見 て、降 服 し た も のであ ろう 。

張燕

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たが

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  案 ず る に 、董 卓 が 献帝 を擁 立 し たあ と 、 つ と め て、人 心を 収 撃 す る た め に、 いわゆ る清 流 派 の 流 れ を汲 む人 物 を 採用 しよ う と し た。 朱 儁 を 重 用 し た のも 、そ う し た董 卓 の人事 方 針 の 一 環 で あ っ た ろう 。 し か し、 一 方 で董 卓 が任 用 し たも の の中 に は 、都 を 離 れ 、地 方 官 に赴任 し て、 反 董 卓 の 陣 営

担す

てきた

。そ

ために、

董卓が清

流派

流れを汲む

に不

信感を持

ようにな

のこ

後漢

霽﹄

三国

志﹄

董卓

見え

。すなわち

国志﹄巻六、

董卓伝

初卓信任

尚書周恕城門校尉伍

瓊等用其所

挙韓馥劉岱孔伯張咨

張邀等出

宰州郡而馥

等至宮皆合兵

討卓卓聞之以為

琵瓊等通情売己皆

斬之

とあ

、 

漢書﹄列伝

十二、

董卓伝

国志﹄董卓伝より

、や

わし

く述

べてい

卓素聞天下同

疾閹官誅殺忠良及

其在事雖行

無道而猶忍性矯清擢

用羣土

乃任吏部

尚書漢陽周秘

中汝

南伍環

(

英雄記作恕)

尚書鄭公業

︹李賢注公業

名泰余人皆書名范

曄父名泰避其

諱耳)長史何願

等以処士

荀爽為司

染党錮者

陳紀韓融之徒皆為列

卿幽滞之士多所

顕抜以尚書

韓馥為

冀州刺史侍中劉岱為

亮州刺史陳留孔伯

為予州刺史潁川

張咨為南

陽太守卓所

親愛並

処顕

職但将校而已初平元

年慶等到官与袁

紹之徒十

余人各興義兵

同盟討卓而伍環周

秘陰為内主L

あり

いで

瓊秘

たの

は、次

る遷都

反対したため

とあ

の軍

の勢

た。

案 ず る に、袁 紹 を盟 主 と し た反 董 卓 軍 を 指 す の であ る。

は懼

しば

卿会

を開

に都

を遷

こと

を請

たが

これ

た。

  案 ず る に、 ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 七 十 二 、伝 六十 二 董 卓 伝 には 、公 卿会 議 を 開 い た時 、 長 安 遷都 に反 対 し た のは 、太 尉 黄 瑰 ・ 司 徒楊 彪 であ り 、 又 、伍 瓊 ・ 周 秘が 固 く 諌 め たと も 見 え る。 朱儁 の名 は 見 え な い。 な お 、瓊 と 秘が 殺 さ れ 、彪 ・ 碗 は 恐 懼 し て、 卓 の所 に謝 り に い っ た の であ っ た 。   ま た ﹃ 三 国志 ﹄ 巻 六、 魏 志 六董 卓 伝 裴 注 引 ﹃ 華 嬌漢 書 ﹄ に は 、楊 彪 と 董 卓 の 遷 都 を 廻 っ て の 議 論 を 載 せ 、結 果 彪 が 災 異 に こと よ せて 策 免 され たと 見 え る。 又 同 じ く裴 注 引 ﹃ 続 漢 書﹄ に は、 太 尉 黄瑰 ・ 司 徒 楊 彪 ・ 司 空 荀 爽 が とも に卓 の所 に いた り、 長 安 遷都 に ついて議 論 し 、そ の結 果 、卓 は彪 及 び 碗 の官 を 免 じ 、即 日、 皇帝 は 長 安 に赴 いた と あ る。

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