後漢
書
列
伝
六十
一
朱
儁
伝
訳稿
狩
野
直
禎
一
は
じ
め
に
朱
儁
は後
漢
末
に活
躍
し
た
人物
であ
り、
特
に皇
甫
嵩
と
並
んで、
黄
巾
の
乱
の平
定
に
は中
心
人物
と
し
て活
躍
を
し
た。
一
方
、
後
ち
に
三国
の
魏
・
蜀
を建
国
す
る曹
操
・
劉
備、
及
び
呉
の
初
代
皇
帝
孫
権
の父
親
孫
堅
も
こ
の
黄
巾
の
乱
平定
に、
か
かわ
って
いた事
は、
周知
の通
り
であ
る
。
黄
巾
の乱
平
定
に主役
と
し
て活
躍
し
た皇
甫
嵩
・
朱
儁
が
、何
故次
の時
代
を
作
る人
物
と
な
り得
な
か
っ
た
の
か、
乱
平
定
に
は極
め
て限
ら
れ
た
役割
し
か
はた
さ
な
か
っ
た曹
操
らが
、
三国
六朝
と
つ
づ
く
新
し
い時
代
を
切
り拓
き
得
た
の
かに
つ
いて
関
心
を抱
い
た。
本
稿
はそ
の
基
礎
と
な
る朱
儁
伝
の訳
注
作
成
に終
始
し
た
ので、
十分
な結
論
は得
て
いな
い
が
、
朱
儁
に
つい
て言
え
ば
、
後
漢
王
室
を
絶
対
視
す
る視
点
か
ら抜
け
出
られ
な
か
っ
た
と
ころ
に原
因
が
あ
る
の
で
は
な
いか
と思
わ
れ
る。
二
少
、
青
年
時
代
朱
儁
は、
字
は
公
偉
と
い
い
、
会
稽
上
虞
(
浙
江
省
上
虞
)
の人
であ
る。
少
い
時
に
父
を
亡
く
し
、
母
が
い
つも
絹
織
物
を
売
って
、
仕
事
と
し
て
い
た
。
案
ず
る
に
、儁
の母
が
主
人
亡き
後
、
絹
織物
を売
っ
て生活
の
た
つ
き
と
し
て
い
た事
は
あ
た
かも
蜀
漢
国
の
先
主
劉
備
の母
が
、夫
の死
後
、履
を売
り席
を
織
っ
て
生
業
と
し
た
のと
、
同
じ事
情
であ
っ
た
。
な
にも
此
の時
代
に限
っ
た事
で
は
な
か
ろ
うが
、未
亡
人
が子
供
を抱
え
て、
生活
をす
る
ため
に
は
、此
の様
な
事
が通
常
であ
っ
た
の
であ
ろう
。
儁
は
親
孝
行
で
有
名
と
な
り
、
県
の
門
下
書
佐
と
な
った
。
義
を
好
み
財
を
軽
ん
じ
た
の
で
、
郷
里
のも
の
は
、
こ
れ
を
敬
ま
った
。
案
ず
る
に、
﹁孝
﹂
﹁義
を
好
む﹂
﹁財
を軽
んず
る﹂
と言
っ
た事
は
、当
時
の
人
た
ち
の賞
讃
す
る行
為
であ
っ
た
。
此
の事
は改
め
て
説
く
ま
でも
な
い
事
で
はあ
ろ
うが
附
記
す
る。
時
に
同
郡
の
周
規
が
、
三
公
の
府
に
辟
召
さ
れ
た
。
洛
陽
に
出
発
す
る
に
あ
た
り
、
郡
の会
計
の庫
か
ら
銭
百
万
を
借
り
て
衣
裳
代
と
し
た
が
、
後
に
な
って
ね
わ
か
に
督
促
ざ
れ
た
。
規
の
家
は
貧
し
く
て
、
借
り
た
銭
を
返
却
す
る
備
え
が
な
か
っ
た
。
案
ず
る
に、
三
公
の
府
に辟
召
さ
れ
た
場合
に
は、
衣裳
代と
いう
名
目
で
、金
銭
が
必要
であ
ったら
し
い。
三
公
の府
に群
召
され
る事
は
名誉
で
はあ
る
が
、同
時
に
莫
大
な出
費
も
伴
う事
に
な
る。
或
いは公
府
辞
召
の制
が始
めら
れ
た
時
に
は、
な
か
っ
た事
かも
知
れ
な
いが
、
後
漢
末
に
は極
め
て普
通
の事
でも
あ
っ
た
のであ
ろ
う
。そ
し
てそ
の出費
を補
う
た
め
に
、任
官
後
に、
種
々
な形
で蓄
財
を行
っ
た
15
窓
史
事
は
想像
に
難くな
い
。
百
万
銭と
い
う
の
は
個人が用意を
す
るには
あまりに
も
多
額と
見
ら
れ
るか
らである
。
なお
返還を求められた
際
、
規と郡
の
役人と
の
間
に
、言
葉
の
上で
の
行
き
違
い
が起
こ
っ
たようで
あ
る
事、後段
の
文
章
より
推測される
。
儁
は
そ
こで母
の商
売
用
の絹
織
物
を
窃
ん
で、
規
のた
め
に弁
償
し
て
や
っ
た。
案
ず
る
に、
原
文
に
は
﹁
規
の
ため
に
解
対
す﹂
と
あ
り
、
﹁規
はう
け
こた
え
(
11
占
対
)
を
記
録
され
て
い
た
の
で、儁
は
︹規
の︺
た
め
に銭
を
用
意
し
て
、そ
の
事
件
を解
決
し
た﹂
と
李賢
の注
が
加
え
ら
れ
て
い
る。
母
は
財
産
が
な
く
な
って
し
ま
った
の
で
、
深
く
怒
り
、
儁
を
責
め
た
。
儁
が
言
った
。
﹃
小
さ
な
損
失
は
大
き
な
利
益
に
あ
た
る
の
だ
。
初
め
は
貧
乏
で
も
後
に
は富
豪
に
な
る
のが
必
然
の
理
だ
﹂
。
と
。
三
郡
吏
時
代
本
県
(
上
虞
)
の長
で
、
山
陽
郡
出
身
の
度
尚
は
儁
に
会
って
、
彼
を
め
ず
ら
し
い奴
だ
と
し
、
会
稽
郡
の太
守
の
韋
毅
に
推
薦
し
た
の
で
、
儁
は
郡
の役
職
を
歴
任
す
る
こと
に
な
った
。
案
ず
る
に
、
﹃
後
漢
書
﹄
巻
三
八
、列
伝
二八
の度
尚
伝
注引
﹃
謝
承書
﹄
によ
れ
ば
、度
尚
は上
虞
長
に
赴
任
し
、儁
を
門
下書
佐
に抜
擺
し
た
が
、儁
の人
柄
に感
嘆
し
、
﹁
不凡
の操
﹂
あ
り
と
し
たと
見
え
る。
な
お尚
は上
虞
長
から
文安
(
河
北
省
文
安
)
の令
に移
り
、
延熹
五
(
一
六
二)
年
にお
こ
っ
た長
沙
・
零陵
の賊
の平
定
に活
躍
し
た
の
であ
る
か
ら
、儁
が
門
下書
佐
に抜
懼
され
た時
期
も
、
延熹
五年
を
去
る
こと遠
か
ら
ぬ、
一
五〇
年
代
後
半
の
事
と推
測
さ
れ
る。
後
に
、
会
稽
太
守
の
尹
端
は儁
を
主
簿
と
し
た
。
案ず
る
に、
会
稽
太
守
の韋毅
が
何
時
、
此
の地
を去
り、
尹
端が
何
時
、
会
稽
太
守
に
任
じ
られ
た
の
かは
っ
き
り
し
な
い。
と
こ
ろ
で、
後
漢
書巻
七
、
桓
帝
紀
に
﹁
延熹
九
(
一
六
六)
年
、陳
留
太
守
韋毅
が
臧
に坐
し
て自
殺
し
た﹂
と
いう
記
事
が
あ
る。
こ
の
陳
留
太
守
韋
毅
が会
稽
太
守
であ
っ
た韋
毅
と
、同
一
人
物
であ
っ
た
可能
性
は
高
いであ
ろう
。
こ
の
事
に
つ
い
て
は
、
藤
田至
善編
﹃
後
漢
書
語彙
集
成
﹄
(
一
九
六
、京
都
大
学
人文
科
学
研
究
所)
は同
一
人
物
と
し
て扱
っ
て
いる
が
、
李
裕
民
編
﹃後
漢
書
人
名
索引
L
(
一
九
七
九
、中
華
書
局
)
に
は
、桓
帝
紀
に
見
え
る韋
毅
と
、朱
儁
伝
に見
え
る
韋毅
と
を
別
人
と
し
て扱
っ
て
お
り
、
しか
も
朱
儁
伝
に見
え
る
韋
毅
を
霊
帝
時
代
(一
六七
∼
一
八
九)
の会
稽
太
守
と明
言
し
て
い
る。
或
いは
李氏
の言
う
よう
に
、鋼
人
かも知
れ
ぬが
、
一
まず
は藤
田氏
の扱
わ
れ
たよ
う
に
同
一
人
物
と
考
え
ておく
。
熹
平
二
(一
七
三
)
年
、
端
は
賊
の許
昭
を
討
って
失
敗
し
、
負
け
て
し
ま
っ
た
の
で
、
︹揚
︺
州
の
刺
史
か
ら
奏
上
さ
れ
て
棄
市
(
死
刑
)
の
罪
を
受
け
る
事
に
な
った
。
案
ず
る
に、許
昭
に
つい
て
は、
﹃
後
漢
書
﹄
巻
八
霊帝
紀
、
熹
平
元
(一
七
二)
年
、十
一
月
の条
に
﹁十
一
月
、会
稽
の人
許
生
が
自
ら越
王と
称
し
て
、郡
県
を
寇
し
た﹂
と
あ
り
、注
引
の
﹃
東
観
記﹄
に
は
、
﹁
会
稽
の許
昭
が
衆
を
聚
め
て自
ら
大
将
軍
と
称
し
、
父
の許
生
を立
てて越
王と
なし
、郡
県
を攻
め破
っ
た。
﹂
と
あ
る。
同
じ記
載
は
﹃後
漢書
﹄
志
十
二
﹁
天
文志
﹂
にも
見
え
る。
又
同
書
巻
六
八、
伝
五
八
臧
洪
の伝
には
、許
昭
を妖
賊
と
し
て扱
い、
﹁
会
稽
の妖
賊
許
昭
が
、兵
を
句
ヘ
ヘ
へ
章
(
浙
江
省
慈
谿
)
に起
こ
し
、自
ら
大将
軍
と
称
し
、
そ
の父
許
生
を
立
て
て越
王
と
な
し、
城
邑
を
攻
め破
り
、衆
は
万
をも
っ
て数
え
た﹂
と記
す
。
結
局
此
の乱
は
尹
端
の
失
敗
はあ
っ
た
が
、臧
洪
の父
、旻
に
よ
っ
て平
定
され
た
の
であ
っ
た。
ま
た
、此
の乱
の平定
に
は
、孫
堅
も
︼
と
役
買
っ
て
いた
よう
で、
﹃
三国
志
﹄
呉
志巻
一
、孫
破
虜
伝
に
は
、孫
堅
が
十七
歳
(
一
七
三年
、憲
平
元
年
)
の時
、
父
と
とも
に海
賊
胡
玉
を平
定
し
、呉
郡
の仮
尉
に任命
さ
れ
た記
事
に
続
いて
、
﹁会
ヘ
ヘ
ヘ
へ
稽
の
妖
賊
許
昌
が
句章
に起
ち上
っ
て
、自
ら陽
明
皇帝
と称
し
た。
其
の子許
韶
と
と
も
に
諸
県
を煽
動
し
、衆
は
万を
も
っ
て数
え
た。
堅
は
郡
の司
馬
と
し
て
、精
鋭
で勇
敢
な
も
の
を召
し、
千
余
人を
得
た
。州
・
郡
の兵
と
合体
し
て討
ち、
これ
を
破
っ
た。
こ
の
年
は熹
平
元
年
であ
っ
た﹂
と見
え
る。
賊
の諱
が昭
と
昌
と
な
っ
て
文
字
は違
うが
、乱
の起
っ
た
年も
熹
平
元
年
と同
じ
であ
る
か
ら、
同
一
人物
と
み
て
よ
い
であ
ろう
、果
し
て裴
松之
は
﹁霊
帝紀
に
言
っ
て
いる
、昌
はそ
の父
を越
王
と
し
た﹂
と
注
し
てお
り
、許
昌
と
許
昭
同
一
人
物
であ
る
こと
は疑
いな
いであ
ろ
う
。
許
昭
の
乱
は
こ
の
よ
う
に
し
て
平
定
さ
れ
た
の
だ
が
、
最
初
、
昭
が
乱
を
起
こ
し
た
時
、
失
敗
を
し
た
尹
端
は
ど
う
な
っ
た
か
。
朱
儁
伝
の
口語
訳
を
続
け
て
い
こ
う
。
儁
は
そ
こ
で
粗
末
な
衣
服
を
ま
と
い
、
聞
道
を
行
き
、
数
百
金
を
も
って
京
師
に
行
き
、
所
管
の
役
人
に
賄
賂
を
送
り
、
州
か
ら
中
央
に
送
ら
れ
て
来
た
上
奏
文
を
訂
正
さ
せ
る事
に
成
功
し
た
。
そ
れ
で
端
は
左
校
に
輸
作
さ
れ
る
(
流
刑
)
に
止
ま
った
。
し
か
も
端
は
罪
が
軽
く
な
った
事
を
喜
ん
だ
も
の
の、
そ
の
理
由
は
分
ら
な
か
った
し
、
儁
も
ま
た
つ
い
に
そ
の
事
を
端
に
言
う
事
は
な
か
った
。
案ず
る
に当
時
も官
界
が
腐
敗
し
て
いた事
が
よく
分
か
る。
公
正
であ
る
べき
裁
判
が
、
或
る
いは役
人
の処
分
が
、金
銭
に
よ
っ
て左
右
さ
れ
て
いた
。
そ
れ
に
し
て
も
、数
百
金
と
いう
のは
、
か
って
の周規
のた
め
の
費
用
に対
し
、
較
べ
よう
も
な
い
大
金
であ
る。儁
は
これ
を
ど
のよう
に
し
て工
面
し
た
の
であ
ろ
う
か。
も
し私
財
を投
じ
たと
す
れば
、彼
が
財
を軽
んず
ると
評
さ
れ
る理
由
も
、
こ
こらあ
たり
に
あ
る
のだ
ろう
。
四
交
阯刺
史時
代
後
に太
守
の徐
珪
が
儁
を
孝
廉
に
推
挙
し、
再遷
し
て蘭
陵
(
山
東
省繹・
)
の
令
に任
命
さ
れ
た
。
案ず
るに
、
儁
が
郡
の下
級官吏として、
使われて
い
た
時
に
、少くと
も
三
人
の
太守が交替した
こ
とに
な
る
。そして
孝廉として
中央
に
推薦されて、
彼
は
当
時の
慣例通り、
蘭陵県
の
令とな
っ
た。
儁
は人
に比
べ
て、
政
治
に対
し
て
のす
ぐ
れ
た才
能
を持
っ
て
い
た
の
で
、
や
が
て蘭
陵
県
の属
し
て
い
た東
海
国
の相
に
よ
っ
て中
央
に報
告
され
た。
た
ま
た
ま交
阯
で賊
達
が
並
び
起
こる
が、
こ
の地方
の刺
史
や太
守
たち
は
軟
弱
で、
これ
を
防ぐ
事
が
でき
な
か
った。
ま
た
交
阯
の
賊
梁
龍
ら
万余
人
が、
南
海
郡
の
太
守
孔
芝
と
と
も
にそ
む
き
、
郡
県
を
攻
め破
っ
た。
光
和
元
(一
七
八)
年
、
す
なわ
ち朱
儁
を
交
阯
の刺
史
に
任
命
し
た。
案ずるに、
霊帝紀には
﹁光和元年、
春
正月に
、合浦
・
交
阯の
烏濤蛮が叛
き、九
真
・
日
南
の
諸
郡
の
民
を
招き引き入れて、
郡県を攻め
破
っ
た
﹂と見え
る
。梁
龍
との
関係
は
よく
分
らない
。
朝
廷
は儁
に命
じ、
故
郷
の
会
稽
郡
を
通
っ
て、
家
兵
を
募
ら
せ、
そ
の上
で
、
調
発
し
た官
兵と
合
わ
せ
て、
五千
入
の兵
と
な
っ
た。
案ずるに、
朱儁は
故
郷に
あ
っ
て
は、家兵
を引き連れる
勢力ま
で
に至
っ
て
い
た
の
で
あ
る
。此
の
点も母親
に
育てられ、
裕福
で
な
い
生活
か
ら出発した
劉
備と
似通
っ
ている
。
儁
は
二
つ
の
道
に分
れ
て交
州
に入
る事
に
し
た。
交
州
と
の
界
に行
き
つ
く
と、
軍
隊
を引
き
留
め
て前
進
さ
せず
、
先
ず
使
者
を
派
遣
し
て、
敵
の拠
る郡
に
入
っ
て、
陣
の備
え
のあ
る所
、
無
い所
を
観
察
さ
せ、
自
分
の軍
の威
徳
を
天
下
に明
ら
か
にし
て、敵
の心
を
震
え
あ
が
ら
せ
た。
こ
う
し
て
お
い
て、
交
州
所
属
の七
郡
の官
兵
と
共
に
進
ん
で
賊
に
逼
り、
つい
に梁
龍
を斬
っ
た。
こ
う
し
て降
る者
は数
万
人
に及
び
、
一
ケ
月
足
らず
で
悉
く
平定
し
た。
儁
はそ
の
功
績
で都
亭
侯
千
五
百
戸
に
封
ぜ
ら
れ、
金
五
十斤
を賜
わ
り、
諌
議
大
夫
に
徴
され
た。
五
朱
儁
と黄巾
の
乱
e
潁川
の
賊
紀
元
一
八
四年
、
黄
巾
の乱
が
起
こる
に
及
ん
で、
中
央
の大
臣
達
の多
く
が
儁
の才
略
のあ
る
こと
を
推
薦
し
た
ので、
右
中
郎
将
に任
ぜ
ら
れ
、
節
を
持
っ
て、
左
中
郎
将
の皇
甫嵩
と
と
も
に、
潁
川
郡
・
汝
南
郡
・
陳
国
と
い
っ
た
、
現
在
の河
南
省
東
南
部
の賊
を
討
ち、
こと
ご
と
く
これ
を破
っ
た。
17
窓
史
案
ず
る
に
、後
漢
書
巻
七
一
、
列
伝
六
一
の皇
甫
嵩
伝
に
は次
の
よう
に
見
え
る。
﹁黄
巾
の乱
が
お
こ
り
、
群
臣
を
召
し
て会
議
し
た
と
こ
ろ、
北
地
郡
(
陝
西省
環
)
の太
守
であ
っ
た皇
甫
嵩
は、
党
錮
の禁
を解
く
のが
よ
い事
、
宮
中
に蔵
われ
て
いた銭
をど
ん
ど
んと
出し
、
ま
た宮
中
の西
園
にあ
る馬
を放
出
し
て、
軍中
に
分
け
て
や
る
のが
よ
い事
など
を
提
案
し
た。
霊
帝
は
これ
に従
っ
た
。
こ
こに
お
い
て天
下
の精
鋭
な
兵
を発
し、
ひ
ろく将
軍
を選
び
、
皇
甫嵩
を左
中
郎
将
と
し
て、
節
を持
ち、
右
中
郎将
朱
儁
と
と
も
に
、
五校
尉
や
洛
陽
申
心
の三
河
地
方
の騎士
を
発
し
、精
鋭
な
る
軍
隊
を募
り、
四
万余
人
を得
た
。
嵩
と儁
が
そ
れ
ぞ
れ
一
軍
を率
いて、
と
も
に
潁
川
の黄
巾
を
討
っ
た
。
儁
はす
す
ん
で賊
の波
才
と
戦
い、戦
争
に敗
れ
た
。
嵩
はそ
こ
で進
ん
で長
社
を
保
っ
た。
波
才
が
大衆
を
引
き
い
て城
を
囲
んだ
。
嵩
の兵
は少
な
く
、
軍
中
のも
の
は皆
恐
れ
た。
そ
こ
で嵩
は軍
吏
を
召
し
出
し
て
言
った
。
﹁(
孫
子
も
言
っ
て
い
る
よう
に)
、
戦
いに
は不
思
議
な変
化
と
いう
も
のが
あ
っ
て、
数
の多
寡
に
よ
っ
て
勝
敗
が
定
ま
る
も
の
で
は
な
い。
(
李
賢
の注
に
は
﹁
孫
子兵
法
日。
凡
戦
者以
正
合
、
以
奇
勝
者
也
。故
善
出
奇
。無
窮如
天
地
。
無
竭如
江海
。
戦
勢
不
過
奇
正。
奇
正
之
変
。
不
可勝
也
﹂
と
あ
る
)今
、賊
は草
を
使
っ
て
陣営
を作
っ
て
いる。
火
事
を起
こし
易
いのだ
。
も
し
夜
に
乗
じ
て火
を
放
っ
た
な
らば
、
き
っ
と
大変
驚
く
事
であ
ろう
。我
が
軍が
これ
に乗
じ
て兵
を出
して
之
を討
ち、
四
方
か
ら合
体
す
れ
ば
、
あ
の戦国
時
代
に斉
の田単
が挙
げ
た火
攻
の
功
績
と同
じも
のが
成
し遂
げ
ら
れ
よ
う
そ
﹂
と。
(
李
賢
注
、
﹁
田単
斉
将
。
守
即
墨
城
。燕
師
攻
城
。
田単
取
牛
千
頭
。
衣
以
五采
。束
矛盾
於
其角
。繋
火
於
其
尾
。
穿
城
而出
。
城
上
大
譟。
燕
師
大
敗
。
事
見
史
記
﹂)
。
其
の夕
、
遂
に大風
が
吹
いた
。
嵩
は
そ
こ
で軍
隊
に命
令
し
て
苣
を
束
ね
て城壁
に
登ら
せ、精
鋭
な兵
隊
で、
ひ
そ
か
に囲
み
の外
に
向
か
わ
せ、
火
を放
って大
いに
とき
の声
を
挙
げ
さ
せ
、城
壁
の上
で
は燎
を
挙
げ
て之
に呼
応
さ
せ
た。
嵩
はそ
こで鼓
を撃
って敵
陣
に走
り込
ま
せ
た
の
で、
賊
は
驚
き乱
れ
て
逃
げ
出
し
た。
た
ま
た
ま霊
帝
の
派
遣
し
た騎
都
尉
曹
操
が兵
を将
いて
到着
し
た
の
で
、嵩
・
操
は朱
儁
とと
も
に、
兵
を
合
し
てさ
ら
に
戦
い、
大
い
に之
を
撃
ち破
り
、斬
首
数
万級
に及
ん
だ。
(
陳
寿
﹃
三
国志
﹄
魏
志
巻
一
、武
帝
紀
に
は、
﹁光
和未
。
黄
巾
起
、
拝
騎都
尉。
討
潁
川
賊
﹂
と
あ
るだ
け
で、
皇甫
嵩
。
朱
儁
、波
才
と
言
っ
た語
旬
は
一
切見
えな
い。
)朝
廷
は嵩
を都
郷
侯
に封
じ
た
。
嵩
と
儁
は勝
に
乗
じ
て進
み、
汝
南
∵
陳
国
の黄
巾
を
討
ち、
波
才
を
陽
糴
(河
南
省
禹
)
に
追
い、
彭
脱
を
西華
(
河南
省
西華
)
に撃
っ
て
、並
び
に之
を破
っ
た
の
で、
其
の他
の賊
は
降
服
し
た
り
、散
り散
り
にな
っ
た
り
し
て
、三
郡
は
ことご
と
く
平
定
され
た。
以
上、
皇
甫
嵩
伝
に
よれ
ば
、
波
才
の賊
平
定
に
あ
た
っ
て皇
甫
嵩
の功
績
が
第
一
であ
っ
た。
にも
か
かわ
らず
、
朱
儁
伝
に
は次
のよ
う
に見
え
る。
皇
甫嵩
はそ
こで
そ
の
有
様
を上
言
し
、
功
を
儁
の力
のせ
いに
し
た
の
であ
る
。
そ
こで進
ん
で
西郷
侯
に封
せら
れ
、鎮
賊
中
郎将
に遷
っ
た。
ちな
み
に皇
甫
嵩
は都
郷
侯
に封
じ
ら
れ
た。
六
朱儁
と黄
巾
の
乱
O
南陽
の
賊
時
に
南
陽
の
黄
巾
、
張
曼
成
が
兵
を
起
こし
﹁
神
上使
﹂
を
称
し、
衆
は十
余
万、
郡守
の
楮
貢
を殺
し、
宛
の城
下
に屯
す
る事
、
百
余
日
に及
ん
だ。
貢
の
後
任
の
太
守
の
秦
頡
は撃
っ
て曼
成
を
殺
し
た
が、
賊
はさ
ら
に趙
弘
を大
将
と
し、
衆
はよう
やく
盛
んと
な
り
、
ついに
十
余
万
に達
し、
宛
城
に拠
っ
た。
儁
は
荊
州
刺
史
の徐
瓔
及
び
秦
頡
と
兵
を
合
わ
せ、
一
万
八千
人
に及
んだ
。
弘
を
囲
む事
、
六月
よ
り
八月
に至
っ
たが
抜
け
な
か
った。
役人
達
は上
奏
し
て、
儁
を
呼び
返
そ
う
と
し
たが
、
司
空
の張
温
が
上疏
し
て
申
しあ
げ
た。
﹁
昔
、
秦
は白
起
を用
い、
燕
は楽
毅
を
任
じ、
皆
長
い
年
月
を過
ご
し
て、
敵
に克
つ
事
が
出
来
ま
し
た。
(
李
賢
注
に
は
﹃
史
記
﹄
の
引
用が
あ
るが
、
省
略
す
る)
儁
は潁
川
を討
っ
て、
功
績
が
あ
り、
軍
隊
を
引
き
つれ
て南
に
向
い
、
策
戦
もき
ち
ん
と設
け
て
お
り
ます
。
戦
争
に臨
んで将
軍
を代
え
る
の
は、
兵家
のに
く
む
と
ころ
です
。
時
間
を
与
え
て、
そ
の成
功
を督
責
さ
れ
る
のが
よ
ろし
いで
し
ょうし
と
。
霊
帝
はそ
こ
で召
し
返
す
のを
や
め
た。
窓
史
あ
っ
た
か
ら
、乱
脈
な
行
為
があ
り、
臧
財数
億
に及
び
董
太
后
は
瓔
の赴
任
にあ
た
り、
彼
に
圧力
を
かけ
、忠
の事
を
よ
ろし
く
と頼
んだ
が
、
瓔
は
﹃私
は国
家
のた
め
に働
く
ので
、
いう
こと
は
聞
け
な
い﹄
と
答
え
た
。董
太
后
は怒
り
、忠
を
にわ
か
に司
隷
校
尉
に遷
し
、今
度
は忠
が
謬
に圧
力
を
か
け
た。
し
かし
膠
は荊
州
に致
ると
、
忠
の
臧
銭
一
億
を暴
き
、大
司
農
に張
簿
を
送
りそ
の罪
を
暴
き
、
あ
わ
せ
て
五郡
太
守
及
び
そ
の
属
県
の汚
職
者
を
上奏
し
た
の
であ
る。
張
曼
成
が
殺
し
た楮
貢
は
、
おそ
らく
張
忠
の
後
任
と
し
て南
陽郡
の
太
守
に
赴
任
し
てき
たも
ので
あ
ろ
う
。南
陽
の黄
巾
平
定
後
も
、張
忠
は膠
を
怨
み
に思
い、
宦官
とグ
ル
にな
り
、膠
の
罪
を
で
っ
ちあ
げ
、罪
にあ
て
よう
と
し
たが
、
膠
には賊
を破
る
の功
が
あ
っ
た
の
で、官
を免
ぜ
ら
れ
家
に帰
る
こと
にな
っ
た
。後
又
た官界
に復
活
し、
袁
術が
盗
み
持
っ
て
いた国
璽を
献帝
に献
上
し
た
りし
て
いる。
と
ころ
で、
﹃
三
国
志﹄
巻
四十
六、
呉志
一
、孫
破
虜
伝
によ
れば
、孫
堅
が
朱
儁
と
行動
を
共
にし
、
汝
・
頴
の黄
巾
の平
定
から宛
城
に拠
っ
た
余賊
の平
定
にま
で、
協
力
し
た
と見
え
る。
孫
堅が
鰲
平
元
年
に
会
稽
の妖
賊
許
昌
を
平
定
し
た
こと
は前
に述
べ
たが
、そ
の際
に
功
をも
っ
て、
塩漬
(
江
蘇
省
塩
城
)
の
丞
に除
せら
れ、
数
年
にし
て吁
蹌
(
安
徽
省
吁
胎)
の丞
、
さ
ら
に
下郵
(
江蘇
省
那)
の丞
に
と遷
っ
て
い
っ
た。
な
お裴
注引
江表
伝
には
﹁
堅
歴佐
三県
、
所在
有
称
、吏
民親
ヘ
へ
附
、
郷
里
知
旧
、好
事
少
年
、往
来
者
常
数
百
人
、
堅接
撫
待
養
、有
若
子
弟
焉
﹂
と
あ
る。
中
平
元年
に黄
巾
の乱
が勃
発
す
ると
、
中
郎将
朱
儁
は堅
を佐
軍司
馬
に
任
じ
ても
ら
う様
に請
い、
許
さ
れ
た。
堅
の郷
里
の
少
年
で、
下
郵
に
いたも
のは
皆
、
従
わ
ん
こと
を願
った
。
さ
て
堅
は
又
商
旅
及び
淮
・
泗
地
方
の
精
兵
を募
っ
て
、千
人
余
りを
得
、儁
と
力
を
合
わ
せ
て奮
撃
し
、
堅
の向
う
と
ころ
、敵
は前
進
す
るも
のが
な
か
っ
た。
裴
注引
呉書
で
は、
堅
は
勝
に乗
じ
て深
入
し
たが
、西
華
(
河南
省
西華
)
に
お
いて
利
を失
い、
創
を被
っ
て地
に仆
れ
、部
下
に救
い出
さ
れ
た話
が
見
え
る。
そ
れ
は
さ
て
おき
、陳寿
の本
文
は
、汝
、潁
の
賊
は苦
し
み、走
っ
て宛
城
を保
っ
た
と
続
く
、堅
は自
身
面
に当
り、
城
壁
に登
っ
て先
登
を
切
っ
て
入
り、
遂
に
大
い
に之
を破
っ
た。
儁
は実
状
を皇
帝
に報告
し
た
の
で、
堅
は別
部
司
馬
に拝
さ
れ
た
。
裴
注
は
こ
こ
に
﹃
続
漢書
﹄
によ
っ
て儁
の略
伝
を
引
いて
いるが
、
黄巾
の
乱
平
定
に
至
るま
で
のと
こ
ろ
、特
に取
り
あげ
る
こと
は
記
し
て
いな
いが
、車
騎
将
軍
に
任
ぜ
られ
た
と
いう点
は、
﹃
後
漢書
﹄
に見
え
な
いと
こ
ろ
であ
る
。
七 朱
儁
と黄巾
の
乱
⇔ 張
燕
母
が
死
んだ
の
で、
喪
に服
す
るた
め
官
を
去
っ
た。
再
び起
家
し
て将
作
大
匠
と
な
り、
そ
し
て少
府
・
太
僕
へ
と転
じ
た。
黄
巾
の賊
の後
、
復
た黒
山
・
黄
竜
・
白
波
・
左校
・
郭
大
賢
・
于
氏[
根
・
青
牛角
・
張
白
騎
・
劉
石
・
左
髭
・
丈
八
・
平
漢
・
大
計
(
九
州
春
秋
に
は大
校
に
作
る、
李
賢
注
)・
司
隷
・
掾
哉
(
九
州
春
秋
に
は縁
城
に作
る
。
李
賢
注)・
雷
公
・
浮
雲
・
飛
燕
・
白
雀
・
楊
鳳
・
于
毒
・
五鹿
・
李
大
目
・
白
繞
・
畦
固
.
苦
哂
へ
九
州春
秋
に
は苦
鰌
に作
る。
李
賢
注
)
の徒が
、
並
び
に
山谷
の
間
に起
ち
上
り、
そ
の
数
は数
えき
れ
な
い
ほど
で
あ
っ
た。
そ
の
大
き
な声
を
出
す
も
の
は雷公
と称
し、
白
馬
に騎
るも
の
は張
白
騎
と
称
し、
身
軽
に動
く
も
の
は
飛
燕
と
言
い
、
髭
の
多
いも
の
は于
琢
根
と
号
し
た。
(
李賢
注
に
は
左
伝
﹁
于
思
于思
、
弃
甲
復
来
﹂
に対
す
る杜
預
注
﹁
于思
、
多
須
︹賛
鬚
︺
之
貌
也
﹂
を
引
いて
いる)
大
き
な目
を
し
たも
の
は大
目
と
し
た。
こ
のよ
う
に称
号
に
は
そ
れ
ぞ
れ
因
る所
が
あ
る
のだ。
大
き
な
も
の
は
二∼
三
万、
小
さ
な
も
の
は
六
∼
七
千
で
あ
っ
た。
案
ず
る
に、此
れ
らが
黄
巾
の余賊
と
呼
ば
れ
る
も
の
であ
ろう
。彼
らが
山
谷
に
拠
っ
た
と
いう
の
は興
味
のあ
ると
こ
ろ
で、
こ
う
い
った
地形
の複
雑
な
と
ころ
が
、賊
を働
く
の
に都
合
が良
か
っ
た
の
であ
ろ
う。
江
東
の山越
を思
わ
せる
。
な
お
こ
こに挙
げ
ら
れ
て
いるも
の
の中
で
、張
白騎
、
劉
石
.
平
漢
.
大
計
.
司
隷
・
掾
哉
∵
雷公
・
浮
雲
・
白
雀丁
楊
鳳
・
于
毒
・
五
鹿
・
白
繞
・
畦
固
.
苦
哂
の
諸
集
団
は
﹃
後
漢
書
﹄
にお
いて
は
、
こ
の朱
儁
伝
に
し
か、
そ
の名
は
見
え
な
いが
、
子
毒
・
白繞
・
畦
固
等
は
陳
寿
﹃
三国
志
﹄
中
に
少
しく
言
及
す
る
所が
あ
る。
賊
の総
大
将
は常
山
(
河
北
省
正
定
)
の人
張燕
で、
身
軽
です
ば
し
こく
、
勇
敢
であ
っ
た
の
で軍
中
のも
の
は
﹁
飛
燕
﹂
と
呼
んで
いた。
よ
く
兵
隊
た
ち
の心
を
つか
ん
で
いた。
そ
こ
で
中
山
(
河
北省
定)・
常
山
・
趙
(
河
北
省
邯
鄲
)・
上
党
(
山
西省
長
治
)・
河内
(
河
南
省
懐
慶
)
の
山
谷
に
拠
る
賊
た
ち
と
、
互
い
に交通
し、
そ
の衆
は
百
万
に
な
り、
黒
山賊
と
号
し
た。
黄
河
の北
の諸
郡
県
は並
び
に
そ
の
害
を
被
った
が
、
朝
廷
は
討
つ
こ
と
が
でき
な
か
っ
た。
燕
はそ
こで
使
者
を
繊
し
て洛
陽
に至
り
、
上奏
し
て降
ら
ん
こ
と
を
願
い
出
た。
案
ず
る
に、
﹃
三
国志
﹄
巻
八、
魏志
八、
二公
孫
陶
四張
伝
の中
、
四張
の
人
が
張
燕
であ
る。今
はそ
の全
文
を
紹介
す
る
のを
省
くが
、そ
れ
によ
る
と
、本
の
姓
は楮
であ
っ
た
と
いう
、
張
牛
角
の部
下と
し
て活躍
し
、牛
角
が
戦
死
し
た後
、
仲
間
に推
さ
れ
て
そ
の部
衆
を
帥
い、姓
も
張
と
改
め
た。
袁
紹
が
公
孫
瓊
と冀
州
を
争
っ
た際
に
は、
遭
を助
け
たと
見
え
る
。
な
お
こ
の張
燕
伝
の裴
注
引
張
瑠
﹃
漢紀
﹄
に
は、左
校
・
郭
大
宝
・
左
髭
丈
八が
一
つ
のグ
ループ
を
な
し
て
いた
よう
に
記す
。
又
た案
ず
る
に
﹃
三国
志
﹄
も
﹃
後
漢書
﹄
張
燕
伝
も
、燕
が
人
を
遣
わ
し
て
、朝
廷
に
降
ら
ん事
を
乞
う
た
と見
え
る。張
燕
は戦
って
朝
廷
の
軍
に勝
っ
事
が
でき
る
のに
、敢
え
て降
服
を申
し出
た
のは
何故
であ
ろう
か
。朝
廷
に降
服
す
る事
に
よ
り
、賊
で
は
なく
な
っ
た
と
い
う
名
分
を得
よう
と
し
た
のであ
ろう
か。
ま
た朝
廷
と
し
て
は
、各
地
の豪
族達
が
よう
や
く反
朝
廷
の気持
ち
を表
面
に出
し
て
来
た際
であ
る
か
ら
、燕
の武
力
を逆
に利
用
し
て、
これ
ら諸勢
力
に対
抗
さ
せ
る
メリ
ッ
トが
あ
ると
判
断
し
た
のであ
ろう
。
そ
れ
を思
わ
せ
るも
のと
し
て
、対
象
は張
燕
では
な
い
が
、張
燕
伝
の裴
注引
﹃
九
州
春秋
﹄
に、
﹁
霊帝
は
黒
山等
の諸
賊
を討
つ
事
が
でき
な
い
ので
、使
を遣
わし
て
、楊
鳳
を黒
山
校
尉
と
な
し
、諸
山
賊
を領
さ
せた
﹂と
見
え
る。朝
廷
側
か
ら働
き
か
けも
張
燕
の場
合
考
え
られ
る。
ついに朝
廷
は燕
を平
難
中
郎
将
に
任
命
し、
河
北
諸
山
谷
の
事
を預
か
ら
せ、
毎
歳
孝
廉
を
挙げ
、
会
計報
告
のた
め
の官
吏
を
派
遣
す
る
事
が
でき
た。
案
ず
る
に
、張
燕
は
平
難
中郎
将
では
あ
るが
、同
時
に郡
の太守
と同
じ
権
限
を
持
つ事
に
な
り、
事
実
上
は後
漢
朝
公
認
の
半
独
立状
態
を
作
り
出
し
た
の
であ
る
。
な
お前
に引
用
し
た
﹃九
州
春
秋
﹄
では
、張
鳳
が
孝
廉
を挙
げ
、会
計
報
告
のた
め
の官
吏
を派
遣す
る事
を
許
さ
れ
た事
にな
って
いる
。
燕
は後
ち、
河内
に
攻
め込
ん
でき
て、
洛
陽
に近
づ
い
た。
案
ず
る
に、
張
鳳
が
先
に降
服
を願
い出
た
の
は
、
便
宜的
な
も
ので
あ
っ
た
か
ら
、
独
立
が
公認
さ
れ
るや
、
そ
の勢
いを
逆
に利
用
し
て
、反
旗
を
飜
し
たも
の
で
あ
ろう
か。
た
父し
こ
の事
は
﹃
三
国志
﹄
張
燕
伝
には
見
え
な
い。
こ
こ
に
お
い
て
、
儁
を
河
内
太
守
に
任
命
し
、
家
兵
を
率
い
て
こ
れ
を
撃
た
せ
た
。
案
ず
る
に、朱
儁
は会
稽
郡
の
賊
を討
伐
し
た
の
に始
ま
り、
黄
巾
の平
定
に
至
る
ま
で
の経
歴
を認
めら
れ
、
こ
の
た
び
も
黄
巾
余
賊
た
る張
燕
の平
定
に遣
わ
され
た。
そ
し
て此
の
時
も
家
兵
を
率
いて
出撃
し
た。
これ
は官
兵
の弱
体
化
、
ひ
いて
は後
漢
王朝
の
衰
退
を意
味
す
るが
、
朱儁
が
依
然
と
し
て
家兵
を保
持
し
て
いた事
は
、場
合
によ
っ
て
は反
朝
廷
の立
場
に立
つ
可能
性
を
、少
く
と
も
武
力
の面
で
は
有
し
て
いた事
を
示そ
う
、
換
言す
れば
曹
操
や劉
備
と
同
じ道
を歩
き
出
し
て
いて
も
、そ
う
不
思議
で
はな
い状
態
に
あ
っ
たと
も
いえ
よ
う
。
そ
の
後
、
諸
賊
は
多
く
袁
紹
に
よ
って
平
定
さ
れ
た
。
そ
の事
は
袁
紹
の
伝
(
﹃
後
漢
書
巻
七
十
四
列
伝
六
十
四
)
に
見
え
る
。
案
ず
るに
袁紹
伝
で
は、
紹
が
初
平
二
(一
九
一
)年
、冀
州
牧
韓
馥
から
そ
の地
位
を奪
っ
た
後
、
同
四年
穴月
に于
毒
を討
ち、
さ
ら
に
左
髭
丈
八、
劉
石
、
青
牛
角
、黄
龍
、
左校
、郭
大
宝
、
李
大
目
、
于氏
根
ら
を
討
ち
、黒
山
の賊
張
燕
及
び屠
各
、烏
桓
ら
と
戦
い、両
軍
と
も
に戦
いに
疲
れ
、退
いた
と
あ
る。
ただ
し
﹃
三国
志
﹄
魏志
六
、袁
紹
伝
で
は
、陳
寿
は紹
が
冀州
牧
とな
っ
た
経緯
は詳
述
し
て
いる
が
、黄
巾
余
賊
と
の
戦
いに
つい
て
は、
一
言
も触
れ
て
いな
い
。
何
か拠
る
所
があ
る
の
であ
ろう
か。或
い
は記
す
には
足
り
な
いと
判
断
し
た
の
であ
ろう
か
。
裴注
に引
かれ
た
﹃
英
雄記
﹄
に
は
、
こ
の事
が見
え
る
から
、
范曄
は
﹃
後
漢
書
﹄
を
撰
す
る
にあ
た
り、
﹃英
雄
記
﹄
等
の資
料
に
よ
っ
て、
紹
と
黄巾
余
賊
と
の戦
いを記
し
た
も
の
であ
ろう。
陳
寿
は
﹃
三
国志
﹄
魏
志
巻
一
、
武
帝紀
、初
平
二年
に、曹
操
が白
繞
を
、
翌
三
年
に
于毒
・
畦
固
・
匈
奴
於
夫
羅
を
撃
っ
た
事
を
記
す
。
ま
た
﹃
資治
通
鑑
﹄
巻
六
.21
窓
史
十
、
漢
紀
五
十
二
、初
平
四
年
の条
は、
.
ほ
ぼ
﹃
後
漢
書
﹄
袁
紹
伝
に
よ
っ
て記
述
を
進
め
て
い
る。
張
燕
は
﹃
魏
志﹄巻
一
武
帝
紀
及
び
﹃後
漢書
﹄
巻
九
献
帝紀
に
よれ
ば
、建
安十
(
二
〇
五)
年
に至
っ
て
、
よう
や
く
漢朝
と
言
っ
ても
、実
権
は曹
操
が
握
っ
て
い
た
のだ
が
、
そ
の
漢朝
に十
余
万
を
率
いて
降
服
し、
列
侯
に封
じ
ら
れ
た
。
ま
た
﹃魏
志
﹄
巻
八、張
燕
伝
に
は、
燕
は袁
紹
と公
孫
瑣
と
が
冀州
を争
っ
た
時
に
は
、
瑣
を助
け
て紹
と
戦
っ
て敗
れ、
次
にそ
の袁氏
が
曹
操
と
戦
い、曹
操
が
勝
っ
て冀
州
を定
め
る
に及
ん
で、使
を遣
わし
て王師
を助
け
ん
こと
を求
め
て、
平北
将
軍
に任
ぜ
られ
、
安
国亭
侯
、邑
五百
戸
に
封
じ
られ
た
と
見
え
る。
初
平
四
年
よ
り、
建
安十
年
に至
る
十
三年
間
、
独
立
を保
つ
事
が
でき
た
のは
、当
時
、
陝
西
地方
は
董
卓
系
の軍
閥
が
卓
の死後
争
い合
いを
続
け
、河
北
では
曹操
と袁
紹
及
び
そ
の
遣
児
が
覇
を争
い、
い
ず
れ
の地方
から
も
、
こ
の太
行
山
脈
を中
に
し
て、
東
西
に広
が
る
地
域
に拠
る張
燕
に
干渉
す
る余
裕
が
な
か
っ
た
か
ら
であ
ろう
し
、張
燕
も天
下
の
清
勢
を観
望
し、
曹
操が
袁
氏
をほ
ぼ
平
定
し
た
のを
チ
ャ
ン
ス
と
見
て、降
服
し
た
も
のであ
ろう
。
以
上
張燕
の
歩
んだ
道
を
たど
っ
て、
時
間
が
建
安
十年
ご
ろ
ま
で飛
ん
で
し
ま
っ
たが
、
朱
儁
伝
の本
文
の訳
にも
ど
る。
時
代
は
ま
だ
一
九
〇
年
の
こ
ろ
に
あ
た
る
。
八
朱
儁と董
卓
復
た
儁
を拝
し
て光
禄
大
夫
にし
、
屯
騎
︹
校
尉
︺
に転
じ、
つい
で城
門
校
尉
・
河
南
尹
に任
命
し
た。
そ
の
こ
ろ
は董
卓
が
政
治
を擅
断
し
て
い
たが
、
卓
は儁が
宿将
と
いう
事
で、
外
面
はと
て
も
これ
と
親
し
く
し
て
い
たが
、
心
の
中
で
は
、
ほ
んと
う
の
所
、
こ
れ
を
嫌
っ
て
いた
。
案
ず
る
に
、董
卓
が
献帝
を擁
立
し
たあ
と
、
つ
と
め
て、人
心を
収
撃
す
る
た
め
に、
いわゆ
る清
流
派
の
流
れ
を汲
む人
物
を
採用
しよ
う
と
し
た。
朱
儁
を
重
用
し
た
のも
、そ
う
し
た董
卓
の人事
方
針
の
一
環
で
あ
っ
た
ろう
。
し
か
し、
一
方
で董
卓
が任
用
し
たも
の
の中
に
は
、都
を
離
れ
、地
方
官
に赴任
し
て、
反
董
卓
の
陣
営
に
加
担す
る
も
の
も
で
てきた
。そ
の
ために、
董卓が清
流派
の
流れを汲む
も
の
に不
信感を持
つ
ようにな
っ
た
。
こ
のこ
と
は
﹃
後漢
霽﹄
や
﹃
三国
志﹄
の
董卓
伝
に
見え
る
。すなわち
﹃
三
国志﹄巻六、
董卓伝
に
は
初卓信任
尚書周恕城門校尉伍
瓊等用其所
挙韓馥劉岱孔伯張咨
張邀等出
宰州郡而馥
等至宮皆合兵
将
以
討卓卓聞之以為
琵瓊等通情売己皆
斬之
とあ
り
、
﹃
後
漢書﹄列伝
六
十二、
董卓伝
に
は
﹃
三
国志﹄董卓伝より
、や
玉
く
わし
く述
べてい
る
。
卓素聞天下同
疾閹官誅殺忠良及
其在事雖行
無道而猶忍性矯清擢
用羣土
乃任吏部
尚書漢陽周秘
侍
中汝
南伍環
(
李
賢
注
英雄記作恕)
尚書鄭公業
︹李賢注公業
名泰余人皆書名范
曄父名泰避其
諱耳)長史何願
等以処士
荀爽為司
空
其
染党錮者
陳紀韓融之徒皆為列
卿幽滞之士多所
顕抜以尚書
韓馥為
冀州刺史侍中劉岱為
亮州刺史陳留孔伯
為予州刺史潁川
張咨為南
陽太守卓所
親愛並
不
処顕
職但将校而已初平元
年慶等到官与袁
紹之徒十
余人各興義兵
同盟討卓而伍環周
秘陰為内主L
と
あり
、
つ
いで
瓊秘
を
斬
っ
たの
は、次
に
述
べ
る遷都
に
反対したため
とあ
る
。
東
方
で
の軍
隊
の勢
い
が
盛
ん
に
な
っ
た。
案
ず
る
に、袁
紹
を盟
主
と
し
た反
董
卓
軍
を
指
す
の
であ
る。
董
卓
は懼
れ
て
、
し
ば
しば
公
卿会
議
を開
き
、
長
安
に都
を遷
す
こと
を請
う
たが
、
儁
は
これ
を
止
め
さ
せ
た。
案
ず
る
に、
﹃
後
漢
書
﹄
巻
七
十
二
、伝
六十
二
董
卓
伝
には
、公
卿会
議
を
開
い
た時
、
長
安
遷都
に反
対
し
た
のは
、太
尉
黄
瑰
・
司
徒楊
彪
であ
り
、
又
、伍
瓊
・
周
秘が
固
く
諌
め
たと
も
見
え
る。
朱儁
の名
は
見
え
な
い。
な
お
、瓊
と
秘が
殺
さ
れ
、彪
・
碗
は
恐
懼
し
て、
卓
の所
に謝
り
に
い
っ
た
の
であ
っ
た
。
ま
た
﹃
三
国志
﹄
巻
六、
魏
志
六董
卓
伝
裴
注
引
﹃
華
嬌漢
書
﹄
に
は
、楊
彪
と
董
卓
の
遷
都
を
廻
っ
て
の
議
論
を
載
せ
、結
果
彪
が
災
異
に
こと
よ
せて
策
免
され
たと
見
え
る。
又
同
じ
く裴
注
引
﹃
続
漢
書﹄
に
は、
太
尉
黄瑰
・
司
徒
楊
彪
・
司
空
荀
爽
が
とも
に卓
の所
に
いた
り、
長
安
遷都
に
ついて議
論
し
、そ
の結
果
、卓
は彪
及
び
碗
の官
を
免
じ
、即
日、
皇帝
は
長
安
に赴
いた
と
あ
る。