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同志社大学所蔵堺市城ノ山古墳出土資料調査報告 1 城ノ山古墳 城ノ山古墳は現在の大阪府堺市北区百舌鳥西之町1丁目 百舌鳥古墳群の東南部分 に所在していた 丘陵上に前方部を西に向けて築かれた古墳である 大山古墳の南側 百舌鳥川左 岸の台地が一段高くなる部分に築かれている 墳丘上からは大山古墳や御廟山古

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同志社大学所蔵堺市城ノ山古墳出土資料調査報告(1)

小森牧人・鈴木康高

はじめに

 城ノ山古墳は、大阪府堺市に分布する百舌鳥古墳群中の1基である。1950年に、土砂採取工事に 際して、同志社大学名誉教授森浩一氏(当時学生)により発掘調査がおこなわれた。現在その出土 遺物は森浩一氏の所蔵となっており、同志社大学歴史資料館および堺市博物館に寄託収蔵されてい る。本報告は同志社大学歴史資料館収蔵資料の調査成果をまとめたものである。  城ノ山古墳の所在する百舌鳥古墳群は、大山古墳をはじめとする大型前方後円墳が集中して築か れた古墳群として、古市古墳群とならび著名である。しかしその一方で発掘調査によって全貌が明 らかになっている古墳は少なく、埋葬施設の構造や副葬品についての情報が充分とはいえない状況 にある。その点において、城ノ山古墳出土遺物は、古墳時代の畿内を考えるうえで貴重な基礎資料 となると筆者たちは認識した。また後述するように、副葬品組成としても武器、武具、馬具など多 様な遺物が存在しており、一括資料としての価値もきわめて高く、古墳時代中期の副葬品研究にも 大きく寄与できるものと考えた。  以上のような課題意識のもと、森浩一氏に再整理への許可と御助力をいただき、保存処理を前提 に2008年3月から2009年8月の期間、接合、実測、写真撮影作業をおこなった。なお、鉄製品のX 線写真撮影については大手前大学史学研究所、森浩一氏原図および遺物の写真撮影については寿福 滋氏の御協力を得た。 (小森)

1.古墳の位置と過去の調査

(1)古墳の位置(図1)  百舌鳥古墳群 百舌鳥古墳群は大阪府堺市に所在する古墳群で、47基の古墳が現存している。し かし、城ノ山古墳のように開発により消滅した古墳も含めると、現在112基が確認されている(白 石 2008)。西に大阪湾を望む台地上にあり、古墳群を南北に分けるように百済川、百舌鳥川が流れ ている。この二つの川は下流で石津川に合流して大阪湾に注ぐ。  百舌鳥古墳群中には、大山古墳や御廟山古墳をはじめとする宮内庁管理の古墳が多いため、古墳 への立ち入りや発掘調査が制限されている現状がある。そのなかで副葬品が判明している古墳とし ては、乳岡古墳(石製腕飾類、堺市教委 2005)、百舌鳥大塚山古墳(鏡・甲冑・鉄製武器類・玉類・ 農工具など、森 2003)、七観古墳(甲冑・鉄製武器類・工具・馬具・玉類・金銅製帯金具など、樋 口隆康他 1961)、カトンボ山古墳(鏡・工具・滑石製模造品など、森・宮川 1953)、塚廻古墳(鏡・ 鉄製武器類・玉類、大道 1921・1922)、湯の山古墳(鏡・鉄剣・農工具、堺市教委 1976)、原山古 墳(鉄鏃・鉄斧・土師器、森 1955)、鳶塚古墳(鉄刀、森 1955)、上野芝町1号墳(須恵器・鉄釘、 泉大津高 1958)がある。また、大山古墳に関しては、絵図によって長持形石棺のなかから金銅装 甲冑や眉庇付冑などが出土したと伝えられる。

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 城ノ山古墳 城ノ山古墳は現在の大阪府堺市北区百舌鳥西之町1丁目、百舌鳥古墳群の東南部分 に所在していた。丘陵上に前方部を西に向けて築かれた古墳である。大山古墳の南側、百舌鳥川左 岸の台地が一段高くなる部分に築かれている。墳丘上からは大山古墳や御廟山古墳など百舌鳥古墳 群を一望に見渡せたであろう。百舌鳥古墳群では平坦な土地に築かれる古墳が多いなか、眺望のよ い城ノ山古墳の立地は特筆される。「城ノ山」という地名から明らかなように中世に山城として利 用されていたが、そのことも眺望の良さに起因したものと理解できる(増田 2002)。  城ノ山古墳の墳丘は、前述の1950年の土砂採取工事により消滅している。そのため現在その痕跡 を確認することは困難である。筆者たちが現地に赴いた際も、古墳が築かれていたと考えられる場 所はマンションとして利用されており、地形の様子からも古墳の旧状を知ることはできなかった。  そこで注目したいのが、1946年米軍により撮影された航空写真である。撮影された時期が、土砂 採取工事以前であり、破壊される前の古墳の姿が写っている。写真からは墳丘の形態や、撮影当時 の墳丘が木々に覆われている様子が看取される。写真から計測できる墳丘長は約80mとなる。段築 の有無や周溝の様子は残念ながら確認できないが、破壊直前の古墳の状況をうかがえる貴重な資料 といえる。 (小森) ② ③ ①城ノ山古墳 ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ①城ノ山古墳 ②大山古墳 ③ミサンザイ古墳 ④御廟山古墳 ⑤いたすけ古墳 ⑥乳岡古墳 ⑦大塚山古墳 ⑧七観古墳 ⑨カトンボ山古墳 ⑩湯の山古墳 ⑪ニサンザイ古墳 ⑪ 百舌鳥川 百済川 500m 0 図1 古墳周辺図

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(2)過去の調査(図2・3 図版1∼4)  城ノ山古墳については、森浩一氏が『大阪府史』の なかでふれたものが研究の端緒となっている(森 1978)。また1950年発掘当時の調査記録をまとめたも のが、堺市博物館報に掲載されている(森 2004)(1) それらをもとにしながら、以下調査の概要について述 べる。  墳丘 森浩一氏が調査のなかで作成された墳丘略測 図からその概要を知ることができる。図からは、古墳 が77mの前方後円墳であったこと、幅7.5mの周溝が めぐっていたことが読み取れる。前述の航空写真と併 せて考えても、調査当時の墳丘長が80m前後であった とことは疑いない。西側の不整形な拡張部は、中世に 山城として利用されていた痕跡である。また後述のよ うに、墳丘から家形埴輪が出土している。  埋葬施設 城ノ山古墳の埋葬施設は、後円部頂に主 軸をほぼ東西にとって構築されていた。扁平な安山岩 の割石を積み上げた竪穴式石槨で、全長6.7m、幅1.5 mの長方形を呈し、残存高は87cm である。天井石は 残っておらず、石槨上部が削平されていた。床面は礫 敷きで、石槨中央部が破壊されていた以外は、残存状 況は比較的良好であったようである。また、東壁付近 の床面が西壁より22cm 高いこと、東壁から3mほど のところに朱が検出されたことから、石槨東寄りかつ 東頭位に遺体が埋葬されたと考えられる。さらに石槨 内部から凝灰岩の石材片が検出されているが、石棺片 か天井石片かの判断はできない。よって棺の有無およ び材質は不明である。(2)  出土遺物 堺市博物館報には、以下の遺物と調査当 時の数量が報告されている。また、筆者たちが確認で きた現在の遺物の収蔵場所を次の凡例にしたがって示 した(◎…同志社蔵、○…堺市博蔵、×…所在不明)。 〈石槨内〉  眉庇付冑       1  ◎       短甲(裾部のみ)   2  ◎       小札束(挂甲か)   2  ○       直刀         15  × 図2 墳丘略測図(森2004より転載) 図3 埋葬施設実測図(森2004より転載)

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      短刀         3  ×       鉄剣         9  ◎       鉄鉾         4  ◎       鉄鏃         270 ◎       釘状鉄製品      1  ×       木製盾        2  ×       盾隅金具       1以上  ◎および○       不明隅金具      1  ×       硬玉製勾玉      1  ○       ガラス製勾玉     17  ×       管玉         21  ○       ガラス製小玉     1  ×       平玉         3  ×       丸玉         1  ×       棒状ガラス製品    2  ○ 〈撹乱土中〉 銅鏡片        3  ○       鞍金具        2  ◎       金銅製帯金具     2  ○       石突         1  ◎ 〈墳丘〉   家形埴輪       1以上  ○       須恵器        1以上  ○  このうち、金銅製帯金具については、『大阪府史』において図化されており(森 1978)、直刀、 鉄剣、鉄鏃、鉄鉾、石突、鞍金具については、堺市博物館報のなかに調査当時の森浩一氏の実測図 が掲載されている(森 2004)。今回同志社大学歴史資料館収蔵資料として紹介するもののなかには、 すでに堺市博物館報で図化されているものも含まれており、再実測というかたちになっている。次 章で遺物の詳細は述べていくが、その際、堺市博物館報で発表されたものと対応関係が明らかなも のについては、当該遺物の項で堺市博物館報の図番号を示すことで混乱を避けたい。また一方で、 整理段階で新たに確認できた遺物も存在している。新たに確認できたものについても、その都度、 新発見のものとしてふれていくこととする。 (小森)

2.出土遺物

 本報告では、城ノ山古墳出土遺物のうち鉄鏃、鉄鉾、鉄ヤリ・剣、刀子、不明鉄製品についての 報告をおこなう。前述のように、堺市博物館報との対応が明らかなものについては、堺市博物館報

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内での図番号と遺物番号を括弧付きで記した。 (1)鉄鏃  堺市博物館報では、計270点の出土が報告されている。同志社大学歴史資料館が収蔵する鉄鏃に は数点が束になるもの、単体からなるものが存在する。束は7∼8点、単体からなるものは22点で、 総計30点程度を数える。これらを水野敏典氏の分類基準に基づいて分類する(水野 2003)。矢柄の 装着形態で分類すると、城ノ山古墳出土の鉄鏃は短茎鏃、有茎鏃、有頸鏃の三つに分かれる。以下、 分類ごとに記述をおこなっていく。なお、鉄鏃の各部分名称については川畑純にならった(川畑 2009)。  短茎鏃(図4 写真5・8)  短茎鏃は、扁平な茎部をもち、鏃と矢柄との装着方法に根挟みをもちいる鏃をさす。その特徴を もつ7点を確認した。  1は、鏃身部と短茎部の一部が欠損するが、遺存状態は比較的良好である。根挟みと考えられる 木質が良好に残存する。残存長4.2cm、残存幅3.4cm、厚さ約2mm を測る。重抉をもつ。鏃身部 側縁は強いふくらをもち、わずかに外湾しながら腸抉先端にいたる。X線写真の観察により、鏃身 部中央に縦幅約3.5mm、横幅約4mmのやや横長長方形の孔をもつことが判明している。  2は、鏃身部と短茎部の一部が欠損する。鏃身部下方から短茎部にかけて部分的に木質が残存す る。残存長4.6cm、残存幅2.7cm 厚さ約2.5mm を測る。やや小さめの腸抉をもつ。鏃身部側縁はや や強めのふくらを持ち、ふくらからわずかに外湾しながら腸抉先端にいたる。X線写真の観察によ り、鏃身部中央には縦幅約4mm、横幅約4mmの正方形孔をもつことが判明している。  3は、鏃身部と短茎部の一部が欠損する。鏃身部中央から短茎部にかけて木質が残存する。残存 長5.7cm、残存幅3cm、厚さ約2mmを測る。やや小さめの腸抉をもつ。鏃身部側縁は強いふくら をもち、S字状のカーブを描きながら腸抉先端にいたる。X線写真の観察により、鏃身部中央には 縦幅約4mm、横幅約5mmのやや横長長方形の孔をもつことが判明している。  4は、鏃身部先端のみが残存する。鏃身部先端近くに木質が残存する。残存長4.7cm、残存幅 2.6cm、厚さ約2mmを測る。X線写真の観察からは孔を確認することができなかったが、根挟み の痕跡と考えられる木質が残存しているため、他の短茎鏃同様に孔をもつ可能性がある。  5は、短茎部の一部が欠損する。鏃身部中央から短茎部にかけて部分的に木質が残存する。残存 長7.9cm、残存幅3.6cm、厚さ約2.5mm を測る。腸抉をもつ。鏃身部側縁は、強いふくらをもち、 わずかにS字状のカーブを描きながら腸抉先端にいたる。X線写真の観察により、鏃身部中央には 縦幅約4mm、横幅約5mmのやや横長長方形の孔をもつことが判明している(堺市博第6図−8 に対応)。  6は、鏃身部と短茎部の一部が欠損する。鏃身部中央から短茎部にかけて木質が残存する。残存 長7.9cm、残存幅3.6cm、厚さ約2mm を測る。鏃身部先端が欠損するものの、5と同型式と判断 できる。X線写真の観察により、鏃身部中央には縦幅約3mm、横幅約4mmのやや長方形の孔を もつことが判明している。また、短茎部の側面には糸のようなものが確認できる。鉄鏃と矢柄を固 定するために用いられた糸巻きの痕跡であると推測される(堺市博第6図−9に対応)。

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 7は、鏃身部と短茎部の一部が欠損する。鏃身部下方から短茎部にかけて部分的に木質が残存する。  残存長8.3cm、残存幅3cm、厚さ約2mmを測る。いわゆる二段腸抉鏃である。ここでは、上段 腸抉より上方を鏃身部一段目、それより下を鏃身部二段目と呼称する。鏃身部一段目側縁はやや強 いふくらをもち、わずかに外湾しながら上段腸抉先端にいたる。上段腸抉は、腸抉の上下のライン が平行していないことが注意される。上段腸抉をつくり出すうえで少なくとも2回以上裁断がおこ なわれた可能性がある。鏃身部二段目側縁はほぼ直線的に下段腸抉先端にいたると推測される。鏃 身部二段目の断面は、上方がやや狭い台形を呈し、刃部は加工されていない。また、断面形態が、 1∼6の短茎鏃に類似する点に注目できる。X線写真の観察により、鏃身部二段目には縦幅約3 mm、横幅約6mmの長方形の孔をもち、わずかに短茎部が残存していることが判明している(堺 市博第6図−10に対応)。  有茎鏃(図5 写真5・6・8・9)  有茎鏃は、頸部をもたず鏃身部と矢柄に差し込まれる茎部からなるものである。その特徴をもつ 7点を確認した。 図4 鉄鏃実測図(1) 1 2 3 4 5 6 7

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 1∼5は、茎部を欠損するものが多い。3は茎部を欠損するものと鏃身部のみのものが銹着して いる。2・4には矢柄が良好に観察できる。残存長6.3∼11.3cm、鏃身幅2.2∼2.5cm、茎部幅1.7∼ 2cm、厚さ約4mmを測る。いわゆる鳥舌鏃である(鈴木 2003)。鏃身部側縁は、やや強いふく らをもち、S字状のカーブを描きながら鏃身関にいたる。関部形状は山形関である。山形関より下 方において刃部が施されていないことは明瞭であるが、山形関より上方では刃部の範囲が不明瞭で ある。関にむかうにつれ、刃部が鋭利さを失っているためであろう。鏃身部断面はレンズ状をなし、 図5 鉄鏃実測図(2) 1 2 3 4 5 6

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鏃身下半、茎部は横長長方形をなす。鏃身部中央に直径約3mmの円形の孔をもつことがX線写真 の観察により判明している。多少の誤差はあるが、それぞれほぼ同じ規格で製作されたものと判断 できる。また、茎部に残存する矢柄の観察から、木製矢柄を樹皮状のもので鏃に固定したものとわ かる。なお、4は実測図と写真とで表裏が逆になっている(4は堺市博第6図−7に対応)。  5・6は、刃部と茎部を欠損するが、遺存状態は良好である。5には木質の付着がみられる。5 にともなうものではないと考えるが、その性格については不明である。残存長7.4∼8.3cm、残存幅 2.9∼3.3cm、厚さ約4mmを測る。鏃身部側縁はやや強いふくらをもち、わずかに外湾しながら、 鏃身関にいたる。関部はナデ関である。茎部端部は欠損のため不明であるが、ゆるやかに集束して いくと考えられる。また、5は鏃身長が短く幅が広いが、6は鏃身長が長く幅が狭い。今回は同形 式に分類したが、ひと括りにできない可能性もはらんでいる。なお、5は実測図と写真とで表裏が 逆になっている。  有頸鏃(図6 写真6・9)  有頸鏃は、鏃身部と茎部の間に棒状の頸部をもつものである。その特徴をもつ束を6点、単体で 確認できるものを3点確認した。  1は、完形品と頸部のみの2個体が銹着する。完形品の茎部には、矢柄の木質が残存する。完形 品は全長15.9cm、鏃身幅1.5cm、頸部幅0.7cm、茎部幅0.4cm、厚さ約0.2cm を測る。腸抉をもつ。 鏃身部側縁はややふくらをもち、S字状のカーブを描きながら腸抉先端にいたる。腸抉は、先端か ら頸部にいたるまでに、まずやや緩めの角度で、その後きつい角度へと変化している。腸抉をつく り出すうえで少なくとも2回以上裁断がおこなわれていることがうかがえる。関は角関である。頸 部のみの個体は、残存長4cm、頸部幅0.6cmである。  2は、完形品と頸部から茎部にかけての2個体が銹着する。それぞれの茎部には矢柄の木質が残 存する。遺存状態は悪く、不鮮明な点が多い。完形品は、全長14cm、鏃身幅1.2cm、頸部幅0.7cm、 茎部幅0.4cm、厚さ約0.3cm を測る。1と同形式と考えられるが頸部がやや短い。もう1点は残存 長3.8cm、茎部幅0.7cm、頸部幅0.4cmである。X線写真撮影後接合したため、写真9には2a、2 bと未接合の状態で掲載している。  3は、茎部を欠損する2個体が銹着する。残存長13.8∼15.2cm、鏃身幅約1.5cm、頸部幅約 0.7cm、茎部幅約0.4cm、厚さ約0.2cmを測る。1と同形式と考えられるが鏃身長に若干のばらつき がみられる。  4は、鏃身部から頸部までの一部が残存する。残存長7.4cm、鏃身幅約1.5cm、頸部幅約0.6cm、 厚さ約0.3cmを測る。1と同形式と考えられるが、鏃身部がやや大きめである。なお、実測図と写 真とで表裏が逆になっている(堺市博第6図−1に対応)。  5は、鏃身部から頸部までが残存する。残存長4.8cm、残存鏃身幅1.5cm、頸部幅約0.8cm、厚さ 約0.2cmを測る。1と同形式と考えられるが、鏃身部が大形である。  6は、鏃身部から頸部までが残存するものと、頸部のみのもの計3個体が銹着している。残存長 3.3∼4.8cm、鏃身幅約1.2cm、頸部幅約0.6cm、厚さ約0.2cm を測る。1と同形式であると考えられ るが、鏃身部の形状が不明瞭である。なお、実測図と写真とで表裏が逆になっている。

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図6 鉄鏃実測図(3) 1 9 8 7 6 5 4 3 2

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 7は、鏃身部から頸部までが残存するもの2個体が銹着している。残存長約4.5cm、鏃身幅約 1.2cm、頸部幅約0.6cm、厚さ約0.3cmを測る。1と同形式である。一部に樹皮状のものが厚く付着 している様子が観察できるが、7にともなう有機質かどうかは判別できなかった。  8は、7∼8個体程度が銹着している。遺存状態も悪く、不明瞭な部分が多い。その多くは鏃身 部から頸部までの一部が残存する。残存長約4.5∼7cm、鏃身幅約1.2cm、頸部幅約0.7cm、厚さ約 0.3cmを測る。1と同形式と推測される。  9は、鏃身部から頸部の一部までが残存している。残存長6.6cm、鏃身幅1cm、頸部幅0.6cmを 測る。鏃身部は、やや強いふくらをもち、直線的に腸抉先端にいたる。腸抉は、1と同様に途中で 角度が変化する。刃部は片方の側面にのみに加工される。片刃の鉄鏃である。なお、実測図と写真 とで表裏が逆になっている。 (鈴木) (2)鉄鉾(図7・8 写真7)  堺市博物館報では、大鉾1点、支刀付鉾1点、鉾2点、石突1点の出土が報告されている。鉾身 は全て石槨南西部から出土とされる。石突は攪乱埋土中からの出土であるため、石突がどの鉾身に ともなうかは確認できな い。  同志社大学歴史資料館で は、支刀付鉾1点、鉾身2 点を収蔵している。大鉾お よび石突は確認できなかっ た。  支刀付鉾(図7 写真7)  身部と袋部を欠損する。 袋部内に木質が残存する。 残存長25.7cm、身部最大幅 2.1cm、 身 部 厚 約1.5cm、 支刀部長5.9cm、支刀部幅 2cm、支刀部厚約0.7cm、 袋部最大幅3.3cm、袋部厚 約0.3cm を測る。身部断面 形態は菱形で、鎬をもつ。 袋部に近づくにつれ、鎬は 徐々に緩くなっていき、円 形に近づいていく。関部は はっきり観察できない。鉾 身の中程には支刀部が確認 図7 支刀付鉾実測図

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できる。支刀部は銹化のため湾曲している。断面形態も不明瞭であるが、刃が加工されていると考 えられる。袋部断面形態は円形を呈し、袋部内では目釘を確認することができる。袋口には、緩や かな山形抉りをもつ。また、袋部内面には木質が残存している。木柄が挿入された状態で副葬され たことが確認できる(堺市博第6図−20に対応)。  鉾身(図8−1・2 写真7)  1は、身部先端を欠損する。身部表面と袋部内に木質が残存する。遺存状態は、銹化により歪み が生じているものの、比較的良好である。残存長30.4cm、身部最大幅2.4cm、身部厚約0.7cm、袋 部最大幅2.6cm、袋部厚約0.2cm を測る。身部断面形態は菱形で、やや緩い鎬をもつ。関部はわず かに内湾する斜関をもち、袋部へ続いていく。袋部断面形態は円形を呈する。袋口には、緩やかな 図8 鉄鉾・石突実測図 2b 2a 1

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山形抉りをもつと考えられるが、銹化のため不明瞭である。袋部内では、目釘を確認することがで きる。また、身部表面の木質は鉾身と並行して木目が入っており、木製鞘の存在が推測される。袋 部の木目も同じ方向であり、木柄および木製鞘が装着された状態で副葬されたのであろう(堺市博 第6図−18に対応)。  2aおよび2bについては、接合関係が確認できている。しかし、銹化が著しく復元して図化す ることが困難である。そのため、図上の「 ▼」を重ね合わせることで本来の形状を復元できるよう 示してある。復元後の残存長は25.3cm、身部残存幅1.3cm、身部厚約0.8cm、袋部長13.2cm、袋部 最大幅3.2cm、袋部厚0.4cm を測る。身部断面形態は菱形を呈す。関部の有無は確認できない。袋 部断面形態は円形である。肉眼観察では目釘および目釘穴を確認することはできない。袋口には山 形抉りをもつ。また、袋部は一部破損しているため、内面観察が可能である。観察の結果、袋部に 挿入された木柄の先端が確認できた。木柄の断面形態は方形を呈し、端部に向かって先細りしてい く四角錐状に加工されている。なお、写真撮影時は接合関係が不明であったため、身部と袋部が分 離した状態で掲載している(堺市博第6図−19に対応)。 (鈴木) (3)鉄剣・ヤリ(図9−1∼3 写真7)  堺市博物館報では、9本の出土が報告されている。そのうち3本が図化されている。同志社大学 歴史資料館では、3本を収蔵している。なお、過去の報告では鉄剣と報告されているが、今回の調 査で、ヤリ(豊島2003)が含まれている可能性のあることが新たに認識できた。  1は、身部と茎部の一部を欠損する。身部から茎部にかけて部分的に木質が残存する。残存長 29.3cm、身部最大幅3cm、身部厚約0.3cm、茎部幅1.5cm、茎部厚約0.3cm を測る。身部断面形態 はレンズ状を呈する。不明瞭ではあるが、斜関をもつと考えられる。身部から茎部にかけて残存す る木質の形状が、鈍角に開く三角形を呈することから、ヤリである可能性を指摘できる(堺市博第 6図−17に対応)。  2は、身部の一部が欠損する。関部付近に木質が残存する。残存長27.1cm、身部最大幅3.3cm、 身部厚約0.3cm、茎部幅最大1.9cm、茎部厚約0.3cmを測る。身部断面形態はレンズ状を呈し、茎尻 は栗尻である。関は、不明瞭ではあるが、斜関と推測される。装具が残存していないため、剣かヤ リか判断することができない(堺市博第6図−16に対応)。  3は、身部のみが残存する。依存状態は悪く、断面の半分は欠損している。一部に木質が残存す る。残存長24cm、身部幅3.1、身部厚約0.3cm を測る。身部断面形態は、半分しか残存していない ため不明であるが、レンズ状を呈す可能性が高い。2と同様に剣かヤリかを判断することができな い(堺市博第6図−15に対応)。 (鈴木) (4)刀子(図9−4・5 写真7)  刀子は、鹿角製装具をもつものを2点確認した。2点とも今回の調査で新たに確認できた遺物で ある。  刀子1は、刃部の一部を欠損する。茎部には、鹿角製装具が残存する。残存長5.7cm、刃部幅

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図9 鉄剣・ヤリ・刀子・不明鉄製品実測図 6 5(刀子2) 4(刀子1) 3 2 1

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1.6cmを測る。刃部断面形態は、クサビ形を呈す。関は判然としないが、背側が片関で、直角関に なると推測される。茎部装具では2種類の文様を確認できる。1つは、細い沈線で描かれた文様で、 沈線部分に赤色顔料を塗布している。文様は一部しか観察できないため全体像を把握することが困 難である。もう1つは、太い沈線で茎部に直角に4条の平行線文様を描いている。線の断面形態は 半月状をなす。  刀子2は、刃部の先端を欠損する。茎部には鹿角製装具が残存する。残存長5.4cm、刃部幅1.4cm を測る。刃部断面形態は、クサビ形を呈す。関は1と同様であるが、こちらは刃部側が片関になる。 鹿角製装具の表面は残存しておらず、文様を観察することはできない。鹿角製装具には刀子をはさ みこむように、合わせ目が観察できる。さらに、それを関部付近で包みこむような別部材もあわせ て観察できる。これらのことから、刀子を2枚合わせの部材ではさんだ後に、ソケット状の部材に はめこんで固定したと推測できる。 (鈴木) (5)不明鉄製品(図9−6 写真6・9)  刃部のみを確認することができる。残存長3.7cm、刃部幅1.1cm を測る。刃部断面形態は、クサ ビ形を呈す。一部分しか残存していないため、全体形を把握することは困難である。 (鈴木)

小結

 本報告では、城ノ山古墳出土遺物の一部を紹介した。次号では、残りの資料報告をおこなうとと もに、城ノ山古墳の年代的位置づけ等の若干の考察を試みたい。また、今回の調査期間中多くの機 関、方々からお力添えを賜った。次号であらためて謝辞を述べたい。 (鈴木) (1) 今回の報告にあたって、森浩一氏の御厚意により調査当時の貴重な原図をお借りすることができた。写真を掲載している。 (2)  森浩一氏は報告の中で、中央撹乱部から帯金具や銅鏡片が出土していることを挙げ、これらの遺物が棺内にあったとした場合、 石棺の持ち出しの際こぼれたと考えるよりも、木棺の腐朽によって遺物が下部の土に落ち込み撹乱土に混じったと考える方が 自然だとし、木棺の存在を想定されている。よって石棺片と考えるよりも、天井石片の可能性が高い。森氏の御教授による。 引用・参考文献(敬称略、五十音順) 一瀬和夫 2000 「百舌鳥古墳群」『季刊 考古学』第71号 雄山閣 大阪府立泉大津高等学校 1958 『和泉考古学別冊土木工事の破壊に伴う考古学調査報告』第1冊 大阪府立近つ飛鳥博物館 2009 『百舌鳥・古市大古墳群展 巨大古墳の時代』平成20年度冬季特別展図録 大道弘雄 1921・1922 「大仙稜畦の大発見(上・下)」『考古学雑誌』第2巻12号・第3巻1号 川畑純 2009 「前・中期古墳副葬鏃の変遷とその意義」『史林』92−2 史学研究会 京都大学総合博物館 1997 『王者の武装 5世紀の金工技術』 堺市教育委員会 1976 『土師遺跡発掘調査報告書その1−新日本製鐵深井研修センター内・鉄滓科学的分析−付.湯の山古墳発掘 調査概要』 堺市教育委員会 2005 『堺の文化財−百舌鳥古墳群−』第五版 堺市博物館 1996 『大王墓の時代』 堺市博物館 2005 『百舌鳥古墳群と黒姫山古墳』堺市・美原町合併記念秋季特別展図録

(15)

白石太一郎 2008 『近畿地方における大型古墳群の基礎的研究』 六一書房 鈴木一有 2003 「中期古墳時代における副葬鏃の特質」『帝京大学山梨文化財研究所研究論集』11 帝京大学山梨文化財研究所 高田貫太郎 1998 「古墳副葬鉄鉾の性格」『考古学研究』第45巻第1号 田中晋作 2001 『百舌鳥・古市古墳群の研究』 学生社 豊島直博 2003 「ヤリの出現」『古代武器研究会』4 古代武器研究会・滋賀県立大学考古学研究室 樋口隆康他 1961 「和泉七観古墳調査報告」『古代学研究』27 古代学研究会 増田達彦 2002 「城ノ山古墳隣接地出土の青磁碗について」『堺市博物館報』第21号 水野敏典 2003 「古墳時代中期における鉄鏃の分類と編年」『橿原考古学研究所論集』14 八木書店 森浩一 1955 「百舌鳥75・76号墳の調査」『古代学研究』第12号 古代學研究會 森浩一 1978 「古市・百舌鳥古墳群と古墳中期の文化」『大阪府史』第1巻 大阪府 森浩一 2003 「平成13年度秋季特別展記念講演会録『失われた時を求めて−百舌鳥大塚山古墳の調査を回顧して−』」『堺市博物館 報』第22号 森浩一 2004 「百舌鳥城ノ山古墳の調査」『堺市博物館報』第23号 森浩一・宮川  1953 『堺市百舌鳥赤畑町カトンボ山古墳の研究』古代學叢刊第一冊 古代學研究會

(16)

︵森浩一氏原図①︶

埋葬施設実測図 102.5cm×37.5cm

(17)

写真2︵森浩一氏原図②︶

鉄刀実測図 107.5cm×26.4cm

(18)

︵森浩一氏原図③︶

鉄鉾・鉄剣・ヤリ・不明鉄製品実測図 63.3cm×46.6cm

(19)

写真

︵森浩一氏原図④︶

鉄鏃・石突・馬具実測図 25.0cm×17.7cm(左上),25.0cm×17.7cm(右上),25.5cm×18.3cm(左下),25.0cm×17.8cm(右下)

(20)

︵鉄鏃︶ 図4-2 図4-4 図4-1 図4-3 図5-5 図5-6 図4-5 図4-6 図4-7

(21)

写真 ︵鉄鏃・不 鉄製品︶ 図6-1 図6-6 図5-3 図5-4 図5-2 図5-1 図9-6 図6-9 図6-5 図6-4 図6-8 図6-7 図6-2 図6-3

(22)

︵鉄剣・ヤリ・鉄鉾・刀子︶ 図9-2 図9-4 図9-5 図8-2a 図8-2b 図8-1 図7 図9-3 図9-1

(23)

写真

(24)

参照

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