イギ リス自由貿易運動 と トルコ市場論争
―― アーカー ト
=コ
ブデ ン論争 を中心 に 一一
武
田
元
有
* は じ め に 小稿 は 1838年 にイギ リス=ト
ル コ両政府間で締結 され る英土通商航海条約の成立過程 について, 特 にその経済的側面 に焦点 を当てつつ再検討す ることを課題 とす る。以下当該条約 をめ ぐる研究動 向の整理 を通 して小稿の分析視角 を提示 しよう。 かつて宇野派の「段階論」的帝国主義論 は,18世
紀以前における重商主義 。20世紀初頭 における 帯国主義の段階的特質 を高度 な政府介入 と広大 な植民地領有 に求めつつ ,19世 紀 中葉 における自由 主義のそれ を国家干渉の排除 と海外領上の縮小 に見出 してお り,したがって政治権力の発動 を意味 す る当該条約の締結はその解釈 と矛盾す るが故 に考察対象から捨象 されて きた。1他
方ギ ャラハー・ ロビンソンの 自由貿易帝国主義論 は ,ま さに自由貿易体制 を通 じて政治的・形式的には独立 しつつ も経済的 。本質的には従属す る「非公式帝国」が拡大 した事実 を指摘 し,以
来 当該条約 はイギ リス 史上においては産業資本の世界展開の一角 として,トル コ史上においては外国工業製品流入の契機, 伝統的手工業衰退の元凶 として ,そ して世界史的には後のアジア諸国における一連の開国強制・不 平等条約体制の原型 として,その意義 を評価 され ることになった。2
しか し1980年 代 における世界 システム論や これに触発 された トル コ経済史研究の登場 によってかかる解釈 は一定の修正 を迫 られ る。まず周知の如 くI・ ウォーラーステインは四大「外縁地域」(イ ン ド・ロシア・ トル コ・西 アフ リカ)の
世界市場編入過程 を比較 し, トル コの世界市場への「組込」がフランス重商主義の レヴァ ン ト貿易 によって18世紀 中葉か ら進行す ること,その過程においては工業製品の流入=国
内産業の 解体 とともに一次産品の輸出=巨
大農場の形成 が重要 な指標 となること,を
示唆 した。3
また0,
コイメ ンやM・ キュテュクオールは,条
約締結以前の トル コ通商政策の特質 に関 して,トル コ政府 が通商規制 によって各種必需品 (穀物 。工業原料)の
海外流出を制限す る一方,領
事裁判権 ・関税 減免 を骨子 とす るコーロッパ商人への通商特権付与=カ
ピチュレーシ ョン体制 によって外国商品の 国内流入 を奨励 したこと,を既 に指摘 していたので あるが ,こ れ を受けて0・ クル ムスは当該条約 が外国製品の国内流入 よ りもむ しろ トル コ産品の海外輸出に関 して旧来の規制 を緩和 したこと,し たがって条約の意義は トルコの外国製品輸入の容認 にではなくその一次産品輸出の解禁 にあること, を主張 した。4
実際C・ イサ ヴィ及びS・パ ムークの統計分析 は,条約締結 に続 く1840年 代の貿易 関係 における変化がイギ リスの トル コ向け輸出よ りもその トル コ産品輸入において一層顕著 だった ことを示 している。5以
上の問題提起 を換言す るに,当
該条約の史的意義 を評価す るにはイギ リス 産業資本の工業製品輸出利害 とともにその一次産品輸入利害 を,また トルコにおける伝統工業の盛 衰 に加 えて商品作物生産の動向 を,そ
れぞれ検討す る必要があると言 えよう。 *鳥取大学教育地域科学部地域社会講座かかる研究動向の延長 をなす 1988年 ニュー ヨークでの条約締結 150周 年記念国際学会 は,上記の 議論 を一歩進め,当該条約 をイギ リス製品進出の転機
=ト
ル コ産業衰退の起源 と見 る通説 を否定す るに至 った。その主 な論拠 は,トル コの世界市場編入がカピチュレーシ ョン体制の もと18世 紀か ら 進行 し,イ ギ リスの トル コ市場進出 も通商条約 に先行す る1820年 代か ら既 に確認で きること,他 方 条約締結後の1840年 代以降 も トル コ国内産業の衰退 はなお沿岸地帯 にとどま り,むじる内陸地帯で は伝統産業の存続・発展 さえ確認で きること,に
ある。6以
来 1990年 代の研究 は条約締結 に前後す る時期の段階的差異 を否定 して経済的連続性 を重視 しつつ ある。7か
か る見解は,確
かに当該条約 をめ ぐる トル コ経済事情 について通説 を覆す多 くの視角・史実 を提供 して くれ るものの,その意図 が従来専 ら従属・衰退過程 として受動的にのみ扱われて きた トル コ近代経済史 を積極 的に再評価 し ようとす る点に置かれている故,イ ギ リスの世界進出 との連関を問 う意識 は希薄 となってお り,い くつかの理論的・実証的矛盾 をも字んでい る。まず,条
約 に先行す る輸 出展開の事実 をもってイギ リス製品輸出における条約の意義 を軽視 し,条 約以降における在地産業の存続 をもって条約の製品 輸出効果 を否定す るとい うその論法は,結
論 こそ相反す るものの,産
業資本の輸出利害 を基準 とし て条約 を評価す る点 において 自由貿易帝国主義論 と全 く共通 してお り,したがって輸入利害の考慮 を提起す る世界 システム論以来の問題提起 か らはむ しろ逆行すると言 えよ う。また対土通商政策 を 輸出利害の観点か らのみ検討す ることは ,古 典派経済学乃至マ ンチェスター派の国際分業論 を支柱 とす る当該期の イギ リス自由貿易運動が,その当面の課題 を自らの保護貿易廃棄 とこれによる一次 産品輸入の促進,と りわけ穀物法の廃止 による安価外国穀物の輸入に置 いていたとい う基本的史実 と著 しく整合性 を欠 くことになる。8 以上の問題関心か ら小稿 は1838年英土通商条約の経済基盤 をイギ リス産業資本の トル コ向け製品 輸出ではなく,その トル コ産品輸入 とい う観点か ら把握 し直すことを課題 とす る。以下 1820年 代に 形成 され る経済的・政治的背景 を整理 した上で,1830年代 における トル コ市場論争 を追跡 し,そ の 見解のなかに通商条約 をめ ぐるイギ リス産業資本の経済的論理 を明 らかに したい。9 〔1〕1820年
代におけるイギ リス資本主義 と東方問題 本節では1830年代 トルコ市場論争の史的前提 として,1820年代における トルコ市場の位置,イ ギ リスの政策的対応,東
方問題の発生,以
上の問題 を相互の連関に留意 しつつ順次確認 したい。(1)イ
ギリス資本主義 と トルコ市場 19世 紀初頭に確立するイギリス資本主義にとって,以後工業製品販売 。一次産品調達のための海 外市場確保が至上課題 となるが,ナ ポレオン戦争直後においてその基盤は大陸 ヨーロッパ 。ァメリ カ合衆国にあった。しかし1820年代以降欧米各国が順次保護関税を導入する一方 ,産業革命に伴 う 輸送手段の革新によって遠隔地取引が迅速化 されるに及び,むしろ周辺諸国が有力な新規市場 とし て注 目されるに至った。とりわけ トルコは,欧
米・アジア諸国の多くが保護主義・鎖国制度を採用 するなか例外的に自由通商を維持 し,かつ地理的には三大陸にまたがる東西交易の要衝に位置 して おり,イ ギ リスはその市場価値 とともに流通拠点としての戦略価値に注 目することになる。 ① イギリス海外貿易 と トルコ市場 まず英土貿易の構造・動向を表1。 図 1に 示す品目構成 とその変遷に留意 しつつ確認 しよう。Ю イギ リスの トルコ向け輸出は綿業製品の圧倒的比重をもって特徴付けられる。これは以下の段階 を経て実現 した。第一段階は相互に競合するコーロッパ諸国からの トルコ綿糸市場の奪回である。ナ表
1-1:イ
ギ リスの対 トルコ輸出1825-40年
(単位 :1,000ポ ン ド・ スター リング) 1825 1830 1835 1840 綿 織 物 490(2.61) 948 (4.87) 1,063(4.80) 896 (3.63) 18ぅ788 19,429 22,128 24,669 毛織物 8(0.11) 19 (0.41) 41(0.60) 25 (0.48) 7.329 4,851 6,841 5,327 鉄 鋼 13(0,96) 38 (3.52) 59(3.59) 57 (2.25) 1.355 1,079 1,644 2,525 す ず 13 (8.39) 13(12.3) 2 (6.25) 8 (5,76) 32 精 糖 26(2.80) 58 (4.50) 84 (9.86) 64(14.5) 929 1,288 852 441 鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第3巻
第2号
(2002) 25
表1-2:イ
ギ リスの対 トルコ輸入1825-40年
(単位 :1,000ポ ン ド・ スター リング) 1825 1830 1835 1840 原 綿 612 (8.26) 11(0.13) 18 (0.17) 15(0.09) 7,406 8,281 10,716 17.070 生 糸 193 (18,7) 263 (16.4) 382(21.4) 409 (22.0) 1,034 1,599 1,781 1,859 羊 毛 13 (0,90) 34 (2.99) 16 (1.20) 1,437 1. 137 1,328 アカネ 198 (48.2) 255 (76.3) 202 (46.7) 562 (68.8) 411 334 刀付 ヴァロニア 7 (53.8) 43 (82.7) 60 (87.0) 49 (90,7) 52 54 レー ズ ン 54 (91.5) 32 (43.2) 33(27,7) 37 (236) 74 157 イチ ジク 12 (92.3) 1 (91.7) 12 (63.2) 2 ア ヘ ン 16 (9,41) 26 (89.7) 1(90.9) 7 (63.6) 17 29 2 化粧水 9 11(93.8) 18(58.1) 12 (93.8) 12 11 絨 毯 6 (98.2) 13(19.3) 12 (12.4) 21 (15.2) 6 97 〔注〕各欄上段は当該品日の対 トルコ輸出・輸入総額を、下段はイギリスの海外輸出・輸入総額を、またカッコ内数 値はイギリス海外取引全体に占める対 トルコ取引の%を示す。〔典 拠 〕R E Balley,ど ′,rJ∫力Pο J,り,/Jr′ルTJvttFd力 Rψrrz″ω?′″¢力rf A&″ゥ どヵA,ど′ο―T1/流どン R?肋rわ″∫/826-′杯J,New
York,1942,pp.247-270;O ICoyman, “A Comparative Sttdy ofthe AInglo―Turkish Relations:c.1830-1870 and 1919-1939",Ph D diss.,Unlversity of Strahclyde,1967,p.91.
図
1-1
2500000 2000000 1500000 1000000 500000 :イ ギ リスの対 トルコ輸出1827-40年 (単
位 :ポ ン ド・ スター リング) 図1-2
1400000 1200000 1000000 800000 600000 400000132728 29 30 31 32 33 34 35
:イ ギ リスの対 トル コ輸入1825-40年
36 37 38 39 40
(単位 :ポ ン ド・ スター リング) 200000 1825 1830 1835 1840〔典 りと〕FE.Bailey,9P c,r,pp.247-270;O.Kurmus, “Tlle Role of British Capitalin he Economic Development oF Western Allatolia,1850-1913" ,Pla,D.diss,,Univers■ y oflondon,1974,pp 37-38
□
剛
剛
賜
■
量
踵
その他 レー ズ ン ヴ ァ ロニア ア カネ 羊 毛 生糸 原綿鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第
3巻
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ポ レオ ン戦争の結果 ,フ ランス綿製品が レヴァン ト市場か ら撤退す る一方 ,ド イツ綿製品 もフィウ メ・ トリエステ経由海上輸送ル ー トの遮断によって運送経費が上昇 し,ほ ぼ 1815年 を画期にイギ リ スは綿業 を基軸 として東地 中海市場 を制覇 した。・ 第二段階は旧来圧倒 的優位 にあったイン ド高級 綿布の駆逐である。これは新型機械導入 による模倣技術の進歩 と労働経費節約 による製品価格の逓 減 に負 うところが大 きく,この結果 イギ リス製品は トルコによる綿糸輸入の80%,綿
布輸入の70%
を掌握 してい る。鬱 第二段階は安価 な原綿・賃金労働 に立脚す る トル コ国産綿糸 との競争であり, 1820-30年代 にはバルカ ン半島・首都近郊エーゲ海沿岸において安価良質な輸入綿糸の進入 と国内 綿紡績業の敗退が進行 し,国内織布業 は利用綿糸 を国産品か ら輸入品へ と漸次転換 させた。か くし てスクター リScuta ・アルバ ニアの織機台数 は600から40へ と,ティル ノヴァTirnovaの それは2,000 か ら200へと,そ
れぞれ激減 し,当
該部門で大幅な賃金引下 。大量の失業が発生 している。13以
上 の過程 を経てイギ リスの トル コ向け綿製品輸出は2-3倍
に仲張 し,なお増大傾 向にあるが,ただ し イギ リス綿製品輸出全体 に しめる トル コ市場の位置 は5%に
とどまる。14 なお他 に一定の比重 を占める輸出品 目に言及すれば,まず繊維部F日の毛織物 はかつての レヴ ァン ト向け主力商品 としての地位 を完全 に喪失 した。これは トル コ固有の気候条件・服飾習慣の存在,オ リエ ン ト嗜好 を考慮 した製品開発努力の放棄 と大陸 コーロッパ製品への敗退,トル コ国内における 紡績・織布業者の広汎 な残存,に由来す る。それで も当該期 において トル コ向け輸出は5倍
に増大 した。また重工業部門の製鉄 は トル コ向け輸出を4倍
に拡大 し,ト ル コ向け輸出品 目において第3 位の地位 にある。工業原料の未精錬錫 は取引総額 にやや変動 があるものの,一
時はイギ リス錫輸出 全体 において10%近
い比重 を占めた。植民地産品の精糖は輸出総額 が3倍
近 くまで伸張 し,イ ギ リ スの対土輸出において第2位
にあるとともに,イ ギ リス精糖輸出全体の10%前
後 を占める。15以上 の如 く綿製品に対 して他の品 目の相対的比重 は大幅 に低い ものの ,い ずれの品 目も トル コ向け輸出 が基本的に上昇傾向にあること,一 部の品 目についてはイギ リス輸出全体 において トル コ向け輸出 が一定の地位 を占めていること,以
上の点が注 目されよう。 他方 イギ リスの トル コ産品輸入は一次産品を基軸 に構成 され る。まず原綿 は,1820年代 において 対英輸出総額の半分 をしめ,イ ギ リス綿業資本の原綿供給地帯 として重要な意味 をもった。また羊 毛 。モヘア (アンゴラ山羊毛)は
ともに取引総額が僅少であるが,後
者 はイギ リス市場の9割
を独 占 している。他方生糸 は1830年 代 にイギ リスの トル コ産品輸入全体の40-50%を
しめるとともにイ ギ リスの生糸輸入全体の20%を
占め,有力な品 日として成長 した。繊維原料 に次 ぐのは各種染料(アカネ 。黄 イチゴ・没食子gallnuts)で ある。特 にアカネは染料「 トル コ 。レッ ド」Turlcish Redの原
料 として コーロッパで高い評価 を受 け ,1830年 代 には対英輸出全体の
3割
を占めるとともにイギ リ スのアカネ輸入全体の5-7割
を占めた。またヴァロニア(オーク樹木の乾燥殻斗)はタンニ ンを含 有す る皮革産業向け原料であるが,その呼称 が主要産地 アルバニアの港湾都市 ヴァロナValonaに 由 来す る如 く トル コ産品がイギ リス市場 を独 占してい る。さらにイギ リス大衆文化・オ リエ ン ト趣味 を背景 に,レーズ ン・オ リーヴ油等の食糧j香
水・海綿等の奢修品,伝
統工業製品の絨毯 も輸入が 増大 し,か
つ イギ リス市場 において高い比重 を占める。16か くして_部
の産品はイギ リス市場で排 他的地位 にあるものの,いずれの品 目もイギ リスの対 トル コ輸入品 目構成 において安定的優位 を占 めることがで きず ,し たがって トル コでは特定産品の生産・輸出に特化 した所謂 モノカルチ ャー経 済が成立 していない と言 える。17 以上の如 くイギ リスの対 トル コ貿易は既 に通商条約 に先立つ 1820年 代か ら着実に進行 していた。 ただ しかか る英土貿易の展開は同時 に次の問題 をも内包 した点に留意 したい。まず イギ リスの トル図
2:イ
ギ リスの対 トルコ貿易収支1825-40年
(単
位 :ポ ン ド・ スター リング)4000000
…Ⅲ… …輸出総額 ――― 輸入総額 ……… 貿易収支 3000000 2000000 1000000 0 ‐1000000 1825 〔典拠〕FE.Bailey,v謝,p.74. コ向け綿製品の進出は確かに沿岸地帯 。紡績部門でこそ進行 したものの,内
陸地帯・織布部門では 国内産業の存続 によ り依然阻害 され ,そ の拡大が限界 に達 しつつあったこと。他方 その トル コ産品 輸入はモノカルチ ャー経済の遅滞 によ り基幹品 目を欠 き,トル コ向け輸出 とは対照的に停滞傾 向に あること。この結果図2の如 く貿易収支 はイギ リスの大幅 な受取超過 となって トル コの対英貿易赤 字が膨張 し,この貿易格差が英土貿易の安定成長 にとって障害 となったこと,以
上で ある。18 ここで表2よ り英土貿易の国際的位置 を確認 してお こう。まず トル コ輸入貿易全体 に占め るイギ リスの地位 は 1830年 代 を通 じて20%か
ら30%へ
と上昇 し, トル コ最大の輸入相手国 となった。他 方 フランスは旧来の独 占的地位 を喪失 して10%弱
を占めるにとどまる。なお東欧諸国はその地理的 近隣性か ら高い比重 を占めるが,うちロシアの黒海経由 トラブゾン向け輸出は一次産 品(穀物,ター ル,皮
革,羊
毛,木
材)を
,またオース トリアの ドナ ウ河経由バル カン諸国向け輸出は種々の半製 品 (鉄,真
鍮,リ ンネル,ガ
ラス,磁
器)を
jそ
れぞれ主力品 日と してお り,工
業製品については イギ リスが排他的地位 を占めた。また トル コ輸出貿易 においてはオース トリア向け輸出が1830年代 を通 じて全体の30%を
占めて首位 にある。イギ リス向け輸出の上し重 は漸増傾 向にあるものの209/9弱 で2位
にとどまり,しか もフランスが僅差で追随 している。か くして トル コ向け輸出 とは対照的に トル コ産品輸入におけるイギ リスの地位 は決 して強固ではなかったと言 える。19 ② イン ド通商ルー ト開発 と トル コ領土 旧来東 イン ド会社 によるアジア貿易は喜望峰・ケープ植民地経由で展開 されて きた。既存の大型 木造帆船 は貿易風 に依存す るべ く大西洋 を大 きく南西 に迂回せ ざるを得 なかったため,その行程 は イギ リス=イ ン ド間の場合で片道およそ5-8ヶ
月もの期間を要 し,食糧・飲料補給の困難,遭
難・●
本
,,T''・ Ⅲ…………・・・・・・・ ガ鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第
3巻
第2号
(2002) 表2-2:各
国の対 トル コ輸入 (単位:%・ 総額のみポン ド・ スターリング) イギ リス フ ラ ンス ドイ ツ オーストリア ロ シ ア 周辺諸 国 総 額 1830/32 14.3 2.1 30.9 12.6 23. 1 3,841,000 1840/42 19.8 16.6 1.9 29. 1 10.4 19.5 5,155,000 〔注〕周辺諸国は南欧 (イ タリア・ギリシア・セルビア)・ エジプ ト・ペルシアを含む。〔典 拠 〕S,Palnuk,助?0胞れ,ヵうりil・2,ヵ′肋rOp?,7∽肋riSFt,7膨θ ′9汚f Trp鬼カッarr4¢″α,どP紗 力frわ,,Cとmbttdge, 1987,pp.31-32.
海賊被害の危険 を伴 うものであった。しか し1820年 代以降,欧米市場の閉塞 によ リアジア市場 の意
義が高 まる一方 ,産 業革命の産物 として開発 された鉄製蒸気船は自家動力の故にアフリカ西岸 を最
短距離で南下で きるもの と期待 され,喜望峰経 由イン ド海運事業の迅速化が追求 されることになる。
1823年 カル カッタ貿易業者 は「カルカ ッタ汽船委員会」Calcutta steam Committeeを 組織 し
,ベ
ン ガル総督の資金援助 とロン ドン巨大商会の出資の もと「ベ ンガル汽船基金」Bengal Sttam Fundを設立,1825年エ ンタープライズ号Enterprizeの建造 とポーツマス
=カ
ル カッタ間の試験運行 を実施 した。しか し初期の蒸気船 は大量の石炭貯蔵 により積載貨物量を空間的に制約 され る一方,推
進手 段 として非効率な外輪 と旧来の帆 を併用 したため,当初 2ヶ 月と計算 された旅程 は 4ヶ 月に達 し,し か も燃料枯渇のため行程の4割
を風力に依存す る結果 に終 わっている。か くして蒸気船 は外洋航海 に不適 とされ,喜
望峰航路への導入は採算 に合わない と判断 された。20 かかる状況下 ,汽船導入に有効なルー トとして トル コ領土 を横断 して東地中海 とイン ド洋 を結ぶ 二種の「近道」Shon cutが注 目され ,そ れぞれ現地調査が実施 され るに至 った。その第一は紅海=
スエズ地峡 を経由す る南方のルー トである。紅海 はその沿岸地形・水深・風向状態が船舶航行に不 適な うえ,ス エズ地峡の陸送は貨物積換の手間を伴 ったが,イ ン ド西岸 ボンベイの歴代総督 は喜望 峰航路の終点 カル カ ッタと競合するべ くその開発 に強 い関心 を示 している。まず1823年M・ エル フィンス トンElphinstOneは東 イン ド会社取締役会 に初 めて紅海汽船航路計画 を発案 し,次代 」・マ ル コムM』
c01mはこの計画 を主に郵便通信の手段 として具体化 した。続 く1829年 には紅海沿岸各地 に石炭補給基地 を整備 しつつ総督財政の負担で ヒュー・リンゼイ号Hugh Lindsayを 建造 し,翌 年ボ ンベイースエズ間を33日 間 (うち12日間は燃料補給 に伴 う港内停泊)で
結んでいる。 しか し東 イ ン ド会社 は貿易独 占の喪失 により巨額資金 を要す る航路開発への参入 を敬遠 したため,1833年 ボンベイ総督は合資会社「ボンベイ汽船委員会」Bombay Steam Committee及 び「ボンベイ汽船基金J
Bombay Steam Fundを 設立 して独 自に開発事業 を進 め ることになった。折 しも上記カル カ ッタ汽船
委員会は喜望峰航路の失敗 により関心 を紅海航路 に向けつつ あり,ボンベ イ・カル カ ッタの両汽船 委員会 は,イ ン ド貿易の主導権 をめ ぐり相互 に対抗 しなが らも,イ ン ド総督W・ ベ ンテ ィンク
Bendnckの
提案の もと紅海航路 を共同開発す ることで合意 した。別 第二はペル シア湾=メ
ソポ タ ミ 表2-1:各
国の対 トルコ輸出(単
位:%。 総額のみポン ド・ スターリング) イギ リス フ ラ ンス ドイ ン オースト,ア ロ シ ア 周辺 諸 国 総 額 1830/32 19,0 9.9 16.9 16.0 4,926,000 1840/42 29.3 8.64.6
22.1 16.5 16.2 5,667,000ア地域 を経由する北方のルー トである。まず1830年 J・W・ テイラーTaylorがユーフラテス河 を調 査し,バ グダー ド太守より「10年期限のチグ リス河汽船航行独 占権」を含む通商特権 を獲得 してい る。また同年にはボンベイ総督 もチグリス河流域を調査 し,さ らに駐土大使R。ゴー ドン
Gordonは
F・ R・ チェスニーChesneyに 指示 してユーフラテス河の流域調査を行わせた。22 なおイギ リス本 国と東地中海 との連絡については,まずロン ドンとイギ リス海軍基地マルタ島 との間において1825 年以降海軍が蒸気艦艇の建造・航行を志向 している。この うちロンドン=ジ
ブラルタル間について は既存の帆船航路が汽船航行に漸次転換 され,ジブラル タルーマルタ間については1832年以降軍用 汽船の定期運行が開始 された。しかし最終行程のマル タ=ア
レクサン ドリア間の接続は今後の課題 として残 された。23 以上の東地中海経由ルー トの開発は,紅
海ルー トと両河ルー トとの対抗関係を内包 しつつ ,い ず れもその遂行には巨額の経費を要するためイギ リス議会の予算措置が不可欠 となる一方,それぞれ トルコ領土のエジプ ト国境 。ロシア国境付近を通過する故,トルコをめぐる国際関係の安定が事業 成功の前提条件 となって くる。(2)改
進的 トーリー主義 と対 トルコ政策 戦後不況 と欧米各国の保護貿易に伴 うイギ リス海外貿易の停滞 を背景 として,1820年にロン ドン 商人が F自由貿易請願』を議会に提出する一方,マ
ンチェスター綿業資本は「マンチェスター商業 会議所Jを
設立 し,以
後自由貿易運動が興隆する。かかる動向に対応 して以後歴代政権の通商政策 は保護主義から自由貿易へ と,またその対外政策は反動主義か ら自由主義外交へと,漸
次転換する ことになる。以下かかる自由主義政策体系にしめる対 トルコ政策の位置を確認 しよう。 ① ハスキッツン通商政策 と重商主義体系の廃葉 1820年,ト ー リー党 リヴァプールLiverpool内閣は「外国貿易調査特別委員会」を組織 してイギ リ ス海外貿易の現状調査を開始 した。その公聴会ではT。 トゥックTookeを
はじめ特にバル ト海貿易 に従事する貿易業者がイギ リス通商規制の弊害 を訴 えたが,地
中海貿易についてはJ・ ニ コル Nichol(グ リーン商会Green&Co,)が
証言 し, トルコ市場がかつてイギ リス産業資本にとってと るに足 らない存在であったものの10年ほど前から大量の工業製品を吸収 し始め,現在では「重大な 意味」をもつ こと,しかるに航海条令に保護 されたイギ リス海運業者の高率運賃がその成長の障害 となっていること,を 指摘 している。24翌
1821年の庶民院審議にて委員長 ワラスWallaceは,植
民 地戦争の終結 した今 日,海外貿易の振興には通商規制の撤廃 と公正競争の倉り出が必要であること,そ の中心課題はオランダ 。ドイツ連邦諸国に対する規制の解消にあるが,同
時にロシア・ トル コヘの 規制の緩和はバル ト海・レヴァン ト貿易を促進 して コーロッパ貿易全体の発展に寄与 しうること,以 上を指摘 しつつ航海条令の改正を勧告 した。改正法案の通過により,大
陸 ヨーロッパからの輸入貿 易は当該商品生産国・搬出国の帰属船舶にも認可 され,以
後 トルコ産品輸入はイギ リス商船のみな らず安価運賃を採用するギ リシア商船にも許可 されるに至 った。25 続 く1822年,トーリー政権は改革派官僚の登用によリリヴァプール改造内閣を編成 し,一連の自 由主義改革を展開する (「改進的 トーリー主義」Liberal Tottism)。 まず通商政策については商務院 総裁W・ ハスキッソンHuskissonの もと数次にわたる輸入関税の引下が断行 され,そ の項点をなす 1825年関税改革では大陸諸国との互恵通商体制による輸出拡大を目的に一次産品・工業製品ともに 輸入関税が緩和 された。かかる農業関税の漸次的廃棄は トルコー次産品輸入の促進にも一定の効果 を与 えたと思われる。26 同時にハスキッソンはロン ドン巨大商人の組織する「レヴァン ト会社」 醗vant Companyの 弊害に着 日している。同社は特権貿易会社 として 16世紀以来 トルコ貿易事業 を鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第
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独 占す るとともに現地の領事活動 を掌握 してお り,一般の中小貿易業者 が レヴァン ト貿易に従事す るには同社への通商許可の申請 と巨額の領事手数料Consulate Fee。 取引手数料の納入が必要で あっ た。27 北部工業地帯の中小商人は既 に1810年代 か らロン ドン特権企業の活動 に抗議 し,周
知の如 く1813年 には東 イン ド会社のイン ド貿易独 占が廃止 されたのであるが,しか し議会審議 において レ ヴァン ト会社の貿易独 占はむ しろ東地 中海貿易の発展 に寄与す るもの と評価 され,また同社 は一般 商人の加盟 を認 める自由会社open companyであって厳密 な独 占企業ではないとされてお り,28 東 イン ド会社の中国貿易独 占とともに依然 その廃棄 が課題 として残 されていたので ある。ところが同 社のグランビル Gren lleは経営の閉塞状況か ら次第に事業存続への懸念 を示す ようにな り,また 1824年庶民院審議では同社の領事任命権 が外務省の権限に抵触す るとして批判 され るに至 った。29 ここにハ スキ ッソンは,上 記 1825年 関税改革 をめ ぐる庶民院審議 にてイギ リス海外貿易の「極 めて 重要 な部門」たるレヴァン ト貿易問題 に言及 し,現
地の政情不安が終息 した現在,領
事人事 として は政府の直接任命制度 が適当であること,同社の課税特権がイギ リス海運事業 を撹乱 していること, 以上 を根拠 に同社の廃止 を提案 し,了承 された。か くして北部の 中小貿易業者 は以後ギ リシア商人 の仲介 に依存す ることな く直接 トル コ貿易事業 に参入す るとともに,現 地の領事任命権 はロン ドン 巨大商社 か らイギ リス外務省へ と移管 され ることになる。30 以上の如 き トー リー政権の 自由主義通商政策において ,現 実 には狭陰 な市場能力 しか持 たない ト ルコ市場 がバル ト海市場 と並ぶ有望 な海外市場 としてその発展 を期待 されていること,ハ スキ ッソ ン通商政策の基礎 はイギ リス輸入関税の緩和にあり,英土貿易の弱点 をなすべ き トル コの対英赤字 を解消す る効果 を持 ち得 たこと,レヴァン ト会社の廃止 に象徴 される重商主義体系の廃棄 によ り,シ テ ィを拠点 とす る旧来の巨大商業資本 は着実にその経済的・政治的勢力基盤 を喪失 しつつ あったこ と,以
上の点 を確認す ることがで きよ う。 ② キ ャニング自由主義外交 とギ リシア独立戦争 他方改進的 トー リー主義の もとイギ リス外交政策の基本方針 も転換す る(「外交革命」DiplomaticRevoludon)。 すなわち前任
RoS・
カスル レーCasdereagllが正統主義・勢力均衡 を基本原則 とす るウィーン体制 に荷担 しつつ ,フ ランス革命の延長 をなす各国民族主義 。自由主義運動の興隆 を抑圧 し,もって ヨーロッパ国際関係の現状維持 を重視 したのに対 し,新任外相G・ キ ャニ ングCanningは その対象領域 を コーロッパ大陸か ら世界規模へ と拡大す るとともに,各地の 自由主義運動 を支持 し, もって産業資本の世界市場進出を支援 した。その典型 は1820年代 における一連の南米 スペ イン植民 地独立運動への介入であり,こ れによリイギ リス産業 は南米各地 に大量の兵器・軍需物資 を輸 出す るとともに,そ の独立 に伴いイギ リスは南米各国 と最恵国待遇 を含む通商条約 を順次締結 し,かく して南米市場 は旧来のスペ イン本国による独 占体制 か ら解放 され るに至 った。31 他方バル カンにおいては自ら首相 に就任 した1827年 にギ リシア独立戦争 (1825-29年 )に 介入 し, 同年7月 ロン ドン条約 にて仏露 とともにギ リシア独立運動の支援 を決議 した後
,10月
ナヴァリノ Navarino海 戦 にて トル コ・エジプ ト連合艦隊 を撃破 している。このギ リンア問題への介入は,直
接 的にはギ リシア正教徒の保護 を名 目とするロシア南下政策の阻止 を目的 としたが,結果的には レヴァ ン ト貿易 において重要 な位置 をしめるギ リシア市場 を トル コ通商体系か ら解放 し,後 の イギ リス=
ギ リシア通商条約締結 (1837年)と 相倹 って東地 中海市場の開拓 に貢献 したと思われ る。32 この意 味でキ ャニ ングの自由主義外交 はハスキ ッソンの自由主義通商 とともにイギ リス産業資本の レヴァ ン ト市場進出を促進 したと言 えよう。ただ しその反面 ,ギ リシア独立の支援 に伴 う トル コ領上の解 体 は,政
情安定 を条件 とす るイン ド通商ルー ト開発への重大 な危機 を意味 した。(3)東
方問題の発生 1820年代 に始 まる英土貿易によって18世紀以来進行 して きた ヨーロッパ=ト
ル コ相互の工業製 品 。一次産品交換 はほぼ確立す る。 この結果南北 トル コ辺境地帯 (バル カン・エジプ ト)に
おいて 経済的には巨大農場の形成 (チフ トリック制Cimik)と
輸出向け商品作物 の生産が定置 し,政
治的 には地方名望家層(アーヤー ン層Ayan)の興隆 とその中間搾取 を意味す る徴税請負制(イルテ ィザー ム制IItizam)の展 開 ,あ るいはエジプ ト太守 メフメ ッ ト・ア リの専制体制 と独 自の専売制度の構築 が進んだ。かつ英土貿易における トル コ貿易収支の逆調は貴金属・正貨の流出を引 き起 こし,か
く して トル コにおける地方勢力の離反傾向 と中央政府の財政 。通貨危機が明白となった。他方 イギ リ ス自由主義外交の展開によって ウ ィーン反動体制は実質的に解体 し,かつ 1823年 アメ リカ合衆国の モ ンロー宣言 によリヨーロッパ外交の新大陸への波及が拒否 されたこともあって ,以 後 ヨーロッパ 国際政治の焦点は「東方問題」 に移 り,列
強による トル コ領土分割の危機 が発生す る。 ① トル コ中央集権政策 と税制改革 かかる内外の危機 にあって開明君主マ フムー ト2世
(在位1808-39年)は
本土 アナ トリアを対象 に中央集権の強化 を進めている。第一は封建勢力の解体 と中小農民の再建であり,1826年には守旧 的常備軍 (イエニチ ェリ軍団)が廃止 されて新制軍隊(ムハ ンマ ド常勝軍)が
創設 され る一方 ,1831 年には軍事封土制 (ティマール制Timar)が
廃止 されて封土の回収 。再配分が試み られた。33 第二 はその財政基盤 をなすべ き一連の税制改革である。まず トル コ政府 は当座の財源不足・通貨減少 を 解決す るべ く一連の貨幣悪鋳 を行 うが,これは貨幣価値の下落=商
品価格の上昇 に帰結 した。34 ま た関税は,その時々の時価 に対 してではな く既存の関税表に予め記載 された固定価格 を基準 に課税 され るが故 に,この物価上昇に伴い名 日3%の
税率 が実質1-2%水
準 まで大幅 に下落 している。こ こに トル コ政府 は3%か
ら5%へ
の関税引上 を計画す るに至 り,これは1831年 米土通商条約 におい て実現 した。しか し主要貿易相手 たるコーロッパ諸国との交渉はカピチュレーシ ョン規定の存在が 障害 となって難航 し,1820年
,34年に物価変動 を考慮 した関税表改正が実施 され るにとどまった。35 このため税制改革の焦点 は列強の干渉 を受けない内国課税に向け られる。まず 1826年 には輸出商品 (ヴァロニア・アカネ・イチジク・オ リーヴ油・羊毛・蜜蝋)に
対す る輸送許可制度 が,続く1827年 には輸出商品の国内買付への内国関税 が,また1829年 には輸入商品の国内小売への同税が順次採用 され,これはイスラム商人のみな らず漸次 国内通商 に参入 しつつ あったキ リス ト教徒臣民及び外国 商人にも賦課 された。 さらに1828年専売制度が主力輸 出商品 (アヘ ン・生糸・穀物 。オ リーヴ油・ 原綿・羊毛)を
対象 に導入 されている。36な お直接税に関 しては,上
記 テ ィマール制の廃上 に伴い 回収 された封土 において徴税請負制の導入が進め られ るにとどまった。37 以上の中央集権政策は,その財政基盤 を専売利権者・徴税請負人 を媒介 とした専売制度・徴税請 負制 とい う問接的徴税機構 に置 く以上,既
に根本的な自己矛盾 を内包 した と言 えるが,同時 に英土 貿易の展開にとって も重大 な障害 を意味 した。まず,一
方の輸出課税 は トル コ産品の対外競争力 を 低め,他
方の中農創出は巨大農場形成 を制約 し,両
者相倹 って トル コの一次産品輸出 を撹乱,す
な わちイギ リスの トル コ産品輸入 を停滞 させ ることになった。また半農半工の 中小農民は,間
接 的に は自給農業への従事 によって余剰収入の蓄積 を阻害す る一方 ,直 接的には家内工業 を通 じて輸入製 品への国内需要 を抑制 し,イ ギ リス製品の内陸市場進出をも撹乱 した と言 える。38さ らに貨幣悪鋳 に伴 う トル コ通貨価値の下落は図3の
如 く対ポ ン ド・スター リング相場 を悪化 させ,英
土貿易その ものの円滑 な進行 を妨害す ることになる。39マ フムー ト2世の内政改革 は,そ
れ 自体前述 イギ リス の トルコ通商関係・外交政策への対応 であったわけであるが,以上の結果逆 にイギ リス産業利害・通鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第
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1814 16
〔典 拠 〕H,W,V.Tempeney,E/1=′′″,ヵどれ¢Mi加ぞ肋 ∫々昴 ¢CP ilz¢α,bndOn,1936,p.405,
商政策の展開に対 して大 きな反作用 をもた らす ことになった。 ② トル コ領土解体 の進行 ロシアは1822年 関税 によってイギ リスエ業製品の進出を排除す る一方,農奴制 に立脚す る安価穀 物生産 を基礎 にイギ リス向け穀物輸出を展開 したが,その拠点 は北部のバル ト海沿岸 にある。他方 南部の黒海沿岸 は肥沃 な黒土地帯 と港湾都市オデ ッサOdessaを 擁 し,隣接す る トル コ属領 モル ダビ ア・ワラキア両国 とともに
,特
にナポ レオン大陸封鎖 によリバル ト海貿易が遮断 された際には有望 な代替市場 として注 目された。1819年アレクサ ン ドル1世
はオデ ッサを30年期限で自由貿易都市 に 指定 し,以
降南部 ロシアは新 たな穀物輸出拠点 として成長す る。しか もイギ リスのバル ト海貿易は 特権会社「 ロシア会社」Russian Companyがこれを独 占 したのに対 し,黒
海貿易は同社設立時点 に は トル コ領土 に帰属 したためその特権が及ばず,一
般の イギ リス民間商船 により展開 された。かか るイギ リス向け穀物輸出をめ ぐる南部 ロシアの経済発展 とその トル コ属領バルカン両国との競合関 係は,当
該期 ロシア南下政策の展開及び露土外交対立の発生の経済基盤 をな している。40 新帝ニ コライ1世は上記ギ リシア独立戦争 と平行 しつつ単独で露土戦争 (1828-29年)を
遂行 し たが,トル コ政府 は海峡通過 ロシア商船への検閲を強化するとともに,自 国軍隊への供給のため一 部積載貨物 (脂肪・穀物)を
没収 し,オデ ッサの輸 出貿易は一時撹乱 され る。41しか し1829年ア ド リアノープル講和条約の締結によって,トル コ政府 は前述 ロン ドン条約 に従いギ リシアの独立 を承 認す るとともに (第10条),ロ シア政府 には黒海東岸 サーカシアCircassia地方における税関・検疫 制度の施行 (第4条 ),その後見下におけるモル ダビア・ワラキアニ大 自治公国の建設 (第5条),セ
ル ビア政府の自治 (第6条),ト ル コ通商 における3%関
税 を除 く各種 内国関税の廃止 (第7条),両
海峡・黒海 における商船 自由航行 (第8条),4億
クルスの賠償支払 とその担保 としての シ リス トリ剛
2 0
:トル コ・ ピアス トルの対ポン ド・スターリング相場1314-42年
(単位 :ピ アス トル)アSilistria割譲 (第
9条
),以
上 を認め,ロ
シアの黒海東西両岸 に沿 った南下政策が進展 した。42他 方 ロシア政府 はその見返 りとして トル コ政府 に上記専売制度の実施 を承認 したと言われ る。ただ し その際,まず イギ リス向け輸 出をめ ぐリロシア産品 と競合す る トル コ産品 (穀物・麻 。木材・油脂) についてのみ専売制度 を認可 し,英
土貿易の撹乱 。英露貿易の促進 を図ったこと,ま た逆 に トル コ 固有の品 目(染料・樹脂)につ いては専売制度 を抑制 し,ロシアエ業の原料調達 を維持 したこと,さ らに南下政策 を展開す るロシア政府 にとって トル コ国家財政の混乱 をもた らす専売制度 はむ しろ好 都合で あった こと,以
上の点が留意 され る♂3 他方 フランスはナポ レオ ン戦争によリレヴァン ト貿易における旧来の地位 を喪失 した ものの,シャ ルル 10世 治下 ブルボン復古王政 は地 中海 を「フランスの湖」とする野望 を放棄できず,また国際政 治における名声の回復 によって国民の不満 を払拭す る必要か ら,エジプ ト太守 メフメ ッ ト・ア リと の経済的・政治的紐帯 を後盾 として 1830年 トル コ領 アル ジェ リアに侵攻 した。この フランスの】ヒア フリカ進出はエジプ トの シ リア進出を誘発 し,太 守 は上記ギ リシア独立戦争への出兵の代償 として トルコ政府 にシ リア支配権 を要求す ることになる(1832年第一次エ ジプ ト事変)。他方 フランスは対 外進出をもって して も国民の支持 を維持で きず,同
年七 月革命が勃発す るが,こ れは隣国ベルギー の独立戦争 を招いて列強の関心 は近東 か ら西欧へ と一時移行す ることになる。44 ③ 英露対立の発生 エジプ ト事変に際 して トル コ政府はイギ リス政府 に派兵 を依頼 し,駐土大使S。 キャニ ングCan… ningも これ を支援 したが,組
閣直後の ウ ィッグ党 グ レイ内閣新任外相パ ーマス トンPalmerstonは 1832年 選挙法改正 に伴 う憲政危機 とベルギー独立戦争への軍事支援 に忙殺 され,東地 中海への艦 隊 派遣 を拒否 した。この結果 トル コは仇敵 ロシアに支援 を要請 し,1833年
7月 に8年期限の ウンキア ル・スケレッシ条約 を締結す る。これ によ リロシアは トル コにエジプ ト反乱時の軍事援助 を, トル コはロシアに戦時の海峡封鎖 を,相互 に保証 し,海
峡 問題 におけるロシアの優位 が確立 され る。45 ここにウ ィリアム4世
は議会での国王演説 において,今
後の コーロッパ平和のためベルギー・イベ リア半島状勢 とともに トル コ状勢に留意す る必要 を指摘 し,トル コ領土保全の必要 を訴 えてい る。こ れを受 けパ ーマス トンもヨーロッパ勢力均衡体系 にとって トル コ領土統一の もつ意義 を認め ,以 後 ロシア南下政策か ら トル コ領土 を防衛す ることがイギ リス外交の課題 となった。46 〔2〕1830年
代 にお ける トザレコ市場論争 以上の如 き トル コ通商 におけるイギ リスの覇権,トル コ外交におけるロシアの優位 ,と い う背景 を踏 まえつつ,本
節では1830年代 イギ リス議会内外で展開 され る トル コ市場論争 を検討 しよ う。(1)イ
ギ リス貿易業者 と トル コ通商規制問題 レヴァン ト会社に帰属す る商人資本は同社廃上に伴い自由貿易原則 に基づ く「新生 レヴァン ト会社」New ttvant Companyの設立 を試みたが失敗 し,以後その末裔た る英系商人ウィタールWittall,
リー
Lee,バ
ーカーBarker,及
び議 会特別法 に準拠 しイギ リス国籍 を認 め られた シャル ノーズCharnouds,ラ ・フォンテーヌb Fontaines,以 上五大商会 がス ミルナ を拠点に英土貿易を牽引す る。 また リヴァプールの個人貿易商会C・ H・バージェスBurgess,ベル
Bells&Co.,ブ
リッグスBriggs&Co.が
新規 に参入 し,ス ミルナだけで30数社の イギ リス海運会社が貿易事業 を展開 した。47これ らの イギ リス商人は上記 トル コ政府の通商規制 に直面す るなか現地 イギ リス大使・領事 に対 し以下の点 を通商活動への弊害 として訴 えている。その第一は専売制度である。専売制度の対象 を
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承認 された専売利権者 にのみ認可 され,イ ギ リス商人の直接買付 を阻害す るとともに現地での仕入 価格 をほぼ固定 した。1833年以来外相パ ーマス トンは新任駐土大使 」・ポ ンソンビーPOnsonbyを 媒介 として ,専 売制度が法的 に既存のカピチュレーシ ョン規定 に抵触す るのみ ならず両国の通商関 係 を抑制 していること,その廃止 によリ トル コ臣民の富 と繁栄が増大 し,帝
国の産業・資源が発展 しうること,以
上 をスル タンに度々進言 した。48第
二 は輸出向け産品の買付・輸送 に対する内国関 税の導入である。内国関税 は前述の如 く1820年 代 において漸次導入 。強化 され,この結果例 えばブ ルサ産生糸 には4i875%,ア
ンカラ産山羊毛には5.25%,羊
毛 には6%の
内国関税が ,カ ピチュレー シ ョンに規定 され る3%輸
出関税 に加 えてそれぞれ課税 され,かつ フランス 。ドイツ商人に比べ特 にイギ リス商人に対 して差別的に賦課 されたと言われ る。イギ リス商人 は現地総領事 」・カー トラ イ トCarlwrightを通 じて イギ リス本国政府の外交干渉 を要請す るとともに,1835以
降 『タイムス』 紙上 において世論に度々その弊害 を訴 えている。さらに正規の国税で ある内国関税 に加 えて地方太 守による恣意的な強制課税の存在 も指摘 されてお り,イ ノスEnosではイギ リス向け黄 イチゴ輸出に20%の
付加税が ,ま たコンス タンチ ノープルではイギ リス向け生糸輸出に 1.25%の 付加税が,それ ぞれ追徴 されたとされ る。49第
二 は通過関税制度である。 トル コ政府 は第二国問相互の通商 を目的 として自国領内を通過す る商品に一律2.5%の通過税 を課 したが,これは黒海 を中継す るイギ リスの 対ペル シア貿易 ・対 ロシア貿易 を阻害 しているとされた。50 以上の如 くイギ リス貿易業者 が レヴァン ト会社の廃止以降 も現地領事・大使館 との接触 を維持 し, これ を媒介 としてイギ リス外相 にその不満 を表明 したことは,と りわけ産業資本が行政機構 との交 渉手段 を保持 しなかったことを想起す る場合 ,英 土通商条約問題 において商業利害 が依然無視 し得 ぬ位置 を占めたことを示す もの として注 目され よう。ただ しその際貿易業者 が批判 した通商障壁 と は基本的にイギ リス向け一次産品の輸出を制限す る専売制度・内国関税 であったこと,換
言すれば 商業利害の要求はイギ リスの トル コ産品輸入に関わるものであったこと,に
留意 されたい。(2)D・
アーカー トと英土双務貿易論 D・ アーカー トDavid Urquh誠 (1805-77年)は
公的 。私的立場で度々 トル コに赴 き, トル コ経 済 。政治事情 に関す る種 々の著作 を出版す るとともに,後に駐土大使館官吏 として英土通商条約の 草案作成 に関与 した人物 である。その血筋 は生粋のスコッ トラン ド貴族 に属す るが ,コ ーロッパ各 国での英才教育 によ り語学・農学・砲術 を修 めるとともにオ ックスフォー ド大学では功利主義者J・ ベ ンサムの指導 を受け,ギ リシア独立戦争には義勇兵 として参加するなど自由主義思想の持ち主で もあった。また国王私設秘書H・ テイラー卿Taylorとの親交 を通 じて ウ ィリアム4世
の知遇 を得て お り,そ
の社会的地位 は当時の支配エ リー トに帰属す ると言 えよ う。a ① トルコの経済価値 アーカー トはギ リシア独立戦争への参加に由来する東方問題への見識を評価 され,国王の勅命に より1831-32年 駐土大使S。 キャニングに随行 して訪土する。帰国後アーカー トは トルコ状勢の詳 細を国王及び外相パーマス トンに報告するが,その内容は著書『 トルコとその資源―イギリス東方 貿易の現状 と将来―』(1833年)と
して出版 され,以
下の如き トルコ市場論を展開 した。52 アとカー トによれば トル コでは旧来良質なインド締製品が優勢であったが,近年では工場生産に 伴 う価格低減 と品質改良によリイギ リス製品が漸次 トルコ消費者の関心を捉え,かつ国産製品をも 駆逐 しつつある。他方 トルコは属領バルカン・エジプ トを含め,多
彩に して豊富な一次産品 (銅・ 鉄・羊毛・綿花・亜麻・生糸)の
供給能力を保持 している。かかる両国の対照的産業構造において はイギ リスエ業製品と トルコー次産品との相互交換こそが双方にとって有益なはずであり,将来 レヴァン ト全体で推計
6千
万 にのぼ る顧客 との商品交換が期待で きる。53しか るにイギ リスは1820年 代以降,綿製品を基軸 に工業製品の トル コ向け輸 出を倍増 させ なが ら,こ れに見合 った トル コ産品 輸入 を行 っていない。この結果,農
村地域では農地の多 くが未耕作の まま放置 され る一方,労
働力 の半分は家内工業 に投下 されて綿織物・羊毛繊毯・皮革製品の自給生産が展開 されている。このた め商品作物生産への特化が停滞 して農民の余剰蓄積が遅れ,輸入製品への購買能力が低下す る一方, 輸入工業製品に対す る国内需要 も低 い状況 にある。54の
みな らず近年 ドイツ毛織物 ・綿織物の トル コ市場進出がめざましく,イ ギ リス製品 との競合状態が懸念 され る。55 かかる状況 においてイギ リスが今後 トルコ向け輸出を一層促進す るには,トル コの対外支払能力 を強化す るべ く,まず イギ リス自身が トル コ産品輸入 を加速す る必要がある。56 その際 まず問題 と なるのは トル コ政府の輸出規制で ある。すなわち近年 トルコ政府 は輸出産品 を対象 に関税 を強化す るとともに専売制度 を導入 したが ,か かる措置は外国消費者 を圧迫 して トル コ輸出貿易 を妨害する だけである。57
しか しょ り重大 な障害 はイギ リス自身の農業保護関税 にある。すなわち トル コ政府 が100ポン ドのイギ リス商品に一律3ポ
ン ドの関税のみ を課税す るのに対 し,イ ギ リス政府 は100ポ ン ドの トル コ産品に対 して,没
食子 ・ヴ ァロエア・アカネの場合 10ポ ン ド,黄
イチゴには40ポン ド,タ バ コについては実に600ポン ドもの高率関税 を賦課 している。したがってイギ リスの トルコ 産品輸入 を促進す る上で, トル コ関税・専売制度のみを批判す るのは筋違いであり,む
しろイギ リ ス輸入関税の引下 こそが必要である。58 以上の如 くアーカー トは,イ ギ リスによる トル コ産品輸入の停滞傾 向が,制
度的には トル コ政府 の輸出規制に由来す るとともに ,構 造的には中小 自営農民の広汎 な展開 とい うアナ トリア固有の土 地制度 に起因することを認識 しつつ,ト ル コ輸出規制の緩和・イギ リス農業関税の引下→ イギ リス の トル コ産品輸入増大→ トル コの支払能力向上→ イギ リスの トル コ向け輸出増大,とい う一連の流 れで両国貿易の発展 を説 き,英
土相互の農工分業体制 を提唱 したので ある。 ② ロシア南下政策の脅威 アーカー トはその トルコ市場論によって世論に大きな影響を与える一方,59 パ_マ
ス トンからそ の知験を評価 され,経済事情調査のため1833年再度 トルコに派遣 された。その途上アーカー トは大 陸諸国を経由 してバルカン諸国及び黒海東岸のサーカシア地方を視察 し,プ ロイセンによる ドイツ 関税同盟の形成 とロシアによる黒海進出をそれぞれイギ リス海外貿易における大陸市場 。東方市場 への危機 と認識 した。側 特に同年におけるウンキアル=ス
ケレッシ条約の締結はアーカー トの トル コ市場認識に大きな影響を与えることになる。 まず1834年 1月の外相宛て報告においてアーヵ― 卜は トルコ市場の経済価値 をあらためて強調 し ているが,そ の立論におけるロシア市場 との対比が留意 される。すなわち,第
一に トルコはイギリ スが旧来 ロシアから輸入 してきた一次産品 (穀物・獣脂・麻・銅・鉄 。鉛・油脂)を
より安価に供 給する能力をもち,ロ シアに代わる有望な食糧,原料供給市場になりうること。第二に トルコはイ ギ リスが現在ロシアに輸出 しているそれよりも大量の工業製品を吸収できるはずであり,販売市場 としての開発の余地が残 されていること。第二にロシアはィギ リスに年間平均400万 ポンドもの一 次産品を輸出 しながら,イ ギ リスか らわずか230万 ポンドの工業製品を輸入するにとどまり,大
幅 な対英貿易黒字を獲得 している。他方 トルコはイギリスにロシアのそれの5分
の 1に すぎない80万 ポン ドの一次産品を輸出 しながら,イ ギ リスからロシアのそれを超 える270万 ポンドもの工業製品 を輸入 して,巨 額の対英貿易赤字を記録 している。かかる対ロシア・ トルコ貿易格差を是正するべ くイギ リスは主要一次産品輸入市場をロシアから トルコヘと転換 させる必要があること。総 じてイ鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第
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ギ リス産業資本の成長の上でロシア市場よりも トルコ市場を重視する必要を主張 している。61 続 く同年 2月 の報告はより政治的色彩が強 くなっている。すなわち,トルコにおけるロシアの脅 威が後退すればイギ リスがロシア穀物に依存する必要はなくなること,トルコ政府はそれぞれバル カン・北アフリカに進出した露仏両国よりもイギリスに対 して強い信頼を置いていること,したがっ てイギ リス艦隊による海峡防衛=対
露開戦が必要であること,以
上の点が指摘 された。62 ③ 対露戦争の必要 しか しこの性急な反露提言は政府首脳の支持を獲得できなかった。そこでアーカー トは帰国後『イ ギ リス,フ ランス,ロシア,トルコ』(1834年)を
出版 し,世 論を対象に反露キャンペーンを展開 し ている。63 同書においてアーカー トはポーランド分割の先例とギリシア独立戦争・エジプ ト事変に 伴 うロシア南下政策の進行を指摘 しつつ,ロシアの トルコ支配が及ぼすイギリス海外貿易への打撃 を警告 した。すなわち,「イギリスの海外輸出において年間3,000万ポンドを消費する トル コがロシ アに支配 された場合 ,当 該地域はロシア関税制度のもとに置かれ」,「イギ リス海外輸出の大幅な減 少が発生する」。64 呆たしてイギ リスは「ヨーロッパで唯―の自由貿易地域の消滅を許せるだろう か。自由貿易を原則 とする帝国 (=トルコ)力S,地
球上で最 も保護主義的な列強 (=ロ シア)に
吸 収 されることを許せ るだろうか。イギ リスは世界第一位の商業的地位をこのような列強に奪取 され ることを許せるだろうか」。他方,「ドナウ河が運河によってオース トリア,ロシア,プロイセン,バ イエル ンの河チIIと接続 されれば,ド イツエ業地帯 と トルコ,ペ
ルシア,エ ジプ ト,ア ラブ,さ らに はイン ドとの直通ルー トが構築 される。これは トルコ領土を経由するインド通商ルー ト開発にとっ て問題ないだろうか」。65ァ _ヵ
_卜 はこのような疑間を示 しつつ,ロ シア南下政策の結果として 単にイギ リスの トルコ市場喪失のみならず,ドイツ産業資本のアジア市場参入及びイギ リス=イ
ン ド通商路の寸断の危険をも指摘 し,英
仏両国の軍事介入を提唱 したのである。 本書は出版直後5版
まで増刷 される一方,Fエデ ィンバ ラ・レヴュー』勁筋う′rg力 R♂ッJιψ,Fクウォー タリー』2′,ため,『ブリティッシュ&フ
ォー リン・レヴュー』B/・iすね力とFο躍をヵR?ツケθψの各言志が好 意的評価 を示 し,また日刊のFフ ォーリン・クウォータリー』Γο乾を乃2,α〃′Jyj,Fタ イムス』,『スタ ンダー ド』sttηカガ各紙 もロシア南下政策への警戒の必要においてほぼ同調 しており,かくしてアー カー トの反露キャンペーンはイギリス世論において広 く受け入れられるに至った。66 ァ_ヵ _卜
は また自ら雑誌 Fポー トフォリオ』勁ι乃′″′′ο∫A ttJttθr,οヵげd勉舵Ppp♂欝 (1835-36年)を
創刊 し, ロシアの海峡支配が東欧におけるオース トリア・プロイセン・ギリシアの衛星国化を,ま たアジア におけるペルシア・アフガニスタンの従属をもたらし,イ ギ リス東方貿易にとって打撃 となること, 英仏両国はレヴァン ト利害防衛のため トルコを「ロシアヘの防壁」a banerto Russiaと して軍事的 に支援する必要があること,を広 く世論に訴 えている。67 さらに後には北部工業地帯(グラスゴウj ニューカスル ,シ ェフィール ドjマ
ンチェスター,リ ーズ,バ
ー ミンガム)の
商業会議所にて講演 し,ロ
シア南下政策が英上自由貿易関係を解体する危険を訴えた。68(3)R・
コブデンと国際分業体制論 周知の如 くR・ コブデンCObden(1804-65年 )は
,マンチェスターを拠点にキャラコ捺染業 を展 開する綿業資本家であるとともに,マ ンチェスター商業会議所・反穀物法同盟を主導 し,後
にマン チェスター選出の庶民院議員として穀物法の撤廃=自
由貿易の採用に貢献 した人物である。69コブ デンの自由主義経済思想は,古
典派経済学 (就中A・ ス ミス)か
らの影響と自身の外国旅行 (1835 年アメリカ合衆国,36-37年
地中海沿岸諸国,38。 40年 ドイツ関税同盟諸国)で
の見聞によって醸 成 され,その原型は「あるマンチェスター産業資本家」A Manchcster Manufacturcと いう筆名で執筆した二大著作 ,Fイ ギ リス
,ア
イル ラン ド,ア
メ リカ』 (1835年)。 Fロ シア論』(1836年)に
て公表 された。70そ の際留意 され るべ きは,後
にマ ンチェス ター派の理論的基礎 をなす この両著 が,上
述 アーカー トの反露 キャンペーン乃至 これに触発 され た国王 ウィリアム4世
の海軍増強計画への批判 を直接的動機 として刊行 されたことである。71以
下両書 におけるコブデ ンの トル コ問題認識 を,一
方でのアーカー トヘの批判,他方での自由貿易政策の主張,両者の連関に留意 しつつ確認 しよ う(以 下,『イギ リス,ア
イル ラン ド,ア メ リカ』 をE,『ロシア論』をRと略記 し,『コブデ ン政治論集』 所収版の頁数 によって典拠 を示す)。 ① トルコの経済価値 アーカー トは トル コの イギ リス海外貿易にとっての市場価値及び イン ド通商路 としての戦略価値 を指摘 したが,コ ブデ ンは トル コの もつ この二重の意義 を次の ように否定す る。 第一 にその市場価値 につ いて。確かに トル コはその広大 な版図に比例 した豊富な食糧・原料の産 出=供
給能力 をもつ。すなわち穀物 についてはフランス穀倉地帯 を上回 る生産能力 をもち,鉱
物 資 源 (銀 。鋼・鉄)。 塩 が豊富であり,綿
花・ タバ コ・生糸の輸出能力 も高い。ワインはブルグ ン ト産 の品質に匹敵 し,バ
ル カンは多様 な木材 を産出す る。各種の果実生産 も盛 んであり,良
質の家畜飼 育 (馬・牛・羊)も
期待で きる (R127-129)。 しか しかかる高度 な潜在能力にもかかわ らず,現
実 には多 くの耕地が放棄 されて輸出向け作物生産 は遅れ,したがって住民の生活水準は低 く購買能力 も劣 る。その原因は トル コの専制体制,就
中その世俗権力 と宗教権力 との統合 にある。 トル コ政府 はイスラム教義の もと一般 に科学技術の習得 に疎 く,ま た経済活動 ,と りわけ海外貿易 を蔑視 して お り,これは専 ら領内居留異教徒によって担われているのが現状である (E16-1働 R129-132)。 他方 トル コ市場 をロシア市場 と比較 した場合,確かに トル コはどの コーロッパ諸国 よ りも長 い海 岸線 とヨーロッパ最大の河川,良好な港湾者h市を有す るのに対 して ,ロ シアは海岸線 が短 く港湾都 市が少ない上 に,その多くは冬期には凍結す る。しか しかかる自然的条件の優劣にもかかわ らず,過 去1世
紀 において イギ リスの トルコ向け輸出が22万ポ ン ドか ら80万ポ ン ドヘ とほぼ4倍
に伸張 し たの対 して,その ロシア向け輸出は6万
ポ ン ドか ら230万ポ ン ドヘ と実 に40倍まで拡大 してい る。 また両国の通商政策 を比較すれば,まず トルコはその 自由貿易政策 を高 く評価 されてい るものの,実 際には生糸に対 して過重 な輸出関税 を賦課 し,穀
物 ・鉱物 資源 は海外輸 出を禁上 してい る。輸入関 税は確かに他の諸国より低率であるが,輸 出規制や政情不安 によって輸出向け作物生産 が停滞 して いる以上,イ ギ リスエ業製品に対す る購買能力は低 い (E14-18)。 しか も輸入関税の低 さは決 して 海外貿易 を振興す る意図に由来す るものではな く,む しろ政府が財政基盤 として複雑 な関税制度 よ りも単純 な国内課税 を選好 した結果 にす ぎない (R129-132)。 他方 ロシアはその保護貿易政策 に よって イギ リスの強い非難 を受けているが,その際か くい うイギ リス自身 もロシア穀物・木材 に禁 止的関税 を賦課 している事実 を忘れ るべ きではない。またロシアが国内産業 を育成す るべ く関税障 壁 を設定 してい ることは,トル コが経済活動への怠惰 か ら国内市場 を開放 していることに比べれば む しろ評価 されて しかるべ きである (El島R144-145)。 か くして トル コ市場の発展 は「幻想」にす ぎず,「イギ リスはかかる地域 との通商関係 に何 ら関心 をもつ ことはで きない」(E10,18-19)。 か くしてコブデ ンはイギ リス海外貿易の発展の地理的方向 として東地中海地域 よりもバル ト海地域 を志向 しつつ,ロ シアとの相互関税引下による双務貿易の 必要 を主張 したのである。 第二 に トル コの イン ド通商ルー トとしての戦略価値 については,コブデ ンはそもそ もイギ リスの イン ド支配 自体が巨額の統治経費・防衛経費 を投入 して まで維持 され るべ きであるのか否か疑間を鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第
3巻
第2号
(2002) 39
示す。すなわち,「植民地の獲得・維持のため,これまで3億
ポン ドもの恒久的負債 を蓄積 し,数 百 万ポン ドの年間課税がなされ,世
界各地でイギリス海外貿易に規制 と禁止 を課 してきた。これ らは 全て一体なんのためだったのか」(E19-21)。 コブデンはA・ ス ミスの植民地論を援用 し,また西イ ンド・カナダ植民地における自由貿易の採用とその成功の事例 を指摘 しつつ,植
民地貿易において は旧来の保護貿易よりも自由貿易の採用がむしろ有効であることを主張 し,多額の当地経費を吸収 するイン ド植民地支配の放棄 を提唱する(E21-25)。 ここにマンチェスター派の植民地分離論の端 緒を認めることができるだろう。 ② ロシア南下政策の脅威 コブデンはアーカー トの主張するロシア南下政策の脅威についても疑間を示 している。 第一にロシアの国力発展にとって南下政策がもつ意味について。まず,ロシアのポーラン ド分割, オランダのベルギー支配,イギ リスのアイルランド領有,スペインの大西洋支配に見 られる如 く,一 般に外国の海外支配は被支配国の抵抗,他
国の武力干渉,巨
額の統治経費を伴 うものであり,ロシ アの トルコ支配は決 して容易なことではない(E20)。 また列強の中でロシアは最大の国土面積 を有 するが,し か しそれ故に人口密度は低 く政府の財政収入は最 も少ない。すなわち支配領土面積は必 ず しもその国家の国力を体現せず,む しる人口密度・財政能力こそが真の国力の基盤をなす (R134 -137)。 したがって既に国内に広大な過疎地帯を持つロシアが トルコ領土を獲得 しても,そ の人口 密度・財政能力をさらに低下 させるだけである(R138-142)。 かくして南下政策はその遂行がそも そも困難であるのみならず,た
とえ実現 したとしてもロシアの国力を高めることはない。 なおロシアの領土拡張に対する非難は,イ ギリス自身の植民地支配を考慮する場合 ,矛 盾 した行 為である。確かにロシアは18世紀 より領土拡張を進め,バ ル ト海から太平洋,中国国境から北極海 にわたる版図を形成 したが,そ の間イギリスもフランス・オランダ・スペインの犠牲の上で植民地 領有 を展開 し,ジ
ブラル タル と喜望峰 を足場に世界規模にわたる領域 を支配 して きた (R153-154)。 しかもロシアは自国防衛のため隣国の好戦的 トルコと交戦 したのに対 し,イ ギ リスは単なる 自己繁栄のためだけに遠隔の平和的地域を侵略 したのである。ロシアのポーラン ド分割でさえ,か つて神聖ローマ帝国・カ トリック教徒により侵略された国上の回復 と見なせば必ず しも違法な行為 とは言 えない。これに対 してイギ リスのインド支配にはかかる正当性が全 くない (R157-159)。 第二にイギ リス海外貿易にとっての南下政策の意味について。アーカー トはロシアが黒海・両海 峡を封鎖 して「 日本型通商政策」を採用 し,イ ギ リスを黒海貿易から駆逐する危険を危惧する。し かしナポレオン大陸制度が最終的に挫折 した事実が示す如 く,そ もそも「暴力や強制は決 して人間 の自然的需要・嗜好を克服できず」,「専制権力が自由貿易を妨害することは困難」であり,ロ シア がイギ リス黒海貿易を阻害することは不可能である (E10-14,106-107)。 む しろ今やロン ドン金 融市場の媒介なくして国際商業は成立せず,また世界各地からの原料輸入なくして工業生産は不可 能であり,海 外貿易が「世捨て人」たりえない以上,ロ シアの黒海封鎖はありえない (R145-147)。 のみならずコブデンはロシアの南下政策をイギリス貿易活動の促進要因としてむしろ好意的に評価 している。まず ロシアは「反商業国家」and―commercial nadonと して非難 されるが
,18世
紀のバル ト海進出を契機に西欧諸国との通商関係に従事 し,黒海貿易についてもほかならぬロシアこそ
は1774年キュチュク・カイナルジ条約及び1829年ア ドリアノープル条約によってこれを トルコの
独占状態から世界市場に開放 したのである (R132-133,142-143)。 ロシアはまた自由貿易都市オ
デッサの貿易活動や ドナウ河における定期汽船計画によって黒海貿易の振興に努め,さ ら黒海東西