香 川 大 学 経 済 論 叢 第66巻 第3号 1993年 12月 3-25
プラニング型企業戦略と労働党の産業政策
一 一BL
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年史
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山 本 尚
l はじめに 1973年10月の中東戦争勃発による石油ショックは,戦後先進資本主義諸国の 持続的高成長の主柱であった自動車産業を深刻な不況に陥れた(第 l表参照)。 急激な販売低下と原油・原材料コストの急騰によって西側世界の主要自動車企 業が著しい収益の悪化を記録したが,とくに巨大な国際自動車リーグにおいて もっと弱い環の1
つであったブリティッシュ・レイランド社は,巨額の欠損を 出し事実上倒産したことは前稿で見たとおりである。 この経営再建のあり方をめぐって2つの企業戦略様式が提起された。 lつは 第1表 1973-1975年不況期の主要国自動車生産 自動車生産(千台) 変 化 率 1973年 1975年 % アメリカ合衆国 12,674 8,989 -29..1 日 本 7,086 6,942 - 2..0 西 ド イ ツ 3,948 3,185 -19.3 フ ラ ン ス 3,218 2,859 -11.2 イ ギ リ ス 2,164 1,648 -238 イ タ ア 1,958 1,459 -25..5 ソ 連 1,600 1,960 +22..5 ス ペ イ ン 822 814 - LO プ ラ ジ ル 729 930 +27..6 ( 1) Bardou, Tean-Pierre et al (1982)The Automobile Revolution. The 1m
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an lndustη(The University of North Carolina Press) , p. 190より作成。-4ー 香川大学経済論叢 496 管理組織の機能阻害をプラニングによって代位・補充しようとする方向であり, ライダー・レポートおよびドン・ライダー
(Don R
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主導の下で実施され たプラニング型再建計画である。第 2は CPRSレポートのシナリオに沿った会 社再建案であり, 1977年11月1日のM エドワーズ(M
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の社長就任 以降実施された企業者型企業戦略である。この2つの路線の背景にはイデオロ ギー・レベルでは社会主義と自由主義の対立があり,政治的には労働党と保守 党の対抗があったため,BL
は「政治的自動車会社」として公共の関心を集めた。 本稿では,石油ショック以降の大量生産・大量消費をささえた蓄積体制が崩 壊したアフター・フォーデイズムの局面におけるBL
の資本蓄積様式の矛盾と それに対応する労働党の産業政策の展開について解明することを目的とする。 まず第2
節ではBL
の経営危機の実態分析をおこない,第3
節では「ライダー・ レポート」の内容と提言を紹介し,第 4節では「産業法」をめぐる政治過程に おける労働党と保守党の論争を取り上げ, その結果成立した「全国企業庁」(
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以下NEB
と略記する)をBL
との関連で分析 することにする。 2“BL
の経営危機 1973年初めにイギ、リスがECに加盟したことに対躍して,周年夏BL
は近代 化のため5億ポンドの5カ年投資計画を発表し,それに関して通商産業省と協 議を開始した。 ところが1973年秋以降の一連の事件一一石油危機,週3日制, 世界的不況,急速なインフレーションーーがBL
にその資本投資計画およびそ の財務状態を抜本的に再検討することを余儀なくさせた。73/74年度予算におい て6,800万ポンドの税引前利潤を想定していたが, 74年3月末までの上半期に 1,660万ポンド (約112億7千万円)の税引前損失が報告された。それは前年同 期の2,300万ポンドの利潤と対比するときにBL
に「最後の一撃」を与えたと (2)M
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(1985)Innovatioη and Management Control' Labour497 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 -5ー いってよい。その直接の原因は,ヒース政権が
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4
年1
月1
日から3
カ月間燃料 危機に対処するために商工業に導入した週3日労働制にあった。同年2月ヒー ス首相は炭鉱夫の全国ストライキ突入を前に議会を開散し,総選挙を行ったが 敗れ,第3次ウィルスン内閣の誕生をみた。 新労働党内閣の産業相トニー・ベン氏 (TonyBenn) は BLの決算報告書が 公表された 5月 1日に BL社長ストークス卿と BLロンドン本担で数時間にわ たって会談した。その会談は「グリーン・フィーJレド地域」に巨大新工場を建 設するための BLの5
億ポンドの資本支出計画が5
年から7
年に延長されると いう問題に集中した。 BLは政府の援助が補助金およびその他の援助の形で利 用できないミッドランズ地方にその拡張の若干を集中することを望んでいた。 BLは7
4
年上四半期の週3
日制一一それは会社に1
0
万台の自動車の生産ロス をもたらした一ーの効果がなければ,前年並みの実績をあげたであろうと主張 した。ストークス卿はその年の下半期に利潤を予想したが, BLの資金状態(前 会計年度末の5
,1
0
0
万ポンド)が悪化する程度および会社の資本投資計画の変更 の詳細は明らかにしなかった。彼は3
月2
5
日の BL株主総会において上半期に 「巨額の損失」が予想されるので配当は支払うが,前年の組21ペンスに相当す る保証はないと述べた。事実1
9
7
4
年度下半期においても資金状態は悪化を続け, 9月末までの1年聞にオーストラリア子会社閉鎖による損失をふくめて合計 (5)2
,3
9
5
万ポンドの赤字を計上した(第2
表参照)。この BLオーストラリア製造事 業の閉鎖コストは「例外項目」の1
,5
7
0
万ポンドであり,シドニー・ウォタールー 乗用車製造部門の閉鎖と工場用地売却から生じた損失であるので,この点にや や立ち入って述べておこう。 オーストラリアおよびニュージーランドは,イギリス自動車産業にとって重 要な市場であり,戦後イギリス自動車輸出の40%
を占めていた。しかし1
9
6
8
年 にBMC
,レイランド,ローパーおよびアペリング・パーフォードの別個の経営 (4 ) この会談は産業省によって「純粋に定期的なもの」と述べられたけれどもストークス卿 は会社の損失について協議したと言われる (TheGuardian, 2 May 1974)。
(5) BL, Rψort and Account宮 variousyearsより作成。 (6) Financial Times, 25June1974& 17July1974川-6- 香川大学経済論叢 498 からイギリス最大の海外子会社レイランド・オーストラリアが設立されて以来, 一貫して損失を計上し,最近
4
年間で1
,3
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万豪ドル(約8
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万ポンド)の累積 債務をかかえていた。 レイランドのオーストラリアにおける地位は,その伝統的小型市場における 日本の小型車の挑戦によって困難に陥り,他方重要な6
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シリンダー乗用車 市場ではトラナおよびフアノレコンをもったG Mーホールデンおよびフォードの アメリカ系の力によって押されていた。とくに関税引き下げによって日本車の 輸入が急増し,オーストラリアにおけるマーケット・シェアを1
9
7
4
年7
月に 35,8%に引き上げた。これがレイランドの戦略を侵蝕しレイランドのオースト ラリアにおけるシェアは5,,3%以下に低下した。 第2表BL
の営業実綴(百万ポンド) 年 度 1973 1974 売 上 高 1,564 1,595 税引前利潤 51 3 2,,3 税引後利潤(損失) 27,,9 (6 7) 例外項目前収益(損失) 26,7 (8,2) 例外項目後収益(損失) 27,3 (239) 配 当 (87) (3 0) 純価値(資本および準備金) 287 260 工具をふくむ資本支出 62,7 108,,3 例外項目前l株当たり収入(損失) 4,,5 P (L4) P 例外項目後1株当たり収入(損失) 4,,6P (4 0) P 1株当たり配当 147P 0,,5 P l株当たり純価値(帳簿価値) 484 P 43,,9 P 自動車販売台数(千台) 1,161 1,020 1975 1,868 (761) (63 2) (639) (1235) 138 92引4 f.(1,,08) f.(2,,08) 845 ニュー・サウス・ウエールズのシドニーのレイランドの組立工場は,年間5,500 台のオースチン・モリス車の生産能力と5
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人の生産ライン従業員をもった。 しかし政府の反インフレ措置,ディーラーを援助するための金融会社を欠いた こと,オーストラリア市場が大型車から小型車へ需要シフトしつつある時に499 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 - 7ー ローパー
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から開発した4
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リット1レエンジンを搭載したオーストラリア・デ ザインVs
であるレイランドP
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を生産したことが失敗の原因としてあげられ るが,就中日本車との競争が致命的であった。 レイランドは生き残りキャンペーンを展開し,政府の援助を求めた。本会社 は5
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人の労働力を雇用するシドニーにおける最大の民間会社の雇主であり, 現地生産者からの部品の大購入者であり,全国規模の卸売・小売ネットワーク が存在していた。与党オーストラリア労働党議員の若干は,日本の田中首相の1
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月3
0
日から始まる訪豪の期間中にこの救済措置について政府間レベルでの協 議がなさるべきだと提案したといわれる。 さて,最終的に閉鎖されることになったオーストラリア製造事業の閉鎖コス トを含めてレイランド・グループ全体で合計2
.
3
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5
万ポンドの損失を計上したこ とは前述の通りである。既に1
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月のロンドン・モーター・ショウに集まった自 動車産業関係者の間ではBLがクリスマス前に国有化されるという情報が有力 になっていた。真夏以降会社資産の価額は一株当たり5
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ペンスが近かったが, BL株は7ペンス前後に低迷し,現実資本と擬制資本の靖離が昂進した。 BLの ジグおよび工具のみで3
.
2
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万ポンド値打ちがあり,ノてランス・シートは設備, 機械および工場が4
億ポンドの値打ちがあることを表示している。しかし株式 市場では2
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万人の従業員をもっこの巨大な産業体が5,0
0
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万ポンド以下と評価 された。 顕著な正確度をもってシティ筋の情報は,この会社が政府保証の下に,約3
,0
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万ポンドを調達しなければならないと予想した。自動車業界も通常彼の日 程を注意深く計画する人である経営取締役ジョン・パーパァが彼のBLチーム との徹夜の会合のために夕食会の約束を突然破棄したとき見方を変えた。1
2
月 6日までにうわさがあまりにも意図的であったので産業相トニー・ベンは,パー ( 7) Financial Times, 170ctober 1974 (8 ) ブリテツシュ・レイランド・ウォッチャーは, 1973年4月から74年3月末までの株価 の急低下(40P近くから10P近くまでへ)を見て74年下半期における業績回復に疑問を 持った (TheEとonomist,4 May 1974)。
-8← 香川大学経済論叢 500 ノTァと電話で協議して事前に生き残り計画の概略を発表せざるをえなかった。 同日ベンは国会において指導的輸出業者および大量雇用者としてのBLの重要 性にかんがみ,政府は同社取引銀行にたいして既存の枠を越えて必要な運転資 金の融資保証を国会に求めると通知していること,同社の投資計画への援助要 請に対応して公的措置を含む長期的制度を導入する意図のあること,この目的 のために本会社の状態と展望について勧告することを任務とするドン・ライ ダー卿を団長とするハイレベルの調査団を任命すること,などを提案した。つ いで12月18日にはベン産業相は1972年産業法第8条にもとづくこの会社への融 資保証枠を5,000万ポンド未満まで可能とする決議をおこなった。同時にライ ダー・チームのメンバーの名前を発表し,その任務を次のように述べた。 1.. 会社および労働組合と協議して BLMCの現状および会担戦略,投資,市場,組 織,雇用,生産性,労使関係,利潤および金融の範囲にまたがる将来の展望の 全般的評価をおこない政府に報告すること」。 3.. ライダー・レポート BLにかんする200ページにおよぶライダー・レポートは, 1975年3月27日に 政府に提出された。ライダー・チームはレポートの最大可能な分量が公表され ることを望んだが,営業上の機密保持のためかなりの部分が削除されざるをえ なかった。チームの各メンバーは特殊な専門領域を分担しており,ライダー卿 自身は中央管理組織を担当した。前フォード・ヨーロッパのスタンリ・ジレン 氏 (SGillen)は製造, ヒノレ・サミュエノレ社のロパート・クラーク氏 (RClark) は金融問題, ピート・マーウイツク・ミッチェJレ社のフレディ・マクファーター 氏(F.Mc Whirter)は会計システム,そして運輸労働組合のハリー・アーウイ ン氏(H.Urwin) は労{吏関係をそれぞれ担当した。
(10) Ryder Committee (1975)British L司yland The N.αt Decade(London HMSO) (11) Financial Times, 27 March 1974. S ウイルクスは「ライダー・レポートに基づいて
BL I救済』を行う決定は,恐らくイギリス産業政策史における単一のもっとも重要な決
定であろう」と述べている (Wilks,S.. (1983)lndustrial Policy and the Motor lndustry
501 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 -9-ここでドン・ライダーのプロフィーノレを一瞥しておこう。彼はタウン・ホー ノレの事務員の息子として当時「郊外の女王J といわれたイーリング (Ealing)の 学校を16歳で終えた。彼の名はシドニー・トマス (SydneyThomas)であり, 「ドン」はニツク・ネームである。彼の級友たちは彼を真面白で勤勉でトあるが グループ・リーダーでなかったと記憶している。 学校を終えた彼は広告に応募して「モーニング・ポスト」の金融編集長アー サー・キッディ (ArthurKiddy)の下でシティーで{動くようになった。キッディ はこの業界の第一人者で,第
1
次世界大戦中に貸付を交渉するためにワシント ンに送られる日本通貨を改革したことで有名であり,毎日午後4
時にイングラ ンド銀行総裁室への入場権をもっ唯一のジャーナリストであった。彼は形式に 厳格でト保守的なドレッサーであり, ドンが彼の傘をたたまないでシティを歩い ているのを見てショックを受け危なく首にするところであった。しかしキッ ディの重要な影響は職業上のもので,毎週末に金融理論にかんする部厚な書物 をこの若い徒弟に渡し,日曜日に読ませ,月曜の朝質問に答えさせた。この訓 練はドンが後にファイナンシャノレ・タイムズの投資相談欄を担当した時に大い に役だ、ったと思われる。 しかし何と言っても彼を有名にしたのは深刻な危機に陥いったリード製紙会 社 (TheReed Paper Group)を12年間で繁栄した国際的コングロマリットと したことである。彼は「乗取り男J (The Takeover man)の異名をもち,高度に競争的本能をもった現代的タイプの経営者であった。彼がこの会社を退職し たときこのグループの売上高は
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,3
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0
万ポンドから7
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万ポンドへと増加 し,純利潤は4
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万ポンドへと増加し,従業員数は2
2
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人 から8
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人へと増大した。リード社におけるライダーの成功のカギ(KFS)
は彼の時間と精力の60%を若手経営者の訓練システムのために捧げたことで あった。金融ジャーナリストとしての彼の初期の経験から彼はイギリス経営の 多くの小役人的愚かしさに批判的で,伝統的な役員室的柔和のかけらも持たず, 数少ない自力でたたきあげた巨頭であった。リード社の初期の再組織の多くも (12) The Observer, 2 February1975-10- 香川大学経済論叢 502 3人の経営責任者一一ライダーと他の 2人の重役一ーによって遂行された。こ のビジネス独裁者としての個人的スタイルが,政府におけるビジネス・マンと して政治家および官僚との際限のない委員会にもかかわらず,
1
9
7
7
年5
月1
9
日 に収賄事件でNEB
総裁を辞任するまで続けられることになった。 つぎにわれわれはライダー・レポートの予後,診断および治療法について概 略しておこう。まず予後についてみれば,自動車産業において新モデルの採用, 大工場近代化計画の決定およびこれらのプロジェクト完成までにわ4
年が経 過するため,1
9
7
5
-
-
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-
-
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年の「次の1
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年間」の市場展望をおこなう。乗用車市場 のみについて見れば,1
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年にイギ、リス1
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万台,西ヨーロツパ(イギリスを除 く,以下同じ)約9
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万台,1
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年にイギリス1
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万台 と予測して, BLはそのうちイギリス市場で現状の3
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-
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-
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4
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%
のシェアを維持す ること,成長が期待される西ヨーロッパ市場で現在の3%
以下のシェアの5
割 増を希望した。 このような世界市場展望の下に本レポートは1
0
年後のBLのヴィジョンない し目標をつぎのように設定している。 (1)一般的に言って自動車生産はイギリス経済の基盤の最重要部門としてとど まるべき種類の産業である。したがって,たとえ次の1
0
年間の競争が激化し ようとも BLは現在の約1
6
億ポンドの売上高,約5
億ポンドの外貨および約1
0
0
万人の雇用を確保しなければならない。 (2) 競争的地位を改善するために自動車.産業と関連のない分野にその事業を多 角化することは賢明でない。 (3) 乗用車およびトラック・パスの両部門で生産を継続すべきである。又乗用 車市場の「量産」および「スペシャリスト」両セグメントで生産を継続すべ きである。 以上のような世界市場展望および会社のヴィジョンをかかげて本レポートは (13) 以下の叙述は,主としてRyderCommittee (1975)による。本レポートについては,中 本和秀 (1983) r産業政策と経営戦略に関する一考察Jr福岡大学商学部論叢』第27巻4 号参照。503 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 -11ー 具体的な診断と治療法を展開する。本稿ではこれを管理組織(組織および人事), 競争力(開発,生産,マーケティング)およびファイナンスの3点にわけで紹 介しよう。 (A) 管理組織 新生会社を経営するためにライダーはラインおよびスタッフ 責任の複雑な混合を除去するために大規模な再組織を提案した。本レポートは, 「現在の組織構造が
BL
の経営の効率に有害な作用をもつこと」を指摘すると ともに'BL
のトップ・マネジメントにおける変更がなければならないであろう こと」を強調した。乗用車事業内における調整ならびに乗用車事業とBL
の他の 活動聞の調整が副社長兼経営取締役の責任となっているため,彼はあまりにも 広範囲にわたる統制力をもつことになり,そのため彼を補佐する大規模な本社 スタップが形成されたが,その結果,ライン・スタッフ相互の調整に時間がか かり,かえって意思決定を遅らせることになった。会社スタッフの広汎な利用 は,かれらを有用な統制下におかずにライン・マネジメントの権限と責任を侵 害した。そしてこれらの組織構造上の基本的欠点は,BL
のトップ・マネジメン トが責任を移譲することを嫌ったために悪化したと指摘し,副社長兼経営取締 役J
・パーパァのパーソナリティの適性にまで批判を加えたのである。 この状態を改革するために本レポートはより少ない会社スタップをもっ4
つ の製品部門構造による代替を提案した。ライダーは,本社スタッフの削減,責 任のラインへの委譲,事業部への自律性の付与を原理とした新組織を提案した (第1図参照)。代表権のない社長,最高管理者および4事業部があり,各事業 部にはそれぞれ経営取締役が配置された。しかし肝心の乗用車部門の主要構造 については 4つのオプションが提示されたにとどまった。 つぎにこの組織構造改革と関連して前稿で述べた連合派と統合派との対立が 本レポートによってどのように決着がつげられたかを背景説明をかねて述べて おこう。ライダー・レポートはストークス・レポートともいわれるようにストー クス路線を継承するものであった。とくにライダーは過去2
週間J
・ターンブノレ と広汎に会議した点は重要である。ターンブルは1
9
7
3
年の決定的な役員会で (14) Ibid, p..55-12ー 香川大学経済論叢 504 BLの将来組織にかんする論争で敗れてBLを去った際,最初の転職先を申し 出たのはライ夕、ーが社長をしていたリード製紙会社であった。それは不調に終 わり,前稿でふれたように彼は韓国の自動車会社創設のため離英したが,ライ 夕、ーとターンブノレはきわめて親密な関係を続けておりターンブルが上級幹部, 恐らく社長として復帰する可能性もうわさされていた。すなわち BL改革をめ ぐる連合派の路線が継承され, ミドノレ・マネージャーとショップ・スチュワー ドの妥協の上にたつ温和で、調和的なアプローチを採用したのである。 他方,本レポートは総合派にたいして敵対的な態度をとった。本レポートは 「現在の組織構造がBLの経営効率に有害な作用をもつこと」を指摘するとと もに総合派の副社長兼経営取締役
J
・パーパアに批判を加えたため,本レポート で 唯 一 明 ら か な こ と はBLの 固 有 化 の 際 の パ ー パ ァ の 辞 任 で あ っ た 。 彼 の フォード的経営スタイルは,工場経営者およびショップ・スチュワードの双方 に不人気であり,少なくとも委員の1
人は彼を擁護したけれども,ストークス 卿とともに解雇された。 (B) 競争力 つぎに BLの競争力について「ハード」面と「ソフト」面の両面 第1図 「ライダ一報告」の提案した組縮財幕迄 (15) Pryke, R (1981)The Nationalised Industries (Oxford, Martin Robertson), p..230505 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 13← についての本レポートの見解をみよう。まず「ハード」面を製品範囲と生産合 理化についての診断と治療法についての本チームの勧告を要約しよう。 まず製品合理化については(1)乗用車および商用車両部門で生産を継続すべき である。 (2)乗用車の「量産」および「スペシアリスト」セグメントの両方にお いて生産を継続すべきである。ミニシリーズおよび中型,大型,高級および豪 華セグメントをカバーする製品の生産の継続が決定された。同時により少なく より良いモデル,デザ、イン,工作に集中するために同一部門間のモデル間競争 を削減し,異なったボディ・シェル,エンジン, トランスミッションなどの数 の引き下げとともに持続的なマーケテイング努力の必要性が強調された。又ミ ニに対する代替小型自動車の開発が承認され,
1
9
7
9
年までにそのための新しい 中央実験所および工場の建設が提案された。つぎに生産合理化のために緊急に とるべき行動としてつぎの2点をあげた。 1つは生産施設の再編成によって各 工場開の分業化・専門化を進めること,第2
に,旧式で、非効率な工場および機 械の更新を進めること,がこれである。まず前者についてみれば, BLは歴史的 理由によって全国に分散した5
5
の製造工場をもち,そのうち2
9
は乗用車専用工 場であった。合併以来生産の合理化はあまり行われず工場開で製造部品・半製 品の大きな輸送が必要である。この改善のためには工場開分業調整,たとえば 組立て工程の一貫工程化や同系部品の同一工場での生産が必要である。 後者のBLの生産設備の最も深刻な特徴は,工場および機械の大部分が古く 時代遅れで,非効率であることである。このことは鋳物工場に典型的に見られ, 現代の効率水準のみでなく安全・環境基準に照らしても緊急な近代化が必要で ある。 BLの低生産性の主原因をこうした「ハード」面に求めることが本レポー トの特質をなしており,後に述べる CPRSの「ソフト」原因説と顕著な対照を なしている。 つぎに労使関係についての本レポートの見解と改善策を要約しよう。 BL失 敗の原因を1
7
万人従業員の「働らかな過ぎ」に求める見解を退けるが,非公認、 争議数の多発と生産の中断がBLの競争力を低下させていることは認めてい る。すなわち BLの生産の中断は,しばしばBLの労働力統制の外にある要因の-14ー 香川大学経済論叢 506 結果であったし,工場および設備の崩壊,誤ったスケジューノレ,原料および部 品の不足および対外的な労働争議という要因の結果であった。たとえばサウ ス・ウエールズにおける若干の
BL
の工場は,すぐれた労使関係の記録をもっ。 しかしBL
の現存の資本投資および計画された追加的資本投資の有効な使用はBL
の競争力回復のために不可欠であるという観点からショップ・スチュワー ドと労働者の協力と参加を軸とした労使関係改善策を提案する。 この労働パフォーマンスの改善のために本レポートは,賃金支払制度,団体 交渉および産業民主主義の3
項目について検討する。本来フォーデイズムは, 計測日給制,中央交渉方式および管理者統制と適合的な生産システムであった。 ところがBL
は多数の小会社の集合体であるというその成立の歴史的展開を反 映して1
9
7
0
年頃までなお出来高給制度,多数で複雑な交渉単位および工場レベ ルでのショップ・スチュワードの過大な権力と影響力によって特徴づけられて いた。本チームは,BL
の計測日給制への切り替えはその代償として余剰人員レ ベルを認めた点に問題があるが推奨さるべきであるとし,交渉単位については 労働組合との協議の下に徐々に引き下げうるべきであるとしたが,産業民主主 義については「若干の重要な進歩」があるべきであると提案した。これはBL
の 労働者を挑発せず協力を取りつけることを目的とするとともに,当時の産業相 トニー・ベンの政策の影響をみることができょう。ライ夕、ーはすでに存在した 経営=組合委員会を強化するために3
つの主要なレベルー工場,部門そして最 上位に合同評議会ーに新機構を提案した。これは後述のように1
9
7
6
年に従業員 参加機構として具体化されることになった。(
C
)
ファイナンスBL
の財務上の不利についてのライダー・チームの診断 は,前稿で述べたので,ここでは処方筆,すなわち本プログラムのコストおよ びファイナンスについて述べておこう。1
9
6
6
年の造船業再生にかんする「ゲデ ス・レポート」の例にならい巨額の国家資金の投入とその正当化のための特定 の将来の収益性の予測をする。まず必要な資金について1
9
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2
年までに総額イン フレ価格2
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億1
千万ポンド(不変価格1
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億6
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0
0
万ポンド)が支出される。その 支出額の約%(約1
5
億ポンド)が乗用車事業に充当される。そのうち1
0
億ポン507 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 15-ドが新製品開発,モデル・チェンジに支出され,乗用車部門を強化する。その 他運転資本として約7億5千万ポンドが投資され,計約28億ポンドが支出され る,と試算する。 その結果として効率の改善を見た場合, 1981/82年までにBLの売上高利益 率は11%,使用資本利益率は19.6%に改善されると予想する。これらはいずれ も 1968/69~1973/74年の期間の実績に比較して約 2 倍の増加である。その場 合BLの追加的資本需要にたいして年間12%の利子率で借り入れをおこなって も利潤でカバーできる。そしてさしあたって1978年9月末までに約9億ポンド が外部資金によって調達されなければならないとした。 この規模の融資を通常の資金源から調達することは不可能であることから本 レポートは,強く政府が資金調達を行うべきであると論じた。初期の9億ポン ドのうち
2
億ポンドが現在の当座貸越勘定から利用司能であり,合理的にギア リング比率を確保するために残りは2億ポンドの新株式資本からなるべきであ ると提言され,その大半は政府によって購入され,さらに5億ポンドは政府貸 付によって調達されるものとした。さらにBLの労働者および経営者による生 産性および効率の改善を条件として1978年9月末と1982年9月末の聞に5億ポ ンドが政府によって調達されるべきであると提言した。 ライダー・レポートは1975年3月26日産業相に提出された。その勧告は政府 によって受け入れられ,それは現存の株式の大半を一株当たり1
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ペンスの価格 で買い上げることによって BLMCを公有に接収した。新会社はブリティッ シュ・レイランドと呼ばれ, 1975年5月に発足した。政府の持株は1976年2月 に後述の国家企業庁(
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にゆだねられて,その会長はドン・ライダー卿自 身であった。 ライダーのアプローチは,従来のBLMC経営とのアイデンティティを維持 しながら国家持株会担に組織変更したことにある。それは製品戦略面でほとん ど見るべきものがなく改革にともなうコンフリクトを抑えるために採用した産 業民主主義も「組合にプレッシャーをかけるため,国会議員にプレッシャーを (16) Wilks, op. cit, p..99-16- 香川大学経済論叢 508 かけるため,内閣にプレッシャーをかけるため」に使われる結果となり, BLは 「政治的自動車会社」となった。 個別企業にたいする政府援助は,すでに保守党政権でロールス・ロイス社お よびアッパー・クライド造船業救済として行われ,ヒース政権のUターン政策 のきっかけともなっていたが,BL規模の政府介入は経済全体に影響を与え,イ ギリスの産業国家としての将来を左右するものとして主舞台は議会に移ること になった。 4.. 議会と産業法案
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年2
月労働党は相対多数ではあったが総選挙に勝利し,第3
次ウィノレス ン政権が誕生した。しかしこの時期のイギリスは,低成長,不況と失業,イン フレ,国際収支の悪化が一層悪化した時でトあった。労働党はイギリスの貧弱な 工業パフォーマンスがイギリス経済問題の根源的原因であるとの認識に立ち, 新産業戦略を展開することになった。 この時期の労働党の産業政策を検討するに先立って戦後の労働党の産業政策 史を経済政策における位置づけと関連させて素描しておくことは無益ではある まい。労働党は戦後3
固にわたって約6
年ず、つ政権を担当した。アトリー政権 (1945~51年),第1•
2 次ウイルスン政権 (1964~70年),第3
次ヴイノレスン= キャラハン政権 (1974~79年)がこれである。いずれも危機又は転換期といわ れる時期であり,労働党は経済の危機管理の役割を担ったといえる。第1
期は 大蔵省=商務省=シティ軸の下にマクロ経済政策の型を設定した時期である が, ミクロ経済政策の面では国有化を除いて未だ萌芽の状態であった。固有化 についてはこの段階では党政策の目的であるとともに手段として重視され,い わゆるモリスン型公社として専門家方式が採用された。第2
期はマクロ経済政 策が必ずしも産業の利害に一致しないことが認められ,産業省=経済問題省= (17) Willman&
Winch, op cit, p 32 (18) 高橋哲雄(1983)r イギリス労働党の産業政策思想、の転換一一1964~70 年一一」両氏他 編『比較社会史の諸問題~ (未来社)参照。509 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 17ー 技術省が中心となって産業政策が形成されはじめた。この時期に国有化はもは や目的ではなく「全国投資計画」へ従属した形で提起され,所有ニ管理問題よ りも競争=市場原理が重視され,競争的公企業のコンセプトが提案され,産業 の民主的改革は棚上げされた。これにたいして第
3
次ウィルスン=キャラハン 政権で石油危機に端を発する世界資本主義の危機を背景に流通面からの統制で は不十分で,必然的に生産面への統制へと拡大せざるをえなくなり,当初主導 権を握った左派(そのリーダーはベン)は固有化拡大政策を復活させ,しかも 労使関係の悪化を産業民主主義の導入によって打開せんとする急進的産業戦略 を提案し,経済における政府介入の範囲と有効性の増大を意図していた。 さて1975年1月に発表された「産業法案」は 2つの系譜をもっと思われる。1
つは労働党の伝統的な固有化政策であり,他は保守党および労働党政府がと もに行った私的産業への補助金政策である。まず前者から見て行こう。産業法 案の主内容をなす全国企業庁 (NEB)の考えが最初に提起されたのは, 1969年 党大会のための「全国執行委員会J(NEC)声明に遡る。それは1972年党綱領に 盛り込まれ,さらに73年4月に労働党の研究クゃループが,ヴォクゾール社の労 働党議員でもあり,エコノミストでもあるホランド(
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の影響の下に 「グリーンペーノ-{'-Jを起草し,全国企業庁がイギリスの製造業上位100社の中 約20~25社に介入すべきであると要求した。これらの NEB の将来の子会社は, これらの指導的企業の売上高の1/3,雇用の1/2および収益の2/5を占めることに なった。庁の目的は投資の促進,インフレの抑制および国際収支の改善であっ た。これらの見解は1973年6月の NECの「イギリスのためのプログラム」に盛 り込まれた。この文書は,政府が私企業からの若干の情報を得,価格,利潤お よび投資計画をカバーする私企業との「プランニング協定」を結ぶ、ことを可能 にする立法のようなイギリス産業に不人気な他の提案を含んだ。党首ウィルス (19) 産業法案については,山名修作 (1975) rイギリスにおける最近の固有化動向Jr大学院 研究年報(中央大学)J第5号, 1975;西口直次郎 (1975) rイギリス産業国有化拡大政策 についてJr経済学雑誌』第73巻第 4号, 1975年 10月;木村敏男 (1977) rイギリス産業 の国有化の鉱大についての諸論点(1) r研究と資料JNo,39. 1977年 3月;辻和夫(1991) 「英国における国家持株制度の消長Jr商学論集(西南学院)J37-3/4, 1991参照。一18- 香川大学経済論叢 510 ンは, NEBの25の指導的企業の接収についての勧告を除いてこれらの提案を 賞賛した。この計画がミドル階級の彼の票を失わせると考えたからである。ウイ ルスンは25企業プロジェクトにたいする彼の反対において左翼のベンやマイケ /レ・フット(M.
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によってさえ支持され,党大会でこの問題についての彼 の地位を受け入れるよう説得した。彼は同年8月「イギリス産業の再生」と題 する政府白書を発行したが,それは党の左翼の若干が希望したよりも穏健で あった。その文書は「特定の基幹産業部門における直接的国家のイニシアチブ の手段を提供するために」全国企業庁を設立することを提案したが,前年1
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月 の労働党の政策綱領で提起された25の指導的企業を固有化することについては なんらの言及もしなかった。それはベンの副相でトリビューン・グループの指 導者の1
人エリック・へ←ファー(EH
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によって起草されたもので,ベ ンの提案は,党の全固執行委員会とトリビューン派によって支持されたが,ウイ ルスン,ヒーリーおよび公務員組合から激しい反対を受けた。報道によれば, 仰) 「白書」は25回以上も書き直され,最終的な成案は,右派の勝利であった。そ れは,直接的公有によって経済の管制高地を獲得することではなく r修正資本 主義の生きのびうるフレームワーク」を提供することを目的としたのである。 さて,つぎに「産業法案」の第2
の系譜をなすミクロ・レベノレでの政府の企 業への補助金政策をみておこう。それは地域政策との関連で提起され,1
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年 代後半以降重要性を増して来た。労働党政府によって採用されたr
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年産業 開発法J(
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において「新しい機械又は プラントにたいする承認された資本支出にたいする」補助金システムが採用さ れた(より高率の補助金が開発地域で利用できる)。この措置は1
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年に保守党 政府により投資目的のための免税システムに転換された。一般的な産業への政 府介入の観点、からr
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年産業法」は特に重要である。それは個別企業の固有 化に反対して提起されたもので,本法は当時の通商産業相に大蔵大臣[の承認を 得て援助が「イギリスの経済又はイギリスの特定部分文は地域に利益」となり, (20)K
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(1988)S
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Capital and Private Entertrise.. The Case of the UK NatiOnal五時teγpriseBoard, pp..4-5511 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 19 そうならば,又「かかる援助が提供されることが国益になる」ならば,そして 「財政援助が国務大臣による以外提供できないか又は適切に提供できない」限 り企業に選択的財政援助を提供する権限を与えた。しかし
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年法は国務大臣 が被援助会社の承認なしに株式取得を禁じた他,援助金額枠も小さかったが(保 証を含めて6
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百万ポンド),それまでなされなかった方法で産業に対する選択的。
。
援助のきわめて広い措置を規定した点で画期的であった。新産業法案は1
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年 産業法の拡張という形で1
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年1
月末に議会に提案された。それは政府と産業 の聞のプラニング協定および会社による情報の公闘を含む他産業の投資,再設 備および再組織において主要な役割を演ずるために 7億ポンドの創業資本をも っ「全国企業庁」を設立した。とくに NEBは国家持株会社として設立され,私 的産業の分野での会社の株式を取得し,会社にたいして営業的収益を求めた。 産業相はNEBに一般的命令を与える権限をもつが,NEBは独立した組織であω
り,産業相は日常業務に介入する特例の権限を持たなかった。 この国家統制の拡張は労働党内にも波紋を投げかけた。労働党右派のハロノレ ド・リーパ (HaroldLever)はNEBの考えに快く思わず,キャッシコ・フロー 危機に苦しむ会社になんらの紐もつかずに援助する政府投資銀行の創設を提案 した。マンチェスターのユダヤ人家族出身の彼は株式市場の復活に流動性危機 克服の活路を求め,それを利用して「裏口から安く」国有化することを反対し た。シュンベーターの徒である蔵相のデニス・ヒーリー (DenisHealey)はウィ ノレスン首相とともにいくつかの機会に健全で利潤のある民間部門に対する彼の 信念をひれきしたが活動性を改善するため行動をとることを約束した。左派は かねてから現在の形態の混合経済に嫌悪をいだいており,現在の産業の金融危 機を利用して産業民主主義をともなった経済の公有部門の拡大を図ろうとし ω た。その中心人物がベンであるが,ここでヒーリーによるベン評を紹介しておω
こう。労働党内においてベパン (NyeBevan)が去って以来左翼は2
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年間党に(21) Coombes,
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and Walkland,S
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(1980)Parliaments and EconomκAβ
匂的 (Lon -don, Heinemann), p.. 52(22) Ibid, p.. 54
(23) Financial Times, 30ctober 1974.
-20- 香川大学経済論叢 512 大きな影響を与えることをやめた。初期の時代に彼はただ有望だが無害の変わ り者と見られていた。アトリーとゲイツケルが党を去ったとき,彼の雄弁とテ レビ向きの才能のためウィルスンは
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年総選挙の際の宣伝活動における中心 的役割のために彼を選んだ,ベンは上流階級出身の急進派であり,ブリストル 選出の労働党議員である点で1
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年代のクリップス派(
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の正 統な後継者であった。とくにウィルスンの「白熱の技術革新」の雄弁な代弁者 であり,無用の長物となったコンコルドをぺンの閣僚キャリアのそニュメントω
と見ているが構造改革化の旗手としての彼の手腕をヒーリーは評価している。 ベンの日記によれば,ウィルスンやキャラハンの党首脳が反組合的となり,そ の強大すぎる権力を恐れ,ますます右傾側して行くなかで革新の灯を守ろうとω
した。彼にとって新産業法案は私企業に対する挑戦であったのみでなく,モリ スン型国有化に対する挑戦であった。 さて,院外の新産業法案に対する反応はどうであろうか。まず組織労働は, その法案に喜んだ。労働組合総評議会 (TUC)の書記長レー・マルレイ (LM
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はNEB
がイギリス製造業を強化するのに役立つだろうと考えた。し かしイギリス産業連盟(
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は,ビッグビジネスを代弁して,その手段を「破 壊的で危険である」として攻撃した。それはプラニング協定にかんする措置お よび情報公開を国家が企業に強制する措置のために嫌っただけでなく,私企業 を統制するあまりに多くの権限を政府に与えることを非難した。産業家を最も 驚かせたと思われるものは,NEB
が株主から株式を単に購入することによっ てその取締役会の同意なしに企業を接収することができるということであっ た。ウィルスンとこの法案を処理する労働党議員は,NEB
の接収は「合意」に よってなされることを強調したが,党内左派を意識してそれを明言することをω
拒否した。 院内においても同法をめぐって与野党は激しく対立した。とくに本法案の真 (25) Ibid, p..409(26) Burk, K & Cairncross, A. (1992)'Goodbye, GヤeatBritain'. The 1976 IMF Crisis, p.14
513 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 -21ー の核心をなすNEBをめぐってほぽ10カ月間イギリス議会において白熱した討 論が展開されることになる。 BL史を主題とする本稿では体制をめぐる抽象的 論議の紹介は避け, NEBの目的,範囲およびファイナンスの具体的な3点に焦 点をおいて主要論争を紹介しよう。 まず目的についてベン産業相は第
1
に「イギリス製造業の長期的衰退を新し く重要な公共投資の資金を提供することによって逆転させ,雇用を維持し,拡ω
大することを助成すること」をあげた。この点について労働党議員は産業衰退 の原因として市場とくに資本市場の失敗を指摘して政府介入の必要性を強調し た。「本世紀初頭から資源中の産業投資の比率はその主要工業競争国のそれより も低かった。これは保守党および労働党の双方の下でそうであり,好況時におω
いても生じた。J (ミカード議員 (MrMicardo) ) 0 r本法案の戦術の基礎にある ものは,労働党および保守党政府が過去に1
5
年間なしたようなケインズ的需要 管理の方法を通じて主要な全国決定に対するある程度の計画統制を行使せんと することはもはや不可能であることであった。 かれらは工場や会社の経営に入って行くことはせず, 工場フロアーでの技術 的および経営的専門意見に耳を傾けようとしないで, シティにあるスログモー トン街やスレッドニードル街の役員会室一一それはイギリス人民の利益よりも この国の外部の利益により多くの責任をもっ一ーに入って行こうとしたJ(ハー ト議員 (MrsHart) ) 0 rここで採用された戦略は結果である…・,,"歴代政府はケ インズ的需要管理技術を試みた。かれらはあめとむちおよび投資に対する刺激 を提供した。 しかしわれわれはどこにいるか。……われわれは投資水準におい て240ECD
諸国の中2
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番目にいる。……試みられテストされた方法は失敗し ω た。われわれは新しい戦略を必要とするJ (ハート議員)。 つぎに範囲についてもっとも議論の中心になった高収益製造部門の固有化の 論拠についてへーファー氏 (MrHeffer) (リパプール,ウォルトン,労働党) はつぎのように述べた。新しい戦術は,深刻な危機を処理し,製造業を再建す (28) (29) (30) Hansard, 17 February 1975, p. 935 The Times, 230ctober 1975 Hansard, 220ctober 1975, pp..505-7.-22ー 香川大学経済論叢 514 るために肝要であった。それをなすための手段はNEBで提供され,それは高収 益部門に入ることを意味した。もしNEBがすべてのレームダックのみに決着 をつけるならば,それ自身がデッドダックになるだろう。反対党はNEBがレー ムダックの保管所を見ることを好むであろう」と述べて「ミイラ取りがミイラ になる」ことがないよう警告した。 さらにヴァリー氏(産業相,チェスターフィーノレド選出労働党)は上院の修 正についてこれは「公企業に対する原則的反対に基づくものであり産業法案』 の核心に打撃を与えるものであり,これらの権限が削除されるならば, NEBは イギリス産業に再活力を与え,被救済地域の失業に取り組むことの有効性を損 なうであろう。J I新企業設立の庁の権限は,民間セクターを浸蝕するために使 われないであろうし,それは適当な商業原則に従うであろう」。 さらに上院の修正についてへーファー氏は「上院が修正する議院であること は理解しているが,この本法案がもし受け入れられでも何も意味しないだろう がゆえに破壊的修正であった。…川もし上院が「憲政上の危機」一一われわれ はそれを欲しないが一ーを欲し,選挙されない議員に対して彼らが全人民を動 員することを欲するのであれば,彼らは自身の撤廃を早めるであろう」。 これに対し保守党の議員は本法案に反対した。ヘゼルタイン氏(野党影の産 業相)は「少なくともべン氏が産業相であったとき,彼が民間部門,民間企業 および資本主義制度に反対であったことは周知のことであった。ヴァーレイ氏 が大臣になったときその趨勢を逆転させてくれることを期待した。しかし ヴァーリー氏は,産業に充分な利潤を稼得する機会を与える必要を理解したと いう徴候はない」。と述べた。ファアーバン氏は「本法案は,イギリス産業の再 生,営利性,競争力および活力の再生にかかわるものと想定されている。しか しそれはイギリス産業の堕落と産業官僚主義にかかわるものであるJoI本法案 は,国家介入,悪法,官庁および執行部によって地上のいかなる国の産業より もすでに著しく傷つけられ,そして拘束されたイギリス産業にもう一つの死の
(31) The Times, 230ctober 1975 上院修正の主たるものは, NEBの機能,とくに「公 有を製造業の利益ある分野に拡大すること」の機能の削除にかかわるものであった。
23-プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 515 手をさしのべることであろう。本法案はイギリス産業ののろいとなろう」。反対 党をしめくくってキング氏は述べた。恐らくイギリス政府がイギリス産業を駄 目にしたのであろう。なぜ、イギリス産業がここで失敗したか又あそこで失敗し 業が政府の経済政策のつねに変わるパターンに抗して良好な成績をあげたとい イギリス資本主義と経済政策自体に自動車産業衰退 の原因があることを示唆し r何人かイギリス産業が納税者を失望させていると 立ち上がっていうことを許してはならない。事実は,大蔵省へそれが巨大な買 なぜイギリス産 たかについて『おしゃべり』するのはきわめて容易であるが, と述べて, わないのか?J と述べて,産業への財政援助を拒否しない 1 4 る あ で ﹀ ﹂ ヲ ﹂
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救済との関連でとくに注目されるNEB
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がその機能遂行の ために利用できる資金限度を7億ポンドと規定した。 レポートの勧告したBL
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億ポンドまで引き上げうる。私は質問したいのだがブリ を納得させることはできなかった。 ティッシュ・レイランドのみで『ただ立っているため』だけで直ちに 2億ポン ドが必要だというストークス卿の数日前の声明を特に注目するとそれだけで充 われわれの生活水準が改善される トム・キング(TomK
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氏は「サン もしイギリス経済が拡大し, 分であろうか。 ぺきならば巨額の資金が必要である」。 デー・タイムズ紙は一連の論文において必要投資額をおそらく1
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Ibid (32)516 億ポンドと算定している。 NEBに割り当てられた金額はブリティッシュ・レイ
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ランドのみに取り上げられてしまう」と指摘している。反対意見としてピー ター・ビガーズ (PeterViggers)氏は「新法案の第7条によって国務大臣に利 用しうる財政措置にたいする実質的制限はない。なぜなら 7億ポンドという枠 は一一それは協議によって10億ポンドまで引き上げうる一一新法案の第3条の 下で支払われる金額を含まないからである。国務大臣は実質上政府資金の支出 ただ一つの留保のみを受け,その留保も議会的でな く実際的である。 u …・・彼はすでに国家の傘下にある会社のために資金が必要で それらはブリテッシュ・レイランドを含み,それは明らかに数億ポンドω
との懸念を表明している。 にフリー・ハンドをもち, ある。 香川大学経済論叢 -24-! l i t i t i l -i l i t -! i i ? i t i i I r -i i i p 「産業法案」の議会審議と並行してすでに1975年3月にそれが制定されたと きNEBがその法的機能を行使するに必要な準備作業を遂行するための組織委 ライダー卿を会長とするその委員会は「一般都市労働者組 クロライド・グループ社長兼筆頭 レアドグループの経営取締役 を必要とするであろう」 合」書記長ノTスネット氏(D..Basnett) 51歳, 取締役のエドワーズ (MichaelEdwardes) 44歳, ガードニア(John Gardinir) 38歳,および「運輸一般労働組合」副書記長アー から構成された。同年1
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日産業法が施行さ 員会が任命された。 ウイン (HarryUrwin) 60歳, その他8
~16名の他の委員も任命された。会長および他の委員は産業相によって任命さ (35) れることになった。 ライダーはNEB初代会長に任命され, れNEBが創設されたとき, NEBの発足晩餐会においてべン産業相は彼の政府によってNEBに利用で きる資金は彼の目的にとっては全く不充分であることを明らかにし,それが一 層大きな野心的な仕事をなすための手段と見ていた。100億ポンドの数字が目標 として掲げられた。晩餐会の出席者の若干は,協力者でありそうになし 態度は,若干の心配を喚起した。首相と蔵相がベンに対して厳しい手綱を保持 この Hansard, 17February1975, p.1022 Ibid, p.1126. Financial Times, 26March1975 (33) (34) (35)517 プラニング型企業戦略と労働党の産業政策 ω しており,彼はあやつられているとエドワーズは述べている。 -25-ホワイト・ホールにおける内部政治が何であれ,クレイマー (D