戦時財政経済政策 における「生産力理
131論」の批判的検討
経済学教室はじめに
一問題 の所在一
I
島恭彦 『財政政策論』 と生産力理論
H
生産力拡充政策 の展開 と生産力理論の形成
Ⅲ
戦時統制経済の進展 と生産力理論
IV
戦時租税政策 と生産力理論
結びにか えて
は じめ に 一 問 題 の 所 在 ― 戦時体制下 における経済政策 の本質 とその歴史的意味 を問 う作業 の中で,ど
うして も考察 してお かなければな らない理論問題 の一つ に「生産力理論」がある。 この生産力理論 とは,「一国の生産力 の伸展 を目標 として社会構造 の合理的改造 を主張す る理論」Kllであ り,そ れ は思想弾圧 の進展 ととも に,し
だいに体制批判 の余地が狭 め られてい く当時の状況下 において,政
策批半Jの主流的潮流 を形 成 した ものであつた。 したが つて,生
産力理論 は経済政策論 のみな らず戦時下の社会科学全般 にわ た り広範 な影響 を与 えず にはおかなかったのである。 しか し,生
産力理論が体系化 されていったのが,主
に社会政策 を論 じた大河内一男や風早八十二 の理論活動 によったため,生
産力理論 の検討 は,戦
後 のいわゆる「社会政策本質論争」に関連 して, もっぱら社会政策分野 を中心 に行 われ る傾 向にあった。しか も,この本質論争 自体 も,「多 くの社会 政策学者 によって行 われなが ら,数
年 をへず して,お
おむね,不
毛,不
生産的 とい う評価 の うちに 中断 して しまつた」K21のである。そのため,社
会科学の各分野 にわた る生産力理論 の検討 は,十
分な 展開をみることな しに現在 に至 っていると言 つて よい。 本稿 の課題 は,以
上 の研究状況 を鑑 みて,戦
時下の財政学 とりわ け財政経済政策 における生産カ 理論 の批判的検討 を行 うことにある。そのための素材 として,戦
時財政経済政策 における生産力理 論 の特徴が よ く表れている と思われ る島恭彦『財政政策論』(河出書房,1943年
)を とりあげる。 ま ず は,『財政政策論』 にお ける生産力理論 の検討 を行 う前 に,簡
単 に本書 の位置づ けをしてお こう。 島の『財政政策論』 は1943年 の出版であ り,典
型的な戦時下の著作である。当時の きび しい言論の制約のもとで
,日
本の現状に批判的たろうとした社会科学者の思想は
,浅
田光輝によれと
ギ次の二
つの方向で展開 された とい う131。 一方で は,ひ
とまず 日本 の現実 を去 って西欧近代社会成立史 に研究対象 を求 め,そ
こで近代資本 主義がいかにして封建制 を駆逐 し,い
か にして典型的な近代社会 を形成 したか を追求す る。 これに よって,前
近代的要素 を多分 に残存 させている戦時下 の日本社会 を間接的 に批判 しようとす る方向 である。他 のひ とつ は,軍
部専制下 の戦争遂行 の号令 に応ず る形 をとり,総
力戦体制下 における生 安¬
藤 田安一:戦時財政経済政策 にお ける「生産力理論」 の批判的検討 産力拡充・産業構成
=技
術構成高度化 の要請 にことばを託 して,そ
れを阻止す る要因 としての日本 資本主義 における封建制・非合理性 をあば き出 し,そ
の改革・民主化 をはか ろうとす る方向である。 前者 は大塚久雄 の西洋経済史 に代表 され る近代社会成立論であ り,後
者 は大河内一男・ 風早八十二 の社会政策 に代表 され る戦時経済政策論である。 実 は,本
稿で批判的検討 の対象 とする『財政政策論』 の著者 。島恭彦 は,戦
前 において,す
でに 以上 の二方向のいずれの思想展開にも関わっていた。島の戦前 における著作 の うち,前
者 を代表す るもの として は,『近世租税思想史』(有斐閣,1938年
)が
あげられ るし,後
者の代表 として,こ
の 『財政政策論』 をあげることがで きよう。いずれの著書 において も,当
時 日本の財政学会 を支配 し ていた ドイツ財政学の批判 をとお して,経
済学 に基礎 をお く社会科学 としての財政学 の展開 をめざ した もの として,高
い評価 を受 けて きた“ち しか し島恭彦 は,自
著の『財政政策論』に関 して,自
ら 次のような厳 しい評価 を下 している。 「和歌山で発表 した『財政政策論』 (1943)に は,戦
争 の傷跡が処々にあ らわれていることを認 め なければな らない。例 えば『財政政策 は国民経済 の生産力 を引 き上 げる政策の一環 として評価 され ねばな らない。』とか『財政収入 を増大す ることは金融や租税 の技術 によって貨幣収入 をか き集 める こと以上 に生産力拡充 の問題 に関連 している事実 を知 らなければな らない。』な どと書いていること である。 これ は明 らかに生産関係抜 きの『生産力説』であつた。つ まり戦時生産力の増強のために, どうい う財政 。金融政策 を とって もかまわない,結局インフレ政策の弁護 につながる理論であった。」① だが,こ
れ以上 の展開 はみ られない。なぜ,戦
時下 の財政政策論 において生産力理論が生 まれた のか,ま
た,生
産力理論 は生産力拡充政策や戦時租税政策 さらに戦時統制経済 といかなる関係 にあ ったのか,等
々の内容 は依然 として不明の ままである。 したがって,本
稿 で は,こ
うした疑問 を解 明す ることを通 して,島
恭彦 『財政政策論』 を素材 に戦時財政経済政策 における生産力理論 を検討 す る。 この ことは,戦
前 における島恭彦 の業績 の うち,1938年
発刊 の『近世租税思想史』 と1943年 に出版 された この『財政政策論』との理論的距離 を計 ることで もあ り,また日中全面戦争の勃発(1937.7)を
契機 とす る急速 な戦時体制への移行下 に,生
産力理論的色彩 を強めていった当時の社会科学 の特徴 を知 ることにもつなが るであろう。 以下の展開 は,次
のような順序 になる。 まず,戦
前 における島恭彦 の財政学の特徴 と生産力理論 との関係 に若千の検討 を加 える。つ ぎに,生
産力理論が経済的 よりどころとした生産力拡充政策 と 統制経済 の進展が,生
産力理論 の形成 に与 えた影響 を考察す る。最後 に,戦
時下 の財政政策 の展開 と生産力理論 との関わ りを,租
税政策 の具体的展開を中心 に検討す ることにしよう。I
島恭彦 『財政政策論 』 と生産 力理論
小山弘健は生産力理論を
,日
本資本主義論争後の日本資本主義研究の中で
,つ
ぎのように位置づ
けている。 「講座派理論 。とくに山田イズムにおける国家論 の欠如 に基づ く経済主義的偏向が,こ
の段階で は一 そう拡大 されて『生産力理論』 にまで偏衛 したこと。すなわち新段階で は,上
か らの思想統制 の圧力 とあい まって,全
体 として政治構造 との対応 を無視 した経済構造面 の分析 に限定 されただけ でな く,そ
のなかで も階級的対立関係 を規定す る生産関係 の解明が回避 され,研
究 の重心が もっぱ ら生産力の側面 に移行 し,次
第 に技術論的研究が経済的分析 の基準 とされたのである。生産力 また は技術 の展開の見地か ら経済的発展の合法則性 を把握 しようとす る傾向 は,そ
れ 自体 として偏向に 菜 IE カ ぐ 狽 窄 」 ノ を 1鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 45巻 第
2号
(1994) 133
おちい るだけでな く,そ
れが政策理論 となった場合 には,支
配階級への協力政策=戦
力増強 の理論 に転化す る危険性 をもった。」t6j この引用文の前半 にみ られ るような生産力理論 を講座派理論 の延長 として とらえることには異論 が あろうが,生
産力理論 の出生 を当時の社会科学が有 していた理論的弱点か ら導 きだ した点 は注 目 されて よい。すなわち,戦
時下 の思想統制 によつて生産関係 の解明が阻 まれて,余
儀 な く生産力的 側面 に分析 の対象 を限定 した とい うだけで は,生
産力理論 を形成す る必要条件 とはなって も十分条 件 を欠いている。両条件 を満足 させ るためには,生
産力 の発展それ 自体がすでに歴史的進歩 を代表 す るものだ,とい う認識が入 って来なければな らない。大河内一男が,「一国の国民経済 は生産力増 大 に合理的に展開 してゆ く」と言 うとき,ま
た「一国の経済 は生産力 に合 目的に改編 され るべ きだ」 と述べて生産力 の量的発展が社会進歩 の推進力であるかのようにみなす とき,こ
の生産力のプハー リン的 とも言 うべ き強引な理解が十分 に根 をはっているのがわか る。 『財政政策論』か らうかが えるように,島
恭彦の生産力理解 も同様 に,生
産力 自体 の発展 を歴史 的進歩 ととらえ,ま
た,そ
れ を担 う社会階級 とその階級 に役立つ財政政策 は,そ
れ 自体 として進歩 的であるとみていた ことは,ほ
ぼ間違いないであろう。実 に,生
産力概念 をこのように理解するこ とによつて島恭彦 は,真
の富の源泉 としての物的生産力 を封建制 の極格か ら開放す ることを緊要 と して財政思想 の展開がみ られた17・ 18世紀のイギ リスやフランスにおける市民革命期 の経済学 を評 価 し,こ
れによつて,封
建諸階級か ら産業資本 の生成 を担 う市民階級 の手へ と物的生産力 を移行 さ せ ることの正当性 を理論づ けた市民経済学 の財政改革論 の歴史的意義 を,み
ごとに描 きだす ことに 成功 したのである。 しか し,こ
うした もの として生産力 とい う概念 を把 えた ことが,島
恭彦 の財政学 の展開 には両刃 の剣 となった。すなわち,経
済学 に基礎 をお く社会科学 としての財政学 の樹立 をめざそうとした島 恭彦 に とつて,一
方で,先
の生産力概念 は,当
時 日本 の学会の主流であつた ドイツ官僚主義財政学 を批判す る有力なテコとなった。 と同時 に,他
方で この生産力概念 は,島
の財政政策論 を著 しく生 産力理論 に染 め上 げる決定的な要因 ともなったか らである。 このうち,前
者 の ドイツ官僚主義財政学批半Jと生産力 との関係 を,島
は次のように述べている。 「吾々 はか くて従来独逸財政学の展開の中に財政学史の基本的系譜 を求 めようとした見解に対 し て,む
しろ経済学 の発展の裡 に財政学 の歴史 を見 ようとす る。恰 も財政学 をその中に含んだ経済学 が国家や政治 に関す る問題 について一 そう広大な資格 をもつ事が出来 る と同様 に,経
済学 の中に組 入れ られた一―特 に生産力の問題 を旋回点 として一=財
政学 は以前 にまして広い視野 をもつ事が出 来 るであろう。かか る意味の財政学 にして初 めて転換期 に立つ当面 の財政政策の問題 に答へ る事が 出来 るであ らう。」0
すなわち島恭彦 は,戦
時下の財政政策が,ま
す ます経済 の物的生産力 と結びつ く傾向を強めて く る事態 をみて とつた。 そのため,島
は従来 の ドイツ官僚主義財政学 はその技術的・ 行政的性格のゆ えに,こ
うした事態 には対応 しきれず,
とうてい財政政策 の科学的な指針 にはな り得ない と考 え, 経済学 をその基礎 とす る財政学 の必要性 を痛感す るのである。すなわち,「財政学 は生産力概念の明 確 な把握 を媒介 として経済学 に組入れ られねばな らない。」0ま た,島
は言 う十「
何人 の眼にも明 かである財政 と物的生産力 との間の強力 な相互的牽引作用,こ
れ こそ吾々が現代財政政策乃至財政 学 の基礎的問題 として取上 げねばな らない ところの ものである。」0
この「財政 と物的生産力 との間の強力な相互的牽引作用」 を考察す ることが,島
恭彦 の『財政政 策論』全体 を貫 いている視点であ り,こ
の視角 によつて,生
産的基盤か ら遊離 し技術的・ 行政的性134
藤田安一 :戦時財政経済政策における「生産力理論」の批判的検討 格 をもつ ドイツ財政学 を批判 したのである。 しか し同時 に,生
産力 自体 の発展 を歴史的進歩 とみる島の理解 は,彼
の『財政政策論』 に生産力 理論 を住 み こませ る原因 となった。次のように島が述べ るとき,財
政政策 における生産力理論 の特 徴が よ く表われている。 「吾々国民経済の生産力 を引上 げつつ再生産 を維持 しようとす るこれ等の政策体系の一環 として 財政政策 を評価せ ざるを得 ないのであ り,且
つ さうす ることによって始 めて財政政策 の真 の目的― 収支均衡 の原則 を越 えた一 と意義 とを判定す る事が出来 るのである」(1の「財政政策 は貨幣 を吸収す る事 を目的 とするので はな しに,一
国の生産力増大 を目標 とすべ きである」(11ち このように,財
政政策 と生産力 との関係 を理解す るとすれば,島
恭彦 の財政政策論 は,当
時政府 のスローガンとして強力 に推進 されていた生産力拡充政策 を支援す るための有力 な理論 となる。 そ して,戦
争 を契機 に,財
政 と経済 の物的生産力 との緊密な関係が,生
産力拡充政策 を媒介 として進 行す る中に,島
は自己のめざす経済学 に基礎づ けられた社会科学 としての財政学の正 しさが,具
体 的な姿 を とって展開 されてい くのをみたのである。 したが つて問題 は,こ
の生産力拡充政策の理解 にかかっていた。理論家が生産力拡充政策 の本質 を捉 えることな しに,生
産力拡充 に適合的な財政 政策 の提案 を志向すれば,彼
の主観的意図にかかわ らず,客
観的には体制弁護 に陥 るか らである。 そ こで,生
産力理論 に影響 を与 えた生産力拡充政策 とは,い
かなる政策であつたかをみてお こう。 Ⅱ 生 産 力 拡 充 政 策 と生 産 力理 論 の 形 成 「生産力拡充」政策が,抽
象的言葉 としてで はな く,具
体的内実 をもって政府 のスローガ ンとし て唱 え出されたの は,広
田内閣倒閣後 の林銑十郎内閣(1937.2.2-6.4)の 時であつた。林 内閣の大 蔵大臣には,日
本興業銀行総裁であつた結城豊太郎が就任 した。 4カ 月 とい う超短命内閣 にもかか わ らず,歴
史上,こ
の結城蔵相 による財政経済政策 を「軍財抱合」財政 と呼び,日
本戦時財政の進 展 において特筆すべ き位置 を与 えて きた。 生産力拡充政策 の立案 に向けての本格的展開 は,軍
部がいちはや く政治経済 を全面的 に把握 し主 導権 を握 った「満州」 において行われ,そ
れが 日本国内の統制経済 を先導する形で実行 された。 こ の過程 の研究 は,原
朗「1930年代 の満州経済」(満州史研究会『日本帝国主義下 の満州』御茶 ノ水書 房,1972年
所収)に
詳 し く展開 されている。 それによれば,関
東軍の「満州」 における統制経済下 のプランづ くりは先例が あるとはいえ,特
に重要な画期 となったのは,1935(昭
和10)年
8月 参謀 本部作戦課長 に着任 した石原莞爾 による日満財政経済研究会 (いわゆる宮崎機関)の
創設 と,こ
の 研究会 による軍需産業拡充計画 の立案であった。 とい うのは,後
にこの案が基礎 となって,そ
れぞ れ1936年12月,満
州で は『満州産業開発五年計画要綱』 に,ま
た日本内地で は1937年の 5月 の『重 要産業五年計画要綱』 に と,日
満軍需産業拡充計画 として具体化 されてい くか らである。 生産力理論が,次
第 にその形 を整 えて くるようになるのは,ち
ょうどこの時期,1930年
代の半 ば か ら40年代 にか けてであった。1937年に風早八十二 の『日本社会政策史』(日本評論社)が発刊 され, 翌年 には同氏 による『労働 の理論 と政策』(時潮社)が ,1940年
には大河内一男の『社会政策の基本 問題』(日本評論社)と『戦時社会政策論』(時潮社)が
相次いで公刊 された。 これによって,「生産 力理論が一つの体系的理論 として一般 に印象づ けられ るようになった」(1りのである。生産力拡充政 策が生産力理論 に与 えたインパ ク トの大 きさは,こ
れ ら諸氏 の著作の随所 に「生産力拡充」あるい は生産力拡充政策への言及がみ られ ることか らも明瞭であろう。例 えば,大
河内一男の次の指摘 を― 司 鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 45巻 第
2号
(1994) 135
あげてお こう。 「軍需産業=重
工業 の拡充 のためには極 めて脆弱な地盤である日本経済 の機構 に於 いて,而
も膨 大な『生産力拡充』計画が短期間 に遂行せ られねばな らぬ とすれば,経
済機構 の受 ける衝撃 はそれ だけ大であるが,こ
の ことは差 し逼 った強度 な統制 目的貫徹 のためには止むを得 ざることであ り, それだけに此処で は資本主義経済 の合法則性 の破棄が必然的 となる。」°9 また,島
恭彦 も租税政策 のあ り方 を指摘 した箇所 において次のように述べている。 「財政収入 を増大す ることは金融や租税 の技術 を以て貨幣収入 をか き集 める事以上 に生産力拡充 の問題 につ らなってゐる事 を知 らねばな らない。今や当面 の国家財政 は次第 に加わ る自己の重圧 を 以て生産力の中核へ と接近 しつつある。吾々 はここに財政政策 と生産力拡充政策即 ち経済政策 との 関係 の深 さを感ぜ ざるを得 ないのである。」(10 ところで,こ
の生産力拡充政策 は,そ
れ を実行 に移す内閣の成立 を要求 した。そのため,「36年秋 以降宮崎機関 は計画成案のたびに陸軍省,参
謀本部 に説明す るのみでな く,政
財界 の有力者 に対 し て計画案 を説明 し,そ
の意見 を求 めている。近衛文麿,池
田成彬 はもとよ り,結
城豊太郎,鮎
川義 介,津
田信吾,野
口遵,郷
古潔,斯
波孝四郎,小
倉正恒,木
戸幸―,林
銑十郎等,極
秘の うちに も 相 当広範囲にこの計画 は配布 された如 くであ り,36年
末 には,こ
の案 に相 当問題 はあるにして も結 局 は『実行せ ざるべか らざるか』 とい う所 まで政財界首脳者 の意図 は煮つ まって きていた。」。動 また,参
謀本部 の石原莞爾 は,こ
の計画 を実行す るだけの力量 を備 えた内閣の実現 を1936年末頃か ら構想 してお り。9,当
時「荻窪会談」 とい う荻窪の有馬頼寧邸で行われた会合 は,林
内閣の準備工 作であった といわれている。 この荻窪会談 には,林
銑十郎,後
藤文夫,山
崎達 ノ輔,小
原直,永
井 柳太郎,中
島知久平,有
馬頼寧 といつた各界代表 に並んで,財
界代表 として結城豊太郎が出席 して ぃた(17ち こうした「生産力拡充」 をスローガンに,軍
部 と財閥 とが急接近 した背景 には,満
州事変以降の 経済軍事化 の進展が,日
満一体 となって軍需生産力 を拡大すべ く,経
済 を急速 に高度化す る必要性 にせ まられていた ことがあげられ る。 これ を背景 にして,軍
部 は昭和恐慌下 にお ける国民 の財閥感 情 を考慮 した反財閥的姿勢か ら脱皮 し,軍
備強化 のための軍事予算 の消化 には財閥の資本力 を重視 せ ざるをえな くなってお り,
とりわ け,軍
部統制派 は「高度国防国家」 の建設 に とって財閥 をパー トナー と認識 しはじめていた。他方,従
来か ら外国資本 の導入 と資源の対外依存 を不可欠 として親 英米路線 を支持 して きた財閥 も,満
州事変以降の軍事経済化 の進展のなかに自己の蓄積基盤 を確保 しようとす る動 きを示 し,い
わゆる「財閥転 向」 による株式公開 を契機 にして重化学工業への本格 的進出を開始 しつつあったのである。 このような軍部 と財閥 との利害の急接近 を,生
産力拡充政策 をテコにしてお しすすめたのが結城 蔵相であった。 したが って,彼
の財政政策 を別名「軍財抱合」財政(10と 呼ぶのである。就任 したば か りの結城蔵相 は,馬
場財政期 の物価 の上昇や国際収支 の悪化 を抑制す る手段 として,予
算案の縮 小 を行 うとともに,生
産力拡充政策 の推進 を提唱 した。なぜな ら,わ
が国のように軍需産業の中核 をなす重化学工業が十分 な発達 を とげていない ような国で,急
速 な軍備拡張 を行 えば,軍
需工業 の 生産力が軍需 の増大 に追いつかず,物
価高騰 を起 こすのは必然であったか らである。そこで,こ
の 「 日本重化学工業 の後進性」(19を克服 して重化学工業 の生産力 を拡大す ることが,軍
備 の拡充のた めにも,ま
た物価 を抑 えて国民生活 を安定 させ るためにも重視 されたのである。 もちろん,こ
れ までにも欧米 と比較 した重化学工業 の立 ち遅れ を,一
日も早 く克服す ることが, わが国の重要課題であったか ぎり,重
化学工業 の生産力 を拡大す ることは,日
本資本主義 に とって136
藤田安一 :戦時財政経済政策における「生産力理論」の批判的検討 至上命令であった。第一次世界大戦 を契機 として,戦
後 の不況 にもかかわ らず,わ
が国において も 重化学工業部門の著 しい拡大がお こり,ま
た昭和恐慌下 には,軍
需産業 の成長 に牽引された重化学 工業化 のめざましい進展がみ られた。そのたびに,わが国の国際収支 は危機 におちいつた とはいえ, それが急激 な物価高 を引 き起 こすには至 らなかった理由は,こ
の時期,日
本が「物質生産力余裕 の 時代」°°とこあったか らである。すなわち,第
一次世界大戦 中に蓄積 された生産力が後 の軍縮 によっ て余力 を残 していたの と,浜
口内閣の産業合理化運動 によ り遊休資本が存在 し,わ
が国の生産力 に 余裕があったためである。 これが,高
橋財政 により膨大 な赤字公債の発行が行われた昭和恐慌下で も,極
カインフレを抑 えなが ら急速 な重化学工業化が はか られ,か
つ公債 の順調 な消化 を可能 にし た経済的基盤であった。1ち ところが,1937(昭
和12)年
度予算が編成 され る頃 になると,こ
うした遊休生産力 は,昭
和恐慌 か らの回復 をめざす活発 な設備投資 によって,ほ
ぼ動員 しつ くされていた。高橋是清蔵相 はこの事 態 を察知 し,
これ以上 の赤字公債 の発行 による財政膨張が悪性 インフレを招 くことを恐れ,公
債漸 減政策 によって「財政 の生命線」 を守 ろうとした。 だが,高
橋蔵相 の政策が 自己の利益 に とって好 まし くない とみた軍部 は, 2・ 26事件で高橋是清 を暗殺す るに至 る。代わつて蔵相 になった馬場鋏 ― は,高
橋前蔵相 の公債漸減主義 を一蹴 し,赤
字公債 の大量発行 と一層の低金利政策 に基づ く大軍 拡予算 を組む ことになる。しか し,遊
休生産力が枯渇 しつつある段階での,この馬場財政 の展開 は, い きおい軍需 に追いつかない重化学工業 の生産力不足 をさらけ出 し,物
価 の高騰 を招来 したのであ る。馬場財政 は,す
で に心臓病 をわず らっていた日本資本主義 に対 して,さ
らにマラソンを強要す るような ものであった。結城豊太郎蔵相 は,一
層悪化 した この病力 にいま一度余力 をつ けさせ,物
価問題 と軍備 の充実 との双方 を解決す るため生産力拡充政策 を提唱 したのである。 以上の事実 は,林
内閣で唱 えられた生産力拡充政策の本質 を理解す るうえで,つ
ぎの3点
が極 め て重要であることを不 している。第1に,生
産力拡充政策が世界的なブロック経済化の進展の中で, 日本帝国主義が 自らのアウタルキー圏の拡大強化 をめざした対外膨張主義的軍事的政策 の一貫であ った こと。第2に,生
産力拡充政策が単 なる国民経済力の拡大 をめざす もので はな く,な
によ りも 軍需生産力の拡充 を目的 とした ものであった こと。第3に,結
城豊太郎大蔵大臣や池田成彬 日銀総 裁な どの財界 の代表者が,こ
の軍需生産力拡充政策 を承認 して財政経済政策 を担 当した こと。以上 である。 生産力拡充政策 の目的 とその担い手 は,実
はこの ような ものであった。生産力理論がいだいてい た生産力の増大 を進歩的 とみなす理解 とは,い
かにほど遠い ものであったかがわか るであろう。そ のため この生産力拡充政策 は,そ
の後 さまざまな矛盾 を露呈す ることになる。 この事情 は,以
下の とお りであった。 結城財政 は林 内閣の解散 によって,わ
ずか 4カ 月で ピリオ ドが うたれ,代
わつて1937(昭
和12) 年 6月,近
衛文麿 (第1次
)内
閣が成立 した。大蔵大臣には,今
まで結城蔵相 の もとで大蔵次官 を していた賀屋興宣が就任 した。賀屋 は結城蔵相 の もとで「馬場財政 の修正」 を推進 した中心人物で あ り,結
城蔵相 の推薦で大蔵大臣に就任 した ことや,蔵
相就任 の談話9うで馬場流の国家統制 を排 し て,あ
くまで も財界 による自主統制 を主張 した ことな どか ら,賀
屋興宣蔵相 の財政経済政策 は,結
城前蔵相 のそれを継承す るもの と考 えられた。 したが って,結
城財政の中心スローガ ンであった生 産力拡充政策 もまた,賀
屋財政 に課せ られた最重要課題であった。 しか し,賀
屋財政 によって生産力拡充政策が継承 され る経済状況 は,依
然 として厳 しかつた。な ぜな ら,生
産力拡充政策 その ものが,そ
の実施過程 において物価 の高騰や国際収支の悪化,公
債消鳥取大学教育学部研究報告 人文 '社 会科学 第45巻 第
2号
(1994) 137
化 の減退 な ど,「馬場財政末期 に生 じたあらゆる矛盾 をば一段 と深刻な形 において再生十発
展せ し めた」9°か らである。「 なん とそれ は矛盾 と困難 とにみちみちていることであろうか」?°と,マ
スコ ミを嘆かせたほどであつた。賀屋蔵相 はこの厳 しい事情 を察知 し,生
産力拡充政策がお こなえる環 境づ くりとして,経
済運営の計画化 を本格的に構想す る段階にきた ことを認識 した。賀屋興宣 によ る「財政経済三原則」90の 提唱 は,そ
のような統制経済化 に向けてのシナ リオであ り,ま
た財政政 策が,国
民経済の全面的な統制 と結びつかなければ遂行 され えない新 しい段階 に入 った ことの宣言 で もあった。 ここに,日
本経済 は統制経済の新 たな段階に突入 したのである。生産力理論 は,こ
の統制経済の 進展 をいかなるもの と把 えたのであろうか。次 にそれ を考察 しよう。 Ⅲ 戦 時 統 制 経 済 の 進 展 と生 産 力理 論 戦時統制経済 の進展 を「合理的」 な ものの貫徹 と捉 えつつ も,生
産力拡充 を有効 に遂行す るため の戦時統制経済 の進展 を,生
産力理論 は無条件 に歓迎 したわけで はない。それ は,大
河内一男の次 の言葉 によつて も明かである。「戦時統制 の進展 は当然 の労働統制 の強化 を要求す るが,それ は一方 で は社会科学の理論 と他方で は労働科学 の実績 を基礎 としてのみ遂行 し得 るものである。 しばしば 有勝 ちな労働統制 に於 ける精神主義や官僚独善 と称 ばれ るものの危険なのは,ま
さにかや うな科学 的基礎 を持たない点 にある。」9°だか らこそ,大
河内は非科学的な精神主義や独善的な官僚主義 の横 行 を許 さない科学的で合理的な経済 の統制 をはか る必要が あるとして,積
極的な政策提言へ と進ん でいったのである。 ひ とくちに統制経済 といつて も,市
場 の価格機構 に何 らかの方法で干渉 し,そ
の機能 を制限す る ことをめざす経済 の統制が,わ
が国で最初 に問題 になったのは,昭
和恐慌下 の1930(昭
和5)年
当 時であつた。 まずそれ は,業
界団体 の自主統制 を内容 とし,お
もに ドイツで形成 されたカルテル理 論 の影響 を強 く受 けた「重要産業統制法」(重要産業 ノ統制二関スル法律,1931.4.1,法
律第40号) として立法化 され る。 しか し,恐
慌 の深化 につれて,こ
うしたカルテルによる統制 だけで は恐慌 を 回避で きない,よ
り強力な統制 によつて経済 の効率的運営 をはか ることが必要である。そのために は,国
家が私的資本 の利潤追求 に制限 を加 えるとともに,資
材や労働力の配分 にも権力 を持 つて介 入す る必要がある,
とい う考 え方 に発展 してい く。そして 日中全面戦争以降 は,戦
争遂行 に必要な 軍需生産 は拡大 しなければな らないが,そ
のために必要な物質や資金 は逆 に不足 してゆ くというジ レンマの中で,金
融機構 の再編や物資の配給制度 な ど国家 による統制が一段 と強化 される。 こうし て 日本経済 は,全
面的な戦時統制経済へ と移行 していつたのである9つ。 以上 のような 日本 における統制経済の進展過程 のなかで,明
らか に高橋財政以後 の馬場財政期が 統制経済 の転換点 をな していた9°。馬場財政以前 の統制経済 は,一
方で軍需工業動員法 を発端 とす る軍事 目的か らの産業統制 の準備がすすめ られ,他
方で満州事変 を契機 とす る満州での統制経済が 着々 と進行 していた ものの,お
よそ日本国内での統制経済 は不況克服策 としての統制経済であ り, あ くまで も産業界 の自主的統制 を主 にして,国
家が これを援助・ 補強する とい う性格 をもつ もので あった。 しか し,馬
場財政以降 は,軍
事 目的か らす る国家 による直接的統制経済 に移行 してい くの である。 こうした統制経済への新 たな段階 を迎 える頃か ら,経
済 の「統制」と並んで経済 の「計画」 化 とい う言葉が一般的 に使 われだ して くる。 この間の事情 には,次
のような政府 の経済政策 の進展 があった。138
藤田安一 :戦 時財政経済政策 における「生産力理論」の批判的検討 前述 したように,林
内閣の倒閣後,第
一次近衛文麿 内閣(1937.6.4-1939.1.5)が
成立 し, 大蔵大臣には林 内閣下 の大蔵次官であつた賀屋興宣が就任 した。賀屋蔵相 は就任す るや,吉
野信次 商工相 とともに林 内閣の生産力拡充政策 に代わ る「財政経済三原則」 を提唱 した。 この「財政経済 三原則」 とは,(1)国
際収支 の適合 を確立す ること,(2)生
産力拡充 につ き具体的方策 を樹立す る こと,(3)物
資需給 の今後 の予測並 に具体案 を作成す ること,の
3項
目をさす°9。 この「財政経済 三原貝J」 の基本認識 は,林
前内閣で さかんに唱 えられた生産力拡充政策で は,軍
事費 に主導 された 膨大 な予算 を消化で きず,悪
性 イ ンフレを阻止で きない とい うことにあった。すなわち,軍
需生産 力 を拡充 しようとすれば,軍
備 に必要な原料 の多 くを海外 に依存 している日本で は,た
ちまち輸入 増 によ り国際収支 の均衡が破れ,物
資の需給が悪化す ることは明かである。 そこで,こ
れ らの相互 に矛盾す る要求 を調整す ることが必要であ り,具
体的には,軍
需関連産業 の生産力 を拡充す るため に,で
きるだけ日本経済への打撃 を避 けなが ら,い
かに軍需以外の産業の生産力 を抑制す るか とい う,極
めて困難 な課題 をはた していかなければな らない。 ここに,「生産力拡充」政策 に代わつて, 「財政経済三原則」が提唱 された理由がある。 とはいつて も,生
産力拡充政策 を放棄 したわけで は もちろんなかった。それ どころか,生
産力拡充政策 をよリー層強力 に推進す るために,そ
こか ら生 じる矛盾や軋韓 を緩和 し,全
体 として戦時経済 に計画性 と総合性 を与 えようとしたのが「財政経済 三原則」のね らいであった。 まず,「財政経済三原則」に基づ く政策 の具体化 は,資
金統制か ら始 め られた。いわゆる,公
債消 化資金 と軍需生産力拡充資金 とを同時 に確保す るためであ り,こ
れ は臨時資金調整法 (1937年, 9
月.法
律第86号)と して成立 をみた。さらに進 んで,貿
易統制が行われ,輸
出入品等臨時措置法(1937 年, 9月
.法
律第92号)が
制定 された。時 に日中全面戦争への突入 にあた り,い
ずれ も,1938年
4 月制定 の国家総動員法 とともに戦時三法 と呼 ばれ,日
本 における戦時統制経済確立 の画期的指標 と なった ものである。 このため,日
本銀行調査局特別調査室編『満州事変以後 の財政金融史』は,「財 政経済三原則」 を「その後 の軍部への追随政策 のレールを敷いた もの」°のと評 したのであった。 ともあれ,こ
うした財政政策 における計画化 と総合化 の試みは,そ
の後,近
衛改造内閣時の大蔵 大臣兼商工大臣であった池田成彬 により,い
わゆる「池田財政経済三原則」°1)へと修正 された後, 第二次近衛 内閣(1940.7.22-1941.7.16)に
おいて,経
済新体常1の一環である金融新体制構想 を 明示 した「財政金融基本方策要綱」(1940。7)へ
と引 き継がれてい くのである。生産力拡充政策か ら財政経済三原則 さらに財政金融基本方策への展開 は,そ
のつ ど矛盾の生起 とその修正 を繰 り返す 過程であ り,「計画」と「総合」の言葉 だけが踊 った。 しだいに統制経済 は,計
画化 と総合化 を保障 す る力 た りえない ことが明 らかになってい くにもかかわ らず,「『統制経済』進展 をもって,『生産力』 の展開 を保障す るような新 しい経済秩序の形成過程 とみなす認識」。りが生産力理論 をとらえるとき, 財政政策 の計画性 と総合性 の中に理想 としての財政政策 の姿 をみるのである。 この意味 として,島
恭彦 の次の言葉 を読 む ことがで きるであろう。 「国家 は今や狭除な財政 の導管 を通 じて政治経済 を観 るので はな く,又
財政及びフアイナンスー 般が政治経済 を規定す るので もな く,逆
に経済 に対す る全面的計画の中に財政政策が位置づ けられ ようとしてゐる。 ここに始 めて財政政策 の計画性 と総合性が生 じる。高橋財政倒壊後数年の混沌期 の間に吾々 は漸 くかか る意味の新 しい財政政策への志向を明確 にす る事が出来 た。そして現 に吾々 は今 この目標 に向かつて進 んでゐる!」・ °鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 45巻 第
2号
(1994) 139
Ⅳ 戦 時 租 税 政 策 と生 産 力 理 論 急膨張す る軍事費や赤字国債 の大量発行,そ
れに伴 つて起 こる国債消化 の困難や急激なインフレ ーシ ョンの懸念 な ど,幾
多の財政問題 を前 にして,租
税 政策 は,も
はや従来 の応急的・ 技術 的な対 応 によって は,こ
れ らの財政問題 を処理で きない段階にさしかかつていた。 こうして,戦
時下の租 税政策 は,い
やが うえにも,税
収 をその根底 で支 えている経済 の物的生産力 に目を向けざるをえな くなっていたのである。島恭彦 は言 う一―「財政収入 を増大す る事 は金融や租税 の技術 を以て貨幣 収入 をか き集 める事以上 に生産力拡充 の問題 につ らなってゐることを知 らねばな らない。」。0生産力 拡充政策 の推進 に ともなって,こ
の政策 を支 える租税政策が,し
だいに戦時租税政策の基調 となっ てい く。 その戦時租税政策 の特徴 を正確 に とらえるために も,簡
単 に1930年代か ら40年代 に至 るわ が国の租税政策史 をふ り返 ってお こう。 1930年代 の租税政策 は,歴
史的 にみれば,高
橋財政期 とそれ以降 とに くっきりと三分 される。高 橋財政期 には,1932(昭
和7)年
の為替 の下落 に対応す る従量関税 の引 き上 げ と1935(昭
和10)年
の臨時利得税 の新設 を除 けば,増
税 のための税制改革 は行われなかった。 この間で も,大
蔵省内で は絶 えず増税計画が立案 されていた とはい え,高
橋是清蔵相 は,よ
うや く昭和恐慌か ら立 ち直 りつ つある景気の芽 を増税が摘 み とって しまうことを恐れ,増
税や新税 の設立 を一貫 して回避す る姿勢 を とった。け。そして,毎
年の歳 出増加 に必要な財源 は,既
存 の税制構造か ら生ず る自然増収 によっ て賄 うとい う態度 を堅持 しつづ けたのである。 だが,こ
のような租税政策 は,1936(昭
和11)年
の2・ 26事件 による高橋是清の死 とともに大転 換 を余儀 な くされ る。1937(昭
和12)年
度予算で明 るみに出た馬場鋏一蔵相 の増税計画 は,ま
さに 画期的であった。すなわち,法
人所得税 を8割
,個
人所得税 を3割
も増徴 し,従
来 の源泉課税の利 子所得 を総合課税 とし株式配当の4割
控除 を廃止す る。 また財産税 を新設 し,相
続税 も10割程度 の 増税 を計画 した。 さらに,間
接税 について も,酒
税・ 砂糖消費税等の2割
,織
物消費税 を1割増税 し,売
上税や揮発油税,有
価証券移転税 を新設 した。 これ によって1937年度 は約4億
2000万円の増 税 とな り,こ
の うち地方財政調整交付金 の2億
2000万 円を差 し引いて も2億
円の増収が見込 まれた のである。0。 確かに,馬
場 の この「税制改革案」 には,所
得税 中心主義の建前 に立 って,都
市 と農村 の税負担 の不均衡 を是正 し,農
村負担の軽減 と法人税 の強化 を目指 した点な ど,資
本主義 の発展 に符合 させ ようとした現代的税制への努力 の跡 をみることがで きる。 しか し,こ
の税制改革 は何 よりもまず, 軍事化 の進展 に ともな う行政事務 の円滑な遂行 に とって必要な財政的基盤 を整 えることを意図 し, 弾力的な税源 を国家が独 占しなが ら,財
源再配分 を通 じて地方財政 の中央集権的税制 を一挙 に強化 しようとす るものであった。1940(昭
和15)年
に確立 され るこの税制構造 を,ま
だ戦争 という外的 強制 のない時期 に目指 そうとした馬場税制改革案 は,そ
れだけに当時,種
々の社会的反響 をひ きお こした。例 えば,こ
の税制改革案が,各
層間の負担 の均衡 をはか ると称 して,ま
が りな りとも従来 の税 にそなわっていた社会政策的税制 を掘 り崩 し,間接税 の増徴 による大衆課税 を強化 した ことは, 馬場税制改革案 に対 す る広範 な人々の不満 を強めた。 とりわけ財界 は,馬
場税制改革 にみ られた財産税や有価証券移転税 の創設や利子所得な どへの優 遇税制 の廃止,相
続税 に対す る大幅増税 な どに,猛
烈な反発 を示 した。 この財界 の意向 をうけて, 結城蔵相 による「馬場財政の修正」 となるのである。結城 は税制 に関 して馬場 のように税制機構全¬
140
藤田安一 :戦時財政経済政策における「生産力理論Jの批判的検討 体 の再編 をめざさず,し
たがって また,馬
場 ほ どの法人課税強化 の方向 をとらず,現
行税命1の枠 内 で例外的 に若千 の新税 を創設 し,そ
れ以外 は主 として税率の引 き上 げによる臨時増徴の建前 をとる ことにした°つ。1987(昭
和12)年
7月 の 日中全面戦争勃発以降 は,北
支事件特別税 の創設,翌
年 に は北支事件特別税 の支那事変特別税への拡充 とが続 き,大幅増税 を常態化 していつた。そして1940(昭 和15)年
には,馬
場税制改革案以降 しばらく見送 られて きた中央・ 地方 をつ うず る画期的な税制改 革が行 われ,そ の翌年 には酒税 その他の間接税 の大幅引 き上 げが実施 されてい くのである°9。 他方, 第73議会 (1937年 12月開会)に
おいて成立 した臨時租税措置法°9は,当
初,日
中戦争で不利益 をこ うむった農民や中小商工業者への課税 の軽減 を中心内容 とす るものであったが,そ
の後 い く度かの 改正 を経て,第
79議会 (1941年 12月開会)で
改正 された臨時租税措置法(40は,
もっぱら企業が畜積 した利潤 を「生産力拡充」や公債 の消化 に使用すれば減税す る,
とい う内容 を中心 とした ものに変 化 していった。 結局,戦
時下 におけるこの間の租税政策 の特徴 は,「『負担分任』『消費節約』等 の名 目の もとに, より多 く下層所得者 ない し国民大衆 の負担 においてお こなわれた こと,そ
してその反面,大
所得者 ない し銀行資本,軍
需産業資本等 は『貯蓄奨励』『生産拡充』等の名 目によって,課
税上各種 の優遇 処置 をうけた こと」“1)である。 思 えば,1935(昭
和10)年
3月,岡
田内閣期 の藤井真信蔵相 によって臨時利得税法(421が公布 され た理 由には,当
時,高
橋財政下の軍需インフレ景気 によって膨大 な利益 を得た企業 に課税す るのは 当然である,
とす る大蔵官僚 の リーダーシップがあったか らであ り,ま
た世論 も,社
会政策的見地 か ら,こ
の戦時利得 を課税 の対象 とす るのは正当である,
と認知す る風潮があつたか らである。 だ が今で は,こ
の同 じ戦時利得 を課税 の対象 とす るどころか,生
産力拡充政策 の一環 として減税 な ど 優遇措置の対象 とされているのである。 したが つて,軍
需産業 の担い手である金融資本 は,生
産力 拡充政策 の遂行 を容易 にす るために とい う口実で,課
税上,免
税 その他 の優遇措置 を享受で きた。 島恭彦 の租税政策論 は,
このような事態 を正 当化す るものであった。島 は言 う。 「今や租税 の配分政策 は再 び強烈 な国家的意識 の内に とり入れ られ,生
産力拡充政策 の一翼 とし て機能 しなければな らない。」“0「既 に現代 の戦時経済過程 に於 いて租税政策 は孤立 した『租税原則』 や 『公正原貝J』 によって規制 され るので はなしに,一
元的な生産力拡充の目的 に帰― しなければな らない」 “ 4ち ここには,租
税政策が挙 げて軍需生産力拡充政策 に動員 され るとい う戦時租税政策の基本的立場 を肯定 し追随する,ま
さに戦時財政政策 における生産力理論の姿 をみることが出来 る。 結 び に か え て 本稿 を終 えるにあたって,最
後 に次の2点
の ことを指摘 しておかなければな らない。 第1に,本
稿 は「生産力理論」 その ものの批判的検討 を意図 した もので はな く,あ
くまで も,テ
ーマにあるとお り,戦
時財政経済政策 に関連 した限 りでの生産力理論 に検討 を限定 した ということ である。 したがつて,生
産力理論が もつ多様 な論点 に言及す ることは避 け,ま
た生産力理論 その も のが生成す るロジックの考察 には重 きを置かず,生
産力理論が形成 され る現実の具体的な経済政策 や財政政策 の展開 を中心 に,こ
れ らの政策 と生産力理論 との関わ りを検討することを重視 した。 第2に,本
稿 は島恭彦 の『財政政策論』 その ものの検討 を意図 した もので はな く,あ
くまで も, 生産力理論か ら見た本書 の特徴 を指摘 したにす ぎない とい うことである。 それにして も,私
は本稿鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 45巻 第
2号
(1994) 141
で,島
恭彦『財政政策論』を余 りにもネガテ ィヴに評価 しす ぎた,
との批判 を受 けるか もしれない。 もちろん私 も,こ
の著作 の歴史的意義 は高 く評価 しているし,財
政学 に関 して広 く深 い内容 を持つ 本書 を,
とうてい生産力理論 という一つの視点か らのみで評価 しきれ るもので はない ことは,十
分 認識 しているつ もりである。 しか し,あ
えて私が このような方法 を とったのは,も
ちろん生産力理論 とい う狭い窓口か ら『財 政政策論』 を見 た ことにもよるが,同
時 に,私
が指摘す るまで もな く,本
書 は戦前 の日本財政史研 究上,「重要な研究史的意義 を持 っている」律0と して,す
でに高い評価 を得ているか らである。 この 『財政政策論』の 日本財政分析 は,戦
後,島
財政学 の評価 を高めた『大蔵大臣』(岩波書店,1949年
) や『軍事費』(岩波文庫,1966年 )と
して結実す る。 のみな らず,す
でに『財政政策論』で示 されて いた財政学の方法 と対象一=財
政学 は経済学 の方法 に立脚 し,「政治 と経済 の矛盾」を対象 とす る一 ― は,島
財政学 の集大成 ともい うべ き『財政学概論』(岩波書店,1963年
)へと,み
ごとに発展 した。 高橋誠 は言 う。 「 この著作 (『大蔵大臣』をさす一引用者)の
原型 は,戦
時中に刊行 された『財政政策論』のなか にもとめ られ る。 このような非常 に早い時期 に,現
在問題 となっている昭和初期 の『井上財政』や 『高橋財政』 を とりあげ,こ
れに的確 な評価 を下 していることは注 目され るべ きであろう。昭和史 に関す る研究 の戦後 の出発点 という意味で もこの著作 は,現
在 において再評価 に値す るものである といえよう。」 “ 6)′ 私 も『財政政栄論』 の,こ
うした再評価 を強 く望 んでいる一人である。 しか しその際,私
達 は戦 後 における島恭彦 の財政学徒 としての歩みが,こ
の『財政政策論』 における生産力理論への真摯な 反省 を発展の軸 として開始 された ことを,決
して見落 として はな らないであろう。本稿が,そ
うし た評価 の一助 となれば幸 いである。 高畠通敏「生産力理論」思想の科学研究会編『共同研究 転向』中巻 (平凡社,1960年 )204頁 。 戸塚秀夫「社会政策本質論争の一回顧一『社会政策論の再編成』のための前提―」大河内一男先生還暦記念論文 集刊行委員会『社会政策学の基本問題』(有斐閣,1966年)5頁
。 (3)こ の指摘 は,浅田光輝「退潮期社会科学の思想」(住谷悦治他編『反動期の社会思想』講座・日本の社会思想史4, 芳賀書店,1967年)を参照。 (4)例えば,宮
本憲― による『島恭彦著作集』第 1巻 (有斐閣,1983年)解
題,及
び高橋誠 による『島恭彦著作集』 第 3巻 の解題 を参照。G)財
政学研究会『財政学研究』第16号,1991年, 3買。 (6)小山弘健『日本資本主義論争史』上,青木書店,1953年 ,205頁 。 (η 島恭彦『財政政策論』河出書房,1943年, 8頁。 (8)同上,31買。0)同
上,「序論」 4頁 。10
同上, 4頁。tD
同上,32買。CD
前掲「生産力理論」205頁。10
大河内一男 『戦時社会政策論』(『大河内一男著作集』第 4巻,青林書院新社,1969年 )133買 。10
前掲『財政政策論』 4∼ 5頁 。10
原朗「1930年代の満州経済」満州史研究会 『日本帝国主義下の満州』御茶ノ水書房,1972年,75貢。側 側 硼 ⑩ 側 側 藤田安一 :戦時財政経済政策における「生産力理論」の批判的検討 詳 しくは,秦郁彦『軍 ファシズム運動史』(河出書房新社,1962年 )246頁 を参照。 荻窪会談については