• 検索結果がありません。

財団法人大原農業研究所史

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "財団法人大原農業研究所史"

Copied!
103
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

貝オ

大 原 農 業 研 究 所 史

昭 手

口36

3

(2)

創設 者, 初 代理 事 大 原 孫 三 郎 明 治39年 9月 大 正 3年 7月 大 正 8年 2月 大 正 10年 7月 大 正15年 6月 昭 和 5年 12月 略 歴 倉敷 紡 績 株 式 会社 取締 役社 長 封 団法 人 大 原奨 県 会創設 大 原社 会 問 題 研究所 創設 倉敷 労 働科 学 研 究所 創設 倉敷 絹畝 株 式 会社 創設 取締 役社 長 株 式 会社 中国 銀行 創設 取締 役頭 取

(3)

第 2 代 理 事 大 原 総 一 郎 昭 和13年12月 昭 和 14年 1月 昭 和 14年 5 月 昭 和 16年 1月 昭 和 18年 2月 昭 和 30年 6月 略 歴 倉敷 レイ ヨン株 式会社 常 務取締 役 倉敷 紡 績株 式 会社 取締 役 倉敷 レイ ヨン株 式会社社 長 倉敷 紡 績株 式 会社社 長 財団法人大 原農業研究所理 事 経済審議 会委 員

(4)

初 代 所 長,埋 骨

近 藤 万 太 郎

第2代所長,理事

(5)

創設時代 の農業 研究所全景 前 景は花期 鼠 中ij廿王果樹, 後 の建物 は研究室

創設時代 の研究所職 員 前列左 よ り 川又綾之助,近藤万 太 郎,

(6)

創 設 時 代 の 農 業 研 究 所 配 置 図 園 園

園 舛 物 樹 花 植 畑

丁∵

∵ 八 二 山

・=

舎 舎 置 納 畜 収 物 P Q S 園芸研究室 温室,ガラス窒 事 務 室 G M N 窒 墓 室 究 究 究 研 研 研 芸 学 理 硬 化 病 A B C

(7)

小 腸 の 人 原 農 業 研 究 所

(8)

中 期 の 大 原 農 業 研 究 所 配 置 図 A 種 芸 部 I, 図 書 館 B 化 学 部 M 温室, ガラス室 C 病 理 部 N 事 務 室 D 昆 虫 部 0 宿 舎 Ⅹ 農業経営部 Q 収 納 舎 S 物 置 ,1 植 物 園 T 機 械室 _・=':・・畑 U ク ラ ブ .よし水 田 ㌔d 果 樹 園

(9)

現 在 の 岡 山 大 学 農 業 生 物 研 究 所 配 置 図 室 置 田 宅 配 物 水 R S 比山 蛋 ス ラ 室 舎 舎 ガ , 務 納 蛋 温 事 宿 収 M N o Q 部 部 室 館 理 象 生 気 埋 書 物 細 作 微 整 図 E F K L 部 郡 部 伝 学 理 部 般 靴 鮒 虫 作 生 植 害 A B C か

(10)

財 団法人大原農業研究所理事長 大原総一郎 序文 財 団法人大原農業研究所史発刊の ことば

Ⅰ.

財団法人大原奨貴会の創立- その動機 と日的-・---・・- --

- 1

Ⅱ.

寄 付 行 為 Ⅱ.経 営 状 況 Ⅳ .研 究 活 動

Ⅴ.

農業講習所 ,農学講演会お よび講習会 Ⅵ .農 業 図 書 館 Ⅶ.財団法人大原農業研究所 の解散 と新財団の設立---・----49 附 研究発表一覧

5

2

(11)

このたび,財団法人大原農業研究所 史が まとめ られ,印刷に付せ られ る こととな った。 同研究所 は昭和26年以降岡山大学農業生物研究所 とな ってい るが,そ の 整腸 は大正3年 に遡 る。 それ以来,歴代 の所長お よび所員各位 の熱心な研 究 の成果は,単 に我が国の学界に大 きな寄与 を果 しただけでな く, この一 地方都市にあ る研究所 を世界的な存在に まで高め るほ どのもの とな った。 研究所 の37年間の歩みについては 本文 の語 るところに 任すべ きであ る が,父が この研究所 創設に思い至 った動機は,もっと広範な農民教育 を中 心 とす る学校 を作 ろ うとい うことであ った と聞いてい る。 しか しそ の準備 のため外遊 された近藤博士 の学者的な意見に従 って,純学術的な研究所 と して生 まれた。そ して この研究所 も,大原社会問題研究所や倉敷労働科学 研究所 と同 じよ うに,勝れた所長 の指導 の下に,一切 自由な研究に委ね ら れた。 父は この研究所 の在 り方が,最初 の意図 とは多少はずれた ものであ った に もかかわ らず, この研究所 には特別の意義 と愛着 を感 じていた よ うであ る。 そ の第一 の理 由は, これは地主 の家が当然なすべ き社会奉仕であ ると 考 えていた ことであ り,第二の理 由は,実現は しなか った とはいえ, この 研究所 の性格や使命については,最初か ら自分でい ろいろ想 を練 っていた とい うことに もとづ くもの と思 う。 しか し何 とい って も一個人を背景 とした研究所 では,研究上の独立 と白

(12)

由を保つ ことはで きて も意に任せね ことも多 く,特に戟後は所有農地 の解 放 のため経常的な収入財源 を失い,終 に今 日の新 しい姿 とな ってそ の歴 史 的 な歩み を続 け ることとな った。 この機会に故近藤所長は じめ この研究所 に関係 された総て の研究者 の方 達 と, この研究所 の発展存続 のために直接間接多大 の力を添 えていただい た内外の方 々に,深 い感謝 の気特 をお伝 え したい と考 え る次第 であ る。 昭 和

3

5

3

月 大 原 総 一 郎

(13)

財 団法人大 原農業 研 究所史

財団法人大原農業研究所は,大正3年7月財団法人大原奨県会農業研究 所 として創設 され,昭和4年 3月本名称に改め られた もので,引続 き農事 改良に関す る基礎研究を行な って来た。 昭和24年 5月 31日岡山大学が設置 されてか ら,本研究所はその有力な 構成部門 と成 って斯界につ くすべ く望 まれていたが,ついにその研究用資 産を岡山大学に無償寄付す ることとな り,昭和26年 3月 31日本研究所 の 一部が, ついで,27年 4月 1日残部が 岡山大学に移管 され, 農学部附属 大原農業研究所 として発足 した。 その後昭和28年度には 大学附置研究機 関に昇格 し,岡山大学農業生物研究所 となって 「農業生物に関す る学理お よびその応用の研究」 を6部門の下に行ないつつあ る。 これに伴 って, 財団法人大原農業研究所は昭和28年解散 したが, その 遺留財産か ら得 られ る利金を岡山大学農業生物研究所におけ る研究の後援 資金 とすべ く,新たに財団法人大原奨農会が昭和32年創設せ られた。 さて,財団法人大原農業研究所は,上記のよ うに,岡山大学農業生物研 究所 な らびに財団法人大原奨貴会をその後身お よび分身 として残 して消え たが,その日本農業界に残 した功績は非常に大 きいので,その創設者であ る散大原孫三郎氏を永 く記念 し,又財団の業績を回顧す るよすが として, ここに本財団史を編纂す ることとした。 できるだけ詳細に と考え,あ らゆ る資料を集めて取 りかか ったが,何分

(14)

に も創設が大正3年 であ るので,資料には散逸 した もの もあ り,完全 とい い難い ことは止むを得ない。過誤があれば,それは編纂者 の責任 であ る。 本史の発刊は,現財団法人大原奨農会理事長大原総一郎 の勧奨にかか る もので,資料の蒐集調査には,現農業生物研究所平岡章一事務官その他 多数 の職員に負 うところが極めて大 きい。 ここに記 して感謝 の意を表す る。 昭 和 35年 12月 西 門 義 高 橋 隆 平 杉 山 葺 平

(15)

.

財 団法人大 原奨 農会

の創立-その動機 と 目的

当研究所 の創設者であ る大原孫三郎氏がその生涯 を通 じ,社会 福

の増 進に意を用い,本業以外に, この方両でも極めて偉大な足跡 を残 された こ とは世人周知のところである。 とくに農業科学化 の必要性を痛感 され,農 業研究を促進 して技術 の改善 をはか り,その結果 を普及 して農民 の経済的 地位 を向上す ることに深い関心を寄せ られていた。 これは大原氏が祖先か ら多 くの小作地を相続 された ことと直接的なつなが りがあ った といえる。 すなわち,明治

4

0

(

1

9

0

7

)

以来,小作米品評会を開催 し,地主 と小作者 間の相互親和をはか るとともに,農事 の奨励 と米質改善に努力 された。そ の後, 明治

4

3

(

1

9

1

0

)

には, 大原家 と小作者 との間に一種 の小作会で ある大原家奨農会をつ くられた。 この会の事業は,上記 の小作米品評会 の 開催だけに止 まらず,農業技術者に よる小作地 の巡回指導,試作地,指導 田の設置,あ るいは農事講習会 の開催な どであ って,戦後 よ うや く政府の 手 で始め られた普及事業 を個人 の手 で,今か ら数十年 も前に行なわれたの であ る。 このほかなお この会 の事業は肥料,農具,土地 の購入資金 の貸付 や貧 しい小作者に対す る厚生資金 の貸与あ るいは贈与な ど,福利厚生 の方 面にまで及 んだ。 しか し, 大原氏 は こ うした 自分 の小作者 の 保護施策だけでは あ き足 ら ず, さらに進んで広 く一般農事 の改良に貢献す ることを意図 され,大正3 午

(

1

9

1

4

)

には財団法人大原奨農会を創設 され るに至 った。そ して上述 の 小作会は これを解散 し,小作施設事業は大原家 の農業部で従前 どお り継続 1

(16)

-す ることとし,後には奨農土地株式会社でその仕事 を行な った。 この大原奨農会創設の 目的は, 寄附行為 の 第1条に うたわれて い ると お り,農業 の研究 とその応用に よる農事 の改良にあ った。 これは社会に奉 仕す る気特 の具体化であ ることはい うまでもないが,大原氏が祖先の勤勉 努力を永遠に記念 しよ うとい う報恩事業 の性格をも併わせ持 っていた0 大正3年3月1日第8回小作米品評会褒賞授与式 々場で大原氏が述べ ら れた大原奨農会設立に関す る次の陳述は これを明示 してい る。 財団法人大原奨農会設立に関す る大原氏の陳述概要 (前 略) 私の父が亡 くな りまして本年 は 5年にな ります。 祖父が亡 くな りまして 33回忌にな ります。 私か ら申せば 父祖 の勤勉に困 りて 現在 の私が在 る訳 であ ります。 此の祖父の33年,父の5年 の回忌に際 して, 父祖の努力 さ れた る記念 として,又,私個人 としては父祖に対す る報恩の記念 として, 現在大原家所有の土地中 よ

り1

0

0

町歩 を寄付致 し財団法人を作 りたい と思 うのであ ります。財団法人は大原奨農会 と称 し其の 目的は 「深遠な る学理 を研究 し之れが実際的応用に依 る農事の改善」 であ ります。比の会の事業 が将に来 る可き農業問題に対 し貢献す ることが出来 ますれば非常なる幸福 であ ると思い ます。此の会の仕事が農業制度上に就 きて農業当事者 の自覚 の上に就 きて注意を惹起す る事が出来れば更に幸福であると思い ます。仕 事 としては農業研究所及び農学校を作 り種子 の改良,農具 の改良,肥料, 土壌及び病虫害の研究其の他一般学術の普及に努めたい と思 うのであ りま す。而 して,此の寄附致 した土地は試験田 とな り指導 田 とな り夫 よ り得た

(17)

る収入を以て此 の会の独立を計りたい と思います。是以上の仕事は経済 の 許す範囲に於いて,又,此の会に働いて居 る人達の努力に依 りて出来 る丈 けの発展を見たい と考えて居 るので ござい ます。 云 々。 この声明に先だち,研究室の建築,農場の整備な どについて準備が進め られ,大正

3

7

2

日 (

1

9

1

4

)

には文部省の認可を得,設立者 よりの寄 附の土地,建物の所有権移転登記申請書を岡山区裁判所お よび玉島区裁判 所へ提 出した。続いて,7月4日には評議員の選任を行な った。そ して7 月6日には財団法人設立登記申請書 を玉島区裁判所へ提出 し, これ を以て 財団法人大原奨農会設立の準備 を完了 した。 当 日すでに,種芸,園芸,農具気象3分野の研究施設の整備が終わ って いたので,当 日か ら研究事業 を開始 した。その後引続 き化学お よび病虫研 究室の施設完成を急 ぎ,大正4年

(

1

9

1

5

)

には

5

分野に亘 る研究態勢が完 成 された。 財団法人大原奨農会は, 農業研究所 の 経営 を主体 とした ものでは あ る が, このほか農学校の設立や品種改良,農具の改良,研究成果 の普及 と岡 山地方農業の振興をも意図 した機関であ った。大正9年 4月 (1920)に設 立 された農業講習所は4カ年 に亘 って地方農家の子弟を教育 して,地方農 業 の指導者 を養成す る目的でつ くられた ものであ って, これは奨農会 の事 業 の性格 の一端 を示す ものであ る。 しか し, こ うした多面的な事業 を経営す るよ りも,農学研究だけに努力 を集中す ることが適切であ ることを考え,昭和4年 (1929)大原奨貴会創 立

1

5

周年 を 卜し,機関の名称を財団法人大原農業研究所 と改称す るととも → 3

(18)

-に,寄附行為を改変 し,理事 の1名を研究員の互選に よ り選出 して,財団

設立者であ る理事 とともに研究所 の経営,研究の直接指導に当た ることと

(19)

・ 寄

財 団法人 大 原 奨 県 会 の寄 附 行為 は次 の如 くであ って ,研 究 施 設 お よび 研 究 圃場 を寄 附す る と ともに ,約 100町歩 の 田畑 と3,800坪 の宅 地 を財 団 の 所 有 と し,そ の収 益 を も って経 常 費 に あ て る こ とに した もの であ る。 財 団法人 大原 奨蔑 会寄 附行 為 第 1章 目 的 第 1条 本 会 は農事 に 関す る学 術 の研 究 及 び 農事 の改 善 を 目的 とす 第 2 章 名 称 第 2粂 本 会 を財 団法 人 大 原 奨 農 会 と称 す 第 3章 事 務 所 第 3条 本 会 は事 務所 を岡 山県都 窪 郡 倉 敷 町229番 地 に置 く 第 4章 資 産 第 4条 本 会 の資産 は設 立者 大 原孫 三 郎 よ り寄 附 した る左 の土 地 及 び逮 物 を以 て組 成 す 1. 土 地 1. 建 物 田 96町9反1畝27歩 畑 2町 2反 3畝24歩 宅 地 3,822坪1合5勺 原野 2畝18歩 木 造 瓦 葺 平 屋 9棟 此 建 坪 363坪 2合5勺 木 造 瓦 葺 平 屋 8棟 此 建 坪 173坪 5

(20)

-鉄骨金網室 2棟 此建坪 48秤

硝 子 室

2棟 此建坪 80坪5合 第 5条 本会 の経費 は資産並に其事業 よ り生ず る諸収入 を以て支弁す 毎年度経費 の剰余金 は之 を別途積立金 として本会臨時 の費 用に 充つ 本会事業翼賛 の為補助金奨励金又は寄附 の申込あ りた る ときは 之 を受 くることを得 第 6条 本会 の資産 は理事之 を管理す 但 し資産管理 の方法 は評議員会 の決議 を経 て別に之 を定む 第 5 章 役 員 第 7条 本会 に左 の役員 を置 く 理 事 監 事 評 議 員 1 名 2 名 5名以上 第 8条 理事 は設立者之に当 る 死亡其他 の事故に よ り欠員 とな りた る ときは評議員会 に於 て之 を選任す 第 9条 理事疾病其他 の事故に依 り会務 を執 る能 は ざる場合 は評議員中 よ り代理 々事 を互選す るもの とす 第10条 評議員は設立者之を選定す 死亡其他 の事故 に よ り欠員 を生 じ た るときは評議員会に於 て之 を選任 し理事 の承認 を経 るもの と す 第11条 監事は評議員会に於 て評議員中 よ り之 を選任す 第12条 監事 の任期は5ヶ年 とす

(21)

第13条 理事は本会 を代表 し諸般 の事務 を処理す 評議員は重要事項 に関 し随時理事 の協議に与 るもの とす 第14条 評議員会は理事に於て其必要 を認めた るとき又 は評議員 の過半 数 の請求あ るとき理事之を招集す 第8条及第9条 の場合に於 て理事招集 し得 ざるときは監事之 を招集す 第15条 評議員会は過半数 出席 し其過半数 の同意あ るに非 ざれは決議す ることを得ず 第 6章 事 業 第16条 本会は第1条 の 目的 を達す るため左 の事業 を行 う 1.農業研究所 の設置

2.

農学校 の設立 3.改良種苗農具及肥料 の普及頒布 4.一般学術 の講演及印刷物 の頒布 第 7章 会 計 第17条 会計年度は4月1日に始 り翌年3月31日に終 る 理事は年度開始前に予算 を定め又其年度後1ケ月内に前年度 の 決算 を了 し監事に報告 し其承認 を受 くべ きもの とす 第 8章 解 散 第18条 本会は理事及評議員全員 の同意あ るに非 ざれは解散す ることを 得ず 第19条 本会解散 の場合に於け る残余財産は設立者累代 の相続人に帰属 す るもの とす 7

(22)

-第 9茸 附 則 第20条 本寄 附 行 為 は 評議 員会 の決議 及 理 事 の同意 に 依 り主 務 官 庁 の認 可 を得 て之 を変 更 す る こ とを得 但 し其 目的 を変 更す る こ とを得 ず 昭 和4年 大 原奨 度 会 創立15周年 を記 念 し, 研 究事 業 の 拡 大強 化 を意 図 され ,次 の寄 附 行為 の如 く,大 原奨 農 会 の名称 を大 原農業 研 究所 に変 え, 事 業 首的 を研 究事 業 に一 本 化 し, か つ ,経 費 充 足 の 目的 で新 た に 田畑100 町歩 を追 加寄 附 され た 。条文 は次 の如 くであ る。 財 団法人大原農業研 究所寄附行為 第 1章 日 的 第 1粂 本 所 は農 事 に関す る学 術 の研 究及 び農 事 の改 善 を 目的 とす 第 2茸 名 称 第 2条 本所 は財 団法人 大 原農業 研 究所 と称 す 第 3茸 事 務 所 第 3条 本所 は事 務所 を倉 敷 市 に置 く 第 4章 資 産 第 4粂 本所 の資産 は設立 者 大 原孫 三 郎 よ り寄 附 した る左 の土 地 及 び建 物 を以 て之 を組 織 す 1. 土 地 199町 5反 5畝1歩 畑 3町2反8畝10歩 宅 地 5,081坪9勺

(23)

原 野 6畝12歩 用 水 路 1畝15歩5合 池 沼 3反6畝歩 山 林 18歩 1. 建 物 煉瓦造3階建 瓦葺 木造瓦葺平屋 木造草等平屋 硝 子 室 金 網 室 1棟 此建坪 31坪1合5勺 20棟 此建坪 509坪1合6勺 11棟 此建坪 211坪5合5勺 2棟 此建坪 80坪5合 2棟 此建坪 48坪 第

5

条 本所 の経費 は資産並 に其事業 よ り生ず る諸 収入 を以て支弁す 毎年 度経費 の剰余金 は之 を別途積立金 とし本所 臨時 の費 用に充 つ 本所 の事業翼賛 の為補助金 ,奨励金又 は寄附 の申込 あ りた る ときは之 を受 くるこ とを得 第 6条 本所 の資産 は理事 之 を管 理す 但 し資産管理 の方法 は評議 員会 の決議 を経 て

に之 を定 む 第

5

章 役 第 7条 本所 に左 の役 員 を置 く 理 事 監 事 評 議 員 2 名 2 名 5名以上 負 第 8条 理事 の内1名は設立者 之に当

り1

名は研究員 の互選 に よ り之 を 9

(24)

-定 む 設立者 た る理事 死亡其 他 の事故 に依 り理事 た る地位 を去 りた る ときは設立者 の家督相続 人之 に当 る 研究員 の互選 に依 る理事 の任期 は4ヶ年 とす 但 し再 選 を妨 げ ず 研究員 は理事 之 を任 免す るもの とす 第 9条 理事疾病其他 の事散 に依 り所 務 を執 る能 は ざる場合 は評議 員 中 よ り代理 々事 を互選 す るもの とす 第10条 評議員は設 立者 之 を選定す 死亡其他 の事故 に依 り欠員 を生 じ た る ときは評議員会に於 て之 を選任 し理事 の承認 を経 るもの と す 第11条 監事 の任期 は5ヶ年 とし評議員会 に於 て評議員 中 よ り之 を選任 す 第

1

2

条 理事 は本所 を代表 し諸般 の事務 を処理す 第13条 評議員 は重要事項 に閑 し理事 の協議 に与 るもの とす 第14条 評議員会は理事 に於 て其必要 を認 めた る とき又 は過半 数 の評議 員 よ り請求 あ りた るとき理事 之 を招 集す 死亡其他 の事故 に よ り理事 欠員 とな り之 を招集 し得 ざる ときは監事 之 を招集す 第15条 評議員会 は過半数 の評議 員 出席 し其過半 数 の同意あ るに非 ざれ ば決議す るこ とを得ず 第 6章 事 業 第16条 第1条 の 目的 を達す る為 め左 の事業 を行 う 1. 研究 員 の設置

(25)

2.

一般学術 の講演及印刷物 の頒布 3.研究員 の合議 に よ り必要 と認め評議員会 の同意 を得た る事 項 第 7 章 会 計 第17条 会計年 度は 毎年4月1日に始 り翌年3月31日に終 る 理事は年 度開始前 に予算 を定め其年 度終了後1ケ月内に前年度 の決算 を 了 し監事 に報告 し其承認 を受 くべ きもの とす 第 8茸 解 散 第18条 本財 団は理事全員及評議員会 の議決あ るに非 ざれば之 を解散す ることを得ず 第 19条 本財 団解散 の場合に於け る残余財産 の処分方法は理事全 員の同 意及評議員会 の議決に依 り主務官庁 の認可 を得て之 を同一 目的 其 他 の公益事業に寄附す るもの とす 第 9章 附 則 第20条 本寄附行為 は評議員会 の決議及理事 の同意に依 り主務官庁 の認 可 を得 て之 を変更す ることを得 但 し其 目的を変更す ることを 得ず i iF

(26)

l-Ⅰ

. 経

大正3年7月2日(1914)農業研究所 の主要建物お よび施設 の大略完成 を機に,その設立者であ る大原孫三郎氏は財団法人大原奨貴会 の理事に就 任 し,翌 々日研究所 々長近藤万太郎氏 をふ くむ大原家関係者,木山精一, 小山慎平,林醇平,大橋良平,林源十郎,原澄治の7氏が評議員に選任 さ れ,財団の運営にあた ることにな った。そ の後次表に示す よ うに,評議員 には若干 の異動があ ったが,だいたい設立当初 と同 じよ うな役員構成 をも って昭和4年 (1929)まで財団に関す る主要事項 の決済が行なわれた。 理 事 大原孫三郎 (1914-43) 評議員 近藤 万太郎 (1914-28) 木山 精一 (1914-26) 小山 慎平 (1914-16) 林 醇平 (1914-21) 大橋 良平 (1914-17) 林 源十郎 (1914-52) 原 澄治 (1914-52) 三橋 玉見 (1918-37) 柿原 得- (1922-48) 木山巌太郎 (1926-35) 財団運営 に必要な経費は設立時に寄附 された約

1

0

0

町歩 の小作地か らあ が る小作料 と研究圃場 の生産物な どをもって支弁す る計画が立て られてい た。 そ の筋は 大正3- 5年頃は2万 円内外で あ ったが, 米価 の騰貴に よ り,大正8年頃か ら13年 (1919-24)頃 までは 約5万円程度 にな った。 さ らに, 大正13年 (1924)頃には預金利子な どを含め 年額お よそ8万円 の収入があ ったが, この年 に園芸部や果樹園が廃止 された ので,他 の4部 門 の研究費はかな り潤沢にな った。 このよ うに当時 の経常費は4乃至 5部門 の研究所 としては他 の公共農事

(27)

試験機関に比 してかな り多額なものであ ったが,設立者はつねに この研究 所 の充実に心を くぼ り,毎年 多額の特別寄附金が寄せ られた。すなわち, 大正

6

(

1

9

1

7

)

頃 までは 所 内施設 の 新調整備に 総計

5

万円の 寄附があ った。そ して一応設備の完了 した 大正

1

0

(

1

9

2

1)頃以降に も年 額

2

万 5千円程度の特別寄附金が寄せ られた。 これ らの金は特殊な器具機械や図 書購入のため,あ るいは所員近藤万太郎,山 口弥輔,松本圭一 らの海外出 張 のため,所 の要求に基づいて寛大に与え られた ものであ った。 その後大原奨農会の経営方針に再検討が加え られ,その 目的を研究所一 本に しぼ ることに し, 昭和

4

(

1

9

2

9

)

, 丁度設立満

1

5

周年 にあた って, 名称を財団法人大原農業研究所 と改めた。そ して,研究員を設置す るとと もに,その互選に より理事を選び,設立者 の理事 とはか って,直接所 の運 営面にあたることとな り,また,主任研究員全部を評議員に加え, これに よって,所内の主要者が研究だけでな く,所 の運営面にも直接参加す るこ とにな った。 さらに,昭和

9

(

1

9

3

4

)

には所 の所在地であ る倉敷市庁 との連絡 をも 考え,市長を評議員に加え,また昭和

1

3

(

1

9

3

8

)

,設立者の相続人大原 総一郎氏 も評議員 として 所 の 運 営に 参 劃す ることとな った。 昭和

1

8

(

1

9

4

3

)

理事大原孫三郎氏が死去 され,財団法人大原農業研究所 の寄附行 為 の条文に したが って大原総一郎氏が理事 とな って,研究所 の経営にあた った。昭和9年か ら昭和

2

0

年 の間の理事お よび評議員は次の如 くであ る。 理 事 大原孫三郎

(

1

9

1

4

-4

3

)

大原総一郎 (

1

9

4

3

-5

2

)

近藤万太郎

(

1

9

2

9

-4

6

)

西門 義一 (

1

9

4

8

-5

2

)

評議員 薬師寺主計

(

1

9

3

4

-3

5

)

板野 新夫

(

1

9

3

4

-4

8

)

- 13

(28)

-春 用 忠 告 (1934-52) 西 門 義一 (1934-47) 平松俊 太郎 (1936-37) 大 森 実 (1936-38) 古屋 野橘衛 (1937-48) 大 原総一 郎 (1938-41) 大 原 五一 (1938-52) 武 内 潔 真 (1939-52) 大 杉 繁 (1937-52) 昭和4年 (1929)以降 は法人 の基 盤 も安定 し,部 の新設 や廃 止 の こ とも な く,大体年 間予 算 は7万5千 円内外 で,落 ちつ いた研 究 が行 なわ れ た。 設 立者 か らの寄 附 は昭和11年 (1936)頃 まで与 え られ ,そ れ らは王 として 所 員近藤 万太郎 ,春 用忠告 ,西 門義一 らの海 外 出張 あ るい は留学 のた め に 用い られた。 このほか ,農林 省か ら年 間5- 7千 円 の交 付金 を種 々の研究 のた め支弁 され て いた。 昭和20年 (1945)第二 次世 界大 戦 の終結 に伴 い ,甚 だ しい イ ンフ レー シ ョンに加 えて翌 々22年 (1947)に行 なわ れた 農地 改革 に よ り大 部分 の農 地 を解放す るの止 む な きに至 った ので収 入 は ほ とん ど皆 無 とな り,他 の公 共 機 関に比べ ベ ース の低 い職 員 の給 与 す ら支払不 能 に陥 るな ど,経 営極 度 に 困難 とな り,さ らに ,理事 近藤 万太 郎氏 昭和21年 (1946)死去 と相 次い で不 運 が重 な り,一 時 は ど うな る ものか と不 安 が続 いた 。 しか し,幸 い理 事 大 原総 一郎 ,西 門義一両氏 の骨折 りと,広 く政 ,学 会か ら林 道 俺 ,盛 永 俊 太郎 ,屋 島二郎 ,森 戸辰 男氏 等 を評議 員にわず らわ し, これ 等 の人 ノ々の 絶 大 な御 協 力に よ り文 部 省か ら昭和23年 (1948)約300万 円,24,25年 各500万 円,26年400万 円に及 ぶ 多額 の補 助金 を受 け ど うや ら運 営す る こ とが 出来 たが ,それ らはほ とん ど職 員給 与 に あて られ たた め ,研 究費 の方 は微 々た るものであ った。 しか るに昭和24年 (1949)岡 山大学 の開学 に よ

(29)

り,国立移管が問題 とな り, 昭和26,27両年にわた って, 財産 を無償寄 附 し,岡山大学 の研究機関 とな った。 最後に時代別研究所 の事務系職 員名をあげ,また,参考のため設立時, 名称変更時,お よび岡山大学移管時 の財産 目録を次に掲げ る。 事務主任 笹辺 親(1914-16),秋 田文一(1916-18),大原十次郎(1918-24), 崎山市衛(1924-25),山田孝使(1925-26),坂本与三郎(1926-31), 飯 田多寡雄(1931-40),小橋役堆(1940-41),高谷善太郎(1941-49), 相川空四郎(1950-52) そ の 他 浅野佐次郎(1914-51),三宅 寿(1926-52),赤木菊野(1942-52), 三宅 長(1942-50),友久君江(1944-50),小川竜五郎(1925-51), 佐 々木元七, 横尾高一,河野十太郎,再出末子,三好浩太郎,三島 ツ ル ヨ,内藤憲治,森永三輔,藤井 潤,服部信隆,孝忠庸一,井関淑 子,岡田芳子,奥 田 哲,武政豊太郎,三宅亮太,秋 田文一,内藤憲 次,牛本左太郎, 山根喜代造,三宅亀夫, 月田悦子,松本智恵香,小 野静江,高橋幸恵,梶谷益子 - 15

(30)

-財 産 目 録 目 摩 年7酎 昭管 年3皆 目 也 物 機 械, 什 器 水 道,ガ ス 設 備 図 書 基 本 預 金 仮 払 金 未 収 入 金 当 座 預 金 振 替 貯 金 現 金 有 価 証 券 別 途 預 金 預 金 計 5,055.000 】 23,970.00 60,979.13 6,219.27 134,713.37 162,728.14 2,264.69 741.32 2,163.12 77.41 37.58 昭和26年3月31日 現 在 Frj 61,025.19 36,131.85 253,952.64 6,219.27 824,445.41 1,472,644.89 10.967.94 45.647.60 3,485,700.00 1,514,300.00 113.578.33

(31)

Ⅴ・

大原奨農会お よび大原農業研究所設立 の主 目的は,農業に関す る重要課 題を科学的に深 く掘 りさげて研究 し,その成果を公表 して実際農業に貢献 す ることにあった ことは寄附行為 の初めに うたわれているとお りであ る。 この 目的達成のため,大原奨農会研究所 の発足に先だち,農学 の種 々の分 野におけ る新進気鋭 の人材を広 く日本全 国の大学や専門学校に求め,経費 を出 してそれぞれの地で研究を行なわせた。そ して大正

3

(

1

9

1

4

)

研究 所が設立 の運びに至 ったので,近藤所長を中心 として,種芸関係 の研究の ほか,病虫 ・園芸 ・農具 ・気象 の分野を担当す る研究員を置 き,事業 を開 始 した。研究態勢が逐次整いは じめた翌年,農芸化学研究担当の大杉繁赴 任を機に,種芸部 と農芸化学部

の2

部を設けた。その うち,農具 ・気象担 当の研究者が病気退職 した ので,大正 6年 (

1

9

1

7

)

には この方面 の研究事 業を打 ち切 った。その後病虫部は 種 芸 部 か ら独 立 し, さ らに大正

1

0

(

1

9

2

1)には研究態勢の整備拡充 のため,昆虫部お よび植物病理部 の

2

部 とな った。なお大正11年

(

1

9

2

2

)

農政部が附設 されたが,同

1

4

(

1

9

2

5

)

には廃止 とな り, 園 芸部 も また大正

1

3

(

1

9

2

4

)

に果 樹 園 を他に移管 し,所 内の圃場を整理 してその 事 業 を停 止す るに至 った。 それ以後は種 芸 ・農芸化学 ・病理お よび昆虫の4部門で引き続 き研究が行なわれた。 昭和

4

(

1

9

2

9

)

大原奨農会は財団法人大原農業研究所 と改称 され るに 至 り,事業 目的が単純化 し,かつ,必要な予算措置を伴 う研究組織 の充実 が図 られ, 以後

1

0

余年問は安定 した世情 の中で 熱心な研究が行なわれて 多 くの成果が挙げ られた。 - 17

(32)

-昭和

1

6

(

1

9

4

1)以降は 第二次世界大戦の余波を うけ, 一万では戦時 研究の要求な どを受けつつ,他方では研究員や研究補助者の応召や徴用が 相つ ぎ,ために多 くの新 しい研究者の採用が行なわれた。当時は研究用物 資が不足 し,生活環境 も不良であ ったが, この困難にたえて熱心に研究が 続行 された。 昭和

2

0

(

1

9

4

5

)

終戦 とともに 農地法が発動 されて 全部の小作地が奪 われ,研究活動の壬財源を完全に失 った。その後数年 は圃場生産物の売却 金 と文部省や 農林 省の研究補助金に より仕事す るの 止むなきに至 り, か つ,昔 日の状態に もどす 目途 もな く,甚だ しい苦難の状態に立 ち至 った。 しか し,創立以来の旺盛な研究活動は広 く各界か ら注 目されてお り,昭和

2

2

(

1

9

4

7

)

には中国新聞文化賞,昭和

2

4

(

1

9

4

9

)

には 朝 日科学賞, 昭和

2

6

(

1

9

5

1)には山陽新聞社質が それぞれ授与 されて, その功績が 顕彰 された。 なお,昭和

2

4

(

1

9

4

9

)

国立大学制度の改革の際,昭和

2

6

,2

7

の両年 にわかれて,研究所 は岡山大学に移管 され ることとな ったが, これか ら再 び昔 日同様の活澱な研究が引続 き行なわれ るよ うになった。 以上,研究所 のた どってきた道程をかえ りみ ると,人員の構成や研究事 項の両面か ら見て,大体次の3期が区別され,また こ うした時代別の記述 は,研究所 の歴史の概要把纏に も好都合 と考え られ るので,以下 この時代 別に,順次各研究部門の人員構成 と活動状況 を記す こととした。 前期 :大原奨県会時代 大正

3

年一昭和

4

(

1

9

1

4

-2

9

)

中期 :大原農業研究所前期 昭和

4

年一昭和

1

6

(

1

9

2

9

-4

1) 後期 :大原農業研究所後期 昭和

1

6

年一昭和

2

7

(

1

9

4

1

-5

2

)

(33)

1. 檀 芸 i・ 前 期 研究所創設の 頭初か ら死去に至 るまで, 所長であ り, また, 種芸部の 主任であ った近藤は東大卒業後大学院で種子学を専攻 ,明治44年 (1911) には ドイツに渡 り,ベル リン大学,ホ-エ ソ-イム大学でさらに種子の研 究を重ね, 大正3年 (1914) 1月帰朝, 大原奨農会の 設立事務に 従事 し た。 したが って,農林種子の研究は種芸研究室の創立以来その主要研究題 目であ った。各種農作物の種子の形態,記載,幼苗に よる品種鑑識,種子 の寿命 と貯蔵法の研究,種子の発芽生理の研究が行なわれた。 これに関連 して米の貯蔵,品質調査 の仕事が始め られた。その成果は =米穀貯蔵中に おけ る理学的性質の変化に関す る研究日 として発表 され, これに よって昭 和2年 (1927) 日本農学会か ら農学賞が与え られた。 他方,近藤は稲お よび蘭草の品種改良事業をも行ない,交雑法に よって 水稲品種若干を育成 した。就中,書神種は収量品質 ともにす ぐれたため広 く近県の農家に普及をみた。 また系統分離お よび実生選択法で蘭草 の改良 を行ない,中でも大原蘭 3号は後に岡山近県の主要品種 の一つであ る岡山 3号の基本品種 とな った。 こ うした諸成果は斯界に貢献す るところが大 き か ったので, 大正11年 (1922)その功に対 し大 日本農会か ら有効章が贈 られた。 山口は稲 の諸形質の遺伝, とくにその連鎖関係を研究 して この方面 の指 導標を たてた。 また

2

,

3

植物 の 帯化現象 の遺伝, 生理について 研究 し た. ヨ-ソゼソの精密遺伝学原理 の翻訳 もあ る。 岡村は当時王 として稲 の - 19

(34)

-栽 培法 とくに苗代 の研究を行な った。 三宅は研究所 開設当時 この部にあ って主 として農具 ・気象に関す る研究 を担任 した。 その業 績 として とくに著 名なのは, 作物収量の推定法に関 す るもので,収量 の誤差 の大小 の比較か ら,圃場 の対角線に沿い坪刈を行 な う方法 を提唱 した。 この考えは農林省に引 きつがれて普及 され,当時広 く日本 の収量推定 の基準法 として用い られた。 また螺旋選種器 を考案 し専 売特許 を とった。 これは, ナ タネ,大豆 な どの円粒種物 の選別に至便な も ので,研究所 で指導作製 させ販売 された。 また噴霧器 の ノズルの改良や鋼 鉄鋳物製 の除草用鍬 (hoe)の改良製造な ども行な った。 ′ 以上 のよ うに本期は種芸部 として も草創の時であ ったに もかかわ らず, す でに大 きな業績をあげ, 日本におけ る農学研究 の-中核た る基礎 を確立 した。昭和4年 (1929)天皇陛下当地方行幸 の折には,近藤 は "稲お よび 栄" と題す る御前講演 を行な う栄誉 を担 った。 この時期におけ る種芸部 の職員構成 は次の表 の如 くであ る。 研 究 員 近藤 万太郎 (1914-29), 三宅千秋 (1914-17), 山 口弥輔 (1915-27), 研究員補 武 田元温 (1916-24) 助 手 池上耕平 (1915-20), 野 口保橘 (1919-22), 岡村 保 (1922-39), 藤本隅太 (1923-27),久宗 壮 (1925--29) そ の 他 木下 勇,小野真盛, 渡辺定志, 鈴木重隆, 奥山清一, 安東 保, 鳥 海文彦

(35)

i

i

・ 中

前期に引続 き,近藤は 日本産 の各種農作物品種 の種子を広汎に集めて形 態,発芽 を調査 し, かつ, 種子に関す る内外 の 諸文献 を通読 して, 昭和

8,9

(

1

9

3

3

,3

4

)

には 日本農林種子学前,後編を出版 した。 これは,冒 本はもとよ り諸外国にも類書 の少ない,す ぐれた著書で,今 もなお種子学 のコーランとなっている。 なお,以前 よ り万国種子検査会議に参加 し,普 た, 自ら温熱帯種子会議を主宰 し,種子の国際的検査 の基礎的知見の集積 につ とめ, 日本におけ る種苗法制定 のための努力を払 った。 この期間はまた米穀 の貯蔵 と品質研究に重点がおかれ,米 の水分含量, 温度 と貯蔵 との関係を明 らかに し, その結果水分13%に まで 米 を乾燥す ることが米 の検査基準 として用い られ るよ うにな った。 さらに密封貯蔵 の 有利性を説 き,その実用化を押 し進めた。 近藤 と岡村は米の品質, ピタ ミソB含量 の研究を行ない,茶米 ・青米 ・ 胴切米の発生原因,米 の食味化学的研究な どを進め,岡村は これ らの結果 を集大成 して 米穀の品質に関す る研究を公表 し, 昭和

1

6

(

1

9

4

1) 日本 農学会か ら農学覚 を授与 された。 中沢 とその後継者本庄は,近藤の指導下に,小麦 と小麦粉の乾燥,貯蔵 法,品質検定,お よび検査等級 と小麦品質 との関係につ き広汎な実験を行 な った。 こ うした精力的な実験研究の結果,当研究所 は穀物学 の メッカと 見 られ るに至 った。 このほか研究は,棉,麦をは じめ各種疏菜叛の光週反応,水稲 の生育 と 水温 との関係,小麦の穂発芽現象な ど栽培あ るいは育種上重要な基礎的問 題にまで及んだ。 - 21

(36)

-本期 の職員は次表 の とお りであ る。 研 究 員 近藤万太郎 (1929-41),岡村 保 (1938-39), 本庄益雄 (1939-41), 高橋隆平 (1939-41) 助 手 岡村 保 (1929-38), 笠 原安夫 (1929-34), 一色重夫 (193ひ-35), 中沢 敏 (1933-38), 寺坂情視 (1934-37), 高橋隆平 (1935-39), 海野元太郎 (1939-41),岡 彦- (1940-41) そ の 他 村上憲平, 山崎寿賀 (1938-41),三宅誉子, 日笠初子

i

i

i

・ 後

近藤は笠原や高橋 の協力に よ り,苛性加里,石炭酸,アルカ リ類な どに よる稲,大,小麦の品種鑑別,林木種子 の貯蔵 ,雑草種子 の形態お よび発 芽 調査 を行な った。 さ らに,近藤や貝原は小麦の貯蔵 と晶質,米 の低温下あ るいはサ イ ロ貯 蔵について研究 した。 しか し, この期 の末昭和

2

1

(

1

9

4

6

)

に 近藤は病 没 し,種芸部長には高橋が就任 した。 高橋は本邦お よび世界各地か ら多数 の大麦品種や変異体 を集め,そ の形 態や生理 の研究を行な った。その結果, 日本 の大麦 の大部分が渦性 とよば れ る半壊性遺伝子に よ り特徴づけ られ, この種現は 日本中南部 の多肥地帯 に適応 した 日本固有型であ ることを明 らかに した。 さ らに,栽培大麦 の品 種 を特徴づけてい る種 々の遺伝子 の地理的分布 の規則性か ら,栽培大麦が 東亜お よび西域 の2型に大別され ることを示 し,祖先型野生大麦 との関連 において大麦の起原を推定 した。 この研究はその後い よい よ発展 し,高橋

(37)

ほ昭和29年 (1954)日本育種学会 か ら育種学会賞 を, 続 いて 昭和30年 (1955)には倉敷市か ら而文化章 を授与 された。 笠原は以前か ら水 田お よび畑地雑草 の駆除を能率化す るため,近藤 の示 唆に もとづいて, 薬剤に よる雑草駆除試験 を試みたが, 戦後2.4-Dの輸 入 と共 に,逸早 くそ の実 用化試験 を重ね,その成果 を普及 した。一方,水 田や畑地その他に生ず る雑草 の種類 の同定,地理的分布,由来な ど雑草学 の基礎的知見を加えた。 こ うした一連 の広汎な実用的あ るいは基礎的研究 に対 し,昭和26年 (1951) 岡山県文化賞,昭和28年 (1953)には農林大 臣賞お よび 農業技術協会賞, さ らに昭和32年 (1957) には倉敷市文化章 を得た。 本期は,他 の部におけ ると同様前半には職員の応召が相つ ぐ一方,戴時 研究の要求に即応 のため人事 の補充が多 く行なわれ, また後半には所長 の 病没 と戦後所 の経営 の不安定に よ り, ともに人事 の異動が極めてはげ しか った。 これ らを次 の一覧表に示す。 研 究 員 近藤万太郎 (1941-46),高橋隆平 (1941-52),笠 原安夫 (1949-52), 貝原弘道 (1949-51) 研究員補 徳田 巌 (1943-47),片山(杉本)辛(1943-46),小河原公司 (1945-47), 笠原安夫 (1946-49),貝原弘道 (1947-49) 助 手 笠 原安夫 (1938-46), 岡 彦- (1940-42), 海野元太郎 (1941-43), 貝原弘道 (1942-47), 渡辺行弘 (1942-47), 水 田鉄雄 (1943-45),梶 野弥寿夫 (1943-47),林 (山本)二郎 (1944-52), 山崎寿賀 (1941-45), - 23

(38)

-秋 田史郎 (1944-46), 丸橋 渡 (1948-50), 池 田正枝 (1947-52), 木下 収 (1950-52), 田村美郎, 武 田博 司, 木村忠司, 安 田昭三, 伊藤 直明 そ の 他 池 田正枝,守屋(塩尻)勇,日谷健三,武 田満子,松村彰一,木虎文子 , 渡辺益子, 佐藤照子, 小 山浩子, 石井豊子, 藤 原澄子,根津澄江, 木村久子

2.

農 芸 化 学 部 i・ 前 期 本部は他部 とやや異な り, 大杉が部長 であ った 大正

1

2

(

1

9

2

3

)

まで を前期 とす るのが妥 当の よ うであ る。 土壌肥料学 の分野においてほ大杉が圭 として研究 を進め,土壌 の酸性 の 由来 ,そ の作物成分に及 ぼす影響 ,施肥 に よる影響,土壌 の接触作用な ど について追究 した。特 に土壌 の無機酸性 に関す る研究成果 は本研究所 の特 別報告第1号 としてそ の真価 を世 に認 め られた ものであ る。 この間,大杉 は植 月,曾 山の共 力 を しば しば得 た。 小野寺は植物に対す る酸 の作用 を研究 し,次 いで,紫雲英 の稲作 に及 ぼ す影響 を土壌肥料学 な らびに分析化学 の立場か ら研究 して紫雲 英施用上 の 有力な-指針た らしめ, さ らに燐酸,酪酸,乳酸 の定量法 を研究 した。 山本 は もっぱ ら除虫菊 の有効成分 の研究 を行ない,そ の成果は除虫菊 の 殺虫成分 と題す る同氏 の学位論文 とな り,宗定は イ ヌガ ンソクの成分や ク チナ シの色素 について研究発表 し,また植物体 内の配糖体 や酵素 について も追 究 した。 別に,大杉は生物 の栄養 に及 ぼす石灰 の影響,豚 質化学 , または空中窒 素 の利用な ど,将来 の研究問題 に対す る解析的な指針 を も与 えてい る。

(39)

本期におけ る農芸化学部 の職員一覧表を次にかかげ る。 研 究 員 小野寺伊勢之助 (1914-20),大杉 繁 (1914-23),山本 亮 (1916-18), 宗定暫二 (192ひ-21) 助 手 植 月虎男 (1914-15),山下 律 (1917-20), 中広 登 (1919-22),管 山直高 (1919-22),末永重行 (1920-22) 高 田定雄,伊賀久真男,塩谷惣次 ii.

前期に研究態勢の基礎 を固めた本部が最 も多方面に研究の手 を伸ば した 時期で,板野が部長をつ とめた。 土壌肥料学方面では荒川の協力を得て板野が行な った稲 田土壌 の改良が 注 目され る。 土壌中のC-N率,水稲栽培期間中の 土壌細菌 の変移 とその 作用,土壌のprO丘le,生産量 と土壌 のアソそこア,硝酸化成力な らびに脱 窒素力 との関係な どを追究 した ものであ る。その他,荒川,松浦 との共同 で行な った板野式堆肥の試験や耕土 の水素 イオン濃度に関す る研究,紫雲 英栽培 の土壌肥料学的研究, あ るいは 自給肥料, 販売肥料 の 調査研究な ど,また硫黄,食塩,沃素,鉄な どと土壌肥料 との関係な ど多 くの業績が あ る. Winogradskyのアゾ T/ミククー試験法が 土壌 の肥沃度測定に役立 つ ことを発表 した。 これ らの殆 ん どは,前記荒川, または松浦,後半にな って辻 の協力を得て行なった ものであ る. 別に細 田が本邦 とくに大山原野 の黒土について行な った試験研究 も注 冒せ らるべ きものであ る。 本期に最 も努力が集中 された研究面は醸酵な らびに微生物方面であ る。 これを大別すれば,(i)窒素菌に関す る研究,(ii)織維素分解に関す る研 - 2

(40)

5-究,(iii)肥 料 の微生物学的研究,(iv)その他に分け ることが出来 よ う。 (i)においては, 板野が松浦 または辻の 協 力を得て行なった 豊科植物 の根癌菌に関す る研究が代表的なもので,第11報 まで及んでい る。(ii)で は土壌或いは稲藁,籾 の舷維素分解 の研究に主力が注がれた。板野が荒川 または松浦 の協力を得て行な った。(iii)では,有機質肥料に関す る微生物 学的研究が第3報 まで報告 された。板野,荒川の協力に よる。(iv)では, 板野が辻 とともに行な った茶 の微生物に関す る研究が注 目され る。 分析化学 の面でも,板野は単独で,または荒川,細 田,松浦,近,長谷 川な どの助力を得て幾多 の研究を行な った。その中でも,水素 イオン濃度 測定法に関す る一連 の研究は,土壌肥料学的分野 と関連 して斯界に大 きな 貢献を果 した。その他,塩素,マグネシウム,沃度な どの分析定量法 の研 究や土壌成分 の簡易な検定法 の研究,土壌水分 の迅速測定法 の研究な ど, いずれ も斯界に直接間接大 きな影響を与 えた。 また,茶葉中の沃度の分布や揚水に浸出す る沃度量あるいは,寒天中の 沃度な ど,また寒天の諸種物理化学的性質や,その微生物の生育に及ぼす 影響な ど,食品化学方面におけ る業績 も多 くあ り,更に,除草剤に塩素酸 カ リを用いて有効なことを証明 した研究成果は, 日本において除草に薬剤 を使用す ることのそもそ もの起 りと見 るべ きものであろ う。 本期におけ るこれ らの研究活動は次の人 々に よって行なわれた。 研 究 員 板野新夫 (1924-39)

,

川 口桂三 郎 (194

(

ト41) 助 手 荒川左千代 (1924-32), 細 田克巳 (1924-26), 松浦 茸 (1926-36),

(41)

辻 康彦 (1932ニ38),長谷川 武 (1936-37),山本快二 (1940-41)

i

i

i

. 後

本部において も,後期は他部 と同様に,研究対照が非常に しぼ られて き た。すなわ ち,川 口が部長であ る時は,土壌 の研究に主力が注がれた。畑 地状態土壌 と水 田状態土壌 とにつ き,その連繋或いは燐酸塩 の動静,水 田 土壌におけ る硫酸 アソモニアの有害作用な ど,いずれ も畑 または水 田にお け る作物栽培上 の基幹 をな した。 川 口の後を継いで小林が部長 とな ってか らは小林 の研究 と小沢 の研究 と に2分化 した。 小林 は広 く本邦各河川 の水質 の分析的研究を行ない,また濯潰水 につい て も, 鉱毒 の原因 と防除について も 追究 した。 これ らの結果は, 水稲栽 培 の最 も 基本的な事項であ り, 本期以後に引続 いて 行なわれた 研究 とと もに斯界に大 きな貢献をな した散 を もって, のちに 山陽新聞社賞昭和32 年

(

1

9

5

7

)

, 日本農学賞昭和

3

3

(

1

9

5

8

)

,倉敷市文化茸昭和

3

4

(

1

9

5

9

)

を授与 され るに至 った。 小沢は武 田な どの協力を得て,本研究所研究員 とな って以来 ,引続 きペ クチ ン酸醇に関す る研究 のみを追究 し,本研究所が岡山大学 に移管せ られ るまでに 第11報 まで発表 したが, これはその後 も引続 き行なわれ,その 成果は農産製造部門に大 きな貢献 をな した。 この期には次 の如 く多 くの職員が入れ替わ り研究活動 を行な った。 研 究 員 川 口桂三郎 (1941-45),小沢潤二郎 (1944-51),森沢 暗 (1944-46), 小林 純 (1946-52) - 2

(42)

7-助 手 山本快二(1941143), 小林 隆 (1946-48),武 田 晃 (1947-48), ≡ 宅 博 (1949-50), 石井 葉 (1948-52), 大森常代 (1948-52),内田 紬 (1948-52),浦上佳子 (1947-52),岡本賢一 (1951-52), 二島 哲,井手 ナオ,渡辺忠義 そ の 他 岡本賢一 (1943-46),浦上桂子 (1944-47),宗沢 弘 (1947-49), 高見勝友,守安美津子, 中野寛子,渡部み さを,佐伯妙子

3.

植 物 病 理 部 i・ 前

植物病害に関 しては西門な らびに笠井が研究員 としてその研究態勢をつ くりあげ, 大正

1

0

年 (1921)に独立 した病理部 とな り, 以後西門がその 部長をつ とめた。 笠井は植物 の病害抵抗性 , 視外生物に よる 植物 の疾病, キ ュウ リ, 蘭 草,馬鈴薯, コンニ ャク薯 の病気について研究報告 した。 一万 , 西門は 早 くか ら 稲 の病害 について 研究 を 始め, 大正

4-1

5

年 (1915-26)には農林省の補助に よ り稲 イモチ病防除に関す る研究 を行な った。 また,稲 ゴマ葉枯病 については,各地産 の菌 を比較 し, 日米両国産 の菌は形態的に顕著な差 のあ ることを発見 し,更に同病 の予防法 として種 籾 の温揚消毒 を検討 した。 この期 の病理郡 の最 も注 目すべ き研究成果は西門の行な った禾本科植物 の-ル ミン トスポ リウム病 に関す る研究であろ う。 すなわ ち,各種 の禾本 科植物 の-ル ミン トスポ リウム病 の病徴,病原菌 の分類お よび分布,-ル

(43)

ミン トスポ リウム属菌 の生理 ,な らびに種子消毒法について研究 し,本病 防除法 の基礎 を確立 し,本邦農業界に大 きな貢献 をな した。その功掛 こよ って,西門は昭和6年 (1931) 日本農学会か ら農学賞 を授与 された。 このほか,植物病 原菌 の寄主体侵害法,種子消毒剤の ウス プル ン,槍 の 新病害,西瓜 の蔓割病 な ども研究報告 された。 本期 の職員は次 の通 りであ る。 研 究 員 西門義一 (1914-29),笠井幹夫 (1919-26) 助 手 三宅忠一 (1917-27), 斉藤 保一郎 (1921-23), 松本弘義 (1926-29), 菅原 - (1927-29) そ の 他 松原理太夫 ii. 中 期 本期は西門部長 の下に,研究 の手が諸種分野に伸べ られた時で,稲馬鹿 菖病 ,稲条斑病,稲小粒菌核病,あ るいは小麦 の条斑病,麦類 の赤徴病, 食用菌類な どの研究が本期にな って着手 された。 稲馬鹿酋病 の研究は,西門が単独又は松本,山内 と共 同で行 な った もの で,各地産の稲馬鹿苗病菌お よび類似菌 を比較研究 した結果,感受性植物 は稲だけでない こと,異常生長 を起 こさせ る菌 は稲馬鹿苗病菌だけでない こと,異常生長効果は菌 の系統 に よって も著 し く異な ることを明 らかに し た 。 その他稲 の病害については, 西門, 松本が 稲熱病に対す る 稲 の雁病性 を,木村が菌煩 と変色籾 との関係を追究発表 した。 -

(44)

29-小麦 の条斑病については,西門が松本,山内,樋 口と共に研究 し,本病 の病原菌は新種であ り, また本病は土壌伝染性であ ることを明 らかに し, そ の予防対策 を確立 して斯界に大 きな貢献 をな した。 別に西門は昭和9年 (1934)以来農林省の委託 を受けて麦類 のアカカ ビ 病防除について研究を行な ったが,本期では松本 ,山内,平 田,木村 と共 に本菌 の小麦苗に対す る病 原性 の分化 ,子襲形成な どについて研究 し,普 た種子 の比重選に よって千百 の被害 をほぼ完全に防止出来 ることを明 らか に した。 この研究は後期に引続いてい る。 食用菌煩 の研究 も後期に まで引続 いたが,その成果は見 るべ きものがあ った。本期では シイタケ菌が四極性 であ ることを明 らかに し,同菌 の系統 問交雑に よって椎茸 の品種改良を行な った。なお同筆 な らびにマ ツタケ, シメジな どの人 工栽培に関す る基礎的研究 も行なわれた。山内,樋 口,木 村が西門 の協力者であ った。 その他,木材 の青変,無花果,ネム ノキ苗,桜,マサキ,ボケ,西 瓜な どの病害,あ るいは各種植物病 原菌,菌核お よび病 原菌類培養 の生育期 閏 と環境 との関係な どについて研究が行なわれた。 本期におけ る病理部 の職員構成は次表 の如 くであ る。 研 究 員 西門義一 (1929-41) 助 手 松本弘義 (1929-35),山内巳酉 (1932-35),平 田幸治 (1935-37), 樋 口達雄 (1935-38),宮脇雪夫 (1938-41) 研 究 生 木村劫二 (1936-40),三橋 健

(45)

i

i

i

・ 後

西門 を部長 とし,前期 または中期 の研究をさ らに発展 もしくは一応完了 せ しめた ものも多い。 前期に始め られ 中期に中断 されていた 稲胡麻葉枯病 の 研究が 再 開 され た。すなわち,西門は単独 または中山 と協 同で本病 の一次発生防止には種 籾 の冷水温湯処理が最 も効果的な ことを明 らかに し,斯界に貢献 した。 西門は また中期に行な った稲馬鹿苗病 の研究を中山 とともに続行 し, こ の菌に よる異常生長効果は菌 の系統や環境条件に よって著 しい差異 のあ る ことを明 らかに した。 そ の他稲 の小粒菌核病 と稲条斑病 の研究が行なわれた。 麦 の病害について注 目すべ き研究は中期に引続いて行なわれた麦類 アカ カ ビ病防除の研究であ る。 西門は中山,山内 または石井 を協力者 として伝 染経路,侵入方法,侵入時期 と品種 との関係,抵抗性 品種 な どを明 らかに し,予防薬剤の撒布時期 をも究明 した。 これ らは本期以後に引続 き行なわ れた研究結果 を併わせ, コムギのアカカ ビ病防除に関す る研究 とい う題 目 の下に農林省農事改良資料第97号 (1958)として発刊 された。 なお,本期 の末に,西門は高橋, 日酒 とともに大麦 の ウ ドンコ病 に対す る抵抗性 品種 の研究を始めたが, これは その後 日酒に よって進展 され , 1959年育種学会賞を受け るに至 った研究 の発端 をな した ものであ る。 別に西門は大島,石井,森 田 とともに, トマ トの青枯病に対 して括抗作 用を有す る4種 の放射状菌 を発見 し,措抗微生物利用に よる作物病害防除 の可能性 を示唆 した ことは注 目に値す る。 本期におけ る病理部 の大 きな功績 の一つは中期に引続 き行なわれた食用 - 31

(46)

-菌類 の研究であろ う。 西門が木村,宮脇,三橋, 中山な どの協力を得 て, シイタケ菌, ヒラタケ菌,マ ツタケ菌 な どについて行 な った もので,その 成果は, シイタケ, ヒラタケの人工栽培技術 の改良発展に資 した処す こぶ る大 き く,改良 シイタケ菌, ヒラタケ菌 の発売 に よって得た収益 は戦後混 乱期におけ る当研究所 の研究活動に大 きな支柱 とな った ものであ り, また 昭和

2

3

(

1

9

4

8

)

岡山地方に天皇陛下行幸 のみ ぎ り, 西門が シイタケ菌 について御前講演 をなす栄に浴す るもととな った ものであ る。 このほか,病害予防薬剤の効果検定 のためのス ライ ド法,土壌放射状菌 の生理, 貯蔵甘藷 の腐敗,

Al

t

e

r

n

ar

i

a

お よび

Fus

ar

i

um

菌 に よる 摘花 の腐敗 の防止法 ,あ るいは クワイ,-ス,魂豆 ,チ シ ャな どの読菜類,ボ ケ,キ ンモ クセイな どの樹木顎 の病害な どに関 してそれぞれ精 力的な研究 が行なわれた。 このよ うに, 大正

1

0

(

1

9

2

1)病理害虫部か ら病理郡 として 独立 して 以来,終始その部長 として研究活動 の中心 をな して きた西門 の功績は非常 に大 き く, よって西門は昭和

1

6

(

1

9

4

1)には 大 日本集会有功葦,昭和

2

3

(

1

9

4

8

)

には岡山県文化賞, 昭和

2

4

(

1

9

4

9

)

には倉敷市文化章 を 授与せ られた。最後に,後期におけ るこ うした研究 を行な った職員 の一覧 表 を示す。 研 究 員 西門義一 (1941-51), 升本修三 (1943-45), 中山隆夫 (1943-46), 冒 浦運治 (1947-51) 研究員補 中山隆夫 (1940-43) 助 手

(47)

宮脇雪夫 (1941-46), 日浦運治 (1943-47), 大島俊市 (1943-47), 石 井 博 ((11994469=4580))・森 田 日出雄 (1948-51),渡辺鶴子 (1947-51), 都 田英雄 (1950-51),井上威信 (1951-52) そ の 他 渡辺鶴子 (1944-47),浅野達子,金 屋頁代 ,逸見美 代子 ,岡 田マス 子, 清水景子

4.

1

・ 前

この部は初め病理研究室 とともに病理害虫部 をつ くり,春用がその部長 であ ったが,大正10年 (1921)病理郭 と 昆虫郡 とに分れ, 引続 き春 用が 昆虫部長であ った。 この間八木 は数年 にわた り研究員 として独立 の研究 を 行ない, また春用 を助けた。 本部 としてほ,岡山県が梨 ,桃 の栽培地帯 であ ることを反映 し,その害 虫に関す る研究が まず取上げ られたのは当然 の ことであ る。 特 に,春用は梨姫心境虫について,時に八木 の力を借 りて,そ の生態 か ら防除法に至 るまで 詳細な研究 を 次期 の初めに至 るまで 引続 き 行な った が, これは本期におけ る害虫研究の中核 をな した。別に近藤は同虫に対す る硫酸 ニコチ ンの防除効果を検討 し,さ らにナ シ ミバチの生態については 春用が研究 した。 桃 の害虫に 対 しては, 春用は八木 とともに2種 の菓潜蛾 の 研究 を 行 な い,春用は更にモモ-バチを研究 し, また冬期におけ る介殻虫駆除に石火 硫黄合剤 の有効な ことを証明 した。 これ ら梨,桃 の害虫に対す る研究は当 時 の果樹栽培界に大 きな貢献 をな した ものであ る。 この期の第2の特色は,本期 の末か ら始 まった簡単害虫の研究であ る。 - 33

(48)

-特に蘭葉蜂に関 しては,熊代を協力者 として生態に関す る詳細な研究が行 なわれ,防除に有力な指針が与え られた。同 じく蘭の害虫 オオオスグロ-バチに関 して も春用,熊代は生態的研究を行ない,その成果は中期早 々に 発表 された。 稲の重要害虫であ る二化膜虫については,本期 の後半期か ら研究に着手 され,春用がその浸水駆除法の研究を行ない,

2

回に亘 って報告 し,その 有効な ことを示 した。 その他,春用,八木,近藤のそれぞれに よっていろいろの研究が行なわ れたが,特に八木のダニの生活史な らびに家蚕のモザ イクに関す る研究は 注 目に値す る。 この時代におけ る職員は次の とお りであ る。 研 究 員 春用忠吉 (1914「29),八木誠政 (1916-21) 助 手 EB辺忠一 (1918-20),林 久雄 (1918-20),佳代(近藤)三郎 (1923-29) 森 戸嘉治馬 (1927-29)

i

i

. 中

昭和10年 (1936)までは春用が, また11年か らは土屋が部長 とな り, 昆虫部の研究活動が最 も多岐にわた った時期であ る。 本期の研究の中心は稲作害虫であ った。特に二化峡虫に関 しては,春用 が ときに高戸,熊代の協力を得て,恒温 の桶化,羽化お よび卵,幼虫,桶 の発育に及ぼす影響 と,羽化不斉- の原因を詳細に追究 し,春用の後継者 た る土屋は同虫の嫡期の発育に及ぼす変温 の影響を研究 した。 これ らの成

(49)

巣は二化娯虫発生予察法 の確立に重要な基礎 とな り,後期におけ る深谷の 研究の出発点 とな ったのである。 春用は別に,苗代害虫のユ リミミズに対す る防除法 として-ナ ヒリノキ を取 り上げ, その毒性な らびに 効果を究明 し, その他 駆除剤数種を比較 し,ユ リミミズの駆除に指針を与えた。春用は また熊代の協力を得て,棉 の切姐に関す る基本的生態 と,麦園におけ るそれの防除法確立 のための殺 虫剤の施用 とを追究 し,熊代は畦 の研究を行ない,共に防除法実施 の基盤 た らしめた。 果樹害虫は前期でほほその研究を終え,報告の残部が梨姫心境虫お よび 梨皮潜虫について本期初めに見 られ るのみであ る。 読菜害虫では,春用が高戸,熊代 とともに行なった種蝿 の研究が注 目さ れ る。 生態のほか,防除法,寄生蜂の研究に まで及び,防除法 として毒剤 の有望なことを指示 した。 貯穀害虫に関す る研究 も本期か ら始め られ,春用は熊代 とともに麦蛾の 生態を研究 し,防除法 として乾熱の効果について試験 し,その有効 なこと を証 して防除の-指針た らしめた。 また, 燥蒸剤 としての クp-ル ビクリ ソに関す る詳 しい研究 も行なわれた。 簡草害虫の研究は前期で一先ず終わ り,本期ではその初めに春用,熊代 に よる報告が2篤出された。 その他,熊代に よって昭和11年 (1936)か ら昭和 12年 (1937)にかけ て5第の実験,観察,調査の報告がなされてい る。 これ らを通覧 し,本邦昆虫学界の よ うらん期か ら終始一貫,害虫防除 と い う目的のため研究に蓮進 された春用の功績は非常に大 き く,その教育界 - 35

(50)

-につ くした功労 と共に,春用は後年

(

1

9

5

6

)

岡山県文化賞を授与 され るに 至 った。 上記中期におけ る職員は大体次の とお りである。 研 究 員 春用忠告 (1929-36),土屋 孝 (1937-41) 助 手 熊代三郎 (1929-36),高戸竜一 (193

0

-36) そ の 他 木虎幸子 (1939-41),木虎文子 (1940-41)

i

i

i

. 後

部長土星は 昭和18年 (1943)病没 し, その後は深谷が部長 とな り,昭 和

2

5

(

1

9

5

0

)

に至 った。 この期は時局を反映 し,研究の動向が特殊化 して来た と見るべ きで,節 究対照は稲作 と貯穀の害虫に しぼ られて来た。すなわ ち,深谷が春用,土 屋の後をついで, ときには金子の助力を得て,二化媒虫の発生予察に関す る基礎的研究を行な ったが, これは 第14報 までに及ぶ詳細なもので,二 化峡虫の発生予察法の確立に甚大な貢献をな し,学問的には幼虫休眠に関 す る理論な ど,学界に与えた功績は非常に大 きい。その散を以て昭和

2

5

(

1

9

5

0

)

日本農学会か ら農学賞を授与 された。 貯穀害虫では米貯蔵上の大害虫であるコクゾウが研究対照 とな った。 す なわも,土星は小坂 と共に穀象の耐熱性を実験 し,またその生態特に蕃殖 に及ぼす棲息密度な らびに性比を追究 し,穀象防除の基礎資料た らしめ, 引続いて深谷は防除法 として

DDT

を用い ることの効果を検討 し,その施

(51)

用は疑問であ る として当時の

DDT

偏重 の風に警告 を与 えた。 別こ土塁は小坂 とともに,菜借欄 の発 生経 過 と生態 を研究 し,防徐法の 追究に まで 至 らん としたが, 不幸土星の病没に よ り これは 中途 で挫折 し た 。 この時代におけ る職員は大体次の とお りであ る。 研 究 員 土屋 孝 (1941-43),深谷 昌次 (1943-50) 助 手 小坂和彦 (1942-47), 藤井一人 (1943-45), 小泉憲治 (1944-46), 金子 武 (1948-50) そ の 他 木虎幸子 (1941-44), 木虎文子 (1941-43), 中塚憲次,坪井光子,≡ 島房子,平城芳子,岸 田美澄里,三島那美

5.

園 芸

園芸郭設置 の 目的は,果樹,疏菜 ,花井 の栽培研究お よび新技術の普及 と併わせて,地方農家に模範的技術を展示す ることにあ った。 このため, 前者については川又部長が これに当 り,後者は とくに桃栽培について広 く 名の知 られた小山が担任 した。川又は種 々新 しい読菜 の導入試作を し, 普 た花井栽培 を構内において行な った。 とくに障壁 を利用 した片屋根式 ガラ ス室 を造 り, この中でマスカ ッ トや コールマ ンな どの温室葡萄の栽培 の研 究を行ない,摘果,消毒,虫害防除な どについて種 々の考案 を し,今 日の "温室葡萄岡山" を築 く基礎 をな した。また ,珍 しい花や疏菜 は町民に親 し まれ, この研究所 が今 日まで "農園日 と愛称 され る因をな したのであ る。 - 37

(52)

-一方,模範果樹園造成に力を注 ぎ,名田山 (現在 の向山) を開墾 して果 樹園 を作 り,小山がその主任 として任務を遂行 した。 ここは,同氏の号 , 栗山の名を とり今 もなお栗山園 とよばれてお り,果樹 とくに桃栽培 の実地 指導場であ った。大久保は ここで桃 の品種改 良に努め,大久保水蜜 として 現在 ももっとも広 く栽培 されてい る水蜜桃新品種 を造 った。 この万両 の仕 事 に対 し,桃 や梨 の害虫 の生態お よび防除研究を行な った春用の功績が同 時に考え られj封まな らない。 この よ うに多 くの 業績をあげた園芸部は しか し研究所 の都合 で 大正

1

3

午 (1924)廃止のやむな きに至 った。研究所 開所以来 この部で働いた職 員 は次の如 くであ る。 研 究 員

又綾之助 (1914-16), 幸 田 久 (1916・-24), 小山益太 (1914-24), 大久保重五郎 (1914-24) 助 手 水河車爾 (1918-20),杉田重雄(1918-22),山本佳成 (1922-24) そ の 他 鳥取不可韓 (1914-18), 林 房造 (1920-24), 今城信次 (1917-24), 陶守省三郎,伊藤 竜太郎, 石 原鉄太郎, 今城勇士, 小山 勉, 石 原 泰 ,中尾武夫,武政秀吉,東 吉次,馬場新良,篠原兵衛 ,吉岡政治, 民本次郎太,小出三郎 6, 農 業 経 営 部 昭和16年 (1941)吉岡が農林省の委託で 農業経営研究を 当研究所 で行 な うことにな ったのが この部の発端であ る。 吉岡は定金 の助力を得て農業

(53)

経営的見地か ら作物の労働生産性向上 を主眼 として,機械化,省力栽培技 術について,それを作物学面 より研究を進め,壬 として水稲の直播栽培, 麦の不耕 (多株穴播)栽培の技術改善に努めた。 佐藤は農業 の近代化,高度化について,寺 田 とともに まず当時の農家の 実体を調査 して経営学的に農業技術のあ り方を批判す るとともに,農業経 営改善のために酪農の問題を取上げ,飼料作物の輪作体系について作物の 飼料価値向上を 目的に研究 した。 しか しこの郡は昭和25年 (1950)吉岡が 部長を辞任 し 閉鎖 された。存 置中のこの部の職員は下記の通 りであ った。 研 究 員 吉岡金市 (1941-44,1946-50),佐藤二郎 (1944--48) 助 手 定金 茸 (1941-51),田中喜義 (1944-46),寺 田由永 (1944-47), 小 林忠男 (1948-50) そ の 他 則武起夫 (1946-51),武鎗基生,上林直子,今 田和子 1

7.

他 以上にかかげたのは研究所 の中核体 としての各部の活動状況であ る。 し か しこの研究所 はもともと一定 した規格,制度があ ったわけではな く,過 当な人材で農業に関す る問題を攻究 したい人には 自由に開放 されていたの で,開所以来,短期間ではあ るがかな り違 った分野の研究者が在籍 した記 録があ る。 それ らの多 くは成果の発表 もないのでい まは詳細を知 るすべ も ないが,以下に若干述べてお くこととす る。 - 39

参照

関連したドキュメント

は、金沢大学の大滝幸子氏をはじめとする研究グループによって開発され

は、金沢大学の大滝幸子氏をはじめとする研究グループによって開発され

昭和62年から文部省は国立大学に「共同研 究センター」を設置して産官学連携の舞台と

地域の中小企業のニーズに適合した研究が行われていな い,などであった。これに対し学内パネラーから, 「地元

厳密にいえば博物館法に定められた博物館ですらな

所・ウィスコンシン大学マディソン校の河岡義裕らの研究チームが Nature に、エラスムス

笹川平和財団・海洋政策研究所では、持続可能な社会の実現に向けて必要な海洋政策に関する研究と して、2019 年度より

ハンブルク大学の Harunaga Isaacson 教授も,ポスドク研究員としてオックスフォード