ブリティッシュ・レイランド・
モータ一社の成立
一 一
BL
社1
0
年史(
3
)一一
山 本 尚
1. はじめに1
9
6
8
年という年は,イギリスにおいて6
0
年代の大合併ブームがピークに達 した年であり,接収に要した総支出は総粗国内固定資本形成を超過したが,そ のなかでもブリティッシュ・レイランド・モータ一社〈以下, BLMCと略記す る〉の成立が注目されたのは,つぎの理由によるものであった。まず第1
に, それは当時アメリカ合衆国以外の2
番目に大きな自動車製造会社で,イギリス の非固有企業のうち5
番目の規模をもった点、である。合併の当事者は,おのお のすでに合併およびテーク・オーバーの重要な経験をもっ多合併企業であり, BLMCの設立はほぼ8つの民族系自動車会社の大同団結を意味した。この企業 合併の背後にあるそチベーション,原因および過程を分析することが本稿の第1
の目的をなす。 この合併の第2
の特色は,テーク・オーバーが労働党政府のコーポラチズム 的産業政策の一部としてアンソニー・ウエッジウグド・ベン (AnthonyWedg-wood-Benn)やハロルド・ウィルスン (HaroldWilson) のような政治家およ び産業再編成公社(lRC)からの重要な奨励があったことである。このように BLMC設立のもっとも重要な局面は,経済的効率の次元を超える政治的なもの (1) Cowling, K, Stoneman, P, Cubin, J, Cable, J, Ha,!lG, Domberger, S.. and Dutであり,いわば「固有化への序曲」をなすものであった。このイギリスにおけ る巨大企業と闇家との独特な癒着関係を分析することが本稿の第2の目的をな す。 第3に, BL社はイギリス病の古典的縮図とされ,その問題の複雑さと深刻さ のゆえに多くのケース・スタディがおこなわれてきた。すなわち,時代遅れの モデ、ノレ,奈落の生産性記録,衰退するマーケット・シェア,取締役会における コンセンサスの欠如,劣悪な労使関係,政府の政策の逆効果など, さまざまな 原因が指摘された。しかし,いずれを根本的原因と見,他を第2次的重要性を もっ原因と見るかについては,その再建策のあり方とも絡んで論者によって異 なってしゐ。 K ウィリアムズ(KarelWilliams)は, BMCjBLMCjBLの失敗 の原因として市場の制度的構造を強調し,労使関係は総体的にBLにおいてあ まり重要でなか、ったとし,決定的な問題はフォードと比較して BLが市場構造 における変化に対応で、きなかったことであると論じてい£われわれはBLの 破綻の根本的原因を市場の制度的特殊性に求める彼の所説を手がかりとしなが ら,さらにBLの企業組織・管理と政府の機構・政策との関係や資本調達と金融 市場の機構・動態との関係や,さらに労使関係と労働市場・慣行との関係にも 分析を進めたいと思う。そして
1
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年スピーク工場閉鎖に関連して発せられた 疑問 rBLを打ち壊したのは誰か」といういわば BLのミステリーにたL、する 私なりの解決をえたいと思う。2
.
BMH社の経営危機とその原因1
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6
8
年2月の BLMCの成立について語るためには,4
年前の1
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6
4
年にさか のぼらざるをえず,その4年間の BMCの営業成績を見なければならない(第 (2) Ibid, p., 190, (3)Edwardes, M, (1983)Back斤om the Brink.,An Apoca,
ypticExpe仰nce(London, Collins), p"39(4) Williams, K, Williams, J and Thomas, , (.0 1983)Why are the Britぬhbad at Manu-facturing? (London, Rout1edge& Kegan Pau),lch3
93 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -93-1表参照)。この表が示すように1964年以降 BMCはすべての指標において停 滞の様相を示している。この停滞の要因として 1965年に始まったポンド防衛の ための政府の経済政策を強調する説と 1960年代に乗用車市場の構造が小型車 から中型車に移行したが, B M Cがその対応に失敗し,フォードとのそテール競争 に破れたことを本質的要因とする説の
2
つの説が対立しているのでそれらを検 討してみよう。 まず,われわれはB M Bとレイランド・モータ一社の合併を考察する上でポ ンド防衛のために労働党政府が採った引き締め措置が新車販売に顕著な作用を もったことに注目しなければならない。この点を中心にBMCjBMHの社長の 株主総会における事業報告を中心にみておこう。 CBMC第15回株主総会, 1966年12月14日)GゎW ハリマン社長 「まる 12カ月にわたって政府はそのデフレ措置プログラムを追求し,経済のノミロメー ナ シ ョ ナ ル ・ プ ラ ン ターは低下し続けた。 7月に起こった台風は,ボンド危機であり,全国投資計画 およびその計画する年率4%
の国民総圏内生産物増加は事実上放棄され,われ 第1表 ブリティッシュ・モータ一社の営業成績 〔百万ポンド〉 1962 1963 1964 1965 1966 1967 官 ?TI 上 高 311 378 444 484 526 467 税 ヲ│ 前 利 潤 406 15 05 21 17 2278 2047 ム323 売上高・税引前利潤率(%) 1 31 398 477 471 389 069 留 保 リ幸 潤 1..95 3 98 5..95 952 4 64 1092 従 業 員 数(人〉 80.000 87.000 93.000 100,000 120,000 114.000 株 主 数(人〉 104.000 106.000 106,000 108,000 133,000 150.000 生産(台数〕 国 内 376,753 478,437 538,593 559,943 531,426 372,169 輸 出 223,526 270,033 320,182 326,134 314.191 321,795 生 産 言十 600.279 748,470 858,775 886,077 845.617 693.964 (注〉 年はその年の 7月29日に終わる1年間の実績を示す。(6) BMC (1966) Annual Report & BMH (1967)Annual Reportより作成。
(7) Dunnett, P
J
S.(1980)The Decline0
/
the British Motor Industry The Effects0
/
Government Policy, 1945-1977 (London, Croom Helm)十(8) Wi1liams, K, op. cit
われは急速に圏内市場を侵蝕する前例のない緊急性をもっ信用引き締めに直面 した。操業短縮および余剰人員は不可欠の結果であり,われわれはすべてそれ に続く政治的,産業的ならびに社会的ストレスについて知っている。 この冷厳な脈絡においてさえわれわれは激励を見出した。けだし,
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,6
1
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台 の自動車を生産することにより前年の生産高の記録からの低下は,46%
のみに とどめられた。 1ゎ…この年の自動車生産高は,乗用車6
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7
,4
0
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台,商用車1
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,8
1
4
台およびトラクター1
8
,3
9
4
台てずあった。当年の大部分において販売は,注 文よりも供給の利用により大きく依存した。乗用車の圏内市場調達は,4
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,7
9
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台で主要製造業者乗用車登記の40%
を超え, BMCは首位を保った。その1
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8%
のシェアをもっ1
1
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は,イギリス市場でもっとも人気のある単一モデ、ル!で、 あり続けた。 一般的に国内販売実績は,われわれが国民経済を支えるために当年中一貫し て輸出拡大に優先権を与えたことにより影響され,3
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,1
9
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台の自動車が世界 市場のために生産された。 BMCのヨーロッパ市場への輸出は,1
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1
,8
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台を占めた。この合計のうち6
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,4
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台はEE.C
向けで,5
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,6
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台はKF T
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A
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向けであった」。 このように1
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年の事業報告は,将来に疑問を投げかけながらも,なお「わ れわれは現在ブリティッシュ・モーター持株会社にたいして BMCの時代を有 利にしたより以上の幸運を享受することを確信し,期待している」と楽観的な 調子で結ぶことができたのである。ところが1
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年の社長の事業報告は一変す る。 (BMH社第1
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四年次総会,1
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年1
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月1
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日J
G
.
.
W
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ハリマン社長 「ブ リティッシュ・モーター持株会社の最初の営業年の始まる9日前に政府は公定 歩合を引き下げ,割賦購入条件を引き締め,売上税を引き上げ,そして銀行貸(
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0
)
BMCは1
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-6
年にPressedSteeI Co. Ltdお よ びJaguarを合併して1
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6
年1
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月に BMH (British Motor Holdings)を設立した。この経緯については,野村宗訪Irイギリス 独禁政策と『公共の利益』一-BMCとPSの合併事件をめぐって一一Jr関西学院経済学研 究 』 第1
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号(昭和5
8
年 11月〉参照。95 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -95ー 付を規制した一一ーその結果自動車産業の国内市場の乗用車販売は,ほとんど
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万台だけ低下した。 当年全体にとって自動車生産高は6
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3
,9
6
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台に低下し,4
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億7
,2
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0
万ポンド の売上高をもたらした。すでに示したように6カ月間のわれわれの営業成果は,7
,5
0
0
万ポンドの損失を示したが,当年の後半に圏内市場の不況にもかかわら ず,われわれは4
,3
0
0
万ポンドの利潤を記録し,当年を3
2
0
万ポンドの損失で 終わらせた。 圏内市場不況は一般的であり,われわれの乗用車,商用車およびトラクター にも同様に反映されたが,スポーク・カーは例外で,その生産高は54%
だけ増 加して6
0
,1
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6
台となった。 予想されるようにオースチンおよびウルズリ,ジャガーおよび夕、、イムラーの 大型モデ、ノレは,引き締めによってもっとも影響された。しかし実質数量のター ムで競争がもっとも集中したのはn
o
o
c.. cから1
6
2
2
c.. cの中型領域において であった。他方,趨勢を無視してミニ・サルーンは前年よりもその生産量を増 加させ,f
n
o
o
J
からBMC
内の主導権を回復した。しかし,r
n
o
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J
の生産は1
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0
万台呂の車が昨年3月ロングブリッジの組立てラインから出荷されたとき新記 録を達成した。 われわれの世界市場への調達は,よく維持され,3
1
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,7
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0
台の乗用車,商用車 およびトラクタ一一ーそのうち72,0
4
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台は海外生産一ーで1965/66
年のそれ の4%
以内の減少にとどまった。この数量によってわれわれは主要イギリス製 造業者の輸出船積の35%
以上を占め,1
億4
,7
0
0
万ポンドの額にのぼる外貨を 稼いだ。」これが自動車産業が「歴代政府によってもっとも手頃な経済レギュ レーター」として使われたことの帰結であった。 (11)売上税の27+%への増加,石油税の3シリング7ペンスへの増加,最低割賦頭金の40% への引き上げ,再支払期間の24カ月への号│き下げとL、ぅ選択的措置をふくむものであった (Central Policy Review Staff (1975)The Future of the B冗tishCar lndustη(London, HMSO), p.. 125)。
(12) BMH (1967)Annω1 Rψort, pp.. 16-19
自由 N ational Economic Development Office (1968)The ~ρct of Government Economic PoliのIon the Motor lndustη(London, NEDO)参照。
このように会社側は政府の引き締め措置に経営悪化の責任を帰しているが, これにたいしウエールズ大学研究グループは異論を唱えているので以下その要 旨を紹介しておこれまず前稿で紹介した圏内市場=輸出市場論争についてこ のグループはiBMCの圏内市場問題の現行の議論は,財政金融的ケインズ主義 の時代におけるストップ・ゴ一政策循環によってひきおこされた新車にたいす る圏内需要の循環的変動のlつの問題に狭く集中されてきた」と述べ,政策指 導の変化の損傷効果をあまり大きく強調することを批判し i政策の変化は恐ら く
1
9
6
0
年代の3
つのより小さな下降の原因というよりむしろきっかけであっ た」と断じ, iBMCの発展パターン」すなわち「小型車の低資本集約的発展へ のBMCの固執」にこそ破綻の根本的原因があったとして「特殊BMC的問題」 を強調する。すなわち「したがって真の問題はこうである。し、かに,そしてな ぜBMCは,他の主要乗用車製造業者が生きのびた循環的変動によって損われ たか。……特殊BMC的問題は,乗用車市場が下降したときいつでも利潤がます ます崩壊したことであった。利潤崩壊は2つの企業固有の原因をもった。すな わち,第1にBMCはその輸出ビジネスを適切に発展させえなかった。したがっ て圏内市場が下降したときそれにかわるべき市場にスウィッチすることができ なかった。第2に,…ぃ"拡張生産設備における過小投資が収益性を損ったため 好況時においてさえBMCのマージンは貧弱で悪化しつつあった」と。このよ うにBMCの失敗について国内需要の変動に重点をおく考え方や資本利用・資 本ストックによる説明や労働力の不合理な行動を非難するマス・コミのきまり 文句を「不充分で不満足なもの」として,あくまで根本原因を市場制限一一一需 ( 14) このグループのリーダー格のK ウィリアムズ (WilJiams,K)は Iなぜ、イギリス人は製 造が不得手か」という問いに正統派応用経済学が充分に答えていないと批判し,新しい説明 土のフレームワークとして「企業計算の国民的諸条件」を強調する。それらは,(1)労働過程 にたいする経営管理,(2)市場構造と需要の構成,(3)企業の銀行および株式市場のような金融 制度との関係および(4)その経済政策が多くの点で作用する国家にたいする企業の関係,で あり,とくに(3)を重視する (WilJiams,K, op cit, pp.29-30)。 ( 15) Ibid., p 230 ( 16) Ibid, p. 230 (1司 Ibid,p..220 (1助 Ibid,pp.. 230-1.97 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -97-要の質又は構成のパターンに対する対応の遅れーーに求めている。 BMCにお いて生産高の発展が収益性につながらなかった要因としてこのグループは国内 および海外における市場制限をあげている。 まず圏内における市場制限からみてゆこう。 1964年以降乗用車市場に劇的な 変化がおこり,社用の中・大型車販売が激増してきた。フォード・コーチナが 中型車セクターで成功したことを理解するためには新車にたいするイギリス市 場の制度的特殊性を理解することが必要である。イギリスにおいて 1960年代以 降所得税と所得政策制限を回避する手段として事業従業員はたとえ車を会社の 仕事で使わなくても役得として会社の車をますます与えられるようになった。 1970年代初めまでに補助されない私的買手による個人的購入は重要性を減じ, 新車販売の約50%をしめるにとどまった。これに対応してフォードが成長する 会社セクターにサービスする販売網を開発したのに対し, BMCは伝統的事業 に固執し,その多くの小規模ディーラーは私的顧客に個人的に販売するように 仕向けられた。このようにセグメント間競争に敗れたことがBMCの失敗の根 本的原因であったと
K
ウィリアムズは主張するのである。 したがって BMCは輸出販売を至上命令として必要としたが,ここでも又そ れは市場制限に遭遇した。 1950年代初期および中葉にBMCは連邦諸国にその 輸出のほとんどをおこなったが,オーストラリアのような連邦市場はますます ローカル・コンテント規制によって損われた。その後北アメリカへの市場転換 は短期的には成功したが,やがてアメリカ自動車会社がコンパクト・カーを生 産しはじめ, 1962年に北アメリカ市場は4万台のBMC車をしめるにとどまっ た。 BMCは60年代初めに西ヨーロ yパ市場に市場転換し,ここでも短期的に 成功を収めたが,貧弱な販売網のため発展できなかった。このようにBMCが短 期的利潤に重点を置き,圏内および海外における市場制限についてのますます さしせまった問題を無視した点に失敗の根本的原因があったと, このグノレーブ は主張するのである。 (j骨 Ibid,p..233 (20) Ibid, pp.. 235-7以上において, BMC側の見解(政策とくに1966年の金融引き締め責任説〉 とそれを批判するウエールズ大グループの見解(市場のニーズに対応する製品 開発失敗説〉とを紹介してきたが,以下若干の私見を述べておきたい。このグ ループの主張の特質は,フォードとの対比において「市場構造における変化へ の対応」に失敗したことに本質的原因を求め,他の要因一一政府の金融引き締 め政策,資本スト γクおよび資本利用の不足,劣悪な労働慣行などーーを「真 実であるが第
2
次的重要性をもつにすぎなご1
とする点にある。では果たして フォードがポンド防衛のための引き締め措置による影響を受けなかったであろ うか。第2表でみるかぎり確かに1100/1300がその売上高を1966年の151, 946台から 1967年の 131,382台へと 135%減じているのに対してフォード・ コーチナ/コルサーは165,449台から201,293台へと 21..7%売上げを伸ばして いる。しかしその基礎的な理由のlつは, 1100/1300が旅行セールスマンにアッ ピールする大きな荷物入れでデザインされていなかったことである。これにた いしてコーチナはBMCのすぐれたデザイナーであるアレック・イシゴニス (Alec Issigonis)がユーモアたっぷりに「販売の手品」とよんだ大きな荷物入 れでデザインされており,団体購入者に充分大きな刺戟をもっ芯 他方フォートアングリア/エスコートは売上高を激減させており(第2表 参 照),利潤で見る限り BMCは税引前利潤でフォードより高利潤をあげており, 「利潤崩壊」はフォードが遥かに激しか、った。これに耐ええたのは,グノレーパ ルに行動する多国籍企業固有の強靭さをフォードが持っていたためであろう。 したがって私はBMCの 収 益 率 悪 化 の 基 本 的 原 因 は 附 年 引 き 締 め ぼ 撃 の (21) Ibid, p.. 219 倒 Daniels,J
(1980) British Lのlland. The T.. ruth about the cars (London, Osprey), p 681より作成。 帥 Turner,opゎcit,p 183ゎBLが団体購入者にアッピーノレする大きな荷物入れでデザイン された車を開発したのは, 1971年に採用されたマリーナであった。もっともマリーナは漏れ るという大きな欠陥があった CPryke,R (1981)The Nationalised lndustηes . P..oliα
es and Peiformance since 1968 (Oxford, Martin Robertson), pp.215-6)。
制 r1966年 7月のデフレ措置は,その消失をほとんど誰も悲しまない特定プランの放棄を意 味するのでなく, 1962年に設定された計画の全政策を爆破した」と}レノレウェッツ(J Leruez)は述べている。 Gamble,A.M..& Walkland (1984) The British Party System99 ブりティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -99-第2表 イギリス市場における B Lとフォードの特定車種の販売高 (台数) 1965 1966 1967 1968 1969 B L 、、、 104,477 91,624 82,436 86,190 68,330 1100/1300 157,679 151,946 131,382 151,146 133.455 フォード アングリア/エスコート 84,589 68,209 55,735 112,169 85.156 コーチナ/コノレサー 161,580 165,449 201.293 168.887 130.230 1100/1300に与えた打撃に求める見解に賛成する。かくして 1966年 7月 30日 -1967年 7月 29日の 1年間の BMH社 の 税 引 後 損 失 は 4,279,000に達し,そ のキャッシュ資金(銀行残高と短期預金〉は前年の 27,685,000ポンドから 14, 036,000ポンドに半減し,その銀行当座貸越は前年の 160万 ポ ン ド か ら 2,300 万 ポ ン ド へ 上 昇 し 詑 か く し て 以 前 レ イ ラ ン ド の 分 析 者 に よ っ て 指 摘 さ れ た 「強力な流動性の状態」は、消失した。 (28) 以 上 が 1966年 7月措置のBMH社の財務構造に与えた打撃で、あった。それ は特にその主力車種 1100/1300に打撃を与えたけれども,なお立ち直りの機会 はあった。少なくとも労働党政府と産業再編成公社(IRC)はそう判断し,もし ょく経営された会社(レイランドがそれで,そのIRCコード用語は「からし」 であった〉が悪く経営された会社(BMHーコード用語は「たがらし」であった〉 をテーク・オーバーすれば悪く経営された会社は改造されうると考えた。
and Economic Policy 1945-1983: Studies in Adversary Politics (Oxford, Clarendon), p.. 125..
聞 この 7月措置はノレ.-;;社、に例外的なひどい打撃を与え !lライスラーによって買収され た (Young,S and Hood, N.. (1977)Chrysler U K A Coゆorati
ω
2in Transition(Lon. don, Praeger Publishers), ch.. 8.) 目 的 BMH (1967)Annual Rψort, pp..7-8 0司 Turner,op cit, p.. 118 側 議会において大蔵省代表も自動車産業を「短期の経済レギュレーター」として意識的に使 用したかという質問にたいして 70年代以降については否定したが, r1960年代初期にはそ の見解に若干の真理があったに違いないと思うJ(House of Commons Expenditure Com.mittee (1975)Fourteenth Rψort.' The Motor Vehicle Industry, VoL II, p..125)と証言
している。
3 大合同一一開幕一一 BMCとレイランドの合併については,はやくも 1963年に議論されたが,な おレイランドは明らかに下位のノξートナーであった。 BMCは資産および販売 高において 2倍以上の規模をもち, 1960年代央までなお高い利潤を維持した。 ところが 1967年夏までに新オースチン 1800の商業的失敗もあって事態は一変 し, BMHは損失を計上したが,レイランドは約 2千万ポンドへの利潤増大が予 想された。かくして合併のイニシアチブはレイランド側に移行し, BMH社 長 ジョージ・ハリマン卿が辞任を強要され, さらに BMHの遅延された合理化に 着手したジョー・エドワーズ氏も辞職し, レイランドのドナルド・ストークス 卿が新設会社 BLMCの社長となった。このいわば「小魚が鯨を飲む」形での合 併の経緯を 1966年 12月に設立された IRCの活動との関連で見ておこう。 IRCは労働党政府によってイギリス産業の「再組織又は発展を促進しもしく は援助する」ために設立されたもので i1964-70年の労働党政府の導入した経 済運営の革新のうちでもっとも重要で成功したもの」といわれた。その主たる 目的は合併の促進であり,その優先順位と基準は,国際収支状況に最高の優先 順位〈く経済的〉目的〉が与えられ,ついで地域的雇用バランスの配慮(く社会 的〉目的〉であった。その説得手段として資金を国庫から
L5
億ポンドまで引 き出すことができたが,双方の意志に反して2
つの会社の合併を強制する手段 はもたなかった。もし金融と産業との緊密な「協調」があったならばIRC
設立 の必要性は起こらなかったであろう。 IRCはマックミラン報告,さらに最近で はラドクリッフ報告以降繰り返して指摘された「金融上のギャップ」を埋める (30) Ibid, pp 178-9 (31) IRCのイギリス労働党の産業政策における位置づけについては,高橋哲雄「イギリス労働 党の産業政策思想の転換一一1964ー70年 一 一J,高橋哲雄他編『比較社会史の諸問題〔大野 英二先生還暦記念論文集J
j
所収,参照。 (32) McClelland, W G. (1972) The Industrial Reorganisation Corporation-an experimen -tal prod, Three Banks Review, no..94, June, p..23 (ゆ Stacey, A. H (1966)Mergers in Modern Business(London, Hutchison)。小津修二訳 『現代の企業合併~ (969), 144ベージ。101 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -101-ための決定的に有力な助力機関の役割を担っていたのである。すなわち,もし 国際収支危機に対応してシティ権益擁護のため採られた仮借なきデフレ政策を 労働党経済政策のハイド的側面とすれば, IRCはそのジーキル的側面を示すも のといえよう。以下において,いわばIRCをレフリーとする BMHとレイラン ドの聞の合併をめぐるゲームをGターナー(G.Turner) の著書に依拠して 1967年 10月以前と以後に分けて考察しよう。前半においては合併は「個人的お よ び 会 社 の 観 点 」 か ら 商 業 的 考 慮 に よ っ て 進 め ら れ て お り , そ の 中 心 人 物 は BMHの]エドワーズ(Joe Edwards)であり,後半の首相地方官邸での会合 以降は「突然まったくちがったルールでプレイし!て」おり,その主役はストー クスであった。 まず, 1952年 2月にオースチン社とモリス社が合併してブリティッシュ・ モータ一社 (BMC)を設立して以来「合理イじ」にはほとんど見るべきものがな かった点に注目したL、。もともと合併そのものが「水と油を混ぜ合わせるよう なもの」であった上,新社長レオナノレド・ロード (LeonardLord) の合理化の 失敗から合併の利益は決して充分には実現されなかった。両会社の使用する主 要機械部品一一エンジン,ギア・ボックスなどーーのかなり急速な合理化があっ たが,分散した工場の統合化はゆるやかなベースで進んだにすぎない。 1950年 代 お よ び60年代初めの売手市場と BMCの健全な利潤が改革を遅らせ,オース チンとモリスの販売ネットワークは, レイランドとの合併時でさえ大いに別個 であった。同様にグループの組織も 1966年まで能率化されず, BMCは持株会 (34) Turner, op.. citターナーは BBC経済記者で本書の他にも自動車産業にかんする著書が ある。 1974年BBCラジオ・プログラムでカウレイ・コンプレックスを「愚者の楽園」と述 べ, TGWU地方書記0.パックノレ(0.Buckle)によって「愚かで、無責任な」発言であり, 恐らく BLを来るべき総選挙に向けて「保守党のための政治的フットボーノレ」にするもので あると批判された (FinancialTimes, 29 August 1974)。 開 Turner,op. cit, p.. 122. 自由 Ibid p,“ .122 開 以下,本節および次節の叙述は,ターナーの著書(Turner,op. cit)およびその要点を示
すHague,0.. and Wilkinson, G (1983) The IRC-An Eゅerimentin lndustrial lnterven -tion.: A History of the lndust均1Reoγ-ganistation Corporation (London, George
社にとどまり,たとえばオースチンとモiリスは別個の取締役会と別個の帳簿を もっていた。しかも会社内取引が発展したために経営に利用しうる財務情報は しばしば不充分であった。その上経営上の内紛が絶えず,
1
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年にロードが BMCの製造担当重役であり,執行部のなかでもっとも有能な人材の l人であ るJ
エドワーズを解雇したことはその典型であった。エドワーズは短い中断は あったがオωースチンおよびBMCに27年間在職したが,ロードとの折り合いが 悪く,プレスト・スチール社に移り,1
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6
年両社が合併したとき再び専務取締 役として復帰した。同年6月9日彼がBMCの専務取締役になったとき「確かに 鳩の群れの中に猫を置くこと」と評されたほど彼は病気がちのハリマンに代 わって事実上の BMHの最高管理者であった。 エドワ寸ズは専務取締役として復帰したとき BMCに基本的弱点を見出し, その多くは短期的には治療ができず,この会社が生き残るためには抜本的改革 が必要であると考えた。まず第l
は労働力削減と経営陣の強化であり,1
9
6
6
年 秋に 14,000人だけ会社の労働力を削減した後いくつかの中心部門の BMCの 経営を強化することに着手し,それぞれ購買責任者およびスタイリング担当取 締役となるべきバート・ウォーリング(
B
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r
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l
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)
およびロイ・ノ、インズ(Roy H
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s
)
のような人材をフォー肝から雇ったが,労使関係担当重役の召 蒋には成功しなかった。 次のプライオリティは,早急なコスト節約が可能な分野を見出すことであっ た。彼はこのグループにあまりに多くの工場があることを知っており,それら の若干を閉鎖する計画を作成しはじめた。これらはコヴエントリのモリス・ボ ディ工場,オックスフォードのモリス・ラジエーター工場,アビンドンのM G コンブレ yクスの一部およびパーミンガムのカスル・ブロムウィッチのフッ シャー・アンド・ラドロウ工場を含んだ。エドワーズはこれらの閉鎖がBMHの 水ぶくれした労働力をさらに8
,0
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人だけ削減しうると計算したι1967
年秋ま でにこれらの計画は完成されつつあった。 第3に,エドワーズはBMCの製品計画努力に批判的であった。食器棚はまっ たく空ではないまでもニュー・モデ‘ノレをきわめてわずかにしかストックしてな103 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -103ー いように思われた。彼は当時開発の後期の段階にあったマキシー(コード番号 AD014)の正面のデザインを嫌い,全体としてそれが魅力に欠けると批判した が,不幸にもその予想は的中することになった。
1
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も週当たり3
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台の販 売を達成するものと意図されたが,1
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年までに週当たり約1
,0
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台の率で売 れたに過ぎない。会社はそのモデルのおのおのに多種の車種一一ミニには1
6
種 類あった一一ーがあり,車種は多数のボディ・パネルを必要としたのでコスト節 約は達成できなかった。 1モデルの車種がすべ1て同じ工場で生産されてはおら ず,エドワーズは1
1
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車種系列が4
つの異なった場所で生産されているのを見 出した。 これらの改革は1
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年秋までに進行中であり,ハリマンとエドワーズは時間 さえ与えられればBMC
は充分な健康に復帰しうると信じ,エドワーズはそれ が1
8
カ月かかると考えた。ところが1
0
月初め政治家による決定的介入が生じ, しかもトップ・レベルにおいてであった。ウィルスン首相がハリマンおよびス トークスを首相地方官邸の晩餐会に招待したので、ある。このニュースを聞いた ときエドワーズはこれまでの合理化努力が無意味となったと感じ,今や彼およ び会社が「権力の回廊」にあると理解した。4
大合同一一一権力の回廊一一 合併の話し合いが最初に始まったときレイランドは明らかにジュニア・パー トナーであったが1
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年夏までに様相は大きく変わり, レイランドが今や「獲 物というよりはむしろ猟師」になった。1
9
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7
年にBMH
が損失を計上したのに たいし,レイランドは1962-65
年の4
年聞にその利潤を4
倍近く増大させ,1
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6
年に1
,6
4
3
万ポンドとなり,1
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年にも2
,0
0
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万ポンドを予測した(第 (38)3
表参照〉。その年までにレイランドの古L、
3
頭支配経営は解体し,レイランド はドナノレド・ストークスであった。彼は印象深い公共の名声を獲得し,労働党 政府の産業顧問であり,IRC
の理事会メンバーであった。もちろん,彼は彼の 側 L eylandMotor Corporation(
1
9
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6
)
Rψort and Account, p.1
5
第3表 レイランド・モータ一社の営業成績 (百万ポンド) 1962 1963 1964 1965 1966 土7c 上 高 148 172 202 215 220 税 号1 前 リ手 潤 5 55 10 33 1783 2045 16 43 売上高・税引前利潤率(%) 38 6 0 88 9 5 75 留 保 日来 潤 069 307 6 45 9 44 4 17 従 業 員 数(人〉 48.500 51. 750 54,500 56.600 56.100 株 主 数(人〉 69,000 71.000 70,000 70,000 71,000 (注〕 年は,その年の9月30日に終わる1年間の実績を示す。 会社および競争者にかんする IRC理事会でのすべての議論から排除された。 IRCの最初のイエシアチブが座折したときストークスは不確かな同意され た合併よりはむしろ
BMH
に対するテーク・オーバー・ピッドについて真剣に 考えはじめた。彼はビッドにたいする決定が最終的にとられるならば,その根 拠を準備するために2つの行動をとった。第1は, レイランドの株式構造の技 術的問題であった。レイランドは1
ポンド株5
,0
0
0
万以上をもったが,BMH
は ほぼ5
シリング(
2
5
ペンス〉株式で2
億5
,0
0
0
万株をもった。レイランド重役 会は1ポンド株を4つに分割することを決定し 4対lの仮株券発行をおこな い,かくしてBMH
におけると同数のレイランド株をっくり出そうとした。こ れは2つの利点をもっとみられた。第lに,それはなんらかのビッドの技術を より単純化し,条件をより容易に理解しうるようにするであろう。第2に,よ り重要なことにもしビッドのタイミングが正しければ,適当な利潤予測とそれ が結合されうるのでBMH
のそれを越えたレイランドの市場資本化をよく行 いうる。したがって緊急の計画が株式分割を試みるためになされた。 第2の準備行動は,政府とのグラウンドを明確にすることであった。それは 政府およびIRCが合併を推進するにつれてほとんど必要とは思われなかった が,スト}クスはBMH
によって反対されたレイランドのテーク・オーバー・ ビy ドに異なった反動があることを恐れた。したがって7月末彼は技術相のベ ンに会い,政府が独占委員会にテーク・オーバー・ビッドを提訴しないという 非公式で暫定的な了解をとりつけた。これらの2
つの準備行動の後1
0
月初めに105 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -105-トップレベノレの政治的介入が行われた。 首相の地方官邸における晩餐会はハロルド・ウィノレスンの考えであった。彼 はIRCがこの合同をきわめて重要なものと見なしており,それを進めるために 苦闘しているのを知っていた。地方官邸にハリマンとストークスの
2
人の首脳 を招いて,合同は不可欠であり,ストークスに取締支配権を与えることによっ てのみ成功するであろうとし、う政府見解をハリマンに伝えることにあった。ハ リマンが後に述懐しているように「その夕方の全体の本質は合併を促進するた めに首相の地方官邸の魅力を使うことで、あった」。 2つの会社の首脳が地方官邸において 10月20日に再び会合をもつことが同 意され,今やこの合併は個人的および会社の観点からではなく国家の観点から 「権力の回廊」を突き進むことになった。ハリマンは「首相が尋ねたとき否と いうことは良いことではない。地方官邸の後,私は前進するために特別の強制 を感じた」と首相官邸の会合につづく雰囲気の変化について述べている。それ 以降すべての企業合併がそうであるように資本構造における合併比率および経 営構造における取締支配権をめぐって両社間で蟻烈な掛引きが行われることに なる。1
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6
7
年夏までにBMHの圏内市場におけるシェアは28%以下に落ち込み, ほんのわずかフォードに先んじているに過ぎなかった。レイランドは, 2,100万 ポンドの利潤を予測したが, BMHは損失を計上しており, 10月20日に2回目 の首相地方官邸での会合が持たれたとき,レイランド株の市場価値はBMHの それを追い抜いた。その会合においてストークスは,第1にBMHに対して一 方的なピッドは行わないことを了承し,第2
に議論が経営構造およびその他の 問題についての差異をめぐって泥沼におちこむように見えたとき, レイランド は中立的裁定者iを立てることを示唆した。フ。ルーデンシヤノレ保険会社がレイラ ンドおよびBMHの双方の大株主であり,ディールのための合理的な条件を示 す理想的な選択と思われた。 「プノレ」はその課題に接近し,取り組むことに同意した。 11月にそれが提案 をおこなったとき, BMHの当期の利潤と市場価値にたいするよりもその資産価値と潜在的な回復力〈強気の予測によって裏打ちされた〉により大きなウェー トを与えたことは明白であった。「フ。ル」の提案はBMHの株主に合同株式の
55%
を, レイランド株主に45%
を与えるというものであり,マーチャント・パ ンカーが前年春に示したよりも BMH~;こ有利であり,その相対的地位がそれ以 来大きく悪化しているにもかかわらずそうであった。 レイランドはし、かなる条件においても「フ。ル」の提案を受け入れる用意はな く,レイランドのアプローチは失敗に終わったかに見えた。ところが11月18日 イギリスがポンドを切り下げたことが2
つの会社の比較上の展望を変え,結果 的にレイランドにもう 1つの武器を与えた。ポンド切り下げおよび新しい割賦 購入制限はレイランドよりはるかにひどく BMHに打撃を与えるであろうか らである。同時に 11月末までにベンの政治的介入によって IRCが再び問題の 中心にカムバックし,その理事長カートン(FK
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)
が調停者として行動 することになった。 IRC はし、くつかの重要な利点をもった。第lに,政府の代理機関としてそれ は,合併にたいして政治的圧力を行使することができるであろう。第2に,カー トンと彼の執行部はウィルスン又はベンが交渉の詳細と長い交渉期間にたいし てなしうるよりもより多くの時聞をさくことができるであろう。第3に, IRC は適当な条件のもとで資金を提供することができ,もし結合した会社が大きな 合理化と開発言ピ試みることになれば多額の資本投入を必要とすることが明白で あった。 IRCの理事会メンバーとしてのストークスの立場も重要であった。 他方,経営構造および支配をめぐっても両社の見解は激しく対立した。BMH は持株会社のもとでの現存事業のルーズな同盟を欲したのに対し,レイランド はストークスを経営取締役および首席エグゼキュティブとする明確で、強い命令 構造を主張して譲らなかった。この点でIRCが仲人役として大きな成果を生み だすことになる。 1968年1月8日に予備的な会合がすべての当事者の聞で、持た れた。カートンは次に双方の会社における重要な人物のほとんどと個別に会合 した。 1月9
日雪の中,ストークスはレイランド・モーターズのリパプール工 場訪問中のウィルスン首相と会合し,合併についての首相の支持をほぼとりつ107 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -107ー けることができた。これらの根回しの後
1
月4
日土曜日の夕方ロンドンで双方 の会合がもたれたが,それは明らかに決定的会合であった。解決されるべき重 要問題はなお経営構造であったが,翌朝の1
時までにカートンの忍耐強い交渉 技術は1つの協定を生みだすことをたす町けた。 BMHが当年その利潤予測を大 きく低下させ,その当座貸越が5,000万ポンド以上に増加したため, IRCの資 金が合併ディールの重要な部分となることが明らかになった。 レイランドの定期取締役会が1
月1
6
日にもたれ,なされた進歩が再調査され た。経営問題はハリマンを会長とするがストークスを経営取締役および有効な 首席エグゼキュティブとすることが満足裏に解決された。 BMHの予測の改訂 が新会社の半分以上を取得する BMHのいかなる機会も失わせ, 50対 50の基 礎が承認された。その夕方双方の会社の取締役がIRCで会合した。そして最終 的な発表の詳細が議論され承認された。新しい役員会にはレイランドおよび BMHから同数の重役を任命し,会長はキャスティング・ヴオートをもたなかっ た。ハリマンは常勤の会長であったが,彼の責任は専務取締役としてのストー クスのそれとは全く異なっていた。新しいグループは持株会社としてではなく 単一の自治的単位として経営されることになり, これはレイランドの観点にた いするもう 1つの勝利であった。主要な問題はBMHの財務状態の深刻さに あったが,これにたいして IRCが承認されるべき条件のもとで2,500万ポンド の貸付を考慮することになった。 翌日 l時45分に合併協定のニュースが株式市場に伝えられ, 10分後に報道 機関に伝えられた。今やイギリスは世界にたいして 1つの新しい巨大な自動車 会社をもつことになった。それは大胆な始まりであり,諸困難は終わったよう に思われたけれども,事実それらはただ始まったばかりであった。 この協定は双方の会社の株主の承認を要し,それは1
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年3
月に計画され た。その聞にBMHの財務状態の予想を上回る損失の結果が明らかになり,合 併は流産の危険にさらされた。ターナーによればBMHの主力銀行からの勧告 は合併の条件には固執するが,経営については妥協するであろうということで あり,ハリマンはこの勧告を受け入れる準備をした。ハリマンは6カ月以内に社長を辞職し,ストークスが社長兼首席エグゼキュティブになることになった。 それは
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年3
月双方の会社の株主によって計画されたとおり承認され,かく してブリテイグシュ・レイランドは誕生した。BMH
の経営取締役ジョー・エド ワーズの辞任は不可避であり,彼自身もストーグスのナンバー2を務める意志 がなく 4月に辞職した。したがってストーグスは結合された重役会に明白な 多数を確保し,テーグ・オーバーをおこなったのと同様に彼が欲したほとんど すべての決定的な点を達成した。しかし彼は1つの譲歩を喜んでおこなった。 これはBMH
のジャガー子会社がその創設者ウィリアム・リヨンズ(
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)
卿の経営のもとで大いに自治的な単位としてとどまるであろうという 点であった。BMH
の基本問題の1
つは低水準の投資にあったため合理化計画を押し進め るためにはIRCの資金を必要とした。 IRCはブリティッシュ・レイランドにた いして2
つの重要な譲歩をおこなった。第1
にそれが提供した2
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万ポンド は無保証の貸付資本の形でなされることが同意された。第2にそれは市場利子 率よりわずかに低い率でこれを利用しうるようにした。第2
の譲歩は異例のも のであり, IRCがこの合併をし、かに決定的に重視したかを示すものである。5
、 むすび一一日産・プリンス合併との比較一一 ドナノレド・ストークス卿は,1
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年1
月2
4
日のサヴォイ・ホテルの演説にお いて次のように述べた。「ふくまれるすべての問題をきわめて注意深く考慮した 後われわれは正しい事は,われわれがすでに発表した条件でBMH
を合併する ことであると決定した。レイランドの現時点における利潤は明らかにBMH
の それよりはるかに大きいが,それにたいしてそれらは巨大な生産能力,大量の のれんおよび将来にたいするきわめて大きな潜在力をもっ組織で、あり,合理化 された経営によってわたくしは主要自動車生産者の強力な世界的規模での競争 にたいして競争しうるであろうことに大きな希望をもっている。……それらが イギリス製だからではなく,イギリス車が世界で最上の車だから人々がわれわ109 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -109ー れの車を買うことを欲する」と。しかしこの「ストークスの夢」は不幸にも実 現されることなく
5
年後に欠損を出し,ふたたびベンの手にゆだねられたので ある。そこでその失敗の原因をほぼ2
年前におこなわれた日産・プリンス合併 (以下.NP合併という〕と比較しておこなう。 両者を比較するばあい,まず日英両国の自動車産業の発展段階の違いに注目 しなければならない。6
0
年代において,イギリスの自動車産業が成熟段階に達 していたのにたいし, 日本では成長段階に入ったばかりであったことを反映し てつぎのような差異が見出される。第1に,日本経済も 1964-5
年に国際収支 悪化によるドラスチ yグな引き締め措置によって不況局面を迎えたが「スト y プ」期間は短期に終わり, 65年に経常収支は黒字に転じ,それ以後国際収支の 黒字基調が定着したのにたいし,イギリスでは不況局面が長引き,経常収支は 改善されず,遂に67年のポンド切り下げ(ドルにたいして 144%)がおこなわ れた。したがって政府の景気引き締め政策による打撃は, NP合併におけるより もBL合併において,より本質的原因となった。 第2に, NP合併は習熟局面を終えた日本自動車産業が園内市場から輸出市 場へ,法人需要から個人需要へ,後進国向けから先進国向けへ,中型車から小 型車への需要構造の変化のなかでおこなわれたのにたいし, BL合併がほぼそ の逆の需要推移のなかでおこなわれたことである。プリンスは需要構造が中型 車から小型車へ,法人の営業用車から個人用自家用車へと変化したために強い 打壊を受けたのにたいし, BMHはその逆の需要推移に対応することができな かったために破綻を示したのである。 第3のBL合併と NP合併の相違点は,銀行の果たす役割の決定的ともいえ る差異で勺ある。日本においては系列金融に加えて開銀による体制金融のノミグ (3) S9 peech by Donald Stokes“Savoy Hotel-24thJ.anuary, 1968. (40) Dライダー(0..Ryder)は「私は1968年の合併は正しかったと思う。合併の条件に問題 があったと信ずる」と述べ,ライダー・レポートが出るのが7年遅かったと指摘している (House of Commons Expenditure Committee, op. ci,.tp.. 59)。
品1) Allen, G C (1980) 1注pan'sEcQnomic Policy(London, Macmi1lan), p. 145
制 大島卓「日本自動車産業における成長過程の実証分析一一日産・プリンスの合併を中心に 一 一Jr季刊経済研究』第9巻第1号 (986)
ク・アップの下に技術革新,設備投資が急速に進み,合併がより大規模な合理 化を実施する手段としておこなわれたのにたいし,