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小松和彦 122 人 の 古 老 数 人 に見 て も っ らた とこ ろ す ぐ さま 日本 人 が パ ラオ 人 を武 器 で 脅 か して い る とこ ろ だ と理 解 した ま た こ の絵 を み た パ ラオ 博 物 館 の 学 芸 員 は こ こ に は パ ラオ や ミク ロネ シ

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日本 にお ける 「

南洋 」の形 成二森 小弁 の場合 を例 に して一

小 松 和 彦 国際 日本文化研究 セ ンター は じめ に 「開 化 期 」 の ミク ロネ シ ア 後 に 「南 洋 群 島 」 と呼 ば れ る こ と にな る地 域 は 、 ほ ん の わず か な 日本 人 が た ま た ま 現 地 を訪 れ る とい う経 験 を もっ た だ け で 、 日本 に在 住 す る政 治 家 や 経 済 人 、知 識 人 を含 む ほ とん どの 日本 人 に とっ て は 、 思 考 の 外 の 領 域 に属 して い た 。 そ の よ うな 状 態 の な か か ら、 次 第 に 「南 洋 」 が 日本 人 の 前 に 立 ち現 れ て く る。 そ の 時 期 は 明 治!0年 代 か ら20年 代 に か け て の 時 期 で あ った 。 で は 、 当時 の 日本 人 は 「南洋 」 を どの よ うにイ メ ー ジ し、 ど鶴 古ゑ に現 実 の世 界 と し て 「南 洋 」 を 体験 した の だ ろ うか 。 本 稿 の課 題 は 、 そ の こ とを 森 小 弁 とい う人 物 を媒 介 に しな が ら考 えて み る こ と にあ る。 1パ ラオ 人(ミ ク ロ ネ シ ア)が 描 い た 日本 人 の イ メー ジ 本 稿 を考 え る そ もそ もの きっ か け に な った の は 、 た ま た ま 目に した 一 枚 の写 真 で あ っ た(次 頁 写真 参 照)。 能 仲 文 夫 の 『赤 道 を 背 に し て 』(昭 和9年)の 復 刻 版 の 表 紙 を飾 っ て い た 写 真 で あ る。 こ の 写真 は 昭 和39年 に 、 当 時 、 毎 日新 聞 社 の 写 真 記 者 で あ っ た 民 俗 写 真 家 ・渡 辺 良 正 が撮 影 した もの で 、 当時 の 国 際連 合 米 国信 託 統 治 領 パ ラオ 地 区(現 在 のパ ラ オ 共 和 国)の ア バ イ の破 風 板 に描 かれ た い わ ゆ るス トー リー ボ ー ドで あ る。 この アバ イ は 戦 後 の 昭 和28年 、 南 洋 貿 易 の 焼 跡 に 、 ア メ リカ の 資 金 援 助 で 、 コ ロー ル ・コ ミュ ニ テ ィ ・セ ン ター と して建 て られ た も ので あ った 。 しか し、残 念 な こ と に、 この パ ラオ の ア バ イ は 、 昭 和42年 の台 風 で 倒 壊 し今 は な い 。 ス トー リー ボ ー ド(絵 物 語 板)と い え ば 、 現 在 のパ ラ オ を 代 表 す る よ うな観 光 ・み や げ 品 に な っ て い るス トー リー ボ ー ドを想 い 浮 か べ る 人 が 多 い が 、そ の起 源 はパ ラオ の 神 話 や 伝 説 の 一 場 面 や 動 植 物 な ど を描 い た ア バ イ な どの 装 飾 絵 に あ った 。 それ を 一 枚 の 持 ち運 べ る よ うな一 枚 板 に して観 光 土 産 品 にす る よ うに な った の は、 彫 刻 の技 術 を パ ラ オ 人 に 教 えた 土 方 久 功 で あ る と され て い る。 も ち ろ ん 、 この 写 真 の絵 は 、 アバ イ に 描 か れ た も の で あ る ので 、 観 光 用 に 作 られ た も ので は な い 。 戦 後 、 こ の アバ イ を建 て た と き に 、パ ラオ 人 が 相 談 して そ の 素材 を考 え、 そ して描 い た もの で あ る。 お そ ら く、 日本 時 代 に 日本 人 か ら教 育 を受 け た人 た ち が 中 心 だ っ た の だ ろ う。 興 味 深 い の は 、 こ こ に 描 か れ て い る の が 、 よ く 見 られ た 、植 民 地 化 す る 以 前 の パ ラ オ の神 話 や 伝 説 を描 い た もの で は ない とい う点 で あ る。 それ は 、棟 に近 い最 上 段 の ひ と き わ 大 き く描 かれ た二 人 の 人 物 の 左 側 の人 物 の 姿 を 見 れ ばす ぐに わ か る。 日本 人 が 描 か れ て い る か らで あ る。 この 男 は 右 手 に洋 傘 を 、左 手 に大 き な鋏 を もっ た袴 姿 で 下 駄 を は き 、石 油 ラ ン プ を足 元 に 置 い て い る。 こ の男 の い で た ち は 明 らか に 、 明治 時 代 に一 世 を 風 靡 した 厂壮 士 」 の それ で あ る。 右 側 の男 はパ ラ オ 人 で 、壮 士 に 鋏(武 器)を 突 きつ け られ て い る の で 、 き っ と首 長 で あ ろ う。 つ ま り、 こ こ に は 、 日本 人 に よ るパ ラオ 人 との 暴 力 的 な 「出会 い 」 の様 子 が 描 かれ て い る の で あ る。 こ の絵 を 、 日本 時代 を知 るパ ラ オ 121

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人 の 古 老 数 人 に見 て も っ らた とこ ろ 、 す ぐ さま 日本 人 が パ ラオ 人 を武 器 で 脅 か して い る とこ ろ だ と理 解 した 。 ま た 、 こ の絵 を み た パ ラオ 博 物 館 の 学 芸 員 は 、 こ こ に は パ ラオ や ミク ロネ シ ア の近 代 史 が 描 か れ て い る貴 重 な史 料 だ と述 べ た 。 た しか に 、 そ の 出 会 い は 暴 力 的 な 出会 い で あ っ た が 、 注 目す べ き こ とに 、 この 一 連 の 絵 物 語 は 、 日本 人 を全 面 的 に は否 定 的 に 描 い て は い な い。 小 菅輝 雄 の解 説 に よれ ば 、 最 上 段 は 、 明 治 ・大 正 時 代 に 、気 骨 あ る 日本 人 壮 士 が南 洋 に 渡 っ て 来 て 、 日本 刀(こ の 絵 で は鋏)で もっ て 島 の 人 々 をお ど し 「働 く事 」 を説 得 して い る場 面 、 そ の 下 の 二段 目の 絵 は 、 お互 い 意 見 を交 わ した が 島 民 の 同 意 を得 られ ず 、 島 の 人 は 相 変 わ らず 坐 っ て い る 場 面 、三 段 目は 、 この 壮 士(日 本 の海 軍 の 人 々 と も読 め る)が 日本 か ら、 囚人 とお ぼ し き人 や 元 気 そ うな 男 た ち、 さ らに は そ の 妻 や 子 供 、老 人(傘 を さ した 人)ま で 島 に 連 れ て く る と と もに 、 鋏(武 器)で 働 か な い 島 民 た ち を脅 して 強制 的 に働 か せ て い る場 面 、 四 段 目は 、 島 民 た ち が 一 生 懸 命 に働 き 、 この た め に大 き な 島 の 大 地 か らパ ン の木 が 芽 を 出 して生 い茂 っ て く る場 面 、 最 後 の段 は 、 ヤ シな どの作 物 が 大 小 さ ま ざ ま な 島 々 に 生 い 茂 り、 た く さん の 魚 が 穫 れ 、 お金 が 島 に 満 ち浴 れ て い る場 面 で あ る。 す な わ ち 、結 果 的 に は 、 勤勉 に 働 く こ とが幸 福 に な れ る とい うこ とを 、 日本 人 が 教 え て くれ た の だ 、 とい う物 語 にな っ て い る わ けで あ る。 敗 戦 に よっ て ア メ リカ の統 治 下 に あ っ た パ ラオ の 島 民 自身 が 、 な ん の強 制 も受 けず に素 直 な気 持 ち で 、 日本 人 との 出 会 い を 表 象 した ス トー リー ボ ー ドと して 、 これ は き わ めて 貴 重 で あ る。 も ち ろん 、 こ の 日本 人 壮 士 の 姿 が パ ラオ の 島民 のす べ て に と って 日本 人 と読 み解 か れ た わ けで は な い か も しれ な い 。 幼 い子 ど もた ち に は 、 「文 明」 と 「武 器 」 を も っ た 厂外 国 人 」 一 般 を意 味 して い た か も しれ な い。 ま して こ の袴 の男 を 「壮 士 」 と認 定 で き る 島 民 は 少 な か っ た に違 い な い。 しか し、 近 代 史 に 明 る い 日本 人 が この 絵 を 見 た な ら ば 、 「壮 士 」 ら しい と判 断 す る こ とは容 易 で あ る。 そ して 、 わ た しは、 こ の絵 の 「壮 士 」 の 姿 に、 ま さに この絵 物 語 に描 か れ た よ うな 人 生 を 送 っ た 、 南 洋 に渡 っ て そ の 地 に転 住 して 亡 く な った 一 人 の 「壮 士 」 、 す な わ ち 明 治 24年(1891)に 日本 の発 っ て トラ ック 島 に 渡 っ た 森 小 弁 を ダ ブ らせ た くな っ て き た の で

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日本 にお け る 「南洋 」 の形 成 123 あ る 。 そ れ で は 、 こ の 森 小 弁 は 、 ど の よ う な 思 い か ら ミ ク ロネ シ ア に 渡 っ た の だ ろ う か 。 ど の よ う な 時 代 的 背 景 が あ っ た の だ ろ うか 。 2森 小弁 との 「出会 い」 こ こ で少 し個 人 的 な話 を してお こ う。 私 が 森 小 弁 の名 前 を知 っ た の は 、20年 ほ ど前 、 トラ ック 島 で の 初 め て の調 査 を行 お うと して い た と きで あ っ た。 トラ ッ ク島 で の調 査 の 経 験 が あ る考 古 学 ・民族 学者 の 高 山純 氏 が 、 い ま で は トラ ック 島 の経 済 界 に君 臨 す る森 小 弁 の 息子 や 孫 に 当 た る方 を 何 人 か 紹 介 して くれ た か らで あ る。 ま っ た く知 り合 い の い な い トラ ッ ク島 に着 い た私 は 、森 小 弁 の 長 男 太 郎 の 長 男 に あ た る正 隆 氏 を訪 ね 、 彼 が 経 営 す るベ イ ・ビ ュー ・レス トラ ンの 二 階 の かつ て は ホ テ ル で あ っ た とい う汚 い 部 屋 に超 廉 価 で 宿 泊 させ て も ら う こ とに な っ た 。 そ の とき 、 問 わ ず 語 りに祖 父 森 小 弁 の 話 を断 片 的 に耳 に した の で あ っ た。 まず 、 「小 弁 」 とい う変 わ っ た名 前 が 印 象 的 で あ っ た 。 そ の小 弁 が こ の トラ ッ ク に 来 島 した の が 明 治 時代 中期 とい うは るか 昔 の こ とで あ った こ とに驚 か され た。 しか もそ の 当 時 は トラ ッ ク諸 島 の 島 々 に は 統 一 的 な支 配 者 は お らず 、 島 々 が互 い に 隙 あ れ ば戦 争 を しか け る とい う戦 国 時代 の よ うな 状 態 に あ り、 か れ らの 武 器 は独 特 な形 を した 棍 棒 と 投 石 で あ っ た 。 そ こ で森 小 弁 は 日本 か ら持 ち込 ん だ 強 力 な 銃 器 ・刀 剣 に よっ て彼 ら を征 服 す る とい う野 心 を抱 い て い た ら しい こ と も知 ら され た 。 ま た 、 来 島 した最 初 は 、 そ の 野 心 の 実現 の た め に原 住 民 の 首長 の 娘 を 妻 に迎 え 、 商 売 を して い た が 、 それ が 実 現 す る 以 前 に 、 日本 が こ の地 域 を領 有 す る こ と に な っ た の で 、 商 売 の 方 に力 を入 れ 、 そ の 子 孫 は 、 現 在 の トラ ッ ク に経 済 界 の 中核 を 占 めて い る こ とや 、 戦 後 に な っ て多 くの 日本 人 か ら、 戦 前 の 人 気 漫 画 『冒 険 ダ ン 吉 』 の モ デ ル とみ な され た 人 物 で あ る こ とな ど も知 ら さ れ た 。 そ の 時 か ら、 私 は トラ ッ ク 島 で 巨 大 な フ ァ ミ リー を 形 成 して い る 森 フ ァ ミ リー の祖 で あ る森 小 弁 に 興 味 を抱 き続 け て き た。 しか し、歴 史 学者 で は ない の で 、 日本 時代 以 前 に ま で さか の ぼ る森 小 弁 の人 生 を どの よ うに 明 らか に した らい い の か皆 目わ か らな か っ た 。 ま た 、 人類 学 者 と して 、 現在 の トラ ッ ク人 の生 活 の 調 査 の 方 に 関心 が あ っ た こ と も あ って 、調 査 地 に選 ん だパ ッテ ィ ウ地域(日 本 時代 で は 北 西 離 島 とかエ ン タ ビー諸 島 と 呼 ば れ て い た)の ポ ンナ ップ 環礁 ポ ンナ ップ 島 の調 査 に集 中 し、 しだい に 関 心 も薄 れ て い っ た 。 と こ ろ が 、私 の な か で 急 速 なか た ちで 再 び森 小弁 へ の 関 心 が膨 らん で くる こ とに な っ た 。 そ の き っ か け とな っ た の は 、森 小弁 が ポ ンナ ップ 環礁 の 人 々 と ま っ た く無 縁 の人 物 で は な い とい うこ とが しだ い に 明 らか に な って きた か らで あ った 。 森 小 弁 の妻 イ サベ ラ の 母 系 氏族 は エ レゲ ー タ ウ とい い 、 そ の 本 貫 の地 が ポ ンナ ップ 環 礁 の タマ タ ム 島 で あ っ た の で あ る。 ポ ンナ ップ環 礁 の 島 民 た ち の あい だで は 、森 フ ァ ミ リー に はエ レゲ ー タ ウ の 血 が 入 っ てい る こ とで 知 られ て い た 。 3南 洋 に渡 った 「壮 士 」 そ れ で は 、 この 森 小 弁 は い った い 、 ど の よ うな人 生 を歩 ん だ のだ ろ うか。 現 在 で もっ と も詳 細 な伝 記 は 、1998年 に 刊行 され た 高 知 新 聞記 者 森 沢 孝 道 が 書 い た 『夢 は赤 道 に 』 で あ る。 これ は 高 知 新 聞 に連 載 され た記 事 を ま とめ た もの で 、 日本 統 治 時 代 の ミク ロネ シ ア の 歴 史 を丹 念 に描 き 出 した マ ー ク ・ピ ィー テ ィー の 『南 洋 ミク ロネ シ ア に お け

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る 日本 人 の盛 衰1885-1945』 の な か の 「森 小 弁 」 に 関 す る記 述 も、 お お む ね これ に よ っ て い る。 森 沢 に よ りな が ら、小 弁 の生 涯 を 簡 単 に 辿 っ てみ よ う。 森 小 弁 は 土佐 藩 の郷 士 の 子孫 で 、 明 治2年(1869)、 高 知 県 土佐 郡 北 新 町 に 生 ま れ た。 父 可 造 は 小 弁 が 生 ま れ た とき失 職 中 で 、2年 後 に大 阪府 の 役 人 に な っ て 大 阪 に 家 族 と と も に転 居 す る が 、 明 治13年 に 病 没 し、 小 弁 は 故 郷 に戻 り、祖 父 の養 子 に な る。 旧 自 由 党 急 進 派 が企 て た 、 当 時 清 の 支 配 下 に あ っ た 朝鮮 王 朝 の武 力 革 命 計画(い わ ゆ る 「大 阪 事 件 」)に 連 座 して 逮 捕 され る とい っ た青 年 時代 を 送 る。 明 治22年20歳 の とき に 上 京 、 翌 23年 に は 、政 界 の 大 物 で あっ た 後 藤 象 二 郎 の 玄 関 番 に な る。 そ の か た わ ら東 京 専 門 学校 に も通 学 して い た とい う。 この 後 藤 の長 男 が 、 鈴 木 経 勲 と とも に マ ー シ ャル に渡 っ た と され て い る後 藤 猛 太 郎 で あっ た 。 も っ と も、 高 山純 の研 究 に よれ ば 、 後 藤 も鈴 木 も 、虚 偽 の報 告 を して ど こか で 時 間 をつ ぶ した ら しく、 実 際 に は マ ー シ ャ ル に は 行 って い な か った とい う。 そ して 、 明治24年(1891)、 小 弁 は 、 後 に述 べ る、 田 口卯 吉 が 設 立 した 「南 島商 会 」 の 業 務 を 引 き継 い だ 「一 屋 商 会 」 に入 社 す る こ と に な る。 こ の経 歴 か らわ か る よ うに 、 当 時 彼 はい わ ゆ る 「壮 士 」 とか 「書 生 」 と呼 ばれ た 政 治 青年 の 一 人 で あ っ た の だ。 こ の年 の12月 、小 弁 は 同僚 の小 川 貞 行 と と もに 、 一 屋 商 会 の 「天 佑 丸 」 で南 洋 に 向 け て 出発 す る。 台 風 に 苦 し め られ な が ら も、 船 は 目的地 の ポ ナ ペ 島 に 到 着 し、 同僚 の 小川 は 下船 した 。 こ こ に は 田 口が設 け た 「南 島 商 会 」(一 屋 商 会)の 支 店 が あ り、 駐 在 員 も い た。 しか し、 小 弁 は こ こで 降 りな か っ た 。 こ の行 動 が ポ ナペ 以外 の新 しい 交 易 地 を探 せ とい う社命 で あっ た の か 、 それ とも 社命 に反 して 自分 の 「野 心 」 を満 た して くれ そ うな 島 に 出会 うま で 降 り ない と い う気 持 ち か らで あ っ た か は 定 か で は な い 。 横 田武 の 「南 洋 先 駆 の第 一 人者 森 小 弁 翁 」 に よれ ば 、 ポ ナ ペ 島 か ら トラ ッ ク島 に 来 る途 中 のモ キ ー ル 島や ピン ゲ ラ ップ 島 な ど の無 人 島 に立 ち 寄 っ て上 陸 を企 て た が 、 あ ま りに小 さな 島 だ っ た の で 断念 した とい う。 とい うこ とは 、 無 人 島 の 「主 」 に な り、 そ こ を 厂野 望 」 の拠 点 に考 え て い た こ とに な る。 彼 の本 意 は 「一 屋 商 会 」 に社 員 に な る こ とで は な く、 そ れ に か こ つ け て 「南 洋 」 に 飛 び 出 る こ とだ っ た の だ ろ う。 明 治25年2月 、 「天 佑 丸 」 は トラ ッ ク 島 の ウェ ノ島(旧 春 島)に 到 着 す る。 小 弁 は こ こ で小 笠 原 で雇 っ た 漁 師 七 名 と と も に 下 船 す る。 しか し、数 ヶ月 後 に こ の漁 師 た ち は ポ ナ ペ に移 動 した の で 、 この トラ ッ ク に小 弁 一 人 が残 る こ とに な っ た 。 こ の とき 、 トラ ッ ク 島 に は 四人 の ドイ ツの 商 人 が 商 売 を して い た。 も っ とも 、 ほ どな く して快 信 社 の トラ ック 支 店 が 開 設 され た り、 解 散 した 一屋 商 会 を 引 き継 い だ 「南洋 貿 易 日置 合 資 会 社 」 な ど の社 員 ・代 理 人 が 出 入 りす る こ とに な り、 次 第 に トラ ック在 住 の 日本 人 商 社 員 も増 え 、 明治28年 頃 は 四名 の 日本 人 が 住 み 、 明治32年 に はそ の数 が は14人 に な って い た 。 小 弁 も南 洋 貿 易 日置 合 資 会 社 の 社 員 に な っ て い た 。 ま た 、 明 治31年 に は 、 小 弁 は 、 ウ ェ ノ 島 の イ ラ ス 村 の 「首 長 」 の 娘 イ サ ベ ル と結 婚 す る。 と こ ろ が 、 ミ ク ロネ シ ア の 領 有 権 が ス ペ イ ンか ら ドイ ツ に 移 っ た3年 後 の 明 治34年 、 小 弁 を除 い て 日本 人 全 員 が トラ ック 島 か ら退 去 しな け れ ば な らな く な る事 件 が起 こ る。 ドイ ツ の 官 憲 に 、 販 売 を禁 止 され て い る銃 器 と酒 類 の密 売 の嫌 疑 を か け られ た の で あ る。 ドイ ツ の 商社 の 商 売 が うま く い く よ うに 、邪 魔 な 日本 の 商 社 を体 よ く追 い 出 した と い うわ けで あ る。 な ぜ 小 弁 だ け が残 留 で き た か は い まだ に謎 で あ るが 、 彼 に は現 地 人 の妻 が い た か らだ

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日本 に お ける 「南 洋」 の形 成 125 とか 、 独 立 して貿 易 業 を 営 ん で い た 彼 は 日本 の 商 社 だ け で な く ドイ ツ の 商 社 とも 契約 し て い た か らだ 、 とい っ た説 が 出 され て い る。 こ こで 少 し私 見 を述 べ てお こ う。 トラ ック 島 は母 系 出 自集 団 が 社 会 の基 礎 に な っ て い る。 した が っ て 、私 の 考 え で は 、 小 弁 が ウェ ノ島 の イ ラ ス村 の 「首長 」 の娘 と結 婚 して い た の で 、 ドイ ツ 官 憲 が そ の 親 族 集 団 や ネ ッ トワー ク の な か の人 々 の 不 穏 な動 き を恐 れ た か らで は な か ろ うか 。 ドイ ツ の 官 憲 や 商 人 た ちは 、 小 弁 は 島 民支 配 や 交 易 の役 に 立 つ と判 断 した の で あ ろ う。 もっ と も、 南 洋 貿 易 日置 合 資 会 社 は ス ペ イ ン商 人 を仲 介 した り架 空 会 社 を作 っ た り し て 、 グア ムや サイ パ ン 、 パ ラオ な どで 営 業 を 続 け る と とも に 、東 カ ロ リン諸 島 で の営 業 許 可 を外 務 省 を通 じて ドイ ツ 政 府 に 働 き か け 、 明 治39年 に は再 び トラ ッ クや ポ ナ ペ な ど で の 営 業 許 可 を え る こ とに 成 功 して い る。 五 年 後 に は 、 また トラ ック 島 に も、 日本 の商 社 員 が 回 っ て く る よ うに な っ た の で あ っ た。 森 小 弁 は ドイ ツ や 日本 の 商 社 を 相 手 に コ ブ ラ な ど の 商 売 を し続 け た 。 大 正3年 (1914)、 第 一 次 世 界 大 戦 に 参 戦 した 日本 が ミク ロネ シ ア に海 軍 を派 遣 して 占領 した と き 、 明 治25年(1892)に トラ ッ ク島 に下 船 して か ら数 え る と、22年 問 の 歳 月 が 流 れ て い た。 齢46に な っ て い た。 4「 南洋 」 の 登場 そ れ で は 、 森 小 弁 が南 洋 へ と誘 われ て い く背 景 に は 、 どの よ うな こ とが あ った のだ ろ うか。 明 治 政 府 の なか で 早 い 時期 か ら 「南 進 論 」 を唱 えて い た の は 、榎 本 武 揚 で あ っ た 。 小 笠 原 諸 島 の領 有 が確 定 し、本 土 か らの 植 民 に と りか か った の とほ ぼ 同 じ明 治9年 、 当時 ロシ ア 公 使 で あ っ た榎 本 は 、 失職 した 士 族 対 策 と して 、 か れ らを 「南 洋 群 島 え 移 され 候 ・」 とい っ た南 洋 群 島移 民 政 策 を述 べ た書 簡 を 留 守 宅(妻)に 送 っ て い る。 さ ら にそ の 翌年 に は 、 当 時 スペ イ ン領 で あ っ た 小 笠 原 の 南 方 の マ リア ナ 諸 島(後 の 「南 洋 群 島 」 の一 部)を 買収 し、反 乱 士族 の 流刑 地 にす る べ き だ 、 との 建 議 をす る。 西 南 の役 が 起 こ っ た年 の こ とで あ る。 外 国 生 活 の 体 験 が 豊 富 で ヨー ロ ッパ 諸 国 の事 情 に 明 るい榎 本 は 、 国 内 の 諸 問題 、 と りわ け 士族 の 不 満 と人 口増 の 問題 を 解 消 す る た め の植 民=移 民 の 地 と して 、「南 洋 」 の 厂開拓 」 に も野 心 を 抱 い て い た の で あ った 。 榎 本 の 南 進 論 は根 深 い も の が あ っ た。 明 治12年(1879)に は 、 南方 の 地 理 や 経 済 、 自然 等 の情 報 を え る た め の 「東 京 地 学 協 会 」 を設 立 した。 さ らに 明 治13年(1880)に は 、 青 木 周 蔵 が 北 ボ ル ネ オ(1888年 に 英 国 の 保 護 領 とな る)の 買 収 を建 議 した と き、 これ を支 持 した。・鈴 木 経 勲 が 、 井 上 薫 か ら与 え られ た 帆 船 で ミ ッ ドウ ェイ 島や ク リス マ ス 島(ハ ワ イ 島)を 巡 歴 、偶 然 発 見 した 厂硫 黄 島 」 の領 有 の た め の 事 業 に も 、積 極 的 な役 割 を演 じ た。 明 治24年 に 、 第 一 次 松 方 内 閣 の 外 務 大 臣 とな る と、 か れ は 「植 民協 会 」 とい う移 民 行 政 の た め の 団 体 を 設 立 し、 そ の会 長 に就 任 に して い る。 明 治 政 府 が 当初 考 え て い た 「移 民 」 は 、 深 刻 化 す るイ ン フ レ、過 剰 人 口、 士族 の 不満 を解 消 す る方 策 と して 、 労働 力 を必 要 と して い る海 外 の 適 当 な とこ ろ に 人 口を移 す とい う もの で あ っ た。 この 種 の移 民 は 、 明 治18年 以 降 の ハ ワイ 官 約 移 民 で あ っ て 、 民 間 レベ ル で な され て い た 明 治 元 年 か ら始 ま るハ ワ イ な どへ の 移 民 の 延 長 上 に生 まれ た もの で あ っ た。 と こ ろ が 、 榎 本 武 揚 が 考 え て い た 「植 民 」 は 、 そ う した 単 な る 出 稼 ぎ 労働 者 と して 一 時 的 に海 外 に移 民 させ て 日本 に 送 金 させ る とい うもの で は な く 、 そ こに 定住 させ て 日

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本 民族 の 子 孫 を育 て 、 日本 人 の海 外 発 展 の 拠 点 とす る とい う意 味 で の 定着 永 住 型 の 移 民 (異 国 の 地 に 日本 人 の種 を植 え て繁 殖 させ る とい う意 味 で の植 民)で あ っ た。 しか し、 それ が た だ ち に 日本 が そ の地 を政 治 的 に 支 配 す る 地域 、 つ ま り植 民 地 の獲i得に 直結 す る もの で は な か った 。 した が っ て 、 そ の 「植 民 」 先 の候 補 地域 は 、 東 南 ア ジ ア か らオ セ ア ニ ア 、 さ らに は南 北 両 ア メ リカ に及 ん で お り、 ミク ロネ シ ア 地 域 は 、 そ の候 補 地 と して の一 角 を 占 め る にす ぎ ない も ので あっ た 。 榎 本 は 、外 務 大 臣 を経 験 した こ と も あ っ て 、海 外 か ら多 く の情 報 を集 め て適 当 な 「植 民 」 候 補 地 を調 査 ・検 討 し 、 そ の 結 果 、 メ キ シ コが そ う した 移 民 地 と して 最 適 と 考 え た。 そ して 、 た い へ ん な努 力 を払 っ て 資 金 を調 達 し、 明治30年(1897)、 メ キ シ コに 榎 本 植 民 団36名 が 送 り込 まれ た。 だ が 、榎 本 ら政 府 高 官 の 「植 民 」 計 画 は粗 雑 な もの で あ っ た。 それ は 荒 野 を 開墾 し商 品価 値 の あ る も の を栽 培 して成 功 す る と い う もの で あ っ て 、 そ こ に待 っ て い る さま ざま な 困 難 へ の 対 処 は ほ とん ど考 慮 され て い な か っ た 。 す な わ ち 、移 住 先 に は、 せ いぜ い が移 住 先 の 政 府 が 見 え て い た だ けで あ っ て 、移 住 者 の 日常 生 活 の場 に 登 場 す る で あ ろ う さま ざま な 困 難 や 「他 者 」 の 存在 に十 分 な配 慮 が な され て い な か っ た の で あ っ た。 こ のた め、 メ キ シ コ榎 本 植 民 団 は失 敗 に終 わ る。 5「 南 洋 」 の表 象 と体 験 明 治 十 年 代 に 、榎 本 武 揚 な どの一 部 の 政 府 高 官 の あ い だ で 芽 生 え っ っ あ っ た 「南 進 論 」 の影 響 を受 け て 、 民 間人 の あ い だ で も 「南 進 論 」 が 次 第 に形 成 され て い っ た。 そ の よ うな論 調 を形 成 す る の に大 き なカ を 発 揮 した の が 、 見逃 され が ち で あ る が 、 政府 に よ っ て試 み られ た 練 習 鑑 に 民 間 人 を便 乗 させ て 、 実 際 に 太 平洋 の 島々 に つ い て の 見識 を深 め させ る とい う計 画 で あ っ た。 こ の秀 逸 な 計 画 を 考 え出 した の も、 幕 府 海 軍 出 身 の 榎 本 武 揚 で あ っ た ら しい。 榎 本 武 揚 が マ リア ナ 諸 島 の 買 収 を建 議 した 翌 年 の 明治11年 か ら20年 前 半 に か けて 、 多 くの 民 間 人 が 遠 洋 練 習 航 海 の 軍艦 に便 乗 して 、 オ ー ス トラ リア 、 ハ ワ イ 、 フ ィジ ー 、 サ モ ア 、 ミク ロネ シ ア 、 フ ィ リ ピン を訪 問 した 。 た と えば 、 明 治19年 の練 習鑑 「筑 波 」 に は 、志 賀 重 昂 が 、 明治24年 の 「比 叡 」 に は、 三 宅 雪嶺 や 富 山駒 吉 、 依 岡省 三 な どが 乗 り 込 ん で い た。 い った い どの よ うな人 物 が 毎 年 派 遣 され た 練 習鑑 に便 乗 した の だ ろ うか 。 そ の体 験 が彼 らの 人 生 に どの よ うな影 響 を あ た え た の だ ろ うか(公 刊 され て い る 日本 海 軍 史 料 に は 、 練 習 艦 に便 乗 した民 間人 の 乗 船 名 簿 は 無 い の で 、 そ の全 貌 は未 だ 明 らか に な っ てい ない 。 今 後 の課 題 とい え るで あ ろ う)。 志 賀 重 昂 は 明 治20年 に、 明 治 期 南 進 論 の代 表 作 と言 われ る 『南 洋 時 事 』 を著 した 。 こ の著 作 の な か で 、 そ の ころ か ら意 識 的 に 用 い られ 出 した 「南 洋 」 を、 「西 洋 」 と 「東 洋 」 に比 肩 す る概 念 と して使 用 しよ う と試 み た 。 志 賀 は 巻 末 の 自跋 にお い て 次 の よ うに 述 べ る。 「南 洋 と は何 ぞや 。 未 だ世 人 が毫 も 注意 を 措 か ざ る箇 処 な り。 然 れ ば 予 輩 は南 洋 な る 二 文 字 を初 め て 諸 君 が面 前 に並 出 し、 是 れ が 注 意 を惹 起せ ん とす る も の な り。 南 洋 な る 新 物 体 と新 話 頭 と を初 め て 捉 へ 来 り し 面 目 を 自得 す る も の な り」(原 文 カ タ カ ナ)。 「南 洋 」 とい う語 が彼 の造 語 で あ っ た とは 思 わ れ な い 。 とい うの は 、 す で に榎 本 武 揚 が 明 治 九 年 に 「南 洋 群 島 」 とい う語 を用 い て 、 小 笠 原 以 南 の広 大 な海 域 に 散 らば る島 々 を 表 現 して い る こ とか ら も わ か る よ うに 、 一 部 の 政 府 高 官 や 知識 人 の 問 に は用 い られ て い た ら しい か らで あ る。 しか し、 こ こに至 っ て 、「南 洋 」 とい う語 が 、 近 代 日本 人 の 前 に、 そ れ を支 え る体 験 を 背 景 に しな が らあ る 一 定 の 具 体 的 イ メ ー ジ を と も な っ て 多 くの 人 々 の 生 活 に登 場 して きた ので あ る。

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日本 にお ける 「南洋 」 の形 成 127 もっ と も、 そ こ に語 られ て い る 「南洋 」 な い し 「南 洋 諸 島 」 は 、 ミク ロネ シア の ク サ エ 島 、 オ ー ス トラ リア 、 ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド、 フ ィ ジ ー 島 、サモ ア島、ハ ワイ島 とい った 志 賀 が 歴 訪 した 島 々 のす べ て で あ り、 さ らに は そ の訪 問 地 域 ・海 域 の す べ て で あ った 。 志 賀 は 、 こ の本 の な か で 、 この 地 域 が 日本 の貿 易 の相 手 や 移 民 先 と して 将 来 無 視 で き な い 地 域 に な るだ ろ うと予 想 し、 興 味 深 い こ とに 、「生 物 学 者 」 を派 遣 して そ の地 域 の 生 物 を調 査 させ 、[人種 学 者 」(人 類 学 者)に は 「南 洋 土人 の 遷 徒 の事 跡 」 を、 「社 会 学 者 」 に はそ の 衣食 住 や 風 俗 、 開化 の程 度 を 調 査 させ るべ き だ 、 と提 言 して い る。 ま た 、 当時 ス ペ イ ン の領 有 で あ っ た ミク ロネ シ ア ・カ ロ リン諸 島 の ク サ エ 島(現 在 の ミ ク ロネ シア 連 . 邦 コ シ ャエ 州)に 寄 港 した 時 の 印象 と体 験 を 、お よ そ 次 の よ うに記 して い る。 この 島 の 「土 人 」 は 、 ス ペ イ ン領 で あ る に も か か わ らず 、34年 前に来 島 した米 国宣教 師の教化 に よ っ て 、 米 国 の 付 属 の 島 の よ うに 思 っ て い て 、米 国旗 を 所 有 して い る も の もい る。 この 島 の 土 人 二 人 と面 談 し、 スペ イ ン 、 ドイ ツ、 ア メ リカ の うちの どの 国 が一 番 好 き か 、 質 問 した と こ ろ、 島民 に対 して も っ と も親 愛 な る者 が一 番 だ 、 とい うも っ と もな答 え を 述 べ て い た。 また、そ の一人 が、最近 、 ドイ ツの軍艦 がこの島 に寄港 した ことを知 り、 ド イ ツ も こ の 島 に手 を染 め よ うと して い る ら しい こ とが わ か った 、 等 々 。 こ の 『南 洋 時事 』 刊 行 以 後 、 明 治20年 代 に は 、 い くつ もの 「南 洋 論 」 「南進 論 」 に 関 す る著 作 が 出版 され る こ と に な っ た。 矢 野 暢 は、 『日本 の 南 洋 史 観 』 にお い て、 明治 期 の 厂南 進 論 」者 の 代 表 を七 人 ほ ど選 び 出 し、 そ の代 表 作 と と もに 紹 介 してい る。 まず 志 賀 重 昂 『南洋 時 事 』(明 治20年)が そ の 最 初 に挙 げ られ る。 つ い で 服 部 徹 『日本 之 南 洋 』 (明治21年)、 菅 沼 貞 風 『新 日本 の 図 南 の夢 』(明 治21年)、 田 口卯 吉 『南 洋 経 略 論 』(明 治23年)、 服 部 徹 『南 洋 策一 一名 南 洋 貿 易 及 び植 民 』(明 治24年)、 稲 垣 満 次 郎 『東 方 策 』( 明 治24年)、 鈴 木 経 勲 『南 洋探 検 実 記 』(明 治25年)、 稲 垣 満 次 郎 『東 方 策 結 論 艸案 』(明 治 25年)、 鈴 木 経 勲 『南 洋 巡 航 記 』(明 治26年)、 鈴 木 経 勲 『南 洋 風 物 誌 』(明 治26年)、 竹 越 與 三 郎 『南 国 記 』(明 治43年)。 この うち 、鈴 木 経 勲 の 『南洋 探検 実 記 』 は、 明治17年 、 外 務 卿 井 上 馨 の命 を受 けた 後 藤 猛 太 郎 と鈴 木 経 勲 が 、 英 国 捕 鯨 船 工 一 ダ 号 で 、 ミ ク ロネ シ ア の マ ー シ ャル 諸 島 に 派 遣 され た 際 の 民族 誌 的 色 彩 の 強 い 記 録 で あ る。 二 人 に 課 せ られ た任 務 は 、 日本 人 水 夫 が マ ー シ ャ ル 諸 島 の あ る島 で 島 民 に虐 殺 され た とい うエ ー ダ 号 船 長 の 報 告 を確 か め 、 事 実 な らば 現 地 の人 か ら謝 罪 を 得 て く る こ とで あ っ た 。 この 航 海 で ミク ロネ シ ア 人 四名 を 日本 に 同行 した とい う(横 浜 で 客 死)。 民 族 学者 の 高 山 純 は 、 かれ らの マ ー シ ャル 行 き は ま っ た く の で っ ち 上 げ で あ っ た と多 く の資 料 を 用 い て推 測 して い る。 した が っ て 、 慎 重 に 扱 わ ね ば な らな い 資料 で あ るが 、 も し本 当 だ とす れ ば 、 これ は記 録 上 で は 最 初 の ミ ク ロ ネ シ ア 人 の 日本 訪 問記 録 とい うこ と に な る。 しか し、 高 山 の考 察 が 正 しけ れ ば 、 日本 近 代 の南 洋 史 に 関 す る記 述 は大 幅 に修 正 を 余儀iなく され る だ ろ う。 ま た 、 服 部 徹 の 『南 洋 策 』 は 、 列 強 に先 ん じて 「無 主 の 地 」 状 態 の 島 々 を 領 土 化 し て植 民 をせ よ とい う過 激 な 書 で 、 こ こ で指 示 され て い る 「南 洋 」 は フ ィ リピン と ミク ロ ネ シ ア に 限定 され 、後 者 の 地域 は ドイ ツ が支 配 下 に お こ う と して い る の で 、 そ れ に 先 ん じて 占有 しな けれ ば な らな い こ と、 そ こ に送 り込 む植 民 者 は 品行 方 正 ・精 神 不抜 の者 で な け れ ば な らな い こ と、「土 蕃 」(先 住 民)に 対 して は 「豪 傑 な る植 民 隊 と宗 教 者 、仁 術 家 、 教 育 家 」 な どを 派 遣 し、「務 め て威 を示 し之 れ を服 せ しめ 、 以 て 漸 次 に 土i蕃を教 化 服 従 せ しむ る」 とい う こ と、 さ し あた っ て経 略す べ き 島 は 、 マ リアナ 諸 島 の グ ア ム や ロ タ、 カ ロ リン諸 島 の ヤ ップや ポ ナ ペ 、 マ ー シ ャル 諸 島 の ヤ ル ー ト、 ギル バ ー ト諸 島 な ど の 合 計 十 二 の 島 に 限 る こ と、 とい っ た こ とを提 言 して い る。

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矢 野 は ま た 、 明 治 二 十 年 代 に は 、 こ うした 「南洋 論 」 の相 次 ぐ出版 や 政 治 的 な 不 満 を 抱 く民 権 論 イ ンテ リの 多 い 改進 党 系 の作 家 た ち に、 「南 洋 」 を舞 台 に した 政 治 小 説 が た く さん 書 かれ た こ とを 指摘 す る。 日本 で夢 破 れ た者 が 、 南 洋 に雄 飛 し、 そ こで 英 雄 的 な 活 躍 を して 、理 想 の 楽 土 を建 設 す る とい っ た 内 容 の小 説 で あ る。 い い か えれ ば 、 「南 洋 」 に わ た っ て 、 そ こで 「王 」 に な る夢 が 描 き こ ま れ た 小 説 とい っ て も い か も しれ な い 。 紙 上 の こ とで あ るが 、 き わ め て素 朴 な侵 略 主 義 的 な 思想 が そ こに は 見 出 され る。 明 治 二 十 年 代 、政 治 家 、そ の影 響 を 受 けた 民 間 の経 済 人 ・知識 人 、 そ して や は り政 治 家 の影 響 を受 け た 作 家 た ち が 、 体 験 を も交 えて 、 植 民 ・移 住 の 地 と して 、 貿 易 ・開 拓 の 地 と して の 「南洋 」 の イ メ ー ジ を描 き 出 し始 めて い た。 それ は 冒 険 心 を か き立 て る 波瀾 万 丈 の 地 で あ り、 「野 蛮 な 土 人 」(土 蕃)が 住 ん で い る が 、 そ れ を教 化 服 従 させ れ ば 楽 土 と も な り うる地 と して 作 り上 げ て い っ た の で あ っ た。 一 部 の 日本 人 の 間 で は あ っ た が、 こ う した 「南 洋 」 の イ メ ー ジが そ れ な りの輪 郭 を も っ た もの と して 形 成 され っ っ あ っ た 。 す な わ ち 、 「南 洋 」 は ス ペ イ ン な ど に領 有 さ れ て い る こ とに な っ て い た が 、 な お こ の広 大 な 海 域 に は ま だ 「発 見 」 され て い な い 「無 主 の 地 」 が あ る 可 能 性 が あ り、 ま た た とえ 地 図 上 の領 有 が は っ き り して い た と して も 、 実 質 的 な支 配 が 及 ん で い な い 島 々が あ っ て 、 そ れ を ドイ ツ の よ うな 後 発 の 「列 強 」 が支 配 下 に収 め よ うと しき りに活 動 して い る 、 とい うよ うな 状 況 をふ ま えて 、 これ に早 急 に 対 処 しな け れ ば 、植 民 地 にす る機 を逸 して しま う そ うした 地 域 と して 思 い描 かれ て い た の で あ る。 そ れ と とも に 、そ の地 域 が 、 た とえ他 国 の 支 配 地 域 で あ って も 、相 手 国 の 承 認 を得 て 平 和 な か た ち で 日本 人 を そ の 地 域 の 開発 の た め に 移 民 させ た り貿 易 を した りす る有 望 な 地域 と して浮 上 して きた 、 とい うこ とで もあ っ た。 しか し、 そ の よ うに 表 象 され は じめ た 「南 洋 」 で あ っ た が 、 明治31年(1898)に 、 ド イ ツ が ミク ロネ シ ア を領 有 し、 ア メ リカ が フ ィ リ ピ ン と グア ム を領 有 す る こ とが 国 際 的 に 承認 され た こ とに よ っ て 、政 治 家 の 関 心 を失 い 、 ほ とん どの 人 々 の意 識 か らい っ た ん 遠 ざか っ て しま う。 「植 民」 に熱 心 で あ っ た榎 本 武 揚 も南 米 に 関 心 を注 ぎ 、 南洋 へ の 関 心 を 失 っ て い っ た。 もはや 「無 住 の 地 」 の発 見 や 領 有 の 確 定 して い な い 島 が もは や 期 待 で き ず 、 統 治 国 に気 づ かれ ず に 大 規 模 な移 民 を 可 能 にす る よ うな 島 の 可 能性 が な く な っ て しま っ た か らで あ っ た。 そ れ が 再 び 蘇 っ て くる の は 、 国家 レベ ル で の具 体 的 な植 民 の 対 象 地 域 に な り、 そ れ を ふ ま え た大 規 模 な 交 易 地 域 と 隣 っ て く る の は 、 大 正3年(!914)第 一 次 世 界 大 戦 を 契 機 に した 占領 し、 国 際連 盟 委 任 統 治 領 と して 統 治 す る よ うに な っ て 以 降 の こ とで あ っ た。 6ミ ニ 商 社 の 興 亡 ミ ク ロ ネ シ ア との 交 易 ・交 流 の 開 始 と こ ろ で 、 こ う した 日本 在 住 の 一 部 の人 々 の あ い だ で 形 成 され た 初 期 「南 洋 」 表 象 が 、 中央 の政 治 家や 知識 人 た ちの あ い だ か らや が て消 滅 して い っ た に もか か わ らず 、 そ の 一 方 で 、 そ う した 人 々 が 描 き 出 した 「南 洋 」 表 象 の影 響 を受 け 、 小 笠 原 諸 島 の 向 こ う 側 に点 在 す る ミク ロネ シア に雄 飛 して い っ た 少 数 の 日本 人 が い た 。 「雄 飛 」 とい っ た字 句 を並 べ れ ば 聞 こ えが い い が 、 彼 らを待 っ て い た ミク ロ ネ シ ア の 現 実 は 、 苦 労 の連 続 で あ っ た は ず で あ る。 彼 らの心 の奥 底 に は そ れ ぞ れ の 「夢 」 や 「思 惑 」 が あ っ た 。 た だ ち に それ を実 現 させ る こ とは で き な い 。 した が って 、表 面 的 には 、 か れ らが行 っ た こ とは 、 ミク ロネ シ ア 地 域 で 交 易 活 動 に従 事 す る こ とで あ っ た 。 日本 人 が ミ ク ロネ シ ア に わ た っ た も っ とも 古 い 記 録 は 、 文 政4年(182!)に 、 南 部 藩

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日本 にお け る 「南 洋 」 の形成 129 領 か ら江 戸 へ 向 か う途 中 で 漂 流 し た神 社 丸 の 乗 組 員 の 、 ミ ク ロネ シ ア の ベ ラ ウ(パ ラ オ)島 へ の漂 着 で あ る。 つ い で 漂 流 した 船 か ら助 け 出 され た 土 佐 の漁 民 中浜(ジ ョ ン) 万 次 郎 が 、 捕 鯨 船 の乗 組 員 とな っ て 、 天 保13年(1842)に ギ ル バ ー ト諸 島や グ ア ム 島 に 立 ち寄 って い る。 明 治 元 年 に は外 国人 に雇 われ るか た ち で 、 グ ア ム に 出稼 ぎ にい っ た人 た ち も い た。 そ して 、 上 述 の マ ー シ ャル 諸 島 で の 日本 人 漂 着 民 殺 害 事 件 の調 査 の た め に派 遣 され た鈴 木 経 勲 と後 藤 猛 太 郎 の 二 人 、 さ ら に練 習 鑑 筑 波 で クサ エ 島 に 立 ち 寄 っ た 志 賀 重 昂 な どが い た。 そ うした訪 問者 に続 く こ とに な っ た の が 、 水 谷信 六(新 六)で あ る。 『南 洋 貿 易 五 十 年 史 』 に よれ ば 、彼 は 小 笠 原 に移 住 した者 の 一 人 で 、45ト ン とい う小 さな 帆 船 「相 陽丸 」 で ス ペ イ ンの 許 可 を 得 る こ とな くポ ナ ペ に渡 り、 スペ イ ンの 官 憲 に 見 つ か っ て取 り調 べ を受 け 、密 貿 易 者 で あ る こ とが わ か っ て しま っ た が 、 あま りに小 さ な船 だ った ので 、商 売 をす る こ とな く帰 国せ よ、 とい うこ とで許 され た とい う。 そ の帰 途 、 ピ ン ゲ ラ ップや モ キ ール 島 に 立 ち寄 っ て 商 売 を した ら しい。 「当 時小 笠原 に は 南 洋 群 島 の 土 民 で 帰 化 して い る者 が 幾 人 か あ っ た。 水谷 は そ の 帰 化 人 か ら南 洋 群 島 の 話 を 聞 き 、群 島遠 征 の 冒 険 を思 い立 っ た の で あ っ た」(『 南 洋 貿 易 五 十 年 史 』)。 注意 した い の は 、 こ こで 言 われ て い る 「帰 化 した 土 人 」 は 、 マ リア ナ諸 島 の先 住 民 の 子 孫 で あ る 「チ ャモ ロ人 」や カ ロ リ ン諸 島 の先 住 民 で あ る 「カ ナ カ人 」 で は な い とい う こ とで あ る。 お そ ら く、ハ ワ イ経 由で 小 笠 原 に渡 っ て き て い た 「ヨー ロ ッパ 人 」 の こ と で あ ろ う。 田 中弘 之 は 『幕 末 の小 笠 原 』 の な か で 、 日本 が 明 治8年 に小 笠 原 を再 回 収 を 計 画 した 明 治6年4月 に 、ペ リー が 小 笠 原 に寄 港 して調 査 を した こ とを根 拠 に 、小 笠原 が ア メ リカ の領 土 で あ る こ とを東 京 ま で 船 でや っ て き て ア メ リカ 公 使 に訴 え た とい う、 ベ ン ジ ャ ミ ン ・ピー ス とい う人 物 に触 れ て い る。彼 は小笠原の支配者 になるこ とを もく ろ ん で い た 島 で も評 判 の悪 い男 で 、 田 中 の よれ ば 「小 型 の 帆 船 で 南 洋 の 島 々 を巡 っ て 、 原 住 民 や 入 植 者 を相 手 に商 売 を して い た 」 とい う(翌 年 死 亡 。 殺 され た とも言 われ て い る)。 日本 に 帰化 した ヨー ロ ッパ 人 入 植 者 た ち の な か に 、 この ピー ス と同様 、 南 洋 を巡 っ て 商 売 をす る者 が い て 、 水 谷 はそ の真 似 を した ので あ ろ う。 水 谷 が 用 意 した 商 品 は、 ラ ン プ 、 石 油 、 ビス ケ ッ ト、 蚊 帳 、 米 、 メ リケ ン粉 、 シ ャ ツ 、 マ ッチ 、 牛 刀 な どで あ っ た と い う。 『南洋 貿 易 五 十 年 史 』 の 冒頭 に この 話 が 語 られ て い る よ うに 、 これ が 日本 と ミク ロネ シ ア との あ い だ の 最 初 の交 易 とい う こ と に な って い る。 あ ま り知 られ て い な い が 、 水 谷 は 南 鳥 島 を発 見 した 人 物 で もあ り、 明 治34に は 水 谷 村 が で き る ま で に な っ た。 この 水 谷 か ら、南 洋 との 貿 易 が 有 利 で あ る とい う話 を 聞 い た の が 、 や は り土 佐 出 身 で 小 笠 原 で牧 畜 を して い た 依 岡省 三 で あ っ た(依 岡 は 、 後 の 明治24年 に 、 練 習鑑 「比 叡 」 で 、 ミ ク ロネ シ ア 、 フ ィ リ ッ ピ ン 、 オ ー ス トラ リア を ま わ っ て い る人 物 で あ る)。 依 岡 は 、 上 京 した折 に 、 早稲 田専 門 学 校 の経 済 学 者 の 宇 川 盛 三 郎 に話 し、 これ が 田 口卯 吉 に も伝 わ っ た。 田 口は 、 明 治12年 に 『東 京 経 済 雑 誌 』 を創 刊 し、 そ の社 長 兼 主 筆 と して 健 筆 を 揮 う と と もに 、政 界 か ら経 済 界 、 さ らに歴 史 学 な ど に も多 くの 業績 を残 し、 後 に は 衆議 院 議 員 を勤 め た 人 物 で あ る。 かれ は こ の話 を 聞い て 、 当 時 大 き な 社 会 問題 に な っ て い た 士族 問題 を解 決 す るた め に 南洋 の 開拓 ・貿 易 に興 味 を 抱 き 、 非 難 を 受 け な が ら も士 族 授 産 金 を利 用 して 、 明 治23年 に 厂南 島 商 会 」 を設 立 した 。 「南 洋 経 略 論 」(『 東 京 経 済 雑 誌 』 掲 載)は 、 こ の とき に 書 か れ た 小 さな ア ジ ビラ の よ うな 文 章 で あ る。 そ して 、 ス クー ナ ー 型 帆 船 「天 祐 丸 」 を 貝冓入 し、 田 口み ず か ら この 天佑 丸 に乗 っ て 「南 島 」 を 足 掛 け八 ゲ 月 か け て ま わ っ た の で

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あ る。 天 佑 丸 は 、 グ ア ム、 ヤ ップ 、 ポ ナペ 、 パ ラオ を訪 問 し、 ポ ナ ペ に 「南 島 商会 」 の 支 店 を置 く こ とに す る。 一 行 の な か か ら支 店 長 と して事 務 補 佐 と して 乗 って い た松 永 一 太 郎 が 、 事務 員 と して 関根 仙 太 郎 が 配 置 され た 。 こ の航 海 中、 水 夫 の 一 人 が脚 気 の 悪 化 で ポ ナペ で 死 亡 して い る。 ポ ナペ に 支 店 員 と して 残 され た 二 人 の 心 境 は推 して 知 る こ と が で き る で あ ろ う。 この 「南 島 商会 」 は 航 海 終 了 後 、 す ぐに解 散 して しま う。 田 口は実 際 に ミク ロネ シ ア を視 察 して 、 そ の 後 も南 洋 の重 要性 を説 きは した もの の 、 そ れ ほ ど大 き な益 を もた らす もの で は な い と判 断 した の だ ろ う。 この 「南 島 商 会 」 の 財 産 を 買い 取 っ た の が肥 前 島原 出身 の小 美 田利 義 で 、 か れ は 「南 島 商 会 」 を 「一 屋 商 会 」 と して 再 出 発 させ 、 天 佑 丸 は 数 度 に渡 る ポナ ペ へ の 航 海 を行 っ て い る。 松 永 と関根 の 旧 南 島 商 会 ポ ナ ペ 支 店 員 は そ の ま ま 「一 屋 商 会 」 の ポ ナ ペ 支 店 と な っ た 。 だ が 、 明 治26年 に この 「一 屋 商 会 」 も解 散 に 追 い 込 ま れ る 。 初 期 の 南 洋 貿 易 は 、 机 上 の よ うに は い か ず 、 つ ま り、初 期 「南 洋 」 表 象 とは裏 腹 に 、 苦難 の 道 を歩 ま さ れ て い た の で あ っ た。 この 時 期 、 「南 洋 」 が ま だ 不 安 定 な用 語 で あ っ た こ とは 、 田 口が 「南 洋 」 と と もに 「南 島 」 とい う用 語 も用 い られ て い る こ とに も示 され て い る。 「南 島 商 会 」 設 立 に刺 激 され て 、水 谷 信 六 は 「快 通 社 」 を設 立 し トラ ッ ク 島 に 支 店 を、 横 尾 東 作 は 「恒 信 社 」 を設 立 してパ ラ オ 島 に支 店 を設 け て 活動 して い た 。 「一 屋 商 会 」 解 散 後 、 そ の社 員 が 和 歌 山県 日置 村 の 素封 家 の援 助 を得 て 、 さ らに ミニ 商 社 を 吸 収 して 、明 治26年 、 「南 洋 貿 易 日置合 資 会社 」 を設 立 し、 しば ら くは成 功 を収 め る。 しか しな が ら、 明治31年 に 、 ミ ク ロネ シ ア が ス ペ イ ンか ら ドイ ツの 領 有 とい うこ と に な る と、 ドイ ツ の 官 憲 の 干 渉 ・妨 害 に よっ て 、 明 治41年 、 商 売 が うま くい か な くな り、 明 治34年 に 、 や は り ミク ロネ シ ア で 貿 易 を行 って い た 南 洋 貿 易 村 山合 名 会 社 と合 併 し、 「南 洋 貿 易 株 式 会 社 」 に 衣 替 え を す る こ とに な る 。 これ が や が て 委 任 統 治 領 「南 洋 群 島」 時代 に大 い に栄 えた 貿 易 会 社 で あ る。 ポナ ペ に 「南 洋 商 会 」 や 厂一 屋 商 会 」 の支 店 員 の松 永 や 関根 た ち 、「快 通社 」 の トラ ッ ク支 店 員 とな っ た安 田某 や 竹 井武 六 とい っ た 人 た ち、F恒信 社 」 のパ ラ オ支 店 長 に な った 関勘 四 郎 た ち 。 これ らの人 た ち は 、 次 の 船 が 来 る ま で 交 易 品 と な る も の を 買 い 付 け る と い う仕 事 を 行 っ て い た 現 地 駐 在 員 で あ った 。 彼 らの 商 売 の 相 手 は、 宣 教 師 や 入 植 者 だ け で は な く、 先 住 民 た ち も含 め られ て い た 。 彼 らは 否 が 応 も な く、 こ の熱 帯 の 生 活 に 適 応 して い か な けれ ば な らな か っ た。 そ の よ うな一 人 に 、森 小 弁 が い た の で あ っ た。 い っ た い 、 こ う した 駐 在 員 が 抱 い て い た 「南 洋 観 」、 「先 住 民 観 」 は どの よ うな も の で あ っ た の だ ろ うか 。 い っ た い どの よ うな思 い を抱 い て 、 遠 く離 れ た ミク ロネ シ ア ま で来 る 気 にな っ た の だ ろ うか。 実 に 興 味 深 い こ う した 問 い に十 分 に答 え て くれ る研 究 も記 録 も ほ とん ど残 され て い な い。 い や 、 どこ か に あ るの か も しれ な い の だ が 、 ま だ そ う した 研 究 がす す ん で い な い とい うべ き か も しれ な い。 7南 洋 の 「王」 を夢 見 る 南 洋 の 渡 った 厂壮 士 」 た ち は 、 そ の 地 で そ の よ うな 生 活 ・体 験 を した の だ ろ うか。 幸 い に も、 森 小 弁 に 関す る記 録 は か な り残 っ て い る。 だ が 、彼 自身 が 自 らの 気 持 ち を 赤 裸 々 に吐 露 した よ うな 書 き 物 は ほ とん どな い 。 森 小 弁 の 六 男 六 郎 氏 に よれ ば 、 小 弁 は 日 記 を つ け て い た 。 幼 い とき にそ の 目記 を 盗 み 見 た記 憶 が あ る とい う。 しか し、 家 族 が 敗 戦 直 後 に そ の他 の 書類 と と も に焼 却 して しま った ら し く、 現 存 して い な い 。 した が っ て 、 彼 の 内面 を詳 し く知 る こ とが で き な い 。 い った い彼 は 「南 洋 」 を どの よ うに考 え て

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日本 にお け る 「南 洋 」 の形成 131 い た の で あ ろ うか 。 どの よ うに 体 験 して い た の だ ろ うか 。 森 小 弁 と 厂南 洋 群 島 」 との 関係 を 、 も う少 し詳 し く考 えて み よ う。 ま ず 、 天 佑 丸 で 南 洋 群 島 に渡 る ま で の 時 期 の 小 弁 を検 討 して み よ う。 これ は 、 書 物 や 周 囲 の人 た ち か らの 見 聞 ・伝 聞 に よ っ て 「南 洋 」 に 関す る 関 心 が 芽 生 え た 時期 に 当 た る。 小 弁 は 、東 京 専 門 学 校 中に 、 矢 野 渓 龍 の南 洋 を舞 台 に した 政 治 小 説 『浮 城 物 語 』 を 読 ん で 、 若 い血 を 踊 ら され た とい う。 こ れ は、 日本 人 が 「浮 城 」 つ ま り軍 艦 を大 い な る 手 段 と し て世 界 に 蹂 躙 し 日本 の 幾 十 倍 も の 支 配 地 を獲 得 し、 そ れ を 天 皇 陛 下 に献 じる と い う理 想 が 語 られ て い る空想 的 な政 治 的(・ 侵 略 主 義 的)海 洋 冒 険小 説 で あ る。 そ の な か で 、 南 方 雄 飛 の計 略 を もっ た 作 良先 生 とい う人 物 が 、 同 志 を募 る演 説 の な か に 、 次 の よ うな言 葉 が あ る。 「… … 人 生 朝 露 の 如 し、仮 令 ひ 蜻 蜒 州 の 一 隅 に退 縮 して 、 黄 老養 生 の道 を求 む る も、 あ に 能 く百 歳 の 壽 を超 ん や 、骨 を埋 め る 青 山 は 到 処 に あ り、 世 界 何 の 辺 か墳 墓 の 地 な らん。 … … 我 々 今 将 に 全 地 球 を蹂 躙 して無 人 の 地 を席 巻 し、 日 本 に 幾 十 倍 す る の 大版 図 を 拓 て 、 以 て 之 を 陛 下 に献 じ、我 々請 て其 地 を 鎮;せん とす 。 若 し不 幸 に して 日本 の 国力 之 を所 有 す 『る に勝 へ ん ず ん ば 、我 々諸 君 と与 に 其 地 の 王 た らん ・」。 こ こ に見 え る 、 南洋 を経 略 す る た め の 手 段 と して の南 洋 貿 易 の 展 開 とい う構 図 は 、森 小 弁 の南 洋 行 と酷 似 して い る。 ま た 、 そ こ に は、 こ ん な言 葉 も見 て い る。 「諸 君 或 は謂 は ん 、 南洋 諸 島最 も 略有 す べ き の 地 多 し と」 。 1932年(昭 和7年)、 当時 の 南 洋 群 島 トラ ック支 庁 長 山本 繁 蔵 は、 自身 の在 南 洋 十 年 の 記 念 と して 『南 洋 群 島 トラ ック 実 業 界 の 面影 』 とい う トラ ッ ク支 庁 内 の 日本 人 実 業 家 た ち の 来 歴 を記 録 した本 を発 行 した 。 そ の 冒頭 に 、 森 小 弁(右 手 を事 故 で 失 っ た の で 、 毛 号 を左 拳 とい っ た)の 「述 懐 」 と題 す る漢 詩 が 寄 せ られ て い る。 これ に付 され た そ の 詩 の注 釈(お そ ら く、小 弁 自身 に よ る も の で あ ろ う)は 、 次 の 通 りに な っ て い る。 小 弁 が 自 らの 心境 を語 っ た貴 重 な記 録 で あ る。 此 の 南 北 太 平 洋 の 広 々 と した る太 平 に は無 数 の 島 嶼 が あ る。 嘗 て は 彼 の豊:臣秀 吉 は 韓 国 に兵 を 起 し事 央 ば な らず して 卒 し、 又 原 田孫 七 郎 も奇 策 用 ひ る処 な く封 候 万 里 の名 を 空 ふ せ し事 、 寔 に 痛 恨 の 至 りで あ る。 遠 国 と親 交 を結 び 、 近 国 を攻 め取 り祖 国 の領 土 拡 張 の策 を何 処 に用 ひ ん や 、試 み に南 方 豪 州 に 向 ひ 活 眼 を 開 き 視 よ、 沖 縄 よ りマ リア ナ 、 カ ロ リ ン 、 ニ ウ グイ ニ ア 、 ニ ウブ リテ ン と無 数 の 宝 庫 は 綺 羅 星 の如 く、 又 庭 石 を 踏 ん で 行 くが 如 く 、 点 々 と して在 るで は な い か 、 天 公 は 此 好 き版 図 を 、 吾 人 の 取 る に任 せ 居 るに あ らずや 、 自分 は 斯 る希 望 を以 て 祖 国 を辞 して 来 た の で あ る。 卒 先 其 衡 に 当 らば 多 少 共後 進 に資 す る事 な し とせ ず 、 仮 令 身 を魚 腹 に葬 り、 ま た祖 先 と墳 墓 を異 にす る事 は 、 覚 悟 の 事 で あ る。 も し こ こ で述 べ られ て い る こ とが 本 音 で あ っ た な らば 、 小 弁 は矢 野 渓 龍 の小 説 に鼓 舞 され て 、 自分 もま た 小 説 の主 人 公 た ち と同 じよ うな こ とを現 実 の 世 界 で してみ よ う との 決 意 で 、 た っ た 一 人 で トラ ッ ク に渡 っ て きた の で あ っ た。 小 弁 は 本 気 で 、 原 住 民 を支 配 下 に お い て 、 自分 が 南 洋 の 「王 」 に な り、 そ の領 土 を陛 下 に献 上 す る とい う夢 を抱 い て い た の で あ った 。 能 仲 文 夫 『赤 道 を背 に して 』 は 、 昭 和8年 に 三 ヶ月 あ ま りをか けて 南 洋 群 島各 地 を旅 した 当 時 の ジ ャ ー ナ リス トの旅 行 記 で あ るが 、 そ の な か に トラ ッ ク島 を訪 問 した さい の 簡 単 な 面 談 記 録 を 厂島 の 大 酋長 日本 人 森 の話 」 と題 して 載せ て い る。

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「明 治 二 十 四 年 スペ イ ン時 代 に 渡 島 しま した … …」 と森 氏 は ポ ツ リポ ツ リ と語 り出 した 、 そ の話 を終 わ りま で 聞 い た 私 は 、 これ は素 晴 ら しい 海 外 雄 飛 者 の 自叙 伝 小 説 に な る ゾ と思 っ た。 彼 は 明治 二 十 四年 の 春 備 前 長 船 の 一 刀 と ピス トル ー 挺 を も っ て こ の夏 島 に 乗 り込 ん で き た の で あ っ た 、貿易 を して 巨万の金 を拾 っ て や ろ う、 そ して カ ナ カ を征 服 して 群 島 の 王 様 に な っ てや ろ う と、素 晴 ら し く大 き な野 心 を 抱 い て い た の で あ っ た 。 そ して 貿 易 す る の だ と云 っ て は カ ナ カ の 若 者 を従 え て 島 々 へ 遠 征 し機 の 至 るの を狙 っ て い た。 島 民 を征 服 す る の は 飛 道 具 で な けれ ば駄 目だ と考 え た 彼 は 日本 か ら密 に 鉄 砲 を 取 り寄 せ 先 づ 試 験 に と ライ カ ン に 火 薬 を詰 め て い た 時 、 火 薬 に火 が 点 火 して 轟 き 渡 る爆 音 と共 に右 腕 は 根 元 か ら吹 っ飛 ん で しま っ た の だ 、 そ う云 う訳 で … … わ しは … … と彼 は 右 の義 手 を さす り さ す り更 に話 つづ け た … …。 こ う した 野 望 は あ っ た も の の 、 彼 に は 強 力 な 軍 隊 が つ き 従 っ て い た わ け で は な い 。 彼 は た っ た一 人 で 、武 器 とい えば 日本 刀 一 振 り と短銃 一 丁 だ け とい う装 備 で 、 トラ ック 島 を まず は征 服 し よ うとい うこ とで 上 陸 した の で あ る。 現 実 は そ の 通 りに は い か な か っ た 。 武 力 とい う点 で も トラ ッ ク人 は 、 これ で征 服 され る ほ ど弱 体 な 人 々 で あ っ た わ け で は な か った ので あ る。 8ト ラ ッ ク社 会 へ の参 入 商 人 と して 、軍 師 と して 森 小 弁 は トラ ッ ク 島 に や っ て 来 た 時 期 か ら、 ドイ ツ に施 政 が移 り森 小 弁 を 除 い て ト ラ ック諸 島 か ら一 時 期 日本 人 が 撤 退 す るま で 、 細 々 と変 転 を 重 ね る ミニ 商 社 と契 約 しな が ら貿 易 業 を 営 ん で い た 。 来 島 当初 は 「南 洋 の 王 」 に な る の だ と密 か に 思 っ て い た 小 弁 も 、 交 易 を す る に は 現 地 の 人 た ち と友 好 的 に っ き合 わ な け れ ば な ら な い し、 日本 か ら 持 ち込 ん だ 自家 用 の 食 料 そ の 他 の 品物 が 無 くな っ て くれ ば 現 地 の 食 生 活 に適 応 を しな け れ ば な らな くな っ た は ず で あ る。 な に よ りもま ず 、 自分 の命 や 現 地 で 集 めた コブ ラ な ど の 交 易 品 を 盗難 か ら守 るた め に は 、必 然 的 に現 地 の有 力 者 の 保護 が 必 要 で あ った 。 しか も 、 トラ ッ ク人 た ち に とっ て 、 小 弁 は 「異 人 」 で あ り、 好 ま し くな い 存 在 だ とみ なせ ば 、 す ぐ にで も殺 害 で き る立 場 に あ った 。 トラ ック諸 島 の住 民 は 、伝 統 的 に トラ ック諸 島 の 全 域 を支 配 す る 「王 」 の よ うな存 在 を戴 い た こ とが な く、 当時 も戦 国 時代 の よ うな状 況 に あ り、 島 同 士 、 村 落 同士 の戦 争 を 繰 り返 して い た 。 捕 鯨 船 の 船 員 た ち の あい だ で も 、 トラ ッ ク諸 島 は 近 づ く者 を容 赦 な く 攻 撃 す る 戦 闘 的 な 住 民 が い る こ とで 知 られ て い て 、長 い 間 、 この 島 へ の寄 港 は避 け られ て い た。 トラ ッ ク諸 島 の ウェ ノ 島 に 初 め て の 西 洋 人(ア メ リカ の 宣 教 師)が 上 陸 した の が 、 1884年 の こ とで あ る。 森 小 弁 が この 島 にや って 来 た の が1892年 で あ る か ら、 ほ ん の 十 年 足 らず 前 の こ とで あ っ た 。 戦 国 時 代 で あ る とい う こ とは 、 青 年 男 子 の ほ と ん どが 「戦 士 」 で あ る とい うこ とを も意 味す る。 そ の よ うな社 会 の な か に、 小 弁 は た っ た一 人 で 入 っ て い っ た の で あ る。 トラ ック 諸 島 で は 、 文 明 人 と の接 触 が 始 ま っ て か らは 、 棍 棒 と 槍 、投 石 とい うこれ ま で の武 器 に加 えて 、 ドイ ツ の 商 人 な どを通 じて銃 火 機 類 も島 民 の な か に入 り込 み っ っ あ った 。 そ の一 翼 を森 小 弁 も担 っ た わ け で あ る。 森 小 弁 が 、 内 心 で ウ ェ ノ島(旧 春 島)が 「南洋 の 王 」 に な る た め の 出発 点 とな るた め の 手 頃 な 島 だ と判 断 した と して も、 実 際 に は小 弁 が 島 に 上 陸 して 住 む た め に は 、 上 陸 地 域 の イ ラ ス 村 の 「サ モ ル 」(首 長)の 許 可 が必 要 で あ り、 そ の保 護 な しで は生 活 して は

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目本 に お け る 「南 洋 」 の形成 133 い け なか っ た。 私 の調 査 で は 、 イ ラ ス村 の サ モ ル は昔 か らプ ール と呼 ばれ る母 系氏 族 か ら出 す こ とに な っ て い た。 日本 の 商 社 や ヨー ロ ッパ の 宣教 師 が 貿 易 や布 教 活 動 を行 うた め に は、 こ のサ モ ル の承 認 が 必 要 で あ っ た 。 こ の た め 、彼 もま た イ ラス 村 のサ モ ル の保 護 を 受 け ざ るを え な か っ た の で あ る。 。 日本 時 代 に な っ て 、南 洋 庁 トラ ッ ク支 庁 や 日本 人 町 が 、 隣 の トノ ワス 島(旧 夏 島)に 設 け られ る ま で 、 この ウェ ノ島 が 「外 国 人 」 に対 して友 好 的 な態 度 で 臨 ん だ 最 初 の 島 で あ っ た の で 、 外 国船 の 寄港 地 とな っ て い た の で あ る。 つ ま り、 トラ ッ ク島 で 最 初 に外 国 人 に 「開 港 」 した の が 、 この 島 で あ っ た の だ 。 つ い で に述 べ る と、 日本 の 敗 戦 後 、 ア メ リカ の 統 治 時 代 に入 る と、 再 び この ウェ ノ島 に米 国信 託 統 治 領 の トラ ッ ク支 庁 が設 置 さ れ て 、 い わ ば トラ ック諸 島 の 首都 の 位 置 を 占 め、 現 在 で も外 国船 や 航 空機 の 寄 港 地 とな っ て い る。 小 弁 は 表 面 的 に は 日本 の 商 社 の 現 地 駐 在 員 と して 、 日用 雑 貨 品 を売 り コブ ラ を 買 い 集 め て い た 。 も ち ろ ん物 々 交 換 で あ る。 しか し、 彼 に は も う一 つ の顔 が あ っ た 。 戦 国 時 代 の トラ ック を生 き る イ ラス の サ モ ル が彼 に 求 めた 「軍 事 顧 問」 と して の顔 で あ る。 サ モ ル は 日本 か ら銃 器 な どを 輸 入 す る窓 口に な って も らお う と した の で あ ろ う。 小 弁 を は じめ とす る 日本 人 た ち が どれ だ けの 量 の銃 器 を トラ ック に持 ち込 ん だ の か は 不 明 で あ る が 、 ヨー ロ ッパ 人 や 日本 人 との 交 流 が始 ま っ た こ とで か な りの量 の銃 器 類 が トラ ッ ク社 会 に 入 り込 み 、 トラ ック諸 島 内 の 権 力 抗 争 に 大 き な影 響 を も た ら した こ とは た しか で あ る。 森 小 弁 の子 孫 た ち の あ い だ で も 、小 弁 が イ ラス のサ モ ル の信 任 を得 る こ とが で き た の は 、 武器 の威 力 ・調 達 に あ っ た ら しい 、 とい うこ とを 私 に語 っ て い た。 横 田武 は 、 次 の よ うに 記 して い る。 「生 活 の レベ ル を 島 民 に ま で 下 げ 、 彼 等 と語 り 彼 ら と楽 しむ 心 の ゆ と りが 出 来 て か ら、 小 弁 は 始 めて 南 洋 が 第 二 の故 郷 た る を感 じた 。 そ して 懸 命 の 努 力 を以 て漸 次 自分 の 地 盤 を 開 拓 して 行 っ た。 其 の 頃 島 に は独 逸 の 商 人 が 四名 居 て 、 小 弁 と同 じ様 に コブ ラや 椰 子 油 を 買 い 集 め、 そ の勢 力 は大 した もの で あ っ た が 、 村 田銃 が 発 明 され て か らは 小 弁 の勢 力 が 断 然 頭 角 を現 わす に至 っ た。 前 に も述 べ た 通 り、 島 民 は闘 争 に 日を暮 ら して い た の で 、 独 逸 の 銃 器 を手 に入 れ る為 に独 逸 商 人 の 云 い な りにな って い た が 、我 が 国 に 村 田銃 が 出 来 て ず っ と安 く購 入 出来 る よ うにな る と、 島 民 は 一斉 に 邦 人 に好 意 を 寄せ 、在 留 同胞 の 商 売 は 大 繁盛 とな っ た」 。 もっ と も、 こ う した 強 力 な武 器 の 所 有 と売 買 は 、彼 らの 島 民 に対 す る脅威 や威 信 を増 す だ け で は な く、命 を脅 かす 危 険性 も増 や した は ず で あ る。 9心 境 の 変化 トラ ッ ク 人 と の結 婚 トラ ッ ク島 に住 み 着 い た森 小 弁 に 、 や が て 大 き な 心境 の変 化 が起 き る こ と に な る。 そ の こ とは 、 トラ ック社 会 の な か に と け込 み 、 トラ ック人 と同様 の食 物 を食 べ 、彼 ら戦 士 た ち と共 に戦 い 、 そ して イ ラス の 長 老 た ち の 信 頼 を得 て 、 彼 らの社 会 組 織 の な か に擬 制 的 な か た ちで 組 み 込 まれ 、 や が て サ モ ル の勧 め で 、 サ モ ル の 「娘 」 イ ザベ ラ を妻 に迎 え る こ と にな った 経 緯 か ら推 測 す る こ とが で き る。 能 仲 文 夫 は上 述 の面 談記 で 、 この 現 地 妻 の 獲 得 の 事 情 を 、 「… …依 然 と し て土 人 の 反 乱 は 益 々激 しか っ た の で 、森 は 白井 と相 談 の 結 果 夫 々 島 で最 も勢 力 の あ る酋 長 の 娘 を 妻 に しよ う と考 え た。 さす れ ば 身 辺 の 危 険 が 幾 分 な り とも緩 和 され る と思 った か らで あ る。 そ して森 は水 曜 島 の 酋長 チ ャア ウ ラ の 娘 イ ザ ベ ラ を、 白井 は春 島 の 酋 長 の 妹 を 夫 々 妻 に した 。 当時 森 老 は廿 九 才 、 イ ザ ベ ラ は 十 一 才 で あ った 」 と記 して い る。 水 曜 島 の某 村 は ポ ンナ ップ 環 礁 タマ タ ム 島 か ら移 住 し て き た 人 々 の村 で 、 そ の 首 長 氏族 は エ レゲ ー タ ウで あ っ た。

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と こ ろで 、 仲 能 文 夫 は 「水 曜 島 の 酋長 チ ャ ア ウ ラの 娘 」 で あ るイ ザ ベ ラ を娶 っ た と記 し、 これ に対 して 、横 田武 に よれ ば 、 「春 島イ ラ ス村 酋 長 の 娘 イ サ ベ ラ」 を娶 っ た とい う。 文 献 と現 地 取 材 とで詳 細 な森 小 弁 の伝 記 を書 い た 高 知 新 聞 記 者 森 沢 孝 道 も 、小 弁 は 「ウ ェ ノ 島(春 島)イ ラ ス村 の サ モル(首 長)マ ヌ ッ ピス の 娘 イ サ ベ ラ を娶 っ た 」 と記 して い る。 小 弁 の妻 がイ サベ ラ(日 本 名 伊 佐)で あ る こ とは 間 違 い ない が 、彼 女 の 父 の 名 前 は は っ き り しな い。 これ に は 理 由が あ る。 トラ ック 社 会 は 母 系 社 会 で類 別 親 族 名 称 を 用 い て い るの で 、 「父 」 とい っ て も 日本 社 会 の よ うな原 則 と して父 が一 人 とい うの で は な く、 「父 」 が た くさん い るか らで あ る。 森 六 郎 に よれ ば 、 イ サベ ル は 実 父 が 早 く死 ん だ の で 実 母 の姉 妹 た ち とそ の一 族 に よっ て 育 て られ た とい う。 妻 方 居 住 婚 制 が一 般 的 で あ るの で 、 これ は き わ め て 当 た り前 の こ とで あ っ た。 イ サ ベ ラ の父 がマ ヌ ッ ピ ス で あ る か 、 そ れ と もチ ャア ウラ で あ る か は さて お き 、 能 仲 も森 沢 も 、森 小 弁 は酋 長 の娘 の夫 だ か らや が て 島 の 酋 長 に な った 、 とい っ た理 解 を して い る。 と くに森 沢 の場 合 は 、母 系 社 会 だ か ら首長 職 を 世 襲 した と述 べ て い る。 しか し、 これ は 明 らか に誤 りで あ る。 母 系 社 会 で あ る トラ ック で は 娘 婿 に首 長 職 を譲 る こ と は で き な い 。 こ の社 会 で は母 が 首長 氏 族 の 者 で な い 限 り、 首 長 職 を継 承 す る こ とは で き な い の で あ る。 首 長 職 は 同 じ母 系 氏族 の 男 た ち に移 譲 され 実 の 娘 や 息 子 は 同 じ母 系一 族 で は な い の で 移 譲 され る こ とは け っ して な い。 ま して 娘 婿 に 移 譲 す る こ とな ど とん で も な い こ とで あ っ た。 した が って 、 も し小 弁 が トラ ック の社 会 の 政 治 ・社 会 組 織 に 明 る か っ た な らば 、 そ し て サ モ ル に相 当す る よ うな権 力 を も っ た地 位 に つ い た とす る な らば 、彼 は 首長 の 姉 妹 の 「娘 」 と結 婚 した の で あ ろ う。 そ うす れ ば 、小 弁 の 息 子 た ちが 将 来 にお い て運 が 良 けれ ば 、 サ モ ル に な る可 能 性 が あ り、 そ の よ うな こ とか ら、 小 弁 も、 首 長 氏 族 の な か で 強 い 発 言 権 を も て る よ うに なれ る か らで あ る。 そ の 点 か らす れ ば、 事 実 で あ る か ど うか は別 に して 、 島民 の女 性 を妻 にす るな らば 、森 小 弁 よ りも彼 の 友 人 の 白井 孫 平 の方 が 戦 略 的 で あ っ た とい え る。 ピィー テ ィー も 「彼 女 は彼 に ミク ロネ シア の環 境 を理 解 し評 価 す る 知 識 を提 供 し、 そ して森 は彼 女 を 通 じて トラ ック 語 に 堪 能 とな り、 トラ ック の習 慣 に適 応 し、 島 島 に住 む トラ ック人 た ち との 友 好 関係 を 織 りあ げ て い っ た の で あ る 」 と述 べ て い る。 小 弁 は この 社 会 の仕 組 み と現 状 を知 れ ば 知 るほ ど、 わ ず か な 日本 人 の 力 で は 当 初 の野 望 を 実 現 で き ない ば か りか 、 この社 会 の仕 組 み を利 用 しな けれ ば 自分 た ち の身 を 守 る こ とが 難 しく、 また そ うす れ ばす る ほ ど ます ます 「トラ ッ ク諸 島 の王 」 に なれ な くな っ て い く とい うこ とで あ っ た。 っ ま り、 徹 底 した武 力 弾圧 を加 えて こ の社 会 の社 会 構 造 を解 体 させ な けれ ば 「王 」 に は なれ な い の で あ る。 あ るい は 小 弁 の一 族 だ け が そ の よ うな原 理 か ら超 越 した集 団 に な らな けれ ば な らな い わ け で あ る。 小 弁 は 来 島 初 期 は、 果 敢 の 島 内 の あ るい は 島 同 士 の 戦 闘 に参 加 し、 軍 事顧 問 と して の 評 価 を 得 て 、 機 会 が あれ ば実 力 で 島 の 「王 」 に な る こ と を考 えて い た に ち が い な い 。 数 少 な い ミニ 商 社 の駐 在 員 仲 間 と、 そ ん な夢 を語 り合 っ て い た 。 だ が 、 そ の夢 は 現 実 の前 に打 ち砕 か れ て しま うの だ。 まず 、 明 治29年2月 、 日本 人 仲 間 の一 人 が銃 器 を 奪 い 取 ろ う と した パ ラム 島 のサ モ ル の 手 に か か っ て殺 害 され る とい う事 件 が発 生 す る。 さ ら に、 同 じ年 、 小 弁 自身 が 銃 器 の手 入 れ を して い た とき に火 薬 が 爆 発 して右 手 を失 う とい う不 幸 に見 舞 われ る。 これ を境 に 、 小 弁 の 心 境 に変 化 が生 じた ら しい 。 自身 が暴 力 を背 景 に 「王 」 に な る の で は な く、 彼 の 子 孫 が トラ ック 島 で 「繁 栄 」 す る こ とを 望 む よ うに な っ た の で あ ろ う。

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