はじめに
魯迅(1881~1936)は中国の近代文学の父と称され、日本語に翻訳された小説「故郷」(1921年発表) や「藤野先生」(1926発表)は、国語の教材としても広く知られている。 1927年、国民党と共産党による国共合作が崩壊した後、魯迅は妻の許広平とともに上海に定住す るようになっていた。上海はアヘン戦争の後、南京条約により開港されてイギリスとアメリカの共 同租界・フランス租界が置かれ、「モダン都市」「魔都」といった現代に伝わる都市像が形成されて いた。また、産業・金融の中心として人口が増加、新聞『申報』の発行部数が増えるなどメディア が急成長し、独立・革命運動の中心地、文芸論争の街でもあった。1930年には「無産階級革命文学」 の旗を掲げた「左翼作家連盟」が結成され、魯迅もこれに加わった。(注1) 鈴木将久は『上海モダニズム』(2012)の中で「上海文化の位置を考える際に参考になるのは、 魯迅である。」とし、上海に居を落ち着けた後、晩年の魯迅はほとんど小説を書かず、もっぱら「雑 文」という独特のジャンルの文章を書き続け、これらの雑文は特定の事件や事象に向けて書かれた 時評文であり、事件や事象の背後に隠れる複雑な関係性を一気に言語化して見せる文体であった、 と指摘している。(注2)本稿で取り上げる「女にかんして(關於女人)」も、この時期に書かれた雑 文の一つである。 「女にかんして(關於女人)」は、まず、瞿くしゅうはく秋白(1899~1935)が腹案を持って来て魯迅と意見交 換した後、瞿秋白が文章を書き(1933年4月11日)、それに魯迅が字句上の添削をして完成させた ものであった。この他にも11篇が同じ方法で書かれている。その後、「女にかんして(關於女人)」は、 1933年6月15日、『申報月刊』第2巻第6号「隨感」欄に「洛文」(魯迅のペンネーム)の名で発表 され、1934年3月には上海・同文書店から刊行された『南なん腔こう北ほくちょう調集しゅう』に幾つかの注釈を付して収 録された。(注3)魯迅が添削する前の瞿秋白の文章は、現在『瞿秋白文集』1に収録されている。(注4) 瞿秋白は、モスクワ留学中に中国共産党に入り、1927年には、国共合作が崩壊し陳独秀が失脚し たのにともなって最高指導者となった。鈴木(2012)によると、瞿秋白の政治路線の中には、①「高 等人」(封建地主と結びついた中国のブルジョアジー)が統治階級を形成していたこと、②「高等魯迅「女にかんして(關於女人)」について
― 瞿秋白の原文への添削と「孫寿」故事引用の特徴をめぐって ―
On Lu Xun's "Concerning Women": His Corrections to the Original Work
by Qu Qiubai's and Characteristic Allusions to the Tale of Sun Shou
桐
島
薫
子
人」と帝国主義によって「下等人」(農民と労働者)が不当な圧迫を受けていたこと、③「下等人」 が反帝国主義を掲げた国民革命の運動の過程で力をつけたため「高等人」が恐れ、革命を裏切り帝 国主義に投降したこと、④農民は徹底した土地革命を実行し労働者は都市で帝国主義とブルジョア ジーに対する階級闘争を堅持すべきであること、などの主張があった。しかし、瞿秋白は、1931年 には失脚し、上海で地下活動を行い文芸活動に従事していた。そして、言語についても関心を示し、 新しい文学と言語の創造を目指した「五四白話」が一部の「高等人」のみが理解できるものに過ぎ なかったとして、大部分の「下等人」が自己の言語を持てるための理論を構想した。これは、魯 迅が参加していた左翼作家連盟の「文芸大衆化」方針に沿ったものでもあった。(注5)瞿秋白は上海 で魯迅と邂逅し、政治的な弾圧を避けるため魯迅の家に匿われるなどしながら、談論し協同執筆を 行った。 魯迅と瞿秋白の協同執筆による「雑文」の先行研究としては、許京生の『瞿秋白与魯迅』(1999) で、全体を概括した次のような指摘がなされている。(日本語訳は本稿筆者に拠る) 由于文章的观点和鲁迅的观点是一致的,语言和写作手法都同鲁迅相似,所以,别人也都认为是 鲁迅的手笔。 訳:(瞿秋白の)文章の観点は、魯迅の観点と一致しており、言語と作文の方法はどちらも魯 迅と似通っていることから、他の人もみな魯迅が書いたものであると考えている。(注6) また、川本栄三郎は「魯迅作品の文体論的アプローチ―「将」「把」、「便」「就」および「好像」 を中心として」(1977)の中で、魯迅が大衆語を提唱した瞿秋白から受けた影響について、以下を 挙げている。 ①文学革命のはじめ、魯迅は「狂人日記」を口語化しようと意識的に「把」を頻用するが、 1919年頃から「将」に変わってくる。1933年に「把」が再び優位に立つが、これは瞿秋白お よび彼の文章が影響しているかと考えられる。(注7) ②1931年、瞿秋白との出会いによって、魯迅は自国の言語に対して体系的な理論をもつにいた る。(注8) ③1934、35年に『故事新篇』の諸作品において、「就」「把」「好像」を大量に用いたのも、瞿 秋白の提唱に呼応して大衆語というものを実践してみようとしたからであろう。(注9) ④用語の面において、魯迅は「将」や「彷彿」「似乎」を用いたかった。「古い言葉」のままで も、真実を述べることができる場合、また、それが自己に緊密な用語である場合、それは用 いてもさしつかえないものであった。(注10) これらの先行研究を踏まえ本稿では、「女にかんして(關於女人)」について、瞿秋白が書いた文 とそれを添削して発表された魯迅の文を一文ずつすべて比較した所、①許(1999)が述べるように 魯迅と瞿秋白の文章は似通っているが、しかし、魯迅によって変更されたことによる幾多の違いが 存在すること、②川本(1977)が指摘するように、魯迅の文は瞿秋白の用いた「把」をそのまま踏 襲し、両者に大衆語実践の形跡が見られるが、しかし、瞿秋白の文には「似乎」「彷彿」という「古 い言葉」も使用されており、魯迅もそれを踏襲していること、③同作品には後漢時代の女性(孫そん寿じゅ) の故事の引用があるが、魯迅は瞿秋白の表現を大きく変更しており、これが魯迅が女性解放を訴え
る際の特徴的な表現手法であったこと、④同作品には、瞿秋白の政治路線が反映されているが、魯 迅の変更により当時の政情がより明確となっていること、などが分かった。これらについては、管 見する所、未だ言及がなされていないため、以下、考察内容を論じていきたい。
一 魯迅における「孫寿」故事引用の特徴
魯迅が女性解放に言及した作品としては、1918年8月北京『新青年』第5巻第2号に発表され た「私の節烈観(我之節烈觀)」がある。「節烈」とは中国で伝統的に女性に対し強制されていた倫 理観で、1914年には袁世凱政権が礼教擁護のため「婦女の貞操節烈」を奨励し、新聞・雑誌が称揚 する記事や詩文を載せていた。(注11)魯迅はこの中で、「節烈」とは「要するに、女子は夫に死なれ たら、節を守るか、死んでしまう。暴行に遭ったら、死んでしまう。このような人物を、誉めそや せば、世道人心はよくなり、中国は救われるといった意味。」とする。そして、この節烈救世説の 矛盾点について、例えば、現在、戦争・盗賊・洪水・旱魃・飢饉が相継いで起っているが、これら は新しい道徳や学問が起らないために生じてくるのであり、まして、政治・軍事・学問・商業など の内部はすべて男子であって、不節烈の女子など一人も混ざってはいないと述べ、治世救国の全責 任を女性の肩に負わせることに疑問を呈している。 島田由紀子「魯迅と女性の解放について」(1973)は、「私の節烈観(我之節烈觀)」を取り上げ、 ①「新青年」の初期は欧米流の個人主義の影響がはなはだ強く個人の自主独立、自由平等を主張し、 女性の解放もその一環として考えられていたが、これらを唱えた人々はほとんど留学の経験がある 幸福な少数の人達であり、西欧流の新思想を安易にあてはめて封建社会を批判することで自己満足 に陥った人々が多かったこと、②これに対し魯迅は、暗黒ともみあいながら、その暗黒の封建社会 の強大な力を逆用することのみがより現実的な方法と思い、旧思想を拠り所として、その矛盾をつ くという独特のやり方で批判したこと、③その際、拠り所とした旧道徳が力があればあるほど、そ の訴える力は大きくなってくること、などを指摘している。(注12) さて、魯迅の「女にかんして(關於女人)」について、許広平は『魯迅回想録』9所収「婦人へ の同情(同情妇女)」で、この文は「 一切の社会罪悪を女のせいにすることに反対する」ものであ ると説明している。(注13)こう評される作品中、孫寿故事は重要な役割を果たしているのである。 孫寿とは、後漢の順帝(126~144在位)や桓帝(147~167在位)の外戚として権勢を恣にした大将 軍梁りょうき冀の妻で、西晋の司し ば ひ ょ う馬彪『続漢書』「五行志」に記載がある。「五行」とは世界や自然を構成す る最も基本的な要素「木・火・土・金・水」のことで、災害や怪異は五行のバランスが乱れ秩序が混 乱するために発生すると考えられた。同書の記載によれば、孫寿は、「愁しゅうび眉」(しかめた眉)・「啼ていしょう妝」(泣 いたような化粧)・「堕だ馬ば髻けい」(一片に偏った結い髪)・「折せつよう腰歩ほ」(覚束ない歩き)・「齲う歯し笑しょう」(歯痛を 堪えたような笑い)というスタイルを考案し、そのスタイルは国中が真似をし、一世を風靡した。そ の一方で同書は、孫寿のスタイルは不吉な服装(「服妖」)であり、役人に引っ立てられる際の女性 の苦しみの様(愁い眉を顰めた啼泣・役人に押さえつけられて折れた腰骨や乱れた髻・こうした中 での無理な作り笑い)を示した天の戒めであるとし、後に梁冀一族が誅殺されたとも記している。西晋の華かきょう嶠『後漢書』(欧陽詢等による奉勅撰『藝文類聚』巻18人部2「美婦人」、『蒙求』標題 「孫寿折腰」李瀚自注引)や東晋~宋初期の范はん曄ようの『後漢書』「梁冀伝」には、孫寿のスタイルが 「媚惑を為す」(美しさで人々を惑わすもの)であったとも述べている。孫寿の故事は、その後、東 晋の干宝『捜神記』・梁の沈約「江南曲」(『楽府詩集』巻26)、徐陵『玉台新詠』序文・唐詩(白居 易、温おん庭てい筠いん、韓かん偓あく、羅らきゅう虬など)に、日本では江戸時代の浅井了意『新語園』・明治期の泉鏡花「愁粧」 などに引用されている。(注14)すなわち、孫寿故事は中国の歴史、文学の上で非常に影響力を有する 古典故事であると言える。そして、後述するように、「女にかんして(關於女人)」における魯迅の 孫寿故事の引用による女性解放の主張は、「私の節烈観(我之節烈觀)」と共通する所がある。
二 瞿秋白と魯迅「女にかんして(關於女人)」の比較
ここでは、瞿秋白と魯迅の「女にかんして(關於女人)」を見ていく。 凡例 ①瞿秋白の文を「A」、魯迅が加筆・添削した文(『申報月刊』所収分)を「B」とし、一 文ずつ1~32までの通し番号を付して比較していった。 ②比較し易いよう、AとBの同じ字句の箇所は、できるだけ字句を重ねるように配置し、 表記した。なお、文字は原文に合わせて繁体字を用い、原則として現在通行の字体に改 めた。簡体字が用いられている所(只)は、そのままとした。 ③Bについては『魯迅全集6 二心集・南腔北調集』竹内実の日本語訳を「訳」として表 記し、Aについては必要に応じ本稿筆者の訳を付した。 ④Bについては『南腔北調集』所収分に付された注の訳を「南腔注」として表記した。ま た、上記③の竹内訳に付された注は「竹訳注」として表記した。 ⑤A、Bの文章で異なる部分は下線でチェックし、本稿筆者の考察内容や先行研究の紹介 を「考」として表記した。紙面の都合上、今回言及しない箇所は相違点のチェックのみ にとどめた。 1 A:國難期間 女人似乎也特别受難些。 B:國難期間,似乎女人 也特别受難些。 訳:国難期にあって、女はとりわけつらいようである。 考:川本栄三郎「魯迅の比喩表現―その文体論的アプローチ―」(1980)では、「似乎」に ついて、「積極的に意識動詞化した意味(~のような気がする)が内包されている」こと、 文語的要素が強いことなどを指摘している。(注15) 2 A:一些正人君子責備女人愛奢侈,不肯光顧國貨。 B:一些正人君子責備女人愛奢侈,不肯光顧國貨。 訳:若干の正人君子は女性が国産品を愛用せず贅ぜい沢たくだと非難する。 3 A:就是跳舞,肉感等等,凡是和女性有關的,都成了罪狀。 B:就是跳舞,肉感等等,凡是和女性有關的,都成了罪狀。 訳:ダンス、肉感的など、およそ女に関係することは、すべて罪状になる。4 A:彷彿男人都成了苦行和尚,女人都進了修道院,國難就 得救了似的。 B:彷彿男人都做了苦行和尚,女人都進了修道院,國難就會得救 似的。 訳:あたかも男が苦行する和尚になり、女が一人残らず修道院にはいれば、国難は救われ るかのようである。 5 A:其實那不是她 的罪狀,正是她的可憐。 B:其實那不是女人 的罪狀,正是她的可憐。 訳:だが、それは女の罪状ではなく、まさしく憐あわれむべきところである。 6 A:這社會制度,把她擠成了各種各式的奴隸,還要把種種罪名加在她頭上。 B:這社會制度 把她擠成了各種各式的奴隸,還要把種種罪名加在她頭上。 訳:この社会制度は女をさまざまな奴隷としてこねあげたうえ、さまざまな罪名を頭上に くわえるのだ。 考:川本(1977)では、「把」は北方標準語圏における口頭語の標準的介詞であったため、 これを用いることで口語文体をより一層口語的に表そうと魯迅が意図した、と指摘し ている。(注16) 7 A:西漢末年,女人的 眉毛畫得歪歪斜斜, 也説是敗亡的預兆。 B:西漢末年,女人的「墮馬髻」,「愁眉啼妝」, 也説是亡國之兆。 訳:西漢の末年には、女性の「堕だ馬ば髻けい」、「愁しゅうびていしょう眉啼妝」も亡国の兆しとされた。 考:Aは「眉毛をゆがめ歪に描いている」としているが、Bは「墮馬髻」、「愁眉啼妝」と 変更しており、『南腔北調集』所収分には注が付いている。詳細は下記の竹訳注参照。 なお、孫寿は後漢の人なので、「西漢」は「東漢」と修正すべきである。 竹訳注:『後漢書』(巻34)「梁りょうき冀伝」にみえる。漢の順帝のとき、大将軍梁冀の妻孫寿は 「色美しく、しかもよく妖よう態たいをなし、 愁眉と唬てい(啼)妝、堕馬髻をつくる」。唐代の李 賢注は『風俗通』を引いていう。「愁眉は細くして曲折す、唬妝とは目の下を薄く拭ぬぐ い啼なきしごとき処ところ、堕馬髻とは一方に側かたよらせてあるもの」。(注17)とある。 8 A:其實亡漢的何嘗是女人! B:其實亡漢的何嘗是女人! 訳:だが漢を亡ほろぼしたのが女であろうか。 9 A:總之,只要看有人出來唉聲歎氣的不滿意女人 , B:不過,只要看有人出來唉聲歎氣的不滿意女人的妝束, 訳:しかし、誰かがため息まじりに女の流行に不満をのべるのを見れば、 考:A「要するに」がB「しかし」に変更されている。また、Bに「妝束」(装い)を加 筆することで、孫寿の亡国の予兆とされたスタイルとの言語表現的なつながりが密接 になっている。竹内の訳では「流行」とのみ訳しているが、こうした文脈に配慮し、「流 行の装い」のように「妝束」を訳出した方が分かり易いのではないだろうか。 A:我們就知道高等階級 的地位 有些不妙了。 B:我們就知道當時統治階級的情形,大概有些不妙。 訳:我々は当時の支配階級の状況が、おおむね危うくなっていることを知るのである。 考:A「高等階級」の「地位」が、B「當時統治階級」の「情形」に変更されている。
10 A:奢侈和淫靡只是一種社會崩潰腐化的現象,決不是原因。 B:奢侈和淫靡只是一種社會崩潰腐化的現象,決不是原因。 訳:贅沢と淫いん靡びは社会が崩ほう潰かい腐敗した現象であって、原因ではない。 11 A:私有制度的社會 本來把女人也當做私産,當做商品。 B:私有制度的社會,本來把女人也當做私産,當做商品。 訳:私有制度の社会では女を私有財産とし、商品とした。 12 A:一切國家,一切宗教,都有許多稀奇古怪的規條, B:一切國産,一切宗教 都有許多稀奇古怪的規條, 訳:すべての国家、すべの宗教には多くの奇妙不可思議な規則があるもので、 考:A「國家」がB「國産」となっているが、Bは『南腔北調集』では「國家」としている。訳は、 これに拠る。 13 A:把女人當做什麽不吉利的動物,威嚇她, B:把女人看做一種不吉利的動物,威嚇她, 訳:女を不吉な動物とみなし、威嚇し、 14 A:要她奴隸般的服從 ;同時又要她做高等階級的玩具。 B:使她奴隸般的服從 ;同時又要她做高等階級的玩具。 訳:奴隷のように服従させる。同時に、上層階級の玩おもちゃ具にするのである。 考:A「要」は、茅盾「子夜」四「是他的老婆,應該要他去管束!」のように使役の用例 がある。(注18) 15 A:正像 正人君子 駡女人奢侈, B:正像現在的正人君子,他們駡女人奢侈, 訳:あたかも現在の正人君子が女は贅沢だと罵ののしり、 考:Bは「現在的」、「他們」を加筆することで、対象をより明確にしている。 16 A:板着面孔維持風化,而同時正在偸偸的欣賞 肉感的大腿文化。 B:板起面孔維持風化,而同時正在偸偸地欣賞着肉感的大腿文化。 訳:いかめしい顔をして風化を維持すると同時に、こっそりと肉感的な太ふと腿もも文化を鑑賞し ているのと同じである。 考:A「偸偸的」がB「偸偸地」に変更されている。「五・四」以後、欧文の影響を受け「的」 と「地」の使い分けが始まり、 「的」の役割であった① 領属性の定語・② 形容詞の記号・ ③ 副詞の記号の内、③が「地」となった。魯迅は、最初の作品では未分化、1924年 以後は区別していたが、1931年10月以後また未分化に戻ったとされる。(注19)しかし、 本作品では再び区別している。 17 A:阿拉伯 一個古 人説 :『地上的天堂是在聖賢的經典裏,在馬背上,在 人的胸脯上。』 B:阿拉伯的一個古詩人説 :「地上的天堂是在聖賢的經書上, 馬背上, 女人的胸脯上。」 訳:アラビアのある古代詩人はいった。「地上の天国は、聖賢の経典、馬の背、女の胸に ある」と。 南腔注:「阿拉伯古詩人」は、アラビアの古代詩人ムタナビ(Mutanabbi 915~965)。
18 A:這句話倒是 實的供狀。 B:這句話倒是老實的供狀。 訳:これはむしろ正直な告白である。 19 A:自然,各種各式的賣淫總有女人的份。 B:自然,各種各式的賣淫總有女人的份。 訳:もちろん、さまざまな売ばい淫いんに女は一役かっている。 20 A:然而買賣是雙方的。 B:然而買賣是雙方的。 訳:しかし売買には相手が必要である。 21 A:没有買淫的嫖男,那裏會有賣淫的娼女。 B:没有買淫的嫖男,那裏會有賣淫的娼女。 訳:淫を買う遊ゆう冶や郎ろうがいなければ、淫を売る娼しょうふ婦がいるはずはない。 22 A:所以問題還在賣淫的社會根源。 B:所以問題還在買淫的社會根源。 訳:したがって、問題はやはり淫を買うという社会的根源にある。 考:Aの「賣」を、Bは「買」と変更している。 23 A:這根源存在一天, B:這根源存在一天, 訳:この根源が一日たりとも存在するかぎり、 A: 淫靡和奢侈就一天不會消滅。女人的奢侈是怎麽回事? B:也就是主動的買者存在一天,那所謂女人的 淫靡和奢侈就一天不會消滅。 訳:つまり、自発的な買い手が一日たりとも存在するかぎり、いわゆる女の淫靡と贅沢は 一日たりとも消滅しない。 考:Bは、Aには無かった「也就是主動的買者存在一天」を加え、具体的に説明している。 24 A:男人是私有主, 女人自己也不過是男人的所有品。 B:男人是私有主 的時候, 女人自身也不過是男人的所有品, 訳:男が私有財産の主人であるかぎり、女自身は男の所有品でしかない。 25 A:她也許 因此而 變成了『敗家精』。 她 愛惜家財的心要 比較的差些。 B: 也許是因此罷,她的愛惜家財的心或者比較的差些,她往往 成了「敗家精」。 訳:あるいはそのためであろうか、家財を愛護する彼女の心は、あるいは比較的に弱く、 しばしば、「家をつぶす妖よう精せい」になる。 考:Aは、一つ目の文で「原因」(「因此」で示す№24)、「結果」(彼女が「家をつぶす妖精」 に変わった)、その時の「女性の心理状態」(家財を愛護する心が、わりに弱くなるよ うだ)の順で述べている。Bは「原因」「彼女の心理状況」「結果」、のように因果関 係を明確に説明するコンパクトな一文としている。また、B「罷」は推測を表し、現 代中国語では「吧」を用いる。(注20)
26 A: 而現在,賣淫的機會那麽多,家庭裏的女人直覺地感覺到自己地位的危險。 B:何況 現在 買淫的機會那麽多,家庭裏的女人直覺地感覺到自己地位的危險。 訳:いわんや、現在、淫を買う機会がかくも多いのだから、家庭にいる女は直感的に自分 の地位が危ういことを感じる。 考:Aの「賣」を、Bは「買」と変更している。 27 A:民國初年 就聽説 上海的時髦總是從長三堂子傳到姨太太之流, B:民國初年我就聽説,上海的時髦 是從長三幺二傳到姨太太之流, 訳:民国初年に聞いたことであるが、上海の流行は長チヤンサンヤオアル三幺二から第二夫人のところへ伝わ り、 考:Aの「長三堂子」(妓院)を、Bは「長三幺二」(下記の注参照)と変更している。 南腔注:「旧时上海妓院中妓女的等级名称,头等的叫做长三,二等的叫做幺二。」(以前の上 海の妓院における妓女の等級を表す名称。一等を長三、二等を幺二といった。) A:從姨太太之流再傳到少奶奶,太太, 小姐。 B:從姨太太之流再傳到 太太奶奶小姐。 訳:第二夫人のところからこんどは奥様、大奥様、お嬢様に伝わる。 A:這些『人家人』要和娼妓競争―極大多數是不自覺的, B:這些「人家人」, 多數是不自覺地在和娼妓競争, 訳:こういった「堅かた気ぎの人」の多数は、無意識のうちに妓ぎ女じょと競争しているのである。 考:Aは「こういった「堅気の人」は妓女と競争しようとしている ― 大多数は無意識の うちにである」という意味。Bは「和娼妓競争」の位置を変え説明的な文とし、さら に「在」を加え進行中を表している。「人家人」は、上海など呉の地方の方言で、品 格がある家庭婦人の意味。(注21) A:―自然,她們就要竭力的修飾自己的身體,修飾 拉得住男子的心的一切。 B:―自然,她們就要竭力 修飾自己的身體,修飾到拉得住男子的心的一切。 訳:―もちろん、彼女たちは必死に自分の躰からだを飾って、男の心をひきつけるに足るすべて のものを飾るに至る。 考:BはA同様「修飾拉得住」となっているが、ここでは『南腔北調集』に拠り「修飾到 拉得住」とする。 28 A:這修飾的代價是很貴的,而且一天天的貴起來, B:這修飾的代價是很貴的,而且一天天的貴起來, 訳:この飾りの代償は高価である。しかも一日一日と高くなる。 A:不但是物質 的 代價, 還有精神上的。 B:不但是物質上的, 而且還有精神上的。 訳:物質的にばかりでなく、精神的にも、である。 29 A:美國的一個百萬富翁説 :『我們不怕 ……』 B:美國 一個百萬富翁説 :「我們不怕共匪(原文無匪字,謹遵功令改譯), 訳:アメリカのある百万長者はいった。「我々は共きょうひ匪(原文には匪の字はないが、命令を 遵奉して改訳した)を恐れない。
考:Bには「原文無匪字」とあるが、Aは「我々は恐れない…」としている。これにより 魯迅が「共匪」二文字を追加したことになる。「共匪」は国民党政府統治の下、共産 党指導のもとで活動したゲリラに対する国民党政府側からの称である。B「謹遵功令 改譯」の具体的な経緯などは未詳。 A:我們的老婆就要使我們破産, B:我們的妻女就要使我們破産, 訳:我々の妻が我々を破産させてくれる。 A: 較工人來没收我們的財産要早得多呢,工人他們是來不及的了。』 B:等不及工人來没收。」 訳:労働者が我々を没収するのは間に合わない」。 考:Aは、アメリカのある億万長者の言葉として、「我々は恐れない… 我々の女房が我々 を破産させてくれる。(それは)労働者が我々の財産を没収するよりずっと早い、労 働者たちは間に合わなくなってしまう。」と述べているが、文脈上、「我々」が「恐れ ない」対象が明確になっていない。Bはそこに「共匪」を加筆し明示したと言えよう。 30 A:而中國也許是 爲着要使工人『來不及』, B: 中國也許是唯恐怕 工人「來得及」, 訳:中国では、労働者が「間にあう」かもしないのが心配なのである。 考:Aは「中国では、労働者に「間に合わない」ようにさせるためなのかもしれないので ある」としている。Bでは「中国では、労働者が「間に合う」かもしれないのが心配 なのである」と変更している。 A:所以高等華人的男女這樣趕緊的浪費着, B:所以高等華人的男女這樣趕緊的浪費着, 訳:それで高カオドンホワレン等華人の男女はこのように急いで浪費し、 竹訳注:「高等華人」は「上海などで、外国との接触のある地域で、外国語が話せたり、 外国留学出身だったりする中国人が、自分はそうでない中国人よりも高等だとうぬぼ れ服装や身ぶりなどつとめて外国風にした。そのような人間を高等華人とよんだ。こ のばあい、外国とはもっぱらアメリカ、イギリスなどである。」とある。 考: 瞿秋白には、「高等人」(中国のブルジョアジー)と「下等人」(農民と労働者)との 闘争という政治的路線があった。 A:享用着,暢快着,那裏還管得到國貨不國貨,風化不風化。 B:享用着,暢快着,那裏還管得到國貨不國貨,風化不風化。 訳:享楽し、愉快になっているのである。国産品だとか、国産品でないとか、風化だとか、風 化できないとか、どうしてかまっていられよう。 31 A:然而口頭上是必須維持風化,提倡節儉的。 B:然而口頭上是必須維持風化,提倡節儉的。 訳:しかし、口先では、かならず風化を維持せよといい、節約を提唱するのである。 32 A: 一九三三,四,十一。
二のまとめ 瞿秋白と魯迅の「女にかんして(關於女人)」を比較することによって明らかになった特徴をま とめると、まず用語面では、瞿秋白が №6、11、13で大衆語で使われる「把」を使用し、魯迅も それを踏襲している。一方、瞿秋白の文には、№1「似乎」、4「彷彿」といった所謂「古い言葉」 も使用され、魯迅もそのまま踏襲している。 孫寿故事の引用については、国難期には女性は贅沢だと非難され、ダンスや肉感的がすべて罪状 とされるが、これは女性の罪状ではなく、憐れむべきところであるという見解を踏まえ、過去の例 として、瞿秋白は №7で「西漢末年」(実際は東漢末年)に女性が「眉毛をゆがめ歪つに描いている」 ことが「滅亡の予兆」とされたと述べ、魯迅はこれを「堕馬髻」「愁眉啼妝」といった歴代の文学 作品で孫寿の代名詞ともなった語に変更している。そして両者の文は №8で「だが漢を亡ぼした のが女であろうか」と疑問を呈し、それを否定するように、№9で瞿秋白は「女人」に対してこう した不満を述べるのは「高等階級」の「地位」がおおむね危うくなっているからであるとし、魯迅 は「女人」を「女人的妝束」、「高等階級の地位」を「当時の統治階級の状況」と変更し、故事との つながりを深めながら批判の対象をより具体的に示している。このように女性解放を訴え政治への 批判をする際、旧道徳や伝統の矛盾を突いた論を展開する魯迅の表現手法は、「私の節烈観(我之 節烈觀)」と共通しており、魯迅の女性観を把握する上で重要な事例であると言えよう。 次に、内容面では、両者の文は №10で、女性の罪状とされる贅沢と淫靡は社会が崩壊した現象 であって原因ではない、という見解を示し、次に贅沢と淫靡という現象が生じた原因として三つの ことを挙げている。その第一は、女性を私有財産とし、商品とした私有制度の社会である(№11)。 第二は、淫を売る女性を誘発する自発的な買い手である男性の存在である(№21)。魯迅は、瞿秋 白の №23に説明を加筆し、この原因を強調している。次に、両者の文では、これら二つの原因により、 女性は家財を愛護する気持ちが弱くしばしば「家をつぶす妖精」になること、まして淫を買う機会 が多い現在は家庭にいる女性は地位が危ういことを感じ身体を飾るのでその代償が物質的に日一日 と高まる現象が生じていると説明している(№25~28)。魯迅は №25で瞿秋白の文を因果関係がはっ きりするコンパクトな説明文に変更している。 最後に第三の原因について、両文では、精神的な代償としての説明がなされている。具体的には、 魯迅の文では、アメリカの億万長者は妻の浪費によって破産することが、「共匪」から財産を没収 されるより早いため「共匪」を恐れないが、高等華人(中国のブルジョアジー)の男女は「労働 者」による財産の没収が破産より速い(間に合う)かもしれないことを恐れ、急ぎ浪費し、享楽に 耽り、国産品を買うことや風化の維持や節約の提唱は口先だけである、と述べている(№29~31)。 この部分では、「高等階級」(№9)に続いて「高等華人」(№30)が批判されており瞿秋白の政治 路線の反映が垣間見える。魯迅は「共匪」を加筆したり(№29前半)、瞿秋白の文の言葉を入れ替 えたりすることにより(№29後半~№30前半)、当時の政情の対立をより明確に示唆しており、当時、 左翼作家連盟の中心的存在であった政治路線が反映されていると言えよう。
三 「女にかんして(關於女人)」執筆の時代背景
ここでは、「女にかんして(關於女人)」が執筆・発表された当時の風潮が記されている資料を紹 介する。 ⑴ 1932年9月17日『申報』「婦女の服装を改良する建議(改良婦女服裝之建議)」 「婦女の服装を改良する建議(改良婦女服裝之建議)」は、原文に本稿筆者による訳を付しす。(注22) 我國婦女的服裝,在今日社會,可謂極盡陸離光怪之大觀,至於非中非西,亦中亦西,大都推 陳出新,自矜奇詭, 更有所謂新裝公司,從而推波助瀾,積極提倡,材料必取舶來,製法定崇歐化, 轉將我國固有的絲織品,束之高閣,致造成生産過膡的恐慌,一方面復養婦女奢侈的心理與陋習, 馴至發生經濟壓迫,道德墮落,家庭變故等種種流弊。 就拿現在夏天的製衣材料而論,大概摩登化的婦女,都用一種薄如蟬翼的紗綢,是類紗綢,來 自歐美,價値奇昻,製成衣服,果然輕似霧縠,涼爽異常,可是肌肉公開,青年受其誘惑,因而 誤入歧途者,不乏其人,敗壞風化,莫此爲甚!(中略) 這種衣服是有損無益的!古者異服必誅,像目下一般婦女所服,才算是異服!可稱在必誅之列! (中略)選材一層,則應由政府明令提倡,限用國産絲織品,絶對禁用外貨,庶幾國貨暢銷,漏 巵可塞,是否有當,仍請提交各會員共同討論,至爲企盼。 訳: 我が国の女性の服装は、今日の社会にあって、極めて色とりどりで奇妙で壮観である。 中華風でもなければ西洋風でもない、中華風でもあり西洋風でもある、ほとんどが古いもの に新しいものを入れ、奇抜さを自慢している。さらに、いわゆる新しい装いを商う会社は火 に油を注ぎ、積極的に呼びかけて、材料は必ず舶来とし、製法は必ず欧化を尊び、我が国固 有の絹織物には見向きもせず、生産過剰のパニックを招いた。一方で、女性の贅沢な心理と 悪習慣を育て、次第に経済的な圧迫・道徳の堕落・家庭の異変などさまざまな弊害の発生に まで至った。 今、夏の衣料で論じると、大方のモダン化した女性は、みな、蝉の羽のように薄い絹を使っ ているが、この絹は欧米から来たもので価格が異常に高く、衣服を作ると、案の定、軽く美 しい薄衣のようで非常に涼しいが、肌が露わになり、多くの若い男性がその誘惑を受けて誤っ て横道にそれてしまう。風化を損うこと、これより酷いことはない。(中略) この種の衣服は害有って益無し、昔は異様な服装は必ず誅伐されたものだが、今の女性が 着ているのも異様な服装ではないか!必ずや誅伐に列なると言うことができる。(中略)材 料選びは、政府が明文で発布し提唱しているのに従って国産の絹織物だけを使用して、外国 の物は絶対に使わず、国産品がよく売れることを望んで、国家の権利や金銭が外に流れ出る のを止めるべきである。当たっているかどうか、やはり各会員に示し共に討論されんことを 切に願っている。⑵ 「ほんもののドン・キホーテとニセもののドン・キホーテ(眞假堂吉訶德)」 「婦女の服装を改良する建議(改良婦女服裝之建議)」中の「國貨暢銷」や「女にかんして(關於 女人)」の №2、30の「国貨」は「国産品運動」と関係している。これは上海工商会が1933年を「国 産品の年」と定め、「国産品救国」を宣揚したものであった。「国産品運動」と、それをめぐる当時 の政治的状況については、「女にかんして(關於女人)」と同日に同じ方法で書かれ、『申報月刊』 で並んで発表されている魯迅(洛文)の「ほんもののドン・キホーテとニセもののドン・キホーテ (眞假堂吉訶德)」にも取り上げられている。ここでは、関連する箇所を紹介する。(注23) 「国産品運動」が民族工業を振興できないということを、彼らが知らないわけがあろうか。 国際的な蓄財の神様が中国の喉のどをしっかりとしめあげて、息もできないでいるのだ。「国産品」 にしても、これらの神様のてのひらからとびだせるわけがない。しかし「国産品の年」が宣言 された。「国産品市場」が成立した。いかにも意味ありげで、あたかも抗日救国は仮面をつけ た買ばい辦べんがいくらか金かね儲もうけをするのに頼るかのようである。(注24) 三のまとめ 瞿秋白と魯迅の協同執筆による「女にかんして(關於女人)」が誕生した背景には、『申報』「婦 女の服装を改良する建議(改良婦女服裝之建議)」や「ほんもののドン・キホーテとニセもののドン・ キホーテ(眞假堂吉訶德)」が伝えた風潮、すなわち、「国産品救国」が宣揚される中でモダン化し た女性たちが「昔は異様な服装は必ず誅伐されたものだが、今の女性が着ているのも異様な服装で はないか!必ずや誅伐に列なる」と非難される情況があった。 そして、その「異様な服装」への 非難は、『続漢書』「五行志」で誅伐されることを予告した孫寿の「服妖」のスタイルへの非難と共 通している。このことを踏まえると、魯迅の「女にかんして(關於女人)」における孫寿故事の引 用は、歴代の文学作品に影響を与えた孫寿故事のその原典における矛盾をつきつつ、当時の社会の 情況や新聞の女性に対する言論を批判したものであった、と言えるのではないだろうか。 注 1 藤井省三『魯迅事典』三省堂、2002年、pp.37-44 2 鈴木将久『上海モダニズム』東方書店、2012年、p8 3 民国珍稀期刊『申報月刊』第5冊、pp.293-294、図参照。 4 注1の藤井(2002)、p148。『瞿秋白文集』1、人民文学出版社、1953年、pp.425-426 5 注2の鈴木(2012)、pp.67-71 6 許京生『瞿秋白与魯迅』、華文出版社、1999年、p159 7 川本栄三郎「魯迅作品の文体論的アプローチ―「将」「把」、「便」「就」および「好像」を中心として」、 『集刊東洋学』37、中国文史哲研究会、1977年、pp.80-81 8 注7の川本(1977)、p85 9 注7の川本(1977)、p85 10 注7の川本(1977)、p86 11 注1の藤井(2002)、pp.130-131
12 『集刊東洋学』29、1973年、pp.199-204 13 許広平『魯迅回想録』9、松井博光訳、筑摩書房117、1968年、p140 14 拙論「孫寿「墮馬髻」流行の社会的背景―白詩に描く唐代ファッションを素材として―」(『白居易研 究年報』9号、2008年、pp.145-167)、「後漢大将軍の妻「孫寿」の故事とその変容―二十巻本『捜神 記』・浅井了意『新語園』・泉鏡花「愁粧」を中心に―」(日本比較文化学会報『比較文化』95、2011年、 pp.77-88)参照。 15 川本栄三郎「魯迅の比喩表現―その文体論的アプローチ―」『集刊東洋学』43、1980年、p71、73 16 注7川本(1977)、p81 17 『魯迅全集6 二心集・南腔北調集』竹内実訳(代表)、学習研究社、1985年、p349 18 『漢語大詞典』1-12(1986 ~ 1994年)の8、上海辞書出版社、p754 19 胡蓉「魯迅における欧化の文法―“的”“地”の使い分けを手がかりに―」(『多元文化』5、2005年、 pp.87-88、97 20 劉靚「魯迅「狂人日記」における文体と比喩表現」(『現代社会文化研究』57、2013年、pp.129-130)では、 五四運動及びその後の白話の使用例として挙げている。 21 閔家驥・范暁・朱川・張崇岳編『簡明呉方言詞典』、上海辞書出版社、1986年、p7 22 『申報影印本』上海書店 23 注17の竹内実訳(1985)、pp.350-353 24 「買辦」は外国の商社や銀行が中国と取引する際の仲買をした中国人のこと。半植民地・植民地の国で、 帝国主義と結びついた資産階級のことを「買弁資産階級」とも称した。(『漢語大詞典』10、pp.167-168) 図 魯迅(洛文)が『申報月刊』第2巻第6号 1933年6月15日発行に発表した「女にかんして(關於女人)」 (きりしま かおるこ:日本語・日本文学科 教授)