大友皇子﹁述懐﹂詩読解 三
一
はじめに
五言。述懐。一絶。 道徳承天訓、塩梅寄真宰。羞無監撫術、安能臨四海。 道徳は天訓を承 う け、塩梅は真宰に寄す。羞づらくは監撫の 術無きことを、安 なに ぞ能く四海に臨まむ。 天智天皇の皇子である大友皇子の作とされる漢詩である。この詩 を掲載する﹃懐風藻﹄の序によれば、大友皇子が活躍した天智朝は、 日本における漢詩文の最初の興隆期であったが、壬申の乱によって ほとんどの漢詩文作品は灰燼に帰したとされる。そのような状況の 中 、﹃懐風藻﹄冒頭には 、大友皇子の詩が 、この作を含め都合二首 掲載される。他に天智朝の作とおぼしき作品は掲載されておらず、 大友皇子の二首が、かろうじて残された天智朝の遺作ということに なる。日本における最初期の漢詩作品として、重い価値を有する一 首である。この詩に対して、小島憲之﹃懐風藻 文華秀麗集 本朝 文粋﹄ ︵日本古典文学大系 69、岩波書店、一九六四年。以下、 ﹃大系﹄ と略称︶は次のような大意を示す。 自分は天の訓令︵天の教え︶をよくうけたまわって、人として 守るべき道を行い、また、ほどよく国家を経営して天︵天とい う真に主宰たる者︶に寄与したいと思っている。恥かしいこと には、自分に天子の補佐役としての監撫の手腕のないことであ る、 これではどうして天子を助けて天下に臨む ︵天下を治める︶ ことができようか。 右の﹃大系﹄の理解によれば、一首は前半︵第一・二句︶と後半 ︵第三 ・四句︶に大きく区切られ 、前半は国家経営への抱負 、後半 は作者が為政者として適正を欠くことへの反省といった構成として大友皇子﹁述懐﹂詩読解
高
松
寿
夫
四 捉えているようである。後半の理解については、基本的にそれでよ いと考えるが、前半部分の解釈には、問題とすべき箇所が少なくな いように思われる。 ﹃大系﹄は第一句を、道徳︵ ﹁人として守るべき道﹂と解釈する︶ を ﹁天の訓令 ︵天の教え︶ ﹂から教え示されるものとして理解する ようであるが 、﹁道徳﹂を ﹁天﹂が教示するという発想は 、はたし て漢詩文の発想としてどれだけ広く認められるであろうか。私は不 明にして、このような言説が拠り所とするような漢詩文の本文に思 い当たらない。捜し求めれば皆無とは言えないのかもしれないが、 一般的な発想とは言い難いであろう。また、第二句の﹁寄﹂を﹁寄 与する﹂と解釈するようであるが、この理解はそれでよいであろう か。 ﹁寄与﹂に対して﹃広辞苑﹄ ︵第五版、岩波書店、一九九八年︶ は、 ﹁︵贈り与える意から︶国家や社会に対して役に立つことを行う こと 。貢献﹂と説明する 。しかし 、﹁寄﹂字そのものにそのような 訓詁を求めることはできるであろうか。いま便宜的に﹃故訓匯纂﹄ ︵商務印書館 、二〇〇三年︶によって 、諸典籍にみえる ﹁寄﹂字に 与えられた訓詁を一覧するに、まずは次のような訓詁が列挙される。 ① 寄、託。 ︱︱﹃国語﹄ ﹁斉語﹂韋昭注、 ﹃漢書﹄ ﹁劉向伝﹂ 師古注、 ﹃説文﹄ 、﹃文選﹄王倹﹁褚淵碑文﹂呂尚注など。 ② 寄、委託也。 ︱︱﹃文選﹄諸葛亮﹁出師表﹂劉良注。 ③ 寄、猶委也。 ︱︱﹃戦国策﹄ ﹁燕策 一﹂鮑彪注。 この三項目はいずれも、委託する、ゆだねる、の意味合いを説い たものと理解できる 。﹁寄﹂は 、まずはそのような意味で理解すべ き字であることを考える必要があろう。 そもそも﹁寄与﹂を、前記した﹃広辞苑﹄のごとき意味で用いる のは、日本における独自の用法であり、漢語﹁寄与﹂に本来その意 はなかった。漢語本来の意は、前記﹃広辞苑﹄の説明で、冒頭の括 弧内に記された部分がそれに当たる。 ﹃漢語大詞典﹄ ︵以下 ﹃大詞典﹄ と略称︶で﹁寄与﹂の項を見てみても、 ﹁①伝送給﹂ ﹁②猶致送、贈 送﹂と説明があるのみである。 以上の一瞥からも、当該詩について、前半二句をどのように解釈 し、そして後半二句とどのように関わらせるか、なお検討の餘地が あるようである。本稿では、そのような課題を検討することをとお して、一首全体の新たな解釈を試みることにする。
二
後半二句の解釈
前半に比して、後半二句は、解釈上問題となる部分が少ない。た だ、第三句の﹁監撫﹂につては、諸注で意見を異にするものがある ので確認を要する。 林古渓 ﹃懐風藻新註﹄ ︵明治書院 、一九五八年 。以下 ﹃新註﹄と 略称︶ 、辰巳正明 ﹃懐風藻全注﹄ ︵笠間書院、二〇一二年。以下、 ﹃全 注﹄と略称︶に、 ﹃礼記﹄ ﹁王制﹂に基づく﹁監撫﹂の理解が示され大友皇子﹁述懐﹂詩読解 五 るが ︵1︶ 、それは大夫の勤めについて述べたもので、天智の子にして後 継と目された大友皇子の任務として相応しいものではない。沢田総 清 ﹃ 懐風藻註釈﹄ ︵大岡山書店 、一九三三年 。以下 ﹃沢田註釈﹄と 略称︶ 、世良亮一 ﹃懐風藻詳解﹄ ︵教育出版社 、一九三八︶ 、杉本行 夫﹃懐風藻﹄ ︵弘文堂書房、一九四三年︶ 、﹃大系﹄ 、江口孝夫﹃懐風 藻 全訳注﹄ ︵講談社学術文庫、二〇〇〇年。以下、 ﹃全訳注﹄と略 称︶など、多くの注釈書が指摘するように、太子の職責を言ったも のとするのが適切であろう。これは右に示した﹃沢田註釈﹄以下の 諸注がすでに指摘するとおり、 ﹃春秋左氏伝﹄ ﹁閔公二年﹂に見える、 左の記事を典拠とする。 君行則守、有守則従。従曰撫 0 軍、守曰監 0 国、古之制也。夫帥師 専行謀誓軍旅、君与国政之所図也。非大子之事也。 晋の献公が大子︵太子︶申生に東山皐落氏を攻めさせたのに対し、 大夫の里克が上申した諫言の中の一節である。つまり軍事における 太子の役割は ﹁監 0 国﹂ ﹁撫 0 軍﹂にあることを述べたもので 、これか ら﹁監撫﹂の語が出来する。この記事は﹃新註﹄も触れており、こ れによるならば、 ﹃礼記﹄ ﹁王制﹂による理解とは意味合いが異なっ てくることには言及しているのであった 。﹃左伝﹄の記事は太子の 軍事的役割を述べているだけだが 、﹁監撫﹂はやがて 、皇太子の職 責一般、または皇太子そのものを指す修辞として用いられるように なった。例えば﹃文選﹄の序には﹁余監撫 0 0 餘閑、居多暇日﹂とある。 梁武帝の皇太子蕭統︵昭明太子︶が、みずからの職務を﹁監撫﹂と 称している 。すでにここに軍事的色彩はない 。﹃ 懐風藻﹄の大友皇 子伝では、皇子二十三歳のときに立太子したと伝えるが、史実とし て、大友皇子が実際に皇太子の地位に就いたかどうか、そもそも天 智朝に皇太子という制度が確立していたかどうかについては、現在 では否定的な見方が優勢であるように見受ける。しかし、大友皇子 が父天智より後継に目されていたことは事実として認められよう。 当該の一首は、そのような自身の立場を踏まえての述懐と解せられ る。
三
第二句の解釈
後半二句の内容を確認したうえで、改めて前半の読解を試みるこ とにする 。本稿冒頭では 、﹃大系﹄の大意を示した 。そこでまずは 、 それ以後の諸注が、この詩をどのように理解しているか、特にその 前半部分に注目しながら確認してみることにする。 ﹃大系﹄出版から三十六年後に刊行された、 ﹃全訳注﹄では、次の ように現代語訳を掲げる。 天の教えをいただいてこの世の教えとし/天の教えにもとづい て正しく国家を運営する/恥かしいことに自分には大臣として六 の能力がない/どのように天下の政治にのぞんだらよいのだろ う 第一句は、 ﹃大系﹄とほぼ同様の理解であろう。第二句は、 ﹁寄﹂ を ﹁もとづく﹂と解するのであろうか 。﹁寄﹂の訓詁としては 、い よいよ遠ざかった理解に思われる 。﹃大系﹄が前半を作者の抱負と して捉えているようであったのに対し、この﹃全訳注﹄は国家経営 の一般論を述べるものと捉えているかのように見受ける。その一般 論と後半の感慨とが、どのように関わって一首を構成するというの か 、﹃全訳注﹄の現代語訳からは読み取り難いように思われる 。そ れは前掲の﹃大系﹄の大意にも言えることで、前半の抱負がどのよ うな脈絡で後半の感慨を導くというのか、明確とは言い難い。 最新の注釈成果である﹃全注﹄では、左のような大意を掲げる。 政治を行うに当たっての指標は、天の教訓を継承することが大 切であり、政治の味加減をする方法は、天の主催者に頼ること が大切である。しかし、私は羞ずかしいことに、諸国を監察す る手だてを知らず、どのようにして天下国家に臨むべきであろ うか。 前半と後半に大きく区切れるとの理解は、 ﹃大系﹄ ﹃全訳注﹄と共 通している。前半はやはり政治を行うにあたっての一般論を述べて いるとの理解のようで、前半後半の関わり方に対しては、 ﹃全訳注﹄ についてと同様の不明確さが残る 。﹁道徳﹂の理解がやや独特にも 思われるが 、第一句全体の解釈は 、基本的には ﹃大系﹄ ﹃全訳注﹄ と等しいであろう 。第二句では 、﹁寄﹂を ﹁頼る﹂の意と理解して いる。この解釈は、 ﹃新註﹄にすでに示されている︵ ﹁よりすがる﹂ ﹁たよる﹂の意とする︶ 。﹁寄﹂字の訓詁として、 ﹁頼る﹂はいちおう 確認できる。 ﹃故訓匯纂﹄には、 ﹁寄﹂の五番目の項目として、 ⑤ 寄、依也
︱
﹃広雅﹄ ﹁釈詁 四﹂ とある。この﹁依﹂は、同じ﹃広雅﹄に﹁依、恃也﹂とあり︵釈詁 三︶ 、﹁たのむ﹂ ﹁あてにする﹂の意と理解できよう。 ﹁寄﹂の基本的 な意味は ﹁委託する﹂ ﹁ゆだねる﹂であるから 、みずからの期待や その身柄じたいをそうすることは、つまり﹁たのむ﹂ ﹁あてにする﹂ 意ともなり得る 、という理屈であろう 。しかし 、﹁塩梅 ︵政治の味 加減をする方法︶ ﹂を﹁真宰︵天の主催者︶ ﹂に頼るとは、いったい どういうことなのか、なお釈然としない。 ﹁塩梅﹂ を ﹁政治の味加減をする方法﹂ と解するのは問題ない。 ﹃大 系﹄の頭注は﹁塩梅﹂について、次のように説明する。 あつものを作るのに、塩がききすぎるとからくなり、梅がすぎ ると酸っぱくなるので、塩と梅とを適当に加減して始めてほど大友皇子﹁述懐﹂詩読解 七 よくなる、味を程よく加減すること。転じて臣下が君主を助け て適切なよい政治をさせる意となる、按排ともかく︵尚書、説 命下﹁若作 w 和羹 a 爾惟塩梅﹂ 、孔氏伝︿塩鹹梅醋、羹須 w 鹹醋 q 以和 p 之 ﹀ ︶ 。 君主が国家経営の大方針を打ち出すのだとすれば、個々の政策に ついて、現実との兼ね合いを考えながら実行に移して行くのが臣下 の役目である 。﹁塩梅﹂とはつまりそのような臣下に必要な実務能 力なのであって、 ﹁真宰︵天の主催者︶ ﹂に判断なり対応なりを仰ぐ ような事柄ではないはずである。北周の庾信の詠作による燕射歌辞 のうち、 ﹁商調曲﹂に次の歌詞を認める。 礼楽既正、神人所以和。玉帛有序、志欲静干戈。各分符瑞、 誓裂山河。今日相楽、対酒且当歌。道徳以 喻 、聴撞鍾之声。神 姦不若、観鋳鼎之形。 䥮 宮既朝、諸侯於是穆。岐陽或狩、淮夷 自此平。若渉大川、言憑於舟楫。如和鼎実、有寄 0 於塩梅 0 0 。君臣 一体、可以静氛埃。得人則治、何世無奇才。 ︵﹃庾子山集﹄巻六︶ ﹃史記﹄ ﹁楽書﹂ に ﹁商為臣﹂ と端的に説明されるとおり、 ﹁商調曲﹂ は燕射に際して、列席の諸臣について頌歌する内容である。称えら れるべき諸臣の役割のひとつとして﹁如和鼎実、有寄 0 於塩梅 0 0 ﹂が数 えあげられている。この部分は、直前の﹁若渉大川、言憑於舟楫﹂ と対偶になっている 。これもまた ﹃尚書﹄ ﹁説命下﹂を典拠とする 、 臣下が君主を助けるさまを﹁舟楫﹂に喩えた表現である。この対偶 では、 ﹁憑﹂ と ﹁寄﹂ が直接対応しているわけで、 ここの ﹁寄﹂ は ﹁憑﹂ 同様、 ﹁たのみとする﹂の意で理解できる例でもある。 それでは、大友皇子詩にいう﹁真宰﹂とは、いったい何なのであ ろうか。これまでに紹介した諸注では、 ﹁天という真に主宰たる者﹂ ︵﹃ 大系﹄ ︶、 ﹁天の主催者﹂ ︵﹃全注﹄ ︶などと訳されていた。この語に 対する﹃大系﹄の頭注を次に掲げておくことにする。 真宰は天、天地の主宰者、造物者をいう ︵荘子、斉物論 ﹁非 p 彼 無 p 我、 非 p 我無 p 所 p 取、 是亦近矣、 而不 p 知 w 其所 o 為 p 使、 若 p 有 w 真宰 q 而特不 p 得 w 其 䱽 q ﹂ ︶ 。 ﹁真宰﹂を老荘家の言説にみえる天地の主宰者の謂いで捉えるこ とは、現存する﹃懐風藻﹄の最古注である﹃懐風藻箋註 ︵2︶ ﹄にもすで にみえており 、今日にいたるまで 、ほぼ通説となっている 。﹃大漢 和辞典﹄ ︵以下﹃大漢和﹄と略称︶ ﹃大詞典﹄など、辞書類において も 、﹁真宰﹂の項には 、そのような意味合いの説明しか認められな い の も 確 か である ︵3︶ 。 し か し 、﹁ 寄﹂ の 訓詁を い か よう に捉 え る に せ よ 、 およそ﹁塩梅﹂と結びつくような語ではないと言わざるを得ない。 試みに、台湾で運営される道教に関する総合サイト︵道教学術資訊
八 網站︶内の﹁正統道蔵電子文字資料庫 ︵4︶ ﹂を対象に電子検索を行うと、 ﹁塩梅﹂の用例は二十件 ︵5︶ ほどしか検索できない。 ﹁正統道蔵﹂の厖大 なテキスト量に比して、極めてわずかな用例しかないと言える。老 荘家や道家の言説において 、﹁塩梅﹂がいかに縁の薄い語であるか がうかがえ、いよいよ﹁真宰﹂との取り合わせが不審となる。 しかし一部にではあるが、当該詩の﹁真宰﹂について、通説とは 別の解釈を主張する注釈が、存在しないわけではなかった。 真宰 よき宰相の意。荘子斉物論の字面。 ︵校註日本文学大系 24﹃懐風藻 凌雲集 文華秀麗集 経国集 本朝続文粋﹄ 国民図書、 一九二七年。 以下、 ﹃校註大系﹄ と略称。 ︶ ︵第二句の大意︶国政を料理するには賢相を選んで 、その翼賛 を待つ次第である。 ︵斉藤晌 ﹃日本漢詩 古代篇﹄春陽堂 、一九三七年 。以下 ﹃日 本漢詩﹄と略称。 ︶ ﹃校註大系﹄は簡略な頭注だけであり、 ﹃日本漢詩﹄は概説的な一 般書といった体裁の書なので、ここに掲げた以上の説明はない。し かし、つまりは﹁真宰﹂を﹁真の宰相﹂といった意味合いの語とし て捉えるのであろう。 ﹃校註大系﹄ は、 そのような解釈を示す一方で、 他注で引き合いに出される﹃荘子﹄の本文も指摘しており、その点、 いささか理解が分裂気味であるが、注文の記述からは、表面的には 老荘的な語であることを認めつつも、文脈的意味合いとしては﹁よ き宰相﹂という解釈を打ち出したものと理解できる。そして、政治 の微妙な舵取りを意味する﹁塩梅﹂と、それを実際に主導する臣下 の代表としての宰相とは、取り合わせとしてもごく自然である。こ の﹃校註大系﹄や﹃日本漢詩﹄の解釈は、再評価されてよい。 ﹁寄﹂ については、 この字の基本的な訓詁である、 ﹁委託する﹂ ﹁ゆだねる﹂ の意で理解すればよく、第二句全体は﹁塩梅︵実際の政治における 調整︶はすぐれた宰相たちにゆだねられている﹂といった意味とし て解釈すればよいのだろう。 なお、 ﹃春秋左氏伝﹄には、左のような本文がある。 和如羹焉、水火醯醢塩梅 0 0 、以烹魚肉、 喴 之以薪、宰 0 夫和之。斉 之以味、斉其不及、以洩其過。 ︵﹃春秋左氏伝﹄昭公二十年︶ 斉公が晏子と君臣の関係について議論した際に、晏子が臣下の理 想的な役割について話した喩えの一節である。すでに見た﹃尚書﹄ ﹁説命下﹂と同様に 、 政治の実際の施し様を料理の味付けに事寄せ ている。ここに﹁宰夫﹂とあるのは料理人のことを指すらしいが、 喩えられるのは臣下たる宰相たちのこととなろう。当該の大友皇子 詩の第二句の典拠と考えてもよい本文であるように思われる。
大友皇子﹁述懐﹂詩読解 九 それにしても 、﹁真宰﹂を ﹁真の宰相﹂といった意で理解するこ とが可能なのかという点については、なお不審が残るかもしれない。 老荘家が重視する﹁真宰﹂という語が厳然として存在する一方で、 ﹁真の宰相﹂の意として ﹁真宰﹂という字面を創出し使用すること があり得るのかという不審である。しかしそもそも﹁真宰﹂という 語は、詩語としての用例はきわめて少ない ︵6︶ 語であるのも事実である。 繰り返しになるが、 ﹁塩梅﹂の語の兼ね合いから、 ﹁宰﹂に宰相の意 を汲むことの方が、むしろ自然に連想されると考えてよい。ちなみ に﹁真宰相﹂という語は、 ﹃大漢和﹄ ﹃大詞典﹄ともに立項され、古 くは﹃漢書﹄にも用例が認められる ︵7︶ 語である。この﹁真宰相﹂とい う語の存在も 、﹁真宰﹂を ﹁真の宰相﹂の意で理解することの助け となるように思われる。また、 ﹃新唐書﹄ ﹁魏元忠伝﹂には、次のよ うな逸話が掲載される︵ ﹃旧唐書﹄にもほぼ同様の記述あり︶ 。 元忠始名真宰 0 0 。以諸生見高宗、高宗慰遣、不知謝即出、儀挙自 安 。帝目送謂薛元超曰 、﹁是子未習朝廷儀 、然名不虚謂 、真宰 0 0 相 0 也。 ﹂避武后母諱、改今名。 魏元忠は元の名を真宰といったが、太学の学生としてはじめて高 宗に謁見した際、朝廷の礼式についてはまだ無知であったにもかか わらず、その挙措が自然と礼式にかなっていたので、それを見送っ た高宗が 、側近の薛元超に向かって 、﹁あの者はまだ朝廷の儀礼を 学んでいないのに ︵礼式どおりに振る舞ったのは︶ 、 名 前に偽りなく、 ﹁真宰相﹂ である﹂ と言った、という逸話である。これは、唐高宗が、 真宰という名に﹁真宰相﹂の意味を汲み取って興じたものと理解で きる。魏元忠は高宗から中宗の世に仕えた人物であるが、歿年は七 〇七年であるものの生年が不明で、右の逸話の正確な年代はわから ない。元忠には儀鳳年間︵六七六︱六七九︶に上書したことがその 伝に記されるので、それよりは以前ということになろう。いずれに せよ、この逸話じたいが天智朝の日本に伝わってきていたとは考え 難いが 、﹁真宰﹂の語に ﹁真宰相﹂の意を汲み取り得る場合がある ことの傍証にはなる。次のような例も見られる。 皆云、 ﹁非賢后無以拯社稷之危、非真宰 0 0 無以革寰区之弊。 ﹂ ︵李茂貞﹁与杜譲能書﹂ ﹃冊府元亀﹄巻一七八﹁帝王部 ・ 姑息﹂ ︶ 晩唐の宰相である杜譲能に、李茂貞︵五代十国の時代に岐の王と なる︶が送った書簡の一節で、時代はかなり降って九世紀後半のテ キストである 。この書簡は 、宰相の役割について縷述した内容に なっている 。やはりこの ﹁真宰﹂は 、その内容からも 、﹁賢后﹂と 対偶していることからも、明かに﹁真宰相﹂の意の用例である。も う一例だけ挙げておく。 崔貽孫、自吏部侍即貶官塞北。三子争於旧業、分其利。以自謀
一〇 甘旨医薬咸莫知之 。貽孫以書責之曰 、﹁ 生有明君真宰 0 0 、死有天 曹地府。 ﹂ ︵﹃冊府元亀﹄巻九二三﹁総録部・不孝﹂ ︶ 崔貽孫は五代十国の後唐の官人。左遷させられたときに、子息た ちが利益の確保に汲々とするばかりで、両親の孝養や医薬に関知し ようとする者がいなかったため、それを責める書をしたためた中に ﹁生有明君真宰 0 0 、死有天曹地府﹂とある 。この世でもあの世でも 、 言動の善し悪しを判断する眼が必ず存在することを述べて、子息た ちを戒めたものであろう 。﹁明君真宰﹂はこの世の為政者を言って いると理解できる 。やはりこの ﹁真宰﹂は 、﹁明君﹂に対する ﹁真 宰相﹂の意味に違いない。 ﹃冊府元亀﹄から引いた二例は 、唐末 ・五代十国の例で 、天智朝 より二世紀ほど降った時期のものである。もとよりこれらの例が日 本で参照されたことを考えようというのではない。あくまでも﹁真 宰﹂なる語が、文脈によっては﹁真宰相﹂の意で解釈できる場合が あることの傍証として挙げるもので、当該の大友皇子詩の﹁真宰﹂ も、そのような解釈を施すのに充分な文脈を備えていると考えるも のである。天智朝の﹁真の宰相﹂といった場合、そこにはまず藤原 鎌足が想定されるであろうが、個人に限定せずとも、天智周辺の有 能な公卿たちを漠然と考えてもよい。
四
第一句の解釈
第二句の解釈を定めたところで、第一句に立ち戻って、その解釈 を試みる。 従来、 前節で述べたような ﹁真宰﹂ の理解によって、 第一句の ﹁道 徳﹂ も、 老荘的語として理解されることが多かった。 しかし、 ﹁真宰﹂ を前節のごとく理解するからには、この﹁道徳﹂を老荘的意味で捉 える必要はもはやないであろう。むしろ、天下国家の経営に関する 述懐が話題となっていることに照らせば、老荘的解釈はひとまず脇 に置いて、表現に即した分析を試みるべきであろう。 第一句を解釈するにあたって特に問題となるのは 、﹁天訓﹂の意 味である。前節で掲げた諸注の解釈をここに一覧にして再掲すれば、 左のとおりである。 天の訓令︵天の教え︶ ︵﹃大系﹄ ︶ 天の教え ︵﹃全訳注﹄ ︶ 天の教訓 ︵﹃全注﹄ ︶ いずれもほぼ同様の理解と見受けられる 。﹃ 大系﹄以前の諸注に ついても 、明確な異見を見出しがたい 。﹁真宰﹂については 、通説 とは異なる解釈を主張していた二書について見ると 、﹃校註大系﹄大友皇子﹁述懐﹂詩読解 一一 では﹁天訓﹂に施注なく不明、 ﹃日本漢詩﹄は﹁天意﹂とする。 実はこの語 、用例がほとんど認められない ︵8︶ 。﹃大漢和﹄はいちお う立項するが、用例は大友皇子の当該詩︵出典は﹁国史略・弘文天 皇﹂とする︶を挙げるのみであり 、﹃大詞典﹄には立項しない 。諸 注釈で通説化している解釈は、客観的な確たる根拠・用例に基づい てそのように理解されているというよりも、解釈に大きな矛盾や破 綻が認められないところからか、先行の解釈をそのまま継承すると ころに成り立ってきた面が、多分に存するように思われる。しかし、 ほとんど用例が認められない中で、大友皇子詩が詠作されたと考え られる天智朝の直前といった時期の漢土に、複数の﹁天訓﹂の用例 が確認できるのである。 高宗為太子時、貞観二十二年二月、引庶子少詹事司議舎人等入 閤 、乃従容而言曰 、﹁文章詞賦 、平生所愛 。然未之為也 。今日 風景殊隹 。当与公等賦詩 、言志於晃 。﹂援筆以制序 。翌日 、太 宗以皇太子詩序示王公曰、 ﹁朕観太子此文及筆迹、進於嘗日。 ﹂ 司徒長孫無忌対曰、 ﹁皇太子禀承天訓 0 0 0 、文章筆札群藝日新。 ﹂是 歳、太子制玉華宮山銘、又献玉華宮賦。 ︵中略︶ 顕慶二年六月、帝製元首前星維城股肱等誡、以示侍臣。礼部尚 書弘文舘学士許敬宗等表請班示天下。帝謙不許。敬宗又上表、 請総名為天訓 0 0 、并請注解。許之。及注畢、敬宗為之序。 右の記事は 、﹃冊府元亀﹄巻四〇 ﹁帝王部 ・文学﹂に掲載される 。 ﹁︵中略︶ ﹂の箇所には 、永徽五年 ︵六五四︶五月の短い記事が掲載 されるが、つまりこの貞観二十二年︵六四八︶二月の記事と、顕慶 二年︵六五七︶六月の記事は、ほとんど隣接して掲載される記事で ある。まず貞観二十二年二月の記事は、皇太子時代の後の高宗が、 庶子や臣下とともに詩賦の催しを持ち、皇太子みずからが詩序をも のしたが、翌日、その詩序を見た父の太宗が、皇太子の文筆に成長 を認めほめたところ、居合わせた長孫無忌が、皇太子は﹁天訓﹂を ﹁禀承﹂した成果として 、日々学藝に進歩が見られるのだ 、と応じ たというもの 。﹁禀承天訓﹂とは 、当該の大友皇子詩の字面に三字 まで一致が認められ興味深いのだが、ここでいう﹁天訓﹂とは、つ まり父帝の訓導を意味するであろう。天 0 子の教訓 0 の意と理解できる。 次の顕慶二年六月の記事は、やがて帝位に就いた高宗が、侍臣たち に ﹁元首前星維城股肱等誡﹂ なるものを製作して示したという。 ﹁前 星﹂は皇太子を意味し ︵9︶ 、﹁維城﹂は皇族たちを指す ︶10 ︵ らしい。元首= 帝王から股肱=臣下に至るまで、宮廷の様々な人々に向けた教戒を 集成した著作が想定される 。太宗の ﹃帝範﹄ 、武后の ﹃臣軌﹄のご ときものをイメージすればよいであろうか。そして、それを見た許 敬宗らが、上表して天下に頒布することを求めたが、高宗は謙退し て許さなかった。しかし、改めて総名を﹃天訓﹄と名づけ、注釈を 施すことを請うたところ許可が下り、注を付した後、許敬宗が序を ものしたという ︶11 ︵ 。かつて父太宗の﹁天訓﹂によって才学を身につけ
一二 た高宗であったが、彼が宮廷人士に示した訓戒が、これまた許敬宗 らによって ﹁天訓﹂ と名づけられたのである。 この書名としての ﹁天 訓﹂も、天子の教訓の意であること明かである。 唐の太宗・高宗のころ、天子の示す教訓の意で﹁天訓﹂という語 が一時的によく用いられたことが知られる ︶12 ︵ 。天智朝ではしばしば遣 唐使が派遣された 。﹃日本書紀﹄によれば 、天智四年 ︵六六五︶を はじめとして、同六年、八年に発遣された。これら天智朝の遣唐使 については、この当時、旧百済の地に駐屯中の唐軍との交渉のため の使節で、直接唐に赴いたのではない可能性も指摘されている ︶13 ︵ 。一 方、天智八年出発の一行は、唐咸亨元年︵六七〇︶に漢土に到着し た旨が﹃新唐書﹄に記録されており、翌年には高宗にも謁見してい る ︵日本伝︶ 。とりあえず天智朝に 、たびたび唐と直接交渉が持た れたのは確かである。天智四年九月には唐使・劉徳高の来朝も確認 され︵ ﹃日本書紀 ﹄︶ 、﹃懐風藻﹄の伝によれば、徳高は大友皇子にも 面会していた。そのような唐との交流をとおして、そのころの唐宮 廷内における﹁天訓﹂に関する情報が、日本側の知るところとなっ た可能性は考えてよいのではないだろうか。大友皇子の当該詩にお ける ﹁天訓﹂は 、﹁天子の教訓﹂といった意で理解するのが適当と 考える。太宗・高宗のころの流行が、二十年たつかたたない時期に 日本にもたらされていたことになる。 ﹃大漢和﹄が 、大友皇子詩を唯一の用例として ﹁天訓﹂を立項し ていることはすでに指摘したが 、実は 、﹃懐風藻﹄の注釈言説とし ては﹁天訓﹂=﹁天の教え﹂説が通説化している一方で、 ﹃大漢和﹄ は﹁天訓﹂を﹁天子のをしへ。聖訓﹂と解説しているのであった ︶14 ︵ 。 この理解こそ正しいと考えられる。 ﹁天訓﹂をそのように理解するのであれば 、その ﹁天訓﹂を承け るところに成り立つ ﹁道徳﹂とは 、 つまりこの世を統べる天子に よって示された社会規範といったものを指すことになるだろう 。 ﹃漢書﹄ ﹁ 䝅 岱伝﹂の中で、岱の死を歎き惜しみ礼遇を求めた同僚の 李燮が上書したその冒頭に 、﹁臣聞 、仁義興則道徳昌 、道徳昌則政 化明、政化明而万姓寧﹂とあるが、このように政教的なレヴェルに おいて、天下安寧の基礎に道徳を置く考えは、広く認められるもの であろう。日本上代の用例にも、慶雲三年︵七〇六︶三月十四日詔 に﹁夫礼者、天地経義、人倫鎔範也。道徳 0 0 仁義、因礼乃弘﹂とある ︵﹃続日本紀 ︶15 ︵ ﹄︶ 。この詔じたいは、礼の政教的重要性を述べたもので あるが、その礼によって﹁仁義﹂と並んでまず規定されるものとし て﹁道徳﹂があるとの理念を示していよう。第一句は、この世の規 範が、天子のすぐれた教えを承けて、理想的に実現していることを 言っていると理解される。天子とは、大友皇子詩に即して言うなら ば、もちろん天智天皇のことを指す。
五
一首の解釈
以上の検討により、前半二句の意味するところを改めてまとめて大友皇子﹁述懐﹂詩読解 一三 みたい。 第一句は、この世の規範が、天子のすぐれた教導によって示され ていることを述べ、第二句は、実際の政治の微妙な舵取りが、すぐ れた宰相にゆだねられ実現していることを述べていると理解できる。 この二句は、つまり、現在の天子とそれを輔弼する宰相によって、 理想的な治世が実現していることを述べているのである。これを受 けて、一転、後半二句では、我が身を省みた﹁述懐﹂がなされる、 という構成なのであろう。現在の治世がこれほどに理想的に実現さ れているのに、それを継承する立場にある自分は⋮という、忸怩た る述懐が展開しているのである。一首全体の主題は忸怩たる思いの 述懐であるが、前半の二句は、現在の王権への賛美表現にもなって いる。 以上、述べてきたところによって、改めて最後に、当該の大友皇 子詩の大意を示してみる。 この世の中の規範は、現天子のすぐれた教えを承けており、 実際の政治の微妙な舵取りは、すぐれた宰相にゆだねられてい る。 それにつけても恥じ入るのは、私には天子の後継者としての才 が欠けていることで、 どうして私のような者が 、この世の統治に臨めようか 。︵まだ その器量ではない。 ︶ 注 ︵1 ︶ ﹃新註﹄の解説を左に掲出しておく。 監は 、四方の諸侯を総べ括り見張りすること ︵督察︶ 。撫は 、人民 を安んぜしめ慰めること︵撫存、撫安、綏撫︶ 。以上は﹃礼記﹄ ﹁王 制﹂の説によつたので、大夫が往いて監するのである。 ﹁王制﹂ 。天 子使其大夫為三監 。監於方伯之国 。国三人 。﹁ 註﹂に 、 使佐方伯領 諸侯とある。 ︵2 ︶ 今井舎人著。 土佐朋子による翻刻が、 ﹃水門﹄ 23︵勉誠出版、二〇一一年︶ に掲載。 ︵3 ︶ ただし ﹃新註﹄は 、その ﹁寄﹂に対する注によれば 、﹁真宰﹂を天子の ことと理解しようとしているふし 0 0 が認められる。 ︵4 ︶ URL http://www.ctcwri.idv.tw/ctcwri-mts/cmt000.htm ︵5 ︶ 唐代以前にさかのぼる用例もほとんど確認できない。 ︵6 ︶ 隋代以前の詩語としての用例は、今のところ梁・王筠﹁奉和皇太子懺悔 応詔詩﹂ ︵﹃広弘明集﹄三〇︶と北魏 ・段承根 ﹁贈李宝詩﹂ ︵﹃魏書﹄ ﹁段承 根伝﹂ ︶の二例しか検索できていない 。唐詩の用例は盛唐以後に限られる ようである。 ︵7 ︶ ﹃漢書﹄ ﹁蕭何伝﹂ に ﹁王衛尉曰、夫職事苟有便於民而請之、真宰相 0 0 0 事也﹂ とある。 ︵8 ︶ ﹃全訳注﹄は、 ﹁道徳・天訓・真宰などの語は老子・荘子の書に見える熟 語である﹂と記す。諸注も指摘するとおり、道徳・真宰についてはそうい えるが、天訓は老荘家や道家の言説にも用例は認め難い。注︵ 4 ︶の﹁正 統道蔵﹂ の電子検索では、天訓は ﹃三極至命筌蹄﹄ ︵南宋 ・ 王慶升撰︶ と ﹃ 茅 山誌﹄ ︵元 ・ 劉 大彬撰︶ と に各一例ずつの、計二例が検索できただけであっ た。 ︵9 ︶ ﹃漢書﹄ ﹁五行志﹂下之下に﹁心、大星、天王也。其前星、太子。后星、 庶子也﹂とあるを典拠とする︵ ﹃大詞典﹄ ︶。 ︵ 10︶ ﹃後漢書﹄ ﹁孝明八王伝﹂の賛に﹁孝明伝胤、維城八国﹂とあるのを典拠
一四 とする︵ ﹃大詞典﹄ ︶。 ︵ 11︶ ﹃旧唐書﹄ ﹁経籍志・儒家類﹂に﹁天訓、四巻、高宗天皇大帝撰﹂ 、﹃新唐 書﹄ ﹁藝文志・儒家類﹂に﹁高宗天訓四巻﹂とある。 ︵ 12︶ やや 後 世 の例に﹁予 恭 承 天 訓 0 0 、虔 奉 睿 図 。 旰 食 載 勤 、納 隍 兢 慮 ﹂︵ 唐 玄 宗 ﹁禁州県厳酷詔﹂ ︿先天二年四月﹀ ﹃冊府元亀﹄一五一﹁帝王部・慎罰﹂ ︶が ある。やはり天子の訓導といった意味で理解できる例と思われる。玄宗は 父祖の時代の語を学習し用いているのであろう。 ︵ 13︶ 鈴木靖民﹁遣唐使と 古 代 の 東 ア ジ ア ﹂︵ 遣唐使船再現 シ ン ポ ジ ウ ム 編 ﹃ 遣 唐使船の時代﹄角川学芸出版、二〇一〇年︶など。 ︵ 14︶ ﹃ 新 註 ﹄ には、 天 訓に﹁天 の教 戒 。 聖 賢 の教 道 ﹂ と注 する。後 者の理 解 に よれば、あるいは天子の教訓といった意味合いを考えていたかと思わせる。 ︵ 15︶ この詔の本文は、 ﹃礼記﹄ ﹁曲礼﹂の﹁道徳仁義、非礼不成、教訓正俗、 非礼不備﹂によっている。 本稿は、科学研究費助成事業︵基盤研究 C ・課題番号 24520238 ︶の研究成果 の一部である。