はじめに <図1>の絵図は明治期に描かれた掛塚港 ですが、港の中には帆を張った数艘の廻船が 描かれています。廻船の手前に描かれた建物 は、港を維持管理するためにつくられた豊長 社、船の背後にある塔は、今の掛塚灯台の前 身で、幕臣の荒井信敬が作った「改心灯台」 といわれる灯明台です。整備された港湾は多 くの出船、入船で賑わい、掛塚は港町として 繁栄を極めました。 しかし、この繁栄も長くは続かず、明治18 年に完成した掛塚港も、大正に入るころには もう出入りする廻船はほとんどなくなり、わ ずか30年ほどでその役割を終えていきまし た。廻船は、この掛塚港が完成した直後に敷 設された東海道鉄道との競争に敗れ、掛塚の 町も衰退の道をたどることになります。磐田 市歴史文書館では、この掛塚湊の繁栄と衰退 を、古文書等をとおして振り返る企画展を開 催しましたが、このレポートはその展示資料 をもとに記述していきます。 Ⅰ.遠州の小江戸 掛塚 1 湊町掛塚の景観 (1)掛塚湊 掛塚の町は天竜川の輪中の中にあり、堤防 で囲まれていました。現在の堤防は、戦前に 天竜川東派川を締め切った時に作られたもの で、それ以前の堤防はもっと低いものでした。 掛塚橋のすぐ南側には、かつての堤防が一部 残されています。上流から筏に組んで送られ てきた木材は、その堤防の西側の河岸につけ られ陸揚げされました。堤防の西側はほとん どが廻船問屋の土地だったようで、そこには 事務所などとともに「木挽小屋」といわれる 製材所が建ち並んでいました。陸揚げされた 丸太はそこで板や角材に挽かれてから、はし けに乗せられて河口に係留してあった親船に 積み込まれ、遠州灘に出て江戸(東京)や大 坂(大阪)などに送られました。明治に入っ て掛塚港が造られるまでは、掛塚湊というの はこのような河岸など、自然の地形を利用し た湊でした。 図1 港湾、燈台、豊長社の図(部分)
湊町掛塚の繁栄と衰退
Prosperity and Dwindle of the port town Kaketsuka
名 倉 愼一郎
はじめに Ⅰ.遠州の小江戸 掛塚 Ⅱ.中世の掛塚湊 Ⅲ.近世の掛塚湊 Ⅳ.近代の掛塚湊 おわりに(2)津倉家(江戸屋) この湊を仕切っていたのが廻船問屋でし た。その中で、明治時代まで営業を続けた 廻船問屋の一つが江戸屋といわれた津倉家 です。この津倉家の土地と建物は、平成26年 11月に磐田市に寄贈され、現在は市の所有と なっています。まだ、十分な調査ができてい ませんので、一般への公開はもう少し先にな ろうかと思います。これから整備を始める掛 川市の山崎邸(松ヶ岡)などに比べると比較 的小規模ですが、材木商も営んでいたことか ら、貴重な材木をふんだんに使って建てられ ています。また、座敷には、磐田市の文化財 に指定されている福田半香と平井顕斎が描い た襖絵1)がはめ込まれ、その他にも、津倉家 と親戚関係にあった山下青厓2)の襖絵や、長 谷川貞雄3)や椿椿山4)などの小品が貼り交ぜら れた襖などがあり、文化財的にも価値の高い 邸宅です。現在は、その母屋と、裏に土蔵が 一棟残っています。また、明治期に描かれた 銅版画にある離れの建物は、道路を隔てた南 側のお宅が購入し、住宅として現在も使われ ています。この建物の二階にも高橋泥舟5)の 書が襖になっています。このように津倉邸は 掛塚廻船問屋の財力の豊かさを示す建物です が、このような廻船問屋が、掛塚には数多く 存在していたのです。 (3)天竜川 明治25、26年に発刊された銅版画集6)には、 掛塚地域では津倉家を始め、林家、松下家な ど6軒の廻船問屋や酒造家が描かれていま す。津倉家の絵<図2>の背景を見ますと、 天竜川が流れていて帆を張った船が行き来す るのが見られます。天竜川の上流部とは、こ ういった帆船によっても往来していたことが わかります。天竜川の中洲に橋が架かってい ますが、この中洲が十郎島です。明治の初め に、天竜川の改修工事が金原明善によって計 画され、いくつもの流れに分かれている天竜 川を、一本の流れにまとめて南北にまっすぐ 流そうという計画が進められます。その結果、 立ち退きを命ぜられた十郎島の人たちは明治 18年頃には、掛塚や川西に移住することにな り、十郎島は天竜川の河川敷となっていきま した。 図2 津倉勘蔵邸銅版画 (4)林家(川口屋) もう一軒、津倉家のすぐ南に川口屋林文吉 の家<図3>があります。当時の林家の母屋 は取り壊されて現在はありませんが、その後 中泉の亀文に移築され、これも取り壊されて、 古材だけが某所に保管されているということ です。林家では、一番北にある土蔵だけが 残っていますが、この蔵は、文久2年から3年 にかけて、諏訪の大工立川昌敬が、中町の屋 台を作った時に滞在した建物7)といわれ、同 家には中町屋台の天幕の下絵が保管されてい 1) 磐田市指定有形文化財(絵画)「紙本墨画山水図 福田半香筆」「紙本墨画山水図 平井顕斎筆」 2) 山下青厓(1858 ~ 1942) 日本画家。渡辺小華 に師事して崋山、椿山等の画を学ぶ。 3) 長谷川貞雄(1845 ~ 1905) 掛塚の隣村、川袋 村の神官で国学を学び、遠州報国隊に参加。明 治政府に出仕し、海軍主計総監となり、後、貴 族院議員を務めた。 4) 椿椿山(1801 ~ 1854) 江戸時代の文人画家。 渡辺崋山に師事したが、崋山亡き後、その子息 小華を弟子に迎え、養育した。福田半香、平井 顕斎は弟弟子となる。 5) 高橋泥舟(1835 ~ 1903) 幕臣で槍の名手。山 岡鉄舟の義兄。勝海舟、鉄舟と並んで「幕末の 三舟」と呼ばれる。 6) 『静岡県明治銅版画風景集』1991 羽衣出版(『日 本博覧図 静岡県の部』1892・93 東京精行舎 を改題復刻) 7) 「御受負一札之事」(文久2年5月20日)『竜洋町史 民俗編 別編Ⅰ 掛塚祭り資料』
ます。また、屋敷を取り囲んだ伊豆石の塀は、 廻船が江戸へ行った帰りに運んできたものと いわれ、縞模様の美しい石塀は湊町掛塚の繁 栄を物語っています。 この林家からは、静岡銀行のもとを作った 平野又十郎が出ています。林家から浜北の平 野家に婿に入り、天竜木材の前身の天竜製材 の社長を務めますが、西遠商会、西遠銀行、 遠州銀行の設立に関わり、静岡銀行が設立さ れる基礎を築いた人です。浜北の「森岡の家」 は又十郎の住んだ家ですが、彼の日記『家事 要件録』8)には、明治20年の4月に上棟式をやっ たことが書かれており、この時棟梁を務めた のが、掛塚の大工鈴木勇次郎で、「遠州屈指の 大工」とあり、掛塚の林邸を建てた後に又十 郎の家を建てたとあります。 2 遠州の小江戸 (1)遠州の小江戸 多くの廻船問屋が集まり、たくさんの商人 や職人が暮らした、にぎやかで活気に満ちた 掛塚は、「遠州の小江戸」と呼ばれていました。 現在では、祭りの屋台を曳く若者も少なくな り、若者連合会が成立しなくなるのではと危 惧される現状からは想像もつかない時代の変 化を感じます。そんな掛塚がなぜ「小江戸」 と呼ばれたのかと思いますが、成城大学の松 崎憲三教授の『小京都と小江戸』9)には、「遠 州の小江戸」として掛塚が紹介されています。 その中で、①蔵のある街並みがある、②江戸 へ通う船便がある、③屋台、山車の出る祭り があるという三つの要素を持っているところ を「小江戸」といったといい、川越や佐原な どが「小江戸」と呼ばれていることを紹介し ています。掛塚では、伊豆石を使った石蔵が あちこちに見受けられますが、代表的なもの は、「湊屋」という魚屋さんをやっていた家の 蔵<図4>で、鰹節などを保管していたとい います。江戸への船便や掛塚祭の屋台はいう までもないことです。 (2)掛塚の人口 掛塚の人口は、統計資料が明治の後半期く らいからしかないので、前半期ははっきりし ないのですが、明治24年の人口10)を見ますと、 見付より掛塚の方が人口が多くなっていま す。明治のころに発行された「大務新聞」な どには、人口統計が時々掲載されていて、そ 図3 廻船問屋林文吉の屋敷 図4 湊屋の伊豆石の蔵 9) 松崎憲三編『小京都と小江戸-「うつし」文化 の研究-』岩田書院、平成22年(2010年)、131 ~ 149ページ 10) 『静岡県統計書』 8) 平野又十郎『家事要件録』
れを見ても、遠州においては浜松をのぞくと 人口の最も多い町の一つであったことがわか ります。明治22年に鉄道が開通して木材が中 野町で引き上げられるようになると、掛塚港 は衰退し明治の後半からは人口が次第に減っ ていきました。それとは逆に、鉄道が通るよ うになった中泉は人口が急増していきます。 (3)町民の職業 掛塚のほぼ中央に位置する砂町には、明治 4年頃の住民の職業を調査し、書き上げた資 料11)があります。これをまとめたものが<表 1>ですが、町内には96戸の家があり、その 内職種として、職人、渡世、稼業の三種類に 大別されていて、職人は技術者、渡世は商人、 稼業は肉体労働者とでもいえばいいでしょう か。 表1 砂町(96戸)の職業(明治4年頃) 職 種 人 数 職 業 戸 数 職 人 39 大 工 16 木 挽 15 左 官 3 その他 5 稼 業 31 日 雇 16 船 乗 8 川 舟 6 その他 1 渡 世 25 魚 屋 6 米 屋 3 菓子屋 3 その他 13 その他 1 僧 侶 1 職人は39戸で、そのうち大工が16戸、木挽 きが15戸と、木材加工の職人が大部分を占め ています。堤防の西側の河川敷には木挽小屋 が立ち並んでいたと伝えられ、そこで働く木 挽き職人が砂町にも大勢住んでいたというこ とです。職人の中に鍛冶職人がありますが、 大工や木挽きが使う鋸や釘などを作る職人で すので、これも関連した職業で、隣の本町に はたくさんの鍛冶屋があったと伝えられてい ます。 大工職の数については、同じ明治の初め、 新町で20人、横町で15人とありますので、掛 塚9ヶ町の大工を合わせれば、優に100人を 超える大工がいたということになります。そ のような中には、掛塚屋台や貴船神社本殿、 拝殿を建てた鈴木伝十や、貴船神社神輿、浜 松銀行などを造った鈴木勇次郎、高木常夜灯 や王子製紙の気田・中部の工場などを造った 曽布川藤次郎など、高い技術を持った職人が いて、地域において「掛塚大工」がブランド になっていたと考えられます。 稼業は31戸で、そのうち日雇稼業が16戸を 占めていますが、船の荷物の積み下ろしなど に携わっていたと考えられます。また、船乗 り稼業が8戸、川船稼業が6戸で、廻船やはし けの船頭や乗組員などが含まれていたと思わ れます。いずれにしても31戸のうち30戸が湊 に関係する職業ということになります。 商業を見ますと、25戸がこれに従事してい ますが、13種類もの商店があって、様々な商 売が行われていたことがわかります。このう ち、魚屋が6軒もありましたが、掛塚は最近 まで魚屋の多い町といわれていました。当時 は砂町だけでも多くの商店が軒を並べていま したが、今ではその面影はまったくなくなっ てしまいました。 以上のように、掛塚の町は、湊とかかわり のある生業で暮らしを立てていたことが明確 に見て取れます。 Ⅱ.中世の掛塚湊 1 『梅花無尽蔵』にみる掛塚湊 そんな掛塚がいつから歴史上に現れ、どの ようにして港の機能を備えていったのでしょ うか。江戸の宝永年間(1704 ~ 10)に書か れた『遠江国絵図』を見ると、当時の天竜川は、 磐田原と三方原の間をいくつかの流れに分か れて流れていることがわかります。掛塚の輪 中の東西を流れる川のほかに、西は安間川、 芳川、馬込川、東は仿僧川など多くの流れに 分かれています。大河川の流域が開発された のが戦国から近世初期といわれますので、中 世の頃には、もっと複雑な流れになっていた だろうと想像され、掛塚の町も天竜川の流路 の変遷とともに形作られてきたものと思われ 11) 津倉家文書
ます。 掛塚が、歴史上に初めてに登場するのは、 文明17年(1485)ということになります。万 里集九という五山の僧侶が、江戸の太田道灌 のもとに招かれて江戸へ下る途中掛塚に立ち 寄ったことを日記に書き記しています。集九 は、京都に住んでいましたが、応仁文明の乱 (1467 ~ 77)を避けるため美濃へ逃れて来て おり、この時は、美濃の鵜沼から関東に向かっ ています。その時の日記である『梅花無尽蔵』 12)には、「天竜川を渡り懸塚に就く。十六日 午の時、天竜の風波を踏み、懸塚に就く。舟 師の家を借り、先ず小さき焦餅を喫う」とあ ります。即ち、曳馬、今の浜松から船で天竜 川を渡って懸塚(掛塚)に来たとあり、そこ で船頭の家に滞在して焼餅を食べたといって います。この翌日、現在の焼津の小川に向か う船に乗って出発したのですが、向かい風で 掛塚に吹き戻されてしまいます。1日風待ち をして、19日にようやく小川に着いたと書か れています。船の定期便があり、宿泊施設も 備えられていたようで、町には餅を焼くおば あさんの売り声がするとも書かれていますの で、この時代には既に湊としての機能を備え た町がつくられていたことが窺えます。 2 戦国大名と掛塚湊 集九から7、80年たった戦国の時代は、遠 州は戦国大名の騒乱の場となります。それま でこの地方を治めていた今川氏は、桶狭間の 戦いで義元が亡くなると次第にその勢力が衰 え、武田信玄や徳川家康に攻められ、永禄11 年(1568)には、信玄に駿府を焼き討ちにさ れて当主の氏真は掛川城に逃れます。しかし、 三河から進出した徳川家康にも攻め込まれ て、翌12年5月には掛川の城を明け渡して掛 塚湊から伊豆へ逃れていきました13)。小田原 の北条氏は、氏真の正室の実家であり、北条 氏の庇護を求めて関東に逃れていったわけで す。この直前には、北条氏が氏真の援軍を掛 塚湊に派遣14)しましたが、家康はこれを追い 返しており、掛塚湊付近で海戦が行われたと いうことになります。それは、掛塚湊が家康 の軍港として使用されていたことを物語って います。 それは、家康自身が、天正7年には掛塚湊 から武田方の拠る牧野城(諏訪原城)に向け て船出している15)ことからも明らかで、戦国 時代には、掛塚の湊が、経済活動だけでなく、 軍事的にも重要な湊として認識されていたと 考えられます。 Ⅲ.近世の掛塚湊 1 榑木の流送 天下を統一した豊臣秀吉は、天竜川流域の 木材に着目し、これを京都方広寺建立などの 資材16)として伐り出させていますが、徳川幕 府もこの地域の木材の活用を図っていきまし た。特に、伊那谷、遠山谷に生育する良質な 椹(さわら)材や檜(ひのき)材に目をつけ、 これを榑木(くれき)として上納させること になります。 榑木というのは、木材をみかん割に割って 真ん中の芯を取ると、台形状の材ができます。 下の巾が3寸、上の巾が2寸、長さが3尺3寸に 規格を統一し、これを一般的な榑木と呼んだ ようです。この材は、木目が平行になるので、 木目に沿って鉈を入れると薄い板を容易にと ることができます。つまり、鋸を使わなくて も板ができるわけで、榑木は屋根材として非 常に需要が高かったわけです。 伊那谷は、秀吉の時代は京極氏が支配をし ていましたが、家康の時代になると、木材の 豊かなこの地域を直轄地として、朝日受永 という家臣に治めさせます。慶長8年(1603) に受永が亡くなると、代わって千村平右衛門 を代官に任じて伊那地域の森林を支配してい くことになります。受永の時代に、年貢米の 12) 『竜洋町史 資料編Ⅰ 原始・古代・中世・近世』 磐田市、平成19年(2007年)91 ~ 93ページ、『竜 洋町史 通史編』平成21年(2009年)、61 ~ 70ペー ジ 13) 『資料編Ⅰ』112ページ、『通史編』81 ~ 83ペー ジ 14)『資料編Ⅰ』112ページ 15) 『資料編Ⅰ』119ページ 16) 『資料編Ⅰ』123ページ
代わりに榑木を出す(この村を榑木成村とい う)村を決めましたが、千村は、榑木成村の うちの11か村を支配下に置いて、榑木を掛塚 まで流し、ここから各地に輸送していきまし た。新たな城下町の建設や火災の頻発によ り、榑木の需要は高まって大量の木材が伐採 され、およそ100年程で榑木にするような木 は伐り尽されてしまいます。榑木は、椹や檜 の、やわらかめの節のない材が用いられます が、そのような良質の木材がどんどん伐採さ れていき、享保20年(1735)には、ついに榑 木の上納が停止されることになってしまいま す。 榑木がどのくらい伐り出されたかというこ とについては、『天竜市史 続資料編1』の「田 代家文書一」にその資料があります<表2>。 貞享2年から元禄12年までの15年間に、船明 山から出された榑木を、天竜川筏問屋を経営 していた田代家が記録した「萬高書上帳」17) によれば、この間に運ばれた榑木は500万丁 あまりになります。その8割、約400万丁は江 戸御用として使われています。江戸城や江戸 の寺院などの修復などに使われたと思われま す。駿府城や宝台院などに使われた駿府御用 は52万丁、大樹寺、鳳来寺などのある三河に は15万丁余、遠州では新居関所などに6万丁 余が送られています。 これらの榑木はほとんどが掛塚湊から輸送 されたと考えられますが、掛塚まではどのよ うに運ばれたのでしょうか。まず、伐採した 木材を3尺3寸の玉切りにして、その場でみか ん割にします。山の中で榑木の形に成形し、 それを役人が検査して、合格したものに烙印 を押して渡場へ運びます。これを川に流すわ けですが、船明までは管流しという方法で1 本ずつ流します。1メートルくらいの材木が バラバラに流されていきます。但し、期間は 11月から2月くらいまで、出水の少ない冬期 の間に流すわけです。流された榑木は、船明 と日明の間に藤綱を張って、流れてくる榑木 をここで拾い上げ、ここで筏に組んで掛塚ま で流送します。 この時、流域の村々に様々な役割を課して いきます。たとえば、川の岸辺に打ち上げら れた榑木を川の中に戻す「川狩り」の役、榑 木を留めるための「止め綱」を作る役、綱で 止められた榑木を引き上げる役、引き上げた 榑木を積み上げて保管する役、役所の方から 何本送るようにという注文があるとその木を 選んで、それを筏に組む役など、様々な仕事 を課役として流域の村人たちに課していまし 17) 『天竜市史 続資料編1 田代家文書一』天竜 市教育委員会、平成11年(1999年) 表2 貞享2年から元禄12 年までに船明山から搬出された榑木の数(『萬高書上帳』より) 年 西暦 大坂御用 駿府御用 江戸御用 三河社寺 遠 州 その他 合 計 貞享2 1685 200,000 200,000 貞享3 1686 10,000 10,000 100,000 80,000 200,000 貞享4 1687 15,000 200,000 215,000 元禄元 1688 20,000 10,000 400,000 430,000 元禄2 1689 30,000 150,000 180,000 元禄3 1690 元禄4 1691 120,000 200,000 320,000 元禄5 1692 300,000 300,000 元禄6 1693 7,000 300,000 48,630 355,630 元禄7 1694 80,650 300,000 3,296 383,946 元禄8 1695 10,000 150,000 31,078 191,078 元禄9 1696 62,010 350,000 6,069 418,079 元禄10 1697 145,630 400,000 94,268 52,988 329,498 1,022,384 元禄11 1698 30,000 313,000 28,170 909 143,853 515,932 元禄12 1699 10,000 613,000 623,000 計 40,000 520,290 3,976,000 153,516 63,262 601,981 5,355,049
た。また、榑木を引き上げたり、川狩りをし たりする場合、船が必要になりますが、その 角倉船をそれぞれの村ごとに割り当てていき ます。「日明御綱御用角倉船数改帳」(正徳4年) 18)には、横山村は3艘、月村は4艘などと村 ごとの船の数が書き上げられていますが、御 綱奉行に提出した控です。榑木は、年貢とし て納めさせたものですので、年貢同様に貴重 なものとして扱われ、流送の途中で1本でも なくなれば厳しく罰せられたということで す。 榑木には、上榑木、本榑木、短榑木、悪榑 木などの種類がありますが、長さ3尺3寸の長 榑木が一般的なもので、これより1尺ほど短 い2尺3寸の榑木を短榑木といいます。悪榑木 は、流れてきた途中で傷になった榑木のこと をいいますが、榑木は船明まで管流しで流さ れるので、岩などに当って傷ついたものも出 るわけです。初期の頃は、そういった粗悪品 は送り返し、代わりのものを送らせていたよ うですが、後になるとそれを二級品として 扱ったということです。 2 廻米の輸送 江戸の前期は、材木の中でも榑木の輸送が 主流でした。幕府の方針としては、木曽の檜 を一般の建築資材として用い、伊那谷の良質 な椹を屋根材の榑木として搬出させるよう、 木曽と伊那の用材を用途に分けて利用してい たようです。ところが伊那では100年くらい 経つと、椹の良材は伐りつくされてしまい、 享保19年までで榑木の搬出は終わってしまい ました。榑木を運んでいた掛塚の船は、仕事 を失ってしまうわけです。そこで幕府は、榑 木の代わりに年貢米、すなわち廻米輸送の業 務を掛塚の廻船に課すことになります。 奈良県の大和郡山市にある柳沢文庫は、柳 沢吉保の子孫が代々治めた大和郡山藩の歴史 的資料を保管している施設ですが、その中に、 藩の公用記録である『附記』19)が残されてい て、「遠州掛塚孫七船」などと掛塚の船が四日 市の湊に出入りしていることが記されていま す。大和郡山藩の藩領があった鈴鹿郡、三重 郡の廻米(御城米)は、四日市の湊から江戸 の蔵屋敷に運ばれましたが、その廻米を運ぶ 船の中に、掛塚湊の廻船が多数含まれていた のです。それを集計すると<表3>のように なります。安永4年から寛政12年までの記録 ですが、安永4年は1775年ですから、榑木の 輸送が途絶えて40年後になります。 また、岐阜大学地域科学部地域資料・情報 センターが編集・発行した『地域資料通信』 20)に掲載された、「天保5年(1834)の美濃・ 伊勢国の廻米船」という表(表4はその一部 を抜粋)は、美濃の河渡(ごうど)村、長瀬(な 18) 津倉家文書 19) 『資料編Ⅰ』228 ~ 232ページ、廻米の輸送につ いては、同町史に須賀利浦文書(尾鷲市中央公 民館所蔵)の「豊前国当亥御年貢江戸御城米送 状之事」及び、小浜漁業協同組合文書(鳥羽市 海の博物館所蔵)の「御城米改控帳」、「御城米 船改帳写」の資料も紹介されている。 20) 岐阜大学地域科学部 地域資料・情報センター 編集・発行 平成26年10月31日 表4 天保5年の美濃・伊勢国の廻米船(一部抜粋) 船主 沖船頭 乗組 (船齢) 米 〈1俵4斗入〉 御膳籾 〈1俵5斗入〉 納菰 御用紙 桑名 出帆 品川 入津 遠州掛塚 卯助 幸助 900石 〈2250俵〉 遠州掛塚 丈左衛門与助 14人 (5年) 1288石 〈3220俵> 240石 〈480俵〉 菰296枚 紙8箇 12/9 12/25 遠州掛塚 丈左衛門七左衛門 13人 (5年) 1233石6斗 〈3084俵〉 210石 〈420俵〉 菰280枚 紙6箇 12/23 1/7 遠州掛塚 長兵衛 権七 17人 (6年) 1760石 〈4400俵〉 300石 〈600俵〉 菰400枚 紙16箇 12/28 1/23 遠州掛塚 八右衛門亀五郎 175石 〈350俵〉 1/8 1/29 遠州掛塚 善左衛門庄平 6人 (5年) 510石 〈1275俵〉 75石 〈150俵〉 菰114枚 紙8箇 1/8 1/29 遠州掛塚 長兵衛 喜助 8人 788石 〈1970俵〉 140石 〈280俵〉 菰180枚 紙8箇 1/25 2/11 遠州掛塚 七郎右衛門六兵衛 12人 (5年) 1090石 〈2725俵〉 200石 〈400俵〉 菰250枚 紙8箇 2/6 2/15 遠州掛塚 丈左衛門与助 14人 (6年) 1285石6斗 〈3214俵〉 243石 〈486俵〉 菰296枚 紙8箇 2/8 2/17 遠州掛塚 丈左衛門七五郎 9人 (5年) 871石6斗 6升1合2勺 〈2179俵6升 1合2勺〉 9石〈18俵〉・ 御廻籾77石 〈154俵> 菰187枚 紙16箇 2/8 2/15 表3 年貢米の江戸回送(柳沢文庫所蔵『附記』より) 年 月 積み高 船 主 積出港 安永 4. 1 米788石158 遠州掛塚 孫七船 四日市湊 安永 6.12 米432石9685 孫七船 四日市湊 天明 1. 4 米200石 遠州掛塚 市右衛門 四日市湊 天明 2. 4 米262石 遠州掛塚 儀助船 四日市湊 天明 4.12 米360石5533 遠州掛塚 三郎右衛門 四日市湊 天明 6.12 米354石1625 遠州掛塚 孫三郎船 四日市湊 天明 7.11 米363石6 遠州掛塚 三郎右衛門船 四日市湊 寛政 4. 2 米276石5245 遠州掛塚 三次郎船 四日市湊 寛政12. 2 米421石8251 遠州掛塚 八三郎船 四日市湊 寛政12.12 米417石6878 遠州掛塚 三郎治船 四日市湊
がせ)村の年貢米を桑名湊から運んだ22艘の 廻米船の船主や沖船頭、積荷の種類や量、江 戸までの経路、日数などを細かに調査したも のです。この22艘の内、10艘が遠州掛塚の船 でした。その他では、沼津4艘、川崎・相良・ 戸田が各2艘と、掛塚船が多数を占めていま した。また、美濃・伊勢の廻米船の手配は、 桑名の豪商と共に掛塚の高塚屋伊左衛門が関 わっていましたが、彼らが諸国の廻船問屋や 船持ちに触れを出し、廻米船を雇っていたの です。因みにこの高塚屋伊左衛門は、生物学 者の丘浅次郎21)の曽祖父に当る人物と思われ ます。 この表からは様々な事実を読み取ることが できますが、乗組員の数は、船の積み荷の量 に応じているようで、1000石積みだと10人、 1200石で12人というように、おおよそ100石 に一人の割合で乗っていたようです。また、 積荷は一般の年貢米の他に、将軍や大奥など の飯米である御膳籾や御用紙(美濃紙)など がありました。桑名湊を出帆してから品川湊 へ入るまでの所要日数は、例えば1月8日に出 港して29日に着いている船もあれば、12月10 日に出て14日に着いている船もあります。平 均すると15日間くらいかかったようですが、 順風に遭えば、1週間足らずで行くことがで きたようです。江戸時代の航海はまさに「風 任せ」であったわけで、志摩の鳥羽や小浜、 伊豆の長津呂、下田、田子などは風待ちの湊 として利用されました。 3 天竜川舟運の進展 榑木の輸送がなくなってから、掛塚湊の廻 船がすべて廻米輸送に変わっていったという わけではなく、木材や北遠の物産も川下げさ れてきました。江戸時代の後期になれば、経 済の発展に伴って、物資の流れは一層増えて いったと考えられます。 文政4年(1821)に中泉代官所に提出され た一通の「通船願書」22)があります。これは、 船明より上流の瀬尻や横山、戸倉など12か村 の村々が、通船の届を出さなくても通船させ てほしいと願い出たものです。榑木の上納 がなくなってから100年近くたっているのに、 いまだに届を出さないと船が通れないのは不 合理だといい、以前のように榑木の川下げが 復活するまでは緩やかにやってほしいと訴え ています。このことは、上流の物産を下流に 運びたいという要求の高まりであり、それだ け商品流通が活発化していたことを示すもの ではないでしょうか。 Ⅳ.近代の掛塚湊 1 木材の輸送 前記のように、江戸時代には、幕府の権限 が非常に強く、榑木を流すときには他の船の 通行はできず、それ以外の時でも通船の届を 出して通るなどの制約があったわけですが、 榑木を流さなくなってもその制約が残ってい て、それをなくしてほしいという嘆願書が「通 船願」というかたちで出てくるわけです。 また、掛塚の廻船問屋が運んでいた榑木も 廻米も、幕府や大名が関わっている荷物です。 掛塚の船が江戸からの帰りに伊豆石を積み込 んだのは、こうした幕府御用という公的な輸 送を請け負っていたため、下り荷物が積めな かったためと考えられます。 幕藩体制の中で制限されていた経済的な制 約が取り払われると、多くの人が経済活動に 参加するようになり、掛塚でも明治に入る と廻船の数も廻船問屋の数も増えていきまし た。特に、首都となった東京に、新しい建物 を作るための建築資材としての材木が、天竜 川流域から大量に運ばれ、廻船業の需要も増 していったと思われます。 (1)明治初期の木材の流通 山から伐り出された木材は、狭い谷川では 21) 幡鎌正周・幡鎌さち江『人類は下り坂-丘浅次 郎と「ダーウィン」邦訳の謎-』静岡新聞社、 平成25年(2013年)、296 ~ 297ページ、本書の 付帯資料Ⅰ、(八)丘氏(旧高塚家)の系図の中で、 掛塚の廻船問屋である高塚伊左衛門(1785 ~ 1841)が天保5年当時の当主であると思われま す。その長子吉次郎(1806 ~ 1842)は37歳で 亡くなっており、その年に生れた3男秀興(1842 ~ 1880)が、本家を継いで丘と改姓している。 この秀興の次男が丘浅次郎である。 22) 津倉家文書
管流しで流され、天竜川の本流に出るところ で筏に組まれ、川幅により更に大型の筏に組 み替えられて掛塚まで流送されます。掛塚で 製材された木材は、廻船に積み込まれて東京 深川の材木商のもとに送られました。この経 過を、回漕業者の書類を通してみていきます。 管流しされた木材を筏に組んで下流に送る回 漕業者は、掛塚の廻船問屋に木材の数量や価 格、手数料などを記した「送り状」を送りま す。<図5>の「送り状」23)は、船明村の問 屋又市から掛塚の廻船問屋池田藤七に宛てて 送られたものです。木材は、岩間喜一郎が伐 り出した杉檜の角材が82本で、「奥掛」とは問 屋又市の所に来るまでの費用、すなわち原木 代、伐採費用などで1円13銭2厘、「下掛」は問 屋から掛塚まで送るのに掛った費用で54銭5 厘となっています。「送り状」は納品書兼請 求書といえます。廻船問屋の池田家には多く の送り状が残されていますが、明治20年のも のが19件あります。これらの送り主は船明、 月、山東、上島の回漕業者で、木材の種類は 松、杉、檜とあり、計48双の筏が流送されて います。 掛塚の廻船問屋は、これを更に東京の材木 商に送りますが、材木を受け取った材木商か らは、「仕切状」という決算書が送られてきま す。<図6>は東京の材木商から送られてき た仕切証券(状)24)です。これだけの材木を 受け取りましたので、その代金いくらを払い ます、というものです。発信元は東京深川大 和町の三好屋となっていますが、印鑑には「深 川木場」とあり、掛塚から送られた材木のほ とんどは木場に送られてきました。 代金の支払いは、この仕切証券と一緒に送 られてくる手形によって決済されました。材 木商が東京の国立銀行にお金を振り込んで、 その手形を掛塚の廻船問屋に送って、掛塚の 銀行で現金を受け取るというかたちをとった ようです。遠隔地と交易をする場合、銀行は 非常に重要な役割を果たしており、この時期 各地に銀行が設立されていきます。掛塚には 明治14年8月に、掛塚銀行と西遠商会(後の 西遠銀行)掛塚支店25)が同時につくられます が、掛塚銀行は、明治31年に平野又十郎の創 設した西遠銀行と合併し、西遠銀行掛塚支店 となっていきます。 (2)鉄道開通後の木材の流送 明治22年に鉄道が開通すると、木材は中野 町で引き上げられ、鉄道によって輸送される ようになっていきます。<図7>の「送り状」 は、明治34年のものですが、二枚が貼り合わ せてあり、一枚目は西渡の片桐回漕店から鹿 島の田代回漕店に、二枚目は田代回漕店から 和田村の天龍製材会社に送られています。木 材を伐り出した送り主は奥山村(現在の浜松 市水窪町)の耳塚幸作という人で、その木材 を片桐さんが西渡で筏に組んで田代さんの所 へ送ります。田代さんは鹿島で筏を組みなお し、和田村の天龍製材に送っています。一双 に100本前後の丸太を組んだ筏10双を送って いますが、その代金は、耳塚さんの分が43円 図5 木材の送り状(池田家文書) 図6 東京深川から送られた仕切証券(稲勝家文書) 23) 池田家文書 24) 稲勝家文書 25) 『通史編』390 ~ 396ページ
20銭、片桐さんの分が13円20銭、田代さんの 分が10円30銭、他に雑費が2円かかって、全 部合わせて68円70銭となっています。 この経路は、耳塚さんが木材を伐り出して 水窪川に流しますが、西渡までの水窪川は川 幅が狭いので筏には組まず、材木を1本ずつ バラ流しにします。西渡の片桐さんがそれを 筏に組んで、鹿島まで送るわけです。二俣か ら下は、天竜川が平野に出て流れがゆったり 流れるようになるので、鹿島の田代さんは、 筏を大型に組み替えて流します。このように、 遠隔地からの流送は、回漕業者が二段階で送 られてきたわけで、大千瀬川などを三河方面 から流れてきた木材は、佐久間の浦川や川合 で筏に組み、鹿島や船明で大きな筏に組みな おしています。 (3)筏による流送 <図8>の写真は、水窪川が天竜川と合流 する少し手前の西渡のあたりですが、「アバ」 と呼ばれる立方体の構造物が築かれていま す。これがいくつか並んでいますが、間に隙 間があって、木材を筏に組むためにこの隙間 を一本ずつ流す装置だということです。この 写真は、たまたま大水が出て、大量の木材が 「アバ」にたまってしまったときのものです。 <図9>の写真は筏を流しているところで すが、かなり流れが急です。今は佐久間ダム のダム湖になっているところで、昔、飯田線 が通っていた山室(やんぼろ)という村のあ たりになります。山室の集落はダム湖に沈ん でしまったのですが、天竜川の中でも流れが 最も急なところで、「山室の滝」と呼ばれてい ました。佐久間で、ここを筏で下ったという 人に話を聞いたことがありました。上流に鮎 釣りに行ったとき、筏師に筏に乗って帰らな いかと勧められて乗ったけれども、滝と呼ば れる急流が二か所ほどあって、そこを通ると きはたいへん怖かったといっていました。通 船で船が上がっていく時にもこういうところ をあがらなければいけないわけですし、下り の筏も、川の中にある大きな岩にぶつかった らひとたまりもない。水の上に顔を出してい る岩はまだいいですが、水中に隠れていれば もっと危険なわけです。そういう危険なもの を撤去したり砕いたりするのが「川普請」と 26) 林家文書 図7 天龍製材会社に送られた木材の送り状(林家文書)26) 図9 山室の滝を下る筏 図8 水窪川のアバ
いうものですが、そういうことを何回も繰り 返して、漸く上流に船が登れるようになると いうことです。 川普請には、「下り普請」と「上り普請」と いうのがあります。危険な岩を割ったり、砕 いたり、移動させたりするのは「下り普請」 で、下り船の安全を図るものです。それに対 して「上り普請」というのは、川岸を整備し て船を引っ張り上げるための道を作ることだ といいます。 <図10>の写真は、久根の湊と思われます が、船を見ると船に二人乗っていて、一人が 引っ張っています。船を上流に進めるには、 風が利用できれば帆を張って進むことができ ますが、そうでなければ、人間が引っ張って いくしかないわけです。しかし、そのために は人の歩く道がなければいけないわけです。 この道を確保し整備するのが「上り普請」と 呼ばれるものになります。この船は先が尖っ ていて船体の幅が狭く、船のヘリも高くなっ ていますが、上流部ではこのような鵜飼船が 使われていました。早い頃は高瀬舟が使われ ていましたが、後に木曽川や長良川の船頭が 天竜川に移って来て、船も鵜飼船が持ち込ま れたということです。上流部では、流れが急 で川幅も狭いことから、船も船体が細く、ヘ リが高い鵜飼船が使われたようです。下流で はサッパ船が作られ、次第に上流部へも広 がっていったといいます。写真の筏は下流に 流すものではなく、上流から久根鉱山の支柱 に使うために流されてきた、カナギ(落葉広 葉樹)の筏のようです。帆に書かれている山 一の印が久根鉱山の船を表しています。 2 製材業の隆盛 (1)製材技術の導入 明治に入って、木材の輸送を中心とする回 漕業は一段と活発になっていきますが、それ に付随して原木を板や角材に加工する製材業 も盛んになっていきました。前に、掛塚の堤 防の外側には木挽き小屋がたくさんあって、 そこで木挽きが木材を板に挽いたと書きまし たが、そこで使われた鋸は、大鋸(おが)と いわれる前挽きの鋸で、幕末の頃から掛塚で この鋸が造られるようになりました。 木挽きについては、江戸の半ばに林文吉が 新宮から木挽きを持ち帰ったという説があり ます。江戸時代の前期には、手斧や槍鉋など が使われ、鋸はまだ一般的ではなかったよう で、鋸が使われるようになるのは江戸の半ば 以降ということになるようです。その鋸も、 初めは製品を購入して使っていたのが、幕末 頃からは地元で造られるようになったといわ れます。 この頃になると幕府も外国と貿易を進める ようになり、ヨーロッパの産業革命の成果 が次々に輸入されてきます。嘉永3年(1850) には、オランダから竪鋸が輸入されます。文 久2年(1862)になると、北海道開拓使で蒸 気機関を使った製材工場が、イギリス人のブ ラキストンによって始められ、幕末期には機 械による製材がごく一部で行われるように なっていました。さらに明治5年(1872)には、 北海道で水力と蒸気機関を使った製材工場が 作られています。 (2)機械製材の開始 掛塚でもこの頃に機械製材が始まります。 明治7年に新町大束(おおぞく)屋の川島平 図10 久根付近の天竜川
次郎が、丸鋸2台を蒸気機関で動かして製材 したといいます。<図11>の銅版画は、川島 平次郎の屋敷を描いた銅版画の上部を拡大し たものですが、掛塚港の近くに「川嶋器械場」 と書かれた建物があり、煙突から煙が出てい ますので、火力を利用した蒸気機関によって 丸鋸を回す製材所であったと思われます。こ の銅版画は明治25年頃の出版ですから、明治 の初期から掛塚の南端部にこうした製材工場 が作られていたことがわかります。 水力を使った製材も、明治の初めころに竜 山で始まったといいます。掛塚の芥田辰五郎 は廻船業者ですが、明治30年に気多の長田元 次郎と共同して気多に水力の製材所を作りま す。しかし、それから7年ほどたって洪水で 工場が流されてしまい、その後をどのように 処理するかを決めた書類27)が残されていま す。掛塚の廻船問屋の中には、その資本を山 間部の製材所に投資していった人たちもいた のです。 廻船業者が中心となって、地元の掛塚にも 製材工場が作られていきます。気多で工場を 流された芥田辰五郎は、明治37年に他の廻船 業者と共同して「掛塚製材合資会社」を字竜 光寺(掛塚南部)に作りました。後に「掛塚 木材株式会社」となりますが、その設立趣意 書28)には「最新式完全なる製材機械を設備」 して経営にあたるとしています。明治29年の 段階でも、まだ全国に製材工場は34しかなく、 しかもその大部分は静岡県内にあったといい ます。このような中で、掛塚の周辺に多くの 製材工場が作られていったということは、全 国的にも製材業の最先端を行く地域29)であっ たといえるのです。 (3)天竜木材の隆盛 明治14年には、金原明善が和田村に「合本 興業社」を創業し、丸鋸3台、竪鋸2台を備え た大規模な製材所を始めました。これを母体 として天龍製材会社が作られ、平野又十郎が 社長に就任します。さらにこれが明治40年に 天竜木材株式会社になっていくわけです。 明治22年、鉄道が中泉、浜松間に敷設され、 同25年に天竜川駅に貨物取扱所が開設される と、天竜川流域の木材や物資の輸送は、次第 に鉄道に切り替えられていきました。さらに、 金原明善は同29年に天竜運輸会社を設立し、 天竜川岸から天竜川駅に至る木材輸送のため の軌道を敷設して、鉄道輸送の便をより一層 図っていきました。 このような中で、天竜木材は天竜川を川下 げされた木材を一手に引き受ける企業となっ ていきましたが、この経営者には、稲勝清三 郎や池田藤七など、掛塚の廻船業者が数多く 関わっていました。大正時代に、常務だった 稲勝清三郎は、カナダへ渡って北米の森林を 3ヶ月間にわたって視察しています。その時 の日記帳30)が残されていますが、大正10年7 月8日、横浜ふ頭から船に乗って、21日にバ ンクーバーに到着します。ヴィクトリアを見 学して、現地の製材所などを見、そして山林 を視察していますが、ヘムロック、スプルス といった樹木をみて、日本の栂や椹によく似 ているといっています。また、きれいな森林 がたくさんあるといい、日本に帰ってこの北 米材を輸入することになるのですが、これに よって天竜木材は急成長を遂げていったので す。稲勝清三郎は、そののち天竜木材の社長 となりますが、その子息正太郎、孫哲夫と三 代続けて社長を務めました。 27) 芥田家文書 「証」明治37年4月28日 28) 芥田家文書 「掛塚木材株式会社創立趣意書」 明治40年 29) 『天龍木材60年史』天龍木材株式会社60年史編 纂委員会 昭和42年(1967年)、83 ~ 85ページ 30) 稲勝家文書 「稲勝清三郎日記」 図11 銅版画に見える「川嶋器械場」
3 掛塚港の築造 (1)掛塚港の築造 明治に入ると、近代化に伴う建設が増え、 材木需要も増して掛塚湊は活況を呈しまし た。しかし、商品の取引が盛んになると、水 深の浅い掛塚湊は、船が安心して出入りでき る港湾施設を持つことが急務となり、新港湾 の建設に着手しました。 明治7年に、新港をどこに建設するかにつ いて、掛塚と駒場が協議を始めましたが、も ともと境界の争いが続いていた両村では却っ て紛糾し、斎藤弦蔵、堀内五郎が仲裁に入っ て明治14年にようやく和解が成立し、掛塚村 の842人と駒場村の115人が署名して、約定書 31)が取り交わされました。この約定書による と、港湾建設の工事は、両村共同で設立した 「開鑿社」が行うこととし、この会社の資本 金7500円を、両村が3000円ずつ、残りの1500 円をよそから調達することとしています。ま た、地代1500円のうち1000円は会社が出金し、 残りの半分も十ケ年賦で開鑿社が負担すると しています。 14年4月には「港湾開鑿諸費予算書」がつ くられ、総計16000円余の予算が計上されま した。予算書は、願人総代である駒場村の相 場長平、石川多喜三、掛塚村の小池太代二、 池田藤七の連名で、静岡県令の大迫貞清に提 出されたもので、これには掛塚村の戸長松山 正平と、駒場村戸長の喜多野武平が奥書調印 をしています。予算の内容は、地代1500円、 港湾を掘り下げる人足代が11000円余、杭木 440円、柵竹157円余、枠286円、枠詰石124円余、 蛇籠280円余などとなっています。このよう な膨大な資金が投下されて、新しい港湾施設 は、明治18年12月に完成しました<図12>。 明治7年、掛塚湊の廻船問屋は回漕会社を 組織し、湊を使用するうえでの規則を定めて いきました。船が湊に入ったら会社に届けを 出し、出航順を記帳して、順番に荷積を実施 することなどが定めらました。明治15年にな ると、廻船問屋を中心に「掛塚商船会社」が つくられましたが、新しい港湾の建設が始ま ると、翌16年、この港に出入りする船舶と積 荷に関する事務及び港湾の維持管理を業務と する「豊長社」が設立されました。社長は掛 塚の林文吉、副社長は駒場の相場長平、その 他多くの廻船問屋が取締役となって発足しま した。 図12 掛塚港湾絵図 新港湾ができると、それに伴う燈台も必要 でしたが、これは既に明治13年に荒井信敬に よってつくられた「改心燈台」が存在しまし た。幕臣として駒場に移住した荒井信敬は、 天竜川沖の遠州灘が航海の難所で、多くの船 が遭難する状況を憂え、自分の飲む酒を控え て菜種油に換え、私設の灯台を作り、火をと もし続けました。明治17年に、豊長社がこれ を譲り受けましたが、翌年、私設灯台は7年 後に廃止するという布達が出されたため、町 の有力者は官設灯台の設置を請願し32)、明治 30年に完成したのが現在の掛塚灯台です。 さらに、海難事故への対応策として、遭難 した船を救助する救難所を設置する動きが各 地に現れ、明治22年には「大日本帝国水難救 済会」が設立され、掛塚でも26年に救難所設 置の動きが始まったといいます。掛塚港でも 救難所の運営構想をめぐって議論が戦わさ れ、8月には、設備の整った有用な救難所を 32) 磐田市蔵 「燈台官設請願手続書」明治25年9月 22日 31) 磐田市蔵 「為取換約定証書」明治14年1月20日
つくるべきという地元の船主の考え方が主流 となり、32年に救難所が設置されて33)活動が 開始されました。 ここにようやく掛塚港も、港湾管理会社 の「豊長社」を中心に、掛塚燈台、大日本帝 国水難救済会の掛塚救難所が整備され、近代 的な港湾としての形を整えることになりまし た。 (2) 廻船問屋の消長 明治に入り幕府の統制もなくなって、多く の業者が回漕業に参入してきたといいました が、廻船問屋の数からすると、文化7年の記 録34)には問屋18人、廻船数38艘とありますが、 明治26年の記録35)では、26人、59艘となって います。廻船問屋というのは、非常に浮き沈 みが激しかったと思われ、一度船が遭難する と、壊滅的な打撃を受けて、ひどいときには 廃業に追い込まれることもあっただろうと思 われます。 遭難についての資料は、江戸時代には「浦 証文」というかたちで残っています。廻船は、 人の荷物を積んでいるので、その荷物が流さ れた時にどうするかというのが大きな問題に なるわけです。遭難したと偽って積荷を横領 したと疑われることもあるので、船主は、本 当に遭難して積荷は流されてしまったという ことを証明する必要があるわけです。遭難は 不可抗力であり、流された荷物はこれだけだ ということを証明したのが浦証文で、遭難し た場所の村役人が証明をすることになってい ました。なぜ沈んだのか、船頭たちに手抜か りはなかったか事細かに記録をして、流され た積荷がこれだけ、漂着した積荷がこれだけ、 無事だったものがこれだけあるという調書が 浦証文ということになるわけです。遭難のリ スクが大きければ大きいほどもうけは大き かったようですが、一度遭難すればすべてを 失ってしまうということで、一か八かの博奕 的な仕事であったということです。 明治18年に掛塚港が開港すると、港に出入 りした船の数が「掛塚組合回漕店取締所」に よって記録されています(『港湾及河岸出入 船舶表』)36)。これをまとめた<表5>によ ると、明治21年には、掛塚港に所属する廻船 の数は78艘で、出港回数(入港回数もほぼ同 数)は508回となっています。これは1艘の 平均にすると、1年間におよそ6.5回出入 りしていることになり、2カ月に1度出港し ていることになります。翌22年には、船舶数 87艘、出港回数518回といずれも最多となり、 この時期が掛塚港の最も繁栄していたころと みることができます。しかし、船舶数は翌年 から、81、70、68、59艘と漸減していき、出 帆回数も451、426、355回と減っていき、34 年以後は、302、226、95回と極端に落ち込ん でいきます。因みに、明治31年から洋式船が 増えていきますが、和船が洋式船に改造され ていったようです。 表5 掛塚港船舶数及び出帆延べ回数 年代 (明治) 船舶数 出帆延回数 和船 洋船 計 21 78 463 45 508 22 87 515 3 518 23 81 447 4 451 24 70 423 3 426 25 68 353 2 355 26 59 394 3 397 27 61 414 414 28 64 317 317 29 69 344 344 30 65 390 390 31 63 160 210 370 32 66 21 348 369 33 66 11 401 412 34 65 5 297 302 35 69 226 226 36 57 95 95 別の資料によれば、廻船の数は、明治40年 以降28、21、19、12、18、9、9艘と減ってい きます。大正3年に磐田郡長あてに出された 33) 磐田市蔵 「大日本帝国水難救済会掛塚救難所 設置手続」明治26年3 ~ 8月 34) 津倉家文書 「掛塚湊廻船連判控書」文化7年8 月 35) 関家文書 「船名船主船長名帳」明治26年1月 36) 「港湾及河岸出入船舶表」
「港湾状況」の報告書37)には、掛塚港に所属 する船は、他港を運航していて、たまたま入 港するのは修繕のためだけで、貨物を積んだ 船は出入りしていない、と記されています。 大正4年に、稲勝清三郎所有の第三海安丸 が鳥羽港で海難事故を起こした時の報告書38) があります。無燈で鳥羽港に停泊していた船 に衝突したという事故ですが、この船が和歌 山県の勝浦から東京に木材を運んでいて、避 難のために鳥羽港に入港した時に起こした事 故でした。このように、掛塚の船が、他の港 の間を行き来していたことを物語っていま す。 おわりに 官設の掛塚燈台、救済会の救難所ができ、 洋式船への切り替え始められてから、わずか 十数年で、掛塚の港は無用の長物となってし まったといえます。関東大震災の際にも、既 に廻船はなく、漁船が物資を運びました。翌 年の大正13年には、掛塚の廻船問屋によって 「掛塚港廻船之碑」が建てられましたが、そ れは、かつての殷賑を極めた掛塚港を忘れな いようにするためのよすがとして貴船神社境 内に建てられたものでした。 昭和6年に書かれた『掛塚町郷土誌』には、 「若し鉄道が通過すれば本町所有の二百隻に 近い商船は廃物となり、巨万の富も一朝にし て消失することになる」という理由で鉄道の 敷設に猛反対した。しかし、「掛塚唯一の商品 (である木材)は、天竜川鉄橋付近より陸揚 げされて鉄路によって運搬された。故に本町 所有の船は空しく売払はれて、船主は破産、 船乗は解雇され、船大工は他に転じ、製材工 場もその姿を消し、町の影は次第に薄く、寂 寥の色は年毎に強くなった。」とあり、鉄道 によって木材の輸送が行われるようになって 掛塚の町が沈滞していったことを慨嘆してい ます。 37) 掛塚町役場「大正弐年 土木課統計綴」大正3 年3月28日、『竜洋町史 資料編Ⅱ』 38) 稲勝家文書「海難報告書」