『
新生』か ら 『
夜明け前』へ (
7)
De "Shinsei" a "Yoakemahe" (7)
―sur les oeuvres de SHIMAZAKI Touson―
Ⅳ-2
-(1)
F夜明け前出ま有名 な書 き出 し、「木曾路はすべ て山の中であ る。
」で語 りが始 まる。あたか も映画 のカメラが天空か らとらえる一筋の道 を映 し出 し なぞっているようだ。 さらにその街道、中山道の 一端、木曽路の風景 を大写 しにす る。 ここにおい て島崎藤村が これか ら展開すべ く物語 を暗示 して いる。いきな り主人公たちを登場 させて、読者 を 物語に導 き込むのでな く、先ず空間 を認識 させ る。 次に街道の位置が変 えられ、歩 きやす く改良され たことが書 き記 されて街道の役割が語 られ る。つ まり、歴史的経過が語 られ るこ とで読者は、 この 木曽路の位置 を時間的な座標によ り知 り、江戸時 代での役割 を徳川幕府の政策により知 る。 そして 本陣の当主昔左衝門が登場 して舞台が幕末である ことを読者は知 る。 さらには参観交代の叙述が展 開され ることでいよいよこの街道 とそこに住む人 たちとの関わ り合いが繰 り広げ られてい くことが 示 されている。つ ま り、街道 を含め ることで人々 の生活の全体 を空間的に も時間的に も描 き出そ う としているのである。 藤村が この小説を善 くにあたって歴史的事実 を 織込んでいかなければならない理由はここにある と言えよう。では何故 このような創作方法 を採用 したか。 これ まで本論 で 『新生』 をたどり、 フラ ンス体験 を知 る中で藤村の思いの変化が どんなで あったか を知 ってきた。 第一次世界大戦下で、フランスの文学者たちが 大統領 ポワンカレの呼びかけで結成 された神聖連 合に呼応 して、祖国フランスのために と行動 し、 積極的に政治的発言 をしているの を藤村は見聞 し た。文化の担い手が社会に関わ り合 うべ きとした のであるが、その時点では藤村 自らが社会 とは無 - 106-佐々木涇
SASAKI Thoru
縁の状態にあることを知 ったのである。 さらには 彼 らが従軍 し、命 さえ落 としている。 これ らの事 実 を知 った とき、藤村 自身がフランスに滞在 して いる理由 を自問 したらどうなるか。姪 との関係が 莱-の理由 として挙げ られ るに して も、その状態 に陥った背景 をも考慮せ ねばなるまい。藤村 自身 が言 う 「デカダンス」であ る。 これを時代が もたらした として も良いが、む し ろ藤村の創作状況 を見てお きたい。 そのために も 彼の作品傾 向を再度た どる。F破戒』と種 々の姓誌 に一 回のみ掲載の短篇小説 を除いて連載に よる長 篇 ものを挙 げてみる。先ず F春』は1
9
0
8
年 (明治4
1
)4
月7
日か ら 「東京朝 日新聞」に1
3
5
回に渡 っ て連載 された。『家』は1
9
1
0
年 (明治4
3
)1
月1
日 か ら 「読売新聞」に連載 され ること1
1
2
回で、後に F家』の下巻 となった F犠牲』は1
9
11年 (明治4
4
)
の- 月号 と四月号の 「中央公論」に分載 された。 そ して1
9
1
2
年 (明治4
5
)
五月号か らの月刊誌 「婦 人蓋報」に連載 された 『ある婦人に輿ふ る手紙』 は五 回の後、1
9
1
3
年 (大正2
)-月号か らは 『幼 さ日』と改題 されて三回の継続 となった。 『千曲川 のスケ ッチ』は1
9
11年 (明治4
6
)
六月号の 「中学 世界」か ら十二回に渡 って連載 された。 上 に挙げた 『春』、
F家』、『幼 き日』はいずれ も 藤村 自身 と周囲の人々の生活 を描 き出 した もので ある。つ ま り私小説 としてよい。 自己体験の記録 として捉 えることが可能だ。 それ故に長篇 もの と しての題材 とす ることがで きたのである。むろん 単 なる記録 ではな く、文学作 品 として位 置づ け る べ く主題 を有 している小説である。 だが、社会 と の関わ り合 いの中で位置づ け るにはむずか しい。 確かに主人公 を含めた登場人物 たちは種々の社会 制度や習慣、 しきた りに時 として振 り回されてい佐々木 浬 F新生』か ら 『夜明け前i- (7) る。 それ らは付与の もの とされ、告発す るには迫 力がない。 自然主義が封建社会 の解体 を狙 うとさ れたようだが、藤村の作 品を見 る限 りはなはだ怪 し く思 える。む しろ、 それ らを運命 として受け と め、受身的に生 きる人物 たちの状態は暗い、 とま では言わないに して も憂欝な気分 に読者 を導いて い る。だか らこそ 「こんな自分 で も生 きたい」 と 藤村は主人公 に言わ しめ るのだ。 『千曲川のスケ ッチ』は、小諸 で散文作家にな るための習作 をまとめた もの と思われ る。従 って 『千曲川のスケ ッチ』 を形あるもの として編成す ることは、小諸時代 の心の状態 を得 るべ く、つ ま り散文作家 としての初心に戻 り、新 たな創作活動 のための模索状態 として よいだろう。 この 『千曲 川のスケ ッチ』に描かれたのは千曲川の周辺に生 きる人々 を外側か ら素描 したのであって、彼 らの 内面に立ち入 ることはない。藤村 は小諸時代の こ とをしば しば 「山の生活」 としているが、 この山 の人々の厳 しい 自然の中での生活に関心 を持 ちな が ら、 この時期 に作 品 として発表す ることはこの 彼 らの したたかに生 きる秘密 を見つけ出そ うとし たのではあるまいか。 一方で「黒船」に も関心 を持 っていた(1)。この「黒 船」 を題材に作品化す るためには、おそらく父親 の島崎正樹 をモデルに したい と考 えたであろうが、 フランス体験 を経 て初めて可能 であったろう。図 らず も藤村は回想 している
。
『春』に関 して語 って い るときである。 「或る短篇を書いてゐるうちには、外の短篇を書い てみや うと思ふ心が胸に浮かんで来、長篇を書いて ゐるうちには次 ぎの長篇の腹案が 自然 と胸に浮ん で くる。と言ふのは、短篇は短篇を呼び出し、長篇 は長篇を喚び出す と言ふ心持です。 ・--略 --・ 私は 『破戒』を書いてゐるうちに、この 『春』を書 かうと恩ひ付 きまして、-・・・略=・-それから 『春』 を書いてゐるうちにまた今度 は 『家』を書か うとい ふ意匠が、あとか ら芽 ぐんで来 ました。 ところが 『家』を書いてゐる間に、今度は、その次ぎの長篇 といふ ものが、胸に芽 ぐんでこな くなってしまっ たO- あの時は、自分で も心に寂 しく思ひまし た。
」 (2) 159 創作不能の状態であった としたら言過 ぎであろ うか。 ここか ら脱出す るためには 『新生』の作品 化が必要 であった。 その経過 は本論の展開で理解 していただいた と思 うが、再度確認 してお きたい。 特 に 『新生』の第二巻 であ り、帰国後に復活 し た姪 との関係 である。二人の到達 した境地は-これ を宗教的な境地 とした ら唆味にな り理解が容 易 でな くなる- 北村透谷の指摘す るような 「想 世界」 と 「実世界」の対立 として捉 えるのではな く、「人 と人 との真実があ る」こ とを知 った状態に ある。 そ して現実世界ので きご とによって振 り回 され ることな く、相互の信頼 によって自己の存在 価値 を揺 るぎない もの として獲得 した。 さらに言 い換 えるな ら、藤村が社会 に関心 を持 ち、幼 さ心 を知 ることで人間 を信 じることに至 り、その上で 女性か ら信頼 され る。 この時点に到達 して初めて 自己の存在 を肯定す ることがで きる。つ ま りそれ まで単 なる願望 に過 ぎない 「こんな自分 で も生 き たい」とす る思いは、「生 きるんだ。その価値 あ り」
に変貌 し自分 自身の価値 を見出 したのである。 自 己統一(
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i)の獲得 である。だか ら こそ 『新生』は文学的主題 を織 り込んだ作品化 と す ることが可能 となった。 この作品を著す ことで 作者 自身が新 たに獲得 した位 置である。今や藤村 は次に引用す る北村透谷の言 う状態にあると断言 で きよう。 「懲愛あらざる内は、社食は一個の他人なるが如 く ^I) に頓着あらず、懸愛ある後は物のあはれ、風物の光 き土 景、何 となく帳を去って資に就 き、隣家より吾家に 移 るが如 く覚ゆるなれ。
」 (3) 確かに恋愛経験はあ らゆるもの を恋人に結 びつ けて考 えるようになる。 しか し透谷が 「社食」 と す ることに注 目したい。創造力が さらに豊かにな り、恋 人 との関係のみならず、その力が広が りを もつ こ とを意味 しているとして よいだろう。 とり わけ恋愛関係が生活習慣や制度 な どで阻 まれそう になった とき、 その瓦解 を防 ぐときに考 える力 と して発揮 され る。二人で生 きんがために。恋愛は 生 きる力 を与 えるのである。 この時点に至 って藤村は創作不能の状態か ら脱 したのであ り、父親の内面に も入 ることが可能に - 107-なったの であ る。 だが父親 をモデル とした小 説 を 書 くに して も今 度 は 「黒船 」 を知 らなければな ら ない。 「黒船」を知 るため には当時の状況 を知 るこ とが必要 だ。時代 と社会の 中での父親 の位 置 を正 確 に捉 え、主 人公 としての青 山半歳 に、作者藤村 の思 い描 く世 界 で行動 をとらしめ るため に生命 を 吹込 む。 さ らに この主 人公 の行動 と思 い を読者 に 伝 えるため には木 曽路 を通過 す る情報や その時代 の背景 を丹 念 に叙述す る必要が あった。 これがた め に F夜 明け前』 では歴史的事実の叙述部分 が全 体 のほぼ二割 を 占め てい るのであ る。
Ⅳ-2-
(2)
青 山半歳 の名 が初 めて出 るの は序 の章 であ る。 この章 では木 曽路 と烏龍の宿 、ペ リーが浦賀に来 る直前の時期 の生活風景 と幕藩体制 に よる宿場 の 種 々の制度が紹 介 され、宿役 人であ る本 陣の吉左 衛 門 と年寄役 の金兵衛 が登場す る。 この吉左衛 門 の回想 シー ンに十八歳 の半歳が登場す る。木 曽の 山林 が尾張藩 に よって厳重 に保護 されてい るこ と が語 られ た後、 多数 の 山村 の民が生活のため に盗 木 した罪で科 め られていた。 この光景 を覗 き見 し ていたのが半歳 であ る。 「昔時十八歳の半歳は、眼を据ゑて、役人のするこ とや、腰縄につながれた村の人達の さまを見てゐ る。それに書左衝門は気がついて、 『さあ行った.行った- こ ゝはお前達なぞの立っ てるところぢや ない。』 と叱った。
(F夜明け前』序の幸三節)」 (4) この十八歳の青年 に この事件 は どの ように眼に 映 ったろ うか。生活の ため に盗木 を したこ とが理 解 されていたろ うか。尾張藩が定め ていた制度や 禁止事 項 を知 りなが ら、陰で この禁 を破 る大 人た ちの行動 を どの よ うに見ていたろ うか。大 人たち とは言 え、 同 じ村 の人 たちであ る。常 日頃の親 し い人た ちであ る。本 陣の息子 として半歳 を可愛が っていた大 人 た ちか もしれぬ。 その彼 らが木 曽福 島か ら来 た、半歳 に とっては見知 らぬ役 人に罰 を 受 けていたのであ る。半歳 が 目に していたの は初 めて見 る世 の矛盾 であ ったか もしれ ない。大 人の 二面性つ ま り面従腹背 を知 るのでな く、村 人の苦 - 10 8-しい生活 を知 ってい るが故 に生 じた、制度 に対す る疑 問 を知 った として よいだ ろ う。吉左衛 門はだ か らこそ大 人たちの醜態 を半歳 に見せ た くなか っ たのであ る。例 えば次の よ うな こ ともあ った。半 歳 の結婚 準備 に追 われてい るさなか に、黒船 来航 に よる国防献金 の命令書が吉左衛 門に とどいた と きであ る。 「徳川幕府あって以来未だ曾 て聞いたこともない お かね ぐら や うな、公儀の御金庫が既に空っぽになってゐると ないない とり ぎ た むか し いふ内々の取沙汰なぞが、その時、胸に浮んだ。昔 か たぎ 気質の彼はそれ らの事 を思ひ合せて、若者の前で も お ほ げ さ 何 で もお構ひな しに何事 も大袈裟 に解れ廻 るや う な人達 を憎んだ。そこか ら子に封す る心持 をも引 き 出されて見ると、年 もまだ若 く心 も柔か く感 じ易い 半歳なぞに、今か ら社食の奥 を覗かせた くないと考 へた。いなかる人間同志の醜い秘密に も、その刺激 に耐へ られる年頃に達するまでは、ゆっ くり支度 さ せ たい と考へた。権威はどこまで も権威 として、子 の前には神聖 なもの として置 きたい とも考へ た。 (第一幸三節)」 (5) ここには、学 問世 界 に没頭 したい とす る息子半 歳 が混乱 しない よ うに とす る、現実世 界の急激 を 変化 を予想す る父吉左衛 門の心 が あ る。先 の書左 衛 門の 回想 シー ンでは、む ろん半歳 の 内面 に まで は立 ち入 ってはいない。 次 に半歳 の名が登場す るの は青 山家の歴 史が語 られ る中で、書左衛 門が他 家 との違 い を強調す る 場面 であ る。 「隣家の伏見屋 なぞにない古 い侍続が年若 な半歳 の頭に深 く刻みつけられたのは、幼い頃か ら聞いた こ たつばなL この父の煩埴 話か らで。自分の件に先祖のことで も 語 り聞かせ るとなると、吉左衛門の眼はまた特別に 輝いたものだ。--・(略)- ・日 吉左衛門の代になっても、本陣へ出入 りの百姓の 家は十三軒ほどある。その多 くは主従の関係 に近 い。吉左衛門が隣家の金兵衛 とも違って、村中の百 姓 を殆 ど自分の子のや うに考へてゐるのも、由来す る源は遠かった. (第-章一節)」 (6) この青 山家の歴 史 を再現す る必要 はあ るまい。佐々木淫 F新生』から 『夜明け前』へ し7) 半歳 は この父吉左衛 門か ら語 られ る祖 先 た ちの こ とか ら、香 りを心 に持つ こ とは ない。 む しろ上 に 引用 した よ うな父親 の考 え を受 け継 いだの であ る。 徳 川 の幕藩体 制下 に あって支 配す る側 の組織 の末 端 に位 置す る宿役 人の考 え方 であ る。支 配 され る 村人 た ち との接 点 に位 置す るが ため であ る。制度 上か ら見れば この よ うに言 え るか もしれぬが、現 実 の 日常生活 にあ っては村 人 た ちの生活 を良 く知 ってお り、む しろ支 配 され る側 の代 表者 として位 置づ けて よいだ ろ う。 黒船 が登場 したの は半歳 が二十三歳 の時 であ る。 十歳 の頃に馬寵 に住 んでいた医者 に 『詩経 』 を学 び、 寓福 寺 の和 尚に導かれ、父か らは 『故 異賛』 の句読 を受 け、以後 は独学 で 『四書
』
『易書』
『春 秋』 を読破 した。 さ らには三里 ほ ど離 れ た中津川 に友 人、蜂 谷香歳 を得 て、 その義兄 の宮川寛 密に 漢学 と国学 を学 んだ。 こ ろう 「ほ 分は濁学で、そして固随だ。もとよりこんな山 す くな の中にゐて見聞 も寡い。どうか して自分のや うなも のでも、 もつ と学びたい。』 と半歳は考-考- した。古い青 山の家に生れた半 歳は、この師に導かれて、国学に心 を傾けるや うに なって行った。二十三歳 を迎へた頃の彼は、言葉の 世界に見つけた学問の歓びを通 して、賀茂異淵、本 居宣長、平田篤胤などの諸先輩が遺 して置いて行っ た大 きな仕事 を想像す るや うな若者であった。 黒船は、薫にこの半裁の前にあらほれて来 たので ある。 (第一章二節)」(7) ここに半歳 の生涯 の課題 は示 され た。宿役 人 と しての後継者 であ る地位 に い るこ と、 国学 をさ ら に深 め たい とす る向学心 に燃 えた心 の持 ち主 であ るこ との二点 であ る。 Ⅳ 2-2- (3) 吉左衛 門は半歳 の結婚 話 を進 め るが、 その理 由 を次の よ うにす る。 つ まご じゆへいじ 「隣宿妻寵の本陣、青 山寺平次の妹、お民 といふ娘 が半歳の未来の妻に選ばれた。 この件の結婚 には、 吉左衛 門も多 くの望みをかけてゐた。早 くも青年時 代 にやって来 たや うな濃い憂欝が半歳 を苦めたこ 161 とを想って見て、もつ と生活を蟹へ させたいと考へ ることは、その一つであったO六十六歳の隠居半六 か ら家督 を譲 り受けたや うに、膏左衛門自身もまた 勤め られるだけ本陣の菖主を勤めて、後か ら来 るも よ のに代 を譲って行 きたい と考- ることも、その一つ であった。 (第一章二節)」 (8) この 「濃 い憂 欝」 につ いては藤 村 は明確 なこ と ば で表現 は しない。 男女 関係 とそれに まつ わ る性 の こ とであ ろ う。 だが この 「憂 欝」 は別 の意味に もとれ る。結婚 の儀 が 慌ただ し く、賑 々 し く過 ぎ 去 った後、半歳 は時代 の趨勢 を思 いや りなが ら、 想 いに耽 け る。 「その 日、半歳は店座敷に寵って、この深い山の中 に住むさみ しさの前に頭 を垂れた。障子の外には、 塀に近い松の枝 をすべ る雪の音がする。それがおそ ろしい響 を立て ,庭の上に落ちる。街道か ら聞えて 来 る人馬の足音 も、絶 えたか と思ふ とまた績いた。 Fこんな山の中にばか り引っ込んでゐると、何だか 俺は気で も違ひさうだ。みんな、のんきなことを言 っているが、そんな時世ぢゃない。』と考へた。 (第 二章二節)」 (9) この半歳 を気づ か う妻 お民 は半歳 と思 い を共 に しよ うとす るが、半歳 は突 き放 して 自分 の世 界に 入 り込 んで しま う。 「いつで も半歳が心のさみ しい折には、日頃慕って ゐる平 田篤胤の著書 を取 り出 して見 るのを癖のや たま みば しら うに してゐたoF霊の異柱』、F玉だす き』、それか ら 講本の 『古道大意』なぞは讃んでも讃んでも飽 きる うす あゐいろ といふことを知 らなかった。大判の薄藍色の表紙か ら、必ず古代紫の糸で綴ぢてある本の装偵までが、 彼には好 ましく思ほれた。『静の岩屋』、『西籍概論』 の筆記録か ら、三百部 を限 りとして絶版 になった きよ いぷき 『穀馨相半ばす る書』のや うな気吹の合の深い消息 まで も、不便な山の中で手に入れてゐるほどの熱心 さだ。平 田篤胤は天保十四年に没 してゐる故人で、 この黒船騒 ぎなぞをもとより知 りや うもない。あれ ほ どの強 さに 自国の学問 と言語の濁立 を主張 した 人が、嘉永安政の代に活 きるとしたら- す くな く ともあの先輩はどうす るだらうとは、半歳のや うな - 1091青年の思ひを潜めなければならないことであった。 あひこと 新 しい機運は動 きつ 、あった。全 く気質 を相異に し、全 く傾向を相異にするや うなものが、殆んど同 はぎ 時に踏み出そ うとしてゐた。長州萩の人、吉田松陰 は普時の厳禁 たる異国への密航 を企て ,失敗 し、信 州松代の人、佐久間象山はその件に連坐 して獄に下 ったとの噂す らある。美濃の大垣あた りに生れた青 年で、異国の学問に志 し、遠 く長崎の方へ出資 した といふ人の話なぞも、決 してめづ らしいことではな くなった。 F黒船。』 雪で明るい部屋の障子に近 く行って、半歳はその 言葉 を繰 り返 して見た。遠い江戸湾のかなたには、 薫に八九般 もの黒船が来てあの沖合 に掛ってゐる ことを胸に描いて見た。その心か ら、彼は尾張藩主 の出府 も容易でないと思った。 (第二章二節)」(10) 作者藤村が早 くも半歳 に味 わせ る苦悩 とは変貌 を遂 げん とす る社会 との関 わ り合 い をどの よ うに す るか とい う点 であ る。 そ して藤村が この小 説の 中に用意 した ものは寓 福寺 の和 尚、松雲 であ る。半歳 は、 自分 の知 らぬ 地、京都 での修 業 を羨 ましい としなが らもその松 雪 を村 はずれで待 ち受 け る。 「半歳がこの和尚を待 ち受ける心は、やがて西か ら 掠って来 る人を待 ち受ける心であった。彼が家 と寓 福寺 との縁故 も深い。最初にあの寺 を建立 して寓福 寺 と名づけたの も青 山の家の先祖だ。しか し彼は今 度蹄国す る新住職のことを想像 し、その人の尊信す る宗教のことを想像 し、人知れずある濠感に打たれ ずにはゐられなかった。早い話が、彼は中津川の宮 川寛資に就いた弟子である。寛密はまた平田派の国 学者である。この彼が 日頃先輩か ら教へ らる ゝこと は、暗い中世の否定であった。中世以来学問道徳の からまな 権威 としてこの図に臨んで来 た漠学び風の因習か らも、俳の道で教へ るや うな物の見方か らも離れよ といふことであった。それ らの もの ゝ深い影響 を受 こころゆた けない古代の人の心に立ち掃って、 もう一度 心 寛 かにこの世 を見直せ といふことであった。一代の先 か だのあイ ま ヽろ 駆、荷 田春 満 をは じめ、賀茂異淵、本居宣長、平田 篤胤、それらの諸大人が受け絶 ぎ受け継 ぎして来た 一大反抗の精神 はそこか ら生れて来てゐるといふ - 110-ことであった。彼に言はせ ると、「物畢びす るともが ら」の道は遠い。 もしその道を追ひ求めて行 くとし た ら、彼が今待 ち受けてゐる人に、その人の信仰 に、行 く行 く反封を見出すか も知れなかった。(第二 章一節)」 (ll) しか しなが ら、半歳 よ り六 ・七歳 ほ ど年上 の松 雲 を、半歳 は 「人 を憎 む こ との出来 ないや うな善 良 な感 じのす る心 の持主 (同)」 (12)とい う印象 を持 つ。 そ して村 では、松雲 の留守 中に寺 を整 えた宿 役 人 た ち、つ ま り半歳 の父親 た ちは松雲 を歓待 し、 歓迎 した。 む ろん上 に引用 した半歳 の思 いなぞは 村 人や松雲 には分 か らない。 その翌 日の早朝、松 雲 は勤行 の一番 に大鐘 を打 って澄んだ鐘 の音 を村 中に響 かせ る。松雪 の烏龍 での生活 は始 まる。 だ が時局 の一大事、沿岸警備 の関連 で江戸 に出府 す る尾 張藩主 の妻亀通過 に も動ぜ ず、往来 で迎 え る こ ともしない。 「Fお前さまはお留守居かなし.j Fそうさj I,ち くさ F俺 は今 まで畠にゐたが、餅革 どころぢゃあ らす しよういつ どき か。けふのお通 りは正 五つ時だげな。殿様は下町の 笹屋の前 まで馬に騎っておいでで、それか ら御本陣 ひ ろひ までお歩行だげな。お前さまも出て見きつされや。』 ほ あ、わたしはお留守居だoj Fこんな 日にお寺に引っ込んでゐるなんて、そんな お前 さまのや うな人があらすか.j Fさう言ふ ものぢやないよ。用事がなければ、親類 へ も行かない。それが出家の身なんだもの。わた し はお寺の番人だ。それで津山だ
。
j(第二章二節)」 (13) 松雲和 尚の姿勢 を読者 に示すべ く、藤村 が この よ うな場面 を設定 したのにはむ ろん理 由が あ る。 半歳 の対極 に松雲 を位 置づ けてい るので あ る。宿 役 人 たちの寺 の保 守 と手厚 い歓迎 は、先祖 が敬 っ て きたか らばか りでな く、村のみ な らず幕藩体 制 を支 え るべ き精神 界の権威 者 とみ な してい るが故 であ る。 この動 じない松雲 の姿 は、半歳 の ご と く 「憂 欝」 に とらわれていない。街 道の際 にあ って も寺 の住職 として生涯 を全 うせ ん とす る意志 が あ る。 この松 雲 を、藤村 は街道宿 の片隅 に置 き、 そ の一 方 で半歳 の生涯 をた どろ うとす るこ とに留意佐々木理 欄干生』から 『夜明け前i
へ
t7) してお きたい。松雲 に関す る描写 であ るが、極 め て象徴 的 な様相 を示 してい るの で次 に引いてお き たい。 「方丈 もしんかん としてゐた。まるでそこいらは空 っぽのや うになってゐた。松雲 は唯一人黙然 とし て、古い壁 にか ,る達磨の董像 の前に坐 りつゞけ た。 (同)」 (14)Ⅳ-2-(4)
木 曽路 には様 々 な こ とが通過 す る。 なに も人や もの ばか りではない。 「黒船」の来航が伝 え られ て 始 まるこの小 説には、先 に も触 れ たが、幕末 の事 件 が記 され る。 その全 てが半裁 の認識 した事柄 で は ない こ とは言 うまで もない。半歳 にあ る事件 の 一端 が伝 え られれば、作 者藤村 は及ぶ 限 り歴 史的 事実 を明 らか にす る。 もちろん 中には藤村 自身の 解釈 も含 まれ てい る部分 もあ る。 この歴 史的事実 は半歳 の た どる宿命 を暗示 し、彼の考 えや行 動 を 導 き出す伏線 であ る。 半歳 が結婚 してほぼ十年後、半歳 はあ る行 動 を とる。 その行動 は、 自らの位 置 を見つめ よ うとす る作 業 で もあ る。 その十年 間には黒船 に対す る沿 岸警備 の政策、江戸大地震 に よる水戸 の国学 者藤 田東湖 の死、神 奈 川条約 の締結、安政 の大獄 、威 臨丸 の渡米、桜 田門外 の変、和 宮の降嫁、坂下 門 外 の変、生 麦事件 な どを中心 としてつ ぎつ ぎに伝 え られ た。 そ して京都 を中心 に撰 夷排外 熟が高 ま って い る時点 に至 っては、宮川寛密の もとで半歳 と共 に学 んだ浅 見景 戒 と蜂谷雷蔵 は京都 に出か け、 国学 者 た ち と行動 した。半歳 は 「どうも心 が騒 い で仕 方が ない (第七章二節)(15)」としなが らも、逆 に山の 中に入 ったの であ る。御旗神社 へ の参龍 で あ る。 父書左衛 門の病 を祈 るため もあ ったが、 自 分 が どの よ うに今 後行動 すべ きか を、探 るべ く内 省 の ため であ った。騒然 とした時代状 況 とはか け 離 れ た位 置に藤村 は半歳 を導 く。 よ うや お 「漸 く。さうだ、漸 く半歳は騒 ぎ易い心 を沈ちつけ るにい 、や うな山里の中の山里 とも言ふべ きとこ ろに身を置 くことが出来た。王瀧は殊に夜の感 じが あかり t, 深いO暗い谷底の方に燈下の壮れ る民家、川の流れ tIや を中心に湧 き立つ夜の霧、すべてがひっそ りとして 163 ゐた。督暦四月のおぼろ月のある頃に、この静かな 森林地帯-やって釆 たこ とも、半歳 をよろこぼせ た。 (第七幸三節)」(16) そ して半歳 は状況 を省察す る。 あへ 「擾夷- 戦争 をも敢て辞 しないや うなあの殺気 を帯びた馨はどうだ。半歳はこのひっそ りとした深 山幽谷の問-来て、敬慕す る故人の前に濁 りの自分 を持って行った時に、馬龍の街道であ くせ くと奔走i す る時にも勝 して、一層はっ きりとその馨を耳の底 に聞いた。景歳、香歳の親 しい友人を二人までも京 都の方に見送った彼は、ぢつ としてはゐられなかっ はや た。熟する頭 をしづめ、逸る心 を抑えて、平田門人 としての立場に思ひを潜めねばならなかった。その 時になると、同 じ勤王に志す とは言って も、その中 には二つの大 きな潮流のあることが彼に見 えて来 た。水戸の志士藤田東湖等か ら流れて来 たもの と、 本居平田諸大人に源 を費す るもの と。この二つは元 来同 じものではない。名高い弘道館の碑文に もある あが や うに、神州の道 を敬ひ同時に儒者の敦 をも崇める のが水戸の傾向であって、園学者か ら見れば多分に か らごころ 漢 意の混ったのでもある。その傾向を押 し進め、囲 家無窮の恩に報いることを念 とし、楠公父子です ら 果 さうとして果 し得 なかっ た武将の夢 を賛現 しや うとしてゐるものが、今の擾夷 を旗印にす る討幕運 動である。もとより擾夷は非常手段 である。そんな 非常手段に訴へて も、異木和泉等の志士が起 した一 派の運動は行 くところまで行 かずに置かないや う な勢 を示 して来た。 (同)」(17) そ して平 田篤胤の 『静の岩屋』 を開 き異 国につ いて語 る部分 を 目にす る。 その一部 をつ ぎに引用 してお きたい。 はて オ ラン3f さて又、近頃西の極 なる阿蘭陀 といぶ園 よ りし て、一一種の学風おこ りて、今の世に蘭学 と栴す るも の、即 ちそれでござる。元来 その国柄 と見えて、物 ことはり はなは よつ の理 を考-て考-究むること甚だ賢 く、仇ては硬明 の説 も少なか らず。天文地理の撃は言ふに及ばず、 器械の巧みなること人の 目を驚か し、曽薫製棟の道 こと ふみ 殊に くは しく、その書 ども、つ ぎつ ぎと渡 り来 りて 世に弘まりそめたるは、即 ち神の御心であらうでご - 111-ざる。 ・-- (略)・-t・ さて、その究理の くは しさは、悪 しきことにはあ ら か あか えhし まこと ざれ ども、彼の紅 夷 ら、世 には鼻の神 あ るを知 ら ことはり ず。人の智は限 りあるを、限 りなき寓づの物の理 をし 考へ究めん とす るにつけては、強ひたる説多 く、元 くに.芸)) よ りさか しらなる国風なる故に、現在の小理にか ゝ はって、かへつて幽神の大儀 を悟 らず。それゆ-に その説至って究屈に して、我が古道の妨 げ となるこ とも多いでござる。きりなが ら、世間の有様 を考ふ るに、今は物 ごと新奇 を好む風俗 なれば、この学風 も需俳の道の衆えたるごとく、だんだん と弘 まり行 くことであらうと思はれる。しか らんには、世のた め、人のため とも成 るべ きことも多か らうなれ ど も、又、害 となることも少 なかるまい と思はれ るで よきこと まがごと ござる。是 こそは彼の音事 に是の凶事のいつ ぐべ き 世の中の道なるをもって、さや うには推 し量 り知 ら とつ くに ぐに れることでござる。そもそもか くか く外国々よ り高 hほ み くに すめ らふかみ づの事物の我が大御国に参 り来 るこ とは、皇 神 た ちの大御心にて、その御神徳の虞大 なる故に、書 き すめ らh くlこ 悪 しきの選みな く、森羅寓象 ことご とく皇 国に御 とつくに 引寄せ あそば さる ゝ趣 きを能 く考-耕- て、外囲 よ り来 る事物はよく選み採 りて用ふべ きことで、申す か しこ おほみかみ たち みこころお きて も畏 きことなれ ども、是すなはち大 神 等の御心 淀 と思ひ奉 られ るでござる。 (同)」(18) さ らに半歳 の感 想 であ る。 「半歳 は深い溜息をついた。それは、自分 の浅草 と ころう 固随 と馬鹿正直 とを嘆息す る馨だO先師 と言へば、 A,i かつ 外国 よ り入って来 るもの を異端邪説 として蛇蝿 の や うに憎み嫌っ た人のや うに普通 に思 ほれて ゐる が、F静の岩屋jなぞをあけて見 ると、近 くは朝鮮、 支那、印度、遠 くは西の阿蘭陀まで、外国の事物が 日本に集 まって来 るのは、即 ち神の心であるといふ や うな、こんな廉い見方が してある。先師は異国の ほん ねん 借物 をか な ぐり捨て ゝ本然の 日本 に掠 れ と敦- る tJ T-A 人であって も、無闇にそれを排斥せ よとは教-てな い。 (同)」(19) 断 って お きた いが、 ここ までは半歳 が参 寵 す る 前 夜 での場面 であ る。 では参寵 中の半歳 の思 いは どこに向 ったか。 時代 の波 が襲 った馬寵 のみ な ら ず木 曽路 に向 ったので あ る。 参蔓見交代 制 度 が崩 れ - 11 2-て きた以降 の で きご とであ る。 「F憐むべ き街道の犠牲。』 と半歳は考-つ ゞけた。上は浪人か ら、下は雲助 まで、世襲過重の時代が生んだ特殊 な風俗 と形態 と が眼につ くだけで も、何 とな く彼は社食変革の思ひ を誘 はれた。庄屋 としての彼は、いろいろな意味か ら、下層にあるもの を護 らぬばならなかった--= ふ と我に返 ると、静かな讃経の馨が半歳の耳に入 モ と った。にはかに明 るい 日の光 は、屋外にある杉の木 立 を通 して、社殿に満 ちて来 た。彼 は、単純 な信仰 に一切 を忘れてゐるや うな他 の参寵者 を眼の前 に おのれ 眺めなが ら、雑念の多い自己の身を恥 ぢた。(第七章 四節)」 (20) 帰 り際 に半歳 の決 意 が示 され る。 「Fさうだ、われわれは どこまで も下か ら行か う。庄 屋には庄屋の道があ らう。』 み・プ ご り と彼は思ひ直 した。水垢離 と、極度の節食 と、時に は瀧に まで打たれに行っ た山罷 りの新 しい経験 を もって、もう一度彼は烏龍の贋長 としての勤めに菖 らうとした。 (同)」 (21) か くて青 山半歳 は三 十三 歳 に して、 自分 の位 置 を確 かめ、生 涯 の方 向 を定 め た。 この よ うに半 歳 を藤村 が描 くとき、 その意 図 は明確 に な る。 学 問 をす るこ とで 自らの精神 世 界 を確 立せ しめ、現 実 社会 の、時 として人々 の運 命 を変 えて しま う種 々 の事 象 の 中での関 わ り合 い を ど うす るか に狙 い を 定 め て思慮 を深め させ る。 半歳 は この考 えに沿 っ て描 か れ たの であ る。 そ して西洋文 化 の象徴 と し て 「黒船 」 を捉 えた藤 村 は、半歳 を社 会 との関 わ り合 いの 中で描 き、 あわせ て フ ラ ンス体 験 で得 た 思索 を もこの小 説 の 中で具 現 化 したの であ る。
Ⅴ-1
F夜 明け前』 の一 節 に次 の よ うな部分 が あ る。 討幕運動 が進 み、水 戸 の浪士 が伊 那 か ら馬寵 を経 て通過 した後、半年 が経過 した頃 で あ る。 「偏 りに楠公の意気 をもっ て五つや うな人が この 徳川の末の時代 に起って来て、往時の足利氏を討つ佐々木淫 F新生』から 『夜明け前i- (7) や うに現在の徳川氏に菖 るものがあるとして も、そ の人が 自己の力 を過信 し易 い武家であるか ぎり、ま た また第二の徳 川の代 を繰 り返す に過 ぎないので はないか とは、下か ら見上げる彼のや うな ものが考 へずにはゐ られなかったことである。どんな英雄 で もその起 る時は、民意の尊重 を約束 しない ものはな いが、一旦権力 をその掌中に収めたとなると、嘗て 民意 を尊重 した ,め しがない。(第十一幸三節)」 (22) 武 士 た ちの討 幕運 動 を聞 き、考 え た末 での思 い で あ り、半歳 は さ らに考 え を展 開す る。 「考へ僚けて行 くと、半歳は一時代前の先輩 とも言 よしゆき ふべ き義髄に何 と言っ て も水戸 の奮 い影響 の働 い てゐることを想ひ見た。水戸の学問は要す るに武家 からごころ の草間だか らである。武家の草間は多分 に漠 意の混 っ た ものだか らである。 (同)」 (23) この義 髄 とは伊 那 の倉 滞義 髄 で、半歳 に は国学 を 通 じて の先 輩 に な る。 だが義髄 の場合 は水 戸 学 か ら入 り、平 田派 に移 った とい う事 情 が あ る。水 戸 浪士 が通過 した後 、 京都 に 向か い勤皇 の志士 た ち と交 流 し、 帰郷 前 に 馬龍 に立寄 ったの で あ る。 そ の旅 の話 を聞 い た後 での半 歳 の思 いは ひ とつ の結 論 に至 る。 「武家中心の時は漸 く過 ぎ去 りつ ,ある。先輩義髄 が西の志士等 と共 に墓策す る ところの あっ た とい ふ ことも、もしそれが 自分等の生活 を根か ら新 しく す るや うな ものでな くて、徳川氏に代 るもの出でよ といふに と ゞまるな ら、日頃彼が本居平 田諸大人か ら畢んだ中世の否定 とはか な り遠い ものであっ た。 その心か ら、彼は言ひあ らは しがたい憂 ひを誘 ほれ た。 (同)」 (24) そ して本 居 宣 長 を読 んだ後 の半歳 の解 釈 で あ る。 これ は その まま藤村 の解 釈 で もあ る。 「多 くの覇業の虚偽、国家の寧奪、権謀 と術数 と巧 智、制度 と道徳の仮面なぞが、 この F直毘の震』に 笑ってある。北条、足利 をは じめ、織 田、豊臣、徳 川 なぞの武 門の こ とはあか らさまに書かれていな いまで も、す こし注意 して これ を謹むほ どの人で、 165 この園の過去に想ひ致 らない ものはなか らう。『直 あめ した 毘の露』の中には又、中世以来の政治、天の下の御 か らごころ あをひと ぐさ 制度が漠 意の移っ た もので、この園の青人草の心 ま すめ らふ こと で もその意に移っ た と欺 き悲 しんであ る。『天皇尊 おは み こころ の大御心 を心 とせず して、己々が さか しらご 、ろを あ だ し くlこ 心 とす る』のは、即 ち異 国か ら学 んだ ものだ と言っ てある。武家時代以前-- もつ と精 しく言へば、 楠氏 と足利氏 との封立 さへ なかっ た武家以前-の おん 暗 示 が こ ゝに輿 へ て あ る。御 世 々々の 天 皇 の御 まつりごと 政 はやがて神の御政であっ た、そこにはおのづか らな神の道があった と教-てある。神の道 とは、道 ことあ といふ言挙げさへ も更になかった 自然だ、とも敦へ てある。 この 自然に締れ、といふ風に、後か ら歩いて行 く ものに全 く新 しい方 向 を指 し示 したのが本居大人 の F直毘の露』だ。 この歓 びを知れ、 といふ風に言 は ひ 葉の探求か ら這入っ た古代 の鷺兄 を くは し く報告 した ものが、翁 の三十徐年 を費 した 『古事 記侍
』
なはぴ だ。直毘 (直び)とはおのづか らな働 きを示 した古 すこや い言葉で、その力はよ く直 くし、よ く健かに し、よ く破 り、よ く改め るをいふ。囲尊者の身震ひはそこ か ら生れて来てゐる。翁の言ふ復古は更生であ り、 革新 である。天明寛政の年代 に、早 く夜明け を告げ に生れて来 たや うな翁 の指 し示 して見せ た ものこ そ、 ま こ との 革 命 へ の道 で あ る。 (第 十 二 幸 四 節)」 (25) そ して もう一 節 を引用 す る。 『夜 明 け前』第二部 に入 って、つ ま り明治期 に な ってか らの征 韓論 が 展 開 され て い る ときであ る。 歴 史的記述 の部分 で 藤 村 の含 みが あ る として よいだ ろ う。 い は ゆる 「所謂壮兵主義 を抱 く豪傑連の中には、あわた ゞし い世態風俗の移 り奨 りを見て、迫々の文明開化の風 なげ の吹過 しか ら人心 うた ゝ浮薄 に流れて来 た との慨 きを抱 き、甚 しきは楠公 を権助 に比す るほ どの偶像 破壊者があらはれるに至 った と考へ、か ゝる天下柔 弱軽桃の気風 を一撃 して、国勢の衰- を同復 し諸外 き ゆ 国の親観 を絶 たねば ならない との意見 を持つ もの があるや うになった。古今 内外の歴史 を見渡 して、 て きがい 外は外囲に侮 られ、内は敵保の気 を失ひ、人心は惰 弱に風俗 は 日々頼麿 しっ 、あ るや うな危殆極 る国 家は、これを政ふに武の道 を以てす るの他、決 して -113-他の術がないとは、それらの人達が抱いて来た社合 改革の意見であったoそれには文武共に今 日改造の 途上にあることを一席考慮 しないではないが、- 卜 先づ文教を後廻 しにする、この際は断然武政を布い て国家の猫立を全 うするためには外国 と一戦す る の覚悟 を取る、それが園を興すの早道だといふので ある。 (第二部第十三幸三節)」 (26) 征韓論 を主張す るものの言であるが、 その まま昭 和初期 の時点で展開 して も不 自然 とはな らない。 藤村が これ らを書 くとき、読者 は藤村 な りの明治 維新否定論 の展 開 として受取 って しまうだろ う。 つ ま り、維新 を成 し遂げたのは勤皇の志士 であ り、 水戸学派の流れ を汲んだ武士 であ る。半歳の期待 はみご とに裏切 られたのであ る。 その流れは明治 期 を経 て、藤村 の記す 「牡兵主義」 となって、大 正、昭和へ と連綿 とつ なが ってい る。 藤村が この F夜明け前』 を書 き始め たのは
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午 (昭和4
)であ る。すでに治安維持法 は成立 し、 満州事変 を経て、 日本が国際連盟 を脱退 した後 に 小説は完結 している。藤村 自身が生 きている時代 を意識 しない とは言 えまい。む しろこの作品 を書 くことで 自らの役割 を果たそ うとしているとして おやじ よいはずだ。「義父 は太平洋戟争 を批判 してい まし た」 と四女柳 子 氏 の夫、井 出五 郎 氏 は語 って い る(27)。 これ よ り数年前、小海線の車 内で偶然筆者 に出会 った井出氏は語 った。
「真珠湾攻撃 に成功 おや した とき朝 日新 聞に コメン トを求め られ たが、義L一 父は拒否 したよO」近親者に語 る内容 を我々は容 易に否定 で きないだろ う。 ともか くも、藤村は 『夜明け前』 を書 き上 げ る ことで、初めて 自らの位 置 を不動の ものに したの であ る。六十四歳 の ときであった。Ⅴ-2
F夜明け前』 には歴史的事実が環境 として設定 されて一人の人間が描 き出されてい る。 この他 に 藤村の作 品で社会性 を帯びた ものに 『破戒』が あ るのは良 く知 られている。 この 『破戒』 を読み終 えてや りきれなさを味わ うのは筆者ばか りではあ るまい。主人公瀬川丑松が父親 に 「隠せ」 と言わ れた戒め を破 り、教 え子たちの前で土下座 を しな が ら明 らかにす る。教 え子たちに慕 われ なが らも -11 4-テキサスへ行 こうとし、恋 人お志保 との結婚生活 も暗示 されて終 っている。丑松 の新生活に明 るい 未来が来 る と想定 して も良いはずだ。 だが その場 面 を読者が思い描 くこ とはで きて も、霧がかか っ てい るようで判然 としないだ ろ う。作者藤村がア メ リカでの生活 を具体 的には表現 していない し、 読者が その地 での生活状態 を知 らなければなお さ らである。 しか しこれは問題 にな らない。 問題 とすべ きは丑松が部落 出身者 とされた宿命 とい う点である。時代 は藤村が小諸 に滞在 した時 期、つ ま り明治三十年代 として良いだろ う。部落 解放 の水平社運動が始 まる以前であ る。 明治政府 が 「新平民」 とす るこ とで身分差別 をな くした と して も表面的に過 ぎず、差別 は厳然 と残 っていた 時代 であ る。支配階級が江戸時代 の名残 りを積極 的に解消 しないで、分 断政策 として温存 していた と言 うべ きであろ う。 ところが丑松 は 自らの境遇 を天か ら与 えられた もの として捉 えてい る。変 え ることので きぬ どうに もな らぬ宿命 として受 け止 めてい る。 その上、勉学 をして師範学校 に進み、 教 師の道 を選 んだこ とさえ後悔 している。 「共時に成って、丑松は後悔 した。何故、自分は草 間して、正 しいこと自由なことを慕ふや うな、其様 かんがへ な思想を持ったのだらう。同じ人間だといふことを 知 らなかったなら、甘ん じて世の軽蔑を受けても居 られたらうものを。何故、自分は人らしいものに斯 世の中へ生れた来たのだらう。野山を騒け歩 く獣の くる しみ 仲間ででもあったなら、一生何の苦痛 も知 らずに過 されたらうものをO(F破戒』第拾九章七節)」 (28) 丑松 が学問 をしたことで構築 したはずの想世 界 は実世 界におけ る自らの位 置 を正 当化 し得 るもの にはな らなか った。猪子蓮太郎の よ うな行動 を取 るほ どには社会 を未だ見定めてはいか 、O'丑松の 師であ る蓮太郎 は 自らの出身 を恥 としない。蓮太 郎 自身の構築 した想世界があって 自分 の思想 に基 づ いて行動 しているのであ る。丑松 は蓮太郎の世 界 を知 っているはずだ。だが行動 にはな らない。 宿命に、実世界に翻弄 されてい る。 こ うした丑松 を見てい ると、藤村が 「こんな 自分 で もどうにか して生 きたい」 とす るこ とを想起 させ られ る。実 世界 を如何 ともしがたい とす るこ とは、 自らの内佐 々木 経 F新生』か ら 『夜明け前i - (7) に秘 めたる想世界 をもって して対峠せ ん として も 実世 界の優越性 を前に して膝 を屈す るこ とに他 な らない。 これがために 『破戒』が形の上か らでは - ッピーエン ドとな り得 て も、読む我々にや りき れなさを抱かせ るのであろう。 では、『夜明け前』の青 山半歳の場合 は どうか。 半歳 に して も江戸末期 に生れ、政治体制の変革 を 体験す るほ どの激動の時代 に生 きた。国学 を通 じ て 自らの想世界 を作 り上げ、蓮太郎の ように行動 したが、丑松 の師 と同様に犠牲者 となった。 この 半歳 もや は り実世界ので きごとに翻弄 されている。 街道筋の烏龍の宿役人 としての宿命 を与え られた が故 に支配者 と被支配者の間で板挟みになった。 座敷牢 に入れ られなが らも、 うたを読み、最後 に は狂死 した。 この半歳 も実世界 を前に して膝 を屈 したのである。読者は 『破戒』 を読み終 った とき の ようにや りきれなさを抱 くだろうか。 む しろほ っとした気分 にな りは しまいか。読者は半歳 とい う人間 と共 に生 きた とい うこと、作者藤村に導か れて半歳の生涯 をつぶ さに見た とい うこ と、 これ らが読者に、上 に書いたような気分 を生 じせ しめ るのであろ う。 今 、筆者は 『破戒』 と 『夜明け前』の主人公 た ちは宿命 あるいは実世界に翻弄 された とした。 だ がそこに違い を見つけ ることがで きる。 この二つ の作 品において、藤村による宿命あるいは実世界 に関す る認識の仕方が違 っている。半歳 を描 き出 す場合、作者が歴史的事実 を叙述す ることで主人 公の位置 を明確に し、国学 を通 じて、実世 界にあ っては どう対応すべ きか を想世 界の中で確立せ し めた。『破戒』の場合 にはこのような設定がない。 定め られた宿命に翻弄 され、痛めつけ られ る人間 が描 き出され るのみだ。丑松の宿命が、 そして部 落 とは何 であ るか を説 くことな しに読者はい きな り丑松の心の中に導かれて しまう。丑桧 の心境 を 通 じて部落問題 を小説化 させ ることで、同時に現 実 を暴露す ることで社会 を告発 した作 品 として良 いだろ う。だが先に も書いたように 「どうにか し て生 きたい」 とす る作者藤村 自身の考 え方が反映 されているがために、『夜明け前』の ような充実感 を与 えていない。 167 Ⅴ-3 島崎藤村の最 も苦 しかった時代 は、明治末期か ら大正初期 にかけてである。妻フユが他界 した頃 か ら子供 たち全員 をひ きとって生活 を始めた頃ま でである。年齢か らすれば
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才か らほぼ十年間 と い うことになる。この間に著 された長編作品は『樽 の寅の熟す る時』と 『新生』であ る。 『樫の寮』が 破棄 されて 『樫 の寮の熟す る時』が書 き始め られ たのはフランス滞在 中である。 この二つの作品の 主人公は同姓 同名 であ り、『樫の薫の熟す る時』で は主人公が十代後半が、『新生』ではそれ よ り二十 数年後の四十代前半の体験が展開されている。 内 容 はいずれ も女性に関わるこ とである。『樽の賓の 熟す る時』が女性 と別れ るこ とで終 っているのに 比 して、『新生』は同 じ別れで も相互の信頼 を得 て の別れである。 『樫の章の熟す る時』はこの十年間 の半ば過 ぎに書かれ、 『新生』は前半部分 を対象 と して後半部分の時に書かれている。つ ま り、『襟の 葉の熟す る時』は姪 との関係 を冷静に見つめ始め た時 (フランス滞在 中)に 自らの十代 を振 り返 り なが ら書 き始め たのである。 これは藤村 自身が直 面 している問題 を乗 り越 えんがための作業に他 な らない。 このこ とばか りでな く、 フランス滞在 中 に知 ったことも含め、 この苦 しい時期 をただ苦 し い とす るのではな く、新 たな生 を得 るがために絶 えず思いをめ ぐらしていたのである。 『新生』 を書いた動機 を藤村は時代 のデカダン な状況につ るは しを打 ち込 んだ としている。 だが、 本論で明 らかに して きたように 『新生』は、近親 相姦 とい うぬ きさしならぬ状態か ら 「幼い心」 を 得て 「信」 を得、世 に発表 し、兄か ら義絶 されて も動 じない課程 を描 き出 した ものである。藤村が 本来の 自分のあるべ き姿を見定めた上で、 自らの 世界 を確立 したのである。小説作 品 として世に公 表す ることで予想され る様々な反響 を気にはすれ ど、書 き続けた。 この藤村の姿勢は 自己の想世界 が確 固 としてい るが故 である。 もちろんこの世界 には対社会 とのこと、西洋文明の受け留め方 も含 まれている。筆者はこれ を自我統一(
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i)とした。藤村はこの時になって、初めて 自ら の位 置、役割 を含めた 自己の生 きる価値、存在価 値 を明確 に知 ったのである。雑誌 「虞女地」 を主 宰 し、子供 たちのために種々の童話 を書いたのは - 1 15-その ため であ る。 この よ うな状 態 に至 って初 めて 『夜 明け前』の 執筆、完成 は可能 になったのであ る。単 に青 山半 歳 の生涯 を追 うのではな く、歴史的事 実 の叙述 を 及ぶ限 り詳細 に記 し、外国人の見 た明治維新 前後 の 日本 を描 き出す こ とで半歳 の位 置のみ な らず、 世 界の 中の 日本 と日本 人、 そ して 日本の文化 を照 し出 したのであ る。 さらには半歳 が実世 界に屈 し た姿 を描 くこ とに よって、明治維新 以後 の、 そ し て作 品が発表 され た時点での 日本の政 治 に対 して 異議 申 し立 て を行 ってい るのであ る。 筆者の主張 したい こ とは もう理解 されてい るこ とだ ろ う. F新 生jを著 したこ とは藤村 自身の世 界 の確 立、透 谷の言 う想世 界 をさらに深め たの であ る。想世 界に逃 げ込 むのではな く、社会 との関 わ り合 い を拒否す るのでな く、積極 的に関係 してい く。藤村 は作家 として F夜明け前』 を著す こ とで 自己の姿勢 と関 わ り方 を提示 したの であ る。 (了) (ささき とお る 教授) (1991. 9. 6受理) 【