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宗教と音楽 : 宗門の現代化に関連して (学長米寿・新校舎落成記念号)

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Academic year: 2021

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(1)

︵一︶ 宗学の現代化と云う事がさかんに云われ多くの人々に依り真剣に研究されて居る。たしかに宗学の現代化は根本的 な課題であり急務である事にちがいはないが、実践活動面に於ける現代化もこれに劣らず焦眉の問題である。実践活 動と云っても対象目的方法等の点から見ると非常に広い領域が考えられるが、一番身近な基本的な問題として法要儀 式をとり上げて見ても、寺院の建築様式や生活様式の変動、若い人々の時代感覚等と考えあわせるとこの感を深くせ ずには居られない。今の若い人々に長時間正座を要求する事は特殊な場合はいざ知らず一種の難行苦行となっても決 してすがノ、しい法悦とはなり得ないと思う。先師が長い年月に豆り築き上げた法要儀式を尊重しこれに習熟しなけ ればならない事は勿論であるが、戦後各地に於て伝統的建築様式を改めて時代に即応した新らしい多角的機能的な本 堂の建築がなされつ上ある今日、時として洗練された宗定法要式でさえも反って儀式の雰囲気をそこねる様な場合が 予想される。そこで当然新らしい生活様式や建築様式にふさわしい法要式が必要となって来ると思う。 戦後の宗門に於ては立正平和運動や護法大会等の大集会が各地で催されて来た。これらの集会は人員等の関係から

宗教

と音楽

l宗門の現代化に関連してI

秋山智孝

(80)

(2)

寺院の本堂を用いる事が出来ずほとんどが何々会館と云った大ホールが使用されて来た。これらの集会は大低法要と 識淡が二つの柱となり時として消興が行なわれて居る様だが、ほんの一寸した工夫によって集会の雰囲鉱を磯り上げ た例を聞いて居る。例えば従来の法要式からすれば照明の考慮など余り問題にしては居らないが、会館ともなると照 明設備が完備して居るので照明効果を利用することによって予想外の効果をあげることが出来る。先頃朝日新聞学芸 棚の減劇と照明についての記事の中で、屯灯照明の発達につれ役者の化粧法が変化した事が述べられて居た。江戸時 代の行灯の照明と現代の電灯照明とでは雲泥の相違があるので当然の結果と思う。従来の薄暗い本堂についてももっ と職極的に照明効果を考えるべきではなかろうか。 以上の如く法要式のほんの一部について考えて見ても現代化について研究しなければならない点が多くある事に気 がつく。先にも述べた如く実践活動面に於ける現代化と云う事は、方法目的対象等の点から極めて広い範囲に亘る が、われわれの宗教生活の中で一番大事な事は三宝給仕であり法要儀式であるが、同時に大切な事は各々の心奥にあ る宗教心によって規正される一切の思想行動である。法要儀式と云う純粋面よりむしろ日常生活の中にこそ宗教の本 領が発揮されねばならない。日常生活と云えば欠く事の出来ないものとして音楽が挙げられる。ラヂオテレビの驚異 的発達のもたらしたものは音楽の氾濫であると云われるが、仏教流に云えば悉有音楽とでも云え様か?尤も宗教も音 楽も起源は同一で次第に分れて来たと云うのが宗教学上の定説であるが、或る意味ではわれわれの日常生活は音楽生 活であると云われる。呼吸の二拍子を始め脈脚食事等々挙げれば限りがない。 音楽は一般にリズム、メロディ、ハーモニーの三要素からなると云われているが、音楽にとって何よりも重要な事 は音声である。音声なくして音楽は成り立たない。然し不思議な事に音声が無くともわれわれは妙なる音楽に心を誘 (81)

(3)

ある。 人工衛星が打上げられてから世界は極度に狭くなった。衛星を利用してテレビ放送は世界中に同時放送出来る様に なり、人類は放送を通し世界中に起こる事件について地球上の如何なる場所にあっても同時に知り考える事が出来る 様になった。この事は人類平和の上に光明を与えるものである。然しまだ満足出来ない点がある。言語の異りが障碍 である。若し人類が同一の言語を使用して居たならば現代を遥かに上廻る高度の文化を刺造し平和な世界を築き上げ ただろうと思う。では世界共通の言語はないだろうか、若し強いてあげるならば音楽は世界共通の言語であると言え る。小林一郎、山田三郎と云った人々が海外にあって教会の音楽に強く心を打たれしばノ、教会へ音楽を聞きに行っ たと云う事を聞いて居る。宗教の本質として感情的方面が亜視されているが音楽も又、人間感情表現の重要な一面で はない。 様三拍子のリズムにのって始めて好記録が得られる。して見れば広い意味から宗教とスポーツも決して無縁のもので 盛にな?た・ハレーボールはこの代表的なもので三拍子のリズムにのって始めて相手を攻撃する事が出来、三段跳も全 類である。スポーツも同様である。体操などは無声の音楽を奏でるものでなければ立派な演技とはなり得ない。戦後 われる事がある。一幅の苔にリズム、メロディ、ハーモニーを感じてえも云われぬ音楽的快感に打たれるなどはこの 古来談門に於ては音楽は余り亜視されて居らなかった。これは宗門の性格と云うか宗風から云って当然である。身 人のあるところ宗教あり、人の住むところ音楽あり、仏教の現代化を考える時音楽を無視する事は出来ない。 ︵一一︶ (82.)

(4)

延山史を見るに弘安四年十月十間四面の本堂開堂の際、一日経を修し延年の舞楽を奏しているがこれは宗門に於ける 音楽法要の崎始と云ってもよいと思う。延年の舞は大衆郷七番、児の舞十二番、舞師楽頭楽人四十余人と云われてい るところから見ると、これらの楽人が如何なる系統の人か如何程の技量かわ分らないが静寂な身延の山に典雅な韻律 を奏で開堂の式典をいやが上にも荘厳ならしめた事は想像にかたくない。四十有余人の楽人を擁すると云う事は種々 な面で困雌な事ではあるが爾後次第に衰微してしまったらしい事はまことに残念な事である。 身延山史によれば明応年間に至り朝帥は舞殿を建立し舞楽を復興し、年中行事の中、正月二日に﹁振舞﹂十月六日 夜に﹁大衆舞﹂を稽古し、十二日の逮夜には祖師堂に正面する舞台に於て大衆舞を行った事が知られる。又年中行事 の法要にはかならず﹁楽﹂を川いて居り、識、惣礼、散華、梵音、対揚、和讃、伽陀等が年中行事の法式の中に用い られて音楽に力をそ典いで居る。 又遠師も声明に関して理解が深く近来まで身延流として伝えられた声明は遠師の力によると云われる。元政上人は 物の啓発は音声より先なるはなしと大乗寺鐡銘に記されて居るが、朝夕の鈍声は刻を知らせる生活の基準とも云うべ きものであり、同時に微妙の梵音よく仏性を覚醒するを指したものと思う。 宝暦十一年辰帥は従来伝えられた十三の曲目が稽古をおこたり減少して居るのを憂えて舞楽を奨励し、二月より八 月までの間毎月二十五日の榊古日を命じて居る。 文久元年琢師は楽人を奨励雑役を免じ手当を支給する等、音楽に関する徒を定めた。宝暦に比べて曲目も十七曲に 期加している。 明治になって田中智学師は宗門の維新に於て、第三十三宗門ノ音楽︵一宗独立ノ音楽ヲ大成シ到ル処二宗風宣揚ノ (83)

(5)

補助タラシムベシ︶とし、音楽ノ独立ハ、即チ国家ノ独立也、宗門独立ノ音楽ナキハ、即チ宗門ノ声ナキ也、儀式典 礼二於テモ、仏教伝導二於テモ、家庭二於テモ、行歩二於テモ、乃至行住坐臥ノ間、妙家的如節ヲ調詠鼓舞スベキ音 楽ヲ要ス、是し宗楽創建ノ止ムベカラザル所以也、而シテ其ノ種類ハ、﹁儀礼的音楽﹂﹁布教的音楽﹂﹁家庭的音 楽﹂﹁教育用音楽﹂等一一シテ、楽式ハ雅楽浄楽等各等佳ナルモノヲ採リテ、宗風発揚ノ意匠ヲ音譜二表現シ、或ハ雄 大壮烈﹁如挑修行抄﹂﹁側目抄﹂ノ気洲ヲ海シ、或ハ暢迷明快﹁身延抄﹂ノ意ヲ調シ、或ハ厳粛堂々﹁撰時抄﹂ノ旨 ヲ謡上、或ハ波潤層々﹁御振舞抄﹂二或ハ情致温綿﹁乙御前抄﹂二、妙照妙寂無窮ノ祖徳ヲ光発シ﹁宗風美﹂ノ感化 ヲ洽クスルハ、凱節妓郷ノ方便トシテ、又文明的ノ粧厳トシテ、尤モ欠クベカラザルモノ也、乃チ専門堪能ノ士ヲ挙 ゲテ之ヲ大成セシムペシ。と述べて居る。爾来大正、昭和三代を通じて師の如き確乎たる音楽論を聞かないまことに 卓諭と云うべきである。帥は又第三十四、本山ノ内容に於て、妙宗教学寮、宗学専門尋常学科トシテ、一般僧侶ノ ﹁宗門的教育﹂ヲ受クベキ所ニシテ、分科如左、として妙宗音楽︹演奏、歌謡︶の一科を挙げ、又妙ボ初心学寮、教 学寮ノ予備門ニシテ、分科如左、として妙宗音楽︵滅奏、歌謡︶の一科を入れて居る。 又妙宗優婆夷林、本氷姉人教育ノ模範校ニシテ﹁寺家﹂及﹁教家﹂ノ妻子タルベキモノヲ養成シ、兼テ一般偏徒ノ 婦女子ヲモ教育ス、凡ソ左ノ課目ヲ備フ、として、音楽︵演奏、歌謡、教授方実修︶の一科を入れて居る。 師は更に唯一本山設計図の中に音楽院を入れて居る。宗門音楽の創建について雄大なる柵想である。 この様な師の音楽観は一体何処から起ったであろうか、天性豊かな宗教的文芸性によるは勿論であるが、明治以来 各地にキリスト教の伝導がくり広げられそこに流れる優美なる讃美歌のメロディを正しくキリストの声と受け取った 事と思う。音楽の独立は宗門の独立也、宗門独立の音楽なきは即ち宗門の声なき也の叫びはここに発したと云えない (84)

(6)

だろうか。 以上櫛見ではあるが先師の音楽観について述べたが、身延山史について見るに復興と表徴、の繰り返しで伝統を墨 守する事のみに亜点がそ上がれて居て音楽が法式の中に重要な役割を果すと云う事は充分承知してはいたものL、独 自のものを生み出し発展させるまでには至らなかった。唯声明に於て身延の特色あるものが若干生みだされた程度で あって、宗祖が都から速く離れた身延の山中に於て舞楽を奏せられた事実を軽視してはならないにもか典わらず発展 が見られなかった事は残念な事である。これも無理からぬ事で現在の宗門人の音楽に関する考え方を見ても理解され 現代化の中で特に音楽はどうあらねばならぬかと云うと、先づ音楽とは何か、宗教音楽とは何かと云う事が問題に なると思うがこれはしばらく措いて、更に仏教背楽とは何かと云う事が問題になると思う。藤井制心氏は仏教背楽史 概説の中で﹁仏教の音楽﹂と﹁仏教的音楽﹂とに分け、前者は旧仏教音楽であり声楽面について見ると輝明音楽を中 心とし催馬楽、朗詠、今様等を含み、器楽の面で伎楽、林邑楽、雅楽、の一部等を含むとし、後者は新仏教音楽であ り御楽而に仏教聖歌、識仏歌、仏教氏謡、舐謡等を含み、器楽面に仏教交稗楽、協奏曲等、仏教的ヴァイオリン曲、 オルガン曲等があり、声器両面に関するものとして交響仏教詩曲、歌劇尋を挙げて居る。師は更に、仏教音楽と云う 字義を考察するに、本質的に仏教と音楽と云う二価値概念より合成されている。宗教的価値即聖的価値と芸術的価値 即美的価値の合成融合されたものこそ仏教音楽と称する事が出来ると述べているがこれに異論はない。現代化で特に る事である。 ︵ 一 二 ︶ (85)

(7)

問題となるのは後者即ち新仏教音楽であって如何にして仏教的宗門的音楽を創り出すか、又対象、目的に依りどの様 に区分するかと云う様な点についても考えねばならない。 仏教的気分を表現する為に試みられて居る方法として 1、伝統的音階、戒明等の旋律及びこれらから発展した日本旋律を用いる 2、歌詞を仏教的なものに採り、旋律は西洋の音階を用いる。 3、右の何れにも属さないで、新らしい独自な面を聞こうとするもの がある。1については線香臭い、2についてはキリスト教の讃美歌だ、・ハタ臭いと云う批評がある。 仏教的な気分、その中で特に宗門的気分はどの様にしたらよいか、田中智学の雄大壮烈凡暢達明快、厳粛堂々、波 澗胴々、情致温細、妙照妙寂無窮の祖徳を光発し宗風美の感化を治くする、を旋律、曲想に如何に表現するか非柑に むつかしい事である。曲そのものも大事であるが楽器の選定等も大いに研究されねばならない。曲の上で問題になる のは作曲者である。作曲技術と云う特極な智識技能を要するだけに、梢もすると作曲者の信仰の有無とか信仰の所属 とかに拘らず作曲を依頼する事さえある。要は出来上ったものがよければ良いと云う者もあるし、宗教的感情が許さ ないと云う者もある。 次に背楽の械獅であるが 2、布教のための音楽、信 3、日常生活のための音楽 2、布教のための音楽、信仰心をよび起すための音楽 1、法要儀式のための音楽 (86)

(8)

盆踊と云った類のもの、 のが考えられると思う。 効果をあげて居るが、唱い乍ら知らずノ、宗教的情操を養う事が出来れば一石二鳥である。 る。近頃テープレコーダを利用した睡りながら知らず知らずの中に記憶出来ると云うSL睡眠学習器が宣伝され相当 ばならないと発言していたが、悪貨は良貨を駆逐するの例もありむつかしい事で、ミイラになる事を怖れるものであ 究会の際、某キリスト教関係者から従来の識美歌にかわる、流行歌的なもの、家庭で戴楽にうたえるものにしなけれ 居ないので、家庭に於ける宗教教育の上からも是非ともこの種のものが必要である。先年大阪相愛大学の宗教音楽研 る。現在の宗門の音楽の中でこれを充たすものがほとんどない。現在公立学校に於いて宗教教育がほとんどなされて 活の中で唄うものでその時の気分に応じて気軽に唱える歌曲である。俗悪な歌謡の氾濫する中にあって殊に必要であ ならない。街頭上の救世軍の合唱が思い出されるが、二十数年曲に附いた印象が今以て忘れられない。3,は日常生 下甑結縁の助縁とするもの、邪信の者には信仰の寸心を改める糸口となり或は勇猛心を喚起せしめるものでなければ に思う。法要は僧侶まかせでなく、唱う事に依り一体感が出て来る。2,は折伏の音楽とでも云うか、無信の者には 外の者はや典もすれば参列していると云うか、自分自身も法要を営んで居ると云う凱分に徹しきれない場合が多い様 を考える必要があり、これに応ずるものが必要となる。法要の中で僧俗共に唱う歌曲が必要である。法要の際僧侶以 等が考えられる。1、何と云っても伝統的雅楽を中心としなければならないが、建築様式にふさわしい新しい法要式 4、としては、こどもの為の音楽、保育園幼稚園児のためのもの、日曜学校のためのもの、娯楽的なものとして、 盆踊と云った類のもの、各寺院特有なもの等を始めとし、純然たる音楽会等に川いられるもの等々この外に極々なも 4、その他 (87)

(9)

以上宗門音楽の現代化について述べて来たが、結論として、宗門独立の背楽なきは、即ち宗門の滋なき也、宗門独 立の音楽を確立しなければならない。それが為には宗門関係の音楽に関する専門の士を必要とする。借りものではい けない。作曲家のみでなく作詩に堪能の士も待望したい。田中智学の背楽院はさし当り今の音楽学校とでも云うか、 宗門にその力のない事は残念である。現に相愛大学は音楽学部を設撒して宗教音楽法要の研究を進めている。 そこで現代化に対する提案として 1、宗門内に音楽の飢運をみなぎらせる、 必要は発明の母と云うが、宗門音楽の必要性に目覚め、とぼしい乍らも現に作曲されて居るものをどしどし利用す る事により更に数的にも内容的にも優れたものを要求する様になって来る。そこで法要には少なくとも宗歌は必ず合 唱する。お題目識、お経練習の会等の中にも合唱を入れる様にすべきである。唱する。お題目識、お 1,は当然2、を要求する。1、の要求を充たすべく種々の研究が行なわれ、種々の曲も生れて来る。唐津法蓮寺 藤山英雅師は昭和廿七年に和文礼訓式を制め、檀家の子供達による合唱隊を編成し法要を営んで居る。又本仏寺の佐 野師は宮城通雄の作曲による讃歌を作り、梶山智孝尼は般近讃歌集第一巻を出版する等、現代化に対するかくれた実 践者がある事を聞いて居る。斯の様な宗門音楽に関心深い人達の協力に依り研究をす上めなければならぬ。 2、研究機関の設撒 3、音楽家の養成 ︵四︶ (88)

(10)

宗門子弟の中で音楽家を養成する。宗門信徒中音楽家の協力を求める事も必要である。 4、僧侶養成教科の中に音楽技術を入れる。 僧侶養成教育機関例えば身延山高校等で讃歌を教授し、オルガン、ピアノ等の奏法を習得させ、日畷学校等に活用 出来る様にする。信行道場、寺庭婦人会等にも音楽を採り入れる。 右の提案の中で研究機関や音楽に関する専門の士を挙げたが、ここで注意しなければならないのは梢もすると天下 り的と云うか上からのおしつけになり易いと云う事である。つまり宗教音楽のための音楽となって宗教的感動の乏し いものになり易い。例えば昭和十二年馬田教学部長は日曜学校、幼稚園、其他学校及び団体のために日蓮宗讃歌集を 出版し、芸術の極致は常に宗教の堂奥に通じ、ボ教の境地は必ずや芸術によって荘厳せられる。ことに音楽と宗教と は不可分の因縁を有し宗教的情操は最もよく音楽によって潤養せられる。︵中略︶輯むるところの諸篇いづれも珠玉 を連ね神韻を漂はせたものと云うべく、これ吾宗教化上に没するところ妙なからざるべきを思うと述べて居るが内容 を見ると宗門音楽としてふさわしいものもあるが、宗教的感動に乏しい所謂官製の感をまぬがれないものが多い。 宗祖は行学は信心より起ると云われて居るが家門音楽の確立もこの教の如く本化の大信が根本となる。宗教的感動 なくして宗門音楽の確立は望めない。例え無名の士であっても時として宗教的感動の赴くところ専門的知識や技術を 超越して宗教的気品溢れる音楽を生む事が出来ると思う。 以上極めてありふれた提案であるが、如何に立派な音楽でも利用しなければ何にもならない、つたないものでも用 い方によっては意外の効果を顕す事がある。要はつとめて音楽を利用する事である。本学識堂の落成に際し近代建築 にふさわしい法要式の必要性を捕感し、愈々宗門音楽の発展を望み宗門人の音楽意識の覚醒を望んでやまない。 (89)

参照

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