論 文
戦場における宗教
―第一次世界大戦期ドイツのカトリック戦場司牧の考察から― 尾崎 修治 はじめに 本稿は,第一次世界大戦の戦場で,ドイツのカトリック聖職者が兵士に対しておこなった信仰 上のケア,すなわち「戦場司牧(Feldseelsorge)」について考察する。戦場司牧をおこなったのは, 軍隊付き司祭として,軍人への司牧を職務とする聖職者,いわゆる「従軍司祭(Militärseelsorger)」 である。 従軍司祭は,軍隊生活のなかで定期的にミサを執り行いつつ,ひとたび戦闘が始まれば,出陣前 に兵士を鼓舞する説教をおこない,彼らのために秘跡を授け「神の加護」を祈る。野戦病院では傷 病兵に寄り添い,彼らを「神のもと」へと送り出し,埋葬に立ち会う。従軍司祭の仕事,つまり戦 場司牧とは,一面では,平時に小教区の司祭がおこなう日常の司牧を軍隊においても実践しようと するものであるが,同時に,戦場という特殊な環境においては,過酷な戦闘へ兵士を送り出し,そ こで生じる無数の死に立ち会うことが,その職務の大きな部分を占めることになる。 従軍司祭とはいわば,戦場における宗教を具現化した存在である。本稿は,その従軍司祭と,彼 らがおこなった戦場司牧について考察することを通じて,戦争において宗教が果たした役割を考え るための一事例を示すことを目標としている。その際,ドイツ帝国の中でも,プロイセンをはじめ とする諸邦の国家教会としてナショナリズムを積極的に担ったプロテスタント教会ではなく,あえ てカトリック教会を考察の対象とするのは,こと戦場の司牧活動においては,カトリックの聖職者 がより積極的であったと考えられるからである。例えば教義上,「来世での救い」は,プロテスタ ントではその人の信仰如何であると言えるが,カトリックでは司祭の働きかけが不可欠である。実 際,大戦期のカトリックの従軍司祭にも,兵士の死に立ち会うために,危険な前線に同行すること を司祭の職務,つまり司牧の一部とみなす傾向がみられた。 第一次世界大戦において,ドイツのカトリック教会が,カトリック系メディアや教会指導者の説 教を通じて,大戦を「神意」に導かれた「正しい戦争」(1)として支持し,国民の「一致」や祖国への「忠 誠」を説くことで,ひとびとの戦争動員を促す役割を果たしたことは,わが国でもよく知られてい る。ただしそうした,当時のドイツのカトリック教会による大戦への「加担」の問題は,これまで もっぱらカトリシズムとナショナリズムの結びつき,言い換えると,ドイツ帝国におけるカトリッ クの「国民化」の問題として論じられてきた。すなわち,プロテスタントの優位なドイツ帝国において「帝国の敵」,「二級市民」とみなされてきたカトリックにとって,世界大戦は「祖国」への忠 誠を示すことによって「真の国民」として認められるための絶好の機会であり,そのことが,カト リック教会による積極的な戦争肯定の姿勢につながったという指摘がそれである(2)。 そうした政治的な次元に着目した評価がなされてきた一方で,十分に検討されてこなかったのが, 教会の本質に関わる,宗教そのものの問題である。すなわち,19 世紀後半から顕在化していた世 俗主義の広がりや教会離れ,さらに,そうした傾向を民衆に浸透させる社会民主党の躍進に危機感 をもっていた教会関係者にとって(3),1914 年の大戦勃発時の国民の「熱狂」にともなって生じた 礼拝出席者の急増という現象は,「信仰復興」への期待を抱かせるものであった。例えば,大戦中 にミュンヘン・フライジンク大司教に就いたファウルハーバーのように,戦時における祖国への忠 誠心と信仰の復活によって,離婚や自殺の増加,出生率減少に象徴される「道徳の欠如」が克服さ れると期待した指導者もいた(4)。また,大戦に従軍したカトリック聖職者には,教会が人々への 影響力を獲得するチャンスは,平時よりも戦争という危機状況のなかにあるとして歓迎する傾向も 見られたという(5)。 そうした状況のもとで行われることになった大戦期の戦場司牧には,その意味で,戦争という, 社会の再キリスト教化のための「好機」を生かすための取り組みという側面があったといえる。そ れゆえ,第一次世界大戦期ドイツのカトリック戦場司牧を考察することは,当時のカトリック教会 の宗教上の動機や利害関心などが,どのような形で戦争への「加担」につながったのか,という問 題を検討することにもなるのである。 具体的な考察の対象としては,とくに大戦期のバイエルン軍によるカトリック戦場司牧を取り上 げる。連邦国家であるドイツ帝国では,軍の司牧も各邦ごとに組織化されていた。バイエルンを取 り上げるのは,プロテスタントが優位にあるドイツ帝国のなかで,もっとも有力なカトリック邦国 だからである。 検討する史料は,第一次世界大戦期のバイエルン軍の戦場司牧について解説した,二つの同時代 文献である(6)。著者であるブッフベルガーとマイアーはいずれも,大戦期のカトリック戦場司牧 に深くかかわった聖職者であり,自身の経験と各地の従軍司祭からの報告をもとに,カトリック戦 場司牧がどのように,いかなる理念のもとに行われたのかを描き出している。他方で,両者はバイ エルンのカトリック教会の要職を務めた人物でもあるため,同史料におけるカトリック戦場司牧の 像は,多かれ少なかれバイエルンのカトリック教会の「公式見解」に沿った,「あるべき」像であ る可能性が高い。それゆえ,本稿の考察は,同史料の分析から見て取ることのできる,当時のバイ エルンのカトリック戦場司牧における教会のスタンスの問題,つまり,どのような意図や狙い,さ らには期待をもってそれが行われていたのかという,理念的側面を明らかにすることに重点をおく。 考察は,上記の史料を分析の軸におきつつ,必要に応じて,関連する先行研究も参照しつつ進め
ていく。その先行研究について一瞥しておくと,まずわが国では,第一次世界大戦期の教会の動向 については,早くから教会による戦争プロパガンダの問題が注目されていたが(7),近年,フラン スに関しては,大戦前の時代の平時の軍隊におけるカトリック従軍司祭の活動についての研究が進 められている(8)。ドイツ本国においては,ながらく「正しい戦争」を説いた教会によるプロパガ ンダが議論の中心であったが,1980 年代から,カトリックの戦場司牧制度,さらには従軍司祭の 職務内容などの考察がおこなわれるようになり(9),さらに 1990 年代以降,とりわけ 2000 年代 に顕著になった宗教社会史的な関心の高まりを背景に,第一次世界大戦の戦場における,カトリッ ク兵士や従軍司祭の信仰とその変容などの問題にも焦点が当てられるようになっている(10)。 以下,本論では,第1章で,第一次世界大戦期バイエルンのカトリックの戦場司牧について,従 軍司祭の職務内容を中心に概観する。続く第2章と第3章で,上述のバイエルン軍のカトリック戦 場司牧の史料を手がかりに,まず第2章では,従軍司祭による戦闘員のための司牧について,第3 章では,傷病兵のための司牧について論じ,最後に結論を述べる。 第1章 第一次世界大戦期バイエルンのカトリック戦場司牧 1.概要 バイエルン王国における近代的な戦場司牧制度は 19 世紀前半に導入された。1830 年代はじめ にバイエルンの部隊がギリシアへ派遣された際,国王が,カトリックの従軍司祭の任用を認めたこ とをきっかけに,1841 年にバイエルン王国政府とローマ教皇庁の協議により,戦争の際に,ミュ ンヘン・フライジング大司教がバイエルン軍司牧の全権を掌握することが取り決められたのであ る(11)。ただし,このバイエルンの制度は,あくまで戦時に限定のものであり,平時の軍隊の司牧は, 軍隊が駐屯する土地の小教区の聖職者によって行われることになっていた。従軍司祭は,原則とし て戦時にのみ任用され,兵士の司牧にあたるものとされていた(12)。 第一次世界大戦以前はバイエルンに限らず,ドイツ帝国のいずれの邦においても,戦争状態になっ た際の戦場司牧の進めかたについての具体的な規定は十分に整えられていなかった。それゆえ大戦 勃発の際,ドイツの戦場司牧はほぼ白紙の状態で現実の戦争に対応することになり,戦闘開始とと もに,従軍司祭の大幅な不足に直面することになった。バイエルンでもプロイセンでも,戦場司牧 の活動は「師団(Division)」ごとに組織されたが,開戦時のバイエルンでは各師団に,司牧を中 心的に担う「師団主任司祭(Divisionspfarrer)」(師団聖職者 Divisionsgeistliche とも呼ばれる)が ひとりずつ配置された(13)。師団主任司祭は軍のなかでは将校として扱われ,師団とともに進軍し た(14)。しかし,ひとつの師団の兵員数は,当時のバイエルン軍の場合でおよそ1万7千人に及ん でおり(15),対応する司祭の負担が増し,急遽,師団主任司祭を補助する非正規の戦場聖職者の志 願を募ることになった(16)。バイエルンでは戦時省が,ミュンヘン・フライジング大司教からの要
請を受け,臨時の「聖職者看護師(geistliche Krankenwärter)」を採用した。この聖職者看護師は, 師団主任司祭の権威に服しつつ,戦闘員と傷病者双方の司牧に従事し(17),とくに野戦病院での司 牧者の確保につながったという(18)。ちなみに本稿で「従軍司祭」という場合には,師団主任司祭 のような正規の従軍司祭のほか,臨時で任用された非正規の戦場聖職者を含む,戦場司牧に従事し た聖職者全体を指している。 バイエルン軍のカトリックの従軍司祭の数は,プロイセンをはじめとする他邦の軍のそれに比 べて「異例の多さ」であったと言われるが(19),それでも 1915 年の時点で,従軍司祭の数は兵士 1600 人につき一人の割合であり,それは,平時(1910 年)のバイエルンの小教区で,一人の司 祭が受け持った信徒の数が,子供も含めて平均で 665 人であったことと比較すると,依然として 不足気味であったことを意味する(20)。 2.カトリック従軍司祭の職務 カトリックの従軍司祭が行った,戦闘に従事する兵士のための司牧の内容は,非戦闘時では,平 時の小教区の教会でのそれと同様であったが,仕事量の多さゆえ負担が大きかったと言われる。プ ロイセン軍の例になるが,カトリック従軍司祭は,一日に2回のミサをおこなうほか,午後か夕方 に少なくとも一度は祈祷をおこない,説教も欠かしてはならなかった。礼拝は,駐屯地の村の教会 のほか,しばしば部分的に破壊された聖堂や,野戦病院や監獄,さらに野外で,通常,500 人か ら 800 人程度の兵士の前で行われた(21)。 とりわけ重要な仕事は,戦闘が始まり,出撃を前にした兵士のためにミサを執り行うことであっ た。そこで従軍司祭は,兵士を「励ます」ための説教をおこない,「神の加護」を祈り,秘跡を授けた。 秘跡とは,カトリックの教義で「神の国の秘儀」を意味し,神による「救い」を信徒にもたらすた めの儀礼であるが,とくに従軍司祭が兵士に授けたのは,信徒が自らの罪を司祭に告白することに よって,神からの「罪のゆるし」を得るための「告解」や,「キリストの体」とされるパンを食する「聖 体拝領」などの秘跡であった(22)。 カトリックの戦場司牧では,兵士を戦闘に送り出す際に,ひとりひとりに秘跡を与えたため,プ ロテスタントの場合に比べ多くの手間と時間を必要とした。加えて,突然の命令により緊急に部隊 が出撃することになった場合には,従軍司祭は時間にかかわりなく,しばしば何時間にもわたり兵 士に秘跡を授けることになった。当然,軍の行動計画があらかじめ明かされることはなかったため, 従軍司祭はたえず,突然の出撃命令に対応しなければならなかった。また,明らかに時間の猶予が ない場合には,個別の告解の代わりに,しばしば「一般赦免」という方法が取られた(23)。一般赦 免とは,告解を希望する者が多すぎる場合に,個別の告白がなくても,まとめて赦免を与える方法 である。それは,信徒が死の危険にあるなど重大な必要から告解を求めており,かつ司祭が一人ひ
とりの告白を適切に聴くことができない状況で適用される方法であったが(24),言うまでもなく大 戦の戦場はそれに相当した。 さらに,カトリックの従軍司祭の重要な職務が傷病兵のための司牧であり,それは最前線に近接 され,最初の治療が行われる「中央救護所(Hauptverbandplatz)」,重傷者が搬送される前線近くの「野 戦病院(Feldlazarett)」,さらに後方に設置されたより大規模な野戦病院などで行われた。上述の 師団主任司祭も,自身が所属する師団の管轄内に設置された救護所や野戦病院を頻繁に訪問したが, 傷病兵への司牧を中心的に担ったのは,そうした医療施設の専属として配置された司祭であった。 野戦病院には聖体のおかれた聖堂を必ず設置し,ただ一人のカトリック兵士も告解と聖体の秘跡を 受けることなく病院を去ることがあってはならない,というのがカトリックの傷病兵司牧の大原則 であった(25)。 第2章 戦闘員のための司牧 この第2章からは,第一次世界大戦期バイエルン軍のカトリック戦場司牧について解説した同時 代文献に依拠し,そこに描かれた従軍司祭の活動を追いながら,カトリック戦場司牧で何が求めら れ,どうあるべきと考えられていたのかを考察する。 1.史料について 「はじめに」で言及した二つの文献のうち,主な史料として用いるのが,第一次世界大戦中の 1916 年9月に刊行された『世界大戦におけるバイエルンの戦場司牧』という書物である(26)。著 者のブッフベルガー(1874-1961)は,大戦中にバイエルン軍のカトリック戦場司牧の調査官を 務め,各地で活動する従軍司祭からの報告を集めるとともに,1916 年9月から 10 月にかけて約 3週間,西部戦線の視察も行い(27),各駐屯地で,従軍司祭から戦場司牧の状況について聴き取り をおこなっている。同書は,その著者自身の経験と従軍司祭からの報告をもとに,カトリック戦場 司牧のありかたを描いたものである。 もうひとつの文献は,やはり大戦期のバイエルン軍の従軍司祭であったマイアー(1867-1951) がまとめた『1914-1918 年の戦場におけるバイエルンのカトリック聖職者』である(28)。同書は, 大戦終結から約 20 年を経た 1937 年に刊行されたものであり,補足的な史料として用いる。マイ アーは,1916 年2月に行われたバイエルンのカトリック教会の要職者による前線視察に同行して いる(29)。同書には,従軍司祭からの報告のほか,バイエルン軍所属の従軍司祭のリストも収録さ れている。
2.出陣前の説教 ブッフベルガーの文献には一か所,ある従軍司祭がおこなった,出陣前の兵士に向けた長い説教 が引用されており(30),おそらくそれが模範的,あるいは典型的な説教とみなされていると考えて よいであろう。そこに登場する,十字架を胸につけ「紫色のストール」を掛けた司祭は,兵士たち の前に現れると,「戦友たちよ!キリストの兵士たちよ!」と呼びかけ,彼らに向かってまず,「今 日,君たちに新たな任務が与えられた。それも神の助けによって果たされるであろう。われらの救 いは神の名の下にある。」と語りかけている。 この司祭が兵士に説いたことは,ひとつには軍人精神と軍への忠誠心であり,もうひとつが神へ の「信仰」,つまり神にすべてを委ねよということであった。司祭は,軍人精神については,「軍旗 への誓いを思い起こせ!神聖なる誓いを守れ!死にいたるまで忠誠を守れ!(…)君たちの指揮官 を信頼し,彼らに従え!」と訴えているが,より多くの言葉を用いて説いたのは以下の「信仰」に ついてであった。 従軍司祭は,これから戦闘へ向かう兵士たちに,神の「加護」を信じ,自身を神に委ねるよう求 めている。なぜなら「天の父は君たちを見捨てず,君たちを忘れず,君たち全員の名前を心にとめ てくださっている!」からであり,「いつも君たちのそばにおられ」,全能の力で「支えてくださる」 からであった。また司祭は,「今の君たちが案ずることはできない」故郷の家族のことも,神を信 じて委ねるように説いたあと,最後に,兵士とともに次のように祈っている。 「父よ,私はあなたを呼びます!大砲の轟きと煙に覆われながら(…)私はあなたを呼びます。(…) 私を勝利へ,死へ導いてください!(…)私の命をあなたの手に委ねます。あなたが与えたものを, あなたはお取りになることができます。あなたの祝福によって,私が生き,死ぬことができますよ うに!」 この祈りは,自身の生と死を無条件に,全面的に神に委ねる「良きキリスト者」としての信仰告 白である。出陣前の説教で,従軍司祭は兵士に,ただ神の恩寵を信じるという,キリスト者として の「あるべき」信仰を求めたのであった。それは,必ずしも祖国への忠誠や軍人精神に訴えるよう な言葉ではないが,自らの生死を神にゆだねるよう説くことを通じて,「祖国」のために命を投げ 出す精神の醸成を促しうるものであったと言える。 3.前戦での司牧 1)前線兵士における「信仰覚醒」 兵器の破壊力が格段に高められた第一次世界大戦の戦場の光景が,それ以前に知られていたもの と比べてきわめて過酷なものであったことはよく知られているが,ブッフベルガーの文献も,そう した戦場の光景について伝えている。西部戦線の最前線で司牧をおこなっていたある師団主任司祭
は,開戦から間もない 1914 年9月4日,フランス北東部リュネヴィルの近郊,クリオンでの激し い戦闘後の負傷者の様子を次のように報告している。 「われわれはここで初めて,激しい苦しみから泣いている哀れな負傷兵を目にした。彼らの神経は, 間断なく続く戦闘によって,またとくに何日にも及ぶ榴弾射撃によって引き裂かれていた。今でも, 報告者(師団主任司祭)の脳裏には,重傷者が積み上げられた運搬車の陰鬱な光景が浮かび上がる。 真中の男は息絶えていた。別の男は顔の一部が吹き飛ばされていた。三人目からは内臓がはみ出て いた。さらに別の男がまた,司祭様,自分の “ 腫れ上がった ” 目はじきに良くなると思われますか と尋ねてくる。聖職者でも,両目をはね飛ばされてしまっていた彼のために,慰めの言葉を見つけ ることは難しい。」(31)。 ところが,しばしば従軍司祭の報告からは,そうした過酷な前線の状況のなかに,むしろ積極的 な意義を見いだしている様子も見て取ることができる。つまり,戦場の過酷さは,それを体験した 者に,信仰の再生をうながす力をもつというのである。例えばマイアーは,バイエルンの師団主任 司祭としての自身の体験を回想しながら次のように述べている。彼が見たのは,「人間の身体の各 部分,腕や足,内臓が」,「榴弾によって引きちぎられ,高く放り出されて木々の枝に掛ったままになっ ていた」光景であったが,彼は,「そうした恐ろしい時」にこそ「不信仰や懐疑は消え去り,将校 たちにも兵士にも,宗教的な琴線がかつてなく力強く響き始めた」のだと強調している(32)。マイアー によれば,戦闘の真っただ中ほど,兵士や将校が「宗教的な慰め」,「高次の理念への沈思」,「超越 的な力との結びつき」を必要とすることはなく,「大砲の轟音の中」ほど,彼らは「神の言葉と慈 悲」に感じやすくなり,ふだんは神や信仰を誹謗していた連中でさえ「怖れからひれ伏すのだ」と いう(33)。 ブッフベルガーの文献のなかでも,ある師団主任司祭は「戦闘中の部隊で,告解や聖体拝領が拒 否されることはほとんどない」と述べており(34),さらに別の従軍司祭は,自身が「最前線の衛生 壕」のなかで経験した,前線兵士の敬虔さについて報告している。その司祭は,「恐ろしい」砲撃 と「手投げ弾があられのように降り注ぐ」なか,「地下壕で負傷者とともに,ロザリオを繰りなが らアヴェマリアを唱え,彼らに赦免を与え」つづけたが,そのときの経験を,「私にとって,決し て忘れることのない感動的なものであった」と振り返っている。なぜなら彼は,「傷ついて運び込 まれた」多くの兵士たちが,「ロザリオを手に」,「治療台の上でもなお祈り」,さらに司祭に向かっ て,自分がなお生きているのは「愛する聖母が救ってくださった」からだと「誓って断言した」と いう,きわめて「信心深い」前線兵士の姿を目にしたからであったという(35)。 ほかにも,大戦期のドイツの軍隊で,礼拝への出席率や秘跡を受ける率が,前線に近い場所ほど 高かったという証言はしばしばみられる。例えば,1916 年の年末から翌 1917 年の初めにかけて, ベルギーのブリュッセルで西部戦線各地の従軍司祭による会議が開かれたが,その席上で講演をお
こなった師団主任司祭のヒルクナーは,開戦から2年半を経てなお,前線の兵士たちが聖体拝領を 求め続けている事実は「喜びをもって断言してよい」と述べている(36)。 逆に,前線から離れた後方では宗教的無関心が目立っていたという。ブッフベルガーの文献で も,バイエルン軍の野戦病院司祭エバーレは 1914 年に,「前戦から離れ」,「身の危険が減るにつれ, 魂の危機が幾何学的に増大する」と証言している(37)。危険が相対的に少ない後方基地は,慰安所 の設立などもあり,司祭にとっては「風紀の乱れ」と兵士の信仰の「危機」が懸念される場であっ た。また,そもそも 20 世紀の平時の小教区の教会では,成人男性が礼拝に出席し,秘跡を受ける ことは減少しつつあった。そのぶん前線が,司祭にとって,一種の信仰の「理想郷」とみなされた 側面があったと言える。 2)「前線をめざす」司祭 ブッフベルガーやマイアーの文献には,以上のように信仰に「目覚め」,「司祭の到来を待ち望ん でいる」であろう兵士の期待に応えるべく,あえて危険な前線に向かうカトリックの従軍司祭が登 場する。 ブッフベルガーが紹介する,ある従軍司祭は次のように語っている。「私の司牧地区は前線の幅 15km,奥行 15km の地帯に及んでいる。その最前線に兵員の圧倒的多数がいるので,結果として 私の活動は,おもに敵の歩兵隊の攻撃を受け続ける最前線の陣地,塹壕で行われる。そこで私は礼 拝を行い,秘跡を授ける。(…)しばしば私は一日中,敵陣から至近距離の山の上で,激しい戦闘 音のなかで告解を行う。ミサは可能ならばどこでもやる。」この司祭は,危険な状況下でも司牧を おこなうのは,兵士がそれを「何より切望しているのを知っているから」だと述べている(38)。 同様に,マイアーも自身の著作のなかで,前線に赴いて司牧をおこなった司祭の証言を引用して いる。バイエルンの第 39 歩兵師団の師団主任司祭であったヘリガー・メーケスは,1916 年にア ルザスのヴォージュ山脈で,前線での野外ミサを行うために,片道3時間の道のりを,祭服やミサ の道具,読み物の入った重い背曩を背負って,激しい雨,真冬の雪の中でも徒歩で往復したという。 危険を冒して,労苦をいとわずにそこまでやる理由についてメーケスは,従軍司祭とは,「日々死 に身をゆだねた者に献身するためにそこにいる」のであり,そのためならば「毎日でも,重いリュッ クサックを肩に背負い,喘ぎながら山を上り,最前線を駆けずりまわる」のだと語っている(39)。 もちろん,現実に,カトリックの従軍司祭がどれほどの割合で前線まで行ったのかは不明である。 むしろ,多くのカトリック司祭は野戦病院におり,「本物の」前線まではめったに到達しなかった という指摘もある(40)。しかし,カトリックの従軍司祭のあいだで,司祭である以上,兵士のため に前線へ行くべきだという考えは多かれ少なかれあったようである。そのことを示唆するのが,ハ インリッヒ・ランペというプロイセン軍の従軍司祭のエピソードである。彼は,1915 年のクリス
マスの激しい戦闘で完全に参ってしまい,その後,前線の救護所を訪れることを怠った結果,多く の傷病兵を「司祭の立ち会いなしに」死なせることになり,周囲から激しく非難され,結局その職 を失うことになったのである(41)。 また,プロイセン軍に従軍していたあるプロテスタント牧師は,多くのカトリックの従軍司祭が 「塹壕にまで赴く」ことを「当然の職務」とみなしていることを,ある種の違和感とともに報告し ている。なぜなら,プロテスタントの従軍牧師にとっては「塹壕でのキリスト教的な働きかけ」に は,「本国から宗教的な雑誌が毎週届けられればまず大丈夫」であり,カトリックの聖職者を「塹 壕へ駆り立てる」臨終の秘跡(42)にしろ,司祭のもとでの告解にしろ,それらを教義として認めて いないプロテスタントにおいては,死にゆく兵士の「来世の救い」に必要なものではないからであっ た(43)。 ただ,いずれにしてもカトリックの従軍司祭には,「敬虔」な前線兵士が司祭の到来を待ち望ん でいるという認識があり,それゆえマイアーは,カトリックの戦場司牧に第一に求められるのは最 前線で「戦闘中の部隊のための司牧」であると強調している。彼に言わせれば,聖職者は,たとえ 最前線でも,あらゆる「ためらい」を追い払い,「神の言葉を告げに」行くべきであり,戦闘のな かで「打ちのめされた者」,「動揺した者」を「奮い立たせる」ために,「神の恩寵」をもたらしに 行くべきなのであった(44)。 言い換えれば,マイアーにとって従軍司祭は,戦闘困難になった兵士を「信仰」の力で立ち直ら せ,再び戦闘へ向かわせることのできる存在であった。つまりカトリック戦場司牧には,兵士の信 仰のケアとともに,戦闘の継続を支える役割も期待されているのである。 第3章 死にゆく兵士のための司牧 救護所や野戦病院で司牧に従事する司祭の役割は,死にゆく者の信仰上のケア,いわば,死の看 取りにあった。傷病兵を回復させるのは当然医師の仕事だからである。司祭の仕事は,もはや回復 がかなわず,死を迎える兵士が「来世での救い」のために,「良きキリスト者」として死ぬための 手助けをすることにあったといえる。 ブッフベルガーによれば,救護所や野戦病院での司牧において,司祭が最優先で行うべきことは 傷病者の「見舞い」であった。とくに重傷者には秘跡を頻繁に,場合によっては毎日授けたという。 ブッフベルガーが引用しているヴァルター・エッメールトの証言によれば,中央救護所の司祭の仕 事とは,「一人ひとりの負傷者のもとへ,まずは担架に横たわる重傷者のところへ行き,ひざまづ いて具合はどうかと尋ね,慰め,彼らが祖国のために払った犠牲に感謝を述べ,負傷が深刻なもの であることが見て取れる者(…),そしてもちろん明らかに死に瀕した者に,われらが聖なる宗教 による慰めを授ける」ことであった(45)。
そして,傷病兵の司牧においてもうひとつの重要な仕事は,兵士が死んだ場合,そのことを,遺 族に手紙を書いて知らせることであった。ブッフベルガーによれば,そのために司祭は傷病兵の見 舞いの際,その兵士に病歴を尋ねるとともに,「家族への心配事を聴き,自身の英雄伝を語らせる」 よう努め(46),兵士から聴き取った話と,自身が観察した兵士の様子をもとに手紙を書いた。そう した手紙は,遺族に,身内が戦場でも「手厚い」世話を受け,「司祭に付き添われながらこの世を去っ た」ことを伝えることによって彼らに「大きな慰め」を与えるものであり,可能であれば墓の写真 を添付することもあったという(47)。つまり従軍司祭は,戦死者の遺族に対する信仰上のケアも担っ ていたといえる。 ブッフベルガーの文献には,ある従軍司祭が兵士の遺族に向けて書いた手紙がひとつだけ引用さ れている。おそらく,それが模範的なものとみなされたのであろう。やや長いが必要な説明を加え つつ紹介する(48)。というのは,この手紙から,従軍司祭が戦死者遺族をいかなる言葉で慰めるのか, さらに,カトリックの戦場司牧において,死にゆく兵士のための司牧がどうあるべきと考えられて いたのかを読み取ることができるからである。 その手紙は,野戦病院で死んだある兵士の妻に宛てて書かれたものであり,まず冒頭で,従軍司 祭がその兵士に初めて会ったときの様子が描写されている。 「10 月 10 日,あるいは 11 日のことだったと思います。正確な日付は思い出せません。私は野 戦病院で,初めてあなたのご主人にお会いしました。彼はとても物静かで,怪我の様子は最初に見 たときには,亡くなるほどのものには見えませんでした。はじめは取るに足らない会話をしていま したが,そのうち私は,彼がメダイユをつけていることに気がつきました。すぐに私は彼と一緒に ひとしきり祈りを捧げ,また来ると約束しました。」 「メダイユ」とは,キリスト教的な文字やシンボルが彫られた金属性のメダルであり,しばしば 洗礼や巡礼の記念などに用いられたものである(49)。それを見た司祭は,兵士がカトリックである ことを確信したのであろう。 しかし,その兵士の傷は「健康そうな見た目」よりはるかに「深刻な」ものであった。別の日に 司祭が,当の兵士に告解と聖体拝領の秘跡を受けることを勧めると,彼は喜んで,すぐに受けたい と「懇願した」という。そのため司祭は,「ベッドの傍らに膝まづき,彼と一緒に祈り,聖なる秘 跡を授け」,その後も「毎日彼を訪ねた」。そして,亡くなる数日前には,兵士が司祭に,「もう一 度聖体を授けて欲しいと頼み」,それを「本当に敬虔な祈りとともに」受けた。その際,司祭は続 けて兵士に病者の塗油,すなわち臨終の秘跡も授けたという。司祭は,兵士がこの秘跡を「ことの ほか喜んでいるように見えた」とつけ加えている。 従軍司祭は手紙のなかで,当の兵士が早くから自身の死を予期しており,しかもそれを受け入れ ていたことを強調して,兵士の妻に向かって次のように書いている。
「彼ははっきりと,ご自分の死を感じておられたようでした。私は,まださしあたりは危険では ないと思っていたのですが。彼が私に言ったことを,今もはっきり思い出します。“ 司祭様,わた しにはわかります。わたしは間もなく死ぬでしょう ”。私は彼を励まし,少し冗談めかして話をそ らそうとしましたが,彼は言いました。“ いいえ,わたしは死ぬでしょう ”。それで,私はもう一 度一緒に祈り,彼の快復のためにミサを執り行い,もう一度,神に祈るよう勧めました。」 その後,司祭はしばらく兵士の見舞いに行けず,数日後の早朝,その兵士が夜中のうちに亡くなっ たことを知らされた。急な出来事に司祭は,しばらく顔を出せなかったことを悔やみつつ,それで も,これほど安らかな死はなかったであろうと述べ,兵士の妻に対して,彼女の夫が戦場において も,カトリック教徒として模範的な,いわば理想の死を迎えたのだということを強調して手紙を締 めくくっている。 「あなたは,まったく安心して,天国で再びご主人にお会いになれると思われていて良いのです。 彼は煉獄の炎も,すでにこの地上であがなってしまわれたと思います。最後の数日,かれは大変な 喉の渇きにさいなまれていました。腸の怪我で水を飲めなかったからです。それでも彼は,限りな い忍耐をもって,さらに言えば,真のキリスト教の精神,神への愛によって,それに耐えたのです。 というのは,私が,神様のための犠牲になりますよと言って彼を慰めたとき,彼が私にこう答えた からです。“ ええ。神様への思いがなかったら,耐えきれるものではありません ”。」 野戦病院の司祭たちが,ひとりひとりの傷病兵を,この手紙で描かれたほどに手厚く看取ること は,現実の戦場で,無数の負傷者と死者の対応に追われていた状況下では,極めて難しかったであ ろう(50)。手紙に描かれた様子からすると,前線から離れた後方基地に設置された野戦病院での出 来事かも知れない。また,こうした手紙が,実際にどれだけの遺族に書かれ,届けられたのかもさ しあたり不明である。 とはいえ,ブッフベルガーの文献の中で,司祭による傷病兵の看取りの場面がここまで詳細に書 かれた箇所は他にない。それゆえ,おそらくこうした光景が,戦場における看取りの「あるべき」 形だったのであろうし,ここに描かれた傷病兵の姿が,戦場の兵士としての理想の死を具現化して いたのであろう。この傷病兵は,最後まで「信仰を」強くもちつづけることで,戦場で被った負傷 と死の苦しみに耐え抜こうとするが,それは軍人的な,あるいは「英雄的」な死ではなく,あくま で「良き信仰者」としてのそれであった。そして,この手紙を書いた従軍司祭もまた,兵士が「良 きキリスト者」として死をむかえることができるように,あくまで司牧者として兵士に寄り添い, 信仰上のケアに徹している。つまり従軍司祭は,当然司祭に期待され,求められることを行ったの であり,カトリックの司祭としての義務を果たしたにすぎない。ただし戦場においては,その行為 は同時に,兵士とその遺族に,「戦死」を受け入れさせる機能を持つものでもあった。
結びにかえて ブッフベルガーとマイアーの文献において重点的に描かれていたのは,いわば「キリスト者」の 模範となるような敬虔な兵士と,司牧に徹する従軍司祭の姿であった。それは具体的には,激しい 戦闘のなかでも「神の加護」を信じ続け,九死に一生を得れば神に感謝を捧げる前線兵士や,その 兵士の信仰上のケアのために,危険を顧みず前線へ向かい,塹壕の兵士や野戦病院の傷病兵に寄り 添い,彼らに秘跡を与える従軍司祭であった。ドイツ帝国におけるカトリックの国民化の要請,そ して戦時という状況からすれば,そうした信仰上の事柄よりもむしろ,カトリックの兵士や聖職者 の「祖国愛」や戦争への「貢献」などがもっと強調されてもよさそうであるが,そうした様子はほ とんど描かれていない。 ただしそのことは,カトリックの戦場司牧が戦争動員や,戦争への「加担」と無関係であったこ とを意味しない。従軍司祭たちは,その司牧活動を通じて兵士に,「良きキリスト者」であり続け, 神の恩寵を信じるよう説くことで,同時に,信仰の力によって戦闘への恐怖心を振り払い,過酷な 状況に耐え,さらには戦場での死を受け入れることを求めた,と言えるからである。一般に宗教は, 死に意味を与えることで,人々の死への怖れを取り除き,受容させる機能をもつが,大戦期のカト リックの戦場司牧もまたそうした性格をそなえていた。言い換えれば,カトリックの従軍司祭は, 愛国的な言葉や軍人精神に訴えるような表現を用いずとも,信仰の言葉,つまり宗教という回路を 通じて,帝国による戦争の継続を支えることができた。その意味では,第一次世界大戦期のカトリッ ク戦場司牧は,宗教上の取り組みによる「祖国」への貢献であったともいえる。 実のところ,大戦期の戦場におけるカトリック兵士の信仰について考察した先行研究によれば, 従軍司祭のなかでも,とりわけ本稿の考察でみられたような,司牧者として兵士により添い,その 信仰上のケアに徹しようとした司祭は,愛国的,扇動的な説教を行った同僚よりも兵士から受け入 れられたという。つまり,大戦の長期化にともない,扇動的な説教者が軍の「共犯者」として兵士 の反発を買うようになった一方で,兵士に「語りかけ」,その「渇いた魂」に「何か」を与えてく れる司祭への「好感」が見られたというのである(51)。その意味では,従軍司祭が兵士のためにお こなったいわば「純粋な」信仰上の働きかけは,扇動的なプロパガンダよりも強力な「耐性」を備 えており,そのぶん,より持続的に戦争継続に貢献した可能性もある。こうしたことを,例えば, 大戦時の兵士が,長期にわたる消耗戦を「耐え抜く」ことになった要因のひとつとして考慮に入れ ることも可能であろう。 本稿の考察は,カトリック戦場司牧の理想像の抽出にひとまず限定したが,今後は,戦場司牧と, 従軍司祭の行動の具体的なありかたを明らかにする作業が必要である。その際,従軍司祭の言葉, 言説だけでなく,司祭が兵士に対してどのように接し,いかなる関係性が存在したのかといった問 題の検討も,戦争における宗教の役割を考えていくうえで不可欠となるであろう。
註
(1) 「正しい戦争」論とは,世紀転換期頃からカトリックの道徳神学者によって説かれた教説であり,ロシアや フランスなどの敵国を,同時に教会の敵でもあると説明することで,大戦を「神の意志」によるものとし て正当化した。例えばロシアは,ポーランドのカトリック教会の「抑圧者」として,フランスは,教会と 国家の分離を進め,司祭や修道士,修道女に狼藉を働く「ならず者」と批判されている。August-Hermann Leugers, „Einstellung zu Krieg und Frieden im deutschen Katholizismus vor 1914“, in: Bereit zum Krieg. Kriegsmentalität im wilhelminischen Deutschland 1890-1914, Hg. v. Jost Dülffer u. Karl Holl, Göttingen 1986, S.56-73, ここでは S.56-58.
(2) Thomas Nipperdey, Religion im Umbruch. Deutschland 1870-1918, München 1988, S.48-50; Leugers, 1986, S.56f. (3) ドイツのカトリシズムにおける,「反教会的」な社会民主党への対抗運動については,拙稿「19 世紀末ドイ ツのカトリック社会運動―ドイツ・カトリック国民協会の組織網の考察から」『西洋史学』246,2012 年, 21 - 40 頁,同「世紀転換期ドイツの赤い司祭―H. ブラウンスとカトリック労働運動」,中野智世,前田更 子,渡邊千秋,尾崎修治編著『近代ヨーロッパとキリスト教―カトリシズムの社会史』勁草書房,2016 年, 169 - 197 頁。
(4) Johann Klier, Von der Kriegspredigt zum Friedensapell. Erzbischof Michael von Faulhaber und der Erste Weltkrieg, München 1991, S.169f.
(5) Arnold Vogt, Religion im Militär. Seelsorge zwischen Kriegsverherrlichung und Humanität. Eine militärgeschichtliche Studie, Frankfurt am Main 1984, S.476.
(6) [Michael] Buchberger, Die bayrische Feldseelsorge im Weltkriege, München 1916; Balthasar Meier, Der Bayerische Katholische Klerus im Felde 1914/1918, Eichstätt 1937. プロイセン軍のカトリック従軍司祭の日記 として Hans-Josef Wollasch (bearb.), Militärseelsorge im Ersten Weltkrieg. Das Kriegstagebuch des katholischen Feldgeistlichen Benedict Kreutz, Mainz 1987.
(7) 例えば,河島幸夫『戦争・ナチズム・教会』(新教出版社,1993 年),吉田正広「第一次世界大戦における イギリス国教会の戦争認識―ウィリアム・テンプルの認識を中心に」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』 19,2005 年,63 - 84 頁。 (8) 西願公望「フランス王政復古期における従軍司祭―反革命による改革と革命の痕跡」『青山学院女子短期 大学総合文化研究所年報』18,2011 年,3 - 18 頁,同「カトリック的なフランス国民軍イデオロギー (1870-1913)―従軍司祭の研究から―」『歴史学研究』880,2011 年,22 - 33 頁,同「フランスカトリッ クによる植民地派遣軍支援についての一試論―19 世紀末から 20 世紀初頭まで」『日仏歴史学会会報』28, 2013 年,20 - 37 頁。なお,アメリカの従軍チャプレンについての概観として,石川明人「アメリカ軍の なかの聖職者たち―従軍チャプレン小史」『北海道大学文学研究科紀要』117,2005 年,31 - 66 頁。同 氏には,キリスト教の教義と戦争の関係に焦点を当てた『キリスト教と戦争―「愛と平和」を説きつつ戦う 論理』中公新書,2016 年もある。
(9) Vogt, 1984; Johannes Güsgen, Die katholische Militärseelsorge in Deutschland zwischen 1920-1945, Wien 1989.
(10) Benjamin Ziemann, „Katholische Religiosität und die Bewältigung des Krieges. Soldaten und Militärseelsorger in der deutschen Armee 1914-1918, in: F. Boll (hg.), Volksreligiosität und Kriegserleben, Münster 1997, S.116-136; Annete Jantzen, „Priester im Krieg. Elsässische und französisch-lothringische Geistliche im Ersten
Weltkrieg und ihre Kriegsdeutung“, in: Franz Brendle u. Anton Schindling (Hg.), Geistliche im Krieg, Münster 2009, S.251-263; dies., Priester im Krieg. Elsässische und französisch-lothringische Geistliche im Ersten Weltkrieg, Paderborn 2010; Patrick J. Houlihan, Catholicism and the Great War. Religion and Everyday Life in Germany and Austria-Hungary, 1914-1922, Cambridge 2015.
(11) Vogt, 1984, S.144f. バイエルンの従軍司祭は当初,カトリックにのみ認められたものであった。しかし,そ の後プロテスタント兵士から,カトリックの宗教行列や礼拝への参加強制への反発が生じ,1850 年代には プロテスタントにも同じ制度が導入され,宗派の同権が原則となっていった。Ebd. 他方プロイセン王国では, 当初プロテスタントの軍司牧のみが存在していたが,ウィーン会議で併合された西部地域のカトリック兵士 から反発を受け,19 世紀中ごろにカトリックの軍司牧も制度化されることになった。Güsgen, 1989, S.19-22. (12) Vogt, 1984, S.155. (13) 以上,Ebd., S.458f., 507f. (14) ちなみに,プロイセン軍の師団主任司祭は大尉(Hauptleuten)と同等であり,乗用馬,馬子,2頭立て 馬車などが支給され,胸に十字架のついたグレーの軍服を着用し,赤十字の腕章を巻いていた。Wollasch, 1987, S.LXXIf. (15) Meier, 1937, S.15. (16) バイエルンの対応については ,Vogt, 1984, S.507-511. を参照。プロイセンについては,Wollasch, 1987, S. LXXIf. (17) Vogt, 1984, S.508f. (18) Ebd., S.510f. バイエルン軍では,野戦病院で司牧に従事する司祭の方が,主に部隊での司牧にあたる師団主 任司祭よりも多かった。具体的には,師団主任司祭が,正規・非正規合わせて 117 名だったのに対して, 野戦病院司祭は同じく正規・非正規の合計が 219 名であった。Meier, 1937, S.66-83. また,従軍司祭には, 戦争前に,小教区の聖職者であった者と,修道士の両方がいたが,その割合は同じくバイエルンの事例でみ ると,小教区司祭 275 人に対して,修道士が 126 名であり,前者の割合が 70%弱に上っていた。Ebd. (19) Vogt, 1984, S.511. (20) Ziemann, 1997, S.119. (21) Wollasch, 1987, S.LXXVI. カトリックの従軍司祭の職務内容は,邦ごとに大きな違いはなかったと言われる。 従軍司祭の待遇はプロイセンが諸邦のなかでもっとも良かったため,他邦の司祭の要求により,プロイセン 軍の制度が次第に採り入れられていったことが影響していると思われる。参照,Vogt, 1984, S.155. (22) 聖体拝領は,司祭の唱える「キリストの言葉」によって「キリストの体」に「変化した」とされるパンを, 信徒たちが共に食す儀式であり,それによって信徒は「キリストの命を分ち合い」,「永遠の命へと導かれる」 とされる。以上,カトリックの秘跡については,『新カトリック大事典』(学校法人上智学院,新カトリック 大事典編集委員会編)研究社,第1巻,1996 年,741 - 751 頁,第3巻,2002 年,729, 734 - 737, 752 頁, 第4巻,2009 年,188 - 189,1103 - 1107 頁。 (23) Wollasch, 1987, S. LXXVII. (24) 『新カトリック大事典』,第1巻,1996 年,488 - 489 頁。 (25) Buchberger, 1916, S.47-55. (26) Buchberger, 1916. 初出は注6。
(27) Biographisches Lexikon der katholischen Militärseelsorge Deutschlands 1848-1945, Paderborn 2002, S.105-107.
(28) Meier, 1937. 初出は注6。 (29) Biographisches Lexikon, 2002, S.520.
(30) Buchberger, 1916, S.45f. (31) Ebd., S.20. (32) Meier, 1937, S.21. カトリック聖職者の戦争体験を考察しているヤンツェンは,聖職者が,危険な前線で九 死に一生を得た体験をきっかけに,「神の意志」を再認識した事例を数多く紹介している。Jantzen, 2010, S.196-201. (33) Meier, 1937, S.27. (34) Buchberger, 1916, S.6. (35) Ebd., S.38f.
(36) Hilgner, Welche besonderen Aufgaben stellt an die Feldseelsorge das dritte Jahr des Krieges? Vortrag, gehalten am 13. 12. 1916 und 15. 1. 1917 zu Brüssel bei Gelegenheit der Pastralkurse für Feldgeistliche der Westfront und des General-Gouvernements Belgien, Brüssel 1917, S.9.
(37) Buchberger, 1916, S.71. (38) Ebd., S.23. (39) Meier, 1937, S.38. (40) Ziemann, 1997, S.119. (41) Wollasch, 1987, S.XXXIV. (42) 臨終の秘跡は,もともと「病者の塗油」といわれ,重篤な病人に油を塗ることでキリストに病者を委ね,苦 痛を和らげ,救いを祈るための「癒し」の秘跡であったが,次第に,臨終が迫った人に死の準備をさせ,罪 のゆるし,罰の免除を得るための儀式としての意味が強まったとされる。『新カトリック大事典』,第4巻, 2009 年,219 - 220 頁。 (43) Wollasch, 1987, S.LXXVII. 本文および注 250 参照。 (44) Meier, 1937, S.27. (45) Buchberger, 1916, S.49f. (46) Ebd., S.75. (47) Ebd., S.69. (48) 以下,手紙の引用部分は,Ebd., S.69f. (49) 『新カトリック大事典』,第4巻,2009 年,961 頁。 (50) 例えば 1914 年8月 20 日の “ M ” での戦闘後,当地の中央救護所には,昼の 12 時から夜の2時までに約 900 人の負傷者が運び込まれたという。Buchberger, 1916, S.49. (51) Ziemann, 1997, S.131f; Wollasch, 1987, S.169.