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過去の思想の現代的意義をめぐって 種村完司著『『葉隠』の研究──思想の分析、評価と批判』

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Academic year: 2021

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(1)書 評  . 過去の思想の現代的意義をめぐって 種村完司著『『葉隠』の研究― 思想の分析、評価と批判』. ―. 九州大学出版会、二〇一八年. 飯 嶋 裕 治. からすれば極端と言うしかない「死の覚悟」を説く異形の. りあげる種村完司『 『葉隠』の研究─ 思想の分析、評価と. こうした関心の高さを示すものだろう。そして、ここで取. 文庫、ちくま学芸文庫)が立て続けに刊行されたことも、. 思想が逆に不思議な魅力を放つゆえか、日本思想史研究に. 批判』は、 『葉隠』の影響力をめぐるこうした状況から出発. 山本常朝の口述によって成った『葉隠』は、現代の常識. おいても多くの論者がその思想の内実や意義、思想史上の. 本 書 は お お よ そ 二 部 構 成 と な っ て い る。 そ の 前 半 部 分. して、その実態や実像の解明に、まさに正面から取り組ん. 「日本人論・日本文化論」的な文脈で「武士道」精神を論じ. (第一章〜第五章)では、著者自身による『葉隠』全体の理. 位置づけなどを解明すべく取り組んできたテクストだ。ま. る際に、また「いかに生きるべきか」に関する人生論など. 解が詳しく論じられる。そして後半部分(第六章〜第十章). だ労作だと言える。. においても様々に参照されることで、多くの一般読者の興. では、従来の葉隠論の中から主要なものを取りあげ、著者. た そ れ は、 ア カ デ ミ ッ ク な 関 心 に と ど ま ら ず、 い わ ゆ る. 味や関心を集めてきた。近年、二種の全訳注(講談社学術. ― 85 ―.

(2) 内容を簡単に紹介することから始めよう。上述の通り、本. 第一章では、 『葉隠』最大の特徴とも言える、戦士として. の解釈とも照らし合わせながら各議論の吟味と評価を行. けとめればよいか」という問いに一つの回答を与えてい. の武士に要求される「死の覚悟」が検討される。それは、. 書前半では著者自身による『葉隠』解釈が示される。. る。本書の根本的な問題意識は、まさにその点にあるもの. 有名な「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」に始まる. なった上で、最後に「現代においてこの葉隠思想をどう受. と思われる。. こ の 覚 悟 の あ り よ う を 理 解 す る 上 で 重 要 な の は、 そ れ. 冒頭箇所でも端的に語られる通り、生死の選択に直面した. 通暁しているわけではない。そのため、特に本書の前半で. が、結果を顧慮しない即座の武断的行動を求めるという意. さてここで、この書評を綴っている評者自身のスタンス. 論じられている、著者自身の『葉隠』解釈の当否について. 味で、極めて純粋な動機主義に基づくものだという点だろ. 場合には躊躇なく死の方を選ぶことをよしとする、「死に. 踏み込んだ評価することは難しい。他方、従来の葉隠論を. う。すなわちその動機は、まず何よりも「自分の主君のた. な い し 立 ち 位 置 を、 ま ず 明 示 し て お く べ き だ ろ う。 評 者. 検討する後半では、和辻による倫理思想史的観点からの解. め」という「無際限の献身主義」に存している(それに加. 狂い」とも言われる非理性的で主情主義的な姿勢・心構え. 釈・位置づけなども取りあげられているため、その点に関. えて、 「武士としての名誉・自負心のため」も重要な動機と. は、和辻哲郎を中心とした倫理学理論や近代日本思想史の. 連した指摘ができるだろう。また、上述した「『葉隠』の. なる) 。しかし、純粋な動機に基づく行動の結果の方に関し. のことだ。. 現代的意義」という本書全体を貫くテーマ、問題意識につ. ては、 「犬死」も厭わないというよう全く無頓着であり、む. 研究を専門としており、『葉隠』そのものや武士道思想に. いても、一思想史研究者としての見解を提示できればと考. しろ知的な分別を働かせての結果を見越した目的合理的な. 姿勢は、理屈が先立つ不純なものとして積極的な忌避の対. えている。 ともあれ、これらの点を論ずるためにも、まずは本書の. ― 86 ―.

(3) らだった) 。そして、結果を度外視するこの純粋な没我的忠. は、彼らが仇討ちの成功を期してすぐに決起しなかったか. 象となる(例えば常朝が赤穂四十七士を厳しく批判するの. れる。従ってそこでは、無駄死を避けるためにも、そもそ. その一環としてある)、死の覚悟もそのためにこそ求めら. といった明確な大目的があって(主君への忠誠もあくまで. 学における普遍的な根本原理たる「五常五倫」 「道」の実現. 江戸幕府の下で安定的な体制秩序が確立しつつある時代に. 武士のあり方を一つの理想像として示すこの書は、しかし. にも関わるが(後述) 、戦国時代までの直情的で勇猛果敢な. また、著者の『葉隠』解釈において特に重要なポイント. こそ、自己犠牲が無駄に終わってしまうことを恐れない強. 情としての「忍ぶ恋」にも喩えられるこの関係性があって. 主君との個別的な主従関係だけなのだった。純粋な恋愛感. 目的には全く無関心であり、大切なのはどこまでも自分の. 断が必要となる。それに対し『葉隠』は、そうした普遍的. 0. 誠は、決して報われることのない「忍ぶ恋」にも擬えられ. も何がその目的(「義」 )にかなうのかに関する理性的な判. 著されたのだった。それゆえ、先来の「死の覚悟」を核と. 烈な献身道徳もまた可能となる(本章の後半では、それが. 0. る。. する戦士的武士の献身道徳に関しても、泰平の世に行政官 0. また「衆道」として現実に行なわれてもいた点が言及され. 0. 僚として統治にあたる文官的武士にとって相応しいあり方. る) 。. といった「個人主義的意識」をもった主体として、彼ら特. 第三章では、当時の武士たちが、強い自尊心や名誉感情. が、改めて模索されねばならなかった( 『葉隠』では、平時 における奉公の最高の形態が、主君への「諫言」に求めら れることになったという) 。. 「士道」論(特に山鹿素行の論が取りあげられる)との対比. 『葉隠』に即して検討される。まず自律性に関しては、日常. 藩や幕府への「服従」を強制される存在でもあった点が、. 有の「自律」性を発揮し得た一方で、幕藩体制の統制下で. から、葉隠武士道の「異端」性が確認される。両者ともに. 的 に た え ず 死 と 向 き 合 い 対 峙 す る と い う「 死 の 覚 悟 」 に. 続く第二章では、当時の正統的な武士道であった儒教的. 「死の覚悟」を重視する点では共通するが、前者の場合、儒. ― 87 ―.

(4) 腹)にしか残されていなかったからだという。そして、こ. ちがなお自律を発揮し得る余地は、もはや「死」(特に切. に お い て 幕 府・ 藩 の 官 僚 制 的 秩 序 に 組 み 込 ま れ た 武 士 た. よってこそ裏打ちされるが、それは逆に言えば、太平の世. る。著者の『葉隠』解釈・評価の重心は、後述するように、. をかなりありのままに表現した書であったことが見えてく. 時の武士たちが抱え込まざるを得なかった矛盾や葛藤の姿. 念と秩序内での「服従」という現実との相克といった、当. 第四章では主に常朝の宗教的態度が検討される。それは. まさにこの点にかかっていると言ってよいだろう。. 的・自己犠牲的な奉公において、「服従」とも密接に結び. 簡単にまとめてしまえば、神仏を崇敬しながらも単純な拝. うした「死の覚悟」に基づく自律性は、特に主君への没我. つ く。 そ こ に は「 自 分 こ そ が 誰 よ り も 主 君 を 思 っ て い る 」. 跪 に は 陥 ら な い、 と い う 一 定 の 距 離 感 が あ る も の だ っ た. やこの世の無常を諦観しつつ受容する彼の態度には、仏教. という強烈な自負心があり、それが逆説的な仕方で没我的. さらにこの主君への奉公は、戦場での戦士としての務め. 的価値観からの影響が色濃いと指摘されている。またこの. (というのも、主君への没我的忠誠こそが何よりも最優先. から、統治の一端を担う文官としての勤めへと、その場面. 仏教思想との関連性という論点とのつながりで、続く第五. 忠誠(…服従)を自覚的かつ主体的に選択(…自律)させ. が大きく変化していた。特に後者で求められるのは、統治. 章では、常朝に影響を与えた僧侶・鈴木 正 三の思想が主. されるべきものだからだ)。ただし他方、人の身のはかなさ. 機構内での長期にわたる忍耐強い献身的服従であり、さら. 題化され、それとの対比という形で葉隠思想が捉え返され. るのだという。. には行政上の適切な判断には不可欠と思われる知的な分. ている。. く、戦士的武士の「直情的猛進的性向」と文官的武士の「知. に非理性的な「死の覚悟」のみを説く武士道書なのではな. になる。. ながら、従来の様々な葉隠論が吟味・評価されていくこと. さて本書の後半部分では、以上の『葉隠』解釈も踏まえ. しよう さん. 別・良識である。この点に注意するならば、 『葉隠』とは単. 的合理的性向」との対立や、独立自尊の「自律」という理. ― 88 ―.

(5) 的武士」に求められる資質を重視する書でもあったことを. 関する「プラクティカルな処世訓」 、つまり上述した「文官. 隠』が(死に狂い精神だけでなく)実務的才能や身養生に. た点を、著者は強く批判する。ただし他方で三島は、 『葉. 社会状況への批判的な視点を欠いたままに美化してしまっ. が、それをそのまま特攻隊員の精神にまで敷衍し、当時の. を読み取って、 『葉隠』に大きな肯定的評価を与えていた. 自覚的選択においてこそ真の自由が発揮されるという考え. される(第六章) 。例えば三島由紀夫は、限界状況での死の. (古川哲史、奈良本辰也、三島由紀夫)の議論がまずは検討. に 手 放 し の 称 賛 に 近 い「 肯 定 的 評 価 」 を 与 え た 論 者 た ち. 泉だと厳しく批判していた。こうした批判に対し、 『葉隠』. 身もその下で育った葉隠武士道を、 「伝統墨守の悪弊」の源. 最初に取りあげられるのは佐賀藩出身の大隈重信で、自. いう批判は誤解によるものだろう(和辻は、 『葉隠』にも見. が、その解釈・評価が「共感的な記述」に終始していると. 批判しており、その点に関しては妥当な指摘だと思われる. まに同居する書であること)が適切に捉えられていないと. の両義性(戦士的武士と文官的武士の二側面が矛盾したま. る。こうした和辻の解釈に対して、著者は上述した『葉隠』. する古い武士道を固守しようとしたものだと評価されてい. からの「主君への献身」や戦国時代の「死の覚悟」を称揚. 儒教的な「士道」が新たな正統的武士道となるなかで、昔. そこでどう位置づけられたかと言えば、江戸時代になって. 隠』もあくまでその変遷の一コマとして解釈される。では. うその思想史的変遷を総体的に把握することにあり、 『葉. じて様々に変化しつつも受け継がれ広まっていった、とい. 徳」と特徴づけられる倫理思想が、その後の時代状況に応. そもの関心は、平安末期に登場した武士たちの「献身の道. られる「理屈ぎらい」の考え方が、 「日本人の性格」の「弱. 適切に捉えており、その点は高く評価されている。 次いで、こうした全面的な肯定的評価とまではいかずと. また相良に関しては、詳しい議論は省くが、和辻が見逃. 点」だと明確に表明していた)。. 的」な評価を与えた論者たち(和辻哲郎、相良亨)の議論. した『葉隠』にひそむ様々な矛盾や両義性を鮮やかに浮か. も、 『葉隠』を思想史的な観点から「分析」した上で「共感. が検討される(第七章) 。まず和辻に関してだが、彼のそも. ― 89 ―.

(6) 的なものとは異なる「外の視点」 、具体的には「人権、生命. て葉隠思想と正面から向き合い「対決」するには、武士道. ないか、と指摘される。それに対して著者は、現代におい. 思想への共鳴・同調の方へと取り込まれてしまったのでは. り、また彼自身の「武士的気質」も相俟って、結局は葉隠. 良 の 解 釈 は、 そ れ が 徹 底 し て テ ク ス ト 内 在 的 な も の で あ. び上がらせた点が、極めて高く評価されている。しかし相. りその一面性が指摘されている。 ). で、著者から「奉公人道一元論」とも呼ばれる通り、やは. の中核を治世期の長く忍耐強い没我的忠誠に見定めるもの. の解釈は、文官性に着目する観点の延長線上で、葉隠思想. 面的だと批判される。(なお第九章で検討される小池喜明. 妬感情に基づく単なる処世術の書として捉えるのもまた一. に着目した点で目新しいものだが、 『葉隠』を計算高さや嫉. まで言えるか、という論点が挙げられる。松田・山本説は. さて、そこで松田や山本の解釈を批判する際に著者が示. さらに、こうした共感的評価ではなく、しかるべき分析. そこに断絶を見るからこそ文官性を強調するわけだが、他. の尊厳、自由、平等などの、より普遍的な人類的価値」を. の上で「批判的評価」を下した論者たち(丸山眞男、松田. 方の戦士性の側面を強調する従来の葉隠論は、その連続性. す論点は、 『葉隠』の思想史上の位置づけを考える上でも重. 修、山本博文)も検討の俎上に載せられる(第八章) 。丸山. を(しばしば無批判に)想定してきたことになる。また、. 参照すべきだと主張する(ただしそれは、過去の思想に対. の解釈に関しては、葉隠武士道に含まれる様々な要素を明. この「断絶か連続か」という問題は、 『葉隠』自体が日本思. 要だと思われる。─ まず、常朝と戦国武士の倫理思想に. 確 に 概 念 化 し、 そ れ ら の 相 互 関 係 の 分 析 を 通 じ て 様 々 な. 想史上(特に武士道思想の系譜)において孤立しているの. して単に「近現代の立場から思想的な批判と裁断の作業」. 「逆説性」を剔抉した点が高く評価される一方、ここでもや. か、あるいは一定の継承関係のなかに位置づけられ得るも. 様々な違いがあるのは確かだが、そこに「断絶」があると. はりその解釈の一面性(文官性の無視)が批判されている。. のなのか、という論点にも関わる。松田・山本説は孤立し. をすることではない、とも言われている) 。. 他方、松田や山本の議論は、まさにその文官的武士の側面. ― 90 ―.

(7) 他方でどこか共鳴し得る部分があるとも感じてしまうこと. 「われわれ」が、葉隠思想を一方では極端だと思いつつも、. れでは、 (冒頭でも述べたような)現代の日本社会に生きる. た「ただの言葉の書」に過ぎないと評価するが、しかしそ. の結論となる。. 意義を真摯に問い返した書だ、というのが著者のひとまず. 会の様々な変化や制約の下で「武士」の生き方やその存在. 込まれていたのだった。その意味で『葉隠』は、当時の社. 葉隠思想をめぐるこの「断絶か連続か」 「孤立か継承か」. とさらに問うている。しかしその結論は否定的なものだ。. に、その思想に「普遍性をもつ思想や価値観」があるか、. また、著者はその上で、 『葉隠』の現代的意義を探るため. という問題は、本書の最後・第十章で改めて考察されてい. 先に「外の視点」としても言及した、人権・自由・平等な. を、一切無視することになるだろう。. る。そこでまさに著者の見解を根拠づけるのが、上述して. どに基づく「近代市民倫理」に照らしてみる限り、封建的. し か し、 こ の 点 に 関 し て 評 者 は 少 々 異 な る 考 え を も っ. きた『葉隠』自体が抱える根本的な両義性という解釈だろ. 朝は個別的な主従関係に基づく「死の覚悟」を武士の理想. た。そもそもそこで『葉隠』の現代的意義を測るための基. な身分制社会を前提とし、ましてや命の価値を毫も顧みな. 像として説き続けた。それは、前時代の思想を憧れに近い. 準として前提されている「近代市民倫理」なるもの自体も. う。戦国時代の戦士的武士道が、時代の変化によって文官. 形 で 継 承 し つ つ も、 自 分 の 時 代 に あ る 程 度 適 合 す る 形 で. また、本書内で著者自身が言うところの「理念態」なので. い『葉隠』の倫理思想が、現代社会において通用し得る余. (極めて独特の仕方ではあったが)武士道を再定義したと. あって、それが戦後の日本社会においてそのまま「現実態」. 的なものへと変質せざるを得なかった(その限りで一定程. いうことでもある。要するに、断絶か連続かという二者択. となってきたとは言い難いのではないか。このことは、和. 地はないと結論づけられている。. 一ではなくその両側面が、戦士的武士道と文官的武士道の. 辻 が 鎌 倉 武 士 の 倫 理 思 想 と し て 見 出 し た「 純 粋 な 献 身 道. 度の断絶があった)のは確かなのだとしても、なお当の常. 両義性という形で『葉隠』というテクストそのものに刻み. ― 91 ―.

(8) 徳」を、著者が「理念態」に過ぎないと指摘したことと、. ではないかと思う。. らずも)明るみにもたらされた『葉隠』の現代的意義なの. 0. 0. 0. 0. 0. (いいじま・ゆうじ 九州大学). 構図自体は同様だ。 (ちなみに付言しておくと、 「それは理 想(理念)にすぎず現実的な実効性はなかった」というよ くある見解を和辻は誤りだと断じている。理想が理想とし. 0. て人々の間で意味あるものとして語られ共有されていたと. 0. 「過去の出来事としての事実」とは いう「思想の事実」は、 別の次元ではあれ、確かに実在していたのであり、それこ そがまさに思想史研究が探究すべきものなのだとされる。 ) むしろ現代の「われわれ」自身もまた、一枚岩の近代市 民倫理に安住できるような存在なのではなく、 『葉隠』のテ クストに表出していた常朝自身の矛盾したありようと同 様、伝統的思想と近代的思想との両義性を今もなお生きて いる、というのが実情なのではないか。そしてそのことは、 冒頭でも述べた、葉隠思想に極端さと共鳴とを同時に感じ 取ってしまうような「われわれ」自身の感受性に端的に現 われていると言ってもよいだろう。もしそうだとするなら ば、著者の示す『葉隠』理解によって、逆に現代の「われ われ」自身の両義的なあり方が照らし返されてきたことに なるのであり、そのことこそがまさに本書によって(はか. ― 92 ―.

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