ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録
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(2) 20. 木. 村. 茶のごちそうになったという野々村一雄氏は.. 英. 亮. 「石堂氏はほかの人と違って,伝票にサイ. ンするのでなく,いっでも現金で支払っていた。僕はそれを横目で見て, 家計主義の人である』と,わが身にひきくらべて,感心していた」. 『この人は健全 (103-198)と書いてい. る。. 氏の活動は広範・多岐にわたるが(注1),なかでも大連時代の活動は,その原点であり, ひとっの頂点をなすのではないかと思う。氏自身もそのことについて語っているが,くわ しくは紹介されていない。私は10年前氏の業績などについてこの紀要にまとめたが,今回 はそこで抜けていたこの時代について調べてみたいと考え,昨年注2にリスト・アップし たその時代の文書などをコピーしたo整理は不十分であるが,中間報告としてt. 資料の一. 部も紹介したいoなおここに結論めいたことも記したので,あらためて終章はつけなかったo 構成は, 1.序論(1)はじめに(2)大連について(3)大連のソヴェト軍と中国人の動き 2.日本人諸団体の成立と活動(1)日本人労働組合の結成(2)勤労者消費組合の活動 (3)住宅調整 3.引揚と対策協議会の活動(1)概観と全体的経費(2)引揚の具体的状況 (3)第2回,第3回引揚 (以下,注1の文献はその番号とページを,注2資料は文書番号をその都度注記した。). 注1.石堂清倫氏については,この紀要の第32輯(1986年10月)と第34輯(1988年10月) リスト101,. (下記文献. 102)に,略伝,研究テーマ,業績目録を整理して掲載した。この乗積目録は,氏によっ. て202の巻末に再録された。 氏は, 1904年4月5日石川県松任町(松任市)に生まれ,金沢の第4高等学校を経て1924年東京 帝国大学文学部英文科に入学,在学中に新人会に入り1927年卒農その年10月に日本共産党に入党 し『無産者新聞』 ( 『赤沈』の前身)の編集者となった。 挿され, 1930年暮に保釈出所した.郷里で療養, 6月を求刑され,. 1933年「転向」,. 1928年3月15日『無産者新聞』合宿で逮. 1932年上京し,. 10月29日の統一公判で懲役2年. 11月15日第2審の判決で懲役2年執行猶予5年となった。. 1933. 年3月から1938年7月まで日本評論杜に勤め,掛、て,大連に渡って満鉄調査部に入社し,大連図 書館などに勤務した。. 1943年7月満鉄調査部事件第2次検挙で逮捕され,. 1944年12月釈放され,. 1945年5月1日新京高等法院で有罪執行猶予判決,まもなく5月召集され政戦を二等兵としてハル ビンで迎えた。 41歳であった。. 10月大連に帰り,新聞の発行などを計画したが,やがてここで述べる労働組合調査部長となり, 消費組合,引揚対策協議会を組織,それぞれ事務局長として活動した。ソ連軍日本人送達責任者の 引揚事務局日本側代表も務めた。この間,ソヴュト軍の依頼で日本時代の中国人労働者政策につい て200枚程度書きロシア語訳して報告したり.中国人の職工総会で通訳付きで講演したりした。大 連の日本人は1946年3月までに20万3376人が引揚げ,. 8000人が残ったが,. 1949年10月最後の引揚. 船で帰国した. この活動については,. 201のほか,. 『アジア経済』での井村哲郎氏などによるインタビュー(205),. 『東京帝大新人会研究ノート』での慶応大学学生山田則彦氏とのインタビュー(204),五味川耗平.
(3) 21. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. 『自由との契約』解説(207,. 208)などでふれられているが,詳しいことはまだまとめられていな. い。私は以前から,大連での氏の日本人の引揚の仕事について読み,貴重な記録として持ち帰られ た会計報告などを整理しておきたいと考えてきた。ここにほ氏の生涯に一貫したものがもっとも自 由にあらわれているばかりでなく,. 50年を経たいま,敗戦後の大陸での日本人,ソヴェト軍,中国. 人の状況を明らかにするためにも必要であると考えたからである.そこからは敗戦前の日本人の生 活も浮びあがるはずである。 1995年夏,大連で氏とともに活動された映画監督の羽田澄子氏をお訪ねして保管されている関係 書類や会計報告などをコピーさせていただいた。そのリストは注2に掲げたものである。なおその なかに,. 400字約450枚の氏が1950年に執筆された大連での生活記録(文書1 )があったので,ワー. プロ化したが,これも発表の機会を持ちたい。 (以下すべて敬称略) 本稿のおもな参考文献は下記のようなものである. (『横浜国立大学人文紀要・第1載皿第32輯,. 101.木村英亮「石堂藩倫-人と業凄」. (『横浜国立大学人文紀要・第1類J),第. 102.木村英亮「-知識人の足跡一石堂清倫氏業績目録-」 34輯,. 1988.10,. 123-124頁) 満鉄調査部』 (勤草書房, 1986.4). 103.野々村一雄『回想. (新評乱1986.7). 104.富永孝子『大連・空自の六百日』. (福武文展1995.5). 105.清岡卓行『大連港で』. (新人物往来社,. 106.玉井秀夫『満州一九四五年』. (鐘ケ江借光監訳,味岡徹訳,新評論,. 110.董志正編『大連・解放四十年史.D. (勤葦書房, 1990.10). 202.石堂清倫『競わが異端の昭和史』. 203.石堂清倫『異端の視点,変革と人間と.a. 1994.10,. 93-182ぺ-ジ). 205.石堂清倫「満鉄調査部は何であったか」 6,. (劫草書最1987). 『東京帝大新人会研究ノート』第16号(慶応義塾大学法学部政治学科中. 「石堂清倫氏に聴く」. 1987.5,. 1989.5,. 67-88,. 1,. 1989.2,. 85-108頁) (1939)年-昭和20. (1945)年」. (『アジア経. 82-104頁). 207.石堂清倫「解説」. (五味川純平『自由との契約・下』角川文嵐1975.2,. 208.石堂清倫「解説」. (『五味川純平全集J]第6巻,三一書房, 1984.9,. 注2.石堂清倫大連文書目録(羽田澄子所蔵) 1.草稿石堂清倫大連労働組合. 567枚. 2.大連日本人労働組合設立趣意書1枚. 3.組合創立以前のこと. 6号,第30. 2,補遺(『アジア経済J)第28巻5号,. 47-60,. 206.石堂清倫「調査部資料室と大連図書館一昭和14 済』第30巻2号,. 1991.3). (激辛書房, 1986.6). 201.石堂清倫『わが異端の昭和史』. 巻5号,. 1988.ll). 『検証・シベリア抑留』 (加藤隆訳,時事通信社,. 111.ニンモ,ウィリアム・F,. 村勝範研究会,. 1973). (地久館, 1986.7). 107.木島三千男前『満州1945年』. 204.. 1986.1-25頁). 1枚. 4.題不眠.・・また死亡者の埋葬もやりました2-4. 3枚(二百字詰め). 452-468責) 459-478真).
(4) 木. 22. 等. 5.大連日本人労働組合現況 6.大連日本人労働組合運動史. 村. 英. 亮. 8枚 覚書19枚(含表耗) 47枚. 7.大連日本人労働組合運動1年史(本文). 8.民国36年1月30日民国35年度大連日本人労働組合決算報告書13頁 9.民国36年1月30日民国35年度大連日本人労働組合決算報告書 10.大連日本人労働組合決算報告. 5枚(コピー). 8貢. ll.民国35年度大連日本人勤労者消費組合決算説明書 12.大連日本人の引揚は如何にして行われたか. 8枚(コピー). 大連日本人引揚対策協議会. 13.在外同胞舟運促進全国協議会「引揚の現況とその対策」. 52頁. 13枚(大月原稿用紙). 3枚. 14.引揚者問争の繰括的批判と当面の任務. 15.大連日本人引換に関する決算報告書 付表なし16貢 16.大連引揚者連絡事務所開設趣旨1枚 17.. 1946.12現在職場救援. 原稿用紙3枚. 18.大連地区坊間協議会並労組支部借入金調書 19.証言書. 賛料4枚. 3賞. 20.坊・聞その他並支部校関係詞書. 2枚. 21.証拠書類発行機閲別一髪表. 6貢プラス1. 22.証拠寺類但寺内客別一覧表. 6枚. 23.請願書. 土岐強. 4責. 24.上席進操訴関係書類. 上原-紅露みつ11枚. 25.追加請願書(昭24.12.15) 26.. PETITION. 昭和28.2.16作成 4頁. 4枚. l枚. 27.在外公館等倍入金の確認と支払いについて(昭25.8). 6枚. 28.佐藤尚武-土岐強通知昭25.2.20付1通 29.太田一郎-土岐強. 昭25.9.4付1通. 30.大連の経済情勢に関するメモ 31.新中国の一面. 1通. 2枚. 32.日本トリビューン12月7日号 33.東京新聞昭24.10.23. 8頁. 4頁. (2)大連について 大連は青泥建という漁村で,. 19世紀末日清戦争のとき日本軍が占領し,清朝からこの地. をふくむ遼東半島を割譲されたが,三国干渉によって返還した。その後まもなく,. 1898年. にロシアが清朝から租借し,ダルニーと名づけ,自由貿易港とし,港と市街を建設した。 ロシアは同時に租借した旅順を軍港とした。.1904年日露戦争で日本はこの地を占領し, 1905年2月11日の紀元節(現在の建国記念日)に大連と命名した。戦後ポーツマス条約 によって大連をふくむ遼東半島を租借し,. 1906年関東州とし,旅順に関東都督府をおき,. 1907年には南満州鉄道(満鉄)本社を東京から大連に移した。日本はロシアが建設を始め.
(5) 23. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. ていた大連に大規模な投資をおこなってヨーロッパ風の美しい都市をつくりあげ,大山通 り,山県通りt小玉町など日露戦争に功績のあった将軍などの名や日本の植物の名を町名 とした.その後,中国東北地方の大豆豆粕などの農産物や灯油,撫順炭の積み出し港, 工業製品の輸入港として港湾施設が整備され,自体も軽工業から車柄・機械・化学工業を 発展させ,こうして日本の中国東北地方への侵略の拠点となったo人口は1906年(明治39 年). 20万2069人(日本人7万8125人,中国人12万. 1万8872人から1926年(昭和元年). 3598人,外国人346人). 1927年),. (南満州鉄道株式会社『大連地方案内』. (日本人20万2000人,中国人58万5000人,朝鮮人6700人,その他1200人) た。. 1945年80万人 (104-53)となっ. (現在は『中国年鑑』 1995年版によると527万人,うち市部249万人。). 1941年,大連市の行政は関束州庁に直轄されていた。州庁は日本の拓務省(後の大東亜 省)の出先で,新京(現在の長春)の関東局に属し,関棄局は関東軍司令官を兼務する満 州国駐箭特命全権大使の監督下にあり,ここの日本人は戦争の惨禍を一度も経験しないま ま敗戦を迎えたoなお,. 1945年8月ソ連管理下の地域の日本人は272万6000人(満州(満. 州125万9000人,北朝鮮35万9000人,大連・方剛厩22万8000人,樺太・千島列島30万5000 人,ソ連(連行された兵士・一般人). 57万5000人であった。. (111-66). 1945年の日本敗戦乱大連は中国の他の地域と少し違った地位におかれた.この年の中 ソ友好条約では,旅順,大連地区に対するソ連の租借権,共同管理権が認められたが,大 連市政は中国地方政権に,旅順港使用権はソ連に,大連港は国際自由港とされた。ソ連の 軍政は中国人市政を間接に管理する形をとったが,国民党にも共産党にも公然とした政治 活動は許さなかった.. 1946年2月初め東北部で内戦が始まった後も,戦火から守られた.. 地図に示したように,大連は,大連港,星ケラ乱老虎灘に面したゆるやかな丘陵に広が る。その中心の大広場から埠頭までの地域にはロシア時代の建築が多く,満鉄,汽臥 聞社,銀行などが並んでいた。大広場,西広場から駅にいたる一帯には,. 新. 3つのデパート,. 食堂,用品雑貨店などのある商店街で,その東西に満鉄社員の住宅など日本人住宅街があっ た。南側も丘づたいに老虎灘にいたるまではとんどが20万人の日本人住宅であった。これ に対し, 60万人の中国人は埠頭付近の寺児溝や駅の裏手から沙河口方面に住み,西南子が 商業地で,沙河口,甘井子に工場があった。労働者は日本人の住宅地面積の5分の1に満 たない地域にひしめきあっていたo. (注1). 注1.中国共産党は1948年に計画的な経済建設を始め,. 1949,. 1950年に造船,ガス,染料を重点と. して生産を伸ばした.当時の企業は大きく,中国企業(紡織などの工業省直轄企業と水産,交通な ど公営企業),中ソ合弁企業(電球,ソーダ風浪業,石油など),ソ連企業(百貨Jf,ドック,棲穀 貿易),ソヴェト軍直轄企業(化乾製鋼,機械など),私営企業(磯城,化学その他の小企業)に 分けられる。. (文書30). 大連は,その後1950年に旅順と併せて旅大市となり,. 1981年に大連市と改称したo造船,鉄道事. 柄,起重機などの機械工業や化学,紡凄,食品工業などが発展しており,大慶油田からのパイプラ インも通じ,ハルビンからの鉄道の終点である。大連港は不凍港で漁港でもあり,旅順は海軍基地 である。.
(6) 木. 村. 英. 亮.
(7) 25. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. (3)大連のソヴェト軍と中国人の動き 8月15日. 日本の敗戦当時,大連市の人口は約80万人,うち日本人は20万強であった。 以降中国人の手で地方自衛委員会がもうけられたoソヴェト軍(注1)は8月21日に占領 し, 22日ソヴュト軍の空挺部隊が旅順,大連の飛行場に到嵐23日にヤマノフ少将が周水. 24日近衛機甲. 子飛行場に到着した。まもなく司令官はコズロフ中将(注2)と交代する。. 第六集団軍の第1団の戦車が到着した。ソヴェト軍戦車約5000両は,星ケ浦など大連の海 岸一帯にも野営した。日本人住民はソヴェト兵の侵入に備え,. 25日商店,住宅の扉や窓に. 板を打ち付け,門にバリケードを築いた。市内ではソヴェト兵に強姦されるといった事件 が頻発する。この日中国人の行進の晴天白日旗を1日本人が奪って叩きつけたため袋だた きされ,これをきっかけに,日本人の店などが襲われるという,常盤橋事件がおこった. しかしコズロフ中将は厳しい措置をとり,まもなく規律を回復する.(注3) ソヴェト軍進駐後,自衛委員会は「中国人会」,さらに「大連地方治安委員会」と改め られた。国民党東北党務専員弁事処は,江漁洋を派遣して国民党大連支部書記に任命した。 一方共産党旦も大連に集まり.. 10月2. 9月2日に大連市職工総会準備委旦会を結成した.. 日中共中央東北局は韓光を大連に派遣して市委員会の書記に任命し,やがて中国共産党大 連市委員会を結成,非公然活動をおこなった。. 1946. 10月初旬大連市総工会が設立され,. 年1月職工総会と改組された。中国共産党は1946年4月末には.全市で89の党支部があ り,党員1600人以上となったo. 7月旅大地区委員会と改称され,. 放されると, 49年2月21日に旅大区覚委員会と改称, 9年末までに党員は1万5600人余となる。. 48年11月棄北全域が解 194. 4月1日にこれを公然化した。. (110・63-66). さて1945年10月27日に各界の代表会議は,遅子祥を市長とする大連臨時市政府を選出 し, 11月8日に正式成立が宣言された。. 中共大連市委員会は,. 1946年1月30日には大連県政府が成立した。. 1945年11月24日「日本人に対する政策についての決定」. (10カ条). を制定し,大連市政府は12月1日に「日本居留民に対する施政綱領」を発布した。それは 11条からなり,第1条ではt刺乱朝鮮の人民を弾圧した者は,財産を没収し,検挙する 権利をもつことを定め,第5条は,一般日本人民の企業は登記が必要で,経営の継続,中 国企業に対する投資も許可すること,第6条は,一般日本人民の私有家屋はみだりに横領 してはいけないこと,貧困者に対しては日本居留民中で,救済や職業斡旋をさせること, を明らかにしている。. (104・493-494). (注4). 石堂氏はハルビンから大連に帰ると「新生書店」という古書店を始め,間もなく物産館 のケースを借り,図書館地下室の廃棄図書のところに隠しておいた共産主義関係の自分の 本,委託された本を売ったo. l年以上続け,食事にはことかかなかった.ロシア語のゴー. リキー全集を700円で買い,ソ連軍に2万円で売ったこともある。. (201-209). 次に日本人市民の間に引揚げが間近であるなどさまざまなデマが涜されていたので,ソ 連軍や中国地方政府の方針や対策を正確に伝えて市民の無用の混乱を防ぎ,不安をなくす ため河村丙午,笹川政孝とともに日本語新聞を出すことを計画した。. (201・290-293).
(8) 26. 木. 注1.ソヴヱト軍は,. 村. 英. 亮. 1946年2月までは労農赤軍が正式名称であるが,ここではソヴヱト軍で統一し. た。. 注2.コズロフ,ドミトリー・チモフェ-ヴィチ(1886-1967)中将(1940年),. 1918年入党,ラズ. グリャイカ(ゴーリキー州セメノフスキー地区)の農民の家に生まれる。国内戦では東方戦線で自 軍とトルケスタン戦線でバスマチと戦う。フルンゼ名称陸軍大学卒莱(1928年), ゼ名称陸軍大学教官,. 1939年,フルン. 1939-40年のソ・フィン戦争では歩兵軍団指揮官, 1940-41年オデッサ軍管区. 副司令官,赤軍防空本部司令官,ザカフカス軍管区軍司令官.大祖国戦争では,ザカフカス軍など を持挿して戦い,. 42年8月からスターリングラード方面軍第24軍司令官,. 42年10月よりヴォロネ. ジ方面軍副司令官,43年5月レニングラード方面軍最高総司令部全権委見 8月ザバイカル方面軍 副司令官。日本との戦闘に参加。 (『大観国戦争 百科事典皿モスクワ,. 1985,. 346貢). コズロフ中将は, 1945年10月初め市民を集め, 「ソヴヱト軍は民族の平等を強調するものである。 今後は日本の帝国主義者がおこなったような民族の差別待遇は許さない。解放された中国人市民は 日本人と同等の権利をもって平和な生活を営まねばならないoそしてまた,日本人市民も中国人と 同じ権利と義務をもつ市民でなければならぬ。」とあいさつし,日本人を安心させ,好感をえた。. (文書1) 注3.石堂は,五味川純平「自由との契約」の解説で,大連日本人社会の直面した問題点を次のよう に記しているoすなわち,敗走関東軍兵士にそそのかされ,多くの日本人が無用の「防衛」で命を おとしたこと,中国人との間には差別と抑圧の関係しかなく無言の恐怖を感じていたこと,しかし 旧官吏や実業家で交渉の責任をとろうとするものはなく,旧特務機関か憲兵出身者がデマを流し不 安を助長したこと,一般市民に自治の経験はなく政戦によって無組織状態となったこと,したがっ て無名で社会的借用のない「民主分子」が名のりをあげざるをえなかったが中ソ当局の手先と見ら れるおそれがあったこと,その上かれらは競念的で,具体的,現実的な立脚点をもたなかったこと,. 中国解放軍とともにきた日本人「外来幹部」は都市での活動経験がなく,命令,指揮といった方法 に頼りがちであったこと,中ソ間の意思疎通も意外になかったこと,などである。. (208-459-463). 映画監督・山田洋次は,政戦の時大連の第1中学校2年であったが,その時の経験を後の新聞に,. 次のように書いている。 8月下旬,巨大なソ連戦車からおりた中年の兵士が水を所望して山田家を 訪れ,ドイツ諸で米ソの矛盾は当分解決しないと述べた.その2カ月後,家を接収に釆た八路軍の 兵士が京都大学の卒業であると白己紹介し,日本語で,遠からず新しい中国が誕生すであろうと語っ た。 「私にとって衝撃的であったのは,占領された軍隊の,それも鬼のように恐ろしいと教えられた. ソ連の兵士や匪賊(ひぞく)の仲間としか思っていなかった八路軍の軍人が,日本の軍人からは想 像もできない広い歴史的視野をもって戦ってきたのだ,ということを知ったことだった。」. (『朝日新. 聞』 1983・4・19夕刊) 注4.富永孝子『大連』には,資料として,中ソ友好同盟条約・大連に関する協定,日本残留民に対. する施政綱領,大連市政建設公債引受に関する決議内容など17の資料と大連関係年表が付されてい る。 (104-487-513).
(9) 27. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. 2.日本人諸団体の成立と活動 (1)日本人労働組合の結成 ソ連軍司令部は1945年12月8日に,それまで設立されていたすべて.の日本人の団体を 解散し,民主的労働組合の設立のみを認めることを通告した。こうして設立された大連日 本人労働組合は,労働組合とはいっても,. 2万2000人の工場労働者だけでなく20万人以. 上の市民と難民全体を守る日本人居留民団で,活動内容は多岐にわたることになった.ま た労働組合といってもはとんどは失業者の組織であった。年末にソ連軍は糧穀60トンを放 出したが,これを難民,困窮者,失業者に配給する過程で労働組合の中核ができた。 1946年1月20日に結成大会が開かれ,石堂は調査部長を引き受けた。委員長は土岐強, 総務部長柳原正元,書記長林茂などであった。. (文書7)調査部は,物価調査を続けると 2月2. ともに,日本人の意識調査をおこなった。結成時の組合員数は3168人であったが, 4日7944人,メーデー後2万1900人,. (文書5,. 11月15日には2万2389人に増加した。. 8). 結成大会には中国の職工総会主席も来賓として出席した。労働組合はソ連軍司令部の監 督の下,中国の市政府と公安総局が地域組織を通じて統制する形で活動した。組合の仕事 は,. 1.組合員の生活の維持・改善,. 2.民主的教育,. 3.生産復興,. 4.難民・困窮者. の救援の4つにわけられる。 敗戦によって多くの日本人が仕事と家財を失い丸裸で街頭に放りだされ,衣類や装身具 (注1 ). などの売り食い生活が始まり,難民が東北地区の開拓地から大連に移動して来た。 日本人労働組合は,. 1946年1月に設立されると,ただちに各地区,各学校に難民収容所を. 設けてこれらの人々を収容し,食糧を無料で配給しつつ,職業の斡旋や内職の指導をおこ なった。. 1946年2月19日にソ連軍副司令官ゲィノダラードフ中佐は,日本人資産家150人を集め てこれらの難民救済を呼びかけたが,最高額5000円というありさまで,わずかしか集める ことができなかった。一方,難民は餓死する者が続出し,日本人の集団強盗まであらわれ る状況となった。このような事態に対応するため,労働組合は,. 8万人の3カ月分の必要. 食糧500万斤分1500万円を目標額として救援資金調達にイニシアチブをとることとし,自 発的に協力する意志もないものに反省を求めることとした。これによって現金は900万円 強が集まり,その一部でソヴェト軍から市価の4分の1で1500万トンの高梁の払い下げ 15カ. をうけた.それを約3万5000人の「貧困者」に半月分の食糧として無料配給した他,. 2831人. 所4723人分(年末には21カ所に)分の難民収容軌孤児49人収容の鎌倉保育園, の無料診療にあて,残り81万3000円を消費組合に投資したo 上の,. 「緊急食糧獲得運動」の対象は,戦後大連に涜入した数万の難民と,大連居住の. 真因層の救援で,富裕な日本人からの寄付によって資金の調達が行われた. の収支は次の通りである。. 1946年末まで.
(10) 木. 28. 村. 英. 収入 支出1.救援費 (1946. 3-12)糧穀無料配給 難民託児孤児給費 貧困者医薬、治療費 人件費、物件費、営繕費1953 その他 2.消費組合預け金 3.寄贈家屋売却未収金 4.寄贈物品評価額 5.運動経費 計. 亮. (千円). 9257 8164 4345. (延人員3万6809人配給総量38万2400斤). 495. (直営病院3カ所、. 1306. 1597人を無料診療) (難民収容所21、託児所、孤児院、実費 診療所等). 6l 651 3 35 47 ー5 0 9 25 7. (文書10) 次いで同年夏,内戦によって大連が封鎖状態におかれ,食糧が暴騰したので,食糧確保 のためにふたたび基金カンパ「非常食糧獲得運動」が行われた。. (注2,注3). 1946年10. 月現在の収支は下記の通りであるo 収入 支出1.運動経費. 13900. (千円) (うち1180は医師公会貧困者救済引継分). 1900. 2.消費組合出資金 計. 12000 13900. (文書10) 組合の貸借対照表と収支計算書は,次のようになっている。. 貸借対照表 民国35年(1946年) 借方. 貸方. 建物. 1,061,412. 90. 什器. 289,437. 00. 一般基金 食糧獲得基金. 貯蓄品 未収金. 46,890. 00. 預り金. 335,268. 00. 坂受金. 消費組合勘定 消費組合預り金. 仮払い品. 813,748. 31. 1,168,348. 32. 58,200. 00. 授産用品. 198,825. 50. 授産製品. 3,534. 90. 20,000. 00. 船舶主器具仮勘定 合計■. 12月31日現在. 3,995,664. 93. 853,300. 00. 943,024. 43. 2,280. 合計. 2,197,060. 3,995,664. (文書8、. 00 50. 93. 10).
(11) 29. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. 収支計算書 自民国35年(1946年) 支出. 科目. I,773,835. 50. 交通及び通信費. 106,155. 80. 吻件費. 958,956. 78. (一粒費)人件曹. 営繕費 臨時費 事業経費 雑費 計 (救援費)人件費 交通及び通信費 物件費 営繕費 食糧配給費 入院及び治療費 葬儀費 給食費 薬品及び治療材料 防疫費 雑費 計 授産費 食糧獲得運動経費 減価償却費. 雑損品 合.計. 113,948. 50. 168,780. 50. 1,753,748. 54. 1月15日. 一般寄付金 各所事業収 雑収入 計 (救援収入)救援寄付金 診療収入. 94,568. 30 92. 託児料. 1,301,988. 60. 食事代 授産収入 雑収入 計. 63,648. 90 95. 192,282. 0. 4,345,365. 65. 718,638. 45. 144,781. 0. 495,521. 0. 413,349. 42. 30,085. 20. 63,701. 40. 8,164,811. 57. 474,081. 60. 150,113. 50. 300,812. 50. 12,975 14,072,788. 収■入. 科目 (一般収入)会費. 4,969,993. 395,449. 至民国35年12月31日 296,627. 0. 3,780,900. 5. 1,832,846. 95. 143,558. 10. 6,053,93.2 366,764 137,170. 0. 12,295. 0. 584,344. 経費充当資金 (緊急食糧獲得運動による 獲得資金より転入). 10 47. 0. 539,647. 25. 111,783. 50. 1,752,004. 22. 6,266,852. 57. 14,072,788. 89. 80 89. 合計. (文書8,10) 注1.日本政府は,満州国の支配強化と対ソ戦準備,窮乏化したEg[内農村対策のため, 年に4次にわたる農民移民を送り,. 1932年から35. 1936年以降20年間に100万戸500万人の移住計画を立て,さら. に1938年には満蒙開拓青少年義勇軍を創設し,政戦までに32万人余が移住した。. 「俺たちの場合はね,いままで働いていた職場を捨てたり,先祖伝来の田畑を売り払って渡満し た,文字どおり開拓団なんだ。汗みどろになって奥地の山や野をきりひらいて畑をつくり,関東軍 のために一意専心食糧増産に翰んできたんだoそれがどうだ.ソヴュト軍が進駐してくると,われ われはもちろん,一般在留邦人の生命や財産の保護すらしようとせず,どこかへ逃げてしまった.」 (106-247) 「9月なかば,奉天からの汽車で着いた難民の列は,ほとんどが婦人だった。老人の男が数える ほど交じって総勢約2000人,みな麻袋やござをまとい,ぼろ切れに包んだ子供を抱えていた。髪を 丸坊主に切り上げた異様な風体の母親たちの手元にはまつわりついているはずの幼児は一人もまっ たく一人もいなかった。その上,抱えた嬰児たちもほとんどが死んでいた。」. 「1万5000-. 人にのぼる難民の餓死者が続出し,死骸を組合の事務室に安置しお通夜しながら執務したことも1 度や2度ではない。」. (文書1). 1万糾00.
(12) 木. 30. 村. 英. 亮. 難民のなかには,除隊兵や脱走兵もふくまれ,もと将校や憲兵であった一部の者は暴動計画をす. すめたり,消費組合に手先を送り込んだり,組合の中傷や引揚についてのデマを流したりして,日 本人社会を撹乱した。. 注2.文書のなかに上原進提訴関係書類がある(24-29)。上原は,戦後旧勢力を集め難民救済とソ連・ 中国要人の接待のためとして費用を徴収し,反労働組合の態度をとったため,1946年8月の坊の集 会で糾明され,. 300万円を弁済することを約束させられた。かれは帰国後これを労働組合がやった. ものだとして参議院の引接委員会に訴えたため,土岐強と石堂が参議院に喚問された。その関連資 料である。この集会は,労働組合でなく居住区民の主催であったことがはっきりし訴えは成立しな かった。. 『日本トリビューン』 1949年12月7日号(文書32)は,これも「『大連労組』は何をした. か」, 「少数独裁が生む『大連の悲劇山などの見出しでとりあげている.その記事のなかには,. 「吸. 血鬼の犠牲者は訴う」として,財産をとられたことなどの体験談も載せている。. 石堂は,大蔵省が各地引揚団体を集めて中国各地の募金の調査をしたところ,労組組合,消費組 合,引揚対策団体協議会と全然無関係でありながら,組合印を押した沢山の領収書があったことを 記している。. 「私たちの関係した諸団体の本部・支部で使用した印は16種しかないのに,. 50以上の. 怪しげな組合名義の領収書があった。組合の硬直したやり方はもちろん反省を要するが,組合の関 知しない1億円に近い金額が強要されていたとすれば,われわれの不評判には思わざる根拠があっ たことになる。」. (201-312). 注3.アメリカの研究者ニンモは, Intelligence. MIS,. GHQ,. SCA戸. (連合国最高司令官絵司令部軍情報部)のDaily. Summaryに拠って上原問題などにふれ,労働組合について次のように書いている。. 「1946年初め,大連軍政司令部は日本人労働者の行動を管理するため,共産党の日本人労働組合を. 結成するよう命令した。組合は食料の配給から就職,住宅,住民の教育まで支配し,個々の引き揚 げについても優先順位をつけたりした。」. (11ト56). (2)勤労者消費組合の活動 消費組合は,救援を続けて行くために4月1日に設立され,労働組合生活改善部の関係 業務を引き継いだ。石堂と高橋庄五郎は最終引揚までこれにかかわった。 以後,. 1口50円の組合出資金と,労働組合の指導ゐ下におこなわれた「緊急食糧獲得運. 動」およぴ「非常食糧獲得運動」によってえた基金の一部の運用によって,消費物資を安 価に供給し,. 15万人の組合員とその家族の生活を守るために大きな役割を果たした。. 封鎖状態の当時の大連では,高梁の粥が主食で,人数の多い家族は豆粕を常食とし始め ていた。白米を食べていたのは日本人の1割程度であったであろう。. (文書1)中国人も. 合作社とよばれる協同組合を創設しており,職工総会の中央食糧合作社があった。 8月以降は中国政府の下部機構を固める政治闘争として展開していた。. 1946年.
(13) 31. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. 市価と配給価格との比較 市価価格(円) (1斤133匁). 一月別. 品名. 11月. 高梁 粟 高梁 落花生粉 芋の粉 秦. 〟. 12月 〟. ′′. ′′. ′′. 〟. ′′. 〟. 〟. 〟. 76. 市価に対する 配給価格%. 配給価格.(円) (1斤133匁) 47. 50. 00. 65.4. 76. 47. 50. 00. 65.4. 1.12. 58. 81. 83. 72.6. 66. 66. 50. 00. 75.0. 85. 49. 75. 00. 87.0. 108. 18. 70. 00. 64.7. 豆粕. 66. 66. 50. 00. バラ粉 黒大豆粉 大豆粉 白米 包米粉. 60. 42. 52. 50. 75.0 86.9. 64. 58. 60. 00. 92.9. 85. 86. 75. 00. 87.3. 150. 21. 140. 00. 93.2. 84. 50. 80. 00. 92.7. 平均. 82.9. 包米:とうもろこし. (文書1). 仕入実績1946.4-12 品名 高梁 莱 包米 大豆 白米 大豆. 豆粕 草の粉 落花生 ノJヽ計 ・醤油 味噌 小計 その他 合計. 数量(単位kg). 金額(円). 2,478,973.9. 56,323,376.30. 319,352.5. 10,078,410.00 16,091,282.70. 208,749.2 169,550.0 3,625.7. 3,567,744.90 954,280.00. 13,190.0 ll,374.0. 1,282,546.00. 65,374.5. 5,247,927.80. 172,145.5. 2,970,951.00. 3,442,335.3. 97,260,118.70. 743,600.00. 50,287(kg). 1,387,583.00. 20,461. 4,885,751.50. 70,748. 6,273,334.50 25,342,344.43 128,875,797.63. (文書1) 協同組合の生産事業 味噌醤油工場(大豆粕、高梁) 漬物工場(大根、なす、きゅうり、白うり) 佃煮工場(福神漬、辛子漬) 人工ミルク工場(大豆) 紡毛工場(毛糸) 組合パン(雑穀) 菓子工場(和洋菓子、喫茶店向け高級品) 薬局(薬品全般) 印刷インキ工場(印刷インキとカーボン・ブラック) 食堂(雑穀) 引揚用食品工場(雑穀ラスク、パン、乳児用携行食) A廉価販売目的. B失業救済. C営利. (文書1).
(14) 32. 木. 消費組合の施設としては,. 村. 英. 亮. 22の地区配給所とミルク,みそ,菓子など数カ所の食品工場. をもち,事業としては,決算期間中に1億5000万円にのぽった糧穀および副食品の低価格 配給と副食品・葉子などの製造および労働組合各工場支部に設置されていた職場支部なら びに失業者協議会に対する貸付金の投資をおこなったoその利益金の一部は労働組合の経 費の一部をまかなった.貸借対照表と損益計算書は下表の通りであるo. 貸借対照表1946.12.31 借方 金額. 科目 施設. 投資金 貸付金 銀行預金 現金 貯蔵品 仕入商品 積送品 未着品 未収金 仮払金 生産管理 引揚金庫 薬品 合計. 貸方 科目. 482,053. 50. 6,125,000. 00. 1,773,543. ll. 3,369,028. 37. 3,043.503. 69. 1,827.101. 90. 8,077,056. 43. 3,875,004. 68. 1,794,891. 50. 662,346. 05. 1,653,914. 00. 3,441,313. 85. 530,111. 00. 450,242. 40. 37,130,000. 32. 金額. ・労働組合 出資金 労働組合預り金 引当金 坂受金 出資寄付金 食協基金 利金. 813,748. 31. 3,851,440. 10. 1,168,348. 32. 3,353,233. 23. 8,421,282. 00. 143,140. 00. 12,022,555. 10. 7,356,253. 36. 37,130,000. 32. (文書1,. 10). 損益計算書1946.4.-12.31 科目 売上品原価 事務費 組織宣伝費 業務費 販売費 寄付金 雑損費 利益 合計. 金額 116,923,737. 52. 2,969,589. ll. 749,016. 58. 5,291,883. 12. 4,994,589. 86. 2,549,596. 90. 4,499,546. 73. 7,356,253. 36. 145,379,222. 18. 科目 売上収益 雑収金. 140,466,831. 15. 4,912,391. 03. 合計. 145,379,222. 金額. (文書1、. 18. 10). 1946年までの総括を経理部作成の「決算説明書」は,次のように述べている。 売上総額1億4000万円は莫大にみえるが,組合員家族1人あたり900円,月額100円.に すぎない。初めは安価な糧穀援助に依存し, が,. 4月5月には市価の4分の1以下で配給した. 7月以降援助がなくなっても,安価に供給を続けたため,資金がなくなり,活動が縮. 小した。. 9月以降,犠牲主義は組合員の利益にならないこと反省し,原価主義を採用する.
(15) 33. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. ことになった.決算表によれば,営業費総額は2100万円で売上原価の18%になる.組織 宣伝費79万4000円.原価償却費230万9000円,労働組合に対する寄付金255万円,貸倒れ 準備金265万円計830万3000円の固有営業費以外の支出を控除した額1279万6000円の売上 原価に対する割合は11%である。. (文書11). 組合は地区支部の独自活動を認めて本部活動を補填させ.労働者の生活の擁護のため, 職場支部に対して配給量,配給価格の面でまた資金の貸与などもおこなうなど特別の配慮 をした。. このような,消費組合で「蓄積された資金と人材があったおかげで, 上の日本人を無事本国に送りとどけることができた」のであるo. 1年ごしに20万以 (208-467). (3)住宅調整 ここで1946年8月の大連市政府の指令によって始められた,日中市民の住宅調整,すな わち「居民住宅調整」について述べたい.これは,市政府の「住宅調整委員会」が中心と なり,日本人の側では,労働組合と勤労者消費組合の地区支部員によって組織された「住 宅調整協議会」がおこなった。 戦前,全市の人口の3分の1の日本人の住宅は全家屋総面積の65.4%を占め,それに対 し中国人の家屋は34.6%に過ぎなかった。. (111・68,文書6)日本人は1人平均6畳,中国. 人は3分の1畳であった。地域でいうと日本人は風光明娠な南山および繁華な中心地区に 住み,面積でいうと,全市の8割の地域に,中国人は,寺児空乱 の地域に住み,電気. 香炉礁,西南子など2割. ガス,水道;電話などの施設はほとんど日本人の独占で質的には比. 較できないほどの差があった。中共旅大地区委員会は,. 1946年7月7日に調整運動の展開. にかんする決定を作成し,このような不平等の是正運動に着手した。貧困者の移動費用を 補助するために「住宅調整基金カンパ」もおこなわれ,. 138万5000円が集められた。使用. 内訳は,各区補給金68万4827円,委員会直接経費5万3679円,貸付馬車代未収金1万386 o円,各区払戻金63万1317円などであるo. (文書8)これによって,古い日中の町のこれま. でのボスの影響力は減退し,防,闇の組織は平均化されたo国民党海軍の大連港封鎖や経 済の混乱による不安のなかで,市政府は合作社の組織を固め,大連を人民政治協商を守る 拠点として確立することができた。 文書に寺児溝区第24坊の清算獲得金処理報告書(自1946年11月1日-12日)がある。 (文書19) 収入 家屋売却協力金578,000(円) 食協要請協力金12,000 増田英一清算金23,000 藤原義一清算金15,000 特別協力金.25,461 村林次郎清算金14,950 転出予定者協力金3,660 計672,071 差引残額. 支出 引揚難民救済資金本部納金379,650 坊内救援金(11月分)13,500 同(12月分第1回)6,000 事業委員会資金200,000. 72,921. 計599;150 (救援資金の充当)坊長名、会計監査結果省略.
(16) 34. 木. 村. 英. 亮. 日本人にとっては生活の質の低下であったので,労働組合は中国の手先に過ぎないとの 非難や憎悪も当然あったようであるo なおこれは第1回のもので,. 1946年12月-1947年3月には第2回があり,ここでは,. 日本人の帰国にともなって空いた家屋を配分,第3回は1947年4月-5月におこなわれ た。この3回にわたる調整によって, た。. 1万5895所帯の住民が良い住宅に住めるようになっ. (110・68). 3.引接と対策協議会の活動 (I)概観と全体的経費 冬を前にして,労働組合,消費組合,各地区の組織が集まって越冬対策を協議して活動 を始めようとしたとき,. 1946年10月23日にソヴュト軍当局から,大連日本人労働組合委. 員長に引揚の通知があった。ソヴヱト軍司令部は引揚司令官の下に,行政,経済,保健の 3委員会を設け,削委員長に日本人代表を任命した。日本側の事務機関として設立された 引揚対策協議会(引揚団体協議会と書いた文書もある)は,短期間に,大連市政府に協力 して在留日本人の実態調査をおこなって団軌こ組織し,ソヴェト軍に協力して埠頭と埠頭 収容所の設備を拡充し,. 11月10日に第1便の乗船者を埠頭収容所に収容した。. 以後第1便の永徳丸,辰春丸の2船が12月3日に到着,翌年3月30日まで,一般引揚者 20万3765人の帰国が行われたのである。なお,別に3月20日から29日まで約1万3000人 の捕虜が遺送された. 引揚にあった船舶は高砂丸(9300トン)から間宮丸(1100トン)まで26隻で,. 6900ト. ン扱が一番多い。これらの船舶が繰り返し入港し,とくに高砂丸は3月11日に病院船とし て重病人ら2065人を輸送した。 入船数 12月 1月 2.月 3月 計. 人員. 累計. 3. 9161. 9161. 9. 59739. 68900. 24. 64920. 133820. 28. 69945. 203765. 64. 203765. 1船平均3390人 1日平均1809人. (文書12,船舶出港地区別乗船一馬表等詳細な資料がある) 本節では,この引揚の具体的な段取り,費用の問題を扱う。 「旅大地区に於ける日本人の引揚は昭和21年12月3日より翌年3月31日迄の閤に於て ソ同盟軍の指導下,大連市政府の援助の下に大連日本人引揚対策協議会が之に当り22万の 同胞を祖国に引揚せしめた。其の間大陸の厳寒期に直面し引揚のみならず待機中の奥地よ りの流入難民を含めて約12万の貧困同胞の救済を行ったものであるoこれに使用された引 揚並救援資金の調達と之が支出に関する決算状況は本報告書に収むる通りである。」 カタカナ書きを平仮名とし,漢字は新字体に改めた)これは「大連引揚同胞諸君に対する 報告」として,大連日本人引揚対策協議会によって引揚が終わる前の3月15日付けで出さ れた決算報告書のはしがきである。. (文書15). (原文.
(17) 35. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. 大連日本人引揚対等協議会は,日本人労働組合を中心とする団体の代表者によって組織 されたo. 地域的には,. 「行政の下部組織たる坊,閣のうち,日本人居住地域400に閣協議会,その. 上に坊協議会が成立し,. 12月中旬には,引揚運動の基本単位である地区協議会の結成を見. るに至った。即ち中山.沙河口,嶺前,西南,寺児溝,大連の大地区がそれであるo. 一方,職場に於いても,これと時を同じうして,大連修船造船工廠(旧大連ドック), 中国長春鉄路,同工廠.(旧鉄道工場),大連中蘇自由港管理局(旧満鉄埠頭)の4大工場 を初め40余の工場を含む地区工場引揚対策協議会が結成された。」. (文書15). 引揚の費用はソヴェト軍が支出したが,それだけでは不足で協議会も必要な経費を協議 会は次の3項目に分けて計上した。 1.引揚経費,すなわち引揚に必要な施設の設営・引揚事務処理の人件費,物件費。 2.救援費用,すなわち引揚過程の越冬職場労働者・貧困者・浮浪者への給食・配給,柄 弱者-の医療救援費用。 3.残留者に対する生活資金o 必要経費は,. 2億1500万円と算出し,うち2億円は富裕者の世話人団による内地での返. 済を条件とする保証人収納金で,. 1500万円は日本人約4万5000所帯中貧困者と残留技術 (注1 )後者は1194万3000円78%が集. 者以外の約3万所帯からの寄付で集めようとした。. 12月末以降1人1000円,. まったが,前者は3620万3000円18%に過ぎなかった.そのため,. 1所帯5000円を限度とする,帰国後の日本政府の支払保証を見越した携帯金預かり制度 を採用した。これによって2385万4000円を調達したが,. 1月24日ソヴェト軍当局の中人. によって中止したo以後は自発的な救援資金の募集によって1445万円となり,以上を合計 して8645万となった.これも領収書を発行し,帰国後日本政府から支払いをうけることと した。. (注2)また家財などの買い入れと即売のための日僑相売所を引揚対策協議会の外. 局として設机. 物資預かり証を発行した。これも必要費用として支出された。なお当時の. 大連の物価は背広1着1万-1万5000円,白米1キロ400-500円である。 それで,引揚者とその荷物,収容所内の食糧その他の物資の運搬費として輸送料金を徴 収することとした。第2次引揚者より原則として1人100円,荷物1個150円, からは1個150円,. 2個450円,. 3個950円,. 4個1950円,. 2月8日. 5個以上は1個増すごとに1000. 円を徴収することとした。この合計は3293万9000円となった。その他,予防注射料322万 5000円などが,おもな収入である。. (文書15). このようにして集められた資金の支出・合計9361万8249円10践は,引揚対策協議会本 部資金部(2月1日以降は経済部資金堆)の責任で, なわれた。. 11月-3月14日,次表のようにおこ.
(18) 36. 木. 1人件費 2物件費 3諸経費 4設営費 5運搬費■ 6工作費 小計. 村. 英. 亮. 救援費. p引揚経費. 10,108,868.50. ll(%). 5,080,790.45. 5. 1,312,100.00. 1. 7,464,032.90. 8. 26,090,175.loo. 28.. 1,772,736.00 51,828,703.05. 2 55. EZ). ll,109,665,20. 1収容所給食 2■医療衛生 3職場救援 4地区救援 5教育救援 6その他 小.計 合計. 3,592,704.85. 4. 12,032,040.00. 13. 9,142,522.00. 10. 5,298,510.00. 6 1. 614,140.OQ 41,789,546.05. 45. 93,618,249.10. 100. (文書15) 引揚経費の28%を占める運搬費は,トラック代などが主で,. 1人あたり150円となる.. 設営費は,埠頭・第1. ・第2の3収容所,病院の建築補修工事,土木工事,電気工事,水 道工事などであるoこれは,日本人による畳や器具類の供出と工事者の努力によってかな り節約できたようである。 引揚事務処理者などの人件費も少ないといえるo物件費・工作費は印刷費,文具等消耗 品費,引揚者会への寄付などである。 救援費が大きな割合を占めるが,収容所給食は,スターリン給与と呼ばれていた1日 2700カロリーの給食がおこなわれた。. (注3)この給食費は,. 11月10-12月10日の埠頭収. 容所での5000人の乗船待機中の難局貧困者に対するものが主である。それは1日45万円, 1人平均90円となった。 乱. (注4)医療衛生費は,引揚収容所内などの治療費,極貧者葬儀. 検疫費など,職場・地区救援費は,穀物・塩・ラスク・現金を待機中の労働者・市民. などに放出したものである.教育救援費は,日本人教員の生活乱 その他は残留医師の補助金などである。. E]本人学校の維持費で,. (注5)引揚げの仕事で活動した600人は,. 3月30. 日と4月1日の船で帰国した。. 注1.大連市政府は,市建設公債4億円を1946年10月1日から発行することとし,うち2億円を日本 人が引き受けるよう労働組合に申し込んできた.交渉の結鼠 公債引受委員会を結成し, 円であった。 (文書1. 旧財界有力者と引窃対韓協議会とで. 6000万円をめどに応分の活動をすることになった。応募は結局3000万 104・499-503). 石堂は,歯獲された密航船,没収された隠匿物資,税関で発見された不正持ち帰り品などの何十 分の1かが自発的に喜捨されれば,問題は-一挙に片付いたはずだと記している。. (文書1,. 注2.これらはすべて協議会が持ち帰った書類,引揚者の領収書などに基づいて,日本政府によって 支払われた。 注3.スターリン給与は1人1日分として,米300g.雑穀200g,パン100g,池log,肉100g. 魚200g,野菜400g,砂糖10g,月桂樹の葉1 注4.その他. g,紅茶1. g.にんにく粉,塩少量。(文書1). 自主的救援のための合作社も,協議会が調査できただけで67社(資金961万9400円). 生まれ,食糧の共同購入,食堂経営などをおこなった。 注5.演凱漫才,集会,その他の娯楽活動,パンフレットの発行などもおこなった。. 201-322).
(19) 37. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. (2)引揚の具体的状況 1947年3月に大連日本人引揚対策協議会によって作成された「大連日本人の引揚は如 何にして行われた」は,. 1946年11月12日の状況を中心としているが,引揚の様子を埠頭. 収容所の施設の建設,食事・衣服などと保健などについて,具体的に措きだしている。 埠頭収容所の整備290万円大連第3埠頭岸壁倉庫を改造し,セメント張りの床. a.施設. の上に日本人所帯から借りた畳を敷きつめ,電気暖房・風よけの扉などの工事をおこなっ た。 A,. まで4隻分6000人収容。. 12月31日. 1946年11月10日に完成し,. B,Cの3ブロックで1万人収容可能な施設。. 1月からは短期宿泊施設として使用する。. 1月からは,荷物検査と待機はt. 旧聞東倉庫の第1収容所と,旧大連実業学校を改造し. た第2収容所を使用した。 b.食事・衣服など11月10日から12月3日までの第1,第2便乗船の引揚者は,もっ とも生活に困っている者を優先することとしたため,全部が東北地区からの避難民と浮浪 者であり,所拷金,所持品は皆無であった.第1船の入港まで20日以上待たされたため, 1人あたり90円で,総額928万6000円と. これらの人々にたいする給食費は1日約45万円, なった.. 1日平均主食432グラム,野菜50匁。. 12月1日からソヴェト軍による無料給食がおこなわれるようになったoその内容は例を あげると下のようなものであるo主食は高梁が主であるo 12月28日夕食分3000人分 白米712.0(kg) 高梁2600.0 甘薯2760.0 魚1406.0 油360.0 茶3.0. 12月27日朝食3000人分 白米270.0(kg) 黒パン250.0. 甘薯1154.0 高梁11200.0 魚544.0 砂糖112.5 茶4.5. 塩100.0. 塩100.0. (文書12. 11・12月の給食費明細、 12月31日職場食糧配給明細書は文書8. ソヴェト軍は, 12月27日, 服(上下). ). 28日次のような衣服類を与えた。. 150着,ズボン50着,防寒帽200着,外套50著,軍靴50鼠靴下400足,この被. 服類の給与は,その後も極貧者と見なされた者にたいして引揚の終了時まで続けられた. C.保健 医師、看護婦、検疫補助者等の人件費 貧困病人にたいする無料給食 医療薬品 入院治療 検疫費. 45万5000. (円). 1 4万8000. 34万3000 33万2000 14万8000. (文書12). 11月10日から12月3日まで引揚対等協議会保健部で担当した期間の状況は下表の通り であるが,これをみると,大部分の引揚者が患者であったことがわかる..
(20) 38. 木. 村. 33 再帰熱(伝染病) 結核 189 (18) 1203 外傷 971 取その他付属疾患 477 (99) 呼吸器疾患 472 皮膚疾患 消化器疾患 388 ( 4 ) 括弧内は入院. 英. 亮. 耳疾患 栄養障害 癌その他の腫癌 鼻・咽喉疾患 寄生虫病 その他を含め計. 171. (1). 171 157 138 21. 4656. (1朗) (文書12). その後ソヴヱト軍の手に移ってからは旧陸軍病院跡に引揚者のための病院を特設して, 重病人,栄養失調および悪性の皮膚病患者を入院させ,体力回復または全治をまって帰国 させる方針をとった。 引揚対策協議会は,消費組合から難民救援の仕事を引き継ぎ,難民と極貧者をさきに帰 国させる方針をとり,上述のようにしてその6075人の送り出しに成功した。それによって 各収容所は閉鎖されたが,真理街(旧逢坂町)収容所と松山街臨時収容所は残された。イ ンフレと寒さのために日本人の難民が増加し,また東北地区からの避難民の流入が続いた からである.これらの人々にたいし収容所では,給食,消導入浴,診療をおこなったが, 具体的状況は次の通りである。 真理街収容所. 収容者3595人,副食6779食,ピンズ6092食,雑炊9100食,その他無料. 給食8659食,携行食無料給与9905食,布団690尭臥. 洋服上下204著,ズボン下76,シャツ4. 22,着物38,子供服39,その他衣類1002,食器1574等を支給。 松山街臨時収容所1月1日-3月14日に1278人収容,それらに無料給食18661食,蘇 料診療1078^.衣類消毒1145人,無料入浴1584人,その他散髪.衣服の給与.新聞・パ ンフレット類の配布。 前者は1947年3月12日,後者は3月15日にそれぞれ市政府に返還された。. (文書12). なお,ソヴュト軍は引揚がすすむにしたがって,通関などいろんな条件を緩和した。中 国側は引揚に介入しなかった。 組合の活動家たちは,引揚船のなかで,リンチにあった。石堂文書には10例があげられ ている.たとえば,. 1946年2月14日出航の大久丸では,沙河口地区で引揚運動に参加し. た土田訓導が,全裸でデッキの柱に縛り付けられ,多人数で拷問・殴打されたが,船長や 復員官らは黙認した。.. 3月26日出航4月3日佐世保入港の高砂丸では.元陸軍少尉清水晃. らが首謀者となり,民主運動指導者であったという理由で,土岐,井上,野々札. 二階堂,. 田中に暴行した。船長,復員官らは黙認し,佐世保では援護局員が公然と扇動したという ことである。(文書1) 大連では積極的な活動家であったが,乗船とともに変わった例もかなりある。. 「解放し. た中国で『共産主義者』になるのは処世法としてきわめて有利であった。帰った日本でもっ. と有利な処世法があればそっちに鞍替えしたとこうで不思議はない.そんな例もみないわ けにいかなかった。」. (201-329-330)リンチは,. 1948年の第2回引揚げにもあった。.
(21) 39. ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録. (3)第2回,第3回引揚 要請された者. 専門家とその家族として残った者は7500人となった。自発的残留者の胤. もあったが,後者については中国関係について本人の諒解なしの残留の例があったようで ある。. 1947年7月労働組合は大会を開き,改組して「日億勤労者組合」が発足した。日本. 人の待遇について,中ソ間に十分な調整はなかったようである。当時大連は不況で周辺の 農村で土地改革もあったので,中国人は60万人から25万人に減ったが,日本人は行くとこ ろもなく,増産節約運動によって事態を打開しようとする態度も生まれてきた。一部の技 2つ. 術者は中国各地に送りこまれた.難民はいっのまにかふたたび200人ばかりとなり, の収容所を開いた.合作社と改称した消費組合が5地区におかれ.診療所は3カ所に設け られた。. 1947年11月7日のロシア革命記念日の後東北の戦局が転換し,ソヴェト軍のあと人民 解放軍が,それに続いて国府軍がはいった。. 1948年6月には『北京人民日報』がはいり,. 48年秋の遼淳会戦で人民解放軍が圧勝した。. 1949年7月ソヴヱト軍司令部は第2次『民. 主新聞』を再刊し,引揚収容所整備を内命してきた。石堂は名簿作成を担当した。この第 2回(第1次)引揚のあと2750人残り,うち700人が勤労者組合員,石堂が委員長であっ た。清岡卓行らを講師として6・3・3制の学校も整備した。. (注1). 1949年9月初めに司令部は,第3回(第2次)引揚を布告し,. (文書1) 9月22日-24日に1743. 人が収容所に入った。第2回の携行品は1人100キロであったが,この時は制限なく1家 族100個の荷物を持ち込んだ者もあった.このあとは,自発的残留者1000人以下のみとな る。. 1949年10月10日に舞鶴に入港した興安丸で帰国した石堂は次のように書いているo 「私たちは米軍によって家畜のように『消毒』され収容所にいれられた。たぶん復員官 が準備したリストによって組合の『活動分子』. 30人ばかりが別館に監禁された。娘までが. 『活動分子』扱いされたのは笑止である。私は1週間ばかり尋問された。もっとも2世の アメリカ軍人は,どうせ本当のことは答えないであろうから,あなた個人のことは聞かな い。しかしここには完全に近い調査があるといってスチール・キャビネットに充満した石 堂文書を示した。写真よりもよくできた似顔絵から,私の行動記録,. 『演説速記』などあ. きれるほど揃っていた。大部分は引揚日本人が収容所で書かされたものである。. -. l過問. 目にわれわれは汽車で東京へ向かった。監禁中に私の持帰った中国とソ連の書籍ははとん ど米軍に奪われていた。」. 注1.清岡は, 書いている。. (201・361-362). 1948年7年下旬に高砂丸で帰国した。そのときのことについて,. 1987年に次のように. 「引き揚げ団は職場単位に斑が組織されたが,学校数長の家庭は数がたいへん少なかっ. たので,大連日本人労働組合の班に編入されたo前年の春に大規模な引き揚げが一応終わったあと は,大連日僑勤労者組合と改称されていたように記憶するが,その姓に自分の家族が便宜上編入さ れることに私はいくらかの違和感をもった。残留していた日本人一般から組合はかならずしも好意 をもたれていなかったからだo 341-342). しかし,そのことを口に出すことばできなかったo」. (105-.
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