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近代的生産力における科学と機械
一r経済学批判要綱』の生産力認識㈲山
田
鋭 夫
1 自然諸力と科学 『要綱』における近代的生産力の認識は,生産過程における「労働の結合お よび分業」 (さらに広くは社会的分業)を構造的基層に据えるものであった。 しかし労働のこの社会的集合力を指摘するのみでは,資本の生産力の構造的総 体を把握することにはならないし,まして1850年代マルクスが眼のあたりにし た資本制社会の特記的生産力を把握することにもならない。マルクスの眼前に は機械制大工業による巨大な生産力が展開していたのであり,『要綱』もこれ を「自然諸力の応用」 「科学力の応用」ととらえ,その経済学的認識=批判に 多大の紙幅を割いていた。本稿は,この,生産力としての科学と機械について の『要綱』の認識をフォローすることを主要課題とする。なお最後(第]V節) にまとめとして,以上の分析から示唆されうる,生産力の批判的認識にかかわ る数点を摘記しておこう。 「自然(諸)力」という言葉については,この一連の論稿でも「労働の活力 賦与の自然力」や「社会的労働の自然諸力」としてすでにふれてきた。ここで 新たに問題とする自然諸力とは,これら既出の意味でのそれ,すなわち「人間 固有の自然の諸力」(387)ないし「人間的自然カー般」(235)の相でのそれで はなく,人間からはさしあたり区別される客体的自然の諸力,人間にとってさ しあたり外的な「いわゆる自然の諸力」(387)ないし自然諸条件の謂である。 !) マルクスにおける「自然力」の諸含意については次を参照。川島哲郎「自然的生産 諸力について」大阪市大『経済学年報』第2号,1952年5月。仲村政文『分業と生産これら外的自然諸条件の内容についてr要綱』では,カテゴライズされない 2) まま時おり羅列されるにすぎないが(cf.8,235,602),そのことはいま問題でな い。問題としなければならぬのは,労働の生産力を規定するような自然貸出, しかも近代において資本の生産力として積極的に開発利用される自然諸力にか んする経済学的認識である。すなわち,『要綱』において「工業における自然 三四の応用」(235),「自然小力と機械の使用」(417)と語られるときのように, 自然諸力の応用→機械(たとえば水→水車,蒸気→蒸気機関)とつらなる文脈 3) における自然電力がいま検討されねばならない。そしてそのような自然諸力 ぱ,自然諸力それ自体としては,資本にとってさしあたり無償である。 とはいえそれら自然諸力(水,蒸気など)は,それ自体としてはいかに無償 かつ既知のものであっても,そのままでは生産力たりえない。生産力として産 4) 業的に利用されるためには機械(水車,蒸気機関など)が必要である。そして 力の理論』青木書店.1979年,201−/6頁。中西新太郎「生産力概念の具体と抽象」 『唯物論』第8号.1977年11月,271頁。吉田文和「『無償の自然力』と資源・環境問 題」北大『経済学研究』第29巻3号,1979年8月,368−7!頁。 2) 「資本論』が次のように整理していることはよく知られている。「社会的生産の姿 態がどの程度に発展しているかは別として,労働の生産性はやはり自然諸条件に縛り つけられている。それらの自然諸条件は,すべて,人種などのような人間そのものの 自然と,人間をとりまく自然とに還元されうるものである。外的な自然諸条件は、経 済学的には,生活手段の自然的豊富,つまり土地の豊鏡性,魚類の多い河海などと, む む 労働手段の自然的豊富,たとえばさかんな落流,航行しうる河川,材木,金属,石炭 など,という二大部類に分れる。」 (長谷部交旧訳『資本論』(3),青木文庫,809頁)一 3) 1860年代初頭の草稿はこれを,「機械,自然才力と科学との応用(蒸気,電気,機械 的作用因と化学的作用因)」(資本論草稿集翻訳委員会訳「資本論草稿集4,経済学批 判(1861∼1863年草稿)1』と整理し表題づけることになるが,いうまでもなくそれ はさらに,『資本論』第1部第!3章「機械と大工業」へと発展していくことになる。 4) 『資本論』にも言われている。「蒸気,水などのような生産的諸過程に合体される 自然蛮力も,やはり何らの費用もかからない。だが,呼吸するために肺を要するのと 同様に,人間は自然三一を生産的に消費するためには『人間の手の形成物』を要す る。水の動力を利用するためには水車が必要であり,蒸気の弾性を利用するためには 蒸気機関が必要である。」(『資本論』(3),631頁)
22 この機械は,経験知をとおして考案されることもあるけれども,やがて決定的 役割をはたすのは科学である。技術学が自然諸力の新しい応用法を発明するば かりでなく,自然科学理論が従来未知の新たな自然呪力を発見することもあ り,この両義において科学は自然諸力の産業的応用=生産力化にとって重要な 要因となる。r要綱』もこのような意味での自然諸力を論ずるときには,しば しば同時に「科学(Wissenschaft)」「科学力(scientific power)」に言及して, たとえば「科学と自然のあらゆる諸力の喚起」(593),「自然諸力と精神諸力〔科 学力など〕の開発利用と交換」(313)と語っている。つまり,当面の自然諸力 とはあくまでも科学という人間力に包摂されそれによって制御されるかぎりで の自然諸藩であって,この点が確認されていれば,自然力を科学力と換言して もかまわないであろう。主導者は科学力の方にある。そしてその科学力も,さ しあたり資本にとって無償の存在であった。 『要綱』は近代的生産富力を構成するものとして,このような自然力=科学 力の応用を独自に見定める。労働の社会力が生産力の構造的基層に定礎されて いたとすれば,この外的自然力の科学的応用はその上層に位置づけられ,総じ てこの社会力と自然力=科学力とを内的契機とする総体として資本の生産力が 構造づけられる。というよりも実は,科学なるものは社会力と切断された孤立 心力とは決して考えられていないのであり,社会力の一環としてこう把握され ていた。r自然によって規定されたものとしてのではなく,社会によって措定 されたものとしてのいっさいの諸関係……。ただこのことによってはじめて科 学の応用が可能となり,そして十全な生産力が発展する」(188),「生産過程内 部の労働分割〔分業〕および労働結合……,科学カ……,人口の成長……。要 するに,人口の成長および社会の歴史的発展とともに発展しつつある社会的開 心……。」(651)だから構造的.ヒ層としての科学力といっても,それは究極的に 労働の社会力の延長上に位置:づけられているのであり,外的自然力の科学的応 用にまでみずからを展開した社会力と考えられているのである。外的な自然諸 力までもが社会的労働に包摂され,社会的労働の諸力能に転化されるのであ り,また科学力の応用,機械制大工業は労働の社会的集合力の展開と別物であ
るどころか,逆に技術的必然性をもってそれを確立するのであって,ここに基 本=基層としての労働の社会的生産力の,その基軸性が再確認されねばならな い。『資本論』にみる協業一分業一機械制大工業というトリアーデ的生産力構 造論を,そのものとして『要綱』に求めることはでぎないが,しかし『要綱』 的な社会カー科学力の二層構造論は,このように近代的生産勢力の基本が奈 辺にあるかの探求の足跡を物語っている。 翌 科学と機械の生産力 以トのような構造的傭鰍のうえにたって,『要綱』は科学と機械の経済学批 判を縷述する。科学や機械が生産力だとはどういう内容において言えるか,こ れが問題である。はじめに科学についてであるが,いうまでもなく科学はそれ 自体としては,つねにただちに生産力であるわけでなく,まして資本の物質的 生産力に直結するものではない。科学は一つの精神的生産として,物質的生産 う とは異る相対的に独自な論理をもっている。ただしその科学は,社会的生産諸 声と全く無関係ではあり得ず,生産諸力の発展の産物であり,これに規定され これを表現する一形態であること,よく知られているとおりである。『要綱』 は,「科学の発展は……物質的生産に比例する」(592),「科学の発展は……人 闘的生産与力の発展すなわち富の発展が現象するところの一側面,一形態であ る……」(439)と述べているが,このように科学はまず生産手力の産物 「富 の生産物」である。と同時に科学は,それが社会の知識と経験の普遍的総括で あるかぎり,生産に応用され利用される可能性をもっているのであり,この側 面では科学は「富の生産者」である。科学を規定して「富の生産物(Produkt) であるとともに生産者(Produzent)でもある富のもっとも堅実な形態」(43g) と言われる所以である。この「富の生産者」としての科学の可能性を現実性 に転化させ,科学を直接的生産過程に合体し従属させることは,資本によって はじめておこなわれる。資本は歴史上はじめて科学なるものを技術と結合さ 5)後藤道夫「マルクスにおける科学と生産」『現代と思想』第26号,1976年12月,参 照。
24 6) せ,科学を生産に奉仕させた。 7) バベージは言っている。「この知識と経験のたえざる前進は,われわれの 偉大な力である。」 この〔知識と経験の〕前進,この社会的進歩は,資本 〔に〕属し資本によって開発利用される。いっさいの先行の所有諸形態 は,人類の大部分を奴隷純粋の労働用具の地位におとしいれていた。歴 史的発展,政治的発展,芸術,科学などは,彼らの上に位する上流社会で おこなわれていたものである。しかし資本は,はじめて歴史的進歩〔知 識,科学など〕を捕囚にして富に奉仕させるようにした。(484) 否,資本は既存の科学を生産に奉仕させるばかりでなく,直接的生産に奉仕 するかぎりでしか科学を必要としないのであり,そういうものとしてしか科学 を発達させない。資本のもとでは,「発明が一つの商売となり,また直接的生 産それ自体への科学の応用が,科学にとり規定的な,またはこれを誘引する観 点となるのである。」(591)こうして資本は科学を自己に従属させる。その科学 とはさしあたり,前野のように「社会的進歩」 「歴史的進歩」の所産として, 社会の精神的共有財産であるかぎり,資本にとっては無償である。無償の科学 を生産に奉仕させることによって,資本はその生産力を高める。「資本の生産
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ガは,資本が無償で領有するこの一般的進歩とともに発展する。」(586) さて,資本が科学力を吸収し利用することによって,総じて生産過程は「単 純な労働過程から科学的過程(wissenschaftlicher ProzeB)へと転化」(588)す る。この労働過程の科学的過程化は「直接的労働の社会的労働への高揚」(588) 6) cf. H. L. PARsoNs, Marx and Engels on Ecology, Greenwood Press, London 1977, p. 25. 7)バベージについては,植村邦彦「バベージにおける分業と機械一く資本の生産 力〉認識の形成(1)一」『一橋研究』第4巻2号,1979年9月,参照。 8) 労働の社会的集合力(「生産過程内部の労働分割および労働結合」)が資本に費用を かけない生産力であることを指摘したのちに,『要綱』は科学についてJ「資本に費 用をかけないもう一つの生産力は科学力である」(651)と指摘している。科学の無償 性については「資本論』も語るところである。「科学は資本家にとり全く『何も』費 用をかけない。このことは決して.資本家が科学を利用することを妨げない。『他人 の』科学が他人の労働と同様に資本に合体される。」(『資本論』(3),632頁)一すなわち前稿でみた労働の「結合労働」化, 「社会的労働」均一と相即 の 不離の関係にあるぽかりでなく,前者は後者を完成させるものである。といっ ても資本は,分業=協業的な社会的集合力をわがものとする場合とはちがっ て,科学そのものを直接に自己のものとするのではなく,「科学力は機械の充用 をつうではじめて資本が領有することのできるものである」(651)。したがって マシにネリユの 単純な労働過程の科学的過程への転化には「労働手段の機械への転化」(585)が 核としてともなわなければならない。 労働手段は資本の生産過程にとりいれられると,さまざまな変態を通過す マシ ネ るのであって,この変態の最後が機械であり,あるいはむしろ一個の自動 装置により,自己自身で運動する動力により運動状態におかれる,一個の マシにネリ 自動的な機械体系(機械体系。自動的体系のみがもっとも完全かつもっと マシにネリ も適合的な機械の形態であって,機械をはじめて一個の体系に転化する) である。この自動装置は多数の機械的器官と理知的器官とからなりたって おり,労働者自身はたんにこの自動装置の意識ある手足として規定されて マシ ネ いるにすぎない。……機械は個別的労働者の労働手段としての関連ではけ マシにネ っして現れない。機械の種差とは,労働手段のばあいのように,客体への 労働者の活動を媒介することではけっしてないのであって,むしろこの労 働者の活動が,機械の作業,原材料への機械の作用を媒介する一台督し 機械の故障を防止する一にとどまるというふうに,その活動は措定され 9)平田清明「個体酌所有概念との出会い(上)」『思想」617号.!975年11月,110−8 頁,および同「マルクスにおける生産諸力の概念について②」『経済論叢』第123巻 1/2号,!979年2月,13−20頁,参照。 10) これまでにもすでに「機械(Mascl inerie)」の語は登場してきたが,ここで訳語に ついて一言。『経済学批判(1861∼1863年草稿)』の訳者も注記しているように,「個 む 々の『機械』であるMaschine, machineと区別してのMaschinerie,阻acぬineryは, 「機械類』,『機械装置』,『機械設備』などの意味をもつ。とはいえ,この両者はつ ねに戯然と区別されるわけではない。マルクスの用語法でも同様であるように思われ る。」(『資本論草稿集4,経済学批判(1861∼1863年草稿)1』24ac頁)それゆえ本稿 でもMaschineとMaschinerieとを特に訳しわけず,ともに「機械」と訳すことに するが,適宜ルビをふって区別することもある。
26 ているのである。(584) こう述べて『要綱』は,機械の経済学的分析を展開する。その叙述は『要 綱』中でも最も瞠目にあたいする文章の連続であり,事実,これまでにも多く の研究がここに集中されてきた。たとえば機械制生産と「労働の止揚」(?)の 問題, 「価値法則の止揚」(?)の問題, 「自由時間」の問題など,現代認識に コ 深くかかわる諸論点がここを典拠に論議されている。しかしこれらの問題はひ とまず措いて,本節が検討すべきは「生産力」としての機械の性格にかんする r要綱』の認識である。この草案は機械を「固定資本(capital fixe)」と概念規 エ 定し,しかも機械は「固定資本」概念に最も適合的な形態だと述べているが, その機械=固定資本の生産力的性格について,次のような特異な記述を残して いる。 対象化された労働は機械において,それ自体直接に生産物(Produkt)の 形態,ないしは労働手段として使用される生産物の形態で現れるばかりで なく,生産力それ自体(Produktivkraft selbst)という形態で現れる。(585 −6) 固定資本はそれ自体これら〔大工業の〕生産諸力の対象化であり,前提さ れた生産物としての生産諸力それ自体である。(591) 生産力(固定資本)は価値だけを移転する。なぜなら生産力は,それ自体 が生産されたものであり,それ自体が一定量の対象化された労働時間であ るかぎりでは,価値だけをもっからである。……生産された生産力(Pro− duzierte Produktivkraft)という意昧での固定資本は,生産の作用因とし て,一定時間に創造される諸使用価値の分量を増加させる……。(6023) 11)比較的最近の文献のみ二・三あげるにとどめよう。杉原四郎『経済原論1』同文 館,1973年。平田清明「個体的所有概念との出会い」『思想』ij’ 6!7一一20号,1975年11 月一76年2月。後藤道夫「『経済学批判要綱』における機械労働の把握」「唯物論』第 7号,1977年3月。 12) 『要綱』の固定資本および流動資本の概念については,問題意識における不満と反 省をおぼえているが,さしあたり旧稿「『経済学批判要綱』における流動資本と固定 資本(上・下)」『経済科学」第!5巻3号,第16巻1号,1968年3月,12,月,参照。
強調点からも明らかなように,ここで機械(固定資本)は,一方で「生産さ れたもの」 「生産物」として,他方で「生産力」 「生産(諸)力それ自体」と して規定されている。つまり機械は,「生産物」にして「生産力」だと両義的 に規定されており,要約的にいえば「生産された生産力」という特徴的規定が あたえられているのである。 r資本論』ではあまり見なれぬこの機械規定によ エヨラ って,『要綱』マルクスは機械の何を語ろうとしていたのであろうか。 たしかに機械は,労働手段一般と同様,否およそあらゆる労働生産物と同 様,何らかの労働の対象化の所産であるかぎり「生産物」である。これだけの 話なら自明のことであり,何も機械をあらためて「生産物」と規定するには及 ばない。そこで「生産物」規定の含意をさぐるためにも,むしろまずは機械の 「生産力」規定の方から問題にしよう。 機械を「生産力」だと規定するマルクスの脳裡には,機械は科学の応用であ りその物質化であるとの認識が強く宿っていたものと思われる。その科学とは すでに見たように,「富の生産物であるとともに生産者」であり「資本に費用 をかけない生産力」であった。このような科学の肉化としての機械は,たんな る道具とちがって,生産において「強力な効果」(592)を発揮する独自な作用 因として,マルクスの眼にうつっていた。たしかにその「強力な効果」の実体 の経済学的説明において,『要綱』はあまり成功しているとは言いがたい。あ るときは機械(固定資本)が, 「一定時間に創造される諸使用価値の分量を増 加させる」(603)ものとして把握されているかと思えば,またその直後には「新 たな諸価値の創造という使用価値をもつ価値」(603)とも説明されていて,必 ずしも明快:でない。がしかし,「固定資本が耐久的であればあるほど,修理や全 体的ないし部分的な再生産を必要とすることが少ければ少いほど,その流通時 間が長ければ長いほど,それだけ多く固定資本は労働の生産力として,資本と 13)参考までに別の所でもいわく。「機械は.単純協業やマニュファクチュアにおける 分業とは違って,生産された生産力であり,それには費用がかかっている。」(『資本 論草稿集4,経済学批判(1861∼63年草稿)1』517頁)他に『直接的生産過程の諸 結果』や『剰余価値学説史』にも見出しうるし,「資本論』にも皆無ではない。
2与 して作用する」(653)と語っているのを考慮に入れるとき,そして道具につい ては同じような意味での「生産力」とは規定していないことを考慮するとき, この「生産力」規定はおそらく,道具とくらべたばあいの機械の生産的作用効 果の巨大性を,つきつめれば機械が「無償の自然力」にも似た性格をもつに ユの いたることを,指摘しようとしたものであろう。やがて『資本論』はこれに, 「価値形成要素としての機械と生産物形成要素としての機械との閲には大きな エの 差額が生ずる」と経済学的説明をあたえることになるが,このように毎回の生 産において機械は,価値形成の要素としては微少な役割しかはたさない(少額 の価値しか移転しない)のにくらべて,使用価値形成の要素としては科学力を 宿したあの巨大な体躯と力能が全的に作動させられるのであり,まさにこの生 産的作用の大きさを表象して『要綱』は,機械をすぐれて「生産力」と呼んだ ものと思われる。 しかし,機械がいくら「無償の自然力」に接近しうる「生産力」であるとい っても,無償ではない。ここにさきの機械の「生産物」規定が重要な意味をも ってくる。機械が「生産物」だということは,それが「一定量の対象化された 労働時間」だということであり,そういうものとして「価値をもつ」(602)。同 じ「生産物」といっても,科学は「社会的進歩」の精神的生産物として資本に とってさしあたり無償でありえたのに対し,機械は先行する労働=価値増殖過 程の物質的生産物であり,資本はその領有のためには等価を支払わなければな らない。つまり機械は「生産された生産力」であり,有償である。しかも道具 などにくらべて,一般にはるかに高価である。機械にもとつく「生産力の増加 自体は,資本がこれを麦払わねぽならないのであって,無償ではない」(662), あるいは「機械の導入すなわち生産力の一般的増加がおこなわれると,その結 14) 『資本論』は次のように整理している。「機械の生産場面は道具のそれにくらべる と比較にならぬほど大きい……。機械の生産的作用範囲が道具のそれにくらべて凹き ければ大きいほど,機械が無報酬で役立つ範囲が道具のそれにくらべて大きいのであ る。大工業において初めて人間は,自分の過去の・すでに対象化された・労働の生産 物を,自然力と同じく大規模に無償で作用させうるのである。」(『資:本論』(3),633頁) 15) 『資本論』(3),632頁。
果,この生産力自体が対象化された労働をその基体にしているために,それだ け費用がかかる」(705)。この点で機械の生産力(生産された生産力)は労働の 社会的生産力(生産されたのではない生産力)と異る。異るのみでなく機械の 価値いかんによっては,それは生産力として作用しないこともある。 「少量の 生産物を供給するために高価な機械が使用されるばあいには,機械は生産力と しては作用しないで,むしろ生産物は機械なしで作業がおこなわれるばあいよ ユの りも無限に騰貴するであろう。」(626−7)したがって資本による機械の生産力 的利用には,機械価値・機械費用の可及的縮小という課題がまちうけている。 他方で資本はその価値増殖のためには,必然的に固定資本およびその価値を増 加させざるをえなかった。かくして資本は,固定資本価値の増加と減少という 矛盾的な要請のなかで運動せざるをえない(cf. 651−2)。この聞題はしかし,す でに当面の生産力としての機械論をこえて,r要綱』的な利潤率低下論の圏割 ユリ に踏みこむものであるので,これ以上の深入りは別の機会にまちたい。 皿 機械制生産における労働の無力化 資本のもとでの社会的な結合労働の形成は,労働から「合目的的活動」を剥 奪して精神労働と肉体労働を分裂させ,また結合労働者からその「社会的精 神」を疎外するものであった。いま社会的労働が科学力を応用しつつ外的自然 諸力を包摂するとき,すなわち資本の生産力がすぐれて科学的・機械的生産力 としてみずからを展開するとき,それは労働にとって何を意味するか。すでに みた労働からの目的定立と社会的精神の剥奪が,機械の登場によって止揚され るどころか,逆に素材的基盤と技術的必然性をあたえられて一層強固に貫徹す 16) 次も参照。 「生産用具がそれ自体価値であり.対象化された労働であるという点で は,それは生産力としては寄与しない。その生産に100労働日かかった機械が,ただ 100労働日だけにおぎかわっているにすぎないならば,それは労働の生産力を少しも 増加させないだろうし,生産物の費用を少しも減少させないであろう。」(651) 17) 『要綱』における固定資本論と利潤率低下論の問題性については,西村弘「マルク ス利潤論の生成一『経済学批判要綱』から『剰余価値学説史』ヘー」専修大『経 済と法』第8号,1977年3月,参照。
30 エき ることは,いうまでもない。機械はこれにくわえて,あるいはこの延長上に, 新たに何をうみだすのか。 何よりもまず機械の登場とともに,労働はたんに目的定立を疎外されるのみ でなく,目的定立と創造的主体的活動にかかわる人間的諸力能を奪われる。こ れら諸転倒とは「熟練」 (判断力およびそれと一体となった技能)や「知識」 などの精神的潤筆(およびそれと一体となった肉体的力能)であるが,これら がいまや機械の側に転置される。『要綱』はそれを繰りかえし指摘する。 熟練:(Geschick)は労働者のなかではなくて,機械および機械との科学的 結合を通じて全体として作用している工場のなかに存在するようになる。 (428) コ コ コ ロ ヴイルツオ ぜ 労働者にかわって熟練と力をもつ機械は,機械自身が名匠なのであって, この名匠はある固有の魂を自己のなかで作用する機械学的諸法則のうちに もっている……。(584) コ フレ ムト コ 知識(Wissen)は労働者の外にある他人〔無縁〕のものとして機械のなか に現れる。(586) 社会的頭脳の一般的生産勢力すなわち知識と熟練の蓄積は労働に対立して 資本に吸収され,したがって……生産過程に本来的生産手段としてはいる かぎりでの固定資本の性質として現れる。(586) 熟練や知識を喪失した労働は,「活動のたんなる抽象」 (単純な肉体的=神 経的労働)として機械体系上の必要箇所に貼りつけられる。その労働内容は, マルクスのいう「監視し機械の故障を防止する」こと以外にも,機械の発展や 種類とともに多様であろうが,「機械の作業,原材料への機械の作用を媒介す るにとどまる」という基本形態には変りなかろう。いずれにしても機械は熟練 ラ や知識のみならず科学をも吸収して,いまや生産過程の精神的力能を体化して 18)たとえば労働の共同的精神の機械への疎外についていわく。「大工業では労働の結 合といわゆる労働の共同的精神とが機械等に移植されている。」(480) 19) 「機械の生命なき諸手足を組立てることによって合目的的に自動装置として作用す るように仕上げるところの科学(Wissenschaft)は,労働者の意識のうちには実存し
おり,過程全体の統一的主体となる。この「体系の統一体」としての機械にた いして労働はその「体系の一手足」「生きた付属物」にすぎず,また「強力な オルガニスムス オルガン 有機体」としての機械にたいして労働は「意識ある器官」「意識ある手足」に すぎなくなるQ ここからr要綱』は, 「生産過程はすでに,労働が労働過程を支配する統一 としてこの過程を統括するという意味での労働過程ではなくなっている」(585) と,機械制生産による本源的労働過程の消滅へと筆をのぼしている。ことばの 本来の意味での労働過程が機械制生産で消失するか否か,議論のあるところで あるが,このばあいマルクスのいう「労働過程」がすぐれて道具をあやつる労 働一画本旨的形態規定をあたえられていようといまいと一をイメージしモ デルとしていることは確かなようである。実際,機械に従属する労働を語る r要綱』の文脈には,道具(用具)をあやつる労働が影の肯定的価値として見 えかくれする。いわく, 「労働手段〔道具のこと〕は労働者を自立的なものと し……機械は彼を非自立的なものとして措定する」(590),「用具のばあい,労 オルガン 働者は彼周有の熟練と活動でもって自分の器官としてこれに魂をあたえ,した ヴイノレソオノテ ト がってその操作は労働者の 巧 み に依存する……」(584)。こう語るマルク スの真意は,道具労働そのもののロマン主義的復権にあるのではないとしても, 道具労働のうちにあった労働の精神的力感の評価,逆にいえば機械労働におけ る精神的力能の喪失を告発することにあるものと思われる。「資本家は機械に よって労働からいっさいの自立性と魅力的性格を奪いさる。」(58g) ないで,機械をとおして労働者にたいし危矢〔ム デ無縁〕あかとして,畿械老乳自身ゐカ として作用する。」(584)「固定資本は・魂をあたえられた怪物として科学の思想を客 体化している。」(374) 20)後藤道夫,前掲論文(注!1)),参照。 21) 『資本論』とくらべるとき『要綱』は・道具的生産と機械制生産の区別を決定的な ものとして・その意味で両者をすぐれて断絶面において描く傾向が強い。これには, 機械把握の理論的問題が伏在していると同時に,50年代マルクスを規定づけた表象的 問題意識すなわち「黄金の50年代」を起動づけた機械制大工業の役割への認識の強 烈さが反映している。
32 付言しておくならば,第一に,機械は労働から一挙にすべての精神的力能を 奪うのではなく,この力能は機械の発達とともに漸次的に機械に移植されるの であり,その間,労働の側にも一定の熟練や目的定立が残される(あるいは新 たにうまれる)こともあろうが,しかし残された熟練や目的定立とは,以前に くらべて部分的・局部的なものとなる。熟練は部分化し,目的定立の回路は短 縮され,結局のところ生産過程の全体的連関のなかに組みこまれて,自由な意 識的活動や目的そのものを対自化する営為の余地はなくなる。第二に,『要綱』 は熟練や知識の機械への移植,労働からの精神労働の剥奪の側面に焦点をあて て機械を描いているが,機械に奉仕する労働の対極にあるのは,もちろん機械 そのものではなく,機械(および機械に奉仕する労働)を自己に奉仕させる労 働,機械の精神的力能をも自己の一契機とするような労働一つまりは「精神 労働」でありマルクスはそれを「資本」の語に含ませる である。機械対労 働の形で言われていることは,結局,この精神労働対肉体労働の分裂・対立で あり,機械はこの二種類の労働の敵対を物的技術的必然性をもって深化させる 22) ということである。 こうして機械は労働から過程の精神的力能を奪い,精神労働(目的定立)を 奪う。精神労働の喪失はここでも労働の社会的精神の喪失を内包する。労働は いまでは,自己実現,自由な意識的活動,量的確証の場ではありえない。労働 がこのように精神労働を喪失していくことを,『要綱』は労働の「無力化(Ent一 お kraftung, degradation)」(590,596,636)と規定しているが,この無力化が個々 の労働者の一面化,その生命力の消尽であり,つまりは諸個人の人間としての 人格的統一性の破壊,諸力能の総体的発展の破壊を意味するものであること 22)以上については,中岡哲郎『工場の哲学』平凡社,1971年,第皿章,および同『人 間と労働の未来』中公新書,1970年,189頁,参照。 23) H. BRAvERMAN, Labor and Monopoly Capital, Monthly Review Press, New York 1974,富沢賢治訳『労働と独占資本』岩波書店,1978年,は周知のように「20 世紀における労働のdegradation」(副題)を扱って鋭利な分析をくわえているので あるが,その基礎視角があげて精神労働と肉体労働の分離におかれているのは興味ぶ かい。
は,言をまたないであろう。A・シュミットの言葉をかりれば,労働=人間の の 「質的性格の剥奪〔非質化〕(Entquahfizierung)」とも言える。この無力化= 非質化のなかでなおそれを超画する潜勢的な前望的モメントが『要綱』に示さ あ れないわけではないが,機械による生産力のもっとも高度な展開のまっただな かで進行するこの労働のデグラデーションを,『要綱』は資本の生産力の構造 的契機としてこう強調する。 資本は,一方では生産諸力を無際限に高めようとする傾向をもっている が,それと同様に主要生産力たる人間白身を一面化し(vereinseitigen)限 定する(limitieren)……・(325) 労働の生産力の増加がむしろ労働の外でのある力の増加として,また労働 自身の無力化〔労働本来の力の喪失〕(ihre eigne Entkriftung)として措 定されるということは,資本概念に属することである。(589一一90) 生産力のもっとも高度な発展は,現存する富の最大の拡大とともに,資本 の減価,労働者の無力化(degr門門on),そして労働者の生命力のもっとも あからさまな消尽(exhaustion)と時を同じくしておこるであろう。(636) 磯械の登場がこのように,一方で労働から精神的力能を奪ってこれをディグ レイドし,人間的自然の消尽と破壊をうみだすとすれば,他方では,外的自然 の無力化と破壊も同様に進行する。この点にかんするr要綱』の批判的認識 ぱ,たしかに『資本論』ほど明確ではない。というよりも『要綱』の主調音は 「資本のうえにうちたてられた生産が……自然と人間の諸性質を一般的に開発 利用する体系,一般的な効用性の体系をつくりだし」,また「自然と社会的関連 それ自体の普遍的な領有をつくりだす」という,いわゆる「資本の文明化作 24) A.ScHMIDT, Der Begriff der Natur in der Lehre von Marx, Neuausgabe, Europaische Verlagsanstalt, Frankfur宅a. M.1971, SS 165,189.元浜清海訳『マル クスの自然概念』法政大学出版局,1972年,183,206頁。周知のようにシュミットは このEntqualifizierungを「自然」について語っているのだが,「人閲」についても 同様に言えるであろう。なお森田桐郎「入間一自然関係とマルクス経済学」『経済評 論』第25巻7号,1976年6月,53頁,参照。 25)平田清明,前褐論文(注11))における「祉会的個体」概念を参照。
34 用」の強調にある(313)。資本の自然開発・領有的性格により多く眼が向けら れていて,この領有そのものの一面的性格や自然搾取的性格を指弾する語調 は,必ずしも強くない。これはよりひろく,マルクス世界史像における西欧資 本主義評価の変遷とも通回する論点であって,固有の検討を必要とする問題で はあろう。しかしながら,その同じ『要綱』が労働過程論レヴェルにおいて, 「形態にたいする素材の無関心性」や労働の「合自然的関連」を指摘していた のを想起するとき,『要綱』が資本による自然搾取に全く無関心であったとは とうてい考えられない。したがって次の文章も,科学と機械を装備した資本に よる自然支配の画時代性を語るものとしてのみならず,その資本による自然領 有の一面性,自然の軽蔑と隷属化を批判する問題意識の表出として読まねばな らないであろう。 〔資本のもとで〕はじめて自然は,人問にとっての純粋な対象,純粋な効 用物(Sache der Nutzlichkeit)となり,かくして自然はそれ自体で力ある ものとはみとめられなくなる。そして自然の自立的な諸法則を理論的に認 識することは,消費の対象としての自然にせよ,生産の手段としての自然 にせよ,人間の欲望に自然を隷属させるための策略(List)にすぎないも のとさえ見られる。(313) 資本は自然を「それ自体で力あるもの」とは見ないで,「人間にとっての純 粋な効用物」とのみ見る。それゆえ,資本の制度が表面上いかに「自然の普遍 的領有」の体系にみえようとも,それは「純粋な効用物」一さらにいえば資 本にとっての合目的性=価値増殖一という一面的観点の内部での「普遍」性 でしかない。人間は資本の体系とともに,旧来の共同体的な「対自然の偏狭な ラ 諸関係」を脱却したはずでありながら,いまふたたび資本のもとで新たな「対 自然の偏狭な諸関係」に制約されている。かつては自然神化,いまや自然の神 性剥奪と質性剥奪。資本の生産力はこうして,人間を無力化する(労働の合目 的性の否定)のみならず,自然をも無力化していく(労働の合自然性の否定)。 26) 『資本論』(1),182一 3頁。
「単純な生産過程」の分析はここに資本制的生産力のクリテリウムとして生き 27) てくる。 IV 近代的生産力の経済学批判 以上,前稿と本稿をつうじて,『要綱』マルクスにおいてとらえられた近代 的生産(諸)力の構造とは何であったかに内在してきた。労働の社会的集合力 (分業=協業)に資本の生産力の基層を見定め,この社会力の展開を機械とい う姿での科学力篇自然力の応用まで追跡するところに,『要綱』生産力論の縦 糸があったとすれば,他方その横糸は,社会的結合労働の形成にともなう労働 からの目的定立の疎外,否,結合労働そのものの疎外であり,これにくわえて 機械は労働から生産上の熟練・知識をも疎外させるものとして,要するに精神 労働と肉体労働の分裂にもとつく人間および自然の無力化=非質化の体系とし て,呈示された。資本は,労働の社会力と科学力の喚起にもとつく生産力の体 系であると同時に,その社会力と科学力を労働から剥離する体系であった。 A・ゴルツに従って換言するならば,資本制的近代とは「生産諸力の構造その ものが労働にたいする資本の支配を確保することをめざしてつくりあげられ た」体系なのである。 近代的生産与力の構造にかんする『要綱』の認識を上来みてきたように整理 でぎるとすれば,われわれはこの延長上に,現代の生産力問題をめぐってどの ような視角を得ることができるだろうか。この一連の論稿の小眼として,最後 にこの点について若干の整理をしておこう。検討すべき問題の中心は,近代的 生産筆力をマルクスはいかなるものとして特徴づけ性格づけているかである。 ここにあるのは生産諸刃の性格ないし質への問いであるが,実際この問いはす ぐれて現代的である。すなわち日本の社会科学は,戦前の唯物論・技術論研究 27)なお主として『資本論』マルクスの自然認識については,椎名重明「農学の思想」 東京大学出版会,1976年,第5章,参照。 ノ ノ 28) A,GoRz/M. BosQuET, Ecologie et politique, Editions du Seuil, Paris 1978, P. 68.高橋武智訳『エコロジスト宣言』技術と人間,1980年,81頁。
36 にみられるように,生産力をまずその「要素」において姐上にのぼせていた。 もっともそのとき他方で,生産力そのものはすぐれて超歴史的かつ中立的な性 格をもつものと前提されており,その結果,唯物史観レヴェルでは生産力はも っぱら量的水準の高低において表象されていた。この直中心的な生産力像は戦 後も長い間つづいていたが,高島善哉,内田義彦氏による生産諸力の「構造」 ラ 論の提起は,そのような量的生産力観への最初の批判をなした。そして近年, 今日の生産力の破壊的相貌の激化とともに,新たに生産智力の「性格(質)」が 問われはじめたのであるが,この生産力質(性格)への問いのうちには,特定 の生産力構造の総体を人類史のなかに定置してその歴史的相対性を摘出しよう という意図がこめられている。さて,r要綱』が示すかぎりでの近代資本制的 生産力の特殊性格にかんして,さまざまな言葉でさまざまに規定づけることが 可能であろうが,ここでは以下の三点に要約しておこう。 (1)近代的生産力は物質主義的である。一近代社会においては「富とは物 象であり,人間が主体としてそれに対立する物象,物質的生産物のなかに現実 化されているのであり」(387),また「各個人は社会的な力を物象の形態でもつ モノている」(75)。要するに富がすぐれて物質的生産物として,’可視・可触の物と して固定的に表象される資本制近代においては,生産力はそのような外的な物 をつくりだす力として,物質的生産力として一面化される。この点はすでに平 田清明氏が,「人類のブルジョア時代は,その社会的生産諸関係の独自的展開 におけるその物質的生産無力の発展によって特徴づけられる。……人類のブル ジョァ時代における資本の物質的生産力は労働の社会的生産諸力の弁化そのも のに他ならぬ……」と指摘しているとおりである。 モノ (2)近代的生産力は成長主義的である。一物といっても資本にとって固有 に問題なのは,’使用価値でなく価値であり,さらには価値増殖であるからに 29)高島善哉「生産力の構造」『経済評論』第4巻8号,1949年8月。内田義彦『資本 論の世界』岩波新書.1966年,83頁。 30)平田清明,前掲論文(注9)の第二論文).2−3頁。
は,資本はこの価値の「より多く」を追求する。この衝動が生産力の不断の増 加をうみだすことについては,あらためて『要綱』を引くまでもないであろ う。生産力のこの量的拡大主義一それは人問と自然の質性剥奪(Entqualif潜 ierung)の裏面である一は現代風に「資本の論理は成長の追求にあり」と換 言できるが,この成長主義は,資本がその成長主義自身の矛盾や危機をお開す るのにさらに大なる成長=量的拡大をもってする一すなわち問題をいっそう 拡大して外部や未来に転嫁するという「前方への退却(fuite ell avant)」をも れ ってする一という意味において,資本の本質的傾向である。そしてこの量的 成長主義は,生産・消費の大量主義体制および用具・技術・制度の巨大主義を 帰結させる。(上記(1>と②を一括して物量主義とよぶこともできる。) (3)近代的生産力は集権主義的である。一すでに見たように近代的生産力 は結合労働の生産力を基層におくものであるが,資本がこの結合労働を組織し 機能させるとき,資本は労働の合目的的活動と社会的精神を労働から疎外し自 己の力とする。機械はくわえて熟練・知識・科学をも資本の力とする。資本の 生産力はこの労働の無力化あるいは不能化のうえに成立するのであり,それが 労働の社会的生産力の資本の生産力への転置ということである。要するに近代 的生産力は精神労働と肉体労働の分離と対立を増幅していく。これは労働にと っては,精神労働が労働主体から奪われて他者所有,他者管理に服属していく ことであり,資本にとっては,生産過程の精神的力能と権力が資本のもとへ排 他的に帰属し集中化していくこと,すなわち集権主義の完成である。 このように見てくるならば,従来,生産力をすぐれて物質的かつ量的なもの として概念把握してきたのは,いってみれば近代的生産力の特徴的性格をもっ て生産カー般に代置していたものと反省できよう。「生産諸県という言葉が, 物質的な生産にだけ限定されるということこそ,極めて資本主義的な現象な の」だとの認識がいま必要である。また「生産(諸)力の発展」を即ち「生産 31)A.GoRz/M. BosQuET, op.αオ., pp.29−32.前掲邦訳,33−6頁。 32) 宮崎義一・篠原一・平田清明『転換期の思想』新地書房,1978年,118頁。
38 きお 力の成長」「生産性の増加」と等豪しないこと,まして「生産(諸)力の発展」 ∼ を物質的生産力の量的拡大と直結するがごとき物量主義から手を切ることが, 要請されているのである。事実,そのような近代主義指話碕から生産力概念を 洗い直す仕事はすでに始まっている。この生産力概念の再検討にかかわって, 以上の『要綱』内在から発言しうることを二点指摘して本稿の結びとしよう。 第一に,物量主義的生産力観の批判。すでに花崎果平氏が, 「生産力概念を めぐる諸意見は,生産力概念を,物象化された対象i生においてつかむ理解をし む り む くう り む む りぞけるために,自然的基礎の面からと,人的・社会的体系の面からとの再把 ヨの 握を提唱するものである」と総括していたように,生産力概念を「物象化され た対象性」一それは同時に量化された対象性である一の呪縛から解き放つ 作業は,この指摘の前後をつうじて多様にこころみられている。この一連の論 稿でもそれを,「メカニックな物的体系」でなく「人的=社会的体系」に生産 力認識の基本を定めようとする山之内靖氏や, 「資本の物質的生産力は労働の 社会的生産力の二化そのものに他ならぬ」という平田清明氏について見た。そ もそも『要綱』に即してきたわれわれにとって,生産力なるものの基本が何よ りも労働の社会力の形成のうちにあり,しかも諸個人の個体的=類的な三二能 を疎外させないような社会的労働の形成,換言するならば労働の合目的性と合 自然性を剥奪しないような社会的労働の形成にあることは,もはや明らかであ ろう。マルクスにあって生産力とは根本的に,労働の個的および類的な潜勢三 三に,あるいは労働の主体的な社会形成力および目的定立能力にかかわる概念 であって,はじめから安易に物量化された次元で把握されてはならないもので あった。 第二に,生産力の質または性格の概念の提起。近代的生産力をその物量主義 33) 『要綱』もこれらを区別していたことについては.前稿「近代的生産力における労 働の社会力」(本誌第204号)中のく補論〉を参照せよ。 34)花崎雨男「いわゆる唯物史観の公式について」『現代の理論』第99号.1972年4月, 9頁。また後藤邦夫「現代の『生産力問題』とマルクス主義」 『経済評論」第27巻11 号,1978年11月,も「〈生産力問題〉の重点」を「人間・自然関係と労働力組織化を めぐる問題」にみている。
的性格において批判することは,すでに生産力の歴史的に多様な性格ないし質 への問いを前提している。井汲卓一氏が「すべての生産力はその時代の生産様 の の ラ 式によってその発展の質と方向を規定される」と述べ,また森田桐郎氏が「生産 力の質,生産と消費の質そのものを問題とするような新しい視点を確立するこ と,……現に展開している生産力なるもののこの歴史的性格を批判的に問うこ と」を要請しているように,生産力は歴史をつうじて等質的=中性的なものと してでなく,いまや歴史とともにその質や性格における特個性を検出さるべき ものとして認識されようとしている。実際『要綱』が近代的生産力の経済学批 判を縷述するなかで,たとえば「主要生産力たる人間自身」(325),「自由時間は それ自身ふたたび最大の生産力として労働の生産力に反作用をおよぼす」(599) と書くとき,ここに示されているのは物量主義および集権主義のそれとは全く 異質な,新しい生産力の概念である。なるほど『要綱』はそのような新しい生 産力についてこれを積極的に内容展開してはいない。しかしr要綱』ぱ一一 方では近代的生産力がその物質的諸要素を客観的に準備するという側面を指摘 しつつも,他方では一新しい生産力の基準をこのように近代的生産力のそれ とは全く別のところに求める眼をもっていたことも確かであり,しかもいまは この点こそが注目されて然るべきである。したがってこの点を押しつめていけ ば,一般に生産力の質や型への問いをマルクスに見いだすことも不可能なこと ではない。そのときバリバールの次の発言は大きな示唆となる。「……マルク スが証明したことは,資本主義が初めてかつ永遠に生産鼻面の発展を解放した ということではなくて,資本主義が生産諸力にある特定の型の発展(un type de d6veloppement d6termin6)を押しつけたということ,この発展のリズムや 歩調は資本制的蓄積過程によって規定されていて資本主義に固有なものである 35)井波卓一「現代の歴史的意味と構造」『講座マルクス経済学4,資本主義と社会主 義』日本評論社,1974年,239頁。 36)森田桐郎,前掲論文,45頁。また,これとは別の方向から生産力の歴史的性格を問 うた篠原三郎「管理論と史的唯物論,その覚書一生産力の歴史的性格を中心として 」『立命館経済学』第13巻5/6号,1975年2月,も参照。
40 37)38) ということである。」 ノ37) L.ALTHussER/E. BALIBAR, Lire le Capita1,豆,Maspero, Paris!971, p.!26.権 寧・神戸仁彦訳『資本論を読む』合同出版,1974年,335頁。 38)以上のような生産力の「自然的基礎の面からと,人的・社会的体系の面からとの再 把握」およびその質や歴史的性格からの再把握は,当然にも,いわゆる唯物史観の定 式にいう「生産協力と生産高関係」についての旧来の解釈の再検討を要請する。伝統 的解釈が両者の関係を,あるいは生産における「人聞一自然関係の側面(生産力)と人 間一人間関係の側面(生産関係)として,あるいは内容(生産力)と形式(生産関係) として,あるいは超歴史性(生産力)と特殊歴史性(生産関係)として組分けしてい たかぎり,そしてまた生産力の生産関係に対する一義的な優位性において位置づけて いたかぎり,再検討は不可避であろう。新しい解釈の試みはしかしぎわめて多彩であ って,いずれもいまだ定説化していない。今後の研究の素材としてここでは,それら 新しい動向の一端のみを摘記しておこう。一日本では,(1)マルクスにおける「生産 諸力」「生産諸関係」概念の形成史内在的な研究(森田桐郎・望月清司『講座マルク ス経済学1,社会認識と歴史理論』日本評論社,1974年,第3章以降)のほか,両概 念の連関のあり方をめぐって,(2)「『協働』をそのポテンツの相で概念化したものが 『生産力』であり,当の『協働』をその聯関の相で概念化したものが『生産関係』で kエ l rE堅十爪、准 『[紐ノ協出侮日rへ「白描[ =t .斬垂 1∩ワt伝 ∩O百、 tり、 「ル卒目目ノ頂“ 君子戸 . 乙り〆θ」)則ム沙U ”比1/■J入VSYtV/1小1躯」_ 馴百,−v’⊥†, uo只ノ, LU/1工圧囚阿、℃よIL一 む つめ生産力だ」(高島善哉,前掲論文,11頁),(4)「生産力の,いわば,外にあって, む 生産力の質的側面を規定していたような生産関係を,生産力の一要因として内に位置 づける……」(篠原三郎「生産力論と技術論一史的唯物論の理解をめぐって一」 『立命館経済学』第14巻1号,1975年5月,68頁),等々の発言。また外国では,(5) 「生産諸関係は生産諸力のなかに浸透する(p6n6trer)」(L. ALTHussER, Positions, ノ Editions Sociales, Paris 1976, p.64.西川長夫訳『自己批判』福村出版,1978年, 111頁),(6)「すべての生産様式は,特定の生産諸関係の効果のもとで現存の生産諸 ノ カがこうむる傾向的変形によって性格づけられる」 (E.BALIBAR, Cinq 6tudes du mat6rialisme historique, Maspero, Paris 1974, p.119.今村仁司訳『史的唯物論研 究』新評論,1979年,131−2頁)と,旧説とは逆に生産力に対する生産関係の規定 性を強調するアルチュセール学派,(7)後期資本主義において科学技術が解放要因から 解放阻止要因に転化したからには,生産力はもはやマルクスが想定したような「解放 の潜勢力」ではありえず,したがって「生産力と生産関係の連関という概念」を廃棄 して,かわりに「労働と相互行為の連関というもっと抽象的な概念が提起されなけれ ばならない」(J.HABERMAs, Technil〈 und Wissenschaft als>Ideologie〈, Suhrkamp Verlag, Frankfurt a. M.1968, S.92.長谷川宏訳『イデオロギーとしての技術と科 学』紀伊国屋書店,1970年,89頁)と語るフランクフルト学派の一潮流,等々。
結局,特殊近代的な生産力の型=質の直線的延長上には模索すべき新しい生 産力はない。少くともその物量的成長主義と集権的他者管理の構造=質を廃棄 しないかぎり,現代の生産力問題を超出しうる生産力は創造されえない。生産 力の物量的・集権的構造の廃棄とは,労働主体が目的定立(知識・科学をふく む)と社会的関連をみずからの力として取りもどすことのうちにあり,あの 「労働の無力化」を超剋する営為のうちにある。r要綱』生産力論が明示的な いしは黙示的に語り出すのぱ,このことである。そしてそのさき,労働が目的 定立を取りもどし「無力化」を克服するときとは,たんに目的定立主体の転換 を意味するのみならず,より根本的に目的内容の変革のときでなければならな いであろう。すなわち生産し消費すべき使用価値の変革であり,また選択さる べきテクノロジーの変革でなければならないであろう。それはすでに,ひろく 「生活を変える」ことであり,さらには「文明を転換する」ことであるほかな い。 (完)