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旧南洋群島テニアン島移民の聞き取り記録-沖縄本島越来村出身 安里ウトの場合-: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

旧南洋群島テニアン島移民の聞き取り記録−沖縄本島越

来村出身 安里ウトの場合−

Author(s)

安里, 嗣淳

Citation

史料編集室紀要(27): 97-106

Issue Date

2002-03-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7695

Rights

沖縄県教育委員会

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史 料 編集 室 紀 要 第 27号 (2002)

旧南洋群 島テニアン島移民の聞き取 り記録

一 沖縄本 島越来村 出身

安里 ウ

トの場合-安里

嗣淳

安里 ウ トは1917年 5月20日に沖縄願 中頭郡越来村字安慶 田で出生 した。生家 の屋号は加 那普久原 で、本人の 旧姓 は普久原 である。 同村 内の上地 にある越来尋常小学校 に 6年間通 い、卒業後は生家で家事や機織 りの手伝いな どを していた。母親 は地機 で餅模様 の布 を絞 るのが得意で、注文 を受 けて作 っていた。 現在、同 じ安慶 田の生家 に近い所 に居住 している。 聞き取 りは息子の安里嗣淳が2002年 (平成 14) 1月 9日と10日にお こなった。質疑応答 の形で実施 したが、 ここには本人の回答 (語 り)だけをま とめた。 結婚のためにテ二ア ンへ渡 る 私 は安慶 田に両親 と共 に住んでいて家の手伝い (農業 ・機織 り) を していた。20歳の と き1936年 (昭和11)12月のある 日、越来村 の 白川ヤー ドウイか ら外戚筋の女性 が3人見え て、その うちの一人がその家の次男嫁 に 自分 を欲 しい といってきた。後 に義母 になる安里 ナ ビー とい うその女性 は、次男 の写真 を見せ て 「この人 は今、南洋のテニア ン島に出稼 ぎ にいってい る。そ こであなた もテニアン島-行 って、そ こで結婚 して くれないか」 とい う こ とであった。会った こともない人であったが、当時はすべて親 の言 うとお りであったの で、それ か らわずか 2週間ほ ど後の1937年 1月 1日に南洋へ向けて出発 とい うことになっ た。 当時 は旧暦 で正月 を祝 っていたので、新暦 の1月1日といっても普段の 日と何 もかわ らなかった。 旅費 として義父 となるべ き安里嗣嘉が80円を出 して くれたが、その うち25円ほ どは途 中 の小遣 い と して直接 も らった。旅行 の手続 きは義父のい とこに 「移 民ひ ちや-」 (斡旋 者) を業 とす る人がいて、その人がすべて段取 りしてあった。 1月1日の朝10時頃、胡屋 の玉那覇マチャ前で神村小 (かみむ らぐわ あ) のお じさんの 客馬車 に乗 って那覇 に向かい、午後 3時頃には着いた。 その 日は神村小の娘が経営 してい

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史 料 編集 室 紀 要 第27号 (2002) る 「神村旅館」 に泊まった。す るとそ こ-名護 出身の八重子 さん とい う一歳年上の人が現 れ、 自分はサイパ ンの新聞社 に勤 めてい る同 じ沖縄人 と結婚す ることになって南洋 に渡 る のだが、一緒 に連れ添 ってほ しい と言われた. どち らも初 めての旅で心細 かったので、そ れか らはずっ と八重子 さん と一緒だった。 そ して翌2日の午後4時頃 「山城丸」で那覇港 を出発 して4日の昼 に鹿児 島港に到着 し た。そ こでは 「銭屋旅館」の人が迎 えにきていて、そ こで一泊 した。ず っ と船酔い を して いたので、宿の夕食 まで吐いて しま うほ どであったが、気分転換 に と宿の人が夜店見物 に 連れていって くれ たので金魚 の形 を した砂糖菓子 を買って食べたのを覚 えている。 また、 鹿児 島の方は新正月 だ とい うので、宿では餅 を焼いて出 して くれた。 翌5日の昼 はず っ と旅館 にいて、夜8時頃鹿児 島駅か ら夜行列車 に乗 って門司に向かっ た。途 中の食事 は駅弁ですませ た。 6日の夕方門司に着 くと 「八坂旅館」の人が 「沖縄 の 人ですか あ?」 といって迎 えて くれた。すべて連絡がいっていた よ うである。宿の人が掲 げた長い提灯の後 を迫 って宿 についたが、そ こは2階建 て瓦葺 きの木造旅館 だった。 2泊 してか ら8日の朝、門司港か らボンボン船 (ハ シケ) で沖 に停泊 している南洋航路 の 「泰安丸」 に乗 り移 った。その 日で横浜港 に寄 り、荷役作業のため 3日間ほど滞在 して いたが、真冬で とて も寒 かったので私 はず っ と船の中にいて外 には出なかった。 たぶん1月11日に、い よい よ南洋-向けて出港 した。航海 は5日間ほ どかかったよ うな 気 がす るが、 も う途 中で船酔いす ることはなかった。船 はまず午前にサイパ ン港へ着いて 客や貨物 を降ろ し、続 いてその 日の うちにテニア ン港-着いた。おそ らく1月16日のこと である。 テニア ン港 には初対面の私 の 「夫」 の嗣樽 とその兄 (長男 ・通称マツー)、そ して私の 実兄夫妻が迎 えにきていた。実 は私の長兄はペルーに、次男兄夫婦はテニア ンに移住 して いたのである。 ほかに も同 じ安慶 田の親戚筋や知人がすでにテニアンに住 んでいて、まっ た くの見知 らぬ土地 とい うことで もなかった。 テニアンで新生活スター ト 西ハ ゴイで長男出産 とりあえずその 日は ソン ソン (テニア ン町)の義兄の家 に泊 ま り、翌 日 「南洋興発」の 直営農場のひ とつ西ハ ゴイの宿舎 に移動 して、そ こで新婚生活が始まった。夫は直営農場 の農業労働者 であった。住宅 は一棟 を 2世帯 に分 けた造 りの トタン屋 であった。夫 は私 よ り数年前 に兄弟 でテニア ンに渡 ってきた との ことであった。義兄はは じめ大阪に行 ってい たが沖縄 に帰 って きて しば らくしてか ら、農作業 を していた弟 である私の夫 に 「南洋 に行 こ う」 といってテニアンに一緒 に来た らしいO夫 はよ く 「畑 か ら連れ去 られた」 といって

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史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) いたので、慌 ただ しい南洋移民であったのは私の南洋行 きとあま りかわ らない。 カ ロリナスへ移動 長女の出産 西- ゴイでは長男 の勇が生 まれ た。 1年 ほ ど西ハ ゴイ にいて、夫 は直営農場人夫 として 働 いていたが、町 (ソンソン)に出よ うとい うことになって、興発 の貨車 に乗 って町-向 かった。 貨車 はキ ビの収穫期 に農場 を走っていて、機 関車のす ぐ次に一両の客車があって 無料 で乗れた。町 に着 くと製糖工場近 くの大城 さん とい う沖縄の人の家に滞在 して、夫 は 仕事 を探 した。 しか し料亭の風 呂焚 きの仕事 を5日は どや っただけで条件のよい仕事 はな かった。 ち ょ うどそ こ-石川 ・伊波出身の石川 さん とい う人がカ ロ リナスか ら農場人夫 を 探 しに町 に来 ていて、声 を掛 け られ たのでカ ロ リナスの 7班-移住す ることになった。テ ニア ンでは 6町歩小作 とい う興発か ら大規模 な農場 を与 え られてい る本小作がいて、その もとで私 の夫 のよ うに本小作 に雇 われて働 く人夫がいた。本小作は屋敷 の一角 に人夫用 の 小屋 を建 ててそ こに住み込み をさせてい るのが普通であった。私たち夫婦 と子 どもはそ こ -落 ち着 いて、砂糖 キ ビ畑 の仕事 を しなが ら1年 ほ ど過 ごした。 あるとき、同 じ7班 の本小作で西原村 (現在 は町) 出身の大城 さんが来て 「 私の農場-移 らないか」 と誘 われたので、そ こ-私の農場-移 ることになった。大城 さんの奥 さんは越来村の 白 川 の出身 で、夫 とは同郷である。そのよ しみで大変親切 に して もらい、屋敷 の一角にコン ク リー ト基礎 に柱 をネ ジ留めに した頑強な木造 トタン家 を、私たち家族のために新築 して くれた。 そ こで長女 の和子が生まれた。 第 1農場 4班 で準小作に 次男の出産 大城 さんの農場 では夫 はよ く働 いたので、興発 か ら 「優 良人夫」 として表彰 され報奨金 をも らった こともあった。 1941年 (昭和16)頃大城 さんが興発 に相談 して くれ て、私たち はカ ロ リナス台地 の下の小台地で4班 (現在 の 「沖縄 の塔」-の道の途 中) に約2町歩 の 農場 を譲 り受 けることができた。 これで晴れて私 たちは準小作 とはいえ、 自分の管理経営 す る農場 を もっ こ とができた。 も ともとその農場 は本小作 で美里村 (当時、現在 は石川 市)石川 出身の伊波 さんが経営 していたのだが、病気 で沖縄-帰ったために空いた との こ とであった。だか ら新 たに家 を準備す る必要はな く、伊波 さんの元の家 に移 り住んだ。 屋敷 内にはコンク リー ト製 の大 きな天水槽や家畜小屋がすでにあって、それ を利用す る ことがで きた。 その屋敷跡 は戦後夫 と子 どもたちが慰霊団に加 わってテニアンを訪問 した ときに、まだ残 ってい るのを確認 している (写真参照)。 この家で次男の嗣宏が生まれた。 安里家の家系は名乗 りに嗣 を用い るのだが、西ハ ゴイで生まれた長男 にはつ けなかった。

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史料 編集 室 紀 要 第27号 (2002) 実 は後 で起 こった戦争の ときに長男が弾に当たって亡 くな り次男 は生き延びたので、 これ は嗣の次 をつ けなかったか らだ と思い、戦後生まれた三男 ・四男 には嗣の字 をつ けるよ う に した。 キ ビ作 りと日々の暮 らし 私た ちはカ ロ リナス台地-の登 り道 の崖下あた りか ら現在 の沖縄の塔付近 にかけて約2 町歩 を与 え られていた。 キ ビの根起 こしの時に人夫 を雇 った程度で、全部夫がシャベルや クワな どで耕 した。それ以外 に家の近 くの林 を開墾 して野菜 を作ったが、いっ もた くさん できた。 また、夫が近 くの山の木 を切 り出 し、薪 に した ものを、私が時々牛 に曳かせ た車 (カ レター) に一杯積 んで町に売 りに行 っていたので、一緒 に野菜 も積 んでいって売 るこ ともあった。薪 は主に料亭が、野菜は沖縄 出身の人の雑貨店が引き取って くれた。 カ レタ ーは町へ の往 来 によく曳かせ ていった ものだが、二十代 の女の身でよくや った ものだ と思 う。町 には夫 の兄のマツー兄 さんが住んでいたので、いっ もそ こへ寄って休んだ り、昼 ご ほんを食 べた りした。 また 「洗かん」の 日は製糖 工場がいっせいに休みになるので、その 時 には家族 で町 に出て芝居 を見て、 「鉢嶺 そば屋」でそばを食べた こともあった。映画館 もあったが一度 も見た ことはな く、初 めて見たのは戦争の時の収容所でのアメ リカ映画だ った。 私が町-出る時や農場へ作業に行 くときには、長男 と長女は家 において 自分たちだけで 遊 ばせ ておいて、まだ赤ん坊の次男だけを背 中に背負 って働 いていた。夫 はほ とん ど一人 でキ ビ畑 の耕作、手入れ を毎 日のよ うにや っていたが、今度 は 「優 良小作」 として表彰 さ れた。毎年興発会社の主催 で 「原勝負」 とい うのがあって、キ ビ圃場の手入れ、屋敷 の整 備 、堆肥 の出来具合な どを審査す るのである。堆肥は屋敷 の一角 に牛小屋 があって、そ こ で造 っていた。夫が堆肥の上に乗 って調整作業 をや り、私 は下か らスキで牛 の糞 と草を混 ぜ た ものをす くいあげて夫の方へ投げるとい う作業 をよくや った ものである。牛小屋 と堆 肥 を造 る場所 は コンク リー トの床 になっていて、作業がや りやす く、 しか も牛 の小便が溜 まるよ うな造 りになっていた。小便は堆肥 にかけて発酵 を促すのに使われ た。 毎 日の生活用 晶は興発 の経営す る 「酒保」か ら 「通い帳」で掛 け買いをす ることができ た。後でキ ビの代金か ら差 し引 く仕組みになっていたので、南洋ではぜいた くさえしなけ れ ば、 あま り生活 の心配 は要 らなかった。米 は俵 で、味噌は樽で、そ うめんは箱でま とめ 買い を した。沖縄 にい る頃には夕食だけが ごはんで、朝 ・昼 はイモであったが、南洋では 三食 ともごほんだった ことが幸せだった。 キ ビの収穫 は12月か ら翌年の6月まで続いた。 どの小作 も自分 のキ ビの順番 を早 くしよ うと競 っていた。それ は、ブ リックス (糖度)の

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史 料 編 集 室紀 要 第27号 (2002) 高 さによってキ ビの引き取 り値段が決 まるか らである。収穫がキ ビの成熟期 を過 ぎる とス カスカになっていって糖度が落 ちて くるのだ。 ある時、同 じ4班 の石川真栄 さんが、 自分 の農場 の収穫順番割 り当てが遅す ぎると農場監督 に抗議 したために、別 の班-移動 させ ら れ た こともあった。 だか ら日頃か ら監督が農場 を見回 りに来 る時 にお茶 を出 した り、ち ょ っ とおい しい ものを準備 した りして、監督の心証 をよくしてお くことに心がけた ものだ。 うちの夫 が二度表彰 を受 けたのは、監督の採点に仕事の実績以外 の 日頃の もてな しも利 い ていたか もしれ ない。 キ ビの刈 り取 り代 は興発会社持 ちで、賃金 が人夫 に支払われた。刈 り取 ったキ ビは大 き さによって何本束 と決 め られていて、それ をい くつの束収穫 したかが 班長 によって記録 され、それ に もとづいて支払 うとい う出来高制であったか ら、誰で もよ く働 く仕組 みになっていた。本小作は6町歩 ももっていて人夫 を使 うことが多いので、本 人 は しだい に農場 の耕作や手入れ作業か ら離れて、家畜のバ ク ヨウ (馬喰)な どをす る人 が多かった。 班全体のキ ビ収穫 が終わる と 「終了祝い」 とい うのがあって、班長 の浅沼 さんの屋敷 で ごちそ うがふ るまわれた。その時には牛 肉を食べ ることが多 く、男たちはテニアンで沖縄 人が造 った泡盛 も飲 んでいた。牛 肉は役牛がケガを して使役 できな くなった ときに潰す こ とが多 く、 とき どき食べ る機会があった。 これ は近所の相互扶助 で、肉をみんなで買って あげるのである。牛 肉は今 のよ うにステーキではな く、肉汁やい りちや- (妙 め物)であ った。 また、 山羊肉が売 られ ることもあった。 キ ビ代 は翌年 の支払い となる。 聞 くところによると興発会社の本社 は東京 なので、そ こ で事務処理 の後 に金が送 られて くるとの ことであった。実 は私たちの家族が1農場4班 に 準小作で入 った年 に、前の小作が沖縄 に帰 る前に収穫 したキ ビ代 は私たちが受 け取った こ とが あった。370円だった。夫 の 「優 良人夫J褒賞金が3円、優 良小作褒賞金 が5円であ ったので、370円は大 きな額 であった。 ところが逆 に昭和18年 と19年 のキ ビ代 は払 って も らえぬままに戦争 に巻 き込まれ、まった くの無駄働 きになって しまった。 南洋 には朝鮮人 も来ていたが、 自分 の生活範囲ではあま り会 う機会 はなかった。かれ ら はハ ゴイな どの興発会社の直営農場で働 いていた と聞いてい る。朝鮮人 に対 しては唐辛子 や ニ ンニ クを好むので匂いが きつい とか、一人がケンカな どの トラブル に巻 き込まれ る と 皆で集 まってきて大騒 ぎになる とい うことが よくいわれ ていたので、あま り親 しみは感 じ ていなかった。 戦争で子 ども2人、夫の兄を失 う 1944年 (昭和19) 6月10日か ら空襲が本格化 し、町の人たちが避難 して くるよ うになっ

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史 料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) た。 ち ょうどこの年の4月 に長男が小学校-入学 したのだが、農場か らは遠いので町のマ ツー兄 さんの家に預 けてあった。 しか しそれ もたった3か月の学校生活 で、兄 とともに農 場-移 ってきた。 一時はカ ロ リナス台地の崖 にある洞 穴に隠れていたが、結局家の近 くにある岩 の割れ 目 に移 った。 しか しアメ リカ軍の攻撃は激 しく、マツー兄 さんが死 に、 8月2日には娘の和 子が弾に当たって死んで しまった。そ して

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日には長男の勇 も弾に当たって大 けがを した。 私 も足 に弾 を受 けてケガを負 いなが ら勇 を抱 きかかえていた。や がてアメ リカ兵たちがや ってきて銃 を_突 きつ け、私たち5人ほ どが捕虜 となった。 そ してアメ リカ兵 に連れ られて歩いてい る と、突然崖上の米軍兵士が激 しい射撃を して きた。 そ して、先頭 を歩いていた北谷村 出身の真喜志 さんが殺 されて しま った。そ してな ん と味方 であるはずのアメ リカ兵 の一人に も命 中 して、即死 して しまったのである。他の 米兵 たちは崖 の上 に並んで一斉射撃 を してい る米兵たちに向かって大声で叫んでいた。お そ らく 「味方 だぞ、撃つな !」 といっていたのだろ う。私 は足 をケガ していたので米兵の 一人 に抱 きかかえ られて運 ばれていたが、その米兵の顔 に も弾が当た り頬 肉が決 られて し まった。それ に もかかわ らずその米兵 は私 をかばい 「伏せ ろ !」みたいな ことを言 ってい た。 とて も親切 な米兵であった。 収容所 (チュー ロ ・キ ャンプ) 三男の出産 トラックに載せ られ て収容所 に行 く途 中、私はずっ と勇 を抱いていたが同乗者 に 「この 子 は も う死んでい るよ」 といわれた。チ ュ- ロのキャンプ (収容所) に着 くと、米兵の指 示で朝鮮人が遺体 を引き取 って埋葬 を した。数か月後 に掘 り出 した時には 白骨 になってい たが、いっぱいに並べ られ た骨 は名札が失われていて、 どれが勇 の骨 か区別 ができなかっ た。 しかたがないので勇の収骨 はあき らめ、はっき り区別できた和子やマ ツー兄の遺骨だ けを沖縄 にもち帰 った。 収容所 では50番テ ン ト (天幕) にいて、引き揚げまで同 じ場所だった。 わずかの空間で、 隣 とは形だけの間仕切 りで雑魚寝状態であったO 床 は収容 された男たちによって板が張 られ てあった。夫 はマツー兄の友人だった鉢嶺元 喜 さん (戦後沖縄 で材木店 を経営)の紹介で、炊事班長 を していた石川異栄 さんの4炊事 に炊事係 として配属 された。私 は特にきまった仕事は していなかったが、収容所 の外 で農 場 を していた喜久本 さんの畑 を手伝い にいった こともある。畑 には作業小屋 もあったが時 々 日本 の敗残兵が食糧 を探 しに来ていた らしい。喜久本 さんは密 かに食べ物 を渡 した とい う。一度 、米軍か ら支給 され たメ リケ ン粉 をもっていって、そ こで ソバ を作って食べた。

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史 料 編 集 室紀 要 第27号 (2002) 灰汁は相思樹 を燃や した灰 を使 った。 収容所 には抑留者 が経営す る店 もあった。靴屋 は米兵 の靴 を再加工 して 日本人サイズに して売っていた。沖縄-の引き揚 げの時には生き残 った次男嗣宏の靴 を特製 させ、私が軍 服 の生地か ら仕 立てた洋服 を着 けさせ て帰 ったのを覚 えてい る。 キャンプ (収容所) には映画館 もあって、初 めて映画 をみたが英語 を話 しているので意 味はわか らなかった。子 どもたちのために 日本人学校 もつ くられていて、そ こ-見に行 っ た ことはあるが授業風景 を見た ことはない。長男の勇が生 き残 っていれ ば、 このテニア ン スクール の生徒 になっていたはずである。 しか し、収容所 にい る間に三男が生 まれた。嗣 の名乗 り字 をつ けない と勇 の よ うに不運になると思い、迷わず命名 には嗣の名 を与えた。 ある 日、 日本語 をよく話す二世 の米兵が 「日本 は負 けたよ、私は東京 の地下鉄 にも乗 っ てきた」 とい うと、収容 された男たちは 口々に 「嘘つ け、ヤマ ト魂が負 けるものか !」 と 反駁 していた。 沖縄への送還 引き揚げはまず 日本本土-の移送か らで、1946年 の始めか らだった と思 う。 そ しておそ らく10回 日ほ どはヤマ トウンチュ-で、その後 に沖縄人が送還 された と思 う。沖縄人だけ は残 ってよい との こ とであったが、希望者 が少 なかったので結局全員送還 され ることにな った。 私たちは13回 目の送還で、三隻 の米軍上陸用舟艇であった。 ほ とん どおかゆだけの食事 で、あ とは水 ばか り飲 んでいた。 1週間ほ どかかって沖縄本 島中部東海岸 の久場崎に着 き、 丘の上のイ ンヌ ミに収容 された。私の生まれ故郷の安慶 田と隣の高原 にまたが る収容所で ある。そ こに夫 の父親が探 して訪ねてきて くれた。 そ して5日ほ ど後 に泡瀬 の美浦 の収容所 に移 され、 5月 になってか ら夫 の出身地の知花 に移動 したO しか し、住む住居はな く他人の部屋 に一時間借 りをさせ て もらい、後で今度 は別 の屋敷 で石柱作 りの牛小屋 を借 りて住んだ。その後 アメ リカ軍の材木 を夫 の親子で盗 んできては蓄 えて、 これ で よ うや く知花の製糖 工場跡地 にマイホームを建 てて落ち着 くこ とができた。

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史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 安里 ウ トの南洋への渡航ルー ト 安里ウ トの居住変遷 1937-193B年 持ハ ゴイ蹟常 盤堺 1938-1939年 カロリナス7牲 石川氏畏堀 1939-1941年 カロリナス7班 大域氏漁場 1941年 カロリナス4枚で準小作 1944年8月3日 光琳 こ捕らわれ チュ一口卓ヤンプへ ま946年4月 沖縄へ遠退 プ ・7班で串極 の人夫に ( 'ナ油 ラー- メ 了 毎 隻た鮎 喜禦 貯 伽

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史 料 編 集 室 紀 要 第27号 (2002)

テニアン島で準小作 として生活 していたカ ロリナス4班 (中段台地) 『おきなわの塔』付近か ら望む。

今でも残 る安里家の天水 タンク

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史料 編 集 室 紀 要 第 27号 (2002) 安里 ウ トが九州の門司港か ら横浜 ・サイパ ンを経 由 してテニアン-渡航 した泰安丸 テニア ン町 (ソン ソン)の球陽座 のステージ 親戚 の85才生年祝 (中央の 白ヒゲの老人) どもを抱 えてい るのが安里 ウ ト。抱 えられている は娘和子。その下に立っている男 の子は息子勇o

参照

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