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『南島風土記』における「尋定」について-進貢船復元のための一過程-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

『南島風土記』における「尋定」について−進貢船復元の

ための一過程−

Author(s)

山形, 欣哉

Citation

史料編集室紀要(26): 33-48

Issue Date

2001-03-27

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8309

Rights

沖縄県教育委員会

(2)

史料編集 室紀 要 第26号 (2001)

『南島風土記

における 「

尋定

について

進貢船復元のための一過程

-山形

欣哉

琉球船 の諸元については、国立東京博物館 の棺船 の図 (全 く同 じものがベル リン国立博 かじ 物館 ・民族博物館 にある)が椿 (帆柱)や帆、韓 な どを含 めて詳細 であ り、実 はほ とん ど 唯一 ともいえるものである。 しか し、 こと船体に限れば貴重な資料 が残 されてい るO東恩 ひろさだめ 納寛惇 の 『南島風土記』 にある 「尋定」である。 これは黒鳥の説明の後半にあ り、例 によ って出典が明記 され ていないのは惜 しまれ るが、次 に全文 を引用す る0 ひろさだめ なは琉球の船には、何石積 と云ふ代 りに何反帆と稀する例で、尋定は次の通 りである。 カワラ カンダン 三反帆 五尋 二尋 四反帆 五尋三尺 二尋五寸 五反帆 七尋 二尋二尺玉寸 六反帆 八尋 二尋四尺 七反帆 九尋 三尋-尺 八反帆 九尋三尺 三尋一尺六寸 九反帆 十尋一尺 三尋二尺二寸 十一反帆 十一尋二尺 三尋三尺四寸 十二反帆 (-IFif尋 三尋四尺 註 カワラは又古くはヲイキヤと栴 し、舟の長径甥 、カワラは国語にもあるが、オイキヤは 穏架に作 りもとシナ語、カンダンは舟の短径、唯檀に作 り、これもシナ語である。

I

オイキヤ」

と 「

カンダン」

先ず註 か ら説 明す る。 「オイ キヤ」 は中国語 の 「隠」や 「題」(16世紀頃に 「鯵」か ら 変 わった とも思われ る) か ら来 た もの と考 え られ 、龍骨長 であ る。 この龍骨 とい う言葉 も、現在 では船底 の縦通補 強材 と して一般化 してい るが、康 照二年 (1663)の 『使琉球 記』 で張学礼 が ``龍骨 は船底 を定 める鯵木也" と 「龍骨」 を定義 したのが筆者 に とって 初 見 で あ る。 それ ま で の龍 骨 は別 の部 材 を指 して い た が 、 こ こで触 れ ない。 それ に

YAMAGATAKinya,l'A StudyofMeasurementintheNan

E

obdoki:A SteptowardstheRestorationof RyukyuanTributeShips."

(3)

-史料 編集 室 紀要 第26号 (2001) 「架」 が付 くと "支 えにか け渡 した材"の意味か ら、船 の建造時、三材継 ぎの龍骨 の、 船首部船尾部を支 える材 まで考えに入れたのであろ うか。 「カワラ」は 「航」である。 はり 「カンダン」は中国では 「含檀」 とも書き、船の最大幅の所 に入れ る大 きな梁を指すの ガ ン で、 これは理解 できる。原文で 「唯」 と書かれているが この様 な文字は存在せず、「衝」 であ り、馬を御す るために 口にくわえさせ、両端に手綱 を付ける金具和名 「くつわ」であ る。 この意味を取 ったのではな く単に音 を取った意味で 口扇 を付 けた可能性 もあ り、本 来は 「噛:」だったか もしれ ない。 椅船の図 (国立東京博物館所蔵) 『琉球』 (陳舜臣監修、NHK出版、1992)よ り加筆 ・加色

(4)

史料編集 室紀要 第26号 (2001)

尋」 とは何か

さらに難物がある。 「尋」 とい う単位である。本来は手を横 に拡げた中指か ら中指まで の長 さ、 とい う意味であ り、これはその人の身長にほぼ等 しい。藤堂明保の漢和大字典で は周代の八尺、180センチ とある。周代の一尺は約23セ ンチ とい うのが研究の結果である のでほぼ これ くらいであろ う。 しか し、「尋」は陸上か ら消え、 日本の海上で専 ら使われ るよ うになる。けれ ども身長は人によって違 う。小泉袈裟勝によると、"尋は海でもっぱ けん・・・・・ ら用い られたため、明治五年大政官布告で六尺 とした。間 と合わせたのである"(傍点は 筆者)。船上はおろか陸上でも、今か ら30年 ぐらい前までは、もしかすると今でも縄の長 さを計る場合、縄 を両手でピンと張 り、それを繰返す ことで計ったものである。アナログ ではあるが、大体はそれで間に合った。 しか し、「尋」 とい う単位 となると厳密な定義があったはずである。 中国 ・清の道光年間 (1820年代)に成立 した 『江蘇海運全案』 (船の説明は 『漸江海運 全案』 も同 じ)があ り、その中の沙船式 (沙船要 目)の締母索長 (蓬 〔帆〕の風下側を引 お よ 張る締索を束ねる索)の下に "凡そ五尺を-託 と為す" と注記 してある。 この 「託」 とい う長 さの単位 は、現行の漢和辞典はおろか諸橋の 『大漢和』にもないものである。 この沙 わい あて 船式の冒頭には、"凡そ沙船の量は、准尺毎尺を以て部尺一尺一寸に普る" ともある.当 時の部尺 (工部尺 ・営造尺)は32.1セ ンチか ら、沙船 の 「尺」は35.3セ ンチ とな り、 「託」 も176.5セ ンチ となる。人体の尺度か らすれば、江戸期の 日本人の身長研究まで視 野に入れ る必要 もあろ うが、明治政府 も慣行に近いので 「尋」 と 「間」を同 じにした可能 性 も強い。 以上より、「尋」は 日本の六尺、180.2センチ と一応考えたが、最近わたくしの故郷宮崎 県 日南市油津で進めているプロジェク ト "チ ョロ船復活"で事実が判明 した。 これは、半 世紀近い昔、沿岸漁業の主力であった小型帆走漁船 を往時のままに海に浮かべようとい う ものである。今は僅少 となって しまった老船大工に聞 くと "-尋は五尺" とのこと。 さら に和船研究の第一人者石井謙治氏も "-尋は五尺" と言下であった。尋は今でも生きてい る。

反」 と帆の材料

沖縄県立の図書館、博物館に残 る進貢船の絵や唐船の絵に見 られる帆 (蓬)は、沙船な あ じ ろ どの一部の布蓮を除けば、一般に 「網代帆」 と呼ばれるものである. しか し、厳密にい う と本当の網代の帆ではない。網代は槍や竹を薄 く割って隙間なく直角に組み、大きな薄板 に したものである。 これに対 し、唐船の蓬はむ しろ寵 と呼んでもおか しくないものであっ - 3 5

(5)

-史 料編 集 室 紀 要 第26号 (2001) あみ た。現代 の竹細工で 「六ツ 目編」 と呼ぶ六角形 を した竹の編方で細長い板状のものを作 り、 上 下 を半割 りした竹 で挟 んで止 める。 この二枚 の間に乗付 の竹 の小枝 を挟 んで、 これ を ぺき 「-頁」 とい う。 この頁 を上下に何段 にも継 ぎ、蛇腹 のよ うに折畳む訳である。大変手間 が掛 るよ うである し、竹の葉 は枯れて-航海保 ったか も怪 しい ものであるO 多分布蓬が高 価 であ り、竹 の葉 はタダだったか らか も知れ ない。東大史料編纂所 にある 「米国使節ペ リ ごと くまざさ ー渡来絵 図写生帖」の末尾 になぜ か唐船 の図があ り、"帆 は此の如 く寵 に して隈笹 の葉 を しく" と説 明 して ある。 琉球船 の帆は、唐船 よ りはるかに謎が多い。 ここに二つの例 を掲げて分析 してみ る。 第弓 ま、多分明治初頭作製 と思われ る国立東京博物館 の 「棺船の図」である. 図の帆の 描 き方や風 で膨 らんだ様子か ら、帆は木綿帆である可能性 が強い。 これ を数字的に分析す ると、 本帆長 73。0尺 幅 51.0 弥帆長 48.0 ÷ ÷ ÷ 14段

-

5.21尺 17反 - 3.00尺 11 - 4.36 幅 24.0 ÷ 8

-

3.00 艦帆長 25.

0

÷

6

- 4

.

17 幅 15.0 ÷ 5 - 3.00 明 らかに一反 -三尺幅の 日本 ・木綿帆の基準である。 第二はイ ギ リス人の見た進貢船である。 こう 1827年 (尚潮24、文政10)イ ギ リスのスループ艦 (プロツサム)が来琉 した。 スループ 艦 とはフ リゲ イ ト艦 の下の級 に属す る艦 で、備砲 は基準が18門である。設計図か らの トン 数計算では427トンで、1806年建造のかな りの老朽艦ではあった。艦長 はフ レデ リック ・ W 。ビーチ ィ、副長 はジ ョージ 。ビアー ドである。 この ビーチ イの航海記が残 ってお り、 その中に那覇 を出航せ ん とす る進貢船の絵がある。 沖縄県立博物館 の模型 はこれ を基 とし てお り、西欧人が見た東洋の船、 とい うことで、かな りの間違いが散見 され る。漢字は当 然 として、船首の獅 の絵、招 とい う間切 り用の船首のオール等であるが、残念なが ら筆者 は原画 を見ていないので これ以上は言及できない。 しか し、舷側板 が吃水線 の上で内側 に 折れてい る、いわゆるタンブル 4ホームを持 ってい る琉球船 の特徴 は、見事 に記録 されて い る。 ぺき さて肝 腎の帆である。原画でないので断定はできないが、頁 と頁 とを継いでい る二本の 横材 がある。長崎 は平戸の松浦史料館 にあって、筆者が18世紀初頭 と推定 してい る、通称 「唐船 図巻 」 に も見 られ る、帆 の縦方 向の強度 を補 強す る細長 い布 が見 え る。 中国では 「蓬筋」 と呼んで索 を使 うよ うになっていたが、琉球では古式 を保持 していた可能性 もあ

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史料編集 室紀 要 第26号 (2001) 進貢船出帆の図 『青い 目が見た 「大琉球」』(編者ラブ。オーショリ/上原正稔、ニライ社、1987) る。竹 を六角 に編んだ状態ははっき りしないが、主帆の畳み具合 は蛇腹 ではない。明 らか に木綿帆ではないが、この軟か さの材料 は何 であろ う。察大鼎の詩 の起句 に 十幅蒲帆風正飽 とある。 この蒲帆 と関係があるのであろ うか。また、山城時計店所有の犀風 にある六反帆 の船 (山原船 か)の、屋 良座森城 前 を通過 中の帆 も、 この蒲帆の類 であろ う。『南島風土 記』 の那覇 。「船手」 の項で、 船手蔵 と唱え、公船の製造修繕並其の材料の格納出納--雑木 。柱 ・桁 ・キチ 。賃 ・萱 。真 竹 ・葉竹 ・藁小縄 ・竹糸 ・古網 ・椋椙鋼 ・黒鋼 。芭蕉鋼 ・同作道具 ・桐油 ・唐船 ・槽船 ・早船 ・船幕 ・麿 ・杭等の品物が掌理されたと云ふ。 とま とある。 「キチ」 とい う不明の もの もあるが、 「嘗」は荒 目の延 で帆には使 えそ うである。 - 37

(7)

-史料 編集 室 紀要 第26号 (2001) かや わ ら その下の 「萱」が材料の可能性 もあ り、藁 も見 られ る。その一方で 「葉竹」があ り、 これ は網代帆に入れたものか も知れないが、保存できるもの とは考え難い0 同 じ本の一つ前の項 「宮古蔵」は "宮古 ・八重山両先島の貢租 を管理す る公徳" とあ り、 その貢租の中の 「阿且薬長延」が筆者の頭か ら離れないのである。平成10年9月、初めて ウドウン 琉球の地を踏んだ。待望の枯れた阿且葉 とは松 山御殿で出合い、孟宗竹の皮 とは比較にな らぬ長 さ、 さらに中央の葉脈 と縁の、鈎状の鋭い刺には驚か された。 しか し、芭蕉布 を織 る国柄 である。丸 めた阿且薬 を編んで延 にす ることは難 しくない と思われ る。県立博物館 には 「アダン葉む しろ」 とい う、昭和48年、当時89才の方が作ったものが展示 されている。 す 黒鳥の方の作で六尺 ×三尺である。 しか し、これは貨であ り、空気が抜けて帆にはな らな こだわ い。 「長延」 と云 う文字に 拘 るわた くLに、読者諸賢、ぜひ御教指願いたい と思います。 以上の考察の上、 「尋定」 を図化 した ものを次に示す。 戻(×3尺 )5(15) 10(30) 15(45) 20(60) 80 20 オ イ キ ヤ (髄 骨 長 )尺 オイキヤ とカンダン 35× 報 -27・6 88× i-5-69・5 梢船 28・2-32

×報

68

0

-

7

7

×報

カンダン 10 (描 )尺 20 30 『歴代宝案研究』 (第 6 ・7合併号 1996・3)にある富島壮英氏の論文 「唐船 (進貢船 ・按貢船) に関す る覚書」の史料二 「事々抜書」に琉球船の要 目がある。県立図書館東恩 納文庫所蔵 であるが、例 によって出典はな く、江戸期後半であろ うか。書 き下 し文にす る と、 から ふね おふね ともさきより- さき さしわたし 一 席 に渡 る船 之事 (御船臆先 方舶先迄二十一間一尺玉寸、中の差 渡 六間、眼 長 さ十七尋、 はしら 椅長 さ十七尋

(8)

史料編集 室紀要 第26号 (2001) 江戸後期 とすれば 「間」は六尺 「尋」は五尺 となる。眼 と云 う字は漢和辞典 にないので国 かわら 字 であろ うが、"舟 が腰 を落着 ける"意 よ り、 航 と同義 と考 えた。尺 に換算す ると、 総長

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.

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尺 差渡 (幅)

3

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.

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尺 艦長 (龍骨長)

8

5

.

0

尺 棒長 (本柱長)

8

5

.

0

尺 となる。 艦長/総長

-

0

.

6

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差渡/総長

-

0

.

2

8

この艦長 と給長 の比 はやや不 自然であるが、一応 これ を使 って、東京 国立博物館やベル リ ンの博物館 の図にはないそれ らの龍骨長 を求 めると、

1

1

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尺 (船長)×

0

.

6

7

-

7

7

尺 全幅 (幅)

3

2

尺 これ を "オイキヤ とカンダン"の図に落す と、明 らかに 「尋定」の二つの直線 と異なる ものである。 "反 とオイキヤ" ``反 とカ ンダン"の関係 も二ない し三の直線 となる。洋 の東西 を問わ ず 、ある船型 を拡大す るには比例 関係、グラフに落す と線 を用い るのが常であった。直線 に乗 らないデー_Fは現場の計算違いか誤写の可能性 が強い. これ らの ことか ら、少な くと -も三種類 の船 の設計思想 (船型)があった ことも明 らかになった。 「尋定」の数字は 「馬 らん やんばる 艦船」や 「山原船」 の ものであ り、渡洋船の 「進貢船」や 「槽船」は別 の設計であった こ とがわか る。新里恵 二 らの 『沖縄県の歴史』 (山川 出版社

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9

1) には、``棺船 は進貢船 に三度 ほ ど使用 され た後 に薩摩航路 にあて られた もので、 --五被 ときめ られ、三舷 は

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反 帆で、一腰 につ き

1

2

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右横 であった.''とある. また "那覇 と地方 をつな ぐ船 として、 じ ぷね うらこぎ 馬艦船のほかに "地船""浦漕船" な どと呼ばれ る六反帆以下の小船があった。那覇や泊 は、共同で "山原船 " とい う地廻 りの船 をもつ ことを許 され" ともある。 ここで 「渡唐船」 の反数 を大胆 に推定す る。 東博船 よ り、

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尺 (幅)

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反 -

1

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2

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尺 (渡唐船幅)/

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-

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反 十九反帆の大船 であった ことがわかった。 船 の基本的諸元 は長 さ (総長 さや船体長 さ)、最大幅、そ して深 さ (船姶深) である。 「進貢船」の長 さや幅について、数 は少 ない とはいえ一つの 目安が付いた ことになる。深 さは洋 の東 西を答 わず幅の半分が基準である。 中国船のデータ もまた、幅の

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4

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か ら

0

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附近 に分布 してい るよ うであるが、次にデー タの確認できる中国船 について確認 したい。

ー3

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9-史料編集室紀要 第26号 (2001)

中国に残 る最古の造船技術書 『

南船記』

中国の海船は、宋 ・元代の遺物が中国や韓国で発見 されているO しか し、 「賊」 (船体部分 の甲板) まで残 ってい るものはな く、現代の造船技術な どで、 料 学的 と称 しなが ら悉意的に復元図が画かれ、模型が作 られているのが現状である。 『南船記』 (長崎総合科学大学所蔵)に加筆 ・訂正

(10)

史料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) わた くしの知 る限 り、現代の科学で研究できる現存の造船技術書は、嘉靖20年 (1541) の序のある 『南船記』である。 しか し、残念なことに原本は残 ってお らず、八世代後の子 孫が晴代 に復刊 した ものが残 るのみである。著者は南京工部営繕司に属す る主事の沈啓で、 大部分は河船である。海船 を論ず るのに河船 とは、 といわれそ うであるが、中国の港は埠 頭ができる以前の西欧や 日本 と同 じく、河 口、もしくは多少上流にあった都市に停泊す る のが普通であった。元代までの遣物に見 られ る底の尖った船は、宋代の泉州で発掘 された 船 の遣物 と共に埠頭 の遺跡が出土 していることか ら、中国の先進性 を疑 う余地はない。 し か し、後世の中国船 か ら推測す ると、中国船の海船の船底は幅の三分の二ない し四分の三 は平底の可能性がある。 これは干潮時、着底 しても船体が大きく傾 くことのない ように と の配慮 をも考 えられ る。 各部材 の長 さ、幅、厚 さが列記 されているものか ら、船胎深は 「封底」か ら 「出脚」ま での板幅を加 えたもの としている。また、図は筆者が不鮮明な部分等を加筆 したことを付 加 えてお く。 「南船記」における諸元一覧表 単位 ;工部尺 (321mm) 総長L 船底長L' LソL 幅B LソB 深D D/B 預備大黄船 (400料) 84.5 60.0 0.710 15.0 5.63 7.8 0.520 大黄船 (400料) 85.3 59.8 0.716 15.6 5.47 7.4 0.474 小黄船 (200料) 83.0 57.0 0.683 16.4 5.06 6.8 0.415 戦座船 (400料) 86.9 60.1 0.692 17.0 5.ll 7.8 0.459 戦 船 (200料) 62.1 43.2 0.696 13.4 4.63 5.4 0.403 戦 船 (150料) 54.4 38.0 0.699 10.6 5.14 6.0 0.566 戦 船 (100料) 52.0 35.0 0,673 9.6 5.42 5.9 0.615 巡座船 (400料) 86.9 60.1 0.692 17.0 5.09 7.5 0.441 巡沙船 (200料) 61.7 42.9 0.695 13.6 4.54 7.1 0.522 -額印巡船 (100料) 61.5 42.7 0.694 12.6 4.88 4.7 0.373 平均 0.479 「料」 とい う宋代か ら明代にかけて船の大 きさの単位 がある。 これまでは謎 の単位であ ったが、筆者が 『南船記』 を基に、-料 は15.38前後 (15.5と切 りを良 くす ることもでき る)立方尺 とい う一種 の積載容積 ではないか、 とい う試論 をま とめたことがある

。(

『海 せ き こく 事史研究』 53号)。 この単位 は、「石」 (日本 の石ではない)や 「斤」 とい う後世の単位が 積載重量 とい う概念の異なるもの との差異か ら、謎 とされていたのかも知れない。 一覧表のD/ Bの平均は0.479で、やや平べった くなっている。 -

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41-史料編 集 室紀 要 第26号 (2001)

唐船図巻」の中国船要 目について

長崎県平戸の松 浦史料博物館 には、通称 「唐船 図巻」 とい う絵巻物 が残 され てい る。唐 お ら ん だ 船 とはい うが、唐船 は11隻であ り、阿蘭陀船 も一隻加 え られ てい る。 この絵巻研究 の噂矢 は大庭修 氏 で、 「平戸松浦史料博物館蔵 『唐船 之囲』 につ いて

」(

『東 西学術研 究所 紀要』 第5号 昭和47年3月) である。現在 の著者 か らすれ ば種 々問題 点 もあるが、 この様 な先 達 の下 に今 のわた くLが あることを考 える と、学 問の原 点は真 に貴重で あ る。 ただ、 この 「絵巻」 の由来 については、大庭氏 と大い に異な るので この点か ら述べてみ る。 大庭氏 の引用 は多少長 くなるが、 私は更にその年代をもう少 し限定できるのではないかと考える。それは、寛政重修諸家譜の 松浦家、篤信の条に、 享保三年 〔1718 筆者〕十月、仰により先年天草の賊徒楯龍 りし肥前国原城をよび陣場の 木図、異国船の小形、天文図式、朝鮮の枚、阿蘭陀錬抱等を台覧に備ふ。そののち我国と 唐船 とのの事をも御尋あるによりその用法を言上すO とい う記事に関連 してである。徳川吉宗が享保元年に将軍になってから、彼は多様な問題を、 それぞれ知識を持つ大名に下問し、自らの知見を増すことに努めた。殊に外国に関する知識を、 吉宗は求めていたと思われる。 「唐船之固」は、後述するように、極めて詳細に寸法が書き入れてあり、かつ縮尺が正確に 行なわれている。 この図の目的は単なる唐船、蘭船の姿を見るための、例えば長崎版画にみら れるような図ではない。また、この図に用いられている色彩は甚だ リアルで美 しく、その金色 の部分に端的に見られるように絵具も上質である。それで私は、「唐船之固」の作成の目的は、 篤信が、将軍吉宗の下問に答える為ではなかったかと想像する。そ うすればこの図の成立は、 ほぼ1720年頃とい うように限定できる。 と論証 されてい る。 これ に対 し、筆者 は四つの点か ら別 の結論 を導 き出 した。 第 一 は同 じ "福州造 り''ではあって も "南京 出シ船""広東 出シ船" の別 があ ることで ニンボ- ナンキン タイワン カントン あ る。 これ は 「起帆地」 (出港弛) を重視 しての区分で あ り、寧波 、南京 、台湾 、広東、 カチャン ア モ イ カラパ シヤム 広南 、度 門、嘆咽杷 〔バ ダ ビア〕、遅 確 と整理す る と、 これ は新井 白石 の正徳新令 (正徳 五年

1

71

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)

で制限 された起帆地 と完全 に一致す る。 第二 は縮尺の件 で ある。渥羅船 、阿蘭陀船 を除 く十隻 の唐船 は "壱間二付一寸積''す な わ ち "一 間を一寸 とす るタ'とい う縮尺 で、当時の一間は六尺五寸であった ので六十五分之 - と同義 であるo 一間が六尺以上で あった ことは "三間六尺"や "六間六尺 四寸" の記述 か らも明 らかで あ る。 ただ、 この正確 な縮 尺 が実 は曲者 なのである。現代 の人 で

、1

/5

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また は1/100の船 の図面 を見て、実際の船 の大 き さを実感 で きる人が何 人い るのであろ うか。 それ がで きるのは逆 に実際の船 を見て実感 を持 った ことのある人 に限 られ るのでは ないだ ろ うか。 しか し、実際の船 の近 くでは、船 の大 き さに惑わ されて全 体 を把握す るの

(12)

史 料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) 福州造 り広東 出シ船 (『唐船図巻』長崎市立博物館所蔵) さえ困難 なの も事実である。 第三は、いわゆる附属 の巻物 と思われてい るものの中にあった。 附巻 の、現在 「外 国船 図巻」 とされ てい るものの中に 「諸船艦客旗」の図がある。一本 は飛虎 を画き、他の一本 は 日輪 に雲 を廻 らしてある。 そ して、見 える旗 の上、下隅に 「爺」 と大書 されている。 こ れ は四隅にあった と思われ る。今世紀初頭 の台湾の歴史家連環 (横 とも書 く) の 『台湾通 史』 に よると、鄭芝龍 (1595〔一説 には1604〕∼1661)は-舶 (船) 当 り年二千金 (両) を徴収 し、 これまで明政府 が取 っていた船 の大 き さによる 「水鯛」 (年 間登録税)や積荷 に よって税 率の変 る 「引税 」 を一本化 し、"令旗 を発給" していた。息子 の鄭成功 もこの 方式 を受継 ぎ、大船 は二千百両、小船 は五百両 と細分化 は したが、"照牌 は一年 に-換" とした とい うO 当然 、遠 くか ら見て も鄭一族 の支配下にある旗 を掲 げ、群小 の海賊が手出 しで きなかった ことは想像 で き る。成 功 は明朝 か らその忠誠 心 を買われ 、皇帝一族 の姓 「朱」 を賜 る。 「国姓爺」 と呼ばれ る所以である。鄭一族 は康 照22年 (1683〔天和三〕)に 北方 の異民族清 によって台湾 に滅 んだ。従 って この旗 はそれ以前 の ものである。 第 四は、今 か ら20年近い昔、 当時オース トラ リアのシ ドニー大のムル ダー教授 が、 「唐 船 図巻」 と同 じものを大学で見た と確言 された。 この頃中国船研究 に到 っていない筆者で はあったが、 8年前、シ ドニー大学 に問合せ 、解 らない とい う回答 を得た。 どの様な分類 _43

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-史 料 編 集 室 紀 要 第26号 (2001) 諸船艦客旗 (『唐船図巻』長崎市立博物館所蔵) 「唐船図巻」における諸元一覧表 一一間 -六尺玉寸 で換算 惣長L ま ぎ り瓦長L'L一札 幅 B L-/B 深 D D/良 寧波船 105.7 82.3 0.779 21.7 3.79 8.5 0.392 寧渡船 (降帆) 112.0 - 23.2 15.0 0.647 福州造リ南京出シ船 104.7 79.3 0.755 20.8 3.80 10.0 0.481 台湾船 106.1 71.2 0.671 25.5 2.79 10.0 0.392 広東 船 106.0 75.3 0.710 21.5 3.50 ll.5 0.535 福州造リ広東出シ船 105.9 76.3 0.720 20.8 3.69 10.5 0.505 広 南船 107.0 77.2 0.721 23.7 3.26 10.8 0.456 慶 門船 110.5 76.6 0.693 26.0 2.95 10.5 0.404 カ ラバ 唆暗唱 出船 105.2 76.7 0.729 21.0 3.65 1.0,0 0.476 逓 羅船 151.4 134.5 0.888 30.5 4.41 18.2 *0.599 *を除 く平均 0.476

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史料 編 集 室 紀 要 第 26号 (2001) がな され てい るのか も解 らず、将来論文 を書 く際には、 自分で一点一点 当る覚悟が必要 と は考 えてい る。 以上の四点か ら、長期間写 し続 け られていた絵 図が、正徳新令 を現地長崎で施行す るに 当 り、改 めて起帆地 を基 に整理 され、地役人の識別 の便 に一巻 にま とめ られた、 と考 える 方が 自然 であ る。従 って写 しも多数作 られ、その一つが遠 くオース トラ リアまで流 出 した 可能性 もある。 「爽板舵」 とい う西洋式の舵 を持つ遅羅船や、完全 な平底 の南京船 を除いて も、同 じ寧 渡船や 同 じ福州造 りで

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が大 き く異 る。 ただ、わた くLが注 目してい るのは台湾船で ある。台湾船 だけ しか見 られ ない船首上部の飾 り板 (花 は 「富貴」 を意味す る牡丹だ と推 定す る)や船尾上部 の曲線 は、琉球の進貢船 と共通す るものである。 これ は、鄭一族 が台 湾 を支配 していた17世紀後半、大陸に対 しては非公式であ りなが ら交易 を行い、材木等の 輸入 と同時に、造船術 も導入 された ことを示唆す るものか も知れ ない。 台湾船 (『唐船図巻』長崎市立博物館所蔵) 一・1

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5-史 料 編 集 室糸己要 第26号 (2001)

江蘇お よび漸江海運全案

の船式

これは19世紀中期に完成 した二省の別々の 「海運全案」であるが、こと冒頭に記述 され る船式は全 く同 じものである。 『江蘇海運全案』 (東洋文庫所蔵) ※ 蓬は "しな う竹 の皮の帆''の意。 ほん とうの網代帆である。

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史料編集 室紀 要 第26号 (2001) 「江蘇海運全案」 における諸元 尺 ;間尺 L L' L'/L 願風染B LソB 斜深D' DソB 三不象船 110.0 97.6 0.887 23.8 4.10 7.8 0.327 ○金源盛 115.0 120.0 3302..00 4.00 (17-5.6) (旧海軍文庫) (ll-12) (0.367-0.40) ○進貢船 (18-5.6) 注 ;金源盛と進貢船は戦棚 (上甲板)までの高さのようであり、 5・6尺引いて船槍深を出したので、あくまで 仮の数字である。 沙船 、蜜船 、衛船 は明 らかに平底 の海船 であるが、三不象船はそれ らと異なるよ うであ る。 よ は じま 案ずるに、言不象之制は庚照38年 (1699主の自り 肋 り、福建

蕊料を運ぶを承けて、釣船の 旧制の増益に就 く。松木を以て之を為 し、其式は江南之沙船の 象 にあらず、福建之鳥船の象 にあらず

漸江之蜜船の象にあらずなりO故に之を名 して三不象と日う。 その船式 には斜深 とい う言葉があ り、 これ は垂直ではな く船腹 に沿っての値 (これ によ って板 の必要量は出 る) と考 えるが、 ここでは船槍裸 に代用す る。 間尺がメー トル法で ど うであったかは研究の成果が出ていない。ただ し、中国の尺は北に長 く南に短い傾向があ るので今後の研究 に期待 したい。

ま とめに

"進貢船 を復元す る''とい う背後 に、科学的学問の裏付 けが必要である。 その舞台裏 の 一端 を論 じた訳であるが、これ は出発点で しかない。 わた くLはこの20年程度、全国の博 物館 で23隻 の復元模型 を設計 してきた。七割近 くの図面が残 ってい るものか ら、たった一 枚 の、戦災で原画は失われて しまった ものまで種々であった。ただ、基本姿勢は現在 でき る限 りの資料 を基 に、当時の他 の資料 を参考 に し、当時の技術水準 と人間の常識 を信 じて の作業であった。 琉球船 は特 に難 しい と思 う。資料が少 ない。 しか も、傍証 としての中国船の文献はかな り残 ってい るか らである。材料、道具、工法な どは、かな り地域性が強い ものである。琉 球 に関 しては浅学のわた くLであることも自覚 してい る。従 って、 この論文が何 らかの 口 火 となって、新 しい資料 な り、知見な りが出現す ることを切 に願 うものである。 ー 47

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-史料 編集 室 紀 要 第26号 (2001) <参考文献 > 東恩納寛惇 『南 島風土記』 沖縄郷土文化研究会 張学礼 『使琉球記』 台湾銀行台湾文献叢刊 小泉袈裟勝 『歴史の中の単位』 総合科学出版 李景峰他 『江蘇海運全案』(1826年序) 東洋文庫 大熊良一訳者 『プロツサム号来琉記』 第一書房

J.I.Colledge,Shl'psofikeRoyalNavyvol.1,RedwoodPress,NewYork,1969

新里恵二 ・田港朝昭 。金城正篤 『沖縄県の歴史』 山川 出版社 沈啓 『南船記』(1541年序)長崎総合科学大学お よび東洋文庫 大庭修 「平戸松浦史料博物館蔵 『唐船之固』 について」 『関西大学東西学術研究所紀要』第5号 林仁川 『明末晴初私人海上貿易』 華東師範大学出版社 1950年 1979年 1979年 1991年 1972年 1987年

参照

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