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トーマス・マンにおけるErzahlenの問題

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Academic year: 2021

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(1)Title. トーマス・マンにおけるErzahlenの問題. Author(s). 安高, 誠吾. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 27(1): 17-27. Issue Date. 1976-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4051. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 安高誠吾:-- トーマス・マンにおけ’ る Erzahl en の問題 --. --- ト ー マ ス. ◎. マ ン に お け る Erzahlen の 問 題 一--. 安. 高. 誠. 吾. あ る 航 海 日 記 の 中 で ト ー マ ス ・ マ ン は 《ドン・キホーテ》 第2部の独特な魅力について次のよう. ) 第1部の文学的成功は ドン・キホーテとサンチョ ・ パンサに大衆的人気を与えた に言っ ている1 . が, それを利用 して書かれた第2部 では彼らは実在の人間として扱われて, そこから様々 な滑稽味 が生れている, と. これは虚構を現実と取り違えることから生れる滑稽味だが, ここに働いている のは虚 構と戯れようとする精神 である. マンはそれをセル バンテスの 「叙事詩的機知」 と賞讃して い る が, こ の 戯 れ の 精 神 は E ・ T ・ A ・ ホ フ マ ン な どのロ マ ン 派 の 作 家 に 影 響 し て い る と 述 べ て,. 次のよう‘ こ続けている.「彼らは芸術や仮象的なものが持っ ている 機知に富んだ奥深さや, 鏡にも似た 不可解な性格を才気豊かな精神 で考察した. また彼らは芸術に関わりつつも, 芸術を超えようとし. ) た 芸 術 家 であ っ た の で, もう 少 し の と こ ろ で形 式 をイ ロ ー ニ ッ シ ュ に 解 体 す る と こ ろ であ っ た.」 2. マンが他の 芸術家や作家について語った言葉がしばしばそう であるように, この言葉も自己注釈 l である. 実際マンの Er zah en は虚構・仮象との戯れであると同時に、 伝統的な小説形式や表現形式. i のi ron zahl sch な 解 体 に 他 な ら な い か ら であ る. と こ ろ でこ の よ う な Er en は 形 式 に 対 す る 意 識 的 な 関 係 を 物 語 っ て い る の で は な い だ ろ う か。 逆 に 言 え ば, 形 式 の 意 識 化 が そ の よ う な Er l zah en. を生むと考えられる。 作品を造る際の入念な準備・精密な形式を作り出そうとする努力や, 作品ご とに考案される形式や技法上の工夫はいかにマンが形式を意識していたかを示すもの であろう。 む ろん作品を書く場合なんらかの工夫をしない作家はいまい, 描写の仕方や作品の構成を工夫する場 合, 必ず作品の形式を意識している訳だが, マンの場合その意識は並はずれて強く, 単なる工夫以 上の意味を持っている.何故なら形式に対する意識的な関係を 生みだしたものは, まさに形式そのも のに対する懐疑なのであるから。 即ち, マンの場合伝統的な小説形式, つまり虚構は自明 なものと 考えられているの ではなく, 問題的なものとして 批判的に 見られているの である, だからマ ン の. l Erzahl en は Erzah en そ の も の の 懐 疑 的 な 意 識 化 であ る と い え る.. た と え ば形 式 や 虚構に 対 する 懐 疑は 《フ ァ ウ スト博 士》 の中に最も鋭く現われている, この 作品の語り手であるツァイ ト プロームは次のようにいう. 「ひとつの作品には多くの見せか けがあ. る. さらにそれは作品自体として見せかけ であるといえるだろう. 作品は丁度パラス o アテネが彫 刻を施した武器を完全に身にまとっ てジュ ピターの頭から生れ出たように, 作られたの ではなく, 自ら生じたのだ, 生れ出たのだと信じさせようとする野心を持っ ているが, しかしそれはまやかし である. 作品がそんな風に出来上ることは決して なかっ た。 それはやはり労作であり, 見せかけを 作るためになされる技巧的な作業 である. -- とすればわれわれの意識や, 認識や真理感覚が今日 のような状態にあるとき, このような遊 びがまだ許され, 精神的に可能 で真剣に受けとめられるか どうか, 自足して調和的に自己完結している作品そのものが, われわれの社会情勢の全き不安 定さ, 問題性, 調和のなさに対して, まだ何らかの正当な関係にあるか どうか, あらゆる見せかけ, その 17.

(3) . 安高誠吾:-- トーマス・マンにおける Er l ah z enの問題 -- 最 も 美 し い も の, い や 最 も 美 し い も の こ そ 今 日 では 嘘 に な っ て し ま っ た の では な い か, そ れ が問 題 ) こ の 作 品 の 主 人 公 作 曲 家 レ ー ヴァ ー キ ュ ー ン と 契 約 を 交 す 悪 魔 は こ れ を さ ら に 徹 な の であ る.」3 , ,. 底させていう.「作品・時間・見せかけ, それらは同じものだ. それらはとも ども批評の手におちる. 批評はもはや見せかけ, 遊 びに耐えられない. それは情熱や人間の苦悩を検閲し, 役割に分けて,. 形象の中に移しかえる形式の自己讃美に, 虚構に我慢 ができない. まだ許されるのは虚構ではない もの, 遊 びによっ て損われないもの, 苦悩の生々しい瞬間における偽りのない飾らぬ表現だけなの だ. 苦悩の無力と苦窮は余りに大きく なっ ているの で, それに関してはもはやいかなる仮象の遊び ) も 許 さ れ な い の だ.」 4. この批判は作品が現実から独立した 一個 の自足した世界であること, それがいかに深刻 な問題を. 扱っ ているようともやはり形象化の遊 びであること,そして作品は作られたもの であるにも拘らず, 独立した生命を主張する 「野心」 を持っ ていること, つまり作品という形式, 芸術の虚構性そのも の に 向 け ら れ て い る. と こ ろ でこ の 懐 疑 は こ の 作 品 の 背 景 と な っ て い る ナ チ ズ ム と ドイ ツ の崩 壊 と. いう破局から生れている だけ でなく, 初期の作品にも現われている. たとえば悪魔の形式に対する 非難は, す でに 《トニ オ ・ ク レ ー ゲ ル》 の中 で一切を形式化する 「文士」 への批判として語られて. いる. 「あなたの胸が一杯になり, 甘 美なあるいは崇高な体験によ っ て始末に困るほ ど感動したと 思っ た場合は, 話は簡単 だ, 文士のところへ行けばいいんですよ. すべてはたちまちのうちに片が. つきますよ. 彼はあなたの用件を分析し, 形式化し, 名 づけ, はっ きりいい表わし, 用件そのもの 5 } さらに王侯という形式的な存在を扱った に語らせて,それで万事が永久に片づくという訳です.」. 《大公殿下》 , 混沌を排除して模範的な形式を作りあげた作家の破滅を物語る 《ヴェニスに死す》 , またユーモラスに, グロテスクに戯画化されて現われてくる芸術家の胡散臭さなどは, 同様に形式 の問題性, 形式に対する懐疑の変奏と考えることができるだろう. 形式に対する懐疑はもはや伝統 的な形式を無批判に繰り返すことを不可能 に し, その更新を促す. ここ で一般 的に 考え る と, 伝. 統的な文学形式の虚構性への批判は虚構を排除して, 直接現実を語ろうとするノンフィ クショ ン化 の傾向を生み出したが, 先の悪魔の非難を徹底しておし進めれば, もはや表現形式としての一切の. Er zahl en は 不 可 能 と な り, 小 説 形 式 は ノ ン フ ィ ク シ ョ ン に 解 体 して し ま う だろ う. だ が マ ン は 一 方. i 用 い, 保 持 しよ う と し た. こ こ に マ ン の では伝統的な形式を -- むろんi r on sch な 形 で だ が Erzah l な あ 注 意 し な け な ら な 先 引 用 した ロ マ ン 派 の 作 家 た ち れば い.即 ち, en の 別 要素 が る こ と に , に. を特徴づけている虚構との戯れという要素である.実際マンは芸術の形式を批判的に見ると同時に, また虚構の魅力にひかれ, それを最大限に利用 しようとした作家である. そういう意味では, マン. は虚構という伝統を保持しようともする. だから形式や技法上の様々 な工夫や, 粘り強い創作態度 は, 虚構 から最大限の魅力を引き出そうとする試みとも考えられるの である. 形式に対する懐疑と戯れ, これは明らかに矛盾だが, しかしどちらか一方が真実なの ではなく, いずれも真実 であっ て, このように矛盾, 対立し合う, 「解体的な傾向と保持的な傾向のせめ ぎ合 ) の 上 に マ ン の Erzahl い」6 en は 成 立 して い る の であ る. し か しそ れ は 近 代 以 後 の 芸 術 そ の も の の 性. 格 でもあるとマンはいう.「芸術を問題的にしたのは, 芸術の性格をこんなにも複雑にしたのは, 芸. 術が精神と, つまり批判的な, 否定的・破壊的な原理 である純粋な精神と結びついたこと である. それは最も情愛深く, 感覚的に恵まれた造型的な生の肯定と, ラディ カルな批判, 究極的には虚無 } 的な情熱との結合という点で魔術的なパラ ドッ クスをもつ結合 である.」7 ここ でマンの作品を概観すると, 至る所に様々な次元に現われている対立に気づく. たとえば生 と精神,市民性と芸術家性に代表さ れるテーマ的な対立項があり,作品を構成するものとして知的・ 批判的な要素と総合的 であろうとする造型的意志の対立があり, そして今述 べた形式に対する懐疑 18.

(4) . l 安 高 誠 吾 : - - トー マ ス ・ マ ンに おけ る Er ah z en の問 題. 的認識と虚構との戯れの精神という対 立などがそれで, 他にも同様にいくつ か の対 立するものを指 摘できるだろう. まさにマンの作品は対立から成り, それを包括しながら無限に拡大してゆくかの i よ う で あ る. こ の 諸 対 立 の 包 括 を 可 能 に す る も の こ そ, l ron e と マ ン が名 づ け た 精 神 であ っ た.. l bs i t i l ronie) r on eは初期の段階では, 精神と生の対立から生れ, 精神の自己否定・自己相対化 (Se というよりもこの対立が を意味していたが, この相対的思考は精神と生の対立だけ ではなく. 様々な対立関係を照明すると言う べ きだろう -- およそあらゆるものを構成している対 立関係に i 向けられる.《非政治的人間の考察》はi r on s ch な思考のなにより雄弁な証言であろう. 第1次大戦. を契機として書かれたこの論争書は, 政治・文化・芸術・文学・哲学・宗教に至る多彩な内容を含 んでいるが, 著者自身 「同一テーマによる変奏曲」 と呼んでいるように,結局多岐に及ぶ論述は,多 } 政 治 的 一 面 化 に 対 して 行 っ たl ie i 様な対立から構成される存在 (Se ron n) に根拠をおく 芸術家が8 i の弁 明 で あ る. 後 年 に な っ て,l ron e は 諸 対 立 を 包 括 して いる 全 体 を 把 え る た め に, 対 立 そ の も の の } だ がl i 上に 立 と う と す る 精 神 と 呼 ば れ る よう に な る9 ron e の 意 味 が 変 化 し た の では な く, マ ン の 場 .. 合それは拡大されるのである.「イロニー……他の人々 がそれを見ないところに, 私がそれを見ると いうことはあり得る. この概念は どんなに広い意味で理解されてもされす ぎることはないし, どん o ) なに倫理的に, どれほど政治的に受け取っ てもゆきす ぎることはないように 思われる.」l l i r on eは対 立するものの どちらか一方に加担することはなく,そのどちらでもあろうとし,対立を 1 1 } であろうとする つまり対 立が構成する全体性にこそl i r on eの 包括して両者の「中間者・仲介者」 , 世界が開かれる. そのために物事の一義的な規定を回避し, 決定を無限に留保して, 一切を未解決 i のまま (o賃en) にしておく.l r on eの世界では, いかなる物事も自己完結して 一義的になることは i r なく, すべては相対的な関連の中におかれ, 両義的・多義的な意味を持つ. マンはl on eを自由自 芸術の精神だという 在なしなやかな精神, 対立の間に戯れ, 晴やかに全体を眺める精神, つまり . 「私はここでイロニーという言葉を, ロマン派の主観主義がそれに与えたよりももっと広い, 大き な意味で用いているの です. その意味は平静さのためほとんど無気味にさえ感じられま す. つまり. 芸術そのものの意味であり, 一切の否定に通じる一切 の肯定の意味であります, それは太陽のよう に明るく晴やかに 全体を包むまなざしであり, 他ならぬ芸術のまなざしであります. こう言っ てよ ければ, それは最高の自由, 平安, そしていかなる道徳主義にも曇らされない即物性のまなざしで 1 2 ) こう してl i あります.」 r on eは全体性を求める客観精神,叙事詩の精神となる.「客観精神というの 1 3 ) 何故なら「叙事詩の精神は断 はイロニーです.叙事詩の芸術精神とはイロニーの精神なのです.」 片を, エピソー ドを求めるの ではなく, 全体を, 無数のエピソー ドと細目を備えた世界を求めてい 1 4 ) のだから 芸術は多様なものの総合となる だろう る」 . . i 芸術をエ r on eと同一視することによっ て, マンは自らの文学のあり方を究極的に定義した訳であ. る が, こ こ でこ の こ と が先 に 述 べ た 形 式 の 問 題 と どの よ う に 関 連 す る か 考 え て み な け れ ば なら な い. i ie は 二 重 の 意 味 を 持 っ て く る つ ま り マ ン はl そ の 際工 ron ron e を芸術の原理と呼ん だだけ ではな .. i i r sch く, 形式自体にも適用する. 芸術の精神が工 on r on e だとすれば, それを実現する形式自体もi でなけ ればならない。 即ち, 形式も多様なものを含み, 多様なものから構成される戯れとなっ てい なければならない. マンが形式の虚構性に対して懐疑的 であっ たと同時に, それの持つ魅力 を最大 i 限に 引 き 出 そ う と し た と 述 べ た が, そ の こ と は 形 式 をi ron sch な戯れへと高め, 虚構性を最大限に. 発揮させることを意味している,つまりそのことによ って形式はそれ自体を相対化するものと なり, i 自らを裏切る戯れの形式となる.i r on s ch な形式になることによ っ て,形式は自己完結性を自分の手 で破り, 「自己讃美」 となることをやめるのである. その時形式に対する懐疑的認識は, 形式の戯れ ie の 精 神 はi i の 中 に 昇 華 さ れ る こ と に な る. 一 言 でい え ば, l l ron ron sch な Er zah en と し て 現 わ れ て 19.

(5) . 安高誠吾:-- トーマス・マンにおける Erzahl en の問題-- く る の であ る. そ れ 故 に, マ ン の 作 品 を 論 じ る 場 合 に, そ れ が何 を (was)er zahl en して い る か と い. う こ と と 同 時 に, い か に (wie)er l zah en されているかという形式の持つ意味がきわめて重要なもの と な る の であ る. リム. i こ こ でマ ン のi ron sch な Er zahl en が どの よ う な 手 段 で実 現 さ れ て い る の か を, いく つ か の 具 体 的. な例に即 して検討してゆく必要がある. コー プマンは, マンの小説の全般的な特徴として, 多義的 な可能性のために起る一義性 の喪失, 多様な意図による伝統的な小説のタイ プの解体を挙げている. 5 } こ う し た 作 品 の 「多声 的 な 構 造」 (po l が1 t ) を考えてゆく場合, 一応の順序とし r ukt r yphones u ,. て, 作品の全体と, 描写・会話などの部分 -- むろん全体と部分とは相互に関連し合うのだが -- に労 け て み た い.. 作者自身が認めているように, ひとつの作品が様々な意図から書かれていることはよく知られて 6 } た と え ば 《魔 の 山》 は 作者自身の三週間のサナトリウム での体験に基づいて 「単純な主 い る1 . , , 1 7 ) 人公の, ひとをぞっ とさせるよう な冒険と市民的な実直さとの間 に繰り広げられる滑稽な葛藤」 を描こうという当初の計画に,《非政治的人間の考察》 をふまえた時代の問題を扱う意図が加わり, i さらに伝統的な教養小説やゲーテの《フ ァ ウスト》の Pa r od e という意図が重なる. また《フ ァウス. ト博士》 の場合, ファ ウスト伝承を基に して, 一人の音楽家の破滅の物語を描くことが基本的構想 としてある が, それは同時に芸術一般の問題性の物語であるし, ニーチェ の悲劇的運命の暗示的な 物語でもあり, 更に, ナチス・ ドイツの破局という形で現われた ドイツ精神の悲劇の物語でもある. というように二重・三重の意図がそ こに働いている. 作品に多様な性格を与えているものは, この ようにひと つの作品に様々な含みを持たせようとする意図 であり, それがまた作品に伝統的な意味 でひ と つ の Roman と 呼 べ な い 複 雑 な 形 態 を 与 え て い る 原 因 と な っ て い る つ ま り マ ン の 作 品 は - .. 義的な物語性に還元させることの できない多様なパースペクティ ブを 持っ ているの である.. その多様な パー スペクティ ブ を可能にする手段のひとつとして, 物語られる出来事(Ge s chehen). l と 語 り 手 (Er zah er) の 対 立 が 挙 げ ら れ る. ラ イ ンハ ル ト ・ バ ウ ム ガ ル トは, マ ン の 場 合Geschehen l は Er zah en の 中 で初 め て 生 起 す る の では な く て, 既 に 起 っ て し ま っ た こ と (schon Geschehenes). と して 設定さ れてお り, そ れ故マ ン の Erzahl ‐ en は 既 に 起 っ て し ま っ た Geschehen の 報 告 (be 8 ) このよう な 設定 -- ichten)であ り,そ れ を 再 現 す る 語 り(nacher r l zah en)であ る と 指 摘 して い る1 . i k i t むろ ん f v な設定 であるが -- に 必 要 な の は,Geschehen と Erzahl er の 分 離 であ ろ う. 作 品 の 随. 所に,「既に述べたように」 ,「ひと言 でいえば, つまり……」 ,「これに関してはこれ位に しておこう」 というよう な Erzahl er の言葉が挿入されているが,それは Er zahl er が Geschehen か ら 独 立 し て い る こ と を 示 し て い る. 因 み に つ け 加 え れ ば, 「そ れ は 他 に 類 の な い 小 犬 だ. 千 金 の 価 が あ る, い か に. も愉快なやつ である. しかしそれは本題と関係がないから, 目を転じなければならない」 というよ. 1) い う よ う に, い わ ゆ る 全 知 全 能 な Er zahl er へ の 郷 諭と し て 働 い て い る 場 合 も あ る 9 . i l ichten し こ の よう に Erzah ron er は Geschehen に 対 し てi sch な 距 離 を 保 ち, 読 者 に 向 っ て ber. nacher zahl en す る. さ ら に Er zahl er は Geschehen の 意 味 を 考 察 し た り, 批判 を 加 え な が ら, 物 語 ら. れる Geschehen の 層 と な ら ん で, もう ひ と つ の 層, つ ま り Erzahl er の側の層を作り出してゆく. こ の こ と は 《フ ァ ウスト博士》 , 《選 ばれし人》 , 一人称小説 《詐欺師フ ェ ーリッ クス・クルルの告白》 l のように Er ah rが具体的な人物として存在して いる場合には 一層 はっ きりする. 特に 《フ ァ ウ ス z e. ト 博 士》 では,Er er の ツ ァ イ ト ブ ロ ー ム は レ ー ヴ ァ ー キ ュ ー ン の 物 語 と 桔 抗 し て お り, こ こ では zahl Er l zah er と Geschehen の 比 重 は ほ ぼ 等 しく な っ て い る. さ ら に こ の 作 品 では 破 局 に 向 か う 時 局 と い 20.

(6) . l 安 高 誠吾: - - トー マ ス ・ マン に おける Br en の問題 -- zah. う Erzahler の 側 の 時 間 を 挿 入す る こ と に よ っ て, 二重の Geschehenが生れ, 作品を二重の意 味で拡. l 大 し て い る. こ の よ う な Er zah er の 独 立 の 極 端 な例 が, 旧 約 聖 書に し て 数 10 頁 ほ どの 物 語 が お よ そ l 1800 頁 に 及 ぶ長 編 に 拡 大 さ れ た 《ヨ ゼ フ と そ の 兄 弟》 で あ る。 こ こ では Er zah er は Geschen を 圧 倒. l して お り, あ た かも Br zah er の神話 o 宗 教 を め ぐる 考 察 や 物 語 の 注 釈 そ の も の の た め に Geschehen. が最小限必要とされたかのよう である.. l マ ン は 作 品 がひ と つ の Geschehen を物語るという伝統的な虚構を繰り返そうとはせず, E r zah r e を独立させることによっ て多様な性格を作品に与えよう とする訳だが, それは また, 物語られる. Geschehen を現 実 であると思 わせようとした 伝統的 リアリ ズム 小説におけ る Erzahl en の 構 造 の l i i er は い わ ば 虚 構 の 世 界 の 外 側 に zah ron sch な批判 o 解 体 と な っ て い る. 何 故 な ら, 独 立 し た Er. 立っ ており, 物語の虚構性を意識しているから である。《選ばれし人》の中で, グレ ゴリウスの父ヴィ. l リ ギ ス が, 少 年 の 頃 学 ぶ 乗 馬, 合 戦, 投 げ 槍 の訓 練 や 狩 猟 の 様 子 を 語 っ た 後, Er rの クレメ ン ス zah e. は, 僧侶の私はそれらのことは全然経験がないと断わっ てから, 次のようにいう.「自分の語ること にはすべて十分に経験を積んで, 知り尽しているようなふりをすることこそ, 私が体現している物 0 ) 語 の 精 神 の や り 方 であ る。」 2. l zah en の 特 質 を 理 解 す る う こ こ でこ れ 以 上 Er erの 問 題 に 立 ち 入 る 余 裕 は な い が, マ ン の Er zahl. えで, Er l ah z rの役割をそれぞれの作品に即 して分析してゆくことは, きわめて有効な方法であろ e う。 ここ ではごく 一般的に, 作品に多義的性 格を与える手段として, また虚構を虚構と してあばき, l そ れ と 戯 れ る 手 段 の ひ と つ と し て, Erzah er が Geschehen か ら 独 立 して い る こ と が 必 要 であ る こ と. を指摘しておきたい. 次に作品が含む多義的な性格の例として, 物語的要素と非物語的要素の対立を挙 げておこう。 物. 語芸術は素材として多様な要素を含んでいるが, ヘルマンリマイヤーによればそれは物語的要素と 非物語的要素に分けることができるという。 物語芸術はその素朴な 形態である叙事詩が示すように 本来時間的芸術であるり それ故物語に含まれている素材が時間的であるか否かが物語的要素と非物 語的要素を分かつ基準である, これに従えば, 本来の物語的要素は Ges chehen だけ である. しかし 描写はその性格上それ自体としては時間的ではないが, それが Ge s chehenの中に挿 入さ れて, 丁度 流れの中の岩が流れの速さを感じさせるように, 時間経過を意識させるものとして働く場合には物. 語的要素とみなすことができる. 一方, 観念的な内容をもつ素材, つまり省察とか哲学り思想など l の展開は時間経過と関わらないから非物語的要素と考えられる。 それは会話や Er zah rの省察など e 1 ) に具体化されて物語芸術に現われてくる2 . r の 時 間 に つ い て の 省 察 や, ゼ テ ン ブ 非物語的要素はマンの場合, たとえば 《魔の山》 の Erzahl e リーニとナフタとの間に展開される論争として,《ファ ウスト博士》では音楽についての専門的な議 論,「ベー トーベンは何故ピアノ・ソナタ作品第111に第3楽章を書かなかっ たか」 という講演, ま erの 考 察 や 注 釈 と し て 現 わ れて い る. マ ン が こ れ ら の た既に触れた 《ヨゼフとその兄弟》 の Erzahl. 作品を書く 際に音楽とかエジ プトの神話学, 宗教学に関する数多くの書物を読んだことは知 られて 2 ) この専門的な研究は物語の背景や描写に的確さを与えるために必要とされた ばかり でな いるが2 , く, ここ で挙 げた例に見られるように物語の中に直接挿入されている。 これらの非物語的要素を導 入した目的は, 近代以降の物語芸術が試みたのと同様に, 作品の内容を拡大するため であることは i 当然だが, マンの場合はさらに作品に見せかけの正確さを故意に作り出すi r on s ch な意図, つまり 虚構性・遊戯性の強調のため でもある。 l 次に i roni sch な Er zah er の 性 格 を 作 品 の 部 分, 即 ち 描 写 と いう 点 で検 討 した い. マ ン は 細 部 を描. i 写する際に伝統的な写実主義を用いているが, それにi r on s ch な性格を与える技法として特に 重要 21.

(7) . l 安高誠吾:-- トーマス・マンにおける Er zah en の問題 --. なライ トモチーフと引用に触れる必要がある.. ライ トモチーフ技法とは, ある人物の肉体的特徴, 仕草や言葉などに象徴的な意味を与える表現 3 ) 第1には同じ描写 -- 多少の変動 があり得る -- が を指すが, それには二通りの形態がある2 . 反復され, 対象に即した描写の一回性や独立性を破り意図的な象徴的機能を果す場合 である. 単な る 反 復 の 例 と し て は, 《ブ ッ デン ブ ロ ー ク 家 の 人 々》 の 中 では, た と え ば ゼ ゼ ミ ー ・ ヴ ァ イ ヒ ブ ロ ー ト の, 額 に か す か に は じけ る 音 を た て る キ ス な どの 描 写 が, 結 婚 式 の た びに 繰 り 返 さ れ る. こ の 同. i 一の表現の反復は, 描写の一回性・独立性を破っ てi r on s ch な効果を与えている が, しかしそれは まだ象徴的な意味を持っ て いず,ライトモチーフとはいえない.この作品 でライ トモチーフとして機 能 し て い る も の と し て は, た と え ば ゲ ル ダ, ハ ノ オ の 特 徴 であ る 「眼 のく ま の 青 み が か っ た 影」 を. 挙げることができる。 この反復描写は他に 《トリスタン》 のガブリエル・エ ッ クホーフ夫人の 「眼 頭の影」にも見られるが, いずれも生の活力を失っ たデカ ダンスという象徴的な意味が与えられて, 没落と精神化, 生と死などの対立という作品のテー マそのものと関連している. このよう な描写手法は 《魔の山》 では徹底して用いられ, いわば作品全体がライ トモチーフから. 出 来 上 っ て い る と い っ て も 過 言 では な い.・た と え ば シ ョ ー シ ャ 夫 人 を と っ て み れ ば, 彼女 が 食堂 に. 入る時ガチ ャンと閉めるガラス戸や頭を少し前に出して歩く癖や, 手を頭の後にまわして髪を整え る仕草, 爪の両側がささくれている手などが度々述べられるが, これは一 見リアリスティ シュな描 写に思われるが, 決してそう ではなく, 反復されることによっ て彼女が果している役割をこのよう な部分的特徴 で代表させていることが分る. つまり無拘束な性格の象徴として, またカストル プを かきたてる情欲の象徴として機能している. このことはカストルプが雪の中の冒険以後新しい教養. 段階に入り,情欲から解放された後はこれらの描写が姿を消すことによっ てさらに強調されている. 読者にそのことを印象づけるために作者は念を入れて, 彼女が再びサナトリウムに戻っ て, 食堂に 4 ) と つ け加 え 二 人 の 関 係 が こ れ ま でと は 変 入 っ た 時, 「と こ ろ が い っ こ う に 音 は 立 た な か っ た」2 ,. る こ と を 暗 示 し て い る.. これと並んで反復されなくとも描写それ自体に象徴的な意味が含まれている場合のライ トモチー. フの例を挙げると, たとえば《大公殿下》 では, ク ラ ウ ス ・ ハ イ ン リ ッ ヒ は 生 れ つ き 左 手 の 「萎縮」 という欠陥を持っ ているが, それは芸術家と同様に王侯と いう形式的存在の宿命, つまりなんらか の生の欠陥を前提としているという マンの思想と照応するものである。 またしばしば指摘されるこ の 種 の ライ ト モ チ ー フ と して,《ヴ ェ ニ ス に 死 す》 の ア ッ シ ェ ン バ ッ ハ が 作 品 の 冒 頭 で見 か け る 異 風. な旅の男の描写がある.むき出しの大きな喉仏とか歯茎までむき出しになっ た白い歯という描写は, 《古代人は死をどのよう に 造型したか》 と い う レ ッ シ ン グの 記 述 と 一 致 し て お り, こ の 男 が 死 を 象 5 ) こ の 特 徴 は ゴン ドラ の 船 頭 ホ テ ルに や っ て く る 大 道 芸 人 の 徴 し て い る こ と を 読 者 に 悟 ら せ る2 . , 描 写 でも 再 び用 い ら れ て, ア ッ シ ェ ン バ ッ ハ が 死 に つ き ま と わ れ て い る こ と の 暗 示 と し て 機 能 し て い る.. 以 上 の よ う な ライ トモ チ ー フ の例 は, ほ ん の さ さ い な 分 り 易 い も の に 過 ぎ な い の であ っ て, マ ン. の作品の随所にライ トモチーフ技法は用いられているが, いずれにせよライ トモチーフとして機能 する描写は, 表面的にはリアリ スティ シュ な対象の再現に見えながらも, 象徴的な意味が与えられ. そこに現わされている以上のものを喚起させよう とする意図的な表現である.. このことは描写や登場人物の語る言葉が既存の文学や現実上の出来事, 普遍的に知られている事 柄などの借用によ っ ている引用という技法に関してもあてはまる.《魔の山》 がゲーテの 《フ ァ ウ ス ト》 の構成を借用 していることは大きな単位 での引用といえよう が, ここ ではより小さな単位であ る描写に 限る,《フ ァ ウスト博士》 ではルターやシェイ クスピアなどからの数多くの引用 が行われて 22.

(8) . l 安 高 誠吾二 -- トーマス・マンにおける Er zah en の問題 --. い る が, 作 者 は レ ー ヴ ァ ー キ ュ ー ン の 物 語 を ニ ー チ ェ の 悲劇 と 関 連 さ せ る た め に, ニ ー チ ェ か ら の. 引 用 を 行 っ た と 述 べ て, そ の 例 を 次 の よ う に 言 っ て い る。「ニ ー チ ェ の ケ ル ン の 娼 家 での 体 験 や 彼 の. 病気の徴候など文字通り引き継いだ。 悪魔に 《この人を見よ》 を引用させたし, -- これは読者に はほとんど気づ かれない引用 だろう が -- ニーチェ がニ ッツァ から出した手紙に基づいて食餌療 法の献立を引用した。 また同じく余り目立たないが, 精神の暗闇に沈んだ者に花束を持っ ていっ た 6 } ドイ セ ン の 最 後 の 訪 問 な どを 引 用 と して 用 い た。」 2. む ろ ん 引 用 は こ の 作 品 だけ に 限 ら ず, す でに 初 期 の 作 品 でも 行 わ れ て い る。 ユ ル ゲン ・ シ ャ ルフ シ ュ ベ ー ル ト は 《ブ ッ デン プ ロ ー ク 家 の 人々》 で行われている引用の例として, そこに登場する芸. 術家を挙げている。 即ち, 第1代目にはホッフシュ テーデが汗情詩を書き, 第2代目になると, 演 劇 の 熱 狂 的 な 愛 好 者 ゴ ッ シ ュ が 登 場 す る。 第 3 代 目 の 当 主 トー マ ス は, ドイ ツ, フ ラ ン ス, ロ シア の 散文 を よ く 読 む と 述 べ ら れ て い る が, こ れ は シ ョ ー ペ ン ハ ウ ア ー の 《意志と表象と ,しての世界》. で記述さ れている, 汗情詩=青少年, 演劇=成年, 散文=老年という芸術の年齢と一致し, 物語ら 7 れる没落の過程と照応させたもの であるという2 1 (ハノオの音楽はマンが独自につけ加 えたもの であろう。) その他にも 《魔の山》 では, 《フ ァ ウ ス ト》 の Parodie と い う 意 図 に 従 っ て, 《フ ァ ウ ス. ト》 か ら の 無 数 の 引 用 が あ り,. な か でも, 「雪」 の 章 では, カ ス ト ル プ の 雪 の 中 の 冒 険と, フ ァ ウ ス 8 ) トの 「母 の 国」 へ の 探 訪 と の ア ナ ロ ジ ー が 引 用 に よ っ て 強調 さ れ て い る2 。 以 上 い く つ か の 点 に わ た っ て 具 体例 を 挙 げ て き た が, こ れ でマ ン のi i l ron sch な Er zah en が お お よ. そ どん な も の であ る か を 掴 む こ と が でき る, 即 ち, マ ン の E l ah r z enは 基本的 には 伝統的 な小説形 式, 描写形式を用いているが, しかしそこに多様な要素や意味を含み, 作品全体としてもまたその 部分としても, 現に語られている以上のことを表現している。 さらに, そのことは一義的に自己完 i 結 し て い る 形 式 ・ 虚 構 のi ron sch な 批 判, 解 体 を 意 味 して い る。 コ ー プ マ ン は リ ア リ ス テ ィ シ ュ な. 描写は, マンの場合決してそのもの自体を目指しているのではなく, 意図的な虚構であっ て, それ は描かれる対象に独自性を与えると同時にそれを相対化し, 一回性を創り出すと同時に奪い, 真面 目さと品位を与えると同時にそれが数多くの可能性との戯れにす ぎないことを明らかにしている,. 9 ) こ の こ と は 描 写 に 限 ら ず 作 品 全 体と して も そ う であ る ま たl と 指 摘 して い る が2 ie は 虚 構 を ron , . 0 ) 批 判 的 な 距 離 を 保 っ て い る Er 虚 構 と し て あ ばく と エ ム リ ッ ヒ は 指 摘 し て い る が3 l zah ‐ er の Ge ,. s chehenの報告や描写,学問的な正確さや議論,正確な再現であるように見えながら実は底意を持つ描 ie であっ て それは語られた物語が現実 ではなく あくま で見せかけの現実 写 な どは い ず れ もl ron , , ,. つまり虚構であることを意識させるの である。19世紀のリアリ ズム小説は虚構を現実と思わせよう と した が, マ ン は む しろ 虚 構 を 虚 構 と して 暴 露 しよ う と す る。 こ う し てi i ron sch な Er zahl en に よ っ. て虚構はいわば自意識を持ち, 自らをあばきつつ, 戯れることになる. 先に形式の虚構性に対する 懐 疑 は 戯 れ の 中 に 昇 華 さ れ る と 述 べ た の は, こ の こ と を 指 し て い る。. l 前章でマンの Er ah z en は伝統的な小説形式や描写形式を解体して,それを戯れに変えていること. をみてきたが, そこに働いているものは形式の疑わ しさを認識しながらも, 晴やかに形式と戯れよ ie の 精 神 であ っ た と こ ろ でそ の よ う な 戯 れ の 精 神 が 現 出 さ せ る も の は 多様 な 関 連 うとするl ron 。 ,. 性の世界であろう。 たとえばライ トモチーフによっ て細部描写は作品のテーマと関連し合い, 引用 や模倣によっ て作品はそれ自体を越えて伝統的文化や文学と関連し, Er l zah rの介入や非物語的要 e. 素によっ て虚構と現実が融合されるというように。 ここでは爪の両側がささくれだっ た手であれ, 23.

(9) . l ah 安高誠吾:-- トーマス・マンにおけるEr z enの問題 --. 旅の男の風貌であれ, 雪の中の冒険であれ, 一切のものに関連的意味が与えられている. マンはワ グナーの 《ニーベ ルン ゲンの指輪》 を 「相互関係の祝宴」 , 「精神ゆたかな, 深遠な暗示の世界」 と 1 ) そ の よ う な 世 界 を 創 出 す る こ と が マ ン 自 身 のi en の 意 図 に 他 な ら な roni sch な Er zahl 呼 ん だ が3 , ,. f i ndung) に ではなく, 素材に 「魂を吹き込 い, このことはマンが作家の本質を素材の 「案出」(Er 3 2 } に 置 いてい たこと と符合する つ f i i b k V t l t B i む こ と」( eseeung) . , 「主 観 的 深 化」(su e ve er e ung) まり問題は素材をいかに 取り扱うかということ であっ て, マンの場合それは素材に関連的意味を与. えていくことに他ならない,「私はこの関連という言葉が好き だ. 私にとっ ては, この概念は重要な ものという概念 -- それがいかに相対 的に受け取られるべきものであるに しても -- と完全に附 3 3 )このようにして素材は 多彩な暗示や 合する. 重要なものとは他ならぬ関連 ゆたかなもの である.」 比硫的・象徴的な意味が与えら れて関連性の世界に 編みこまれてゆく. こうしてみると 《フ ァ ウ ス ト博士》 の悪魔の 主張とは異っ て, マンの場合虚構は撤回されてはいず (もっ とも, 現実だと 思わ せようとする虚構の 「野心」 は別 だが) , むしろ関連性の遊戯を可能にする場として積極的に利用さ れ て い る こ と力ゞ分 る.. l zah en の 本 質 的 な 意 味 zahl こ こ でこ の よ う な Er en と 伝 統 と の 関 係 に 言 及 し て, マ ン に お け る Er. を 考 え て み た い.. ドイツ散文中屈指の名文とマンが讃 えた文章の中 で, ニーチェはワ グナーの 《マイ ス タ ー ジ ン ガ. ー序曲》 に つ い て 次 の よ う に 言 っ て い る. 「そ れ は 華 麗 な, 飾 り す ぎた, 重 々 し い 後 期 の 芸 術 であ っ て, それを理解するには, いま もなお生命を保っ ている2世紀間の音楽を前提としなければならな 4 ) マ ン の 作 品 も こ れ と 同 じよう な 誇 り を 持 っ て い る の で は あ る ま い い と い う 誇 り を 持 っ て い る.」3. ie の 基 本 的 な 性 格 に つ い て 「た ん にイ ロ ニ ー だけ では なく, お そ らく ron か. ベ ー ダ・ ア レ マ ン はl ion) が 前 提 と して 存 在 し て す べ て の お か し み は, い つ でも 頼 み に す る こ と が でき る 因 襲 (K0nvent 3 5 ) i l 働 く た め に は, ドイ ツ の み な と し て の 作 品 が が ン n ro e い な け れ ば な ら な い.」 と 言 っ て い る ,マ i on と して 前 提 に し て い る の で あ る. 事 実 マ ン は 数 多 ら ず ヨ ー ロ ッ パ 文 学 や 文 化 の 伝 統 を K0nvent. くのエ ッセーの中 で自分が深く伝統と 結びついていることを強調しているし, また作品の内容や技 法自体がなによりもマンが伝統からいかに 多くのものを受け継いでいるかを物語っ ている. しかし l マンの Er enの解体的な一面 が示すように, それは伝統の素朴な継承 ではない. そもそも伝統を zah 意識すること自体, 既に伝統が疑わしいものになっ たことの現われであろう. だが一方 ではマンは 解体的なかたち ではあるが伝 統的文学を保持し, また伝統的な物語芸術がそう であったように, 虚 構を戯れの場として利用 しようとする. 再三にわたっ て強調される伝統との結びつきは, 伝統に対 す る こ の よ う な ア ン ビ バ レ ン ツ な 関 係 の 現 わ れ であ る.. 「パスカルの偉大さと 魅力は, まさに時代のは ざまに, 中世と近代, キリスト教と啓蒙主義との は ざまにある彼の問題的な位置に基づ いている. 彼の本質をなしている諸要素はこの両 方に属して いた. 既ち, 彼は批評家であり, また宗教的な人間 であった。 このよう な苦境は精神を生み, 深さ 6 ) だがマンも 疑 いもなく「時代 のは ざま」 に 位 置 し て い る と 感 じて い た こ の「問 とイ ロ ニ ー を 生 む.」3 .. 題的な位置」 は自己を認識することを強いる. それはマンにとっ ては自 己を規定している伝統を, 滅びようとしている文化を検証すること であっ た. このよう な意味で次の言葉は大変暗示的であろ 4年の大戦勃発という青天の露 露は, 《魔の山》 という小説の最後に 出てくるが, 実のとこ う. 「191 7 )これは ろ そ れ は 既 に 冒 頭 に あ っ た も の で, そ れ が こ の 作 品 の す べ て の 夢 を 喚 起 し た の であ る,」3. 3 8 ) と呼ばれたこの作品に だけ では なく,マンの文 「世紀末以降のヨーロ ッ パの問題性の在庫調 べ」 学そのものにもあてはまるだろう. 即ち, 二度の大戦という かたちで具体化した文化の崩壊という 「青天の露露」 が, マンの文学の 「すべての夢を喚起した」 の であり, それは他ならぬヨーロ ッ パ 24.

(10) . l 安 高誠吾 : - - トー マ ス ・マ ンに おける Er zah en の問題. 精神文化の 「在庫調べ」 なのである. 滅びつつあるものは自らを意識し回顧する。 マンの場合, 伝 統的な文学形式が自らを意識しているように, ヨーロ ッ パ精神の伝統は作品の中 でいわば自意識を 獲得する. それはあたかも危機に瀕した伝統文化そのものが, マンという媒体を通して自らを回想 しているかのよう だ. またそのような透明な媒体となること, それがマンの作品の「野心」 である,. i こ こ で虚 構 の も つ 意 味 を ロ マ ン 派 の 作 家 と 比 較 し て み れ ば, マ ン のi ron sch な Er en の 性 格 が zahl. はっ きりするだろう。 ロマン派にあっては, 虚構は現実に 囚 れな い主 観 を表 現する 場’として好ん で用いられた。 そして散文の形式上の自由さは無限に自由 であろうとする主観に対 応するもの で あっ たが, マンの場合虚構はそのような主観の反映ではなく, 主観を捉えている伝統の多様な拡が りと時間的奥行を喚起させる自由な戯れの場 なの である. こ れが様々な技法を用いて実現さ れ る. i i ron sch な Er zahl en の 真 の 内 容 であ ろ う. そ れ 故 に ハ リ ー ・ レ ヴィ ン の《ジ ェ ー ム ス ・ ジ ョ イ ス》の. 中の 「われわれの同時代者の最上の 著作は創造の行為 ではなく, 独特な工合に回想を飽和 した喚起の 9 ) 行為 であ る」 と い う 言 葉 が, マ ン に ジ ョ イ ス と の 思 わ ぬ 親 近 性 を 悟 らせ た の であ る3 .. ところで, このように伝統に拘束され, 伝統を常に意識することは後期の世代の特徴 であろう. ニーチェはワ グナーの音楽を 「後期の芸術」 と呼んだが, マンの物語芸術も同様 であろう, 後期の. 芸術には呪いと恩寵, つまり恩寵故の呪いがある, なぜなら後期の芸術にとっ ては創作は本質的な 意味で新しさを創造すること ではなく, 伝統の回想でありその反復だからである. だがマンは後期 の芸術が必然的に持つ呪いを恩寵へと変えようとする。 後年のマンを捉えた神話への関心はそのよ 0 ) マ ン が神 話 に つ い て 述 べ て い る こ と を 要 約 す れ ば 生 と は い つ も 過 去 の 現 在 う な 試 み と い え る4 , .. 化であっ て, それは典型的なものの繰り返し, つまり神話に 現われている原型の一回的, 個別的な 次元 での再現である. それ故に生は本質的に新しさを持たず, もし新しさと呼べるものがあるとす れば, それは典型的なものの個的な現われ方の新しさ, 同一なものの変奏の仕方の新しさ であると いう, また神話の中 では本来時間というものは無意味である。 一切は変化しながらも時間を超えて. 連続しているからである. その意味で講演 《小説の芸術》 は物語芸術の歴史であると同時にその神 話でもある. この講演の中 でマンは物語芸術の歴史を要約し, 古代の叙事詩以来物語芸術の中 で変 ) に 言 及 し て い る が こ の 「叙 i 容されながら生きつ づけてきた「叙事詩の精神」(Gen usderEpik)41 ,. 事詩の精神」 はいっの時代 でも繰り返され, 変奏されて現われてくる物語芸術の神話的原型であろ う, だからマンが小説について語ろうとする時に, その淵源を訪ねて古代ギリシアや ペ ルシアの 叙 事 詩, イ ン ドの ヴ ェ ー ダに ま で遡 る の は 偶 然 では な い の であ る.. l こう してマンは神話を援用 しながら自らの Er zah enを物語芸術の伝統の中におく.それはそもそ も新しさというものはなく, 新しさとは既にあるものの反復の仕方, 変奏の新しさであり, またい つの時代もそう であっ たことを確認することによっ て, 新しさを創造することの不可能性という後. 期の芸術の呪いを克服しよ うとする試み である, それはまたいかに解体的な形態であれ, それを反 復 ・ 変 奏 と 見 な す こ とに よ っ て, 自 らの Erzahl en が 伝 統 と 結 びつ い て い る こ と の 確 認 であ り, 結局. 「叙事詩の精神」 の連続性の確認なのである. l この無時間的な 「叙事詩の精神」 の連続性の強調を通して伝えられるものは, 究極的にEr ah z en. そ の も の へ の 讃 美 であ り, 虚 構 へ の 信 頼 であ ろ う. 成 程 Er zahl en と は 虚 構 であ り, 仮 象 であ ろ う.. だがそれは全くの絵空事ということ ではない. 伝統的な物語芸術が示しているように, 虚構は個人 と全体を結びつけ, 個人の内面と外界を媒介する想像の世界を作り得る能力のことであった. その. ような虚構の解体の理由として, 伝統的な虚構 では把えられない多様な層が出現したからだといわ れる. しかしそれはわれわれ が豊かに なっ たということを 意味 してはいない. むしろ虚構への信頼 が失われることによっ て, 逆にわれわれはそれだけ貧しくなったように思われる. しかしここでは 25.

(11) . 安高誠吾:-- トーマス・マンにおけるEr l ah z enの問題 --. その事の良し悪しが問題なの ではない. ただ現代文学一般の傾向と比較した場合, マンにはまだ虚 構の力への信頼が失われてはいないことを指摘したいと 思うま でである. それはまたマン一人の信 頼にと どまらず, 解体の危機を内 包しながらも総合的な何かが可能 であった時代の声のようにも思 わ れ る.. 王 ) 1 )JX,S t ta 1) ) Thomas Mann,Gesamme1 e wア erkein13Banden ankfur SCher Ver .(Fr . M.:S ・Fi . .444 ,1974 ,2 以 下 Textはすべてこれによる ただしローマ数字は巻数を示す . .. 3) 4 ) ) 5 ) 6 7) 8). 241 V工 . . ,S 321 V1 . . ,S. Vm,S 301 . . ×1 1 S 5 . , .85. ×1 1 569f . ,S, l ie の根 拠 をSe in に置 い て いる が, そ れは ま た Deut XI 1 S 491 ron tum と も 呼 ば れてい schtum,Bu r rge .マ ン は・ , . l l i ich tum は およ そ 一 致 しな い 対 立 を 包括 す る mag る. He er は こ の Burger sche s Und だと述 べ て い る. Er He l l i f L ta ) er r on sche Deut sche ankfur .(Fr . M.:Suhrkamp Ver ,Thomas Mann - - Deri . ,1959 ,S.69 ie の概 念を, そ れ ぞれsent iment l i iv と特 徴 づ け て いる マン に tは前期と 後期 のl 9) R.Baumga r ron a sch と na ,. i iml t この概念を与えたのは前期ではニーチェ, 後期ではゲーテだと指摘している. Re dBaumgar r on ‐ r a ‐Dasl , iel i M h IH C l 1 v 9 6 6 S 9 1 scheundd ron einden Wア rken Thomas Manns ( u e n: ) n c e r a a n s e r e r . . , ,.. 1 581 1 0) XI , ,S. 1 571 11) X工 . ,S. × 353 12) 1 3 ) . . ,S ,. 352 1 4) ×,S. . i i 1 5) Hermut Koopmann, Thomas Mann -- The ‐ ron e sche Roman 。 r eund Praxis derepischenl .in:Deut ien f l the。r 279 ta )(= 《Th amく ur r : Athenaum Ve . r . . Mann》) . . .M・ ,1968 ,S i 《D eEntstehungdesDoktorFaustus》, 《Einfuhrungin den, ,Zauberberざ》 参照. X工 1 607 . ,S.. 1 6 ) 17 ) 1 8 ) 1 9) 20 ) 21 ). Baumga id 55 f t r . . ,ib ,S. Baumga i i f b d S 5 t 7 r . . , ,. f. VI 工 24 . . ,S He l i ion i i B. Ve l t rmann Meyer te Emp tga t:J em derep schenl ntegr a r e r r ags-- .Zum Prob .in:Zar .(Stut . buchhand l 16f f ) ung . ,1972 ,S.. 22 ) た とえ ば《DoktorFau t 》と書く際に, マンはシェーンベルクの12音技法などの音楽理論を研究し, また s us ine i 音楽理論家ア ドルノに注告を求めている. 《D J o e Entstehung des Dokt。r Faustus》 参照. 《 s e sh und se Brude 》 の場合には, 神話・宗教に関して, 神話学者ケレーニーと書簡を通じて議論を重ねて い る. Th r Ma . nn i Gespr i eny Zur i in Ver L 一 K. Ker achin Br )参照. ef en ch:Rhe .( ,1960 D i d i l l k . R E i k l i Thomas Mann i 23) Hermut Koopmann t t t 〉 e e s n e e u a e n o mans 〈be n w c u n r e g .(Bonn: Bouv , Ver l 1 9 1 S 4 5 6 1 7 ) - . . , , ,. 工 1 767 24) 1 . ,S.. I 工 i 446 t in Dichter 25 ) VI tder Di inerLi i erJens t te ter turgesch ebeunds e a cht e . Wa ,S. , Der Got . ,in:Sta l ingen:Ver 1 (Pf 162 ul ) r Neske .Gunthe , . ,1962 ,S. 165 f 26) X1 . ,S. 27) Jurgen Scharfschwerdt i dungs Stut l hammer Ver i s Mann undde rdeut tgar t: Koh sChe Bi r oman( ,Thoma , 1967 43f f ) . ,S,. ika A.Vv i i i t iv be i Ti 28) Er t tmot r z atund Le ・ oma s Mann r Fo r schung--一 Thomas Mann ,Z .in:Vvege de .. (Darms t f l iche Buchgese l l f t 71 f f adt: Wi t ss enscha ) scha .S . . ,1975 id 29) KO。pmann,ib 293 》 . . Mann . . . ,《Th ,S l he lm Emr ich l kuns ieEr tdes20 30 i i i ) VVi inn zah t te sundihrgesch cht cherS sche Li ‐ .Jahrhunder ,D .in:Deut i i V d h k t G & R h r t t 1 9 5 9 S 1 at urinunser er Ze ( o n t 6 ) n e n: a n e o e c u r e c g p . , ,.,. 26.

(12) . l 安 高 誠吾 : -- トー マ ス ・ マ ンに おける Br en の問題 zah. 31 ) IX,S,522 . 32) ×,S,15 , 1 23 f 3 3) X1 . ,S. iedr i iBanden l IHanse 1 705 t ) 34) Fr sche ch Ni e z e r r ver , , , ,(Munchen:Ca , Werkeindr ,1954 ,1 ,S i 1 l l ingen:Ver l 1969 142 ) 3 emann ron eund Di chtung 5 ) Beda AI . fu .Gunthen Neske , . ,l , ,S 1 409f 3 6) XI . . ,S XI 1 657 3 3 ) 7) 8 . ,S. , 1 S 2 5 0 3 9) XI . , , J 4 0) 《 o s ephundseineBruder》 はマンの神話観の集大成であるが, 後年のエッセー, 講演でも度々神話につい i t て 述 べ られ てい る。 た とえ ば 《Fr 》 参照. eud undd eZukunf 352 41 ) ×,S. . (本 学助 手 ・ 岩 見 沢 分校). 27.

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参照

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