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唐朝辺塞詩の研究

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Academic year: 2021

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(1)Title. 唐朝辺塞詩の研究. Author(s). 山田, 勝久. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 44(1): *13-25. Issue Date. 1993-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4278. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 唐朝辺塞詩の研究. 北海道教育大学紀要 ( 第 一部 A)第 四十 四巻 第 一号. 唐朝辺塞詩の研究. 一 盛 唐 の シ ルク ロー ド. 平成 五年 七月. 山. 田. 勝. 久. 玄宗朝 におけ る唐 軍 の駐兵 は、 約 四万 四千 人 であ った が、 広 大 な. 中央 ア ジア の実状 から見 れ ば、 点 と点 を 支配し て いる にすぎ な い。. ま た、 長安 からあ ま り にも離 れ ており、 こう し た地 理的条 件 が支 配. を困 難 にし て いた。 今 一つ、 西域 の特色 とし て重 要 な視 点 を述 べるなら ば、盛 唐 期 の. 前 漢武帝 時 におけ る張器 の大月 氏 への派遣 以来、 中国 の歴代 王朝 は西域 経営 を重要 視 し、 中央 ア ジア に存在す るオア シ ス国 家 と、 あ. ルク ロード の平和 往来 を支 えよう と の熱意 が脈動 し て いた。 こう し. 中央 ア ジア の住民 の連帯意識 の欠 如 であ る。 四世紀 から 六世 紀 にか. 唐 代 の玄宗皇帝 の治世中、開 元 ・天宝 ( 七 一三ー 七 五五) の頃 に. た平 和 共存 の思 想をも たらし た のは、 大 乗仏教 の伝来 であ った。 四. け て の西域 は、 異民族 が雑 居 し つ つも 共 に協調 し、 生命 の尊 厳 と シ. は、 そ の経営 地域 は最大規模 に達 し ており、北 庭都護 府 は庭 州 に置. 世紀 末 には、 シ ルク ロード の民 の八割 が仏教 に帰依 し、 石窟 寺 院 の. る時 は和 平 し、 あ る時 は交戦 し つつそ の勢力範 囲を保 持す るよう に. かれ、敦 煙 の陽関 ・玉門関 から アラ ル海 一帯 ま でを 支配下 に治 め て. 壁画 や仏 像、 ま た出 土す る古 文書 に示 さ れ るよう に、 仏教東 漸 の流. 努 力 し てき た。. いた。 ま た、 安西都議府 は亀 弦 に置 かれ、千問 ・疏 勤 ・砕 葉 ま で の. れ の中 で絢 欄 たる庶 民文化 の華 を 咲 かせ て いた。. てはど ちら に帰属 す るかが大問題 であ った。高 仙芝 の率 いる唐軍 が. 瑞烏含珠影、霊花吐薫裏. 重開 千仏 利、芽出 四 天宮. 雪嶺干清漠、雲楼架碧空. に詠出 され て いる。 二、 三事 例 を 引け ば、. こう し たシ ルク ロード の平 和 と繁 栄 は、 文学作 品 の いたる と ころ. 広 範 囲 な地域を統割 し て いた。 こう し た西域経営 の中 で、唐 王朝 が心 を痛 め て いた のは、回鵠 ( ウ 吐審 ( チ ベ ット)・ 大食 ( サラ セ ン帝国) の存 在 であ った。 イグ ル)・. タ ラ ス の戦 ( 七五 一) で敗北 し てから は、西域 三十 二国 と言 わ れ た. な か でも大食 は西方 の 一大強国 であり、 オア シ スの都市国 家 にと っ. 小国 家 群 は、 西方 よりし だ いに大食 の勢 力下 に入 って い った。. 一三.

(3) . . 久 山 田 勝. ペ リ オ文書. ペ リ オ文書. スタイ ン文書. 二〇三 二号 紙背. 三 二 一四号 紙背. 三 二 --号. 三八 七七号 紙背. 洗心遊勝境、従此去鹿蒙. ペ リ オ文書. 三 二三 四号. 沙州敦遵二十詠、其三) ( 二月仲春色光輝、万戸詩謡総展眉. ペ リ オ文書. 三光昨来転精輝、六郡尽道似尭時. 一四. 等 があげ ら れ る。 そ の他 、 借金 が横 って身 動 き でき なく な り、 子. 太保応時納福祐、夫人百慶無不宜 張議 潮 頒歌). 多 く出 土し て いる。す なわち、 七世紀 以後 のシ ルク ロー ド の繁 栄 の. ペリ オ文書 、 三五 〇 〇号 (. 影 には、民衆 の悲哀 と苦悩 が随所 に見 られ る のであ る。. 供 を売 り身 を質 に入れ て、 奴 隷 とし て生 き る苦悩 を 綴 った文書 も数. 参拾珠頬美少年、紗窓捺鏡整花鋼. た僧 侶 が多 く存 在し、 民衆 から布施 を 強要 し続 け た。 出家者 にと っ. 唐代 の西域 のオアシ スには、形式 にとらわ れ、仏教 の本質 を 見 失 っ. 牡丹時節逃歌謡、擦神乗船採壁連 ( 女人百歳篇) 人間賛歌 の歴 史舞 台、流 沙 の彼 方 の桃源 郷 と言 われ た シ ルク ロー. て住 民 は 〃法を 求 める 一個 の人間 ″と いう よ りも、 〃し ぼり取 る だけ し ぼり取 り、 用 が済 めば捨 て去 る″ と いう 布施 製造 機 と映 って いた よう であ る。苦 し みにあえぐ 民衆 は、 水 で飢 えをし のぎ、 夜 ごと寒. 人 たらず のオア シ スであ る のに、 約 千 人 の僧尼 が いた。 二十 人 に 一. さ に ふ る え て いた。. 人 は出家者 と いう 異常 構成 であ り、金 銭 に狂う 僧 たち は、権 威 に へ. ドも、唐代 の中 頃 から末 期 にかけ て、急速 にそ の光 を失 って い った。 権威 の悪 侶」が 「 真心 の民衆」を奴隷 化 し た こ そ の最 大 の原因 は、 「. た。 寺 戸 と いう 寺院 直属 の身 分 の住 民 は、 移転 の自由も 一般 住 民と の結 婚 も許 さ れな か った。 寺僧 は法 を 説 く ことを忘 れ、幅 広 く高利. つら い素朴 な 民衆を 次 々と奴隷 化し て い った。 し かし、 こう し た理. と にあ る。 僧 は経典 の所説 にか こ つけ て低 俗 な ことば かりを語 り、. 貸 しを行 い、 発見 され た寺 院 の収入決算を みても、第 一位 の収 入 は. 金 品を集 め る のに狂奔 し、 民衆 は寺 院 の労働 力 とし て隷属 し て い っ. 高利貸 し収入 と いう あ り様 であ った。 ま た僧侶 の民衆蔑視 が人 々の. 不尽 な仕 打ち に対し、敦煙 の住 民 が立 ち上 がり、戦 った時期も あ っ 規約 以外 に布施 を強要 す る こと は た。スタイ ン文書五 八 二八 には、「. そう し た住 民 の苦 悶をよ そ に、 僧 たち は毎 夜 のごとく役 人を 接待 し、 酒宴 を繰 り広げ て いた。 驚 く こと に唐 代末 の敦 煙 は、 人 口二万. 仏教 への信頼感 を失 な わ せ、 イ スラ ム化 へと傾 斜 さ せて い った ので. 六〇 六 六号. 時 代 が 続 く こ と に な って し ま った 。. 良 き指 導者 が いな か ったた め、す ぐ に破 棄 され てしま い、再 び暗 黒. あ る。 こう し た論拠 を 示す も のとし て、 スタイ ン文書. 五 六九八号. できな い」 と の誓約 を勝 ち取 った事 実 が見ら れ る。 し かし、 在家 に スタイ ン文書.

(4) . 唐朝辺塞詩の研究. シ ルク ロー ド が文明 の墓 場 とな った最 大 の原因 を、 一言 で表 現す る 内 部 の腐 敗 と堕落」 によ って滅 亡 し た と断 言 でき る。す な なら ば 「 わち、唐 代 の西域史、 それ は聖 職者 の権 威 に抑 圧 された民衆 の悲惨. り と シ ルク ロード の興亡 の要因を 明示し、 本質 を 映し出 し て いた。. の古 文書 を 現 地 で見 る こと が でき た。 そ れ によ ると、歴 史 はあ りあ. カシ ュガ ル ・ウ ルムチ ・ト ルフ ァ ン ・楼 蘭 ・敦 燈 ・酒泉 ・蘭州な ど. 私 は 一九 九 三年ま で の間、十 五 回 のシ ルク ロー ド調査 を体験し、. の混乱 と衰 亡 には、 さまざまな 原因 があ げ ら れ る。. 設 置され るよう にな った。 さら に、 イ スラ ム教徒 の侵 入な ど、 西域. 象徴 であ った シ ルク ロード が各 地 で分断 され、随所 に国 境 の税関 が. 性 が低 下し て いた。 ま た、 民族 意 識 の高 ま り により、諸民族融合 の. し て南海路 の重要性 が高 まり、 相 対的 に陸路 ( オオシ ス路) の必要. 唐代 から宋 代 にかけ ては、航 海 技 術 の発達 により、交 易 ルート と. 可即疲献賦、山村帰種田. 看君筒少年、不第莫懐然. こと ができ る。. 多 く、平 凡な作 品 ではあ る が、 後世 の辺塞 詩 人 とし て の端緒 を見 る. 伝統的 な作詩 技 法 によ って、 自然描写 と叙 情精神 を詠出 し たも のが. 琴参 の幼 い頃 の作 品 は、 王 維 の少年時 代 の詩 風 に類似 し て いる。. のため家 運 は年 ごと に傾 斜し、 琴参 は少年時 代 から青 年時代 に かけ て、極 め て貧 困 であ ったと いう 。. 晋 州 の二州 の刺 史 とな ったが、 琴参 が九 歳 の時 に死 去し て いる。 そ. 父 の琴植 は科挙 明経科 に合格 し、多 く の官 職を歴任 し た のち、仙 州 .. は、曽 祖 父 の本 文本 ・伯 祖 父 の琴長情 ・伯 父 の琴義 が大 臣 にな った ことを言う 。 祖 父 の琴景 債 は、衛 州 の刺 史、 宏 文館学 士 であ った。. 六葉 と は、高 祖 から玄宗 ま で の唐王朝 六代 の皇帝 を指 し、 三 相 と. 野花迎短褐、河柳払長鞭. な歴 史 でもあ った のであ る。 盛 唐 の辺塞詩 人、 琴参 の二度 に渡 る西域 行 は、 ま さ に こう し た世. 置酒馴相送、青門 一酔眠. 詩 の技法 を学 習し た。十 五歳 の時、住居 を 穎陽 に移し さら に学 問 に. 琴参 の兄弟 は五 人 で、彼 は三男 であ った。主 とし て兄 に ついて作. 送胡象落第帰王屋別業) (. 相 の中 で実施 された。 次 に琴参 の作 品を 通 し、 そ の旅 程 の変 遷 と彼 の文学 の特色 を探 ってみよう 。. 一 一 琴参 の家系、及び少年時代. 問 し て貴 顕 の屋敷 に出 入し た。 進士合格 こそ経 世的 壮志 と、 己 が栄. 精励 し た。十 六歳 の時、初 め て長安 の都 を 訪 れ、以後、約十年 の間 、 券参 は玄宗 の開 元三年 ( 七 一五)仙 州 に生 まれ た。新 旧唐書 には、 琴参 の経歴 に ついて の記載 はな い。 琴参 の 「 感 旧賦」 の序 に のみ、. 光 の人生 を開く 唯 一の道 であ ると確信し て いたから であ る。. 河穎 ・郡 鄭 ・井 隆 ・貝丘 ・翼 州 ・匡城 ・鉄丘 ・滑州 な ど、非 常 に広. 二十六歳 の時 に諸国 を歴 訪し、多 く の名所 旧跡を見学し て いる。. ( 1). 科挙 の進 士 科合格 を目指 し て受 験勉強 に取 り組 むと共 に、 長安 を 訪. 次 の如く 述 べられ て いる。. 国家六葉、吾門三相臭. 一五.

(5) . 七四四)三十歳の時で 参参が進士科に合格したのは、天宝三年 (. 旅 によ って見聞 を ひろ め、 詩才 を磨 く こと が肝要 であ る。. 範囲 な旅 であ った。 仕官 のた め には机上 の学 問も さ る ことな がら、. 喜歓。又日、男不封侯女作妃。看女都為門上楯。其人心羨慕如. 服邸弟 、与 大 長 公主 倖 臭。 而恩 沢勢 力、則 又過 之。 出 入禁門不 問、 京 師 長史為 之側 目。 故当時 謡詠有 云、生 女 勿悲酸 、 生 男勿. 叔 父昆弟皆 列位 清貴 、爵為 通侯。 姉妹 封国 夫 人、 富 坪 王宮、 車. ー六. 参 軍 を授 け あ った。 第 二位 で及第 し た琴参 は、 そ の年、 右内 率 丘鴛日. 此。. 太平広記、巻四八六) (. ら れ た。 これ は兵 器 の管 理をす る仕事 で、 官 位 は正九 品下、 予想 よ り微官 であ った が、 不 遇感 を 甘受 し つ つ職務 に勤 めて いた。 流浪 や 無 官 が いかに精 神 を 荒廃 さ せるか に ついては、 三十 歳 にな って就 職. 八〇 六) の作 であ る ので、当 これ は安史 の乱 のあ と、 元和 元年 (. 時 の世相を そ のまま描写し たも のでな い。 し かし、 わず か五十 年後. 目 憐無 旧業、 不 敢 恥微 官. 三十始 一命、宮情都欲開. 宮廷 で の昇進 は不 可能 に近 か った。 琴参 は楊 一族 の拾 頭す る官 界 に. ロ ンも な く 、 か つま た 財 力 のな い 一青 年 に と って 、 混 迷 し つ つあ る. 琴参 の如 く、 科挙 に合格 し て官僚 にな ったと は いえ、 強力 な パト. の記 述 であ る ので、 十 分 に社会 状況 を 明示し得 た資 料 と いえ よう 。. 久 澗水呑 樵路、 山花酔薬 欄. でき た琴参 にと っては身 をも って知悉 す る こと であ った。 当時 の心 初 授官 題高 冠草堂」 があ る。 象 風景 を垣間見 る作 品 に 「. 勝 紙 縁五斗 米、孤負 一漁竿. 歌う 。 し かし、 陶 淵 明 のよう に退 職す るわけ にも いかず 、 五斗米 の. あ まり にも 下 級 の官 であ る ので、 仕事 への熱 情 が欠如 し てく ると. れ は詩 道 の追 求 であ ったと考え ら れ る。. あ った。 す なわち、 青 年時代 の琴参 にと って熱情 を そそぐ も の、 そ. は多 く の友 人 と の対 話 であ り、沈 思 の果 て に名 詩 が 誕 生 し た時 で. . 田. あ って 「孤 り 一漁竿 を負 わ ん」 と詠 むな ど、無感 動 な 歳 月 を積 み重 ね て いく のであ った。 た だ彼 の胸中 に 一条 の光 を与 え るも の、 そ れ. 山. ため に腰 を折 って宮 仕 えす る琴参 の悲 し みが、 良 く詠出 され て いる 作 品 であ る。. う むり始 めた。 さら に、 琴参 が第 一回目 の西域行 とな る天宝 八年 ま. た時 であ り、 安禄 山 が苑 陽節度 使 を兼 ねた年 でも あ る。 翌年八月 に は、楊 太真 が貴 妃 に冊立 され、 そ の 一族 が官爵 を授 けら れ恩 賜を こ. 七四七) 頃 にな る と、 琴参 の名も 長 安 の人士 の中 で少 天宝 七載 ( し づ つではあ る が知 ら れるよう にな った。 のち、 唐 代 の文 人杜確 は. 三 「 胡箱歌. 琴参 が進士 に及第 し た年、す な わち 天宝 三年 は、杜甫 が李 白 と会 っ. で の間 は、 楊氏 一族 の豪 貴 と騎 慢 が極 まり始 め た時 節 と合 致す る。. 『 琴嘉 州詩序 』の中 で 「一篇 、筆 を絶 つごと に、す な わち人 々伝 え写. 送顔真 卿使赴河順」 に ついて. 陳鴻 の 「 長恨伝」 は、 こ の間 の社会 を次 のよう に描写 し て いる。. す 。 間 里 の土 庶、 戎夷蛮 狛 と いえども、 訓 諏吟書 せざ る はな し」 と.

(6) . 唐朝辺塞詩の研究. 述 べ て い る が 、 こ の時 期 が そ の端 緒 と 言 え よ う 。. か つて白楽 天 の親友 元根 は 『 白氏長慶集』 の序 文 で 「二十年間 、 禁 省 ・観寺 ・郵 候 の謄 壁 の上、書 せざ る無 く王 公 ・妾婦 ・牛竜 馬走 の口、道 はざ る無 し」と述 べた が、琴参 の評 に記 され た 「 戎夷蛮 額」 と の空間的 な広 がり に及 ばな い。 券参 の名を名 実 とも に高 くし た のは、 河西 に赴く顔真卿を送 る た めに作 った贈別 詩 「 胡 茄歌 送顔 真卿使 赴河瞳」 であ る。. 宴 で 歌 った 作 品 で あ る 。. 、から唐口 、 にかけ て、 西域 一帯 に流行 し たも の悲 し い音 胡箱 は漢 代 代. 色 を出す 異民族 の木 管楽 器 であ る。 はじ めは葺 の葉 を巻 いて吹 いて. ( 3). いた が、 や がて改良 が加え られ竹 や木 でも作 られ るよう にな った。. 私 はまず 詩題 に注 目 し た い。 中 野美 代 子 「券参 の塞外 詩 ーーそ の 発 想 の 一類 型」 で は 『こ の詩 題 の形 式 は送 別 の歌 に多 く 用 いら れ. 詩 を 発想 し た動機 、す な わち送別 と いう 詩作 の状況 をし めす サブ ・. 「ーー 歌 ( 奉 ) 送 11 」 の か た ち を と る 。 か か る 場 合 、 「:::歌 」 が あ く ま で も 主 題 で あ って 、 「ー ー送 :::」と いう の は 、 そ の主 題 よ る. 君不聞、胡箱声最悲. タ イ ト ル で し か な い。』 と 述 べ て い る 。. は極 め て清新な イ メー ジ の発露 であ ったと推察 さ れ る。 のち、 北 庭. こう し た類 型 の詩 題 は、 琴参 の独創 ではな いにし ろ、 彼 にと って. 紫髭 緑眼 胡 人吹、. 吹之 一曲猶未了 愁殺楼蘭征成児. 胡 人向 月 吹胡茄. 昆器山南月欲斜. 「天山雪歌. 「白 雪 歌. 「 輪 台 歌. 送蔵 治帰 京」. 送 武判 官 帰京 」. 奉 送封 大 夫出師 西征」. 都 護府 に向う 時 な ど は、 次 のよう な作 品を読 ん で いる。. 胡箱怨今将送君. 「火山雲 歌. 送別」 送外 甥藷 正帰京」. 涼秋八月漸関道 北風吹断天山草. 秦山遥望廟山雲. 「 秦 拳 歌. があ る。 さら に琴参 の詩集 を調査 し たと ころ 「 0 0 歌送 1I L と題. 「 走 馬 川行 奉 送出 師 西征」 「 熱 海 行 送雀侍御還京」. ま た、 こう し た歌 行体 と同 じ系譜 に属 す る作 品とし て、. 辺城夜夜多愁夢 向月胡茄誰喜聞 顔真 卿 は ( 七 〇九ー 七 八五)顔 体字 の創始者 とし ても名高 い書家 であ り、唐 朝 四代 の皇 帝 に仕え た名 臣 であ る。 安禄 山 の反乱 の時、 義 兵 を率 いて抵抗 し た こと でも知ら れ る。 敗北 の続く官 軍 にお いて、 この詩 は、 彼 が河 西瞳右軍 試覆屯交 兵使 とし て、 河 西 ( 甘粛省 武 威) と廟右 ( 青 海省楽 都) に出 発す る に際 し、 友 人 であ る琴参 が送別 の. 一七.

(7) . 征馬長思青海上. 「 敷 水 歌 送費漸 入京 」. 葡 萄美 酒夜光 杯. 胡箱夜聴随山頭 「 青 門 歌 送東 台張 判官」 欲飲 琵琶馬上催. し た作 品 は次 の如 く であ る。. 「 梁 園 歌 送河南 王 説 判官 」. 古来征 戦幾 人回. 酔臥沙場君莫笑. 「函 谷 関 歌. 送 ー::」 と の歌 行体を 用 いて の送別詩 は、 唐代. 送劉評 事 使関 西」. 琴参 の 「 00歌. 秋 天職 野行 人絶. の詩 人 た ち の詩 題 を 見 た 時 、 き わ め て 特 色 あ る 趣 向 で あ る 。 た と え. 馬 首東来 知 是誰. 白草 原頭望京師. 張志 和 )・ 漁 父歌」( ば「 00歌 」の場 合 は、「石魚 湖上酔 歌Lo元結 )・「 「 涼 李 白)・「 美 人流 頭歌 」 ( 聞 歌」 ( 李商 隠)・「子夜 呉歌」 ( 李賀)・「 張 子容)等 々、数多 く 見 る こと が でき る。 ま た 「送 :::」に 州歌」 ( 00歌 送 ーー 」と の詩 題 は、 ついては無 数 の作 品 があ る。し かし、「. こ の詩 が作 ら れ た時 、 琴参 は長 安 の都 にお いて、下級官吏 とし て. 明君河 上望龍 堆. 北 海 陰 風動 地来. 黄 河水流無 尽時. 本参 の送別詩 が はしりを なす も のと いえよう。 そ の先 駆 とな った作. 久. 田. 勝 品 が 「胡 茄 歌. 送 顔 真 卿 使 赴 河 随 」 で あ る こ と を 考 え る と 、 そ の文. 山. 奉 職し て いた。 言う な ら ば、 西域 を 詠 んだ こ の送別 の詩 は、 ま だ見. 掴 骸 尽 是長 城 卒. 学史 的意義 は大 き いも のがあ る。. ぬ中央 ア ジア の風物を想 像 し て詠 ん だ のであ る。 そ の他 、臨 場 感 あ. 日暮 沙場飛 作灰. 白雲 上白 間 黄 黄河遠上 雲間. ふれ る筆 致 で歌 いあげ た唐 朝辺 塞詩 の 一角 は、 西域 に 一度 も 足を 踏 み 入 れ た こ と の な い詩 人 た ち に よ って 占 め ら れ て い る 。 詩 人 の優 れ. た英 智 が、異域 の風物 や駐留 兵士 の心情 を鋭く想 察 し得 た のであ る。. 先笛何須怨楊柳. 一片孤城方初山 朔風吹葉雁門秋. 春光不度玉門関. た とえ ば、. 万里畑塵昏成楼. 出塞行 (. 涼州詞 (. 常 建). 王 昌齢). 王翰). 涼州歌 張子容) (. ( 塞 下曲. 一八.

(8) . . . 唐朝辺塞詩の研究. 涼州詞 王之換) ( 辺塞 詩 の名 作 の多 く は、 西域 を直接踏査 し た こと のな い詩 人 たち によ って誕生し た。帰 還兵 士 から の伝聞 と、 西域 から 長安 に移 り住 んだ胡人 の言動 を 基盤 に成 立し て いる。零参 ・王維 ・高適 な ど、 実 際 に西域 に足を踏 み入れ、 現地 で詠 んだ作 品群 もあ る が、 辺塞詩 に 占 め る割 合 は少な い。 こ の 「 胡箱歌」も、 こ の時 点 では いま だ見 ぬ 空 想 の世 界、 虚構 の中 より 誕生 し た作 品 であ る。 野淫俊 敬 「 琴参 の辺塞詩 に ついて の覚書 」では、 「 琴参 の辺塞行 は. 一、だせ.. ヤ な 鱈三 豊. ‘”. -. ′. - .. . 一幅種 」に. . . . ー. ・ ≧ +-. . . . 喜謬濫. ” 」 ト‐ ヒ . 歯-. ず. 一九. 惹城 故 . 」二 ▼. . ■-. \\ 」 -. 五載 に始 ま った」 とし て 「天宝 七載 の秋 には最初 の塞外 生 活 を 終え て長安 に戻 って いた」 と述 べて いる。 し かし、 私 は この説 には反対 であ る。 天宝 三載 に進 士 に合格 し、 や っと三十歳 にし て仕官 でき た のであ る。官 界 に入 るま で の十年余 に渡 る労 苦を 経 て手 に入れ た職 務、 それ が右内 率 府丘脅日 参 軍 であ る。 『 大唐 六典 』によ れば、 勲階 ・ 考 課 ・禄 俸な どを掌 るも ので、 西域出張 な どあり得 るはず がな い。 棄 官し な い限 り、 天宝 五載 から 七載 ま で の二年間 を、在籍 のまま旅 行す る こと は不 可能 であ る。 まし てや、仕 官 し て二年し か経過し て. .) 穿 こ ▲ 三 ;豊 . .蝋 -」. . --. いな い時 期 にお いて であ る。 唐代 は漢代 に劣 ら ぬ西域経営 を実施 させ、 ト ルファ ンには安 西都. 樽藷縄認識き 1ご茅 毎 、 L 札 .・ を ., 認国・i ÷ 一 r ・′ き; 響こ 夏 三 ミ蟻懸樋鱗鴨鰭盛諺 孝 重 L i き蔓 ミ 圏題 ‐ すも * ぼ 撃勲 饗捲 ニ ニ ニ 三 ; 「 益 . - 〆 一 心 ; : .- む 二 - ぷ岬. --ド ー一 一- -ふ 一 交河故城. -. 護 府 (のち輪 台ま で進 出) が設置され、 そ の北 のチ ムサ ルには北庭 都護府 が置 かれ た。 さら に唐 の勢 力 は康国 ( サ マルカ ンド)やタ シ ュ 4) {. ;′・ \ 〆. 凄ー. ・・ 鴨トー -.. 宇曙ぎ.. ー- 一. ー. y. .-. (トルファン)( 199 0年8月 筆者撮影). 磯. 泰~ -デ一 ′ : . L . 一 二\ 」 !;三 等三 ; 轡暇彊≦:℃; 、 . ゞ--ヤ ニメ も 」 r ・ 豪雪這 { - 言耳 溝 ー う - -. ′. ケ ント ( 石国 ) 方 面 にま で及 んだ。 唐 の長安城 には西域 の文化 のみならず 、 胡 人 が多 住 み『 長安 志』 く 巻 七 によ れ ば、 西域 人 のため の宗教寺院も 建 立され 「 波 斯寺 二、 胡 天嗣四」 の記 録 を見 る こと が でき る。 シ ルク ロード の文物 ・宗 教 ・ 風俗、 さら には胡 人 の存在 は詩材 の拡大を も たらし、多 く の詩 人 に. t ; … ニ ・メ ードギ 繊 密 影き欝藷 『li 『溺綴 纏寡歯ゞ “.

(9) . . 山 田 勝 久. のよう に、 出 征兵 士を思う 妻 の立場 を思 いや って歌 った作 品。 送顔真 卿使赴 河随」は、③ に属 し た作 品 であ る。. 子夜 呉歌」 胡 人 や、 帰 還兵士 の伝聞 をも と に詠 ん だも の。④ 李 白 の「. 作 品。② 帰国 後、 辺塞 で の体 験を 回想 し て作 った作 品。③ 都 に住 む. ら楼 蘭 へと推 移 され た媒 介 は何 かと言 え ば、 それ は彼 の脳裏 に流れ 楼 蘭」 は、実 る 「 胡箱 の声」 であ る。 た だ、詩中 で詠 まれ て いる 「 際 の楼 蘭 ではな い。. であ る。 眼前 の送別 の宴 から、詩情 は西域 へと飛 期す る が、 長安 か. 次の 「 之 を吹 き て 一曲 猶 お未 だ了らざ る に、愁 殺す 楼 蘭 征戊 未 了」にポ イ ント があ る。 胡箱 の哀音 のあ ま り の深 の児」の句 は、 「 さ に、 一曲 す ら聞 き 終 わらな いう ち に悲 愁 の情 が こみ上 げ てく る の. 二○. 三十 四歳 の時 、長 安 に於 て友 人 の顔 真 卿 への送別 の宴 にお いて、 西. 疏 勤) に達す る天山南路 と呼ば れ る ルー ト で 通過 し て カ シ ュガ ル (. 新 鮮 な感 懐 を与 え た こと であ ろう 。. 域 の地名を 駆使 し つつ独創 性あ ふれ る構想 で詠 ん だ作 品 であ る。 次 に 「胡箱歌」 を分析 し、 そ の文学 性 を探 って みよう 。 「 君 聞 かず や と倒 置法 の句法 を 用 いて歌 い出し て いる が、 作詩 」 君見ず や」 と同じく、 こ 将進 酒」 の 「 の技法 から言 って、李 白 の 「 う し た詠出 はよ ほど自信 がな いと歌 え な いす べり出 し であ る。 へた. あ る。. 琴参 の 「 胡箱歌. 唐朝 辺塞 詩 は大 きく 四分類 され る。① 直 接現地 で取材 し、 詠 ん だ. をす ると詩情 が息 切れ状態 とな り継続 し なく な ってしまう 。 な お、. 且 末)・ニヤ ( 精 絶 )・ホー タ に点 在す る オ アシ ス、 チ ェルチ ェン (. 四世紀 に入 ると、 ロブ ノー ルに注 いで いた水路 が南 に移 り、 湖水 は水枯 れ の様 相 を呈 し、 町 はし だ いに衰 微 し て い った。東 晋 の法 顕. をくり 返し、楼 蘭も ま たそれ によ って数奇 な運命 にも てあ そ ば れ た。. スであ った。 そ れ故 に、 こ の地 の帰趨 を めぐ って多 く の民族 が争奪. ど の コー スを 通 る にせよ楼 蘭 は、通 過 せねばな ら ぬ重 要 な オ アシ. 沙車) にぬけ る道 であ る。 ン ( 千問 )・ヤ ルカ ンド (. 西域 南道 と呼 ばれ る道 は、楼 蘭 から 西南 に進 み、艶 器 山脈 の北 側. 亀 薮 )を クチ ャ ( 煮者 )・ 山山脈 の南麓 のオア シ ス、 カラ シ ャー ル (. 高 昌) に出 て、 天 から、道 は二 つに分 かれ る。 一つはト ルフ ァ ン (. 西行十 五 日 にし て到着 す る ロブ ノー ル西北 岸 の町 であ る。 こ の楼蘭. 敦 燈郊 外 の玉 門関 か陽関 を 経 て、 楼 蘭 は シ ルク ロー ド 咽喉 の地 で、. 君」 は、読者 でも不定 の相手 でも なく、 今 ま さ に旅 立 この場 合 の 「 5) ( 胡箱歌』 に つ つ顔真 卿を指す こと は、 松枝 茂 夫 「ふた た び琴参 の 『 君不聞』 考」 で述 べて いるが、私も この説 に従 いて ー 1『 君不 見』 『 い た い。. 次の 「 胡箱 の声 の 最 も悲 し き を から 終 わりま では、 現地 の様 L 紫 馨、 子を想 察 し た叙 述 とな って いる。胡箱 の音 と いう 聴覚 の美 は、「 緑 眼 の胡 人吹く」 と、 視覚 の美 へと急 転 回す る。 こう し た琴参 の発 想 は、彼 の文学 の特色 であ り、 作 品 の随 所 に散 見 でき る。 例 えば、 次 の作 品 は全 く同 じ詠出 の手法 を 用 いて いる。. いる。 人 口 一万五 千 人前 後 のオア シ スに、 四千 人 の僧 が住 ん で いた. が、三九 九 年 に この地を通 った時 には、国 王 は仏法 を信奉 し ており、 法顕伝』 に記 し て 四千 人 の僧 があ り、す べて小乗 仏教 であ ったと 『. こと は、 住 民 の生 活 に いかに大き な負 担を強 いてき た こと か、 想像. す る にあ ま りあ る。 この四千 と いう 数 字 がど こま で信頼 でき る か疑. 汝不聞 秦事声最苦 秦事歌 送外甥粛正帰京) (. 五色纏弦十三柱.

(10) . 唐朝辺塞詩の研究. 義 は残 る が、非生産的 な階層 であ る僧侶 が、 法 顕 の目 から見 て異常 な ほど多 数 いたことを 示 し て いた こと は疑 いな い。 六四五年、 玄奨 が こ の町を 通 過し た時 「 城郭 はあ れ ど、 人煙 はな 、す で 町 し ( 大唐 西域記)と述 べて いるよ れ廃 櫨 と に に は う 放 棄 さ 」 な って いた。 琴参 が 「 胡 箱 の歌 」を詠 んだ のは、 天宝 七載 ( 七四八) 年 であ る ので、 玄奨 より約 百年 の歳 月 が経過 し て いる。 唐代 では、 風化 土堆 群 の中 に仏 塔 の残 骸 と家 屋 の棟木 が、 孤影 憤然 と姿をあ ら わし、 た だ、 西域 へ通 過す るため の 一つの ルート とな って いるだけ で あ った 。. こ のよう な楼蘭 の状況 であ る のに、何故 に作者 は 「 楼蘭、征成 の 児」 と詠 ん だ のか。 まし てや顔 真卿 は楼蘭 ま で いく のではなく、甘 粛省 の西部 方 面ま でであ る。琴参 にと って、詩 中 で詠 んだ楼蘭 は、 往 古、中央 アジア のタリ ム盆 地 の東 部、清 例な水 を た たえ た ロブ ノー ルの北 西 に美 しく栄 え た古都 への、時 空 を超 え た憧慢 ではな か った であ ろう か。高 昌 や亀 弦、 ま たは安 西や敦 燈 を詠 ん だ のでは、あ ま り にも現 実的す ぎ て、 文学的 なイ メー ジが圧縮 され てし まう のであ る。 彼 の脳裏 に浮 かん だ詩想 には 「 楼 蘭」 以外 には考 えられな か っ た のであ る。 言う なら ば、 琴参 にと って の楼 蘭 は、 シ ルク ロー ド全 般 を さし て いると考え ら れ、 西域 を代表す る詩語 とし て使 用し たと 思 われ る。 こう し た用法 は こ の作 品 に限 った こと でなく、唐詩 の世 界 によく見 る こと が でき る。例 え ば、 次 の詩 に歌 われ た楼 蘭も 西域 の意 味 であ る。. 青海長雲暗雪山 孤城遥望玉門関 黄沙百戦穿金甲. .激務. . 聾慰謝. ニー. 玉門関から楼蘭への道には、 今も万里の長城の土塁が残っている。( 19 1年 筆者撮影) 9.

(11) . . 山 田 勝 久. 不破楼蘭終不還 従軍行 王昌齢) (. 箆 喬 山南 同 じ こと が次 の句 にも 言え る。 「. ニニ. 月 斜 めな ら んと欲 し、. 斜 ・箱」 ( 下平 六麻) の韻 字 を 胡 人月 に向 か いて胡茄 を 吹く」 と、 「. 配 し、 北 方 から 一転 し て、 タクラ マカ ン砂漠 の南 方 の毘 器 山脈 に浮. 南 方」← 「 克 器」← 「 月 の地名 の配置 よ りも、 はるか に優 れ て いる。 「 光」、 そし て 「 月 に向 か いて胡茄 を吹く」紫誓 緑 眼 の胡人 の姿 は、静 寂 の美 意 識 そ のも のであ る。視覚 と聴覚 は完 全 に 一体 とな り、 夢 幻. 戦 城南 」 か ぶ月光 を詠 む と は、 何 と非 凡な詩才 であ ろう か。李 白 の「. 夏 回族 自 治区 固原 の東 南 にあ った関 所 で、西北 辺境 の要 衝 であ った。. の世 界 は時 間 と空 間 を超 え て、 読者 の脳裏 に美 しく展開す る。 異国. 次の「 涼 秋 八 月蔵 関 の道 、 北 風吹 き断 つ天山 の草 」と の句 によ り、 券参 の送別 の歌 は、 天宝 七載 八月 に詠 ま れ た こと が分 かる。 顔 真 卿 謝関」は、現 在 の寧 は蒲関 の道 を通 って河騰 に出 発 し た のであ る。 「 長安 から 西域 に向 かう には、 当時 三本 の道 があ った が、顔真 卿 は最. 情 緒 に つつま れ たと ころ の、詩 画 一如 の世 界 が具現す る のであ る。. へと引 きも どされ る。 し かし、 それ は現 実 のあ りき たり の別離 の悲. 線 綱 之路 ) の ロ マンは、惜 別 の情 と重 な りあ って、 再 び都 西域 (. 聞 く こと にな る であ ろう、哀 切な 胡続 の音 で見 送 ると いう のであ る。. 瞳 山 が雲 が望 ま れ る。」と、 や が て顔 真卿 が行 き着 く オア シ スの町 で. いま 私 はあ な たを 見 送 ろう とし て いる。 ここ秦 山 の地 から、 は るか. 「胡箱 怨 みて将 に君を 送ら ん とす。秦 山 遥 か に望 む瞳 山 の雲」、 現代語 訳す れ ば 「 月 に向 か って吹 く と ころ の胡錆 の悲 し い調 べで、. も北よ り の薫 関 コー スを と った のであ る。 こ の道 も唐 詩 の随所 に詠 ま れ て いる 。. 蝉鳴桑 樹間 、 八月蕗 関 道 、. ( 塞下曲 王昌齢) 漸関逢候騎、都諸在燕然 ( 使至塞上 王維). し さ ではな い。 作者 の詩想 は、藷関 を出 て天山 に飛 び、 さら に流 沙. を 越え て党衛 へと巡り、 そし て今 ま た中 原 へと帰 還し た詩情 は、 シ. と こ ろ で 、 長 安 の 町 で 見 送 って いる の に 、 「秦 山 」を 引 用 し た 理 由. ルク ロー ド の香 りを漂 わ せるも の へと変 化 し て いる。. く なり、ステ ップ 路 に横 たわ る天山山 脈 には北 風 が吹き流 れ始 め る。. は何 であ ろう か。 秦 山 とは、長安 の南部 に連 る秦 嶺 山脈 の こと で、. シ ルク ロー ド の秋 は内 地よりも早 く、 八月 末 から九月 にかけ ては 涼 秋」 の趣 が深 日中 は高温 であ る が、 朝 夕 は こ の詩 にあ るよう に 「 この二節 におけ る詩語 の配 置 は、 文学 作 品 と は思 わ れな い厳密 さ に. 左 遷至藍 韓愈 が詠 んだ「 雲 は秦嶺 に横 たわり て、 家 何 く にか在 る」 (. 名 の頻出 と いう 流 れを受け、 掛け 詞的 な用法 を 設定 し て長安 の別送. し て詠 まなけ れ ばな ら な い詩 的展開 でも な い。 挙参 の世 界 では、地. 秦 嶺」 と同じ山脈を さす 。 西北 の蔚関 に旅 立 つの 関 示姪 孫 湘) の 「 に、 南方 の名所 であ る秦 山 の設定 は現実的 ではな い。 地名 を隠 噛 に. 諦関 」 の語 は、 同 北風」 を受 け、 長安北 方 に位 置す る 「 定 によ り 「 じく北方 に横 たわ る 「天山」 と呼応す る。 数 千キ ロ離 れ て いる こと. よ って構 成 され て いる。 実体 験以前 の作 と は いえ、 西域 の地理感 覚 涼秋 ( 八月)」 と いう季 節 の設 の正確 さと鋭敏 さ が良 く でて いる。 「. が問題 でな く、 琴参 にと って方向 性 が重要 であ った。.

(12) . 唐朝辺塞詩の研究. であ る が、 私 は この詩を作 った宴席 に胡人 が出席 し て いた こと は、. たとす る注 釈書 も あ る。当時 の世相 から い って十分考 え ら れ る発想. 最 後 の二句 、「 辺 城 夜夜 愁夢多 し、月 に向 か いて胡 茄 誰 か聞 くを喜 ば ん」 は、 塞外 で の生活 の厳 し さ と、 西域 に悠久 の歴史 と ロ マンを馳 せ た詩句 であ る。す な わち 「 喜」 は、単 な るよ ろ こび では なく、 孤愁 の美 意 識 と悲哀 の旋律 に支 えられ た 「 喜」 であ る。 な お、 こ の送 別 の宴席 に、 実際 に胡 人 が同席 し て胡箱 を 吹 いて い. の西域行は、天宝十載 ( 七五 一)の初 秋 で終止 符 を打 つ。 長安 に帰 っ. 所 は役 人も不 在 で、昼も夜も出 入り は自由 であ った。 琴参 の第 一回. て いな か った理由 は、 楼 蘭 が滅亡 し て いたから であ る。 そ のた め関. な お、 沙州敦 煙 から陽関 ルート の道 は、 こ の頃 ほとんど使 用 さ れ. る こと が でき る。. 無 理な想定 であ ると思う。塞外 の地 に赴 く友 を送 る時、 親交 以外 の. た琴参 は、 友 人 や知 人を通 し て仕官 を 試 みた がう まく いかな か った。. 会場 を連 想 さ せた のであ る。す な わち、 「 秦 山 を遥 か に望 む都」 と、 「 遥 か に望 む随 山 の雪ご の両意 を 込め たも のと解 釈 でき る。. 人物 、 ま し てや 異国 の楽 人を呼 ぶと は考 え にく い。あ く ま でも 純 粋. 政 界 は、 玄宗 がます ます楊 貴妃 の愛 に溺 れ て政治を執 らず 、 翌 十 一. 載 、宰相 の李 林甫 が死去す ると、 楊国 忠 が代 わ って宰 相 とな り、 四. ーー蔦書 ーー銀 山峡 ー1鉄 門関 ーー蹟 西 ーー安 西. 以上 、 「 胡 茄歌」を見 てきた が、 ただ単 に多 く の地名 が奔放 に出 て. ( 6). ーー沙 州 ー1玉 門 関 ーー火 山 ーー西 州 ーー交 州 城 ー1銀 山 積. 長安 ー1威 陽 ー1瞳 州 ーー清州 ーー燕支 山 ーー祁連 山 ーー粛 州. な心 情 をも って、 送別 の情 を詠出 し て いる のであ る。 く るよう に思 わ れ がち であ る が、 決し てそう ではな い。 周 到な準 備. 天宝十三載 ( 七五四)四十歳 の時、安西四鎮節度使 の封常清 が入. つからな い現 状 であ った。. 十余 使 を兼 ね ると いう あ りさま であ った。 こ のよう な官 界 であ った ので、賢聖 を求 め る風潮 はなく、 琴参 の栄達 ど ころ か、仕官 す ら 見. をも って幻 想 と現 実を調和 さ せ つつ歌 いあ げ た のであ る。沈徳 潜 が 『 唐 詩 別 裁』で 「 惜 別 は言外 に在 り」と評 し て いる如く、 胡 茄 の音 色 に作者 の悲 し みを 凝縮 さ せた のであ る。. 翰海 軍使 を兼任す る こと にな っ 朝 し、 三月 には北庭 都護 ・ 伊 西節度 ・. た。 何 と か頼 み こん で、琴参 は再 び都護 府 に勤 務 す る こと にな った が、 封常清 にと っては進士 に及第 し た人物 が幕 下 に いればそ れ に こ. 琴参が最初に西域に赴 いたのは、天宝八載 ( 七四九)三十五歳 の. し た。 そ の行 程 は同じく残 され た地名 によ って推 察す ると、 次 の如. 五月 に封常 清 が出 発し たあ と、 そ の後方 の遠征 メ ンバー とし て出 発. 察御 史 となり、 安西 ・北庭節度 判官 とし て北庭 に赴く こと にな り、. 四 琴参 の西域行. 時 であ る。 安 西 四鎖節度 使 の高仙 芝 が、 そ の年 の始 めに入朝 し てき た。 微官 で生 涯 を 終え るよ り は、 西域 に出 向 し て手柄 を た てて栄達. く とな る。. し た ことはな く、 自ら の権 威 の誇 示 にも な る。 琴参 は大 理評事 ・監. の道 を 歩もう とし た のか、 彼 は右威衛録事 参軍 とし て節度 使 の幕 下 に入 って安 西 に出 発し た。 そ の旅 程 は残 され た作 品 によ って推 測す. 二三.

(13) . 久 勝 田 山. 長 安 ー1騰 山 ーー臨 桃 ー1金 城 ー1涼 州 ーー賀 延 徽 ーー北 庭 ーー輪台 琴参 が出征 し た当時 の西域 諸国 は、あ る時 は唐軍 に帰属 し、 ま た あ る時 は大食 や吐番 に従う と い った不安 定な 政治 状態 であ った。 二 回 の遠 征 にあ って、 彼 の作 品中 よ り西域 の様 子を 垣間 見 て みよう。. 卑 終日見征戦、連年間鼓謙 早発蔦書懐終南別業) ( 夜静天粛憐、鬼果爽道芳 武威送劉単判官赴安西行営、便呈高開府) ( 単 千己在金 山西、成 楼 西望煙塵 黒. 歌 奉ー送 輪‐台ロ ( 、封大夫出師西征). な ったさまを、 琴参 は次 のよう に描写 し て いる。. 発臨挑将赴北庭留別) (. 春風不曽到、漢使亦来稀. 二四. 七 七五) 頃 に成 立し た敦 燈 こう し た唐朝 の衰 退 は、大暦 十 一年 ( 出 土 の文学作 品 にも詠 ま れ て いる。. 不見中華使、糊糊起虜塵. ( 沙州敦煙二十詠 望京門詠). 中 央 政界 は乱れ、 胡族 の拾 頭す る中 では、戦 功 を た て ても それ に. よ って長 安 にも ど さ れ、 栄 達 が保 障 さ れ る こと は ほ と ん ど望 めな か った。 次 の詩句 は こう し た事情 を よく物語 って いる作 品 であ る。. 朝廷軽戦功、十年砥 一命 万里如瓢蓬、容資老胡塵. 琴参 の前 後 五年 に及 ぶ西域 で の生 活 は、苛 酷 な 風土 に耐 えな がら も緊 張感 と新 鮮 な感 動 に輝 いて いた時 期 であ った。 彼 の五十 六年 の. 北庭喧宗学士道別) (. え て いた こと が分 か る。 こう し た緊 迫 し た政治 状況 は、 琴参 の作 品. 生 涯 から見 た時 、 こ の五 年間 が最も充 実 し て いた期間 とも いえ る。. ( 胡歌). 関西老将能苦戦、七十行兵俳未休. 七五 二) のタラ ス の随所 に散見 でき る のであ る。 とく に天宝十載 (. た だ、第 一節 で論述し た ごとく、民族意 識 の高 ま り によ る シ ルク ロー. 琴参 の こう し た詩句 によ り、 玄宗 朝 の西域 経営 は困難 な局 面 を迎. で の敗北 後 は、 蕃 将 で唐 軍 に叛 くも のも多 く な り、 唐 軍 の前 線 はし. ド の分断、 僧侶 の腐敗 と民衆 への抑 圧 によ る住 民 の無 気 力 化 な ど、 も微 妙な影 を投 げ かけ て いる。. 西域 文 明が退歩す る時 期 に突 入し よう とし て いた こと は、 琴参詩 に. だ いに東 方 へと後退 し て い った。 七 五五) 唐 の西域 経営 を い っそう 苦 しく さ せた のは、 天宝十 四載 ( に おき た安 禄 山 の乱 であ る。 中 央 と辺 境 と の連 絡 が と だ え が ち に.

(14) . 初. 蔽. 愁見流沙北、天西海 一隅 輪台即事) ( 白髪悲明鏡、青春換倣裏 武威春暮、宇文判官西使還己到晋昌) ( 辺 境 で の失意 の寂し さを こめ て、尊 き 自分 の青春 を、朽 ち果 てそ 七五七) 四十 三歳 う な皮 衣 と換え たと苦 笑す る作者 は、 至徳 二年 ( の晩春 、無豊 冠の姿 で鳳 綱 にあ る粛宗 の行在 所 に入 った のであ る。 後 世、琴参 の辺塞詩 に対 し て の論評 は、『 唐 才 子伝』・『 彦 周詩話 』・ 『 河獄 英霊 集』・『 槍 浪詩話』・『 石州詩 話』・『 北 江詩話』・『 漁洋詩話 』 な ど があ る が、 いず れも唐詩 の中 にあ って異彩 を放 ち 独歩 し た点を 高 く評 価 し て いる。 唐詩別 裁集』 の 一節、 す な わち 「 最後 に、 沈徳 潜 の 『 参詩 能 く 奇語 を作 す。 尤 も 辺塞 に長ず 」 を引 き、 ひとまず 筆 を止 め る。. 注. 。 ろ}. 進士試雑文両首、識文律者、然後令試策」とあり、『 唐会要』巻七五に 「 の 『 文 唐衆科之目、進士為大賞、而人亦最 献通考』巻 二十九 に、進士科に ついて 「 尚盛、歳貢常不減八九百人、繕紳錐位極人臣而不由進士者、終不為美」とあ の 唐代 では、科挙 の進士に合格したも ののう ち、約半数 が進士出身者 によ って 占 められて いる。唐代 の宰相 は四四六名 であり、そ のうち進士 は二 一三名 で 唐代文学 の研究』 一六三 ペー ジ 笠間書院 昭和五 あ る。詳しくは、拙著 『 十九年刊を参照。 『 日本中国学会報』第十 一集 一九六〇年刊 日本中国学会刊。 ◎. る。. ④ 当時 の長安 の様 子は、唐 の牽述 の 『 両京新記』・ 北宋 の宋敏求 の 『 長安志』・ 南宋 の程大昌 の 『 薙録』・元 の李好文 の 『 長安志図』を参照。 ◎ 『 人文学報』第三六集所収 一九六三年刊 東京都立大学。 ◎ ペリオ文書 第 二七四八号 「 沙州敦煙二十詠」 陽関成詠 には 「 遥嘘廃闘下、 昼夜復誰局」とあり、もはや陽関 が関所 の役目をして いな いことを詠 んで い. 補注. 本論文中 に於 て引用した琴参 のテキ ストは、四部液刊本 『 琴嘉州詩七巻』を 全唐詩』巻 一九八ー二〇〇ま での 「 使用し、 『 挙参」によ ってこれを補 った。. 教授 釧路分校) (. 二五.

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