• 検索結果がありません。

三輪山をめぐる信仰の重層性について -所謂<王朝交替論>にふれて-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "三輪山をめぐる信仰の重層性について -所謂<王朝交替論>にふれて-"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

三輪山をめぐる信仰の重層性について

所謂Λ王朝交替論VにふれてI      一  三輪山はまた神の降臨する場所を意味するミモロ=山とも称し、その 西麓に位置する大神神社の神体として往古より信仰されて来たことはあ まりに有名である。  ところで、この三輪山の神は﹃延喜式﹄神名帳に﹁大神大物主神社 絲誤9 。﹂︵大和国・城上郡︶と見える如ぺ、一般に大物主神と考え られている。﹃延喜式﹄を引くまでもなく、神武記に﹁美和之大物主 神﹂と見えるのを始めとして、著名な︿三輪山伝説▽︵崇神記︶及び︿ 箸墓伝説▽︵崇神紀一〇年九月︶等、三輪山と大物主神との関係を示す所 伝は多い。しかし、これらによりつつ三輪山をめぐる信仰と大物主神と を固定的に把握し、信仰・祭祀の在りようをその枠の中で捉えようとす るとき、以下に見る如く一神格として破綻を来たしているかに見える相 対立・矛盾する側面を内部に含み込んでいる事実に直面せざるを得な い。  大物主神の最も顕著な性格としては、まず崇り神である点が挙げられ よう。崇神記によれば、   此天皇之御世、役病多起、人民為・査。爾天皇愁歎而、坐ご神淋一之   夜、大物主大神、顕y於二御夢一日、是者我之御心。故、以二意富多多   泥古一而、令y祭二我御前一者、神気不’起、国安平。 一二三       久  田     泉   `        ︵人文学部国語学国文学研究室︶ と、同朝に於ける疫綴の椙狐を伝え、その原因が大物主神の﹁御心﹂ と認識されていたことか知られる。崇神紀もほぼ同様であり、同神の  ﹁意﹂がその原因であった︵七年二月︶。  一方、その崇り神大物主が祭られる三輪山について、次の如き注意す べき記事か存するのを見逃す訳にはいかない。   蝦夷数千、 寇二於辺境一。由A是、召‘一其魁帥綾糟等一ヽ四J劈大詔   日、惟、個蝦夷者、大足彦天皇之世、合y殺者斬、応い原者赦。今朕   遵二彼前例一、欲・誄二元悪一。於‘是、綾糟等惶然恐惶、乃下二泊瀬中   流‘、面二三諸岳一、畝‘水而盟日、臣等蝦夷、自y今以後、子々孫々   謐艶々用二清明心一、事二奉天閥一。臣等若違い盟者、天地諸神及   天皇霊、絶二滅臣種一矣。︵敏連紀一〇年閏二月︶ ここで注目されるのは、蝦夷の魁帥綾糟の服従の﹁盟﹂が三輪山︵= 三諸岳︶を対象とし、その内容から三輪山が﹁天地諸神﹂’及び﹁天皇霊﹂ と密接に関連するとみられる点である。三輪山がミモロ山である以上  ﹁天地諸神﹂と関係するのは当然だが、特に注意したいのは﹁天皇霊﹂ との関連である。﹁天皇霊﹂はかつて折口信夫が論じた如ぐ、それを身 体に付着せしめることによって初めて天皇たり得ると信じられた王権の 宗教的根源としての霊力と理解されるが、この所伝によれば三輪山は王 権と密接に結びつくものと考えられる。  皇室と三輪山との特殊な関係は、更に次の記事によっても窺われる。

(2)

一二四 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学   天皇勅二豊城命・活目尊一日、汝等二子、慈愛共脊。不y知、掲為・   嗣。各宜y夢。朕以‘夢占之。二皇子、於1是、被y命、浄詠而祈霖。各   得y夢也。会明、兄豊城命以二夢辞一奏二于天皇‘日、自登二御諸山一向い   東、而八廻弄槍、八廻撃刀。弟活目尊以二夢辞‘奏言、自登二御諸山   之嶺‘、縄組二四方‘、逐こ食・粟雀一。則天皇相夢、謂二二子一日、兄則   一片向’東。当治二東国‘。弟是悉臨二四方一。宜継二朕位‘。︵崇神紀四   八年正月︶        ”‘       `’ 三輪山は、こと’では豊城・活眉二皇子の夢占の場として見えるの’だが、。 それが皇位継承に関わる所伝であってみれば、如何に皇室にとって重要 な‘聖山として認識されていたかが知られよう。岡田精司氏はぐこの両者 の特殊な関係を三輸山がかつて王権の宗教的根源たる﹁天皇霊﹂。の範る 聖なる山として信仰されていたことによると推定されてい亀が、右の二 資料の解釈に限り同じたいと思う。  さて、かかる三輪山をめぐる信仰を、例えば﹁三輪山の神﹂といった 神格として一元的に捉えようとする場合には、王権の宗教的根源として 機能する山の神が、同時に崇りをなして王権を危機に直面せしめるとい う矛盾の説明を迫られることになろう。  この点に関する従来の諸説は、何らかの形で﹁三輪山の神﹂の祭祀権 の移動を仮説することによって説明しようとするのか一般的である。即 ち、旧勢力から祭祀権とともに支配権をも獲得した新勢力に対し、旧勢 力の祭神か崇ったと理解しようとするのである。特に近時歴史学上注目 されている、崇神・垂仁王朝から応神・仁徳王朝への所謂︿王朝交替論▽ では、これと直結して歴史的に把握しようとする傾向にある。  確かにこうした解釈に従えば、大物主神か王権に対して﹁帰順首渠﹂ という側面をもつこと︵神代紀下、九段一書第二︶をも含めて、密接に関 連しながら同時に緊張を孕んだ﹁三輪山の神﹂と皇室との関係か納得の ゆくものとなる。しかし、三輪山をめぐる信仰・祭祀についてのかかる 歴史的把握の有効性が、これによって証明された訳ではない。同時に次 の如き問題も内在させているのである。   大物主神の崇りとして蔓延した崇神朝の疫縞は、記紀ともに同神の要 求に従いその子大田田根子︵崇神紀七年二月。記は四世孫とする。猶、記は人 名を﹁意富多多泥古﹂と表記するか、以下全て紀によるものとする︶に祀られ ることによって終焙したと伝えるが、との大田田根子は周知の如く三輪 氏の始祖である。今、記紀により確認しでおく。       ’        ー         j  一   一  r、     ・ F   ゛所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也︲。︲︵崇神妃八弗一二月︶ うが、ここでは大物主神と一義的に関わるのは三輪氏であることか確 認できればよい。さて、三輪山が王権と緊密な関係にある以上、大物 主神の崇りは当然皇族により祀り鎮められるべき筈であるにも拘らず、 実際には孝霊皇女倭述々日百襲姫と崇神天皇による祭祀は﹁然猶於y事 無‘験﹂︵崇神紀七年二月︶と見える如く事実上失敗に終わっている。と すれば、新王朝に移った筈の三輪山祭祀が、何故に三輪氏により行なわ れるのかか当然問われることになろう。また、三輪氏の血統は大田田根 子を通じて大物主神に遡源し得るか、その三輪氏の祖神か王権の宗教的 根源として機能することも問題となる。  この点に関して、一般的には三輪氏が何らかの形で旧勢力に関与する か或いは血脈を引くものと捉え︵具体的根拠は示されない︶、旧勢力にゆ かりの三輪氏の祭祀を得て初めて鎮めることができたという筋書きを読 み取ろうとする。しかしその場合、﹁三輪山の神﹂が崇る前提として仮

(3)

説された祭祀権の移動とは具体的にどう関わって来るのか。△政▽が ︿祭▽であづた古代政治形態の一般論に従うならば、祭祀のみが旧態通 り三輪氏に任され、統治権のみが皇室︵新勢力︶に移動したと考えるの は不自然と言わねばなるまい。神聖王権と世俗王権の分化という汎世界 的傾向を以ってこの例を説明し得ぬことは言うまでもない。外ならぬ皇 室が記紀によって神聖王権たることを主張しているのである。  対立・矛盾する要素を内包しつつ成立している三輪山の信仰・祭祀 を、︿王朝交替論▽を媒介して一元的に把握しようとする従来の方法に は、猶検討の余地か残されていると言えよう。かかる錯綜した三輪山の 信仰を一神格と規定する。場合には、どうしてもその枠の中に捉え切れぬ 要素を認めざるを得ない。その矛盾の克服として記紀の文脈には記され ていない祭祀権の移動を設定するよりも︵歴史上の問題として王朝交替の存 否を問うのではない。記紀−特に崇神朝の大物主神の崇りの把握、即ち読みの問 題としてである︶、むしろ従来アプリオリに信用されて来た﹁三輪山の信 仰=大物主神﹂という公式を一度問い直してみる必要かあるのではある まいか。例えば、雄略紀七年七月条には。   朕欲y見二三諸岳神之形一。鸞瓦惣論艶艶苓・ と見えて、三輪山︵三諸岳︶ の神を大物主神とする説のみでぱなく菟田 墨坂神とする説を並記しているが、これは三輪山と大物主神との関係が 必ずしも古来より固定的に成立していた訳ではないことを物語ってい る。吉井巌氏等により大物主という神名の成立の比較的新しいことが論 じられているのも、右の推定を裏付けるものと言えよう。  以下、本稿では三輪山をめぐる信仰を無媒介に大物主神に結びつけて 理解しようとする従来の固定観念を払拭したところから始発して、崇神 記紀を中心に三輪山信仰の考察を試みたい。猶、本稿は錯綜する信仰全 般の解明を目指したものではなく、その一端として最も明確な祭祀主体 と認められる皇室及び三輪氏に焦点を当てて、三輪山祭祀の一側面を考 一二五 三輪山をめぐる信仰の重層性について︵久田︶ 察しようとするものであることを、初めに確認しておきたい。     二  三輪山祭祀の主体をどう見るかについては、津田左右吉氏以来三輪山       ss      ︵Q︶との名称の一致から単に三輪氏と考えられて来たか、前述の如く岡田氏 により皇室と三輪山との緊密な関係か指摘されて以来、問題は少くとも 三輪氏及び皇室の二者を視野に含めておく必要が生じて来た。以下、祭 祀主体を問題としつつ両者の信仰・祭祀の対象・性格を見ることから始 めたい。。  まず、明確に皇室に関わるとみられる所伝は、前節で触れた崇神紀の 豊城・活目二皇子の夢占及び敏達紀の蝦夷綾糟の誓約の記事か挙げられ るが、ここで注意を要するのはこの二所伝による限り従来考えられて来 たような﹁三輪山の神﹂といったものは形象されていない点である。前 者は夢占の場としての三輪山であり、また後者に見られる[天地諸神]  ﹁天皇霊﹂も三輪山を通してその背後に認識されているのであって三輪 山固有の神を意味するのではない。三輪山は、ここでは基本的にミモロ 山、即ち祭場として把握されるのであり、ここから短絡的に﹁三輪山の 神﹂といった観念は抽出し得ない。見かけの祭祀対象は三輪山であろう が、実際に関わりをもつのはその背後に認識される﹁天地諸神﹂﹁天皇 霊﹂である。三輪山と﹁天皇霊﹂とは確かに緊密に関連するが、あくま で場としての結合である。皇室と三輪山との関係は、基本的に﹁天皇 霊﹂を媒介として成立しているのであって、その意味で皇室を祭祀主体 とする場合の対象を無媒介に﹁三輪山の神﹂と把握するのには問題があ ろう。  また﹁天皇霊﹂を神と捉えることにより﹁三輪山の神﹂を想定しよう とするのも無理であろう。﹁天皇霊﹂は前述の如く王権の宗教的基盤を

(4)

一二六 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 支えるものとして機能するが、同機能をもつものとして形象された天照 大神と比較した場合、遥かに異っている。天照大神か皇祖神として血統 論理を前面に押し出しつつ歴史的に王権の絶対性を保証する機能をもつ のに対し、﹁天皇霊﹂はそれを付着することなしには王権の成立はあり 得ぬものと認識されており、その有効性は血統論理とは別の次元に属す る。即ち、王権か血統的に継承されたにしても、﹁天皇霊﹂の付着は各 天皇個‘々に必要とされるのであり、神として形象された天照大神が一貫 して王権そのも。のを保証するのとは相違するのである。天照大神を通し’ ての王権の主張は、根源である天照が神であること者その子孫であると する血統論理にあった。しかし、﹁天皇霊﹂は﹁天皇霊﹂そのものの超∼ 絶性の強調によって王権が保証されることは力く、’それを身に付着する 呪的行為に重点かあるのである。この点で﹁天皇霊﹂は霊力で。あフて神 として形象されるには至ってはいないと言えよう。  確かに﹁三輪山の神﹂或いはコニ諸山の神﹂は、記紀に見出だされ る。例えば神代記紀の大国主神の国造りの際に、その協力者として海上 より示現した神は、﹁坐二御諸山上‘神﹂ ︵記︶ ﹁大三輪神﹂ ︷紀、八段︸ 1 第六︶と記されているが、紀によれば   此神之子、即甘茂君等大三輪君等、又姫路扁五十鈴姫命。︵神代紀上。   八段一書第六︶ と、三輪、賀茂二氏との関係が強調されて、皇室には直接結びついては ゆかない。勿論、姫路幅五十鈴姫は周知の如く神武皇后となる人物であ り、何らかの皇室との関係を見ることは可能である。所謂神武伝説が大 嘗祭を色濃く反映しつつ成立していることは既に定説化しているか、西 郷信綱氏の論じられた如くド海武の聖婚は大嘗祭即ち即位儀礼と切り離 して理解する訳にはゆくま悩それ故、この聖婚説話を通じて﹁三輪山 の神﹂に﹁天皇霊﹂との関連を認めようとする解釈が提出されて来る ら︶西郷氏の指摘された如く大嘗祭を反映するとみられる聖婚説話の基 本構造は、ニニギの命と大山祇神の女木花開耶姫、 ホホデミの命と海神 玉姫等の関係に見る如く、天つ神の子と国つ神の女との結合にあ 媒介に﹁三輪山の神﹂と﹁天皇霊﹂とを結ぶのは無理であろう。  五十鈴姫の父﹁大三輪神﹂は国つ神として形象されているのであり、王  権に関わる﹁天皇霊﹂をそこに見る訳にはいかないのである。   右の如く、皇室と三輪山との関係は﹁天皇霊﹂を媒介として成立し、  その信仰祭祀の対象は基本的に’﹁天皇霊﹂にあると考えられる。勿論、 ﹃皇室四祭祀の対象か﹁天皇霊﹂。のみに限定されていたことを意味するの  、 ・ 、        a   ︸   一` を J  j ではないJ古墳の出現に裏付けられざ共同体から階層分化じた古代の支    i   1   9、   。 ″`         ’    “゛     r1  ’`配者達が、‘司祭者としての側面を強調しつつ権力を集中させて行った如 白く、皇室もまた同様の道を辿っだのであり︷その祭祀対象心多様であっ″ 7たに違いない。しかし、三輪山をめぐる信仰を見る限り、皇室とI・義的  に関連するのは﹁天皇霊﹂と考えられるのである。同時に、﹁天皇霊﹂と   ﹁三輪山の神﹂とは習合体として捉えるべきものではなく、明確に区別  されるべきであろう。   皇室と三輪山との関係を右の如く把握しつつ、次に皇室と﹁三輪山の  神﹂との関わりを問題としてゆきたい。    ﹁三輪山の神﹂と大物主神との関係が必ずしも固定的でなかったこと  は前節に触れた如くだが、記紀の所伝の多くは既に同一視していた形跡  が濃厚であり、それぞれの性格を分離し再構成することは極めて困難で  ある。しかも、記紀により﹁三輪山の神﹂という神格の中に押し込めら  れた様々な性格を分析するならば、・それが単に二神の複合に留まるので  はないことか予想される。今、その代表的性格を列挙すれば、以下の如  くである。 まず、疫玖の原因としての つことは先に触れたが、 しの崇り神及び三輪氏の祖神としての側面をも その正身が蛇体であるという所伝︵崇神紀一〇 年九月、雄略紀七年七月︶に基づき、夙に農耕生活を基盤とした﹁地霊﹂

(5)

 ﹁水神﹂ ﹁雷神﹂といった性格が指摘されている。更に、﹁倭成す大物 主﹂と歌われていることから︵崇神紀八年こ一月、一五番歌︶、国土創造神 としての性格もみら馳∼また天智朝の近江遷都に際しての著名な額田王 の歌︵﹁万葉集﹂巻一、一七・一八番歌︶に見られる三輪山は、大和の象徴 として歌い込められており、大和国の精神的紐帯としての国魂的性格が 窺われることも無視できない。  これらの多面的な性格を一元的に捉えることは無理であり、信仰L祭 祀主体を異にする幾多の神々が三輪山を媒介として、多年を経て重層し た神格とみるべきである。それは三輪山の基本的性格かミモロ山である ことに起因すると言えよう。  皇室と﹁三輪山の神﹂という問題を設定するとき、必然的にかかる重 層的神格との関係か問われることになるのだが、この重層構造が解明さ れぬ限り具体的在りようは見えて来まい。しかし、記紀の所伝からは  ﹁三輪山の神﹂を重層以前の形へ還元して捉え直すことは不可能と言う べき状況にある。そこで、ここでは比較的明瞭な性格をもつとみられる 崇神記紀の大物主神に焦点を絞って、問題の一端の解明を試みたい。以 下、節を改めて、皇室と大物主神祭祀の問題から三輪氏の同神祭祀へと 進めたい。     三  皇室による三輪山祭祀の一義的対象か﹁天皇霊﹂であり、それは所謂  ﹁三輪山の神﹂とは区別されるべきことは既に見て来たが、勿論その祭 祀は﹁天皇霊﹂に限られる訳ではなく、他の対象にも及んでいる。崇神 朝の疫癒犯狐に際しても、その原因たる大物主神の祭祀が皇室の手でな されたとみられる形跡を見出すことができる。まず箸墓伝説を取り上げ よう。 一二七 三輪山をめぐる信仰の重層性について︵久田︶   是後、倭述々日百襲姫命、為二大物主神之妻‘。然其神常垂不’見、   而夜来矣。倭述々姫命語・夫日、君常畳不y見者、分明不‘得y視二其   尊顔一。願暫留之。明且仰欲y観二美麗之威儀一。大神対日、言理灼   然。吾明旦入二汝櫛笥一面居。願無・驚二吾形‘。爰倭追々姫命、心裏   密異之。待・明以見二櫛笥‘、遂有二美麗小蛇一。其長大如二衣紐一。則   驚之叫啼。時大神有恥、忽化二人形一。謂二其妻‘日、汝不・忍令y羞y   吾。吾還令y羞‘汝。働践二太虚一、登二千御諸山一。爰倭述々姫命仰   見ヽ而悔之急居・皿匹七心云二 則箸撞゛陰而莞・乃葬二於大市‘・故   時人号二其墓‘、謂二箸墓一也。︵崇神紀一〇年九月︶ 神婚という形態が、交霊現象を表現する説話上の常套手段であってみれ 剛これは正しく皇族による大物主神祭祀の例とし得る。岡田氏は、こ    おほみわ       ︷20︸  ・こから大神神社への斎王奉仕の可能性を推定されているか、この説話か らそうした読みへと展開させる訳にはいかないのではないか。大物主神 と倭述々日百襲姫との関係は、既に崇神紀七年二月条に於ける同神の憑 依によって生じているか、先述の如くこの巫女的女性と崇神天皇とによ る祭祀は不成功に終わっているのである。これは皇室と大物主神祭祀と が一義的に結びつかないことを示している。説話の結末が倭述々日百襲 姫の死となっていることも無視する訳にはゆくまい。ここに語られる対 象は、崇神朝に流行した疫癒の原因と認識された大物主神であり、当然 王権の宗教的根源としての﹁天皇霊﹂とは混同すべきではない。  右に見る如く、皇室の祭祀が崇り神大物主とは直接結びつかないのに 対し、三輪氏の場合はその祖先である大田田根子に祀られることによっ て初めて鎮まったと伝えられる如く、最初から大物主神祭祀と結びつい て語られているのである。これによれば、三輪氏の祭祀は元来崇り神大 物主を対象としたものではなかったか。   ﹃風土記﹄に見える在地の崇り神祭祀の位相を通じて、右の推定を確 かめてみたい。逸文をも含めて在地の崇り神に関する記事は次表の如く

(6)

-一 一八 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 10 9 8 7 6  ・1 ・ へ5. 4, .3 2 1 番号 筑 後 尾 張 肥 前 肥 前 肥 前 播 ・磨 播’ 磨 播 磨 常 陸 常 陸 風 土 記 筑 後 国 名 八 巻釈 五日 所本 引紀 心 丹 羽 郡 石 級 郷 /へ、 巻釈 十日 所本 引紀 心

IR

l

j1

│ノ

ノレ

訃 UI ゛田景レ

行 方 郡 所 在 危 猛 神 阿 麻 乃 弥 加 都 比 女 荒 神 荒 神 荒 神

之.

喜、

立 達 男 命 夜 刀 神 神 名 交 談 害 品 津 別 皇 子 の 失 語 ヨ§l 啓 交 通 妨 害

交 通 妨 害/  | ; r ’ IJr | 戸 \

1−

疾 病 開 墾 の 妨 害 崇 り の, 内 容 筑 紫 君 等 之 祖 甕 依 姫

県 主 粗 大 荒 田 心 祭 祀 記 事 な し w 筑 前 国I 宗 像 郡 人 珂 是 古 一河.I W べ づ 1\ '人-・ .1 訃 1 払 ノノ ’衣 諮 予 焚 刀 ] :暮 高 之k 箭 括 氏 麻 多 智 司 祭 者 である。  右に見る如く、具体的崇りの内容は区々であるが、ほぽ共通して認め られるのは、崇り神を鎮める条件として祭祀が必要とされていることで ある。右表の剛に祭祀記事が見当らない点が気になるか、ここでは景行 天皇の﹁巡狩﹂ の時に﹁此神和平﹂と伝えられる如く、同天皇の神性 か崇り神の神威を超えるものとする認識が説話の前面に押し出されでお ∼ G り、具体的祭祀が天皇の神性に置き換えられたものと考えられる。従っ て、神の崇りに対しては基本的に祭祀が不可欠と思惟されていたものと みることに抵触するものではない。  次に祀る者に視点を移そう。崇り神が畏怖の対象として民衆に関わる ことよりすれば、その司祭者の問題は如何に解決されたであろうか。  まず第一に、族長による祭祀を挙げることかできる。右表の叫は、古

(7)

代的神観念の変質を捉える例としてよく引用されるが、今問題としたい のは、ここに登場する箭括氏麻多智が民衆の先頭に立って蛇神﹁夜刀 神﹂を﹁打殺駈逐﹂つたと伝えられる如く、古い神々の呪縛から解き放 たれつつある過程に生きながらも、やはり旧来のやり方に従って﹁設・ 社﹂けて﹁敬祭﹂らざるを得ない心性を残存させている点である。とこ ろで、この司祭者としての麻多智が、ナチュリズムの系譜を引く蛇神を ただひたすら畏怖する民衆の一人として語られているのではないことは 注意されて良い。彼は﹁甲鎧﹂ ﹁怯﹂の所有に裏付けられ・た族長として 登場しているのであり、﹁夜刀神﹂祭祀もその資格としてなされたもの と認められる。原始共同体から族長層出現の背景の一つには祭祀権の集 中が想定されるが、必然的にそれは崇り神にも及ばざるを得なかったも のと言えよう。族長と見られる人物を司祭者とする例は㈲にも見られ、 一つの類型とみることができる。  第二に、朝廷による派遣者を司祭とする例がある。㈲の片岡大連、㈲ の額田部連久等々は何れも在地住民の要請に従って朝廷より派遣された 人物だが、かかる司祭者による崇り神祭祀は、朝廷の権威及び在地住民 と中央官僚との間に於ける神観の相違を基底として成立しているとみら れる。前述田の後文に孝徳朝の人物として見える壬生達麿にとって﹁夜 刀神﹂は、もはや﹁風化﹂に従わぬ存在に過ぎず、﹁目見雑物、魚虫之 類、無・所二憚惺/■隨盗打殺﹂と役民に命ずる揚言に端的に示されてい る如く、古代的神観念は皇化の理念を背景として彼の中で既に崩壊して いたが、これと同様のことか片岡大連・額田部連久等々にも当て嵌まる と言えよう。即ち、在地住民にとっては畏怖すべき崇り神も、彼等には もはや恐るべき存在たり得なかったのであり、どうした人物の祭祀によ って民衆の恐怖心が除かれたものと考えられる。  第三に、外来移住者による例も存在する。朗朗がそれであるが、㈲が  ﹁衣縫﹂及び﹁漢人﹂の祖先、㈲が﹁漢人﹂と何れも渡来者とみられる  一二九 三輪山をめぐる信仰の重層性について︵久田︶ 点が注意される。説話はそれぞれ外来者の祭祀によって崇りが鎮まった と伝えるが、これは在地住民にとっては畏怖すべき崇り神の神域も、在 地の固有信仰とは無縁な外来者にとっては恐るるに足らぬものだったこ とを意味するのではあるまいか。この二例の場合も、やはり第二の型と 同様神観のギャップをもとに成立していると考えられる。  第四に。ト占による司祭者の選定かおる。㈲に﹁于i時、トニ求崇由一、 兆云、令三筑前国宗像郡人珂是古参一吾社一。若合y願者、不y起二荒心こ、 ㈲に﹁帝トニ人筧y神者一、日置部等祖建岡君卜食﹂、Iに﹁于い時、筑紫 君肥君等占之、令二筑紫君等之祖甕依姫、為・祝祭一之﹂と見える如く、 何れも司祭者が卜占により選定されている点は極めて注目される。没個 性応古代農村共同体に於いては、守り神祭祀が元来共同参加であった 如く、崇り神祭祀もまた基本的に平等に参加すべき体質を具有していた と考えられる。しかし、畏怖すべき崇り神祭祀を自ら進んで行なう者が あろう筈はない。呪的族長或いは専門神職出現以前に於いては、必然的 に卜占という手段によらざるを得ない。崇り神祭祀の原初的形態を想定 するならば、当然第四の類型に求めることができよう。  右の如く﹃風土記﹄に於ける崇り神祭祀の在りようをおさえるなら ば、大田田根子による大物主神祭祀は正に始源的崇り神祭祀を踏襲して いるものとして明確に掴み直すことができる。崇神記紀では大田田根子 の選定は、卜占ではなく崇神天皇の夢に現われた大物主神の神託によっ ているが、その夢は単な・る夢ではない。﹁沫浴斎戒、潔二浄殿内一﹂ ︵崇 神紀七年こ月︶という祭式的手続きを踏み、﹁坐二神淋‘之夜﹂︵崇神記︶の 夢であって、天皇のカリスマ性の中に卜占という手股が吸収されたもの とみることができるのである。  また、大田田根子が所謂大和の三輪ではなく、崇神記によれば﹁河内 之美努村﹂、崇神紀によれば﹁茅淳賜陶邑﹂︵七年八月︶と多少所伝に 相違はあるか、何れにしても和泉国分離以前の凡河内地方で発見されて

(8)

一三〇 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 いる問題も、大田田根子による大物主神祭祀を崇り神祭祀と捉えること によって解決し得ると思われる。三輪氏を旧王朝︵三輪山麓の巨大古墳群を 背景に﹁三輪王朝﹂とも称される︶に関係するものとみ、大物主神の崇りを ︿王朝交替論∇によって説明しようとする場合、三輪氏の祖先か新王朝  ︵応神・仁徳陵等の存在から﹁河内王朝﹂﹁難波王朝﹂等と称される︶の発祥地 と考えられている河内地方に発見されるというのは不可解である。この 点について従来は、本宗と支流という概念を持ち込むごと。によって説明 されて来た惣’必ずしじ有効であるとは言﹃い難いoかかる解釈の証提ど     5”’‘  “ %%  I xi  `I  ’I  II af f︱ ゜¥ −     iなっている句は、三輪山と三輪氏と01名称.の一致により両者の関係を古        .   IS       加      I来からのものと固定的に.捉え.る常識であるが、そうした常識に対する疑 義か最近提出されているか.らであ 勺    ︿  三輪氏の始祖出自譚として︿三輪山伝説▽︵崇神記︶があることは有 名だが、夜毎美人の許に訪れ来る不明神格を知る方法として、神格の 衣の欄に針で刺した麻の糸を辿るという特異なモチーフがこの説話を特 徴づけていることも周知の如くである。ところで、この美人の居住地 は、陶邑と有機的関連をもつとみられる﹁陶津耳﹂ ︵崇神紀七年八月条も 同じ︶を父とし、前述の如く大田田根子もそこで発見されていることか ら陶邑と考えられるが、説話に従えば不明神格を辿る糸はそこより生駒 ・葛城山系を越えて、遥か三輪山に至ったとされている。この驚くべき 糸の長さについては、従来説話上の問題として等閑視されて来たが、益 田勝実氏はこの矛盾に着目しつつ、この説話か元来大物主神とは無縁 に、陶邑近傍に於ける始祖出自譚として三輪氏の祖先達によって語られ たものであると推定されたか、大田田根子の発見地の問題と合わせて極 めて卓説と言うべきであろう。  大田田根子は、単に河内地方に発見されたのではない。﹁陶邑﹂とい う地名の背後には五世紀に始まる陶器生産が予想されるのであ咲、当然 三輪氏もこれと無縁ではあるまい。三輪氏の氏名が何に淵源するかにつ いては未だ定説はないか、一般には﹃万葉集﹄に﹁神酒﹂をミワと訓む 例があり︵三二二九番︶、またミワに掛る枕詞が﹁味酒﹂であることか ら﹁神酒﹂と考えられている。これに従えば、当然容器としての陶器に も関係してこよう。  三輪氏と河内地方との密接な関連は、更に次の如き事実からも窺い得 る。﹃和名抄﹄︵元和古活字那波追圓木による︶によりミワの地名を見る とヽ大れ国城上郡に。﹁大神鱗皿﹂よい見えるのは当敗Iあ喰言大和国内 には所謂三輪の地一箇所のみであるのに対し、和泉国大鳥郡に 昌都﹂い摂津国乱m郡.に実柑皿﹂司同有馬郡にぐ大神﹂迪 ﹁上伸  所謂 摂河泉の地域にご刀の地名か集中しているのが知られる。氏族の発展段 階の第一歩か、まず近隣地域を勢力下に統合し’て行ぐという一般的有り 方よりすれば、大和の磯城を本拠と仮定した場合、一足跳びに河内地方 へ進出したとは考え難い。むしろ河内地方のミワの地名の集中こそ、氏 族発展の経緯を反映していると言えるのではあるまいか。特に和泉国大 1 郡には式内社﹁陶荒田神社﹂が存し、近世にはその一帯を﹁陶器荘上 村﹂ ︵﹁五畿内志﹂︶と称していたのである。  斯く見て来れば、三輪氏の本貫はむしろ陶邑と考えられるのであり、 しかも五世紀に始まる陶器の 世紀に比定される崇神・垂仁 生産に関連をもつとみられる三輪氏が、四 王朝に関係していたとは考え難い。  それよりも、大田田根子発見に関する問題は、大物主祭祀を崇り神祭 祀と把握することによって矛盾なく理解し得るのではあるまいか。即 ち、﹃風土記﹄の崇り神祭祀の在りようによれば、司祭者は必ずしも同 一地域の者に限られる必要はないのであり︵閣閣凶聞剛聞︶、むしろト占 によって偶然に選定される場合か多いのである。勿論、大田田根子が大 物主神との血統関係を主張していることから、祭祀権の歴史的主張か見 られるが、話型の上では明らかに崇り神祭祀の範鴎に属することは疑い 得ないのである。斯くして選定された大田田根子の祀りを得て大物主神

(9)

は鎮まり、疫支が終燎したのである。皇室による﹁天皇霊﹂祭祀と区別 されるべきことは言うまでもあるまい。  大物主神の名義は、一般にモノノケのモノと関連づけて説明される が、恐らくこの基本線は崩れまい。﹃万葉集﹄に﹁鬼﹂︷子をモノと訓 む例が存することも、そうした解釈を裏付ける︵五四七番︶。﹁大物主 神﹂と記された全ての所伝をこうした方向で一元的に捉えることはその 重層性から無理であろうか、現在問題としている崇神記紀に関する限 り、疫宵の原因たる崇り神に相応しい名と言えよう。ここからも、三輪 氏の祭祀が初めから崇り神大物主を対象とするものであったことが理解 されるのである。  更に付言すれば、三輪山と大物主神との関係も、三輪氏による祭祀を 契機として生じたものではなかったか。先述の如く、両者の関係は必ず しも固定的ではなかったのであり、﹁三輪山の神﹂へ重層して行った時 期は、そう古くはなかったと想像されるのである。     四  右に見る如く、三輪氏による祭祀は大物主神を対象とし、基本的に巣 り神祭祀として把握し得るのであるが、更に別の角度か石も焦点を当て てみたい。  三輪氏に関わる大神神社の重要な祭事の一つに鎮花祭があることはよ く知られている。﹃令義解﹄巻二に         `謂、’大神狭井二祭也。在二春花飛散之時‘、疫神分散   季春 鎮花祭而行’餌・為‘“其鎮逼一ヽ必右ぎ此祭瓦故日゛`鎮花﹁  ﹃令集解﹄巻七上には﹃義解﹄と同文を載せ、更に続けて   釈云、大神狭井二処祭。大神者、祝部請二受神祇官幣帛一祭之。   狭井者、大神之島御霊也。此祭者、花散之時、神共散而行‘疫   已。為・止‘此疫一祭  之也。古慰死別。 と見えて、これらによれば、’その目的は疫疵鎮遥にあり、正に崇神記紀 一三一 三輪山をめぐる信仰の重層性について︵久田︶ の所伝に符合する。これに基づJ﹃青木紀元氏はかつて崇神朝の大物主 神の崇りを鎮花祭起源譚として把握されたが、基本的方向は支持し得る のではあるまいか。しかし、斯く捉えるためには、次の如き問題を含ん でいる。  第一に、鎮花祭の語義と﹃義解﹄等の説明との間に組甑が存する点で ある。﹁鎮火祭﹂ ﹁鎮魂祭﹂の例に照せば、鎮花祭は﹁花を鎮める祭﹂ となろうか、花を鎮めることか疫疵鎮過に繋がるというのは不自然であ る。﹃義解﹄﹃集解﹄は、春花の飛散る時に疫神か分散七て疵を行なう と説くが、﹁鎮花﹂からそうした意味を読み取ることはできまい。それ ! よりも鎮花祭本来の意味としては、広く民間行事として行なわれる﹁け ちん︵花鎮・華鎬︶﹂ との比較から西田長男・肥後和男両氏が帰納ざれ た如く、稲の花が結実以前に散ってしまわぬよう、その原因と思惟され る邪霊を払う豊穣祭であった可能性が強いのである。ここから、鎮花祭 を所謂崇神・垂仁王朝の豊穣祭に還元して捉えようとする見解がある が、原義が豊穣祭であったことを以って崇神・垂仁王朝のそれへと短絡 するのは、論理的に飛躍があるのではあるまいか。第一に、現行の大神 ・狭井二社による鎮花祭か旧王朝に淵源するという保証はないのであ り、第二に﹃義解﹄等によれば、少なくとも平安朝初期に於ける鎮花祭 の目的は疫貨鎮遥と公的に認識されていたのであって、原義から疫痍鎮 過という特殊な祭事への変遷過程が論証されぬ限り、いきなり崇神・垂 仁王朝を問題とする訳にはゆくまい。  しかし、ここで問題としたいのは崇神・垂仁王朝に於ける鎮花祭の存 否ではない。そうした特殊な意義上の変化が何に起因するか、というこ とである。  鎮花祭か﹁けちん﹂と呼ばれ、原義を変えずに豊穣予祝祭として民間 に広く残存することは既述したが、視点を変えれば意義上に変化を来た したのは大神・狭井二社による鎮花祭に於いてのみだったことを示す。

(10)

一三二 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学 とすれば、当然その原因は二社に求められるべきであろう。。即ち、疫癌 鎮過と大神・狭井二社との間には密接な関連か認識されていたのであ り、鎮花祭が公的祭事と認められていたことよりすれば、二社の主張も そこにあったと言わねばなるまい。鎮花祭の原義とは別のレベルで、二 社による同祭の目的は﹃義解﹄等に見る如く捉えるべきであろう。  第二に、‘﹃延喜式﹄’に記載された神祭料の比較から、鎮花祭。の中心が 大神神社であるよりも、むしろ狭井神社にあると指摘されている点を問 題どなる04狭井神社は大神神社の北約三〇〇メートル、に位置し・ヽ‘ ﹃集 解﹄﹃にょれば﹁狭井者、大神之危御1 ﹂と伝えられて二応大神神社と  無縁では犀い。しかし、﹃大倭神社註進状﹄︵一一六七年、大倭直歳繁︶︲ にょれば、       ”    j・      グ 延喜式日、’三月鎮花祭こ座。 直等 也。 大脊社﹁座。。り懲大神祝部者大三翰君 狭井社一座・︵rj 等也J狭井祝部大倭 と、狭井神社の祝部は大倭直とされ、更に   伝聞、狭井神者、大己貴命之荒魂大国魂神。即当社別社也。 と、狭井神社は大倭神社の﹁別社﹂であると主張されている。これに基 づき、大倭直氏の祭祀は元来狭井社に始まり、﹁三輪山の神﹂を対象と したものであったとする見解かおるが、しかし﹃大倭神社註進状﹄の資 料としての信憑性には極めて疑問が存し、無媒介に論拠とはなし得ない のではあるまいか。自社を﹁出雲杵築大社之別宮也﹂とする冒頭の主張 に始まる殆んどの記事は、概ね記紀︵主に紀︶を典拠として書かれたも のであり、問題の狭井神社を別社とする論拠も、垂仁紀二五年三月条の `﹁大倭直祖長尾市宿禰﹂に命じ﹁大倭大神﹂を﹁大市長岡岬﹂に祭らし めたという所伝に基づき。   s ss lix%  一一 lx lix  所謂大市長岡岬、今狭井社地是也。 とする独自の解釈にあったのである。もとより﹃集解﹄の説を全面的に 支持するものではないが、時代的にも遥か後代の﹃註進状﹄の所伝は更 に信頼できないのである。  鎮花祭に於ける大神神社と狭井神社との関係については、神田氏が推 定された如く、大神神社には元来氏族祭としての大神祭が存する故、鎮 花祭という公的な祭事の場を新たに設定する必要が生じた際に、氏族的 背景の薄い狭井神社︵井の神を中核とする︶が選定され、そちらを主とす ることになっ丈のではあるまい句﹃集脈﹄の所伝が何時まで遡源し得 るかという点については慎重にならざるを得ないが、‘少なくとも平安朝 初期に於いて、‘狭井神社が﹁大神之爵御霊﹂と認識されていたごとは確 かで︰あり、従って鎮花.祭を三箇良の祭事どみることを妨げ支ものでぱな ノ いと言えよ与。     /‘      ’’     ぃ・宍     一     結   語  以上、三輪山をめぐって錯綜する信仰の一端を、皇室と三輪氏とに焦 点を当てて考察して来力が、要するに両祭祀主体は従来捉えられて来た

(11)

如く、同一の対象を祭祀して来たのではなかった。皇室の祭祀は多面的 ではあるが、三輪山をめぐって一義的に関連するのは王権の宗教的根源 たる﹁天皇霊﹂であり、それは﹁三輪山の神﹂﹁大物主神﹂とは区別さ れる。一方、三輪氏の祭祀は疫臨と密接に関連する崇り神大物主を対象 としたものであって、﹁天皇霊﹂を祭祀した形跡は見られない。こうし た祭祀主体及び対象を異にする信仰か交錯する原因は、三輪山が神の降 臨するミモロ=山であったことにあると考えられるのである。  猶、付言すれば、崇神・垂仁王朝から応神・仁徳王朝への︿王朝交替 論▽に於いて、崇神記紀の大物主神の崇りが一つの重要な論拠とされて 来たが、記紀の読みに関する限り、論拠となるような文脈は見出だし得 ないのではあるまいか。﹁三輪山の神﹂のもつ矛盾した諸要素は、三輪 山を媒介として異なる数神格︵霊格︶が重層することによって生じたも のと解すべきであり、△王朝交替▽とは別レベルの問題に属すというべ きであろう。歴史学上の問題として︿王朝交替論▽の可否を問今訳では ないことは言うまでもないが、改めて確認しておく。   註 田 上代語辞典編集委員会︵編︶﹁時代別国語大辞典 上代編﹂二九六七年︶。 閲 折口信夫氏﹁大嘗祭の本義﹂ ︵﹁折口信夫全集 第三巻 古代研究︵民俗  学篇2︶﹂所収、一九五五年︶。 閣 岡田精司氏﹁河内大王家の成立﹂ ︵﹁古代王権の祭祀と神話﹂所収、一九  六〇年︶。 倒 岡田精司氏前掲論文︵註即︶、直木孝次郎氏著﹁奈良﹂ ︵一九七一年︶、 一 三谷栄一氏﹁大物主神の性格﹂ ︵﹁日本神話の基盤﹂所収、一九七四年︶等  は崇神・垂仁王朝︵三輪王朝︶から応神・仁徳王朝︵河内王朝・難波王朝︶  への祭祀権の移動を想定し、上田正昭氏著﹁日本の歴史 第二巻 大王の世 芭 る   ○ る話  ︵一九七三年︶は三輪氏から崇神・垂仁王朝へ移動したものと推定す また、吉井巌氏﹁崇神王朝の始祖伝承とその変遷﹂ ︵﹁天皇の系譜と神 二﹂・所収、一九七六年︶は崇神・垂仁王朝から三輪氏への移動を推定す (5) が、崇りについての言及はない。 岡田氏前掲論文︵註圀︶、直木氏前掲書︵註㈲︶。 一三三 三輪山をめぐる信仰の重層性について︵久田︶ 圓 崇神紀七年八月条及び一一月条によれば、市磯長尾市に倭大国魂神をも祀  らしめたことが見えるが、物語は大物主神を中心に展開されており付加的要  素と認められる。猶、崇神記には仝く倭大国魂神は登場していない。 削 青木紀元氏﹁迦毛大御神の性格﹂ ︵﹁日本神話の基礎的研究﹂所収、一九  エハ○年︶によれば、元来一社であつたものが三社に分化したものであると言 闇 岡田氏前掲論文︵註闇︶、三谷氏前掲論文︵註㈲︶では﹁三輪王朝﹂のタ  |ムを用いて、三輪・賀茂二氏による迪合政体を想定するが、大和の東西に  離れ、しかも祭祀対象を異にする二氏を、記紀の氏族系譜のみを根拠として  立論するのは無理ではあるまいか。 聞 崇神紀七年二月条を読む限りでは、祭祀の主体は崇神天皇と考えられる。  しかし、神功皇后と建内宿禰との関係に見られる如く︵仲哀記︶、神のより  ましとしての巫女と審神者とによる祭祀の形態は一般的であり、この例も同  様に考え得る。 I 岡田氏前掲論文︵註即︶、直木氏前掲書、三谷氏前掲論文、上田氏前掲書   ︵何れも註㈲︶。 聞 吉井 巌氏﹁‘﹁ヌシ﹂を名にもつ神々﹂ ︵﹁天皇の系譜と神話二﹂所収、  一九七六年︶、川副武胤氏著﹁日本神話﹂ ︵一九七一年︶。 I 津田左右吉氏著﹁日本古典の研究 上﹂ ︵一九四六年︶。 I 西郷信綱氏著﹁古事記の世界﹂’︵一九六七年︶、同氏﹁神武天皇﹂及び   ﹁大嘗祭の構造﹂ ︵何れも﹁古事記研究﹂所収、一九七三年︶。 ㈲ 岡田氏前掲論文︵註即︶。 ﹃ ㈲ 西郷信綱氏﹁大嘗祭の構造﹂ ︵註㈲参照︶。 I 高木敏雄氏﹁大国主神の神話﹂ ︵﹁日本神話伝説の研究﹂所収、一九四三  年︶。猶、神代紀下第九段一書第二に大物主神と高皇産霊尊の女三穂津姫と  の成婚が見えるのに基づき、三谷氏は大物主神に生産霊的性格を考えられて  いることを付記しておく︵同氏﹁大物主神の性格﹂、註㈲参照︶。 ㈲ この場合の﹁大和﹂は曰本全土をさすとは考え錐い。恐らく、奈良地方を

(12)

一三四 高知大学学術研究報告 第二十八巻 人文科学   れ、在地の崇りの神祭祀伝承とは認められぬ故、表からは除外した。  冊 ﹁風土記﹂撰進当時に於いても、﹁夜刀神﹂が民衆に畏怖されていたこと   は、以下の記事によって知られる。     俗云、謂‘蛇為こ夜刀神︸。其形蛇身頭角。率引免’難時、有二見入一者、     破二滅家門一、子孫不‘継。︵行方郡︶  叫 原田敏明氏著﹁神社﹂ ︵一九六一年︶。  ㈲ 直木孝次郎氏﹁応神王朝論序説﹂ ︵﹁日本古代の氏族と天皇﹂所収、一九   六四年︶、岡田氏前掲論文︵註閣︶など。 へ ・昌∼岡田氏前掲論文︵註即︶’。 芦 溢 田 勝 実 氏 ﹁ モ ノ 神 襲 来 ﹂   ︵ 。 ﹁ 秘 儀 の 島 ﹂ 所 収 、 二 九 七 六 年 ︶ 及 び 吉 井 氏   前 掲 論 文 ︵ 註 ㈲ ︶ ’ 。 ・   ゛             \ ≒   ≒         ’ y ■ g 益 田 氏 前 掲 論 文 ︵ 註 脚 ︶ 。                   ⋮ ⋮ ⋮ ト ’ s   m 山 浩 一 氏 ﹁ 土 器 生 産 ﹂ ︵ 近 藤 旋 部 ・ 藤 沁 長 治 氏 冪 ﹁ 日 本 の 考 古 学   y し   古 墳 時 代 ︵ 下 ︶ ﹂ 所 収 、 一 九 六 六 年 て 田 辺 昭 三 氏 ﹁ 陶 邑 の 変 貌 ﹂   ︵ 坪 井 清 。 足 ・ 岸 俊 男 氏 編 ﹁ 古 代 の 日 本   5   近 畿 ﹂ 所 収 、 ︸ 九 七 〇 年 ︶ 、 ’ ・ 浅 各 年 木 氏   ﹁須恵器生産と陶部の関係﹂ ︵﹁日本古代手工業史の研究﹂所収、︸九七   一年︶など。 叫 ﹁時代別国語大辞典 上代編﹂ ︵註山参照︶。 脚 吉井氏前掲論文︵註㈲︶では、ミワのワを土器製作の際の輪を粘土紐で作  りつつ巻き上げて行く、巻上げ技法のワに淵源すると推定され、積極的に陶  器との関連か考察されている。 剛 高山寺本には﹁於保児和﹂と見える。﹁於保無知﹂は﹁於保無和﹂の誤記  であろう。 匈 同右。 I 吉井氏前掲論文︵註㈲︶、益田氏前掲論文︵註脚︶など。  叫 直木氏前掲論文︵註伽︶、岡田氏前掲論文︵註図︶など。  圀 恐らく、祭器としての須恵器の生産・流通を基盤として中央に進出して行   ったと推定される。  倒 青木紀元氏﹁鎮花祭と三輪の説話﹂ ︵福井大字﹁国語国文学﹂ 一二号、一   九六六年︶。  剛 ﹁花鎮﹂ ﹁華鎮﹂は、三谷氏の言われる如く﹁鎮‘花﹂を一度﹁ハナシヅ   メ﹂と訓み下したものを、和文脈によって﹁花鎮﹂と表記し、更にそれか音   読されたものとみられる︵同氏前掲論文、註㈲︶。猶、西田長男・、肥後和男   氏の研究によれば︵註磯参照︶、民間の﹁けちん﹂及び﹁令義解﹂等に見え   る鎮花祭ともに行事の中心が射礼にありい密接な僕連かあると指摘さ雅てい   るo` ””  ︲” ‘’“   ¨     `       !  一II     II     I 図 西田長男氏﹁鎮花祭T斑﹂ ︵﹁神道史研究﹂ 一五巻二∼四号、﹁九六七  ’≒年﹂、。肥後和男氏著﹁宮座の研究﹂ ︵一九四一年ご。l y  。 パ  い  11      1      I       r 倒 吉井氏前掲論文︵註圃︶○    ^      ’  ・ ’ノ閥士西田氏前掲論文︵註碗︶。神祭料は狭井神社に多く割り当てられている。j  ㈲ ‘ 吉井氏前掲論文︵註㈲︶。  鼎 ﹁和名抄﹂城上郡に大市郷が見えるが、明らかに大神郷とは異なってい ( 4 3 ) る。吉井氏の言われる如く、大神神社に極めて近い狭井神社を﹁大 と見るのは無理であろう︵註㈲︶。猶、﹁五畿内志﹂によれば﹁大市 とあり、明らかに別の場所と考えられる。  青木氏前掲論文︵註脚︶。 ︵昭和五十四年九月二十九日受理︶ ︵昭和五十五年二月二十七日発行︶ i 。

参照

関連したドキュメント

南山学園(南山大学)の元理事・監事で,現 在も複数の学校法人の役員を努める山本勇

少子化と独立行政法人化という二つのうね りが,今,大学に大きな変革を迫ってきてい

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

また,文献 [7] ではGDPの70%を占めるサービス業に おけるIT化を重点的に支援することについて提言して

大学は職能人の育成と知の創成を責務とし ている。即ち,教育と研究が大学の両輪であ

大きな要因として働いていることが見えてくるように思われるので 1はじめに 大江健三郎とテクノロジー

 彼の語る所によると,この商会に入社する時,経歴