婦
人
洋
服
職
人
制
の
展
開
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中
山
千
代
一 安 政 五 ( 一 八 五 入 )年 七 月 二 十 九 目 (六 月 十 九 目) (1 ) に 、 目米 修 好 通 商 条 約 貿 易 章 程 に調 印 し た江 戸 幕 府 は、 入月 十 八 目 ( 七月 十 日 ) に オ ラダ 、 十 九 目 (十 一 日)に ロシ ア、 二 十 六 日 ( 十 八 日)に イギ リ ス 、 十 月 九 目 ( 九 月 三 目) に フラ ン スとも 調 印 した 。 これ ら 五 力国 と の貿 易 は 、神 奈 川 ・ 長 崎 ・箱 館 で、 翌 六年 六月 二十 入 目 ( 一 入五 九 年 五 月 二 十 四 目 ) か ら 開始 さ れ る こと と な つた。 箱 館 ・ 長崎 は通商 条 約 に よ り 、 安 政 四 ( 一 八 五 七 )年 か ら開 港 さ れ て いるが 、 神 奈 川 に は新 しく 港 の 施 設 を 設 け な け れば な ら な い。 し か し幕 府 は東 海 道 に面 し て い る神 奈 川 に外 国 人 が 居留 し て 紛 争 の 起 る のを防 ぐ た め、 そ の 南 の 横 浜 村 に開 港 場 を つ く り は じめ た 。諸 国 の 領 事 は幕 府 の 方 針 に反 対 し たが 、 横 浜 は港 が 深 く 土 地 も 広 く 、 地 形 上 神奈 川 よ り も す ぐ れ て いる ので、 外 国 商 人 た ち は横 浜 に商 館 を 開 いた 。幕 府 は目本 の 商 人 も当 地 に集 め る た め、 六月 開 港 に先 き 立 つ二月 二十 五 日 に 、横 浜 への 出 稼 . 移 住 . 自 由 売 買 を 許 可 した 。 地 元商 人 の ほ か 各 地 の 商 人 が移 つ て 来 て 、 新 し い 町 づ く りが は じ ま る のであ る。 半 漁 半 農 一 〇 一 戸 の 一 寒村 であ つ た横 浜 は 、 慶 応年 間 に 轍 入 五 入○ 戸 、 二〇 、 入 八 〇 人 の 港 町 へ と 変 貌 す る の であ る 。外 人居 留 者 も 万 延 元 ( 一 入六 〇 ) 年 に四 四 名 であ つ た のが 、 慶 応年 中 に は 一 、 コ ニ ○ 名 に 増 加 した (2 ) 。 横 浜 の 欧 米 人 の 生 活 に は、 外 人用 の 食 料 ・ 衣 服 な ど が 必 要 であ る。 開 港 当初 の 横 浜 商 人 に つ いて、 町 会 所 勤 務 篠 原 忠 右 衛 門 が 文 久 二 ( 一 入 六 二) 年 正 月 に筆 録 し た ﹃ 横 浜 町 壱 丁 目 (i 五 ) 拝 借 地 坪 願 済 渡 世 名 前 ﹄ に よ る と、 三 百 九店 のう ち ﹁異 人食 料 ﹂ を取 扱 う 十 八店 、 ﹁ 異 人 衣 服洗 濯 ﹂ 五店 、 ﹁ 異 人 衣 類 仕 裁 洗 濯 ﹂ が 二店 あ る。 ﹁ 異 人 衣 類 仕 裁 洗 濯 ﹂ は、青 木 屋忠 七 と蜂 屋 十助 であ る。 安 政 六 ( 一 八 五 九) 年 三月 五 目 に開 業 の本 丁 一 丁 目青 木 屋忠 七 は、 諸 荷 物 運 送 小 揚 と外 国 人 衣 類 仕 しようかん 裁 洗 張 を 行 な い、 洲 干 町 に 文 久 二 ( 一 入 六 二) 年 十 月 二 日開 業 の蜂 屋 十 助 は、 植 木 ・ 異 人食 料 ・ 青 物 ・ 鳥 獣 の ほか に異 人衣 類 仕 裁 洗 濯 を 扱 つ て い る。 異 人 衣 類 が 男 女 いつ れ の 洋 服 でも 、外 人雇 傭 は ま だ行 な わ れ ず 、 縫 製 技 法 も 習 得 し て いな い時 期 に、 ど のよ う な仕 裁 が 行 わ れ た の で あ ろう か。 青 木 屋 忠 七開 業 以 後 の九 月 二十 三目 ( 一 入 五 九年 十 月 十 入 目) に神 奈 川 に来 航 し た米 国 長 老 教 会 宣 教 医 ヘ ボ ン (冨 匿Φ ゜。○ 霞 けδ (48)婦人洋 服職 人制の展 開 出Φ ℃ ぴ 離 旨 ) の書 簡 に ﹁ 衣 服 は ま つ た く 本 国 から 送 つても ら う ほか あ り ま せ ん 。 日本 で は毛 織 物 が な い し、 洋 服 屋 も 見 ま せ ん ﹂ ( 一 入 五 九 年 十 一 月 二十 二 日 11安 政 六年 十 月 十 八 目) (3 ) と あ り、 青 木 屋忠 七 の 外 国 人衣 類 仕 立 が 行 われ て いな い こと が わ か る。 衣 服 の仕 裁洗 濯 と いう呼 称 は和 服 に行 われ るも の で、 解 い て洗 濯 しな け れ ば な ら な い 和 服 で は 仕 立 も 同 時 に扱 う の であ る。 忠 右 衛 門 筆 録 商 人 、大 通南 側 の甲州 屋忠 右 衛 門 の ﹁ 衣 類 仕 裁 洗 濯 ﹂ は そ の例 証 であ る。青 木 屋 と蜂 屋 の ﹁ 異 人 衣 類 仕 裁 洗 張 (洗 濯 ) ﹂ は こ の 慣 例 的 な表 現 で あ つて、 実 際 は 洋 服 洗 濯 の部 に入 れ る べき も の であ ろう 。 同書 は初 期 横 浜商 人 の 実 態 を知 る こと の でき る貴 重 な 史 料 であ るが 、 こ の二店 を洋 服業 発生 形 態 と見 る こと は でき な い。 目本 人 が 西 洋 婦 人 に 衣 服 を 供 給 す る た め に は 、 まつ そ の 縫 製 技 法 を 習 得 しな け れ ば な ら な い。 こ の こと に つ い ては 、現 代 洋 装 業 界 古 老 の 問 に、 次 のよ う な 二 種 の発 生 譚 が伝 え ら れ て い る 。 O 文 久 二年 、 神奈 川 の 寺 に いた宣 教 師 ブ ラ ウ ン 夫 人 は、 人 々 から す す め ら れ て、 婦 人洋 服店 を横 浜 に 開 く こと に し た 。職 人を 探 が した が 応 募 す る者 は な く 、 よ う や く高 島 町 足袋 職 人辰 五郎 を 雇 う こ とが で き て、 横 浜 本 町 通 に 開店 し た 。 そ の 後 火 災 に あ つてブ ラ ウ ン 夫 妻 は帰 国 した が 、 再 び 渡 来 し て 店 を 続 け た ( 故三橋喜之助氏1 1明治+五年生 U ︹ 昭和 三 十 一 年談話︺ ) 。 口 文 久 三 年 、 横 浜 衛 生 組 合 長 デ ビ ソ ン夫 人 ( アメリ カ人) は、 衣 裳 好 き であ つたが 縫 う こ とが でき な い の で、 裁 縫 師 を 募集 した 。前 年 に は生 麦 事 件 が あ り、 夷 人屋 敷 に出 入 す る こ と は命 が け であ つ た が 、 長 物 師 ( 和服仕立職) の片 山喜 三郎 、 伊 藤 金 作 、 柳 原 伊 四 郎 等 が 応 募 し た 。 彼等 は夫 人 の 衣 裳 数 十 枚 を 手 本 に し て、 夫 人 の指 導 を 受 け な が ら 裁縫 に 従事 し 、 縫 製 技術 を覚 え た ので あ る ( 西島芳太郎氏H明治 二 + 年生凵︹ 昭和三十 一 年談話 ︺ ) 。 e に伝 え ら れ るブ ラ ウ ンは米 国 改 革 派 宣 教 師 ω 鋤 日 ⊆ 色 舛 o び び ぎ゜ 。 切 8 隔 ≦ 口 のこ と で、 安 政 六年 十 月 七目 ( 一 八 五 九 年 十 一 月 一 日 ) に神 奈 川 へ 来 航 、 ζ 目 ゜。 ° 包 圃騫げ Φ 爵 O 。 o 画 毒 馘 切 8毒 昌 と 子 供 た ち は数 週 間 お く れ て十 二月 に着 いた 。 一 家 は先 に 来 日 し た ヘ ボ ン の 住 む成 仏 寺 の 庫 裡 を 提 供 し ても ら つ た が 、 文 久 三 ( 一 入 六 三)年 に 海岸 の運 上所 わ き に 移 転 し た。 し か しブ ラウ ン 邸 が 慶 応 三 ( 一 入 六 七 )年 四 月 に焼 失 し た ので、 夫 妻 は五 月 に帰 米 す る。 明 治 二 年 入 月 二 十 七 目 ( 一 入 六 九年 十 月 十 二 目) に再 び 来 日、 新 潟 英 語 学 校 教 師 に赴 任 し た が 、翌 年 に は修 文 館 教 師 と し て横 浜 へ 帰 り 、 山 手 二 一 一 番 に居 住 、 十 二 ( 一 入 七 九) 年 ま で滞 在 した 。 S ・ Rブ ラ ウ ンは 聖 書 を 和 訳 し 、ブ ラ ウ ン 塾 を 開 い て神 学 教 育 を 行 な い、 日 本 キ リ スト 教 の 普 及 に功 績 のあ つた宣 教 師 で あ るが 、 来 日前 の 任 地 オ ワ ス コ ・レイ ク (O≦ 爰8 い 舞 ① ) で は、 木 造 の教 会 を 煉 瓦 造 り の 大 建築 に改 築 し 、 一 入 五 五年 七月 二十 七 目 に完 成 した 。 夫 人 は そ の建 築 資 金 援 助 の た め に 婦 人 裁縫 協 会 ( U 9 岳Φ ω 、 ω ① ≦劈α qω ○ 畠 な ) を組 織 し た 。会 堂 内 部 の 装 飾 と休 憩 室 は、 協 会 の裁 縫 の仕 事 か ら 得 た資 金 で 造 ら れ た ので あ る 。婦 人裁 縫 協 会 は そ の後 も こ の教 会 の 中 心 と な つて 活 動 し 、多 額 の 収 入を 挙 げ て慈 善 事 業 に奉 献 し た ほか 、 仕 事 に 関 係 す る 人 々 の中 から 多 数 の 信 者 を 得 た の で あ る (4 ) 。 辰 五郎 に つ い ては 、横 浜 貿 易 新 報 社 が 四 十 ( 一 九 〇 七) 年 に、 (49)
研究紀要 第18集 横 浜 古 老 の 談 話 を 集 録 し た ﹃ 横 浜 開 港 側 面 史 ﹄ (5 ) の 中 に ﹁女 洋 服裁 縫 の 始 め﹂ (浅 間 町 、 沢 野 辰 五郎 翁 談 ) が あ る。 ﹁ 私 がブ ラ オ ン 夫 人 の お引 立 て を 蒙 む るや う にな り ま した は : :左 様 月 目 は シカ と 記憶 致 し ま せ んが 、 安 政 六年 は夏 の 初 め の事 で した 。 神 奈 川 本 陣 鈴 木 の会 所 よ り宿 内 の 仕 立 屋 足袋 屋 仲 間 に対 し、 職 人 一 名 を 成 仏 寺 に 差 出 せ と の 達 しが あ り ま し た﹂ と語 り は じ め て いるが 、 ブ ラウ ン夫 人 の来 目 は十 二 月 であ るか ら 、年 月 に つ い ては記 憶 違 いで あ ろう 。 当 時 の世 情 から 応 募 す る者 はな く 、会 所 か ら のき び し い 催 促 に、 ど んな お咎 めを 受 け る く じ かも わ から ぬと 云 う の で、抽 籤 でき め よ う と し た。 足 袋 屋 の 職 人 辰 五 郎 は 年 も 若 く 、 何 か変 つた事 を と の 野 心 も あ つて 引 き受 け た ので あ る。 夫 人 に会 つ た 辰 五 郎 は ミ シ ン縫 の 寝 台 用布 団 の 仕 事 を見 せ ら れ、 こ まか ひ ま ﹁ こん な に精 細 に縫 ふ に は大 変 時 間 が 取 れ ま す。 夫 れ で宜 し いな ら ば ﹂ と、 時 間 は 入時 から 六時 ま で、 賃 銀 は 一 目 七百 文 と 申 出 た 。当 時 は 人 足 が百 五十 文 、 大 工が 三 百文 で あ つた の で、 ﹁自 分 な が ら 法外 だ 。 き つと高 い と 云 ふ に違 ひな い﹂ と思 つ た が 、 そ の条 件 は承 諾 さ れ て、成 仏 寺 に通 う こ と に な つた。 ﹁夫 人 は夫 れ は 夫 れ は 御 親 切 で 一 から 十 迄 手 を取 ら ぬ許 り に教 へ ﹂ 、 辰 五 郎 は 漸 く 布 団 な ど を 手縫 で 縫 いあげ た 。 夫 人 は 目 が悪 く て ミ シ ン 縫 が で き な い の で、 引 き 続 き 勤 め て ほ し いと 頼 ま れ て 通 つて い るう ち に 、 ミ シ ン 縫 の 女 洋 服 裁 縫 を 伝 授 さ れ る。 ﹁ 親 切 な 伝 授 を 受 け 、 足袋 職 人 か ら洋 服 屋 に 変 じ ま し た﹂ と辰 五郎 は 語 つて いる 。 そ し て ﹁ ブ ラ オ ン氏方 に は其 後 十 八年 間 出 入 り﹂ し た と いう 。 明 治 維 新 後 しば ら く の間 は 、 婦 人洋 服職 は 辰 五郎 一 人 で あ つた の で、 東 伏 見 宮 、井 上 公 爵 夫 人 等 か ら の注 文 も あ つ た 。 し か し彼 は期 限 を 厳 守 しな け れ ば な ら な い 貴 顕 の 仕 事 を嫌 い、 同 業 者 が 出 来 は じ め た 頃 に は東 京 か ら の注 文 を 断 つ て、居 留 地 のお得 意 だけ に限 つ た 。 彼 はま た ﹁ 少 し考 が あ つて、店 も 張 ら ねば 弟 子 も取 らず ﹂ と いう 経 営 で あ つ た 。 これ は 一 人 親 方 の形 態 であ つ て、 辰 五郎 一 代 で終 つて い る。 辰 五郎 の談 話 から は、 S ・ R ・ ブ ラ ウ ン 夫 人 が 開業 し た形 跡 は見 当 ら な い。 夫 人側 の史 料 にも 見 出 さ れ な い。 し か し 辰 五郎 は独 立 し た後 も 夫 人 の許 に出 入 り し て、 注 文 の紹 介 、 技 術 の指導 を 受 け た こと が う か が わ れ る。 一 人親 方 の辰 五郎 は、 夫 人 の下 職 のよ う な 密 持 な関 係 であ つた 。 オ ア ス コ で の 婦 人裁 縫 協 会 の経 験 を も つ 夫 人 が 、 辰 五 郎 に縫 製 技術 を 伝授 し 、夫 人 の 衣 服 のほ か居 留 地 婦 人 の需 要 に役 立 ち 、 東 京 の 貴 婦 人 服 の 縫 製 も でき る よ う な ド レ ス ・ メ ー カ ー に育 てあ げ た の であ る。 ま た 夫 人 は 、 再度 来 日 の 時 伴 つて 来 た ミ ス・ メ リ ー ・ エ デ ィー ・ キ ダ ー (ζ 凶ω ゜・蜜 ⇔ 昌 国 ゜ 囚峯島 Φ 同 ) が 、明 治 四 ( 一 入 七 一 ) 年 から ヘ ボ ン 施 療 所 で開 いた 女 子 塾 ( フ ェ リ ス 女 学 院 前 身 ) で洋 裁 を教 授 し た ( 6 ) 。 S ・ R ・ ブ ラウ ン夫 人 はわ が 国 の 職 人 と 女 子 学 生 と に洋 裁 を伝 授 し た 最 初 の人 であ る。 ⇔ の デ ビ ソ ン 夫 人 に つい て は、 こ の伝 承 の ほ か不 明 であ る。 し か し デ ビ ソ ン 家 で仕 事 を し た片 山 喜 三郎 、 伊 藤 金 作 、 柳 原 伊 四 郎 は開 業 し て、有 力 な職 人 ・ 親 方 を 輩 出 し た ので、 こ の 事 は洋 裁 事 始 と し て業 界 に流 布 し て いる の であ る 。⇔ に記 載 し た のは、 片 山喜 三郎 四代 目 の直 系 西島 芳 太郎 が 、 明治 四 十 ( 一 九 〇 七) 年 ご ろ、 片 山喜 三郎 か ら直 接 に聞 いた 話 であ る。 $ ・ R ・ ブ ラ ウ ン 夫 人 、デ ビ ソ ン 夫 人 の 洋 裁 は 、当 時 ま だ横 浜 に輸 (50)
婦人洋服職人制 の展 開 入 さ れ て いな いミ シ ンを用 い て い るσ 万 延 二 ( ︼ 入 六 一 ) 年 、貿 易 の た め神 奈 川 に舟 行 し た江 戸 の 商 人竹 口喜 左 衛 門 の 目 記 に よ れ ば (7 ) 、 一 月 十 五 日 に妻 のぶ を連 れ て ヘ ボ ンを 訪 問 した 後 、裏 隣 の宣 教師 ゴ ー ブ ル (8 ) の 家 で ミ シ ン を 見 た 。 ゴ ー ブ ル の 長 女 が 仕 掛 ( ミシン ) で巧 み に 衣服 を縫 う のに驚 ろき 感 心 した の ぶ のた め、喜 左 衛 門 は 十 八 日 に 再 び ヘ ボ ン を 訪 問 し た際 、 ヘ ボ ン夫 人 に ﹁ ア メリ カ の 縫 物 ﹂ を教 え て ほ し い と頼 む。 快 諾 した ヘ ボ ン の指 示 に よ つて、喜 左衛 門夫 妻 は 翌 十 九 目 の朝 から ヘ ボ ン師 を 訪 れ る の であ る。成 仏寺 に住 む宣 教 師 は ミ シ ンを 持 つて いた こ とが 知 ら れ る。 西 洋 婦 人 の用 いる ミ シ ンは横 浜 住 民 の興 味 の対 象 とな り 、 錦 絵 や 双 六 に描 か れ た (9 ) 。 わ が国 に は じ め て 渡 来 した 西 洋 婦 人 の衣 服 裁縫 は、当 時 の世界 に普 及 し は じ め た最 新 の ミ シ ン裁 縫 技 術 であ る。 ミ シ ンを 持 つ 西洋 婦 人家 の 専 属 と な つて仕 事 を しな が ら 、職 人 た ち は婦 人 服裁 縫 及 び ミ シ ン 裁 縫 の 新 技 法 を習 得 し た の であ る。 婦 人洋 服職 人 は これ を 入 り仕 事 と 云 う 。未 知 の 新 技 術 習 得 に は、 最 も 好 都 合 な 方 法 であ つ た 。 そ し てS ・ R ・ ブ ラ ウ ン 夫 人 の よう に裁 縫 に 勘 能 な 婦 入 は勿 論 、デ ビ ソ ン 夫 人 のよう に縫 う こ と の で き な い女 性 の許 から も 、 婦 人洋 服 裁 縫 技 術 者 が 誕 生 し た のであ る。 足 袋 職 や 長 物 師 な ど 針 に熟 練 し て いる者 が 、 こ の 新 技 法 を 開 拓 した の で あ つて、後 に 沢 野 辰 五郎 は ﹁ 何 ぞ変 つた事 を と の 野 心 ﹂ と 云 い、 片 山 喜 三郎 は ﹁ 何 と な く 世 の 中 が変 る よ う に思 つた か ら﹂ と語 つて い る。 彼等 が未 知 の 新 し い 仕 事 に飛 躍 し た のは、 開 港 以 来 の 激 し い変 転 を 身 近 か に感 じ た横 浜住 民 であ つた か ら であ ろう 。 男 子洋 服 は戎 服 ( 軍服 ) を 足 袋 職 や 長 物 師 が 修 理 した の に は じ ま り 、 文 久 ご ろ 英 人 ロr マ ン 及 び ド イ ッ 人 プ ラ ンが 彼 等 を 集 め て 、 横 浜 居 留 地 に 洋 服 店 を 開 い た と いう (10) 。 男 子 洋 服 業 に は 居 留 外 人 服 の ほ か に 戎 服 の需 注 が あ つ た が 、 婦 人 洋 服 業 の最 初 は 西 洋 婦 人 の 需 要 の み で あ る 。 わ が 国 の婦 人 洋 服 業 は 西 洋 婦 人 衣 服 縫 製 の た め に 発 生 し 、 そ の技 法 は 西 洋 婦 人 か ら 習 得 し た の で あ る 。 ︹註 ︺ 1 ( ) 内 は わが 国 の 旧暦 月 目 であ る 。 2 ﹃ 横 浜 開 港 五 十年 史 ﹄ 下巻 明 治 四 十 二 年 3 ヘ ボ ン書 簡 一 入 五 九年 十 月 二十 二 目、 神 奈 川 発 W ・ ラ ウ リ ー 博 士 宛 ﹃ヘ ボ ン 書 簡 集 ﹄亠 島 谷 道 男 昭 和 三十 四年 4 固 博N 霧 ① 夢 Oo & 註 づ 切 δ ≦ P ↓冨 ]≦ヨ Q。 団○ 蠧 亳 、の鬢 嵐 ① φ 諺昏 霞 戸 ℃ 撃 団導 a び 団 即① ρ 器 ω計 目 Q。 8 諺 ]≦ 鋤 犀 奠 O h日 ゲ Φ 2Φ 鬢 ○ユ 〇 三 9 ω 9 菖 q 巴 国○ げ 玄 蒭 bd 慰 o ≦ p び 団 ぐ 5 ≡ 飴 B 国 目 同O けΩ甑 由ω Hゆ O 卜O W 5 ﹃ 横 浜 貿 易 新 報 ﹄ に 掲 載 さ れ た ﹁ 横 浜 開 港 側 面 史 ﹂ は 、 明治 四 十 二年 、 同 社 が 編 集 ・ 出 版 した 。 6 ﹃ フ ェリ ス女 学 院 ㎜年 史 ﹄ 高 谷 道 男 編 7 竹 口喜 左 衛 門 日記 松 坂 市 中 馬 竹 口家 蔵 8 覚 § p 暮 碧 Oo 窪。 フリ ー ・ バプ テ スト ミ ッ シ ョ ン 宜 教 師 、 万 延 元 ( 一 八 六 〇 ) 年 来 日。 9 一 川 芳 員 筆 ﹃ 西 洋 婦 人 裁 縫 図 ﹄ 万 延 元 年 版 。 ﹃横 浜開 港 見聞 誌 ﹄ 五雲 亭 貞 秀 画 文 久 二年 。 ﹃ 異 人双 六 ﹄ 旧 版 万 延 、 文 久 ご ろ。 10 ﹃ 日 本 洋 服 沿 革 史 ﹄ (大 阪 洋 服 商 同 業 組 合 編 纂 昭 和 五 年 )に よ る 。 こ の こ と に つい て は別 に、 石 崎 昌 子 ﹁東 京洋 服商 工業 組 合 の設 立 ﹂ (﹃ 東 京 女 子大 、 学 論 集 ﹄ 第 十 二巻 第 一 号 昭 和 三十 五 年 ) 、 吉 田元 ﹁ 黎 明 期 に 活 躍 し た先 人 た ち ﹂ (﹃ 洋 装 ﹄ 昭 和 四十 五 年 二月 号 か ら 連 載 ) の研 究 が あ る 。 (51)
研究紀要 第18集 横 浜 の欧 米 人 は明 治 五 ( 一 入 七 二) 年 に 一 〇 七 〇名 、 十 ( 一 入 七 七) 年 に 一 二〇 五名 、 十 五 ( 一 八 入 二) 年 に は = 二 五 八名 と増 加 し た (-) 。 こ の 人員 中 男 女 比 は不 明 であ るが 、 増 加 人 口に伴 つ て 家 族 の 婦 人 も多 く な る。 明 治 初 期 の西 洋 婦 人 の増 加 は、 婦 人 洋 服 業 成 立 を可 能 に す る も ので あ る。 S ・ R ・ ブ ラウ ン家 の沢 野 辰 五 郎 、 デ ビ ソ ン 家 の 片 山喜 三郎 、 伊 藤 金 作 、 柳 原 伊 四 郎 は入 り仕 事 から 独 立 した 。片 山喜 三郎 の 開 業 は、 明 治 五 ( 一 八 七 二) 年 と い われ る (2) 。 ま た 十 ( 一 八 七 七 ) 年 ご ろ に は、 飯 田鉄 五郎 が 開 業 した 。 飯 田 鉄 五 郎 ( 安 政 三 年 生 ) は 沼 津 の人 で 、横 浜 に出 て 足袋 職 と な つ た が 、 中 国 人 から 婦 人 洋 服 裁縫 を 習 つて 転 職 し た ので あ つた (3 ) 。 こ の頃 中 国 人 業 者 の渡 来 す る者 が 多 く 、 そ の 数 は 目本 人業 者 よ り多 か つた と伝 え ら れ て い る。 中 国 人 ド レ ス ・ メ ー カ ー の 繁 栄 は次 の二 十年 代 に見 ら れ るが 、 そ の先 行 形 態 の中 に 、 飯 田 鉄 五 郎 の技 術 習 得 が 行 わ れ て いる 。 ま た ﹃ 横 浜商 人録 ﹄ (大 目 本商 入 録社 明治+ 四 年) に ﹁ ダ ビ ス 裁 縫 店 ﹂ (ζ N ω ゜U 碧 ♂ U 器 ゜。甲 日爵 貯 σq 国 ω 富び 房 げ 匿Φ 三 ) が 記 載 さ れ 、 ダ ビ ス 夫 人 と ミ ス .レ ス レイ (窰陣 ω ooH 、Φ qゆ一 陣Φ ) の いる 西洋 婦 人 の 店 が あ る が 、 わ が 国 の職 人 と ど のよ う な 関 係 にあ つ た か不 明 であ る (4 ) 。 明 治 初 期 の文 明 開 化 に、 男 子 の洋 服 着 用 は 拡 ま る 。幕 末 か ら の 軍 服 の ほか、 新 制 度 に必 要 な 洋 式 官 員 服 が 次 々と 定 め ら れ る 。 四 ( 一 入 七 一 )年 に ﹁ 散 髪 制 服 略 服 脱 刀 共 可 為 勝 手 ﹂ (5 ) の布 告 が 出 て、 幕 末 に 禁 止 さ れ た洋 服着 用 が 公許 さ れ る。 同 年 九 月 四 目 には 服 制 を 改 め て風 俗 を 一 新 す る方 針 の 勅 諭 が あ り 、翌 五年 十 一 月 十 二 日 に、 太 政 官 布 告 三 三九 号 の服 制 が 定 め ら れ 、 公 服 は洋 服 化 さ れ た。 ま た開 化 服 と い わ れ る洋 服 は、 文 明 開化 の 先 鋒 と し て民 間 に も ひ ろ ま つて いく 。 し か し 婦 人 洋 服 は服 制 改 革 か ら除 外 さ れ 、 文 明開 化 の 婦 人洋 装 はご く 特 殊 な 例 に し かす ぎ な い。 芸 妓 ・ 遊 女 の 宣 伝 衣裳 、欧 米 に派 遣 さ れ る外 交 官 夫 人 、 西 洋 人 と 結 婚 した 女 性 等 の 中 に 見 ら れ る のみ で あ る。 し かも そ の洋 装 は保 守 派 から 激 しく 攻 撃 さ れ 、 社 会 的 に受 け 入 れ ら れ な か つ た 。 こ のよう に特 殊 で散 在 的 な 婦 人 洋 服 は業 者 発 生 の 基 盤 に な り得 な い。 明 治 初 期 の横 浜 初 代 業 者 の開 業 は、 西 津 婦 人 の 増 加 に伴 う需 要 に よ る も の であ る。 明 治 初 期 の婦 人洋 服 業 者 数 は僅 か であ るが 、 十 年 代 後半 か ら 二 十年 代 に か け て業 者 が 倍 増 す る。 横 浜初 代 業 者 の 片 山喜 三郎 か ら 大 島 万 蔵 、飯 田鉄 五郎 か ら井 上 徳 二郎 、 塩 見 辰 三郎 、 関 原 若 三郎 の 第 二 代 が 早 く も成 立 し た 。 新 開 業 に は大 谷 清 二郎 、 富 田 猿 造 、 横 田 弥 吉 が あ る。 大 谷 清 二郎 は レ ンク ロフ オー ド商 会 (訂 昌 ρ 9 ㊤ 乱 。 巳 卸 0 9) のド レス メー カー 、 フ ィジ ョレイ夫 人 (ζ H ω ゜ 田 岳 巳器 ) に 習 い (6 ) 、 富 田 猿 造 、 横 田 弥吉 は西洋 人家 庭 への入 り仕 事 で技 法 を 習 得 した 。 横 浜 に業 者 が 増 加 した ば かり でな く 、東 京 に も開 業 者 が 出 た。 飯 島 民 次 郎 、 大 島 万 吉 、 田中 栄 次 郎 、大 島 万 蔵 、高 木 新 太郎 、豊 島 弥 太 郎 、 伊 藤 金 作 、 柳 原 伊 四 郎 等 が 開 業 した 。 飯 島 民次 郎 は 、外 人 か ら ミ シ ン を 借 り て 足袋 、 猿 股 、 男 子 服 等 を 仕 立 て る 横 浜 船 人夫 親 方牧 野惣 次 郎 へ 明治 三 ( 一 入 七 〇) 年 に弟 子 入 り、 十 四 ( 一 八 八 一 )年 に レ ンク ロフ ォー ド商 会 の男 子服 仕 立部 に勤 め たが 、 婦 人 洋 服 に転 じ て十 六 ( 一 八 (52)
婦人洋服職人制の展開 八 三) 年 に、 東 京 築 地 入 船 町 に 開業 し た (7 ) 。 田中 栄 次 郎 は足 袋 職 出 身 で、 外 人 家 庭 の入 り 仕 事 を経 て 南 佐 久 間 町 に開 業 ( 8 ) 、 大 島 万 吉 は 洋 服 を 解 い て研 究 し た と 伝 え ら れ て い るが 、 内 幸 町 の店 は宮 中 服 専 門 であ つ た 。高 木 新 太 郎 は 足袋 職 出 身 、 入 り仕 事 の後 に開 業 。 豊 島 弥 太 郎 は八 戸藩 南 部 美 濃 守 御 出 入長 物 師 か ら男 子 洋 服 仕 立 へ 転 じた 父 弥 五 郎 の 店 を つ ぎ 、婦 人洋 服 に移 つて赤 坂 に開 業 した 。 デ ビ ソ ン家 出 身 の 伊 藤 金 作 、柳 原 伊 四郎 は横 浜 か ら東 京 に進 出 、 片 山 喜 三郎 二代 目 の大 島 万 蔵 も 十 入 ( 一 八 入 五 )年 に築 地 栄 町 に開 店 し た ( 9 ) 。 唯 一 の女 性 ド レ スメ ー カ ー青 木 た け は ﹁ 伊 勢 幸 ﹂ を、 銀 座 一 丁 目 に 開 いた (-o ) 。 こ の よ う に初 代 業 者 の 形 成 は 、 明 治 の初 期 と中 期 の二期 に分 離 さ れ て いる 。 こ の状 況 を 明瞭 に す る た め、 初 期 開 業 を 第 一 期 初 代 業 者 、 中 期 開 業 を 第 二期 初 代 業 者 と す る 。第 二期 初 代 業 者 が 第 一 期 よ り非 常 に多 く 、東 京 に も 開 か れ て いる の は 、 鹿 鳴 館 時代 の好条 件 に恵 ま れ た か ら で あ る 。 幕 末 に締 結 さ れ た 不平 等 条 約 を 改 正す るた め、 外 務 卿 井 上 馨 はわ が 国 を欧 州的 新 帝 国 に し な け れば な らな い と、 生 活 様 式 の洋 風 化 を はか つ た ので あ る 。 十 六 ( 一 入 八 三) 年 に、 麹 町 内 山 下 町 に華 麗 な 西 洋 館 の 国 際 社 交 場 を建 設 し た。 各 国 人 と調 和 の交 際 を 行 な う と いう意 味 を 詩経 の 句 か ら と つて、 鹿 鳴 館 と名 付 け 、 洋 装 の紳 士 淑 女 を集 め て 舞 踏 会 を催 し た 。 ま た政 府 は先 の服 制 改 革 に除 外 した 婦 人 服装 の 洋 風化 に 着 手 し 、 十 九 ( 一 八 入 六 )年 に、 ﹁ 礼 式 相 当 之 西 洋 服 装 ﹂ ( 11 ) を 定 め た 。 翌 二 十 一 年 一 月 十 七 目 に は皇 后 宮 の ﹁ 婦 人 服 制 の こと に つ い て の 思召 書 ﹂ (12)が 、 洋 装 を 奨 励 した 。 これ ら の欧 化 政 策 が 鹿鳴 館洋 装 の 流 行 を お こ し たが 、 バ ツ スル ・ ド レス の着 用 者 は貴 族 上 流社 会 の 女 性 で あ る。 皇 室 の藩 屏 と し て貴 族 院 に列 す る皇 族 と華 族 の 貴 族 階 級 を中 心 に、 中 央 集 権 官 僚 制 の高 級官 僚 と 資 本 主 義社 会 の 富 裕 階 層 が 、上 流 階 級 を 形 成 し て いた 。 政 府 は欧化 政策 に 上 流階 級 婦 人 を動 員 し、 天 下 り的 な 鹿 鳴 館 洋 装 の流 行 が つ く ら れ た の であ る 。男 子洋 服 が 服 制 改 革 以 来 、 官 員 の勤務 服 に 職 制 の末 端 ま で 浸 透 し て い つた のに対 し て、 婦 人洋 装 は上 流 社 会 の流 行 現象 と し て拡 ま つ た ので あ る 。 し か し文 明 開 化 の婦 人 洋 装 が ﹁ 開 化 の弊 ﹂ と非 難 さ れ た のと異 な り、 讃 美 的 な流 行 とな つて、着 用 者 は 一 挙 に増 加 した の であ る 。欧 米 婦 人 の 渡 来 も 多 く な つて は い るが 、 日本 婦 人洋 装 の 急 激 な増 加 が 、第 二期 初 代 業 者 出 現 の条 件 と な つ た 。東 京 に 開業 す る者 が多 い のも、 こ の 条 件 を 満 た し て い る から であ る。東 京最 初 の 飯 島 民次 郎 と大 島 万蔵 は築 地 居 留 地 の近 く に店 を 構 え て、 ま つ 西洋 婦 人 の顧客 を 目標 に し たが 、 そ の 後 の開 業 者 に は、 こう した意 識 は 見 ら れ な い。銀 座 ・ 赤 坂 ・ 内 幸 町 等 東 京 の中 心 地 であ れ ば 、 目本 婦 人 の顧客 が 得 ら れ る ので あ る。 横 浜 に は馬 車 に 乗 つ た貴 婦 人 が 注 文 に訪 れ 、東 京 で も宮 中 御 用 、 貴 族 、 高 官 、 富 豪 等 の顧客 に よ つて、 ド レ ス ・ メ r カ r は繁 栄 し た。 婦 人洋 服初 代 業 者 は 足袋 職 ・ 長 物 師 出 身 が 多 く 、 そ の 他 男 子 服 仕 立 、 更 衣 屋 、 法 衣 屋 な どが あ り 、ほと ん ど 衣 服裁 縫 の 前 職 か ら転じ た者 であ る。技 術 の 習 得 は男 子服 仕 立 に は じ ま る者 、 中 国 人 ド レ ス ・ メ ー カ f 出身 者 、 西洋 婦 人 の 教 授 を受 け た者 、 洋 服 を 解 い て研 究 した 独 学 型 な ど も あ るが 、最 も多 い のは入 り仕 事 で あ つ た 。 単 一 家 庭 に専 属 す る者 あ り 、紹 介 に よ つ て 次 々と廻 る者 も あ る。 両 者 と も 通 いと 住 み 込 み が あ る 。 入 り仕 事 と は、 請 負 出 来 高 払 い でな い 目給 の仕 事 を いう の (53)
研究 紀要 第18集 であ るが 、洋 服 仕 立職 の入 り仕 事 は注 文主 の 許 に出 か け て仕 事 を す る 出 職 人 の意 識 であ る。 す でに裁 縫 職 人 で あ つた彼 等 は、 裁 縫 技 術 の労 働 を 提 供 し て賃 銀 を 得 な 渉 ら 、 新 技 術 を 習 得 し 、 ま た 熟 練 す る こ と が でき る の であ る。 これ は発 生 譚 S ・ R ・ ブ ラ ウ ン 夫 人、 デ ビ ソ ン 夫 人 の 示 す ケ ー スであ つて、 職 種 の転 換 が 行 わ れ る 。 沢 野辰 五郎 、片 山 喜 三郎 等 と同 様 に、 新 文 明 への民 衆 的 な 若 々し い反 応 を 示 し た職 人 た ちが 、 新 職 種 を 開 拓 した の であ る。 男 子 洋 服 か ら 婦 人洋 服裁 縫 に移 つ た職 人 に は、 十 九世 紀 ド レ スの華 や かな 美 しさ に魅 せ ら れ た傾 向 が あ る 。 こう し て新 裁 縫 技 術 を 習 得 した 後 の段 階 は、 独 立 開業 であ る 。技 術 の 進 歩 か ら も、 商 況 の う え から も 独 立 す る こと の でき る 情 勢 に な つ め と う ふく た 明 治初 期 及 び中 期 に、 初 代 業 者 が 出 現 した 。 こ の店 は ﹁ 女唐 服 屋 ﹂ と呼 ば れ た 。女 唐 服 屋 の 店 主 は入 り仕 事 の出 職 から 、 居 職 に 変 つ た 親 方 であ つて、商 と 工 とを 兼 ね て い た。 顧 客 と の商 行 為 によ つて店 を経 営 し、 工房 では洋 服 裁 縫 の 親 方 であ る。 店 主 即 ち 親 方 は弟 子 ( 徒弟) を 置 い て、 技 術 を教 え な が ら 労 働 力 を 確 保 す る。 徒 弟 は親 方 の許 で 年 季 を つ と め た後 に職 人 と な る。 入 り仕 事 の出 職 から 独 立 開 業 し て居 職 に な り 、徒 弟 を養 成 し て 親 方 と な つた のが 、 婦 人 洋 服 職 成 立 の形 態 であ つて、親 方i 職 人-徒 弟 の 序 列 を つ く る職 人 制 を 構 成 した 。 旧 裁 縫 職 人 が 、 婦 人洋 服職 に再 編 成 さ れ た のであ る。 近 代 工業 の発 展 に つれ て 、 各 界 の 職 人制 は崩 壊 す る。 とく に明 治 中 期 の不 況 時代 から 、 そ の 傾 向 が 強 く な つた。 こ の 時 期 に、 婦 人 洋 服 職 は職 人 制 を 成 立 さ せ る の であ る。洋 服縫 製 は ミ シ ンに よ つて機 械 化 さ れ た 新 産 業 で はあ るが 、 十 九 世紀 スタ イ ル の 縫 製 に は ま だ手 作 業 の部 分 が多 く 、 そ の う え注 文 服 業 態 で の技 術 伝 習 に は、 職 人 組 織 が 適 合 し て いた 。最 初 の 技 術 習 得 が 入 り仕 事 か ら出 発 し た の で、 そ のま ま 容 易 に職 人制 へ と 移行 し た ので あ る 。 ま た そ の市 場 は外 国 人居 留 地 及 び 貴 族 上 流 階 層 の居住 す る都 市 に限 定 さ れ、 大 資 本 を 投 下 す る よう な 近 代 性 を も た な か つ た 。 む し ろ こ の 新 産 業 の 職 人制 に よ つて、 歿 落 す る職 人 た ち に 新 し い 職 域 が 開 か れ た ので あ る (13 ) 。 ︹ 註︺ 1 ﹃ 横浜開港五十年史﹄下巻 横浜商工会議所編 明治 四 十 二 年 2 前掲西島芳太郎氏談話 3 子 息飯 田 広氏談話 4 デービ ス 夫人と ミス ・ レ ズ リ イ で あ る が、 ﹃横 浜 商 人 録 ﹄の訳 の 通りに 記 した 。 吉 田 元氏 の ﹁ 黎明期に 活躍した 先 人たち﹂ (﹃ 洋 装 ﹄昭和四十五 年 六月 号) に、ダビ スの 技術は ﹁ そ の 弟子 の 片山喜三郎、伊藤金作、柳原 守平 、 井上 六 茂 により 受 け 継がれ 、 今日 の 婦人服界 の 源流をなし てい ま す﹂とある。 5 ﹃ 太政官 日 誌﹄十 一 号 6 弟 子 吉 田 常吉 かえ 夫 人 談話 7 子 息飯島祥邦 氏 談 話 8 弟 子 扇 玉 新太郎 氏 談話 9 子 息大島 久 兵衛 氏 談 話 10 親戚牧 野 竹郎 氏 談 話 11 ﹃ 法令 全書﹄ 内閣官報 局 12 ﹃ 東京目日新聞﹄明 治 二 十年 一 月十八目 13 ﹃ 立正 史 学﹄第 二 十五号 ﹁ わが国婦人 洋 服 業界 の形成 ﹂ 中 山 千代 昭和 三十六年 三 (54)
片 沢 山 野 氏 喜 辰 第 三 五 名 郎 郎 一 横浜 冫横 浜 開業地 代 明 文 文 開 り弟 治 5 久3° 2 業 年 の子 年 入 大 片 氏 島 山 第 万 梅 名 蔵 吉 二 東京 横浜 開 業 地 代 明 開 り弟 治 業 の子 18 年 年 入 大 小 近 山 西 大 島 川 岡 形 坂 河 氏 久 光 助 入 源 内 第 兵 次 三 十 二 治 名 術 郎 郎 八 郎 郎 三 東京 東 京 東 京 東京 東京 東京 開 業 地 代 明 治 35
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繁 佐 兼 浅 松 弥太健 簗太太 次太 次和隆難 吉 郎 次 郎 郎 郎 郎 郎 郎 三 弘 郎 郎1 1 沢 村 米 吉 尸 高 木 新 太 郎 大[ 島 万 吉 神 戸 東京 東 京 明 治 20△ 明 治 20° 明 治 20° 古 橋 栄 太 郎 木 ( .島 幸 次 郎 山 村 久 吉 の ぶ さ ん 神 田 桂 太 野 i 数 そ の 名 他 細 江 忠 吉 扇 玉 新 太 郎 新 井 春 吉 重 吉 東 京 東京 東 京 東 京 東京 東 京 東 京 東 京 明 治 24 大 和 清 一 桑 村 謙 次 木 村 幸 男 横 村 道 男 志 村 竹 次 郎 」 1 「 東京 東 京 東 京 東 京 東京 大 正 8 明 治 42 蛙 繁田 三 菊
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郎 郎 郎 松 吉 野 崎_ 从 金 太 都 郎関 口 洋 品 店 京 東 明 治 42 町 山
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小 倉 洋 服 店 山 豊 ほ か 四名 昭 和 12 昭 和 5 川 瀬 伊 郎 横浜 横浜 小 川 平 吉 横 浜 向 井 商 店 ( シ ル ク ・ ス ト ア ー ) ア ー サ ー ・ ポ ン ド 横浜 横浜 沢 蔵 横 浜 明 明 治 治 45139 マ ダ ム ・ ロ ネ 坂 田 清 吉 巡 信 塚 田 養 三 郎 横浜 長崎 神戸 神戸 明 治 20' 明 治 33 明 治 20' 明 治 20 中 島 い ね ミ そ 拿 へ 色 イ ミそ
^イ 手 ネ rス 関 秀 雄 横浜 横浜 横 浜 ■ 長崎 大 正 3 明 治 37 ■ 、 1 卩 1 上 記 は 西 洋 人 の店 及 び 商 店 の出 身 者 で あ る 。 大 西 今 高 竹 川 井 柳 長 庄 虎 柳 鶴 三 之 太 崎 吉 郎 助 郎 X婦人洋服職人制の展開 初 代 業 者 は 親 方 と し て徒弟 を養 成 す る 。年 季 を つと め た徒 弟 は職 人 と な り 、 さ ら に そ の 職 人 の 中 か ら第 二代 親 方 が 出 る。 明 治 の世 に は封 建 的 な親 方権 制 限 な ど も無 く、 自 由 に独 立開 業 す る こ とが でき た 。 右 の ﹁ 婦 人 洋 服 業 界 系 譜 ﹂ は、 明 治 十 ( 一 入 七 七) 年 生 れ を 筆 頭 に 、 大 正 二 ( 一 九 = 二 ) 年 生 れ に至 る現 在 の業 界 人 及 び 先 代 業 者 の家族 四 十 六名 の 聞 書 に よ つて作 成 した 。 口述 史 料 し か得 ら れ な い の で、全 体 を 網 羅 す る こ と は でき な いが 、 徒 弟 制 職 人 社 会 の連 関 に よ つて、現 代 か ら逆 上 つて の系 譜 を た ど る こ とが でき る の であ る。 洋 装 業 界 を 開 発 した 鹿 鳴 館 時 代 の極 端 な 欧 化 政 策 が 、条 約 改 正 の 失 敗 と ナ シ ョナ リズ ム の擡 頭 に よ つて挫 折 す ると 、 鹿鳴 館 洋 装 の 流 行 は 世 論 の反 撃 を 受 け た 。 ﹁ 国 論 忽 ち 一 時 に 沸 騰 し て、 目本 の 危 機 を絶 叫 し、 舞 踏 会 の才 子 佳 人 は恰 も 阪 東 武 者 に襲 はれ た 平家 の公達 上臈 のや う に影 を 潜 め て屏 息 した ﹂ (﹃ 思 い出 す 人々 、 四+ 年間 の文明 の 一 暼﹄内 田 魯庵 大正+四 年) と いう 状 況 にな り 、 鹿鳴 館 洋 装 の流行 は終 つた ので あ る。 し か し鹿 鳴 館 時 代 に第 二 期 初代 親 方 が 出現 し た業 界 で は、 職 人 制 の序 列 を 通 つて次 々と 親 方 が 現 われ る。 ﹁婦 人洋 服 業 界 系 譜 ﹂ が 示 す よう に、 明 治 後期 に は 第 一 期 初 代 親 方 か ら は第 四代 ま で、 第 二期 初 代 親 方 か ら は 第 三代 ま でが形 成 さ れ て いる。 数 代 に わ た る職 人 シ ステ ムが 完成 し 、 そ の 最 盛期 は 明 治後 期 で あ る。 系 譜 図 に見 ら れ る後 期 業 界 の 興 隆 は 、 鹿 鳴 館 反 動 後 の 後 期 洋 服 の 新 た な 発 展 を 示 す も の であ る。 二 時 頓 に火 の消 へ た る如 き 観 あ り しも 、 洋 服 使 用 の世 界 大 勢 は 抗 す べ か ら ず 。 果然 日清 役 の 前 後 に 至 り て、 一 般 に活 動 上 和 装 の洋 装 の 便 利 な る に若 か ざ る を知 る と共 に、 一 旦廃 れ た る洋 服 の再 び 以 前 の 盛 況 に 立 ち帰 り 、其 後 十年 日露 の戦 役 後 に至 り て は殆 ん ど 十 七年 頃 の 盛 況 以 上 の 光 景 を 呈 す る に 至 れ り﹂ (﹃ 洋裁 宝 典 ﹄ 大見文 太 郎 、 明治 四+ 一 年+ 二 月 ) と い う 洋 装 着 用 を 背 景 に、 業 界 は発 展 す る。 日清 戦 役 後 の業 界 発 展 は中 国 人 ド レ ス ・ メr カー の帰 国 に よ る も ので あ るが 、 着 用 者 が 鹿 鳴 館 洋 装 反 動 期 に激 減 した ま ま であ る な らば 、 目本 人業 者 が 肩 代 りす る こと は でき な い。 産 業 革 命 が 進 行 し て資 本 主義 経 済 が成 熟 す る に つれ て 、 生 活 様 式 の 洋 風 化 が 進 む 。 三十 年代 に流 行 し た ﹁ ハイ カ ラ﹂ は、 洋 服 の 高 襟 か ら出 た ブ ルジ ョワ ・ モr ド であ る。国 際 的 志 向 の エキゾ テ ィ シ ズ ム とブ ル ジ ョワ性 の結 合 した ハ イ カ ラ な生 活 様 式 は、 上 流 社 会 に洋 装 を ひ ろ め て い つ た 。 ま た官 廷 婦 人 服 は完 全 に洋 装 化 さ れ て い る の で、 貴 族 上 流 階 級 にと つて、洋 装 は 社 交 上欠 く こと ので き な い 服 装 であ つ た 。 明 治 の 絶 対 体 制 に 優 位 を占 め る 貴 族 上流 婦 人 の 洋 装 は、 ハ イ カ ラ の フ ァ ッ シ ョン ・ ソー スと な つて、 新 聞 ・ 雑 誌 の 流 行 欄 を飾 る の で あ る。 ﹃ 女 子 時事 新 聞 ﹄ (第五号 明治三+九年六月)は、 上 流 婦 人 に夏 の洋 装 が 多 く な つ た こと を 報 じ 、 ﹃ 時 事 新 聞 ﹄ (明治 四 +三年 一 月七目 ) ﹁ 服 の色 々﹂ に 、訪 問 ・ 旅 行 ・ チ ーガ ン ・レセプ シ ョ ンと種 々あ る こと を 挙 げ 、 洋 服着 用 が 生 活 の 中 に 拡 大 さ れ て いる こと が 知 ら れ る 。 鹿 鳴 館 洋装 の 天 下 り流 行 と異 な つて、 後 期 洋 装 は 上 流社 会 に 定 着 し た 新 風 俗 であ る 。当 時 、 東 京 の三仕 立 屋 と称 さ れ た ﹁ 飯 島 民 次 郎 ﹂ ﹁ 大 島 万吉 ﹂ ﹁ 田 中 栄 次 郎 ﹂ の 顧 客 は、 日本 婦 人 が 多 か つた。 ﹁大 島 ﹂ は 宮 内省 御 用 と な つ て 宮 中 服 を調 製 し、 ﹁ 田中 ﹂ の客 は ほ と んど 日 本 の上 流 婦 人 (-) 、 ﹁ 飯 島 ﹂ は ﹁ 飯 島 貴 婦 人 専 用 洋 服店 ﹂ と いわ れ (﹃ 時事新聞﹄明治 四 士 二 (55)
研究紀要 第18集 年 一 月七日 ) 、 華 族 ・ 顕 官 ・ 政 治 家 ・ 軍 人 ・ 実 業 家 等 の貴 族 上 流 婦 人 を 集 め て い る (2 ) 。 目露 戦 役 後 目本 への 観 光 客 が多 く な つ て 、 業 界 に と つて は本 来 の顧 客 であ る西 洋 婦 人 の注 文 が増 加 した う え、 西洋 婦 人 に劣 ら ぬ数 の 目本 婦 人 客 を 抱 え た 業 界 は盛 況 であ つ た 。店 は ﹁女 唐 服 屋 ﹂ と い う 初 期 的 な 名 称 から 脱 し て、 ﹁ 婦 人洋 服 店 ﹂ と称 す る よう に な つた。 第 三、 四 代 と発 展 す る親 方 た ち と、 倍 増 した職 人群 が業 界 を占 め て 繁 栄 し た明 治 後 期 に、 職 人 制 の最 盛 期 が 展 開 さ れ た の であ る (3 ) 。 ︹註︺ 1 弟 子 扇 玉 新太郎氏談話 2 子 息飯島祥邦氏談話 3 ﹃ 立正史学﹄第 三 十 三 号 ﹁ 明治末年 の 洋 装﹂ 中山千代 昭和三十四年 一 月 四 徒 弟 は 弟 子 、 小僧 と いわ れ、 関 西 で はボ ン さ ん と呼 ば れ た 。義 務 教 育 修 了 後 即 ち 十 三 、 四歳 ( 数え年 ) か ら、 親 方 の家 へ 住 み こむ 。 初 期 業 者 では 小 学 校 四年 制 の十歳 前 後 で あ つた。 弟 子入 り の際 、 年 季 証 文 を 入 れ て雇 傭 契 約 を 結 ぶ こと は、 ご く 初 期 に は 行 われ た よう で あ る が 、 第 二、 三代 業 者 の頃 に は も う 見 ら れ な い。 ほ と ん ど世 話 人立 合 の 口約 束 で、 封 建 社 会 の親 方 制 裁 も な か つ た 。年 季 は 五年 か ら 七年 で、 兵 隊 検 査 が 目 標 であ る。 年 明 け の後 に 一 年 間 お 礼奉 公 を す る。 弟 子 は 技 術 を 教 わ る と いう た てま え から 、 給 料 は風 呂代 ・ 散 髪 費 等 の小遣 だ け であ る。 明 治 三十 ( 一 八 九 七 ) 年 ご ろ、職 人 の給 料 が 一 目 五 十銭 か ら 一 円 以 上 の時 、 弟 子 の小 遣 は 一 カ月 二十 銭 であ つ た 、 し か し 弟 子 は 住 み こ み で食 ・ 住 が 保 証 さ れ、 衣 服 も 木 綿 の 着 物 (冬 は 縞 、 夏 は 絣 ) し きせ と角 帯 ・ 足袋 の お仕 着 が 支 給 さ れ、 生 活 費 を 親 方 が 負 担 し て い る の で あ る 。仕 事 は朝 入時 か ら始 ま る。 夜 は夜 業 の 職 人 と 共 に 働 ら き 、仕 事 場 を片 付 け て其 処 に就 床 す る の は、 十 一 時 か十 二時 と な つ た 。職 人 の 夜 業 に は特 別 給 が あ るが 、 弟 子 に は蕎 麦 代 二銭 が 出 るだ け であ る。 し か し 一 銭 五厘 のお蕎 麦 を食 べ て 五厘 残 る のが 、 弟 子 にと つて は何 よ り の 楽 し み で あ つた。 そ のほ か、 客 か ら の チ ッ プ は 本 人 の収 入 と な つ た 。弟 子 の 仕 事 は、 毎 朝 の ラ ン プ 掃 除 と ア イ ロン吹 き から は じま る。 六 、 七箇 のラ ンプ を掃 除 す る と、 油 で手 が き しき しす るが 、 芯 の切 り か た が悪 いと 叱 ら れ る 。 ア イ ロ ン 吹 き と は ア イ ロン の炭 火 を お こす こ と で、姿 勢 を 正 し て アイ ロンを吹 き、 火 が よ く お こ れば 、 弟 子 も 一 人 前 と さ れ た 。 次 に 使 い 走 り が あ る 。親 方 や職 人 に指 図 さ れ て、 家 の内 外 で種 々 の使 に走 り ま わ る 。 そ のほ か掃 除 ・ 食 事 の支 度 等 の家 事 労 働 に 使 わ れ 、 子 守 な ど も さ せ ら れ た 。裁 縫 技 術 は針 の 持 ち か た か ら は じ ま り 、 針 に習 熟 す るた め に半 年 も か け てか ら、 縫 い 方 に進 む。 一 般 的 に親 方 が 手 を と つて教 え ると いう こと は な く、 仕 事 場 で の見 よう 見 ま こ ごと ね と勘 で覚 え 、 親 方 ・ 職 人 のき び し い小 言 を受 け な が ら上 達 し て い く 修 業 であ る。 親 方 は弟 子 の 質 問 に ﹁ 並 で よ い﹂ と いう 返 事 し か 与 え ず 、 気 に い ら な け れば た だ 解 い て しま う の であ つ た 。気 の 荒 い工房 で は勘 が 悪 いと 物 尺 で 打 た れ 、 鋏 を 投げ つ け ら れ た り す る。 徒 弟 間 に ﹁ 親 方 コ レラ で死 ね ば よ い﹂ と いわ れ た のは、 こ のよ う な 生 活 への レ ジ スタ ン ス であ つた 。 し か し技 術 を 習 得 しな け れぼ な ら な い弟 子 は 仕 (56)
婦人洋服職人制の展開 事 に 熱 心 で、 親 方 の裁 ち落 した布 を 拾 つて そ の 線 を 研 究 した り 、 夜 間 、 親 方 の寝 た後 に ド レ スを解 いて し ら べ、 ま た元 通 り に縫 い合 わ せ てお く と いう よ う な苦 心 を し た。 そ の気 持 は ﹁ 命 が け ﹂ と いう 言葉 で 表 現 さ れ、 ﹁ や か ま し い 師 匠 ほど よ い 腕 に な る﹂ 希 望 に 支 え ら れ て い た 。婦 人洋 服 と は全 く 無 縁 であ つ た 少 年 た ち が 、 徒弟 生 活 に 五年 か ら 七年 の長 年 月 を 費 し て、 裁 縫 技術 を 習得 す る の であ るが 、 ま だ ほ と ん ど カ ッテ ィ ング は でき な い。裁 断 技 術 は次 の 職 人段 階 の 修 業 に持 ち 越 き れ る の であ る。 し か し 徒弟 生 活 を 完 了 し た者 は、 ﹁ ○ ○ (親方名) の 弟 子﹂ ﹁ 何 某 出 ﹂ と いう 評 価 を 得 る の であ る。 徒 弟 生 活 に耐 え ら れ ず 中 途 で 親 方 の 家 を 出 た者 、 技 量 不 足 者 に出 身 と 称 さ れ る のを 嫌 つ た 親 方 か ら、 年 明 け 直 前 に解 雇 さ れ た 者 は、 半 端職 人 と いう 烙印 を押 さ れ て好 遇 さ れ な か つ た 。 徒 弟 出 身 の 資 格 は 、職 人 への出 発 に 必 要 な技 術 証 明 であ り 、 技 術 者 と し て の 一 生 涯 に も有 効 な レ ッ テ ルで あ つた。 年 季 が 明 け てお 礼 奉 公 を す ま せ た 徒 弟 は 、親 方 の 家 を出 て職 人 と な る。 最 初 の職 場 は 親 方 か ら 推 薦 さ れ 、 通 い の 出 職 人生 活 が は じ ま る。 職 人 に な つてか ら も 技術 に対 す る意 欲 が強 く、 優 秀 な技 術 を 獲 得 す る た め に 、転 々と各 地 の 親 方 の 家 を ま わ つて働 らく の であ る。 石 塚亀 太郎 ( 明 治 十 五年 生 ) 横 浜 ﹁ 雲 記 ﹂ 弟 子 ( ︼ 五 ∼ 一 入歳 ) 1 ﹁ 片 山 喜 三郎 ﹂ ー 神 戸 ﹁ 田中 久 吉 ﹂ ( 一 九歳 ) ー 長 崎 ( 二〇 歳 ) ー 横 浜 ﹁ 雲 記 ﹂ r 東 京 ﹁黒 崎 金 太 郎 ﹂ ( 二五 歳 ) ー ﹁ ミ ス ・ ゲ r ル ツ﹂ 西 島 芳 太 郎 (明 治 二十 年 生 ) 東 京 ﹁大 河吋 治郎 ﹂弟 子 ( 一 五 ∼ 一 九 歳 ) 1 ﹁ 飯 島 民 次 郎 ﹂ ( 一 九歳 ) ー ﹁ 山本 仁 太 郎 ﹂ (二 〇 歳 ) ー 横 浜 ﹁ レン ク ロフ オ ー ド ﹂ i ﹁ ケ ン鈴 木 ﹂ 1 ﹁ 双 野絹 店 ﹂ i ﹁ 古 橋 栄 太 郎 ﹂ 1 ﹁ 井 上 徳 二郎 ﹂ ー 東 京 ﹁ 鳥 居 市 平 ﹂ ( 二 二 歳 ) 1 小 樽-札 焼ー 東 京 ﹁ 大 河 内 ﹂ ( 三 三歳 ) 所 精 司 (明 治 二 十 五年 生 ) 横 浜 ﹁ 富 永 信 三郎 ﹂ 弟 子 ( 一 六 ∼ ニ ニ歳 ) i ﹁ 雲 記 ﹂ ( 二 三 ∼ 二六 歳 ) 1 東 京 ﹁ 飯 島 民次 郎 ﹂( 二 七 ∼ 二九 歳 ) ー 横 浜 ﹁ ア ー サ ーポ ン ド ﹂ ( 三〇 ∼ 三 二歳 ) 1 東 京 ﹁ 飯 島 ﹂ ( 三 三歳 ) わたり これ は職 人 社 会 に 行 わ れ る ﹁草 鞋 ぬぎ ﹂ で あ つて、 旅 に出 て ﹁ 渡 職 よ そ もの 人 ﹂ ﹁ 他 所 者 職 人﹂ と な つて技 術 を 磨 いた 。 秘 密 主 義 閉 鎖 社 会 で、 技 術 向 上 を は か る 唯 一 の 道 で あ つた。 い ちにん 職 人 の 仕 事 は午 前 八時 か ら午 後 五時 ま でを 一 人 と し、始 業 前 の 午 前 七時 か ら 八時 ま で の仕 事 は ﹁ 朝 よな ぺ﹂ と い つて 一 人 の四 分 の 一 、終 業 後 の 午 後 五時 から 十 時 ま で の ﹁ 夜 な べ﹂ に は 、 一 人 と同 じ給 料 が 支 払 わ れ る。 日給 は技 術 の程 度 に よ つて 定 め ら れ る。年 明 け後 しば ら く は 一 日 三〇 銭 、 技 術 の進 歩 に随 つて五 十銭 i 六 十銭 r 一 円 (明 治 三十 年 ご ろ) と な つ た 。横 浜最 大 の 店 であ る ﹁ 雲 記 ﹂ の 職 長 は、 最 も 優 秀 な 職 人 と し て 一 円 三 十銭 であ つた 。他 職 の 賃 銀 、 石 工 七 十-七 十 五銭 、 建 具 職 . 畳職 七 十銭 、 左官 五 十 五ー 六十 銭 、 大 工 五十 r 六 十 銭 、 和 服 仕 立職 五 十-五 十 五銭 、鍛 冶 職 四 十 ー 六十 五 銭 、 活 版 職 二 十ー 五 十銭 (﹃ 経済雑誌﹂ 明治 二 +九年 ) に 比 べ 、洋 服 仕 立職 の 賃 銀 は最 も 高 い。 さ ら に夜 な べ、 朝 よな べ と働 ら き 、 ま た そ の間 に 他店 のド レ スを 一 枚 五円 から 二円 五十 銭 で仕 立 て る ア ルバ イ ト も でき る ので、 一 カ 月 の収 入 は 五十 円 以 上 とな り 、 当 時 の サ ラ リ r マン の 月 収 二十 ー 三十 円 より 遙 (57)
研究 紀要 第18集 かに 多 い . 職人たち の 生活費 は 家族 三人で 一 ヵ 月 +円 (株 蠍 ヒ 盟 讙 罫 簗 俵 )の 家計費 に 家賃 五円 、計 +五 円 であ つ たか ら、生活 は 豊 か であ つ た (-) 。 し か し ﹁ 宵 越 し の 金 を持 た ぬ﹂ と いう 職 人気 質 で 濫 費 し、 晦 目払 い の日 給 を 前 借 す る者 が多 か つた と いう。 職 人 の技 術 は こ の 日給 で評 価 さ れ 、 ﹁ 何 銭 の職 人 ﹂ と いう 技術 の 序 列 が で き た。 五 銭 上 の 職 人 に は絶 対 服 従 しな け れ ば な ら ず 、 よ い 腕 を も つ 賃 銀 の 高 い 職 人 を 目標 に、 技 術 を 磨 く の であ る。 収 入 の面 か ら も 、職 人 の 誇 か ら ばい た も 、技 術 中 心 の 生 活 であ つた。 ﹁生 意 気 いう な ら盤 枚 で来 い ﹂ と いう の は 、職 人 のすご ん だ時 のせ り ふ であ る。 盤 板 は裁 断 台 の こと で、 技術 で は ひけ を と ら な いと いう職 人 の 自 尊 心 であ る。 技 術 優 秀 な 職 人 の名 は渇 仰 的 に拡 ま る。 横 浜 最 高 の 技 術 者 田 中 久 吉 、 ド レ スで は 吉 原 高 治 、 テ ー ラー で は石 塚亀 太郎 が有 名 と な り、 東 京 で は 山形 八十 八、 中 島 常 吉 、 中 島 広 吉 が 三名 人 と し て知 ら れ て いた 。優 秀 職 人 に は親 方 間 の争 奪 が 行 わ れ、 日給 を 十 銭 増 し て ス カウ ト す る例 も あ つた 。職 人 は 吋 尺 で採 寸 し鯨 尺 で仕 立 て る の で、 ど ん な こま か い吋 寸 法 でも 即 座 に 鯨 寸 法 に換 算 で き る。 型 紙 は目 分 量 で切 り、 一 厘 (〇 ニ ニ 七 ミリ ) の 違 いも わ か ら な く ては な ら な い。布 地 に ﹁ じ か裁 ﹂ す る職 人 は、 生 地 を 見 た だ け で ス カ ー ト の蹴 ま わ し 寸法 が わ か り、 物 尺 一 本 で裁 断 線 を 生 地 に描 く 。 立 体 裁 断 の ﹁ スタ ン 裁 ﹂ では 、 人台 に か け た布 地 を伸 ば し た り いせ た り し て、 ダ ー ツを 一 本 も と ら ず に 、体 型 に ぴ つ た り合 わ せ る ので あ る。 長 裾 の絹 のド レ スは糸 一 本 も つ れ る こと を 許 さ れず 、 ﹁ 水 の た れ る よう な スカー ト ﹂ が 出来 上 る。 これ は、 徒 弟 の 年 季 修 業 、 職 人 の草 鞋 ぬぎ の技術 修 練 の 間 に培 わ れ た勘 と熟 練 に よ る、 優 秀 な 技 術 であ つ た 。 初 期 の婦 人 洋 服 職 人 の服 装 は、 他職 と同 じ 股引 腹 掛 であ つた。 景 気 の よ い職 人 は琥 珀総 裏 の 腹 掛 に百 円 札 ( 明 治 の 百 円 札 は通 常 生 活 に 不必要な 高額紙幣 である ) を 入 れ て いた と いう こ と であ る。 中 期 以 降 は角 袖 の 着 物 に 角帯 を し め た 。 洋 服 の 着 用 は関 東 大 震 災 以 後 であ る。 洋 服 仕 立職 であ り な が ら 近代 服 への関 心 を お く ら せ た のは、 閉 鎖 的 な職 人 意 識 であ る。 名 人気 質 の技 術 への志向 、多 額 な収 入 を濫 費 す る傾 向 な ど に、 江 戸職 人 の生 活意 識 が 受 け 継 が れ て いる 。 綽名 の 通 用 も、 そ の伝 統 的 な生 活 様 式 の 一つで あ つ た 。 綽 名 は外 見 ・ 性 質 ・ 性 癖 な ど に よ る愛 称 で、 本 名 よ り容 易 く 通 用 し て いた . ﹁ カ ン ビ ﹂ (罐 超 、 ﹁ 狸 の松 さ ん ﹂ ( 鷲 昜 誰 所 ) 、 お神 楽 の蔵 さ んL (神楽ばやし が上手) な ど の ほ か、 ﹁ 芒 霧 ﹂ ( 黌 彝 焔 ) 、 昊 狗 の 亀 さ ん ﹂( 繖飜 慢の ) な ど技 術 に 関 し た のも あ り 、 ﹁ バ イ ス の テ ッご ( テー プをバ イヤス で 作 つ て 笑 われ た) は洋 服 仕 亠鉱 職 独 特 の綽 名 であ る。 こ のよ う に 明治 の 職 人社 会 は、 生 活 意 識 に江 戸 職 人 の伝 統 を 継 ぐ 面 が 多 い。 し か し制 度 上 に は親 方 制 裁 や職 人鑑 札 も な く、 就 業 の自 由 を 認 め ら れ て い る職 人 に は、 親 方 と の 身 分 的 紐 帯 は失 わ れ て いる。 封 建 的 な 桎 楷 はな く な つ た が 、職 業 上 の保護 も な く な つて 、職 人 は賃 銀 労 働 者 化 す る。 技 術 練 成 から 出 発 した 草 鞋 ぬぎ も 、 技術 が 一 応進 歩 し た後 に は、 顧 傭 主 を転 々 とす る賃 銀 労 働 者 の姿 に変 つて いく の であ つ た 。 そ し て 親 方 対 職 人 は労 資 の 対 立 関 係 に変 る の であ る。 そ の実 態 は 、 明 治 三 十 二 ( 一 八 九 九) 年 か ら横 浜 に起 る待 遇 改 善 問 題 に表 われ て来 る。 これ は 西 洋 人 経 営 の 店 ﹁ ビ ンセ ント﹂( ζ 目OD ° < 同b .O O b rけ) の 職 人尾 崎 寛 一 郎 から (58)
婦人洋服職人制の展開 は じ ま り 、 日本 人 . 中 国 人職 人が 団 結 し て業 者 への待 遇 改善 要 求 と な つた 。 し か し両 者 は和 解 し て、 第 一 回 日清 同 盟 組 合 を 結成 した 。 ド レ ス ・ メ ー カ ー に は 日本 人 の ほ か中 国 人 が 多 か つ た の で、 日清 の 名 が冠 せ ら れ たが 、 頭 取 に は親 方 の田 島 寅 造 、 副 頭 取 に は 職 人 の 鈴 木 菊 次 郎 と原 田勝 太 郎 が 就 任 し て、 親 方 と職 人 と の 同 盟組 合 であ つた。 つ いで 三十 九 ( 一 九〇 六) 年 に再 び 起 つ た 親 方 対 職 人 の衝 突 は、 同 盟 罷 行 ( ス トライキ ) に発 展 した 。 就 業 時 間 を争 つた ので あ るが 、 時 間 延 長 は賃 銀 の低 下 に な る の で、賃 銀 闘 争 に ほ か な ら な い 。 各 店 で は職 人 た ち が ピ ケ ラ イ ンを は り 、組 合 歌 を歌 つ て 就 業 を 妨 害 した 。 横 浜 最 大 店 ﹁ 雲 記 ﹂ に は 煉 瓦 が投 げ ら れ、 ﹁ 雲 記 ﹂ 側 も 煮 湯 を 用 意 す る過 激 な 争 議 にな り 、煉 瓦 を投 げ た職 人 十 七、 八名 が 逮 捕 さ れ た 。 そ の結 果 職 人 側 は三 月 か ら 入月 ま で、 半 年 間 の 就 業 時 間 三十 分 延 長 を 余 儀 な く さ れ て敗 れ た 。 し か し 九月 か ら翌 年 二月 ま で の時 間 延 長 を 、 阻 止 す る こと が でき た ので あ る。 こ の 時 第 二回 日清 同 盟 組 合 を 組 織 し て、 労 資 の 宥 和 を は か つた。 同 組 合 は労 資 対 立 の情 勢 に よ つて、 さ ら に第 三 、第 四 同 盟組 合 へ 改 組 さ れ る (2) 。 ( 職 人 制 の仕 事 場 に働 ら く 女 性 は手 伝 と いわ れ た 。 江 戸 の手伝 職 は道 具 を 持 た な い下 層 職 人 であ つ た が 、 婦 人洋 服職 の手伝 は女 性 に限 ら れ た 。 彼 女 等 は職 人 に 属 し て、 ま つ り ・ ボ タ ン 付 け ・ 飾 り の裁 縫 な ど補 助 的 な 仕 事 を 手 伝 う ので あ る 。 手伝 二 人を 使 う 職 人 は 一 人 前 と い われ た が 、 手 伝 を持 た ぬ職 人が 多 い の で、 手 伝 の総 数 は職 人 より は る かに 少 な い。賃 銀 は職 人 の 半 額 で、 七 十銭 の職 人 の手 伝 に は 二十ー 三 十銭 が 、親 方 か ら支 払 わ れ て い る。 手 伝 は通 い であ るが 、 親 方 の 家 に住 み こん で技術 を磨 いた女 性 は女 職 人 に な る こ とが でき る。 職 人 と同 じ仕 事 を し て、 一 人前 の 賃 銀 を 得 る の であ る 。 しか し親 方 側 も 女性 自 身 も 、住 み こ み の条 件 を こな す こ と は困 難 であ る から 、職 人 に ま で到達 し た女 性 は少 い。 中 島 い ね、 吉 田 か え (吉 田 常吉夫 人 ) 、 小 川勇 夫 人 は 優 秀 な職 人 と同 じ待 遇を 受 け、 おな つ さ ん (横浜最高 の 職 人と云われ た 田 中久吉夫 人と な る ) は ﹁ 横 浜 一 等 の婦 人 技 術 者 ﹂ と 云 わ れ た 。 ﹁ マ ダ ム 漁ロ ネ ﹂ (竃 巴 鋤 日 ピ 9 コ 昌 鋤 団 ) の目 本 人職 人 の 手伝 ミ ス ・ イ ネ スと ミ ス ・ヘ イ は後 に 独 立 開 業 し て、 女 性 ド レ ス ・ メ ー カ r に成 長 し た 。 職 人 の生 活 を 続 け て 一 生 を職 人 で 過 ご す者 も あ るが 、 資 本 を 貯 え て 独 立 開 業 した 者 は 親 方 と な る 。居 職 入 であ る親 方 は、 徒 弟 と職 人を 擁 す る工 房 で の 最 高 技 術 者 であ る。 弟 子や 職 人 に見 ら れ ぬ よう に、 洋 服 は夜 間 に裁 断 す る。仮 縫 も親 方 の 仕 事 で あ る。 ま た 親 方 は 注 文 を 取 り 、勘 定 を集 め に ま わ つ て 店 を経 営 す る。 顧 客 は西 洋 人 も 目本 人 も 上 流社 会 の 富 裕 層 で 、 長 裾 スタ イ ル の 洋 服 の 仕 立 料 は 高 価 で あ つ た 。 ﹁ 大 礼 服 百 五十 円 以 上 三百 円 内 外 、中 礼 服 五 十 円 以 上 百 五 十円 位 に て 、 之 も お 好 み 次第 に ては 四 百円 以上 に ても調 へ 得 べ し﹂ (﹃ 風俗画報﹄第 三 三二 号 明治 三 +九年 一 月 ) と いう宮 廷 服 のほ か 、 通 常 のド レ ス も 七 円 か ら 十 二円 で あ る。 三 十 九 ( 一 九 〇 六 ) 年 の米 一 升 十 三 銭 七 厘 、 四 十 三 ( 一 九 一 〇 ) 年 の 一 人 当 り 一 カ月 の生 活 費 七円 入 十 銭 (3 ) であ る か ら 、 親 方 の収 入 は多 額 で裕 福 であ る。 西 洋 婦 人 顧 客 はド レ ス の技術 に対 し て、 特 に高 額 な 仕 立 料 を 支 払 つ た 。 山 室 婦 人洋 服店 ( 山室 千蔵 ) は 四 十 ( 一 九 〇 七) 年 に、 横 浜 グ ラ ンド ・ ホ テ ル 滞 在 の婦 人 か ら 、 イブ ニ ング ・ ド レ スの注 文 を 受 け た 。 生 地 は ド ロンウ オ r ク の 穴 のあ る、 タ (59)
ブタ地 で あ つた。 山 室 は考 案 の結 果 、 薄 地 のゴ ー スを グ リ ー ン、 と き 色 、 ク リ ー ム の三色 に染 め、 三枚 を 重 ね て裏 地 に した 。 三色 重 ね の 裏 地 は玉 虫 のよ う に 色 が 変 化 し て、 表 地 の穴 か ら それ ぞ れ 違 つ た 色 が 美 しく 光 つ た 。 表 地 を 九 ヤ ー ル ( 八 ・ 一 メ r ト ル ) 使 用 し て 一 カ月 半 を 費 した こ の ド レ スに、 顧 客 は ﹁ 各 国 を ま わ つたが 、 こ のよう な見 事 な ド レ スは始 め て﹂ と感 心 し、 仕 立 料 は いく ら でも 払 う と いう 。 山室 は思 い 切 つて百 五十 円 の価 を つ け よ う と 思 つ た が 、 そ の 客 を紹 介 し た者 が 五百 五 十円 と し、 客 は六 百 円 を 支 払 つ た (4 ) 。 同 じ ころ東 京 の コ 扇 屋 婦 人洋 服 師 ﹂ ω ゜ ○ αq ぐ ⇔ U器ω ゜・ζ9 犀 奠 (扇 玉新 太 郎 ) の 仕 事 は、 西 洋 婦 人 に賞 讃 され て繁 昌 し て いた が 、 日 本 刺繍 で三 段 に ぼ か し 聴 た蓮 花 をデ ザ イ ンし たウ ェ デ ング ゜ ド レ ス に は・ 驚 ろ く ほど高 額 な仕 第 立 料 が 支 払 わ れ て い る。 親 方 は技 術 を 誇 り 、 ま た そ れ は多 大 な収 入 に 要 紀 つなが る の であ る。 扇 玉 新 太 郎 は四 十 二 ( 一 九 〇 九 ) 年 に 、洋 装 店 と し 究 研 て最 初 の ピ コミ シ ンを 九 百 八 十 円 で購 入 し た 。 シ ンガ ー ・ ミ シ ン 会 社 は高 価 な ピ コミ シ ンを 買 う と いう 扇 玉 を相 手 に し な か つたが 、 百 円 札 を 十 枚 並 べ て見 せ ると 驚 ろ き 、態 度 を変 え て歓 待 し て 、 ピ コ ミ シ ン を 組 み立 てた の であ る。 扇 玉 の 店 は 硝 子 戸 で 、 ロ ー マ 字 の 看 板 を掲 げ 、 絨 氈 を 敷 き 、 左 右 に鏡 を は つ た 仮 縫 室 に は 裾 丈 を は か る 廻 り舞 台 を 設 け 、 水 洗 ト イ レ を 設 備 す るな ど、 工夫 を こら し た 洋 風 で あ る。 こ のよう な立 派 な 店 を 構 え た 業 者 は、 洋 服 を着 用 し て いた (5 ) 。 巡査 の 月 給 が 十 二円 の時 、 十 二円 のド レ ス を 数 十 枚 仕 立 てる 親 方 た ち は 、 一 カ月 契 約 十 五円 の お抱 車 夫 の 人力 車 に 乗 つて、 仮縫 に 行 く ので あ つ た ( 6 ) 。 横 浜 の塩 見 辰 三郎 は本 牧 に 別 荘 を 建 て、 船 を造 つ て釣 を楽 し む豊 か な生 活 であ る ( 7 ) 。 小 唄 、 踊 な ど の芸 事 に 巧 み な 通 人 が 多 い の も 、 経 済 的 に恵 まれ て いた から であ る。 親 方 は新 興 産業 の 成 功 者 で あ つた。 ︹ 註︺ 1 横 浜 の 業 者川口勇氏 談 話 2 横 浜出 身 、三橋喜之助、石塚亀太郎氏談話 3 ﹃ 婦人之 友 五十年 の 歩み﹄明治四十三年 の 家計 簿 藤 田まさ 4 山室千蔵氏談話 5 扇玉新太郎氏談話 6 横浜出身、 田 畑年光氏談話 7 子息塩見正信氏談話 五 明 治 洋 装 の縫 製 技 術 を 開 拓 し発 展 さ せた の は、職 人制 であ る 。 こ の よう な 分 野 の歴 史 は文 献 史 料 に乏 しく 、 研究 が 困難 であ る 。 そ の 時 代 に生 き た人 々が 現 存 す る時 に 、 談 話 を集 め てお か な け れば 、 当 時 の 状 況 は わ から な く な つて し まう 事 を 痛 感 し て、 現業 界古 老 四 十余 名 の口 述 史 料 を 採 訪 した 。 そ の間 す でに 、故 人 と 渠 ら れ た 方 も多 い。服 装 の 歴 史 は様 式 の推 移 と、 そ の基 盤 とな る社 会 の歴 史 的 進 展 に よ つて 構 成 さ れ る。 し か し そ れ は主 と し て着 用 者 側 から の研 究 であ る。 衣 服 を製 作 し た生 産 者 が 、 ど のよ う な歴 史 的 役 割 を 果 た し て い る かと いう こと が 、 裏 付 け さ れ る 必要 が あ る。 史 料 に乏 し い こ とが こ の問 題 を 困難 に し て いるが 、 業 界 人 の 口述 史 料 を 得 ら れ る明 治 以 降 の洋 服 業 で は、 ま だ可 能 で あ る。 (60)