認識と実在
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(2) 認識と実在 清島. 含む或る時空間の一切断面にすぎない。貴方の心が捉える 「人間にとっての 樹木」以外にも、それには、様々な異なる様相がある。 犬が、 黒白の視覚と 極度の鋭い臭覚で捉える「犬の樹木」。 人には見えない紫外線を見ることが 出来る蝶などの 「昆虫が見る樹木」。. コ. ウモリが反射してくる超音波で捉え. る 「樹木」。 赤外線写真が捉える「樹木」。 X線写真で見た 「樹木」。 重力場 で捉えた単なる空間の歪みとしての「樹木」。 エネルギ ー の局所的特殊状態 としての「樹木」。 更に、観察尺度の大きさを変えると、 細胞の集合体であ る複合生物のような 「樹木」。 単なる化学物質の流動体としての 「樹木」。 内 部が殆どガランドウの原子から成る「樹木」。 この原子レベルにまでなると、 樹木とその周囲の境界すら曖昧になってくる。 又、観察の時間の尺度を変え ると、極めて短い寿命を持つ生物から見た 「不変不動の樹木」。 SF的にな るが、樹木とは桁違いに違う長い寿命を持つ地球外生物にとっての「はかな い泡沫のような樹木」。 等々の樹木の異なる様相は、無数にある。 この点で、 樹木は、無限多様態と呼び得るものである。 我々人間が、「樹木」 と言う言 葉を使い、その存在を認識することは、その無数の様相の内の或る特定の様 相に注目する作業に他ならない。 その注目行為は、樹木と言う無限多様態の 切断と呼び得る。 そもそも、「そこに樹木がある」 こと自体を認めないような生物もいるか もしれない。 人間や犬や鳥や昆虫にとって、樹木は、ぶつかれば痛いし抵抗 があるから、「そこに確かにある」 ものだが、それは、あくまでも、 その生 物と樹木の間に<ぶつかる><痛い>などという死活問題の相互作用が起る 場合のことである。 その生物と樹木の間に、そのようなシリアスな相互作用 が有り得ない場合は、その生物にとって、樹木の存在を認めること自体が起 り得ないだろう。 我々が目にする現在の地球上の生物の殆どは、多かれ少な かれ、樹木との相互交渉(ぶつかったり、そこで休んだり、その実を食べた りなどの行為)の末に進化してきたので、かなりの生物が樹木の存在を認知 するのは、 当たり前である。 しかし、樹木を通り抜けてしまうような知的存 (82). -147-.
(3) 文学・芸術・文化 11巻l号(通巻第26号) 1999.12 在がいたとしたら、 その者にとって 「そこに樹木はない」 ことになる。 例え ば、 その心身が或る電磁波から出来ているような知性体、. ニ. ュ. ー. トリノの特. 殊な流れの上に発現している知性体、 素粒子より小さい知性体などがいたと したら、 彼等の生存にとって、 人間が見る「樹木」 は殆ど何の関りもない。 こんな SF 的知性は、 樹木とその周囲を区別することすら必要ないから、 我々 人間が言う「樹木」の存在を認めないはずだ。 そもそも、 そんな SF 的知性 体と人間とは、 相互に干渉しないだろうから、 お互いの存在にすら気付かな いと思われる。 このような空想上の生物でなくとも、 現実に地球に居るウィ ルスや微細な細菌にとっても、「樹木」 は有るか無いかが怪しい。 樹木の枝 で殴ったり、 つぶそうとしても、 そんな行為はウィルスなどの死活に殆ど影 響を与えないだろう。 そんなウィルスなどが、 樹木と樹木でないものの区別 をするかどうかすら疑わしい。 無論、 樹木に寄生したり、 そこだけを生活の 場とするようなウィルスや細菌にとっては、 樹木は存在するが、 そうでない ものには、 恐らく、 樹木は存在しないだろう。 風にそよぐ樹木も、 体内時計の早いハチドリや蚊から見たら、 殆ど不動の ものに見えるはずだ。 或は、 せいぜい、 のろのろと動く巨大物体と映るくら いだろう。 逆に、 古代の巨大な草食恐竜にとって、 樹木は、 せわしく揺れ動 く小さな食べ物だったと思われる。 そして、 ハ チドリ、 蚊、 恐竜、 人間が見 る 「それぞれの樹木」 は、 色や形などでも、 かなり違っているだろう。 各生 物の知覚器官や身体構造が、 それぞれ違っているからだ。 そして、 「それぞ れの樹木」 は、 どれも、 その樹木の真の姿である。 より正確に言うと、 それ ぞれが、 樹木の持つ無数の様態の内の一つである。 我々人間が見たり、 心に 思い描いたり、「樹木」 と言う言葉で呼ぶ物は、 人間の知覚器官と心身で捉 えた樹木の一断面である。. ハ. チドリが見る「樹木」 は、 ハ チドリの体と知覚. 器官で捉えた樹木の一断面である。 又、 前の節で述べた SF 的なニュ. ー. トリ. ノ知性体や極小知性体にとっては、「樹木」 は見えない非存在のものである が、 それも樹木の或る一断面と言い得る。 - 146-. (83).
(4) 認識と実在. 清島. 樹木に限らず<物>は、何れも、無数の様態、様相から成っている。 観察 する際の空間的尺度・時間的尺度・観察手段を変えてみれば、その異なる様 態の幾つかは現れる。 我々が行う「見る」「捉える」 などの行為は、無数の 様態の重ね合わせである<物>を切って、その切断面である一 つの様態に注 目する作業に他ならない。 認識とは、<物>という無限様態の切断と言い得 る。 切断のやり方が異なれば、切断面も違ってくるので、その<物>の姿は 違ってくる。 電子などが、観測のやり方によって、波の性質や粒子の性質を あらわすことも、その良い例である。 <物>を見る者の身体や知覚器官が異 なれば、当然、その切断の仕方も異なるので、見えている<物>の姿も違っ てくる。 人間が使っている様々な観測道具 (顕微鏡や赤外線写真やガイガ ー カウンタ. ー など)は、人の知覚器官の延長であり、それらの道具によって人. は本来肉体に備わっている以外の知覚器官を手にしたことになる。 そういう 新種の異なる道具を使って<物>を見ようとすると、道具によって<物>の 切断の仕方が異なってくるので、その<物>の姿は異なってくる。 実際に<物>を認識するためには、まず、何らかの知覚器官やその延長で ある道具を使わざるをえない。 その時には、或る特定の知覚器官・道具を使 ぅ。 特定のものを使うとは、それらに特有の切断面だけで、<物=無限多 様態>を切ることである。 それは、無数に可能な切断の仕方の内から 一つだ けを選ぶ作業に他ならない。 例えば、人間の目を使って<物>を見る場合は、 「可視光線の波長の電磁波」 と言う切断面を選んで、その <物>を切るわけ であり、その際には、他の波長の電磁波による切断面などの無数のものは姿 をあらわさない。 現実には、我々人間は幾つかの異なる種類の知覚器官を同 時に働かせているので、幾つかの種類が異なる切断を同時に行う。 目、耳、 鼻、肌、舌などを一緒に働かせているので、複数の切断面を同時に認知する。 しかし、それでも、可能な切断面は無数に有るのだから、その無数なものの 内のわずか数個のものを選択しているに過ぎない。 認識とは、物の無限の切 断面の内から幾つかを選ぶ作業とも言い得る。 醤えで言う。 胡瓜の中身は切 (84). -145-.
(5) 文学・芸術・文化 11巻1号(通巻第26号) 1999.12. らないと分からない。 切り方には無数の可能なやり方があるが、とにかく中 を実際に見るためには、何か 一つの切り方を選んで実際に切り、その切断面 を見るしかない。 無数の切断可能面から一 つ(或は有限個の幾つか)を選ん で切ること、これが胡瓜の中身を見ることである。. 【比喩の話】 「認識=無限多様態の切断」 と言うことの比喩を、 空想世界を使って述べ よう。 壁の影のような二次元知性体がいる平面世界での話である。 壁の上を いろんな形の影がうごめいてる様を思い浮かべていただければ良い。 何らか の方法で、この影のような二次元人は、自分の世界に存在する他の影のよう なもの(自分の仲間や二次元物体)を知覚できたとする。 そして、その厚さ の無い彼等の平面宇宙を、胡瓜やサイコロのような三次元物体は通り抜ける ことが出来るとする。 さて、この二次元人達と我々人間が接触するに至り、彼等が我々の世界の ことを知りたがったとする。 彼等は「人間の姿」をどうやって見ることが出 来るか。 彼等は三次元立体を、そのままの姿(三次元イメ. ー. ジ)では認識で. きない。 彼等が認識できるのは、 その三次元立体の切断面、つまり、彼等の 宇宙に現れる影のような二次元切断面だけである。 これは、彼等の身体と知 覚器官の構造上からくることである。 我々が彼等の平面世界を通り抜けると、 そこに我々の身体の切断面があらわれる。 この切断面によって、彼等は「人 間の姿」 を見ることが出来る。 無論、通り抜け方によって、人体の無数の異 なる切断面があらわれる。 或は、彼等の科学が発達していて、平面宇宙を自 在に歪ませることが出来たとすると、彼等は、 人間の身体の無数の切断面 (様々な曲面)を、幾らでも、自分達で見ることが出来ることになる。 彼等 にとって、「人間を見る」 ということは、人間と言う無数の様態・様相を持っ たものを二次元平面で切断する作業である。 二次元人達が他の三次元物体を 見ようとする場合も、すべて、これと同じで、彼等の知覚器官や道具が捉え -144-. (85).
(6) 認識と実在. 清島. ることの出来る二次元切断面で、 その立体を切ることになる。 さて、 その平面世界に 「サイコロ論争」 と言うものが有った。 サイコロは、 切り方によって、 三角形、 長方形、 正方形など様々な断面をあらわす。 二次 元人達にとって、 三角形と四角形は全く異なるものなので、 それが 「サイコ ロ」 と呼ばれる一つの物の姿であるとは、 初めの内は、 理解できなかった。 「一 つのもの」 が完全に相反するような異なる姿をしている 、 というのは、 三次元世界との接触以前の平面世界では、 有り得ないことだったからだ。 接 触し始めた頃、 二次元人の学者達は、 「サイコロの<真の姿>」 が三角形か 四角形かで、 学界を二分するような大論争すらした。 「サイコロ」 や 「人間」 の存在そのものを疑うような論すら登場した。 しかし、 その後、時が経ち、 「サイコロ」 や 「人間」 などの切断面が数多く集まるようになると、 そのよ うな論争も次第に下火になって行った。 そして、 多くの学者達は次のように 思うようになった。 「サイコロは三角形のような側面も四角形のような側面 も持ち、観測の仕方により異なる側面があらわれる。 そのように、 我々平面 世界には馴染みの無かった変なものだが、 この奇妙な性質こそ三次元世界と 言うものの特徴だ。 我々二次元人には少しイメ. ー. ジしにくいけれども」 と。. 又、 或る学者は次のような解釈もした。 「サイコロとは、 三角形や四角形な どをあらわす幾つかの関数の重ね合わせの状態にあるもので、観測によって、 その関数が収束する」と。 こうして、彼等は 「サイコロ」に慣れた。(以上 は、 我々人間世界での鼠子論をめぐる歴史と同じである。) 二次元平面人が直接に感知できるのはサイコロの一切断面だけだが、 異な る切断面の様々な姿を、 精神の中では、 統合して把捉できる。 初めの内は慣 れないが、時が経ちデ ー タ が集まると、 想像力を働かせて、 それら異なる切 断面を統合できるようになる。 心によって、 かなりの数の切断面を、 まとめ て捉えることが出来るようになる。 これは、 我々人間にとっても同じである。. (86). -143-.
(7) 文学・芸術・文化 11巻1号(通巻第26号). 1999.12. 【異なる切断面の把捉】 ものの異なる切断面を同時に知覚するのは難しい。 物体Aの白黒像と赤 外線像を同時に重ね合わせて認識することは、 頭の中での知的総合を行わな い限り、殆ど不可能と思われる。 普通の人の目を使った場合、白黒像や赤外 線像は見えず、並みの色彩像Aがあらわれるだけである。 犬の 目ならば、. A の白黒像だけがあらわれるだろう。 モグラならば、 A の臭覚像とか触覚 像だけかもしれない。 特定の機具(カメ ラやフィルムなど)を使って白黒像 を得た場合は、赤外線像は得られないし、 逆に、赤外線像を得る機具を使用 した場合は、 白黒像が得られない。 高倍率の顕微鏡を使った場合、 A の微 細構造は現れるが、それと同時に極大構造までが現われることはない。 電子 顕微鏡を通した場合、普通の光学顕微鏡を通した場合の像は現れず、その逆 も、 また言い得る。 A の魚眼レンズ像と人眼レンズ像とが、 同時に 現れる ことも無い。(魚眼レンズで見る限りは、人眼レンズ像が見えることはない) 更に、少し違う角度から言うと、現代物理学で物体Aを記述した場合は、 そこに A の民俗・歴史的側面はあらわれない。 仏教で空を得く中観説で A の姿を述べる限り、そこに、 ヒンドゥ. ー. の自然科学ニャ. ー. ヤ・ヴァイシェ. ー. ツ カ学派の描く A 像はあらわれない。(あらわれたしても否定の材料として だけ) しかし、我々は上に述べたような物体 A の異なる諸切断面を、 同時に心 で 「思い浮かべる」 ことができる。 一つの道具・媒介手段を通した場合は、 一つの切断面しか捉え得ないが、そうして得た様々な切断面の様相を記憶に 貯えて、それらを結び付けて、Aを思い描くことが出来る。 <無数の様態、 姿の重なり合わせとしての物体 A> というものを。 通常 、 我々人間は、 そ れを或る程度やっている。 しかし、物体 A の可能な切断面は無 限であり、 それに対して、我々が手にする切断面は常に有限個である。 つまり、どうやっ た所で、 胡瓜の可能な全ての切り口を、実際に見ることは出来ない。 幾ら多 くの角度から胡瓜を切って、その様々な切断面を調べたとしても、常に、切っ -142-. (87).
(8) 認識と実在. 清島. てない別の角度の切断面が無数に存在する。 だからと言って、「我々は、 結 局、 物の真の姿を知ることは出来ない」 などと悲観する必要はない。 胡瓜の 無限の切り口を、 無限時間かけて調べるまでもなく、 ある程度の数の切断面 を見れば、 それを材料にして、 想像力を働かせて、 我々は胡瓜の全体像らし きものを思い浮かべることが出来る。 有限個の材料から、 全体のイメ. ー. ジを. 作ることが出来る。 この心の機能 (手持ちの切断面の統合と、 それによる想 像)は、 恐ろしくもあり、 素晴らしいものである。 これ故に、 我々は限られ た切断の仕方で、 物体Aの全体を何となく理解できる。 二次元平面人達が、 長い努力の末に、 彼等が観察した限られた切断面から、「サイコロ」 と言う ものについて、 何らかの理解を得たように。 物体 A についての各々の切断面は、 どれもが正しい A の姿である。 それ らが如何に相反するように見えても、 何れもが<Aの真の姿>と言っても よい。 「切断面aが切断面Bより、 より真実に近い姿をあらわしている」 な どと言うことは、 無意味である。 例えば、 「A の X 線写真像のほうが、 A の 赤外線写真像よりも、 より真の姿に近い」 などと言うのが、 如何に馬鹿げて いるかは、 説明するまでもないだろう。 ただし、 特定の用途のためには、 あ る切断面が別の切断面よりも、 便利になることがある。 サイコロが、 中の変 な部分に鉛が入ってるインチキ品かどうかを調べるためには、 X線写真像 のほうが普通の カラ ー 写真像よりも、 役に立つ。 逆に、 サイコロを通信販売 で売るためには、 カラ ー 写真のほうが、 より役に立ちそうである。 つまり、 異なる切断面どうしの間の優劣は、 或る用途 • 目的がある時に、 初めて言い 得るのであり、 そのような特定条件が無い場合は、「いずれがより真実に近 いか?」 と言う問自体があまり意味がない。 せいぜい、 好みの問題である。 その人が心から好む切断面から物体Aを見たものが、 その人にとっての <Aの真の姿>なのである。. (88). -141-.
(9) 文学・芸術·文化 11巻l号(通巻第26号) 1999.12 【人間 A 君の場合】 物体 A ではなく、 人間の A 君を取り上げる。 まず、「 A 君とはどんな人 か?」 を思い浮 かべたり、 話したりする場合。 A君には、 殆ど、 無限の側 面の事実がある。 「朝四時に起き、 晩九時に寝る」「昼間から酒を飲むことが 好き」「テレビ、 車、 エアコンを持ってない」「コンビュ いる」「エレベ. ー. タ やエス カレ. ー. ー. タ を色々と持って. タ は使わない」「電話婢い」「ゲ ー ム機好き」. 「何時も同 じ服装」等々。 幾らでも、 一見すると全く異なった印象を与える ようなものがある。 これらは、 ほぼ無数にある。 その内の適当なものを選べ ば、 どのような A 君像でも作り得る。 オタ クな A 君、 馬鹿真面目な A 君、 時代遅れの A 君、 だらしない A 君、 現代的な A 君、 等々。 それらは、 何れ も、 正しい事実である。 ただし、 それらは、 実際に生きている A 君ではな く、 彼の一つか二つの切断面をもとに、 心が作り出した模型のようなもので ある。 現実に生きている A 君は、 それらの重ね合わせである。 もっとも、 多くの切断面をもとにして、 強力な想像力を働かせれば、 より生き生きとし たA君の心的模型を生み出し得る可能性はある。 二次元人達が「サイコロ」 を何とか把捉できたように。 更に見方を変えると、 A 君は、 単なる 「骨と皮の塊」であり、 時が経て ばゴミになる。 ゴミになるといっても、 元々単なる元素の集合体であったも のが、 ちょっと変わるだけに過ぎない。 その点から見れば、 A 君は、 わけ の分からない 「素粒子の塊」にすぎない。 その一方で、彼は確かに宇宙を思っ たり、 自己のはかなさに思いを馳せているので 「考える苺」 でもある。 又、 彼に撞れている女性から見たら、A君は「素敵な王子様」となる。 これら の何れもが事実である。 どれか一つが他のものより、 より正しいと言うこと はない。 これらの全てが正しいと言うことこ そが、 生きた A 君の本質であ る。 悟りすました僧侶が 「所詮、 人間は骨と皮」などと言った所で、 彼の言 葉が、「私の王子様 !」と騒ぐ恋に狂った人間の言葉よりも、 深い真実を述 べているわけではない。 せいぜい、 その僧侶は、 単に、「俺はこの言葉が好 -140-. (89).
(10) 認識と実在. 清島. きだ」「俺はこの 言葉を信じる」と言っているにすぎない。 自 分 の 好み の 表 明である。 我々が A 君を見たり、彼について述べたり考えたりする時は、 彼 の 無限 の 側面 の 一部に光をあてることになる。 有限の 一部分を取り上げない限り、 観察も想像も記述も出来ない。 有限の 一 部分を取り上げることによって、A 君は我々 の心の対象となる。 A 君に対して心を働か せる観 察は、 A 君と言 う無限多様態の切断であり、それによって、A君 の 性質が、 初めて、 我 々 の心の中で特定される。 それ無くしては、A君は、 我々にとって、 或る意 味で無限の混沌のままである。 こ の点では、認識=切断とは、 無限定なも の の限定とも言い得る。 A 君 の イ メ. ー. ジを固まら せるためには、 こ の 限定. が必要である。. 【時系 列上 の 話】 日常世界で我々が接している人間は、時の流れの中に存在する人間を、特 定の時間面で切った一つの切断面である。 我々は、普通、 直接に過去や未来 の <A 君>に接することは出来ない。 せいぜい、 ぼんやりした記憶や想像. で、過去や未来の <A 君>を思い描くことが出来るだけである。 我々が確 かと思っている記憶は、かなりの 部分、常時、再編・改編されている。 記憶 は、基本的には、想像や創作と大して変わらない、結構、怪しげなも のであ る。 さて、A君は過去にも存在したし、 未来にも存在し得る。 過去、 未来 に存在する全て の くA君> の集まり • 重なり合わせが、A君と言う人間で ある。 しかし、我々人間は、 今この 現時点では、それらの過去 • 未来 の <A. 君>には接触できない。 我々が、実際に見て接している <A 君>は、 過去. から未来にわたって存在するA君を、現在時点と言う平面で切った 一 切断 面である。 再度、二次元平面世界 の比喩を使う。 二次元平面空間で生きている三角形 の二次元生物 「三角氏」 が居たとする。 彼 の 平面世界 の時間軸が、その世界 C 90 ). - 139 -.
(11) 文学 · 芸術・文化 11巻1号(通巻第26号). 1 999. 1 2. 面 に 対して直角方向に流れている場合を考える。 つまり、 彼の世界 で時間が 流 れることは、彼の平面世界が(紙のような世界が)、 その平面に 垂 直な軸 に沿って動くことである。 水平に持った紙 (= 三角氏の世 界 ) を、 下から 上へと動かす様を想像してもらえれば良い。 下が過去 で、 上のほうが未来。 四角い紙を動かしたら、四角柱が出来るはず。 その場合、 時空高次元空間 (我々にとっての三次元空間)における三角氏の姿は、 三 角柱 • 三角錐のよ うなものになる。 ただし、 三角氏にはそれが全く見えない。 彼が直接に知覚 出来るのは、 彼の現時点での世界平面による、 その三角柱の切断面だけであ る。 彼は、 二次元平面世界の中で生 き るように出来あがっているので、 そ れ を越える高次元の時間軸の中を動くことは出来ない。 彼に出来るのは、 記憶 や想像を使って、 別の時間平面の<三角氏>の様子を、 心に思い浮かべるこ とだけである。 さて、 彼の三角柱は時間軸の中で太さや形を変えながら延び て おり、 その一端は彼の両親の三角柱に繋がり、 別の部分では彼の子供のも の にも繋がる。 これは、 彼の両親や子供についても同 じ であり、 彼の世界で も地球のような生物進化があったとすると、 両親の柱のずっと前の部分では 別の生物にも繋がる。 この全体の姿は、 我々の世界にある樹木にも似ている。 極度に絡み合った枝の生命樹である。 ただし、彼に認識で き るのは、 その高 次元多様態である生命樹の特定の二次元切断面だけである。 さて、 三角氏の寓話を、 我々の世界に戻して考えてみよう。 今の <A 君 > は、時間座標軸上に延びている「高次元 A 君柱」 (三角氏が立体の三角柱を イメ. ー. ジしにくいと同 じように、 我々人間も時空四次元の柱はイメ. ー. ジしにく. いもの)の三次元切断面である。 こ れは、 他の人や犬や猫や物についても同 じ で ある。 三次元切断面<A 君>は、 人間にとっての時間 軸を自 由 に 移 動 することは出来ないし、時間軸上の未来や過去の他の切断面 <A 君>を 直 接 に 認知すること(そのような切断面 <A 君>と接触を持つこと) も出来 ない。 それ でも、 三次元切断面<A 君>は、 記憶や想像によって、 時間軸 上の他のく A 君>( 日 常語で言う「昔の A 君」「未来の A 君」)の存在をぼ -138-. ( 91 ).
(12) 認識 と 実在. 清島. <A 君>が繋がったものだと 時 系 列 に存在する、 そ れらの無数の <A. んやりと思い描くことが出来るし、 それらの いうことも何となく理解できる。. 君>の集まりが、「A君と言う自分」 であることも、 想像できる。 た だし、 今、 自分自身が直接に感じ、他人が見る にわたる無数の. <A 君>は、 あ く まで、 過 去 未来. <A 君>から成る多様態を、 特定の時間平面で切った切断. 面である。. 【世界=モ ザイク的時間断片から成る切断面】 我々が見る<物>や<人>は、時間の流れの中に横たわっている物や人を、 特定の時空間平面で切った切断面であるが、或る見方からすると、その切断 面は極めてデコ ボ コしているとも言い得る。 空に見えている星々の姿は、どれも何年も前にその星を出た光であり、今 観察している時点で、 それらの星がどうなっているかすら分からない。 百年 前の A 星の光、 百万年前の B 星の光、 一 億年前の C 星の光、 などなどで出 来あがっているのが、私が今現に知覚している夜空だ。 目 にしている全ての 星の姿は、私の時間軸で言えば、 全てそれぞれが異なる過去の時間に発せら れたものである。 私が見ている星の姿は、どれも過去のものであり、しかも、 それがどのくらいの過去であるかは星によって各々異なっている。 無数の異 なる過去の断片の寄せ集めが、 私の知覚している夜空である。 A星、B 星、C 星にしても、 時間の流れの中に横たわっている時空多様態 なので、 私が現に知覚しているのは、特定の時間平面による、それぞれの切 断面である。 その際、 それらの星に私の時間軸を投影して、それぞれの星に 視点を置くと、 切断に用いた時間平面が、それぞれ異なってくる。 百年前の. <A 星>、百万年前の<B 星>、. 一. 億年前の. <c 星>と言う具合に。その. 一. 方で、「今ここで夜空を見ている」と言う点、つまり、 観 察 し ている地球上 の私に視点を置いた場合は、<観察行為をしている私>は、現在と言う時間 平面による、私の一切断面である。 A星を見ている<私>と B 星を見てい ( 92 ). - 137 -.
(13) 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 11巻 1 号 (通巻第26号). 1999 . 12. る <私> と が、 違 う 時間平面 に よ る 異 な る 切断面 な わ け で は な い 。 今観察 し て い る <私> は、 時空 の 中 に 存在す る 私 の 同 じ 一 つ の 切 断面 だ が、 見 て い る <A 星><B 星> は、 私 の 時間 か ら す る と 、 そ れ ぞ れ が 異 な る 時間平面 に よ る 切断面 で あ る 。 こ れ は何 も 不思議な こ と で、は な い 。 そ も そ も 、 私 の 時 間 の 流 れ と 、 A 星 や B 星 の そ れ と は 、 そ れ ぞ れ別 の も の で あ り 、 全 て の も の に 共通 な 絶対 時 間 の よ う な も のが無い。 そ れな の に 、 私 は 、 自 分 の 時 間 を A 星 や B 星 に 投 影 し 、 私 の 時 間 を 軸 と し て、 解釈 し て い る 。 そ う す る と 、 「 見 て る 時 間 は 同 じ な の に 、 対象 ご と に違 う 過去 を 見 て い る 」 と 言 う こ と に な る 。 し か し 、 他 に 方法 は な い。 こ の 私が観察す る の で あ る か ら 、 と り あ え ず、 私 は 自 分 の 時 間軸で、 A 星 な ど を 切断せ ざ る を え な い 。 そ こ で 、 星 ご と に 異 な る 過 去 の 断片 を 継 ぎ合 わ せ た モ ザ イ ク の よ う な 夜 空 を 見 て い る こ と に な る 。 我 々 の 日 常生活 に お い て 、 他 に も 似 た よ う な こ と が あ る 。 旧 友 の A 君 を 取 り 上 げ よ う 。 A 君 に つ い て私 が持 っ て い る 知識 は 、 彼 が 異 な る 時 と 場所 で 行 っ た 幾 つ か の 行為 に も と ず い て い る 。 小 学 校 の 時 の <A 君> の 行 為 、 中 学 の 時 の 行為、 高校 の 時 の 行為、 大学 の 時 の 行為、 結婚 し た て の頃の行為、 等 々 の も の を私が覚え て い て 、 そ れ ら の 知識断片の集積 • 寄せ 集 め の 上 に 、. A 君 と 言 う 人物 の イ メ. ー. ジ が 出来 あ が っ て い る 。 つ ま り 、 私が現時点で知 っ. て い る A 君 は 、 異 な る 時空間 に あ ら わ れ た <A 君>断片 の 集 ま り か ら 成 る 。 別 の 例 と し て 、 「 ア メ リ カ 」 を と っ て も 同 じ で あ る 。 私の 持つ ア メ リ カ 像 は、 過去 の 異 な る 時点で得 た 時間 的 に 異 な る 様 々 な デ ー タ 断片 か ら 出来て い る 。 私が知 っ て い る ア メ リ カ の 人 口 、 ト ウ モ ロ コ シ の 収穫量、 軍事費、 自 動車生 産高、 マ ク ド ナ ル ド の 店 の 数、 等 々 の デ ー タ は、 何 れ も 、 異 な る 時 に 異 な る 方法で得 ら れ た も の で あ る 。 時空 的 に 異 な る < ア メ リ カ >断 片 か ら 成 り 立 っ て い る の が、 私の 「 ア メ リ カ 」 と 言 い 得 る 。 以上の よ う な 見方か ら す る と 、 我 々 が 「今 こ の 瞬 間 」 に 知覚 し て い る X と い う も の、 思 い浮かべて い る X と い う も の は、 時空間 的 に 異 な っ た - 1 36 -. ( 93 ).
(14) 認識と実在 清島. <X>に関する情報断片からなるモザイクのようなもので あ る。 そのような デコ ボコの切断面で、 X を切っているわけである。 【認識=切断が起こらない場合】 「事物が有る」 と認めることは、宇宙に対する知的な切断であ る。 「樹木が有る」 とみなすのは、樹木の存在を認めることが、 その生物の生 存にとって影響を及ぼすからである。 樹木が、その生物の生存や生活に何の 影響も及ぼさない場合、言葉を変えると、その生物と樹木の交渉 が有り得な い場合、その生物にとって樹木は存在しない。 前に述べた SF的な ニ ュ. ー. ト. リノ知性体やウ ィ ルスより小さい極小知性体が、それで あ る。 逆に、樹木の 側から見ても、そのような知性体は存在しない。 無論、我々人間にとっても、 そのような知性体は存在しない。 それらが空想上の生物だから存在しない、 と言うのではない。 お互いの生存の接点が無く、相手の存在が 自 らの生活に 何の影密も及ぼさないから存在しない、と言ってるのである。 ソ クラテスに とって X線は存在しなかったが、道具によって知覚器官を拡張した現代人 にとって、 X 線は存在する。 この場合、「 ソ クラテスは X 線に関して無知で、 我々は知識が有る」 と言う説明は誤ってはないが、大して意味がない。 何故、 ソ クラテスが X線の存在を認めなかったかと言えば、 それは、彼の生活に 何の関りもなかったからであ る。 一方、現代人は知覚器官を人工的に拡張し た結果、その生活に X線が関りを持つようになったのである。「存在」とは、 常に、「なにがしかの知性体にとって」 のものである。 「知性体 a にとって事物 A が存在する」ということは、その知性体 a が、. A と A でないものを生活の必要上から区別しているこ と に 他ならない。 こ の 「区別」 と言う作業は、精神の働きであり、宇宙に対する知的な切断 (認 識)である。 事物 A を通り抜けてしまうようなニュ. ー. トリノ知性体 b は、. A と A でないものの区別など行わない。 つまり、事物 A を背景である宇宙 から抽出して「一つのもの」とする作業 (認識という切断)は、それをやる ( 94 ). - 135-.
(15) 文学 ・ 芸術 ・ 文化 11巻 1 号 (通巻第26 号) 1999.12 者もいるし、 やらない者もいるわけである。 この宇宙に対する切断をしなけ れば、 或は、 切断ができなければ (=認識ができなければ)、 如何なる切断 面もあらわれないので、 その 「もの」 は存在しないに等しい。(或は、 この 場合は、 特殊な虚の切断によって虚の切断面があらわれる、 と表現しても良 いかもしれない。). 【後ろの樹木の存在】 「人が見ていないときに樹木は存在するか ? 」 とか 「誰もいない 山 奥で倒 れた樹木は音をたてるか?」 などの疑問は、 それが 日常語で述べられ考えら れる限り、 あまり意味はない。 人間の言葉である 「樹木」 を使って世界の一 部の事象を考えようとする時点で、 すでに、「樹木」 の語が指し示すものの 存在が確定しているからである。 <「樹木」の語 · その語が喚 起するイメ. ー. ジを使う>という行為は、 それらが含まれる人間の切断面aで宇宙を切断す ることに他ならない。 しかし、 aとは迩う切断面 f3 で宇宙を切って眺めるこ とも可能である。 我々人間とは身体構成や時空の尺度が全く違うような知的 存在は、 人間が宇宙を切る切断面aとは遥う f3 で宇宙を切っている可能性が 有り、 その切断面 f3 には、 「樹木」 は初めから存在しないかも知れない。 だ が、 我々が普通に採用 する切断面aには、「樹木」 は初めから完璧に存在す る。 人間と心身構造が似ている犬や鳥も、 a に極めて近い切断面で宇宙に接 していると思われるので、 彼等にとっても樹木は存在する。 そこで、「樹木」 と言う言葉を使う限り、 人や犬が見る見ないにかかわらず、 樹木は存在して いるのであるし、 倒れれば音もする。 ここで 冒 頭に述べた問題に触れておこう。 樹木の存在が人の心に依存した ものであるか、 独立のものであるか、 と言う問題であった。 樹木と人の心を 一. つの系として考える。 二つの要素から成る一つの事象とみなしても良い。. この<樹木 ・ 心>事象を理解しようとする場合、 それを切る切断面は無数に 有る。 そして、 どれかの切断面が他のものより俊れているとは言い得ない。 - 134 -. ( 95 ).
(16) 認識と実在. 清島. (それは、二次元平面人のサイコロ理解を思い出していた だければ分かるで あろう。). それら無数の切断面の内で、 哲学的光による切断面の代表的な. ものが、先の二つの説である。 まず、 前の節で述べたように、「樹木」 と言 う人間の言葉を使って考える限り、話は人間による宇宙の切断面の世界で行 われるので、 個人の恣意的な行動や精神作用とは関係なく、樹木は存在する。 このような見方 (切り方)で、<樹木・心>事象を切ると、 二つのものの存 在性は、独立 • 無関係である。 一方、存在とは常に何かの知性体にとっての ものであり、また、「樹木」 と言う言葉を使うこと自体が既に人間独 自の切 断を宇宙に対して行っている、とも既に述べた。 この宇宙に対しての切断は 人の心が行うものである。 この見方 (切り 口)で、例の事象を切ると、樹木 の存在性は心に依存していることになる。 どちらの見方も、 同じように正し い。 両説が述べる様相を合わせたものが、<樹木・心>事象である。. 以上、「認識=切断」 の問題を述べてきたが、似た構造は、 思考の言語化 にも見られるように思う。 思いを言語化する作業は、心の世界を或る面で切 断することであろう。 ただし、この問題は、また別の機会に詳しく論じてみ たい。 更に、量子論に関する問題の説明も、別の機会にゆずりたい。. ( 96 ). -133-.
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