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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又)

鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時

   

   

   

祖父時政と父義時との確執

  北条泰時は、 寿 じゆ 永 えい 二 (一一八三) 年、 北 ほう 条 じよう 義 よし 時 とき の長子として生をうけた。鎌倉幕府体制の基礎を作り上げた執権と して名高い北条 泰 やす 時 とき であったが、その人生は決して順風満帆なものではなかった。それは祖父 時 とき 政 まさ と父義時との確執 に端を発するものであった。祖父時政が、 後妻牧ノ方とその間に 生 れ た 子 供 達 を 溺 愛 し た か ら で あ る 。 そ の 為 に 義 時 を は じ め と す る前妻の子供達と折り合いが悪くなり、 両者の間の溝は時を追う ご と に 深 ま って い った 。 治 じ 承 しよう 四 (一 一 八 〇) 年 の 石 いし 橋 ばし 山 やま の 戦 い で 嫡子 宗 むね 時 とき (前妻 伊 い 東 とう 祐 すけちか 親 の子) を失っていた時政は、 文 ぶん 治 じ 五 (一一 八 九 ) 年 に 牧 ノ 方 と の 間 に 政 まさ 範 のり が 生 ま れ る と、 こ の 子 を 北 条 宗 そう 家 け の嫡子にする。政範には、 異母兄として宗時と母を同じくする義 時 (当 時 二 十 六 歳) や 、 足 あ 立 だち 遠 とおもと 元 の 娘 を 母 と す る 時 とき 房 ふさ (当 時 十 四 歳) 時政の子と孫         宗時         泰時         義時         朝時   北条時政    時房     時盛    重時         政範         政村         政子         実泰        頼家         頼朝     実朝

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) がいたが、時政は前妻の子供達を退け、後妻との間に生まれた幼子を敢えて自分の跡取りにした。これにより義時は 庶子家 (= 江 え 間 ま 家) の当主となったわけである。したがつて泰時は、江間家の長子として成長することとなる。   ところが、 舅である時政の狡猾さに、 我が子頼家の将来を心配した 源 みなもとの 頼 より 朝 とも が、 時政を警戒しはじめたことが義時 に 幸 い し た。 頼 朝 は、 時 政 を 牽 制 す る 為 に 義 弟 義 時 を 側 近 に し て、 頼 家 の 妻 の 一 族 ( 比 ひ 企 き 氏 ) か ら 正 妻 を 迎 え さ せ、 頼 家 を 守 ら せ よ う と し た ら し い 。 ま た 頼 朝 は 、 義 時 の 長 子 泰 時 に 対 し て も 自 ら が 烏 え 帽 ぼ 子 し 親 おや と な る な ど 目 を か け て お り 、 相 さ が み 模 国 のくに の 有 力 御 家 人 で あ る 三 み 浦 うら 義 よし 村 むら の 娘 と の 縁 組 み を 取 り 持って い る 。 お そ ら く 接 す る う ち に 頼 朝 に も 泰 時 が 逸 材 で あることがわかったはずである。しかし、父義時と正妻である比企氏の娘との間に 朝 とも 時 とき が生まれると、義時はこの朝 時を嫡子とする。泰時の母は「官女」とも言われるが、その名も伝わっておらず、次期将軍の姻族である比企氏の娘 とは比較にならなかったからである。   建 けん 久 きゆう 十 (一一九九) 年に頼朝が死去すると、 祖父時政は遠慮することなく権力を集中させてゆく。十三人合議制を 採用し、若い二代将軍 頼 より 家 いえ から 親 しん 裁 さい 権を奪ったのを皮切りに、頼家を徐々に追い詰めてゆく。頼家側近の 梶 かじ 原 わら 景 かげ 時 とき や 頼 家 の 姻 族 で あ る 比 企 一 族 を 滅 ぼ す と 、 つ い に 頼 家 を 幽 閉 し 殺 害 し て し ま う 。 そ し て 弟 の 実 さね 朝 とも を 三 代 将 軍 に 据 え る と 、 自らは幼い新将軍の 政 まん 所 どころ の 別 べつ 当 とう 職 しよく に就任し、 独裁政治を開始する。時政は相変わらず後妻牧ノ方を寵愛し、 義時を遠 ざけた。 元 げん 久 きゆう 元 (一二〇四) 年に政範が京都で 頓 とん 死 し したにも関わらず、 時政は義時に宗家を継がせずに、 比企氏の遺 産を引き継いでいる義時の子、朝時を宗家に迎えようとしたらしい。比企氏が滅亡した際に廃嫡せざるをえなかった 我が子を、その要因を作った実父が養子に迎えようというのだから、義時は怒り心頭に発したはずである。   ついに義時は、牧の方に対し不満を募らせていた姉の 政 まさ 子 こ と結託し、父時政を力づくで引退させると、 平 ひら 賀 が 朝 とも 雅 まさ 、

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 稲 いな 毛 げ 重 しげ 成 なり 、 宇 う 都 つの 宮 みや 頼 より 綱 つな と い った 、 牧 ノ 方 の 娘 婿 達 を 政 治 の 表 舞 台 か ら 引 き ず り お ろ し 、 義 時 ― 政 子 体 制 を 確 立 さ せ る 。

父義時の政治と承久の乱

  父時政が幕政の主導権を握った上でのクーデターであった為、義時への権力移行はスムーズであった。義時は泰時 を嫡子とし、朝時を遠ざけた。父時政との確執が朝時との親子関係にも影を落とすことになった。   その後、義時は姉政子の後ろ盾を得て一層の権力集中を図った。自らの郎従の中から功ある者を御家人に準ずる身 分にしようと試みたり、諸国守護人の終身在職を止めて定期交代制に改めようとしたのは、そのあらわれであった。 し か し、 そ れ を 快 く 思 っ て い な か っ た の は 成 長 し た 将 軍 実 朝 で あ っ た。 承 しよう 元 げん 三 ( 一 二 〇 九 ) 年 四 月 に な り 公 卿 と な っ た 実 朝 は 親 裁 を 行 お う と 動 き は じ め る 。 そ れ を 支 え た の が 幕 閣 で 最 長 老 の 侍 さむらい 所 どころ 別 べつ 当 とう 和 わ 田 だ 義 よし 盛 もり で あ った 。 侍 所 別 当 は 御家人を統制する重要なポストであり、特に軍事指揮権や警察権を有していたので、北条氏にとっては油断ならぬ存 在であった。義時は和田氏一党を挑発し揺さぶりをかけ、和田一族を追い込み、彼等が我慢しきれずに鎌倉で挙兵す ると、その機会に乗じて一族与党を滅ぼしてしまう。これによって義時は侍所別当の地位も手に入れ、軍事指揮権も 併せて掌握することになる。またこの和田義盛の乱による論功行賞として義時が 山 やまのうちの 内 荘 しよう (現在の鎌倉市、横浜市戸塚 区、 瀬 谷 区、 藤 沢 市 に 跨 が る ) を 手 に 入 れ た こ と は、 彼 の 立 場 を 一 層 優 位 な も の と し た。 こ こ は 鎌 倉 に 入 る 北 の 玄 関 口 にあたり、ここを押さえておけば、有事の際に鎌倉に迅速に兵力を動員することもできたのである。鎌倉時代を通じ て北条宗家が当地を手放さなかったのもこの為であった。   朝 廷 も 義 時 の 実 力 を 認 め、 こ の 乱 の 三 年 後 の 建 けん 保 ぽう 四 ( 一 二 一 六 ) 年 に は 従 四 位 下 に 叙 し た。 そ し て 翌 年 五 月 に は 右 う

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 京 きよう 権 ごんの 大 たい 夫 ふ 、 十 二 月 に は 陸 む つ の 奥 守 かみ も 兼 ね た。 こ の 官 位 は 父 時 政 の 従 五 位 下 遠 とお 江 とうみ 守 のかみ を 越 え る も の で あ り、 源 氏 一 門 を 除 いては鎌倉武士として最高の地位を手に入れたことになる。しかし、そうなると親裁をめざす将軍実朝は、義時をま すます疎ましく思いはじめた。それに対して義時は、ついに将軍の交替を画策しはじめる。実朝に子が無いことにか こ つ け、 姉 の 政 子 と 相 談 し、 皇 族 将 軍 の 迎 立 を 図 っ た ら し い。 姉 政 子 は 上 京 し、 後 鳥 羽 上 皇 の 皇 子 の 一 人 ( 坊 ぼう 門 もん 信 のぶ 清 きよ の 女、 実 朝 の 正 妻 の 姉 妹 の 腹 に 生 れ た 冷 れい 泉 ぜい 宮 のみや 頼 より 仁 ひと 親 しん 王 のう ) を 次 代 の 将 軍 と す べ き こ と の 内 諾 を 得 た。 ま だ 二 十 代 の 実 朝 に は嗣子誕生の可能性を多分に残していたにも関わらず、義時、政子が迅速に動いたのは、やはり将軍の交替を画策し ていたからであろう。将軍の後任が決まった翌 承 しよう 元 げん 元 (一二〇七) 年、 鶴 つるがおか 岡 八幡宮社において、 右大臣拝賀の儀式を 執り行なった帰途、 将軍実朝は兄頼家の遺子 公 く 暁 ぎよう によって暗殺されてしまう。義時が突如病気となりこの儀式に参加 しなかったことや、実朝の存在を最も疎ましく思っていたのが義時であったことから考えれば、直接実行に着手した か否かはわからないが、義時が実朝暗殺計画に関与していた可能性は高い。しかも次期将軍が決定した翌年、それを 待つかのように、この暗殺事件は起っている。   実朝の死によって皇族将軍を直ちに鎌倉に迎えようと朝廷に要請するが、 後 ご 鳥 と 羽 ば 上皇は、 「将来、 日本国を二つに分 けることになるようなことを前もって出来ようか」と述べて、 内約を破棄してしまう (『 愚 ぐ 管 かん 抄 しよう 』) 。後鳥羽上皇は、 天 皇家の血を引くものを 傀 かい 儡 らい 将軍とした東下させることのリスクを正しく認識していたとも言えよう。鎌倉幕府が動揺 し、あわよくば内部崩壊することまでも期待していたかもしれない。しかし幕府側も、 伊 い 賀 が 光 みつ 季 すえ と 大 おお 江 え 親 ちか 広 ひろ の二人を 京都守護として特派し、朝廷側の動向を厳しく監視すると共に、弟の時房に千騎の兵とともに上京させ、皇族将軍の 東下を再度要請した。だが、後鳥羽上皇は 頑 かたく なにこれを拒んだ為に幕府側は皇族将軍を断念せざるを得なくなった。

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) そこで、 代替案として、 左大臣 九 く 条 じよう 道 みち 家 いえ の子で、 頼朝の妹の 曾 そう 孫 そん にあたる当時二歳の 頼 より 経 つね を鎌倉将軍に迎えることを 試み、これに成功する。源氏の血に繋がっているという点も幕府の首脳陣から高く評価されたはずである。頼経が十 三 歳 と な っ た と き、 十 五 歳 年 上 の 頼 家 の 遺 子 鞠 まり 子 こ ( 竹 たけの 御 ご 所 しよ ) と 結 婚 し た の も、 源 氏 と の 縁 えにし を よ り 強 く す る こ と が 望 ま れ た か ら で あ ろ う (し か し 難 産 で 文 ぶん 暦 りやく 元 (一 二 三 四) 年 に 母 子 共 に 亡 く な って い る 。 嫡 男 頼 より 嗣 つぐ は 藤 原 親 ちか 能 よし の 娘 の 腹 で あ る) 。   頼 経 が 鎌 倉 に 下って か ら 二 年 後 の 承 久 三 (一 二 二 一) 年 五 月、 後 鳥 羽 上 皇 は 、 義 時 討 伐 の 兵 を 挙 げ る 。 い わ ゆ る 承 久 の乱の勃発である。鎌倉幕府は新体制に動揺しており、北条氏の専横に対して不満を持つ御家人達も少なくないと見 た後鳥羽上皇は、北条義時が幼い将軍の名を借り「関東の成敗」と称して天下の政務を乱しているという理由で、義 時討滅を命ずる 宣 せ ん じ 旨 、 院 いん 宣 ぜん を諸国に発した。この報告を受けた義時は、 直ちに 遠 とお 江 とうみ ・ 信 し な の 濃 以東の東国十五箇国の武士達を動員し、 泰時、 朝時等 の子供達を大将軍として京へ攻め上らせた。この積極策が成功し、 幕府 軍は京方の軍勢を撃破する。しかし、 天皇に対し弓を引くという行為は 朝敵となることを意味するから、 さすがに挙兵の際には関東の武士達も 戸 惑 い を 見 せ た。 『 吾 妻 鏡 』 が 伝 え る よ う に、 当 初 は 慎 重 論 を 唱 え る 者 も 少 な く な か った は ず で あ る 。 泰 時 も 出 兵 に 躊 躇 し た 一 人 と し て 『承 久 記』 『増鏡』 『明恵上人伝記』等には記されているが、 父義時に 君 くん 側 そく の 奸 かん を 取 り 除 く の が 目 的 で あ る と 諭 さと さ れ 出 兵 し た こ と に な って い る 。 承 久 の 82代~ 88代天皇    後高倉院    後 86 堀河    四 87 条    後 82 鳥羽     土 83 御門    後 88 嵯峨          順 84 徳     仲 85 恭         忠成王

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 乱に際し、大江親広をはじめとする在京御家人や西国を 本 ほん 貫 がん とする 御家人の多くが京方についた事は幕府の首脳陣に衝撃を与えたが、 結果的には莫大な戦果を得ることが出来た。この乱の戦後処理とし て没収した京方の貴族 ・ 武士達の所領三千箇所と、多くの西国守護 職を北条氏に与した東国御家人達に与えることが出来たのである。 ま た、 出 家 し て い た 後 鳥 羽 上 皇 の 兄、 行 ぎよう 助 じよ 法 親 王 ( 後 ご 高 たか 倉 くら 院 いん ) に 院 いん 政 せい を 行 わ せ、 仲 ちゆう 恭 きよう 天 皇 を 廃 し、 十 歳 に な る 行 助 法 親 王 の 子、 茂 ゆた 仁 ひと (後 堀 河) を 即 位 さ せ た 。 即 位 し な か った 親 王 が 院 政 を 行 な う の は 史 上初めてのことであり、世の人々は幕府の権力を思い知ることにな る。 こ の 乱 に 関 与 し た 後 鳥 羽、 順 じゆん 徳 とく 、 土 つち 御 み 門 かど 三 上 皇 を 流 る 刑 けい に 処 し (土 御 門 は 罪 を 問 わ れ な か った が 、 ひ と り 京 都 に と ど ま る の を 潔 し と せ ず 、 みづから幕府へ申し出て流罪となった) 、摂政九条道家を 罷 ひ 免 めん した (た だ し 安 あん 貞 てい 二 年 に 関 白 に 返 り 咲 く ) 。 ま た、 莫 大 な 後 鳥 羽 院 領 は 没 収 さ れ、後高倉院に与えられたが、進退権は幕府が握っていた。承久の 乱の後、幕府は皇位継承者の選定や摂関以下公卿の人事にまで介入するようになり、朝廷を監視下においた。承久の 乱以後、都において朝廷の監視、治安維持、京方の所領没収の事務、戦後の所領関係によって生じた公武間の紛争の 処理等にあたったのは幕府の出先機関としての 六 ろく 波 は 羅 ら 府 ふ であり、幕府軍の指揮にあたった泰時と叔父の時房がその長 泰時別邸跡=巨福礼別居跡(現在の建長寺近辺か?)

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) (六 波 羅 探 たん 題 だい ) の 任 に つ い た 。 当 該 職 在 任 中 に 泰 時 は 都 の 有 力 貴 族 や 大 寺 社 と の 折 衝 の 仕 方 を 肌 で 学 ん だ は ず で あ る 。 承久の乱によって北条義時がこの国の「国主」となったと後に日蓮が評したのも、以上の支配体制を評価したもので あった。   なお義時は、子供達に命じて鎌倉へ入る要路に別荘を建てさせているが、これも万一に備え鎌倉の守りを固める防 備 策 で あ っ た に 違 い な い ( 巨 こ 福 ぶく 呂 ろ 坂 の 外 側 の 山 内 荘 は 宗 家 が 支 配 し、 泰 時 が「 巨 福 礼 別 居 」 を 設 け て い た し、 朝 比 奈 を 超 え た 六 むつ 浦 らの 荘 は 実 泰 が 所 領 と し、 西 の 極 楽 寺 坂 に は 重 時、 化 け 粧 わい 坂 ・ 大 だい 仏 ぶつ 坂 の 外 側 の 常 と き わ 磐 に は 政 村、 名 越 坂 に は 朝 時 が そ れ ぞ れ 別 荘 を建てている) 。

泰時の政治構想

  『吾妻鏡』に記されている泰時は, 少年の頃より仁慈の人として描かれている。とくに 建 けん 仁 にん 元 (一二〇一) 年に 天 てん 変 ぺん 地 ち 異 い が起った際には、災異に無頓着な二代将軍頼家とは対照的に、本領である伊豆国北条へ帰り、民の為に債務破棄 の 在 ざい 地 ち 徳 とく 政 せい をおこなう慈悲深い十九才の泰時を『吾妻鏡』は描いている。当時の社会においては為政者の不徳により 災異が発生すると信じられていたので、天変 ・ 地異が起ったならば、直ちに 攘 じようさい 災 の為の徳政を行なうのが為政者の務 めであったのである。これは三代で滅びてしまう源家将軍家と以後繁栄する北条家の行く末を暗示させるようなエピ ソードともなっている。   文 武 両 道 に 秀 で 、 和 歌 に も 通 じ た 泰 時 で あ った か ら (彼 の 歌 は 『新 勅 撰 集』 を は じ め と す る 勅 撰 集 に も 採 択 さ れ て い る) 、 王朝文化に関心を抱いた三代将軍実朝とは馬が合ったはずである。その事は泰時が、実朝の「学問所番」十八人の中

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) に選ばれていたことからもうかがえよう。しかし父義時と実朝との確執が深まるなかで、おそらく泰時も実朝とは一 定の距離を置いたと思われる。異母弟朝時の廃嫡後、嫡子となった泰時であったが、兄弟も多く、嫡子として不動の 地位を手に入れたわけではなかった。父義時は、後妻 伊 い 賀 が 朝 とも 光 みつ の女との間に 政 まさ 村 むら をもうけており、いつ何時、祖父時 政 の 様 に 、 後 妻 の 子 に 家 督 を 譲 り た い と 変 心 す る か も し れ な か った か ら で あ る 。 実 際 の 所、 義 時 の 地 位 が 安 泰 で な か っ たことは父義時の 急 きゆう 逝 せい により明らかとなる。この折に義時の後妻伊賀朝光の女が、 兄の政所 執 しつ 事 じ 伊賀 光 みつ 宗 むね と謀って所 生の政村に義時の家督を継がせ、娘婿の藤原 実 さね 雅 まさ を将軍に擁立しようと画策したのである。この陰謀には政村の烏帽 子親であった三浦義村も関わっていたらしい。義村の娘は北条泰時に嫁ぎ 時 とき 氏 うじ を生んでいたが、なぜか離別させられ ており、泰時と義村との関係にはぎくしゃくしたものがあったのかもしれない。   し か し 、 こ の 伊 賀 氏 の 陰 謀 を く い 止 め た の は 伯 母 の 北 条 政 子 で あ った 。 京 の 泰 時 と 時 房 を 鎌 倉 に 至 急 呼 び 返 し 、「軍 営の御後見として武家の事を執り行うべき」ことを命じたと『吾妻鏡』には記されている。政子が三浦義村を説得し たことにより、この陰謀は未然に防がれた。政子と時房の全面的な支援を受けることで、泰時は父義時の跡を継ぐこ とが出来た。事件は伊賀氏の独断で謀られたこととなり、政村当人や三浦義村の関与は不問に付された。だが、以後 泰時は三浦氏と一定の距離をおくようになる。   翌 嘉 か 禄 ろく 元 (一 二 二 五) 年 に 泰 時 の 後 ろ 盾 と な って い た 政 子 が 死 去 す る と 泰 時 は 、 執 しつ 権 けん ― 評 ひよう 定 じよう 制 と い う 新 た な 政 治 体 制を導入する。この年の末に、 七歳の頼経は元服を控えており (翌年頼経は将軍 宣 せん 下 げ を受け、 正五位下征夷大将軍兼 右 う 近 この 衛 え 少将となる) 、鎌倉将軍をどのように幕政に参与させたらよいのか泰時は頭を悩ませたはずである。わずか二歳で鎌 倉の主となった頼経であったから、東下後も将軍宣下は行われずに、頼経に変わり北条政子が幕政を総領してきた。

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) その政子亡き後、実質的に鎌倉殿となる頼経を泰時がどのようにサポートし、北条宗家の権力を維持してゆくのかが 泰 時 に と っ て の 一 番 の 課 題 で あ っ た。 実 朝 将 軍 の と き は、 北 条 家 は 肉 親 ( 外 家 ) と し て、 将 軍 家 の 家 政 を 取 り 仕 切 っ てきたが (公職としては政所別当職として) 、 源家将軍が途絶えた今、 なんらかの転身が必要であった。源家将軍たる頼 家、実朝のときでも、成長するに従い、彼等は将軍親裁を試みて、他氏をとりこんで外家である北条氏を 牽 けん 制 せい しよう としてきた。その歴史を振り返れば、恒常的に将軍権力を押さえ込むシステムを創出することが泰時には必要であっ たのである。その答えが執権 ― 評定制の採用であった。泰時は、叔父時房とともに「理非決断」職である執権に就任 し、十一人からなる評定衆を選任し、両執権と評定衆からなる「評定」会議を幕府の最高機関とした。幕政の重要事 項は評定会議で審議されたが、最終的な決断は両執権により為されたのである。重要事項に関しては、両執権と評定 衆が審議をつくした上で、両執権が判断を下した。評定衆の意見をとりまとめ、主君たる鎌倉殿に最終判断を仰ぐこ とが執権本来の役割であった。評定制度の先蹤は、祖父時政が二代将軍頼家の親裁を止める為に採用した十三人合議 制であったけれども、父義時も、源家将軍が途絶えた段階で、合議制の導入を考えていたのではないだろうか。   源家三代将軍ならびに政子の親裁下では、必要に応じてメンバーを変えながら、将軍もしくは政子臨席の上で合議 がなされ、彼等が最終的な判断を下した   しかし新たな執権体制下では、将軍は評定会議から締め出され、執権と評 定 衆 だ け で 事 が 決 せ ら れ た 。 将 軍 に 対 し て は 、 決 定 事 項 を ま と め た 「評 定 事 書」 を 執 権 が 提 出 し 、 報 告 す る だ け で あ っ た。この執権への権限委譲にともない、 実質的に執権が発する 下 げ 知 ち 状 じよう が多く用いられるようになる。これまでは、 下 くだし 文 ぶみ の略式文書あるいは代用物として用いられてきた下知状が、 以後は、 訴訟の裁許、 守護 不 ふ 入 にゆう 等の特権付与、 紛失安 堵等、 幅広く用いられるようになった。つまり、 下文を中心とする文書体系が、 嘉禄元 (一二二五) 年を境に、 下知状

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) を中心とする文書体系に改められたのである。下文は鎌倉殿の主体的な判断に基づきその家司が発給するもので最も 権威ある文書形式であった。これよりのちは所領の宛行と安堵のみ下文でなされるようになる。所領の宛行と安堵に 限り下文が用いられたのは、それらが、鎌倉殿と御家人達との主従関係を確認するものであったからであろう。つま り 、 鎌 倉 殿 の 身 分 的、 主 従 制 的 支 配 権 に は 執 権 と 雖 も ノ ー タ ッ チ で あ る こ と を 示 す 意 味 が あ った の で は な い だ ろ う か 。 ただし、執権が行う事となった「理非決断」も、所領 宛 あて 行 がい や安堵と同様に本来は鎌倉殿の親裁事項であり、その権限 行 使 を 制 限 す る こ と は 容 易 で な か った は ず で あ る 。 仮 に 鎌 倉 殿 の 後 見 役 と 雖 も 、 そ の よ う な 事 を 強 引 に 行った な ら ば 、 御 家 人 達 か ら 反 感 を 買 う こ と は 間 違 い な い 。 そ こ で 泰 時 は 、「執 権 ― 評 定 衆」 体 制 と い う 共 和 的 な 政 治 体 制 を 導 入 す る ときを見計らって、新設された執権への権限委任を鎌倉殿に求め、それを認めさせているのである。政局の安定が求 められている時期に、鎌倉殿がいまだ七歳の幼少であることが泰時には幸いした。御家人達は、執権を中心とする新 体制の導入に同調せざるを得ない空気となっていたのであろう。

新体制の樹立

  承久の乱の勝利により、京方の貴族、武士達の所領三千余箇所を没収した幕府は、戦功の恩賞として御家人達を当 該所領の新地頭に任命していった。新地頭への任命は鎌倉殿からの新恩給与であった。この結果、全国的に地頭制度 が実施されるようになり、鎌倉幕府ははじめて実質的にも全国的政権となったのである、これによって御家人達の主 君であり、 日本国総地頭、 日本国総守護である鎌倉殿の社会的役割は一層重要性を増したのである、 しかし実際の所、 幕政を主導したのは北条氏であり、幼少の鎌倉殿は形式上の首長に過ぎなかった所に問題を抱えていた。執権 ― 評定

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 衆制度を導入し、実権を掌握した泰時であったが、鎌倉幕府体制を堅固なものとする為には武家政権の首長としての 鎌倉殿の権威を高めておく必要があった。執権が如何に権力を握ろうとも、鎌倉殿あっての執権であり、その逆でな いことを泰時は誰よりも認識していたはずである。   たとえば、将軍の新御所の設営と都市機能の整備 ・ 拡張は、鎌倉を武家の都として相応しいものに変容させようと す る も の で あ った 。 嘉 禄 元 (一 二 二 五) 年 に 泰 時 は 将 軍 御 所 を 鶴 岡 八 幡 宮 の 若 宮 大 路 横 の 宇 都 宮 辻 子 御 所 に 移 す 。 古 代 以来、外港である 六 むつ 浦 ら と結ぶ北の六浦街道が幹線道であり、そのルート沿いの 大 おお 倉 くら に御所が作られていた。ところが 承 久 元 年 (一 二 一 九) 四 月 に 御 所 が 焼 失 し た の ち は 再 建 されず、頼経の東下後は、北条義時亭内に仮御所が設 けられ、頼経はそこで政子と同居していた。その御所 を泰時は、鶴岡八幡前に移転させた。それにともなっ て泰時以下主要御家人達も屋敷を新御所の近隣に移し て い る (泰 時 の 屋 敷 は 御 所 に 隣 接 し た) 。 鶴 岡 八 幡 宮 と 御 所とを中心とした政治都市の構築が始められたと評価 しえよう。御所移転にともない、平安京をモデルとし た 土 地 制 度 ( 丈 尺 制 ) や 行 政 制 度 ( 保 制 ) も 導 入 さ れ た。最大幅が三十三mもある若宮 大 おお 路 じ は将軍を中心に 武家が儀式を執り行うハレの場となり京の 朱 す ざ く 雀 大路と 宇都宮辻子御所跡碑(現宇都宮稲荷神社)

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 同じ役割を担った。また 六 むつ 浦 ら 道 みち をはじめとして鎌倉に はいる幹線道路を整備し、不便な悪路を切り開いた。 そして海路を利用して鎌倉へ物資を搬入するための、 港湾 ( 和 わ 賀 か 江 え 島 じま ) も新たに築造された。   鎌倉が新御所へ移ったのにともない鎌倉 大 だい 番 ばん 役 やく も開 始された。東国十五箇国の御家人役として輪番でこれ を 務 め さ せ た 。 こ れ は 従 来 か ら の 京 都 大 番 役 (内 裏 ・ 院 御 所 諸 門 の 警 固) を 模 し た も の で 、 鎌 倉 殿 の 権 威 を 高 め る為のものであった事は疑いない。また新御所と若宮 大路という新たな祭祀空間が生れたことにより、鎌倉 殿を権威付ける武家儀礼も調えられていった。   その後、 天皇の「浄」 「聖」を守るために平安京で行われていた 四 し 角 かく 四 し 境 きよう 祭、 七 なな 瀬 せの 祓 はらい を初めとして、 種々の陰陽道 祭が鎌倉においても恒常的に行われるようになった。   ま た こ れ に 関 し て 注 目 さ れ る の は 、 承 久 の 乱 以 後、 大 だい 仁 にん 王 のう 会 え が 鶴 岡 八 幡 宮 で 挙 行 さ れ る よ う に な った こ と で あ ろ う 。 仁王会は、九世紀以後、最勝会よりも重視された鎮護国家の為の重要な法会であり、とくに天皇即位の際に行う、一 代一会の大仁王会は、宮中の諸殿、近京の諸寺、畿内及び七道諸国の国分寺で百の高座を設けて行なう壮麗なもので あった。天皇が主催するはずの大仁王会を承久の乱以後、武家もとり行なうようになった事実は鎌倉幕府が単なる軍 和賀江島碑

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 事権門でなかったことを意味しよう。鎌倉の中心に位置する鶴岡八 幡宮は源氏の 氏 うじ 寺 でら から護国を祈る東国の中心的な鎮守へとその姿を 変 え て い た 。 泰 時 は 、 寛 かん 元 げん 元 (一 二 四 三) 年 に 鎌 倉 へ の 西 の 玄 関 口 に あたる 長 は せ 谷 に大仏殿と共に阿弥陀仏 (この時は木造) を造立するが、 これもおそらく鶴岡八幡宮を中心とした都市作りと関係するもので あったはずである (木造完成の年は、 東大寺大仏造立の詔が発せられた 天 てん 平 ぴよう 十 五( 七 四 三 ) 年 か ら ち ょ う ど 五 百 年 目 の 節 目 に あ た っ た ) 。 阿 弥 陀 如 来 は 八 幡 神 の 本 ほん 地 じ 仏 ぶつ (神 本 来 の 姿) で あ り 、 鶴 岡 八 幡 宮 の 分 身 と し て 武 家 の 都 へ 入 る 西 の 境 界 に こ の 大 仏 を 建 立 し た の で あ ろ う ( 現 在 の 鎌 倉 大 仏 は 建 長 四 (一 二 五 二) 年 に 金 銅 仏 と し て 作 り 直 さ れ た も の で ある) 。   さ て 、 鎌 倉 御 所 で の 御 家 人 役 に つ い て で あ る が 、「大 番 役」 は 軍 役 として御家人の統制機関である侍所の統括する所であった。当時の 侍所別当は執権泰時が兼務しており、鎌倉大番役の制度も泰時の発 意であったはずである。御所諸門の警固は侍所の職掌であったが、 御所内の警固は、 頼経が鎌倉へ下向してきた際に、 義 時 に よ っ て 新 設 さ れ た 小 こ 侍 さむらい 所 どころ の 職 掌 で あ っ た。 小 侍 所 は、 御 所 へ の 宿 営 や 将 軍 出 しゆつ 行 こう の 際 の 供 ぐ 奉 ぶ 等 を 管 掌 す る と い う 侍 所 の 職 務 を 特 化 さ せ る 為 に 侍 所 か ら 分 立 さ れ た も の で あ り 、 初 代 別 当 に は 泰 時 の 異 母 弟 重 しげ 時 とき (朝 時 の 同 母 弟) が 鶴岡八幡宮

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 任じられていた。ここでは鎌倉大番役が北条氏の監督下で開始されたという点に注目しておきたい。   ただし、泰時は、鎌倉殿に対してはいつも臣下の礼を 弁 わきま え、 奢 おご った所を見せなかった。たとえば『吾妻鏡』には、 泰時自らが御所に 宿 との 直 い した際のエピソードを載せている。付き添った家臣が泰時の為に 筵 むしろ を持参したのを見て、とも に宿直する御家人達に聞こえるように、板の間で控えるのが臣下としての礼であると、この従臣を叱責したと『吾妻 鏡』 は 伝 え て い る 。 公 の 場 に お い て 、 泰 時 は 他 の 御 家 人 の 手 本 と な る よ う に 鎌 倉 殿 に 対 し て 臣 下 の 礼 を 尽 く し て い た 。 御所における祭祀や儀式の整備も、君臣関係を視覚化し礼による秩序を作り出すものであった。鎌倉殿の権威を高め ながら、反面、鎌倉殿を政務からは遠ざけるという所に泰時の政治家的手腕をうかがうことができる。

御成敗式目制定の意味

   嘉 禄 元 (一 二 二 五) 年 に 執 権 ― 評 定 衆 制 度 を 創 出 す る と 、 泰 時 は た だ ち に 評 定 会 議 の 為 の 裁 判 規 範 の 制 定 に 着 手 し た。これがすなはち武家法の根幹としてして後世まで高く評価されることになる『御成敗式目』五十一箇条である。 『御成敗式目』の末尾には、評定衆十一名と両執権による 起 き 請 しよう 文 もん が付されており、その文面には評定会議の際には当 該規範にもとづき誰に憚ることなく公正に発言すること、また審議を経た結論がたとい誤りであっても、評定衆全員 で責任を負うことが明記されている。つまり『御成敗式目』は「執権 ― 評定衆」制度の公正さを担保する役割をもっ て制定されたのである。しかし、裁判規範が必要となったのは、それだけが理由ではなく、幕府をとりまく大きな状 況の変化に対処する必要があったからである。承久の乱によって後鳥羽上皇軍を打破った幕府は、自らの力で全国の 治安維持を図らねばならなかった。乱後すぐに幕府が京都に六波羅探題を設置したのも、朝廷並びに西国を監視する

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 必要があったからである。承久の乱以前においては、公家側から提訴された事案の審理は朝廷で行われ、その判決の 執行を幕府に要請するという手続きが一般的であった。したがって、被告として公家法廷に引き出された御家人達は 公家法の法理で裁かれていたと言ってよかった。ところが、承久の乱の乱以後は圧倒的な軍事力をもって幕府が政治 の主導権を握るようになり、幕府の姿勢に変化が生じるようになる。公家達は、新地頭の非法を力で抑えこむことの 出 来 る 幕 府 へ 直 接 提 訴 す る よ う に な り 、 幕 府 も 、 こ れ に 応 え 、 裁 判 権 者 と し て 積 極 的 に 理 非 を 判 断 す る よ う に な った 。 そうなると公正な裁判を行う為の規範が必要になってくる。これよって制定されたのが『御成敗式目』であった。   ただし、 裁判権者として土地や所職について理非判断を下す為には、 おのおの異なる 本 ほん 所 じよ 法 ほう (荘園領主による家政運 営と荘園支配の為の法) や、 在地の慣習法の実態をまず明かにする必要があった。訴訟当事者に立証責任を負わせ、 当 該 期 よ り 当 事 者 に 訴 状 (原 告 提 出) 、 陳 状 (被 告 弁 駁 書) の 提 出 を 義 務 づ け る よ う に な った の も そ の 為 で あ った 。 証 文 が 決め手となるような、このような訴訟を受理する場合に、まず当事者双方に自らの主張に偽りのないことを誓わせる 請 うけ 文 ぶみ を提出させたのも ( 文 ぶん 暦 りやく 二(一二三五)年七月二十八日付追加法七六条) 、 理非を明らかにせんとする泰時の意欲の 表れであろう。これまで朝廷における裁判では、たとい地頭御家人側に理がある場合でも、荘園領主側の主張をくん で地頭御家人側の行為を非法とする判決が下されることが一般的であったので、ようやく道理に基づいた裁判が行わ れるようになったとも言えよう。   泰時の法思想を考える上で、特に注目されるのは、当該期より幕府法廷において「 和 わ 与 よ 状」を取り交わすことで訴 訟を終結させる事例が確認できる様になることである。そして裁判権者である幕府はその和与を承認する下知状を当 事者に下したのである。 「和与」とは権利を譲渡する行為であるので、 「和与状」の交換とは、当事者が互いに譲歩し

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) て争いを止めることを意味した。つまり現在の民法上の「和解」とほぼ同一の効果を生んだのである。   しかし、和解を成立させる為には、裁判権者が在地の慣習等を理解した上で、当事者の主張に耳を傾け、当時の状 況から両者が納得しうる「落としどころ」を探さねばならかったのである。すなはち、これは当時の公家法の言う所 の「 折 せつ 中 ちゆう の 理 」 を 裁 判 権 者 が 探 し 出 す こ と を 意 味 し た。 「 和 与 状 」 の 交 換 は、 在 地 社 会 に 秩 序 を 生 み 出 す 為 の 新 た な ルール作りとも評価出来るものであった。   さ て 、 幕 府 法 廷 の 裁 判 規 範 た る 『御 成 敗 式 目』 と は ど の よ う な 法 典 で あ った の だ ろ う か 。 現 在 伝 わ る 『御 成 敗 式 目』 の写本は、のちに増補編纂されたものであり、原式目の姿は伝えられていない。だが泰時自身がその増補を手がけた と 思 わ れ る の で 、 お そ ら く 現 在 の 『御 成 敗 式 目』 の 条 文 構 成 も 、 原 式 目 と さ ほ ど 変 わ る も の で は な か った と 思 わ れ る 。 全五十一箇条を通してその特徴を挙げるとするならば、実際に解釈 ・ 適用する際に不便のないように、裁判の際に争 点となる問題点をジャンルごとに分類し、抽象的ではなく、具体的な事例によって説明されている所に特徴がある。 それは公家法の法書 (たとえば『 法 ほつ 曹 そう 至 し 要 よう 抄 しよう 』や『 裁 さい 判 ばん 至 し 要 よう 抄 しよう 』など) と相通ずるものであり、 その影響が伺える。泰 時 は、 執 権 就 任 当 初 か ら 政 道 興 行 の 為 に 毎 朝 一 度 は「 明 法 の 目 安 」 ( 公 家 法 の 法 書 で あ ろ う ) を 読 ん だ と『 吾 妻 鏡 』 は 伝えるが (元仁元年十二月二日条) 、『御成敗式目』を制定する際にも必ずや公家法の法書を参考にしたはずである。   貞 永 元 (一 二 三 二) 年 当 時 六 波 羅 探 題 と し て 在 職 し て い た 弟 の 重 時 に 宛 て た 貞 永 元 年 九 月 十 一 日 付 の 泰 時 書 状 に よ っ て、自らが制定した『御成敗式目』を「 政 まつりごと の 体 てい 」に関する規範であるとして、律令法系の「式」典に準ずる法典と 位 置 づ け よ う と し て い た こ と が わ か る。 地 頭 御 家 人 達 に 対 し て は、 武 家 独 自 の 法 典 で あ る と 宣 言 し な が ら も ( 藤 原 不 比等の律令に比すべき関東の「 鴻 こう 宝 ほう 」と称した) 、 外部に対しては、 当時の法概念 (律令法学) を用いて、 公的組織たる幕

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 府の「式条」 (諸司式に準ずる特別法) であると説明し、それを正当化したのである。   さて、 『御成敗式目』の内容であるが、 祭 さい 祀 し ・ 仏事に関する 禁 きん 制 ぜい 、 守護 ・ 地頭に関する禁制、 裁判上の原則、 刑事法 に関する禁制、所領所職の相論に関する規範、幕府の裁判秩序を維持する為の規範、幕府の身分秩序を維持する為の 規範、財物に関する規範等から構成されている。なかでも所領所職の相論に関する規範群を見ると、一般原則的な規 範ではなく特殊なケースばかりが列挙されている所に特徴がある。地頭それぞれは個々の荘園領主の定めた本所法に もとづき、所当官物の 出 すい 納 とう や 勧 かん 農 のう といった職務を遂行していたから、その職務内容を一律に立法化することなど出来 な か っ た の で あ る ( 承 久 の 乱 後 に 新 た に 置 か れ た 新 しん 補 ぽ 地 頭 に は、 宣 旨 に も と づ く「 新 補 率 りつ 法 ほう 」 が 適 用 さ れ た ) 。 あ く ま で も 様々なケースに応じた幕府の裁判規範を成文化=立法化することが『御成敗式目』制定の目的であった。   また、その法理を見ると、道理すなはち儒教的徳治思想に重きを置いている所に特色がある。なかでも親権、家督 権を絶対視したのであるが、それは、承久の乱の際の戦後処理とも密接に関わる問題であった。たとえば、一族が京 方 と 幕 府 方 に 別 れ て 戦 っ た 際 に は、 戦 後 処 理 を め ぐ っ て 所 領 相 論 が 惹 じやつ 起 き し た。 京 方 に 加 か 担 たん し た こ と が 明 ら か に な れ ば、 そ の 所 領 は こ と ご と く 幕 府 に 没 収 さ れ た か ら で あ る ( 式 目 の 制 定 に よ り、 事 後 京 方 加 担 が 発 覚 し た 場 合 は 所 領 五 分 の 一 の 没 収 に 止 め ら れ た ) 。 一 族 の 家 督 が 京 方 で あ っ た ケ ー ス な ど で は 特 に 混 乱 が 大 き く、 幕 府 方 に つ い た 者 が 新 た な 家 督として一族をまとめて行かねばならなかったのである。また、幕府方に一家をあげて加担した場合も、西国の地を 恩賞として与えられた場合などは、遠隔地の所領経営については、庶子や郎党などに委ねなければならず、それが経 営上は独立したものである以上、家督への求心力が弱まることとなった。もしそれにより一門の結束が乱れれれば、 幕府の屋台骨が崩れてゆくことになりかねない。そこで宗家の家督を「 惣 そう 領 りよう 」と名づけ、 特別な権限を与えたのであ

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) る。 そ の 特 別 な 権 限 と は、 軍 事 統 率 権 ( 具 体 的 に は 平 時 の 京 都 大 番 役 と 鎌 倉 大 番 役 ) と 公 く 事 じ 徴 収 権 ( 御 家 人 役 と し て の 経 済 負 担 ) で あ っ た。 分 割 相 続 と そ れ に と も な う 庶 子 家 の 独 立 が 進 ん だ 段 階 に お い て 家 督 に 求 心 力 を 持 た せ る 為 に 創 出 されたのがいわゆる「惣領制」であった。泰時は一門の家督に強力な権限を与えることによって、一族を統率させ、 御家人社会の秩序を取り戻そうとしたのであろう。   実は、 北条宗家自体も家督に権限を集中させる必要があった。自らが 正 せい 嫡 ちやく であると自負する異母弟の朝時は、 泰時 に反抗していたし、その他の弟達も泰時に従順であるかどうかは未知数であった。泰時は、公式の場では、叔父時房 に対し 悌 てい 順 じゆん の礼を示したし、 反発する朝時に対しても長弟として両執権に次ぐ地位を与え、 家族秩序を重んじた。ま た、父義時の遺産を配分する際には、弟や妹達に多くを与え、嫡子である自らの相続分を異例な程少なくし気配りを 見 せ た。 し か し そ の 反 面、 家 政 機 関 で あ る 公 文 所 を 整 備 し た 上 で 家 か 令 れい ( 尾 び 藤 とう 景 かげ 綱 つな ) を 置 き、 一 族 が 遵 守 す べ き 家 法 を 制定している。泰時はここでも融和を図りながら、統制すべき所は抜け目なく行なっているのである。   泰時は、 神護寺の 明 みよう 恵 え と在京中に親交を深め、 それ以降も心を通わせていたが、 それは両者の間に思想的に相通ず る所があったからであろう。たとえば両者は共に大義名分を重んじた。明恵はそれを「あるべきやう」と称したが、 泰時は、その「あるべきやう」を儒教の「 正 せい 名 めい 」論をもって理解したはずである。封建的な秩序のなかで、支配服従 関 係 に あ る 己 の 立 場 を 再 確 認 し、 そ の 名 に ふ さ わ し い 行 動 を と る こ と が「 正 名 」 で あ っ た。 臣 下 ( 御 家 人 ) と し て の 道理、家督としての道理、父としての道理、子としての道理、兄弟としての道理、妻としての道理、傍輩の道理等を 泰時は如何なる場面でも強調した。その思想は『御成敗式目』の法理にも当然の如く反映されている。そして泰時自 らも、鎌倉幕府の執権として、あるいは北条宗家の家督として為すべきことを実践したのであった。

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又)

泰時の仁政

  仁 にん 治 じ 三 (一二四二) 年に泰時が死去した際に、 公卿の藤原 経 つね 光 みつ から、 尭 きよう ・ 舜 しゆん (徳を以て理想的な仁政を行ったとされる 中 国 古 代 の 理 想 的 な 帝 王。 尭 = 陶 とう 唐 とう 氏 と 舜 = 有 ゆう 虞 ぐ 氏。 ) の 再 誕 と ま で 評 さ れ た よ う に、 泰 時 の 政 治 は 当 時 か ら 仁 政 と し て 賞賛されていた。南北朝時代に南朝の柱石であった 北 きた 畠 ばたけ 親 ちか 房 ふさ は、 天皇親政を政治上の正道と考え、 武家政治を否定し て い た が、 著 名 な『 神 じん 皇 のう 正 しよう 統 とう 記 き 』 の 中 で、 源 頼 朝 と 北 条 泰 時 の 功 績 は 認 め、 保 ほう 元 げん ・ 平 へい 治 じ の 乱 以 降 乱 れ た 世 の 中 が 治 まったのは、彼らが「徳政」を心がけたからであると褒め 称 たた えている。特に泰時に関しては、以下の様に絶賛してい る。 大 おお 方 かた 泰時心タゞシク 政 まつりごと スナ ヲ (ホ) ニシテ、人ヲハグクミ物ニオゴラズ、 公 く 家 げ ノ御コトオモクシ、 本 ほん 所 じよ ノワヅラヒヲ トドメシカバ、風ノ前ニ塵ナクシテ、天ノ下スナハチシヅマリキ。カクテ年代ヲカサネシコト、ヒトヘニ泰時ガ 力トゾ申伝ヌル。 陪 ばい 臣 しん トシテ久シク権ヲトルコトハ和漢両朝ニ先例ナシ。其 主 しゆ タリシ頼朝スラ二世ヲバスギズ。 義時イカナル果報ニカ、ハカラザル家業ヲハジメテ、兵馬ノ権ヲトレリシ、タメシマレナルコトニヤ。サレドコ トナル才徳ハキコエズ、又 大 たい 名 めい ノ下にホコル心ヤ有ケン、中二トセバカリゾアリシ、身マカリシカド、彼泰時ア ヒツギテ徳政ヲ先とシ、法式ヲカタクス。 己 おのれ ガ分ヲハカルノミナラズ、親族ナラビニアラユル武士マデモイマシ メ テ、 高 たかき 官 位 ヲ ノ ゾ ム 者 ナ カ リ キ、 其 政 まつりごと 次 第 ノ マ マ ニ オ ト ロ ヘ、 ツ ヰ ニ 減 ヌ ル ハ 天 命 ノ ヲ ハ ル ス ガ タ ナ リ。 七代マデタモテルコソ彼ガ余勲ナレバ、 恨 ウラムル トコロナシト云ツベシ (『神皇正統記』 「後嵯峨院」 )   右文の「 公 く 家 げ ノ御コトオモクシ、 本 ほん 所 じよ ノワズラヒヲトドメシカバ」とは、前述したように、幕府が公権力として本

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 所訴訟を積極的に取り扱い、適正な手続きで公平に理非を判断したことをさし示すものである。   また、時に無理難題を要求し、朝廷を困らせていた比叡山や高野山といった大寺院に対しても、泰時は、厳しく対 処 し 、 非 法 が あ れ ば 強 硬 な 態 度 で こ れ に 臨 ん だ 。 た と え ば 嘉 禎 元 (一 二 三 五) 年 か ら 始 ま った 石 清 水 八 幡 宮 と 興 福 寺 と の紛争に際し、説得に応じず強訴を繰り返す興福寺衆徒に対して泰時は、大和国内の興福寺衆徒知行の荘園に地頭を 補 置 す る と 共 に、 大 和 国 に 臨 時 の 守 護 人 を 置 く 強 硬 措 置 を と り 衆 徒 を 屈 服 さ せ て い る ( こ の あ と 大 和 国 守 護 と 地 頭 は 停 止される) 。   さ て 泰 時 の 撫 ぶ 民 みん 政 策 ( 民 を い た わ る 政 策 ) に つ い て で あ る が、 泰 時 が 撫 民 を 心 が け、 そ れ を 実 践 し た こ と は『 吾 妻 鏡』等の史料からも明らかとなる。それが単なるパフォーマンスでなかったことは飢饉や災害時の彼の施策を見れば わかる。頼家の代に泰時が在地徳政を行ったことは既に紹介したが、執権就任後に起こった 寛 かん 喜 ぎ の大飢饉の際に、彼 が行った徳政は特徴的であった。寛喜の大飢饉は、一一八〇年代前半の 養 よう 和 わ の大飢饉と比較される鎌倉前半期を代表 す る 大 飢 饉 で あ っ た。 泰 時 は、 窮 貧 民 を 救 う 為 に、 自 ら が 国 務 知 行 権 を 有 す る 伊 豆 ・ 駿 河 両 国 に お い て、 有 う 徳 とく 人 じん ( 富 裕 な 人 ) に 対 し 出 すい 挙 こ 米 まい の 貸 し 出 し を 命 じ た が、 決 し て 彼 等 に 無 理 強 い せ ず に、 そ の 返 済 を 泰 時 が 担 保 す る こ と で 在 地 の有徳人も貧窮民もともに利益を得る方策を実施した。また、 幕府は、 嘉禄元 (一二二五) 年には、 朝廷と足並みを揃 え、 私 し 出 すい 挙 こ の利一倍と銭出挙の利半倍という利息制限令を施行していたが、債務に苦しむ農民達があとを絶たないの を見ると、幕府独自の政策として、私出挙の利半倍という特別法をさらに制定して窮貧民の救済にあたっている。ま た何よりも注目されるのは、寛喜の大飢饉の際に泰時が飢饉奴隷を認めた点であろう。朝廷は、飢饉による惨状を前 にしても律令法の原則通りに良民の人身売買を認めなかったが、泰時は家族共に餓死せんとする状況をみて、妻子等

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) の売買を特別に認めている。これによって窮貧民は妻子等を売ることで何とか命を繋ぎとめることが出来たし、売ら れ た 妻 子 等 も 買 徳 者 の も と で 寝 食 が 保 証 さ れ た の で あ る 。 建 前 を 論 じ て 困 窮 せ る 民 を 見 殺 し に す る こ と は 人 道 的 に も 、 ま た 民 を 撫 育 す る 立 場 に あ る 為 政 者 と し て も 許 さ れ る も の で は な い と 泰 時 は 考 え た の で あ る 。 ま た 飢 饉 が お さ ま る と 、 泰時は債務奴隷となった妻子等を適正な価格で買い戻すことも認めており、配慮が行き届いている。飢饉の際には、 みづからも倹約につとめ、 畳、 衣裳、 烏帽子等の新調を避け、 夜は 燈 あ か り 火 を用いず、 昼食を抜くなど粗食に耐えている。   泰時がことのほか撫民を心がけたのは、やはり承久の乱の際に皇室に弓を引いたことの後ろめたさがあったからに 違いない。 『明恵上人伝記』には、 明恵が泰時に対し、 無欲で撫民を心掛けることでしかその罪滅ぼしは出来ないと諭 した話しを載せるが、臣下が三上皇を配流し、天皇を廃立するということは有史以来初めての出来事であり、道理を 重んずる泰時であれば、なおさらのこと心の負い目になっていたはずである。   たとえば、 慈円が、 後鳥羽の行動を我が国の伝統的な歴史観をもって「神意」に背くものと評し、 北畠親房が、 「儒 教的な正道の原理によって「天意」に背く行為と評したように、同時代の有識者達も後鳥羽上皇の討幕運動を非難し てはいるけれども、幕府が皇室に敵対することの正当性を導き出すことはやはり容易ではなかったはずである。出兵 を躊躇する泰時に対し義時が「今 此 こ の 君 きみ の 御 み 代 よ と成りて、 国 くに 々 ぐに 乱 みだ れ 所 しよ 々 しよ 安からず、 上 じよう 下 げ 万 ばん 人 にん 愁 うれひ を抱かずと云ふことな し、 然 しか れ ど も 関 東 の 進 退 の 分 ぶん 国 こく 計 ばか り、 聊 いささ か こ の 王 おう 難 なん に 及 およ ば ず し て、 万 ばん 民 みん 安 あん 穏 のん の 思 おも ひ を 成 な せ り。 若 も し 御 ご 一 いつ 統 とう あ ら ば 禍 わざはひ 四 海 かい に 充 み ち、 煩 わずら ひは 一 いつ 天 てん に 普 あまね くして 安 やす き 事 こと なく、 人 じん 民 みん 大 おほい に 愁 うれ ふべし。 是 こ れ 私 わたし を 存 そん して 随 したが ひ 申 もう さざるに 非 あら ず。 天 てん 下 か の 人 ひと の 嘆 なげ きに 代 かは りて、 縦 たと ひ 身 み の 冥 みよう 加 が 尽 つ き 命 いのち を 捨 す つと 云 い ふ 共 とも 、 痛 いた むべ きに 非 あら ず。 (中略) 君 きみ を 誤 あやま り 奉 たてまつ るべ きに 非 あら ず。 申 もう し 進 すす むる 近 きん 臣 しん 共 ども の 悪 あく 行 ぎよう を 罰 ばつ するまでこそあれ」 (『明恵上人伝記』 ) と語ったと伝えられているが、 皇室に対する幕府の処分

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) を正当化する為には、やはり明恵の述べた通り、私事を捨て、万民を安んずる徳政を行うことしかなかったはずであ る。その事を泰時は十分弁えていたに違いない。   と こ ろ が、 前 述 し た 様 な 寛 喜 の 大 飢 饉 に 繋 が る 天 候 異 変 が 安 貞 元 ( 一 二 二 七 ) 年 あ た り か ら 顕 著 と な る。 そ の 年 に は 、 日 照 り と 大 雨 に 見 舞 わ れ 、 関 東 で は 台 風 の 直 撃 も 受 け て し ま う 。 そ し て そ の 二 年 後 の 寛 喜 二 (一 二 三 〇) 年 か ら は 極 端 な 冷 夏 に 端 を 発 す る 寛 喜 の 大 飢 饉 が 起って し ま う 。『吾 妻 鏡』 寛 喜 二 年 六 月 十 六 日 条 に は 「当 時、 関 東 政 せい 途 と を 廃 せ ず、 武 ( 泰 時 ) 州 殊に戦々恐々たり、善を 彰 あらは し、悪を 痺 くるし め、身を忘れ、世を救ひたまうの間、天下帰往するのところ、近日時 節 依 い ゐ 違 し、 陰 いん 陽 よう 不同之条、 直 ただ なる事にあらざるか」と記されており、この天変が泰時に相当なダメージを与えたこと が伺える。災異は為政者の不徳により発生するものと考えられていたからである。攘災の為に前述した様な徳政を泰 時が実施したのも当然であった。   し か も 安 貞 元 年 の 異 常 気 象 と 連 動 す る よ う に 、 泰 時 の 身 内 に 相 次 い で 不 幸 が 起って い た 。 安 貞 元 (一 二 二 七) 年 六 月 十 八 日 に 、 ま だ 十 六 歳 の 次 男 時 とき 実 ざね が 家 け 人 にん に 殺 害 さ れ る と 、 そ の 二 年 後 の 寛 喜 元 (一 二 二 九) 年 六 月 十 八 日 に は 長 男 の 時 とき 氏 うじ が二十八歳の若さで病死し、八月には三浦泰村に嫁いでいた娘が出産の後母子共に死んでしまった。六月は、承久 の乱の際に幕府軍が京方の軍勢を打破り入京した月であり、身内の相次ぐ不幸に泰時のみならず周囲の者達も祟りで はないかと考えたはずである。しかし、周囲からどのような進言があろうとも、泰時は討幕の兵を挙げた後鳥羽上皇 等を決して許すことなく厳しい態度で臨んだ。承久の乱で配流された三上皇のうち、土御門上皇は既に亡くなってい たが、 後鳥羽、 順徳の二上皇については、 嘉禎元 (一二三五) 年に環京運動が起った。鎌倉将軍の父九条道家からも要 請 が あ った が 、 泰 時 は 頑 な に こ れ を 拒 否 し た 。 ま た 仁 治 三 (一 二 四 二) 年 正 月 に 四 条 天 皇 が 十 二 歳 で 急 逝 し 、 そ の 皇 嗣

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) の選定が問題となったときも、 泰時は、 都で有 力 視 さ れ て い た 順 徳 上 皇 の 皇 子 忠 ただ 成 なり 王 の 即 位 に 反対し、 鶴岡八幡宮の神意によるとして討幕に 関 与 し な か った 土 御 門 の 皇 子 邦 くに 仁 ひと 王 の 即 位 を 求 め た 。 こ の と き 泰 時 は 御 家 人 の 安 あ 達 だち 義 よし 景 かげ を 使 者 として都へ遣わし、 もし順徳上皇の皇子が即位 し て い た な ら ば 直 ち に 退 位 さ せ る よ う に 厳 命 を 与えていた。 禍 か 根 こん を遺さない様に、 将来討幕運 動 に 繋 が る よ う な 芽 は す べ て 摘 み 取って お く と いうのが泰時の一貫した方針であった。祟りを怖れ、手綱を緩めるようなことは決してしなかった。泰時が干渉した こ と に よ り 空 位 期 間 は 十 二 日 間 に も 及 ん だ 。 結 果 と し て 泰 時 の 推 戴 し た 土 御 門 上 皇 の 皇 子 邦 仁 王 (後 嵯 峨) が 即 位 し 、 皇嗣の選定すら幕府の同意なくしは行えないことを人々に知らしめたのである。   二 人 の 息 子 を 失 っ た 泰 時 は、 長 男 時 実 の 子 経 つね 時 とき を 自 ら の 後 継 者 に 選 定 し た。 泰 時 が 亡 く な る 前 年 の 仁 治 二 ( 一 二 四 一 ) 年 六 月 に、 経 時 が 評 定 衆 に 任 じ ら れ た の も、 ま た 弱 冠 十 八 歳 で あ り な が ら 同 年 八 月 に 従 五 位 上 の 位 を 得 た の も、 泰時の働きかけがあったからであった。この年の十一月、泰時は、屋敷に孫の経時と幕府の主要な人々を呼び寄せ酒 宴を開いているが、これは後継者である経時に対し、学問を愛し政道の助けとすること、一門の金沢実時を良き補佐 役 と す る こ と 等 を 教 え 諭 す 為 で あ った 。 実 時 は 、 ま だ 十 一 歳 の 時 に 泰 時 が 小 侍 所 別 当 の 重 職 に 抜 擢 し た 人 物 で あ り (父 泰時の子と孫       時氏(母=三浦義村女)    経時(母=安達景盛女)       時実(母=安保実員女)    時頼(母=同経時)   泰時    公義(僧)       女子(足利義氏妻)       女子(三浦泰村妻)       女子(北条朝直妻)

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 実 泰 の 後 任 と し て ) 、 泰 時 が そ の 才 智 や 人 柄 を 高 く 評 価 し て い た 人 物 で あ っ た ( 後 に 金 沢 文 庫 を 創 設 す る こ と で 有 名 で あ る) 。 年 齢 の 近 い 実 時 な ら ば 血 気 盛 ん な 経 時 を う ま く 抑 え て く れ る と 思った の で あ ろ う 。 仁 治 元 年 に 連 署 で あ る 叔 父 の 時房が亡くなった際に泰時が後任の連署を置かなかったのも後任者が経時の地位を脅かす存在となることを怖れたか ら で あ ろ う 。 な か で も 泰 時 は 異 母 弟 の 朝 時 の 存 在 を 特 に 警 戒 し て い た 。 泰 時 が 亡 く な る 直 前 に 朝 時 が 突 然 出 家 す る が 、 恐らく泰時が圧力をかけたのであろう。泰時にしてみれば、孫の経時に無事に執権職を譲り渡すことが最後の仕事で あった。   泰時は、仁治二年四月二十七日に発病すると、五月九日に出家して観阿と号し、六月十五日に六十歳の生涯を終え る。 泰 時 は 父 義 時 を 超 え、 正 四 位 下 ま で 昇 進 し た ( 義 時 は 従 四位上まで昇叙した) 。   ところで、泰時が逝去した六月十五日は、奇しくも承久の 乱の際に泰時が幕府軍を率いて洛中へ入った日であり、人々 は後鳥羽上皇の怨念を噂したはずである。しかし、泰時が逝 去した際には、 都 と 鄙 ひ の貴賎が父母を喪ったように悲しんだと も記されており (『百練抄』 ) 、 泰時が当時の人々に慕われてい たことがうかがえよう。   泰時の政策を振り返って、政治家としての泰時を評価する ならば、中庸を重んじたバランス感覚の良い政治家であった 北条泰時の墓(常楽寺)

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) と評価しえよう。承久の乱後の社会の混乱を収束させ、執権を中心とする幕府の新体制を軌道に乗せることが出来た のも泰時の手腕によるところが大きかったのである。   泰時の遺骨は、泰時が夫人の母の追福の為に開創した山之内の 粟 あわ 船 ふね 御 み 堂 どう 背後の山上に葬られたが、後年この堂が常 楽寺へと発展したのにともない、墓塔も本堂背後に移され現在に至っている。 参考文献 石井   進     『日本の歴史7、鎌倉幕府』新装版中公文庫、二〇〇四年〈初出一九七四年〉 入間田宣夫『百姓申状と起請文の世界 ― 中世民衆の自立と連帯 ― 』(東京大学出版会、一九八八年) 上横手雅敬『 (人物叢書)北条泰時』 (吉川弘文館、一九五八年)     同       『日本中世政治史研究』 (塙書房、一九七〇年) 奥富敬之     『鎌倉北条一族〈新版〉 』(新人物往来社、二〇〇〇年) 五味克夫     「鎌倉御家人の番役勤仕(二) 」( 『史学雑誌』第 63編第 10号、一九五四年) 五味文彦     『吾妻鏡の方法 ― 事実と神話にみる中世』 (吉川弘文館、一九九〇年) 近藤成一     「文書様式にみる鎌倉幕府権力の展開 ― 下文の変質 ― 」『日本古文書学論集5中世1』 、一九八六年) 長又高夫     「『懸物押書』ノート」 (『國學院高等学校紀要』第二十五輯、一九九三年)     同       「『御成敗式目』の条文構成について」 (『國學院大學日本文化研究所紀要』第九十四輯、二〇〇四年)     同       「『御成敗式目』成立の背景 ― 律令法との関係を中心に ― 」( 『國學院大學日本文化研究所紀要』第九十五輯、二〇〇五年)     同       「『御成敗式目』編纂試論」 (林伸夫 ・ 新田一郎編『法がうまれるとき』 (創文社、二〇〇八年)     同       「北条泰時の政治構想」 (『身延山大学東洋文化研究所所報』第十五号、二〇一一年)     同       「北条泰時の道理」 (『日本歴史』第七七四号、吉川弘文館、二〇一二年)     同       「寛喜飢饉時の北条泰時の撫民政策」 (『身延山大学仏教学部紀要』第 14号、二〇一四年)

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鎌倉北条氏列伝(二)北条泰時(長又) 佐藤進一     『日本の中世国家』 (岩波書店、一九八三年) 高橋慎一郎『武家の古都、鎌倉』 (山川出版社、二〇〇五年) 平泉洸訳注『明恵上人伝記』 (講談社学術文庫、一九八〇年) 仁平義孝     「鎌倉前期幕府政治の特質」 (『古文書研究』第 31号、一九八九年) 松尾剛次     『中世都市鎌倉の風景』 (吉川弘文館、一九九三年) 三山   進     「執権北条泰時」 (『鎌倉将軍執権列伝』秋田書店、一九七四年) 安田元久     『(人物叢書)北条義時』 (吉川弘文館、一九六一年)     同       『鎌倉幕府 ― その実力者たち』 (新人物往来社、一九六五年)

参照

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