スペイン・カタルーニャ州の独立問題に関する一考察
―政党政治の変容という視点から―
1)永 田 智 成
1.カタルーニャ独立運動の原因を考える (1)先行研究における見解 2010 年以降,スペインのカタルーニャ州ではスペインからの分離独立運動が盛り上がりを見せ ている。スペインには独自の歴史や文化を強調する地域が存在し,カタルーニャやバスクといった 地域がそれに該当する。しかし今まで民主化から 40 年以上,カタルーニャ州において大規模な分 離独立運動が展開されることはなかった。では,なぜ昨今になって分離独立運動が盛り上がりを見 せるようになったのか。研究者によって様々な見解が示されている。独立の要因については,複合 的な要因が絡み合った結果とされるが,それらを整理すると,これまでの研究は以下の 3 つに集約 されるように思われる。 1 つ目は,経済的な要因を強調する研究群である。スペインは 1992 年のバルセロナ・オリンピッ クが開催された翌々年の 1994 年から長らく好景気を享受していた。しかし 2008 年に発生したリー マン・ショックと連動する形で 2010 年に発生した欧州ソブリン危機は,スペイン経済を直撃し, 2009 年と 2012 年の経済成長率はそれぞれ−3.7%と−3.0%を記録するに至った[Instituto Nacional de Estadística (INE)]2) 。景気低迷に伴い,中央政府は緊縮財政策へと転換し,2010 年の終わりには, あらかじめ決められた財政赤字を超えている自治州において,新たな貸し付けを拒否した。ほとん どの自治州の財政が主に中央政府からの交付金で賄われているため,中央政府からの財政支援が受 けられないということは,州財政の破綻を意味していた3) 。特にカタルーニャ州のように財政規模 の大きい自治州では緊張が高まった。この緊張は,中央政府が新たな追加貸し付けを再開すると表 明したことにより解決したが,その後,緊縮財政の全容や赤字の削減目標が極めて達成困難である ことが判明すると,カタルーニャの緊張は最高潮となり,生き残る道はスペインからの独立以外に はないという結論に至り,独立運動が盛り上がったとする[Colino 2013]。 2 つ目は,中央政府によるカタルーニャへの不当な抑圧が独立運動激化の原因であるとする研究 群である。特に人民党(PP)は,カタルーニャ州民の民意が反映された政策をことごとく否定し, 1) 本稿は「平成 31 年度科学研究費補助金(若手研究)(課題番号 19K13611)」による研究成果の一部である。 2) なお 2009 年の数値は暫定値である。 3) バスク州とナバーラ州は例外的に中央政府と経済協約を締結しており,自主財源を有する(特別財政制度)。その仕打ちに耐えかねたカタルーニャがスペインからの分離独立へと舵を切った結果が現在の状況 であるとする。 例えば,改正カタルーニャ自治憲章は 2006 年に住民投票を経て成立したが,PP は憲法裁判所へ 同憲章が違憲であるとして提訴した。その結果,2010 年に憲法裁判所は同憲章の 14 か所が違憲で あるとの判決を下した。当時の州首相であったモンティーリャ(J. Montilla)は,カタルーニャ州 民の総意である自治憲章がわずか数人の判事の決定により覆されたことをスペインによる嫌がらせ とみなしたのである [Montilla 2013:185―213]。 特に 2011 年の総選挙の結果成立した PP 政権は,カタルーニャ州の財政制度を交付金から自主 財源へと変更することを拒否し,また,それまで州内の学校教育において,主にカタルーニャ語が 用いられていたところ,カスティーリャ語(スペイン語)での教育を義務付ける法律改正を行なっ た。一連のこうした改革は再中央集権化と呼ばれ,これが原因でカタルーニャ州民の不満が頂点に 達して,分離独立運動を展開しているとする[奥野 2017]。 3 つ目は,自治州国家体制というシステムがカタルーニャの分離独立運動を引き起こしたとする 研究群である。自治州国家体制は,民主化期という様々な課題が山積する中で導入された妥協の産 物であり,多くの欠陥が指摘されてきた。例えば,自治権に見合うだけの財源がないと指摘される [León 2015:48―50]。また,漸進的に自治権が拡大していくシステムは,カタルーニャなどの特定 地域の自治権拡大を願う地域主義者には歓迎されたが,ペラス=ロペスの論考は,カタルーニャ独 立運動が本格的に盛り上がりを見せる以前に書かれたものであるにもかかわらず,中央政府から自 治州への権限委譲に終わりがないのであれば,その国家を終わらせて権限委譲を終わらせるしかな いと皮肉を込めて自治州国家体制の欠陥を指摘していた[Pelaz López 2011:63]。 このペラス=ロペスの指摘に関連して,自治州国家体制は,漸進的に連邦制に近い存在へと変貌 してきているが,その誕生時の理念が連邦制と異にしているため,憲法改正といった抜本的な改革 がなされない以上,連邦制と同等の存在にはなりえない。というのも,自治州国家体制は,誕生時 にバスク州など一部の自治州を特別な存在にしたという経緯があるからである。その後自治権の同 質化に向けた取り組みがなされたものの,依然として自治州間では権限の一部に差異が存在する4)。 連邦制は,連邦政府と州政府との間で権限を分割する制度であり,州政府レベルという包括的な存 在で権限が与えられているため,特別な州政府という存在を認めない[岩崎 2005:97]。このため 理論上,自治州国家体制は連邦制とはならないのである5)。その他,上院が地域代表議会として機 能していないといった点も連邦制ではない証左として指摘される[スウェンデン 2010:17]。 また,長らく比較政治学において,連邦制は多民族国家をよりよく統治する最適な制度であると されてきたが[レイプハルト 2005:155],近年,連邦制の導入がかえって地域の分離独立の激化 を助長するのではないかという指摘もされており,連邦制になることで分離独立運動を鎮めること ができるとは限らないと考えられる[Cameron 2010]。 このようにカタルーニャの独立運動が激化するようになった原因は,多岐にわたっており,これ らの要因が複合的に絡み合った結果である。そこで本稿では,これまでの研究の成果を踏まえつつ, この問題について新たな視点を提示する目的で,国政レベルの政党政治がどのように地域の問題を 内包してきたかについて検討する。 4) 例えば,バスク州とナバーラ州が有する特別財政制度など。 5) 非対称性連邦制と評する向きもある[横田 2008]など。
(2)政党政治の変容と違憲立法審査権 表 1 は,時代ごとの自治州問題に対応する政党政治の変容を表している。1990 年代まで,自治 州国家体制の問題はスペインの民主主義の危機に直結する問題として,2 回の自治州協定にみられ るように,中央政界の与野党が協定を締結して対応してきた。ところが社会労働党(PSOE)のサ パテロ(J. L. Rodríguez Zapatero)政権期(2004―2011)は,自治州国家の問題について,国政にお ける野党である PP と交渉するのではなく,中央政府が直接利害関係のある州政府と交渉するよう になった。その結果,交渉の舞台から降ろされた PP は,移民政策,テロ対策,同性婚などのあら ゆる政府の政策について,協議せず拒否する姿勢を示した[Astudillo 2009:83―90]。この「拒否権」 戦略の最たるものが違憲立法審査権の行使である。具体的には,政府提案の政策について,PP は 反対を表明するものの政府との話し合いのテーブルにはつかず,法案が可決されると,その法律が 違憲であるとして,憲法裁判所に提訴するのである。アストゥディーリョの研究の射程が 2009 年 総選挙までであるため,2009 年の総選挙において PP の支持が広まらなかったことから,彼はこの 戦略が失敗に終わったという主張を展開しているが,その後の成功により,PP はこの戦略に活路 表 1 自治州政策をめぐる政党政治の変容 時期区分 国政における 組み合わせ 政党政治の形態 出来事 民主化期 UCD UCD がイニシアティブ 自治州国家体制の原型ができる (1976―1981) 国政の与野党による合意 UCD/PSOE + AP/PP 国政の与野党が 協力自治州協定 全 17 自治州による自治州国家体 制がスタートする 「高速ルート」 と「低速ルート」の差異が埋まる (1981―1992) 国政の少数与党+地域政党 PSOE/PP + CiU&PNV 国政の与党に地域政党 が加わる 自治州の財源が拡大し、地域政党 の要望通り自治権が拡大する (1993―2000) 国政の与党が絶対多数 PP PP がイニシアティブ 対バスクは PP + PSOE 地域政党と関係悪化 しかし対イバレチェ・プランに対 しては PSOE と協力 (2000―2004) 国政の少数与党+地域政党
PSOE + ERC PSOE が自治州議会の 政党と直接接触 PP は 違憲立法審査権を行使 PSOE が自治州政府と直接交渉 自治憲章が改正される PP は違憲立法審査権を行使する 国政の野党は関与せず (2004―2011) PP は 違 憲 立 法 審査権行使 国政の少数与党 PP PP がイニシアティブ 自治州政府の要望を聞き入れず、 違憲立法審査権を行使するのみ (2011―2018)
を見出したのではないかと考えられる。なぜなら,PP が政権をとった 2011 年以降,違憲立法審査 権を行使するという戦略が PP の基本的な行動様式となり,その対応がカタルーニャ分離独立運動 を激化させていったのではないかと考えられるからである[Astudillo 2009; Sánchez-Cuenca 2018]。 なおスペインにおいて違憲立法審査を担当する憲法裁判所は,創設以来,積極的に極めて政治的 な問題についても判断を下しており,国家と自治州の間の権限をめぐる紛争の解決に重要な役割を 果たしている[横田 2008:216―218]。また見平によれば,違憲立法審査権が有効に機能するためには, 裁判所が以下の資源を有していることが必要であると指摘する。すなわち,規範的資源,政治的資 源,実務的資源の 3 つであり,中でも規範的資源を有することが違憲立法審査権を効果的に機能さ せる上で重要であると述べる。規範的資源は,①積極的な違憲審査の根拠となりうる制定法・先例・ 法理論が,どの程度の厚みを持って存在しているか,②積極的な違憲審査を正当化するような裁判 所の役割規範が,国民にどの程度浸透しているか,③裁判官および裁判手続がどの程度の正統性を 有しているか,④裁判所がどの程度の権威を有しているか,である[見平 2012:44―45]。 スペインの場合,上記の②と③について,十分ではないと考えられる。2015 年に行われた調査 において,71%の人は憲法裁判所が政治化されていると答えており,裁判所の判断ミスは部分的で はないと考えている[El Mundo, 20 de agosto de 2015]。確かに最高裁判所の判事 12 人のうち,10 名が議会および政府による任命のため[スペイン憲法第 159 条第 1 項],その人事自体が政党間競 合の対象となってしまい,憲法裁判所が下した改正カタルーニャ自治憲章への一部違憲判決やカタ ルーニャで企図された独立へ向けた住民投票の投票禁止命令などが不適当であると考えている国民 は多い。見平の基準に照らせば,スペインでは違憲立法審査権が有効に機能する条件を欠いている と言え,憲法裁判所の判断に委ねる「司法の政治化」という戦術では問題が悪化すると考えられる [Ferejohn 2002:41―43]。 以上の検討から,本稿はまず自治州国家誕生の経緯を概観し,自治州国家体制が妥協の産物であ り,連邦制の理念とは異なって誕生したことを確認する。次に,自治州国家体制が先天的に抱える 諸問題を政党政治はどのように解決してきたかについて検討する。最後にバスクとカタルーニャが 更なる自治権を求めて中央政府と対峙した際,政党政治はどのような対応をとり,どのような結末 になったのかを論じる。政党政治の変容という視点を持ち込むことによって,分離独立運動が展開 されるようになったメカニズムについて,新たな視座が得られると考えられる。 2.自治州国家誕生の経緯 (1)自治州導入に関する議論とその背景 自治州国家体制は,その導入の経緯から,自治州によって権限のレベルが異なる複雑なものとなっ た。前節で述べたように,この複雑さがカタルーニャ独立運動を誘発した遠因になっていると考え られるので,自治州国家誕生の経緯を 4 つのポイントに絞りながら確認したい。 1 つ目のポイントは,かつて第二共和政期(1931―1936)において自治権を有した地域に対して, 単純にその復活という形態を採用できなかったことである。第二共和政ではカタルーニャ,バスク, ガリシアの 3 地域が自治権を享受したが6) ,スペイン内戦(1936―1939)の結果成立したフランコ体 6) ただしバスクの自治憲章成立はスペイン内戦開戦直後の 1936 年 7 月であり,ガリシアに至っては内戦開始直前
制(1936―1975)によって自治権は廃止された。フランコ体制は,地域の多様性を認めず,「ひとつ のスペイン」を標榜し続けたのである。フランコ死去後に民主化が開始され,民主的な反体制派は 自治権の復活を求めたが,スペインの民主化は,旧体制派が主導した民主化であり,民主化を求め る反体制派は,民主化プロセスにほとんど関与できなかった[永田 2016a]。民主化プロセスを旧 体制派が主導する以上,フランコ体制の正統性を脅かす政策の実現は不可能であり,第二共和政期 の自治権を復活させるという政策を採用することはできなかったのである。 とはいえ,当時の中央政府は自治州設置に反対していたわけではない。首相であったスアレス(A. Suárez)は,民主化の成否が決する大切な総選挙の準備と並行して当該地域への自治権の付与につ いて模索していたからである[Powell 1990:224―225]。また 1975 年において,公共支出の約 80% を国家財政が占めており,行政の効率化という観点から地方分権化は不可避であった [Pelaz López 2011:42]。こうした事情から,スアレスは第二共和政期の自治権の復活ではなく,全く異なる新 たな自治権の付与という体裁を重視した。 ところで中央政府が自治州設置に本格的に取り組まなくてはならなくなった出来事は,1977 年 6 月に行われた総選挙である。約 40 年ぶりに実施されたこの総選挙では,民主化改革を実行した功 績から圧倒的な人気を誇っていたスアレス首相率いる民主中道連合(UCD)が,過半数を割りな がらも第一党となり,フランコ体制下では非合法であった PSOE も UCD に肉薄する野党第一党の 地位を確保したため,スペイン全土においてほぼ二大政党制が確立した。 ところがカタルーニャとバスクでは独自の政党システムが確立し,この総選挙においてカタルー ニャに配分された全 47 議席のうち,実に 37 議席をカタルーニャの地域政党が獲得した。またバス クにおいても,PSOE が 21 議席中 7 議席を獲得して健闘したものの,やはり第一党は 8 議席を獲 得した地域政党であるバスク国民党(PNV)であった。与党 UCD は両地域において泡沫政党の地 位に甘んじたのである[永田 2019b:345]。 このことは,両地域において地域ナショナリズムが強力であり,全国政党の力が及ばないことを 意味していた。中央政府はそのエネルギーが生まれたばかりの脆弱な民主主義の崩壊につながるこ とを憂慮し,スアレス首相に早期の自治州設置を講じさせたのである[Powell 2011:24]。 (2)カタルーニャとバスクの暫定自治州設置交渉 ①カタルーニャの場合 次のポイントは,当初,中央政府が特定の地域に限定しての自治権付与を考えていたということ である。それはつまり,スペイン全体を自治州で覆っている現在の自治州国家体制が当初から想 定されていたわけではなく,場当たり的に自治州国家体制が整備されたことを意味する[Navarro 2014:221]。 スアレスは,1977 年 6 月に行われた総選挙後すぐにカタルーニャに対して暫定自治州の設置交 渉を始めた。このため,カタルーニャをモデルに自治州が整備されていくことになった。スアレス が「バスクと自由(ETA)」と呼ばれるスペインからの独立を標榜する民族主義テロリストによる 攻撃の危険性があるバスクよりもカタルーニャを重視した背景には,バスクの問題はテロに集約さ れるのに対し,カタルーニャの問題は複合的であるという考えからであった[Pelaz López 2011: に自治憲章案が住民投票で承認されたのみである。したがって実態として自治権が当該地域に存在していたかどう か疑わしい[中塚 2008:270―271]。
42―44]。しかし後の歴史をみれば,それは誤った判断であったと言えよう。 暫定自治州の設置交渉において,スアレスは先の総選挙で議席を獲得したカタルーニャ諸政党と 交渉するのではなく,亡命カタルーニャ自治政府のタラデーリャス(J. Tarradellas)首班をスペイ ンへ迎え入れて交渉することに決めた。第二共和政期に自治政府を樹立したカタルーニャとバスク は,フランコ体制による迫害から逃れるため,フランスに亡命政府を置いていたのである。 一般に自治権の回復を求める人たちは,第二共和政期に成立した自治憲章の復活を求めたが,タ ラデーリャスはかつての自治憲章に拘らない姿勢を示し,また君主制の受け入れを表明した。これ により中央政府はタラデーリャスを首班に暫定自治州としてカタルーニャに自治権を付与したので あった[Fuentes 2011:217]。 タラデーリャスは,カタルーニャ自治州の政治機構として行政府のみを要求し,自らがその首班に なることおよびその閣僚の任命権を求めた。このように基本的にタラデーリャス首班の要求は,自治 州政府の設置という事実を重視した簡素なものに留まっていた。具体的に委譲される自治権の内容 については,後の交渉に委ねたのである[Tarradellas 1999:191]。タラデーリャス首班は,第二共 和政期に成立した自治政府の首班であるという歴史的権威を用いてカタルーニャ選出議員が要求す る過度な自治権要求を抑え込み,円滑な自治州誕生に貢献したのである[Powell 2011:24―25]。 ②バスクの場合 3 つ目のポイントは,中央政府が,カタルーニャでの成功体験をもとにバスク暫定自治州設置交渉 に臨んだが,バスクにおいてそれが機能しなかったことである。この交渉が不調に終わったことで, 自治州間の権限が非対称になり,自治州国家体制が複雑化した要因のひとつであると考えられるか らである。 バスクでの交渉がうまくいかなかった原因として以下の 3 点が挙げられる。①カタルーニャにお けるタラデーリャスのような存在がバスクにはいなかったこと,②カタルーニャと異なり,バスク 州となる領域が確定していなかったこと,③カタルーニャにはなかったテロという異なる次元の問 題があったことである。 中央政府はカタルーニャ・モデルをバスクに適用し,バスクにおけるタラデーリャスとも言うべ きバスク亡命自治政府首班のレイサオラ(J. M. de Leizaola) を帰国させて,自治州設置に向けた交 渉相手にしようとした。しかしレイサオラにはタラデーリャスほどの求心力がなく,国会議員を中 心とした国内派が彼の首班就任に反対したため,中央政府はそのやり方を断念せざるを得なかっ た。中央政府はバスク側の同意を得ないまま,1978 年 1 月にバスク暫定自治政府を強行に発足させ、 バスクの状況をコントロールするべく,暫定自治政府の首班には,PSOE のルビアル (R. Rubial) を据えた。首班は極めて民主的に決定されたが,それは PSOE と UCD が協力し,PNV の候補を封 じ込めた結果であった。そのためこの行為は,より PNV の態度を硬化させることにつながり,状 況を打開できないままルビアルは辞任した。バスクでは暫定自治州が設置されたものの,誰も納得 していない状況での強硬な設置であった[Powell 2011:26; Pelaz López 2011:43]。
バスク州という領域に関する合意がなかったことも事態を悪化させた。バスク 3 県の地域主義者 は,バスク語話者が存在する隣のナバーラ県を加えてバスク州として発足させる意向であったが, ナバーラ県選出の UCD 議員およびナバーラの保守派は,ナバーラ県がバスク州に加わることに反 対した[Enériz 2007:60]。それでも中央政府は,将来ナバーラが望めばバスクの一員になれると いう規定を憲法の追加規定に盛り込み,バスクへの譲歩を示したのである。
これらの問題に加えて,中央政府が軽くみた ETA のテロにも悩まされることとなった。1975 年の ETA のテロによる犠牲者は 16 人であったが,1980 年には 96 人にまで増加していた[Pelaz López 2011:41―42]。 このようにバスクでは,暫定自治州が設置された段階では先行き不透明な状況であった。バス クの状況をコントロールしようと中央政府がバスクに対して様々な譲歩をしたため,発足時にカタ ルーニャとバスクで有する自治権が異なったという見方もできよう。 (3)自治州設置に関する憲法の規定と実際の運用 4 つ目のポイントは,1978 年 12 月に成立した民主的な憲法には自治州に関する規定が盛り込ま れたにもかかわらず,中央政府が憲法起草委員会の議論に先行して暫定自治州を設置し,自治州の 存在を既成事実化したことである。ゆえに,憲法の規定は可能な限り現実に即したものの,憲法の 規定と実際の運用では齟齬を生じさせた。また,当初一部地域に限定して自治州が設置されるはず であったが,政府が 11 もの暫定自治州を憲法が起草される前に設置したため,自治州でスペイン 全体が覆われることとなった。このため,自治州に関して憲法の規定と実情がかみ合っていない部 分が存在する。その証拠に,いわゆる自治州国家 (Estado de las autonomías)という文言は憲法に は存在しない。 それではまず自治州に関する憲法の規定をみてみよう。憲法第 2 条において,スペイン・ネイション を統一の単位として地域や自治州のエスニシティ(nacionalidad)の保障が謳われた。この文言は,多 民族国家であることを認めない右派の要求を受け入れた妥協の産物であった[横田 2008:196―198]。 そして自治州の設置方法として,表向き 2 つのレベルが用意された。俗に言う低速ルート(第 143 条)と高速ルート(第 151 条)である。低速ルートにのっとれば,地方議会または住民の発議 により自治州の設置が可能となる。自治憲章に盛り込まれる自治権は,自治州設置からの 5 年間, 憲法第 148 条第 1 項記載のものに限定される。自治憲章とは,自治権が規定されている,いわば自 治州における憲法である7)。このように低速ルートによる自治州設置は,手続が比較的容易である が,誕生から 5 年間は自治権が制限されるというデメリットがある。 他方,高速ルートによる自治州は,低速ルートによる自治州のように自治権が 5 年間制限される ことはなく,憲法第 149 条に規定されている中央政府の排他的権限以外の権限について自治憲章に 盛り込み,自治権とすることができる。しかし,自治州設置の発議のためと完成した自治憲章案の 承認のためという 2 回の住民投票が必要となるため,設置のハードルは一段と高くなっている。ま た自治憲章案は国会の審議を経なくてはならないとされた。 このように憲法には規定されたが,実際に憲法の規定にしたがって,自治州が任意のルートを選 ぶケースはほとんど存在しなかった。憲法には,第二共和政期に自治憲章の発議がなされたカタルー ニャ,バスク,ガリシアのために,自治州設置の発議のための住民投票を経ずとも高速ルートの自 治州となると規定された経過規定第 2 条が設けられて,この 3 州が特別な扱いを受けた。ゆえにこ の 3 州は歴史的自治州と呼ばれる。この規定から,中央政府は当初上記 3 州のみを自治州とする構 想があったと思われ,その後計画が変更されてからも,上記 3 州のみを高速ルートの自治州とし, その他の自治州を低速ルートにするという計画であったと考えられる。 このように自治州に関して,現実に即して例外規定が多く設けられた。中央政府は,バスクとナ 7) 自治憲章の実態について,5(2)で検討する。
バーラの併合については含みを持たせ,バスクとナバーラがかつて有していた歴史的特権(fueros) の復活を憲法の追加規定に明記した8)。これらの譲歩は暫定自治州の段階で合意が得られていなかっ たバスクに対して妥協を引き出すためであった。その他,カナリア諸島やアフリカ大陸にあるセウ タとメリーリャの両都市には,将来的に自治都市になれるよう別の規定が設けられたのである9) 。 3.自治州国家体制の誕生 (1)バスク自治州とカタルーニャ自治州 憲法が制定された時点ではすでに 11 の暫定自治州が存在した。また,どの自治州にも組み込ま れていない県も存在した。ひとまず中央政府の仕事は,暫定自治州を憲法の規定にしたがって正式 な自治州とすることであった。 バスクとカタルーニャでは,1980 年に最初の自治州議会選挙が行われ,自治州政府が発足した。 当初,バスクのスペインからの独立という主張を曲げなかったバスク暫定自治政府も中央政府が ETA のテロ対策として州警察の設置を認め,州内で徴税する国税を自由に州財政に組み入れるこ とができるという経済協約 (concierto económico)(特別財政制度)を提案した結果,暫定自治政 府側は自治憲章からバスクがスペインから独立した地域であるという条文を削除し,1979 年 12 月, 住民投票を経てバスク自治憲章が成立することになった。最初のバスク州議会選挙では PNV が第 一党となり,ガライコエチェア (C. Garaikoetxea) が州首相となった。 カタルーニャでは,後に州首相を 24 年間務めることになるプジョル (J. Pujol) が中心となって 自治憲章案を起草し,自治憲章は国会での修正を受けた後,住民投票を経て 1979 年 9 月に成立した。 バスクと同等の特別財政制度については諦め,治安や司法に関する権限の委譲は,その後の中央政 府との交渉に委ねたのである[El Periódico, 7 de mayo de 2017]。最初のカタルーニャ州議会選挙
では,プジョル率いる集中と統一(CiU)10)が第一党となり,プジョルが州首相となった。 (2)アンダルシアの挑戦と LOAPA すでに述べたように,中央政府はバスク,カタルーニャ,ガリシア以外を全て低速ルートに基づ く自治州にしようとしていた。しかし,アンダルシアが強制的に低速ルートを割り当てられること に不満を表明し,憲法の規定に基づいて高速ルートへと挑戦した。中央政府は,民主化直後という 不安定な状況にあって,国会審議が自治憲章の審議に費やされるわけにはいかないという理由で, アンダルシアによる高速ルート挑戦を認めなかった。[Pelaz López 2011:50]。このアンダルシア の挑戦は,政権の座を狙う PSOE と政権与党 UCD の代理戦争の様相を呈し,PSOE はアンダルシ アの挑戦を支持した。自治州設置発議の住民投票において,政府は州民に否決票を投じるように 呼びかけ,PSOE は支持するように呼びかけた。結果的にアンダルシアの挑戦は成功し,最終的に 1981 年 10 月にアンダルシア自治憲章案が住民投票において賛成多数を獲得したため,アンダルシ アは高速ルートによる自治州となった。アンダルシアの成功を受けて,カナリアとバレンシアも高 8) 2019 年現在,ナバーラ州はバスク州に合流していない。 9) セウタとメリーリャは 1995 年に自治都市となった。 10) CiU はカタルーニャ民主集中(CDC)とカタルーニャ民主統一(UDC)の選挙連合。
速ルートに挑戦する意向を示したため,この問題に対処すべく,中央政界の与野党で協議が行われ ることとなった。
スアレス首相は自治州間で権限に差があることが特徴ないし利点であるという認識を示してい たが,スアレスの後を継いだカルボ=ソテロ (L. Calvo-Sotelo) 首相は,自治州設置における高速 ルートと低速ルートの差異に問題があるとし,その差異をなくす必要があるとした[Calvo-Sotelo 1990:103―121]。野党 PSOE もそれに同意し,UCD と PSOE 間で自治州協定が締結された。この 協定は,憲法で規定された自治州設置に関する 2 つのルートによる権限の差異を埋め,その他に 6 つの自治州を創設して,全 17 自治州による自治州国家体制を発足させるというものであった。高 速ルートによる自治州はアンダルシアを最後とし,その他の自治州は全て低速ルートとすることに なった。高速ルートを希望していたカナリアとバレンシアは,特別に高速ルートの手続を経ずに, 高速ルート並みの広範な自治権を与えることにした。この与野党間の合意は,1981 年 7 月に自治 プロセス調整組織法(LOAPA)として成立した。同法成立の結果,各自治州の同質化が進められ ることになり,全州に州政府,公選の州議会,州の高等裁判所が設置されることになったのである。 しかしカタルーニャとバスクは,上記諸機関を有することが高速ルートによる自治州の特権と捉 えていたため,彼らは LOAPA が違憲であると憲法裁判所に提訴した。憲法裁判所は,自治州国家 体制がほぼ整った 1983 年 8 月に LOAPA の約 1/3 の条文が違憲であるとする判決を下した。判決 では,自治州設置プロセスが自治州による発議である必要があり,中央政府によって画一的な自治 州を導入することは認められないとした。また改憲手続を経ずに憲法の欠缺を一般法で修正するこ とは認められないと指摘したのである。このため政権交代を経て政権の座についていた PSOE の ゴンサーレス (F. González)首相は,代わりに自治プロセス法(LPA)を成立させて,自治憲章に 関して,各自治州政府と個別交渉を行ない,修正を図ったのである[Pelaz López 2011:51―53]。 その結果,1983 年末までに 17 の自治州による自治州国家体制が成立したが,自治州間の権限の 差異は埋まらないままであった。また憲法は第 149 条で中央政府の排他的権限を定めるものの,国 家の権限を自治州へと委譲できるとする規定があるため(第 150 条),自治州国家体制は自治州政 府と中央政府の交渉次第でいかようにも自治権が拡大する現在進行形のシステムとなった。バスク とカタルーニャの指導者が活路を見出したこのシステムは,中央政府にとって好ましいものではな く,その後解決が目指されることとなる。 4.自治州国家体制の完成? (1)第 2 回自治州協定 1980 年代は,中央政府の権限を自治州政府へと委譲する作業期間であった。中央政府は 1980 年 に自治州財政組織法(LOFCA)を成立させて,自治州への権限委譲に伴う財源を確保し,バスク とナバーラ以外の州を対象とした共通財政制度を確立した。その結果,1970 年代初めには公共支 出の約 90%が国家由来であったものが,1992 年には自治州支出が公共支出全体の約 25%を占める ようになった。また自治州への権限委譲に伴って,約 50 万人の国家公務員が自治州の公務員へと 転籍した[Pelaz López 2011:53] 高速ルートの自治州において自治憲章に基づく権限委譲が進む一方で,1988 年になると低速ルー トによる自治州も設置から 5 年が経過したため,自治権に関する制限がなくなり,高速ルートによ
る自治州と同等の権限を要求できるようになった。その動きに対してカタルーニャなどの高速ルー トの自治州は,低速ルートの自治州との差別化を図ろうと更なる自治権を要求した。カタルーニャ とバスクは,自治権を歴史的自治州の特権であるとし,全ての自治州が享受できるものではないと いうスタンスを崩さなかったのである。 国政を担っていた PSOE のゴンサーレス政権は,各自治州と自治権についての個別協議を避け るべく,当時の野党であった PP との間で 1992 年に自治州協定を締結した。すでにみたように, 表 2 自治憲章制定年および改正年一覧 自治州名 自治憲章制定年 自治憲章改正年 カタルーニャ 1979 2006 バスク 1979 アストゥリアス 1981 1991, 1994, 1999, 2002 アンダルシア 1981 2007 ガリシア 1981 2002 カンタブリア 1981 1991, 1994, 1998, 2002 アラゴン 1982 1996, 2007 カスティーリャ・ラ・マンチャ 1982 1991, 1994, 1997, 2002 カナリア 1982 1996, 2018 ナバーラ 1982 2001, 2010 バレンシア 1982 1991, 1994, 2006 ムルシア 1982 1991, 1994, 1998, 2002 ラ・リオハ 1982 1994, 1999, 2002 エストレマドゥーラ 1983 1991, 1994, 1999, 2011 カスティーリャ・イ・レオン 1983 1988, 1994, 1999, 2007 バレアレス諸島 1983 1994, 1999, 2007 マドリード 1983 1991, 1994, 1998, 2002 出典:[Aja 2014:118]
Consitución Española(http://www.congreso.es/consti/estatutos/index.htm) (Last accessed 17/09/2019)
1983 年の LOAPA に対する違憲判決では,中央政府が各自治州の自治権を決めてはならないという 判断が下されていた。しかし憲法は中央政府が組織法に基づいて中央政府の権限を自治州政府へと 委譲することを容認しているため(第 150 条第 2 項),委譲する権限について,国会の与野党で合 意するというスタイルをとった。その結果が,1992 年 12 月に成立した「憲法 143 条によって成立 した自治州への権限委譲に関する組織法」である。同法により,新たに 30 の自治権が全自治州に 付与され,高速ルートと低速ルートによる自治州の権限の差は,保健・医療の運営権限の有無と バスクとカタルーニャの州警察のみとなったのである[中島 2012:86―87,Pelaz López 2011:54― 55]。この権限委譲に伴って,いわゆる低速ルートの自治州は自治憲章の改正を行なっている(表 2 参照)。この第 2 回の自治州協定に基づいて権限委譲がなされたことにより,自治州国家体制は 一応の完成をみるのである11)。 (2)政党政治の変容と自治州の権限拡大 より一層の自治権拡大を狙うカタルーニャとバスクは,中央政界の状況を利用した。政権政党で あった PSOE は,1993 年の総選挙で過半数を割り込み,政権維持のために下院において 17 議席を 得ていたカタルーニャの地域政党である CiU およびバスクの地域政党である PNV に閣外協力を求 めた。CiU は閣外協力の見返りとして,州内で徴税される個人所得税など 15%を自治州の財源に 移転できるという協定を中央政府と結び,共通財政制度を採用している全ての自治州にその財源移 転が適用された。CiU も PNV も各自治州において,政権与党であった。 PP はこの PSOE の対応を非難したが,1996 年の総選挙でアスナール (J. M. Aznar) を首相とす る PP が少数与党ながらも政権交代を果たすと,PP も CiU および PNV に閣外協力を求めた。引き 続き,CiU および PNV は各自治州において,政権与党であり,CiU は,閣外協力の引き換えに, 今度は州内で徴税される個人所得税など 30% を州財政に組み込める約束を取り付け,州財政の財 源拡大を達成したのである[Mut y Utande 2011:72―74]。 このように少数与党時代が到来すると,自治州問題に関して,国会の与野党が協力するという従 来のメカニズムに変化が生じた。つまり,国政における政権与党が地域政党を閣外協力させること で,自治州政府は地域政党を通じて,国政の政権与党に要望を伝えるチャンネルを獲得したのであっ た。 他方,小さな政府を志向する PP 政権は,可能な権限を全て自治州に委譲した。それは進行形で 自治権が拡大する自治州国家体制に終止符を打つという試みであった。具体的には 1998 年までに 大学等の高等教育の管理運営に関する権限を自治州に移管し,また 2001 年には国立保健機構を廃 止して,保健・医療分野の権限を全ての自治州政府に移管した。[Pelaz López 2011:56―57]。自治 州へ委譲されたこの新たな権限の財源を賄うため,2001 年に自治州財政制度の改革が行われ,共 通財政制度を採用している全ての自治州に対して,州内で徴税される個人所得税のうち州財政に組 み込まれる割合を 33%に引き上げたほか,様々な国税が州財政に組み入れられたのである[Mut y Utande 2011:74―75]。 このようにアスナール PP 政権期の改革により,自治州は誕生時と比べ物にならないほど広範な 自治権を有することとなった12)。また同時に中央政府の悲願であった自治州の同質化も進んだ。誕 11) ただし,セウタとメリーリャが正式に自治都市となるのは 1995 年である。 12) しかしアスナール政権の目的は各自治州の自治権拡大ではなく,ネオリベラリズム政策の一環として,小さな
生から約 20 年を経て,自治州国家体制はようやく完成と思われる状況になったのである。 5.バスクとカタルーニャによる自治憲章改正の試み (1)バスクの場合 1990 年代,バスクは相変わらず ETA のテロ活動に悩まされていた。中央政府と ETA の交渉も 不調であった。そこでバスク州政府は 1998 年に ETA のテロ活動をやめさせるべく,ETA の武装 闘争停止宣言を受けて,リサラ協定を締結した。リサラ協定とは,ETA の政治部 (人民の統一(HB), のち,バタスナ) を含めたバスク・ナショナリスト政党および団体が締結した協定であり,その目 的は永続的なテロ活動の停止であった。リサラ協定の流れを受けて 1999 年に州首相になったイバ レチェ(J. Ibarretxe)は,左派のバスクの連帯(EA)と連立政権を組み,ETA の要求であるバス クの独立を何らかの形で受け入れることによって,テロ活動の停止を試みた。 中央政界の二大政党である与党 PP と野党 PSOE は,当然ながらこのイバレチェの政策を受け入 れることはなく,バスク州議会において,PNV を筆頭とするバスク・ナショナリスト陣営と PP お よび PSOE による全国政党陣営が激しく対立する構図となった。しかも停戦宣言から 14 か月後に ETA が戦闘を再開したため,バスク社会も二分される状況となった。 このような状況で迎えた 2001 年の州議会選挙は,バスク史上最も接戦となった。バスク・ナショ ナリスト陣営が 33 議席を獲得し,全国政党陣営が 32 議席を獲得したのである。イバレチェは EA の協力を得て,連立政権を継続できた。 州政権継続に成功したイバレチェ州首相は,2003 年に自治憲章の改正案を提示した。いわゆる イバレチェ・プランである。このプランの骨子は,バスクとスペインの関係を自由連合であるとし, スペインとバスクが対等な地位を有すると宣言するものであった。ETA の主張するスペインから の独立との妥協案であるものの,憲法秩序を塗り替えてしまうこの大胆な提案は,アスナール率い る PP 政権はもちろんのこと,野党 PSOE にも拒絶された。中央政界では与党 PP が PSOE と協力 して事態の収拾に取り組み,2003 年にテロ組織と関連が疑われる政党を非合法とする改正政党組 織法を成立させた。その結果,PNV 州政権の閣外協力政党であったバタスナは,ETA との関係が 疑われ,非合法政党と裁判所から宣言され,解散となった。またアスナール政権は,更なる対策と して,国会の許可を得ずに住民投票を実施した場合,その首謀者を懲役刑および公民権停止に処す ることができる刑法改正を準備していたが,実現しなかった。 2004 年の総選挙ではサパテロを首相として PSOE が政権に返り咲いた。サパテロ政権は,アスナー ル政権期に悪化したバスクおよびカタルーニャとの関係改善を目標に掲げた。実際,サパテロはバ スクとの対話を重視する姿勢を見せた。そこで 2004 年 12 月イバレチェは,イバレチェ・プランを 基調とする改正バスク自治憲章案をバスク州議会において,可決させた。その後,自治憲章案は国 会の審議にかけられたが,2005 年 2 月に賛成 29 人,反対 313 人で否決された。国会で否決された ものの,アスナール政権期には国会への提出すら叶わなかったので,大きな進歩であった。 中央政府を志向し,分権化改革や民営化改革を断行したに過ぎない。1996 年から 2000 年の少数与党時代では地域 政党に閣外協力を求めたが,2000 年の総選挙で単独過半数を獲得すると,地域政党との閣外協力を解消し,地域 政党との対決姿勢を強めていった。
自治憲章案が国会で否決された後,州民に独立路線継続を問うため,州議会を解散して選挙が行 われた。2005 年の州議会選挙では,連立与党は改選前よりも議席を減らして 29 議席となったが, 左派の地域政党の協力を得て,政権を維持することに成功した13) 。 この会期のイバレチェの目標は,独立の是非を問う住民投票の実施であり,中央政府に実施許 可を求めたが,サパテロ首相との会談は,不調に終わった。次の手として,2008 年 6 月,バスク 州議会は住民投票実施法を賛成 34 票,反対 33 票のギリギリで可決させた[El País, 27 de junio de 2008]。この法律に基づいて住民投票が実施されたとしても,法的拘束力はないことが確認されたが, 2008 年 9 月に憲法裁判所は違憲であるとする判決を下した[El País, 11 de septiembre de 2008]。 合法的に物事を進める限りにおいて,イバレチェに残された手段は,住民投票の代替としての州 議会選挙の開催であった。2009 年の州議会選挙では,イバレチェを州首相候補とする PNV が 30 議席を獲得して第一党となったものの,イバレチェ・プランを阻止するべく PSOE と PP が連立を
組んで非 PNV 政権が誕生した14)。敗れたイバレチェは政界引退を表明し,イバレチェ・プランは終
わりを迎えたのである。[横田 2016:25―26; モンテロ 2018:266―268; Aja 2014:68―72; Pelaz López 2011:57―58]。 イバレチェは,法という一線を越えることなく,バスクにおける自治憲章改正とそれに伴う分離 独立運動を展開した。しかし中央政界における二大政党が協力した結果,イバレチェ・プランは阻 止されてしまったのである。 (2)カタルーニャの場合 2003 年にカタルーニャではカタルーニャ社会党(PSC)のマラガイ(P. Maragall)を州首相とす る左派三党連立政権が成立した。マラガイは更なる自治権拡大のため,自治憲章の改正を公約に掲 げ,2005 年 9 月に改正カタルーニャ自治憲章を州議会で可決させた。また,中央政界では 2004 年 に PSOE が総選挙に勝利し,サパテロ政権が発足していた。サパテロ政権は,PP のアスナール政 権が悪化させた地域政党との関係改善を掲げ,PSC と PSOE が姉妹政党という関係もあり,カタルー ニャ自治憲章の改正について前向きであった。 ところが,同憲章の改正案は,明らかに違憲と考えられる箇所を含んでいた。例えば,カタルー ニャをネイションと位置付けることは,スペインが唯一のネイションであるとする憲法第 2 条に違 反していると考えられた。そのため下院での審議は紛糾し,事態を打開するため,PSOE のサパテ ロ首相は,カタルーニャ州議会の野党第一党であった CiU のマス党首と直接交渉し,憲章の問題 点を修正すれば,州財政に組み込める税金の割合を引き上げるという妥協案を示した。マスはサパ テロの修正提案に応じ,その結果,修正された自治憲章案は下院を通過し,住民投票を経て,2006 年 6 月に成立したのである[Pelaz López 2011:59―60]。 これまでみてきたように,伝統的にスペインでは自治州に関する重大な取り決めは,中央政界の 与野党の合議で決定されてきた。ところがサパテロ政権は,当時の野党である PP との合意を得る ことができず,地域政党側との直接交渉に臨んだ。のちに首相となるラホイ (M. Rajoy)率いる PP は自治州に関する交渉のテーブルにつくことができなかったため,違憲立法審査権を行使するとい 13) 支持が伸びなかった理由として,イバレチェ・プランが急進的すぎるからとも生ぬるいからとも言われている。 14) 進歩・民主主義連合(UPyD)も非 PNV 州政権を支持した。またバスク左派政党が政党法により解散命令を受 けていたことも,イバレチェには逆風となった。
う戦術を多用する。確かにアストゥディーリョが述べるように,2008 年の総選挙において,この PP の戦術が評価されることはなかったが,2011 年に総選挙で圧勝したこと,アスナール時代と異 なる支持層の獲得に成功したことなどが成功体験となり,この違憲立法審査権の行使という戦術を ラホイは効果的な戦術であると捉え,その後の自治州問題における基本戦術となっていったと考え られる[Astudillo 2009:83―90]。 住民投票を経た直後に改正カタルーニャ自治憲章は,PP らによって違憲立法審査権が行使され, その約 4 年後の 2010 年に一部違憲判決が下った。PP は 187 の条文について違憲であるとしていた が,判決ではそのうち 14 条が違憲であると認められたに過ぎなかった。カタルーニャをネイショ ンとした憲章前文は,法的拘束力がないとして,判断されなかった[Pelaz López 2011:63]。サパ テロ首相はこの判決を好意的に評価していたが,カタルーニャのモンティーリャ州首相は,数人の 判事によって州民の総意が踏み躙られたとして,州民にデモを呼びかけた[La Vanguardia, 29 de junio de 2010]。この判決が 2012 年秋頃から盛り上がりをみせるカタルーニャの独立運動の直接的 な引き金になったと考えられる。 このようにバスクでは自治憲章の改正に失敗し,カタルーニャでは部分的な修正が求められたも のの,改正に漕ぎつけることができた。しかしこの自治憲章の改正が新たな自治権の獲得にどのよ うに寄与したかは不明である。というのも結局のところ,違憲でない限り,自治憲章に規定されて いるかどうかにかかわらず,新たな自治権を有することは可能だったからである。カタルーニャは 2006 年に初めて自治憲章を改正し,バスクは未だに自治憲章の改正が行われていない。にもかか わらず,自治州誕生時と比べて現在それぞれの自治州が有している自治権が広範であるということ は,自治権の範囲は自治憲章に依存していないという証拠であろう。つまり,プジョルはグレーゾー ンで自治権を拡大し,マラガイは自治権の実態に即した自治憲章を起草する必要があると考えたの である[Maragall 2009]。 一般に,自治憲章は自治州における最高法規であり,自治憲章によって自治権が決定されると考 えられているが,実質的にそのような備えを有するようになるのは,カタルーニャにおいて,自治 憲章の憲法裁判所にあたるカタルーニャ自治憲章保障評議会が 2009 年に発足してからであると考 えられる[Consell de Garanties Estatutàries de Catalunya]。
6.自治州国家体制の行く末 ここまでみてきたように,自治州国家体制は複雑な経緯で誕生した。そして誕生時が完成形では なく,将来にわたって発展可能な体制であったため,様々な政治勢力の争点となり,民主化以来最 大の政治課題であり続けたのである。 しかし政党政治に目を向けた場合,その取り組み方は時代を経て変わってきた。1990 年代まで は,中央政府が自治州国家体制の非対称性を問題視し,国会の与野党で協定を締結して対応した。 やがて少数与党時代が到来すると,政権が地域政党を取り込むようになり,自治州をめぐる政策が, 中央政府と国会に議席を有する地域政党を媒介にして自治州政府とのやりとりで決定されるように なった。その後,バスクのイバレチェ・プランに対しては,国会の与野党が連携して対応したが, サパテロ政権期は地域政党を介することなく,自治州政府と直接やりとりを行なうようになった。 自治州をめぐる政策決定の場から排除された野党の PP は,政府決定に対して違憲立法審査権を行
使することが基本戦術となった。PP のラホイは,この戦術が効果的であると理解し,政権与党となっ ても,自治州政府側との交渉には応じずにこの戦術を多用した。その結果がカタルーニャ独立問題 の激化という帰結になったのではないかと思われる[Sánchez-Cuenca 2018:127―136]。 最後にカタルーニャ自治政府が,独立の是非を問う投票を違憲なまま強行した経緯について概観 し,本稿の締めくくりとしたい。 (1)マス州政権 2010 年のカタルーニャ州議会選挙では,CiU が 62 議席を獲得し,わずかに過半数には届かなかっ たものの,マス(A. Mas)州政権が誕生した。他方,中央政界では 2011 年の総選挙で PP が単独 過半数を獲得し,ラホイ政権が発足した。 マス州首相は,自治州国家体制成立以降で,初めてスペインからの独立を主張したカタルーニャ 州首相となった。しかしその真の目標は州財政の改善にあり,独立の標榜はそのための交渉カード であったと考えられる。カタルーニャ州財政は,終わりのみえない欧州ソブリン危機を契機とした 経済不況で疲弊しており,中央政府への財政的依存体質を変えなければ解決しないと思っていたと 推測される。実際,州財政が破綻の危機を迎えた 2012 年 7 月にカタルーニャ州議会は中央政府に 緊急の財政支援を要請するだけでなく,自主財源を可能とする財政合意案を賛成多数で成立させた [La Vanguardia, 26 de julio de 2012]。いわば,バスク州やナバーラ州が中央政府と結んでいる経済
協約と同等の権利を要求したのである。
マス州首相は,州議会の決定を受けてラホイ首相と財政合意案について 2012 年 9 月に協議した。 ラホイ首相は,緊急支援に関しては応じたものの,財政合意案については違憲であるとして同意し なかった[La Vanguardia, 21 de septiembre de 2012]。このラホイ首相による回答をカタルーニャ では再び,カタルーニャへの嫌がらせとみなしたのである。
マス州首相は,州議会を解散し,前倒しで選挙に打って出た[La Vanguardia, 26 de septiembre de 2012]。その理由として,ラホイ首相とマス州首相との会談に先立って,2012 年のカタルーニャ の日には,市民約 100 万人が集まってデモが行なわれ,そして,マス州首相がラホイ首相との会 談から戻った日には,約 4,000 人の市民がマス州首相を州政府政庁前で出迎えたからである[La Vanguardia, 21 de septiembre de 2012]。この 2 つの出来事は,マス州首相に自らの支持者が多いと 錯覚させるには十分な出来事であったと考えられる。そのため,州議会において少数与党という不 安定な立場から脱却する好機と捉え,より多くの支持が見込めるスペインからの独立を主張して選 挙に臨んだと考えられる。 しかし 2012 年 11 月に行われた州議会選挙の結果は事実上の敗北であった。マス州首相率いる CiU は解散前と比べて 12 議席減らし,50 議席となったのである。CiU が敗北した理由のひとつは, デモに参加した市民の性質を見誤っていたということが挙げられる。デモの参加者は,スペインか ら独立すれば生活が楽になるという発想から来る独立志向であるので,生活を苦しくさせている原 因とも言える緊縮財政策を展開する CiU 政権も批判の対象であった。CiU が独立を標榜したとこ ろで,デモ参加者から一律に支持を得られるわけではなかったのである。 また CiU の支持者は,元来独立賛成派ではない。マス州首相が突如独立を標榜したために,従 来の CiU 支持者からの支持を得にくくなってしまった。そして,独立を支持する有権者は,以前 よりスペインからの独立を標榜するカタルーニャ共和左派(ERC)に投票し,ERC が議会第二党 へと躍進したのである[La Vanguardia, 26, 27 y 28 de noviembre de 2012]。
州議会選挙後,マス州首相は ERC の閣外協力を得て,独立のための住民投票の実施を公約に掲 げて二期目の政権をスタートさせた。しかし住民投票は,そもそも憲法が国の排他的権限と定める 権限である(第 149 条)。
そこで 2014 年 1 月,カタルーニャ州議会は,住民投票の実施権限を州政府に委譲するよう求め る決議を下院へと送付したが,同年 4 月に否決された[La Vanguardia, 9 de abril de 2014]。マス州 首相は,ラホイ首相に住民投票が実施できるように憲法の改正を要求したが,ラホイ首相は応じ なかった[La Vanguardia, 12 de abril de 2014]。カタルーニャ州議会は住民投票の実施権限を譲り 受けられなかったため,新たな策として 2014 年 9 月 19 日に法的拘束力を有さない住民投票を実 施するための諮問投票法を州議会で可決・成立させた。この法律は,カタルーニャ自治憲章保障評 議会に合法であるという認証を受けての成立であった。しかし 2014 年 9 月 27 日に諮問投票法が施 行され,マス州首相は 2014 年 11 月 9 日の投票実施に関する政令を発布すると,中央政府は直ち に同法および同政令に対する違憲立法審査権を行使した。2014 年 10 月 13 日,憲法裁判所は中央 政府による提訴を認め,同法と同政令について即時 5 カ月間の停止という仮処分を決定した[La Vanguardia, 13 de octubre de 2014]。 憲法裁判所の仮処分を受けてマス州首相は,憲法裁判所の判断を受け入れると表明し,憲法裁判 所の仮処分に抵触しないように民間団体とボランティアの協力をもとに代替投票という形で投票を 実施すると宣言した[El País, 15 de octubre de 2014]。そのため中央政府は再び憲法裁判所に代替 投票に対して違憲立法審査権を行使し,憲法裁判所は 2014 年 11 月 2 日に再び代替投票の実施停止 の仮処分を決定した[La Vanguardia, 4 de noviembre de 2014]。
ところがこれで諦めることなく,表現の自由は憲法で保障されている権利であるとして,カタ ルーニャの政治的未来に関する参加型プロセスという名のいわば公開世論調査のような形での投票 を強行した。投票には約 230 万人が参加し,そのうちの約 80%にあたる約 186 万人が賛成票を投 じた。しかし独立反対派には,投票の結果によって何か起きるわけではないので,投票に行くイン センティブはないと考えられ,有権者の約 2/3 が棄権したと考えられている[La Vanguardia, 12 de noviembre de 2014]。 その後マス州首相は投票の結果に公式な性格を与えるため,2015 年 9 月に州議会選挙を行なう と表明した。すなわち,州議会選挙を独立賛成派 (Junts pel sí:JxSí「共に賛成を」)と独立反対 派にブロック化し,事実上の住民投票にしようとする試みであった。しかし 2015 年 9 月の州議会 選挙における JxSí の成果は芳しいものではなかった。JxSí は CiU のうちのカタルーニャ民主集中 (CDC)と ERC が中心となっていたが,JxSí は改選前の 71 議席を維持できず 62 議席に後退し, 議会の過半数を得るには至らなかったのである15) 。 マス州首相は州議会選挙後も政権を維持する意向であった。州議会において首班指名を得るため には,同じく独立賛成派でありながら JxSí に参加しなかった人民統一候補 (CUP)の支持が必要で あったが,CUP はマスを支持しなかった。その結果,マスは政権の継続を断念し,独立賛成派のプッ チダモン (C. Puigdemont)に事後を託したのであった。
15) [La Vanguardia, 28 de septiembre de 2015]は独立推進派の条件付き勝利と報じているが,CUP の支持を得られ ず,マスが首班指名を受けられなかったことからも勝利とは言えないと思われる。
(2)プッチダモン政権 マスの目的は,バスクとナバーラと同等の自主財源を得ることであり,独立の標榜が支持の調達 のための旗印であったとすると,プッチダモンの場合はスペインからの独立が目的になってしまっ たとみることができる。 一見するとマスとプッチダモンは,共に独立のための住民投票を実施した州首相とみることがで きるが,その内実は大きく異なっている。諮問投票法とは異なり,州議会が 2017 年 9 月 6 日に成 立させた住民投票法は完全に憲法の規定に抵触していた。またマスは,可能な限り憲法裁判所の命 令を尊重しようとしたが,プッチダモンは,憲法裁判所が禁止命令を下す中,2017 年 10 月 1 日に 投票を強行したのである。投票の結果は 2014 年時と大きく変わらず,90% 以上の人が賛成票を投 じた。より問題なのは,投票を実施させないようとする警官隊と市民が衝突し,少なくとも 4 人が 入院となる重傷を負い,そのうち 1 人は警官隊が発射したゴムの銃弾が目を直撃し,失明するとい う事態となったことである。 このような事態に発展した原因のひとつに,ラホイ政権の没交渉の姿勢があると考えられる。原 則的に憲法裁判所に判断を委ね,交渉しないという姿勢がこのような事態を招いたと言えよう。 交渉しないというラホイ政権の姿勢は投票の後も続いた。住民投票法では,投票結果において賛 成票が多数の場合は,判明後 48 時間以内に独立宣言をするとしていたが,プッチダモン州首相は, スペイン政府との対話の可能性を模索した。しかしラホイ政権は,自治権の停止が規定されている 憲法 155 条の適用を検討し,最後まで違憲であることを盾にカタルーニャ州政府と交渉しなかった。 結局 2017 年 10 月 27 日,カタルーニャ州議会は一方的なスペインからの独立宣言を採択した。 同日,憲法 155 条がカタルーニャに適用されて,自治州国家体制史上初めて自治権が停止されたの である[Sánchez-Cuenca 2018:145―163]。 その後ラホイ首相は 2018 年 6 月 1 日に不信任決議が採択される見通しとなり,辞任した。代わっ て首相となった PSOE のサンチェスは,カタルーニャと対話する意思を表明しているが,ここま でこじれたカタルーニャ問題は簡単には解決しないであろう。憲法 155 条が適応され,中央政府管 理下で行われた初めての州議会選挙においても独立推進派が善戦し,州首相には独立推進派のトー ラ(J. Torra)が選出されているからである。 中央政界の混乱も継続し,2019 年予算が不成立の見通しとなったところから,サンチェス首 相は議会を解散し,2019 年 4 月に総選挙が行われた。しかし新たな政権樹立の見通しが立たず, 2019 年 11 月に再選挙が行われる。その後の政権構成も不透明である。中央の問題が解決しないこ とには,カタルーニャ問題の進展はないというのが一般的な見方である。 このように自治州国家体制から生じる諸問題は,我々に対話の重要性を再認識させると共に,合 法性と民主主義に関する様々な示唆を与えてくれている。 主要参考文献 【日本語文献】 岩崎美紀子 2005『比較政治学』岩波書店。 奥野良知 2017「カタルーニャの独立へ向けた「プロセス procés」の現状(2017 年 1 月時点)と経緯」『共生の文化 研究』第 11 号,48―72 頁。
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