岡鹿門『観光紀游』訳注――その四
柴
田
清
継
井
上
真
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奈
上
村
直
美
万
莎
本 稿 は 本 誌 第 八 号 以 来 連 載 中 の 岡 鹿 門『 観 光 紀 游 』 訳 注 の 続 篇 で あ る。 こ れ ま で と 同 様、 私 が 二 〇 一 四 年 度、 武 庫 川 女 子 大 学大学院文学研究科日本語日本文学専攻において担当した授業科目「国際交流研究」の中で、 履修者の学生と共に『観光紀游』 を 一 字 一 句、 そ の 表 現 の 背 景 も 押 さ え つ つ 読 解 す る 作 業 を 行 い、 読 解 し た 結 果 を 訳 注 と い う 形 で 表 し た も の で あ る。 私 の 共 著 者三名は、いずれも二〇一五年度修士課程二年次に在籍中の人たちである。 今回訳注の対象としたのは、 巻三「蘇杭日記巻下」の陽暦八月一日から二十日までの部分、 巻四「滬上日記」巻頭の高鋭一、 及 び 高 橋 剛 の 各 序、 「 滬 上 日 記 」 の 八 月 二 十 一 日 か ら 三 十 一 日 ま で の 部 分 で あ る。 こ の 間、 鹿 門 一 行 は 慈 渓 を 後 に し て、 ほ ぼ もと来たコースをたどって杭州へと戻り滞在していたところ、 清仏戦争激化のため、 さらに上海まで戻ることを余儀なくされ、 それからしばらく上海に滞在する。 底 本、 訳 注 の 形 式 等 に つ い て は、 本 稿 そ の 一 冒 頭 の 説 明 を ご 覧 い た だ き た い。 ま た、 参 考 に し た 文 献 の 主 な も の は 巻 末 に 掲 げた。 (柴田清継、二〇一五年十一月二十四日記す)原文 八月一日 〔十一日〕 擬待夜潮辞発。濯与静庵治行。竹孫為余作書画数紙、 硯雲賦贈五律四首、 有 「五方異其俗、 安得互相強」 句。 蓋 指 前 論 洋 烟 機 器、 意 見 不 合 也。 方 今 風 気 一 変、 萬 国 交 通。 此 五 洲 一 大 変 局、 而 拘 儒 迂 生、 輙 引 経 史、 主 張 陋 見、 不 知 宇 内 大 勢 所 以 至 此。 此 殆 巣 幕 之 燕、 不 知 及 堂 之 火 ① 者。 余 私 謂、 非 一 洗 烟 毒 与 六 経 毒、 中 土 之 事、 不 可 下 手。 六 経 ② 有 可 信 者、 有 不 可 信 者。 苟 信 不 可 信 者、 流 毒 無 所 不 至。 黄 公 度 ③ 在 東、 悦 余 好 論 洋 事、 常 曰「 形 而 上、 孔 孟 之 論 至 矣、 形 而 下、 欧 米 之 学 尽 矣 ④ 」。 論当今之事者、不可無此見解也。 硯雲設別宴、靄卿 ・ 幼蔡 ・ 石鈞 ・ 仁和会餞。船人告潮満。乃辞。惕斎使静庵導。此游惕斎為東道地主、挙族歓待、淹稽旬餘、 実為厚誼。唯恨硯雲病足、不得同天童寧波之游也。衆送至岸上、皆黯然。月色如昼、風度蘆葦、蟲声満地、殆有秋意。 【 注 】 ①「 巣 幕 之 燕、 不 知 及 堂 之 火 」『 春 秋 左 氏 伝 』 襄 公 三 十 一 年 に「 猶 燕 之 巣 于 上 」 と あ る の に 基 づ い た 表 現。 ②「 六 経 」 詩・ 書・ 礼・ 楽・ 易・ 春 秋 の 六 つ の 経 書。 ③「 黄 公 度 」 一 八 四 八 ~ 一 九 〇 五。 黄 遵 憲。 公 度 は 字。 清 末 の 外 交 官。 明 治 十 年 末 か ら 同 十 三 年 末 ま で 駐 日 清 国大使館の参賛官を務めた。④「形而上~尽矣」 「形而上」は精神、 道等の無形物を言い、 「形而下」は物質 ・ 器物等の有形物を言う。 『易』 繫辞伝上の一節に基づく。 訳 文 八 月 一 日〔 十 一 日 〕 夜 の 潮 を 待 っ て 別 れ を 告 げ、 出 発 す る こ と に し た。 濯 と 静 庵 氏 と は 出 発 の 支 度 を し た。 竹 孫 氏 が 私 の た め に 書 画 を 数 枚 か い て く れ た。 硯 雲 氏 は 五 律 四 首 を 作 り 贈 っ て く れ、 そ の 中 に「 五 方 其 の 俗 を 異 に す、 安 く ん ぞ 互 た が い 相 に 強 きを得ん」の句があった。思うに、 このまえ阿片や機械に関する議論をして、 意見が合わなかったことを指しているのだろう。 方 今、 風 潮 が 一 変 し、 萬 国 が こ も ご も 通 ず る よ う に な っ た。 こ れ は 全 世 界 の 一 つ の 大 き な 変 化 の 局 面 な の だ が、 見 識 の 狭 い 読 書 人 や 時 代 遅 れ の 者 た ち は、 事 あ る ご と に 経 書 や 史 書 を 引 い て、 浅 は か な 見 解 を 主 張 し、 宇 内 の 大 勢 が 今 の よ う な 状 況 に 至 っ た 所 以 を 知 ら な い。 こ れ は ほ と ん ど 幕 に 巣 を 作 っ た 燕 が、 堂 ま で 燃 え 移 っ て き た 火 に 気 付 か な い の と 同 じ で あ る。 私 は 個 人 的
に は、 阿 片 の 毒 と 六 経 の 毒 と を 洗 い 流 さ な い 限 り、 中 国 の も ろ も ろ の 事 は、 手 の 下 し よ う が な い と 考 え て い る。 六 経 に は 信 ず る こ と の で き る も の も あ る が、 信 ず る こ と の で き ぬ も の も あ る。 も し 信 ず る こ と の で き ぬ も の を 信 じ た な ら ば、 至 る 所 に 毒 が 流 れ て し ま う。 黄 公 度 氏 は 日 本 に い た と き、 私 が 好 ん で 西 洋 の 事 を 論 ず る の を 気 に 入 っ て く れ、 い つ も こ う 言 っ て い た。 「 形 を 超 え た 方 面 に お い て は、 孔 孟 の 論 が 至 上 だ が、 形 を も つ 事 柄 に つ い て は、 欧 米 の 学 が 詳 細 を 尽 く し て い る 」 と。 当 今、 議 論 をする者は、このような見解をもたなくてはならない。 硯 雲 氏 が 別 宴 を 設 け て く れ、 靄 卿・ 幼 蔡・ 石 鈞・ 仁 和 の 諸 氏 が 会 し、 は な む け し て く れ た。 船 員 が 満 潮 に な っ た と 言 っ た の で、 別 れ を 告 げ た。 惕 斎 氏 が 静 庵 氏 に 案 内 役 を 受 け 持 た せ た。 こ の 旅 は 惕 斎 氏 が 主 人 と な っ て 世 話 を し て く れ、 族 を 挙 げ て 歓 待 し て く れ、 十 日 餘 り 滞 在 を 引 き 延 ば し た。 実 に 厚 い 誼 で あ っ た。 た だ 残 念 な の は、 硯 雲 氏 が 病 が 重 く、 天 童・ 寧 波 の 旅 を と も に す る こ と が で き な か っ た こ と で あ る。 み ん な は 岸 辺 ま で 見 送 り に 来 て く れ た が、 皆 浮 か ぬ 顔 を し て い た。 月 の 色 が 昼 の よ うで、風が葦を吹き渡り、虫の声が辺り一面から聞こえて来て、ほとんど秋のような気配が立ち込めていた。 原文 八月二日〔十二日〕晨抵餘姚。 ︿ 弢 ﹀ 夫力病出見。余問此間故事、 曰門前長流即姚江、 姚舜姓、 舜水先生号亦取義于此。 自此東南四十里有歴山、 舜所耕。虞山今為県、 禹封丹朱処、 土人虞姓甚多。酒出、 伯幡兄弟及姻人王葆 堂 ① 款接。 ︿ 弢 ﹀ 夫筆示曰、 「 東 漢 許 叔 重〔 慎 〕『 説 文 解 』 十 五 巻、 経 十 六 年、 始 成 書。 宋 徐 鉉 奉 詔 校 定、 其 弟 鍇 有 伝 注 ② 。 特 病 刻 本 不 精、 字 多 訛 舛、 前 輩 皆 謂 藝 苑 宝 笈、 成 一 家 言 者、 二 三 十 氏、 瑾 瑜 互 見、 不 如 二 徐 為 最 古。 先 君 光 禄 君、 平 日 訓 子 弟、 曰 読 書 不 可 不 知 字、 知 字 必 従 許 書而始。今世所通行行楷、非真書、非恭楷、非八 分 ③ 、非大小篆。許書則有 籒 文 ・ 古文 ・ 大篆 ・ 奇 字 ④ 諸体。許氏成是書、将経朝議、 而 一 天 下 書 体。 体 格 源 流、 音 訓 異 同、 形 義 仮 借、 運 用 虚 実、 四 者 許 書 源 流、 不 可 不 講。 余 受 家 学、 稍 有 論 著。 不 知 子 甞 講 是 書 否 」。 余 書 答 曰、 「 小 人 矇 古 書、 未 甞 講 許 書。 私 謂 三 代 設 小 学、 教 六 藝、 書 為 其 一。 『 爾 雅 』『 急 就 章 』『 説 文 』、 実 三 代 小 学、 所
授童蒙。而其法不伝、 老儒宿学、 兀兀終生、 不得其要。三代聖王之治不可再見、 此其一也」 。 ︿ 弢 ﹀ 夫不答、 豈不平余以『説 文』為童蒙書耶。再飲入夜。 解 䌫 至 門 、水涸、曰舟大不可前、乃回棹。 【 注 】 ①「 王 葆 堂 」 陳 玉 堂 編 著『 中 国 近 現 代 人 物 名 号 大 辞 典 』( 浙 江 古 籍 出 版 社、 二 〇 〇 五 年 ) 所 載 の、 浙 江 省 上 虞 の 人 で、 葆 堂 と 号 す る 王 恩 元 (一八五八~?) という人物かもしれない。② 「徐鉉~伝注」 徐鉉 (九一六~九九二) は五代南唐から北宋にかけての学者。 『説文解字』 を 校 訂 し た。 そ の 弟、 徐 鍇( 九 二 〇 ~ 九 七 四 ) は『 説 文 解 字 繫 伝 』 を 著 し た。 ③「 八 分 」 秦 代 の 一 種 の 字 体。 隷 書 に 似 て い る。 ま た は、 隷書の別名。④「奇字」王莽の時の六体書の一つ。ほぼ古文を改変したもの。 訳文 早朝、 餘姚に着いた。 弢夫氏が病を押して出て来てくれた。 私が当地の故事を問うと、 次のような説明をしてくれた。 「門 前 の 長 い 流 れ は 姚 江 で、 姚 は 舜 の 姓 で あ る。 舜 水 先 生 の 号 も こ こ か ら 取 ら れ て い る。 こ こ か ら 東 南 へ 四 十 里 の と こ ろ に 歴 山 が あり、 舜が耕した所である。虞山は今、 県となっているが、 禹が丹朱を封じた所である。土地の人に虞姓の者がはなはだ多い」 。 酒が出た。伯幡兄弟および親戚の王葆堂氏が歓待してくれた。弢夫氏が筆で次のように書き、 私に見せた。 「後漢の許叔重 〔慎〕 の『説文解字』 十五巻は、 十六年を経てようやく出来上がった書物である。 宋の徐鉉が詔を奉じて校定し、 その弟鍇に伝注がある。 刻 本 が 精 密 で な く、 字 に 間 違 い の 多 い の が 難 点 と は い え、 先 学 は み な 学 問 藝 術 界 の 宝 だ と 言 い、 一 家 言 を 成 す 者 が 二 三 十 人、 し か し そ れ ぞ れ 長 所 と 缺 点 が あ り、 結 局 最 も 古 い 二 徐 に 及 ば な い。 先 君 光 禄 君 は、 ふ だ ん 子 弟 を 教 え る 時、 次 の よ う に 言 っ た も の だ。 『 書 を 読 む に は 字 を 知 ら な い わ け に は い か ず、 字 を 知 る に は 必 ず 許 慎 の 書 物 か ら 始 め な け れ ば な ら な い。 今 の 世 に 通 行 し て い る、 行 書 に 近 い 楷 書 は、 本 物 の 楷 書 で は な く、 謹 厳 な 楷 書 で も な い し、 八 分 で も な い し、 大 小 篆 で も な い。 許 慎 の 書 物 は ど う か と 言 え ば、 籒 文・ 古 文・ 大 篆・ 奇 字 の 諸 体 が あ る。 許 氏 は こ の 書 物 を 完 成 後、 朝 廷 の 議 決 を 経 て、 天 下 の 書 体 を 統
一 し よ う と し た。 輪 郭・ 品 格 の 源 流、 音 訓 の 異 同、 形 義 の 仮 借、 運 用 の 虚 実、 こ の 四 つ は 許 慎 の 書 物 の 源 流 で あ っ て、 講 釈 し な い わ け に は い か な い 』 と。 私 も 家 学 を 受 け て、 多 少 の 論 著 が あ る。 先 生 は こ れ ま で こ の 書 物 を 講 釈 し た こ と が お あ り だ ろ う か」 。 私も書いたもので答えた。 「私は古代の字体に暗く、 許慎の書物を講釈したことはない。 個人的には次のように考えている。 すなわち、 三代には小学を設けて、 六藝を教えたが、 書はその一つであった。 『爾雅』 『急就章』 『説文』 は、 実は三代の小学であって、 童 蒙 に 教 授 し た 書 物 で あ る。 し か し そ の 教 授 の 法 は 伝 わ っ て お ら ず、 老 儒 や 大 学 者 が こ つ こ つ と 一 生 を か け 取 り 組 ん で い る も のの、 その要を得ない。三代の聖王の治は、 もはや見ることができない。これがその理由の一つである」 。弢夫氏は答えなかっ た。私が『説文』を童蒙の書としたことに不平だったのだろうか。再び酒盛りをして夜になった。 䌫 を解いて 門 まで行ったところ、水が枯れていた。 「舟が大きいので、進めない」ということだったので、引き返した。 原 文 三 日〔 十 三 日 〕 晨 敲 朱 氏、 伯 幡 為 余 雇 小 船 二 隻、 一 隻 載 行 李、 一 隻 与 静 庵 及 濯 共 乗。 舟 隘、 僅 容 両 膝。 舟 子 踞 船 首、 伸 両脚蕩櫓二枝、 極快、 名曰 剗 舟 ① 。官報郵書、 皆用此舟。江広漸隘、 経 門 ・ 横河二 。此間有 有堰有閘、 皆所以準高下、 均水平。 舟 至 此、 羣 衆 挽 転。 放 翁 詩 曰、 「 人 語 正 讙 過 古 埭 」、 註 云、 「 毎 挽 船、 声 喧 甚 ② 」。 然 則 埭 亦 類。 午 熱 甚、 繫 舟 樹 陰、 炊 飯。 上 岸 見刈稲。田側懸竹席、刈稲盈杷 ︿ 把 ﹀、則就竹席乱打。粒粒 脱、不甚労力。此吾邦所未見。 踰一 、 至崧鎮、 小泊晩飯。岸上市街、 男女擁観、 使人不勝、 移繫前岸。乗月而進、 水涸。舟子泥行力推、 転入別溝、 始前。 【 注 】 ①「 剗 舟 」「 剗 」 は「 劃 」 の 誤 り で は な い だ ろ う か。 舟 を こ ぐ と い う 意 味 の 現 代 中 国 語「 劃 舟 」 を 鹿 門 が 知 ら な か っ た た め、 こ と さ ら 取 り 立 て た も の と 思 わ れ る。 ②「 「 人 語 ~ 喧 甚 」」 「 暁 賦 」 詩 の 第 五 句。 自 注 に「 湖 桑 埭 五 鼓 聞 挽 船 声 喧 甚〔 湖 桑 埭 に て 五 鼓 船 を 挽 く 声 喧 しきこと甚だしきを聞く〕 」とある。
訳 文 早 朝、 朱 氏 を 訪 ね た。 伯 幡 氏 が 私 の た め に 小 舟 二 隻 を 雇 っ て く れ た。 一 隻 に 荷 物 を 載 せ、 も う 一 隻 に 静 庵 氏 及 び 濯 と と もに乗った。舟は狭く、 わずかに両膝を入れられるくらいであった。水夫は舳先にうずくまり、 両足を伸ばして櫓二挺を漕ぐ。 極めて速い。このことを劃舟という。官報 ・ 郵便、 いずれもこの舟を用いる。川幅がしだいに狭くなり、 門 ・ 横河の二 を通っ た。 こ の 辺 り に は も あ り、 堰 も あ り、 閘 も あ る が、 い ず れ も 高 低 を ひ と し く し、 水 平 を 均 し く す る た め の も の で あ る。 舟 が そ こ ま で 来 る と、 群 衆 が 引 い た り 方 向 を 変 え た り す る。 放 翁 の 詩 に「 人 語 正 に 讙 し く 古 埭 を 過 ぐ 」 と あ り、 註 に「 船 を 挽 く 毎 に、 声喧しきこと甚だし」とある。ということは、 埭も の類ということになる。日中の暑気が甚だしい。舟を木陰につなぎ、 飯を炊く。岸に上がってみたところ、 稲刈りをしていた。田の側に竹で編んだござが懸けられ、 刈った稲が手に一杯になると、 竹 の ご ざ に バ ッ シ バ ッ シ と 叩 き つ け る。 粒 が バ ラ バ ラ と 抜 け 落 ち、 さ ほ ど 力 を 労 さ な い。 こ れ は 我 が 国 で 見 た こ と の な い も の である。 一 つ の を 越 え て、 崧 鎮 ま で 行 き、 し ば ら く 舟 を 泊 め て 夕 食 を 摂 っ た。 岸 上 の 市 街 か ら 男 女 が 群 が っ て、 こ ち ら を 見 物 す る の で、 耐 え が た く、 反 対 側 の 岸 に 移 っ て 舟 を つ な い だ。 月 明 か り の 下、 進 も う と し た が、 水 が 枯 れ て い た。 水 夫 が 泥 の 中 に 入 り、力ずくで推し、転じて別の水路に入ったところ、ようやく進みだした。 原 文 四 日〔 十 四 日 〕 泊 在 春 浦 。 淤 泥 亀 裂、 僅 通 涓 流。 駆 牛 挽 舟、 出 曹 娥 江。 長 江 無 際。 更 踰 浦 。 平 湖 如 鏡、 岸 上 人 家 竹 樹、 倒 影 水 中、 湛 然 如 鏡、 使 人 不 厭 頻 繁 往 復。 一 溝 右 折、 入 紹 興 南 門。 城 壁 二 重、 呀 然 如 行 洞 中。 紹 興 句 践 ① 所 都、 人 家 四 五 萬、 一 方 都 会。 訪 陸 有 章、 交 仲 声 書。 延 入 別 室、 酒 飯。 就 楼 上 閑 室 而 小 睡。 尾 瓦 烘 日、 毒 熱 如 蒸。 陳 翰 斎〔 文 瀚 〕 来 見。 仲 声 友 人。 曰「 紹 興 以 酒 著。 醸 戸 前 推 陳・ 趙・ 表 ② ・ 杜 四 姓。 継 起 者 徐・ 李・ 胡・ 田 四 姓。 一 姓 所 利、 不 下 百 万 金。 久 経 年 歳 者、 称 陳酒、尤為世所称」 。
夜 乗 月 歩 市 街、 至 大 善 寺。 七 層 塔 高 聳 雲 霄、 伝 為 宋 代 所 建。 市 人 見 余 異 服 簇 擁、 有 投 瓜 皮 瓦 石 者、 猶 我 邦 三 十 年 前、 欧 人 始 来江戸時。 【注】①「句践」?~前四六五。春秋時代の越の王。②「表」 「袁」の誤りかもしれない。 訳 文 春 浦 に 舟 を 泊 め た。 た ま っ た 泥 が 亀 裂 し て い て、 わ ず か に 細 い 流 れ が 通 じ て い る だ け だ。 牛 を 駆 っ て 舟 を 引 か せ、 曹 娥 江 に 出 た。 長 江 が 果 て し な く 広 が っ て い る。 さ ら に 浦 を 越 え た。 平 た い 湖 が 鏡 の よ う で、 岸 上 の 人 家 や 竹 が、 影 を 水 中 に 逆 さ ま に 映 し、 そ の い っ ぱ い に 満 ち た 水 は 鏡 の よ う で、 頻 繁 に 往 復 し て も 嫌 に な ら な い。 一 つ の 溝 を 右 折 し て、 紹 興 の 南 門 に 入 っ た。 城 壁 が 二 重 に な っ て お り、 そ の 間 が が ら ん と し て い て、 洞 穴 の 中 を 行 く か の よ う で あ る。 紹 興 は 句 践 が 都 と し た 所 で、 人家四、 五萬、 この地方の都会である。陸有章氏を訪ね、 仲声氏の手紙を渡した。別室に案内し、 酒と食事を出してくれた。 楼 上 の 静 か な 部 屋 で し ば ら く 寝 た。 尾 瓦 が 日 に 照 り つ け ら れ、 ひ ど く 暑 く、 蒸 さ れ て い る か の よ う だ っ た。 陳 翰 斎〔 文 瀚 〕 氏 が 面 会 に 来 た。 仲 声 氏 の 友 人 で あ る。 陳 翰 斎 氏 が 言 う こ と に は、 「 紹 興 は 酒 で 有 名 で す。 造 り 酒 屋 は、 以 前 は 陳・ 趙・ 表・ 杜 の 四 家 を 推 し た も の で す が、 継 い で 起 こ っ た の が 徐・ 李・ 胡・ 田 の 四 家 で す。 一 家 の 儲 け は、 百 萬 金 を 下 り ま せ ん。 久 し く 年 を経た酒は陳酒と称し、世に褒めそやされています」 。 夜、 月 の 明 か り を 頼 り に 市 街 を 歩 み、 大 善 寺 ま で 行 っ た。 七 層 の 塔 が 高 く 空 に そ び え て い る。 宋 代 に 建 て ら れ た も の と 伝 え られている。街を行く者たちが自分たちとは異なる私の服に気付いて、 群がり取り囲み、 瓜の皮や瓦石を投げつける者がいた。 我が国の三十年前、ヨーロッパ人が初めて江戸に来た時と同じようなものである。
原文 五日〔十五日〕有章為朱氏幹薬舗商務。鄽榜「官燕洋参麗参」数大字。官燕、謂燕窠、産暹羅 ・ 印度諸方、官置局榷之。 人 参 産 朝 鮮、 曰 麗 産。 産 日 東、 曰 洋 参。 洋 参 雲 州 為 第 一、 日 光・ 会 津 為 下 等。 有 章 導 観 望 海 亭。 出 東 門。 城 壁 厚 三 四 丈、 瓦 甓 建 築、 門 架 三 層 楼。 一 山 突 起。 坂 塡 大 石、 直 至 絶 頂。 頂 上 有 亭、 就 而 望、 市 街 村 落、 田 疇 湖 沼、 歴 歴 指 掌。 西 北 迤 翠、 為 会 稽 四明諸山。東南極目無際、直接海澨。望海名不虚也。翰斎邀飲一楼、熱不可勝、一酌而散。 三庠 生 ① 来見。余問曰、 「通天地人三才謂儒。四 子 ② 六経説天地人、 果無一謬処乎」 。三生請教。余曰、 「『春秋』書日虧、 為日食。 説者曰、 『日為蝦蟇所食』 。此三歳童子所不信。真不可一咲乎」 。因挙洋説、三生愕然。 晩飯上舟。舷板絵花鳥、臥床 ・ 椅子 ・ 机案皆備。出西郭、有石橋、曰迎恩。来時自此右折、探蘭亭。転出清田湖。月色如昼、 水天空明。時見水中有物躍出、就而視之、水牛十数頭出没也。舷頭坐賞、不覚夜深。 【注】 ① 「庠生」 明清時代の 「童試」 (府州県学に入学する試験) の合格者。秀才。② 「四子」 『論語』 『大学』 『中庸』 『孟子』 。いわゆる四書のこと。 訳 文 有 章 氏 は 朱 氏 の 下 で 薬 舗 の 商 務 を つ か さ ど っ て い る。 店 に「 官 燕 洋 参 麗 参 」 と 書 い た 大 字 が 掲 げ ら れ て い る。 官 燕 と は ツ バ メ の 巣 の こ と で、 タ イ・ イ ン ド 等 の 地 域 に 産 し、 お 上 が 局 を 設 け、 こ れ に 税 を か け て い る。 人 参 は 朝 鮮 に 産 し、 麗 産 と い う。 日 本 に 産 す る も の は、 洋 参 と い う。 洋 参 は 雲 州 を 第 一 と し、 日 光・ 会 津 を 下 等 と す る。 有 章 氏 が 望 海 亭 へ 案 内 し て く れ る こ と に な っ た。 東 門 を 出 た。 城 壁 は 厚 さ 三、 四 丈、 瓦 で 建 築 さ れ、 門 に は 三 層 の 楼 が 架 け 渡 し て あ る。 高 く 突 き 出 た 一 つ の 山 が あ る。 坂 に は 大 き な 石 が 埋 め ら れ て い て、 そ れ が そ の ま ま 絶 頂 ま で 続 い て い る。 頂 上 に 亭 が あ り、 そ こ か ら 眺 め る と、 市 街 や村落、田畑や湖沼が、掌を指すかのようにはっきりと見える。西北にくねくねと伸びているのは、会稽 ・ 四明の諸山である。 東 南 は 見 渡 す 限 り 果 て し な く、 そ の ま ま 海 岸 に つ な が っ て い る。 望 海 の 名 も も っ と も と 思 え た。 翰 斎 氏 が あ る 酒 楼 で も て な し てくれたが、耐えられぬほどの暑さだったので、ちょっとだけ飲んでお開きにした。
三 人 の 秀 才 が 面 会 に 来 た。 私 が「 天 地 人 の 三 才 に 通 ず る 人 を 儒 と 言 う わ け だ が、 四 書 や 六 経 の 天 地 人 に 関 す る 説 に は、 果 た し て 一 つ も 誤 っ た と こ ろ は な い の だ ろ う か 」 と 問 い か け る と、 三 人 は 私 の 説 明 を 求 め た。 私 が「 『 春 秋 』 に 日 が 欠 け る こ と を 日 食 と 書 い て い る が、 こ の 日 食 に つ い て『 日 が 蝦 蟇 に 食 わ れ た の だ 』 と 説 く 者 が い る。 し か し、 こ の 説 は 三 歳 の 童 子 も 信 じ な いものだ。全く物笑いの種ではないか」と言って、西洋の説を挙げると、三人は愕然とした様子だった。 夕 食 を 済 ま せ 舟 に 乗 っ た。 舷 ふなばた に 花 鳥 が 描 か れ て い て、 ベ ッ ド・ 椅 子・ 机 み な 備 わ っ て い る。 西 郭 を 出 る と、 石 橋 が あ っ た。 迎 恩 と い う 名 前 で あ る。 来 た 時 は こ こ か ら 右 折 し て、 蘭 亭 を 探 っ た。 転 じ て 清 田 湖 に 出 た。 月 光 が 昼 の よ う で、 水 も 空 も 澄 ん で 明 る い。 お り し も 水 中 か ら 何 物 か が 躍 り 上 が っ て く る の が 見 え た。 近 づ い て よ く 見 て み る と、 水 牛 が 十 数 頭 出 没 し て い る の だった。舟べりに座って見て楽しみ、夜が更けたのにも気づかなかった。 原 文 六 日〔 十 六 日 〕 泊 在 柯 山。 訪 沈 痩 生、 歓 迎、 曰「 貴 邦 仿 欧 風 改 服 制、 信 否 」。 余 曰、 「 敝 邦 服 制 仿 隋 唐、 及 武 門 握 権、 以 冠裳不便戎馬、 新制衣袴、 為武士服、 自非宗廟朝廷大事、 常衣此服。僕所服是也。而是服長袖博帯、 不便編銃隊。故維新兵興、 列 藩 不 約 而 欧 服。 朝 令 一 仿 欧 風 改 服 制、 実 有 故 也。 弟 山 沢 人、 衣 服 唯 意 所 適。 故 用 故 服 」。 談 及 法 事。 余 曰、 「 不 戦、 則 中 土 国 威不振、 戦則百萬糜爛。聞李中堂主和、 左 ・ 曾諸公主戦。未知和戦何决」 。痩生頗有不楽之色。以天雨、 辞帰。一价馳至、 強留。 余辞以急前程。 至 柯 橋 午 飯。 一 帯 石 橋、 長 亘 十 餘 里、 首 曰 上 馬 村、 尾 曰 下 馬 村、 実 為 巨 工。 抵 銭 清。 両 岸 市 街、 頗 為 繁 庶。 転 出 上 河。 渺 漫 如湖。一石橋曰皆元、長百餘丈、累石為柱、得二十門。此間河道縦横、与来時所経不同。 訳 文 柯 山 に 舟 を 泊 め た。 沈 痩 生 氏 を 訪 ね る と、 歓 迎 し て く れ、 こ う 私 に 尋 ね た。 「 貴 国 が ヨ ー ロ ッ パ の 風 習 に 倣 い 服 制 を 改
め た と い う の は、 本 当 で す か 」。 私 は 答 え た。 「 弊 国 の 服 制 は 隋 唐 に 倣 っ た も の で す が、 武 門 が 政 権 を 握 る に 及 ん で、 冠 と 衣 服 が 戦 に 不 便 な た め、 新 た に 衣 と 袴 を 制 し て、 武 士 の 服 と し ま し た。 宗 廟 や 朝 廷 の 大 事 以 外 の 時 は、 常 に こ の 服 を 着 て い ま す。 私 が 着 て い る の が、 そ れ で す。 し か し こ の 服 は 長 い 袖 に 幅 広 の 帯 で、 銃 隊 を 編 む の に 不 便 で す。 そ れ ゆ え、 維 新 に 戦 が 起 こ る と、 列 藩 は 約 せ ず し て ヨ ー ロ ッ パ の 服 装 を す る よ う に な り ま し た。 朝 廷 の 命 令 で 全 面 的 に ヨ ー ロ ッ パ の 風 習 に 倣 い 服 制 を 改 め た の は、 実 は 理 由 の あ る こ と な の で す。 私 は 山 野 の 人 で、 衣 服 は 気 の 向 く ま ま で す。 だ か ら、 昔 の 服 を 着 用 し て い る の で す 」。 フ ラ ン ス と の 問 題 に 話 が 及 ん だ。 私 は こ う 言 っ た。 「 戦 わ な け れ ば、 中 国 は 国 威 が 振 る い ま せ ん が、 戦 う と 多 く の 人 た ち が ひ ど い 目 に 遭 う で し ょ う。 李 中 堂 は 講 和 を 主 張 し、 左・ 曾 の 諸 公 は 戦 争 を 主 張 し て い る と 聞 い て い ま す。 和 戦、 い ず れ に 決 す る の で し ょ う か 」。 痩 生 氏 は す こ ぶ る 不 満 そ う な 様 子 だ っ た。 雨 が 降 っ て い る こ と を 理 由 に、 辞 し て 帰 っ た。 一 人 の 使 用 人 が 駆 けつけ、強く引き留めようとした。先を急ぐことを理由に、断った。 柯 橋 ま で 来 た と こ ろ で 昼 食 に し た。 こ の 一 帯 は 石 橋 が、 長 さ 十 餘 里 に わ た っ て お り、 上 馬 村 と い う 所 か ら 下 馬 村 と い う 所 ま で で、 実 に 巨 大 な 工 事 で あ る。 銭 清 に 着 い た。 両 岸 の 市 街 は、 す こ ぶ る 人 家 が 密 集 し て い る。 転 じ て 上 河 に 出 た。 だ だ っ 広 く て 湖 の よ う で あ る。 そ こ の 一 つ の 石 橋 は 皆 元 と い う 名 で、 長 さ 百 餘 丈、 石 を 重 ね て 柱 と し、 二 十 の 門 が で き て い る。 こ の 辺 り は水路が縦横に走っていて、来たとき通った所と異なる。 原文 七日〔十七日〕抵蕭山県。一江穿城、 両岸市街、 人行如織。至西興、 上岸雇轎。度銭塘江。一船乗客四五十名、 渡舟官置、 不 要 銭。 上 岸 為 杭 州 東 郭。 城 楼 二 層、 曰 銭 塘 門。 至 珠 宝 巷、 訪 顧 雲 臺。 示『 申 報 』 曰「 法 使 在 上 海、 詰 責 中 土 援 安 南 要 求 二 百 萬 磅 ① 、 曾 元 帥 不 可。 安 南 累 捷、 法 兵 死 傷 千 数 」。 語 多 矜 伐、 余 知 其 不 実。 又 曰、 「 張 経 甫 率 同 志 演 洋 槍、 日 夜 訓 練 」。 経 甫 醇 儒、 而編兵。余愈知其為急。
遣 濯 弥 勒 寺、 伴 無 適 至。 曰「 已 借 仙 林 寺 一 閑 室、 以 待 焉 」。 寺 宋 代 大 刹。 放 翁『 入 蜀 記 』 記「 仙 林 寺 僧 開 館 設 湯 飲 ② 」、 是 也。 乱後纔餘子 房 ③ 。掃殿背一室、安頓行李。茗爐香 案 ④ 、頗覚蕭散。 【注】 ① 「二百萬磅」 この時期の 『申報』 には、 フランス側が清国に二千萬ポンドを要求したとの記事 (複数) が載っている。② 「『入蜀記』 ~湯飲」 『入蜀記』 乾道六年閏五月二十日の条。③ 「子房」 本坊から分かれた下位の僧坊。末寺。④ 「香案」 香炉 ・ 燭台を載せる長方形の机やテー ブル。 訳 文 蕭 山 県 に 着 い た。 一 筋 の 川 が 町 を 貫 き、 両 岸 の 市 街 は 人 が ひ っ き り な し に 行 き 来 し て い る。 西 興 に 着 き、 岸 に 上 が っ て 轎 を 雇 っ た。 銭 塘 江 を 渡 っ た。 一 船 の 乗 客 は 四 五 十 名、 渡 し 舟 は お 上 が 設 け た も の で、 無 料 で あ る。 岸 に 上 が る と 杭 州 の 東 郭 で あ る。 城 楼 は 二 層 で、 銭 塘 門 と い う。 珠 宝 巷 ま で 行 き、 顧 雲 臺 氏 を 訪 ね た。 彼 が『 申 報 』 を 示 し て、 「 フ ラ ン ス 使 節 が 上 海 に い て、 中 国 が 安 南 を 援 助 し た こ と を 譴 責 し、 二 百 萬 ポ ン ド を 要 求 し た が、 曾 元 帥 は 聞 き 入 れ な か っ た。 安 南 が 何 度 も 勝 利 を 収 め、 フ ラ ン ス 兵 の 死 傷 は 何 千 に も 上 る 」 と 言 っ た が、 言 葉 に 自 慢 そ う な と こ ろ が 多 く、 私 は そ れ が 真 実 で は な い こ と が 分 かった。彼はまた、 次のようなことも言った。 「張経甫氏が同志を率いて西洋式銃の使い方を習わせ、 日夜訓練させている」と。 経 甫 氏 は 学 識 の あ る 純 粋 な 学 者 で あ る が、 そ の 氏 が 部 隊 の 編 成 を 行 っ て い る の だ。 私 は 情 勢 が い よ い よ 急 を 告 げ て い る こ と が 分かった。 濯 を 弥 勒 寺 に 遣 わ し た と こ ろ、 無 適 氏 を 伴 っ て 帰 っ て き た。 無 適 氏 が 言 う こ と に は、 「 仙 林 寺 の 静 か な 部 屋 を 借 り て、 お 待 ち し て お り ま す 」。 宋 代 の 大 き な 寺 で あ る。 放 翁 の『 入 蜀 記 』 に「 仙 林 寺 の 僧 が 客 舎 を 開 い て 湯 茶 の 接 待 を し て く れ た 」 と 記 し て あ る、 そ の 寺 で あ る。 乱 後 は 子 房 が 残 っ て い る だ け と い う。 本 殿 裏 の 一 室 を 掃 き、 荷 物 を 置 い た。 湯 沸 か し 釜 に 香 案、 す こぶる瀟洒な感じがする。
原 文 八 日〔 十 八 日 〕 徐 嗣 元 ① 来 見、 曰「 与 内 海 吉 堂・ 僧 心 泉 ② 熟 知 」。 心 泉 本 願 寺 僧、 三 年 前 游 此。 曲 園 先 生 賞 其「 西 湖 」 詩、 録 于 詩 選 中 ③ 。 余 問 法 事、 曰「 接 上 海 一 信。 福 州 怒 法 虜 ④ 之 無 状、 已 開 戦 端、 未 知 勝 敗 如 何 」。 余 曰、 「 恐 訛 伝。 両 国 方 発 大 臣、 論 事由。無擅交兵之理。若果信、則曲在中土」 。曰「開戦在両三日間」 。因論法 虜 無状、言頗憤懣。静菴来別。贈金謝労。 【 注 】 ①「 徐 嗣 元 」 字 は 起 盦 ( 庵 )。 一 八 三 九 年 に『 起 盦 印 譜 』 を 編 輯 し て い る。 ②「 心 泉 」 北 方 蒙( 一 八 五 〇 ~ 一 九 〇 五 )。 心 泉 は 号。 真 宗 大 谷 派 の 僧 侶。 明 治 十 年、 東 本 願 寺 支 那 布 教 事 務 掛 と な り、 留 学 生 を 引 率 し て 上 海 に 赴 き、 以 後、 断 続 的 に 中 国 に 滞 在 し、 布 教 以 外 の 活動にも携わった。 その二、 六月十一日注①。③「曲園~詩選中」 『東瀛詩選』中に心泉の詩は見当たらない。④「法 虜 」フランス軍を さげすんだ言い方。 訳 文 徐 嗣 元 氏 が 面 会 に 来 て、 こ う 言 っ た。 「 内 海 吉 堂 氏 と 僧 心 泉 氏 を よ く 知 っ て い ま す 」。 心 泉 氏 は 本 願 寺 の 僧 で、 三 年 前 に こ の 地 に 来 て い る。 曲 園 先 生 が 彼 の「 西 湖 」 詩 を 賞 し、 『 東 瀛 詩 選 』 中 に 収 録 さ れ た。 私 が フ ラ ン ス と の 一 件 を 尋 ね る と、 こ う 言 っ た。 「 上 海 か ら の 手 紙 に よ る と、 福 州 で は 法 虜 の 無 礼 な の に 怒 り、 す で に 戦 端 を 開 い た が、 勝 敗 が ど う な る か は ま だ 分 か ら な い と の こ と で す 」。 私 が「 恐 ら く 訛 伝 で し ょ う。 両 国 が 今 ま さ に 大 臣 を 差 し 向 け て、 事 由 を 論 じ て い る と こ ろ な ら、 勝 手に交戦するはずがありません。もし本当ならば、 非は中国にありますよ」と言うと、 彼は「二三日のうちに開戦となるでしょ う 」 と 言 い、 法 虜 の 無 礼 な こ と を 論 じ、 す こ ぶ る 憤 懣 や る か た な さ そ う な 言 い 方 を し た。 静 菴 氏 が 別 れ の あ い さ つ に 来 た。 金 を贈って労を謝した。 原文 九日 〔十九日〕 晨聞爆竹四起。曰 「祝観音誕辰」 。有二市人、 設大釜仏前、 滾油 煑 動植雑物、 曰「練観音秘方膏」 。留無適午飯。
曰「 中 土 士 人 奔 競、 科 第 為 第 一。 州 県 学 官、 試 書 院 生 員 ① 曰 院 試、 登 第 曰 秀 才 若 庠 生。 庠 生 詣 省 就 試、 曰 省 試 若 郷 試、 登 第 曰 挙 人 若 孝 廉。 挙 人、 会 京 都 就 試、 曰 会 試、 登 第 曰 進 士 出 身。 天 子 親 試 進 士、 優 等 曰 状 元、 探 花、 榜 眼。 省 試 考 官、 朝 廷 命 正 副 二 人、 為 正 者 二 三 品 官、 為 副 者 六 七 品 官、 必 須 進 士 出 身 者。 会 試 特 簡 大 総 裁 三 四 員、 大 学 士 三 四 品 官、 始 与 此 選。 別 有 監 生、 明 時 所 創、 専 由 捐 納 ② 。 三 年 一 試、 試 塲 劃 室 容 膝、 禁 出 外 七 日。 試 四 書・ 五 経・ 詩 賦・ 策 道・ 小 楷 ③ 。 会 試 者 一 萬 人、 登 第 者 不 過 百 人。耗有用精神於無用八股、黄口入学、白首無成。廖燕論是事、為愚黔首之 術 ④ 、未為無謂也」 。 【 注 】 ①「 生 員 」 明 清 時 代、 最 も 低 い 試 験 に 合 格 し て 府 学・ 県 学 で 学 ん で い る 者。 ②「 捐 納 」 金 を 納 め て 官 職 を 得 る こ と。 ③「 小 楷 」 小 さ な 楷書体の漢字。④ 「廖燕~之術」 廖燕は清初の人。一六四四~一七〇五年。廖燕がその 「明太祖論」 (『二十七松堂文集』 巻一) の中で 「吾 以 為 明 太 祖 以 制 義 取 士 与 秦 焚 書 之 術 無 異、 特 明 巧 而 秦 拙 耳、 其 欲 愚 天 下 之 心 則 一 也〔 吾 以 為 え ら く 明 の 太 祖 制 義 を 以 て 士 を 取 る は 秦 の 焚 書 の 術 と 異 な る 無 し、 特 明 は 巧 み に し て 秦 は 拙 か り し の み、 其 の 天 下 の 心 を 愚 か に せ ん と 欲 す る は 則 ち 一 な り と 〕」 と 述 べ て い る の などを指すか。廖燕にはまた「習八股非読書説」 (同前巻十一)もある。 訳 文 早 朝、 爆 竹 の 音 が あ ち こ ち か ら 聞 こ え て き た。 「 観 音 の 誕 生 日 を 祝 っ て い る 」 と の こ と だ っ た。 二 人 の 商 人 が、 大 き な 釜 を 仏 前 に 設 け、 煮 え た ぎ っ た 油 で 動 植 物 や 雑 多 な 物 を 揚 げ て い て、 「 観 音 秘 方 の 膏 を 練 っ て い る の だ 」 と 言 っ て い る。 無 適 氏 に 昼 食 を 食 べ さ せ た。 そ の と き 無 適 氏 が 言 う こ と に は、 「 中 国 の 知 識 人 が 奔 走 す る も の と し て は、 科 挙 の 及 第 が 第 一 で す。 州 県 の 学 官 が 書 院 の 生 員 を 試 験 す る の を 院 試 と 言 い、 及 第 し た 者 を 秀 才 も し く は 庠 生 と 言 い ま す。 庠 生 が 省 へ 行 っ て 受 験 す る の を 省 試 も し く は 郷 試 と 言 い、 及 第 し た 者 を 挙 人 も し く は 孝 廉 と 言 い ま す。 挙 人 が 都 に 会 し て 受 験 す る の を 会 試 と 言 い、 及 第 し た 者 を 進 士 出 身 と 言 い ま す。 天 子 が 親 し く 進 士 を 試 験 す る こ と も あ り、 そ の 試 験 で 優 等 だ っ た 者 を 状 元、 探 花、 榜 眼 と 言 い ま す。 省 試 の 試 験 官 に は、 朝 廷 が 正 副 二 人 を 命 じ、 正 と な る 者 は 二 三 品 の 官、 副 と な る 者 は 六 七 品 の 官 で、 必 ず 進 士 出 身 者 で
あ る こ と が 必 要 で す。 会 試 に は 特 に 大 総 裁 三 四 員 を 選 び ま す が、 大 学 士 の 三 四 品 の 官 で あ っ て、 始 め て こ の 選 に 与 か り ま す。 別 に 監 生 と い う も の が あ り、 明 の 時 創 め ら れ た も の で、 専 ら 捐 納 に よ り ま す。 試 験 は 三 年 に 一 度 で、 試 験 場 は や っ と 膝 を 入 れ られるほどの広さに部屋を区切ってあり、七日間、外出が禁じられます。四書 ・ 五経 ・ 詩賦 ・ 策道 ・ 小楷の試験が行われます。 試 験 を 受 け る 者 は 一 萬 人 で す が、 及 第 す る 者 は 百 人 に 過 ぎ ま せ ん。 有 用 の 精 神 を 無 用 の 八 股 に す り 減 ら し、 小 さ な 子 供 の と き 学 校 に 入 り、 白 髪 頭 に な っ て も 成 就 し ま せ ん。 廖 燕 が こ の こ と を 論 じ て、 『 人 民 を 侮 る の 手 段 』 と し た の は、 い わ れ の な い こ ととは言えません」 。 原 文 十 日〔 廿 日 〕 過 弥 勒 寺。 坐 有 一 僧 名 普 晋、 贈 余『 陰 符 素 書 』。 無 適 曰、 「 此 人 立 誓 刻 仏 経、 麻 衣 草 鞋、 日 行 市 上、 打 鉦 募 縁、不以雨雪廃一日。今己 ︿ 已 ﹀ 刻若干巻」 。郭少泉〔京 ︿ 宗 ﹀ 儀 ① 〕来訪。曾在我邦、為福沢 氏 ② 所延、授中語。 【 注 】 ①「 郭 少 泉〔 京 ︿ 宗 ﹀ 儀 〕」 郭 宗 儀。 少 泉 は そ の 字。 浙 江 省 嘉 興 府 秀 水 県 出 身。 書 家。 慶 應 義 塾 に 設 置 さ れ た 支 那 語 科( 明 治 十 二 ~ 十 四 年存続)で中国語講師を務めたことがある。②「福沢氏」福沢諭吉。一八三四~一九〇一。慶應義塾の創立者。 訳文 弥勒寺を訪れた。普晋という名の僧が座に着いていて、 私に 『陰符素書』 を贈与してくれた。無適氏が言うことには、 「こ の 人 は 誓 い を 立 て て 仏 経 を 刻 み、 麻 布 の 衣 に 草 鞋 で、 毎 日 町 を 行 き、 鉦 を 打 っ て 布 施 を 請 い、 雨 や 雪 が 降 っ て も 一 日 も 休 ん だ こ と が あ り ま せ ん。 今 す で に 若 干 巻 を 刻 ん で い ま す 」。 郭 少 泉〔 宗 儀 〕 氏 が 来 訪 し た。 か つ て 我 が 国 に い て、 福 沢 氏 に 招 か れ、 中国語を教えたことがある。
原文 十一日 〔廿一日〕 王夢薇 〔廷鼎〕 来訪。為曲園高弟。曰 「聞老師屢説高著、 不禁渇仰、 来見」 。情意極懇。設酒留談。曰 「中 土 人 物、 大 抵 浮 華 少 実。 僕 歴 游 六 七 省、 足 跡 渉 数 萬 里、 而 所 心 折、 止 曲 園 師 一 人 」。 問 法 事、 曰「 通 観 二 十 四 史、 其 与 夷 狄 戦、 尤 為 無 策 」。 又 評 馮 夢 香 曰、 「 経 学 考 拠、 冠 同 門 諸 子、 唯 為 人 拘 泥、 且 以 権 榷 子 母 ① 為 事。 論 其 品、 不 及 孫 漁 笙 ② 」。 余 数 聞 硯 雲 説 漁 笙、 問 此 人 何 如、 曰「 漁 笙 中 烟 毒、 病 目 且 聾、 為 廃 人 」。 此 皆 懐 才 不 遇、 抑 鬱 無 聊 之 所 致。 談 移 刻。 曰「 余 売 薬 為 活。 病 客 在 門、 不 可 游 談 」、 辞 去。 此 人 直 拠 其 所 見、 不 少 修 飾、 極 為 快 人、 唯 非 我 邦 学 欧 米、 曰「 聖 人 之 道、 自 有 致 富 強 之 法。 貴 国 不 求于此、 而求於彼、 殆下喬木、 而入幽 谷 ③ 者」 。嗚呼陸有輪車、 海有輪船、 網設電線、 聯絡全世界之声息。宇内之変、 至此而極矣。 而猶墨守六経、不知富強為何事、一旦法 虜 滋擾、茫然不知所措手、皆為此論所誤者。 【注】①「以権榷子母」意味不明。②「孫漁笙」孫 煐 。道光 ・ 光緒の人、 字は漁笙、 定海(今の浙江省舟山)出身。③「下喬木、 而入幽谷」 『孟 子』滕文公上に見える語句。良好な環境から劣悪な環境に転じ入るたとえ。 訳 文 王 夢 薇〔 廷 鼎 〕 氏 が 来 訪 し た。 曲 園 氏 の 高 弟 で あ る。 彼 が 言 う こ と に、 「 老 師 が し ば し ば ご 高 著 の 話 を さ れ る の を 聞 き、 渇仰を禁ぜず、 参りました」 。情意きわめて懇ろである。酒を用意して引き留め、 話をした。彼が言うことに、 「中国の人物は、 大 抵 浮 華 で 中 身 に 乏 し い。 私 は 六、 七 省 を 歴 遊 し、 足 跡 数 萬 里 に わ た り ま す が、 心 か ら 敬 服 す る の は 曲 園 師 だ け で す 」。 フ ラ ン ス と の 件 を 問 う と、 「 二 十 四 史 を 通 観 し て み ま す と、 今 回 の 夷 狄 と の 戦 い 方 は、 非 常 に 策 の な い も の と 言 え ま す 」。 ま た、 馮 夢 香 氏 を 評 し て、 「 経 学・ 考 証 学 で は、 同 門 で 第 一 で す が、 た だ、 人 と な り が 頑 固 で、 且 つ 利 子 と 元 金 を 独 り 占 め に す る こ と に 専 念 し て い ま す。 そ の 品 格 を 論 じ る な ら、 孫 漁 笙 氏 に 及 び ま せ ん 」 と 言 っ た。 私 は し ば し ば、 硯 雲 氏 が 漁 笙 氏 の 話 を す る の を 聞 い て い た の で、 こ の 人 は ど の よ う な 人 か と 問 う と、 彼 が 言 う こ と に は、 「 漁 笙 氏 は 阿 片 の 中 毒 に な り、 目 を 病 み 且 つ 耳 も 聞 こ え な く な っ て、 廃 人 に な っ て い ま す 」。 こ れ も、 才 能 が あ り な が ら 認 め ら れ る こ と が な く、 抑 鬱 無 聊 の 結 果 そ う な っ た の だ
ろ う。 し ば ら く 話 を す る と、 彼 は「 私 は 薬 屋 で 生 計 を 立 て て お り ま す。 病 気 の 客 が 来 て い ま す の で、 お し ゃ べ り し て い る わ け に も ま い り ま せ ん 」 と 言 っ て、 辞 去 し た。 こ の 人 は 自 分 の 目 で 見 た 事 柄 に 依 拠 し て、 少 し も 飾 り 立 て な い。 き わ め て さ っ ぱ り し た 人 だ っ た。 た だ、 我 が 国 が 欧 米 に 学 ん で い る の を 謗 っ て、 「 聖 人 の 道 に は、 お の ず か ら 富 強 を 成 し 遂 げ る 方 法 が 備 わ っ て い ま す。 貴 国 が こ ち ら に 求 め ず、 あ ち ら に 求 め て い る の は、 ほ と ん ど 喬 木 を 下 っ て 幽 谷 に 入 る よ う な も の で す 」 と 言 っ た。 あ あ、 陸には汽車があり、 海には汽船があり、 電線を網の目のように張り巡らして、 全世界の動静をつなぎ合う。宇内の変化は、 こ の よ う な 段 階 に 至 り、 極 ま っ て い る に も か か わ ら ず、 な お も 六 経 を 墨 守 し、 富 強 の 何 事 た る か を 知 ら ず、 一 旦 法 虜 が 騒 ぎ を 起こすと、茫然として対処の仕方を知らないのは、すべてこのような論に誤られているのである。 原 文 十 二 日〔 廿 二 日 〕 過 少 泉、 方 理 行 装、 曰「 去 遊 金 華 」。 少 泉 渉 書 画、 為 人 書 牌 榜、 糊 口 四 方。 過 鎮 海 門。 層 楼 屹 立、 其 左 一 埠 有 子 胥 廟、 香 火 不 断。 訪 朱 硯 臣、 示 先 世 寿 帖、 曰「 余 家 餘 姚 朱 氏、 為 浙 東 名 族 」。 余 曰、 「 果 然、 朱 舜 水 同 宗 」、 因 説 舜 水東遁伝宋学之事。硯臣大悦、 出示家譜。譜後附舜水小伝、 伝有「島中納言侍女十二人不近」句。此紀源中納言賜侍女十二人、 舜水不敢 近 ① 者。中人不知中納言為官名、故有此誤。 共 過 茶 肆。 呉 山 当 前、 老 樹 鬱 蒼。 坐 有 李 姓、 曰「 累 挙 不 捷、 来 此 業 商 」。 余 曰、 「 此 為 実 学。 不 見 子 貢 貨 殖、 為 七 十 二 弟 子 所 推 乎 ② 」。満坐一笑。 【 注 】 ①「 島 中 納 言 ~ 不 敢 近 」「 島 中 納 言 」 と は、 元 禄 三 年、 徳 川 幕 府 か ら 隠 退 の 許 可 が 下 り、 養 嗣 子 に 水 戸 藩 主 を 継 が せ た 後、 中 納 言 に 任 じ ら れ た 徳 川 光 圀 を 指 す と 考 え ら れ る。 朱 舜 水 が 日 本 で の 四 十 年 間、 侍 女 十 二 人 を 近 づ け な か っ た、 も し く は 女 性 と 接 し な か っ た こ と に ついては、 邵念魯の「明遺民所知録伝十七朱之瑜」や今井弘済 ・ 安積覚同撰の「舜水先生行実」に記されている。②「子貢~所推乎」 『史
記 』 貨 殖 列 伝 に、 子 貢 が 孔 子 に つ い て 学 ん だ 後、 曹・ 魯 で 物 資 を 蓄 積 し た り、 時 機 を 待 っ て 売 っ た り し て 財 産 を 築 い た 旨 記 さ れ て い る のを踏まえた発言。 訳 文 少 泉 氏 を 訪 ね て み る と、 ち ょ う ど 旅 支 度 の 最 中 で、 「 金 華 へ 行 く 」 と い う こ と だ っ た。 少 泉 氏 は 書 画 に 携 わ り、 人 の た め に 牌 榜 を 書 き、 生 活 の た め 居 所 を 転 々 と し て い る。 鎮 海 門 を 通 っ た。 二 階 建 て 以 上 の 建 物 が 屹 立 し て い る。 そ の 左 の 埠 頭 に 子 胥 の 廟 が あ り、 香 を た く 火 が 絶 え な い。 朱 硯 臣 氏 を 訪 ね る と、 先 祖 の 寿 帖 を 示 し て、 「 私 の 家 系 は 餘 姚 の 朱 氏 で、 浙 東 の 名 家 な の で す 」 と 言 っ た。 私 は「 な ら ば、 朱 舜 水 の 同 族 で す ね 」 と 応 じ、 舜 水 が 東 に 逃 れ て 宋 学 を 伝 え た こ と を 話 し た。 硯 臣 氏 は た い そ う 喜 び、 家 譜 を 出 し て 見 せ て く れ た。 譜 の 後 に 舜 水 の 小 伝 が 附 せ ら れ て お り、 伝 に「 島 中 納 言 の 侍 女 十 二 人 を 近 づ け な か っ た 」 と い う 文 が あ っ た。 こ れ は 源 中 納 言 が 侍 女 十 二 人 を 賜 っ た が、 舜 水 は 敢 え て 近 づ け な か っ た と い う こ と を 記 し た も のである。中国人は中納言が官名であることを知らなかったために、このような誤りが生じたのだろう。 共 に 茶 店 に 立 ち 寄 っ た。 呉 山 を 前 に し て、 老 木 が 鬱 蒼 と 茂 っ て い る。 座 に 着 い て い た 李 姓 の 人 が こ う 言 っ た。 「 何 度 も 受 験 し た が 合 格 せ ず、 こ こ に 来 て 商 売 を し て い ま す 」。 私 が「 そ れ が 実 学 で す よ。 子 貢 も 商 売 を し て、 七 十 二 人 の 弟 子 に 推 称 さ れ たのをご存じではないのですか」と言うと、満座どっと笑い声が起こった。 原文 十三日 〔廿三日〕 雨。無適来示 『申報』 曰 「十五日法軍艦五隻衝臺灣、 陥雞籠砲臺、 発使上海、 告曰 『我兵已抜雞籠。和戦、 唯貴国所為』 」。余毎逢士人説法事、多笑為過慮。臺灣東洋要地、一旦帰彼手、東洋多事、始于此也。 至 夜、 無 適 来 示 上 海 書 信、 曰「 公 署 有 命 云『 邦 人 在 内 地 者、 速 帰 上 海、 避 危 難 』」 。 公 署 已 有 此 命、 余 不 可 独 優 游 此 地、 乃 擬 同無適反棹上海、雇舟。
訳 文 雨。 無 適 氏 が 来 て、 『 申 報 』 を 示 し て 言 っ た。 「 十 五 日、 フ ラ ン ス の 軍 艦 五 隻 が 臺 灣 を 攻 撃 し て 鶏 籠 砲 臺 を 陥 れ、 使 者 を 上 海 に 発 し、 『 我 が 軍 は 既 に 鶏 籠 を 攻 略 し た。 和 か 戦 か、 貴 国 次 第 で あ る 』 と 通 告 し ま し た 」。 私 は 知 識 人 に 会 う た び に フ ラ ン ス と の 一 件 に つ い て の 話 を す る の だ が、 た い て い 取 り 越 し 苦 労 と 笑 わ れ て し ま う。 し か し、 臺 灣 は 東 洋 の 要 地 で あ る か ら、 一 旦フランスの手に帰すれば、東洋の多事多難がその時から始まるであろう。 夜 に な っ て か ら、 無 適 氏 が 来 て、 上 海 か ら の 書 信 を 示 し て、 言 っ た。 「 官 署 か ら 命 令 が 来 ま し た。 内 地 に い る 邦 人 は、 速 や か に 上 海 に 帰 り、 危 難 を 避 け よ と の こ と で す 」。 官 署 か ら そ の よ う な 命 令 が 出 た の な ら、 私 一 人 こ の 地 で 悠 々 と し て い る わ け にはいかないので、無適氏と上海に帰ることとし、舟を雇った。 原文 十四日〔廿四日〕晨過夢薇告行。恐其驚人聴、 直曰、 「得上海報。一大官要余与赴北京」 。夢薇曰、 「僕在此、 未尽地主之責。 盍 緩 旬 日 為 西 湖 之 遊 」。 余 辞 大 官 告 期、 不 可 緩 一 日。 曰「 僕 雖 識 面 日 浅、 通 覧 高 著、 備 悉 于 胸 腹。 特 切 傾 慕。 請 自 今 天 涯 地 角、 書信往復、以訂文字神交」 。余不覚為天涯知已 ︿ 己 ﹀ 之感。 濯理行事。無適示『申報』曰、 「中土鋳大砲、 購輪船、 開招商 ・ 機器二局、 糜幾千百萬金。而雞籠之戦、 砲声一発、 萬兵驚逃。 不 如 省 此 萬 億 兆 銀 銭、 千 百 人 心 力、 不 鋳 一 砲、 不 練 一 兵、 任 彼 蹂 躙 我 土 地、 占 拠 我 郭 域、 攘 奪 我 利 源、 憑 凌 我 赤 子 之 為 愈 也 ① 」。 此 語 外 人 読 之、 猶 且 憤 懣。 况 隸 其 土 籍、 食 其 土 毛 者 乎。 抑 英 人 畧 取 弾 丸 黒 子 一 香 港、 猶 能 網 東 洋 貿 易 大 利。 台 湾 大 島、 一 朝 属 法手、拠中日之上流、制控御之権、此東洋局面一変者。 昔年臺灣之変、 余就諸書、 抄其地沿革。登載此。曰台湾距福州省城、 五百四十里、 距彭湖島、 二百里、 四面皆海。東西亘五百里、 南 北 二 千 八 九 百 里、 山 脉 起 雞 籠、 尽 沙 馬 碕、 亘 一 千 里。 山 東 山 西、 原 野 接 海、 土 性 肥 沃、 一 歳 三 熟。 隋 大 業 中、 虎 賁 ② 陳 稜、 一 至彭湖島、 東望大洋而返。 『宋史』云、 「彭湖以東、 有昆 ︿ 毘 ﹀ 畬 ︿ 舎 ﹀ 那国」 、 是也。明嘉靖中、 海賊林道乾占拠、 為琉球人所逐。
天啓中、 日本逐琉球人畧其地。後荷蘭献貢物求彭湖、 不允。乃啗重幣日本人、 拠是地開互市塲、 遂逐日人。我邦史伝不載此事、 恐当時所称倭寇類。明末鄭氏始畧此地。鄭氏名芝龍、 漳州人、 始附日本、 以台湾為根拠之地、 多造舟楫、 横行洋海、 勢威頗張。 後 附 清 朝、 屢 平 劇 盜。 会 閩 大 旱、 乃 発 大 舶、 徙 饑 民 数 萬、 給 人 三 金 一 牛 ③ 、 墾 闢 草 萊、 漸 成 都 邑。 及 芝 龍 去、 荷 蘭 構 城 郭、 民 戸 数萬、散居四方、各就本業。荷蘭法税市舶、不税田畝。閩人聞之移住如帰。荷蘭専与日本 ・ 呂宋 ・ 占城 ・ 暹羅諸国、往来貿易、 百 貨 輻 湊。 鴻 蒙 一 変、 風 気 大 開。 芝 龍 在 日 本 日、 娶 婦 生 一 子、 曰 成 功 字 大 木、 有 英 才。 順 治 年 間、 奉 福 王 倡 義、 百 敗 不 撓、 将 復 台 湾 為 根 拠 之 地、 以 軍 艦 数 百 隻、 往 攻。 荷 蘭 善 拒、 相 持 半 歳。 成 功 約 之 曰、 「 復 先 人 故 土、 則 足 矣。 子 女 玉 帛、 任 汝 帯 去 」。 具大舶、載帰本国、凡二千餘人。鄭氏相伝三世、三十有八年、力屈、遂降清国。是為康熙二十二年。置諸羅 ・ 台湾 ・ 鳳山三県、 後 増 彰 化・ 恒 春・ 淡 水・ 新 竹・ 宜 蘭 五 県、 設 巡 臺 御 史、 総 轄 水 陸 兵 八 千 人、 後 増 兵 額 為 一 萬 四 千。 東 北 沿 海、 生 蕃 ④ 所 巣 窟。 其 地 莽 蒼、 人 口 蕃 衍、 至 二 百 五 十 萬。 而 生 熟 蕃 種 ⑤ 、 二 十 分 居 其 一。 産 塩・ 鹿 葺・ 牛 皮・ 紅 檀・ 麝 香・ 花 布 ⑥ ・ 椰 子・ 白 糖。 開 埠 以 来、石炭及茶、大為西人所称。 【 注 】 ①「 『 申 報 』 ~ 愈 也 」」 こ れ に 該 当 す る『 申 報 』 の 記 事 は、 そ の 第 四 千 零 六 十 九 号( 西 暦 一 八 八 四 年 八 月 十 一 日 ) 一 面 の「 論 雞 籠 失 守 事 」 であると思われる。対応する箇所を引用する。 「夫中土自同治初元以来、 製鎗砲、 購輪舟、 造水雷、 開船局、 歳縻千百萬金貲、 (中略)乃 甫一交綏而聞炮驚逃、 (中略)曾不如省此萬億兆銀銭、 千百人心力、 不製 械、 不練一兵、 任欧人蹂躙我土地、 佔拠我城池、 攘奪我利源、 憑陵我赤子之為愈乎」 。「製」 と 「械」 の間は、 もともと一字分空白。読点は筆者が加えた。② 「虎賁」 官名。③ 「三金一牛」 これに関しては、 古 く 明 末 清 初 の 黄 宗 羲( 一 六 一 〇 ~ 九 五 ) の「 賜 姓 始 末 」 に、 こ の 時 の 閩 の 大 旱 魃 に 際 し、 鄭 芝 龍 が「 飢 民 数 萬 人 を 招 き、 人 ご と に 銀 三 両 を 給 し、 三 人 ご と に 牛 一 頭 を 給 し、 海 舶 を 用 い 載 せ て 臺 湾 に 至 」 っ た と 記 さ れ て い る。 そ の 後、 清 の 龔 柴 の『 臺 湾 小 紀 』 で は、 「 人 ご と に 三 金 一 牛 を 給 」 し た と い う 叙 述 に 変 化 し て い る。 ④「 生 蕃 」 臺 灣 の 高 砂 族 の う ち、 山 地 に 住 み 漢 族 に 同 化 し て い な か っ た 原 住 民 に対して用いられた呼称。⑤ 「生熟蕃種」 生蕃と熟蕃。熟蕃は臺灣の高砂族のうち、 漢族に同化していた原住民に対して用いられた呼称。
⑥「花布」模様のある木綿布。 訳 文 早 朝、 夢 薇 氏 を 訪 ね、 別 れ を 告 げ た。 び っ く り さ せ て は い け な い と 思 い、 「 上 海 か ら 知 ら せ が あ り ま し て、 あ る 高 官 が 一 緒 に 北 京 へ 行 き た い と の こ と な の で す 」 と い う 言 い 方 を し た。 夢 薇 氏 は、 「 私 は こ こ に 住 ん で い な が ら、 ま だ 地 元 の 者 と し て の 義 理 を 果 た し て お り ま せ ん。 旬 日 延 期 し て 西 湖 見 物 で も な さ い ま せ ん か 」 と 言 っ て く れ た。 私 は そ の 高 官 が 期 日 を 知 ら せ てきたので、 一日も延期するわけにはいかないと断った。氏が言うことには、 「私はお目にかかってから日は浅いというものの、 ご高著を通覧して、 つぶさに了解し、 特に敬慕の念切なるものを覚えます。どうか今後、 遠く隔たっても、 書信をやり取りし、 文字による心の交際をさせていただきたい」 。私は覚えず、天涯に知己を得た気持ちになった。 濯 は 出 発 の 準 備 を し て い る。 無 適 が『 申 報 』 の 次 の よ う な 記 事 を 見 せ て く れ た。 「 中 国 は 大 砲 を 鋳 て、 汽 船 を 購 い、 招 商・ 機 器 の 二 局 を 開 き、 何 千 何 百 萬 金 も の 金 を 費 や し た。 と こ ろ が、 鶏 籠 の 戦 い で 砲 声 ひ と た び 発 す る や、 多 く の 兵 が 胆 を つ ぶ し て 逃 げ だ し た。 何 億 兆 も の 金 銭、 何 千 何 百 人 も の 心 血 を 省 き、 一 門 の 大 砲 も 鋳 ず、 一 名 の 兵 も 訓 練 せ ず、 敵 が 我 が 土 地 を 蹂 躙 し、 我 が 領 地 を 占 拠 し、 我 が 資 源 を 奪 い 取 り、 我 が 人 民 を 虐 げ る に 任 せ た 方 が ま し で あ っ た 」 と。 こ れ ら の 言 葉 は 外 国 人 が 読 ん で も、 怒 り 悶 え て し ま う。 ま し て 何 世 代 も 前 か ら こ の 土 地 に 暮 ら し、 土 地 の 産 物 を 食 ん で い る 者 は な お さ ら で あ ろ う。 そ も そ も 英 国 人 は 弾 丸 の ご と き 小 さ な 香 港 を 略 取 し た だ け で、 東 洋 貿 易 の 莫 大 な 利 益 を 掬 い 取 る こ と が で き て い る。 台 湾 と い う 大 き な 島 が、 一 朝 フ ラ ン ス の も の と な り、 中 国・ 日 本 の 上 流 階 級 を よ り ど こ ろ に し て、 支 配 権 を 握 ら れ た ら、 東 洋 の 局 面 が 一 変 する契機となる。 昔年の臺灣の変遷につき、 私は諸書に当たり、 その沿革を書き写した。ここに登載しよう。臺湾は福州省城から五百四十里、 彭 湖 島 か ら 二 百 里、 四 面 み な 海 で あ る。 東 西 は 五 百 里 に わ た り、 南 北 は 二 千 八、 九 百 里、 山 脈 は 鶏 籠 か ら 沙 馬 碕 ま で 一 千 里 に わたる。山の東も西も、 原野が海に接し、 地味は肥沃で、 一年に三度実る。隋の大業年間、 虎賁の陳稜が一度彭湖島まで行き、
東 の 大 洋 を 眺 め て 帰 っ て き た。 『 宋 史 』 に「 彭 湖 以 東 に 毘 舎 那 国 が あ る 」 と い う の が、 そ れ で あ る。 明 の 嘉 靖 年 間、 海 賊 の 林 道 乾 が 占 拠 し た が、 琉 球 人 に 駆 逐 さ れ た。 天 啓 年 間、 日 本 が 琉 球 人 を 駆 逐 し て、 そ の 地 を 攻 略 し た。 そ の 後、 オ ラ ン ダ が 貢 ぎ 物 を 献 じ て 彭 湖 を 求 め た が、 許 さ れ な か っ た。 そ こ で、 オ ラ ン ダ は 手 厚 い 贈 り 物 で 日 本 人 を 手 な ず け、 こ の 地 に 拠 っ て 交 易 場 を 開 き、 日 本 人 を 追 い 払 っ た。 我 が 国 の 史 伝 に こ の こ と を 載 せ て い な い の は、 恐 ら く 当 時 の い わ ゆ る 倭 寇 の 類 で あ っ た か ら だ ろ う。 明 末 に な っ て、 鄭 氏 が こ の 地 を 攻 略 し た。 鄭 氏 は 芝 龍 が そ の 名 で、 漳 州 の 人、 初 め は 日 本 に 従 属 し、 台 湾 を 根 拠 地 と し て 多 く の 船 を 造 り、 海 洋 を 横 行 し て、 そ の 勢 威 は す こ ぶ る 拡 大 し た。 そ の 後、 清 朝 に 従 属 し て、 し ば し ば 大 泥 棒 を 平 ら げ た。 折しも閩が大旱魃に見舞われると、 大きな船を差し向けて、 飢えた人民数萬を移住させ、 人に三金一牛を給し、 荒野を開墾して、 し だ い に 都 を 造 り 上 げ た。 芝 龍 が 去 る と、 オ ラ ン ダ が 城 郭 を 構 え、 数 萬 の 世 帯 の 人 々 が 四 方 に 分 か れ て 住 み、 お の お の 本 業 に 就 い た。 オ ラ ン ダ の 法 で は、 貿 易 に は 課 税 さ れ た が、 田 畑 に は 課 税 さ れ な か っ た。 こ れ を 聞 い た 閩 人 は、 ま る で も と い た 場 所 に戻るかのように、喜んで移住した。オランダは専ら日本 ・ ルソン ・ チャンパ ・ シャムの諸国と往来貿易し、百貨が輻湊した。 渾沌の状態から一変し、 気風が大いに開けた。芝龍は日本にいた時、 妻をめとり、 男子が一人生まれていた。成功、 字は大木、 英 才 が あ っ た。 順 治 年 間、 福 王 を 奉 じ て 義 兵 を 起 こ し、 何 度 敗 れ て も た ゆ む こ と な く、 臺 湾 を 根 拠 地 と し て 取 り 戻 そ う と、 軍 艦 数 百 隻 を 率 い て 攻 め 寄 せ た。 オ ラ ン ダ は よ く 防 ぎ、 対 峙 す る こ と 半 年。 成 功 が 次 の よ う な 約 束 を し た。 「 先 祖 の 故 郷 を 取 り 戻せば満足だ。 子女玉帛は、 なんじらの連れ去るに任せよう」 。オランダは大きな船を用意し、 計二千餘人を本国に載せて帰った。 鄭氏は三世続き、三十八年にして力尽き、清国に降った。康熙二十二年のことである。清国は諸羅 ・ 臺湾 ・ 鳳山の三県を置き、 そ の 後、 彰 化・ 恒 春・ 淡 水・ 新 竹・ 宜 蘭 の 五 県 を 増 し、 巡 臺 御 史 を 設 け て 水 陸 の 兵 八 千 人 を 統 轄 さ せ、 後 に 兵 員 を 一 萬 四 千 に 増 や し た。 東 北 沿 海 は、 生 蕃 の 巣 窟 で あ る。 そ の 地 は 原 野 で、 人 口 が 増 殖 し、 二 百 五 十 萬 に 達 し て お り、 生 熟 蕃 種 が 二 十 分 の 一 を 占 め る。 塩・ 鹿 葺・ 牛 皮・ 紅 檀・ 麝 香・ 花 布・ 椰 子・ 白 糖 を 産 す る。 開 港 以 来、 石 炭 及 び 茶 は、 大 い に 西 洋 人 に 称 賛 さ れ ている。
原 文 十 五 日〔 廿 五 日 〕 晨 訪 笠 菴、 仁 敬 斎 在。 要 二 人 探 天 竺・ 飛 来・ 霊 隠 三 勝、 二 人 以 雨 後 泥 淖 辞。 余 曰、 「 盍 雇 轎 」。 轎 夫 要 価 無 厭、 乃 与 二 人 出 湧 金 門。 至 三 雅 亭、 天 陰、 湖 色 黯 淡。 飛 来 峯、 岩 洞 玲 瓏、 峰 巒 蒼 潤。 天 竺・ 霊 隠 二 巨 刹、 占 山 腹 勝 地、 宛 然仙山楼閣。前游湖心反棹、不及往探、竟為百年憾事。亭上呼酒。此遊不可再、為倒騎下廬山之 念 ① 。 更 過 敬 斎。 敬 斎 満 人、 隸 八 旗。 聞 粤 匪 仇 視 満 人、 満 種 無 男 女、 屠 殺 無 遺。 杭 陥 日、 八 旗 三 千 人、 放 火 焚 死、 惨 亦 甚 矣。 相 携 観府学。重門三層、乱後蕩然、纔遺文昌閣・高官祠而巳 ︿ 已 ﹀。入学舎、見 沉 嘯雲②、 煑 茶供点心。過顧雲臺告別。 【注】①「倒騎下廬山之念」意味不明。②「 沉 嘯雲」七月十一日本文の「陳嘯雲」か。 訳 文 早 朝、 笠 菴 氏 を 訪 ね る と、 そ こ に 仁 敬 斎 氏 も い た。 二 人 に 天 竺・ 飛 来・ 霊 隠 の 三 勝 へ の 相 伴 を 頼 ん だ が、 雨 後、 道 が ぬ か る み 滑 り や す い と 言 っ て 断 ら れ た。 私 は、 「 轎 を 雇 っ て は ど う で す か 」 と 提 案 し た。 し か し、 轎 かごかき 夫 は 途 方 も な い 値 を 吹 っ か けてきた。二人と湧金門を出た。三雅亭まで行ったが、 空が曇り、 湖の眺めは暗澹としていた。飛来峯は、 岩窟が玲瓏で、 峰々 に は 緑 の 光 沢 が あ っ た。 天 竺・ 霊 隠 の 二 巨 刹 が 山 腹 の 景 色 の す ぐ れ た 所 を 占 め、 あ た か も 仙 人 の 住 む 山 の 楼 閣 の よ う だ っ た。 前 に 来 た と き 湖 心 で 棹 を 反 し、 見 て 回 る に 及 ば な か っ た の が、 案 外、 遺 憾 な こ と と し て 今 も 残 っ て い た。 亭 あずまや で 酒 を 注 文 し た。 この旅は今回きりであるから、馬の向きを変え廬山を下っていくような思いであった。 あ ら た め て 敬 斎 氏 を 訪 ね た。 敬 斎 氏 は 満 州 族 の 人 で、 八 旗 に 属 す る。 粤 匪 は 満 州 族 の 人 を 敵 視 し、 満 州 族 は 男 女 の 別 な く、 一人残らず虐殺し、 杭州が陥落した日、 八旗三千人が放火して自ら焼け死んだという話を聞いた。悲惨なることはなはだしい。 連 れ 立 っ て 府 学 を 見 に 行 っ た。 重 門 三 層 は 乱 後、 跡 形 も な く な っ て い て、 わ ず か に 文 昌 閣・ 高 官 祠 だ け が 残 っ て い た。 学 舎 に 入ると、 沉 嘯雲氏がいた。茶を沸かし点心を振る舞ってくれた。顧雲臺氏を訪ね、別れの挨拶をした。
原文 十六日 〔廿六日〕 丁松生 〔立 誠 ① 〕来訪。夢薇故人。談及法事、 言頗危激。曰 「東南釐 金 ② 、僅給防海、 民税僅給国用。財政不立、 何以処大変」 。中土人構虚文好大言、 無一堅忍人。余曩在滬、 聞一洋人言、 曰「中土自今大平三十年、 天下大乱、 較西晉末世更甚、 至 六 十 年 始 息。 台 湾 帰 日 東、 朝 鮮 帰 俄 国、 新 疆 四 分 五 裂、 為 有 力 者 所 幷 」。 又 曰、 「 中 国 始 冊 劉 永 福 ③ 、 為 安 南 国 王、 必 無 今 日 之 事」 。此言特為聵聵。中人病在不得外情。 申 牌 辞 仙 林 寺、 過 弥 勒 寺、 促 無 適 同 発。 行 原 野 中 四 五 里、 密 石 平 塡。 粤 匪 乱 前、 此 間 皆 為 四 達 通 区。 遙 見 突 兀 広 厦、 為 貢 院 ④ 。 垣 壁 高 聳、 為 兵 営。 営 卒 在 門 外、 操 土 工、 観 余 異 妝、 争 相 笑 罵、 其 無 規 律、 可 知。 度 一 水、 出 大 東 門。 一 江 遶 郭 為 内 河。 度 橋 左 折、 有 抽 釐 署、 撿 商 船、 徴 税。 松 生 所 謂「 東 南 釐 金、 僅 給 防 海 」 者。 其 法 豪 富 人、 歳 納 金 額 設 此 局、 撿 商 船 貨 物、 税 百 分一。粤匪之乱、 軍需無所仰、 故権設此法、 以済一時。官知其困公私、 而財計不足、 因循至今日。江程所在設立、 俗呼為卡局。 酉牌登舟。舟小、傴僂出入、極為局束。夜泊半山。 【注】 ① 「丁松生 〔立誠〕 」 丁丙 (一八三二又は三三~一八九九) のこと。松生はその字。兄の丁申とともに、 近代の蔵書家として著名。② 「釐 金 」 商 品 通 過 税。 店 舗 を 構 え た 商 人 に は 商 品 交 易 税、 行 商 人 に は 商 品 通 過 税 を 課 し た り、 国 内 の 通 行 貨 物 に 対 し、 各 省 の 交 通 要 所 で 特 別 に か け た 税 金。 ③「 劉 永 福 」 一 八 三 七 ~ 一 九 一 七 年。 清 朝 末 期 の 軍 人 で、 黒 旗 軍 を 組 織 し、 イ ン ド シ ナ に 出 兵 し た フ ラ ン ス と の 戦 い で功績を挙げた。④「貢院」科挙の試験所。郷試、会試が行われる場所。 訳文 丁松生 〔立誠〕 氏が来訪した。夢薇氏の旧友である。話がフランスとの問題に及ぶと、 すこぶる激烈な言い方をした。 「東 南 の 釐 金 は わ ず か に 海 防 に 使 わ れ て い る だ け、 民 が 納 め た 税 は わ ず か に 国 の 歳 出 に 使 わ れ て い る だ け で す。 財 政 が 確 立 し な け れば、 何によって大変に処するのでしょうか」 。中国の人は形式だけの文章を書き、 大言を好み、 堅忍する人など一人もいない。 私 は 上 海 に い た と き、 あ る 西 洋 人 が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た こ と が あ る。 「 中 国 は 今 か ら 太 平 な る こ と 三 十 年 の 後、 天 下 が
大 い に 乱 れ、 西 晋 の 末 期 よ り も も っ と ひ ど い 状 態 に な り、 六 十 年 た っ て 始 め て 治 ま る で し ょ う。 臺 湾 は 日 本 に 帰 し、 朝 鮮 は ロ シ ア に 帰 し、 新 疆 は 四 分 五 裂 し て、 有 力 な 国 に 併 合 さ れ る で し ょ う 」。 丁 松 生 氏 は ま た、 こ う も 言 っ た。 「 中 国 が 初 め か ら 劉 永 福 氏 を 安 南 国 王 に 立 て て い た な ら ば、 き っ と 今 日 の 問 題 は 起 こ っ て い な か っ た で し ょ う 」。 こ の 発 言 は 特 に 愚 か で あ る。 中 国 人のよくない点は、国外の情勢を把握していない点にある。 午 後 四 時 ご ろ、 仙 林 寺 を 辞 し て、 弥 勒 寺 に 立 ち 寄 り、 無 適 氏 を 促 し て 一 緒 に 出 発 し た。 原 野 の 中 を 行 く こ と 四、 五 里 の 間、 石 が び っ し り と 平 ら に 埋 め ら れ て い た。 粤 匪 の 乱 の 前 は、 こ の 一 帯 は ど こ も、 四 方 に 通 じ る 地 域 だ っ た。 遠 く に 高 く そ び え る 大 き な 建 物 が 見 え た。 貢 院 で あ る。 高 い 壁 が 聳 え、 兵 営 と な っ て い る。 兵 卒 が 門 外 で 土 木 作 業 を し て い た が、 私 の 変 わ っ た 服 装 を 見 て、 我 先 に 笑 っ た り 罵 っ た り し た。 そ の 規 律 の な さ が 知 ら れ よ う。 一 筋 の 水 路 を 渡 り、 大 東 門 を 出 た。 一 筋 の 川 が 郭 を 巡 っ て お り、 そ の 内 側 を 内 河 と い う。 橋 を 渡 っ て 左 折 す る と、 抽 釐 署 が あ っ た。 商 船 を 検 査 し、 課 税 す る 所 だ。 松 生 氏 が「 東 南 の 釐 金 は わ ず か に 海 防 に 使 わ れ て い る だ け 」 と 言 っ た、 あ の 釐 金 を 課 す 所 で あ る。 豪 富 の 人 が 毎 年、 金 を 納 め て、 こ の 役 所 を 設 け た も の で、 商 船 の 貨 物 を 検 査 し、 百 分 の 一 の 税 を 徴 収 す る。 粤 匪 の 乱 の と き、 軍 需 を 仰 ぐ 先 が な か っ た た め、 さ し あ た り こ の 法 を 作 り、 一 時 し の ぎ を し た。 お 上 は、 こ の や り 方 が 公 を も 私 を も 苦 し め る こ と に な る と 分 か っ て は い る も の の、 財 政 不足のため、今日まで踏襲している。川の航程のあちこちに設立し、俗に卡局と呼ばれている。 午後六時ごろ、 舟に乗った。舟は小さく、 腰を曲げて出入りするようになっており、 ひどく狭苦しい。夜、 半山に舟を泊めた。 原 文 十 七 日〔 廿 七 日 〕 雨 時 至。 両 岸 皆 桑 田、 樹 長 六 七 尺、 至 採 葉 時、 併 条 伐 去、 称 曰 拳 桑。 支 条 叢 生、 類 拳 有 指 也。 我 邦 自 根伐去、 此間自幹伐去、 此為異耳。中土貿易絲茶為第一。観洋人貿易表、 上海輸絲、 四倍我横濱、 其盛可知、 唯繰絲不用器械、 欧米織匠、 擯斥不買、 価位頓折、 中商坐是失産。杭胡雪巌為三豪商一、 以是破産、 大官無不受累。中人不取機器、 其弊一至此。
至 塘 西 踰 一 、 与 外 河 合。 遙 望 臨 平 諸 山、 出 没 雲 烟 之 中。 暮 抵 石 門 県、 泊 舟 西 門 下。 粤 匪 之 乱、 両 淅 ︿ 浙 ﹀ 被 禍 尤 甚。 石 門 本為大県、而居民四散、唯見七層塔巍立於荊棘之中爾。 訳 文 雨 に な っ た。 両 岸 は い ず れ も 桑 畑 で、 木 の 長 さ は 六、 七 尺、 葉 を 摘 む 時 に は、 枝 ご と 切 り 取 る。 こ れ を 拳 桑 と 称 す る。 枝 が 叢 生 し て い る の は、 拳 に 指 が あ る の に 似 て い る。 我 が 国 は 根 か ら 切 り 取 り、 こ ち ら は 幹 か ら 切 り 取 る、 そ の 点 が 異 な る だ け で あ る。 中 国 の 貿 易 は 生 糸 と 茶 を 第 一 と す る。 西 洋 人 の 貿 易 表 を 見 て み る と、 上 海 の 生 糸 輸 出 は、 我 が 横 濱 の 四 倍 で あ る。 そ の 盛 ん な こ と が 知 ら れ よ う。 た だ、 繭 か ら 糸 を 繰 る の に 機 械 を 使 わ な い の で、 欧 米 の 織 物 師 が 擯 斥 し て 買 わ ず、 急 に 値 崩 れ が 起 こ り、 中 国 の 商 人 は そ の た め 資 産 を 失 っ た。 杭 州 の 胡 雪 巌 は 三 豪 商 の 一 人 で あ っ た が、 そ の せ い で 破 産 し、 高 官 も 巻 き 添 えを食わない者はなかった。中国人が機械に目を向けない、その弊害がそのような事態を招いたのである。 塘 西 に 至 っ て 一 つ の を 越 え、 外 河 と 合 し た。 遠 く に 臨 平 の 山 々 が 雲 煙 の 中 に 出 没 す る の が 眺 め ら れ た。 暮 れ に 石 門 県 に 至 り、 舟 を 西 門 の 下 に 泊 め た。 粤 匪 の 乱 の と き、 両 浙 は ひ ど い 禍 に 遭 っ た と い う。 石 門 は も と 大 き な 県 で あ っ た が、 住 民 が 四 散 し、ただ七層の塔が荊棘の中に高くそびえているのが見えるだけだった。 原 文 十 八 日〔 廿 八 日 〕 此 間 江 程、 皆 来 時 所 紀。 正 午 至 嘉 興 府、 江 流 岐 為 二 派、 右 派 経 松 江 府 注 上 海、 左 派 達 蘇 州。 右 折 過 太 平橋、 束蘆葦分画水面如田陌。問之、 曰菱田。船窓観夢薇所餞『 窳子』 。安徽人江順 詒 ① 所著、 曲陳時病、 讜言正議、 不少忌諱、 中土固不乏憂世之士也、 唯曰「阿片己 ︿ 已 ﹀ 不可禁、 不若許民種罌粟、 以防外至」 、 此殆月攘一 雞 ② 者。後聞之、 山西 ・ 四川諸省、 盛種罌粟、年増一年、噫。雷雨時至、凉気颯然。暮泊陽廟。