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教育実習事後レポートから「文学」としての古文を教授する

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Academic year: 2021

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≪教育実習の記録≫

 2015 年度は、267 名の学生が中学生、高等学校、中等教育学校で教育実習をおこないました。教 職課程での教育実習の記録は「教育実習日誌」と「教育実習事後レポート」のふたつから構成され ています。「教育実習事後レポート」は、学生が 2 週間ないし 3 週間の教育実習を振り返り、教育 実習を相対化する営みを通して、自分自身に改めて向き合い、学校教育の課題を再認識する契機と することをねらいとしています。

 以下に掲載する「教育実習事後レポート」をとおして、学生それぞれがどのような教育実習を体 験し、深化させていったのかを共有する機会としたいと思います。なお、編集上、編集担当の責に より、文意を損なわない範囲で一部を省略、もしくは手を加えてあります。

<教育実習の記録>

教育実習事後レポートから

「文学」としての古文を教授する

 文学部文学科日本文学専修 12AT121D 塩田 将平

1、はじめに

 「高校時代の古文の授業でどのようなことを 学んだか」という質問をされたときに、おそら く「文法事項」を第一に挙げる人が多くいるだ ろう。実際に自分もその内の一人である。助動 詞の種類や意味、活用形を徹底して叩き込まれ たり、品詞分解を繰り返しさせられたりするの は、誰しもが経験したことだろう。そのおかげ で、大人になっても動詞の活用を暗唱できたり、

助動詞の意味を覚えていたりする人が多く存在 してはいるが、対して、授業でどのような内容 の作品を読んだのかを覚えている人はそう多く はいないと思われる。果たして、古文を学ぶと いうことは「文法」を覚えるといったもので良 いだろうか。古文を、現代文と同じように純粋

な読み物として学んでいく姿勢を持つような授 業が行えないのだろうか。

 今回、古文の読解を中心にした学習指導がで きないかという思いの下、教育実習で行った指 導方法をこのレポートで記していく。そして、

古文を教材として授業を行うにあたっての自分 なりの考えを提示したい。

2、読みを深める役割としての「文法」

 古文を学ぶ上で、文法というのは大事な要素 であるといえる。実際に、授業見学をした中で、

時間のほとんどを品詞分解や助詞・助動詞の説 明に費やす授業を行う教師も見られた。確かに、

文法をもとに単語や品詞一つ一つの意味・役割 を把握する作業を繰り返し行い、その結果とし

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− 142 − 教職研究 第 28 号(2016)

て最終的に文章全体の訳が完成する、という指 導方法もあるかもしれない。しかし、こういっ た学習は、辞書や参考書を頼りにすれば、教師 が教えなくても生徒自身の力で行えてしまうも のである。わざわざ授業を行うことの意味がな いように思えてしまう。

このような指導方法は、「文法」の蓄積によっ て「文章」が出来上がっている、つまり、「文 法」から「文章」が作られているという考えに よって成り立っている。いうなれば、「英語文 法」を学ぶときの考え方に似ているのだ。しか し、果たして、「古文」の学び方を「英語文法」

のそれと同一視していいのだろうか。「英語文 法」で読まれる文章は、文法を学ぶことを目的 として作られたものであるが、「古文」で読ま れる文章はそうではない。書き手の意図や思想 を含んだ「文学作品」であって、読む者に対し 何かを伝えるために作られたものである。

 古文を学ぶ上で大事なのは、文章が伝えたい ものを理解することであり、それらを達成する ための一つの手段として文法理解が存在してい ると考えるべきなのである。書き手にとっては、

自身の考えや物語の描写をより正確に表現する ために、読み手にとっては、それらをより正確 に理解するために文法という機能が存在してい るのである。そう考えるのならば、古典文法の 教え方を教師は考え直す必要があるだろう。

 それでは、どのようにして古典文法を教えれ ばいいのだろう。思うに、文法事項を理解する ことが文章の読みを深めることにつながるよう な指導をしていけばいいのではないか。実習中 に行った『伊勢物語』第一段「初冠」の指導を 例に挙げて説明していこう。

「初冠」の文中には「つ」と「ぬ」の助動詞が 使われている。一つは、春日の里に住んでいた 女姉妹を男が垣間見る描写である「この男かい まみてけり」の部分で用いられている。もう一 つは、男が女姉妹を見た後の心情を描写した「心 地まどひにけり」の部分である。この二つの文 を訳すにあたって、「つ」と「ぬ」はどちらも 完了の意味を持つので、本来の指導方法であれ ば前者は「この男は垣間見てしまった」、後者 は「(男の)気持ちが乱れてしまった」と訳し て終わりだろう。確かに、訳すことはできてい るが、これだけでは文法の理解だけで終わって しまう。文章の読みを深めるための、指導をす るには、あえて意味の同じ助動詞を作者が使い 分けた意図を読み解くところまで考える必要が あるのだ。

 「つ」と「ぬ」の完了には、意識しているか、

していないかの違いがある。「つ」は「(意識して)

~た」で、「ぬ」は「(意識せず)~た」という 意味の違いが生じている。そのことを念頭に入 れてこの二つの描写を考えていくと、男が女姉 妹を垣間見る行為は、男が主体的に行ったこと であると読み解ける。一方で、男の心地が乱れ る行為は、女姉妹の美しさによって無意識的に 生み出されたものであると理解することができ るだろう。「つ」と「ぬ」を使い分けることによっ て、男がそれぞれの行為に至るまでの心情の違 いを筆者は表現しようとしていたのである。こ の表現の違いを教師が指摘することで、文法理 解と文章理解の両方を深めることができるので ある。

 このような文法の理解によって文章の読みが 深まるような経験を教師がもっと生徒たちに与

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≪教育実習の記録≫

える必要があるのではないだろうか。文法を覚 えて終わりにするのではなく、それらの知識が 文章を深く読み込むことにつながるという学び を通じて、文法を学習する本当の意味というも のが生徒の中で深まることになると考える。

3、古文における「正解到達主義」

 読解を中心とした古文の授業を行うにあた り、「現代語訳」を行う必要がある。文法事項 や単語の知識を身に着けるのは、言ってしまう と結局は訳を完成させるために行うことであ り、訳を完成するというのは授業の一つの終着 点ともいえるだろう。そして、その現代語訳を どのような方法で生徒にやらせるかで、読みが 深まるかどうかが決まると考えられる。

 国語の授業には、必ずといっていいほど「正 解到達主義」という問題がついてまわる。正解 到達主義がどういうものかを簡単に説明すれ ば、教材の読み方には「絶対的な答え」がある ものとして、生徒たちを定められた「絶対的な 答え」に導くように授業を行うことである。し かしながら、本来、国語科が教材として扱う文 学作品というは多義的な読みができるものであ る。そのために、正解到達主義的な授業展開を する場合、生徒の読み方と「絶対的な答え」の 読み方の折り合いをどのようにつけるかが問題 になるのである。この問題を取り上げるときに は、多くの場合現代文、特に「小説」の授業が 槍玉に挙げられている。しかし、「古文」の授 業においても、この「正解到達主義」に関わる 問題が現代語訳のやり方よって引き起こされる のではないか。

 『伊勢物語』第一段「初冠」に「昔人は、か

くいちはやきみやびをなむしける」という一文 がある。教育実習中に用いた教科書には、「い ちはやき」の部分に「激しい。情熱的な」といっ た注釈がなされていた。この注釈に倣った場合、

「昔の人は、こういった激しい優雅な振る舞い をしていたそうだ」と現代語訳ができるだろう。

しかしながら、よく考えてみると、どうして「い ちはやき」を「激しい。情熱的な」という意味 と断言できるのだろうか。「いちはやき」を、「い ち早き」と捉え「とても若く」と訳せられるの ではないだろうか。一見すると、読解の補助に なっているものが、かえって様々な読みの可能 性を狭めているのである。

 教師は容易に教科書や教師用指導書に書かれ ている現代語訳を鵜呑みにすると、古文を読み 解く上で障害になりかねない。そのためにも、

教師は既成の現代語訳を批判する視線を持つ必 要があるだろう。

4、まとめ

 古文を学ぶというのは、我々の先祖が持ち合 わせていた心情や考えを知ることで、自身の生 き方や考え方を広げていく作業である。そして、

その学びのためには、作品を深く読み込むこと が必要不可欠になるだろう。それならば、古文 を授業で取り扱う場合にも小説の授業のよう に、もっと読解を中心に指導を行ってもいいの ではないか。古文も、小説と同じく「文学作品」

の一つであり、様々な読みの可能性を孕んでい るものだから。

参照

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