周知のように歌舞伎の発祥は京都にその地を求めることができる︒中世以来︑京都の河原筋や境内では勧進能をはじめ
として︑さまざまな雑芸が繰り広げられていた︒そして四條河原の地で﹁元和年中︑時の御奉行七ヶの矢倉を赦し給ふ﹂
︵﹃歌舞妓事始﹂︶ことがあって︑芝居興行は公的な保護を受けることになる︒これを契機として他の諸々の芸能もこの地に
集まりはじめ︑四條河原は股賑をきわめることになる︒しかし保護なるものは監視と表裏一体のものであり︑事実︑その
後遊女歌舞伎の禁止︵寛永六年︶︑若衆歌舞伎の禁止︵承応元年︶等︑興行への干渉は続いた︒若衆歌舞伎禁令の翌年︑
﹁承応二巳年にいたり︑そのときの御奉行︑祇園御参詣の節︑村山又兵衛︑御駕訴訟に付︑芝居御赦免の御願ひ申上︑御
役所まで付したひ︑御歎き申上けれど︑御免なかりし故︑御役所の軒の下にをきふし︑雨露にうたれ︑着類はかまも破れ
損じ︑痩おとろへて︑人のかたちもなかりける︒弟子の子供役者︑食物をはこびて又兵衛をはごくみしが時ありて同年三
調査報告九四
芝居番附七種
付︑松屋来ルのこと
柏
崎 順 子
1 −
明和五年二月十六日から京都四條通南側芝居市山助五郎座では︑二の替り狂言として﹁けいせい桃山錦﹂が出た︒﹃並
木正三一代噺﹄には﹁明和五年子年春は京都中山文七より頼まれスヶに登り︑二のかはりけいせい桃山錦を出し﹂とある
ことから並木正三がこの狂言に携わったことがうかがわれるが︑番附の作者連名には表れない︿参考7﹀︒ 月に物まね狂言づくしと名目あらたまり︑御赦免ありしより︑今に相続す﹂︵﹃歌舞妓事始﹄︶といった事情も伝えられ︑芝居関係者の動揺と懇願があって興行再開の運びとなる︒その後寛文年間には一時興行の記録が姿を消すが︑同八年頃には演劇としての要素を備えた傾城買いの狂言が行なわれている︵﹃芸かがみ﹄︶︒この歩象はやがて坂田藤十郎や芳沢あやめといった優れた役者を擁した元禄歌舞伎という頂点に達し︑和事や女方の芸が生れ︑高度な演技術を展開することになる︒正徳三年︵一七一四︶の﹃四条河原諸名代改帳﹄によれば︑その頃名代を有していた芸能は歌舞妓︑物真似︑舞︑からくり︑浄瑠璃︑説経に及んでおり︑興行がかなり体制下で行なわれるようになっていることがうかがわれる︒
一方︑操り浄瑠璃では宇治加賀禄と竹本義太夫が出て︑古浄瑠璃とは一線を画する作品のもとに新たな展開を象せる︒
かさねて義太夫と近松の提携も成り︑こちらからも活況を呈してくるのである︒こうした動静の中︑歌舞伎と浄瑠璃は相
互交渉の著しい時期を経て︑やがて﹁かぶきはしたれどもなきが如し﹂︵﹃浄瑠璃譜﹄︶とうたわれた状態に淘汰されていく︒
このような期に際し歌舞伎が再生の道を探して試行錯誤をくり返している様子が当時の記録に散見している︒諏訪春雄
︵1︶氏がとりあげられた﹁寛保鶴井京七座事件﹂等もその一端であろう︒これは歌舞伎界の低迷の様が興行上の問題となって
顕れた事件であるが︑ここではある年の京劇壇の役者や作者の動静に焦点をあてて︑その試行のひとつを紹介することに
する︒
一一
九 一 四 芝 居 番 付 七 種
かわりに作者連名に﹁松屋来ル﹂という作者がみられる︒これは作者の名を記述した固有名詞ともとれるし︑松屋某と
いう作者がこの年山下市山座へ出勤していることを強調した記述と考えることもできる︒しかし後者に関しては︑延享︑
享保︑元文頃の極番附には京都以外からの出勤者に関して﹁江戸敵役﹂﹁大坂太夫﹂︑﹁大坂狂言作者﹂などという記述方
法はなされているが︑﹁松屋来ル﹂のように表現された例は見あたらない︒
︵2︶この作者は明和四年の顔見せ﹁神勅壽鐵砧﹄から番附に名を連ね︑明和五年秋までの一年間のみ名目をあらわしてい
︵3︶る︒その前後には大坂にもあらわれず︑もちろん江戸にも見あたらない︒しかし番附の記載は他の作者より大きく太くあ
らわれているので︑この年の山下市山座の作者の中で強調されている作者とみてとれる︒この人物について考察して糸る
この頃の上方歌舞伎界において﹁松屋来ル﹂と名乗る作者を見出すことはできない︒寛延三年︵一七五○︶刊の﹃新撰
おほいゑな古今役者大全﹂の﹁狂言作者の事﹂に﹁上がたの作者︑並木︑松屋を名乗るもの多し・松屋は惣助家名のよし也﹂とある
が︑実際寛延前後の番附の作者連名で確認できるのは管見では松屋来助︵久右衛門︶︑松屋幸助︑松屋勇助︑松屋利助の
︵4︶四名である︒松屋来助については杉下多美氏が詳察しておられ︑それによって元文から寛延にかけて大坂で活躍した作者
であることが明らかとなっている︒松屋勇助︑幸助︑利助に関しては来助と共に名をあらわす例が多いこと︑またその配
置等から推して来助の門弟格ではないかと思われる︒しかしこの三人に関しては他に資料を見出すことができなかったの
で︑とりあえず松屋来助の周辺を検討して象る︒
松屋来助は番附には享保十七年閏五月十七日大坂中の芝居﹁河州内助淵﹂に津打来助として登場し︑以後寛延元年まで ことにする︒
一一
一 q − J
は大坂歌舞伎界で揺るぎない地位を保っている︒寛延二︑三年は所在が不明となるが︑宝暦元年再び京都︑都半太夫座に
あらわれ︑その後の消息を絶つのである︵杉下氏前掲論文︶︒
この来助には三人の子どもがおり︑これが歌舞伎役者︑松屋門十郎︑中山文七︑中山来助である︒三人共に立役中山新
︵5︶九郎の養子となり︑同じく立役としてそれぞれ舞台で名を馳せている︒なかでも中山文七は座本もよく勤め︑一時期前の
浄瑠璃全盛時代を経てようやく歌舞伎が再び活性化し始めた頃の芝居界を支え得た大立者の一人である︒
この文七が大坂角の芝居で座本となり﹁恋女房染分手綱﹂を上演中︑一騒動が持ちあがり︑文七は〃お預け″になると
いう事件があった︒この事件に関しては﹃明和雑記﹄に詳しい︒
角の芝居騒動落着芝居がLりの事
去酉年道頓堀角の芝居座元中山文七相つとめ諸人の気請能殊の外繁昌にして毎日見物大入なり時に御城内中間五六人
見物に来り場所の事につきていひあひあがり口論なりしが外よりもあいさつにて事濟皆々帰りけるに壹試町も過つる
頃御役人中芝居御出あれば木戸の者此よしを咄しける早速追付て捕へられける1以下省略I︵﹃明和雑記﹄巻三︶
と些細なことから端を発して御番頭の怒りをかうことになり︑とうとう奉行所まで乗り出す騒ぎとなり︑﹁右一件糺しあ
りて四月六日いづれも召出され座元文七は名代召上られ過料仰付られ木戸は町佛ひ大手連中は別條なく御免廿試人の中間
は追放仰付らる壹ヶ年餘におよびて落着せしなり﹂ということになる︒この間︑角の芝居へ出勤していた役者たちは急場
の策として中座へ赴き二軒分の役者をひとつにして顔見せが行なわれた︒しかし各座にはそれぞれ立者がいるため︑角座
の幹部役者は所を得ず︑不入であったあやつり芝居若太夫座で文七の子息︑姉川菊八を座本として顔見せが行なわれてい
る︒十一月十一日より﹃花櫓聞吾太平記﹄が興行され︑二の替り﹃大和國井出下紐﹄と共に﹁殊の外繁昌﹂︵﹃明和雑記﹄︶
という成果をあげた︒文七は四月十五日より姉川座ではじまった﹃夏祭浪花鑑﹂から復帰することになり︑続いての八月
九 一 四 芝 居 番 付 七 種
文七は前年の騒動後の復帰という話題の人であり前評判が高かったのに対し菊五郎はそれ程でもなかったのが︑実際上
波後の芸評には逆効果となって現われたわけである︒ なのである○ 廿八日からの﹃仮名手本忠臣蔵﹄で初めて由良之助役を演じている︿参考1﹀︒﹃中山文七一代狂言記﹄でこの時の由良之介を︑﹁城わたしのまく切より︑一力の塲場の鍔音文の見やうなど都てゆらの助にこまかい仕内の初りしは︑凡そこの人
由良之介といえばその年︑初世尾上菊五郎が廿五年ぶりに上京し︑上方芝居界を賑わしているが︑これも江戸暇乞に市
村座で初めて由良之助を演じている︒軌を一にして東西の大立物が由良之介役をつとめており︑しかも両者は明和三年︑
山下市山座の顔見せで同座する運びとなる︒十一月二日から幕が開いた・狂言は上中下で構成され︑文七は中の﹁月夕金
玉浪花壽﹂で新兵衛役となり︑菊五郎は下の﹁花曙入船吾妻海﹂で片桐武者之助となった︒この時の両者に対する評は
﹁中山文七一代狂言記﹂に周囲の状況も読み込んだかたちでうまく言い尽くされている︒
明和五年いのとしは︑京都山下座へ菊五郎と同座のつとめ︑扇の紋のほうかぶり出ておとはやの先生が登られたで︑さし
もの宇治屋もうぢノ︑で有た︑スキいやかほみせの櫻井新兵衛︑仕内は随分よけれども︑何が此六七年︑大坂にてあ
たりっ■けの此人︑どのやうなもの早う見たひノーとまちかねて︑評判過たのと︑菊五郎は前の噂︑夫ほどになうて
見た所花やかに︑所の気に叶ひたるに︑内のり外のりの違ひが御ざるで︑スィヵクそりや大佛は︑大い物とおぼへて︑
初めて見たときにおもふたほどにないと同じ事さ︑大ぜいきっとノー︑扇組何でもきく五郎におされ︑よしもあしをで がはじめかと存る﹂と伝えている︒
要は蓋を開けてみると菊五郎の方が評判が良く︑人々は﹁当顔見世の大入は此人をめざし﹂︵﹃役者巡炭﹄︶たということ ↑伺った○
− 5 −
世評は右のようなかたちに落ちついているが興行側での両者の位置付けはどのようになされていたのだろうか︒
上方の芝居界は興行機構に特徴があり江戸のように座元に権勢が集中していたのとは事情が異なる︒即ち興行権の所有
者である名代と興行師的性格を持つ座本︑劇場の所有者である芝居主の三者によって興行が支えられていた︒これらはそ
れぞれ番附に記載される位置が定まっている︒芝居主は番附にあらわれないが︑名代と座本は京都の番附の場合︑最初の
部分に定紋を頭にいただき名代と座本が並び︑名代や座本が複数の場合は上下に二分してそれぞれに分けて記載されてい
る︒座本は役人替名の次第の最後に位置し︑替名と役者名の間に小さく﹁座本﹂と記述してある︒その座本の右隣りが座
頭の位置である︒役人替名が上下二段に渡っている番附では上段の座本の右隣りが座頭脇︑下段の座本の右隣りが座頭の
この法則で明和四年一年間の山下市山座の番附をみると︑まず顔見せであるが︑これは所在不明で確認できない︒二の
︵7︶替りは正月十六日から﹁けいせい大内櫻﹂が上演されるがこの番附では文七は上段の座本の右隣り︑即ち座頭脇であり下
段の座頭には菊五郎が座っている︒続いて三の替り三月十五日よりの﹁物ぐさ太郎﹂︿参考2﹀では文七が座頭︑菊五郎
が座頭脇へと立場が逆転する︒以下五月十八日からの.谷轍軍記﹂︿参考3﹀は菊五郎が座頭︑﹃歌舞伎年表﹄には欠落
しているが七月十五日からは﹁諺倍福茶釜由来﹂︿参考4﹀の番附が残っており︑その時は文七が座頭︑九月九日からの
﹁楠木正行軍略之巻﹂︿参考5﹀は同じく文七が座頭となっている︒一年間で座頭役を両者がほぼ二分して勤めたかたち
となっている︒東西の大立者の同座ということへの配慮であろう︒興行側としては二人を同格に扱っている︒
こうして一年間の同座の後︑文七は山下市山座へ居なりとなり︑菊五郎は北側芝居の尾上座に出勤となる︒菊五郎が抜
けた山下市山座では大坂から文七の父中山新九郎を呼んで顔見せに臨んでいる︒
この頃は宝暦期に大和大路の芝居小屋がなくなってから元禄期に七軒あった芝居小屋はわずか三軒を残すの桑となって ︵Ru︶位置である︒
九 一 四 芝居番付七種
終ったのである︒ 因みに明和五年に蕪村が﹁顔見せ﹄という俳文で菊五郎について触れている︒
梅幸は優伎の英雄なり︒そもj︑大石が精忠︑日本が節義︑能︑二士が肝腸を探りて其志気にせまる︒見るもの左に
担ぎ毛髪を空にす︒衲子︑薪水再生すとも三舎を避くし︒1以下省略I︵﹃俳文学大系﹄による︶
十一月四日︑田福亭における句筵の詞言であり︑この日から南側芝居中村座では﹃亜花操太平記﹄が大坂から富十郎も
迎えて幕を開けている︒この顔見せを観た後の一文であり︑蕪村が菊五郎の芸の冴えに感嘆している様子をうかがうこと
ができる︒蕪村は安永八年一月二十五日付の几菫宛と推定される書簡の中では﹁先シよし男一人外に見ルもの︿無之候﹂
と由男︑つまり文七を評しており︑明和五年の菊五郎の賞讃は個人的鹸眞によるものではないといえよう︒こうした菊五
郎の好評に対し︑文七は同年十月九日から蝦乞狂言を勤め︑父新九郎と共に大坂へ戻っている︒この時の上京は不成功に 名を削ったのかもしれない︒ おり︑しかも北側芝居のひとつは実際は人形浄瑠璃の芝居がかかっていた︒つまり京都における歌舞伎大芝居は二軒が競立していた状態であり︑それらの小屋は目と鼻の先に位置しているため両座の︑ひいては役者の人気の具合は一目瞭然であったろう︒文七としてはここで山下市山座が劣勢となれば前年にひき続いて面目をつぶすことになる︒実際顔見せの段階では北側に押されぎ承だったのではないだろうか︒明和五年の評判記﹃役者當紫選﹄では中山文七評で﹁此度はさしてお役もなければ春はしつばりとした仕内をまちますj︑﹂と頭取に言わせている︒前述のように二の替り狂言には大坂から並木正三がスヶに入るが﹁並木正三一代噺﹂では文七の要請があって正三の山下市山座入りとなったことを伝えている︒この時の狂言﹁けいせい桃山錦﹂の番附を見ると︑狂言作者が名を連ねた後︑頭取記述の前に一行分余白があり︑その下の方に文字らしきものがかすかに残っている︒正三の名があらわれていないが︑あるいは何らかの事情でこの部分の
− ワ ー
このように文七が苦しい状況の時に同座にあらわれるのが﹁松屋来ル﹂という作者なのである︒杉下氏によれば享保期
から中山新九郎︑中村十蔵等の役者と一体となって︑パターン化した配役のもとに新作狂言が創り出されていったわけで
その担い手が文七の実父︑松屋来助であった︒来助は宝暦元年には姿を消してしまう作者であるが︑実子の苦境にこの一
年に限って再び復帰したと考えられなくもない︒
しかし︑もしこのような事情があったとしたら評判記や役者の一代記等か触れていそうなものだが︑それらしき記述は
見あたらない︒しかも劇界から消えて十八年の歳月が経っているので没している可能性も大きい︒安永六年の正月に出版
された﹃新版絵入当世芝居気質﹄に︑狂言づくりをしている滝田治蔵という男のもとに並木宗輔等と共に松屋来介が人だま
となってあらわれる件りがあることから︑この時点では没しているのではないかと推定される︒ただ明和四年十一月の山
下市山座の顔見せ﹁神勅壽鐵砧﹂は番附を確認できず︑台帳も発見されていないが﹃歌舞伎年表﹄には作者として﹁松屋
來﹂の名があり︑﹃国吾総目録﹄では﹁松屋来助﹂と明記している︒何らかの資料が存在したと考えられるが今は推測の
域を出ないのである︒二の替り﹁けいせい桃山錦﹂は台帳が現在四部︑所在が明らかとなっているが︑いづれも作者の記
︵8︶名はない︒以上のことから︑文七と関係のある松屋来助をもじった単なる賑やかしという可能性も強くなってくる︒
その他︑この作者と考えられる人物は来助の実子︑中山来助である︒﹃戯財録﹄では﹁中興役者に作意ある分﹂として
中山来助の名があげられている︒中山文七は実兄であり︑古くは松屋来助と名のったこともあるので︑この時作者として
文七を助けたとしてもおかしくないが︑明和五年は大坂角の芝居に役者として出勤しているため︑中山来助と考えるのも
無理がある︒松屋来助の︑あるいは並木門の作者の一人であろうか︒結局この作者については不明と言わざるを得ない︒
九 一 四 芝 居 番 付 七 種
以上︑中山文七が立者として活躍し始め︑評判記における位付も最上位の部類に位置するようになってきた明和年中︑
京都での菊五郎との競演の周辺を概観してみた︒
江戸芝居の興行形態は固定した座が存在し頭取は世襲的に特定の家柄が受け継ぎ︑同時に興行権も所持しているという
事情に対し︑上方は権限が分化し︑その組合わせによって毎年一座が再編成されていた︒このため明和五年度の京都の芝
居のような動きが生じるのである︒この頃の京都は実質的には役者にしる狂言にしる大坂の芝居界の力を借りて︑辛うじ
て成立している状況であった︒浄瑠璃全盛時代の次期にあって歌舞伎が体勢を立て直そうとしてさまざまな試みがなされ
た中のひとつとして菊五郎と文七の競演が企てられたのだろう︒実際︑この企画は興行面からみれば大成功であった︒明
和四年の評判記﹃役者巡炭﹄の菊五郎評の中で﹁此事の貝見せ程いさましい事は近年覚えませぬ︒内が残らず桟敷故︑担
々花々しき賑ひでござりました﹂というように芝居街は久しぶりに沸いたのである︒また︑はじめ浄瑠璃作者であった並
木正三が歌舞伎にも携わるようになり︑やがて歌舞伎作者の第一人者となっていく︒明和期はちょうど油ののりきった時
期であった︒正三によって漸新な仕組や舞台機構を駆使した狂言が次々と生ゑ出されている︒浄瑠璃作者出身であった正
三故の発想が功を奏しているところ多大であるが歌灘伎も自身の創造性をとり戻し始めているのである︒
もし明和五年の狂言作者﹁松屋来ル﹂が松屋来助であるとすれば︑一時期前の立作者の力をも借りて興行を成功させよ
うとする苦肉の策と受けとめられよう︒また別の人物︑もしくは架空の人物だとしても︑この年の市山座の関係者の苦心
の程をうかがい知ることができる︒依然︑浄瑠璃をそのまま歌舞伎へ移した上演も多い中︑こうした動きの中に歌舞伎の
自立への努力を垣間見ることができるのである︒
四
− 9 −
︿注﹀向い
︑乙(3)
諏訪春雄﹁元禄歌舞伎の研究﹄︵笠間書院︶所収
︵ママ︶﹁神勅壽鐡砧﹂の番附未見︒﹃歌舞伎年表﹄では作者として根本蔵作や末広与一と共に﹁松屋來﹂とある︒十一月二十五日から替り
狂言﹁祇園祭禮信仰記﹂がはじまるが︑この番附く参考6﹀にも﹁松屋来ル︲一とあることから︑この人物は顔見せから出勤している壮言﹁祇園祭職信仰記﹂がは満
のはまちがいないと思われる︒
末廣與一
○明和四年十一月二十
﹁祇園祭礼信仰記﹂
狂言作者根本茂作 明和五年の京南側芝居の附作者連名は○明和四年十一月四日﹁神勅壽鐵砧﹂
未見︒﹃歌舞伎年表﹄﹁国害総目録﹄によると作者は
根本茂作
扇屋正次 松屋来ル 末廣与一
○明和五年二月十六日
実践女子大学所蔵
狂言作者根本茂 松屋來
根本茂作
坂田俊蔵 坂田しゅん蔵 日刈二幸一互同口
実践女子大学所蔵
﹁けいせい桃山錦﹂
芝居番付七種 九 一 四
狂言作者根本茂作
坂田俊蔵
松屋来ル扇屋正次
末広与市
③﹁狂言作者松屋来助﹂杉下多美︵﹃演劇学﹂鍋︑昭和五十七年三月︶
つh〆伺﹃新刻役者綱目﹄○中山ノ系に三人の役者が掲られ﹁右三人兄弟にて実ハ狂言作者松屋来介子なり﹂
の役者の説明の箇所等にもその旨の叙述がある︒
⑥﹃戯財録﹄﹁役者番附の事﹂に従った︒
⑦東京大学国文学研究室所蔵
㈲東京大学国語研究室所蔵四冊 ○明和五年五月六日﹁義経腰越状﹂
東京大学国文学研究室所蔵
東京大学国語研究室所蔵四冊
同三冊
京都大学附属図書館所蔵三冊
阪急学園池田文庫所蔵二冊 松屋来ル末廣与一
と注記がある︒その他それぞれ
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九 一 四 芝 居 番 付 七 種
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一︑本番附は実践女子大学図書館所蔵の芝居番附︵歌舞伎︶のうち︑先の報告に関係するもので︑文中には︿参考1﹀の
一︑虫損等により判読不可能の部分は□で記した︒ これらの番附は︑いずれも二枚組となっているが︑役人替名を記載してある二枚目だけを紹介する︒番附のはじめに︑外題︑年月日︑劇場を記した︒仮名は現行の字体に統一し︑平仮名︑片仮名の別は原文のままとした︒漢字はすべて新字体とし︑特殊な草体︑略体︑合字︑連字は対応する表記に改めた︒仮名遣はすべて原文のままに記してある︒原文は字体の大きさや太さが一定しないが︑外題︑名題と座本︑役者名の上の解説以外の別は︑すべて統一して記し かたちで表示してある︒
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