東南 ア ジア研 究 18巻3号 1980年12月
南洋における日本人学校 の動態*
小
島
勝 **
The Japanese Schoolin SoutheastAsia in the Period before W orld W arII
M asaruK oJIMA* *
This article intends to clarify the educational aspectofJapan's relationswith SoutheastAsia,
which was referred to as "Nanyo." Long・term Japaneseresidentsof"Nanyo"whohadchildrenof schoolageweredetermined tosend theirchildren to Japanese School.However,because such a scl100lwasimpossibletosetup and maintain by themselves,theyhadtoseekthecooperationofmany other Japanese. Tlley particularly needed tile 丘nancialhelpofthosewholュadbeensenttherefわr severalyearsfrom theirtradingcompaniesorbanks・ These short-term residents derived some bene丘ts from theJapaneseschool,butitsexistencewasnot essentialfらrthem. Iftheyhadchildrenofschool
は じ め に 「南 洋 に於 きま して は, 日本 人 の子供 が学 齢 に達 します と云 ふ と教 育す る方法 はあ りま せ ん。仕様 が ないか ら日本 に帰 す。帰 す には 一人 で は帰せ ないか ら母親 が付 いて帰 る。 あ とは父親 一人 で淋 しく生 活 して屠 らね ば な ら ぬ,彼等 の生 活が斯 くして漸次荒 んで来 る こ とは 当然 で あ る。南 洋 に於 きま して 日本 人 の *本論文は,昭和52年度文部省特定研究 「東アジ アおよび東南アジア地域における文化摩擦の研 究」の中の「日本の南方関与と文化摩擦」敦での 研究成果の一部として執筆されたものである。
叫 竜谷大学文学部 ;FacultyofLetters,Ryukoku University
460
age,they could leavethem behind in Japan. In other words,the expectations of the long・term residentsregardingtheJapaneseschoolwerediffer -entfrom thosewhowerethereonlytemporarily.
ThedormitoriesoftheJapanesescllOOlplayedan importantpartinstabilizingthelivesofthelong・ term residents because there were few Japanese schoolsin "Nanyo."
OneofthefunctionsoftheJapaneseschoolwas toremovethecultureof"Nanyo"whichthechildren oflong-term residentshad learned and instillin them 丘rmlytheJapaneseculture. Thisdid,how一 ever,provokesomeculturalcondict.
小 学校 の 出来 て 居 ります のは,馬尼刺, 『ダ パ オ』
,
『ミンクル』,
『ス ラバ ヤ』,
『メダ ン』, 新嘉披 ,恐 ら く此位 で ござい ます。『タ ワオ』
の如 く比較的集 団 して邦人 が居 り,殊 に久原, 三 菱 と云ふ大資本家 が居 る処 です ら,小学校 の設立 が ござい ませ んや うな次第 で ござい ま す」[色部1
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]
。
大 正1
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年 , 当時台湾総 督府 技 師で あ った色 部米作 は,南洋視 察 を終 えて の講演 で教育 問 題 にふれて, この よ うに述 べて い る。戦前 の 南 洋 にお ける 日本人子弟 の教育 につ いて考 察 しよ うとす る時, この淡 々と した 口述 の背後 にえ もいわれ ぬ錯綜 した 問題 が動 めいて い る のを感 じとるので あ る。 そ.の問題 が いか な る - 104-小 島 :南 洋 に お け る 日本 人 学 校 の動 態 性 質 の ものか , どの よ うな脈絡 に位 置す るの か を見 極 めた わ けで は な いが ,南 洋 に お け る 在 外 子 弟 教 育 の実 態 とそ の 問題 性 との 関連 を で きる限 りこれ か ら解 き明 か して み た い と思 う。 まず ,す で に この 口述 の 中 にい くつ か の 問題 性 が顔 を の ぞ かせ て い る。 第 1に,子 ど もが 当然 に入 って ゆ くべ き通 過集 団 と して の 「学 校 」 が存 在 しな い とい う こと, そ の こ と か ら, 母 親 と子 ど もは 日本 - 「帰 る」 ことに な り, 父 親 は 「淋 し く
」
「荒 ん だ 」独 り暮 ら しを強 い られ る とい う こ と, 在 留 邦 人 が 「集 団 的 」 にな り,有 力商 社 が あ る と ころで もな か なか 「日本 人小 学 校.」 が設 立 され な い とい う事 実 ---。 南 洋 で あ るか 否 か にか か わ らず , 在 外子 弟 教 育 問題 は,一 国民 の海 外 進 出 に付 随 して 出 て くる問題 で は あ る。 しか し, 南 洋 に住 みつ か ん とす る在 留 邦 人 に と って は,
「住 みつ く」 ことの是 非 を 問 い直 さね ば な らな い ほ ど, 深 刻 な 問題 と して 迫 って くる 課 題 な の で あ っ た。 子 ど もの教 育 のた め に, 事 業 途 中 に して 帰 国 した邦 人 も少 なか らず あ った と聞 く。 す な わ ち,在 外 子 弟 教 育 の整 備 如 何 は, 日本 の 南 洋進 出 の一つ の重 要 な鍵 を握 って い た とい え よ う。 本 稿 で は, 在 外 子 弟 教 育 の一 つ の制 度 と して の 「日本 人学 校 」 に焦 点 を絞 って , そ の成 立 過 程 ・動 向 を み な が ら, す な わ ち 「日本 人 学 校」
を "窓 〝 に して ,南 洋 と関 わ った 日本 人 の一側 面 を括 写 して み た い と考 え る。 Ⅰ 日本人 学 校 の 成 立 要 件 「日本 人小 学 校 」 あ るい は 「日本 小 学 校 」 と称せ られ る学 校 がで きた の は いつ ごろな の だ ろ うか 。 普 通 , 「予 備 科 」 す な わ ち今 日い う と ころの 「幼 稚 園」 が 付 設 され て お り, 中 等 教 育 機 関 がで きた と ころ もあ る1)の で 「小 1)ミンクル女学院がそうである。 学 校 」 と総 称 で きな い が, 大 正 元 年 に シ ンガ ポ ール に開校 され た の が その唱 矢 で あ る。 以 下 ,大 正 6年 に マニ ラ,大 正 8年 メダ ン, 大 正1
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年 ダパ オ お よび ミンクル, 大 正1
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年 バ ギ オ な らび にス ラバ ヤ,大 正1
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年 バ ンコ クと続 い て い る。 大 正 年 間 で は この 8校 で あ った 。 昭和 に入 る と, 昭 和 2年 に タ ワオ, 昭和 3年 バ タ ビヤ お よび ボル ネオ, 昭 和 4年 に ス マ ラ ンに開 設 され , 昭和5年 に は ス レ ンバ ンで , 昭和 7年 にはバ トパ - で 開 校 され て い る。 昭 和8年 にな る と急 に この数 は増 え,バ ン ドン, イ ロイ ロ, セ ブ, それ にダパ オ州 の マ ナ ンブ ラ ン, ラサ ン, バ ンガ ス, トンカ ラ ンが 開校 に踏 み切 って い るの で あ る。 さ らにダ パ オ州 で は, 昭和9
年 にバ ヤバ ス, デ ィゴス, 昭 和1
1年 に カ リナ ン, ダ リヤ オ ン, カテ ガ ン, 昭 和1
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年 に ワガ ンに 日本 人学 校 が で き て い る [米 田1
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]。日本 人学 校 は第2
次 大 戦 で雲 散霧 消す るので あ るが,そ の直 前 の数 は, マ レー地 域 で5
,
「東 印度」
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, タイ1
, フ ィ リピ ン1
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, 英 領北 ボル ネオ1
の計2
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校 で あ った [坂 本1
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]。 した が って , 冒頭 の色 郡 米 作 の視 察講 演 に 戻 る と, バ ギ オ に も日本 人学 校 が あ った ので あ り, タ ワオ に関 して は そ の翌 年 , 開校 の運 び とな った ので あ る。 いず れ にせ よ, 日本 人 学 校 は大 正年 間 か らぼつ ぼつ現 われ, 昭和 8 年 ご ろに急 に増殖 し, や が て戦 争 に よ り消滅 して しま うので あ る。 学 齢 期 に あ る子 ど もを もつ 親 な ら, 誰 しも 子 ど もを学 校 - や りた い と思 うで あ ろ う。 少 な くと も自分 と同等 の,願 わ くば 自分 よ り以 上 の教育 を受 け させ た い とす るの が親 心 で あ る。 しか し,南 洋 にお け る在 留邦 人 に と って , この あ りきた りの要 求 を実現 させ るの に非 常 な障害 を乗 り越 えね ば な ら な か っ た の で あ る。 実 現 途 上 に して つ い に望 む学 校 - や れ な か った親 も多 い。 当初 ,南 洋 に お いて は一 般 に, 英 語学 校 ,東南 ア ジア研究 18巻3号 オ ラ ンダ学 校 な どの植 民地 支 配 国 の学 校 , マ レ-語 学校 な どの現地 人 の学 校 , そ して支 部 語 学校 な どが あ ったが, 日本 人子弟 を対象 に した学 校 はなか った。 それ で在 留 邦人 は仕 方 な く, オ ラ ンダ学 校 な どへ や った が, そ れ さえ遠 隔地 等 々の理 由のた めで きない親 は, 子 ど もを 「野放 し」 に して いたので あ る。 し たが って, 日本 人 のた めの学校 が で きる こと を,子 ど もを もつ在留邦人 はかね てか ら強 く 願 望 して いた ので あ る。 そ う した家族 が10軒 くらい にな る と, ``集 団的 な要求 " とな っ て くるので あ った。 しか し 「学 校」とい って も, それ ほ どたや す くで きる もので は ない。素 養 さえ身 につ けれ ば よい とす る塾 まが いの もの で な く, 卒業 資格 が公 認 され て い る正規 の学 校 で な くて ほ な らないので あ る。 校舎 , グ ラ ン ド,教室 ,設備 ,教材 --。 それ に教 師 ら の人件 費 も相 当な額 に達 す る。10軒 や20軒 く らい の家族 で賄 え るわ けが ない。 したが って,「学 校 開設」の 目的 に向 けて, 子 ど もを もた ない在 留邦人 も同調す る ことが 少 な くと も必 要 とな る。 この場合 も,在留 邦 人 にか な りの資 力 が あ る時 にのみ学校 建設 は 可能 で, さ らに銀 行 や有 力商社 の邦人 もこれ と共 同歩 調 を とる ことが, 重要 な要件 とな る ので あ る。 す なわ ち, 「日本人学 校実 現」 の 成 否 は,在 留邦人 の経 済 力 を前 提 に,学 齢期 の, あ るいは学齢 期 を ひか えた子 ど もを もた な い在 留邦 人 が在 外子弟 教 育 に関 わ って いか ざ るを え ない状 況 にな っていたか否か, そ し て銀行 ・有 力商社 の邦人 もこれ に関与 して い か ざ るを えな い関係 が成立 して いたか 否か に か か って いた といえ よ う。在 留 邦人 の生活 空 間 が教 育 の機能 を分担 す る学校 を派生 させ う るに足 る コ ミュニテ ィーで あ ったか否 か, ま た,銀 行 ・有 力商社 の邦人 が, 在 留邦人 の特 定 の要 求 に関与せ ざ るをえ ない社 会 関係 にあ ったか 否 か とい うことが, 日本 人学校 成立 の 要 とな るので あ る。 462 で は こ こで, 日本人 学 校 の経 営 が軌道 にの るまで の歴史 を具体 的 に辿 りなが ら, この間 題 を さ らに検討 して み る ことに しよ う。 た と え不十 分 で あ って も上 述 の よ うな状況 に あ る な ら,何 らか の き っか け さえ与 え られ れ ば, 日本 人学 校 開校 - の遠 は開か れ た。 例 え ば シ ンガ ポールで は明治45年 7月 ,歯 科 医で あ り 雑 誌 『自由評 林
』
を主 宰 して いた 山本 作 次郎 が 中心 とな って, 医 師 ・西村 竹 四郎 , 医 師 ・ 佐 藤有 太 らが小学 校世 話人 会 をつ くり,小 学 校 設立 に着手 して い る。 マニ ラで は大 正4年 11月 , 大正天 皇衝大典 奉 祝 の醸金 か ら剰余金 が 出たのを機 に, それ を児 童 育英資金 と し, 翌 々年2月 , 帝 国領事 ・杉村 恒造 ら22名が発 起 人 とな り,小 学 校設 立 費 な らび に維 持費 の 負 担 を なす篤 志家 を募 って, これ に成 功 して い る。 また ス ラバ ヤで は, ス ラバ ヤ 日本人 会 が動 き, バ タ ビヤで は,三 宅哲一郎総 領事 の 熱意 が功 を奏 して,横 浜正金 銀行 が重 い腰 を 上 げ, 学校 設立 に合 意 して い る。2)そ してバ ン ドンで は, 「突然全 く 予期 して い なか った 小磯龍 一先 生 (京 都 師範 出) の 出現 によ り話 が実 り」 [前 田 1968:140], バ ン ドン 日本 人全 役 員 が主 と して奔 走 して開校 に こぎつ け て い る。小樽 龍 一 は職 を求 めて い たので あ っ た [菅沼 1968:106]。 したが って, 問題 は 「きっか け」 それ 自体 で は な く, そ う した 「き っか け」 を介 して一 気 に 日本 人学 校成 立へ と向か わせ る要 因 の複 合 体 なので あ る。 す なわ ち, 子 ど もを正規 の 日本 人学校 へ入 れ た い在 留邦 人 と直接 には関 わ りの な い在 留邦 人, それ に2, 3年 の滞 在 期 間 の ことで あ るか ら内地 の小 学校 へ入 れて お けばす む銀 行 ・有 力商社 の親 た ちが, いか に協 調 す るか とい うことで あ る。 「当事者 」 が 「非 当事者 」 の資 力 を頼 ま ざるを え な い事 2)バクビヤ日本人小学校の成立事情については, 当時バクビヤ日本人全役員であった石居太楼氏 のど教示による。 - 106-小 島 :南洋におけ る日本人学校の動態 態, そ こに 日本 人学 校 の設 立 ・経 営 を 困難 に す る一 つ の理 由が あ った。 シ ンガ ポール の場合 をみて み よ う。「もと も と公 的 な機 関 の う しろ立 て も, 強力 な経済 的 裏付 け もな い ものだか ら,経営 の見通 しも暗 い もので あ った に ちが いな い」 [小 林
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。大 正元年1
1月3
日,教 師1
名, 児 童2
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名で 出発 した が, 開校 式 早 々,訓辞 を内諾 し て いた岩谷 領事 が 自分 の夫人 を代理 と して 出 席 させ ,創 立有志者 を 嘆かせ て い る。有 志者 の ひ と り,福 田太一 は この事情 を次 の よ うに 語 って い る。 「我 国民教 育 を 海 外 で始 め ると 言 ふ大 切 な場合 に帝 国 を代 表 す る領事 が 出席 しない な ど とは言語 道 断沙汰 の限 りで あ る。 夫 れ も病気 で あ る と 云 ふ な ら致 し方 も ない が, 其 の時代 の 在留民 の 多 くは 殆 ん ど 暗黒 世 界 の者 ばか りで各 自己の勢力争 にのみ没頭 し, 己の意 に満 たぬ ものを排 斥す るに 日 も夜 も之足 らぬ と云 ふ様 な所謂紳士 の仮面 を被 ぶ る徒輩 が領事 を利 用 した ので, 出 るに出 られ ず , しか も約束 は反 故 に されず万 策つ きて ? 夫 人 の代理 で あ る。 鳴呼何 と云 ふ不 甲斐 ない 事 でせ う。創立有志者 が 嘆声 を揚 げたの も誠 に無理 か らぬ事 で あ る」 [福 田1
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]。 また 同 じ く福 田は, 「寸時 で も 油 断を して居 ると折 角嬉 々 と して通学 す る天真欄 漫 な る無 心 な児 童 がば った り来 ぬ様 にな るので1㌢。之 は彼 の非 国民 に等 しき徒輩 が其 の魔手 を子供 の上 にまで延 ばす結 果 で 『日本小学 校 』 の門 標が一夜 の中 に コール タール で責 黒 に され た の も其時分 で あ りま した。 つ ま り小学校 を潰 して仕 舞へ ば彼等 の 目的 は達せ られ るので あ る」[同上論文 :5
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]と述 べ て い る。 こ う した 障害 に備 えて 「創立者 は通学児 童 か ら一一仙 た りと も授 業料 を 徴収 す る ので な く, 皆 私財 を提 供 して学 用 DtjRは 申迄 もな く時 には葉子 や 果物 まで苗 まず与- て専 ら児 童 の歓 心 を買ふ た」 [同所]とい う。 す なわ ち, 「この学 校 開設 に も, シ ンガ ポ -ル の 日本人 は三 つ にわか れて しま った ので あ る」[小 林1
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]。熱心 な開設論者 と 賛 助者, 反 対論者, それ に無 関心者 。「開設 論者 と賛 助者 をた た きの めす た めにわ ざわ ざ 新 聞 を発 行 した人 もあ った」 [同所] し, 「開 設 論者 と反対 論者 との間 には 日常生 活 に もい が み あ いが続 き, な ぐり合 いの ケ ンカをす る こと も再 三 にわた った」[同所]そ うで あ る。 学校 とい う特 定 の,教育 の機 能 が派生 す る際, それ と同等 の力学 を もった利害 関心 が これ に ま とわ りつ くとい う,諸機能 の未 分化 な状 況 が, 当時 の シ ンガ ポール にあ ったので あ る。 この意味 で, 開校 はやや 「時期 尚早」 で あ っ た 。 つ ま り,教育機能 の担 い手 と して の 「学 校」 が,構成 員 の共有 す る利害 関心 の "一つ''と な る時 ,す なわ ち生 活領域 全体 に滴 漫 す る諸 要 求 が複数 の ク ラス ター と して顕在 化 し,組 織 化 され る時, 日本 人学校 は広 い支 持 を得 る ことがで きるので あ る。 また逆 に, 日本 人学 校 の存 在 が, そ うした組織化 を促 進す る こと も起 こ りうる。 その具体 的 な現 われ は, 「日 本 入会 」 の整備 とい うことで あ る。 シ ンガ ポール 日本 人会 がで きたの は,大正 4年 9月 で あ る。 そ して時 を移 さず10月 に 日 本 人学 校 は この 日本 人会 の経 営 に委 ね られて い る。 これ は, 日本 人学校 が 「私 的」 な もの か ら 「公 的」な もの- と衣 が え した ことを意 味 す る。 した が って創 立者 に と って は,反面, 「手放 す」 ことへ の未練 が残 った。 引 き継 ぎ の段 にな って,創立者 側 に異議 を唱 え る人 も 出た とい う [福 田1
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]。 しか し,福 田 太一 が 「私 は創 立 当初 に有 志者 との間 に若 し 堅実 な公 共 団体 が 出来 た な ら無 条件 に引渡す べ き事 ,決 して小学 校 を私有 す るべか らず と の言 質 を握 って い ま した ので屡 々一 同 を慰諭 し, 目出度 く日本 人会 の経 営 に移 った ので あ ります」[同所] と語 って い るよ うに,日本 人 学校 は当初 か ら 「私 的」 な ま まで あ って は な東南 アジア研究 18巻 3号 らない ものだ った。 と もか くも, 日本 人学 校 が公 的性格 を帯 び る ことに よ って,大 正 7年 7月5日,在 外 指 定 学 校 職 員退 隠料 及 遺族扶 助料 法第 一条 に よ り,外務 ・文 部両 大 臣 よ り 「在 外 指定学 校 」 と して認 め られ たので あ る。 これ に よ り, シ ンガ ポール 日本 小 学 校 の教 師 は, 内地 の公 立 学 校 の教 師 と同様 の待遇 を与 え られ,外 務 省 か らの補 助金 も学 校 に与 え られ る ことにな っ た O「指定 申請 は,3年 以 上 も前 か ら続 け られ たが, 学校 が公 的機 関 に よ って経 営 され て い なか った か ら そ の 対象 にな らなか った」 [小 林
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]
わ けで あ る。 在 留邦人 全 体 , 銀行 ・有 力商社 それ に 日本 政府 か らの 経 済 的,社 会 的支 持 を得 て, 日本 人学 校 は確 立 さ れ るので あ る。 同様 の ことは, マニ ラの場合 に もいえ る。 た だ この場合 は, 日本 人学 校 が 日本 人 会 の結 成 を促 した ので あ る。 この事 情 は, こ うで あ る。
「大 正1
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年5
月
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日 在 留民 熱 意 の 結 晶で あ る校 舎 が新 築 され るや, 其 の落成 式席 上 に 於 て学 校 維 持 費 の支 弁方 法 が協 議 され た が,血i一 従来 の特 志者 支 出の一 口童 比 の維 持 費 のみで は将 来 の経 営 は不 可能 で あ るか ら, 此 の際 日 本 入 会 な る名称 を以 て よ り強力 な邦 人 団体 を マ■マ■ 組 織 し,一 定 の会費 を徴 集 す る ことに して小 学 校経 営 に当 るべ きで あ る との議 が 高 ま り-・-
」[
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1。 同年8
月
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日,1
,
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名 の会 員 を も って マニ ラ日本 人会 が結 成 されて い る。 しか し,単 に 日本 人 会 が存在 しさえす れ ば 日本 人学 校 が設 立 ・維 持 さ れ る と は 限 ら な い。バ ク ビヤの場合 , 日本 人 会 は大 正2
年 の 早 くにで きて い るの に,小 学 校 が創 立 され た の は昭和 3年 で あ る。 したが って 日本 人 会 と い って も, 銀行 ・有 力商社 が大 きな経 済 力 を もって その成 員 にな って い るか ど うか が重要 なので あ る。 「在 留民 の面 倒 を み る 使命 を も って いた台湾 銀行 な どは学 校設 立 に賛成 した が,横 浜正金 は乗 り気 で なか った。 横 浜正 金4
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の態度 は官僚 的 で, 日本 人 会長 に な るの もい や が り,三 井 物 産 と台湾 銀行 でか わ るが わ る や って い た」
(石 居 太楼 氏談 話) とい う。 結 局 は,先 述 した よ うに,横 浜 正金 銀 行 も学 校 開設 に賛 同 し,三 宅哲 一郎 総 領事 の熱心 な働 き掛 け3)が実 った ので あ った が, こ う した銀 行 ・有 力商社 な どの学 校 設 立 に直 接 的利 益 を 受 けないばか りか負 担 を負 わ され る邦 人 が, 邦人社 会 の構 成 員 で あ る ことを 自覚 し,反 対 し続 けた場合 に起 こる孤立 を考 慮せ ざ るを え な い ほ ど, 邦 人社 会 の組 織 化 が進 んで い るか 否 か が ポイ ン トにな るので あ る。 昭和 5年 当時, 台湾銀 行 シ ンガ ポール支店 長 で あ った 宮 田章 治 が, 「日本 人 ノ居 ル土地 デ 日本 人 ノ努 カ ヤ発 展 状 態 ヲ知 ル ニ-罪 - 二 日本 小学 校 ノ有無 ニ ヨ ッテ判 断 ガ ツキ マ ス, 又小 学 校 ガ アル トシテ其 学 校 ノ生 徒 数 ヤ校舎 ノ外 形 ヤ種 々其 内容 ノ状 態 ヲ見 ル ト其 土地 ノ 日本 人 ノ盛 衰 ガ大 体 見 当ガ 付 ク ノ デ ア リマ ス」 [宮 田1
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とい み じ くもい った よ うに, 日本 人 学 校 の存 否 ・整備状 況 は, 邦人 社 会の "写 し絵 " と もいえ るので あ った。Ⅱ
日本人学 校 の拡享張 と もか くも, 日本 人 学 校 は シ ンガ ポール や マニ ラな どを除 き全 校 生 徒 約3
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名 くらい の規 模 の ものが 多か ったが,4)校 舎 を整 え,校 具 を拡充 し,学 則 を定 め,教 師 を随 時採用 し 3)昭和5年10月21日か ら翌6年7月18日まで,仮 校舎 として総領事館官邸の一部を貸与 している (バクビヤ日本人会 「在外指定学校定時報告書」 昭和10年11月20日付)。 なお, 石居太楼氏によ れば,三宅哲一郎が横浜正金銀行を直接に説得 した事実はない。 4)不完全ではあるが,主な日本人学校の在籍児童 数の変遷を資料1(巻末)として掲げる。なお 実数は,外務省外交資料館において 「在外 日本 人各学校関係雑件 ・在亜南ノ部」に分類されて いる各国民学校文書,泰 日協会学校 (バ ンコク 日本人学校).1978再製.「参考資料 ・草創期に おけるバ ンコク日本人 学 校」,河野虚二 (元マ ニラ日本人学校校長).1978.『母校』などによ った。 - 108-小 島 :南 洋 にお け る 日本人学校 の動 態 て,5)複 式 学 級 に よ る少 人 数 教 育 を 確 立 して い った 。 内地 の小 学 令 に基 づ き, 吹 第 に体 裁 を整 えて い った の で あ る。 そ し て , 日本 人 学 校 は,在 留邦 人 の子弟 ば か りで な く, 銀 行 ・有 力商社 の子 弟 の多 く を包 摂 す る よ うにな り, 在 留 邦 人 の 中で も, 現 地 人 を母親 に もつ 「パ パ 日本 」 や 学 校 か ら遠 隔 の地 にあ る子 弟 を も包 み込 む 拡 大 の道 を辿 った。 しか し学 校 が大 き くな れ ば な るほ ど, 在 留 邦 人 と銀 行 ・有 力 商社 員 との間 に断層 が で き る とい う問 題 が あ った。 そ の最 も典 型 的 な例 は, シ ンガ ポ ール で あ る。 いわ ゆ る 「下 町族」と 「グダ ン族」と の分 離 とい う ことで あ る [矢 野
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]。銀 行 ・有 力商 社 の 南 方 進 出 につ れ て, 一 般 に 「南 洋 各地 の 日本 人 社 会 は, は じめ は 先住 者 優 位 , す な わ ち早 くか ら住 みつ い て い る ものが 発 言権 を もつ , とい う暗 黙 の了解 が あ った が, 時代 が経 つ につ れ て 『グダ ン族 』 優 位 の傾 向 が 定 着 す る」 [同上 書 :1
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]
(
,
こ の傾 向 は, シ ンガ ポ ール 日本 小 学 校 にお いて もあて は ま ったO す で に触 れ た よ うに, もと もと 「下 町 族 」 と 「グダ ン族 」 との問 に は, 日本 人学 校 に対 す る教 育 観 に大 きな隔 た りが あ った。 「グ ダ ン族 」 が望 ん で い るの は, 子 ど もが 内地 の進 学 階 梯 を登 りつ め, 一 流 の会 社 ・官 庁 に就 職 して くれ る ことで あ る。 したが って , 粗末 な 日本 人学 校 教 育 を受 け させ る よ りは, た とえ 家族 が 別 れ別 れ にな ろ うと も内地 で 教 育 を受 け させ た 方 が よい ので あ る。 も っと も,理 想 的 なの は,親 の膝 下 で家 庭 教 育 を しっか りや 5)教師の採用については,①各地 日本人会が,日 本人学校教師,領事館関係,在留邦人 らの縁故 により詮衡す る場合 と,② 日本人会が領事館を 通 して外務省に詮衝を依頼する場 合 とが あっ た。外務省は募集などを経て詮衡 にあた り,採 用 された教師は,各府県か ら領事館-の 「出向」 の辞令を受 けて赴任 した。なお,バクビヤ日本 人小学校の教師採用に,
「南洋協会」が 詮 衛 に あた ったこともある。 写真1 完成 された シンガポール日本小学校 (昭和1
5
年 ごろ撮影) り, 内地 と同一 の学 校 教 育 を受 け させ, 内地 の一 流 大 学 - 進学 させ る ことで あ る。 し た が って , 日本 人学 校 が次 第 に整備 され て くる と, ひ とまず ここ-子 ど もを や り, 卒 業 の 1 年 か 1年 半 前 には 内地 の学 校 -入 れ て 進学 の 準備 を させ る ことに な るので あ った 。 それ に対 して 「下 町 族 」 の方 は,
「立 派 な, し っか り した 日本 人 に育 て て も らいた い とい うのが一 般 的 な 希 望 で あ った」
(坂 本 三 郎 ・ 元 シ ンガ ポ ール 日本 小 学 校 校 長 談 話 )。
「下 町 族」
で も裕 福 な層 は, 「グダ ン族 」 と同 様 内 地 で の進 学 を望 ん だ が,それ とて ゆ くゆ くは, シ ンガ ポール の地 で わ が子 が 働 くの を期 待 も して い た の で あ る。 か な りの 「下 町族 」 は, 子 ど もが 日本 小学 校 を終 え る と現 地 の英 語 学 校 へ や り, 中 には高 等 科 へ上 が った段 階 で 夜 間 の英語 学 校 - や る親 もい た。
6)す なわ ち「下 町 族 」 は, 「日本 人」
と して の 素 養 を し っか り培 った の ち,現 地 で 働 け る知 識 を 身 につ け て は しか った ので あ る。 た だ, 在 留 邦 人 は 「日本 本 土 に帰 って も幸 せ にな る可 能 性 の な い少 数 の人 間 を の ぞ いて は, だ れ しも, 日本 に帰 る こ とを夢 見 た」 [同上 書 :1
2
8
]
よ うに, 6)シンガポール日本小学校の初期のころは,午前 中英語学校へや り,午後 日本人学校の 「補習科」 -やる親 もいた。東南 アジア研究 18巻3号 その 「定 着性 」 の弱 さ も 手 伝 って, 「英 国教 育」 か 「日本 教育」 か の岐路 に悩 んだ親 も少 な くなか った よ うで あ る。 「入学 難 も少 く学 科 の苦 しみ も少 ない。 かつ職 業 に就 いて の安 定 も早 い」 [西村
1
9
41:
256]「英 国教育 」 か 「大 和魂 を奪 ほれ た偶 像人形 」[同所]にな ら ない 「日本 教 育」 かで あ る。 いず れ にせ よ, 「下 町族」 には 日本 人 と して の プ ライ ドが あ り, わが子 にそれを失 って ほ し くない とい う 熱 望 が あ った。 また, 「日本 人」 と現地 で看 倣 され る ことが就 職 に も 有利 で あ った。 「日 本 人 は親切 で,礼 儀正 し く,規 則 を よ く守 る とい うことで評 判 が高 か った」 (石 井肇 ・元 シ ンガ ポール 日本 小学校校 長談 話) ので あ る。 こう した教 育要 求 の食 い違 いか ら, 当時 内 地 には なか った 「英語」 を設 けるにあた って も, 「腰 か け支 店長 ク ラス には, 必 要 が ない のであ り,在 留邦人 には現地 と うま くや って ゆ く上 で 必要 なので あ った」
(鈴木 了三 ・元 シ ンガ ポ-ル 日本小 学校 校長談 話)。
「グダ ン 族」
は純 日本 式 の教育 を, 「下町 族」 は現 地 で生 活 して ゆ ける教 育 の加 味 を も日本人学 校 に期待 した ので あ る。 父 兄会 に も 「グダ ンの 人 が大部 分 で,下 町 で もよい家 の人 が 出て く る」
(石 井肇 氏談 話)状 態 で あ り, 暇 で教 育 熱 心 な 「グダ ン族」 の母親 は,入 れ か わ り毎 日の よ うに学 校 を参 観 し, 「下町族 」 の母親 は,忙 し く,学校 にす っか りまかせ て いた と い う。 「下町族」 には劣等 感 や ひ け 目 もあ っ た ので あ る。 もっと も, バ ク ビヤの よ うに,銀行 ・有 力 商 社 員 の 「上 町」 が 「下町」 に比べ か な り少 数 派 で あ った と ころで は, この区別 が 「初 め は あ ったが 次第 にな くな った」
(石居 太楼 氏 談 話)。 しか も全 校児童 数 も 40名 くらいで, この少 人 数 の 中で親 た ちが分離 す る ことはな か った。 した が って, 日本 人社 会 の邦人数 , この両者 の人 口の比 率 に よ って, この分 離 に は さまざまな段 階が み られ たで あ ろ うが,願 466 在 化 した にせ よ しなか った にせ よ, 日本 人学 校 に対 す る教 育観 に断層 が あ った ことは事 実 で あ る。 そ して, シ ンガ ポール の よ うに,
「グ ダ ン族」 の勢 力が増 す につ れて, 内地 の中学 校 -進学 す る児 童 の割合 が 増 え た の で あ る (表1参 照 )。 したが って, 日本 人学校 は こう した方 向性 を異 にす る教 育要 求 に と もに応 え るべ く拡充 され て い った ので あ るが, この よ うな 当事者 の教 育観 とは別 の次 元 で, 日本 人学校 は内地 か らの役割 期待 を次第 に色 濃 く担 うよ うにな って い った。 それ は, 日本 人学 校 にお け る教 育 が, 日本 の移民 政策 と して, 「南進 」政策 の一環 と して位 置づ け られ るよ うにな った こ とを意味す る。 そ して これ に対応 して, 「在 外子 弟教育 論」 も展 開 され るLCDで あ る。 もと もと, 日本 人学 校 が で きる ことは,荏 外邦 人 の生 活 を安定 させ るの に役立 ち,人 口 問題 を抱 えて いた 国策 に合 致 す る ことで あ っ た。 南方 進 出の足場 を固 め, 「出稼 ぎ根性 」 を な くさせ るた め に も, 日本 人学 校 は有益 な もので あ った。大 正 6年 8月
26日, マニ ラ日 本 人小学校 開校 式 にあた り祝辞 を述 べ た帝 国 総 領事 杉村 恒造 も, 「本 島在 留邦人 ノ増加 二 伴 ヒ其 ノ殖 民 ノ基礎益 々健全 ナ ラム コ トヲ巽 フコ ト更 二切 ナル」
[6:4]折, 「日本人 小学 校 並 二幼稚 園 ノ実 現 ヲ見 ル ニ至 リシ-是 レ小 官 ノ本 望」 [同所]と し,生 徒 に 「他 日国家有 用 ノ材 ク ラ ンコ トヲ期 セ ラル - シ」 [同所]と 説 いて い る。 また, 内地 で は大正 自由教 育運 動 が起 こる な ど, 国家教 育 がやや弛 緩 した ころの大 正1
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年5
月31
日, 同 じく杉村 は,新校舎 の落成式 に臨 ん で, 「是 レ偏 二我 力在 留 同胞 諸氏 力世 界 ノ文 化 二貢 献 セ ラル ゝノ熱 誠 卜職 員諸 氏 ノ 忠 実 ト-帰 セサル ヲ得 ス」
[同上書 :9] と賛 辞 を贈 り, 生 徒 に対 して は, 「各 々其 ノ分 二 応 シテ有用 ノ人材 ク ラム コ トヲ期 ス - シ」 [同所]と諭 して い る。 - 110-′J\島 :南 洋 に お け る 日本 人学 校 の動 態 蓑 1 創 立 以 来 ノ 卒 業 中 途 退 学 児 童 ノ 進 路 科 学 時籍 常 三 当在 尋 第年 ノ 数 業 数 卒 生 中 途 退 学 児童数 死 亡 其 他 児童数 内 地 帰 朝 者 ∴
∴
三
:
l外
人
学
校
人数t比 率 :i こ ∴ _ 笑 .,.行 ・ご 笑正38年豊 弓 大正9年匿」 :1-. 5 L.t l 第 6 回 大正11年 度 第 7 回 大正12年 度 第 8 回 大正1芦年度 第 9 回 .蒸垂些 度 第 10 回 一旦 担元年度 第 11 回 昭和2年度 節 昭 節 昭 亮 年 年 12 3 再 4 1 昭和5年 回 度 回 度 回 度 第 15 回 昭和6年度 第 16 回 嘩 和7_年琵 第 17 回 昭和 8年度 舞 1豆 画 昭和9年 度 第 19 回 嘩 和10年度第
2
0
回
昭和
1
1
年
度
第 21回
昭和12年度 : rJ -一 6 i _ ,I2 t 0
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_準星._ (新嘉披 日本人倶楽部 (編).1939.『赤道を行 く そ して昭和11年 ごろまで は, まだ硬直 した 「皇 国民教 育」 に塗 りつ ぶ されて はい なか っ た。 昭和11年2月 発行 の 『在 南 児 童 教 育』 (第1
6
号) に掲載 され た,
「新 嘉披 日本小 学校 教育 綱領」7)をみ ると,
「本 校 は衡 聖 旨を奉体 7)資料 2(巻末)として転載する。 新嘉披案 内』114.) して法令 の示す 所 に遵 ひ海 外 に在 って発展 せ る 在留邦 人 の 子 弟 を 教養 し以 て 天壌 無 窮 の 皇運 を扶 翼 し奉 る皇 国民 の養成 に努 む」[5:2] と しなが らも, 「教 師 の体験 , 教 育 的事実 , 並 に深 き研究 に立脚 して教育 の実 際化, 地方 化 に努 め る」 [同所]と して い る し, 「総合 的●●●東南 ア ジア研究 18巻3号 文 化人格 の養成 に努 め, 国際都 市 ,外 債 に在●● ●● 留せ る 日本人 の子弟 教 育 な る ことを 自覚 し漸 進 的 に善良 な る新嘉披 日本 小学校 の枚 風樹立 を期 す」 [同所](傍点 筆者) と謡 って い る。 また同誌 で,金 田武治 は 「第二世 教育 問題 を論 ず」 と題 して 「在外 子弟教 育論」 を展 開 して い る。 金 田は, 「一 時 的浮動 的 の 出稼 移 民 の如 きは人 口問題 の解 決 に対 し何等貢 献す る と ころな きのみ な らず 日本文 化 の扶殖 に も 役立 た ない」[金 田
1
9
3
6:7
]ゆえ,
「確乎 た る永 住 の腹 を きめ---独 り在 留 日本人社会 の み な らず広 く外人 間 に於 て政 治的社会 的経済 的 に発 言権 を有す るが如 き有為 な る 日系市 民 を作 る事 が最 も肝要」 [同上 論文 :8] との前 提 に立 って,教 育 問題 を次 の よ うに論 じて い る。 「初等 教 育 は 日本精神 の滴 養 を絶 対 第 一 義 とすべ きで第二 世 は元 よ り全 部 日本人小学 校 に入学せ しむべ きで あ る。 然 しなが ら日本 内地 と全 然 同一 の教育 を施 す事 は意味を な さ ない, よ ろ し く授業科 目の取捨選 択 を行 ひ現 地 に即す る様適 当にモデ ィ ファ イ し,主要語 学 (当地 にあ りて は英語 ,支 那諮,馬来語 の 如 き)及殖 民地 本 国の地歴 の概念等 を も習得 せ しむ る必 要 が あ る」 [同所]と。 そ して 「中 等以 上 の教 育 は 出来得 る限 り其地外人経営 の 学校 に入学 せ しめ其 地市 民 と して の資格教養 を作 り上 ぐべ きで あ る」 [同上論文 :8-9]と して い る。 金 田 白身, 「欧化主義 を唱ふ る者 で は絶対 ないが, 同時 に偏狭 な る国粋 主 義 も 亦之 を取 らない」 [同上論文 :1
0
]と言 明 して い るので あ る。 日本人学校 が, 日本 固有 の文 化 を基盤 に もちなが ら,外在文化 をで きる限 り包摂 して い くとい う,今 日 い う と こ ろ の "開 かれた 日本 人学校 ''の体 系 を認 め ら れ た 時代 で あ った。 しか し,戦 時体 制 が深 ま るにつれ, 日本 人 学校 も国粋主 義的性格 を強 めて い った。 昭和1
4
年 2月発 行 の 『在南児童教育』
(第22号) で は初 めて表紙 に 「堅 忍持久 」 の標語 が載せ4
6
8
られ, その中で鈴木 了三校 長 は, 「国策 の線 にそふ と云 ふ事 が何 か為 政者 に無 定見 に迎合 した り,事大主 義的 に振 舞 ふ事 で あ った り, 甚だ しきは保 身術 めいた もの さへ介在 して ゐ る現状 で あ る」 [鈴木1
9
3
9
a]と述べて国策 路線 に従 うことの必要性 を訴 えた。 そ して, この雑誌 の第2
3
号 (同年8
月発 行 )で同校長 は, 「祖 国を距 る こと三千哩 の 南 国 シ ンガ ポ ール,気候 は必 ず しも育英 の事業 に適せ ず と も,環境必 ず しも子弟 の教 育道場 と して最適 た らず と も,吾等 は常 に粉骨砕身 不退転 の信 念 と努 力を以 って興 亜 聖業 の継 承者 た る第二 国民 の精 神 教育 に 遇 進せ ねば な らぬ」 [鈴木1
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9
b]と決 意 のほ どを述べ たので あ る。 し たが って,校舎 は 「聖 な る第二世 の教 育道場」 [鈴木1
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0:
2
]
で な けれ ばな らなか っ た。 日本人学校 は, 日本 固有 の文 化 の純 度 を ます ます強 めて い くのだ った。「在外子弟 教育論」 もそれ に歩 調 を合 わせ たので あ る。 と ころで,南 洋 にお ける 日本 人学校 が担 わ ね ばな らなか った重要 な役割 と して, さ らに あげ られ るのは, た とえ遠 隔地 の子弟 で もで きる限 り受 け容 れてい くとい うことで あ る。 数少 ない学校 しか設立 で きない事情 か ら くる 当然 の帰結 で あ る。 す なわ ち, 「寄宿舎」 と い うもの が重要 な機能 を果 たす ので あ る。 例 えば, シ ンガ ポール 日本小学校付属児 童 寄宿舎 は,大 正1
4
年4
月 に開舎 して い るが, 昭和8年 当時 の状況 は表2の よ うな もので あ っ た 。 全校生 徒4
1
4
名 中,1
割 弱 が入 会 して い る。 そ して,週 日は5時4
0
分 に起床 して家庭 と同 様 の生 活 を したので あ る。 当時舎監 で あ った 奥川寿津子 は, 「寄宿舎 トシテ規律 的 ナキチ ン トシタ生 活 ヲ要求 スル ト同時 二又第二 ノ家 庭 トシテ子供 ガ ユ ツク リ ト落付 イテ畷 イ気 持 デ勉 強 シテ ユ ク様 ナ住居 - シテ ヤ ラネバ ナ ラ ヌ ト- イ ツモ心掛 テヰル
」[4:6
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]
と述 べ て い る。事実,学 芸会 ,遠足,誕生 祝 い,三 月 - 112-小 島 :南洋 にお け る日本 人学校 の動態 義 男 ・ \ 尋 1 . 5 4 2 ニ 計 ⋮ 1 9 2 ; 6 3 9 5 6 高 1 二 口力 \ 二 = 方 j 二 一 ジョホール 29 スマ トラ 5 マラッカ 1 23 1. 33 !シンガポ-ル 3 1 1 2 ㌔ 計 ' 22 16 38 弓 (『新嘉披 日本入会 々報』1933.18:40-41.) 38 五 月節 句 ,七 夕祭 ,月見 な どの催 しを行 な っ たので あ る。 とはい え,年端 の行 か ぬ児 童 が,親 元 を離 れて寄宿 生活 を送 るな ど尋常 な光 景で はなか ろ う。 しか しス ラバ ヤ にお ける寄宿舎 で も子 ど もの多 くは
,「
『行 きた くはな い,で もよい 人 にな るんだ, よい 日本 人 にな るんだ, それ で, ス ラバ ヤの寄 宿舎 -行 くのだ』 と健気 な 決心 を小 さい- - トに描 いて --総 て の別 れ の 悲 しみ も打 忘れ て 勇 ん で 来 る」8)[山下 1930](省略 は著者)のだ った とい う。 親 の心 配 も一通 りで はなか った が,子 ど もは容 易 に 無 邪気 な世界 に 溶 け込 み, 「三 日 もたつ と朝 か ら女 の児 で も二 杯 も御飯 をたべ るや うにな る。 さ うな った らしめた もの」 [同所]なので あ った。 ジ ャワ地 域 において寄宿舎 の必要度 は高 か った が, こ う して寄宿舎 は "子 ど もの 世界''をつ くり, ほぼ子 ど もの現地 で の生 活 経験 を遮 断す る ことにな った。 そ して そ の中 で , 日本 固有 の価 値 観 に沿 って学校 外 で も生 活 指導 を徹 底 させ る機能 を も った ので あ る。 また何 よ りも寄宿舎 は, 日本 人学 校 の もって い る機 能 と して の在 留邦 人 の生 活 の安定 化 を 補 強 す る もので あ った。地方 の在 留邦 人 が い 8)『爪瞳日報』は漢字にふ りかなをつけているが, 省略する。以下 も同 じ。 うよ うに, 「我 々親 達 が 全 く後顧 の憂 ひ な く 働 き得 るの は一 に掛 って この完 全 な寄宿舎 の 有 無 に係 は る」[
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]
ので あ った。 しか し, わが 子が通 え る学校 が あ るに越 し た ことは ない。 日本 人会 の 自負 心 も手伝 って 各地 に 日本 人学 校 が設立 され た が, ほ とん ど は恒常 的 な財政 難 に悩 ま さ れ 続 け た の で あ る。 ジ ャワ地域 において もそ うで あ った。 そ こで 出て きた の が,
「組合学 校 」構 想 で あ る。 これ は経 費節減 のた め, 複 数 の 日本 人学 校 が 合 同 して経 営 を合理 化 ・一本 化 し,寄宿舎本 位 の学校 に しよ うとす る もので, 昭和5
年 ご ろか ら論 じられて い る。 す なわ ち, 昭和 5年 4月25日付 『爪畦 日報』 の 「爪畦 児 童教育 に 関す る 『座談会』
」
にお いて, 佐藤 肇 は, 也 方 の父兄 がバ タ ビヤ 日本 人小 学校 の厄 介 にな る ことを心苦 し く思 って い るとい う話 にな っ た時 , 「一枚-収 容す る様学校 組合 を組織 し た ら伺 うです 。詰 りバ タ ビヤ,バ ン ドン,チ ェ リボ ン等 の 目会 が組合 を作 り,学校 に関す る負担 は組合 日会 が按 分 して之 を負担 す る」[
1
]
ことを提 案 して い る。 またバ ク ビヤ 日本 人小学 校初代校 長 ・藤 原 誠一 は, この具体 案 と して 「スマ ラ ン, バ タ ビヤ両校 合 同すべ し」 と題 す る論文 を発 表 し [藤原 1930],これを受 けて,石 居太楼 は 「組 合 学校 を望 む」 とい う論題 の もとに, そ の構 想 を披涯 して い る [石屠 1930]。藤 原 は,こ の寄宿 舎本 位 に よ って 言語 教 育 が 助 か り,9) 予 備科 を廃止 で きる こと,施設 の整備 に よ り 教 師の心持 ち も安定 す る こと, 教 師 の 受 け 持 ちの軽減 か ら くる 「余 力 で 当 地 に 於 け る 郷 土 的教材 並 に郷 土 化 的指 導 の 研 究 」[藤原 1930:12月15日]もで きる点 な どの 波及 効果 を指摘 した。 そ して石居 は,貧 弱 な教育施設 が邦人子弟 の質 の低下 を も らして い る といわ れ る現 状 を嘆 じて, 各 日本 人 会 の 「大 同 団 9)日本語を話せないで入学 して くる児童 もかなり いた 。東南 アジア研究 18巻3号 結」 によ り 「組合 一校 中心学校 」 を設立す れ ば, 教 育設 備 は充実 し, 「蘭語 を主 とす る高 等 科 な り実業補 習学校」 の経 営 も十 分可能 で あ ると し,将来邦人 が増加 して小学校 が分離 設立 されれ ば, これ が 中学校 にな る可能性 も あ ると構 捜 したので あ る。 これ は構想 に終 ったが,南 洋 な らで はの着 想 であ った。 いずれ にせ よ,全般 に 日本 人学 校 は財政難 に瑞 ぎなが らも徐 々に制度 を整 え て い ったが,やがて戦 火 にみ まわれ る ことに な り, 消滅 して ゆ くのであ る。 シ ンガ ポール で は, 引 き揚 げ者 が続 出す る中で,戦 争 にな って も内地 へ は帰 らない とい う家庭 の生 徒50 名が残 ったため,教 師13名車 5名が居残 り教 育 にあた ったが, イ ン ド- の抑 留生 活 を強 い られ た (坂本 三郎氏談話)。 そ して 「昭和17 年8月 ,第 一次交換船 --・で3人 の教 員 と一 部 の邦 人 は再 び当時 の <昭南 島 >に下船, 国 民学校 と して もとの校舎 で授業 を再 開」[小林 1976:120]したが,敗戦 によ り終止符 を うっ て い る。 イ ロイ ロ日本人小学校 では, ア メ リ カ軍 のパ ナイ島上 陸時,校 長以下教職 員 ・全 児 童が玉 砕 した。10) Ⅲ 教育 の実 際 と文 化摩擦 で は, ここで 日本 人学校 の教育 の 中味 はど うで あ ったのか, それが子 ど もの生 活 とどの よ うに開通 したのか とい う問題 に入 って ゆ こ
う。
「文化摩擦」(
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)
とい う概念 が あ る。異質 な文 化要素 が摩擦 を起 こす現 象 を意 味す る用語 で あ るが,南洋文 化 圏 で 日本 10)「孤立無援となったイロイロ市では,全 在 留邦 人が高江州会長とともに,また小学枚では全児 童 ・職員が栢森功校長 (新潟県人)に引率され て,定められた自決の場所へおもむき,一同静 かに日の丸の旗を仰いで君が代を合唱 し,祖国 の平和と繁栄を祈 りなが ら,全員,悲壮な玉砕 を遂げたのである」[金ケ江 1968:381〕。 470 人子弟 を教育す るとい う営 みを捉 え る分析枠 組 と して有効 で あ ると予想 され る。 しか し, それ は半面 の有効性 しか もって いない といえ るだ ろ う。 コ ンフ リク トとは, 心 理 学 で は 「相反 す る方 向を もつ複 数 の要求 ・衝 動 ・動機 が, 同時 に作用 して個人 の行動 を支配 しよ う とす るために生 ず る括抗 お よび緊 張 の状 態」 [池 内 1971:8
]
を さ し, 社 会学 で は 「個人 間,集 団問 に生 ず る敵対的行 動,対立 ・抗 争 の関係」[同所] (いわ ゆ る 「社会摩擦」
)
を示 す用語 で あ るが, 日本 人学校 教育 において, "南 洋文化"か "日本文 化''か の二者択一 によ る ``摩擦 M に苦 しんだ とい う例 は皆無 に等 し く, 中国人 との 「社会 摩擦 」 はあ った11)も の の,原 住民 との 「社 会摩擦」
は全 くとい っ て よいは どなか ったので あ る。す なわ ち,
「文 化摩擦 」 の深 刻 な局面 は価値観 の世界 におい てで あ ろ うが, 日本 固有 の価値観 はほ とん ど 絶 対 的 なまで に邦人 に内面化 され てお り,覗 地 文化が それ よ り も価値 あ る もの と して浮 か び上 が り,両者 が同等 の力学 を もって個人 に 選 択 を迫 るとい う状 況 は まず なか った ので あ る。邦人 の価値観 の世界 では, 日本文 化 と現 地文 化 には大 きな落差 が あ った。 イギ リス ・ オ ラ ンダ の よ うな支 配 国 の文 化 との問 にはそ うな る 可能性 はか な りあ ったが, 「英 国教育 か 日本教育 か」 の問題 も生活 の便宜上 の "磨 擦 " で あ り, 「文 化」摩擦 とはい い難 い。 そ れ らの人 々と直接 に接触す る機 会 も乏 しか っ た。 そ して,在留邦人 は生 活 の必要上,現地 文 化 に溶 け込 んで商売 をや って ゆかね ば な ら ず , 「摩擦」 はあ って ほな らない もので あ っ た。 つ ま り, た とえ相 容 れ ない文 化要 素 が併存 してい よ うと も, す なわ ち 「潜 在 的 摩 擦 」 ll)例えば, シンガポール日本小学校では満州事変 時に,支那人が 「児童の登校に際 して投石 した り暴行を加-ることも70件の多きに及んだ。日 本小学校は臨時休校の止むな き事 とな った」 [高 田 1944:194]。
- 114-小 島 :南洋 に お け る 日本 人学校 の動 態 (potentialconflict)lGetzels& Cuba 1954:
166]が存 在 して い よ うと も,個人 の意識 にそ れ らが上 って こない ほ ど邦 人 の価 値世 界 は堅 固で あ り, 閉鎖 的で あ った ので あ る。 そ して 支配 国 は 日本 人学 校 の 教 育活 動 に寛 容 で あ り,原 住民 と もど もほ とん ど "放 任" の状 態 で あ った。 しか し,無為 の状態 な らば,気 候 によ り大 き く規 定 され た "南洋 的生 活様式 ''が, 日本 文 化 の濃度 を著 し く希 薄 に して い ったで あ ろ う。 それ を食 い止 め よ うとす る 日本文 化の 力 学 と生活全体 を覆 う自然 な力学 と して の南 洋 文 化 との問 の 「摩 擦」, それ は あ った といえ る。 以 上 の ことを念 頭 にお きなが ら,具体 的事 実 に即 して, さ らに この問題 を検討 してみ よ う。 まず カ リキ ュラムにつ いてで あ る。 カ リ キ ュ ラムの点 よ りみ た摩擦 といえば, 教育 の 実 際場面 で子 ど もの現地 で の生 活 を基 盤 に し て授 業 を進 めて いか ね ばな らぬ こと,将 来現 地 で生活 して ゆ ける人間 を も育 て な けれ ば な らなか った こと と関連 して くる。 カ リキ ュラ ム とは, 「フ ォーマル な 教 育組織 に よ って意 図的 に 配 列 され る学 習経験 な い し その 連 続 体」[Musgrave 1973:41]を意 味 し
,
「教 科 指導」(academiccurriculum)と 「生 活指導」(moralcurriculum)を含 む とい え るが, 日本 人学 校 の教 育場 面 で は, こう した フ ォーマル ・カ リキ ュラムの実施 にあた って,子 ど もの 現 地 生活 との連携 を考慮せ ざ るをえ ない とい うことが あ る。 まず フ ォーマル ・カ リキ ュラ ムの作成 自体 が この問題 を学 んで くる。 しか し,結 論 を先 にす るな ら, 日本 の国定 教科書 を は じめ とす る教材 を支 え る 「忠孝
」
な どの価 値観 ない し原 則 は強 固 な核 を形成 し て お り, 現地 文 化 はせ いぜ いその周辺部 分 に 付着 して いた に過 ぎない。す なわ ち,現地 の 文 化 要素 の中で,核 の部分 の価 値観 ない し原 則 を流布 す るの に便 宜上都 合 の よい要素 だ け が拾 われ,教 材 とな った とい って よい。 こう した現 地文化 の要 素 を含む科 目は主 と して, 英語 ,理科 ,地理 ,歴 史 で あ った が,英語 は 内地 で の進学 に も必要 にな って くる もので あ り,理 科 の教材 で も現 地 の もので 「間 に合 わ せ る」 ことはあ って も別 に問題 は ない ので あ る。 地理 ,歴 史 に して も,例 えば マニ ラ日本 人小学 校 で は, フ ィ リピンの一般事情 を盛 り 込 んだ 『郷土 読本』[6:154-155]をつ くった が, それ は副読本 で あ り, 「授業 の合 間,令 間 に投 入 され る」 (石 黒芳男 ・元 マ ニ ラ日本 人 小学 校 訓導 談話) もの に過 ぎなか った。 内地 で流行 した 「郷 土教育」 の実 践 において も, 「現 地」が 「郷 土」 にな り,現地 文化 が よ り 多 くもち込 まれ る ことはあ って も, 内地 の教 科書 との矛盾 を体 験 した記録 や発 言 はみ られ ない。 また生 活指 導 に して も,原 住民 の生 活 習慣 に学 ん で生 徒 を指導 す るとい う こと も皆 無 に等 しか った。 とは いえ,実際 の授業場面 で は,子 ど もの イ メー ジに合 わせ て学 習経 験 が な され た はず で あ る。「実例 」 や 「挿 話 」 の形 で,現 地文化 が少 なか らず流 れ込 んだ で あ ろ う。 しか し, その機能 は, フ ォーマル ・カ リキ ュ ラム浸透 のた めの 「潤滑 油 」 に しか過 ぎなか った と思 われ る。 さ らには, 「潤滑 油」 た るべ く,覗 地文化 は巧 み に変 容 させ られて もち込 まれた とい って よいで あ ろ う。 いず れ にせ よ,"南洋 文化''に よ る "日本文 化" の 「風 化」 を防止 す るのが 日本人学校 の 重要 な機能 で あ った。 シ ンガ ポール 日本小学 校第 4代校 長 ・杉本 直樹 は,周 囲の児 童 を み て次 の よ うな点 を嘆 いて い る。
「周 囲の事象 , 物 象 に対 す る心 の底 の底 か らの感 じ, 心 の底 に彫 りつ けた様 な感 じ方 が もっと もっとあ っ て い い と思 はれ る。 ・・-・浅 い,浅 い。彼等 の 感受 は極 めて浅 い」[杉本 1932:6], 「空気 のぬ けた ゴム鞠 。何 故 か ---さ う した感 が し て な らない。 ・-・-周 囲 の力 にのみ依 って形 を東南 ア ジア研究 18巻3号 写真2 バギオ日本人小学校の生徒たち 左 右 され るゴム鞠 。反発 性 の乏 しい児童 の生 命 の創造 は全 く支 離滅裂 で あ る」[同上論文 :
6-7
], 「内観 を欠 く人 の生 活 は 間 口は 広 い 様 で もそ の人 自身 の血 の通 った もので はない。 ---借 り物 の生 活- 己の 血 の 通 は ぬ 生 活 - それが私 の周 囲 にあ る大 部 分 の児 童 の生 活 で はあ るまいか」 [同上 論文 :8
], 「読本 を 読 ませ て見 る。 曲 りな りにで も一通 り読 めた らもう其 の上 に探 らうとはせ ぬ。彼等 には世 界 が余 りに早 く陳腐 にな って 仕 舞ふ」 [同上 論文 :1
0
],
「奮 闘 を楽 しむ気 分 が ない。 努 力 の後 の歓 喜 を しみ じみ味- た経 験 が乏 しい。 ---教室 の掃 除 をす れ ば塵 境 を吸 って肺 が弱 くな る と言 ふ事 を余 りによ く知 って居 て,掃 除 に汗 を流 した後 の気 分 を昧- た事 が ない」 [同上 論文 :1
1
],
「昨 日定 めた事 が 今 日 ま で 継 続せ ぬ。 朝恩 ひ立 った事 が夜 まで続 か ぬ。 一 時間 の初 め に決心 した事 が其 の時間 の終 り まで持続 出来 ぬ。 -・・・彼等 の初 一念 は常 に彼 等 自身 に依 -て破壊 されて屠 る。 ・-・-何 故斯 も早感 ,早 忘 なのだ らう。薄 志 弱行 なのだ ら う。堅 忍持久 の質 が ないの だ ら う」 [同上論 文 :1
2
]。杉本 白身認 めて い るよ うに, 「余 り に酷 な批評」 で あ ったか も しれ ないが, こ う した感 受性 ,反 発性 , 内観性 ,探 求 性, 奮闘 性 , 固執性 の欠 如 が 目を 引いたので あ る。 こ う した児 童 の性 向 の原 因は ど こにあ った のだ ろ うか。気 候 が神経 の働 きを鈍 らせ る影 472 響 は大 きい。
しか し,現 地 の使用 人 か ら の影 響 もあ った。普通 の邦人 家庭 で, 子 守,炊事 ,洗 濯 ,車 の運 転 な どの使用 人 が2,3名 いたが,
「忍 耐 力の消耗 す るの も, 持久 力 の 弱 るの も, 此 の 土 人 に禍 され るので はな いか。父母 が丹 念 に教 -る礼 儀作法 も,清潔 も整頓 も,後 か ら後 か らと,生 きた模範 の土 人 に崩 されて行 く」 [堀之 内1
9
3
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]
ことが少 な くなか っ た とい う。 子 ど もは 日常 生活 の中で は ぐ くまれ, "い うよ うにはな らぬが, す る よ うには な る" ので あ った。現地 人 の子 ど も か ら受 ける ``悪影 響" を避 け よ うと,親 が子 ど もを家 庭 に 「隔離」 す る と,子 ど もは ます ます この使用 人 の 影響下 に入 り, 「子 ど もの 世界」 を喪失 して, "早 熟" の弊 を生 む ので あ った。 こ う した "弊害 ''を除去 す るた め に も, 日本 人学 校 や寄宿舎 での教 育作用 に期 待 が もたれ た ので あ るが, 藤原 誠 一 が,「召使 達 か らの影 響 を受 けるのでせ うが ,子 供 が よ く金銭 の話 や,男 女 の話 を した り します。今 言 った様 な点 に付 いて私 はいつ も苦 しん でゐ るので あ ります」[
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]
と真情 を吐露 した よ う に, "南洋文 化 の切 除''に伴 う摩擦 は小 さ く なか った。 しか し,全般 的 にみれ ば, こ う した摩擦 は 日本 人学 校 教 師 を恒 常 的 に悩 ます まで には至 らなか った。教 師 自身 の神経 が純 化 の作用 を 受 けたのか も しれ な いが,
「日本文 化 の保 持」 - 向 けて多 くの要 因 が効 果 的 に働 いた ので あ る。 「帝 国練 習艦 隊 」 の寄港 を 見 学す る こと に よ るナ シ ョナ リズ ムの発揚 ,毎 年 3分 の1 の児 童 が 内地 か ら転 入 して きて 内地 の教 育 事 情 が流 入 す る こと, 「餅 つ き」 な どの 日本 の 行事 の導入 , 日本 の風物 を撮 った映写 機 ・ス ライ ドの活用 ,宮城 - 向か って の遥 拝 な どの 儀式 ,角 力 ・弓道 な どの奨励 ,故 国か ら遠 距 離 に あ る ことが愛 国心 を増 幅 させ る心 理 的効 栄 , 多民 族 間 で の民 族 意識 --・。 そ して何 よ - 116-小 島 :南 洋 に お け る 日本 人 学 校 の動 態 り も親 た ちが忠君愛 国 の精神 を確 聞 と して も ち, 「一等 国民」 の斡 持 が あ った こと, これ らが連 動 して ,他 文 化 を価 値 あ る もの と して 浮 上 させ な い世 界 を形成 して いた ので あ る。 以 上,南洋 にお け る 日本 人学 校 の 問題 性 を みて きた が,教 師 問題 ,財 政 ,卒業生 の進 路 な ど,書 き残 した こと も多 い。 個 々の 日本 人 学 校 の歩 み に も詳 し く立 ち至 らな い とい けな い と思 う。 いずれ稿 を改 めて 論 じてみ た い と 考 え て い る。 (付 記 )本 稿作 成 に あた り, 特 にお世 話 を いた だ いた次 の方 々にお礼 申 し上 げ ます (順 不 同)0 元 シ ンガ ポール 日本 小 学 校 校 長 ・鈴 木 了三 , 坂本 三 郎 ,石 井肇 , 元 ・同訓導 ・上 田書 雄 , 山県 獅 子 夫 ,元 ・同生 徒 ・関宿 ,坂 本嘉 子 , 畑 和 子 ,魚 住 暗恵 ,元 新嘉披 日報 記者 ・木村 二 郎 , それ に福 田庫 八 の各 氏 。 元 マ ニ ラ 日本 人 小学 校 校 長 ・河 野辰二 , 元 ・同 訓導 ・石 黒 芳 男 , 元 バ タビヤ 日本 人小学 校校 長.・遠藤 武 袷 , 元 ・同
訓
導 ・遠藤 キ ィ,元 ・同生 徒 ・花 岡泰 次 ,花 岡泰 隆 ,伊 藤 健 一郎 , 中安 貞子 , それ に石 居 太楼 の各 氏。 i i) .'う I tI) (う 7 H i) 10ll1
21314 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10111213l-′1151()17 資料1
日 本 人 学 校 在 籍 児 童 数 の 変 遷東南 ア ジア研究 18巻3号 資料2 新嘉披 日本小学校 教育綱領 根本方針 本校 は御聖 旨を奉休 して法令 の示 す所 に遵 ひ海外 に在っ て発展せ る在留邦人 の子弟を教養 し以て天壌 無 窮の皇運を扶翼 し奉 る皇国民 の養成 に努む。 - ,国体観念 を明敏 に して祖 国愛 の精神 を作興 し 海外 に在 って 日本精神 の顕現発揚を忘れ ざる 子弟を教養す。
二
,時代 の趨勢,教育 の思潮等を洞察 し付和雷 同 す ることな く健 実 な る思慮 の上 に立って採 長 補短,穏健 中正 の教育をなす。 三 ,教 師の体験,教育的事実,並 に深 き研究 に立 脚 して教育 の実際化 ,地方化 に努 める。 四,家庭 との連絡 を密接 にす るとともに団体 的精 神 の滴養 に努 め児童を して有為有守 ,生気 あ る第二世た らしむべ く努 む。 五 ,総合的文化人格 の育成 に努 め,国際都市 ,外 債 に在留せ る日本人 の子弟教 育な る ことを 自 覚 し漸進的 に善良 な る新嘉披 日本小学校 の校 風樹立を期す。 六 ,本校児童を分 か ちて, 1当地 に永住 の 目的を 有 し日本語 による学校教育 は本校 を以て最後 とす る者 と 2進んで内地へ進学 す るもの とに 大別 し得れ ど も本校 の教育方 針 の 根 本 は 知 育,訓育,体育 ともに一方 に偏す ることな しO 七 ,質実 剛健 な る意志 ,創造的活動的人格 ,頑健 に して弾力 あ る身体 の持主 た らしむべ く注意 を払ふ。 要 は海外 に在留す る第二世 の教 育 な る事 を 自 覚 し,児童 の現実生活 を基調 と し一歩 一歩 と漸進 的な る向上 を企 図 し,気候 ,環境等 よ り来 る放縦怠慢 の 気風 に感染す る事 な く崇高偉大 な る国民的人格 の基 礎 を達成すべ く努力す。 知育綱領 -実力 の養成 ,不 断の努力 一 ,教 師 自 ら知識 の深化浄化 に努 む。 二 ,善艮 な る学習態度 の樹 立 に力を尽す。 三 ,各科学習法 の徹底 的訓練を図 る。 四,学 習上 -直観化 ,具体化,作業 化,郷土化 に最 善を尽す。 五 ,熱 帯地 に於 ける学習方法を合理 的且つ経済的 に 指導す る方法を研究す。 474 要 は児童 自 ら知識 の吸収 に興 味を持 ち自 ら研究 し 発表 し吟味 し何事 も自力 に依って為 さん とす る試為 的態度 の養成 に努力す。 訓育綱領 -健全 な る思想 ,不屈 の精神 一 ,教 師 白 ら実践窮行 よ く児童を感化誘導 し得 る力 を養ふ。 二 ,酷暑 にめげず酷熱 に境 まず営 々と して努 め孜 々 と して活動 し得 る意志 の鍛練 に留意す。 ≡ ,常 に皇室を崇 び国家を愛 し敬神 等 祖 の 念 を 養 ふ 。 四, 自治 自律 を 旨と し雄大応揚 な る気風 と大 国民た るの襟度 の快活 な る心状 に導 く。 五 , 日本人 た るの 自覚 を促 し凡ペての行動を厳正 な る道徳的価値判 断 と旺盛 な る意志的行為 に導 き 得 る善良進取 の習慣を養ふ。 六 ,個別的 に温情的指導をなす は勿論 な る も特 に国 際場樫 に在 って活躍すべ き日本人 と しての国体 的訓練 に力を注 ぎ其 の方法を研究す。 七 ,環境 に依って養 はれ る日本人気質 (大家族 を単 位 と し,村を単位 と し,町 ,郡 を単位 と して) は当地 に於 いて は教育指導困難 な るも努 めて此 の方面 の教化 に心掛 く。 八 ,海外 に在 るの故 を以って特 に 日本古来 よ り子供 を中心 と して伝 はれ る良風習 は な るべ く尊 重 し,行事 の行 ふべ きものは努 めて実施す。 要 は勅語 ,詔書並 に国民精神作興 に関す る詔勅等 の御趣 旨に基 き自覚 の徹底を基調 と した る, 自治 自 律道徳 の実践を指導督励 し以っ て 日本人 と して恥 じ ざ る徳性 の滴養 に努 力す るにあ り。 体育綱領 -抵抗 弾力 のあ る身体 ,元気 旺盛 な る 意気 一 ,熟帯地 に成長せ る児童 の体質 が比較的脆弱 なる ことを 自覚せ しめ各 自によ り体格 ,体質,体力 の (個別 的並 に団体的 に) 向上を重んず る習慣 を養ふ。二
,体 育気分を旺盛 な らしめ 体育趣味 の 滴 養 に 努 む。 ≡ ,厳 粛な る規律的 行動を 鍛練 し環境 よ り来 る 遊 惰 ,安逸,倫安 ,姑息 の気風 を矯 め健全 に して 旺盛 な る児童 の心身発育を助長せ しむ ることに 努 む。 四,衛生思想 の普及 に留意 し其 の実践を図 ること。 - 118-小 島 :南 洋 に お け る 日本 人 学 校 の動 態 五 ,体育 に関す る知識教育 に意を用ふ と同時 に児童 の体育 向上 に関 し,よ り以上 の研究をなす。 六 ,動作を機敏 になす と同時 に元気旺盛な る意気 の 養成 に努力す。 要 は健全 なる精神 は強健 なる身体 に宿 ることに留 意 し,児童を して身体 の強健 が 自己完成の根幹た る ことを 自覚せ しめ,積極的 には自己身体 の鍛練 に努 力 し,消極的 には衛生思想 に目覚 めて清潔を愛好す る習慣を養 ふにあ り。 文 献 藤原誠一・1930.「スマ ラン, バ タビヤ 両校合同 す べ し
」
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