年)の制定背景に関する一考察
著者 野口 久美子
雑誌名 同志社アメリカ研究
号 53
ページ 147‑168
発行年 2017‑03‑31
権利 同志社大学アメリカ研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015380
先住民フェミニズムと「家族」
― 児童福祉法(1978 年)の制定背景に関する一考察
野口 久美子
はじめに
1. 問題の所在―レッドパワー運動における女性の主張と児童福祉 1975 年の年末、サウスダコタ州スタンディング・ロック・スー族のメンバーで あるチャーレン・サマーズは娘を出産した。当時、サマーズはシングルマザーで あり、かつ学生であった。生後数か月経った頃、インディアナ州に住む白人夫妻 が、サマーズの就学期間、娘の面倒をみようと申し出た。サマーズは、一時的に 娘を預けるつもりで、夫婦が子供の代理人となる書類にサインした。しかし後に 彼女は、夫婦が彼女の娘を永久的に養子にしようとしていることに気が付いた。
サマーズから仲裁を要請されたスタンディング・ロック・スー族裁判所は、この 夫妻に対し、娘をサマーズの元に戻すようにという命令を下したが、夫妻はそれ を無視し続けた。その後、サマーズと部族裁判所は、慈善団体であるアメリカン・
インディアン問題協会(Association for American Indian Affairs、以下、AAIA) に助けを求め、代理人をたてて訴訟を起こした。後に部族が先住民児童の排他的 管轄権を持つという司法判決によって、娘はサマーズのもとに返された1。 これは、1970 年代までにしばしば報告された先住民の養子縁組をめぐる係争の 一つである。サマーズの例にみられるように、子育てには「不適切」だと判断さ れた先住民の親は、ソーシャルワーカーから里親を斡旋され、養子縁組制度を十 分理解しないまま、子供を養子に出した。1970 年代初頭において、全米の連邦承 認部族(以下、部族)のメンバーである 10 歳以下の子供のうち、25 から 35 パー セントが保留地外で生活していたとの調査もある。先住民の養子縁組は、当時、
部族自治を強く求めて運動を起こしていた先住民活動家から、痛烈な批判にさら されることになった。
1978 年 11 月 8 日、連邦議会は先住民の養子縁組制度をめぐってインディアン
1 Margaret D. Jacobs, “Remembering the ʻForgotten Child’ :The American Indian Child Welfare Crisis of the 1960s and 1970,” The American Indian Quarterly 37, no. 2 (spring 2013): 136-59.
児童福祉法(Indian Child Welfare Act、以下、児童福祉法)2を制定した。児童福 祉法は、先住民の子供を養子縁組する際、親が属する部族のメンバーが里親とな ることを推奨する一方、非先住民が里親となる際の条件(州が管轄)を厳格化した。
同法は、先住民の強制的な養子縁組に歯止めをかけるとともに、部族社会を構成 し、部族文化の継承に携わる部族メンバーの人員確保に大きく貢献した。それは、
1960 年代以降、部族の政治的、文化的、経済的自治、自活を目指した先住民の復 権運動、いわゆるレッドパワー運動の大きな成果の一つであった。
児童福祉法の成立に結実した先住民の養子縁組問題に対し、最初に声を上げた のはレッドパワー運動に参加した女性の活動家や知識人たちであった。レッドパ ワー運動とは、1960 年代、全米規模で展開されたマイノリティーの社会運動か ら影響を受けた、先住民による復権運動である。レッドパワー運動において、先 住民は、過去の連邦先住民政策を批判し、部族主権の尊重を訴えた。それらの主 権とは、部族がその居住地である保留地内において、メンバー規定を含めた政治 的、経済的、法的自治を行使できるという、国家内国家(Domestic Dependent Nation)3としての主権(部族自治権)である。
こうした運動には、多くの先住民女性も参加していた。しかしこれまでの研究 では、その主張について十分に焦点が当てられてこなかったといえよう。本稿は、
そうした先住民女性の活動理念を分析し、1970 年代に展開されたレッドパワー運 動、あるいはアメリカ社会における市民権運動に位置づけることを目的とする。
少々結論を先取りすれば、アメリカ社会における性差別と人種差別に直面して いた彼女たちが目指したのは、先住民としての「生き残り(survival)」であり、
そのために子供を産み、育てる権利であり、さらに、それを可能とする「伝統的」
な部族自治権の強化であった。中でも、彼女たちの運動の矛先は、先住民女性に 対する強制断種と、彼女たちから子供を強制的に引き離す養子縁組制度に向けら れた。女性活動家にとってこれらの問題の解決こそ、先住民女性のエンパワーメ ントと部族自治の強化につながる、中心的な活動目的となったのである。以下、
本稿では、特に養子縁組問題を取り上げ、先住民女性活動家たちの活動とレッド パワー運動の中でそれがいかなる成果をもたらしたのかを分析する。さらに本稿 では、以上の分析過程で、部族社会における「家族」や「児童福祉」の概念につ いて考察を加えたい。
以下、先行研究に言及したうえで、第1章では、1960 年代から 70 年代にかけ てのレッドパワー運動とそこでの先住民女性活動家の動向を、同時代におけるア
2 The Indian Child Welfare Act, 1978, PL95-608, 92 Stat. 3069.
3 藤田尚則『アメリカ・インディアン法研究(1)―インディアン政策史』(北樹出版、2012 年)。
メリカ主流社会の女性運動(第二派フェミニズム運動)との差異を明確化しなが ら整理する。第2章では、先住民女性の主張として、先住民の養子縁組問題にお ける先住民女性活動家や知識人の主張を分析し、最後には児童福祉法に込められ たレッドパワー運動期における先住民児童福祉の概念について考える。最後にま とめとして、児童福祉法とそれに結実する以上の議論を、広くレッドパワー運動 に位置づけたうえで、同法に体現された部族自治権と、それに基づく現代の部族 社会の諸相について分析を加えたい。
2. 先行研究
1970 年代におけるレッドパワー運動についてはすでに多くの研究蓄積がある4。 こうした研究は、レッドパワー運動の一部として総括される個々の活動に加わっ た女性たちについても言及している。しかしその中で、先住民女性が、具体的に いかなる問題意識を持ち、何を達成しようとしていたのかについての詳細な検討 は、ほとんどなされていない。加えて、アルカトラズ島占拠(1969 年)やウンデッ ドニー占拠(1973 年)などにおいてレッドパワー運動をけん引した、ラッセル・ミー ンズやデニス・バンクスら著名な男性リーダーの自伝が、アメリカ社会で大きな 注目を浴びたことは、まさに男性の視点からレッドパワー運動が解き明かされる 動きを加速させたともいえよう5。
1970 年代における女性活動家に関しては、当事者であるメリー・クロードッグ やウィノナ・ラドュークの自伝や演説集、同じく同時代の先住民の女性運動に参 加しながらも、後にアカデミアにおける先住民研究をけん引してきたデボン・ミ ヘシュアによる研究を参照することができる6。また、近年ではレッドパワー運動
4 Troy Johnson, Joanne Nagel, and Duane Champagne, eds., American Indian Activism: Alcatraz to the Longest Walk (Urbana: University of Illinois Press, 1997); Troy Johnson, The Occupation of Alcatraz Island (Urbana: The University of Illinois Press, 1996); Joanne Nagel, American Indian Ethnic Renewal: Red Power and the Resurgence of Identity and Culture (New York:
Oxford University Press, 1996); Alvin Josephy Jr., Joanne Nagel, and Troy Johnson eds., Red Power: The American Indians’ Fight for Freedom (Lincoln: University of Nebraska Press, 1999);
Charles Wilkinson, Blood Struggle: The Rise of Modern Indian Nations (New York: Norton, 2005).
5 Russell Means and Marvin J. Wolf, Where White Men Fear to Tread: The Autobiography of Russell Means (New York: St. Martin’s Press, 1995); Dennis Banks and Richard Erdoes, Ojibwa Warrior: Dennis Banks and the Rise of the American Indian Movement (Tulsa: University of Oklahoma Press, 2004); Stanley David Lyman et al., Wounded Knee 1983: A Personal Account (Lincoln: University of Nebraska Press, 1991).
6 Mary Crow Dog and Richard Erdoes, Lakota Woman (New York: Harper Perennial, 1991);
Devon A. Mihesuah, Indigenous American Women: Decolonization, Empowerment, Activism (Lincoln: University of Nebraska Press, 2003).
における先住民女性活動家の理念を扱った二つの博士論文が出されるなど、次世 代の女性研究者らによる、先住民女性運動の個別研究も蓄積されてきた7。こうし た研究が明らかにしたのは、1970 年代に活躍した先住民の女性活動家たちが、広 義のレッドパワー運動の中でも、特に、子供を産み、育てる権利、具体的には、
断種政策と養子縁組による子供の強制収奪に対して声をあげてきたという事実で ある。
とはいえ、本稿で扱う 1970 年代の養子縁組問題と、その解決策としての議会 法である児童福祉法に関する学術研究は、2000 年代に至るまでほとんど手つかず であった。理由としては、同法が「子供の利益」というナイーブな問題を含み、
特に、養子縁組に関係する当事者の証言を得るのが困難であったこと、そのため、
同法の評価が定まっていなかったことが挙げられる。だが 2000 年以降は、児童 福祉法の施行に伴う部族社会と非先住民養子家族との係争が増加した結果、先住 民の養子縁組問題が米国メディアで大きく取り上げられることが増え、特に、連 邦先住民政策とレッドパワー運動の両側面から児童福祉法に関する研究成果が蓄 積されはじめている8。また、2013 年には、1974 年以降の先住民研究をけん引して きた雑誌、『アメリカン・インディアン・クウォータリー(The American Indian Quarterly)』が、先住民の養子縁組問題に関する特集を組み、合衆国のみならず、
カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった、旧イギリス植民地の先住 民社会で起こる先住民の養子縁組問題を取り上げながら、現在でも高い養子率を 記録する先住民の児童福祉の現状について切り込んだ9。
本稿では、以上の研究成果を踏襲しつつ、一次史料として、主に各種論考や学 会における女性活動家の発言と、連邦議会に提示された各種調査結果を用いて、
先住民養子縁組問題の所在と児童福祉法の制定過程、さらには、そこで議論され た先住民社会の「家族」と「部族自治」の諸相について検討していきたい。
7 Elizabeth A. Castle, “Black and Native American Women’s Activism in the Black Panther Party and the American Indian Movement” (Ph.D Dissertation, Cambridge University, 2001); Meg Devlin O’Sullivan,“ ‘We Worry About Survival’: American Indian Women, Sovereignty, And The Right To Bear And Raise Children in The 1970s” (Ph.D Dissertation, University of North Carolina at Chapel Hill, 2007).
8 Allyson Stevenson (bio) “The 1978 Indian Child Welfare Act and the Politicization of First Nations Leaders in Saskatchewan,” The American Indian Quarterly 37, no. 2 (2013): 218-36;
T Paul Turner Strong, “What is an Indian Family? The Indian Child Welfare Act and the Renascence of Tribal Sovereignty,” American Studies 46 (2005): 205-31; Troy R. Johnson, The Indian Child Welfare Act: Unto the Seventh Generation: Conference Proceedings (Los Angeres:
American Indian Studies Center, UCLA, 1993).
9 Stevenson, The 1978 Indian Child Welfare Act, 218-36.
I 1960 年代におけるレッドパワー運動と女性活動家 1. レッドパワー運動
まずはレッドパワー運動について、少々時間をさかのぼりつつ、その内容と時 代背景について確認しておく。レッドパワー運動は、1950 年代末以降のアフリカ 系アメリカ人による公民権運動の影響を大きく受けて開始されたが、それにつな がる先住民アクティビズムのはじまりは 1940 年代までさかのぼる。歴史家ケネ ス・W・タウンゼントが指摘するように、第二次世界大戦での活躍は、先住民の アメリカ社会への同化や統合を促進したのみならず、その権利意識をも高めた10。 先住民は、過去の不当な連邦先住民政策に対する補償を求め、組織的運動を展 開したのである。1944 年には、戦争から復員した先住民が中心となり、50 部族 の代表者によって全国アメリカ・インディアン議会(National American Indian Congress、以下、NCAI)が設立された。NCAI は部族自治の強化を目指す部族リー ダーの活動母体として、以後の先住民運動をけん引することになる11。
1961 年、NCAI が主催したアメリカ・インディアン・シカゴ会議(American Indian Chicago Conference) で は「 イ ン デ ィ ア ン 目 的 宣 言(Declaration of Indian Purpose)」が出され、連邦管理終結政策12の廃止、連邦プログラムの立案、
運営における先住民の参加、それに伴う内務省の組織改革など、先住民の部族自 治を支えるための重要な提言が出された13。シカゴ会議を契機として、1960 年代 から 70 年代にかけて、先住民による復権運動は、瞬く間に全国に広がっていった。
こうした運動は、NCAI に加え、都市に移住した先住民が中心となって組織した アメリカ・インディアン・ムーブメント(AIM)に代表されるような、時に急進 化した直接行動も引き起こした。
運動の参加者は、連邦政府主導の連邦・部族関係を解消し、部族自治の一層の 強化を訴えた。歴史的分析を加えれば、レッドパワー運動は、1934 年のインディ
10 Kenneth W. Townsent, World War II and the American Indian (Albuquerque: University of New Mexico Press, 2002).
11 Thomas W. Cowger, The National Congress of American Indians: The Founding Years (Lawrence: University of Nebraska Press, 2001).
12 連邦管理終結政策では、先住民の特殊な政治的、法的地位を終結させるため保留地の民事・刑事 管轄の各州への移行と、先住民の都市への移住が推進された。
13 内田綾子『アメリカ先住民の現代史―歴史的記憶と文化継承』(名古屋大学出版会、2008 年);
Kenneth R. Philp, Termination Revisited: American Indian on the Trail to Self-Determination, 1933-1953 (Lincoln: University of Nebraska Press, 1999); Donald Fixico, Termination and Relocation: Federal Indian policy, 1945-1960 (Albuquerque: University of New Mexico Press,
1990).
アン再組織法(以下、再組織法)で新たに構築された部族自治体制(内務省主導 で設立された部族政府が部族自治を担う体制)と、先住民の「伝統的」な部族自 治体制の矛盾を突きつつも、一方で、現実的なエンパワーメントの手段として、
再組織法型部族自治体制の強化を強く訴えるものでもあった。レッドパワー運動 後の先住民社会では、部族が単位となって先住民の復権を目指すことを意味する 部族主義(Tribalism)や部族ナショナリズム、部族プログラムといった概念が 作り出された14。これらは、先住民が連邦法の下で構築された「部族」という概 念を戦略的に用いつつも、部族本来の伝統的政治、文化、社会形態を強化するこ とを目指す、現代の先住民社会の根幹をなす概念である。よって、部族成員の確 保と部族社会の維持に欠かせない先住民の子供の保護を、部族が主体的に行うこ とを目的とする児童福祉法も、部族自治を掲げる先住民の声が連邦議会に届いた レッドパワー運動の成果の一環として位置づけることができるのである。
2. レッドパワー運動と女性活動家
アルカトラズ島占拠は、レッドパワー運動の中でも特に注目される先住民の抗 議行動であった。1969 年 12 月 19 日、占拠の中心メンバーであった「全部族のイ ンディアン(The Indians of All Tribes)」 がメディアを通して発した文書は、こ の占拠の目的を「共通の理由によって引き起こされた、我々インディアンの兄弟
(all our Indian brothers)」の団結であるとし、実際に、この占拠が起爆剤となり レッドパワー運動は多くの先住民を動員して拡大した。しかし、アルカトラズ島 占拠も、またそれに続く活動も、「インディアンの兄弟」の言葉に表れる男性の みの運動では決してなかった。アルカトラズ島占拠では、ラナダ・ボイヤーやス テラ・リーチ、グレイス・ソープなどの女性活動家が指導的役割を担っていたし、
1973 年のウンデッドニー占拠にも、男性 150 名に対して、女性 200 名が参加して いたといわれている15。
後に確認するように、レッドパワー運動における女性活動家は、基本的には部 族自治の強化を目指すという運動目的を、男性活動家と共有していた。これは、
運動において両者が協働できた根本的理由である。だが一方で、女性活動家らが 独自に着目したのは、生殖と子育ての問題であった。ウンデッドニー占拠の翌年、
占拠に参加した女性たちは、こうした問題が周縁的にしか扱われないことに対 するかねてからの反発から、「全レッド・ネーションの女性たち(Women of All
14 野口久美子「公民権・ポスト公民権期におけるアメリカ先住民研究の設立過程と展開―ジャック・
フォーブズの教育理念と史的境界の再考」『アメリカ史研究』37 号(2014 年)。
15 O’Sullivan, We Worry About Survival, 15.
Red Nations、以下、WARN)を設立し、独自の運動を開始した。WARN は、特 に強制断種、非先住民への先住民の養子縁組への反対を掲げ、以後、先住民女性 運動の活動母体となっていく16。
レッドパワー運動における先住民女性の活躍は、広くは、アメリカ社会におけ る第二派フェミニズム運動の動きと連動していることはよく知られている。公民 権運動を経験した 1970 年代以降のアメリカ社会は、多文化主義的社会の構築に 向けて大きく前進した。それはいわゆる第二派フェミニズム運動に結実する、女 性の権利運動において、特に顕著だったといえるであろう。「インディアン目的 宣言」が発せられた 2 年後の 1963 年には、ベティー・フリーダンによって、第 二派フェミニズム運動の始まりに大きな影響を与えることになる、『フェミニン・
ミスティーク(The Feminine Mystique)』が刊行された。後にフリーダンは女 性の政治的、経済的平等と主流社会への参画を目指す全国女性組織(National Organization for Women、以下、NOW)を設立した。女性参政権を獲得し、「公 領域」における男女の平等化を達成した第一派フェミニズム運動から、女性運動 はさらなる展開を見せ、第二派フェミニズムは家庭という「私領域」でおこる諸 問題が、男女の不平等な関係と密接にかかわっていることを暴きだした。NOW に代表される、男女の平等な政治的、経済的地位を求めるリベラル・フェミニズ ムや、「個人的なこととは政治的なことである」として私生活とセクシュアリティ の抑圧から女性を解放したラディカル・フェミニズムなど、第二派フェミニズム 運動は内部での多様性を内包しつつも着実にその運動を拡大させていった。その 結果、公民権法やアファーマティブ・アクションなどの立法化、教育やメディア における新しいジェンダーの役割の提示、また女性の雇用を促す経済構造の変化、
そして避妊ピルの開発に代表されるような女性の身体や「生殖」をコントロール する権利の獲得など、多くの成果を生んだ17。
政治的、経済的平等を追及する第二派フェミニズム運動は、中産階級に属する、
特に白人女性たちの声を救い上げることには一定の役割を果たした。しかしなが ら、同運動は、先住民、黒人、アジア系、ラティーノ、あるいは労働者階級の女 性など、人種、エスニシティー、階級による女性間の異なる経験に目を向けるこ とはできなかった。第二派フェミニズムで提唱された「シスターフッド」の理念は、
まさに「白人中心」の連帯であり、そこに「有色人」の女性が加えられることは なかったのである。そのため第二派フェミズム運動は、マイノリティーの女性や、
16 Mille Knapp, “Circle of Unity: Portraits and Voices of Native Women,” Turtle Quarterly 4 (1992):
29-53; Marla Powers, Oglala Women: Myth, Ritual, and Reality (Chicago: University of Chicago Press, 1986).
17 荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会―身体をめぐる戦争』(岩波書店、2001 年)。
あるいは広く多文化主義運動から痛烈な批判にさらされることになる18。
一方、第二派フェミニズム運動に触発されながら、先住民女性は独自の運動を 展開させていった。例えば、AIM のメンバーの一人であるメアリー・クロー・ドッ グも、「ウーマンリブは白人で、中産階級のこと」とし、NOW に代表される第二 派フェミニズム(特にリベラルフェミニズム)とは距離を置いていた。また同じ く AIM に参加し、WARN の設立メンバーの一人であるマドンナ・ギルバートが、
1976 年、『MS マガジン(MS Magazine)』の取材に答えて放った次の言葉は、ま さに白人フェミニストと協働することをあきらめた先住民活動家の心理を的確に 表現しているといえるであろう。「あなたの文化では、男たちとの多くの問題を 抱えているわね。たぶん、私たちの文化でもそうでしょう。だけど、私たちは、
性差別について考える時間なんてない。そもそも、いかにすれば生き残っていけ るかを考えているだけで精一杯だから19。」1970 年代の先住民フェミニストは、先 住民社会内に存在する先住民男性からの「性差別」と、先住民を身体的、文化的 絶滅へと追い込んできた歴史的経験、つまり「植民地主義」という二つの戦いに 身を置いていたことがわかる。
第二派フェミニズム運動が扱えなかった先住民女性の視点とは、「生殖」をめ ぐる議論に顕著である。当時、NOWに代表されるアメリカ主流社会の白人フェ ミニストが目指したのが、子供を作らない、産まない権利、つまり避妊と中絶の 権利の獲得であったのに対して、先住民女性や他のマイノリティー・フェミニス トが求めたのは、むしろ子供を産み、育てる権利であった。第二派フェミニズム の中で展開されてきたプロ・ライフとプロ・チョイスをめぐる議論は、一方で、
歴史的に子供を産み、育てる権利を強制的に剥奪されてきた先住民、あるいはマ イノリティーの女性特有の歴史的経験と苦境に焦点を当てることができなかった といえよう20。
II 先住民の養子縁組 1. 同化政策としての養子縁組
以下では、先住民の養子縁組制度を取り上げ、先住民女性が、性差別と植民地 主義の中で直面してきた問題とその歴史的背景を整理してみたい。先住民に対す
18 Ibid.
19 Susan Braudy, “ ‘We Will Remember’ Survival School: A Visit with Women and Children of the American Indian Movement,” MS Magazine 5, no. 1 (July 1976): 77-80, 94-102.
20 Benita Roth, Separate Road to Feminism: Black, Chicana and White Feminism Movements in America’s Second Wave (Cambridge: Cambridge University Press, 2003).
る養子縁組政策は、現代に始まった試みではない。先住民の子供を部族社会から 引き離し、白人社会で養育、教育する歴史は、合衆国の建国期までさかのぼる。
例えば、18 世紀初頭、ウィリアム・アンド・メアリー大学では、近隣の先住民部 族から子供を集め、寄宿生活の中でキリスト教とイギリス式の生活スタイルを教 えるアウティング・スクールがすでに設立されていた。また先住民社会を「野蛮」
で「自律的」ではない「怠惰」な社会であるとし、その子供たちを親から離して「文 明化」させようとする初期の試みは、キリスト教の宣教師によって行われていた。
特に合衆国東部では、先住民に対するキリスト教の布教や「文明化」政策の一環 として、一部の先住民の子供たちを白人宣教師宅に住まわせる里親制度も存在し ていた21。
先住民戦争や、伝染病、虐殺、離散などによって先住民人口が減少すると、19 世紀末より、連邦先住民政策は、「身体的虐殺から文化的虐殺」へ、つまり、先 住民文化を否定し、先住民にアメリカ文化を強要する同化政策の時期に本格的に 移行した。特に 1870 年代以降、同化政策は教育政策の中で推進された。連邦議 会やキリスト教会が出資した先住民のための寄宿学校が、保留地内外に設立され、
主に幼年期から 20 歳までの先住民が送られた22。
1879 年に最初の寄宿学校、カーライル・インディアン学校を設立した元軍人の リチャード・ヘンリー・プラットの教育目標は、「インディアンは殺せ、人間は救え」
である。その目標通り、寄宿学校では、英語の使用や西洋名への変名、洋服の着 用が強要されたことに加え、男女の役割分業と西洋式ジェンダー観に基づく、厳 しい「しつけ」が行われた。特にカリキュラムの中には、一般教養以外に、女子 生徒には料理、縫物などの家事業が、男子生徒には鍛冶業、農業などが、実施訓 練ともに組み込まれた。生徒には軍隊式の厳しい行動規則が課せられ、男女分か れて生活するそれぞれの寄宿舎から教室までの移動は行進によってなされた。寄 宿学校の推進者は、子供が毎日帰宅して保留地社会に戻る通学制の学校教育では なく、一定期間、保留地から離し、徹底的に西洋式生活を教え込む寄宿学校教育 によって、先住民の「文明化」を達成できるとした。1909 年までには、25 の保 留地外寄宿学校、157 の保留地内寄宿学校、307 の通い学校が全米で運営されて いた。その中でも、寄宿学校には延べ計 100,000 人以上の子供が収容されたとい われている23。
先住民を主流社会へ同化させることを目的とした同化政策は、部族文化や保留
21 David Wallace Adams, Education for Extinction (Topeka: University of Kansas Press, 1995).
22 富田虎男『アメリカン・インディアンの歴史』(雄山閣、1982 年)、15 頁。
23 Andrea Smith, Conquest: Sexual Violence and American Indian Genocide (Cambridge: South End Press, 2005) , 36.
地社会の崩壊と表裏一体ですすめられた。20 世紀初頭、内務省インディアン局
(Bureau of Indian Affairs、以下、インディアン局)は保留地における部族の儀 式を禁止し、その社会システムの西洋化に積極的に関与した。また 1924 年には、
すべての先住民にアメリカ市民権を付与する先住民市民権法が制定されている。24 だが結果として、寄宿学校教育は当初期待されていた成果をあげることはでき なかった。1928 年に刊行された、連邦政府外の調査機関による保留地社会の包括 的調査、いわゆるメリアム報告書(Meriam Report)は、寄宿学校教育の倫理的、
かつ経営上の問題点を的確に指摘している。確かに、寄宿学校教育はアメリカ社 会での生活を選択する先住民や、アメリカ社会と先住民社会との懸け橋となる先 住民リーダーを輩出した。しかし一方で、寄宿学校では、資金不足による悪質な 衛生環境の中で多くの子供が死亡し、それに加えて、教員の能力の低さや教員数 の欠如によって、学校運営が常に行き詰っていた。また、卒業した者の多くは、
こうした寄宿学校での生活を「トラウマ」としながら、保留地の先住民社会に戻っ ていった25。
また、同化政策は保留地社会の女性の役割も大きく変化させた。特に寄宿学校 での職業教育は、女性のみに家事労働に伴う技術を習得させた。それは、女性を 家事労働の担い手として位置づけ、彼女たちがその他の選択肢をとることを困難 とした点において、女性を家庭生活に囲い込む役割を果たした。また、土地政策は、
一家の家長が最大の土地を所有する仕組みを作り出し、一方で、元来女性が持っ ていた財産、土地管理に対する発言権を縮小させた。以上のように、同化政策は、
部族社会に家父長制を浸透させることにより、部族社会で女性が担う役割や、保 留地社会全体に対する女性の責任意識の在り方を変質させていったことは、先住 民フェミニズム研究の中でしばしば指摘されてきたことである26。
メリアム報告書により寄宿学校教育の惨状が伝えられると、寄宿学校数自体は 減少に向かったが、一方で、保留地社会や部族生活が、先住民の子供の文明化や 子供の福祉には害であるとの教育理念は、連邦先住民政策の中で維持された。そ の結果、同報告書は、寄宿学校政策の代替として、先住民の非先住民家庭への養 子縁組を提案している。報告書は、「(先住民の)生活は未だ原始的だが、先住民
24 Wilcomb E. Washburn, The Assault on Indian Tribalism; The General Allotment Law of 1887 (Philadelphia: J.P. Lippincott Co., 1986).
25 Lewis Meriam, The Problem of Indian Administration (Baltimore: John Hopkins Press, 1928).
26 Shari M. Huhndorf and Cheryl Suzack, “Indigenizing Feminism: Theorizing the Issues,” in Indigenous Women and Feminism: Politics, Activism, Culture, eds. Cheryl Suzack Shari M.
Huhndorf, Jeanne Perreault, and Jean Barman, (Vancouver: University of British Columbia Press, 2010), 1-20.
は生得的には変化を受け入れ、たしかに教育されうる」とし、「孤児、あるいは 家のない子供たちは、里親のもとで育てられることで、立派な家族生活を送る ことができる」とした27。こうして、特に戦後のアメリカ社会では、寄宿学校に 代わる先住民の文明化教育の一環として、非先住民家庭への「養子縁組」(racial matching)が積極的に行われたのである。
1958 年、インディアン局は、アメリカ子供福祉連盟(American Child Welfare League、以下、ACWL)の協力を得て、正式に先住民養子縁組プロジェクトを 立ち上げた。1961 年、インディアン局は、「不適切で、崩壊した家庭」で「ネ グレクト」されているとされた先住民子供の数を 2,300 人とし、1965 年にはそ のうち 209 人の先住民の子供を養子縁組により非先住民の里親に送った。続い て ACWL は、民間慈善団体である「北アメリカ養子情報交換組合(Adoption Resource Exchange of North America)」との協力の下で、1967 年に 385 人、さ らに翌年には 400 名の先住民の子供を非先住民家庭に養子として送り出した28。ま た 1974 年以降、ACWLは州と提携して、州ごとに先住民の養子縁組を促進し た29。
こうした養子縁組制度は、子供を育てることが「不適切」と言われている保留 地環境、あるいは子供を養子に出さざるを得ない家庭環境の改善が行われないま ま進められた。そもそも、「不適切」とされた保留地や先住民の家庭環境とはい かなるものであったのか。メリアム報告書でも報告されているように、20 世紀初 頭、保留地に居住する先住民は、過去の連邦先住民政策の失敗や農業に向かない 保留地での生活のため、貧困状況にあり、また生活苦や精神疾患による自殺率や アルコール依存症率が高い状態にあった。インディアン局はおよそ 40%の先住民 の母親が深刻なアルコール中毒であり、また 20 パーセントの母親が子供に対す る育児放棄状態にあるとしている30。
保留地環境を調査し、実際に先住民の養子縁組を斡旋したのは、インディアン 局や非営利団体に属するソーシャルワーカーであった。ソーシャルワーカーは、
先住民両親の子供に対する「ネグレクト」を問題視した。特に、アルコー依存症 や何らかの健康問題を抱え、あるいは就労、就学状況にあり子育てが困難な親を 持つ子供、また、叔父、叔母、祖父母やいとこなど、両親以外によって保護され ている子供は、「ネグレクト」された「不適切」な環境に置かれていると判断された。
27 O’Sullivan, We Worry About Survival, 41.
28 Francis P. Prucha, The Great Father: The United States Government and the American Indian II (Lincoln: University of Nebraska Press, 1984), 1154.
29 O’Sullivan, We Worry About Survival, 53.
30 Ibid., 62.
その際、ソーシャルワーカーは、アメリカ主流文化において、子供を含めた核家 族形態の中で子育てができる夫婦の育児環境を「適切」とし、両者の養子縁組を 斡旋したのである31。
しかしながら、「適切」な育児環境についてのソーシャルワーカーの判断が、
先住民の家族形態とその役割に関して、常に十分に理解したうえでなされていた とは言いがたい。元来、多くの先住民部族は、子供と、その両親、祖父母、叔父、
叔母などの親族が共住する拡大家族単位で生活を営んでいた。拡大家族では、子 供の伯父、伯母(叔父、叔母)は、それぞれ両親と同様の役割を果たし、さらに 祖父母も積極的に育児を担った。また、こうした家族において、親が死亡した場合、
あるいは子育てができない場合、他の家族成員がそれを担うことは、ごく自然な こととされていた。核家族形態とは、先住民にとってむしろ避けるべき育児環境 であった32。
つまり、先住民の子供は、拡大家族による相互扶助システムの中で養育されて いながらも、それを両親の「ネグレクト」と誤認したソーシャルワーカーによっ て家族から引き離されることが多かったといえよう。1976 年、各州の先住民の養 子縁組状況について、連邦議会に提出されたデータによれば、非先住民の子供と 比較して、先住民の子供の養子数は、例えばミネソタ州で 5 倍、サウスダコタ州 で 6 倍、ワシンントン州では 19 倍もの高さであった。しかしながら、ノースダ コタ州において、その両親による身体的暴力が理由で養子縁組をした先住民は、
わずか1パーセントにすぎなかったのである33。
一方、先住民との養子縁組を希望したのは、主に中産階級に属する「白人」夫 婦であったと報告されている。これほどまでに先住民の高い養子率の背景には、
白人社会において、先住民との養子縁組に高い需要があったことも指摘できよう。
既述のように、1970 年代の第二派フェミニズム運動の成果として、アメリカ社会 では女性が自身の身体をコントロールする権利が浸透していった34。当時、白人中 産階級の女性の間では、国家人口を一定数に抑えるため、女性が生涯に出産する 子供の数を制限し、余力があれば養子を迎えるべき35、との意見があった一方で、
そもそもバースコントロールと女性の社会進出によって、女性が生涯に産む子供 の数も減少していた。そのような中、養子縁組は女性が子供を持つ一つの手段と
31 Ibid.
32 Ibid.
33 Ibid., 128.
34 Gloria Steinem, “The Way We Were and Will Be,” MS Magazine 8, no. 6 (December 1979).
35 Marrjorie Godfrey and Caroline Bird, “Have One, Adopt One,” MS Magazine 5, no. 4 (October 1976).
して確立されていったのである36。
女性たちは、養子縁組をする子供を非白人から迎えることが多かった。その背 景として、そもそも、白人中産階級全体では、養子にだす子供の数が少なかった ことに加え、異人種間での養子縁組は、国家や自治体主導による、マイノリティー に対する歴史的同化政策の一環として斡旋されていた。また、中でも養子を希望 する夫婦は、他のマイノリティーと比較して、先住民の子供との養子縁組を望ん だ。先住民の子供との養子縁組は、全国の養子縁組事例全体の 85 パーセントに 及んだとも言われている37。アンドレア・スミスは、その理由として、アメリカ社 会では先住民に対する「自然」「高貴なる野蛮」といったステレオタイプ化され たイメージが広まっており、養子を望む夫婦は、先住民を受け入れ、養育する責 任があるという心理を持つ傾向にあったのだと分析する。養子に出される先住民 の数は、主な養子先である白人社会における養子希望者数の多さに裏打ちされた ものでもあった。以上の状況を鑑みれば、1960 年代から 70 年代にかけて生まな い権利を求める白人女性と、生み、育てる権利を奪われてきた先住民女性の境遇 は、相乗的に作り出されてきたともいえる。
2. 先住民の「家族」と「子育て」に関する先住民フェミニストの言説 WARN の設立メンバーの一人であり、ラコタ族出身のウィノナ・ラドュークは、
アメリカ社会における「性暴力」と「植民地主義」政策の接点として、先住民社 会における養子縁組問題に関する議論を展開した一人である。ラドュークは、先 住民女性が被ってきた女性の強制断種と子供の養子縁組政策は、先住民女性が子 を産み、育てる権利を国家レベルで奪ってきた性暴力であることに加え、国家が 先住民社会の人的資源を奪い、強制的に統治する手段として採用してきた「植民 地主義的」政策の一環でもあると非難した38。同じく WARN のメンバーであった アンドレア・スミスも、「性暴力を根絶する」には、「性暴力を通して推し進めら れてきた植民地主義39」を分析することが必要であるとして、ラドュークに同調し た。前節でみてきたように、確かに、先住民の「家族」形態が西洋中心主義的家 族観をもつソーシャルワーカーの目を通して批判にさらされた結果、子供を育て る先住民女性の権利が奪われ、さらに、こうした性暴力は、国家による植民地主 義的な先住民支配の手段である、同化政策の中で推し進められてきたのである。
36 Ibid.
37 Smith, Conquest, 41-42; O’Sullivan, We Worry About Survival, 80-81.
38 Winona LaDuke, “In Honor of Women Warriors,” Off Our Backs: A Women’s New Journal 11, no. 2 (1981): 3.
39 Smith, Conquest, 3.
ラドュークは、植民地主義から部族を解放することが、先住民女性に対する性 差別を終わらせ、先住民女性の「伝統的」役割を復活させる重要な術であるとした。
それに関して、レッドパワー運動期以降、アメリカ先住民研究の中で、先住民女 性の「伝統的」役割に関する研究が蓄積されてきた。例えば、チェロキー族の先 住民女性が伝統的に担ってきたトウモロコシひき作業の社会的役割を分析したレ ベッカ・ソシーは、その中で女性が持っていたコミュニティーにおける「責任の 倫理(an ethic of responsibility)」とコミュニティーの「再生と再来の連鎖(cycle of rebirth and regeneration)」に関する役割について述べている40。後に、先住民 フェミニストのポーラ・ガンやシェリー・ウィット、エレサ・ラフランブワーズ らは、こうした女性の役割が、西洋文化におけるジェンダーのヒエラルキー化に さらされ、男性に割り当てられた「政治、経済的役割」の下部に位置づけられる ようになった過程を理論化した。「伝統的」な先住民社会では、女性が子供を産み、
育てることは、女性が自身のためのみならず、「コミュニティーのために」担っ ていた社会的役割の一環としてとらえられていた41。先住民女性活動家たちは、子 供の養子縁組をめぐる議論の中で主張してきた子供を育てる権利を、女性の権利 の一部として取り戻そうとしているわけではない。彼女たちは、女性が「責任」
と「再生と再来の連鎖」の役割を担っている部族社会そのものの再建を目指して いたといえよう。それは、同じく西洋文化の流入によって作り出された「男たち との問題」をも解決できる社会であった。
先住民女性の復権について述べたナンシー・ルーリエは、部族文化の復興のた めには、「インディアン・グループが異なる社会的集合体として存続することを 承認するように声高に主張すること」が重要であるとしつつ42、中でも、先住民の 社会形態である拡大家族での子育てこそは、部族の文化復興の鍵」であるとした。
ルーリエによれば、部族は、「自治国家の生得権として、・・・その成員を決定す る権利を持つ43」のであり、つまり、子供を管理する責任と義務を担うのは、連邦 政府ではなく、女性、あるいは女性を中心とした拡大家族であり、そうした女性 の役割を内包する「伝統的」部族社会そのものであった。
また、後に「児童福祉法の母」と呼ばれ、全国インディアン・ソーシャルワーカー ズ協会の副会長を務めたニューメキシコ州ラグナ・プエブロ族のエヴェリン・バ
40 Rebecca Tsosie, “Native Women and Leadership,” in Indigenous Women and Feminism , eds.
Suzack, Huhndorf, Perreault, and Barman, 29-42.
41 LaDuke, In Honor of Women Warriors, 3.
42 Nancy Lurie, “The Voice of the American Indian: Report on the American Indian Chicago Conference,” Current Anthropology 2, no. 5 (1961): 478-500.
43 O’Sullivan, We Worry About Survival, 11.
ランチャードは、1988 年に行われた児童福祉法の修正法案の公聴会で次のように 述べている。「インディアンは二つの社会システムの中で生きています。一つは 血縁的な関係性、もう一つはクラン(氏族)やバンド(社会集団)といった関係 性です。部族社会におけるこれら二つのシステムが合わさって、部族生活を作り 上げているのです。インディアンである我々は、この構造の中で特定の地位と責 任を持っています。これらの責任は、我々の権利であり、個人の権利でもありま す。私たちの母であれ、これを否定する権利を持っていません。我々はこのシス テムを望みます。我々は子供たちにも、それが必要であることを分かっているの です。44」先住民女性活動家らは、先住民社会と非先住民社会の本質的差異を提示 したうえで、植民地主義政策が歴史的に否定し続けてきた先住民の部族社会、さ らにはそれを構成する単位である拡大家族こそが、先住民の子育てに必要である と説いた。このように、子供を育てる女性の権利は、女性がその維持に重要な役 割を担う「伝統的」部族社会の復活と深く関連づけて主張された。
1960 年代から 70 年代にかけての先住民の女性活動家の言説や経験を分析した メグ・デブリン・オサリバンは、先住民女性による政治運動の目的は、女性とし ての個人的権利の追及ではなく、彼女たちの属するコミュニティーや部族社会の 回復に他ならないとする45。もし女性の脱権力化が、植民地主義的支配、さらには それに伴う家父長主義の浸透と部族崩壊の結果であるならば、脱植民地化、ある いは、部族社会の復活と強化は女性の復権につながる。こうして、先住民女性の エンパワーメントは、部族自治と強く結びつくのである。これは、先住民女性活 動家が、他の男性活動家とレッドパワー運動で協働しえた根本的理由である。
先住民の女性活動家にとって、「brother」の団結による部族自治の強化が目指 されたアルカトラズ島占拠は、植民地政策における同化政策の結果、本来、女性 が強い政治的権限を持っていた先住民社会に家父長的価値観が入り込んだことを 示す、皮肉なスローガンであった。しかし、こうした男性主義的側面をもつレッ ドパワー運動に女性が参入できたのは、「彼ら」の運動が、女性のエンパワーメ ントを求める「彼女」たちの主張と、部族自治の強化という最終目的を共有して いたためである。さらに言えば、「子供を育てる権利」の問題をめぐる、第二派フェ ミニズム運動と先住民フェミニズム運動の活動目的は、前者の運動が(少なくと も 1970 年代においては)、男性と対立する存在としての女性の権利拡大を最終目 的に掲げていたのに対し、後者の運動は、男性を含む先住民社会全体に対する責
44 Hearings before the Selected Committee on Indian Affairs, US Senate, 2nd sess., S.1976 to amend the Indian Child Welfare Act, May 11, 1988, S. Hearings, 100-854.
45 O’Sullivan, We Worry About Survival, 26-28.
任を担う存在としての女性の復権と部族自治を掲げていたことで、相いれないも のであったといえよう。
3. 児童福祉法に向けた動き
子供を育てる権利として先住民の女性活動家が取り組んだ養子問題は、レッド パワー運動が先住民の部族自治に向けた複数の立法措置、あるいは政策改革を後 押しした 1970 年代末、児童福祉法に結実した。最後に、児童福祉法案に関する 連邦議会での議論と児童福祉法の内容を確認しつつ、上記の先住民運動がいかに して立法化に至ったのかについて述べる。
先住民女性活動家による以上の主張は、1960 年代末より複数の部族からの要請 を受けて、すでに包括的調査とロビー活動に従事していた AAIA により、全国的 な議論へと発展した。1974 年、AAIA は、連邦議会上院アメリカ先住民問題委員 会に対して、先住民の児童福祉に関するヒヤリングを要請した。「子供の養育に 関してアメリカン・インディアンが直面する問題と、それに連邦先住民政策がい かに関与、あるいは不関与であるか」と題されたヒヤリングで、AAIA の最高責 任者であったウィリアム・バイラーは、「ここ数十年にわたり、インディアンの 両親と彼らの子供たちは、地域、州、連邦、私的団体の関係者の専制的、あるい は不正な行動をなすがままに受け入れてきた。子供を、その家庭から不当に引き 離すという事態が、インディアン・コミュニティで横行している」と証言した46。 続いてバイラーは、AAIA が行った子供の養子縁組に関する「ショッキング」
な調査結果を公表した。それによれば、調査を行ったミネソタ州では、当時、18 歳以下の子供のうち 8 人に 1 人が養子縁組に出されており、1971 年から 72 年に かけては、1 歳児の 4 人に1人が養子に出されていた。また同州では、1969 年に おいて、85 パーセントの先住民の子供は、非先住民の里親によって育てられ、彼 らの大半は合法的な法律に基づかずに強制的に連行されていた。バイラーは先住 民が貧困や差別によって子育てに多くの困難を抱えているのは事実であるが、「先 住民の両親が子供を育てるのに不適切」であるとは言えず、また、「インディアン・
コミュニティが子供のネグレクトの問題を解決することができないとする理由や 正当性もない」と述べている47。
同時期、AAIA の動きに触発され、各地に先住民と非先住民の養子縁組を阻止 することを目的とする福祉団体が相次いで設立された。例えば、北アメリカ・イ ンディアン女性協会(The North American Indian Women’s Association)は、
46 Ibid., 7.
47 Ibid.
先住民の児童福祉を見直し、先住民の家族からの引き離しについて強く抗議する ための組織として設立された。1974 年にニューメキシコ州アルバカーキで開催 された全国インディアン子供育成会議(National Indian Children Development Conference)では、先住民女性がネイティブ・アメリカン子供養護団(Native American Child Advocate)を設立し、部族が子供の流出を積極的に阻止せねば ならないと訴えた。また、1970 年代を通して、ローズバッド保留地、チョクトー 保留地をはじめとして、部族が主導する先住民児童福祉プログラムが続々と設立 された48。
レッドパワー運動に加え、1970 年代初頭における連邦政府内外のこうした動き が、先住民の養子縁組問題に関する、連邦議会での法制化への圧力となった。後 に児童福祉法となる議会法案は、1977 年の第 95 連邦議会に提出された。連邦議 会審議で証言した AAIA のスティーブン・アグナーは、先住民の養子縁組が増加 した背景として、連邦政府が、先住民の「救済措置」として「非先住民社会の基 準を強制的に当てはめてきた」ことを指摘し、加えて、ソーシャルワーカーの先 住民社会に対する理解不足を非難した。その上でアグナーは、先住民の多くの子 供が「ネグレクト」や「社会的困窮」下にあり、身体的虐殺にさらされていると の評価を否定し、そうした評価は、先住民社会における価値基準、態度、慣習の 否定でもあるとした。アグナーによれば、拡大家族や相互扶助関係を持つ先住民 の家族成員は、一家族あたり時として 100 名を超え、こうした家族が子供のケア を集団で担っていると指摘し、先住民社会の子供、家族の在り方に「敬意をもつ べき」と訴えた49。
1978 年 11 月 8 日、児童福祉法(P.L 95-608)が成立した。同法は、その目的に ついて以下のように述べている。「先住民の両親と子供を無理やり引き離すよう な不当な児童福祉の実践を止め、インディアンの両親を里親や養子家族には適さ ないとして差別することなく、それらをインディアン・コミュニティに一任する ことによって、インディアン家族を統合すること。」児童福祉法はまず、先住民 の子供を「インディアン部族の統合や維持にとって必要不可欠」とした上で、合 衆国は「先住民の子供を保護する」責任があるとし、立法化の意義を述べた。そ の上で、同法は、「インディアンの子供の最大の利益」を守り、「インディアン部 族と家族の安全と安定を促進する」ため、子供を管理する権利は部族に帰すると した。具体的には、先住民の子供にとって養子縁組が必要な場合、その里親は、
子供の拡大家族、子供の属する部族のメンバー、その他の部族のメンバーという
48 Ibid.
49 Strong, What is an Indian Family, 208.
優先順位で決定されること、その際、非先住民との養子縁組は最終手段とされ、
部族外への子供の養子縁組は、部族と子供の親の意向を踏まえ、厳格な規定に則っ て行われることが確認された。さらに同法は、保留地内外で「インディアン家族 の崩壊を防ぎ、特に、インディアンの子供をその両親やインディアンの保護者か ら永遠に引き離そうとすることが起きないように」、子供と家族向けの部族プロ グラムに資金援助を行い、さらに子供福祉条例を制定するよう部族政府に促し た50。
まとめとして
レッドパワー運動の成果は多岐にわたる。中でも、1975 年のインディアンの自 決と教育援助法、1990 年のネイティブ・アメリカン墓地と遺物返還法といった法 整備に至る同運動の成果の一つは、連邦政府が(連邦承認)部族の自治を認め、
それらを法的、政策的、財政的に支持することで、先住民に対する歴史的義務と 責任を果たすという「しくみ」を確立したことである。部族成員の子供の管理が 部族によって担われるべきであることを確認し、それを国家が支援するという児 童福祉法も、こうしたしくみを強化したといえよう。児童福祉法は、部族が子供(部 族成員)を管理する責任をもつことで、養子問題の解決策とした。その点におい て、同法は、部族自治の根幹となる部族メンバーの保留地外への流出を防ぐこと で、部族自治の観点から後に大きく評価されることになる。
一方で、連邦議会における児童福祉法案では、養子縁組の問題が、先住民女性 活動家によって訴えられた女性に対する性差別の事例としてではなく、部族社会 への干渉、言い換えれば部族自治の脅威として強調されている点は興味深い。こ れは、先住民女性活動家が作り出した、女性のエンパワーメントと部族自治の二 重目的を追求する先住民フェミニズム運動のレトリックの結果である。とはいえ、
こうした議論が、逆に、先住民女性運動の理論的貢献を覆い隠す結果となったこ とは事実であろう。それを改めて理解することは、現代の部族自治体制を構築し たレッドパワー運動における女性の役割を正当に評価するためにも必要不可欠で ある。
また、児童福祉法が挑戦したのは、保留地外への先住民の子供の流出を止めた ことに留まらない。同法の最も革新的な点は、育児を担う家族形態の多様性を、
アメリカ社会に提示したことにある。同法は、アメリカ主流社会の児童福祉に対 する画一的な理想像に対抗し、家族(育児)形態とは多様であり、また子供はそ
50 92 United States Statutes, 2069-73.
れが属する多様な文化的環境の中で育てられるべきであることを提示した。児童 福祉法は、個人主義的な社会、あるいは核家族を子育て(さらには広く社会的弱 者のケア)の単位とするアメリカン・リベラリズムの中で打ち立てられた社会形 態に挑戦し、一方で、そこに吸収されなかった人々の異なる社会構造を承認する 法的基盤を作り上げたといえよう。
ここで、本稿の議論の中で扱えなかった重要な視点について指摘しておかねば ならない。本稿では、児童福祉法の議論において、部族の自治権と対立するとさ れた子供や親の「個人的権利」について、また、本稿では「部族」と記載してき た連邦承認部族に属さない先住民や都市先住民の主張について、さらには、(む しろ)1970 年代における部族自治の強化という目的の下で切り捨てられた先住民 女性のエンパワーメントをめぐる主張について、扱うことはできなかった。極論 を恐れずに述べれば、筆者はこうした観点の中にこそ、現代の先住民社会の部族 自治が抱えている暗部を見る。最後に、これら三つの観点についての研究を深め るうえで、一つの糸口になると考える、部族の成員資格問題について提示してお きたい。
先にみたように、現代の先住民政策は、再組織法下で構築された部族組織であ る連邦承認部族をその対象としている。現在、合衆国には563の部族が存在するが、
いうまでもなく、こうした仕組みは、連邦政府の先住民支援に伴い、部族の「数」
と部族人口を規制する目的がある。歴史家マーク・ミラーは、その著書『忘れら れた部族(Forgotten Tribes)』の中で、先住民を「部族化」し、連邦承認部族 の成員のみを支援対象とみなす連邦承認制度を、「先住民を規定し、分類する最 も辛辣な方法」とする。だが、こうした制度は、レッドパワー運動や児童福祉法 を含めた一連の法律にもみられるように、多くの部族によって維持されてきた51。 「誰が部族成員であるのか」の規定は、今日の先住民社会においてより重要な 問題になりつつある。それはカジノ産業に従事する部族にとって顕著である。
1978 年の先住民カジノ規制法(Indian Gaming Regulatory Act)で、部族の経済 的自治の一環として認められた先住民カジノ産業は、今日、カジノ部族に膨大な 利益をもたらしている。それに伴って、先住民社会では、カジノ産業に従事する ことを目的に、「部族」となるべく、連邦部族申請をする集団が増加した。一方、
すでに利益を上げているカジノ部族は、その利益の分配金確保のため、部族成員 の規定を厳格化し、さらには、元来の部族成員を除名(ディスエンロールメント)
する事態にまで発展している。インディアン・カジノ時代は、部族の成員規定を
51 Mark E. Miller, Forgotten Tribes: Unrecognized Indian at the Federal Acknowledgement Process (Lincoln: University of Nebraska Press, 2004).
めぐって排他的な部族ナショナリズムを生み出した。一方、部族自治は、そこに 含まれない多くの先住民を輩出し、各種補償体制から排除することによって維持 されてきたのである。
歴史家パウリン・ストロングが、現代における先住民の養子縁組問題を、「異 人種間養子縁組(extra-racial adoption、先住民が白人社会に養子に出されること)」
ではなく、「部族外養子縁組(extra-tribal adoption、先住民の子供が、ネーショ ンとしての部族から他のネーションに養子に出されること)」としてとらえなけ ればならないと指摘したことは興味深い。何故ならば、現代社会において、先住 民の養子縁組は、先住民がアメリカ社会に包摂される手段としてではなく、先住 民が部族成員としての法的地位を喪失する(あるいは維持する)方法として、先 住民の生活により大きな影響力を持つためである。その点において、ストロング は、児童福祉法は、むしろ「外国人養子縁組問題」に近いと解釈すべきであると した。そうした議論の副産物として、近年、部族が、先住民の家族形態を排他的 に「規定」する児童福祉法の一側面も露呈していると言えよう。
部族成員規定のはらむ現代的な問題の発端は、すでに児童福祉法において提示 されていた。本稿で扱えなかった視点は、そうした現代的問題を生み出す可能性 をもつ成員規定の危うさについて、1970 年代の活動化、法制定者たちがいかなる 議論を展開していたのかを知るうえで不可欠である。今後の研究の重要な課題と していきたい。
ABSTRACT