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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討

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Academic year: 2021

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討

著者 加藤 雄太

雑誌名 同志社談叢

号 37

ページ 83‑96

発行年 2017‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000206

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八三

公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討 加 藤 雄 太

一、はじめに

今回検討する地点は同志社大学今出川キャンパスの南・同志社女子大学・同志社女子中学校高等学校・同志社幼稚園(以後、同志社敷地)に位置した今出川通に南面する公家屋敷地である。当地は江戸時代には、公家が居住していた地域であった。現在残るのは冷泉家のみであるが、この他に、竹内家、徳大寺家、藤谷家、山科家、二條家、伏見宮家が今出川通に面して屋敷を構えていた。こうした今出川通に南面する公家屋敷の一帯の土地区分に関連する史料が京都府総合資料館に所蔵されている「京都府行政文書」にある。それは公家に関連した土地の上地・売買を記録した一八七一(明治四)年の行政文書である。この史料を中心に現在同志社敷地に占められる、今出川通に南面する公家屋敷の屋敷地の地境を検討したい。今回は同志社敷地に在した公家の地境を一八七一(明治四)年の行政文書(以下A史料)から大まかながら復元し、さらに一八八四(明治一七)年の史料(以下B史料)と、一九一二(大正元)年に京都市地籍図編纂所によって製作発行された『京都地籍図

((

』(以下C史料)を通して簡略ながら今出川キャンパス地点の土地変遷を検討する。なお、A史料の上地・売買に関する行政文書の翻刻は関係する箇所と検討地域に該当する公家屋敷地の地境に限って掲載し、地境の復元に関しては現在の京都の都市計画地図に当てはめて大まかながらその範囲を示した。

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八四

二、検討対象の公家について

先に述べたように当地在所の公家衆は竹内家、徳大寺家、藤谷家、冷泉家、山科家、そして二條家の六家である。当章では今回取り扱う公家衆の概略について紹介する。なお、各家の情報は橋本政宣氏の『公家辞典』を多く参考にしている。

二條家藤原氏北家摂家流。光明峯寺摂政道家二男の普光園院関白良実を家祖とする。江戸時代を通して将軍家とは密接な関係にあり、家嫡は将軍の猶子となり偏諱をうけ名乗るのを例とした。家格は摂家。家職は大嘗会天神地祇ヲロシ・神膳・即位灌頂大事の天子への奉授、節会・官奏・叙位・叙目四箇の大事の口決相伝。江戸時代の家領は一七〇八石八斗。

徳大寺家藤原氏北家閑院流。九条右大臣師輔の十一男閑院太政大臣公季の裔。閑院徳大寺流の嫡流。藤原大納言公実の五男徳大寺左大臣実能を家祖とする。内々の家。四箇の大事・有職故実・雅楽(笛)を家職とした。江戸時代の家領は四一〇石四斗。

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八五 冷泉家藤原氏北家御子左流。法成寺関白道長の六男権大納言長家の裔。御子左流の支流。藤原権大納言為家の四男権中納言為相を家祖とする。家格は羽林家。外様の家。和歌・有職故実を家職とした。鷹司家の家礼。江戸時代の家領は三〇〇石。藤谷家藤原氏北家御子左流。上冷泉家の庶流。冷泉権大納言為満の二男藤谷権中納言為賢を家祖とする。家格は羽林家。新家。外様の家。和歌・有職故実を家職とした。鷹司家の家礼。江戸時代の家領は二〇〇石。山科家藤原氏北家四条流。四条家の支流。中御門中納言家成の猶子権中納言実教を家祖とする。家格は羽林家。内々の家。有職故実の服飾、雅楽(笙))を家職とした。近衛家の家礼。江戸時代の家領は三〇〇石。

竹内家清和源氏の一流。新羅三郎義光の裔。その四男平賀冠者盛義を家祖とする。家格は半家。外様の家。弓箭と笙を家職とした。近衛家の家礼。江戸時代の家領は一八七石九斗。

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八六

三、土地変遷の検討

一八七一(明治四)年に京都府庁に提出された公家側の報告を基にして、現在の地図上に屋敷地の地境の範囲をはめ込んだ(図

発掘調査 家の北限、徳大寺家の東端が現在の地割とほぼかわりないことが確認できた。また藤谷家屋敷の西限は、過去の 討すると、南限は現在の今出川通のほぼ中央に位置し、これを基準に他の公家屋敷の範囲を当てはめると、藤谷 の同志社幼稚園の北東隅の屈曲部を基準にして屋敷地割を当てはめている。山科家屋敷北東隅を基準に地境を検 境が確認できたため、これを基準にしてA史料の地境を当てはめることとした。また、二條家屋敷の範囲は現在 在の地点に合わせる作業の基準となったのは山科家の北東隅を欠く地境である。現在の都市計画地図でも同じ地

合し、ら地境を復原現値を境地に上図地か数成検するにあたって討のした結)。A史料果、

で検出された石組み側溝と屋敷北限から調査区の南端まで合致した。次にA史料時点の地境からどのような土地変遷があったのか概観する。B史料である一八八四(明治七)年段階の地籍図

は京都府立総合資料館のホームページ上に公開されているので、これを参考にした。また一八七一(明治四)年の段階で徳大寺家の買得地と記されていた範囲は一八八四(明治一七)年の旧徳大寺家の地境に含まれていることが看取される。一九一二(大正元)年の地籍地図

(図、

、 は復元よりも数メートル北に位置していることがうかがえる。 面した建物を南から北へ「押し上げた」ことになる。そのためか、図一を見る限り現在の冷泉家の屋敷地の北限 通路が必要であったからと考えられる。今出川通に路面電車を敷設するため、地籍上変更はないものの、通りに 八メートル程が縮小し道路が拡張されているのが確認できる。これは今出川通に路面電車を敷設するには幅広い

)では地境上、今出川通の屋敷の南限

(6)

公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八七 C史料、一九一二年時点では、各々の土地所有者が『地籍図』により明らかにされているので、簡単に紹介する。図三、①井上心學(旧竹内家屋敷地)。②華族會舘(旧徳大寺家屋敷地)。③藤谷爲寛(藤谷家屋敷地)。④冷泉爲系(冷泉家屋敷地)。⑤同志社(旧山科家)。旧二條家屋敷地は図四より、①同志社、②平安義會、③在日本コングリゲーショナル宣敎師社團、④同志社。広大な土地を所有していた二條家の屋敷地は、複数の管理者が分割して所有していたことがわかる。また、参考に図三を掲載している。当地は伏見宮邸跡にあたる。①・④・⑦同志社、②・③平安義會、⑤・⑥清閑寺経房、⑧・⑨西川傳次郎。一九一二年においても華族となっていた公家の一部は江戸時代から受け継いできた土地を所有していた。この後、冷泉家屋敷地を除いた今出川通に南面する他の土地は同志社大学による土地利用が行われることとなり、現在の今出川キャンパス一帯として整えられていく。

四、おわりに

今回の報告では同志社敷地一帯の今出川通に南面する公家屋敷地の範囲を検討した。しかし、同じく今出川通に面していた伏見宮邸の範囲に関して、今回の一八八一(明治四)年の府庁文書(A資料)で記録は確認できていない。伏見宮邸のみならず、宮家の上地・売買の記録は確認できなかった。このことから、今後明治初期の府庁による土地管理の状況を検討していく上で宮家の扱いに関し考える必要があるだろう。また、同志社大学の校地で、江戸時代に近衛家別邸の位置した新町校地地点では、府庁文書(A資料)上、上地・売買の記録が確認で

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八八

きた。しかし、地図上に妥当性の高い精度の復元案は導き出せなかった。この他、今回扱えなかった公家の上地・売買の史料も検討し、公家屋敷地の変遷を考えていく必要があるだろう。

謝辞今回、史料を扱い検討するにあたって、同志社大学歴史資料館の浜中邦弘准教授より多くのご意見、ご助言を賜った。また史料の翻刻作業では、竹内加奈様に多大なるご指導を賜った。記して感謝の意を表したい。

  )図に示す地籍図は『復刻版京都地籍地図第一回配本(第一巻~第三巻)』から引用。

)鈴木重治ほか『同志社大学徳照館地点・新島会館地点の発掘調査(同志社大学校地学術調査委員会調査資料№

 学校地学術調査委員会一九九〇年) (()』(同志社大

)京都府立総合資料館【特設サイト】上京地籍図、室町(

考。 (0組)の「京都府管下山城國上京區第拾組各町地圖」一八八四年を参

)図二、三、四は実線で当時の建物の範囲、点線で土地区画、二重線中央に点で路面電車の路線(軌道)を表している。

主要参考文献館【図、町(

 0(0((((7)研究成果報告書(基盤研究(B)科学研究補助費』についての史料学的研究 『京都府行政文書を中心とした近代行政文書鈴木栄樹・牧知宏「明治初年における在京藩邸地処分に関する京都府行政文書の概要」 アクセス) (0(5/06/09(00(((http://kyoto-shiryokan.jp/kitayama/?page_id=)()〈

; 二〇〇五年~二〇〇七年)

(京都府立総合資料館 歴史資料課編、二〇〇八年)

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討八九 橋本政宣『公家事典』(吉川弘文館、二〇一〇年)行『    本()』版、年(編『一九一二年、京都地籍圖編纂所)

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九〇

心得相達候事

但諸官員奏任以上家来 判任以下本人呼出之事

二月     太政官

右之通被仰出候ニ付而者過日御布告

之分ハ御取消相来候間此段

更ニ相達候事

三月留守官 諸官員并宮華族之家士及諸藩士等府藩縣管轄地在留之向キ其府藩縣支配下江相係り候公事出入有之候節以来其府藩縣<より>本人直ニ呼出シ取扱候間為 諸官員并宮華族之家士及諸藩士等府藩縣管轄地ニ在留之向キ其府藩縣支配下江相係り候公事出入有之節以来其府藩<より>其主宰江一應掛合之

上本人直ニ呼出シ取扱可致

但諸官員奏任以上ハ家

来判任以下ハ本人呼出シ

之事二月太政官 今般宮華族元堂上并旧官人以下禄制被定廩米を以被下候間且是迠領地之分ハ総テ上地可致候事

但領地高明細書京都府管轄

分たり候総而同府江可差出事

庚午十二月太政官

来ル十七日

後嵯峨天皇六百年御追祭

於嵯峨之御陵被為執行候

ニ付十六日暮六ツ時より十八日朝五ツ

時迄火之元格別可入念候事

右之趣山城国中江無洩相達る

もの也

辛未二月京都府

(1)

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京都府行政文書 1

(10)

公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九一 右之通被 仰出候条山城国

中社寺共無洩相達もの也

二月十三日 京都府 京都府

宮華族士族邸宅地所

自今其府管轄被

仰付候事

二月太政官

建家坪数取調書御取替願

先達而建家坪数取調可申上旨御達之節差出候

建坪数之内大破損処四拾貮坪貮分五厘破却

仕候ニ付坪数書改差上候間御取替之義奉願上候以上

辛未十一月 正二位廣橋胤保家令

築山恒則京都府

御廳 明治四年辛未十一月

華族建家坪数書扣

京都府

   御廳

建家取拂之御届

當家建家五百三十四歩九厘

内今般弐拾七坪弐歩五厘取拂申候

右之通御届奉申上候以上

従五位土御門晴栄 家扶

若杉保矩辛未十一月十五日

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京都府行政文書2

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九二

右之通相違無御座候以上 奥行弐十弐間八分

明治四年未年十一月 正三位山科言縄家扶

長瀬八郎

( 印

)京都府

御廳

西

残り弐百八十壹坪五分四厘八   空地 〆貮百六十七坪三分九厘七五 三十壹坪五分         土蔵四ヶ所 今出川烏丸東四百四十壹坪貮分貮厘     拝領地百七坪七分貮厘五 藤谷家より永借地

貮十間三分五厘

壹間五分

與分永借地

壹間五分

六尺五寸掉惣地坪   五百四十八坪九分四厘五

貮百貮坪五分八厘七五

   本家

貮十三坪六厘物置小屋供待井戸屋形共

壹坪半物見

八坪七分五厘湯殿雪隠共 拝領地間口貮十間

永借地間口五間 二口合間口貮十五間

京都府

御廳 辛未

   十一月

松本宗達 家扶 従一位徳大寺公純 右之通相違無御座候以上 買得地 壹間弐尺四寸 南北弐拾間

四間 三尺八寸 南北拾七間二尺三寸 六百六拾三坪七分空地 〆四百九拾九坪四分    拾三坪六分

  僕  部   屋

湯殿雪隠

今出川通烏丸東ニ入北側

拝領地

南北三拾七間壹尺三寸惣地坪

   千百五拾三坪壹分

三百九拾九坪八分   本家

   六

    二階建

   弐     土蔵二ヶ所五分            拝所五分    社物置坪五    物身二ヶ所拾壹    四坪五分    三ヶ所内二階九坪五分    番所

東西三拾弐間壹尺九

表口東西弐拾六間五尺

(7)

(8)

京都府行政文書 徳大寺家 京都府行政文書 山科家

(12)

公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九三 四坪   

拾弐坪半長屋雪隠

〆百七拾八坪半

二百四拾六坪半空地

右之通相違無御座候以上従四位藤谷為遂家扶明治四年辛未

十一月馬渕高義︵印︶

京都府

御廳 今出川通烏丸東に入拝領地

間口拾七間

六尺五寸

   掉

壹間二付三分計割

惣地坪四百弐拾五坪

百三拾弐坪

   本家

拾三坪半

   土

弐ヶ所壹坪半    物見

拾六坪   物入小屋

奥行弐拾五間

瓦平物置建    十九坪半       三十一坪瓦平湯殿雪隠 三十六坪七分五厘 〆九百九十三坪二分五厘 十六間余 二十八間余

七十七間半余右之通相違無御坐候以上

辛未十一月十日 従五位二條基弘家扶野間頼興 ︵印︶

  今出川通

拝領地間口九十四間

総地坪六千九百四十四坪余

瓦平本家建     七百六十九坪瓦二階建       五坪半鎮守社向       十八坪 土蔵        二十四坪瓦平長家建      五七坪二分五厘 瓦平納家建      三十九坪二分五厘

西

五十間余

奥行七十八間半

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京都府行政文書 藤谷家

京都府行政文書 二條家

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九四

四間四尺五寸

一間半

九間三尺六寸右之通相違無御坐候已上

辛未十一月十日 正四位竹内治則家令

冨士埜峯雄 一今出川通烏丸東入北川

   拝領地

間口十三間五尺三寸

奥行二十二間半 奥行二十一間

西 惣地坪三百八坪九尺七厘

瓦平家建    百三十坪同住居二階建

   四坪半

物置     一坪半 湯殿雪隠    二坪七尺五厘土蔵       拾三坪鎮主       一坪

二百九拾八坪半空地

右之通相違無御坐候以上

正二位冷泉為理家令

平清水清平 ︵印︶ 明治四年辛未

十一月

京都府

御廳 一今出川烏丸東拝領地

奥行弐拾三間

間口弐拾壱間半

六尺五寸掉壹間ニ付二歩計ノ割

惣地坪四百九拾四坪半

百四拾七坪二分五厘本家

弐拾八坪半二分五厘土蔵六ヶ所弐拾坪物楊長屋雪隠共

〆百九拾六坪

残リ

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京都府行政文書 竹内家

京都府行政文書 冷泉家

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公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九五

図2 大正元年地籍地図:今出川通 一部加筆(約 (/(500)

図1 公家町屋敷復元図((/5000)

(15)

公家屋敷地処分に関する京都府行政文書の検討九六

図 ( 大正元年地籍地図:二條家推定地 一部改変(約 (/(500)

図3 大正元年地籍地図:伏見宮邸跡推定地 一部改変(約 (/(500)

参照

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