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ランペルトの見るアンノとその時代(二)

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(1)

ランペルトの見るアンノとその時代(二)

著者 井上 雅夫

雑誌名 人文學

号 175

ページ 1‑27

発行年 2004‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007624

(2)

ラ ン ペ ル ト の 見 る ア ン ノ と そ の 時 代

井 上 雅 夫

三︑

アンノが既に第一章で見たように︑ケルンの大司教に就任してからカイザースヴェルトのクーデタまでの六年間︑

即ち彼の大司教就任の同じ年にハインリヒ三世が亡くなって以降のこの六年間は︑アグネスの摂政政府からの支持は

期待しえず︑ケルンで自身で自らの地位固めをしていた時期

︒ノンア︑もウナーノクるとあでのもいいて見応一は

なお国政には関与せず︑当面はライン地方やロートリンゲンの確保のために処置をとることが︑彼にとって当然であ

ったと見ているように

の場せず︑そこで卓に越した地位は確認登政︑ノこの時期にはアンは国まだはっきりとはさ

れないとも見られている

しかし他面︑アンノはケルン地方のことにのみ専念する全くの地方的な存在にすぎなかったのではない︒アンノ

は︑この時期の幾つかの公文書における彼の仲介人の役割からしても︑宮廷に出入し関係をもっていたし

︑影響力

のある中でアグネスとはよい関係をもっていたのである

ノに既で方一︑期時のこがン︒ア︑がいなはでどほ年後国

― 1 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(3)

政にかなり影響力のある地位にあったことも︑彼の事を考える場合十分に注意すべきことなのである︒

実際︑一〇五九年にアンノの甥のブルヒャルトがハルバーシュタットの司教になったのも

︑彼の力が多少は関係

していたであろうし︑既に一〇五七年にバンベルク司教にグンテールが任命されたのもアンノの影響があったと見ら

れているのである

や間後に国内の平和ア数グネスの統治を助週た︒ハアンノは早くも︑イっンリヒ三世が亡くなけ

るためにアンダーナッハでロートリンゲンの諸侯やトリーア大司教らと会談していたのである

︒その後も同年十二

月に法王ヴィクトル二世が議長になったケルンの会議に参加し

ルく多に廷宮のでスムォ︑ヴの春年七五〇一年翌の

諸侯が集った時にも参加したりと

教スと個々の司たグちとの緊張を除ネア︑やしばしば宮廷宮︑廷会議に係わりこ

うと努力したのである

諸協議するために侯いらと会談していてつ︒ア一〇五九年にもンにノは︑国の運命る

更に︑一〇六〇年にアンノの友人であるフリードリヒの官房長職任命も︑この友人を通して宮廷に自らの名声を強

固にしようとする彼の計算と関係があったし

を︑ものたしに教司大ツンイマト︑ーリフクージがスネグアに年同ア

ンノに対して彼を対抗力としてもってくることを考えていたからとも見られているのである

︒かのクーデタ直前に

はバンベルク司教のグンテールが︑対立するアグネスに対し仲介してくれるようにアンノに頼むほど︑アンノの影響

力は強かったのである

ノこの時期にアンのは偉大な時代が始ま︑ど︒しこうした状況からてな︑シュニッツラーっ

たとし︑アンノはハインリヒ四世の副後見役で︑事実上の摂政であったとさえ見︑かのクーデタも︑共同の後見人と

してのアンノが自らの責任を意識しての行動であったと見ているのである

アグネスが一〇五八〜五九年頃からアウクスブルク司教ハインリヒを優遇してアンノらの他の有力者を無視しよう

としたというのも

示たことを間︑的にしあているのである︒そっ接でら逆に物ればアンノ見が力有人ある響影で力 ア時のそとノンルる見のトペンラ代

― 2 ―

(4)

れに何よりもアンノがクーデタで主導権をとりえたことは︑それ以前に既にアンノが有力な存在であったことを雄弁

に物語っているし

不物たることは可心能であったろう人中︑しこの前歴なくてのは彼がクーデタ︒

同様にこの時期にアグネスのドイツ宮廷とニコラウス二世の法王庁との対立の中で︑アンノが重要な役割を果たし

た可能性もあることは注目すべきことである

南あも係関のと人ンマルノの伊︑︒はに立対のと庁王法と廷宮のころ

うが

︑きっかけを与えたか決責定的な影響を与えたとが譴︑側アンノに対するローマのの処置︑ニコラウスからさ

れているのであるから

ににクーデタ以前大がきかったことを暗既在︑もこの点から考えて︑存アンノの宮廷でのに

示しているのである︒

それにしてもアンノがここでおそらく改革問題で

拘系スウラコニ後のそ︑ずらもニにたいてし立対とスウラコの

法王アレクサンダー二世に対立するホノリウスを支持せずに一応はアレクサンダーを認めたように

︑アンノのニコ

ラウス系の改革派への立場にははっきりしないところが多いのである

が亡がスウラコニ︑ノ︒ンアていつにれこく

なった後にはこの法王庁との対立にこれ以上固執しなかったと言われるのも

解ずえ言はと釈る︑あの力得説り余︑

依然として謎の多いものである︒もっともごく一般的にアンノの改革派志向と言っても︑晩年に見るように︑政治世

界への嫌気も彼を改革派へと向かわせた原因になっている面もあり︑いずれにしてもアンノを単純に改革派と片づけ

えないのである︒それに改革派と一口に言ってもいろいろな立場があり︑必ずしもニコラウスやアレクサンダー系の

ローマ法王庁に同調することだけが改革派とは限らなかったのである︒

右のアンノとローマとの対立について︑問題のランペルトが何も語っていないことは注目すべきことである︒ラン

ペルトは︑ハインリヒ四世とローマとの関連は語っても︑アンノのローマとの関連には関心がなかったかのようであ

― 3 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(5)

る︒そもそもランペルトは︑ローマとの関連に限らず︑この時期のアンノの活動について殆ど伝えていないのであ

る︒この時期のアンノは︑上述のように︑国政上の中心的存在ではなかったにしても︑少なくとも国政への助言者な

いし協力者であったが

彼に摂政としてのの︑勤め︑そしてケル特場︑ノランペルトはアンの立帝国司教としてのン

教区のための益ある活動を評価しようと努めたと見られているが

てノンアの期時のこ︑っ︑とにトルペンラのこは

やはりまだこのような点で表立った目立った存在ではなかったのである︒特にクーデタ後に出てくるような王の教育

者としての立場にはアンノはこの時期にはまだついていなかったのである︒いずれにしろ︑この時期のアンノの国政

での立場は︑これまで見たように間接的な証拠から類推されるものが主であり︑まだはっきりしていなかったことも

事実であろう︒

注盧

S.Weinfurter,HerrschaftundReichderSalier.GrundlinieneinerUmbruchzeit.︵1991︶S.107.

盪 M.v.K.Bd.I.S.17.なお︑クノーナウの名は本来はマイアー・フォン・クノーナウと表示すべきであろうが︑前稿と同様

クノーナウとしておく︒

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.SS.406−407.Bd.I.S.152.

ibid,Bd,I.SS.172−173.M.v.K.Bd.I.S.45.84.

MGH,DiplomataregumetimperatorumGermaniae.T.VI.HeinriciIV.Diplomata.ParsI.︵1978︶︵以下DHIVと略す︶

Nr.27.S.33.Nr.33.S.40.Nr.67.S.88.Nr.68.S.89.Nr.79.S.103.

G.Jenal,Bd.I.S.173.

拙稿︑﹁ランペルトの見るアンノとその時代﹂︑

鴣五照参ジーペ十三︱九十二︶年十︑成平︑号三七一第︑学文人︵︒ 眄

M.v.K.Bd.I.S.22,270. ランペルトの見るアンノとその時代

― 4 ―

(6)

眩 H. Tüchle, Anno, Reichsbischof und Reformer.︵Sankt Anno. seine viel liebe statt. Beiträge zum 9 oojährigen Jubiläum, hg. v. G. Busch. 1975︶S. 71.

M. v. K. Bd. I. S. 17.

眤 M. v. K. Bd. I. S. 17.

眞 M. v. K. Bd. I. S. 23.

眥 H. Tüchle, op. cit., S. 71. M. v. K. Bd. I. S. 46, 213.

眦 U. Lewald, Die Ezzonen. Das Schicksal eines rheinischen Fürstengeschlechtes.

︵Rheinische Vierteljahrsblätter︱以下RhVjbllと略す︱43. 1979︶S. 157.

M. v. K. Bd. I. S. 161.

眛 M. v. K. Bd. I. SS. 184−185.

眷 M. v. K. Bd. I. S. 134.

クノーナウが︑アグネスのアンノに対する不信感は一〇六一年末以来出てきたのかもしれないと推測しているのは︑次注 眸

の見方と少し矛盾する︒

M. v. K. Bd. I. S. 276.

眸 M. v. K. Bd. I. S. 273.

このことからも︑クノーナウは︑アンノがアグネスと不信感のない種々なつながりをもっていたと見ている︒

M. v. K. Bd. I. S. 276.

睇 T. Schnitzler, Der hl. Anno, Erzbischof von Köln.︵Sankt Anno. op. cit.︶S. 96, 98. もっともクノーナウは︑ハインリヒ三世が

亡くなる時︑アンノを帝国の管理者︑またハインリヒ四世の後見人として任命したことはありえないと見ている︒

M. v. K. Bd. I. S. 13.

一方﹃トリーア人の事跡﹄は︑これを伝えている︒

Gesta Treverorum. op. cit., c. 9. S. 182.

睚 S. Weinfurter, op. cit., S. 99.

―5―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴟

(7)

ハインリヒがアグネスの周辺にはじめて登場するのは一〇五八年二月で︑彼が強い影響力をもち始めるのは一〇五九年から とされる︒ M. v. K. Bd. I. S. 84, 169.

睨 クノーナウは︑クーデタ以前にこのハインリヒに対する他の高位僧の代表として︑﹁野心的なアンノ﹂を挙げている︒

M. v. K. Bd. I. S. 270.

睫 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 407. M. v. K. Bd. I. S. 685.

この対立を伝えるダミアニのDisceptatio synodalis︵教会会議論争︶は︑彼の手紙の中に含まれている︒

MGH. Die Briefe des Petrus Damiani. hg. v. K. Rheindel.︱以下BDと略す︱T. 2.︵1988︶Nr. 89.

The Letters of Peter Damian. tr. by O. J. Blum.︱以下LDと略す︱Vol. 3︵1992︶. No. 89.

M. v. K. Bd. I. SS. 684−687. 但しクノーナウはこの可能性を否定している︒ ibid, S. 686.

睛 M. v. K. Bd. I. S. 685.

睥 W. Eggert, op. cit., S. 143.

R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe. S. 10.

シーファーは︑ニコラウスとの決裂においてのアンノの役割は︑イェナールの論文︵本章︑注︑ 蘯︶においてなお未解決の

ままにされていると論評している︒

R. Schieffer, Neue Literatur über Anno von Köln. Ein Bericht.︵RhVjbll. 40. 1976︶S. 256.

睿 この問題の理由ははっきりせず︑ローマによるアンノへの懲戒に関して︑その背景については明白なことは分からない︒

LM. Bd. I. Sp. 666. R. Schieffer, op. cit., Die Zeit, S. 127.

睾 R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe, S. 10.

睹 後にもアンノにはグレゴリウス七世から非難されるなど︑いわゆる改革派にしては矛盾した行動がよく見られるのである︒

Das Register Gregors VII. hg. v. E. Caspar.︵MGH. Epp. sel., 1920︶II. 25.

M. v. K. Bd. II. S. 605.参照︒

瞎 R. Schieffer, op. cit., Die Zeit. S. 127.

瞋 G. Jenal, op cit., Bd. I. S. 174.

ランペルトの見るアンノとその時代 鴟 ―6―

(8)

T.Struve,ReginhardvonSiegburgundLampertvonHersfeld,HersfelderundSiegburgerÜberlieferungenumErzbischofAnnovon

KölnimLichtederSoesterFragmente.︵RhVjbll.42,1978︶S.34.

四︑

かのクーデタの中心人物であったアンノは︑このクーデタ後ははっきりと国政や宮廷での中心人物として出てくる

のである︒ランペルトがアンノについて詳しい記述をするのもこのクーデタからであり︑しかもこのクーデタの詳し

い経過について報告しているのもランペルトだけであるというのも

の示をかりあの心関へ︑ノンアのトルペンラし

て象徴的なものである︒

ハインリヒ四世へのアンノの立場は︑クーデタ後数年において王の公文書に現れる

‘magister’

という特別な称号に

よく表現されている

者あで味意の者言助︑育︒教の王︑は号称のこり

定測推を割役な的決︑のノンアので面一さ

せるものである

‘patronus’

︶トが︵保護者とベ呼ばれて︑一時アルル︒︑このアンノに対し一ダ〇六三年からアーン ノの

magister

の称号と並ぶことになるが

教なかもれそ︑割役のてしと者育の︑称このアンノの号王に象徴されるり

長期にわたる役割は︑以前にも述べたように

れうろあでのもきべるさ︑価評に的極積とっも︒

クーデタによるアンノの権力掌握後の動きで重要なのが︑クーデタの前年にドイツの宮廷がもたらしたシスマ︵教

会分裂︶︱ドイツ側は︑アレクサンダー二世に対し︑別の法王ホノリウス二世を立てた︱の解決︑処理のことであっ

た︒このシスマをもたらしたのは︑クーデタ以前に影響力をもっていた人々︑つまりクーデタ派のアンノらに対立し

― 7 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(9)

ていた人々とされている

ホらおてし力協に立擁スウリノ︑︒てし関にマスシのこ︑はノンアず

︑ホノリウスに従

っていない人物と見られている

にっかないてし席出議︒会ルゼーバはノンアた

︒この会議では︑ホノリウスはロ

ンバルド人によって立てられ︑イタリア方面の官房長グィベルトゥスがここで主な役割を演じたと見られている

結局︑ホノリウスは︑グィベルトゥスとロンバルド司教たち︑更にローマ人︵ローマ貴族︶の代表の影響の下でアグ

ネスと王が任命したのであった

いものだったとうしより︑彼女自身た反︒擁このホノリウス立にはアグネスの意は

っきり自らの意志で行ったと見るべきもので

い送にマーロをォツンベにめたな︑て捨見をスウリノホのこは女彼っ

たのである

このバーゼル会議にはドイツ側の出席者で唯一人証明されているのはアウクスブルク司教ハインリヒのみで︑重要

なドイツの教会の代表者は欠席したと言われているが

︑るれらじ感らか況状のこも︑て見らかき動の述後しかしほ

どホノリウスのドイツでの立場が悪かったのではないと見るべきであろう

ダノンアのニアミ・︒スルトペの述後宛

の手紙に見るように

︑ホノリウスの力がドはイツというわけで︑応︑ミホノリウスへのダア反ニの異常に激しいは

ないにしても︑一般的に強かったことを示しているのである︒それに一〇六〇年代はじめでは︑ドイツでホノリウス

への支持が普通であったかもしれないことは︑カウドリーが考察したようにベルトルトの年代記の第一版︵一〇六〇

年代はじめのもの︶でホノリウスを正統な法王としているのに︑一〇六〇年代末の第二版では逆にアレクサンダーを

はじめから正統な法王としていることからも窺えるのである

ツえ考を係関庁王法対のイ︒ドの時当ろしにれずいる

場合︑アグネスがホノリウスを擁立したという事情とともに︑ドイツではホノリウス派と言うよりも︑ハインリヒ三

世時代のドイツ王の保護の下での法王庁から離れつつあるニコラウスやアレクサンダーの法王庁︑それも教会全体を ランペルトの見るアンノとその時代

― 8 ―

(10)

中央集権的にドイツの教会に対しても指導︑監督しようとする動きを示す法王庁との関係になおためらいをもつ者が

多かったと見るべきであろう︒

このホノリウスへの支持の問題はともかく︑一般にこの時期について︑かのクーデタで︑旧体制から離れていて︑

これまで行われたことすべてを是認する気のない人々が活動し始めたこと

こ去除のマスシのは︑ノンアめたのこを

第一の目標にし

のーの法王庁と関ン係修復に利用ダサ︑後彼はクーデタのク彼の地位をアレし

︑ホノリウスの﹁冒

険﹂を早く終わらせようとしていたと見られている

見べ比にどなニアミダ︑もてら︒かき動のノンアの後しかしれ

ば︑右の見方から感じられるほどアンノを単純に熱心な反ホノリウス派の中心人物と見ることは出来ないのである︒

またシーファーは︑このクーデタはアンノにとってハインリヒ三世の路線への回復と見ているが

︑もしこれが事

実ならこの点も同じハインリヒ三世時代といっても︑アグネスとは理解が違っていたと見るべきであろう︒アグネス

はバーゼル会議の結果から見ても︑ニコラウスやアレクサンダーをハインリヒ三世時代の法王を継ぐものとは感じて

いなかったのである

ハダーは︑そもそもイサンリヒ三世よりルンク︒係確かにアンノが関をレもつようになるアッ

カの司教に任命された人物であり

と革していこうすをる人々の代表で改会︑と以前から王権の教協調の下でのみあ

り︑彼の法王権もここに根ざしていた

受のもだん選を物人るれられ入けも︒に廷宮ツイドものたれば選が彼で

彼はドイツ宮廷との密接な関係を求める政策の促進者としてこの数年現れていたのである

︒この点では彼はドイツ

王権に対立するような存在ではなかったのであるが︑教会全体を指導しようとする中央集権化の方向へ進みつつあっ

た当時の法王権は︑ハインリヒ三世時代のものとはドイツ王権から見ればかなり違っていたのである︒

同様にハインリヒ三世時代を高く評価していたダミアニも

をるえ支に的論理ばわい権︑王法のーダンサクレア人

― 9 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(11)

物としてドイツの宮廷に対し同じような立場に立っていた︒彼は︑この世の秩序観において︑根本的には帝国と法王

権に代表される二つの権力はお互いに結びつけられ︑お互いの利益のために求められるべきものと考えていたのであ

要立場を考える上でも重なへので︑今少しここで見の権︒︑このダミアニの考えはア王ンノやランペルトの法て

おきたい︒

ダミアニは︑アレクサンダーを法王に選んだのは︑内戦の迫り来る危険のためやむを得ず行ったことで︑王権を害

したり減じたりするためではなかったなどと弁護し

決に対反のへ権王ツイドてしが︑挙選王法のーダンサクレアお

いてなされたのではないことを強調したのである

友こるいてしとうろあで的好に︒王が会教マーロ︑は彼に更と

は︑多くの候補者の中でドイツの宮廷に行ったことがあり︑殆ど宮廷に属している人物であるアレクサンダーを選ん

だところにも証明されていると述べている

なンサクレアばえ言に逆︑は張主的︒護弁のニアミダたしうこしかしダ

ーの法王庁がドイツの宮廷や教会のこれまでのあり方を脅かしつつあるからこそ出てきたものであり︑ダミアニは今

の法王庁が昔と変わらないかの如く強調しなければならなかったのである︒しかしドイツへのダミアニ側の法王庁の

立場は︑ホノリウス宛のダミアニの手紙にはっきりとその本心が現れていたのである︒ここで彼は︑少し以前ならド

イツ王による法王の擁立というごく普通のことを﹁この恥ずべき行為を汝に促した者は︑誰でも悪魔の子︑反キリス

トへの助力者⁝と呼ばねばならない﹂と述べ

べあでのたっ呪をてす︑人挙選のスウリノホる

︒彼はホノリウス本

人に対しては︑﹁狂った汝﹂﹁暴君﹂﹁神にもペテロにもローマ教会にも知られていない男﹂と中傷し︑ホノリウスの

本名であるカダルスという名も﹁人を堕落させる意﹂とこじつけの解釈までしていたのである

︒この手紙は︑ホノ

リウスへの激しい中傷と非難に満ちているが

をのたしとうこ描︑彩色い暗も最でスダウ他の所もでミアニはホノリ ア時のそとノンラる見のトルペン代 鴟

― 10 ―

(12)

である

立ニアミダるれわ言とつもを場な︒的解和け避を場立な激過に般一も

露トスリキに骨と︑るなと敵とこ教

的な排他性や独善性的性格を表すばかりか︑やはりダミアニの反応にはハインリヒ三世時代的な法王権はもはやあり

えないことを予想させるものがあるのである︒他方このダミアニの激しい反応は︑如何にダミアニ側がホノリウスの

登場に危機感を感じていたかを示しているのである︒ダミアニはホノリウスの登場について﹁汝によって引き裂かれ

た平和と調和﹂﹁教会全体を混乱させている﹂﹁前代未聞の悲劇﹂﹁頂点まで汚されている教会﹂と表現したのであ

こ希望を諦めたとゆもあったのであるら︒経彼は︑事態の過あに全く落胆してる

このようなダミアニの立場や考えは︑アンノへの一〇六三年六月の手紙にも現れている

︒ここでも彼はこの世の

秩序として世俗と教会の二つの権力がお互いに支え合うものとする以前からの主張をくり返すとともに︑アンノに対

しては改革法王庁の同盟者と見︑その政治に追従的な見方をし

︑その功績を讃え

︑ローマへのアンノの介入に期

待していた

た序をもたらし︑王のめにに父親のハインリヒ秩国︒がダミアニは︑アンノハ︑インリヒ四世を救い三

世の皇帝権を守ったこと︑﹁パルマの獣﹂の鱗のある首を切り︑法王をその地位につけるのに努力したことを讃え

た︒この手紙でもダミアニは︑ホノリウスを﹁パルマの獣﹂と言って口汚く中傷しているように︑ホノリウスをもっ

ぱら誹謗する中︱ダミアニは︑ここでもホノリウスを﹁人間の救いの敵﹂︑﹁悪魔の使者﹂など地獄のようにいきり立

つ反キリストの代理人としている

の︑有害な誤りとニげを除くためにはア︱談アンノとの会をミ希望しているダ出

来るだけ早く一般会議を開くよう努力することが必要で︑もし機会があれば︑旅をして話し合いたいと述べている︒

この会議を希望している点から見て︑イェナールが︑この手紙はアンノがまだ完全にはアレクサンダー側についてい

ないことを示唆しているものと見ているのは︑後のアンノの行動を考える上でも留意すべき視点であろう

― 11 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(13)

このようなダミアニ︑特にホノリウスに対する激しい敵意を示すダミアニとは︑後にふれるようにアンノは決して

一致していなかった︒アンノは上述のようにホノリウスの選挙に関与せず︑彼を支持していないが︑これは彼とは同

調していない立場と言えるくらいで︑はっきり反ホノリウス的立場とは言えないのである︒アンノにとって︑ホノリ

ウスを支持しているアグネスやハインリヒ四世のことを考えれば︑アンノの本心がいずれであれ︑そう容易にアレク

サンダーの方へ行くことは出来なかったのである︒イェナールも見るように︑アンノはシスマを彼の意図において政

治的に解決しようとしたのであり︑改革への好意は疑問であった

ンーダンサクレアのノア︒︑もスンテルマに既支

持について︑第一に政治的な関心がアンノをその方向に動かしていたと見ているし︑アンノをシスマの解決におい

て︑現実主義的な政治家とはっきり評していたのである

ノ行るけおに中のマスシのン︒ア︑もンソンビロはに更動

は︑いわゆる改革派への共感ではなく︑ケルン教会の立場からのものと見ているのである

それではランペルトはこのシスマについてどのように見ていたのか︒彼はこれについて余り詳しく語っていない

人︑﹁彼の代りに王と幾かるの諸侯の選挙でパルマとな︑に彼はホノリウスの選挙つくいて︑ニコラウスが亡の

司教が擁立された﹂と事実を単に述べるだけで︑ホノリウスに対する非難を殊更にしていないのである

︒他の年代

記︑例えばニーダーアルタイヒの年代記が︑買収︑異端などの言葉を使い︑ホノリウスの選挙を強く非難し

︑更に

ホノリウスは法王位を教会法上で手に入れられないので︑武力で手に入れようとしたと述べているのに比べ

︑ラン

ペルトは明らかに冷静で公平であった︒同様にベルトルトも︑カダルスはシモニアで︑噂によると多くの買収金が出

されて法王に選ばれ︑ホノリウスと名づけられたと述べている

葉ラ︑ばれべ比にどな言︒のニアミダの記上に更ン

ペルトの公平さは一層明らかになるが︑ロビンソンも︑ランペルトはこのシスマに対し非党派的な態度に努めたと的 ランペルトの見るアンノとその時代

― 12 ―

(14)

確な評価をしている

のンペルトとアンノ関︑係を考える上で︑ラら︒反アンノをもし仮にホなノリウス派と見るこ

のランペルトの冷静な態度は特筆されるのである

態とたいてれさ響影く深に度の︒ノンアがトルペンラに逆たます

るなら︑ランペルトの冷静さは案外とアンノ本人のホノリウスへの本心での冷静な態度を反映しているのかもしれな

いのである︒もしそうなら︑アンノもやはりランペルトと同様︑ダミアニのような敵意をホノリウスにもっていなか

ったと見ることが出来よう︒

注盧

拙稿︑﹁ランペルトとアンノ︱主にハインリヒ四世との関連を中心に︱﹂︵文化学年報︑第五十一輯︑平成十四年︶︑

五十ページ︒

I.S.Robinson,op.cit.,p.45.

M.v.K.Bd.I.S.288.Anm.100.S.234.Anm.52,SS.333−334.Anm.52.S.356,370.

DHIV.Nr.103.S.136.Nr.108.S.143.Nr.112.S.147.等に出てくる︒一〇六三年六月の上記の百三番の文書が初出︒ 蘯

I.S.Robinson,op.cit.,p.48.

ibid,p.45,46,48.

M.v.K.Bd.I.S.288.Anm.100.S.334.Anm.52.

R.Schieffer,op.cit.,DieZeit.S.127.

眈 I.S.Robinson,op.cit.,p.46.DHIV.Nr.113.S.149.クノーナウは︑一〇六三年六月をもってアーダルベルトがpatronusとしてアンノと並んで出てきた時︑この異った表現がよ うやく必要になったと見ているが︑アンノのかの称号はpatronusよりも以前から現れている︒

M.v.K.Bd.I.S.288.Anm.100.

前掲拙稿︵前注

盧︶︑五十五〜五十六ページ︒

― 13 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(15)

眄 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 273.

眩 ibid, S. 231.

眤 H. E. J. Cowdrey, Pope Gregory. 1073−1085.︵1998︶p. 50.

眞 R. Schieffer, op. cit., Die Zeit. S. 127.

眥 T. Schmidt, Alexander II. und die Römische Reformgruppe seiner Zeit.︵1977︶SS. 170−171. M. v. K. Bd. I. SS. 225−226.

F. Herberhold, Die Angriffe des Cadalus von Parma︵Gegenpapst Honorius II.︶auf Rom in den Jahren 1062 und 1063.

︵Studi Gregoriani. II. 1947︶S. 478.

T・シュミットも︑イタリアの諸件に関し︑アグネスの宮廷で決定的な人物は︑この時代グィベルトゥスと見ている︒

T. Schmidt, op. cit., S. 218.

眦 M. v. K. Bd. I. SS. 224−226.

眛 拙稿︑﹁最近のアグネス評価について﹂︑ 鴟︑︵文化史学 第五十六号︑平成十二年︶一三五〜一三六ページ︒

ダミアニも︑その著作﹁教会会議論争﹂の中で王の弁護人に︑はっきりと王とアグネスによってホノリウスが選ばれたこと を発言させている︒

BD. Nr. 89. S. 541. LD. No. 89. p. 336. M. v. K. Bd. I. S. 689.参照︒

エーディガーも︑ダミアニのアンノへの手紙から︑アグネスのホノリウスへの支持を推測している︒

F. W. Oediger, Einige Bemerkungen zur

”Vita sancti Annonis, archiepiscopi Coloniesis“.︵Sankt Anno. op. cit.︶S. 334. Anm. 6.

BD. T. 3.︵1989︶Nr. 99. LD. Vol. 5.︵1998︶No. 99.

眷 F. Herberhold, op. cit., SS. 480−481.

眸 M. v. K. op. cit., Bd. I. S. 225.

睇 前掲拙稿︑最近のアグネス︑ 鴟︑一三五ページ参照︒

睚 BD. Nr. 99. SS. 99−100. LD. No. 99. pp. 105−106.

睨 H. E. J. Cowdrey, op. cit., p. 86.

これは勿論︑第一版と第二版の作者が同一のベルトルトと考えた場合である︒これに対し︑ロビンソンは︑このベルトルト

ランペルトの見るアンノとその時代 鴟 ―14―

(16)

は︑彼の立場を王派からグレゴリウス派に変えたとも見ている︒つまり︑彼の居たライへナウ修道院の王への支持から法王 への支持の変化の中で︑彼の立場は変化したと見ている︒この場合なら︑彼のホノリウスとアレクサンダーに対する見方が 変ってもおかしくない︒

I. S. Robinson,︵Hg︶, Bertholds und Bernolds Chroniken.︵AQ. Bd. XIV. 2002︶Einleitung, SS. 3−5.

睫 F. Herberhold, op. cit., S. 492.

睛 W. Eggert, op. cit., S. 143. T. Schmidt, op. cit., S. 132.

睥 R. Schieffer, op. cit., Die Zeit. S. 127.

睿 T. Schmidt, op. cit., S. 132.

睾 R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe, S. 11.

睹 前掲拙稿︑最近のアグネス︑ 鴟︑一三五ページ︒

瞎 T. Schmidt, op. cit., S. 55.

瞋 ibid, S. 218.

瞑 ibid, S. 82.

瞠 ibid, S. 66.

瞞 ダミアニは︑ハインリヒ三世によるストリの会議に参加し︑これを支持している︒

LD. Vol. 1.︵1989︶p. 8.

瞰 H. P. Laqua, Traditionen und Leitbilder bei dem Ravennater Reformer Petrus Damiani 1042−1052.︵1976︶S. 316.

BD. Nr. 89. SS. 571−572. LD. No. 89. p. 368.

瞶 BD. Nr. 89. S. 552. LD. No. 89. pp. 346−347.

瞹 T. Schmidt, op. cit., S. 31.

瞿 BD. Nr. 89. S. 570. LD. No. 89. p. 366.

瞼 BD. Nr. 88. S. 525. LD. No. 88. p. 318.

瞽 F. Dressler, Petrus Damiani. Leben und Werk.︵1954︶SS. 150−151.

―15―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴟

(17)

瞻 BD. Nr. 88. SS. 522−525. LD. No. 88. pp. 315−318.

矇 ドレスラーは︑ダミアニは脅迫的な手紙をホノリウスに送ったと述べている︒

F. Dressler, op. cit., S. 150. BD. Nr. 88.

矍 BD. Nr. 89. LD. No. 89. M. v. K. Bd. I. S. 692.

矗 D. Lück, op. cit., S. 18.

矚 BD. Nr. 88. SS. 530−531, 522, 525, 520. LD. No. 88. p. 324, 316, 318, 313.

矜 F. Dressler, op. cit., S. 151.

矣 BD. Nr. 99. SS. 97−100. LD. No. 99. pp. 103−106.

矮 I. S. Robinson, op. cit., p. 48.

矼 G. Jenal, op. cit., S. 243. A. Hauck, op. cit., S. 721.

砌 M. v. K. Bd. I. S. 361.

クノーナウは︑この手紙をダミアニが如何に高い価値をアンノのローマの件への介入においていたかを示すものと見てい る︒

砒 H. P. Laqua, op. cit., S. 314. Anm. 152.

クノーナウは︑ダミアニをカダルス︵ホノリウス︶への激怒する敵と表現し︑ダミアニが二十四箇もの全く信じがたい中傷 語を使っていると述べている︒

M. v. K. Bd. I. S. 361, 433. H. P. Laqua, S. 314. Anm. 153.

礦 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 244.

砠 ibid, S. 273.

礪 W. Martens, Die Besetzung des päpstlichen Stuhls unter den Kaisern Heinrich III. und Heinrich IV.︵1887. 1966︶SS. 131−132.

硅 I. S. Robinson, op. cit., pp. 50−51.

碎 G. Jenal, S. 258.参照︒

硴 LA. SS. 76−77. もっとも︑ランペルトは︑ローマの有力者たちが王が彼らに相談なくホノリウスを選んだことに不満をも

ランペルトの見るアンノとその時代 鴟 ―16―

(18)

っていたことは伝えている︒LA,SS.90−91.

AA.S.810.

AA.S.812.

BB.SS.52−53.

I.S.Robinson,op.cit.,Bertholds,S.4.

ブッシュなどは︑ランペルトはアンノと根本的に対立していたとさえ見ている︒この見解をシーファーは甚だしい誤解に基

づくと批判しているが︑アンノがはっきり反ホノリウス派なら︑シスマに関してはランペルトはアンノに対立していた面が

あったとも言えるのである︒

G.Busch,SchachdemKönig.︵SanktAnno,op.cit.︶S.108.

R.Schieffer,op.cit.,NeueLiteratur,S.261.Anm.20.

五︑

アンノのシスマへの慎重な態度は︑このシスマを解決するためのマントヴァ会議の前に︑一〇六二年八月にアウク

スブルクで開かれた帝国会議にも見られる

と認是な純単のへーダンサクレア認︒否のスウリノホ︑はで議会のこに

は至らず︑せいぜいのところアレクサンダーを当面︑シスマのより詳しい状況が明らかになるまで認めることになっ

ただけであり

ン決するために︑アノでの甥のブルヒャルト判名︑事このためイタリアで実のを審査し︑王と諸侯を

イタリアへ派遣することが決められた

この一般に右のように叙述されている使節派遣について︑ニーダーアルタイヒの年代記が︑ブルヒャルトの仕事を

― 17 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(19)

両派から事情を聞き︑王と諸侯の代理として正しく判決することであったとするのに対し

︑ベンツォは︑アウクス

ブルクの会議で︑ここで決定することへのホノリウス派の異議に対し︑既に法王職についている者が次の会議までそ

の職に留まるべきだとするアンノの主張が押し通され︑この決定をブルヒャルトがローマに通知することになったと

書いている

この二つの記事は︑使節の役割について違っているし︑前者からは事態はまだ未決定であったという印象を受ける

が︑後者では期限付きであれ既に一方に有利に判決されたかのようである︒一般に︑アンノの甥が派遣されたこと

も︑アンノがこの会議で如何に彼の意志を通したかを示すものとされ

ク対反のへーダンサレ︑アでここはノンア意

見もあったが︑ホノリウスを見捨てる方向への決定的な影響力をふるったと見られている

︒更にイタリアでのブル

ヒャルトの行動も︑アンノのアレクサンダーへの支持の証拠と考えられている

しかし︑最終決定のためのマントヴァ会議がなお予定されていたことを考えても︑更にこのマントヴァ会議の内容

を考えても︑アウクスブルクで既にはっきり決められたと見るのはやはり問題であろう︒クノーナウ自身も見ている

ように︑アンノはホノリウスを守ろうとしていないが︑しかしアレクサンダーをあっさりと認める考えはなかったと

いうのが事実に近いであろう

ていな立場からしもい︑それに宮廷でまあ︒ア後にも見られるンのノ自身の本心での

アレクサンダーへの反対派の存在から見ても

述会クルブスクウア︑にうよの記︑の記代年のヒイタルアーダーニ議

ではなお未決定に終ったと見るべきであろう︒テュヒレは︑一人のドイツ司教がイタリアへ行き︑両者の要求を調査

するというアンノの提案で人々は合意したと見ている

ドと派スウリノホ親でツイの︒時当にうよの述既くかもとま

ではいかなくとも︑アレクサンダーの法王庁との連携に批判的な︑或いはためらう勢力があってもおかしくない︒こ ランペルトの見るアンノとその時代

― 18 ―

(20)

のことは後のグレゴリウス七世に対するヴォルムス会議などの動きを見ても推測しうることである

︒従って︑ブル

ヒャルトの調査の結果アレクサンダーの法王選挙を有効と判断したことについて

︑それも予想されたようにであっ

たこと

結の所で教会改革へのびぎつきを回復したというりり︑帝アンノの指導の下に国ぎと宮廷はこれでもって見

方も

も調派の存在を考えて︑非やや早急な結論と言わ同し︑か後のアンノ自身の行動らい見ても︑また反対派なね

ばならないのである︒

こうしたアンノの立場について同様なことが次のマントヴァ会議にも言えるのである︒結果的にはアレクサンダー

を正式に承認し︑ホノリウスを否認することになる一〇六四年五月のこのマントヴァ会議についても

︑ブルヒャル

トの派遣とそれによって準備されたもので︑アンノの政治路線にあるものと見られているし

︑会議の結論は︑アン

ノの優勢な影響の下に決定され

はいてれさと実確割︑役的導指のノンアる

の越卓ので廷宮ノ︒ンアはれこに更し

た地位の結果であり︑アンノの政治経歴の一つの頂点と見られている

のンサクレアで議会こ︒はノンア︑に様同ダ

ーへの承認によって国政におけるアーダルベルトを含めての彼の敵に対し自らの立場を貫徹しえたとされている

しかしこのような評価に見られるほど︑マントヴァ会議の事情はアンノの立場をはっきりさせるものではない︒こ

の会議については︑主な史料はニーダーアルタイヒの年代記とベンツォであるが︑両者の記述は一部かなり相違して

おり︑この会議の正確な事情を再構成することは困難なのである

思のこ︑はとこるれわと︒実確度程るあしかし会

議にアンノが多くの者とともに来︑ここに二人の対立する法王も招かれたことである︒このうちアンノがホノリウス

と交渉していることが注目されるのである︒ホノリウスは自らに会議の議長職を要求し︑これが認められなかったの

で参加しなかったが︑マントヴァ近くまで来ており

でブスクウア︑はとこたっあり︑もつるす席出に議会は来本ル

― 19 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(21)

ク会議後のこの時点でも事態はなお未決定であり︑ホノリウスが正式に認められうる可能性も残っていたことを示し

ている︒ニーダーアルタイヒの年代記も一応は﹁二人の法王﹂という表現も使っている

︒この会議では結局アレク

サンダーが主宰するような形になっているが︑アンノがアレクサンダーに彼のシモニアへの疑いとノルマン人との同

盟への責任について質したこと︑及びこれにアレクサンダーが答えたことは

種形の上定裁のる︑あがれこえとた式

的な手続きであって︑結論ははじめから決まっていたとしても︑なおこの時点では決定が正式にはなされていなかっ

たことを示している︒更にこの手続きが形式ではなく実際に必要であったものなら︑この会議は始めからアレクサン

ダー支持に決定していた会議ではなく︑実際に両者への判定会議であったことを示している︒ニーダーアルタイヒの

年代記は︑このアレクサンダーの回答に対し︑参加者は彼の身の潔白が証明されたと見︑彼の法王選挙を承認し︑次

にアレクサンダーがホノリウスを異端とし︑この処置に参加者は誰も反対しなかったと書いている

︒二日目の翌日

の会議にはアンノが欠席したので︑これに乗じてホノリウス派が騒ぎを起こしたが︑結局トスカナのベアトリックス

が介入してこれを鎮め︑続く会議も静かに行われて︑アレクサンダーはローマに帰ったというのである

︒ニーダー

アルタイヒの年代記が全体にアレクサンダーに対し好意的に描いているので︑その記述のすべてを額面通りには受け

取れないが︑それにしても詳細な記述の割には会議の後半の肝心な所でアンノの役割がはっきりしていないのであ

る︒これはあるいはアンノが完全に明確なアレクサンダー支持を避けていたことの反映かもしれないし︑二日目のア

ンノの欠席も同様の意図を感じさせるものである︒

一方ベンツォの方は︑逆にホノリウス支持であるが︑やや理解し難い記述も多く

︑ニーダーアルタイヒの年代記

の記述と一致しない所には問題も多いようである

し︑とこたっあ︒的意好りなかで対ノにただ︑ンアがホノリウス ア時のそとノンンる見のトルペラ代 鴟

― 20 ―

(22)

彼が自らなしたクーデタ等に対し反省しているとともに︑王とアレクサンダーを和解させようとしていることをベン

ツォが記述している所は

なだけで事実ではいいとも言いうるが︑るて︑ノベンツォのアンにしかける思いを反映し

かしこれは一方では︑アンノが実際にシスマの解決を一方的にホノリウスを断罪するのではなく︑仲裁的な形で両者

を和解させようとしていたことの反映である可能性も十分に考えうるのである︒実際こうしてこそアンノにとって︑

ホノリウスを擁立した宮廷︱アグネスと王︱や王権の名誉を損なうことなくシスマを解決しうるからである

︒アレ

クサンダーに対してもアンノは決して熱烈な支持者ではなく︑むしろ彼は仲介的な立場であった

それにこの会議に見られるアンノの立場は︑上記の一般的な評価で見られるほど強固なものではなかった︒ホノリ

ウスを完全に否定しさらなかった彼のやや中途半端なやり方

非あでのたれさ難らにか派両はてし対る

︒彼は願わ

くば仲裁的な和解を考えていたのであろうが︑宮廷ではホノリウスが犠牲にされたという思いが広がり

︑王家の利

益をアンノは犠牲にしたと見られたのである

のっなにとこるれわ追らか与関へ︒政国︑とる帰にツイドはノンアた

のである

ら彼の権威上昇をもたさもず︑逆にその政治的︑功︒アマントヴァ会議でのン成ノの一見したところの地

位︑宮廷での地位はマントヴァ会議を頂点にしてまもなく低下したのである

︑威権のノンアは︒議会ァヴトンマの

終わりの始めであったとさえ見られているのである

一方︑アレクサンダー側もその地位が認められたにも拘らず︑ホノリウスがなお要求を捨てず危険な状態にあった

ことに対し不満であった︒アンノによって︑ホノリウスを本来任命したハインリヒ四世の立場も非常に尊重されたの

で︑ホノリウスも直ちに法王位の放棄へと︑会議の判定への正式の服従へと強いられることがなかったからであ

いることは︑アンノのあまていな態度の重要な背景いし︒アこのハインリヒないしグ重ネスの立場や名誉を尊と

― 21 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(23)

考えるべきであろう︒ニーダーアルタイヒの年代記は上述のように︑アレクサンダーの承認の時︑アンノがどのよう

な役割を果たしたか明示しておらず︑アンノはアレクサンダーへの承認に表立って指導しなかったようである︒こう

してアンノは︑結局両派に対し不都合な状況に落とされたのである

このシスマやアンノの動きに関してランペルトは︑アウクスブルクの会議について何も記述していない︒マントヴ

ァ会議についてはランペルトは︑王はホノリウス擁立への不満があったので︑アンノを派遣したこと︑アンノは混乱

を収拾できないことを知って︑ローマの有力者たちの知らないうちになされた︵法王への︶任命を無効とし︑パルマ

司教︵カダルスホノリウス︶を追放し︑彼らの選挙でルッカ司教アンセルムスを彼の代わりに︵法王に︶任命させ

たと書いている

た﹁混乱を収拾するめの﹂と言うように︑ホもた︒ンランペルトは︑アノしがホノリウスに反対ノ

リウス個人をとりたてて非難していない︒更にランペルトは︑この対立する二人の法王について︑彼らは武器をもっ

て戦い︑信者のためより︑信者への支配を求めてお互いに血を流したと述べるとともに︑アレクサンダーは兵士らの

勇敢さで法王位を取ったと言い︑アレクサンダーに対しても格別に積極的な支持をしていないのである

既に見たように一般的な見方として︑マントヴァ会議でのアンノの指導的立場が事実とするなら︑アンノに近い人

物とされるランペルトの記述は︑ここでも目立って冷静︑公平なのが注目されるのである︒確かにランペルトは︑ホ

ノリウスについて︑彼がマントヴァ会議後も依然として法王として活動し続けたのに誰も注意を払わなかった︑とい

うのもホノリウスが法王座から追い出されたという自身の不面目を晴らすために法王座を殺人で汚したとすべての

人々が非難しているから︑とも述べている

リ用を力武にめたの位王法がスウノ︒ホ︑がいしびきそこ現表はれこい

たと言っているだけで︑この点は上記のようにアレクサンダーも同罪であり︑ホノリウス自身に対しシモニア等の教 ランペルトの見るアンノとその時代

― 22 ―

(24)

会上の罪については何も非難していないのである︒

シスマに対するこのような態度も︑ランペルトがアンノと必ずしも同じ立場ではなかったことを示す例かもしれな

いが︑しかしまた別の見方をすれば︑マントヴァ会議自体︑上述のようにアンノにとってよい結果をもたらさなかっ

たことも︑あるいはこのランペルトの記述に反映されているのかもしれないのである︒いやむしろアンノの仲介的な

立場︑或いは本心でのあいまいな気持をランペルトが共有していた可能性もあるのである︒

注盧

G.Jenal,S.142.この会議をベンツォは︑アンノが教会会議の外見の下に召集したと述べている︒

BenzonisepiscopiAlbensis,AdHeinricumIVimperatoremlibriVII.︵MGH.SS.XI︶pp.631−632.

S.Weinfurter,op.cit.,S.109.

F.Herberhold,op.cit.,SS.492−493.M.v.K.Bd.I.SS.300−301.

AA.p.811.M.v.K.Bd.I.S.301.Anm.126.

Benzo,op.cit.,p.632.G.Jenal,op.cit.,Bd.II.SS.233−234.ベンツォは︑イタリアの司教らが︑ミラノとラヴェンナの大司教の欠席の中で決定するのは正しくないと︑決定の延期をす

るよう求めたと述べている︒

D.Lück,op.cit.,S.29.Anm.137.参照︒ 眇

M.v.K.Bd.I.SS.300−301.

G.Jenal,op.cit.,S.192.M.v.K.Bd.I.SS.300−301.

I.S.Robinson,op.cit.,HenryIV.pp.48−49.アレクサンダーは︑ブルヒャルトが一〇六二年から一〇六三年の変り目ごろにイタリアに来た時︑トスカナでブルヒャルト

― 23 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(25)

に会った︒この時︑ブルヒャルトはこのアレクサンダーをローマに連れていった︒ローマの近くストリに達した一〇六三年

一月二十五日のアレクサンダーの文書にアンノの官房長職の名が五年半ぶりに再び登場している︒これらの行為をもって直

ちにアンノがアレクサンダーを正式に法王として既に認めていたとは限らない︒なおアンノ側がアレクサンダーに対する調

査中であっても︑このような行為はありうることである︒更に︑ブルヒャルトのもってきた特権状もアレクサンダーに法的

な力を与えてもらうためだったとリュックは推測し︑アレクサンダーが既に調査のはじめにホノリウスに対して有利な立場

だったと見ているが︑これも逆の結果が出た場合︑ホノリウスに頼む可能性も十分にあったであろう︒

D.Lück,op.cit.,SS.15−16.Anm.78.S.34.Anm.166.

M.v.K.Bd.I.S.300.

テュヒレは︑アンノのアレクサンダーとの協調を乱そうとする党派も存在していたにちがいないと見ている︒

H.Tüchle,op.cit.,S.87.

ibid,SS.74−75.テュヒレは︑この決定がなされなかったことについて︑アンノの和解的な試みは失敗したと見︑既述のベンツォの記事のよ

うに︑イタリアの司教たちは︑ミラノとラヴェンナの大司教の出席なしに何らの決定をすることを拒否したからと見てい

る︒同様にブッシュも︑この二人の大司教が欠席していたので決定がなされなかったと見ている︒

G.Busch,DerPilgerwegdesHeiligen.︵SanktAnno.op.cit.︶S.480.

拙稿︑﹁ハインリヒ四世について︱ヴォルムス会議とその後をめぐって︱﹂︵文化学年報︑第三十五輯︑昭和六十一年︶︑

四十四〜四十五ページ参照︒

M.v.K.Bd.I.S.306.

S.Weinfurter,op.cit.,S.109.

ibid,S.109.

M.v.K.Bd.I.SS.383−384.

T.Schmidt,op.cit.,S.120.M.v.K.Bd.I.S.363.

M.v.K.Bd.I.S.363. ランペルトの見るアンノとその時代

― 24 ―

(26)

睫 M. v. K. Bd. I. S. 363. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 268.

睛 G. Jenal, op. cit., Bd. II. SS. 268−269, 408.

W. Eggert, op. cit., SS. 143−144.

イェナールは︑マントヴァ会議は︑アンノとトスカナ︵ロートリンゲン︶のゴットフリートの関係への抜群の証明をもたら すとし︑アンノとゴットフリートないしベアトリックスがイタリアの諸事情の克服において仲間であったことは疑いえない と見ている︒

G. Jenal, op. cit., Bd. I. S. 14.

睥 ibid, Bd. II. S. 409.

睿 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 246.

睾 ibid, S. 247. AA. p. 814.

睹 AA. p. 814.

瞎 AA. p. 814. G. Jenal, op. cit., Bd. II. SS. 248−249.

瞋 AA. p. 814. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 249.

瞑 AA. p. 814. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 250.

瞠 ベンツォがアンノに︑アレクサンダーをケルンに来させてそこでアレクサンダーにケルンの大司教区を支配させようと発言

させているところもその一つである︒

Benzo, op. cit., p. 633. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 253.

瞞 ベンツォが︑会議の第一日目にアレクサンダーの吃音を誰も理解できなかったので︑アンノがアレクサンダーに話すのを止

めさせ︑会議を翌日に延期させたと書いているところなど︑どこまでが事実かどうか問題であろう︒

Benzo, op. cit., p. 632. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 251.

瞰 Benzo, op. cit., pp. 632−633. G. Jenal, op. cit., Bd. II. SS. 251−253.

瞶 W. Martens, op. cit., S. 134.参照︒

瞹 M. v. K. Bd. I. S. 285.

―25―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴟

(27)

テュヒレも既述のように︵本章︑前注︑

眥的るいて見を力努﹂な解︑和﹁のノンア︑︶照参︒ 瞿

W.Martens,op.cit.,S.134.

M.v.K.Bd.I.S.385.クノーナウは︑両派ともに満足せず︑とも言っている︒

ibid,S.386.Anm.9.

ibid,S.387.カウドリーが︑ホノリウスはドイツ宮廷で力ある支援を見出さなかった︑そこでは意見はますますアレクサンダーの方へ向

いたと見ているのは︑その後のアンノの立場から見れば問題であろう︒

H.E.J.Cowdrey,op.cit.,p.51.

瞻 J.Rotondo-McCord,op.cit.,p.310.Benzo,op.cit.,p.633.参照︒

アグネスがホノリウスを擁立したことを考えれば︑このような動きは当然であった︒

M.v.K.Bd.I.SS.385−386.リュックは︑アンノはハインリヒ四世の公文書において一〇六四年夏から目立って背後に退くと見ている︒一〇六四年七月

三十一日の文書︵DHIV.Nr.135︶が︑クーデタ後に始まるアンノの仲介役を含む一連の公文書の最後を示している││但 し︑一〇六六年の一通の文書︵DHIV.Nr.177︶のみ例外││︒

D.Lück,op.cit.,S.27.Anm.129.

LM.Bd.I.Sp.666.リュックは︑マントヴァ会議後すでにアレクサンダーの特権状の結論部は一〇六三年とは全く異った像を示すとし︑一〇六

三年にはなおはっきりと見られたアレクサンダーからのアンノの支持への感謝の表現がひどく限定されていたことを明らか

にしている︒

D.Lück,op.cit.,SS.36−37.

J.Rotondo-McCord,op.cit.,p.310.n.49.

M.v.K.Bd.I.SS.385−386.Anm.39. ランペルトの見るアンノとその時代

― 26 ―

(28)

W. Martens, op. cit., S. 134.

矜 M. v. K. Bd. I. S. 385.

矣 LA. SS. 90−91, 92−93.

矮 LA. SS. 90−91, 92−93.

矼 LA. SS. 92−93.

︵本論 鵄は︑人文学︑第百七十七号に掲載予定にしております︒平成十六年一月十五日稿︶

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ランペルトの見るアンノとその時代 鴟

参照

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