日本近代科学史の分類について
著者 大内 兵衛
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 6
ページ 3‑13
発行年 1953‑12
URL http://doi.org/10.15002/00010638
日本近代科学史の分類につ
い て
大
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衛 内
開国百年記念す︿化
事業会嬬﹁明治文化史論集﹂というのに︑湯浅泊朝という
人の﹁日本近代科学史の時代区分につ
いて﹂という論文がのっ
てい
る︒
私は湯浅光朝という入はどんた人か知らたい︒ただ肩書に﹁日本科学史協会幹事
﹂
とるるので︑その道の
研究者かと思う︒との論文も論文としてあま
b論回日明断でぽた
く ︑ 論証も十分でた
いが︑それ
でも
︑その方面での新しい研究でるるに相違ない︒とにかく先日それを見ているうちに︑その時代区分
とわれわれの
経済学の時代区分とが︑密接に関係しているととに興味を忌ぼえもん︒
湯浅氏は︑とモで科学とは自然科学︑工学︑産業の三
aつの分科のととであb
︑社会科学はとれを除外している
oそ
して湯浅氏はとういうととをいっている︒科学史の時代区分は︑いまの段階においては一種の仮説であって︑とれをや
って見て︑その区分が妥当であればそれが歴史の治則を発見するに役立つであろう︒そういう意味で試みに日本の近 代科学史の分
類︑
を
して見たいと思ラ︑と︒とれは同感である︒
氏は︑との窯味での日本の近代はシ
1ボルトの渡来にスグ1トするとし︑それを次の如く区分する口
日本近代科学史の分類に
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ト 日本近代科学史の分類について
開 ・国一│代
(1853)
氏はとの表をほぼ次む如く説明する︒
A 第二期
反射躍の建設から 第一期シIボルトの渡来から B
帝国大学令の公布から
第三期
学 制 頒 布 か ら
第四期
E
一 明
新﹀維
団治 印
関 (
官且
27年
1823 1849
(嘉永2)
22年
1850 1871
(明治4)
14年 1872 1885
C
明治19) 11年1886 1896
〈明治29)
1886一1‑1890
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日︿ 露目 目
正
大 1 1917 1‑1920 代第一次 世界大戦ー
(1914)
‑1930 四 可E
満州事変ー
(1931)
一1940
手詰語~-I 時
VII 時
終 戦 一 代
(1945)
オラング語よわJの科学書のホンヤクはじまる︒
それが一応理解されて応用が試みられる︒即ちマヌファクチュアより軍事的洋式工業始まる︒
外国の学問正式移植
l
博覧会共進会︑専門学会に始るο外国人が日本人教授に代る産業革命成る
第 八 期 日 本 学 術 会 議 の 創 立 か ら 以上の区分は︑一応︑誰の自にもつく一番大きな事件をそのままにならべて︑そのうちからその時代の特色を見ょ うとしたものであるととは湯浅氏の明言するととろでるる︒しかし︑との分類をする目的はといえば︑それは歴史の うちにある一般的な発展の法則をさがそうとするにあるというととである︒さて︑との区分を見て私が思うととは︑
第一
︑
ζ
の区分は一方に沿いては科学の重大な原理の確立またはそれにもとや
4
工業上の発見によっては注されてい ない︒第二︑それよりもむしろ科学の発達に影響を及ぼした政治的な出来
事
を以て時代区分の中心にしている︒例え ば反射櫨の建設というのはどうか︒それは一つのヱ業的大事件には相違ないが︑それは一つの政治的な目的をもった 事実である︒その筒︑学制の頒布は
ε
うか︑帝国大学令の公布はどうか︒とう考えてくると︑通じて︑との時代区分 のメルクマールとなっているのは政府の科学に対する政策︑その政策の現われたる特殊友機関の設定ということになっている︒
第 五 期
。
第七期 第六期
D
八幡製鉄所の建設から
2 0
年 1897〈明治30)
1916
〈大正5)
日本の学者外国に認められる︒
重工業はじまる.との終期
に工場法ができ為︒ 科学の自
由独立期(外
国からはなれる
)重工業確立︑工業より農業がかっ︒
組 軽 織 工 的 業 協よ 力り 的 意 連工 絡 業 研が 究 か が っ
始 たま。
る
。
再 編 成
理化学研究所の創立から
15年 1917
(大正6)
1931
〈昭和6)
とのととから︑
私は
︑
一つ
の事実を指摘すると
とが出
来ると思ろ
︒そ
れは外ではな
い︒日本の
科学の発達
には政府
の科学政
策が重
大友 意義をもっ
ているというとと︑いい
かえれば日本科学の発達
の動
機
と力となったものは政府の政
日 本 学 術 長 興 '会
σ コ
創 立 か 16ら年 1932
〈昭和7) 1947
〈昭和22)
日本近代科学史の分類にづいて
五
日本近代科学兵の分類にヲいて
六 策でるったというとととれである︒少くともとういう政治的政策的事実を以て科学史の時代区分をするのがいいとい う自然科学者がいるというととは︑日本ではすべての理論科学とすべての応用科学は︑政府の保護と干渉と方向指示 とによってなされたといってよいという意味ではたいか︒日本では科学は︑それ自身の内部的な要求によってその発
展をとげたものとは言えないというととであろう︒自然科学についてとういう時代区分‑が正しいかどうかは︑かくし
て問題と
なると思多けれども︑それについて何等の判断をする力は私にはな
い ︒ そとで私は︑私の専門とする経済学の発達が︑との時代区分とどういう関係にあるか︑われわれの学問の分野では どういうととを時代区分とするのが適当だろうかというととを考えて見ょうと思った︒そのとき︑私の心に浮んだの は経済学上の重要な著書であって︑経済政策又は学問政策ではなかった︒とれは湯浅氏の方法と相当に異る考え方で
ある
b
との第一期︑第二期に‑沿いては︑経済学もまた全く聡入時代であ ︒︑先や何よ
b
もオランダの本の醜訳でるったととは事実でるる︒そして訳者の主︑なるものは神田孝平︑福沢識士ロ等々でるった︒翻訳の原本はいやれもかんたん友オ
ランダの通俗書︑かんたんたアメFカの通俗書であったが︑それが日本の旧来の経済制度の時代ゐくれでるるとと︑
新しい社会制度はヨリよき制度であるととを示すのに役立ったと思われる︒要するに︑明治の変革は当然であ
b︑且
ついいととであるということを︑とれらの書物は国民に示した︒
第三期に入ると︑とくにとの時代の指導者として目立ったのは福沢論吉と田口卯吉とである︒そしてとのとき︑と
の二人はもはや単なる知識の輸入者ではなく突に日本の指導者であった︒福沢の多くの著書のうち︑その代表的友一
つである﹁学聞のすすめ﹂は明治五年であり︑﹁究明論の概略﹂は明治八年の作であり︑また田口卯舎の代表作であ る﹁日本開化小史
L
は明治十年の作である︒とのこつは明らかに自由主義でるると共に進歩主義であるが︑との自由 主義との進歩主義というのは西洋の文明を日本にとり入れるというととであった︒それにしてもとれがつぎつぎ行渡 れたのはどういうわけでるるか︑またそれが日本国民の力と友ったのは
E
ういうわけであるか︒それには学制が布か れたというととも重大でるるが︑そういうのはあまり形式的た説明であると思われる︒それよりも福沢や田口の思想
そのものがもっと社会的な効用と社会的な意義即ち資本主
義が新
文明の基調であるということ
を教えた点
にあったと
思われる︒
第四期の経済学を代表するものは一つは前田正名の興業意思であり(明治十八年﹀︑他県菅沼貞風の﹁大日本商業史﹂
である︒とれはこっとも︑日本ではじめての実証的友研究といってよいが︑同時に︑日本には日本独得の経済がある という見地に立って日本の特長は農業であ
b
商業であるという論証をしようと試み
てい
る︒明らかに前時代の反動で
ある︒そして周知の如く東京帝国大学はとの反動の学問的城砦として利用され︑またその理論を作るのに役立ったの は事実である︒それは恐らくは憲法の解釈を中心とする国家主義として現われ︑また経済学に沿いてもドイツ経済学
の輸入として現われたには相遣ないが︑との時代を一一言にして現わすというのに︑単に帝国大学令の公布というのは
どうであろうか︒
しかもとの時代の終りは
産業革命
の成立に当ると著者はいうo
たしかにそうであって︑その徴として足尾銅山の第
一次の被害騒動は
一八
九七
年(明治三十年)にあ
った︒そしてまた日本に烏ける最
初の貧民研究︑横山源之助著﹁日 本下層社会の研究﹂がこのときに出版されている
o
そしてまた日本最初の社会主義政党安部・片山・幸徳などの社会
党がはじめて
結成されたのはとれより後四年目︑一九
O
一年
であ
る︒
第五期は自然科学の時代としては八幡の製鉄所の創立を以てはじまっている
︒との時代は自然科学の方では︑日本
は多方面に偉い学者を出して日本の学術が世界に認められた時期であるという︒しからば︑われわれの経済学ではど
うか
われわれの窪辞母では必やしもそういえない︒われわれの学問 ︒
でい
えるととは明治三十年から大正七年までは︑経
済学に沿いても︑との時代に急に盛大になって多数の学者が輩出したとはいえる
であろう︒金井・桑田・戸田・高野・
福田・神戸・小川・塀沢・堀江・気質の諸博士とれである︒とれを一括して社会政策学振
と名づけるのは正しいと思
う︒この時代にtuい
て日
本は一方に沿いて
は一応外国経済学の輸
入を
一終
り︑
E
つまた日本経済問題を自覚した
o
その
ととは社会
政策学会のリポートが之を証する︒そして事実︑学界を代表したも
のは彼ら尊者グループの機関であった
自家近代科学史の分類に
つい
て
七
日本近代科学史の分類について
入 ととろの社会政策学会であった︒との学会は周知の如くとの昨代のはじめに成立し︑との時代と共に終っている︒そ れと八幡製鉄所の開設とはむろん重大な関係部あるが︑とれを以てとの時代の学聞の進歩を現わそうというのは少し
くむりである︒
経済学にとっては大正六︑七年即ち前の表で理化学研究所ができた時は大きい転機であった︒それをシムボライズ するものは何といっても︑河上肇の﹁貧乏物語﹂(大豆六年)でるった︒というのは
ζれは︑社会主義の本ではない
が︑最早社会政策の本ではないからである︒いなこれは社会主義の正しさを信じっ
L社会政策を主張している奇妙な︒
本であるロしかし︑との木をよむと何人も︑日本の経済学の過去をふり返って見て︑それについての批判を感ぜざる を得ない︒少くともそれより十年前のととが思い治とされる︒それは外ならぬ幸徳事件でありまた幸徳がその‑員で あった平民社の運動である︒そしてそれは明治の末年のととであり︑日露戦争及びその経済的社会的帰結と大いに関 係をもっている口幸徳の﹁帝国主義﹂は一九
O
一年︑﹁社会主義神髄﹂は一九O
二%であった︒経済学史としてはそ
ういうととも重要でないかと思う︒
しかしながら第五期の終︑第六期のはじめがわれわれにとって大きな時期の転換であったというと止は︑単に﹁貧 乏物語﹂が出たというととだけでなくとの時代が大きい変革の時代であった︒その変革については︑大正七年が米騒 動の年であったとと︑そしてそれはロシア革命の年であったととが︑むしろ﹁貧乏物語﹂が生れる時代であったとい
うととでもあるように思える︒
前表では理化学研究所の創立を以てとの期聞がはヒまるとしている︒そとで何か似たようなととがわれわれの学界 に起っていないかと考えて見ると︑われわれの学聞の分野にはいろいろのととがある︒その第一は東京大学︑京都大 学その他諸大学の経済学部の独立であって︑とれは大正八年である︒次に大原社会問題研究所の創立でみって︑とれ も大正八年である
o
そして第三は労資協調会の創立であってこれも大正八年である︒とのいやれもは︑その創立は︑
米騒動︑デモクラシーの運動と重大な
関係があb
︑一般にとれらは︑日本の学界の社会問
題
についての新たな自覚と
いってよい︒
そして右の時代区分では︑と
の時代の特長を日本
の産
策技術独立の時代と
し て い る が
︑ わ れ わ れ の 学 聞 に た い て は︑そういう表現は必やしも的確ではない口というのは︑との時代は日本の唯一の経済学でるったドイツ流社会政策 学波に対する批判の時代であったといってよいからである︒そしてそれを批判したものは堺利彦︑山川均等
kの人k
であつだともいわれるが︑しかし
学聞の世界でそれを
花やかに代
表したものは河
上限端であった︒それに対して前述の
社会政策学沃を率いてそれを防衛したものは福田徳三であったといった方がよいかも知れない︒そしてとの時代の終 りに沿いて︑社会主義の側が一つのヱポックを作ったととはやはり学界としては重視すぺきである︒それは岩波書自 の﹁日本資本主義講座﹂の出現でるったと私は思う
o
との講座は山田盛太郎の﹁日本資本主義分析﹂︑野呂栄太郎の 円日本資本主義発達史﹂を以て代表せられると思う︒とれはこっとも今日から考えると︑ゃい分不完全なところがあ るが︑ともかくも︑マルクス主義が日本の経済学で
b h ν 得るという可能性在示したことに沿いては大き友指標であっ たと思う︒このことはとれの批判としての櫛田民蔵の﹁わ
が国小作料の特質﹂その他マルクス地代
論に関する諸論
文
と共に︑その後今自に至るまでの日本
経済史なら
びに一般近代日本
史の研究が︑
とれらの説の組述と批判
1f
をそのス
タートとしているととによってるきらかである︒そしてわが経済学が︑今日著大な進歩をしたのは︑とれから出発し
たいろいろの研究のたかげであるととは否定出来ない︒
しかしさらに考えると︑これらのエポロク︒メイキングの作物が生れたのには大きなパックがあった
oそれはいう
までもなく日本無産政党の勃興である︒即ち︑大正十一年の第一次共産党︑大正十五年労働農民党の結成︑同年第
・二
次共産党の結成︑社会民衆党結成︑日本労働農民党の結成︑昭和三年の三・一五事件︑昭和四年の回︒一六事件の桔
・ 成という事実︑また︑一九二七年モスクワにゐける日本共産党のテーゼ︑一九三二年の同様の事実などもあった︒と
れらをどういうふうに評価すペぎか︑4なかなか問題である︒
次に第七期は︑前表では一九三二年学術会議の設躍となって治る
oとれを湯浅氏は﹁組織的協刀による科学の進歩﹂
というふうに規定している︒
しかし︑考えてみればとれは
満洲事変以後の戦時的体制
の時代でるる︒われわれの経済学の領域に沿いて︑との時
日本近代科学史の分類について
ブL
日本近代科学史の分類について
。
代に沿いて大きい学問的進歩があったといえるか︑とくに組織的協力がそのうちにあったといえるか︑それは︑疑問
だと私は思う︒とのとき恐らくは一番有名でるり︑そして最もよく売れた著書は︑難波田春夫君の﹁国家︑と経済﹂で
なかったかと思う口とういえばそれに対して︑そ
う
ではないという人が多いと思う︒といって何か代表的た作物がる るかといえば︑誰もとれだとはなかなかいえないであろう
o
そして︑かりに難波田君の本をわれわれ学
・界
の エ ポ ッ
ク・メイキング友本として見ても︑あれは︑いうまでもなく一一躍
のファシズム的イデオロギーの一つの建築であっ て︑科学の本として何かを吾
kに教えたというのは無理である︒まもんとの時代の学界の主流まして︑或は土方成美博
士と高田保馬博士があったともいえるかも知れぬ︒前者は日本主議経済学の提唱︑後者は民族主義経済学の主張を以
てとれを現わすととが
できるのであろう︒しかしど
ちらも
それぞれ主張にとピまって︑それによって何等かいうに足 るほどの積極的な政策また理論は生れて来たかったととは事実ある︒今日誰もがとの両人のアルバイトを以て日本経 済学史上ナッハ・プライベンデたものとはしないであろラ︒とれを要するにとの時代に沿いて︑われわれの学界に沿
いては︑組織的協
力的学問の進歩があったというととはできない︒いえるととは政府に沿いてそういう希望とそれへ の磐力があったというとと︑そのため却って自由次学聞の進歩は止まったというととである︒強いていえばとの時代
はいままでのせっかくの学聞を破壊
した時代であったといった方がよいかもしれない︒即ち︑との時代の日本の政治 は日本の社会主義的思想を弾圧するととに成功した口そのために一部の学者の力をかりて一切の学聞の自由を奪った
のである︒そしてそれによって損
をちけたものは社会
主義
だけではなかった︒従来の社会政策的経済学もまたほとん
E破たんしたのである︒
以上︑や
L
アト
?ラングムに︑しかし私自身の
約半 世紀に及ぶ読書の印象から一定の標準を以て経済学の時代区分 をして見たのであ
るが
︑私
のとのような時代区分は燥して前記
の湯
浅
氏の区分と一致するだろうか︒いいかえれば湯
浅氏の自然科学の時代区分はわれわれの社会科学の方面に本安当するだろうか︒私はある菅川味ではむろん然りと答え
ねばなちぬ︒しかし︑湯
浅
氏の区分︑すなわち政府の政
府 突 を中心にして︑そのま﹂にわれわれの方に応用するなら ば︑それは︑時間史の一般的渋則宇一示すものとしては不完全のように思われるのである︒即ち︑もし湾浅氏の例によっ
て経許学史を分類ナるならば︑第三期には学制領布をとり︑第四期に帝国大学令の公布をとるならば︑第五期には京 都大学︑神戸高商の増設をとらねばならぬであろう︒そして第六期は経済学部の独立をとらねばならぬ︑或は大原社 会問
題研究所・協
調会の創立をとってもよい︒そして第七期は日本学術短興会の創立をとら事ばならぬであろう︒
ζ
れもまたたしかに学問進歩の一つの指標ではあるが︑さて︑それらの政策によって︑われわれの学聞がそういう機関
のうちから本当のモIテ4
プを得て︑今日の経済学ができたかというと︑私は何となくそれでは︑われわれの学問の 進歩の方向と内容とは︑明らかにならぬよラに思う︒そしてその'失点は︑右に私が試みたように︑直接に著名な著書 すなわち︑それぞれのアルバイトを以て学聞の進歩の指標としないからであると思う︒
とれを要するに湯浅氏が自然科学の時代区分についてやっていることが︑正しいかどうかという問題について直接 に答えるととには私は興味もなく︑それをやる資格もないけれども︑その分類の結果を直ちに社会科学の方にうつし て考えると︑との区分方法には必然性が見られないと思うのである︒即ち︑るまりに形式的でるって︑実質的ではな
いと思うのである︒
私がとくにとういうととを今日ととでいうのは︑一体学聞の進歩を規定するものは何であるかというととについ て︑いやしくも学聞をする者として考えて見る
ζ
とが必要であり︑少くともそれが自己反省の一つの心がかりと友る と思ったからである︒何といっても学聞は人閣のするととである︒学問とは︑ある人間の頭の中にある思想または原 理が世に示されるととによって︑学問となるのであり︑その社会の学問的財産となるのである︒いかに研究所が出 来︑いかに政府の奨励があっても︑学問的ア仇バイトがなくては学聞の進歩はない︒さらにいいかえれば︑学聞の進 歩を担当するものはやは
p
学者個人であり︑それを具体的に示ナものは学者の作品でる
・るとい叩うととは︑学問の歴史を考えるのについて重要でるる口そういう意味では︑学問も芸術と同じくあくまでも惜し八叶
t
怯貯をもっτ
いる︒元 も︑さらにその個人がいかなる社会的保件によって支配されるかといえば︑むろんその係件のうちにはいろいろの事がるb
︑彼の遺伝はどうか︑彼の少年時代の教養はどうか︑彼の周囲︑先生︑友人はどうか︑というような問題が るる︒さらにその傑件を規定するものとしての国家の政策がるる︒そしてその政策は場合により個人の事情によって
日本近代科学史の分類について
日木近代科学史の分類について 相当に重要友煮味をもっととは否定できない︒しかし︑学聞の進歩を具体的に規定するものは何といっても︑そうい ういろいろの係件のもとに沿いて生産されるととろの個人の作物(アルバイト)でるる︒もしそうだとすると︑社会 科学であれ︑自然科学であれ︑学問の歴史の時代を区分するものは︑やはり︑学問上に冶けるある原理の発見であ り︑その発見を現わすととろのアルバイトであると思われる︒そういう意味で︑学史の時代区分をしようと思えば︑
そういうアルバイトの学問の進歩の上に治ける意義を確定するととでたくてはならぬ︒
私が右
K
のべたのは︑私のほんのせまい読書の印象によるメモア
l
ルにもとやく一つの断想に止まる︒私ののべた
とと
は︑それを以て日本経済学史の区分として人に一示すべきほど
のものでは決してない︒けれども︑社会科学の
時代 区分をするという上にゆ布いて何が重要であるかというととについての着想として︑学問的アルバイトを軽視する考に
はさんせいできない︒
とれを逆の方面からいうと︑日本に沿いては︑学聞の進多を規定しているものは︑国家の政策であるという事実は 否定でき‑ないととであるから︑国家の学問政策を以て時代を画するととは無意味ではなく︑たしかに使利た方法でも
あるが︑それをあまりに重要視すると︑学聞の進歩の形とその内容とそ一示し得ない危険があろというのである︒
さて︑いまは如何なる時代であるか︑との表たよれば︑それは日本学術会議時代であるというととに放っている︒
日本学術会議は政府の学問政策に関する一般的方諮問機関であり︑との機関は一方に沿いては学問の自由を守ると共 に︑他方にたいては学術の進歩を侭進する方法を政府に建議ナる学者の会議である︒もし︑との会議がその目的を達 し得るならば︑従来のようなまやい学問政策はなくなり︑学聞は自由た発展をとげると共に学聞の進歩に必要ないろ いろの賢明な政策が行われるはやである︒しかし︑それによって︑日本に直ちにいい学問が大いに起るというととは 期待する方が無理である︒学問の進歩はそういうととだけではできたい︒そういろ係件のもとにたいて学者が︑実際 にいい研究をし︑実際にいいアルバイト去すおととによってのみ進歩する︒そとで日本のいまの社会は学者が学聞を するのにいい僚件にあるか︑学者外個人はそれぞれいい僚件を具えているか︒そういろととが問題となるであろう︒
日本学術会議は本年の
総会にあいて原子力栴究所設立の必要
b
議定した︒原子力の研究の必要はむろん誰で本認め
るが原子力の研究が実際うまく行くかどうか︑またうまく行ったとき︑その社会的意義はどうなるか︒例えば原子爆 弾の製造という問題とどういう関係に立っか︒自然科学の問題としても︑社会科学の問題としても︑重大な問題がふ
くまれているoそれ
とともに︑いまの時代は︑日本にとっては
︑
日 本 の 経 済
︒ 政 治 が 独 立 し 得 る か
︑ 独 立 し 得 な い か︒それと戦争
と
はどういう関係があるか︑われわれはそういう大きな問題をつぎつぎにたくさんもっている︒単聞
が人聞社会の
人間的幸福
にとってプラスになるととが必
要であ
ると仮定して︑さらにそういう学聞がほんとうに学問 の進歩であると仮定して︑われわ
れは
どういうととをしなくてはならぬか
d
例えばそういうような意識に沿
いてわれ われが学聞の任務を思うとき︑日本の学者は︑その責任の重いこと︑同時に︑われわれは︑われわれの与え
ら
れた僚 件のまやしさを嘆ぜゃにはいられ
ない
︒ とれはすべての日本の学者のデ
4
レンマでるる︒しかし︑そういうディレン
マとそういう困難とにうち克つ
こと
なくして︑エポック
・メ
イキングな学問
上のアルバイトを作ら友かった学者が
一
人でもあるだろうか︒
われわれは先人の歩んだ道
と先人の苦心とを顧みて
︑自分たち
の勇気を鼓舞し
ていいと思う︒
私は︑との困難にもか
Lわらや︑いまや日本にもいいアルバイトが出ていいと思う︒新しい時代がその名に値いする ならば︑私は︑日本の社会科学の世外にどうしてもいいアルバイト︑エポック・メイキングなアルバイ
トが出なくて
はならぬと思う︒私は︑それを︑との学会の人
kに期待する︒
百木
近代
科学史グ一分類
につ
いて