斎藤丈蔵の藩政改革意見 : 幕末宇和島藩小史
その他のタイトル A Report to the Government Authorities made by Saito Jozo, for the Drastic Administrative Reforms of Uwajima Domain, in 1863
著者 市川 訓敏
雑誌名 關西大學法學論集
巻 48
号 3‑4
ページ 707‑779
発行年 1998‑12‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00024495
斎 藤 丈 蔵 の 藩 政 改 革 意 見
ー 幕 末 宇 和 島 藩 小 史
│
│
市
J I I
訓
敏
ー は じ め に
二宇和島藩士斎藤丈蔵
三斎藤丈蔵﹁乍恐言上之覚﹂
四憂国誠忠社﹁建議六条﹂
五斎藤丈蔵﹁建識六条﹂補足
六補論・﹁会議式・藩政改革書﹂
七
結
び
に
か
え
て
戊午の密勅ともいわれるこの勅綻は︑今回の幕府の調印強行を暗に批判するとともに︑幕府の処置に抗議した水戸
藩の徳川斉昭︑慶篤父子や松平慶永ら︑いわゆる一橋派への処分についても疑義を表明し︑大老・閣老が御三家以下
諸大名と群議・評定して︑国内治平︑公武合体を進めて国難にあたるべきことを要請したものであるが︑さらに別紙
斎藤丈蔵の藩政改革意見 る水戸藩主徳川慶篤に秘かに伝えられた︒ る ︒
大老井伊直弼が︑いわゆる安政の大獄を断行していた時期︑水戸藩内では︑諸国に廻国して有志の諸大名を糾合し︑
( 1 )
一部の激派のグループによって秘かに進められていた︒
初代の駐日総領事ハリスの強い要求に押されて︑幕府の老中首座堀田正睦が︑通商条約締結の前提として天皇の勅
許を得る必要を説明し︑自ら京都に赴きながら朝廷の強い抵抗にあって︑むなしく帰府すると︑その直後に大老に就
任した井伊直弼によって︑勅許を待つことなく日米修好通商条約の調印が強行されたことは︑周知のことがらに属す
幕府が違勅調印を強行したことは︑孝明天皇を激怒させたが︑それにとどまらず︑天皇はこれを許容しがたいこと
( 2 )
として︑自らは退位する決意を関白以下廷臣に表明し︑そのことをただちに関東へ通達するよう命じたのであった︒
しかしそうなれば︑朝幕間の決定的な対立は避けられず︑事態を憂慮した左大臣近衛忠熙らは︑天皇をなだめる方策
として︑幕府に対するとともに︑水戸藩へも勅綻を降下することを計画し︑関白九条尚忠不参のまま︑天皇の了承を
得た︒これによって︑安政五(‑八五八︶年八月八日︑水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門に勅書が手渡され︑江戸にい 形勢を一挙に挽回しようとする計画が︑
は じ め に
>
︵ 七
0 九 ︶
第四八巻第三•四合併号
一部の激派のグループによって進められたのである︒
( 3 )
において︑この趣旨を水戸藩が御三家以下列藩一同にも伝達するよう命じていた︒ 二 三 四
︵ 七 一
0 )
水戸藩への勅綻降下に遅れて︑八月十日付で︑幕府にも同一の勅綻が下され︑その添書において︑水戸藩にも勅綻
を降下したことを知らせたが︑もとよりこれは︑朝廷が幕府を介さず直接水戸藩に勅綻を降下するという前代未聞の
行動をとったことで︑幕府が受けるであろう衝撃を緩和しようとする意図が働いた結果である︒
しかし︑水戸藩に勅綻が降下されたことに驚愕した井伊直弼は︑水戸藩に対し︑勅綻の他家への伝達を禁じ︑さら
には藩内部に露骨な干渉をおこなって︑激派グループの藩政からの排除をおこなわせ︑また勅綻降下を画策したであ
ろう者たちの探索・逮捕を命じた︒九月七日の梅田雲浜の逮捕にはじまり︑九月十八日の鵜飼吉左衛門父子の逮捕な
ど︑関係者とされるものが陸続と逮捕・糾問されることになったのである︒水戸藩への勅綻降下は︑安政の大獄を誘
発させ︑吉田松陰︑橋本左内︑頼三樹一︳一郎ら有為の人々を刑死させるとともに︑幕府内の改革グループを含め︑
派を圧迫し︑諸藩士や浪士︑さらには朝廷の内部の粛清にまで及んだ︒密勅降下の計画を伝え聞いた侍従岩倉具視は︑
ただちに近衛邸を訪ね︑激しく降下に反対したといわれるが︑岩倉が危惧した以上に︑事態は重大な結果をもたらし
( 4 )
た の
で あ
る ︒
勅綻を降下された水戸藩が︑窮地に陥ったことは言うまでもない︒他藩ならいざしらず︑水戸学を奉ずる水戸藩で
は︑天皇の命令に従うのか︑あるいは幕府の命令に服するのかをめぐって︑藩を二分する深刻な対立にまで発展して
いった︒そうしたなかで︑密勅が命じているように︑勅綻の趣旨を諸国に廻達し︑あくまで幕府に反対する義盟を有
志の諸大名と組み︑事態の打開をはかっていこうとする計画が︑
この計画の中心となったのは︑奥右筆頭取の高橋多一郎︑南郡奉行金子孫二郎︑北郡奉行野村鼎之介であり︑高橋 関法
一 橋
で あ
る ︒ ( 3 ) で ︶
や金子は︑その後桜田門外での井伊直弼襲撃を指導︑野村もこれに深く関与した︒かれらは︑入念な打ち合わせをお
こない︑廻国の基本方針︑いずれの藩に働きかけるか︑それらの藩の事情︑接触すべき人物などについて︑同志たち
と検討を加え︑四名の者を二手に分けて派遣することにした︒こうして︑矢野真九郎︑関鉄之助の一行が北陸から山
陰方面に派遣され︑越前福井︑鳥取︑長州をめざして旅立ち︑住谷寅之介︑大胡幸蔵の両名は︑四国︑九州方面に向
( 5 ) こ ︒
カ っ
t このうち︑関らの一行については︑関自身の記録になる日録が残され︑﹁水戸藩史料 j にも紹介されているが︑他
方の住谷らの手になる記録は︑これまで見当たらなかった︒その後︑東京大学史料編纂所が所蔵していた旧文部省維
新史料編纂会作成の写本中に︑住谷自身の日記が存することを︑河内八郎氏が突き止められ︑それらを詳細に紹介さ
( 6 )
れ た
住谷の手になる記録は︑全部で三点あり︑ ︒
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2 , 1
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﹁住谷信順回国記行﹂︵安政五年十月五日ー同十一月九日︑水戸出立から山城まで︶
﹁住谷信順道中日記 坤﹂︵安政五年十一月十日ー同六年一月二十一日︑大坂から宇和島往復︑徳島︑帰藩ま
﹁住谷信順廻国日記﹂︵安政五年十月五日ー同六年二月八日まで︶
これらを分析された河内氏は︑﹁三点の﹃道中日記﹄の記事によって︑住谷︵加藤│住谷の変名︶・大胡︵菊池│大
胡の変名︶が︑四国諸藩すなわち︑土佐・宇和島・徳島に対して︑如何なる意図で︑どのような人物を手がかりに接
斎藤丈蔵の藩政改革意見
二 三
五
︵ 七
︱ ︱
)
第四八巻第三•四合併号
︵ 七
︱ 二
︶
触したか︑そしてその結果︑水戸藩の意図がどのように崩れたか︑が示される︒その結果︑最も強い意図で到達した
( 7 )
宇和島藩の拒否にあって︑九州への渡海を断念して︑東帰の途をたどるのである︒﹂と指摘されている︒
一路︑宇和島をめざし︑途中︑土佐の坂本龍馬に接触して︑土佐藩の内
情を聞き︑龍馬が土佐入国の斡旋に難色を示したことから︑あきらめて宇和島に向かい︑宇和島藩の事情を知って︑
断念するという結果に終わっている︒宇和島行きが︑住谷らの主要目的であったことは︑河内氏の指摘の通りと言え
水戸藩の前藩主である徳川斉昭と宇和島藩主の伊達宗城とが︑盟友ともいうべき親密な仲であったことは︑両者の
( 8 )
大量の往復書簡からもうかがうことができる︒それだけに︑住谷らが四国をめざしたのも︑宇和島の伊達宗城との連
携によって︑諸藩の綴起を促すことにあったと考えてよかろう︒
出立以前に︑水戸において︑高橋多一郎らの議論を︑住谷がメモしたものが﹁住谷信順回国記行﹂に残されている︒
それには︑宇和島について次のように記されている︒
三百八里
一︑宇和島
郎豊田知人、オ子流、父春太郎、孝太郎ヨリ賢ナリ、△家老松根図書武田ノ知人、第一等ノ人オ、代官儒者、斎藤~蔵、
弟兵学者︑大野政三郎︑越智勝太郎︑已上三人人物︑菊池為三郎知人ニョリ︑菊池︹大胡の変名︺申込ヘシ︑内
斎 藤
一 番
︑
宇和島より三里前︑吉田卜云アリ︑分家領所︑沢田一作豪気︑撃剣且文事もアリ︑斎藤同志︑菊池も知識︑
よ う
︒
江 戸 詰 参 政 ︑ 為 三 郎 世 話 イ タ セ ル モ ノ ナ リ 事実︑住谷ら一行は︑四国に上陸すると︑ 関法
吉見左膳権八伯父︑高間権八五丁矢場へ来リ︑知識︑兼子孝太 二三六
これについて︑河内氏は︑﹁宇和島藩士の中で︑接触すべき者として示されている者の中に豊田亮・武田正生・菊
池為三郎等の水戸藩士の知人がいる︒﹂︑﹁宇和島藩士吉見長左衛門︵左膳︶は︑安政大獄に連座して捕えられた唯一
の同藩士である︒吉見は︑安政五年十一月二十一日︑江戸にて︑町奉行石谷因幡守︵穆清︶のもとに出頭を命ぜられ︑
捕えられるが︑史料②の﹁道中日記﹂の︑十二月八日︑宇和島城下に到着した日に︑その報を得たことが記されてい
( 9 )
る ︒
﹂ と
述 べ
ら れ
て い
る ︒
吉 見 長 左 衛 門 は ︑ 高 ︱ ︱ ー 百 七 石 を 知 行 す る 上 士 で ︑ 若 年 寄 を 勤 め ︑ 伊 達 宗 城 の 意 を 受 け て ︑
越前の橋本左内や水戸藩家老安島帯刀︑同藩茅根伊予之介︵いずれも安政大獄で刑死︶などと連絡を取っていた︒安
政の大獄によって重追放となるが︑その後も藩に保護され︑伊能松陰と変名し︑明治初年には藩の参政の一人となっ
ている︒また︑のちに水戸天狗党の首領となる武田耕雲斎の知人である家老の松根図書は︑宗城の股肱の臣︑右腕と
もいうべき人物で︑幕末の藩政改革を推進し︑宗城の政治活動を支えていた︒水戸藩の菊池為三郎を宇和島藩にかく
( 1 0 )
まったというのも︑吉見長左衛門というよりも︑松根図書の計らいであったと言われている︒
吉見長左衛門の甥の高間権八は︑当時︑高三百石を知行し︑小姓使番を兼任していたと︑住谷の記録にあるが︑伊
達宗城が徳川斉昭に依頼して︑水戸の神発流砲術を宇和島藩士に教授させた時に︑高間も水戸に来て学び︑嘉永元
︵一八四八︶年から安政四(‑八五七︶年まで︑同僚の水野源左衛門とともに︑﹁五丁矢場﹂の神勢館で福地広延に師
事し︑水戸藩士と面識があった︒住谷らが宇和島に来て︑高間らとの間で︑高島流砲術をもとにした宇和島の威遠流
や水戸の神発流について議論しているのも︑そうした事情からであろう︒また︑水戸藩の学者で水戸彰考館総裁を勤
めた豊田天功の知人という金子孝太郎は︑﹁馬廻﹂に属していたが︑﹁教職﹂を命ぜられ︑藩学明倫館で教授をおこ
斎 藤
丈 蔵
の 藩
政 改
革 意
見
二 ︳ ︱ ‑
七
︵ 七 ︱ ︱
︱ ‑ ︶
一 橋
慶 喜
の 擁
立 に
尽 力
し ︑
し て
い る
︒
九 俵
︑ 外
二 九
俵 御
役 料
﹂ ︑
大 野
昌 ︱
︱ 一
郎 が
﹁ 四
人 分
九俵﹂︑越智が﹁四人分拾俵 第四八巻第三•四合併号
二 三 八
︵ 七
一 四
︶
なっていた︒嘉永四(‑八五一︶年の﹁分限帳﹂によれば︑四人分弐拾俵の蔵米取りの下士に相当するが︑宇和島藩
( 1 1 )
の高名な学者金子筵陵︵春太郎︶の子で︑水戸学にも通じていた︒
代官儒者の斎藤丈蔵︑その弟で兵学者の大野政三郎︑越智勝太郎は︑同年の﹁分限帳﹂によれば︑斎藤が﹁︱︱一人分
内壱人分御足高
拾俵︑又多田組兼帯勤二付被下︑村夫弐人﹂とあり︑いずれも下級藩士であったが︑水戸の菊池為三郎が宇和島藩に
来藩した際に交わった尊攘派の同志として︑菊池が強く推薦した者で︑その内でも斎藤が一番というのは︑もっとも
信頼できる者ということで︑斎藤丈蔵を菊池が推挙したことによるものであろう︒支藩の吉田藩の沢田一作という人
物も︑斎藤の同志であり︑菊池もよく知る人物で︑今回の計画に協力を頼めるということで記したものと思われる︒
こうした予備知識を得て︑住谷ら一行は︑安政五年十二月八日に宇和島入りすると︑袋町嶋屋武介方に止宿し︑金
子孝太郎に連絡をとり︑旅宿を訪ねてきた金子から︑藩内の事情を聞くことになる︒
﹁住谷信順道中日記 坤﹂には︑その時の様子として︑﹁今八時︑兼子氏来ル︑舟一オ︑容貌端正︑眼目ツリテ︑
可成ノ人物也︑同志六人計︑高間権八其一人ナリ︒斎藤大蔵︑卯ノ町代官ニテ在番︑越智勝太郎同断ニテ四五里ノ所
二住ス︑何も人物ナレトモ︑菊池ノ時卜違ヒ︑少々嫌疑アリ︑規模狭小ナリ︑不可談トソ﹂という説明を受けたと記
三十一歳という金子によれば︑同志は六人ほどいて︑高間権八もその一人であり︑斎藤大蔵︵丈蔵のことであろ
う︶は卯之町の代官で在番しているので︑城下には居ない︒越智勝太郎も同様で︑四五里離れた所に住んでいる︒斎
藤も越智も人物であるが︑菊池為三郎が来藩した頃とは違い︑少々嫌疑があり︑規模狭小である︒談ずべき人物では 関法
外 二
拾 俵
御 役
料 ︑
おそらく住谷は︑先の予備知識から︑藩内の様子や松根図書︑高間︑斎藤などのことを問うたのであろう︒その答
えが金子の言であったと思われる︒それにしても︑﹁嫌疑﹂とは何を指すのか︑規模狭小で︑相談すべきでないとい
うのは︑どういうことなのか︑これだけでは判然としない︒今︱つの住谷日記︑﹁住谷信順廻国日記﹂には︑十二月
八日条に︑同様のことを記している︒﹁一︑同志五六人有之よし︑先年菊池寂阿承知の斎藤丈蔵・越智勝太郎留主︑
丈蔵ハ卯ノ町代官所へ出張︑勝太郎ハ四五里先代官所へ出張︑尤両人共宜敷候へ共︑規模狭小故︑不残明候而︑他江
出 来
不 申
と の
事 ﹂
︒
これについて河内氏は︑﹁不残以下意味不明﹂とされている︒たしかに意味不明であり︑いく通りもの解釈ができ
るが︑先の﹁道中日記﹂と合わせて︑あえて解釈すれば︑斎藤と越智は︑現在留守をしているが︑かりに会うことが
できたとしても︑両人とも︑﹁規模狭小﹂であるので︑残らず話して協力を求めても︑かえって反対されて︑他の同
志の者たちに話しを進めることができなくなる︑といった意味であるように思われる︒いずれにしても︑斎藤︑越智
らは︑金子らと意見を異にし︑尊王攘夷派であることには間違いないとしても︑水戸学的な尊王攘夷論とは異なる立
場にあったことを示している︒それゆえ金子から︑﹁規模狭小﹂︑スケールが小さいと非難されることになったのでは
あるまいか︒事実︑斎藤丈蔵が遺したものを見れば︑横井小楠について熱心に研究していた跡が見られ︑また後にも
言及するように︑嘉永年間に宇和島に来藩した高野長英︑村田蔵六︵大村益次郎︶という二人の蘭学者に熱心に師事
したこともあったことから︑水戸学的な尊王攘夷論とは立場を異にしたものとも考えられる︒
この後︑住谷らは︑訪ねてきた金子︑高間らと種々談合をおこない︑家老の松根図書が︑金子の亡父金子箋陵の門
斎 藤
丈 蔵
の 藩
政 改
革 意
見
ない︑という意外な話であった︒
二 三 九
︵ 七
一 五
︶
第四八巻第三•四合併号
人で︑金子と兄弟分であるということから︑松根への書状を託し︑面談を求めることになるが︑十二月十一日に金子
らが持参した松根からの直筆の返書によって︑面談を拒絶されることになる︒松根の返書によれば︑主人の伊達宗城
も︑これまで誠忠を尽くしてきたが︑そのことがかえって不忠のように思われ︑憎まれる有様なので︑先頃幕府に隠
居願いを出し︑聞き届けられたことから︑家督を子の宗徳に譲り︑もはや天下のことについて︑とやかく申す所存も
ないと推察される︒それゆえ臣下の立場としては︑何事も返答しかねる︑また松根自身も一存で他邦の人に面会する
( 1 3 )
ことには差支えがある︑というものであった︒
伊達宗徳の藩主就任は︑安政五年十一月二十三日のことであるから︑ちょうど住谷らが坂本龍馬と会っていた頃で
( 1 4 )
ある︒徳川斉昭と行動を共にしていた伊達宗城も︑斉昭らが処罰され︑安政の大獄が進められるなかで︑井伊の圧迫
をうけ︑進退きわまって︑隠居願いを出すしかなかったのである︒松根図書にしても︑藩主家を防衛することに専念
するほかなく︑水戸藩士が接触してきたことに︑むしろ驚愕したに違いない︒それでも返書を認めたのは︑それまで
の水戸藩との近しい関係を思ってのことであり︑松根にすれば︑最大限の譲歩であったと推察される︒返書を渡さず︑
写し取らせた︵おそらく金子らの一存で︶
そうした藩主交替によって︑状況が一変していることを知らずに宇和島に来た住谷らは︑そのままむなしく引き返
すしかなく︑松根の返書が来た翌日の十二月十二日には宇和島を出立したが︑天皇の勅命を奉じて︑水戸藩が呼びか
ければ︑有志の諸藩が賑起すると信じていた高橋多一郎らの思惑は︑ここに挫折することになった︒その後高橋らは
桜田門外の変を決行し︑井伊の暗殺に乗じて︑薩摩藩兵の挙兵を仰ぐという構想を抱くが︑これまた薩摩藩の事情に
よって︑簡単に崩されてしまうことになる︒個々の志士レベルでの横議・横行が︑藩自体を動かすことにむすびつく 関法
のも︑そういう事情であろう︒
ニ 四
0
( 七
一 六
︶
ことが︑なおこの当時︑いかに困難であったかを物語っている︒
( 1
)
このことに関しては︑さしあたり︑﹃茨城県史﹄近世編︑七三九頁以下︑﹃水戸市史﹄中巻︵四︶︑九六二頁以下等を参照
さ れ た い
︒
( 2
)
以下の記述は︑吉田常吉﹃安政の大獄﹄︵吉川弘文館︑日本歴史叢書46︑平成三年八月︶︑﹃京都の歴史﹄ 7
︵ 学
藝 書
林 ︑
昭和四九年︶六 0 頁以下︑註
( 1
) の ﹃ 茨 城 県 史 ﹄ ︑ ﹃ 水 戸 市 史 ﹄ な ど に も と づ い て い る ︒
( 3
)
なお︑﹃水戸藩史料﹄上編坤︑﹃茨城県史﹄近世編︑七三五頁以下︑内藤趾斐﹃徳川十五代史﹄6︵新人物往来社︑昭和四
四年︶などを参照されたい︒
( 4
)
吉田常吉前掲書︑ニニ 0
頁 ︒
( 5
)
﹃水戸藩史料﹄上編坤︑巻廿三︑﹃茨城県史﹄近世編︑七三九頁以下等参照︒ (6) 河内八郎「住谷寅之介と土佐藩•宇和島藩、住谷信順『廻国日記』||安政五年初冬の遊説と挫折ー」(茨城県歴史館
史 料 部 県 史 編 さ ん 室 編
﹃ 茨 城 県 史 研 究 ﹄ 三 十 八 号 所 収
︑ 昭 和 五 十 一
︳ 一 年 二 月 ︶
︒
( 7
) 同 前
︑ 七 八 頁
︒
( 8
)
河内八郎編﹃徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集﹄︵校倉書房︑一九九三年︶︒
( 9
)
河内氏前掲論文︑九三頁以下︒
( 1 0 )
これら家臣については︑さしあたり︑﹃愛媛県史﹄近世下︑﹃三百藩家臣人名事典﹄第六巻宇和島藩︵新人物往来社︑一
九八九年︶︑三好昌文﹁宇和島藩﹂︵﹁新編物語藩史﹄第十巻所収︑新人物往来社︑昭和五一年︶などを参照されたい︒
( 1 1 )
近代史文庫宇和島研究会︵代表三好昌文氏︶編﹃宇和島藩庁・伊達家史科﹄六所収︒
( 1 2 )
河内氏前掲論文︑九 0
頁 ︒ ( 1 3 )
これについて河内氏は︑﹁宇和島では︑十二月九日の家老松根図書への呈書が山であるが︑十一日にもたらされた返書に
は︑伊達宗城︵遠江守︶は既に退隠して︑宗徳︵大膳大夫︶へ家督を譲っており︑﹃天下之事共︑とやかく可被申所存ハ有
之間敷﹄とあり︑水戸側の意図そのものが正面から受けとめられていない﹂と述べられている︒河内氏前掲論文︑九四
斎藤丈蔵の藩政改革意見 頁 ︒
ニ 四
︵ 七
一 七
︶
第四八巻第三•四合併号
ニ 四
二
︵ 七
一 八
︶
( 1 4 )
藩 主
就 任
日 に
つ い
て は
︑ 木
村 礎
他 編
﹃ 藩
史 大
事 典
﹄ 第
六 巻
︑ 中
国 ・
四 国
編 ︵
雄 山
閣 ︑
平 成
二 年
︶ ︑
宇 和
島 藩
︵ 蔦
好 昌
文 ︶
の 項
参 照
︒ な
お ︑
﹃ 愛
媛 県
史 ﹄
近 世
下 な
ど を
参 照
さ れ
た い
︒ 宇和島藩士斎藤丈蔵
の著﹃南豫遺香﹄︵大正四年刊︶に︑斎藤丈蔵について記されたものが最初のようである︒それによれば︑
優 ︑
三
水戸藩士の菊池為︱︱一郎によって高く評価され︑住谷ら一行が頼っていった宇和島藩の下級藩士︑卯之町代官の斎藤
丈蔵というのは︑いったいどのような人物であったのだろうか︒同藩士の金子孝太郎に言わせれば︑﹁少々嫌疑アリ︑
規模狭小ナリ﹂と評価されているが︑はたしてそれは︑斎藤の如何なる立場を表わしていたのだろうか︒また︑斎藤
丈蔵の弟に大野昌三郎という兵学者がいるが︑大野は兄の斎藤とどのような関係にあったのか︒あるいは支藩吉田藩
に沢田一作という同志がいるとのことであるが︑そうした斎藤の同志は他にも見い出せるのか︒幕末の宇和島藩内部
の動静を考える時︑これらの問題は︑十分検討に値するものといえるだろう︒しかし斎藤丈蔵というこのほとんど無
名の人物について︑これまで記されたものは︑あまり多くはなく︑管見のかぎりでは︑郷土史家の兵頭賢一氏が︑そ
通称を丈蔵と称す︑仲遠は其号︵又扇岳︶なり︑字は士明︵或は子明︶︑文政六年宇和島に生る︑資性明敏学を
好み藩学明倫館に学びて秀オと称せらる︑壮にして出で︑藤沢南岳︑森田節斎等に師事し学識共に進む︑当時海
外との交渉漸く繁く国事漸く多端ならんとす︑丈蔵夙に時勢に鑑る所あり海外の事情を知らんとす︑会々高野長
英︑村田蔵六等相継で宇和島に来るあり︑其長英の宇和島に潜するや実弟大野昌三郎と共に夜間潜に寓居を訪ひ
蘭書を学ぶ︵昌三郎は蘭学及英語に通し村田蔵六との交情甚厚かりしと云ふ未だ詳伝を得ず︶安政以来国事益々 関 法
紛糾を致すに当つては弘<天下の志士と交り国事に尽すこと少々ならず︑現に家に蔵する所の遺翰に見るに藩外
者としては梅田源次郎︑菊池為三郎︑桜真金︑田中弥八︑清水重行︑遠武橘次︑江幡五郎︑豊田小太郎︑田中豊
後之助︑多田荘蔵︑野口哲太郎︑恒富某︑同藩士としては上甲貞一︑都築荘蔵︑僧晦巌等と交渉甚だ多かりしを
見るべく︑其高野長英︑村田蔵六等との交渉は更に一層の厚きを見るべし︑又之れを其日記の残存せるもの見る
に記する所藩の内外国事各般の事に渉り知見の弘大を推するに難からず︑明治九年二月歿す年五十五︑資料の多
き今一々之れを点検するの退なし︑唯此の小伝を記するに止む︒子龍活園と号す︑孫谷雄氏︑現に宇和島高等女
学校に教師となり︒其実弟繭氏現に第三高等学校に学生たり︒
( 1 )
と 記
さ れ
て い
る ︒
なお︑兵頭賢一氏は︑実弟大野昌三郎については︑﹁蘭学及英語に通し村田蔵六との交情甚厚かりしと云ふ未だ詳
伝を得ず﹂とされていたが︑その後︑山口常助氏が大野昌三郎について調査をおこなわれ︑﹁大野昌三郎は︑宇和島
藩士︵下級士族と思われる︶斎藤家の三男に生まれた︒はっきりした生年は︑いまのところ不詳である﹂と記され︑
( 2 )
大野昌三郎と嘉永年間に宇和島に来藩した高野長英︑村田蔵六との関係を中心に詳述されている︒
それによれば︑嘉永元(‑八四八︶年四月二十二日に︑昌三郎が藩士中より選抜されて高野長英に入門することを
命ぜられた三人のうちの一人であること︑そのなかでも昌︱︱一郎が長英から最も期待されていたことは︑﹁長英が宇和
島を去ってから斎藤・大野の兄弟に宛てた数通の書状が証明している﹂と記されている︒また︑﹁昌三郎の兄丈蔵も
十一月六日付で随身修業を命ぜられているが︑丈蔵の場合は︑門下というよりも︑友人として自由に長英の処に出入
( 3 )
することの便宜を計られたの意味が強い﹂と指摘されている︒
斎 藤
丈 蔵
の 藩
政 改
革 意
見
ニ 四 三
︵ 七
一 九
︶
生年不詳ー明治十三年︵ー一八八
0 )
宇和島藩士︒下士斎藤家の三男に生まれ︑徒大野家の養子となる︒柔術に優れていたという︒嘉永元年四月︑高
野長英が伊東瑞渓と変名して来藩すると︑二十二日︑藩から蘭学修業を命ぜられた︒ほかに谷依中・土居直三郎
も長英に学んだ︒昌三郎は長英からとくに期待された逸材であった︒長英は同二年春宇和島を去った︒昌三郎は
長英に遊学の希望︵長英に師事︶を述べたが実現しなかった︒八月二日︑藩から長崎での蘭学他所修業を命じら
れ︑修業中二人扶持・年十両を支給された︒同四年二月にも長崎へ行き︑蘭学修業を続けた︒同六年十月村田蔵
六︵大村益次郎︶が来藩すると︑昌三郎は実兄斎藤丈蔵とともに世話をした︒安政元年正月︑修業扶持二人分を
加給され︑十一月十二日には蘭学に加え英学を兼修するよう命ぜられ︑江戸での研究を指定された︒同︱︱一年正月︑ 大野昌三郎 のまま引用させていただく︒ 第四八巻第三•四合併号
︵ 七
二
0 )
山口常助氏は、斎藤丈蔵について、「兄丈蔵は藩学明倫館で秀オと称せられ、出でて藤沢南岳•森田節斎に師事し
た学識優れた人であり︑また梅田雲浜・桜真金らいわゆる志士たちとも交友のあった人で︑昌三郎はこの兄の影響を
受け︑学に志し国事を憂うるようになった﹂とされ︑斎藤丈蔵の子として︑﹁長男雄蟻︵おあり︶・ニ男知言・三男竜
などの四子あり︑雄蛾は南予中学の教員︑県の学務課長などを務めた︒竜は裁判官になり︑元明治大学教授・文学博
( 4 )
士斎藤繭氏は竜の二男である︒斎藤知言は病身で若死した﹂と述べられている︒
近年では︑三好昌文氏が大野昌三郎について︑さらに研究を進められ︑また斎藤丈蔵についても調査をおこなわれ︑
それぞれ︑﹃三百藩家臣人名事典﹄に執筆されている︒いずれも貴重であるので︑やや長文にわたるが︑以下に︑そ 関法 ニ四四
望し︑とくに発音を重視して︑江戸で中浜万次郎に師事することを求めた︒安政五年三月には藩士須藤為次郎・
若松幹太郎に蘭学を教えている︒土佐国宿毛の小野義真も少年時代に三年間学んだという︒その訳書には﹃メキ
シコ戦争記﹄﹁計算尺捷径﹄などがある︒万延元年三月︑分家大野長兵衛の二男英之助を養子とした︒文久二年
十一月伊達宗城が上京︒尊攘派から﹁宇和島老賊﹂として礼弾されると︑翌年二月五日︑昌三郎は小池健次郎ら
と脱藩して京都へ出た︒この行為が原因となったのであろう︑四月七日︑﹁近年多病﹂で奉公できないとして︑
英之助が番代奉公することになった︒しかし五月二日︑蘭学修業とその世話方を命ぜられ︑修業扶持も与えられ
ている︒隠居の昌三郎は白衣一刀の姿になった︒慶応元年四月︑シーボルトの娘伊篤の世話をして同じ家に住ま
わせている︒昌︱︱一郎は長英・蔵六・伊篤との交流が深く︑宇和島藩における洋学研究の第一人者であった︒維新
後は明治六年六月︑かつての門人で新政府の大蔵少丞となっていた小野義真が︑昌三郎の学恩に報いようとした︒
昌︱︱一郎は東京に出︑﹁準奏任御用掛︑土木寮勤務︑月俸百円﹂の身分となる︒だが官僚生活を好まず︑二か月程
で辞職して帰国︒明治十三年五月十四日に死去︒
なお三好昌文氏は︑その後の研究で︑村田蔵六が来藩した契機などについて詳細に調べられている︒それによれば︑
従来の伊達宗城招聘説は根拠がなく︑むしろ村田蔵六がシーボルト門下である卯之町の二宮敬作を訪れ︑敬作から大
野昌三郎に相談が持ちかけられたことで︑昌三郎が熱心に藩に働きかけ︑村田の来藩が実現したことを明らかにされ
( 6 )
て い
る ︒
斎藤丈蔵については︑三好昌文氏は以下のように記されている︒
斎藤丈蔵の藩政改革意見 蘭学上達の褒美として徒小頭格に進み︑
ニ 四 五
一人分を加増された︒長崎遊学中の昌三郎は︑藩に良い辞書の購入を希
︵ 七
ー ニ
︶
第四八巻第三•四合併号
︵ 七
二 二
︶ 宇和島藩士︒字は士明︵子明︶︑仲達・扇岳と号す︒大野昌三郎は実弟︒八代藩主伊達宗城︑九代宗徳に仕えた︒
藩学明倫館の秀オといわれ、壮年には藤沢南岳•森田節斎などに師事した。武術にも熟達した人物である。嘉永
元年高野長英︵伊東瑞渓と変名︶が来藩すると︑その寓居を訪れ︑長英の世話をするとともに蘭語を学び︑海外 事情に通じようとした︒嘉永六年村田蔵六︵のち大村益次郎︶が来藩した時も︑実弟昌三郎とともにその世話を している︒安政年間尊攘運動が展開する政治過程のなかで︑丈蔵は昌三郎とともに︑藩主宗城の考えを支持して 行動した︒藩内では上甲貞一︑都築荘蔵︵鶴洲︶︑大隆寺の僧晦巌と親しく︑藩外では梅田源次郎︑菊池為三郎︑
桜真金︑田中弥八︑清水重行︑豊田小太郎︑田中豊後之助らとの交渉があったという︒明治九年二月死去した︒
( 7 )
行 年
五 十
五 歳
︒ これらの研究とは別に︑生前の斎藤胴氏と懇意にされておられた白田一二雅氏が︑平成元(‑九八九︶年五月に斎藤
( 8 )
哨氏が九十二歳で死去したことを︱つの機縁にして︑斎藤暇とその一族について記されたものが見い出せる︒
それによれば︑白田氏は︑昭和十九(‑九四四︶年に︑東京の文芸報国会で斎藤胴氏に会う機会があり︑当時明治 大学教授で︑積極的な評論活動をおこない︑戦後教職追放された斎藤氏と︑その後交流を重ねられ︑そうしたなかで︑
斎藤一族についても︑そのあらましを調べておられたとのことで︑斎藤繭︑その父の竜及び伯父の雄蟻︑さらには祖
父丈蔵とその弟の大野昌三郎について︑それぞれ簡潔に記されている︒
白田氏の斎藤丈蔵に関する記述は︑以前の研究と重複する部分もあるが︑これまた貴重なものであるので︑ほぼそ
文政六年ー明治九年(‑八二三ー一八七六︶ 齋藤丈蔵 関法 ニ四六
略 ︶
ニ 四 七
一 八
0 四ー一八六二︑桂策︑如山︑歌
八 一
斎藤丈蔵︵文政六年ー明治五年二月︑(‑八二三ー一八七六︶は︑宇和島藩士︑為左衛門知恭の長男に生れ︑字 は士明又は子明︑号を仲遠又は扇岳といった︒少より学を好んで明倫館では俊オと言われ︑度々学問出精につき
賞されている。長じて、藤沢南岳•森田節斎に師事して学大いに進んだ。嘉永のはじめ、藩主、伊達宗城の命を
受けた松根図書︵筆頭家老︑東洋城の祖父︶ の計で︑幕府に追われていた高野長英︵文化一年ー嘉永三年︑
0 四ー一八五
0 )
が︑伊藤瑞渓と名を変えて︑藩医︑富沢礼中︵俳人︑富沢赤黄男の祖父?︶ の従者ということ
で宇和島入りし︑家老の桜田別邸に居たとき︑弟︑昌三郎︵後述︶とともに藩命により入門︑半年後はその精力 的な勉強ぶりを賞されている︒長英は︑丈蔵兄弟を最も信頼したようで︑嘉永二年︑宇和島を発した長英が︑広
島を経て︑卯之町の二宮敬作︵文化一年五月十日ー文久二年三月十二日︑
人︑蘭医︶にかくまわれると︑直ちに面会をし︑又名古屋を経て江戸に潜伏したのちも手紙の往復がある︒さら に︑藩では︑長英のあと︑村田蔵六︵長州人︑緒方洪庵の適塾に学び塾長︑のち長州戦争の軍事総督︑戊辰戦争
の参謀︑陸軍大夫︑明治 4
年斬殺︶が招かれると再度入門︑とくに蔵六が元服のときは︑烏帽子親となっている︒
蔵六は︑蘭書の翻訳︑砲台の築造︑蒸気船の設計・建造など︑多くの功を残して︑江戸に出るが︑桜田門の変な どを知らせた手簡が残されている︒蔵六の住んだ家は︑丈蔵の隣であったといわれるが︑左にその図を掲げてお
く ︒
︵ 住
居 図
略 ︶
また︑丈蔵は︑シーボルトの娘︑失本伊篤︵婦人科医︶
斎 藤
丈 蔵
の 藩
政 改
革 意
見
( 9 )
の ま
ま 引
用 す
る ︒
の世話もしたようで︑彼女の手簡も残されている︒︵中
︵ 七 ニ ︱
︱ ‑ ︶
い よ
う ︒
第四八巻第三•四合併号
︵ 七
二 四
︶ さて丈蔵は︑徒士頭となるが︑そのオを見込まれ︑宗城のお庭方︵情報係︶として︑各藩の志士とも交る︒その 主な人々は︑梅田雲浜︵安政大獄で刑死︶︑菊池為三郎︑桜真金︵水戸人︶︑田中豊後介︵志士︶︑多田荘蔵︵志
︵宇和島藩儒︶︑上甲振洋︵既述︶︑都築荘蔵︵宇和島藩士︑号鶴洲︶︑晦巌
︵僧侶︶︑田中某など多くあり︑その活動が︑宇和島藩をして維新に悼さす一助となったことが伺える︒︵以下略︶
これらの研究を通して見れば︑斎藤・大野の兄弟が︑宇和島藩における蘭学及び洋学摂取の過程にあって︑重要な 位置を占めていたことは疑いない︒その意味ではシーボルト門下の二宮敬作やシーボルトの娘失本伊篤︑敬作の姉の 子三瀬周三らと︑きわめて近い関係にあったと考えることができ︑失本伊篤が斎藤丈蔵に宛てて︑
出産に立ち会うために長崎に赴き︑無事男子出産後︑帰国したことを知らせる年未詳十二月の書翰なども遺されてい る︒もっとも︑斎藤・大野兄弟は︑同じ蘭学・洋学といっても︑医学や科学などの分野に傾斜するよりも︑軍事や政 治などの領域に関心を寄せていたことは︑昌三郎が︑村田蔵六の藩への採用にあたって︑航海術に関する蘭書の翻訳 を藩と相談して蔵六におこなわせていること︑あるいは︑﹃メキシコ戦争記﹄の翻訳に従事していることなどから見
( 1 0 )
て推測できる︒もっとも︑これらについては︑兄丈蔵や藩からの要請もあったことも考えられるが︑水戸藩士の住谷 寅之介の記録に︑兵学者として大野昌一二郎が記されているのも︑昌三郎が︑軍事の分野で知られていたことを示して 斎藤丈蔵についても︑その遺されたものを見れば︑兵頭賢一氏が︑﹁其日記の残存せるもの見るに︑記する所︑藩
( 1 1 )
の内外国事各般の事に渉り︑知見の弘大を推するに難からず﹂と指摘されているように︑国事にかかわるものが多く︑
海外諸国事情︑長州征討︑京都新撰組の動向︑水戸天狗党行軍日記の写し︑横井小楠が勝海舟に贈呈した﹁海軍問答
士︶︑野口哲太郎︑恒富某︑上甲貞
関 法
ニ 四 八
マカオ人の女性の
書﹂を書写したもの︑熊本藩士の海軍創設意見や︑大政奉還に関するものなど多岐にわたるものが見い出され︑丈蔵
が政治や軍事に強い関心をもっていたことをうかがわせる︒
斎藤家に遺されている系図︵斎藤龍及び谷雄氏によって作成されもの︑及びその後昭和十九年に斎藤睛氏が編訂し
た斎藤家系譜︶等によれば︑斎藤丈蔵は︑宇和島藩士斎藤為左衛門知恭の子として生まれ︑斎藤丈蔵知明といった︒
丈蔵は﹁ヂャウゾウ﹂︑知明は﹁トモアキ﹂とふりがなを打たれており︑そのように呼んだものと思われ︑高野長英
が宇和島出立に際して︑遺していく者への﹁財益取片付方﹂を藩医冨沢礼中に頼むため︑会見できるよう斎藤丈蔵に
依頼した嘉永二(‑八四九︶年正月八日付の書状にも︑﹁譲蔵様﹂とあるから︑﹁ぢゃうぞう﹂と呼ばれていたことに
間違いなかろう︒為左衛門知恭の二男は知言︑三男が大野家を継いだ昌三郎である︒したがって︑兵頭賢一氏が︑そ
の字を士明︵或いは子明︶とされたのは誤りで︑斎藤家では嫡子については︑代々﹁知﹂の字を用いることが一般的
であったようである︒丈蔵の幼名を国次郎︑字は仲遠︑その号を扇岳といった︑と斎藤家の系図には記されているか
ら︑今のところ︑それを取りたい︒生年は文政五(‑八二二︶年十一月廿八日︑没年は明治九(‑八七六︶年二月六
日︑行年五十五歳であったという︒したがって︑斎藤丈蔵が︑嘉永元(‑八四八︶年十一月に高野長英に師事した時
は︑斎藤二十五歳︵満年齢︶︑嘉永六年に村田蔵六が来藩した頃は三十歳ということになる︒
丈蔵の母は︑先妻の蔭山氏が文政元(‑八一八︶年に亡くなったことから︑為左衛門が後妻に迎えた嶋岡理世とい
う女性で︑遊子浦の農役人であった島岡某の実女であるという︒理世は︑吉田の木佐方浦の大楽寺住職実応の養女と
して斎藤家に嫁した︒明治八(‑八七五︶年に八十四歳で亡くなっている︒
斎 藤
丈 蔵
の 藩
政 改
革 意
見
ニ 四
九
山口常助氏は︑斎藤丈蔵の子に︑﹁長男雄蟻・ニ男知言・三男竜などの四子あり﹂とされていたが︑二男知言は︑
︵ 七
二 五
︶
年宇和島和霊神社横の浄念寺にある斎藤家の墓に合祀された︒ 第四八巻第三•四合併号
︵一八三四︶年︑幼くして江戸で亡くなり︑そのため丈蔵が嫡子と
されたらしい︒丈蔵の子には︑長女ツユ︑長男一太郎雄蟻︑二男辰次郎知治︑三男雷三郎龍︑四男時四郎︑五男卓雄
がいたが︑時四郎︑卓雄は夭折し︑知治も若くして亡くなっている︒丈蔵の夫人は︑松浦勝といい︑松浦幽閑の長女
である︒明治二十九(‑八九六︶年に六十五歳で亡くなっている︒斎藤丈蔵の墓は︑宇和島の仏海寺にあったが︑近
本稿においては︑斎藤丈蔵が遺した文書のなかで︑藩政改革にかかわって︑斎藤がどのような構想を抱いていたか
を知りうる︑いくつかの史料をもとに︑そうした構想のもつ意味について検討をおこない︑とりわけ当時の尊王攘夷
論のなかで︑どのような特色をもっていたかという点について︑考えてみることにしたい︒
( 1
)
兵 頭
賢 一
﹃ 南
豫 遺
香 ﹄
ニ ニ
0 頁
以 下
︒
( 2
)
山 口
常 助
﹁ 大
野 昌
一 二
郎 の
こ と
﹂ ︵
宇 和
島 郷
土 叢
書 ﹃
風 ・
土 ・
人 ・
宇 和
島 ﹄
所 収
︑ 宇
和 島
市 立
図 書
館 ︑
昭 和
四 十
五 年
︶ 二
八
頁 以
下 ︒
( 3 )
同 前
︑ 三
0 頁 ︒
( 4
) 同
前 ︑
二 九
頁 ︒
な お
︑ 斎
藤 繭
氏 は
︑ 龍
の 三
男 で
あ り
︑ 二
男 は
谷 雄
氏 で
あ る
︒
( 5
)
﹃ 三
百 藩
家 臣
人 名
事 典
﹄ 第
六 巻
︑ 宇
和 島
藩 ︵
新 人
物 往
来 社
︑ 一
九 八
九 年
︶ ︒
( 6 )
三 好
昌 文
﹁ 宇
和 島
藩 滞
留 中
の 村
田 蔵
六 ﹂
上 ︵
﹃ 松
山 大
学 論
集
j