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斎藤丈蔵の藩政改革意見 : 幕末宇和島藩小史

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(1)

斎藤丈蔵の藩政改革意見 : 幕末宇和島藩小史

その他のタイトル A Report to the Government Authorities made by Saito Jozo, for the Drastic Administrative Reforms of Uwajima Domain, in 1863

著者 市川 訓敏

雑誌名 關西大學法學論集

巻 48

号 3‑4

ページ 707‑779

発行年 1998‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00024495

(2)

斎 藤 丈 蔵 の 藩 政 改 革 意 見

ー 幕 末 宇 和 島 藩 小 史

J I   I 

(3)

ー は じ め に

二宇和島藩士斎藤丈蔵

三斎藤丈蔵﹁乍恐言上之覚﹂

四憂国誠忠社﹁建議六条﹂

五斎藤丈蔵﹁建識六条﹂補足

六補論・﹁会議式・藩政改革書﹂

(4)

戊午の密勅ともいわれるこの勅綻は︑今回の幕府の調印強行を暗に批判するとともに︑幕府の処置に抗議した水戸

藩の徳川斉昭︑慶篤父子や松平慶永ら︑いわゆる一橋派への処分についても疑義を表明し︑大老・閣老が御三家以下

諸大名と群議・評定して︑国内治平︑公武合体を進めて国難にあたるべきことを要請したものであるが︑さらに別紙

斎藤丈蔵の藩政改革意見 る水戸藩主徳川慶篤に秘かに伝えられた︒ る ︒

大老井伊直弼が︑いわゆる安政の大獄を断行していた時期︑水戸藩内では︑諸国に廻国して有志の諸大名を糾合し︑

( 1 )  

一部の激派のグループによって秘かに進められていた︒

初代の駐日総領事ハリスの強い要求に押されて︑幕府の老中首座堀田正睦が︑通商条約締結の前提として天皇の勅

許を得る必要を説明し︑自ら京都に赴きながら朝廷の強い抵抗にあって︑むなしく帰府すると︑その直後に大老に就

任した井伊直弼によって︑勅許を待つことなく日米修好通商条約の調印が強行されたことは︑周知のことがらに属す

幕府が違勅調印を強行したことは︑孝明天皇を激怒させたが︑それにとどまらず︑天皇はこれを許容しがたいこと

( 2 )  

として︑自らは退位する決意を関白以下廷臣に表明し︑そのことをただちに関東へ通達するよう命じたのであった︒

しかしそうなれば︑朝幕間の決定的な対立は避けられず︑事態を憂慮した左大臣近衛忠熙らは︑天皇をなだめる方策

として︑幕府に対するとともに︑水戸藩へも勅綻を降下することを計画し︑関白九条尚忠不参のまま︑天皇の了承を

得た︒これによって︑安政五(‑八五八︶年八月八日︑水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門に勅書が手渡され︑江戸にい 形勢を一挙に挽回しようとする計画が︑

は じ め に

>

︵ 七

0 九 ︶

(5)

第四八巻第三•四合併号

一部の激派のグループによって進められたのである︒

( 3 )  

において︑この趣旨を水戸藩が御三家以下列藩一同にも伝達するよう命じていた︒ 二 三 四

︵ 七 一

0 )

水戸藩への勅綻降下に遅れて︑八月十日付で︑幕府にも同一の勅綻が下され︑その添書において︑水戸藩にも勅綻

を降下したことを知らせたが︑もとよりこれは︑朝廷が幕府を介さず直接水戸藩に勅綻を降下するという前代未聞の

行動をとったことで︑幕府が受けるであろう衝撃を緩和しようとする意図が働いた結果である︒

しかし︑水戸藩に勅綻が降下されたことに驚愕した井伊直弼は︑水戸藩に対し︑勅綻の他家への伝達を禁じ︑さら

には藩内部に露骨な干渉をおこなって︑激派グループの藩政からの排除をおこなわせ︑また勅綻降下を画策したであ

ろう者たちの探索・逮捕を命じた︒九月七日の梅田雲浜の逮捕にはじまり︑九月十八日の鵜飼吉左衛門父子の逮捕な

ど︑関係者とされるものが陸続と逮捕・糾問されることになったのである︒水戸藩への勅綻降下は︑安政の大獄を誘

発させ︑吉田松陰︑橋本左内︑頼三樹一︳一郎ら有為の人々を刑死させるとともに︑幕府内の改革グループを含め︑

派を圧迫し︑諸藩士や浪士︑さらには朝廷の内部の粛清にまで及んだ︒密勅降下の計画を伝え聞いた侍従岩倉具視は︑

ただちに近衛邸を訪ね︑激しく降下に反対したといわれるが︑岩倉が危惧した以上に︑事態は重大な結果をもたらし

( 4 )  

た の

で あ

る ︒

勅綻を降下された水戸藩が︑窮地に陥ったことは言うまでもない︒他藩ならいざしらず︑水戸学を奉ずる水戸藩で

は︑天皇の命令に従うのか︑あるいは幕府の命令に服するのかをめぐって︑藩を二分する深刻な対立にまで発展して

いった︒そうしたなかで︑密勅が命じているように︑勅綻の趣旨を諸国に廻達し︑あくまで幕府に反対する義盟を有

志の諸大名と組み︑事態の打開をはかっていこうとする計画が︑

この計画の中心となったのは︑奥右筆頭取の高橋多一郎︑南郡奉行金子孫二郎︑北郡奉行野村鼎之介であり︑高橋 関法

一 橋

(6)

で あ

る ︒ ( 3 )   で ︶

や金子は︑その後桜田門外での井伊直弼襲撃を指導︑野村もこれに深く関与した︒かれらは︑入念な打ち合わせをお

こない︑廻国の基本方針︑いずれの藩に働きかけるか︑それらの藩の事情︑接触すべき人物などについて︑同志たち

と検討を加え︑四名の者を二手に分けて派遣することにした︒こうして︑矢野真九郎︑関鉄之助の一行が北陸から山

陰方面に派遣され︑越前福井︑鳥取︑長州をめざして旅立ち︑住谷寅之介︑大胡幸蔵の両名は︑四国︑九州方面に向

( 5 )   こ ︒

カ っ

t このうち︑関らの一行については︑関自身の記録になる日録が残され︑﹁水戸藩史料 j にも紹介されているが︑他

方の住谷らの手になる記録は︑これまで見当たらなかった︒その後︑東京大学史料編纂所が所蔵していた旧文部省維

新史料編纂会作成の写本中に︑住谷自身の日記が存することを︑河内八郎氏が突き止められ︑それらを詳細に紹介さ

( 6 )  

れ た

住谷の手になる記録は︑全部で三点あり︑ ︒

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, ̲ l  

2  , 1

,  

﹁住谷信順回国記行﹂︵安政五年十月五日ー同十一月九日︑水戸出立から山城まで︶

﹁住谷信順道中日記 坤﹂︵安政五年十一月十日ー同六年一月二十一日︑大坂から宇和島往復︑徳島︑帰藩ま

﹁住谷信順廻国日記﹂︵安政五年十月五日ー同六年二月八日まで︶

これらを分析された河内氏は︑﹁三点の﹃道中日記﹄の記事によって︑住谷︵加藤│住谷の変名︶・大胡︵菊池│大

胡の変名︶が︑四国諸藩すなわち︑土佐・宇和島・徳島に対して︑如何なる意図で︑どのような人物を手がかりに接

斎藤丈蔵の藩政改革意見

二 三

︵ 七

︱ ︱

)

(7)

第四八巻第三•四合併号

︵ 七

︱ 二

触したか︑そしてその結果︑水戸藩の意図がどのように崩れたか︑が示される︒その結果︑最も強い意図で到達した

( 7 )  

宇和島藩の拒否にあって︑九州への渡海を断念して︑東帰の途をたどるのである︒﹂と指摘されている︒

一路︑宇和島をめざし︑途中︑土佐の坂本龍馬に接触して︑土佐藩の内

情を聞き︑龍馬が土佐入国の斡旋に難色を示したことから︑あきらめて宇和島に向かい︑宇和島藩の事情を知って︑

断念するという結果に終わっている︒宇和島行きが︑住谷らの主要目的であったことは︑河内氏の指摘の通りと言え

水戸藩の前藩主である徳川斉昭と宇和島藩主の伊達宗城とが︑盟友ともいうべき親密な仲であったことは︑両者の

( 8 )  

大量の往復書簡からもうかがうことができる︒それだけに︑住谷らが四国をめざしたのも︑宇和島の伊達宗城との連

携によって︑諸藩の綴起を促すことにあったと考えてよかろう︒

出立以前に︑水戸において︑高橋多一郎らの議論を︑住谷がメモしたものが﹁住谷信順回国記行﹂に残されている︒

それには︑宇和島について次のように記されている︒

三百八里

一︑宇和島

郎豊田知人、オ子流、父春太郎、孝太郎ヨリ賢ナリ、△家老松根図書武田ノ知人、第一等ノ人オ、代官儒者、斎藤~蔵、

弟兵学者︑大野政三郎︑越智勝太郎︑已上三人人物︑菊池為三郎知人ニョリ︑菊池︹大胡の変名︺申込ヘシ︑内

斎 藤

一 番

宇和島より三里前︑吉田卜云アリ︑分家領所︑沢田一作豪気︑撃剣且文事もアリ︑斎藤同志︑菊池も知識︑

よ う

江 戸 詰 参 政 ︑ 為 三 郎 世 話 イ タ セ ル モ ノ ナ リ 事実︑住谷ら一行は︑四国に上陸すると︑ 関法

吉見左膳権八伯父︑高間権八五丁矢場へ来リ︑知識︑兼子孝太 二三六

(8)

これについて︑河内氏は︑﹁宇和島藩士の中で︑接触すべき者として示されている者の中に豊田亮・武田正生・菊

池為三郎等の水戸藩士の知人がいる︒﹂︑﹁宇和島藩士吉見長左衛門︵左膳︶は︑安政大獄に連座して捕えられた唯一

の同藩士である︒吉見は︑安政五年十一月二十一日︑江戸にて︑町奉行石谷因幡守︵穆清︶のもとに出頭を命ぜられ︑

捕えられるが︑史料②の﹁道中日記﹂の︑十二月八日︑宇和島城下に到着した日に︑その報を得たことが記されてい

( 9 )  

る ︒

﹂ と

述 べ

ら れ

て い

る ︒

吉 見 長 左 衛 門 は ︑ 高 ︱ ︱ ー 百 七 石 を 知 行 す る 上 士 で ︑ 若 年 寄 を 勤 め ︑ 伊 達 宗 城 の 意 を 受 け て ︑

越前の橋本左内や水戸藩家老安島帯刀︑同藩茅根伊予之介︵いずれも安政大獄で刑死︶などと連絡を取っていた︒安

政の大獄によって重追放となるが︑その後も藩に保護され︑伊能松陰と変名し︑明治初年には藩の参政の一人となっ

ている︒また︑のちに水戸天狗党の首領となる武田耕雲斎の知人である家老の松根図書は︑宗城の股肱の臣︑右腕と

もいうべき人物で︑幕末の藩政改革を推進し︑宗城の政治活動を支えていた︒水戸藩の菊池為三郎を宇和島藩にかく

( 1 0 )  

まったというのも︑吉見長左衛門というよりも︑松根図書の計らいであったと言われている︒

吉見長左衛門の甥の高間権八は︑当時︑高三百石を知行し︑小姓使番を兼任していたと︑住谷の記録にあるが︑伊

達宗城が徳川斉昭に依頼して︑水戸の神発流砲術を宇和島藩士に教授させた時に︑高間も水戸に来て学び︑嘉永元

︵一八四八︶年から安政四(‑八五七︶年まで︑同僚の水野源左衛門とともに︑﹁五丁矢場﹂の神勢館で福地広延に師

事し︑水戸藩士と面識があった︒住谷らが宇和島に来て︑高間らとの間で︑高島流砲術をもとにした宇和島の威遠流

や水戸の神発流について議論しているのも︑そうした事情からであろう︒また︑水戸藩の学者で水戸彰考館総裁を勤

めた豊田天功の知人という金子孝太郎は︑﹁馬廻﹂に属していたが︑﹁教職﹂を命ぜられ︑藩学明倫館で教授をおこ

斎 藤

丈 蔵

の 藩

政 改

革 意

二 ︳ ︱ ‑

︵ 七 ︱ ︱

︱ ‑ ︶

一 橋

慶 喜

の 擁

立 に

尽 力

し ︑

(9)

し て

い る

九 俵

︑ 外

二 九

俵 御

役 料

﹂ ︑

大 野

昌 ︱

︱ 一

郎 が

﹁ 四

人 分

九俵﹂︑越智が﹁四人分拾俵 第四八巻第三•四合併号

二 三 八

︵ 七

一 四

なっていた︒嘉永四(‑八五一︶年の﹁分限帳﹂によれば︑四人分弐拾俵の蔵米取りの下士に相当するが︑宇和島藩

( 1 1 )  

の高名な学者金子筵陵︵春太郎︶の子で︑水戸学にも通じていた︒

代官儒者の斎藤丈蔵︑その弟で兵学者の大野政三郎︑越智勝太郎は︑同年の﹁分限帳﹂によれば︑斎藤が﹁︱︱一人分

内壱人分御足高

拾俵︑又多田組兼帯勤二付被下︑村夫弐人﹂とあり︑いずれも下級藩士であったが︑水戸の菊池為三郎が宇和島藩に

来藩した際に交わった尊攘派の同志として︑菊池が強く推薦した者で︑その内でも斎藤が一番というのは︑もっとも

信頼できる者ということで︑斎藤丈蔵を菊池が推挙したことによるものであろう︒支藩の吉田藩の沢田一作という人

物も︑斎藤の同志であり︑菊池もよく知る人物で︑今回の計画に協力を頼めるということで記したものと思われる︒

こうした予備知識を得て︑住谷ら一行は︑安政五年十二月八日に宇和島入りすると︑袋町嶋屋武介方に止宿し︑金

子孝太郎に連絡をとり︑旅宿を訪ねてきた金子から︑藩内の事情を聞くことになる︒

﹁住谷信順道中日記 坤﹂には︑その時の様子として︑﹁今八時︑兼子氏来ル︑舟一オ︑容貌端正︑眼目ツリテ︑

可成ノ人物也︑同志六人計︑高間権八其一人ナリ︒斎藤大蔵︑卯ノ町代官ニテ在番︑越智勝太郎同断ニテ四五里ノ所

二住ス︑何も人物ナレトモ︑菊池ノ時卜違ヒ︑少々嫌疑アリ︑規模狭小ナリ︑不可談トソ﹂という説明を受けたと記

三十一歳という金子によれば︑同志は六人ほどいて︑高間権八もその一人であり︑斎藤大蔵︵丈蔵のことであろ

う︶は卯之町の代官で在番しているので︑城下には居ない︒越智勝太郎も同様で︑四五里離れた所に住んでいる︒斎

藤も越智も人物であるが︑菊池為三郎が来藩した頃とは違い︑少々嫌疑があり︑規模狭小である︒談ずべき人物では 関法

外 二

拾 俵

御 役

料 ︑

(10)

おそらく住谷は︑先の予備知識から︑藩内の様子や松根図書︑高間︑斎藤などのことを問うたのであろう︒その答

えが金子の言であったと思われる︒それにしても︑﹁嫌疑﹂とは何を指すのか︑規模狭小で︑相談すべきでないとい

うのは︑どういうことなのか︑これだけでは判然としない︒今︱つの住谷日記︑﹁住谷信順廻国日記﹂には︑十二月

八日条に︑同様のことを記している︒﹁一︑同志五六人有之よし︑先年菊池寂阿承知の斎藤丈蔵・越智勝太郎留主︑

丈蔵ハ卯ノ町代官所へ出張︑勝太郎ハ四五里先代官所へ出張︑尤両人共宜敷候へ共︑規模狭小故︑不残明候而︑他江

出 来

不 申

と の

事 ﹂

これについて河内氏は︑﹁不残以下意味不明﹂とされている︒たしかに意味不明であり︑いく通りもの解釈ができ

るが︑先の﹁道中日記﹂と合わせて︑あえて解釈すれば︑斎藤と越智は︑現在留守をしているが︑かりに会うことが

できたとしても︑両人とも︑﹁規模狭小﹂であるので︑残らず話して協力を求めても︑かえって反対されて︑他の同

志の者たちに話しを進めることができなくなる︑といった意味であるように思われる︒いずれにしても︑斎藤︑越智

らは︑金子らと意見を異にし︑尊王攘夷派であることには間違いないとしても︑水戸学的な尊王攘夷論とは異なる立

場にあったことを示している︒それゆえ金子から︑﹁規模狭小﹂︑スケールが小さいと非難されることになったのでは

あるまいか︒事実︑斎藤丈蔵が遺したものを見れば︑横井小楠について熱心に研究していた跡が見られ︑また後にも

言及するように︑嘉永年間に宇和島に来藩した高野長英︑村田蔵六︵大村益次郎︶という二人の蘭学者に熱心に師事

したこともあったことから︑水戸学的な尊王攘夷論とは立場を異にしたものとも考えられる︒

この後︑住谷らは︑訪ねてきた金子︑高間らと種々談合をおこない︑家老の松根図書が︑金子の亡父金子箋陵の門

斎 藤

丈 蔵

の 藩

政 改

革 意

ない︑という意外な話であった︒

二 三 九

︵ 七

一 五

(11)

第四八巻第三•四合併号

人で︑金子と兄弟分であるということから︑松根への書状を託し︑面談を求めることになるが︑十二月十一日に金子

らが持参した松根からの直筆の返書によって︑面談を拒絶されることになる︒松根の返書によれば︑主人の伊達宗城

も︑これまで誠忠を尽くしてきたが︑そのことがかえって不忠のように思われ︑憎まれる有様なので︑先頃幕府に隠

居願いを出し︑聞き届けられたことから︑家督を子の宗徳に譲り︑もはや天下のことについて︑とやかく申す所存も

ないと推察される︒それゆえ臣下の立場としては︑何事も返答しかねる︑また松根自身も一存で他邦の人に面会する

( 1 3 )  

ことには差支えがある︑というものであった︒

伊達宗徳の藩主就任は︑安政五年十一月二十三日のことであるから︑ちょうど住谷らが坂本龍馬と会っていた頃で

( 1 4 )  

ある︒徳川斉昭と行動を共にしていた伊達宗城も︑斉昭らが処罰され︑安政の大獄が進められるなかで︑井伊の圧迫

をうけ︑進退きわまって︑隠居願いを出すしかなかったのである︒松根図書にしても︑藩主家を防衛することに専念

するほかなく︑水戸藩士が接触してきたことに︑むしろ驚愕したに違いない︒それでも返書を認めたのは︑それまで

の水戸藩との近しい関係を思ってのことであり︑松根にすれば︑最大限の譲歩であったと推察される︒返書を渡さず︑

写し取らせた︵おそらく金子らの一存で︶

そうした藩主交替によって︑状況が一変していることを知らずに宇和島に来た住谷らは︑そのままむなしく引き返

すしかなく︑松根の返書が来た翌日の十二月十二日には宇和島を出立したが︑天皇の勅命を奉じて︑水戸藩が呼びか

ければ︑有志の諸藩が賑起すると信じていた高橋多一郎らの思惑は︑ここに挫折することになった︒その後高橋らは

桜田門外の変を決行し︑井伊の暗殺に乗じて︑薩摩藩兵の挙兵を仰ぐという構想を抱くが︑これまた薩摩藩の事情に

よって︑簡単に崩されてしまうことになる︒個々の志士レベルでの横議・横行が︑藩自体を動かすことにむすびつく 関法

のも︑そういう事情であろう︒

ニ 四

0

( 七

一 六

(12)

ことが︑なおこの当時︑いかに困難であったかを物語っている︒

( 1

)

このことに関しては︑さしあたり︑﹃茨城県史﹄近世編︑七三九頁以下︑﹃水戸市史﹄中巻︵四︶︑九六二頁以下等を参照

さ れ た い

( 2

)

以下の記述は︑吉田常吉﹃安政の大獄﹄︵吉川弘文館︑日本歴史叢書46︑平成三年八月︶︑﹃京都の歴史﹄ 7

︵ 学

藝 書

林 ︑

昭和四九年︶六 0 頁以下︑註

( 1

) の ﹃ 茨 城 県 史 ﹄ ︑ ﹃ 水 戸 市 史 ﹄ な ど に も と づ い て い る ︒

( 3

)

なお︑﹃水戸藩史料﹄上編坤︑﹃茨城県史﹄近世編︑七三五頁以下︑内藤趾斐﹃徳川十五代史﹄6︵新人物往来社︑昭和四

四年︶などを参照されたい︒

( 4

)

吉田常吉前掲書︑ニニ 0

頁 ︒

( 5

)

﹃水戸藩史料﹄上編坤︑巻廿三︑﹃茨城県史﹄近世編︑七三九頁以下等参照︒ (6) 河内八郎「住谷寅之介と土佐藩•宇和島藩、住谷信順『廻国日記』||安政五年初冬の遊説と挫折ー」(茨城県歴史館

史 料 部 県 史 編 さ ん 室 編

﹃ 茨 城 県 史 研 究 ﹄ 三 十 八 号 所 収

︑ 昭 和 五 十 一

︳ 一 年 二 月 ︶

( 7

) 同 前

︑ 七 八 頁

( 8

)

河内八郎編﹃徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集﹄︵校倉書房︑一九九三年︶︒

( 9

)

河内氏前掲論文︑九三頁以下︒

( 1 0 )

これら家臣については︑さしあたり︑﹃愛媛県史﹄近世下︑﹃三百藩家臣人名事典﹄第六巻宇和島藩︵新人物往来社︑一

九八九年︶︑三好昌文﹁宇和島藩﹂︵﹁新編物語藩史﹄第十巻所収︑新人物往来社︑昭和五一年︶などを参照されたい︒

( 1 1 )

近代史文庫宇和島研究会︵代表三好昌文氏︶編﹃宇和島藩庁・伊達家史科﹄六所収︒

( 1 2 )

河内氏前掲論文︑九 0

頁 ︒ ( 1 3 )

これについて河内氏は︑﹁宇和島では︑十二月九日の家老松根図書への呈書が山であるが︑十一日にもたらされた返書に

は︑伊達宗城︵遠江守︶は既に退隠して︑宗徳︵大膳大夫︶へ家督を譲っており︑﹃天下之事共︑とやかく可被申所存ハ有

之間敷﹄とあり︑水戸側の意図そのものが正面から受けとめられていない﹂と述べられている︒河内氏前掲論文︑九四

斎藤丈蔵の藩政改革意見 頁 ︒

ニ 四

︵ 七

一 七

(13)

第四八巻第三•四合併号

ニ 四

︵ 七

一 八

( 1 4 )

藩 主

就 任

日 に

つ い

て は

︑ 木

村 礎

他 編

﹃ 藩

史 大

事 典

﹄ 第

六 巻

︑ 中

国 ・

四 国

編 ︵

雄 山

閣 ︑

平 成

二 年

︶ ︑

宇 和

島 藩

︵ 蔦

好 昌

文 ︶

の 項

参 照

︒ な

お ︑

﹃ 愛

媛 県

史 ﹄

近 世

下 な

ど を

参 照

さ れ

た い

︒ 宇和島藩士斎藤丈蔵

の著﹃南豫遺香﹄︵大正四年刊︶に︑斎藤丈蔵について記されたものが最初のようである︒それによれば︑

優 ︑

水戸藩士の菊池為︱︱一郎によって高く評価され︑住谷ら一行が頼っていった宇和島藩の下級藩士︑卯之町代官の斎藤

丈蔵というのは︑いったいどのような人物であったのだろうか︒同藩士の金子孝太郎に言わせれば︑﹁少々嫌疑アリ︑

規模狭小ナリ﹂と評価されているが︑はたしてそれは︑斎藤の如何なる立場を表わしていたのだろうか︒また︑斎藤

丈蔵の弟に大野昌三郎という兵学者がいるが︑大野は兄の斎藤とどのような関係にあったのか︒あるいは支藩吉田藩

に沢田一作という同志がいるとのことであるが︑そうした斎藤の同志は他にも見い出せるのか︒幕末の宇和島藩内部

の動静を考える時︑これらの問題は︑十分検討に値するものといえるだろう︒しかし斎藤丈蔵というこのほとんど無

名の人物について︑これまで記されたものは︑あまり多くはなく︑管見のかぎりでは︑郷土史家の兵頭賢一氏が︑そ

通称を丈蔵と称す︑仲遠は其号︵又扇岳︶なり︑字は士明︵或は子明︶︑文政六年宇和島に生る︑資性明敏学を

好み藩学明倫館に学びて秀オと称せらる︑壮にして出で︑藤沢南岳︑森田節斎等に師事し学識共に進む︑当時海

外との交渉漸く繁く国事漸く多端ならんとす︑丈蔵夙に時勢に鑑る所あり海外の事情を知らんとす︑会々高野長

英︑村田蔵六等相継で宇和島に来るあり︑其長英の宇和島に潜するや実弟大野昌三郎と共に夜間潜に寓居を訪ひ

蘭書を学ぶ︵昌三郎は蘭学及英語に通し村田蔵六との交情甚厚かりしと云ふ未だ詳伝を得ず︶安政以来国事益々 関 法

(14)

紛糾を致すに当つては弘<天下の志士と交り国事に尽すこと少々ならず︑現に家に蔵する所の遺翰に見るに藩外

者としては梅田源次郎︑菊池為三郎︑桜真金︑田中弥八︑清水重行︑遠武橘次︑江幡五郎︑豊田小太郎︑田中豊

後之助︑多田荘蔵︑野口哲太郎︑恒富某︑同藩士としては上甲貞一︑都築荘蔵︑僧晦巌等と交渉甚だ多かりしを

見るべく︑其高野長英︑村田蔵六等との交渉は更に一層の厚きを見るべし︑又之れを其日記の残存せるもの見る

に記する所藩の内外国事各般の事に渉り知見の弘大を推するに難からず︑明治九年二月歿す年五十五︑資料の多

き今一々之れを点検するの退なし︑唯此の小伝を記するに止む︒子龍活園と号す︑孫谷雄氏︑現に宇和島高等女

学校に教師となり︒其実弟繭氏現に第三高等学校に学生たり︒

( 1 )  

と 記

さ れ

て い

る ︒

なお︑兵頭賢一氏は︑実弟大野昌三郎については︑﹁蘭学及英語に通し村田蔵六との交情甚厚かりしと云ふ未だ詳

伝を得ず﹂とされていたが︑その後︑山口常助氏が大野昌三郎について調査をおこなわれ︑﹁大野昌三郎は︑宇和島

藩士︵下級士族と思われる︶斎藤家の三男に生まれた︒はっきりした生年は︑いまのところ不詳である﹂と記され︑

( 2 )  

大野昌三郎と嘉永年間に宇和島に来藩した高野長英︑村田蔵六との関係を中心に詳述されている︒

それによれば︑嘉永元(‑八四八︶年四月二十二日に︑昌三郎が藩士中より選抜されて高野長英に入門することを

命ぜられた三人のうちの一人であること︑そのなかでも昌︱︱一郎が長英から最も期待されていたことは︑﹁長英が宇和

島を去ってから斎藤・大野の兄弟に宛てた数通の書状が証明している﹂と記されている︒また︑﹁昌三郎の兄丈蔵も

十一月六日付で随身修業を命ぜられているが︑丈蔵の場合は︑門下というよりも︑友人として自由に長英の処に出入

( 3 )  

することの便宜を計られたの意味が強い﹂と指摘されている︒

斎 藤

丈 蔵

の 藩

政 改

革 意

ニ 四 三

︵ 七

一 九

(15)

生年不詳ー明治十三年︵ー一八八

0 )

宇和島藩士︒下士斎藤家の三男に生まれ︑徒大野家の養子となる︒柔術に優れていたという︒嘉永元年四月︑高

野長英が伊東瑞渓と変名して来藩すると︑二十二日︑藩から蘭学修業を命ぜられた︒ほかに谷依中・土居直三郎

も長英に学んだ︒昌三郎は長英からとくに期待された逸材であった︒長英は同二年春宇和島を去った︒昌三郎は

長英に遊学の希望︵長英に師事︶を述べたが実現しなかった︒八月二日︑藩から長崎での蘭学他所修業を命じら

れ︑修業中二人扶持・年十両を支給された︒同四年二月にも長崎へ行き︑蘭学修業を続けた︒同六年十月村田蔵

六︵大村益次郎︶が来藩すると︑昌三郎は実兄斎藤丈蔵とともに世話をした︒安政元年正月︑修業扶持二人分を

加給され︑十一月十二日には蘭学に加え英学を兼修するよう命ぜられ︑江戸での研究を指定された︒同︱︱一年正月︑ 大野昌三郎 のまま引用させていただく︒ 第四八巻第三•四合併号

︵ 七

0 )

山口常助氏は、斎藤丈蔵について、「兄丈蔵は藩学明倫館で秀オと称せられ、出でて藤沢南岳•森田節斎に師事し

た学識優れた人であり︑また梅田雲浜・桜真金らいわゆる志士たちとも交友のあった人で︑昌三郎はこの兄の影響を

受け︑学に志し国事を憂うるようになった﹂とされ︑斎藤丈蔵の子として︑﹁長男雄蟻︵おあり︶・ニ男知言・三男竜

などの四子あり︑雄蛾は南予中学の教員︑県の学務課長などを務めた︒竜は裁判官になり︑元明治大学教授・文学博

( 4 )  

士斎藤繭氏は竜の二男である︒斎藤知言は病身で若死した﹂と述べられている︒

近年では︑三好昌文氏が大野昌三郎について︑さらに研究を進められ︑また斎藤丈蔵についても調査をおこなわれ︑

それぞれ︑﹃三百藩家臣人名事典﹄に執筆されている︒いずれも貴重であるので︑やや長文にわたるが︑以下に︑そ 関法 ニ四四

(16)

望し︑とくに発音を重視して︑江戸で中浜万次郎に師事することを求めた︒安政五年三月には藩士須藤為次郎・

若松幹太郎に蘭学を教えている︒土佐国宿毛の小野義真も少年時代に三年間学んだという︒その訳書には﹃メキ

シコ戦争記﹄﹁計算尺捷径﹄などがある︒万延元年三月︑分家大野長兵衛の二男英之助を養子とした︒文久二年

十一月伊達宗城が上京︒尊攘派から﹁宇和島老賊﹂として礼弾されると︑翌年二月五日︑昌三郎は小池健次郎ら

と脱藩して京都へ出た︒この行為が原因となったのであろう︑四月七日︑﹁近年多病﹂で奉公できないとして︑

英之助が番代奉公することになった︒しかし五月二日︑蘭学修業とその世話方を命ぜられ︑修業扶持も与えられ

ている︒隠居の昌三郎は白衣一刀の姿になった︒慶応元年四月︑シーボルトの娘伊篤の世話をして同じ家に住ま

わせている︒昌︱︱一郎は長英・蔵六・伊篤との交流が深く︑宇和島藩における洋学研究の第一人者であった︒維新

後は明治六年六月︑かつての門人で新政府の大蔵少丞となっていた小野義真が︑昌三郎の学恩に報いようとした︒

昌︱︱一郎は東京に出︑﹁準奏任御用掛︑土木寮勤務︑月俸百円﹂の身分となる︒だが官僚生活を好まず︑二か月程

で辞職して帰国︒明治十三年五月十四日に死去︒

なお三好昌文氏は︑その後の研究で︑村田蔵六が来藩した契機などについて詳細に調べられている︒それによれば︑

従来の伊達宗城招聘説は根拠がなく︑むしろ村田蔵六がシーボルト門下である卯之町の二宮敬作を訪れ︑敬作から大

野昌三郎に相談が持ちかけられたことで︑昌三郎が熱心に藩に働きかけ︑村田の来藩が実現したことを明らかにされ

( 6 )  

て い

る ︒

斎藤丈蔵については︑三好昌文氏は以下のように記されている︒

斎藤丈蔵の藩政改革意見 蘭学上達の褒美として徒小頭格に進み︑

ニ 四 五

一人分を加増された︒長崎遊学中の昌三郎は︑藩に良い辞書の購入を希

︵ 七

ー ニ

(17)

第四八巻第三•四合併号

︵ 七

二 二

︶ 宇和島藩士︒字は士明︵子明︶︑仲達・扇岳と号す︒大野昌三郎は実弟︒八代藩主伊達宗城︑九代宗徳に仕えた︒

藩学明倫館の秀オといわれ、壮年には藤沢南岳•森田節斎などに師事した。武術にも熟達した人物である。嘉永

元年高野長英︵伊東瑞渓と変名︶が来藩すると︑その寓居を訪れ︑長英の世話をするとともに蘭語を学び︑海外 事情に通じようとした︒嘉永六年村田蔵六︵のち大村益次郎︶が来藩した時も︑実弟昌三郎とともにその世話を している︒安政年間尊攘運動が展開する政治過程のなかで︑丈蔵は昌三郎とともに︑藩主宗城の考えを支持して 行動した︒藩内では上甲貞一︑都築荘蔵︵鶴洲︶︑大隆寺の僧晦巌と親しく︑藩外では梅田源次郎︑菊池為三郎︑

桜真金︑田中弥八︑清水重行︑豊田小太郎︑田中豊後之助らとの交渉があったという︒明治九年二月死去した︒

( 7 )  

行 年

五 十

五 歳

︒ これらの研究とは別に︑生前の斎藤胴氏と懇意にされておられた白田一二雅氏が︑平成元(‑九八九︶年五月に斎藤

( 8 )  

哨氏が九十二歳で死去したことを︱つの機縁にして︑斎藤暇とその一族について記されたものが見い出せる︒

それによれば︑白田氏は︑昭和十九(‑九四四︶年に︑東京の文芸報国会で斎藤胴氏に会う機会があり︑当時明治 大学教授で︑積極的な評論活動をおこない︑戦後教職追放された斎藤氏と︑その後交流を重ねられ︑そうしたなかで︑

斎藤一族についても︑そのあらましを調べておられたとのことで︑斎藤繭︑その父の竜及び伯父の雄蟻︑さらには祖

父丈蔵とその弟の大野昌三郎について︑それぞれ簡潔に記されている︒

白田氏の斎藤丈蔵に関する記述は︑以前の研究と重複する部分もあるが︑これまた貴重なものであるので︑ほぼそ

文政六年ー明治九年(‑八二三ー一八七六︶ 齋藤丈蔵 関法 ニ四六

(18)

略 ︶

ニ 四 七

一 八

0 四ー一八六二︑桂策︑如山︑歌

八 一

斎藤丈蔵︵文政六年ー明治五年二月︑(‑八二三ー一八七六︶は︑宇和島藩士︑為左衛門知恭の長男に生れ︑字 は士明又は子明︑号を仲遠又は扇岳といった︒少より学を好んで明倫館では俊オと言われ︑度々学問出精につき

賞されている。長じて、藤沢南岳•森田節斎に師事して学大いに進んだ。嘉永のはじめ、藩主、伊達宗城の命を

受けた松根図書︵筆頭家老︑東洋城の祖父︶ の計で︑幕府に追われていた高野長英︵文化一年ー嘉永三年︑

0 四ー一八五

0 )

が︑伊藤瑞渓と名を変えて︑藩医︑富沢礼中︵俳人︑富沢赤黄男の祖父?︶ の従者ということ

で宇和島入りし︑家老の桜田別邸に居たとき︑弟︑昌三郎︵後述︶とともに藩命により入門︑半年後はその精力 的な勉強ぶりを賞されている︒長英は︑丈蔵兄弟を最も信頼したようで︑嘉永二年︑宇和島を発した長英が︑広

島を経て︑卯之町の二宮敬作︵文化一年五月十日ー文久二年三月十二日︑

人︑蘭医︶にかくまわれると︑直ちに面会をし︑又名古屋を経て江戸に潜伏したのちも手紙の往復がある︒さら に︑藩では︑長英のあと︑村田蔵六︵長州人︑緒方洪庵の適塾に学び塾長︑のち長州戦争の軍事総督︑戊辰戦争

の参謀︑陸軍大夫︑明治 4

年斬殺︶が招かれると再度入門︑とくに蔵六が元服のときは︑烏帽子親となっている︒

蔵六は︑蘭書の翻訳︑砲台の築造︑蒸気船の設計・建造など︑多くの功を残して︑江戸に出るが︑桜田門の変な どを知らせた手簡が残されている︒蔵六の住んだ家は︑丈蔵の隣であったといわれるが︑左にその図を掲げてお

く ︒

︵ 住

居 図

略 ︶

また︑丈蔵は︑シーボルトの娘︑失本伊篤︵婦人科医︶

斎 藤

丈 蔵

の 藩

政 改

革 意

( 9 )  

の ま

ま 引

用 す

る ︒

の世話もしたようで︑彼女の手簡も残されている︒︵中

︵ 七 ニ ︱

︱ ‑ ︶

(19)

い よ

う ︒

第四八巻第三•四合併号

︵ 七

二 四

︶ さて丈蔵は︑徒士頭となるが︑そのオを見込まれ︑宗城のお庭方︵情報係︶として︑各藩の志士とも交る︒その 主な人々は︑梅田雲浜︵安政大獄で刑死︶︑菊池為三郎︑桜真金︵水戸人︶︑田中豊後介︵志士︶︑多田荘蔵︵志

︵宇和島藩儒︶︑上甲振洋︵既述︶︑都築荘蔵︵宇和島藩士︑号鶴洲︶︑晦巌

︵僧侶︶︑田中某など多くあり︑その活動が︑宇和島藩をして維新に悼さす一助となったことが伺える︒︵以下略︶

これらの研究を通して見れば︑斎藤・大野の兄弟が︑宇和島藩における蘭学及び洋学摂取の過程にあって︑重要な 位置を占めていたことは疑いない︒その意味ではシーボルト門下の二宮敬作やシーボルトの娘失本伊篤︑敬作の姉の 子三瀬周三らと︑きわめて近い関係にあったと考えることができ︑失本伊篤が斎藤丈蔵に宛てて︑

出産に立ち会うために長崎に赴き︑無事男子出産後︑帰国したことを知らせる年未詳十二月の書翰なども遺されてい る︒もっとも︑斎藤・大野兄弟は︑同じ蘭学・洋学といっても︑医学や科学などの分野に傾斜するよりも︑軍事や政 治などの領域に関心を寄せていたことは︑昌三郎が︑村田蔵六の藩への採用にあたって︑航海術に関する蘭書の翻訳 を藩と相談して蔵六におこなわせていること︑あるいは︑﹃メキシコ戦争記﹄の翻訳に従事していることなどから見

( 1 0 )  

て推測できる︒もっとも︑これらについては︑兄丈蔵や藩からの要請もあったことも考えられるが︑水戸藩士の住谷 寅之介の記録に︑兵学者として大野昌一二郎が記されているのも︑昌三郎が︑軍事の分野で知られていたことを示して 斎藤丈蔵についても︑その遺されたものを見れば︑兵頭賢一氏が︑﹁其日記の残存せるもの見るに︑記する所︑藩

( 1 1 )  

の内外国事各般の事に渉り︑知見の弘大を推するに難からず﹂と指摘されているように︑国事にかかわるものが多く︑

海外諸国事情︑長州征討︑京都新撰組の動向︑水戸天狗党行軍日記の写し︑横井小楠が勝海舟に贈呈した﹁海軍問答

士︶︑野口哲太郎︑恒富某︑上甲貞

関 法

ニ 四 八

マカオ人の女性の

(20)

書﹂を書写したもの︑熊本藩士の海軍創設意見や︑大政奉還に関するものなど多岐にわたるものが見い出され︑丈蔵

が政治や軍事に強い関心をもっていたことをうかがわせる︒

斎藤家に遺されている系図︵斎藤龍及び谷雄氏によって作成されもの︑及びその後昭和十九年に斎藤睛氏が編訂し

た斎藤家系譜︶等によれば︑斎藤丈蔵は︑宇和島藩士斎藤為左衛門知恭の子として生まれ︑斎藤丈蔵知明といった︒

丈蔵は﹁ヂャウゾウ﹂︑知明は﹁トモアキ﹂とふりがなを打たれており︑そのように呼んだものと思われ︑高野長英

が宇和島出立に際して︑遺していく者への﹁財益取片付方﹂を藩医冨沢礼中に頼むため︑会見できるよう斎藤丈蔵に

依頼した嘉永二(‑八四九︶年正月八日付の書状にも︑﹁譲蔵様﹂とあるから︑﹁ぢゃうぞう﹂と呼ばれていたことに

間違いなかろう︒為左衛門知恭の二男は知言︑三男が大野家を継いだ昌三郎である︒したがって︑兵頭賢一氏が︑そ

の字を士明︵或いは子明︶とされたのは誤りで︑斎藤家では嫡子については︑代々﹁知﹂の字を用いることが一般的

であったようである︒丈蔵の幼名を国次郎︑字は仲遠︑その号を扇岳といった︑と斎藤家の系図には記されているか

ら︑今のところ︑それを取りたい︒生年は文政五(‑八二二︶年十一月廿八日︑没年は明治九(‑八七六︶年二月六

日︑行年五十五歳であったという︒したがって︑斎藤丈蔵が︑嘉永元(‑八四八︶年十一月に高野長英に師事した時

は︑斎藤二十五歳︵満年齢︶︑嘉永六年に村田蔵六が来藩した頃は三十歳ということになる︒

丈蔵の母は︑先妻の蔭山氏が文政元(‑八一八︶年に亡くなったことから︑為左衛門が後妻に迎えた嶋岡理世とい

う女性で︑遊子浦の農役人であった島岡某の実女であるという︒理世は︑吉田の木佐方浦の大楽寺住職実応の養女と

して斎藤家に嫁した︒明治八(‑八七五︶年に八十四歳で亡くなっている︒

斎 藤

丈 蔵

の 藩

政 改

革 意

ニ 四

山口常助氏は︑斎藤丈蔵の子に︑﹁長男雄蟻・ニ男知言・三男竜などの四子あり﹂とされていたが︑二男知言は︑

︵ 七

二 五

(21)

年宇和島和霊神社横の浄念寺にある斎藤家の墓に合祀された︒ 第四八巻第三•四合併号

︵一八三四︶年︑幼くして江戸で亡くなり︑そのため丈蔵が嫡子と

されたらしい︒丈蔵の子には︑長女ツユ︑長男一太郎雄蟻︑二男辰次郎知治︑三男雷三郎龍︑四男時四郎︑五男卓雄

がいたが︑時四郎︑卓雄は夭折し︑知治も若くして亡くなっている︒丈蔵の夫人は︑松浦勝といい︑松浦幽閑の長女

である︒明治二十九(‑八九六︶年に六十五歳で亡くなっている︒斎藤丈蔵の墓は︑宇和島の仏海寺にあったが︑近

本稿においては︑斎藤丈蔵が遺した文書のなかで︑藩政改革にかかわって︑斎藤がどのような構想を抱いていたか

を知りうる︑いくつかの史料をもとに︑そうした構想のもつ意味について検討をおこない︑とりわけ当時の尊王攘夷

論のなかで︑どのような特色をもっていたかという点について︑考えてみることにしたい︒

( 1

)

兵 頭

賢 一

﹃ 南

豫 遺

香 ﹄

ニ ニ

0 頁

以 下

( 2

)

山 口

常 助

﹁ 大

野 昌

一 二

郎 の

こ と

﹂ ︵

宇 和

島 郷

土 叢

書 ﹃

風 ・

土 ・

人 ・

宇 和

島 ﹄

所 収

︑ 宇

和 島

市 立

図 書

館 ︑

昭 和

四 十

五 年

︶ 二

頁 以

下 ︒

( 3 )

同 前

︑ 三

0 頁 ︒

( 4

) 同

前 ︑

二 九

頁 ︒

な お

︑ 斎

藤 繭

氏 は

︑ 龍

の 三

男 で

あ り

︑ 二

男 は

谷 雄

氏 で

あ る

( 5

)

﹃ 三

百 藩

家 臣

人 名

事 典

﹄ 第

六 巻

︑ 宇

和 島

藩 ︵

新 人

物 往

来 社

︑ 一

九 八

九 年

︶ ︒

( 6 )

三 好

昌 文

﹁ 宇

和 島

藩 滞

留 中

の 村

田 蔵

六 ﹂

上 ︵

﹃ 松

山 大

学 論

j

六 巻

第 二

号 所

収 ︑

平 成

六 年

六 月

︶ ︑

な お

三 好

昌 文

﹁ 宇

和 島

藩 滞

留 中

の 村

田 蔵

六 ﹂

下 ︵

﹃ 松

山 大

学 論

集 ﹄

第 六

巻 第

三 号

所 収

︑ 平

成 六

年 八

月 ︶

を も

参 照

さ れ

た い

( 7

)

﹃ 三

百 藩

家 臣

人 名

事 典

﹂ 第

六 巻

︑ 宇

和 島

藩 ︵

新 人

物 往

来 社

︑ 一

九 八

九 年

︶ ︒

( 8 )

白 田

三 雅

﹁ 斎

藤 繭

先 生

と そ

の 一

族 ﹂

︵ 俳

句 雑

誌 ﹃

虎 杖

﹄ 四

七 二

号 所

収 ︑

平 成

二 年

四 月

︶ ︒

( 9

)

同 前

二 頁

以 下

( 1 0 )

三 好

昌 文

氏 前

掲 論

文 ︑

一 五

七 頁

以 下

為左衛門の子であり︑丈蔵の弟にあたる︒天保五 関法

二 五

0

( 七

二 六

(22)

斎藤丈蔵﹁乍恐言上之覚﹂

二 五

斎藤が著した本文﹁乍恐言上之覚﹂は︑文末に﹁甲寅︹安政元年︺正月﹂と記され︑その後︑文久三(‑八六三︶

年に至って藩に提出した﹁建議六条﹂の﹁副本﹂冒頭部分に︑﹁去ル丑︹嘉永六︺年︑言路御開通之御沙汰御坐候︑

其翌春︑区々之所見可奉申上与別紙之通相認見候へ共︑有故而先相相罷在候処︑此度此両条卜符合之義モ御坐候二付︑

旧稿之侭献納仕候﹂と述べていることから分かるように︑嘉永六(‑八五三︶年に︑藩庁から﹁言路御開通之御沙

( 1 )  

汰﹂があり︑そのことに関連して︑翌安政元(‑八五四︶年正月に︑本文を提出しようとしたものである︒

嘉永六年といえば︑その六月にペリー率いる東インド艦隊が浦賀に来航し︑武力で威嚇しつつ︑アメリカ大統領の

国書受理を強制するという前代未聞の事態が生じている︒ペリー退去後七月に入って︑幕府では老中阿部正弘が︑こ

の国書の扱いをめぐって︑朝廷をはじめ︑諸候や旗本御家人︑さらには一般庶民にまで意見を提出するよう求め︑宇

和島藩主伊達宗城は八月十日に意見を幕府に提出している︒おそらくそのことが直接の契機となって︑宇和島家中か

らも意見が徴され︑役職・身分にかかわらず︑﹁言路開通﹂をさせて︑自由に意見を述べさせることになったのであ

( 2 )  

るが︑斎藤丈蔵の本文は︑これに関連して執筆されたものである︒

もっとも斎藤は︑この時には﹁故あって﹂提出をひかえたと述べ︑その後あらためて文久三年に本文を提出してい

る︒なぜ斎藤が提出を見合わせたかは不明であるが︑その後再度そのままに提出していることから見れば︑基本的な

考え方は何ら変わっていなかったことを示している︒もっともその内容は︑当時としても相当に過激な議論であり︑

1 1 )  

斎藤丈蔵の藩政改革意見 兵

頭 賢

一 氏

前 掲

書 ︑

一 三

一 頁

︵ 七

二 七

(23)

心・御仁聞ノミト申様︑相成候事二御坐候︑ 第四八巻第三•四合併号 その改革意見が実現される可能性はほとんどなかったものと考えてよかろう︒

以下に本文を掲げ︑理解の便に供するために︑適宜︑句読点を打ち︑また段落を設けた︒本文に続いて︑試みにそ れを要約したものを載せ︑斎藤が提起した問題について若干の検討を加えた︒

乍恐言上之覚

御盛意ノ衆心二感学仕兼候モ︑

二 五 二

︵ 七

二 八

御盛事ニテ︑難有卜奉申候モ有餘御事

二御坐候︑就テハ有志ノ者感憤・激昂仕︑競然トシテ下情ヲ奉報告候様可相成卜︑

御発令以来世上ヲ通観仕居

候処︑如何ノ故ニヤ未夕左ホトニ興起仕者モ無御坐間ニハ︑此度ノ御沙汰振リノ其趣意ハ難有

7 二候ヘトモ︑卑

賎ノ者ナトヨリ容易二献言ナト致シ候ハ︑可恐

7 ニテ︑先年モ長尾乙次郎ヵ瑣々ノ所見ヲ建白イタシ候処︑

ハ聯御賞賜等有之候へ圧︑後ニハ有司ノ忌剋二遭ヒ候ヤ︑遂二左遷ノ体二相成︑却テ衆ノ非笑ヲ受候由︑此度卜 テモ妄ニ︱言ヲ発セハ︑又渠ノ故轍ヲ履可申ナト︑申唱へ︑カクマテ至誠ノ

実二慎慨憤嘆ノ至二勝不申候︑因テ其所由ヲ熟察仕候処︑ 此度以厚 関法

思召︑偏ク被為開言路候御義︑実二希世之御英断︑中興之

賢梱未夕肺腑二徹底不仕様子︑臣

一 理

有 之

候 様

奉 存

候 ︑

孟子日︑﹁有仁心・仁聞︑而民不被其沢︑不可法於後世者︑不行先王之道也﹂︑又曰︑﹁徒善不足以為政︑徒法不 能以自行﹂︑此度ノ御発令︑徒善・徒法ナト︑可申上義ハ聯無御坐候へた︑時勢ノ便然候処ニテ︑不得已︑御仁 其故ヲ如何ニト申候ヘハ︑凡賞罰闘捗ハ人君ノ大権ニテ︑衆ノ向背ハ全ク此四ツノ者二帰シ候

7 ︑今更論弁仕候

マテモ無御坐候処︑乍恐︑今日ノ御政体︑此四ツノ者ハ︑全然委地候様被相伺候︑タトヘハ某臣弄権候へた︑未

一 旦

(24)

然ル寸︹寸は︑時の省画︒﹁とき﹂と訓じる︒以下同様︺ セラレ候ハヽ︑今一ツノ 明令ヲ奉議︑臣ノ煉慨憤嘆仕候所以二御坐候︑ 反テ人心ヲ祖喪セシメ候様相成候ノ類二御坐候︑

御功烈亦難カラサル御事

思召サ

御盛挙ノ仁心仁聞二相類シ︑恐多クモ軽薄ノ徒︑御

夕御損斥無御坐︑某々以庸愚︑徒襲豊禄居候へ庄︑未夕御貶闘無御坐︑某有学識︑某有才暑︑某剛直︑某清廉二 候へ茫︑未夕要路二御登庸無御坐︑其他罪失有之候者モ︑御厳罰無御坐︑功労有之候者モ︑御重賞無御坐︑偶御 賞罰御坐候テモ︑元来門地ヲ被為重候方ヨリ︑賞ハ上輩二重ク︑罰ハ下輩二重ク︑人心ヲ奨励スヘキノ御賞罰︑

是皆旧来ノ御家風ニテ如何圧難被為遊御事二可有御坐︑群臣モ亦久ク其風二相安シ居候処へ︑突然卜言路ヲ被為 開候圧︑不思議ノ事ノ様存シナシ︑サシテ奮起仕候者無御坐︑ナマシヒニ直言ナト申上候テハ︑異日有司ノ晴箭 ヲ受候様可相成欺︑仮令左ホトニ無御坐候トモ︑其言一ツモ被相行候期有御坐マシク候ヘハ︑下民ノ苦状ナト告

訴仕候庄︑徒二

御憂慮ヲ為相増候ノミノ義ニテ︑何ノ益モ無御坐︑言者モ無用ノ謗言ヲ献スルニ相当リ候ヲ相 恐レ︑有志ノ者ハイヨ々々相黙シ候事二御坐候︑是即チ 古人モ士ハ風気ヲ移スノ人トナルヘシ︑風気二移サル︑ノ人トナル

7 ナカレト申候如ク︑果シテ下情ヲ

登庸被為遊︑匪邪無用ノ徒ハ大臣卜雖た断然御貶闘二相成︑諸有司尽ク其器二相当リ候様︑有御坐度奉存候︑左 候ハヽ︑言路ハ開カスシテ自カラ相開ケ︑有志ノ者争テ下情ヲ報告仕候ハ必然ノ義︑何者力御盛徳ヲ奉議候ハン︑

可仕︑是即チ先王ノ大道今日二相行ハレ候端緒卜可申︑所謂民被其沢︑可法於後世候 二御坐候︑如是二無御坐候テハ︑此上如何ホト徴言ノ御沙汰御坐候茫︑上言仕候者︑有御坐マシク候︑

斎藤丈蔵の藩政改革意見

御英断ニテ群臣門閥世襲ノ風ヲ御一洗被為在︑正直有用ノ士ハ卑賎ノ者卜雖庄速二御

ハ下民ノ感戴ハ勿論︑賞罰無偏シテ文士武夫モ弥奮興

二五三

︵ 七

二 九

(25)

下候外ハ︑有御坐マシク︑因テ至剛至毅ノ 聯御嫌疑ハ無御坐卜奉存候︑御嫌疑卜申候ハ︑只世襲ノ大臣二被為対候テノ御事ノミニ候ヘハ︑是ハ細事トモ可 乍然︑右等ノ御処置ハ菅御嫌疑ノ一事ノミニモ無御坐︑腹裏ノ結撮ニヒトシキ三百年ノ沈瘤ヲ御破リ被遊候義故︑ 実二希代ノ絶大硬事二御坐候へた︑真成二憂世ノ 思召御徹底被為遊候ハヽ︑是非々々此処ヨリ 御手ヲ被為

御決断︑偏二奉仰候トコロニ御坐候︑蘇軟力﹁古之立大事者︑不唯

有超世之オ︑亦必有堅忍不抜之志︑昔馬之治水︑方其功之未成也︑羊皿亦有潰冒衝突可畏之患︑惟能前知其可然︑

事至不憫而徐為之図︑是以得至於成功﹂卜申候モ︑是等ノ事二御坐候欺︑右ノ御大本領御確断二相成候ハヽ︑其 申

候 ︑

モ候ヘハ︑今日有事ノ機二乗シ︑是等ノ御英断被為在候事即チ︑ 殆天下ノ疲弊ヲ極メ候ヘハ︑其虚二乗シ何時内乱相発シ候ホトモ難計︑実二危急存亡ノ秋トモ可申候ヘハ︑今日 且又御嫌疑卜申候テモ能々相考候ヘハ︑サシテ甚キ義ニモ有御坐マシキカ︑其故ハ︑ 二

被 為

在 ︑

思召モ被遊 御在位ノ初メ既二諸士ノ禄ヲ各百石二平均シ︑其中ヨリオ器ヲ選テ︑其身限リ権要二御登庸可被遊 御坐候ヘトモ︑所謂治平無事ノ日故︑兎二角御故障多ク︑ ッヒニ其事不被相行候欺二伝承仕候︑左

大屋形様ノ 御素志御継述卜申モノニテ︑ 大屋形様ニハ固リ御賢明

一 ハ

無 御

坐 卜

奉 存

候 ︑

コソ信賞必罰.挙能用賢候事︑即チ至重ノ御急務ニテ︑ 一嫌疑ノ為メニ因循姑息ノ御旧風ヲ御拘守可被遊御時合 事ノ日二候ハヽ︑維新ノ 御成法ヲ御変革被為在候た︑実以テ至銀至難ノ御事二御坐候︑雖然︑事ハ軽重緩急卜申者有之︑如従前︑治平無 乍然︑是等ノ義ハ固リ容易ノ談二無御坐︑殊 関法 第四八巻第三•四合併号

二 五 四

︵ 七 ︱

1 0 )

御養子ノ御身分︑最嫌疑ノ地二被為在候テ︑俄カニ 御祖宗ノ

御政令無御坐候た︑大利害ハ無之義二候へた︑当今ハ不測ノ強虜辺要ヲ撹擾仕候ヨリ︑

(26)

余ノ条目ハ御指揮次第︑人々其器二応シ︑鞍掌従事仕候者︑幾程モ可有御坐卜奉存候︑此処御不決断ニテハ︑不

臣嬢蟻ノ微身ヲ以テ︑力︑ル大不敬ノ言ヲ上リ候 7 ︑実二不容死ノ至罪︑且其言都テ書生ノ腐論ニテ︑御笑柄二

モ不相成義欺卜奉存候へた︑

存候二付︑裡諺二所謂︑

︹ 安

政 元

年 ︺

二 五 五 一 且 は 賞 賜 さ れ な が ら ︑ 御仁言二奉感激候ノ余リ︑且臣稟賦薄弱ニテ︑近来別テ憔悴仕︑餘齢モ無之卜奉

一期ノ思出二柳芹曝ノ微衷ヲ表シ︑報国ノ 御責ヲ奉塞候事二御坐候︑以上︑

このたび︑厚き思し召しをもって︑あまねく言路を開こうとされる方針を発表されたことは︑希世の御英断︑

中興の御盛事であり︑有難いと言っても余りあることである︒さぞかしその方針に感激して︑有志の者たちが

競って下情を報告するようになるだろうと︑御方針発令以来︑世上を通観していたところ︑どういう理由か︑未

だにそれほど興起したという者も現われないのは︑今回の御発令の趣旨は有難いことであるが︑卑賎の者などが

容易に献言などするのは︑恐ろしいことであり︑先年も長尾乙次郎が建白をおこなって︑

その後有司の者からねたまれ︑ついには左遷のような待遇になり︑かえって衆の誹り笑いを受けたということで︑

今回も妄りに発言すれば︑同じ轍をふむなどと言って︑主君の誠梱が人々の肺腑に徹底していない様子であり︑

( 3 )  

臣下の身として︑まことに憤嘆に堪えない︒

しかし︑その理由について熟察してみると︑それにも根拠のあることで︑孟子の﹁離婁章句﹂に︑﹁君主が仁

斎藤丈蔵の藩政改革意見 甲寅正月 得已︑前文ノ通︑ 御仁心・御仁聞卜申様相成候外︑有御坐マシク候︑

︵ 七 ︱ ︱

︱ ‑ ︶

(27)

第四八巻第三•四合併号

︵ 七

三 二

の心をもち︑またそのように世間で聞き伝えられても︑人々が仁政を享受することなく︑後世の範とならないの

は︑先王が行った仁政の道を実行しないからであり︑それゆえ主観的な善意のみでは政治はおこなえず︑法律の

( 4 )  

みでは法は実現しない︑と言うのだ﹂︑と述べている︒もとより︑今回の御発令を﹁徒善・徒法﹂と言うつもり

は毛頭ないが︑時勢のために︑﹁仁心・仁聞﹂にとどまってしまっているのが現状である︒

その理由を述べれば︑賞罰.謡捗は君主の大権であって︑人々の向背も︑それにかかっていることは︑今さら

論弁するまでもないことであるが︑恐れながら︑今日の政体にあっては︑この賞罰・闘捗が全く地に落ちている

ようにうかがわれる︒たとえば︑某臣が権力を濫用しても損斥されることもなく︑また庸愚で︑いたずらに豊禄

を襲封しているに過ぎなくとも︑貶圏されることもなく︑学識・オ略・剛直・清廉の者であっても︑要路に登用

されたこともなく︑罪失があっても厳罰されず︑功労あっても重賞を受けず︑たまたま賞蔚があっても︑元々門

地を重んぜられるために︑賞は上輩に重く︑罰は下輩に重く︑人心を奨励すべき賞罰が︑かえって人心を祖喪す

こうしたことはみな旧来の御家風であり︑どうにもならないことであり︑群臣もそうした家風に馴れきってい

たところに︑突然言路を開くといっても︑不思議のことのように思い︑さほど奮起する者もなく︑なまじ直言な

どして他日有司の晴箭を受け︑あるいはそれほどでもなくても︑建言がひとつも実行されないのであれば︑下民

の苦状などを告訴しても︑いたずらに御主君の御心配を増やすだけで︑何の益もないことであり︑無用の謗言を

するだけになるのを恐れ︑有志の者も愈々沈黙を守ることになってしまっている︒これすなわち御盛挙が﹁仁

心・仁聞﹂に類することになっているのではと︑軽薄の徒でありながら︑御明令を論議して︑煉慨.憤嘆してい るようになっている︑といったことである︒ 関法 二五六

(28)

ために因循姑息の御旧風を拘守する時期ではない︒ しかしながら︑こうした改革は容易のことではなく︑ことに御養子の御身分で︑もっとも疑われる立場にあら

( 5 )  

れる宗城公にすれば︑にわかに御祖宗の法を変革することは至銀・至難のことと思われる︒けれども︑事には軽

重緩急ということがあり︑これまでのように太平無事の時代ならともかく︑外国の列強によって国境が乱され︑

それが内乱を誘発しかねない危急存亡の秋である今日こそ︑信賞必罰.挙能用賢は急務のことであり︑

また嫌疑といっても︑よく考えれば︑それほどのこともなく︑大屋形様の伊達宗紀公も藩主就任の初めに︑諸

士の禄を各百石に平均して︑有能な者を一代限りということで登用しようとされたこともあったが︑治平無事の

時代であったので︑ついに行われなくなったと聞いている︒そうであれば︑今日の有事に際しては︑御英断を行

斎藤丈蔵の藩政改革意見 ても︑上言する者はいないだろう︒

二五七

一 嫌

疑 の

士は気風を人々に移す人となれ︑気風に流される人となるな︑といわれているように︑真実下情を通そうとさ

れるのであれば︑今ひとつの御英断でもって︑門閥・世襲の風儀を廃され︑人材登用を進められ︑正直有用の者

は卑賎の身分の者であっても速やかに登用され︑大臣であっても匪邪無用の者は除かれるようになされ︑諸有司

いずれもが適材適所となるようにしていただきたい︒そうすれば︑言路は開かずとも︑おのずから開け︑有志の

者も争って下情を報告するようになるのは必然であり︑誰が御盛徳を疑うだろうか︒そうなれば︑下民が有難く

おしいただくことは勿論︑公平な賞罰がおこなわれて文士武夫もいよいよ奮起するに違いなく︑まさしく孟子の

言う先王の行った仁政の道が︑今日行われる端緒となろうが︑そうでなければ︑いくら言路開通の御沙汰があっ る

わ け

で あ

る ︒

︵ 七 ︱

︱ ︱ ︱

︱ ‑ ︶

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