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興 福 寺 中 金 堂 院 回 廊 の 調 査

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(1)

平 城 宮 跡 第 308次 調 壺 現 地 説 明 会 資 料

興 福 寺 中 金 堂 院 回 廊 の 調 査

1999・12・4 

法 相 宗

奈良国立文化財研究所

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平城盆'跡発掘調在部

即麟では『興福寺境内整備構想』 (1997年)にもとづき、境内の主要伽藍(中金盟 叫叫、回廊、南大門)、およびその周辺地区を対象とした逍構の整備をすすめることにな

りました。その一猿として、咋年度の中門跡に引き続き、今年度はおもに中金堂院回廊0)

東北隅部分と中金鎚前庭部の発掘調査をおこなっています。調査区の面積は 1485対で、

調在は IO 月 4日に始めて現在継続中です。これまでの薬師寺をはじめとする南都七大寺 の発掘調査では、伽藍内の各建築についてはおこなわれているものの、中心堂塔の前庭部 分における本格的な調査は今回がはじめてです。

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にともなって、このサも飛烏0)地に移り、厩坂寺となりました。さらに平城京への遷都 により、以の東北部である左京三条七坊の地に移建されて典福寺となるのです。

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をむすぶ回廊で囲われた区画を中金堂院とよびます。中金堂院の建立年代 は,,已録にありませんが、平城京遷都後まもない時期に、他の堂塔にさきがけて建てられた とする説がイi力となっています。平安時代以後は、この中金堂院に限ってみても永承元年 (1046)の火災をはじめとして 7度もの火災に巡います。とくに有名なのは平安時代末期、

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治)il(4年 (l180)  0)平重衡による南都焼き討ちです。火災のたびに典福寺は再建を重ね てきましたが、江戸時代の享保2年 (1717)におきた 7度目の火災の後は、南円堂が斑保

)じ年 (174!)に複興されるものの、中金盤がかろうじて文政2年 (1819)に建てられただ けで、回廊や中

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りはついに再建されませんでした。

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からのびて中金堂にとりつく回廊は、梁行が

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間で、中央の柱筋に連子窓をいれる 韻託いう形式です。奈良時代の大きな寺院ではよく使われた形式ですが、いずれも現存 しませんJ

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みることができる同じ形式の回廊は、春日大社本殿の回廊(南北朝時代)

(I)はか、発掘調査の成果から最近薬師寺で再建された回廊があります。

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直回廊(/)砒石は発掘調査前から地上に⑬科出していて、あるていど柱間寸法(柱と柱 の間隔)を批定できました。調査を進めると、礎石の残っていないところでも、ほぼ予想 辿りの位樅:こ礎石を据えるときに掘った穴(据付穴)や礎石を抜き取るときに掘った穴(抜

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訊)を発見しました。その結果、回廊の柱間は、中金堂にとりつく北面回廊が桁行 14 尺 (4.16m)・梁行 12尺 (3.55m)、回廊の隅部分 2間四方がすべて 12尺 (3.55m)、東 面同廊が桁行 12.7尺 (3.77m)・梁行 12尺 (3.55m)です。

元雅

回廊中央の柱筋には、凝灰岩製の地殺石が 2列にならんでいる部分があります。ここは 連子窓が入る柱筋で、連子窓の下は壁になるのですが、この石には壁を受ける横材(地毅)

その両側からうちつけた属悼をものせていたと考えられます。そこで本来ならば輻の と、

広い行をおくべきところを、輻の狭い2列の石でまかなったのでしょう。

回廊の基壇は、中金堂にとりつく北面回廊部分では、自然の地盤(地山)を削ってつく っていますが、造腐前の地形が谷筋となる棗面回廊部分では、賂地をした上に抽壇の土を つんでいるようです。基壇の縁には花岡岩製の地覆石が一部に残り、さらにその外側には 雨落描を発見しました。ところが、残りのよい東面回廊の西側と北面回廊の北側を比べる と、どちらも溝自体は人頭大の玉石をならべてつくっている点では同じなのですが、東而 回廊の西側では雨落溝の外側にも玉石を何列か敷きならべていて、北面回廊の北側では溝 の外側には玉石を敷かないという違いがあります。これはやはり回廊の内側を立派につく ったためなのでしょう。また、礎石と雨落溝との距離から、回廊の軒の出は約7 (2.1 m)だったことがわかります。基壇上にはこのほか回廊を建てるときに組んだ足場の柱穴 や、地鎖の際に土器 2枚を埋めた小穴も発見しました。

これらの迪構の年代は、回廊礎石や基壇土に関しては部分的な改修があるもののほぼ興 福.『創建当初と思われます。一方、回廊基塩の地股石や雨落溝・玉石敷きについては、エ 石雨落構の据付溝に焼土を含むため、永承元年 (1046)火災後の再建時につくられたので はないかと考えています。また、創建当初の基壇外装は選構として確認できませんが、発

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見した花巌岩地殴石の据付溝には凝灰岩片を含むことから、凝灰岩でつくられた坦正積 砧培だったのではないかと推定しています。

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興福寺回廊梁行断面図(東京国立博物館蔵「興福寺建築諸図」、享保焼失前)一•

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中金堂院前庭部 回廊で囲われた中金堂の前庭部分は、通常、燈籠だけが立つ空間です^

ところか、今回、回廊に近い部分で南北に細長い建物を何棟か発見しました。建物1は桁 行5間以上

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梁行2間の礎石建物で、礎石の高さからみても、もっとも新しい時期のもの ものでしょう。建物2は桁行7間以上

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梁行4間(東西2面庇)の礎石建物で、鎌倉時代 こ う 建 物3は建物2と柱位脱をまったく同じにする掘立柱建物で、建物 2より古い時代

0)ものですc これらはどのような性格の建物なのでしようか。

ここで「春日社寺曼荼羅」(鎌倉〜室町時代)という絵医]を見てみます。すると、ちょ うどこの位性に南北に細長い建物が描かれているのがわかります。今回発見した建物 2や 建物 30)梨行規模は絵図中の建物と一致します。この絵固自体はどんな場面を描いたのか わからないのですが、永承元年 (1046)の火災後、復興する際の記録(『造興福寺記』)を

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みると、事始(仕事始め)の

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義式の際、東西回廊から 20丈(約6m) はなれた前庭部分 に、南北に細長い仮設の建物を建てて、僧侶や造営関係の役人が座る場所にしています。

さらに、享保2年 (1717)の火災後におこなわれた伽藍復興をめざした儀式の際も、同じ ような建物を建てていますので、今回発見したこれらの建物も、記録に見えるような儀式 の際に建てた仮設建物の可能性があります。建物 1 3のほかにも筋のそろう礎石や柱穴 が点々とありますので、火災による復興の際には、おそらく毎回同じような建物をたてて 儀式をしていたのでしょうc

中金堂の南には玉石を敷き詰めた舗装がありますC 南側には見切りとなる石をおいてい ますので、南側にはこれ以上広がりませんぐ東側には攪乱があって、東西はどこまで続い ていたかわかりませんが、現状では中金堂基壇の前だけにみられます。これがつくられた 年代について、毛石を多用する回廊雨落溝のエ作と同じ時期とみなせば、永承元年 (1046) 焼失後の再俎にともなうものと考えられますが、部分的な土層競察では創建当初までさか

0)ぼる可能性もでてきており、この点の解明は今後の調査における課題のひとつです。

中門と中金堂の中心を結ぶ軸線上には燈籠の台座となる石があります。中央には直径36

CIl1、深さ 50cmほどの円形の穴を穿っており、燈籠の竿をこの穴にさすのでしょう。この 台座石のまわりには地覆石状の凝灰岩を六角形にならべています。用途についてはよくわ かりませんが、台座を固定させるための施設か、燈籠と形を合わせた見切りの石でしょう

この燈能台座石は屯石敷きを一部抜いたあとに据えていますので、玉石敷きが施され た時期よりも新しいようです。

③東室(中室) 発掘区の東北隅、調査区の墜ぎわに東室の礎石を2つ発見しました。礎 石間の距離は約 18(5.4m)ですから、柱間 2間ぶんに相当するものと考えられますく また、その西側には東室の西雨落溝があります3 やや大ぶりの石を溝の側石として据えて いるのですが、後世の攪乱のため残っていない部分もあります。この周囲には凝灰岩が散 乱しており、創建当初は東室の基壇外装も凝灰岩製だったと考えられます。なお、雨落溝 の西側に接して大きな石をならべた深くて立派な溝がありま丸当初、東室の雨落溝と考 えましたが、礎石からの軒の出が大きすぎ、また土層の観察でもかなり上面から切り込ん で石を据えていることがわかるので、東室とは直接関係のない溝なのかもしれません3

)2条の東西溝 回廊の東北隅部分に回廊0)礎石据付穴よりも古い、平行する 2条の東西 溝を発見しました。溝と溝の心心距離は約 5.9mです。北側の溝は幅が約 60 80 cm

 

、深 さも現在の面から約 30cmほどあります。この溝は中金堂に近い西の方では、回廊基壇上 の下に隠れてしまって見えません。一方、南側の溝は幅が約25 40 cm

 

ほどでごく浅く、

東と西では地面が削られてしまっているため溝はまったく残っていませんc

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「興福寺伽藍地曳之図」

(『興福寺伽藍再建事始地曳井法会之記』、享保14年)

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出士した造物の大半は瓦です。中金堂前庭部東方の石敷きがとぎ れるあたりには、享保 2年 (1717)火災後の瓦溜り状の整地層があ って、中机の瓦のほか、風鐸の破片なども出上しまし

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こ そ の な か ても注目すべきも0)は金箔つきの軒丸瓦で、 2点出上していますが、

そのうち 1,点は破片です。ここで紹介する金箔軒丸瓦の寸法は、全 体の直径が 15cm、文様のある内側の直径 11.2cmで、模様のないまわ り(/)部分].8 2cm

 

、まわりと内側の高さの差が 0.8cm、側面の厚さ 2.6 cmとなっており、向って右上の外緑部約 1/3が欠けているものの、文 様邪分はほぽ完形です。このうしろに続く丸瓦部分は脱落していま すか、平坦な褒側のやや内側に接合していることがわかります。表 面は黒色で焼きかたはやや甘く、原料の土は白色の小石が混じるや や明るい灰色です。文様のある面(瓦当面)に金箔を黒漆で接合し ていて、金箔はまわりの部分だけでなく文様の凹凸部も含めて全面 に 貼 っ て い ま 丸 文 様 は 五 七 桐 紋 と い っ て 、 豊 臣 家 の も の で す 。 出

l•地点からみて、貞和 3 年 (1347) に再建され点保 2 年 (1717) に焼失

した金党か、同じ頃に建てられた回廊の軒先に使用されていた可能 性かあります^,

ところで、金箔を貼った瓦の出土例をみると、北は宮城県、南は 窮崎県まての 51箇所があげられ、用いられた時期も織田信長や豊臣 秀古・秀頼の時代である大正〜慶長年間 (1570 1

 

615年)に限られ るようです,'また、城郭や諸侯の屋敷で使われる例が圧倒的に多く、

城郭以外では天祀14年 (1586)に建てられた厳島神社千登閣の「王」

紋軒丸瓦が年代的にはもっとも古く、秀吉建立の言い伝えがある興 隆寺跡(長岡京市)の巴紋軒丸瓦が寺院から出土した唯一の例でし た 9術占0)弟・秀長の居城であった郡山城(天正 14年= 1586)では、

金箔瓦の出上は知られておりませんので、この金箔瓦は大和国から 出 Lした初めての例であって、さらに寺院から出土した第 2例目と いうことになります,

天正 13年 (1585) 7 11日に豊臣秀吉は関白となり、姓を羽柴か ら藤原に改めますが、このときに桐0)文様を天皇から賜っています

(I)で、これ以降につくられた瓦であることは確実です。また、瓦の 製作年代を考えるうえで重要な、同じ型からつくられた文様が全国 的にも知られていないため、今回出土した金箔軒丸瓦0)つくられた 年 代 は わ か ら な い の で 九 興 福 寺 一 豊 臣 家 一 金 箔 瓦 の ラ イ ン に つ い てももうひとつはっきりしません。最後の年表にあるとおり、興福 寺では天正]1年 (1583)には大風によって築地が倒れるなどの被害 を受けており、天正 16 1

 

7年にかけて修復されますC 一方、天正 14 年には秀吉が典福寺金堂に参拝していますので、今回出上した金箔 瓦をこの時期のものとすれば話は合うのですが、それにはこの金箔

瓦自体の分析・研究をもう少し待たなければならないでしょう。 本 調 査 で 出 土 し た 金 箔 瓦

(写真トレースによる略図)

 

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中村博司l978'金箔万,試誌J

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大坂城天守閤紀要j6大坂城天守閣 pplb299  中村 19801 企箔瓦試誌— i,19 迫 J K坂城天守紺l紀要』 8大坂城天守閣 pp11•2;

中村1995「金笛瓦詰考Ji哉翌城郭』第2号 織 豊 城 郭 研 究 全 pp,9'・130

倉澤正幸 1994'1叡濃における漁豊期 U9城郭所用瓦の考察 -Jこ m城跡他出 •I-fiJi・金箔1靭 屯 維j

m代孝1992『開佃II\ 周 年 記 も 特 別 屈 天FJ(99時代)山梨県立考古博物館

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岡山城・広島城の瓦は上記参考文献、『中村 1995』より転載

(5)

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①回廊は創建規模を踏襲 興福寺中金堂院回廊の礎石は、一部据え直しがあるものの創建 当初から使われてきた可能性が高いことがわかりました。これまでの研究でも、興福寺に おける焼失後の復典にあたっては、ほぼ創建当初の規模を踏襲して堂塔を再建してきたこ

とが指摘されており、今回の調査でもこのことが確認できたことになります。

(2i前庭部分で儀式用の仮設建物を発見 中金堂前庭部分で火災後の再建工事にともなう儀 式用の仮設建物を発見しました。文献や絵画資料から、儀式用の建物が存在することは推 定できたものの、それを確認できたのは南都の大寺院でははじめてのことですc

③中金堂の前に石敷きを発見 中金堂の南に右敷きの舗装を発見しました。参道部分なら ばともかく、中金堂前だけを石敷きとする例はめずらしく、前庭部分の使用方法や空間構 成などについて、課題となるべき新たな資料を提供したといえます。

,41回廊にひらく門と柱間寸法の問題 中金堂院の回廊には、中門のほかに東西南北の各面 に

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りが 2つずつ開くことが記録(『興福寺流記』)によってわかっていますC

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といって も連子窓部分を師とした通用門ていどの簡単なものなのでしょうが、今向の調査ではその 跡を発見することができませんでした。門は必要な施設ですから、おそらく造構に残らな いような門の構造だったと考えられます。また、今回の調査によって回廊の柱間寸法が判 明したのですが、この柱間で東面回廊が続いていたと考えると、昨年発掘した中門の柱筋 とそろわないばかりか、記録に出てくる東面回廊の全長とも合わなくなってしまいますシ

ここで 15世紀と 17世紀頃に描かれた 2枚の図面をみてみましょうc 享保2年 (1717) に焼けた回廊は孫暦2年 (1327)の焼失後に再建された回廊ですから、この2つの図面は 同じ時に再建された回廊を描いたものです。ですから当然ですが、発掘調査からはわから なかった門の位置など図面ではよく一致しており、ここから門の位置は判明します。また 17世紀頃の図面には、柱間寸法の営き込みがありまして、東面回廊ではまん中の門を境 にそれより北側と南側とでは違う数値が書かれています。しかし、その全長は創建当初の

,記録とほぼ一致しますし、さらに回廊北側の寸法は今回の発掘調査結果ともよく合うので す今回の調査によって回廊の柱位囮はほぽ創建当初と考えられるわけですから、この 17 III:紀頃の図面も創建当初の柱間や門の位隈を反映していると考えられ、中金堂院の回廊は、

北面と南面で柱間寸法が違うどころか、東面・西面に関してもまん中付近の門を境にその 北と南で柱問寸法が違うという特異な構造だったことがわかります。どうしてこのような 杜配樅になったかは、今後の課題です。

も\興福寺の創建年代の問題 歴史のところで触れたように、興福寺の創建時期はあきらか ではありません,典福寺造営に関する最初の文献は、「はじめて接民、造器、造興福寺仏 殿ーこ司を置くj という『続日本紀』養老4年 (720) JO 17日条です。造興福寺仏殿司 というのは国家機関ですから、藤原氏の個人的な寺院を、これ以後は国家機関が造営する

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ことにしたのです。ところが、この年の8月3日には平城京遷都を主適した藤原不比等が 亡くなっており、翌年には不比等のために北円堂が建てられましたc このことから、この 造興福寺仏殿司を北円堂建立のためにおかれた機関と考え、興福寺自体、つまりもっとも 低要な中金堂院は不比等存命中にほぼできていたのだろうという考え方が一般的でしたc

これに対して、興福寺から出土する瓦には奈良時代初頭のものがないことから、『続日 本紀』にみえる造興福寺仏殿司設置を興福寺造営の端緒と考える瓦研究者もいましたし今 回の発掘調査で発見した興福寺回廊よりも占い平行する 2条の東西溝は、この問題に手が

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「中金堂院図」

(『肝要絵図類緊紗』)

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興福寺回廊平面図(東京国立博物館蔵「興福寺建築諸図」、享保焼失前力)

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か り を 与 え て く れ る も の と な っ た の で すc

ま ず こ の 溝 の 位 置 に 注 目 し ま す 。 平 城 京 は 条 坊 制 と い う 方 法 に よ っ て 大 小 の 道 路 を つ く り 、 碁 盤 目 状 に 整 然 と 区 画 割 り し て い ま す 。 道 路 の 両 側 に は 側 溝 を 掘 っ て 雨 水 ほ か 生 活 用 水 を 排 水 し て い ま

て か い も ん

し た へ 現 存 す る 東 大 寺 転 害 門 は 、 奈 良 時 代 の 門 と し て 有 名 で す が 、 平 城 京 の 一 条 南 大 路 と い う 東 西 道 路 の つ き あ た り に 位 置 し て い ま す い こ の 東 大 寺 転 害 門 か ら の 距 離 を 調 べ る と 、 こ の 溝 は 平 城 京 の

:::.条条間南小路という道路の両側にある側溝だと しヽうことがわかりました。

つ ぎ に 、 こ の 2条 の 溝 間 の 距 離 (5.9m) に 注 Hし ま す 。 和 銅6(713)

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月 に 度 拡 衡0)改 正

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が あ り 、 そ れ ま で は 大 宝 律 令 の 規 定 に よ り 、 土 地 測 量 に は 大 尺 と い う 単 位 を 、 そ れ 以 外 の 建 物 な ど に は 小 尺 (5/6大 尺 に あ た り ま す ) と い う 単 位 を 用 い て い た の を 、 こ れ 以 後 は 何 を 測 る に も す べ て 小 尺 を 使 う よ う 一 本 化 し ま し た 。 今 回 発 見 し た 溝 間 の 距 離 5.9mは 20小尺という長さにあたり、

小 尺 を 用 い て い ま す の で 、 こ の 平 城 京 三 条 条 間 南 小 路 が つ く ら れ た の は 、 和 銅6年 以 降 の 可 能 性 が 大 き い と い え ま す 。 回 廊 の 礎 石 据 付 穴 は こ の 溝 よ り も 新 し い の で す か ら 、 す く な く と も 興 福 寺 回 廊 の 創 建 年 代 は 和 銅6年 以 降 と い う こ と に な っ て し ましヽますc

奈 良 時 代 は じ め の 平 城 京 の 大 寺 に 、 興 福 寺 の ほ か 元 興 寺 、 大 安 寺 、 薬 師 寺 が あ り ま す が 、 い ず れ

れ い さ

も 平 城 京 遷 都 よ り や や 遅 れ て 霊 亀 〜 義 老 年 間 (714

 

721)に 飛 烏 の 地 か ら 移 さ れ て い ま すC で す か ら 、 年 代 だ け を 考 え れ ば 平 城 京 に お け る 興 福 寺 の 創 建 が 『 続 日 本 紀 』 の 蓑 老 4年(720)で も よ い よ う に 思 え ま す が 、 す る と 藤 原 不 比 等 は 輿 福 寺 伽 藍 の 造 営 に ど れ だ け か か わ る こ と が で き た の か が 問 趙 に な っ て し ま い ま すC で す か ら 、 今 回 発 見 し た この小さな2条 の 溝 が も つ 意 味 は 、 限 り な く 大 き し、としヽえるのではないでしょうかc

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興福寺 東七坊大郎

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平城京と興福寺

興福寺略年表

和銅 和銅

旋老 4年(720)

元慶 永 承

永承 眼 平

治 暦 嘉 保

康和 治承

建久 建 治

正安 爺暦

3年 (710) 6(713)

2(878) 10046)

3(1048) 3年 0060)

3(1067) 3(1096)

5年(l03)  4年 (180) 

5(1194) 3(1277)

2(1300) 2年 (1327)

応 永 6年 (1399)

天正 11年 (1583)

iE]3年 (1585)

)訂正 14(1586)

天正 16(1588) 天正 17(1589) 宝永 4年 (1707)

享保

文 政

2年 (1717)

2(1819)

3月、平城京遷都

2月 19日、度拭の制をあらため、測地に大尺ではなく小尺を用い ることとする

8月 3日、藤原不比等が没する 1017日、造興福寺仏殿司を設ける

4月 8日、堂宇僧房が焼ける

1224日、西里の民家の火事が類焼、中金堂・回廊をはじめ伽症 のほとんどが焼失。すぐさま再建事業はじまる。

甲斐・越中・若狭など6カ国に宛てられる 3月 2日、関白藤原頼通ら参列して供蓑

5月 4日、中金堂から出火、講堂・金堂・回廊・中門・僧房など 中金営院が灰燈に帰す

225日、供簑

925日、東妻室僧房から出火、講堂・金堂・回廊・中門・僧房 など中金堂院が悉く焼L

回廊造営は摂津・

7月25日、右大臣藤原忠実ら参列して供接

1228日、平重衡の南都焼打ちに遭い、寺内外の堂舎宝塔すべて

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が 焼 失

c 翌 年 再 建 事 業 が 始 ま り 回 廊 造 営 は 摂 津 な ど 12カ国に宛て ら れ る も は か ど ら 丸 後 に 九 条 兼 実 が 主 導 す るc

9月22日、供養

7月26日、中室(東室)に落雷、諧堂・金堂・回廊・中門・僧房な ど中金堂院すべてが焼失

12月 5日、供養

3月 12日、大乗院院主の座をめぐる寺内紛争が金堂放火に発展、

東 金 堂 ・ 塔 ・ 北 円 堂 を 除 き 、 講 堂 ・ 金 堂 ・ 回 廊 ・ 中

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などの伽藍が ことごとく焼失

3月 II日、供養(これ以前に漸次再建はすすみ、貞和3[13471 中 金 堂 の 入 仏 供 養 行 わ れ る 。 ま た 延 文6[1361)地震により金堂・

南円堂が破損する)

330日、風雨により金堂の金燈籠が倒れ、築地の蓋もことごと く破損する

7 月 II 日、秀吉、関白•藤原氏長者となり藤原に改姓 9月、羽柴秀長、郡山城に入城

7月21日、秀吉、興福寺金堂・東大寺大仏を参拝。これに先立ち 春 日 社 頭 ・ 興 福 寺 伽 藍 を 掃 除

618日以降、興福寺の築地塀改修を行う。翌年78日に完成 8月 10日、秀吉、興福寺維摩会の跨用を寄進する

104日、宝永地震3 中金堂の西回廊が倒壊し、その他の伽藍も 破損(東回廊は残る)

1月4日 、 講 堂 内 陣 の 灯 明 か ら 出 火 し 、 講 堂 ・ 金 堂 ・ 回 廊 ・ 中 門

•西金堂・南大門など焼亡。以後、再建事業はすこぶる不振 中金堂を仮堂として再建。回廊は再建されず今日に至る

参照

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