羅 翠 恂・徳 泉 さ ち
はじめに
2016年の2月11日から15日にかけて筆者(羅)は徳泉さち氏の協力を得て、英国の国立図書館、British.Library.
(以下 BL)が所蔵するスタイン・コレクション中の敦煌文書のうち、千手千眼観世音菩薩(以下千手観音)の信 仰に関連する文書の調査を行い、その結果を本紀要第18号にて発表した(註1)。本稿はその続編であり、2017年の 2月27日から3月2日にかけて、再び同氏と共にフランスの国立図書館 Bibliothèque.nationale.de.France(以下 BnF)で行ったペリオ・コレクションの調査の結果をまとめている。本稿においても徳泉氏には、第3部の「形状 や書に関する所見」、ならびに文末表1の一部を担当していただいた。報告に先立ってまずは前稿から継続してい る研究の背景や枠組みについて紹介した上で、本稿(調査)の目的並びに構成を確認しておきたい。
唐代以降の史料でしばしば「大悲菩薩」という名でも登場する千手観音は、6世紀末以降に中国で流行し始めた 密教系の変化観音の中でも特に人気を博した観音である。現代に至っても中国の寺院では、日本でいう金堂にあた る「大雄宝殿」、あるいはその背後の「大悲閣」に千手観音の巨像を祀ることが多く、千手観音を主尊として行う 大型法会「大悲会」も行われるなど、その人気は衰えていない。筆者(羅)はこれまで、唐・宋代の中国における 千手観音の信仰と造像について研究を進めてきたが、その過程で千手観音の図像が、時代によって大きく変化を遂 げていることを明らかにし得た(註2)。
千手観音の像が最初にインドから中国へもたらされたのは武徳年間(618~626)のことであったといい、以降、
7世紀末の則天武后期頃から盛んに造られ始めたらしいことが、文献や現存作例から確認される(註3)。その後の 像の形状とその背後にある信仰の変遷については前稿を含む以前の論考で詳しく述べているため、ここでは簡略に 記しておく。まず、①現存する最初期の像は7世紀末から8世紀初頭にかけてのものであるが、中国において千手 観音の像が未だ形成期にあったと考えられるこの時期の像は、単体(註4)の立像を基本とし、中には大手(千手観 音の胴体から直接伸びて、手に持物を執る、あるいは印を結ぶ腕)の数が後世の像に比べて大分少ないものも見ら れる。次に、②8世紀の半ばから後半頃になると「大悲変相図」と呼ばれる新たな形式の像(註5)が流行し始める。
この形式では、観音の大手の数は42が通例となり、観音の周囲には、千手観音の主要経典に登場する夥しい諸尊が 配置されるようになる。以降この大悲変相図は、宋の初め頃まで中国における千手観音像の定型となり、大流行す る(註6)。その背景には、観音の大手にあらわされる40種の持物及び印相や観音周囲に登場する眷属衆の大半が登 場する、『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』(以下『千手経』)(註7)の流行があったと考えられる
(註8)。『千手経』は経典全体が千手観音の根本陀羅尼たる「大悲呪」が起こす奇跡や陀羅尼の功徳を説くことに終 始する。この点に鑑みれば、『千手経』と強く結びついた像の流行はまた、大悲呪自体の流行をも示唆するものと 考えられる。最後に③唐末、9世紀の終わり頃になると新たな展開として、像の高さが7、8メートルにも及ぶ巨 像が出現する。
前稿並びに本稿は、貴重な同時代史料である敦煌文書を手がかりとして、こうした信仰と造像との結びつきにつ いて更に理解を深めるための材料を得ようとするものである。千手観音関連の史料を抽出するにあたって筆者(羅)
はまず、敦煌文書の影印叢書『敦煌宝蔵』から千手観音の経典や「大悲呪」を含む文書を抽出し、中でも点数の多 い BL 並びに BnF 所蔵の文書、各々 20点と11点を調査対象に定めた。さらに、文書の形状や筆跡といった情報を 収集するにあたっては、中国書道史を専門とする徳泉さち氏の協力を仰いだ。また、本稿で特に注目したいのは上 記③の展開である。千手観音像の巨大化は、晩唐以降の大型法会、中でも施餓鬼会の流行と結びついている可能性 が指摘されている(註9)が、そうした信仰のあり方と直接結びつく史料は今のところほとんど紹介されていない。
そこで本稿では、調査対象とした11件の文書全体について概要と所見を述べると同時に、特に③の現象に関係する と思われる史料に注目し、その示唆するところについて考察したい。
本稿の構成は以下の通りとする。まず第1部「背景」では唐末から宋初にかけて見られる千手観音像の巨大化と いう現象について紹介する。次に第2部「調査概要」では BnF での調査を実現するまでの申請手順ならびに調査 日程について簡単に記し、第3部「所見」では羅、徳泉それぞれが文書から得た情報を紹介し、最後に「おわり に」で全体を総括する。文末には、調査を行った文書の基本情報をまとめた表を付した。(羅)
1.背景
..先に、唐末から宋初にかけて、像の高さが7、8メートルにも及ぶ巨大な千手観音像が造られるようになると述 べたが、これらは厳密に言うと、2種類に分けることができる。1つ目は、千手観音の形自体は唐代を通して引き 継がれた形式をほぼ踏襲しながら、スケールのみが巨大化したもの(図1)、2つ目は、大きさのみならず、図像 においてもそれまでには全く見られなかった一見奇異な形式で作られている像である。1つ目のタイプの像は先行 研究によって4例が確認されており、いずれも現在の四川省に残る。2つ目のタイプは、筆者が確認し得た限りで は11件が現存しており、こちらは四川に限らず、江南、山西省、甘粛省、寧夏、トゥルファン、日本と、かなり広 範に分布している。ただし発生のタイミングは1のタイプの方が早いらしいことが確認でき、最も早い作例は晩唐 頃のものとされている(註10)。
1のタイプの像に最初に注目したのは濱田瑞美氏であるが、氏は、これらの像の前にしばしば大勢の信者が集え るような、広々とした空間が設けられていること、ならびに晩唐以前に作られたより小規模な千手観音像において 観音の両脇で観音から甘露と宝雨(銭)の施しを受ける貧者と餓鬼がこれらの巨像では消えており、代わりに自然 の湧き水が観音の両脇から像前の信者の方へと流れるような表現が採られるようになることに注目し、この表現が 観音の施しが信者である一般民衆も含む、より広い存在を対象とするものとしてとらえられるようになったことを 示唆する可能性を指摘した。
こうした巨像は、実は文献上でも多く確認できる。興味深いのは、これらの像の多くが宋代に作られているこ と、あるいは唐代に作られたものであっても、宋代になって像が再び脚光を浴びていることである。現時点で確認 し得た例を以下にあげる。内、⑤から⑧については濱田氏が既に紹介している。
①東京(開封)宝相禅院像(『蘇舜欽集』巻十三、「東京宝相禅院新建大悲殿記」)
-景祐五年(1038)鋳造。鉄仏。宋の仁宗(1022~1063)が薪炭十余斤、銭四万両を提供。
②成都大聖慈寺大悲閣像(氾成大編『成都古寺名筆記』所収趙耆撰.「増修大悲閣記」)
-僧、敏行が元豊壬戌(1082)に千手観音像を造り、完成後「大閣」で覆った。
③衢州大中祥符寺像(程倶撰『北山集』巻十三.)
-紹興二年(1132)に布施を募って千手観音像を造らせ、これを「大閣」で覆った.。.
④成都聖寿寺大中祥符禅院像(袁説友撰『成都文類』巻四〇、馮檝「大中祥符禅院大悲像並閣記」.)
-.紹興十七年(1147)に「高四十七尺、横広二十四尺」の「千手眼大悲像」を造り、完成した像を「閣」で 覆った。
⑤鎮州大悲寺像 (賛寧撰『宋高僧伝』巻二六、釈自覚伝)
-.高さ四十九尺の銅像。大歴四年(796)に完成。後周顕徳(954~959)初、鋳銭のため胸まで破壊され る。宋の太祖(在位960~976)が鋳補して完形に復す。
⑥鎮州龍興寺像 (王昶撰『金石萃編』巻一二三、「真定府龍興寺鋳金銅像菩薩並蓋大悲宝閣」
-高さ七十三尺の銅像。北宋末。
⑦内江東林寺像 (清、宣統三年修『内江県志』東林寺条)
-紹興十一年(1141)、摩崖に彫られた像の前に「高閣」を建てる。
⑧富順中崖山普崖院像 (曹学佺撰『蜀中名勝記』巻一五)
-咸通年間(860~873)に崖に「大悲佛像(千手観音)」を彫り、宋初に僧自悟が三百楹からなる屋を架した。
以上の例からは、幾つかの興味深い点が看取できる。まず一点目は、②、③、④、⑦、⑧などがいずれも「大 閣」や「高閣」など、信者が集えるような大規模建築の中に置かれていること、二点目は、①、②、④、に見られ るように、首都や大都市の主要寺院で像が造られていること、三点目は、①、⑤においては皇帝自らが像の建造や 修復に関わっていることである。濱田氏は、先に上げた図像上の変化(餓鬼、貧人の消滅)、像の巨大化、ならび に像前の空間や像の置かれる巨大建築といった点に注目し、これらの像が千手観音を主尊とする大悲会や、広義に おいては施餓鬼会の一種であるとされ、宋代に大流行した水陸会といった大型法会の主尊として機能した可能性を 指摘している。信者から高額の布施が寄せられたと考えられるこうした大型法会は当然、首都や大都市の寺院で催 されたであろうし、皇帝や貴族がしばしば水陸会を含む大型法会を催していたことは、先行研究において指摘され
ている(註11)。こうした大規模法会との結びつきは、宋以降にも継続する千手観音信仰の人気を下支えする上で、
大きな役割を果たしたことが察せられる。
宋代以降に流行する大型法会の代表格とも言える水陸会は、現存最古の千手観音巨像が作られた、晩唐頃から行 われていたこと、並びにその初期においては特に蜀で盛んに行われていたらしいことが、文献史料から確認できる
(註12)。しかし、そうした初期の法会の中で千手観音、およびその像が実際にどのような役割を果たしたかという
ヒントを提供し得る資料はこれまでほとんど紹介されて来なかった。ただし、筆者が BL と BnFで 調査した敦煌 文書の中には、施食を行う儀式の中に、千手観音の陀羅尼、大悲呪の誦持や『千手経』に登場する眷属衆の招請と いった行程が組み込む、あるいは施食会のマニュアルと千手観音関連の陀羅尼や経典、あるいはその抜き書きを組 み合わせる、手控えのような文書が複数含まれる。文書の内容については第三部「所見」で詳述するが、いずれに してもこれらの文書は、大勢の人間が集う法会、特に水陸会のような施食を目的とした法会と千手観音が結びつい ていった時期や過程を考える際に、当時行われていた生の信仰を知る上で貴重な材料を提供してくれる。(羅)
2.調査の概要
今回の調査では、『敦煌宝蔵』から抽出した BnF 所蔵の千手観音関連文書、Pelliot.chinois.3352、2105、2291、
3289、3437、3538、2777、3861、3920、3162、3835、計11点を実見した。
調査に先立ってはまず、BnF の département.des.Manuscrits(古文書課)へ連絡を取り、敦煌文書の担当者へ、
調査を希望する文書のリスト、実地調査が必要な理由、調査希望日などを伝えて許可を得る必要がある。特にペリ オ・コレクションは年々データベースが充実しており、オンラインで高解像度の写真が閲覧できるのみならず、か
なり質の良い画像のダウンロードも可能である。そのため、実物を閲覧したい場合には、理由の正当性を丁寧に説 明する必要がある。担当者の話では、遅くとも1ヶ月前までにはコンタクトを取ってほしいということであった。
調査の準備を行うにあたっては、オンライン・データベースからかなりの情報が得られる。BnF の敦煌文書デー タベースはきわめて充実しており、紙の大きさや質、筆使いや、各文書に含まれる経典、儀軌、陀羅尼に加えて、
大正新脩大蔵経に対応する箇所がある場合はその正確な箇所についての情報を、また先行研究がある場合には、頁 数に至るまで詳しく紹介している。写真と文書のディスクリプションで構成されたデータベースは、IDP(国際敦 煌プロジェクト)のホームページからも検索できるが、同じ内容が BnF のバーチャル・コレクション、Gallica か らも閲覧できる。内容は同じだが、IDP の検索システムは、インタフェースが英語であることに加えて、ペリオ自 身が作成した文書目録の中国語訳、『巴黎圖書館敦煌寫本書目』に記載がある場合はその内容も載せている点が便利 である。ただし、インタフェースが仏語であることを除けば機能面では Gallica の方が充実しており(現在英語のイ ンタフェースを準備中)、使いやすい。ディスクリプションは、いずれのシステムにおいても仏語で書かれている。
検索の際には、両システム共に、「Pelliot.chinois.XXXX」といったように、冒頭に「Pelliot.chinois」をつけて入力 する。
BnF には複数の館があるが、敦煌文書はパリの中心部にあるリシュリュー館に所蔵されている。閲覧にあたっ てはまず、同館へ赴いて読者カードを作成する必要がある。カードの申込み方法や身分証明に必要な書類などにつ いては BnF のウェブページから確認できる。閲覧室では鉛筆と消しゴム以外の筆記用具の使用は認められておら ず、調査道具と貴重品以外の持ち込みは禁止されている。また、敦煌文書に関しては、高解像度の写真が上記デー タベース上で公開されていることから、写真撮影は許可されない。
調査は下記の日程で行った。
2/27(月)読者カードを作成した後、Pelliot.chinois.2105、2291、3352、を調査 2/28(火)Pelliot.chinois.2777、3437、3538、3861を調査
3/1(水)Pelliot.chinois.3162、3289、3920を調査 3/2(木)Pelliot.chinois.3835を調査(羅)
3.所見
a. 形状や書に関する所見
今回実見調査した11点の資料は、形状より以下のように分類できる。なお、ペリオ番号の後の(No,**)は表 の作品番号に対応する。
① 写経
Pelliot.chinois.2105(No,2). Pelliot.chinois.2291(No,3)
Pelliot.chinois.3437(No,5). Pelliot.chinois.3538(No,6)
② 冊子
Pelliot.chinois.3861(No,8). Pelliot.chinois.3920(No,9)
Pelliot.chinois.3835(No,11)
③ その他
Pelliot.chinois.3352(No,1). Pelliot.chinois.3289(No,4)
Pelliot.chinois.2777(No,7). Pelliot.chinois.3162(No,10)
①の資料群は界線が引かれ、経典が書かれたもの。紙の縦幅はいずれも25から30㎝程度。一紙の横幅は、No,2.
の賢愚経の部分が.50.6㎝と長く、No,5が.48.7㎝、No,6が.42.7㎝、No,3が.39.5㎝となっている。中でも、特に注目す べきはNo,3であろう。No,3の末尾には「開元二十七年弟子王崇芸写」とあり、唐の開元27年(739)に筆写された ことがわかる。ところどころにしみが広がり、決して保存状態はよくないが、墨色は鮮明で一文字一文字丁寧に 書かれている。癖のない直線的な用筆で、整斉な楷書に仕上げられている。書きぶりとしては、スタイン文書の Or.8210/S.284(『千臂経』下巻)によく似る。敦煌遺書は全体的に8世紀半ば以降、紙質、書写技術ともに凋落し ていくことが多くの先学により指摘されているが、No,3は下降する直前の優れた唐代写経の水準を示す好個の作 例と位置付けてよかろう。
また、No,2は四枚の紙が貼り継ぎされた変則的なものである。全体は四紙に分かれ、三度の継ぎ目がある。その うち、第一紙と第三紙は同じ紙、同じ書き手で『賢愚経』が書かれる。一紙.25.0×50.6㎝、一紙に28行、界線がひ かれ、各界19×1.8㎝。横画は起筆をすべりこみで入り、終筆を太くする。熟練した書き手が丁寧に書いたもの。
第二紙は、界線なし。厚くごわごわした紙で、一紙.30.3×43.2㎝。字粒は揃わず、途中で墨が薄くなり、字が荒 れる部分がある。第四紙は、25.0×53.7㎝。界線がひかれ、各界.22.0×2.0㎝。ところどころに別の手による朱書き や、ちがう濃さの墨書がまざる。一紙に28行。それぞれの書写年代を特定することは難しいが、第一紙と第三紙、
第四紙には一紙に28行が配されている点に注意すべきであろう。赤尾栄慶氏は、隋代より一紙の行数が28行とい う規格が一般的になり、唐代の天宝年間(742~756)までは同じ規格で書写されたものが多い、と指摘する。(註13)
この指摘を受けると一紙28行で書かれた第一紙と第三紙、第四紙は8世紀半ば頃までに書写された一連のものと推 測できようか。さらに、No,5も一紙28行であることに目を引かれる。No,5の紙は黄色っぽく平滑で良質であり、文 字も丁寧に書かれていた。一方、No,6の紙は厚く、繊維が浮き出た粗悪なもので、両者は対照的であった。No,6に ついては、文字も乱雑で墨色にもむらがあるため、書法的な水準が高く、紙も良質であるNo,2(第一紙、第三紙、
第四紙)、No,5よりも降る時期の制作とみてよかろう。
その他、冊子状に仕立てられたものが3点あった。No,8は横長の紙を中央でおり、糸で閉じて冊子にしたもので ある。似た形状のものとしては、前回調査した.S.5589.があげられる。また、No,9は梵夾装で、28.7×8.1㎝の長方 形の紙、全90枚からなる。裏表に文字が書かれているが、全ての紙の真ん中に直径5㎜の円形の穴が一つ開けられ ている。穴の部分は文字が避けられているので、文字を書く前に穴を開けたのであろう。敦煌遺書中の梵夾装の例 として、S.5533.や、S.5537.などが知られる。李致忠氏は、インドに起源する梵夾装は唐五代より流行し明清へと 継承されていったという(註14)。No,11は経折装(折本)に仕立てられていた。いずれも、携帯や見開きの便のため の工夫であることは明らかで、これらの経典が広く流布し親しまれていたことを伝えるものであろう。(徳泉)
b. 内容に関する所見
内容については、今回調査した文書は以下の4通りに分類できる。
① 絵画傍題の「底稿」
Pelliot.chinois.3352
② 千手観音関連経典の写経 Pelliot.chinois.2291、3437、3538
③ 大悲啓請、禅門秘要決、信心銘、龍牙居遁作偈頌、転経廻向文、陀羅尼各種の組み合わせ Pelliot.chinois.2105、3289
④ 散食、施食などに関連する資料
Pelliot.chinois.2777、3861、3920、3162、3835
① 絵画傍題の「底稿」
Pelliot.chinois.3352.は、現在表とされている面に観無量寿経変、大悲変相図、ならびに西域やインドの著名な仏 像を集めた瑞像図の傍題が列挙され、裏面には冒頭に「三界寺」の収支報告が記された後に、これに重なるように して天請問経変の傍題が記されている。こうした寺院の収支報告は裏面が再利用されることが多く(註15)、本資料 もその一例であると考えられる(つまり当初はこちらが表であったと考えられる)。「三界寺」は、帰義軍時代に莫 高窟の東側にあった寺であるが(註16)、この収支報告には、「乙巳」から「丙午」の間の一年について「三界寺招提 司法松」が記したものである、との記載がある。この歳が本資料の上限となろう。
本資料は先行研究において、壁画の傍題の「底稿」とされているが(註17)、莫高窟の壁画や蔵経洞から発見され た絹本画などを見ると、傍題や題記は、最初に枠のみが設けられて、後に画工とは別の人物が文字を書き入れて いることが、明らかに最初から文字の書かれていない短冊形などが多く残ることからも看取される。これらの「底 稿」は、そうした文字を担当した人々が参照したものであろうか。興味深いのは、大悲変相図以外の傍題が、通常 の文章の形状で羅列されているのに対して、大悲変相図に関してのみ、諸尊の名称が配置図のかたちで記載され ている点である(図2)。さらに、大悲変相図においては、眷属を左右対称に配置するのが一般的であるのに対し て、本図における諸尊の配置は、画面の右側においては水神、火神が「馬頭(明王?)」の外側に配置されるのに 対して左側では北方毗沙門天王の内側にまず火頭金剛をあらわし、そのさらに内側に地神、風神をあらわすなど、
配置が左右非対称である。さらに、明王像(馬頭)が画面の左右下端ではなく、内側に位置している点も、現存作 例の多くとは異なっている。また、その他にも上方で「阿修羅王」が左右に一回ずつ、計二体登場するなど、一般 的な図像の配置とは合致しない部分が散見される。
大悲変相図に登場する眷属衆は作例ごとにかなりの幅がありどの尊像を選ぶかの判断は、ある程度制作者の判断 に任せられていたと考えられる。そのためか、恐らくは経典中のどの尊格を選んで描いているかが正確に理解され ておらず、傍題の内容が間違っていることがしばしば見受けられる。また、傍題は像と像の合間に配置するため、
必ずしも位置が左右対称にならないことも多い。さらに、内容の乱れ振りから考えれば、本図は、この種の像が造 られるようになってからやや時間が経った時期の作品を写したものであろうか。ところで、敦煌において、このよ うに千手観音の周囲に諸尊が集まる形の大悲変相図が作られるようになるのは、9世紀末頃からである(註18)。こ こに述べた諸点と、先の収支報告の干支を合わせて考えれば、年代の候補は乙巳、丙午がそれぞれ西暦の945、946 年、あるいは.1005、1006年あたりとなろうか。本資料からは、不正確な傍題の書写が繰り返される内に傍題の内 容が次第にずれて行った事情が垣間見える。
② 千手観音関連経典の写経
開元二十七年(739)の題記がある Pelliot.chinois.2291.は『千手経』の現存最古の写本であるが、この写本なら びに.3437、および BL 所蔵の.S.509、S.5460.が、明北蔵本を底本とする大正新脩大蔵経所録の『千手経』とは系統 が異なり、史上最初の欽定大蔵経である、開元欽定大蔵経の系統に属していることが、野口善敬氏によって指摘さ れている。特に長文の形で残る.S.509と Pelliot.chinois.2291.に関しては、経典の本文が「歓喜奉教修行」で終わっ た後に「千手千眼陀羅尼経」と経末の題目が一旦挙げられるが、その後に.T20、110頁a17~111a4の「仏告阿難~
不敢食果也」および.T20、111頁b13~111c2の「日光菩薩~遠離一切諸畏故」の2つの部分が、後者、前者の順 で附され、その後に再び「千手千眼陀羅尼経」と経題が記載されている(註19)。また、④に分類した Pelliot.chinois.
3920.中の『千手経』も同様のシークエンスを採る。.この他にも野口氏が挙げていないものでは、S.1210、S.4512、
S.6151、も同様の構成をとっている。つまり結局は BL と BnF で実見した『千手経』写本のうち、経典の最後の 部分を確認し得たものは全て、この構成をとっていた。野口氏も取りあげている.S.509.は宋代の写本とされるが
(註20)、これほど徹底して、かなり後の時代まで古い系統の写本が受け継がれ続けていることは興味深い。また、
Pelliot.chinois.3538は千手観音関連のものとしては最古の漢訳経典とされる智通訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神 呪経』の同本異訳である、菩提流支訳『千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経』である。前稿でも述べたようにBLな らびにBnF所蔵の千手観音関連経典の中には、『千手経』、『千臂経』以外のものが見出せず、敦煌においては少な くとも蔵経洞が封鎖された11世紀半ばから後半頃まで、一貫して『千手経』と『千臂経』が大きな役割を占めてき たことが、確認できる。
③ 大悲啓請、禅門秘要決、信心銘、龍牙居遁作偈頌、転経廻向文、陀羅尼各種、の組み合わせ
徳泉氏も述べているように、Pelliot.chinois.2105は、4枚の異なる紙を継ぎ合わせている。そのうち第一紙と第三 紙は、もとは一つであった『賢愚経』巻第十三の写本を裁断したものである。また氏は先行研究を引きながら、第 一、三、四紙がともに一紙に28行を写していることから8世紀半ばまでに写されたものである可能性を指摘して いる。残る第二紙の内容は、Pelliot.chinois.3289とほぼ同一であるが、これら2点の文書はともに、「大悲真言」と
「浄身口真言」に始まる「大悲啓請」の後に同じ組み合わせの抜き書きを連ねている。「大悲啓請」と題された資 料は敦煌文書の中に複数存在するが(註21)、これらはいずれも大悲呪のみを抜き書きして、その前に偈を伏す形を 基本とする。ただし、ここであげた2点はいずれも偈の部分のみで、大悲呪自体は記載しない。次に続く「禅門秘 要決」は、永嘉玄覚作『証道歌』と同じであり、その次に抜き書きされる僧璨の『信心銘』およびこの次に続く
『景徳伝灯録』所録の龍牙居遁作の偈と共に、禅僧の修道偈である(註22)。さらに「転経廻向文」をはさんだ後に は、地獄摧破呪、畜生地獄摧砕呪、念散食呪、道呪、甘露呪などの陀羅尼が連写されているが、これらは施食会の 一種と思しい、「散食」のためのマニュアル本に頻出する陀羅尼である。田中良昭氏は、この資料について、「禅と 密教との密接な関連を示す資料である」と述べている(註23)。
④.散食、施食などに関連する資料
「背景」でも書いたように先行研究では千手観音像に関して、晩唐から宋にかけて、大悲会や水陸会といった大 型法会に用いられるようになったのではないかとの指摘がなされている。前回BLで調査した資料のうち、S.5589 は明らかに「散食」を行うための(施食会の一種と思われる)マニュアルであり、その要所で大悲呪をとなえる ことが指示されていた。そこで今回の調査では、千手千手観音関連の経典や陀羅尼が含まれているものに限らず、
「散食」のためのマニュアルや、施食会に関連する経典などが含まれる資料を幾つか実見した。これらのうち、千 手千手観音関連の経典や陀羅尼が含まれているのは Pelliot.chinois.3861、3920 である。いずれも「散食」の中に大 悲呪が組み込まれているというよりは、様々なテキストが抜き書きされている中に、千手観音関連の経典や陀羅尼 と、散食のためのテキストあるいは施食会に関連する経典が含まれていた。Pelliot.chinois.3920 は特に、水陸会の ベースになったとされる『仏説救抜焰口餓鬼陀羅尼経』と『千臂経』、『千手経』が組み合わせられている点が注意 される。また、Pelliot.chinois.3835 は、千手観音ではなく如意輪観音、不空羂索観音の経典が「散食」のマニュア ルと組み合わされていた。(羅)
おわりに
最後に、今回の調査で得られた見解について、簡単にまとめておきたい。最も注意を引いたのは次の4点であ る。まず第一に、BLの調査でも確認していたように、やはり写本、抜き書きともに『千手経』と『千臂経』(ある いはその異訳である『姥陀羅尼身経』)以外の経典が見られず、特に『千手経』の件数が多いことが分かった。さ らに、この『千手経』のテキストが、開元二十七年(739)の題記がある Pelliot.chinois.2291 以降、全て同様の系 統(開元欽定大蔵経系統?)に属しているらしいことも興味深かった。あるいは敦煌によく見られる現象かもしれ
ず、敦煌における他の経典の流布状況について考える上でも、多少の材料となり得るかもしれない。3つ目の点 は、資料の多くが、恐らくは莫高窟周辺の僧侶が用いる手控えのようなものであったことである。徳泉氏も指摘し ているように、その幾つかは糸で綴られたり、蛇腹に折られるなど、携帯しやすく、扱いやすくするように工夫が されていた。また、これらは9、10世紀頃のものが多かった。抜き書きが多いのも、頻用する陀羅尼、偈、経典、
儀軌などをひとまとめにした故のことであろうと思われる。こうした手控えにその他の経典や陀羅尼が登場する頻 度について調査を行ったことがないため慎重に判断したいが、少なくとも千手観音関連の経典や陀羅尼に関して は、手控えに頻繁に登場すること自体が、この時期敦煌の寺院でかなりさかんに用いられていたことを示すと考え ても良いのではないだろうか。
最後に、「大悲啓請」にはじまる Pelliot.chinois.2105 と 3289において、大悲啓請以外のテキストの殆どが、禅宗 の修道偈であったこと、さらにその最後尾には、施食会で用いる陀羅尼が列挙されていたことも注目される。とい うのも、「背景」で挙げた、宋代に千手観音の巨像を造ったことが知られる寺院の中には、成都の大中祥符禅院や 大聖慈寺(蘭渓道隆も学んだ寺として名高い)など、当時禅宗の拠点でもあった寺院が含まれている。そのような 寺院で、今回閲覧した資料の大凡1世紀後に、大型の法会で用いることができるような千手観音専用の堂宇と、巨 像が造られていることは、やはり無関係ではないように思われる。敦煌一箇所の例をもって同時代に行われた信仰 の全てを代表させることには慎重であるべきだが、9、10世紀頃から禅僧によってさかんに行われていた千手観音 信仰や施食会が、やがては大都市の主要寺院における巨大な像の建立へと繋がって行ったのかもしれない。
2016年、2017年に BL と BnF で閲覧した資料には貴重な情報が含まれており、十分に考察できていない点も多々 ある。今後も引き続き史料の整理・記録作業を続けながら理解を深めて行きたい。(羅)
*.本稿は平成28年度科学研究費補助金(「敦煌・四川地域の唐代千手千眼観世音菩薩像の研究」(課題番号 15K16650)による研究成果の一部である。
図1 内江東林寺第11号龕 図2 Pelliot chinois 3352 釈文
註
⑴ 羅翠恂・徳泉さち「大英図書館所蔵の千手千眼観世音菩薩関連敦煌文書」(『早稲田大学會津八一記念博物館.研究紀要』
第18号、2017年)。
⑵ 拙稿「唐宋代四川地域の千手千眼観音菩薩像」(『明大アジア史論集』第18号、2014年)など。
⑶ 『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』(以下『千臂経』)の序は、千手観音の経典と図像は武徳年間(618~626)にイン ドからもたらされたと記し、また則天武后が像を造らせてから、その姿が天下に流布した、とある。現存作例において も、7世紀末に造られたとされる河南省龍門石窟の東山万仏溝2132号窟の像、開元二十一年(733)頃作の四川省安岳 臥仏院摩崖造像45号龕などが確認される。
⑷ ただし、両脇に餓鬼と貧人を従える例もある。朴亨国「『餓鬼をも救済する観音菩薩』の造形的な表現(『佛教藝術』二 七〇号、二〇〇三年)、前掲注2の拙稿など。
⑸ 松本榮一『燉煌画の研究』650~652頁(東方文化学院東京研究所、1937年)。
⑹ 前掲注2拙稿。
⑺ 開元十八年(730)までに漢訳されていたことが知られるものの、正確な訳出年代は不明とされる。平井宥慶「千手千 眼陀羅尼経」131~135頁(牧田諦亮、福井文雅責任編集『講座敦煌7.敦煌と中国仏教』.大東出版社)。
⑻ 拙稿「山中禅定像をともなった千手観音龕について-四川省邛峽石笋山摩崖の作例を中心に」(『美術史研究』第46冊、
2008年)、濱田瑞美「敦煌唐宋時代の千手千眼観音変の眷族衆について」(『奈良美術研究』第9号、2010年)。
⑼ 濱田瑞美「中国四川資州の千手千眼観音大像龕について」(『美術史研究』第44冊、2006年)、拙稿「水陸会における千 手観音の役割に関する一考察」(『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』1、2013年)。
⑽ 前掲注9濱田論文、および羅翠恂「「ベルリン国立美術館所蔵トルファンコレクションの千手観音画像に関する研究」
(『高梨学術奨励基金年報 平成25年度 研究成果概要報告』2014年)など。
⑾ 千葉照観「現中国で最も盛大な仏教儀礼.:.水陸会」(『大正大学綜合佛教研究所年報』第15巻、1993年)35頁、坂本.道 生、「水陸会成立の経緯と展開について」(『天台学報』第53号、2010年)など。
⑿ 前掲注11、羅翠恂「水陸会における千手観音の役割に関する一考察」(『早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』
1、2013年)など。
⒀ 赤尾永慶「敦煌写本の料紙と書写の形式について」(赤尾永慶(研究代表者)「平成8・9・10年度科学研究費補助金
【国際学術研究学術調査】研究成果報告書 敦煌写本の書法と料紙に関する研究」1999年に所収)
⒁ 李致忠「敦煌遺書中的装幀形式与書史研究中的装幀形制」(『文献』2004年、4-2)
⒂ 北原薫「晩唐・五代の敦煌寺院経済―収支決算報告を中心に―」(池田温編『講座敦煌3敦煌の社会』大東出版社、
1980年)
⒃ 平井宥慶「千手千眼陀羅尼経」137頁(牧田諦亮、福井文雅編『講座敦煌7.敦煌と中国仏教』大東出版社、1984年)。
⒄ 施萍婷「敦煌随筆之四」(『敦煌研究』1987年第4期)、樊錦詩「P3317號敦煌文書及其與莫高窟第61窟佛傳故事晝關係 之研究」(『華学』第9、10輯.⑶、2008年8月)、沙武田「」肥田路美「絹本西域仏菩薩図像集」の初歩的考察―ニュー デリー国立博物館所蔵断片のいくつかの図像を中心に―」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』巻60、2015年)。
⒅ 前掲注8濱田論文。
⒆ 野口善敬『ナムカラタンノーの世界.『千手経』と「大悲呪」の研究』(禅文化研究所、1999年)204~208頁。
⒇ 前掲注16平井論文138頁。
李少榮「論密教中之千手観音―以敦煌文献為中心」(『文史』2003年第2輯・総第63輯)。
田中良昭「敦煌禅籍の研究状況とその問題点」49頁(『駒沢大学仏教学部論集』第20号、1989年)。
田中良昭「敦煌禅宗資料分類目録初稿II.禅法、修道論.[2]」(『駒沢大学仏教学部研究紀要』32、1974年)。
表1 Bibliothèque nationale de France(BnF)所蔵ペリオ将来敦煌文書中の千手観音関連史料 No.BnF 所蔵番号内 容年代比定
(題記、先行研 究、または羅
・ 徳泉による)
寸法
A:全体 縦×横 B:平均的な一紙 横 C:一紙の行数 D:各界 高×幅 敦煌宝蔵 巻名、頁
形状や書の特徴など敦煌宝蔵題目 1
Pelliot.chinois. 3352 1~3、4は様々な変相図の傍題 Recto 1.
『観無量寿経』(未生怨、十六観)
2.大悲変相図 3.瑞像図 Verso 4.三界寺帳目 5.天請問経変
9世紀末~11世 紀初頭(羅)
A:28.7×100.9㎝ B:41㎝. C:14から16字程度 巻127、 pp.557-9
一行の字数は14から16字で一定せず、界線は
ない。 両面に字が書かれる
。表裏、同じ手かどうか
は判断がつかないが、似た書き振りではある。 表は
、所謂、写経体ではなく所々に行書が混
じる。 ラフな書きぶりで
、時に誤記の上を乱雑に塗 りつぶしたあとがある。怱卒に残した覚書の
ようなものか。 紙はかなり厚くゴワゴワした粗悪な紙。 裏に
「三界寺招提司法松状」と題された文書 あり。
「阿閣世王故事及十六観仏因縁 諸仏瑞像記」 背面「三界寺帳目」
2
Pelliot.chinois. 2105 Recto 3~8がP3289と同内容 1.
『賢愚経』巻第十三 2.「.佛説普遍光明燄鬘无垢清淨熾盛思惟如意寶印心无能勝大明 王即得大自在[惣]持隨求陁羅尼神妙章句眞曰」 3.「.仏説大悲真言啓請」「大悲真言」、「浄身口真言」他 4.「.禅門秘要決」(永嘉証道歌)(T48,p.395c09~c15) 5.「.信心銘」(タイトル無し。T48.p.376.b20~p.377a) 6.『景徳伝灯録』所録の龍牙居遁作偈頌 7.「転経廻向文」 8..除一切怖畏説如是呪、地獄摧破呪、畜生地獄摧砕呪、念散食 呪、道呪、甘露呪など陀羅尼各種。途中で途切れる。 9.『賢愚経』巻第十三 10.「大宝積経文殊師利授記会第十五之一」
Verso 11.
「金剛頂瑜伽念誦軌儀」
9世紀末~11世 紀半?(羅)A:.25.4~30.4× 889.3、
巻114、 pp.304-11 全体は四枚の紙に分かれ、三度の継ぎ目があ る。そのうち、第一紙と第三紙は同じ紙、同 じ書き手。第二紙と第四紙は別の紙、別の書
き手。 第一一紙一紙25.0×50.6㎝、に28は三第と紙紙 1.。横画は起8㎝、各界×19、界線がひかれ行 筆をすべりこみで入り、終筆を太くする。熟 練した書き手が丁寧に書いたもの。 第二紙は
、界線なし。厚くごわごわした紙 で、一紙30.3×43.2㎝。各字の大きさもまちま ちで、途中で墨が薄くなり、字が荒れる部分
がある。 第線四かひがれ、界紙25.0×53.7㎝。一は、紙 各界22.0×2.0㎝。ところどころに別の手によ る朱書きや、ちがう濃さの墨書がまざる。一 紙に28行。
「賢愚経巻第十三」、「佛説普遍
光明即得大自在総持隨求陀羅尼 神妙章句真言
、佛説大悲真言啓 請、禅門秘要決、永嘉証道歌、 転経後廻向文」、「除一切怖畏説 如是呪」、「賢愚経巻第十三」、
「大宝積経文殊師利授記会第十 五之一」背面
「金剛頂蓮華部心 念誦軌儀」 3
Pelliot.chinois. 2291
『千手経』(T20.p.109,c06~)
開元二十七年 (739)
A:27.1~28.3×356.5
B:39.5㎝ C:21行 D:21×1.9.
巻118、 pp.549-553
最初部分に破れあり。紙は裏打ちされてお り、もとの厚さはよくわからない。染みが広 がり、所々が破れている。末尾の一紙は明 らかに書きぶりが異なり、別の手かと思われ る。虞世南を思わせるような癖のない、美し く整斉な楷書。スタイン文書のOr.8210/S.284 (『千臂経』下巻)の字形や用筆によく似る。
『千手千眼陀羅尼経』 4
Pelliot.chinois. 3289.
P2105の3~8と同内容 1.大悲啓請」(タイトルは無いが内容はP2105のそれと同じ).「 「大悲真言」、「浄身口真言」他 (T48p.395c09c15)~2(永嘉証道歌).禅門秘要決」.「 (タイトル無し。T48.p.376.b20~p.377a).信心銘」3.「 4.『景徳伝灯録』所録の龍牙居遁作偈頌 5.「転経廻向文」 、餓鬼地獄摧破呪、畜生地、地獄摧破呪除一切怖畏説如是呪6.. 獄摧砕呪、散食呪、釈迦牟尼仏心呪、秋時菩薩供養灯呪。冬 時菩薩供養甘露呪、法?静呪、鬼神不能為害呪、夜有不祥之 夢誦呪、法直浄呪、啓請呪、など陀羅尼各種。
9世紀末~11世 紀半?(羅)
A:30.5×150.2 B:50.0㎝.
巻127、 p.342
紙には縦の折れ目がたくさん走っている。界 線はなく乱雑にぎっしりと書かれている。右 上がりの強い字形で、時折行書が混じってい る。
「大悲真言、稽首毘盧遮那仏降 臨文、千手千眼観音大悲真陀羅 尼、禅門秘要決」
No.BnF 所蔵番号内 容年代比定
(題記、先行研 究、または羅
・ 徳泉による)
寸法
A:全体 縦×横 B:平均的な一紙 横 C:一紙の行数 D:各界 高×幅 敦煌宝蔵 巻名、頁
形状や書の特徴など敦煌宝蔵題目 5
Pelliot.chinois. 3437
『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』(T20p.110b24 ~p.111a04)
A:25.2×70.7 B:48.7㎝ C:28行 D:20.0×平均1.7㎝
巻128、 p.321
紙は黄色っぽく、平らで良質。紙継ぎの重な
り部分は2㎜ほどで丁寧に仕上げられている。 一文字の大きさは1㎝四方ほどで均一。界線は ごく薄く引かれる
。いわゆる写経体で丁寧に 書かれている。字形は縦長で、横画の起筆を 引っ掛けるような癖がある。
「千手千眼観世音菩薩広大円満 無礙大悲心陀羅尼経」
6
Pelliot.chinois. 3538
『千手千眼観世音菩薩姥菩薩陀羅尼身経』(T20p.100a03~b29)9~10世紀 (BnF)
A:29×110.5㎝ B:42.7㎝ C:25行 D:20×1.6㎝
巻129、 p.13、14
紙はごわごわし、繊維がでこぼことし、粗
悪。最初の部分はちぎれている。 紙の継ぎ目は曲がっている
。一文字は1.5㎝四 方ほどで、割と大きめ。同じ手であるが、墨 の色にむらがあり、突如筆記具が変わったか のような箇所がある。書法の水準としては高 くはない。
「千手千眼観世音菩薩姥菩薩陀 羅尼身経
・千手千眼観世音菩薩 画壇法」 7
Pelliot.chinois. 2777 道場念誦儀(道場へ諸神、諸尊降臨を請う文言。)A:.29.9~30.1×37.5 ~38㎝
巻124、 p.80 全13行、界線なし。1行に25から30字程度。 右払いを極端に太くするのが特徴的
。字形は やや縦長で、熟達しているが俗っぽくもある。
「道場念誦儀」 8
Pelliot.chinois. 3861 1.コータン語テキスト 2.チベット語テキスト 3.金剛二十八戒4..散食法 2.三窠法義 3..
金剛大惣持大摧破呪陀羅尼、大悲経真言、大悲変食真言、大 悲経真言印、月光菩薩心印、月光菩薩呪印、第七忽攝印、惣 持陀羅尼印、惣持陀羅尼印、第二准前印、千眼印第四、千臂 忽攝印第一五、通達三昧印第六、呼真召天龍八部神鬼集会印 第七、入滅□□三昧印第十一、千眼印第十七、呼召三十□天 印第二十、呼召天龍八部鬼神印第二十一、菩薩正心印呪二十 五、など
9世紀(BnF)A:22.2×157
巻131、 p.317
~ 30
中央は糸で綴じられ冊子状となる。全66頁 界線が引かれ
、一葉に各9行、行の高さ20.0、
幅は1.7㎝。 一行に17
~20文字程度。一定しない。 時折、朱(茶色)書きで記号が挿入されてい
る。最初から最後まで同一の手。 丁寧に書かれているものの
、はらいやはねに ぎこちなさがあり、字形のバランスがくずれ
たものが散見される。 紙は厚くてゴワゴワし、繊維が浮き出ている。
「金剛廿八戒(前有梵文九行)」 「三窠法義」「大悲経真言等諸 印呪」 9
Pelliot.chinois. 3920
1..千手千臂観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼呪本
2.千臂千眼陀羅尼神呪経 3.仏頂尊勝陀羅尼経 4.隨求即得大自在陀羅尼身呪経 5..
灌頂印呪、結界呪、仏心呪、心中心呪、請観世音菩薩呪、破 悪業障消伏毒害陀羅尼神呪、大吉祥六字救苦陀羅尼神呪など 6..如意輪陀羅尼経(出大蓮華金剛三昧耶伽持秘密無障礙経)
7.仏説大輪金剛総持陀羅尼神呪経 8..
金剛頂経一切如来深妙秘密金剛果三大昧耶修習瑜伽迎請儀 9..
金剛頂経一切如来真実摂大乗現証大教王経深妙秘密金剛界三 大昧那修習瑜伽儀 10.仏説救抜焰口餓鬼陀羅尼経 11..
仏説大威徳金輪熾威光如来消除一切災難陀羅尼経
12.仏説大威儀経 13.高王観世音経
10世紀(BnF)
A:28.8×8.4㎝ C:5行 D:25.7×1.4㎝
巻132、 p.158
~ 265
細長い紙、全90枚。全ての紙の真ん中に直径 5㎜の円形の穴が開けられている。穴の部分 は文字が避けられているので、文字を書く前 に穴を開けておいたか。 現在、穴の部分にひもが通されていた。 紙はかなり厚く
、繊維がみえる。厚い藁半紙 のような質感。裏表に文字がぎっしりと書か
れている。 きれいな墨色で
、一字一字が丁寧に書かれて いる。字形は縦長で、端正な楷書。穂先の効 く筆で太細を自在につけている。
「千臂千眼陀羅尼神呪経」「如意 輪陀羅尼経(出大蓮華金剛三昧 耶伽持秘密無障礙経)」「仏説大 輪金剛総持陀羅尼神呪経」「金
剛頂経一切如来深妙秘密金剛果 三大昧耶修習瑜伽迎請儀」
「金
剛頂経一切如来真実摂大乗現証 大教王経深妙秘密金剛界三大昧 那修習瑜伽儀」
「仏説救抜焰口 餓鬼陀羅尼経」「仏説大威徳金
輪熾威光如来消除一切災難陀羅 尼経」
「高王観世音経」
No.BnF 所蔵番号内 容年代比定
(題記、先行研 究、または羅
・ 徳泉による)
寸法
A:全体 縦×横 B:平均的な一紙 横 C:一紙の行数 D:各界 高×幅 敦煌宝蔵 巻名、頁
形状や書の特徴など敦煌宝蔵題目 10
Pelliot.chinois. 3162 Recto 1.結壇散食廻向発願文 2.第二食 3.廻向 4..
得自在、浄飯食、変食、開候、得食喫□□
Verso 2.十方神真言、浄飯食真言、得自在真言、捨水真言など。
A:31.2×50.7㎝.
巻126、 p.472 No.7(Pelliot.chinois2777)と似たような紙 質。厚くてゴワゴワしている。しわ、しみが
多い。界線はなく、裏表に書かれている。 表は、全29行、一行に20から23字。怱卒なメ モ書きのようなもの。 裏は
、表と天地逆。全15行。一行に20字ほ ど。墨色は薄く、こちらもかなり怱卒に書か れた印象。
「結壇散食廻向発願文」、「十方 神真言、浄飯食真言」 11
Pelliot.chinois. 3835 Recto 1..
觀世音菩薩秘密藏無部礙如意心輪陀羅尼經一巻
2.不空羂索神呪心經 3.佛説觀經 4..
五門禅要経
Verso. 5..
妙色如来真言、甘露王如来真言 6..水散食一本、卅九満中飲食、開喉真言、得食真真言 7..仏頂心呪、破魔結界降伏真言、華印真言、刀印真言、索印真 言、釈迦牟尼仏懺悔真言、能勝真言、智論真言、金輪仏頂心 真言
8.火部禁方 9..
諸神の奉請符呪真言(結印法、獅子法、盤龍抜頭印、五指縛 頭印)
10.状一通(帰義軍節度観察留後印) 11..
入髑真言、入浄真言、常歓真言、聚光真言、結界印、灌頂 印、悟身真言、
12.金剛蔵菩薩三字観想 13.文殊菩薩観想 14..
佛說大輪金剛惣持陀羅尼法.(観世音如意輪摩尼□□)
10世紀末(BnF)A:.
12.5×9.2の紙をア コーデオン状にた たむ 巻131、p.. 223
~243横長の紙を10㎝ほどの幅で谷折り、山折した
もの。アコーディオン状になっている。 紙は厚くゴワゴワとし、横にすきむらが走 る。最初の5頁に書かれた印相の描線はたどた どしく
、拙い。何か手本を見ながら懸命に真
似をしたような感じ。 6頁より界線が引かれる
。一頁に8行、界高 さ10.6㎝、幅は1.1、一行に12から14字。書は
拙く、ぎこちない。 46頁の「戊寅八月五日・・・」から始まる2 行は別の手。さらに次頁もまた手が変わる。 47頁以後に則天文字がところどころに使用さ れる。
觀世音菩薩秘密藏無部礙如意心 輪陀羅尼經一巻
、不空羂索神呪 心經、佛説觀經、水散食一本、 大部禁方、符呪真言(結印法、 獅子法、盤龍抜頭印、五指縛頭 印)、状一通、入髑真言、佛說 大輪金剛惣持陀羅尼法.