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パネルディスカッション概要

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パネルディスカッション概要

安藤 文人

由尾、ピタルク、高井それぞれの発表に続き、ディスカッサントとして小田島 恒志(現代イギリス小説・演劇、翻訳論)、河野貴美子(日中古典学、東アジア 文化交流)、安藤文人(比較文学、ナラティブ・スタディーズ)が加わり、時間 が限られた中であったがディスカッションが行われた。以下はその概要である が、司会者・報告者として事後的なコメントを若干加えた(【 】内)。

最初に小田島が口火を切り、発表者であった高井の使用した最後のスライドに ついてコメントした。ラスベガスで行われた Kabuki Spectacle 「鯉つかみ」の ポスターだが、そこには演者の市川染五郎の名の後に Ⅶ 、つまり「七代目」

と書かれているが、その点に注目すること自体に、アメリカ文化の特性が表れて いるのではないか、という指摘である。

続いて河野からは、日本文学の受容について、ジャンル的な傾向はないか、さ らに、翻訳された作品が、受容した側の文学になんらかの影響を与えるような事 例はないか、という質問、またスペインなどの書店では日本文学の作品はどのよ うに配架されているかという個別的な質問がなされた。これについてはピタルク から、スペインの書店ではもっぱら地域・国別の配架がなされており、アジア関 連の書籍のうち相当部分を日本関係の書籍が占める、という回答があった。ま た、バルセロナで2軒日本関係書籍専門書店も存在している。ジャンル的には、

俳句がもっとも広く受容されており、日本の詩といえば俳句である、と考えてい る向きもある、として、ジャンルによって受容の程度にヒエラルキーがある点が 指摘された。

同じ問題について由尾は、アメリカなど英語圏においても「俳句」は小学校の カリキュラムに取り入れられているなどの理由から別格であり、比較して現代詩 はほとんど紹介されない(翻訳に限ったことではないが)と述べたうえで、ただ し詩人や詩の読者は、自らが携わり、好むジャンルが文学の中でもマイノリティ であるという意識を抱いており、そこから他文化の詩に対しても強い関心を持つ 傾向を指摘した。異文化・異言語の文学作品への関心がどのように引き出される か、という問題意識に立つならば、その誘因のひとつが指向するジャンルの同一 性であることはある程度推察可能ではあるが、その誘因を強化しているものが、

マイノリティとしてのジャンル意識であるという知見は、本稿執筆者(安藤)に

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は非常に新鮮な印象を与えた。【悪い方向に想像を伸ばせば、現代詩よりも上位 のカテゴリーとして存在する「文学」というジャンルにおいても、それがマイノ リティであるという意識が(現在よりもさらに)強くなれば、異文化・異言語の 文学作品への関心・希求が、両者を隔てている障壁を越えてあふれ出る、あるい は混じり合うというようなことがあり得るかもしれない。マイノリティであるが ゆえのグローバルな連帯。それが望ましい未来であるのか否かは、また別の問題 であるとしても。】

小田島からは、文学の受容をジャンル的側面からとらえるという点で、フェノ ロサが俳句や漢詩の紹介に果たした役割、さらに俳句のジャンル的特性がイマジ ズムに与えた影響について指摘がなされた。また、安藤からは逆の例として小説

(Novel)が近代日本においては坪内逍遙によって、紹介(『小説神髄』)と実作

(『当世書生気質』)がセットになった形で、まずジャンルごと移入された事実へ の言及があった。河野は、それに続けて、小説という新たなジャンルの移入が日 本の言葉の組み替えをもたらすに至った点に触れたうえで、同様な例として、20 世紀に中国に俳句が伝わったことが、中国における近代詩への目覚めをもたらし た点に言及した。

ここで河野は話題を転じ、このグローバル化の時代の中で、どのようなもの が「日本」として世界に伝えられていくことがあるだろうか、という問題提起を 行った。たとえば発表においては、日本文学の翻訳書の表紙デザインなどを取り 上げ、従来ゲイシャやフジヤマという表象に代表されていた日本イメージには明 らかな転換が見られるという指摘がなされたが、しかし、それは文化的表象が

「カワイイ」などという新たなステレオタイプに移行したにすぎない、と見なす こともできるのではないか、という疑問である。

これに対して高井は、確かに日本の場合、たとえば伝統とテクノロジーという 両端のみが注目されて中間がない。商業的にあるいは政策的に見れば、ともかく 日本文化への関心が得られればそれで良いという考え方もあるが、大学の授業、

あるいは大学からの発信、国際理解という点からは、固定したラベルのもとに文 化を捉えて思考停止に陥るのではなく、文化のありようについて自らを振り返り つつ論じていく行為、いわば知的エクササイズとしての文化研究という意味づけ を行っている、と答えた。河野は、「カワイイ」については、確かに海外の求め る日本文化イメージを発信するという立場もあるとし、小田島は、たとえば泉鏡 花作品の表紙に描かれた女性がアニメ顔で「カワイイ」系である点を指摘した。

「ゲイシャ」から「カワイイ」への転換は、ステレオタイプ、あるいはラベルか らの脱却にはならない、ということになる。ただし、続いて高井が述べたよう に、日本で売られている伝統的な作品でも、その表紙にカワイイ系、「萌え」系

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の絵が描かれていることがあり、これは海外だけの現象とも言い切れない面があ る。

ピタルクは、2005年頃からスペインにおいても日本文化・文学の多様性が認 識されるようになってきたとし、読者も(「出版社が考えるほど馬鹿ではないの で」)、10年以上前ならばよしもとばななにしても三島由紀夫にしても、茶道や俳 句、芸者などと関連づけた読者レビューが多かったが、最近では個人の個別な作 品として読まれるようになった点に触れた。東野圭吾や宮部みゆきなどのミス テリー、またSFなど読まれるジャンルも広がり、さらに、たとえば川上弘美の 小説が好きだ、というように日本の小説だからというのではなく、個人の作家、

個々の作品として好まれるようになってきている。その意味で、さまざまな作品 を紹介することが重要で、これが日本だ、というような示し方は良くないのでは ないか、という見方である。

由尾は、海外からの日本文化への関心は、確かに現在はKawaii(かわいい)文 化やポップカルチャーにもっぱら集まっているし、実際にJCulPの広報において も、それらを前面に出して海外からの学生を惹きつけようとしている、としたう えで、ただ、それをきっかけとしてたとえばKawaii文化の文脈で枕草子の「ち ひさき」ものへの愛着を捉える、など、現代の事象を古典と結びつけて日本文化 を考える、というような方向に進む可能性も示唆した。また、海外の求めるよう な日本文化を発信する、という点に関連して、由尾がその作品を翻訳している川 上未映子などの場合は、作家本人が海外で読まれることを非常に意識しており、

村上春樹がエッセイで触れたことにより実際に注目も寄せられている。しかし同 時に、海外で読まれるためには長編小説を書かなければならない、などという、

ジャンルの市場的プレッシャーもある。由尾はそのうえで、グローバル化の中で は、創作も、海外での受容に対する意識が作品にも影響を与えるというようなよ り相互的で複雑な形をとっていく可能性にも触れた。

次に、(残り時間が少なくなったのだが)来場者からの質問を求めたところ、

3人の発表者に対して、アメリカの学生を教えた体験について、「日本文学を翻 訳で教えると文体等は当然変わってくると思うが、学生は作品のどのような部分 に共感しているのか、文章表現に共感しているのか、それともストーリーか」と いう問いがあった。これまでの発表、そしてその後のディスカッションが、日本 文学の翻訳出版の現況と傾向、また世界文学アンソロジーにおける位置づけな ど、どちらかと言えば文学作品の移入を担う媒体、あるいは中間項を巡って行わ れたのに対して、この質問は、日本文学を最終的に受容する読者の反応に焦点を あてるものとなった。

この質問に対してまず由尾は、村上春樹の『ノルウェイの森』に学部のクラス

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の90パーセントくらいが感情移入してしまったが、その共感が強いあまりに理論 的にうまく説明できないというような事態となったことを紹介したうえで、不器 用で孤独で他人とうまくコミュニケーションがとれない、という主人公への共感 があったのか、と推測を交えながら述べた。それは現代の若者、SNSで他人とつ ながりながらも、しかし孤独感を拭い去ることのできないような若い読者にも通 じるものもあるのではないか、と思われる。

ピタルクは、確かに近代人現代人の疎外意識というような点はよく伝わってい るのではないかと由尾に同意したうえで、川端の作品などは翻訳しても注が必要 だが、村上春樹の場合はほとんど注がいらない(「ベートーヴェンを聴きながら パスタを茹でている、とか」)。翻訳の表紙に「今を理解したいなら村上春樹を」

というコピーがあったが、確かに同時代の作品として共感を得やすいこともあ る。その点からも同じ「今」を生きながら、同じ疎外感を共有している、という 受け止め方は強いだろう、と述べた。

高井は、よしもとばななの作品を取り上げたときに学生が共感を強く示した点 に触れ、やはり性や死、そして特に孤独というような普遍的なテーマに関心をひ かれているようだ、加えて、作者が大学在学中に書かれた作品などには、年齢の 近さも共感の要因となっているだろうと述べたうえで、よしもとばななや村上春 樹以降の世代の作家になると、日本文学として、というよりも個人の作家として 読まれる傾向(「えっ、これ日本の作家じゃないみたい」とよく言っていた)が ある点を紹介した。

ここでほぼ与えられた時間がなくなったために、安藤は質問に対する3人の回 答を受け、文化やジャンルの差異を超えて文学に存在する普遍的な価値の存在が 確認できたのではないか、と最後にまとめ、このシンポジウムを閉じた。

【ただし、この最後のまとめ方についてはディスカッションを通じてあらわに なった、論点の(魅力的な)分岐を、強引に収束させようとした嫌いがあり、司 会者としては反省している。むしろこのシンポジウムの収穫は、タイトルのとお り「グローバル化する日本文化」の実態を踏まえた時、これからの日本文学研 究、また日本文化の発信について、その方法と方向性自体がまさに喫緊の検討課 題として私たちの前に投げ出されている、という事実が強く意識された点にある だろう。】

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参照

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