• 検索結果がありません。

橘神社と三先人の記憶

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "橘神社と三先人の記憶 "

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

9

【調査実習報告―雲仙市(教員)】

橘神社と三先人の記憶

大平 晃久 (国際文化講座教員)

Ⅰ はじめに

長崎県雲仙市千々石町に所在する橘神社は,1940 年にこの地の出身の「軍神」,故橘周太中佐 を祭神として建立された神社である。境内には橘周太の生家が移築され,銅像も建つほか,墓も すぐそばにある。

このほか,境内には忠魂碑や原爆慰霊碑などに交じって,やはり当地出身の近世後期の南画家,

釧雲泉(1759~1811年)の碑と,彼が幼いころにその上に絵を描いたという「手習い岩」がある。

また神社の裏手の城山には当地の領主家出身で天正遣欧使節の正使としてローマに派遣された 千々石ミゲル(1559?~1633?年)の顕彰碑も建つ。なお,この山上まで含めて神社の周囲は橘公 園として整備されている。

橘周太,釧雲泉,千々石ミゲルは旧千々石町時代に「千々石三大先人」として位置づけられて おり,雲仙市役所千々石総合支所(旧千々石町役場)には1991年に建てられた3人の銅像が並ぶ。

橘神社も同様に,彼ら 3 人を顕彰する場,彼らに関する「記憶の場」1) としてみることができる だろう。

本稿は,橘神社が橘周太,釧雲泉,千々石ミゲルに関する「記憶の場」として成立してきた過 程を明らかにする。そのことによって,「記憶の場」やその一部としてのモニュメント―小稿で は記念碑や銅像だけでなく,橘神社のような記念建造物まで含めてこう呼ぶことにする―の特質 を考える手がかりとしたい。以下では,まず,橘周太銅像の建立の動きが起こった明治末から現 在まで,戦前・戦中を中心に,特に橘周太に焦点を当て,ここ千々石における三先人の顕彰の動 向と,彼らの表象のされ方を検討していく。そして,そのような検討を通して,「軍神」橘周太の 顕彰に観光が関わっていたこと,三先人の顕彰の場の橘神社への一元化という「記憶の場」の景 観的・意味的な強化がなされたことを 明らかにする。

Ⅱ 三先人の顕彰

―戦前から戦後まで―

(1) 橘周太銅像 まず,銅像の主 である橘周太について簡単に触れてお く2)。橘周太は1865年千々石に生まれ,

陸軍士官学校に進んだ。東宮武官や名 古屋陸軍地方幼年学校長を経て,1904 年日露戦争に出征,大隊長として遼陽 会戦において戦死している。戦死の直 図 1 橘周太銅像(戦前)

当時の絵葉書による。

浦上地理 第1号 2014

(2)

10

後から「軍神」と称され,軍歌「橘中佐」が作られている。

銅像建立の動きは1912年に始まり,南高来郡長を委員長に建設委員会が組織された3)。明治天 皇死去による3年間の中断ののち,1914年に再開,陸軍省と合同の事業になり4),南高来郡南有 馬村出身の彫刻家,北村西望によって制作が進められ,1919年2月9日に除幕式を行っている。

新聞の報道によれば5),知事以下200余名が出席する盛大な式典であった。

銅像が建立されたのは千々石灘を見下ろす丘陵上で,現在の橘神社前ではない(図 2)。銅像建 設後は「橘山」や「銅像山」と呼ばれるようになり,また時期は不明であるが,千々石町の忠魂 碑も銅像のすぐ下手(西側)に建立されている6)。なお,銅像建立後の1919年6月に連合艦隊司 令官山下源太郎海軍大将以下の将兵が銅像に参拝した際に千々石灘を「橘湾」と称することが発 案され,海軍水路部によって告示された7)

(2) 橘神社 1928 年,地元千々石で「橘神社建設期成同盟会」が発足している8)。当時の新 聞には,海軍の「軍神」広瀬中佐を祀る神社とともに運動が起きていること,近く神社の設立が 認可されるだろうとの見通しが報じられている9)。別の新聞報道によれば10),当初神社の設置が考 えられていたのは上述の銅像の周囲であった。

しかしながら,この場所への神社設置は進展しなかったらしく,1932年ごろには現在の橘神社 の西方(図2)への建設案が提出されている11)。面積も当初案の1町歩(約1万㎡)から4町歩(約

図 2 研究対象地域(橘神社周辺)

①橘神社 ②橘周太銅像 ③千々石清左衛門之碑(千々石ミゲル顕彰碑) ④雲仙市役所千々石総合支所(旧 千々石町役場) ⑤橘周太銅像旧所在地 ⑥橘神社の1932年ごろの建設予定地 ⑦橘周太生家跡 ⑧雲仙鉄 道上千々石駅跡

国土地理院標準地図25000に加筆・縮小

① ③

(3)

11 4万㎡)へと拡大した12)

この建設案もうまく進まず,1935年8月には田中廣太郎長崎県知事の主導で「橘神社創建奉賛 会」が発足している13)。同会は広く建設資金の寄付を募るとともに(図 3),知事は地元での利害 の対立によって買収が難航していた建設地を白紙に戻し,雲仙(現,雲仙市小浜町雲仙)への建 設案を提示した14)。それに対して千々石側が現神社敷地の寄付など大幅に譲歩することによって現 在地に決まった15)。その後,1937年に神社創建が許可されている。

32万円という巨額の寄付16)と多くの勤労奉仕によって,橘神社は1940年5月15日に鎮座祭を 迎え,県社に列した。鎮座祭は前後 3日間にわたる極めて盛大なもので,宮司には橘周太中佐の 長男一郎左衛門元陸軍大尉が就任している。また,大鳥居は長崎県教育会を通した県内学校児童 生徒・教職員の寄付によって1942年に完成した17)

(3) 千々石ミゲルと釧雲泉 ここまで戦前・戦中期における橘周太の顕彰について概観してき た。では,残りの2人,千々石ミゲルと釧雲泉はどう顕彰されていただろうか。

図3 橘神社創建趣意書 長崎県立長崎図書館蔵。

図4 橘神社建設地問題を報じる新聞記事 長崎日日新聞1935年8月2日。

(4)

12 表 1 地元出版物における三先人の記述

戦前~終戦 終戦~1979年

橘周太 14 4

釧雲泉 3 3

千々石ミゲル 1 9 単位:冊。

長崎県内で出版されたもの,あるいは長崎県出身 者が執筆したもの。新聞記事は除く。1970年代で 切ったことに特段の意図はない。

容易に想像されるように,各種文献で橘周 太に比べ 2 人が取り上げられる機会は非常 に少ない(表 1)。さらに,千々石ミゲルは 釧雲泉に比べても少ない。例えば,『長崎県 郷土誌』(1933年)では,「軍神橘中佐の遺 蹟」の項で釧雲泉にも触れられる一方で,

千々石ミゲルへの言及はない18)。同様に,釧 雲泉の記述があり,千々石ミゲルの記述がな い文献は管見の限り2例ある19)。なお,表1にあげた1点は『長崎県二千六百年史』(1940年)

で自費出版の冊子である。

橘神社は城山の西麓に位置し,城山には千々石氏の拠った釜蓋城があった。千々石ミゲルは釜 蓋城が竜造寺氏によって落城した際の城主,千々石直員の子である。この城跡の存在について記 述した文献さえ多いとはいえず,千々石ミゲルを当地に結びつけた記述は表 1 のほかに全国的な 出版物に対象を広げてもごく少ない20)

(4) 戦後の変化 戦後になると,三先人の表象に大きな変化が生じる。表1に示したように,

3人の中で千々石ミゲルの記述が最も多くなり,一方で軍国主義と結びついて顕彰されてきた橘周 太の記述は減少する。その結果『郷土の先覚者たち』(1968年)21)のように,千々石ミゲルと釧雲 泉が扱われる一方で橘周太の記述がないという例さえみられるようになる。なお,千々石ミゲル に関する記述が増加しているが,表記は「千々石ミゲール」「千々石清左衛門」などさまざまで,

「千々石ミゲル」という表記が定着するのは1980年代以降とみられる。また,1962年には千々 石町の田中登町長の作詞で「千々石清左衛門賛歌」が作られ,それに振付を加えた「千々石清左 衛門踊り」も登場している22)

橘周太銅像は銅鉄回収を逃れ終戦を迎えたが,進駐軍の眼に触れないように一時隠匿されたの ち,1947年に橘周太生家に安置された23)。さらに1954年に現在地の橘神社入り口に移設されて いる。その生家は1959年に営林署貯木場となるも,母屋の一部は移築保存され,1977年に橘神 社境内に再移築された。現在は「橘中佐遺徳館」として遺品が展示されている。

三先人のうち橘周太以外の 2 人を顕彰するモニュメントも戦後に橘神社境内とその周辺に設け られている。まず,1960年には橘神社のすぐ裏手に「千々石清左衛門之碑」が建立されている24)。 この顕彰碑は1987年に釜蓋城址展望台が整備されたのに合わせて山上に移設されている。また,

「釧雲泉之碑」は町制施行40周年記念として1968年に建立され,町内の個人宅にあった「手習 い石」も傍らに移設された。

1991年3月に当時の千々石町役場前に建設された三人の銅像には,それぞれ「至誠の人 橘秀 太」,「至芸の人 釧雲泉」「至純の人千々石ミゲル」という説明が付されている。郷土を代表する 三大先人,郷土の誇る三大偉人として評価が確立したといえるだろう25)

Ⅲ 「記憶の場」としてのモニュメント

(1) 観光のインパクト ここまでみてきた,橘神社における橘周太らの顕彰について,まず注 目したいのは観光のインパクトである。

(5)

13

上述したように,橘周太銅像は1919年に建立された。その「建設趣意書」26)には,「備考」と して,千々石村が「温泉ノ山麓」に位置することや,温泉(雲仙)の景観美について述べられ,「本 村ノ如キハ即チ,温泉山ニ達スル枢要ノ関門ニシテ,現ニ公園ノ区域内ニアリ」,銅像建設地につ いて「(松村)博士モ大ニ此自然的奇景ヲ賞賛セラルルニ至ル」と記される27)。銅像の建立にあた って,雲仙との関係や景観美に言及されていることに注目したい。

雲仙は1887年ごろから外国人避暑客が増加し,1911年には県営雲仙公園が開設されていた国 際観光地であった28)。当時の千々石は雲仙登山口のひとつ29)で,「小濵温泉や温泉岳温泉地に往来 する枢要なる街路に當り,是等の浴客や避暑客の来往は常に絶えない」30)ような状況であった。千々 石にも外国人向けの千々石ホテルが1911年以前に開業している31)

このように,千々石が観光化しつつある中に銅像建立は企てられた。銅像の「建設趣意書」に おける雲仙との関連づけは,観光を意識したものとみるべきだろう。『嶋原半嶋風光記』(1912年)

という観光案内書には,千々石について「近ごろ外人の此地の景致に憬れて,来つて遊ぶものが 多くなつた為に,ホテルまでできた。海水浴場もできた。目下橘中佐の銅像建設の準備最中であ るから,早晩颯爽たる英雄児の風姿を仰ぐこともできるであらう」という記述があるほか,千々 石ホテルの広告(英語とロシア語)も掲載されている32)。銅像が観光の文脈でとらえられているこ とがわかる。この他にも,橘周太銅像は各種の観光案内書や,雲仙・島原半島の観光パンフレッ トにも登場している33)

橘神社については,観光と絡めた宣伝など,管見の限り確認できていない。ただ,戦時下にあ ってもおよそ1942年ごろまでは「聖地巡拝」や「練成」に名を借りた観光が広く行われていた34)。 橘神社についても,長崎県内などから広く参拝が行われており,それは広義の観光としてとらえ ることができよう。

しかし,橘神社について注目したいのは,1935年の一時期,長崎県知事によって雲仙への建設 が目論まれていたことである35)。当時の雲仙は,日本八景への当選(1927年),雲仙国立公園の指 定(1934年)を経て,外国人客向けの雲仙観光ホテルの開業(1935年10月)を控えていた。揺 るぎない地位を確立した一大観光地であり,そこに橘神社を建立するということが観光を度外視 して行われたとは考えにくい。新聞報道では「賛成者の中には天下の雲仙に国家的神社を祀るこ とは一部に唱へられてゐるカトリック教会などよりも国威の宣揚にも適し,又国際的人士の参集 する雲仙におけば神社の維持上からも遥かに理想的だと云ひ」36)と,ナショナリスティックである ばかりでなく観光と橘神社を絡めた見方が紹介されている。

(2) 「記憶の場」の強化 現在の橘神社あるいはその周囲の橘公園において,橘周太,釧雲泉,

千々石ミゲルの三先人がコンパクトにまとまって顕彰される景観は戦後に徐々にできあがってき た新しいものであった。とりわけ,現在ではこの 3 人の中でおそらくもっとも著名な人物である 千々石ミゲルは,戦前には言及されることさえまれであった。また,顕彰の場に着目するならば,

千々石ミゲルの釜蓋城,すなわち顕彰碑の建てられた場所は「真正な」場所といいうるが,橘周 太,釧雲泉にとって橘神社あるいは橘公園はそうではない。「創られた伝統」としての3人の「偉 人」,橘神社を指摘することができよう。

橘周太銅像,同生家,釧雲泉「手習い石」という移設されたモニュメントについて,まず関心 を引かれるのはその跡地である。橘周太生家跡は前述のとおり営林署用地を経て現在は公民館,

(6)

14

市営住宅となっているが,「橘中佐生誕の地」の碑が建立されている(1975年)。一方,銅像跡地 には奈良県明日香村の橘寺(仏頭山上宮皇院菩提寺)別院が建立(1952年)されたものの,現在 では無住で,やや荒廃している。むろん,かつて銅像があったことを示すものは何もない。また

「手習い石」の元所在地は位置すら知りえない状態である。

アライダ・アスマンは,歴史の提示の形式について,次のように論じている37)。すなわち,歴史 の提示には,物語,展示,演出という3つの記号秩序体系がある。「演出」には映画などの「メデ ィア的演出」と,歴史的な場所の演出である「空間的演出」の 2 形式がある。ここまでみてきた モニュメントは,アライダ・アスマンのいう歴史的な「空間的演出」装置に他ならない。各種の モニュメントによって,歴史的な場所であることがアピールされ,その空間が歴史の舞台へと変 えられているといえる。

橘神社は,橘周太,釧雲泉,千々石ミゲルのモニュメントが集積した,彼らにまつわる「記憶 の場」となっている。観光客には橘神社境内や橘公園を遊歩しつつ,モニュメントの碑文を読み,

千々石出身の偉人としての 3人の事績を知ることが期待されている。その意味で橘神社・橘公園 は一種の歴史テーマパークと化しているとみなせるだろう。むろん,3人の銅像と解説プレートが 並ぶ市役所千々石総合支所はより明快にミニ・テーマパークの様相を呈しているといえるが。ま た,1か所に顕彰の場がまとまることによって,パリのパンテオンの如く,町の選ばれた死者を記 念する場として一連の意味づけがなされているとみることもできる。むろん,そこにはさまざま な忘却―上でみたモニュメントの故地,あるいはその他の多くの死者や出来事の存在―が加わ っていることはいうまでもない。

このように,橘神社は,千々石の 3先人,すなわち橘周太,釧雲泉,千々石ミゲルの「記憶の 場」として,モニュメントが集積して景観的に整備されてきた。そしてそれはただ景観面にとど まるものではなく,意味的な強化をも伴う。元来の「真正な」場所とみなされえない場所が「記 憶の場」として創り出され,強化されてきたプロセスがそこには読み取れる。

Ⅳ おわりに

橘神社は「世界一」の巨大門松のある神社,あるいは花見の名所として知られる一方で,その ナショナリスティックな由緒に留意せざるを得ない場所といえる。本稿はこうした橘神社が創建 され,千々石の三先人,すなわち橘周太,釧雲泉,千々石ミゲルにまつわる「記憶の場」として 創り上げられてくるプロセスを明らかにした。そして,橘周太の顕彰と観光とが関連していたこ と,三先人の顕彰の場が橘神社へ一元化され,「記憶の場」が景観的・意味的に強化されたことを 明らかにした。これらは,近代日本のローカルな「記憶の場」あるいはモニュメントについて一 定度は共通する特性といえるものであろう。

さて,本稿で取り上げた橘周太,釧雲泉,千々石ミゲルという三先人を別の視点からみるなら ば,彼らの「記憶の場」はここ千々石ないしは橘神社だけではない。橘周太であれば,かつて記 念碑や銅像の建てられていた満州・首山堡や静岡,現に記念碑や銅像のある名古屋や御殿場(陸 上自衛隊板妻駐屯地)という他の「記憶の場」がある。釧雲泉,千々石ミゲルについても,同様 に,それぞれ墓があるとされる多良見や出雲崎という「記憶の場」がある。それら複数の「記憶 の場」はどういう関係にある/あったのか,またそこで千々石や橘神社はどう位置づけられる/

(7)

15 られたのか,考察を広げることが求められよう。

1) 「記憶の場 lieux de mémoire」はフランスの歴史家,ノラによる概念で,地理学的な意味での場所だけで なく,集合的記憶が根ざす何ものかをさす。ノラ,P.著,永井伸仁訳「序論―記憶と歴史のはざまに」(ノラ,

P.編,谷川稔監訳『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史 第1巻対立』岩波書店,2002(原著1984))

29-56頁。

2) 千々石町編『千々石町郷土誌』千々石町,1998,409-427頁。

3) 前掲2)427-429頁。

4) 2体制作され,もう一方は,名古屋陸軍地方幼年学校,同校廃校ののち東京の陸軍士官学校,静岡歩兵第

三十四連隊と移設され,1944年に銅鉄回収で撤去されている。①「橘中佐の 銅像が移転 静岡第三十四 連隊内に」読売新聞1926年11月24日,②江崎 惇『遼陽城頭夜は闌けて―軍神 橘中佐の生涯』スポニ チ出版,1981。

5) 「軍神橘中佐 銅像除幕式の賑ひ」東洋日の出新聞1919年2月1日。

6) 本多一義「橘中佐と日露戦争の残影―千々石町の日露戦争の遺物をさがして」千々石史談2,2004,73頁。

7) 前掲4)②216頁。

8) 前掲2)338頁。

9) 「両軍神,昭和に甦つて 悪思想よけの神となる 出身地に出来る『廣瀬』『橘』両神社に 国粋内相,喜

んで閣議へ報告の事」読売新聞1928年7月26日。

10) 「橘神社創建 現在銅像の所に 廣瀬神社と同一として 総工費参拾萬円」長崎日日新聞1929年5月29

日。

11) ①「橘神社建立 四町歩の敷地 千々石町に適当なる場所 全国的に寄付募集」長崎日日新聞1932年1 月22日,②長崎県史談会編『長崎県郷土誌』長崎県史談会,1933,227頁。

12) 知事はこの面積を「2万坪」(約6万6千㎡)と回顧しているがこれは思い違いか。「橘神社の創建される まで 最初雲仙に敷地を 是を聞いた千々石町民が激昂 生みの親田中元本県知事の思出話」長崎日日新聞 1940年5月18日。

13) 前掲12)。

14) 前掲12)。

15) 「橘神社の敷地問題 一大暗礁に乗り上ぐ 雲仙と千々石町―賛否両論で 千々石町から引き戻しの陳情」

長崎日日新聞35年8月2日。

16)「英魂永久に輝く橘神社 荘厳なる世紀の祭典 けふ神殿祭によつて始まる 県民待望の祭典絵巻」長崎 日日新聞夕刊1940年5月15日。

17) 松井生四郎『千々石町史』千々石町,1968,61頁。

18) 前掲11)②226-227頁。

19) 長崎県教育会南高来郡部会『島原人物誌』長崎県教育会南高来郡部会, 1909。橋本喜造編『国立公園雲仙 大観』橋本喜造,1939。

20) 管見の限り,次の文献に,「千々石の領主の子ドン・ミゲール」という,釜蓋城と千々石ミゲルを明確に 結び付けたとはいいがたい記述をみいだしえたにとどまる。こうした例はまだあるかもしれないが,戦前に は千々石あるいは長崎県で千々石ミゲルがほとんど記述されていないということは明らかであろう。フロイ ス,L.(岡本良知訳)『九州三侯遣欧使節行記』,東洋堂,1942,5頁。

21) 長崎県立長崎図書館編『郷土の先覚者たち―長崎県人物伝』長崎県教育委員会,1968。

22) 「ふるさと写真館」千々石史談2,2004,ページなし。

23) 前掲2)429頁。

24) 「千々石清左衛門の碑 300人の参列 除幕式行う」毎日新聞長崎版1960年4月30日。

25) ほぼ同時期と推定される次の冊子も刊行されている。千々石町教育委員会編『ようこそ心の故郷へ ちぢ わ三大先人のしおり』千々石町,発行年不明。

26) 橘周次郎「故橘周太中佐銅像建設の由来」千々石史談1,2002,17頁。

27) 松村任三(1856~1928年)は,当時,東京帝大教授(植物学)。

28) 砂本文彦「雲仙観光ホテルと国際リゾート地開発」(砂本文彦『近代日本の国際リゾート―1930年代の国 際観光ホテルを中心に』青弓社,2008)144-181頁

29) 次の文献では「千々石雲仙間自動車道路」について,「雲仙鉄道及温泉鉄道を利用し千々石駅に下車して 登山する人々の捷径たる点に於て重要視せられ県は明治四十四年より大正五年度に至る五ヶ年継続事業と して大改修を行い茲に初めて自動車道として体裁を整ふに至れり…今日に於ては…自動車は…登降頗る頻 繁なり」と述べられている。長崎縣『雲仙岳大観』長崎縣, 1932,32頁。なお,島原鉄道の愛野村駅(現,

(8)

16

愛野駅)から千々石駅を結ぶ温泉軽便鉄道(のち温泉鉄道)は1923年5月に開通している。なお,この路 線は1927年3月に小浜地方鉄道(のち小浜鉄道)によって千々石駅・肥前小浜駅間が延長開通し,1933年 10月に雲仙鉄道として統合ののち1938年8月に廃止された。

30) 菖蒲治太郞・樋口元雄「漁村副業經濟調查事例の二―長崎縣南高來郡千々石村」産業時報2(3), 1922,93-108 頁。この論文では副業として貝細工や木工(観光客向け土産物の製造販売)を提案している。

31) 前掲22)。

32) 関善太郎『嶋原半嶋風光記―附小浜温泉案内』大黒屋,1912,170・29頁。

33) 全国的な観光案内書としては鉄道省『鉄道旅行案内』鉄道省,1930,340頁など。またパンフレットとし ては日本名所図絵社(金子常光画)『雲仙国立公園と小浜公園』日本名所図絵社,1934 などがある。なお,

次の吉田初三郎画のパンフレットには絵図面のみに「橘中佐銅像」あり。『日本八景 雲仙岳』雲仙公園・

荒木豊三郎,1927。

34) ルオフ,K.(木村剛久訳)『紀元二千六百年―消費と観光のナショナリズム』朝日新聞出版,2010(原著 2010)。

35) 前掲12)。

36) 前掲15)。

37) アスマン,A.(磯崎康太郎訳)『記憶のなかの歴史―個人的経験から公的演出へ』松籟社,2011(原著2007),

232-238頁。

参照

関連したドキュメント

ホロコーストの記憶と 「アウシュヴィッツ後の第三世代」 飯 田 収 治 は じ め に

 橘樸は、1881 年大分県に生まれ、熊本五高を 経て、東京を放浪したのち、『北海タイムス』記 者として札幌に赴任した。

ロシマ・アーカイブ」の記憶のコミュニティは,新しい

1956 年,そして 1970 年の『経済白書』を素材と した記事を掲載している。そのなかで ,  1947 年 当時の財政 ,  企業 ,  家計の 3 重赤字を抜けだした

Visiting Director * 4 金沢大学名誉教授 * 5

日本社会では、水俣病事件が歴史教科書の一頁に刻まれている。それは、熊本県水俣市で操業していたチッ

で)出て辰韓に着いて子を生んだ。その子が海東の最初の王となり、その女は地仙となって、

Gudykunst と Stella Ting-Toomey 、博 士課程では Young Yun Kim