記憶と記録としての水俣病事件
著者 松下 峻也
出版者 法政大学大学院
雑誌名 大学院紀要 = Bulletin of graduate studies
巻 86
ページ 70‑80
発行年 2021‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00023770
記
記憶 憶と と記 記録 録と とし して ての の水 水俣 俣病 病事 事件 件
社会学研究科 社会学専攻
博士後期課程
2019
年度満期退学松下 峻也
0. はじめに
過去が差し迫った意味をもって現在に立ち現れることもあれば、現在が過去のもつ意味をぎゃくに規定する こともある。そのようにして、現在と相互的に結びつく過去を「記憶」と呼ぶとすれば、この国の高度経済成 長期に発生した水俣病事件はそのひとつである。
日本社会では、水俣病事件が歴史教科書の一頁に刻まれている。それは、熊本県水俣市で操業していたチッ ソが、有機水銀を含む排水によって不知火海の魚介類を汚染し、それを摂食した人びとに多数の死者を生んだ 事件である。水俣病は、
1956年に「公式確認」されたのち、政府がそれを公害病として正式に認定する
1968年まで拡大をつづけた。
1973年には、直接の加害原因企業であるチッソの責任が熊本地裁判決で確定し、
2004年には、被害の拡大にたいして無策をつづけた国と県の責任が最高裁判決で確定している。この事件を、この 国で暮らす人びとのほとんどが、教育課程をとおして「学んできた」ことになるだろう。
その一方で、水俣病事件は、行政が主催する犠牲者の慰霊式、あるいはそれが建設した慰霊碑や事件史の資 料館によって、繰り返し「想起される」出来事でもある。そのさい、この事件は、 「公害事件の原点」や「急速 な経済成長がもたらした悲劇」などと語られることがある。水俣病事件の過去にたいしては、現代の経済活動 が引き起こす環境問題をめぐる、現在と未来への「教訓」という意味づけが与えられることがすくなくない。
ところが、今日の地域社会水俣に目を向けてみると、水俣病事件の想起のされかたが、けっして一様ではな いことがわかる。慰霊式、慰霊碑、資料館は、国や県などの公権力だけが主催、建設してきたわけではない。
水俣市内には、たとえば患者とその家族、支援者が中心となってつくりあげたものが、それらと併存している。
本論でみるように、水俣病を生きてきた人びとがかたちづくる想起の時間と空間は、事件を過去の「悲劇」と みなし、それを現在と未来への「教訓」として語るような短絡的な結びつきを拒んでいる。今日の地域社会水 俣は、現在の視点から事件の過去をどのように意味づけるのかを争う、いわば記憶の対立の場にほかならなら ない。
くわえて、現代を生きる人びとは、地域社会水俣という時空間に直接足を運ぶことによってのみ、水俣病事 件の記憶を想起するわけでもない。歴史教科書だけでなく、ときには書物やマスメディアの報道をとおして、
現在の視点から事件の過去をふりかえることがあるだろう。現代のメディア環境では、水俣病事件をめぐるい くつもの出来事が活字、音声、映像として「記録」されている。たとえば図書館に足を運んだり、あるいは新 聞記事やテレビ番組のアーカイヴを利用したりすれば、それらの記録を事後的、反復的に捉え返すことができ る。そうした広義の「記録技術」によって、 「記録としての出来事」をどのように読み解くかという問いもまた、
過去と現在との相互的な関係を考えるための視座とはならないだろうか。そしてそこには、今日の水俣病事件 をめぐる記憶の対立を読み解くための手がかりが見いだされはしないだろうか。
本稿ではまず、水俣病事件の過去をめぐって、今日の地域社会水俣にどのような記憶の対立が生じているの かを、M.アルヴァックスの「集合的記憶」の概念をもとにして考察する。つぎに、そうした対立を読み解く うえで、出来事の記録の検証がどのような意義と可能性をもつのかを、B.スティグレールの「技術の哲学」
をもとにして検討する。
1. 現在にとっての過去としての水俣病事件 1―1.現在へと呼び起こされる過去
歴史教科書には、
1956年
5月
1日に「公式確認」された水俣病事件が、この国の高度経済成長期に発生した
「四大公害」のひとつとして記されることがある。たとえば、山川出版社が文部科学省の検定のもとに発行す る『詳説日本史 改訂版』では、高度経済成長下の公害事件について、 「企業が汚染物質を長期間たれ流して環 境を破壊したのに対し、経済成長を優先する政府の公害対策は進まず、公害病に苦しむ被害者たちは長らく放 置されていた」 (
375頁)と記述される。それと同じ頁には、「水俣病患者の少女」と題された、母親と思しき 人物に抱きかかえられる子どもの患者の写真が挿入されている。その説明文は、 「工場廃液中の水銀が、不知火 海の魚を介して人体に入り神経をおかした」 (
375頁)である。このような記述と写真をとおして、この国で暮 らす人びとの多くが、水俣病事件を史実として「学んできた」ことになるだろう。
その一方で、水俣病事件が語り描かれる場面は、かならずしも教育の現場だけではない。日本社会では、犠 牲者の慰霊式や慰霊碑、あるいは事件史の資料館によって、この出来事の「過去」が繰り返し「現在」に呼び 起こされてもいる。
2020
年は、新型コロナウイルス感染症の拡大によって、例年は「公式確認」の
5月
1日に水俣市内で行われ る熊本県主催の「水俣病犠牲者慰霊式」が、
1992年の開始以来はじめての中止を余儀なくされた。この事態は、
さきに述べた状況を逆説的に示してもいる。約四カ月の延期の末、
9月初旬に式典の中止が決定されたことが、
新聞をはじめとして全国ニュースとなったのである。たとえば、
9月
26日付の『朝日新聞』は、史上はじめて の中止の決定を受けた式典の実行委員会が、環境省にたいして「水俣病の教訓の発信と地域振興の決意を広く 周知するべきだ」との意見を提出したことを報じている。その意見をふまえ、小泉進次郎環境大臣は、国が水 俣病を正式に公害病として認定することとなった、
1968年の「政府統一見解」が発表された
9月
26日に「祈 りの言葉」を発表している。
祈りの言葉では、小泉環境相が水俣病の拡大を防げなかったことに「改めて衷心よりお詫(わ)び申し 上げます」とし、 「新型コロナウイルス感染症に立ち向かう中にあっても、水俣の教訓をもとに、一人一人 の行動や日々の心がけが、自分自身と自分の大切な人たち、そして、社会全体を守っていくことにつなが る」との意思を示した。
ここで小泉は、 「 (政治が)水俣病の拡大を防げなかった」という表現で、過去にたいする「反省」を語って いる。さらに彼は、そうした反省が「新型コロナウイルス感染症に立ち向かう」現在にとっての「教訓」にな るともいう。記事の引用で省略された部分を補足すると
1、 「祈りの言葉」のなかで水俣病事件の過去として語 られているのは、 「発見当時、水俣病にたいする無理解から、差別や偏見が生まれた」という事態である。「原 因不明の奇病」として「公式確認」された水俣病は、 「伝染性の病」を疑われた時期があった (原田
2 1972: 5-15) 。 そのうえで、そうした過去を「教訓」とすべきコロナ禍の現在として語られているのが、「患者やその御家族、
医療従事者などが傷つけられるなど、新たな差別や偏見が、社会に広がることが懸念されている」という状況 である。そうした語りの論理が、水俣病事件の過去をたんなる史実に留めることなく、現在へと結びつけよう としていることになる。
1―2.過去を現在へと結びつける時空間
過去と現在との結びつきは、水俣病事件を呼び起こす場を特徴づけてもいる。水俣病犠牲者慰霊式が例年行 われてきたのは、水俣湾の水銀汚染海域を埋め立てることで
1990年に完成した「エコパーク水俣」である。そ の敷地には現在、レジャー・スポーツの広場から、草花の庭園、さらには「道の駅」まで、さまざまな公共、
商用施設が立ち並んでいる。そうした空間が、熊本県の公式ホームページでは、 「水俣市は、環境に対する意識 の高さや取り組みで全国的に知られています。水俣湾を埋め立てた『エコパーク水俣』には、花や緑に包まれ た公園や海と親しめる親水護岸や道の駅みなまた内のバラ園等が創られ、未来へ向け、美しく変貌を遂げ始め ています」
3と意味づけられている。この公園に隣接するかたちで、
1993年に水俣市によって設立されたのが、
「まなびの岡」と名付けられた高台に建つ「水俣病資料館」である
4。
「水俣病慰霊の碑」が設置されているのは、恋路島を間近に臨む、エコパーク水俣の海岸沿いの一角である。
その碑には、 「不知火の海に在るすべての御霊よ 二度とこの悲劇は繰り返しません 安らかにお眠りください」
という文言が刻まれている。この言表には、水俣病事件を「悲劇」と位置づけ、その反省を現在と未来の礎に しようとする論理が見いだされるだろう。この慰霊碑を前にして、
1992年以降、県主催の慰霊式が毎年
5月
1日に行われ、歴代の環境大臣たちが声明を読み上げてきたのである。
水俣病事件をめぐっては、 その過去を現在と未来へと結びつけようとする毎年
5月
1日という慰霊式の時間、
あるいは、水銀汚染海域の埋め立て地を囲む慰霊碑や資料館という空間が、
1990年代以降、公権力によってか たちづくられてきたといえる。
2.集合的記憶としての水俣病事件 2―1.記憶としての過去
過去の「悲劇」を「反省」し、それを現在と未来への「教訓」にする。公権力のそうした語りが象徴する水 俣病事件の過去と現在との結びつき、いいかえれば、水俣病事件の「記憶の想起」は、
M.アルヴァックスが 提起した「集合的記憶」の概念から説明することができる。アルヴァックスが、
1920年代に『集合的記憶』と
『記憶の社会的枠組み』のなかで論じたのは、個人的な現象には留まらない、社会的=集団的な現象としての 記憶であった。
アルヴァックスは、現在を生きる人びとにとっての過去がふたつに弁別されるという。ひとつは、 「書かれた
/学んだ歴史」と呼ばれる、たとえば年代記的のように記述された事実の羅列としての過去であり、もうひと つは、 「生きている歴史/体験した歴史」と呼ばれる、現在にたいして何らかの心的な訴求力(リアリティ)を もつ過去である(
Halbwachs 1950=1989: 56-66) 。アルヴァックス自身が「記憶」という概念で指し示そうとし ているのは、後者の「生きている歴史/体験した歴史」である。 「過去の事実とは教訓であり、亡くなった人は 励ましであり忠告である」ように、記憶としての過去は、 「観念と判断の連鎖」のもとで現在を生きる人びとの 意識を規定することがある(
Halbwachs [1925] 1994=2018: 369) 。
水俣病事件は、歴史教科書に「四大公害」のひとつとして記述されるときには、 「書かれた/学んだ歴史」の 一部となるだろう。その一方で、この出来事は、慰霊碑の文言や政治家による「祈りの言葉」として語られる ときには、 「生きている歴史/体験した歴史」ともなる。水俣病事件の過去が現在と未来へと結びつくとき、 「二 度とこの悲劇は繰り返さない」という誓いが立てられ、それは、現代の「環境にたいする意識や取り組み」へ の「忠告」となる。あるいは、水俣病患者にたいする差別や偏見の歴史をふまえることが、 「新型コロナウイル ス感染症に立ち向かう」ための「教訓」ともなりうる。水俣病事件の過去は、現在の人びとの意識にたいして 一定の訴求力をもっているといえる。
2―2.記憶の「社会的枠組み」の持続性
そのうえでアルヴァックスは、特定の過去が一定の持続性をもって現在に訴えつづけることができるのは、
記憶を想起する行為が、 「社会的枠組み」によって支えられているためであるという。別言すれば、概念的、物 質的な記憶の「枠組み」が社会につくりだされることで、人びとは、個人としてではなく、集団として想起を おこなうことができる
5。そうした「枠組み」を考える手がかりとなるのが、意味の共有を可能にする媒体とし ての「記号」である。具体的には、それは言語であり、さらには時間と空間である。
いうまでもなく、私たちは過去のすべてを覚えているわけではないし、覚えてきた過去のすべてを思い出す わけでもない。そうしたなかで、人びとが特定の過去(だけ)を「意味がある」ものとしてしばしば反復的に 想起するのは、じつはそれが他者にとっても「意味がある」からにほかならない。人びとは、 「物を見ると同時 に、他の人がそれを見る際にとりうるやりかたを思い描いている」 (
Halbwachs [1925] 1994=2018: 369) 。言語と は、他者の視点を自己の内面に取り入れるための、原初的な媒体としての記号なのである。
言語と同様に、記号化した時間もまた、他者の視点を自己に内面化するための「枠組み」となりうる。その
典型が、特定の集団に時の流れの「リズム」を共有させる「暦」である。暦は、本来であれば不断で連綿とし
ている時間を「意味のある」日付に分節化することで、特定の過去(だけ)を想起しうる対象として選別する。
そのようにして、分節化された日付という「対象が記号として私にはたらきかけること」で、 「対象を眼の前に しながら、私の観点と同時に他の人の観点に身を置いてみることができる」 (
Halbwachs 1950=1989: 113) 。
集団内での過去の意味の共有を可能にするもうひとつの「枠組み」が、記号化した空間である。空間を構成 する「事物の形態はわれわれの周囲に、いわば物言わない不動の社会として存在している」ものの、そうした 事物は、記号として作用するかぎりにおいて「われわれが容易に読解できる意味を持っている」(
Halbwachs1950=1989: 165
) 。 「場所は集団の刻印を受けており、また集団も場所の刻印を受けている」ため、 「この場所の
一々の様相、一々の細部はそれ自体、集団の成員にしか理解できない意味をもっている」 (
Halbwachs 1950=1989:167
) 。 「想い出が集団の思考の中で保持されるのは、集団が地面の上に根を下ろしているからであり、地面のイ メージが集団の外においても物的に持続し、集団はいつでもこのイメージを捉えることができる」 (
Halbwachs 1950=1989: 178) 。
このような見方をしたとき、水俣病事件もまた、 「社会的枠組み」によって持続的かつ集団的に想起されつづ けてきた記憶といえるだろう。例年、
5月
1日に熊本県が主催する水俣病犠牲者慰霊式が行われることは、そ の記憶が、記号化した時間としての暦によって支えられてきたことを示している。さらに、その式典を文字通 りに枠づけているのが、水銀汚染海域を埋め立てることで建設されたエコパーク水俣であり、そこに設置され た水俣病慰霊の碑である。「未来へ向け、美しく変貌を遂げ始め」た今日の水俣湾にある、 「二度とこの悲劇は 繰り返さない」と刻まれた石碑が、記号化した空間として、 「悲劇を教訓にする」と語る公権力の言説実践を成 立させている。
2―3.「集合的記憶」の多層性
しかしながら、記憶としての水俣病事件の想起を可能にしているのは、公権力がつくりあげた時空間だけで はない。この事件をめぐっては、 「悲劇を教訓にする」という過去と現在との短絡的な結びつきを拒もうとする 時間や空間がかたちづくられてもきた。
公権力にたいする対抗的な語りを枠づけている空間のひとつが、 市立の水俣病資料館とはべつに存在する 「水 俣病歴史考証館」である。この施設を運営しているのは、水俣病患者の支援者によって組織された「一般社団 法人水俣病センター相思社」であり、この団体は、
1974年の発足以来、地域社会水俣における患者の「拠り所」
をつくるための活動をつづけてきた。そうした経緯のもと、歴史考証館は、患者たちの作業所(キノコ工場)
であった建物を改装するかたちで
1988年に開館した。患者の立場に寄り添ってきた相思社がそこに留めようと しているのは、加害原因企業であるチッソとその排水対策を怠ってきた行政の責任、あるいは、患者たちが地 域社会で受けてきた抑圧の歴史である。その公式ホームページには、つぎのような文章が掲げられている。
半世紀ほど前、不知火海に面した漁村に得体の知れない病気が発生しました。病に冒された人々は近隣 の人々のさげすみの目を避けるようにひっそりと暮らしていました。 なぜ、罪科のない人々が理不尽な苦 しみを強いられなければならなかったのでしょうか。
水俣病は、チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を
36年間にわたって水俣湾に流したため、不知火海 沿岸で魚介類を食べ続けた人々に発生した大規模な有機水銀中毒事件です。しかし水俣病事件は一企業の 犯罪にはとどまりません。便利で豊かな生活を追い求めるという、ごく当たり前とされる行為が歴史の必 然として産み落とした事件でした。水俣病患者は歴史の、人間の欲望の犠牲者だったのです。
半世紀を経た今も人々は便利さ・豊かさという呪縛から解き放たれてはいません。水俣病事件は人間の あり方を根元的に問い続けています。水俣病事件の真実と意味を明らかにすることは人類の未来にとって 重要な意味があります。水俣病歴史考証館はそのために努力を続けています。
6歴史考証館という空間は、水俣病事件をたんなる「悲劇」として語ることを拒んでいる。この出来事は、 「有
機水銀中毒事件」のひとつであり、また、当時のチッソ社長と水俣工場長が刑事罪を問われたという事実は
7、
それが「一企業の犯罪」であったことを示している。その一方で、この出来事は、小泉が語るように「 (政治が)
拡大を防げなかった」のではなく、 「便利で豊かな生活を追い求めるという、ごく当たり前とされる行為が歴史 の必然として産み落とした事件」でもある。それゆえに、その「真実と意味」はいまだに「教訓」とされるこ となく、 「半世紀を経た今も人々は便利さ・豊かさという呪縛から解き放たれてはい」ない。ここでは、水俣病 事件の過去と現在との結びつきが、さきにみた公権力による時空間の「枠組み」と鋭く対立している。
そうした対立は、アルヴァックスの記憶論を特徴づけている、 「過去は現在の視点からの再構成である」とい う命題から考えることができるだろう。『集合的記憶』の冒頭で、「われわれは想い出の総体を再認識するよう な仕方で、再構成できる」 (
Halbwachs 1950=1989: 66)と述べられるように、過去が現在に訴求力をもつことも あれば、現在こそが過去の意味を規定することもある。記憶の想起は、過去と現在があくまでも相互的な関係 を取り結ぶ契機として捉えなければならない
8。
公権力と相思社との言説実践の対比は、水俣病事件を過去として「再構成」する「現在の視点」 、すなわち、
記憶を想起する「枠組み」そのものの対立をあらわしていることになるだろう。そこには、いかなる「観念と 判断の連鎖」のもとに水俣病事件の過去を想起するかを争う、記憶の対立が見いだされる。アルヴァックスが
「集合的記憶」の概念で論じようとしているのは、じつはそうした記憶の動的な抗争状態にほかならない。 「実 際、集合的記憶はたくさんある」 (
Halbwachs 1950=1989: 93)と結論づけられているように、彼自身は、社会全 体が共有するような単一的、あるいは支配的な記憶を、所与の存在として前提しているわけではない。そこで 想定されているのはむしろ、特定の過去を特定の意味として持続的かつ集団的に想起させようとする、言語、
時間、空間という「枠組み」の多層性なのである
9。
3.出来事の記録としての水俣病事件
3―1.「水俣病 50 年」のジャーナリズムが描く「国の病」
公権力と相思社との言説実践の対比は、記憶を想起させる空間の「枠組み」の多層性が、その対立をもたら してきたことを象徴している。なかんずく、 「公式確認から
50年」となった
2006年という時間は、そうした記 憶の対立をより鮮明にすることとなった。当時の出来事を、新聞とテレビのジャーナリズムが活字、音声、映 像として記録している。
2006
年
5月
1日の地域社会水俣という時空間で起きた出来事を記録したのが、熊本放送が同年
5月
31日に 放送した『国の病としての水俣病』 (以下、 『国の病』 )である。この番組の冒頭と末尾には、エコパーク水俣で 行われる水俣病犠牲者慰霊式に出席し、声明文を読み上げる当時の小池百合子環境大臣の姿が収められている。
そこで小池は、水俣病で亡くなった人びとが「どれほど無念であったかと思うと」 、 「行政に携わる人間として、
言葉に詰まり、ただ首を垂れるばかり」であると述べる。そのうえで彼女は、 「複雑化、多様化する環境問題」
にたいして、政府が力をあげて取り組みつづけると誓ったのち、 「水俣病の教訓を世界に発信」すると宣言する。
ところが、それにつづくシーンには、県が主催する慰霊式とはべつの空間で犠牲者を弔う、患者とその家族、
支援者の姿が収められている。そこは「乙女塚」と呼ばれ、
1981年に建立されたのち、患者たちが日頃から足 を運ぶ場所になったという
10。その慰霊碑には、 「不知火海の水銀汚染を悼む」とだけ刻まれている。その文言 とともにある患者たちの姿は、 「悲劇を教訓にする」といった過去と現在をめぐる公権力の語りを、断固として 拒んでいるようにもみえる。水俣病を生きてきた人びとは、そうした短絡的な語りとはまったく異なるかたち で、事件の過去と結びついているのかもしれない。
番組内で説明されるように、このような記憶の対立が
2006年に顕在化した背景には、
2年前の
2004年、最 高裁判決によって水俣病事件の被害の拡大にかかわった国と県の責任が司法によって確定したという経緯があ った。くわえてその判決では「国が考えている水俣病の病像そのものが間違っている」として、原告
37名が患 者として認められている。行政が事件の被害者を「水俣病患者」として認定し、チッソによる補償の対象とす るための「認定基準」の見直しが迫られたともいえる。
さらに『国の病』は、最高裁判決を受けたのち、政府がどのような姿勢で
2006年
5月
1日の水俣病犠牲者慰
霊式に臨もうとしたのかを記録している。式典に先んずる
3月
20日、環境省は、小池が設置した「水俣病問題
に関わる懇談会」を開き、民間委員たちとのあいだで意見交換をおこなっている。しかしその懇談会では、政
府が最後まで「認定制度は見直さない」という姿勢を改めようとはしなかった。
この出来事をより詳細に記録しているのが、西日本新聞社の水俣病
50年取材班が同年に編纂、出版した『水 俣病
50年――「過去」に「未来」を学ぶ』 (以下、 『水俣病
50年』)である。そこに記されたのは、水俣病事件 をあくまで「教訓」として語ろうとする環境省と、認定基準の見直しによって過去を問いなおそうとする民間 委員との対立であった。
公式確認から五十年を迎える水俣病問題。懇談会は、過去の行政の過ちを検証し、今後の教訓に結びつ けようと、環境相の小池百合子(
53)が設置した。しかし、委員たちが一番の関心を向けたのは一般的な
「教訓」ではなく、被害者切り捨ての批判もある「認定基準」の見直し問題だった。 (水俣病
50年取材班
2006: 84)
民間委員のひとりが語ったとされる「現在の問題を放って五十年の検証をしても何にもならない」 (水俣病
50
年取材班
2006: 84)という証言は、「悲劇を教訓にする」という公権力の語りが、じつのところ、認定基準
の見直しというかたちで行政が負うべき水俣病事件の責任を捨象するものであったことを示している。このよ うなかたちで、テレビと新聞のジャーナリズムが記録した
2006年の出来事を捉え返したとき、
2020年に小泉 が発表した「祈りの言葉」は、行政の責任を潜在化するかたちで過去と現在とを結びつける「枠組み」を、今 日でも反復し、持続させようとしていることになる。
3―2.「水俣病 50 年」の文学が描く患者への抑圧
2006
年は、地域社会水俣を患者とともに生きてきた作家である、石牟礼道子の『神々の村』が出版された年 でもある。歴史考証館という「枠組み」と重ね合わせると、この小説が、公権力がかたちづくる「枠組み」か らこぼれ落ちてきた過去の出来事を、石牟礼の眼と手によって記録していることがわかる。
『神々の村』は、
1968年の「政府統一見解」の翌年に上梓された『苦海浄土』の続編である。 『苦海浄土』
は三部作であり、第三部にあたる『天の魚』は、じつは第二部が出版されるはるか以前の
1974年にすでに刊行 されている。 『神々の村』は
1973年に手掛けられたものの、 「水俣病闘争」をめぐる運動が分裂と混乱に陥るな かで、患者に寄り添ってきた石牟礼自身が執筆に苦渋を感じるようになったという。完成までに長い時を要し たこの書物を、渡辺京二は、巻末の解説で「水俣病問題の全オクターヴ、その日常と非日常、社会的反響から 民俗的底部まですべて包み込んだ巨大な交響楽」であり、 「 『苦海浄土』三部作中、要の位置を占める作品とい うべき」 (渡辺
2006: 397)と評している。
『苦海浄土』三部作は、実在の人物や実際の出来事をめぐる詳細な描写と、石牟礼独自の文学的描写とが複 雑に織りなされた「文学作品」であり、かならずしも聞き書きにもとづいた「記録文学」ではない。それでも この作品群は、石牟礼が実際に生き、感じた地域社会水俣の姿を書物として後世に残している。 『神々の村』で は、
1960年代の出来事が新たに描きなおされる。それは、 「政府統一見解」の発表後、当時の「患者互助会」
の代表者のもとに、ひとりの患者女性が身なりもままならずに駆け込んできたとされる場面である。
「小父さぁん、今度こそ、市民の世論に殺されるばい、殺されるばいもう。今まで市民のため、会社の ため、水俣病は言わんと、こらえてこらえて、きたばってん、もう、もう、市民の世論に殺される!今度 こそ。
会社は潰るるがどげんするか、あんたどもは、二千万取るちゅうが、銭貸せちなあ、いわす、小父さん、
今度こそ殺さるるばい」(石牟礼
2006: 305-6)
この情景は、ひとりの患者女性が、チッソに補償を求める互助会の動きを察知した「水俣市民」から「会社
が潰れたらどうする気か」という脅しをかけられたことで、身を震わせている場面である。チッソの「企業城
下町」である地域社会水俣で、会社を守ろうとする「市民」の言動は、 「便利で豊かな生活を追い求めるという、
ごく当たり前とされる行為」といえるかもしれない。しかし、そうした行為によって、患者という「罪科のな い人々が理不尽な苦しみを強いられなければならなかった」 。ここで描かれている「市民」の「理性」がもたら した社会的な抑圧は、
2020年に小泉が語る「発見当時に無理解(伝染性であるという誤解)から生まれた差別 や偏見」とは、異なる力学を働かせていたことになるだろう。
2018年の石牟礼の没後、遺作となった書物が、
今日の公権力の言説実践からこぼれ落ちていく過去を、いまなお具体的な出来事として留めているのである。
4.アーカイヴとしての水俣病事件
4―1.「後知恵としての先取り」という経験
『神々の村』が記録した地域社会水俣における患者への抑圧と、『国の病』や『水俣病
50年』が記録した最 高裁判決後の政府の姿勢は、どちらも、今日の地域社会水俣における記憶の対立に結びついている。現代のメ ディア環境では、時間と空間の多層的な「枠組み」にたいして、 「出来事の記録」がさらに多層的に織り重なっ ていることになる。
活字、音声、映像として残された出来事の記録は、意味の共有を可能にする媒体としての記号にほかならな い。書物、新聞記事、テレビ番組は、特定の「観念と判断の連鎖」のもとに水俣病事件の過去を想起させうる し、現在の視点から過去を「再構成」することもある。アルヴァックス自身は、記憶の想起のひとつのかたち として、現在の視点からの過去の「再構成」が、じつは、それ以前にすでに「再構成」されていた過去の再度 の「再構成」であるかもしれない可能性を想定していた
11。それをふまえるならば、出来事の記録を捉え返す という行為もまた、現代における記憶の想起のひとつのかたちといえるだろう。
出来事の記録による記憶の想起を集団的かつ持続的に可能にしているのが、アーカイヴなどと呼ばれる「記 録技術」である。「技術の哲学」を展開した
B.スティグレール
12は、「アナムネーシス(想起)は常に、ある ヒュポムネーシス(記憶技術)によって支えられ住みつかれている」 (
Stiegler 2004=2009: 50)という。書物、
新聞記事、テレビ番組は、過去に起きた「一回的な」出来事を、活字、音声、映像として記録する。そして、
それらがどのようなかたちであれ技術的にアーカイヴ化されれば、過去の「一回的な」出来事を「事後的」か つ「反復的」に現在に呼び起こすことが可能となる
13。実際に今日では、書物の図書館、新聞記事のデータベ ースだけでなく、放送番組の保存、蓄積、公開もまた拡大されつつある。そうした広義のアーカイヴが成立さ せる経験は、 「かつて」の出来事を「いま」、 「遅れて」読み、聞き、見るという、いわば「後知恵」にほかなら ない
14。
さらにアーカイヴは、その後知恵によって、特定の過去を差し迫った意味をもって現在に結びつけることも ある。たとえばそれは、
2020年の「祈りの言葉」をすでに読んだ「いま」の視点から、
2006年の『国の病』や
『水俣病
50年』が記録した最高裁判決後の政府の「かつて」の姿を捉え返す経験である。それによって、司法 による断罪から
16年を経てもなお、水俣病事件の責任にたいして明確な政策を打ち出すことなく、空虚な「教 訓」だけを繰り返してきた公権力の姿が露わとなる。別言すれば、
2006年の小池の姿が「遅れて」見られるこ とで、
2020年の小泉の語りを「先取り」することになるのである
15。
「後知恵としての先取り」は、アーカイヴという記録技術による記憶の想起のひとつのかたちといえるだろ う。そうした視座から、水俣病事件の
60余年に及ぶ出来事の記録を、活字、音声、映像のアーカイヴとして、
さらに検証してみよう。
4―2.国の責任を先取りする記録
『国の病』は、のちに国の責任を決定づけることとなる、事件の初期段階の出来事を取り上げている。その ひとつが、通産省の指示によるチッソ水俣工場の排水浄化装置の建設である。番組で説明されるように、
1959年末に完成した「サイクレーター」と呼ばれる装置は、実際には有機水銀を除去する性能をまったく有してい なかった。このことは、
1968年の「新潟水俣病」をめぐる裁判の過程であきらかとなる。ここで重要なのは、
その事実を、通産省が建設の段階からすでに周知していたことである。
1959
年
11月
29日に
NHKが放送した『奇病のかげに』は、建設中のサイクレーターを当時の映像として記
録している。この番組の終盤では、ナレーションによって、サイクレーターが「いまの日本では第一級の排水 処理」であり、 「病気に関係のあるなしにかかわらず、公益上必要なことがら」であると語られる。さらに、も し水俣病が発生していなければ、 「ここまで完備した浄化装置がはたして用意されたかは疑問」であるとも語ら れる。そうした発話が意味するように、水俣病事件は、
1968年の「政府統一見解」に至るまでかならずしも見 過ごされてきたわけではなかった。むしろ、完備された排水汚染対策によって事件が「解決」するだろうとい う、楽観的な語りのもとで被害が拡大の一途を辿ったのである。
『水俣病
50年』は、そのようにして被害を拡大させた責任を負う、当時の通産省軽工業局長である秋山武夫 の
1986年の証言を記録している。最高裁判決に帰結する関西訴訟の過程で、秋山は以下のように当時をふりか えったとされる。
「チッソの場合は(
1958年に通産省が操業停止を指示した本州製紙と:引用者)重要産業に対する影響 の大きさが違う。日本経済にとって非常にウエートが高い」 。 (中略) 「経済発展に影響を与えるようなこと はできなかった」 。 (水俣病
50年取材班
2006: 95)
この証言が示すように、みせかけの排水対策によって水俣病事件の「解決」を装い、それによってチッソの 操業をつづけることは、この国の高度経済成長を継続するという政治的な意思決定にほかならなかった。
水俣病事件にかかわった官僚としての秋山の姿は、
1976年
12月
18日に
NHKが放送した『埋もれた報告』
が記録してもいる。 「政府統一見解」の発表後、
1973年
3月にはチッソの加害責任が熊本地裁の判決によって 確定し、同年
7月にはチッソと患者とのあいだで「補償協定」が成立していた(小林
2012: 149) 。被害の拡大 をめぐる責任があきらかになりつつあるなかで、当時は「世界経済情報センター」の理事職に就いていた秋山 は、記者から水俣病事件について質問されると、激高してマイクを奪い取り、一切の問いかけに応えることを やめてしまう。のちに裁判で証言することとなるように、経済発展を優先するという明確な意思決定のもとに みせかけの排水対策をおこなったからこそ、彼は官僚としての自身の責任にたいして応答することを拒んだの だろう。
『埋もれた報告』に収められた秋山の発話行為とその映像は、
2020年に小泉が語る「 (政治が)水俣病の拡 大を防げなかった」という過去の見方に違和感を覚えさせる。秋山の姿はむしろ、司法による断罪を経てもな お、水俣病事件の責任を具体的に認めることのできない、今日までつづく政府の姿勢を先取りしていることに なる。
4―3.県の責任を先取りする記録
『国の病』と『水俣病
50年』は、熊本県の責任を決定づけることとなった事件の初期段階の出来事もまた、
同様に取りあげている。そのひとつが、サイクレーターの完成と同時期の
1959年末に、チッソと患者とのあい だで締結された「見舞金契約」である。
「見舞金契約」は、チッソが加害責任を認めないまま、わずかな金銭の支払いによって患者とのあいだで水 俣病事件の「解決」を図ろうとしたものである。さらに、その条項には、患者にたいして「将来水俣病が工場 排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする」ことが織り込 まれた。そうした取り決めがあったために、
1960年代に被害が拡大するなかでも、患者たちは口を閉ざすこと を余儀なくされたのである。その調停をおこなったのが、当時の熊本県知事であった。
県知事による
1959年末の調停は、 『奇病のかげに』のなかで、当時の出来事として取り上げられている。番 組では、 「知事、仲介乗り出し」という見出しの新聞記事を写したうえで、ナレーションによって「この水俣問 題も、県知事が漁民と会社側との斡旋にはいることになり、新しい段階にはいりました」と語られる。このシ ーンが、さきに取りあげた建設中のサイクレーターの映像の直後に挿入されていることは、 「見舞金契約」もま た、水俣病事件の「解決」を語らせうる出来事であったことを示している
16。
くわえて、
1969年
1月
21日に熊本放送が制作、放送した『
111』には、 「見舞金契約」の調停をおこなった
張本人である寺本幸作の証言が収められている。
1968年の「政府統一見解」によって「水俣病が工場排水に起 因することが決定した」後であっても、あくまで寺本は、 「見舞金契約」の締結が「あの当時の調停としては立 派であった」と主張する。なぜなら、チッソの責任が明確になっていない段階で会社と患者の双方を納得させ たことは、調停が「十分に役割をはたしてきた」ことを意味するからだ。ところが、彼が「立派であった」と ふりかえる「見舞金契約」は、チッソの加害責任を認めた
1973年の熊本地裁の判決で、 「公序良俗に反する」
として無効化されることとなる(小林
2007: 59) 。
1976
年の『埋もれた報告』は、地裁判決後の寺本の姿を記録している。番組内で彼は、記者から再三の取材 を受けるなかで、一度としてカメラに正対しようとしない。そればかりか、最後には「私も被害者なんだ」と 言い残し、記者のもとを去ってしまう。 『
111』と対比させてみると、寺本のカメラの前での態度が、
1973年の 地裁判決を契機に急転していることになるだろう。そうした発話行為とその映像は、 「見舞金契約」の締結とい う出来事の意味が、
1970年代以降に厳しく問いなおされきたことを示している。すなわちそれは、水俣病事件 の「解決」などではなく、患者たちに口を閉ざさせることで、サイクレーターの建設と同様に被害を拡大させ ていくひとつの原因にほかならなかったのである。
このような見方をしたとき、被害の拡大にかかわったにもかかわらず、自身もまた事件の被害者であると主 張する寺本の姿は、県主催の水俣病犠牲者慰霊式に背を向ける患者たちの姿が象徴する、今日の地域社会水俣 の分断を先取りしていることになる。
4―4.「混迷」と「未解決」を先取りする記録
「見舞金契約」にかんする記者の取材にたいして、カメラから逃げ惑う寺本の発話行為とその映像は、
1970年代後半以降、認定制度をめぐって混迷を深めていく水俣病事件のその後を先取りしてもいる。
『国の病』と『水俣病
50年』が取りあげるように、
2004年の最高裁判決で、 「水俣病の病像そのものが間違 っている」として見直しが迫られた認定基準は、
1977年に出された「 (昭和)
52年判断条件」が基調となって いる。それは、 「水俣病に特徴的な症状の複数の組合せによって水俣病と認定する」というものである。しかし、
水俣病の認定制度が開始してからまもない
1971年には、 「水俣病に特徴的な症状がひとつでもあれば、疫学的 判断条件も加えて水俣病と認定する」とする、 「(昭和)
46年事務次官通知」をもとにした判断条件が設定され ていた。水俣病事件は、チッソや国と県の責任があきらかになる一方で、他方では患者を補償の対象とするた めの認定基準が「厳格化」するという、矛盾した経過を辿ってきたといえる。
その背景には、補償協定の成立以降、患者の認定申請が当初の予想をはるかに超えたことで、チッソの経営 が傾きはじめたことがあった。チッソの経営難と軌を一にして認定の門戸が狭められたことは、それが政治的 な判断による患者の「切り捨て」であったことを意味していた。結果として、認定を棄却された「未認定患者」
が増加するなかで、
1980年代以降は認定と補償をめぐる法廷での「闘い」が激化することとなる(小林
2012:153
) 。
法廷での闘いが長期化するなか、政府は、水俣病事件の「公式確認から
40年」となった
1995年に、高齢化 する患者たちにたいして「最終解決案」を提示する。それは、 「未認定患者」を患者として正式に認めることな く、訴訟と認定申請の取り下げを条件として、チッソから一時金と医療費、医療手当を支給するというもので ある。加害責任を認めないまま、金銭の支払いによって患者たちに口を閉ざさせようとする構図は、
1959年の
「見舞金契約」と同質であった。結果的には、のちに最高裁で勝訴することとなる関西訴訟を除く、すべての 団体がその「最終解決案」を受け入れる(小林
2012: 153) 。
1995
年当時の出来事を記録しているのが、同年
10月
19日に
NHKが放送した『苦渋の決断~水俣病
40年目 の政治決着~』である。この番組の終盤には、 「最終解決案」の受け入れを表明した団体のひとつである水俣病 患者連合の佐々木清登の声明が収められている。
その声明のなかで、佐々木は、認定された患者をはるかに下回る補償を受け入れることが「苦しい選択」で
あり、その意味を「全国民に理解していただきたい」と述べる。 「ここで区切りをつけなければ、高齢となった
被害者はまったく救済を受けられない」うえに、 「新しい時代」を望んでいる地域社会水俣で「市民が患者に理
解を示してくれる」のは、この時期しかない。そのうえで彼は、 「紛争の終結」を宣言する代わりに、政府にた いして「水俣病の発生、拡大、そして被害者の放置についてどのような責任があったのか」を明確にすること を求める。佐々木のそうした発話行為とその映像は、 「最終解決案」の受け入れが実際には「苦渋の決断」であ り、さらに政府の今後を厳しく問うものであったことを示している。
ところが、
2004年に関西訴訟の最高裁判決が出されると、 「解決」したはずの水俣病の認定申請がふたたび 急増するようになる。この段階では、患者たちが、 「認定された患者」 、 「最終解決案を受け入れた患者」 、そし て「司法によって認められた患者」に分断されていた。そうした状況を受けて、政府は、さきの佐々木の希求 に耳を傾けることなく、
2009年に、
1995年と同じ構図をもつ「二度目の最終解決案」を提示する。
2009
年
9月
23日に熊本放送が放送した『水俣病
2度目の幕引きへ』は、 「二度目の最終解決案」をめぐる当 時の熊本県知事とチッソ会長との対話を記録している。番組のなかで、チッソ会長は、すでに
1995年の「最終 解決案」を受け入れたために、さらなる補償をおこなうことはできないという。けれども、もし「二度目の最 終解決案」を受け入れるのであれば、その交換条件として補償会社の分社化を望むという。そうした交渉の過 程で、チッソ会長は、県知事にたいして「たしかに県からの支援を受けて患者への補償をおこなってきたが、
経営上の判断としては倒産という選択もあった」と発言する。そこで描かれるのは、
2004年の最高裁判決で断 罪された行政にたいして、あたかも脅しをかけるようにして交渉を進める加害原因企業の姿である。事件の責 任を押し付け合っているようにもみえる両者の発話行為とその映像は、患者の分断にあらわされる今日の水俣 病事件の混迷を象徴している。
「見舞金契約」と二度にわたる「最終解決案」をめぐる出来事の記録を捉え返してみると、水俣病事件が、
じつは「解決」が語られるたびにそこから遠ざかってきたことがわかるだろう。
1959年末に事件の「解決」を 語らせた「見舞金契約」の構図は、
1995年と
2009年の二度の「最終解決案」の構図を先取りしていた。前者 が、水俣病事件の被害をその全容を把握することが困難なまでに拡大させたように、後者は、患者の分断とい うかたちで、事件を「解決」の糸口を見つけだすことがほとんど不可能なほどに複雑化させたのである。この ように考えたとき、 「悲劇を教訓にする」という公権力の語りが覆い隠しているのは、水俣病事件がいまだに「未 解決」であるという、本来であれば自明の事実なのかもしれない。
5.おわりに
本稿の前半では、アルヴァックスの「集合的記憶」にもとづいて、今日の地域社会水俣における記憶の対立 をあきらかにした。そこでは、 「悲劇」を「教訓」として語ろうとする公権力の言説実践と、それを拒もうとす る患者や支援者の言説実践とが、水俣病事件の記憶の想起をめぐる時間と空間の「社会的な枠組み」を多層化 させていた。
そうした「枠組み」に織り重なっているのが、水俣病事件をめぐる出来事の記録である。本稿の後半では、
スティグレールの「技術の哲学」を手がかりとして、小説やテレビと新聞のジャーナリズムが、今日の記憶の 対立を先取りする出来事を、活字、音声、映像として記録してきたことをあきらかにした。さらに、それらの 記録をアーカイヴとして検証することで、この国が明確な政治の意思決定のもとに被害を拡大させたこと、あ るいは、 「解決」を図るたびにむしろそこから遠ざかり、患者の分断と事件の混迷を深めてきたことをあきらか にした。
水俣病事件をめぐる「かつて」の記録の検証は、地域社会水俣における記憶の対立が生まれた過程や背景を、
60
余年に及ぶ時空間で生じたいくつもの出来事によって問いなおすことを可能にする。その一方で、「いま」
の地域社会水俣における記憶の対立は、膨大な史資料を前にして、ともすれば過去を見つめるための焦点を見 失ってしまいかねない記録の検証をめぐって、 揺らぐことのない視座を提示してくれる。そのような、 「かつて」
と「いま」の相互的、相補的な関係こそが、水俣病事件を「記憶と記録として」検証することの実践的な意義 を示唆するのではないだろうか。
[注]
1 「祈りの言葉」の全文は、「熊本県水俣市環境サイト」
(https://www.city.minamata.lg.jp/kankyo/kiji0032027/3_2027_up_zh8ivv4u.pdf:2020年11月12日取得)から確認できる。
2 1956年5月8日付の『西日本新聞』は、「公式確認」された水俣病を「死者や発狂者出る、水俣に伝染性の奇病」と報じ ている(小林 2007: 22)。
3 熊本県公式ホームページ(https://www.city.minamata.lg.jp/kiji00375/index.html:2020年11月12日最終閲覧)より引用。
4 熊本県公式の「熊本型教育旅行サイト」のホームページ(http://kumamoto.guide/shugaku/programs/detail/239:2020年11月 12日最終閲覧)では、水俣病資料館がつぎのように紹介される。「水俣では昭和31年(1956年)に公害の原点ともいわれる 水俣病が確認されてから約60年もの間、多くの難問と直面してきました。この資料館は、二度と同じ過ちをくり返さない ように、また水俣病の歴史と現状を多くの人々に正しく理解してもらいたいという願いを込めて設立されました」。
5 金瑛(2020)は、アルヴァックスのいう「集合的記憶」をつぎのように定義する。「〈集合的記憶〉において想起される過 去には、自らが体験したことがない他者の記憶や集団の記憶も含まれている」。「〈集合的記憶〉は、他者や集団のエピソー ド記憶を、自己のエピソード記憶と同じ資格で想起することである」(金 2020: 124)。
6 水俣病歴史考証館ホームページ(http://www.minamatadiseasemuseum-jp.net/:2020年11月12日最終閲覧)より引用。
7 事件発生当時のチッソ社長と水俣工場長は、1976年に熊本地検によって業務上過失致死傷罪の容疑で起訴され、1988年 に最高裁への上告が棄却されるかたちで有罪が確定している(小林 2012: 139)。
8 「アルヴァックスが『再構成』ということで論じているのは、現在の主体が過去のイメージを一方的に操作するというこ とではない。人間が過去との関係をどのように作り直しているのか、そこにおいてどのようなことが生じているのかを、ア ルヴァックスは論じているのだ」(金 2020: 71-2)。
9「過去が現在においてリアリティを持つのは、過去が現在に連続しているという時間意識を主体が持つからである。だと すれば、〈集合的記憶〉が成立するのは、複数の人間の間で、特定の集合的時間が共有された時であると言えるだろう。同 じような理念・関心・専心の下で過去を眺めるからこそ、他者の記憶をも自己の記憶と同じ資格で想起することが可能にな
る」(金 2020: 153)。「〈集合的記憶〉は、特定の集合的時間という幻想が複数の人間の間で共有されることによって成立し、
集合的時間の多様さに応じて〈集合的記憶〉も多様性を持つ」(金 2020: 155)。
10 乙女塚を建立したのは、水俣病の被害を長年にわたって一人芝居で演じた砂田明であり、そこには、21歳で逝去した胎 児性患者の上村智子の遺品が納められている。この空間での慰霊式は、2020年にも規模を縮小するかたちで行われた。
11「想い出とは大部分、現在から借用した所与の力を借りて過去を再構成することであり、その一方では、以前の時代にな された別の再構成によって準備された過去の再構成である。(中略)想い出は定義上、われわれが物語や証言や他人の打ち 明け話などの助けを借りて反省することにより、われわれの過去のあるべき姿について思い抱く多かれ少なかれ正確な観念 とは、区別されるのである」(Halbwachs 1950=1989: 73)。
12 スティグレールは、世界最大規模のデジタルアーカイヴのひとつである、フランス国立視聴覚研究所の副所長などを歴任 している。
13 スティグレールは、広義の技術である活字、音声、映像が、ひとつの出来事を異なる時空間でも同一に反復させうるとい う点で、出来事の「オルトテティック(orthothétique)」=「正確」な記録を可能にしているという。「テクストはずっと同 じであるけれども、そのテクストの反復ごとに毎回異なる新たな読解が絶えず生まれる」(Stiegler 2004=2009: 108)。
14 「遅延化した時間として経験されるテクスト性。それは後知恵である」(Stiegler 1996=2010: 90)。
15 「後知恵としての先取りは、本質的に遅延化された時間なのである」(Stiegler 1996=2010: 90)。
16 小林(2007: 58-60)は、欺瞞的な性格をもつ「見舞金契約」の締結が、当時の新聞報道では「報われた患者の努力」(『熊
本日日新聞』1959年12月31日)、患者補償の「円満解決」(『朝日新聞』同日)などと報じられていたことをあきらかにし ている。
[引用文献]
Halbwachs, M., [1925] 1994=2018, Les cadres sociaux de la mémoire, Paris : Albin Michel(鈴木智之訳『記憶の社会的 枠組み』青弓社.)
――――, 1950=1989, La mémoire collective, Paris : Presses Universitaires de France(小関藤一郎訳『集合的記憶』行 路社.)
原田正純,1972,『水俣病』岩波書店.
石牟礼道子,2006,『神々の村』藤原書店.
金瑛,2020,『記憶の社会学とアルヴァックス』晃洋書房.
小林直毅,2007,「総説 『水俣』の言説的構築」小林直毅編著『「水俣」の言説と表象』藤原書店.
――――,2012,「『水俣』の樹」早稲田大学ジャーナリズム教育研究所・公共財団法人番組センター『放送番組 で読み解く社会的記憶――ジャーナリズム・リテラシー教育への活用』日外アソシエーツ.
水俣病50年取材班,2006,『水俣病50年――「過去」に「未来」を学ぶ』西日本新聞社.
Stiegler, B., 1996=2010, La technique et le temps tome2: La désorientation, Paris: Éditions Galilée.(石田英敬・西兼志訳
『技術と時間 2――方向喪失 ディスオリエンテーション』法政大学出版局.)
――――, 2004=2009, Philosopher par accident, Paris: Éditions Galilée.(浅井幸夫訳『偶有からの哲学――技術と記憶 と意識の話』新評論.)
渡辺京二,2006,「解説『苦海浄土』三部作で要の位置を占める作品」石牟礼道子『神々の村』藤原書店.