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密教文化 Vol. 1984 No. 148 004小野 勝年「空海の将来した「大唐貞元新訳十地等経記」――「悟空入竺記」のこと―― P48-80」

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密 教 文 化

﹁ 悟 空 入 竺 記 ﹂ の こ と

わ が 空 海 ・ 弘 法 大 師 が 長 安 の 西 明 寺 に お い て 二 十 余 名 の 経 生 に 托 し、 自 ら も 筆 を と っ て、 書 写 し 将 来 し た 経 典 の う ち、 ﹁ 三 十 帖 策 子 ﹂ と し て 現 に 国 宝 に 指 定 さ れ、 京 都 の 仁 和 寺 に 秘 蔵 さ れ て い る こ と は 欣 快 に 堪 え な い。 一 具 の 経 典 が も と も と は 三 十 入 帖 か ら な る 策 子 で あ っ た こ と は 第 十 四 帖 の 巻 末 に 空 海 が 自 筆 で し る し た ﹁ 策 子 目 録 ﹂ 三 十 五 行 が あ っ て 明 か で あ る。 こ れ に よ る と 欠 落 し た 八 帖 の 経 典 の 中 に、 ﹁ 十 地 経 ﹂ 二 帖 が 含 ま れ て い た こ と が 知 れ る。 こ の 一 帖 に 該 当 し て い る 経 典 が、 か つ て 仁 和 寺 で 行 わ れ た 大 蔵 会 に お い て 公 開 さ れ、 異 常 な 関 心 を 呼 び 起 し た こ と が あ っ た が、 こ れ も ま た 旧 国 宝 と し て 指 定 さ れ、 改 め て 今 目 は ﹁ 指 定 文 化 財 総 合 目 録 ﹂ に、 書 ( 昭 和 一 六 ・ 七 ・ 三 ) 紙 本 墨 書 ﹁ 十 地 経 ﹂ 並 ﹁ 十 力 経 ﹂ ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ と し て、 登 録 さ れ て い る。 こ の 二 帖-以 下 前 帖 ・ 後 帖 と 呼 ぶ-は お の お の 縦 一 四 ・ ○ セ ン チ、 横 一 四 ・ 五 セ ン チ、 良 質 の 薄 手 料 紙 を 用 い て 粘 葉 装 と し、 前 帖 は 本 紙 一 六 九 葉、 後 帖 は 四 十 七 葉 か ら な り、 こ れ に 内 表 紙 お よ び 紫 絹 の 外 表 紙 な ど が あ っ た が、 現 在 は 補 修 が 加 っ て い る。 こ れ に は 前 帖 に ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂ ﹁ 仏 説 十 地 経 ﹂ 大 唐 国 僧 法 界、 従 中 印 度、 持 此 梵 本、 請 干 閲 三 蔵 沙 門 羅 達 摩、 於 北 庭 龍 興 寺 訳。 巻 第 一-巻 第 七。 後 帖 に は ﹁ 仏 説 十 地 経 ﹂ 大 唐 僧 法 界 従 中 天 竺、 将 此 梵 爽 経、 請 干 聞 三 蔵界 羅 達 摩、 於 北 庭 龍 興 寺 訳。 巻 第 九 ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂ (巻 首 欠 落 )

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マ マ マ マ ﹁ 仏 説 十 力 経 ﹂ 三 蔵 沙 門 勿 堤 堤 犀 魚 於 安 西 蓮 花 寺 訳 畢、 進 上、 ﹁ 仏 説 廻 向 輪 経 ﹂ 干 聞 三 蔵界 羅 達 摩、 於 北 庭 龍 興 寺 訳。 ど 書 写 し、 内 表 紙 に は か す か に ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ ﹁ 十 地 経 ﹂ な ど の 題 字 が あ り、 そ の 裏 側 に 禅 林 寺 と い う 異 筆 の 墨 書 が あ る。 昭 和 七 年 ( 一 九 三 七 ) に、 い つ 早 く 調 査 さ れ た 長 谷 宝 秀 師 の 添 状 ( ﹁ 御 室 仁 和 寺 所 蔵 古 写 本 十 地 経 等 校 勘 記 ﹂ ) に よ る と、 ﹁ 十 地 経 ﹂ 九 巻 之 内、 第 八 巻 闘。 第 一 巻 内 一 紙 脱。 第 三 巻 内 一 紙 脱。 第 四 巻 内 二 紙 脱。 第 七 巻 終 一 処 二 紙 脱。 ﹁ 十 力 経 ﹂ 一 巻。 ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ 一 巻。 ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂ ( ﹁ 法 界 悟 空 入 竺 記 ﹂ ) 二 通 あ り。 一 通 は ﹁ 十 地 経 ﹂ の 前 に あ り、 一 通 は ﹁ 十 力 経 ﹂ の 前 に あ り。 ( 中 略 ) 筆 跡 を 見 る に、 恐 ら く 唐 人 の 書 な ら ん か。 ﹁ 三 十 帖 策 子 ﹂ の 中、 第 五 帖 ﹁ 仁 王 陀 羅 尼 釈 ﹂ ﹁ 蓮 花 大 曼 茶 羅 品 ﹂ と 書 風 頗 る 相 似 た り。 又 ﹁ 三 十 帖 策 子 ﹂ 中 に ﹁ 十 地 経 ﹂ ﹁ 十 力 経 ﹂ ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ な し。 依 っ て 思 う に、 こ の 本 は ﹁ 三 十 帖 策 子 ﹂ の 同 類 の 本 に し て、 我 が 大 師 の 御 請 来 な る べ し。 と い い、 ﹁ 実 に 是 れ、 宗 宝 な り、 国 家 は 宜 し く 国 宝 と し て 万 代 に 珍 重 す べ き も の な ら ん か ﹂ と 結 ん で お ら れ る。 思 い 起 せ ば、 昭 和 四 十 一 年 ( 一 九 六 六 ) 四 月、 奈 良 国 立 博 物 館 に お け る 特 展 ﹁ 請 来 美 術 ﹂ に、 仁 和 寺 の 御 好 意 に よ っ て ﹁ 三 十 策 子 ﹂ お よ び ﹁ 十 地 経 ﹂ 等 二 帖 の 出 品 を 得、 こ れ に 関 与 し た 一 人 と し て、 親 し く 披 見 の 幸 運 に 恵 れ た 感 激 は 今 な お ( 1 ) 忘 れ 得 な い。 さ て、 改 め て、 二 帖 に 書 写 さ れ て い る ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂ ー 以 下 ﹁ 経 記 ﹂ と い い、 二 帖 を 前 本 と 後 本 と い う ー に つ い て み よ う。 前 本 は 十 一 紙、 各 紙 と も 十 六 ー 七 行、 三 行 十 入 字 か ら 二 十 二 字 前 後 で 書 写 さ れ、 総 行 数 は 題 記 と 共 に 一 五 九 行 で あ る。 巻 首 の 部 分 に 欠 落 が あ る が、 全 文 概 ね 完 好 と い っ て よ い。 後 本 は 十 一 紙、 各 紙 十 三 四 行、 一 行 十 六 字 か ら、 ま れ に 十 九 字 も あ る が、 十 七 字 宛 が 最 も 多 い。 総 行 数 は 百 六 十 一 行 で、 巻 首 の 一 紙 分、 恐 ら く 十 四 行 分、 凡 そ 二 百 二 十 字 が 欠 落 し て い る。 一 部 分 に 異 筆 と 疑 わ れ る 個 処 も あ る が、 筆 勢 が あ り、 同 じ 楷 書 体 な が ら、 前 本 に 比 較 す る と、 文 字 は 大 き く、 且 つ 丁 寧 で、 暢 達 で あ る。 通 じ て、 当 時 の 一 般 的 な 写 字 体 で、 例 え ば、 從 を 従、 於 を 打、 所 を 婿、 庭 を 覆、 此 を 此、 憶 を 悩、 蹄 を 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 婦、 願 を 顛、 砥 を 祀、 鳥 を 烏、 孔 を、 乙、 イ を シ、 方 を 才、 ・ 竹 を 十、 あ る い は、 乾 を 軋、 僻 を 辞、 封 を 到、 経 を 経、 懸 を 慈、 稽 を 稽、 還 を 還、 遠 を 遠、 策 を 榮、 岡 を 図、 賓 を 屓、 厨 を 蜀、 龍 を 龍、 髪 を 験、 曜 を 曜、 尭 を 尭、 そ の 他 に 董 を 董 (勤 ・ 僅 )、 達 を 達 の よ う な 減 画、 世 ( 葉 ) を 云 と す る 唐 代 独 特 の 欠 画 文 字 も 見 受 け ら れ る が、 逆 に 明 を 明、 那 を 那、 抜 を 抜、 投 を 投、 突 を 突、 場 を 場 と す る よ う な 画 の 多 い 場 合、 あ る い は 繹 を 繹 と す る 同 画 異 形 の 例 の ご と き、 正 俗 混 用、 細 か な 点 ま で 挙 る と 限 り が な い。 ﹁ 経 記 ﹂ の 古 抄 本 と 七 て は こ の 仁 和 寺 本 ー 空 海 将 来 本 の 右 に 出 る も は 今 の と こ ろ 知 ら れ て い な い が、 降 る も の と し て は 石 山 寺 に 平 安 後 期、 東 寺 の 金 剛 蔵 に 鎌 倉 期 の も の が あ る が、 こ れ ら は い ま だ 披 見 の 機 を 得 な い。 最 澄 が 空 海 か ら 借 覧 し た 聖 教 の 中 に ﹁ 十 地 経 ﹂ 等 三 部 が あ る か ら、 叡 山 天 台 で も 書 写 し た 可 能 性 が あ り、 円 仁 も 別 に 将 ( 2 ) 来 し て い る か ら、 空 海 本 と は 別 個 の 系 統 も あ っ た と 思 わ れ な い で は な い。 中 国 系 の 版 本 で は 高 麗 蔵 や 黄 壁 の 明 蔵 が あ り、 す で に 大 正 蔵 巻 一 七 ・ 経 集 部、 同 巻 五 一 ・ 史 伝 部、 お よ び 続 ( 3 ) 蔵 経 ・ 第 壼 輯 等 に 附 印 さ れ て い る。 史 伝 部 本 は ﹁ 大 日 本 仏 教 全 書 ﹂ の ﹁ 遊 方 伝 ﹂ に 拠 っ た も の で、 新 収 に 当 っ て、 新 た に 金 剛 蔵 や 高 麗 蔵 と 校 勘 を 行 っ て い る が、 何 れ も、 仁 和 寺 本 を 参 照 し て い な い。 ま ず、 こ こ で は 仁 和 寺 本= 空 海 将 来 の 二 帖 を 定 本 と し、 他 本 を 参 照 す べ き で あ る と い う の が 前 提 で、 し か も こ の 秘 籍 ぱ 昭 和 五 二 年 ( 一 九 七 七 ) に 複 製 公 刊 さ れ た か ら 披 見 は 容 易 と な ( 4 ) っ た。 以 下 こ れ に よ っ て、 気 付 い た 用 文 の 若 干 例 を あ げ て み よ う。 ( 5 ) (4) 里 名 郷 義。 高 麗 本-以 下 麗 本 と い う-は こ れ に 同 じ、 印 本 は 饗 義 に 作 る。 13 行 官 奏 傑。 麗 本 は こ れ に 同 じ。 印 本 は 行 官 奉 傑 に 作 る。 15 揚 興 嶺。 諸 本 は 揚 與 嶺、 ま た は 楊 興 嶺。 16 播 蜜 川 ・ 護 蜜 國。 45 迦 淫 蜜 國、 89 拘 蜜 支 國。 諸 本 は 蜜 を 密 に 作 る。 17 藍 婆 國。 諸 本 は 藍 娑 國 に 作 る。 35 此 蒙 靱 寺 者 北 天 竺 王 名 王。 前 本 竺 字 脱。 麗 本 ま た 同 文。 諸 本 名 王 の 二 字 を 欠 く。

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39 49 特 勤。 諸 本 特 勒 に 作 る。 54 容 文 孝 武。 諸 本 春 文 に 作 る。 136 萢 著。 麗 本 は 差、 印 本 は 蒐 に 作 る。 こ の 他 に 89 王 名 黒 末 梅 を 黒 未 梅。 96 質 詮 を 費 詮。 桝 焉 書 を 烏 書。 ま た 113 廻 鵤 を 回 鴫 と し、 5 拓 抜 を 諸 本 は 概 ね 拓 践 に 作 る が ご と き で あ る。 こ こ に は ﹁ 経 記 ﹂ と 略 す が、 一 般 に は ﹁ 悟 空 入 竺 記 ﹂ と し て 知 ら れ て い る の で、 本 文 で も 混 用 す る。 長 安 酉 明 寺 の 学 僧 円 照 が 本 人 悟 空 か ら 直 接 聞 い た こ と に 基 い て、 ﹁ 十 地 経 ﹂ 等 三 部 を ﹁ 貞 元 続 釈 教 目 録 ﹂ に 編 入 す る に 当 っ て 撰 述 し た、 い わ ば 序 文 で あ る。 た だ し、 そ の 内 容 に 注 目 す べ き こ と が 多 い と こ ろ か ら、 す で に 引 用 も 多 く、 そ の 点 で は 別 に 目 新 し く は な い。 古 く は ﹁ 宋 高 僧 伝 ﹂ 巻 三、 上 都 章 敬 寺 悟 空 伝 や 丘 慈 国 蓮 華 寺 蓮 華 精 進 伝 ・ 北 庭 龍 興 寺 戒 法 伝 が こ れ に よ っ て い る。 新 ら し い 史 学 の 立 場 か ら 注 目 さ れ る に い た っ た の は 十 九 世 紀 末 か ら で あ る と し て よ い で あ ろ う。 こ と に 一 八 九 五 年 に イ ン ド 学 の シ ル ヴ ァ ン ・ レ ヴ ィ ( M ・ M ・ s y lv a levi )、 東 洋 学 の シ ャ ヴ ァ ン ヌ ( E ・ U ・ O b a v a m e s) の 両 教 授 に よ っ て 共 訳 さ れ、 v O y a g

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U \ O u -k ong と し

て、journal asiatique 1985 tone

に 発 表 さ れ て 以 来 欧 米 の 学 界 に 注 目 さ れ る と こ ろ 勘 な か ら ざ る も の が あ っ た。 逸 早 く、 カ ル ハ ナ (kalhana ) の ﹁ カ シ ミ ー ル 王 年 代 記 ﹂ (tajatarangini ) の 訳 者 の ス タ イ ン 卿 ( S ・ b ・ S t e n ) に 影 響 ( 6 ) を 与 え た ご と き で あ る。 レ ヴ ィ 教 授 が ﹁ 入 竺 記 ﹂ の 訳 註 を 試 み る に い た っ た 契 機 は 藤 島 了 穏 師 を 介 し て、 西 本 願 寺 か ら ア ジ ア 協 会 に 寄 贈 さ れ た ( 7 ) ﹁ 大 目 本 縮 冊 蔵 経 ﹂ を 通 じ て で あ っ た と い う。 中 国 や 目 本 は 原 文 を 自 由 に 解 読 で き る 立 場 に あ り、 中 央 ア ジ ア 史 の 研 究 に 目 が 向 け ら れ、 ﹁ 大 唐 西 域 記 ﹂ は も ち ろ ん の こ と、 敦 燈 発 見 の ﹁ 慧 超 伝 ﹂ な ど と な ら ん で そ の 意 義 は 高 く 評 価 さ れ、 大 正 四 年 ( 一 九 一 五 ) に は ﹁ 大 日 本 仏 教 全 書 ﹂ の 遊 方 伝 中 に 収 め ら れ る な ど、 現 在 に 至 っ て い る。 た だ し、 わ が 国 へ の 最 初 の 将 来 者 で あ る 空 海 と 関 連 し て の 意 義 付 け が は じ ま っ た の は 上 述 の よ う に 昭 和 に な っ て か ら で あ り、 そ し て、 そ の 具 体 的 な 解 明 に 関 し て は む し ろ 今 後 に 侯 つ と い え る。 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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-51-密 教 文 化 註 ( 1 ) こ の 展 覧 会 の 図 録 は 昭 和 四 二 年 ( 一 九 六 七 ) ﹁ 請 来 美 術 図 録 ﹂、 版 権 所 有 者 文 化 財 保 護 委 員 会 ・ 編 集 兼 発 行 者 奈 良 国 立 博 物 館 と し て 公 刊 さ れ た。 想 起 し て、 当 時 の 同 僚 諸 氏 の 協 力 に 謝 意 を 表 す る 次 第 で あ る。 ( 2 ) 弘 仁 三 年 十 二 月 十 八 日 付、 最 澄 か ら 智 泉 宛 の 書 状 ( ﹁ 平 安 遺 文 ﹂ 巻 八 ・ 補 遺 )。 承 和 十 四 年、 円 仁 ﹁ 入 唐 新 求 聖 教 目 録 ﹂ (拙 著 ﹁ 入 唐 求 法 巡 礼 行 記 の 研 究 ﹂ 巻 四 附 録、 大 正 蔵 目 録 部 そ の 他 )。 ( 3 ) 高 麗 蔵 に お い て は ﹁ 経 記 ﹂ は ﹁ 十 力 経 ﹂ の 巻 頭 の み に 掲 げ ら れ、 印 本 大 蔵 経 は こ れ に よ っ て い る。 同 蔵 本 は 大 唐 貞 元 と す べ き を 大 唐 正 元 と し て い る。 高 麗 二 八 代 忠 恵 王 禎、 あ る い は 北 宋 三 代 仁 宗 禎 の 誰 を 避 け た の で あ ろ う。 な お 南 唐 恒 安 の ﹁ 保 大 続 貞 元 釈 教 目 録 ﹂ に は ﹁ 十 力 経 ﹂ 一 巻、 ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ 一 巻、 ﹁十 地 経 L 九 巻 の 順 序 で、 右 三 経 共 十 一 巻 同 秩。 此 三 経 十 一 巻。 同 一 序 記、 在 十 力 経 前。 云 々 と あ っ て、 ﹁ 経 記 ﹂ は 一 秩 の う ち、 ﹁十 力 経 ﹂ の 前 に あ る と し る し て い る。 三 部 の 配 例 順 は ﹁ 貞 元 釈 教 録 ﹂ も 同 様 で あ る が、 将 来 本 の 場 合 は ﹁ 十 地 経 ﹂ ﹁ 十 力 経 ﹂ ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ の 順 序 で あ り、 円 仁 の ﹁ 聖 教 目 録 ﹂ に お い て は ﹁ 十 力 経 ﹂ ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ の 二 部 か ら 中 間 に 十 部 を 隔 て て ﹁ 十 地 経 ﹂ を 掲 げ て い て、 別 巻 で あ っ た 可 能 性 も あ る。 ﹁ 策 子 目 録 ﹂ に は 十 地 経 策 子 二 帖 と あ っ て、 ﹁十 地 経 ﹂ ﹁ 十 力 経 ﹂ ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ の 順 序 で 書 写 さ れ、 し か も ﹁ 経 記 二 本 が 巻 首 と 巻 中 と に そ れ ぞ れ 掲 げ ら れ、 当 初 の 姿 を 示 す と 考 え ら れ る の で あ る。 ( 4 ) 国 宝 ﹁ 三 十 帖 策 子 ﹂ ・ 重 要 文 化 財 ﹁ 十 地 経 策 子 ﹂。 昭 和 五 十 二 年、 仁 和 寺 三 十 帖 策 子 刊 行 会。 京 都 法 蔵 館 発 行。 ( 5 ) の 中 の 数 字 は 前 本 (後 掲 ) の 行 数 を 示 す。 ( 6 ) 翌 一 八 九 六 年 に ス タ イ ン 卿 は、 N O te

s in ou kinngs accout of kacir

(journal 1895 ) を 発 表 し、 附 録 と し

てthe kacmir capital

Uese annals を 加 え た。 さ ら に、 k a U la u s r a a tr a in cb rO u

icle of the kings of

vol ii に お い て は 悟 空 に 関 し て 九 カ 所 引 用 し、 そ の 後、 彼 の 中 央 亜 細 亜 踏 査 お よ び 研 究 に 資 す る と こ ろ が あ っ た と 思 わ れ る が こ こ に 一 々 検 索 す る 余 裕 は な い。 ( 7 ) こ の 翻 訳 に、 レ ヴ ィ 教 授 の 弟 子 で あ っ た 南 條 文 雄 博 士 が 関 与 し た こ と は 翻 訳 の 序 文 に 藤 島 了 穏 師 と と も に そ の 名 を 挙 げ て い る。 こ れ に つ い て は 前 島 信 次 ﹁ シ ル ヴ ァ ン ・ レ ヴ ィ と 日 本 ﹂ ( 東 西 文 化 交 流 史 の 諸 相 ) 参 照 の こ と。 悟 空 の 行 歴 と そ の 背 景 仁 和 寺 ー 空 海 将 来 本 は 時 代 的 に も、 書 写 の 点 で も、 定 本 た る に ふ さ わ し い こ と を 指 摘 し た が、 以 下、 主 人 公 悟 空 の 行 歴 と 背 景 に 立 入 る こ と と し た い。

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悟 空 と は 晩 年 の 法 号 で、 出 家 名 は 法 界、 梵 語 で 達 摩 駄 都 (dharma dhatu )、 俗 名 は 車 奉 朝 で あ っ た。 逆 算 す る と 玄 宗 の 開 元 十 七 年 ( 七 二 九 ) の 生 れ で、 京 兆 府 ・ 雲 陽 県 ・ 青 龍 郷 ・ 郷 (饗 ) 義 里 と い う か ら、 ・現 在 の 陳 西 省 ・ 滉 陽 県 ・ 雲 陽 鎮 付 近 の 人 で あ り、 か つ 北 魏 拓 抜 氏 の 後 喬 と あ る。 車 氏 は ﹁ 北 魏 書 ﹂ 巻 一 一 二、 官 氏 志 に よ る と、 鮮 卑 族 の 車 煙 氏 を 漢 姓 に 改 め た も の。 彼 の 伝 歴 を 分 け る と、 在 俗 と 出 家 と な り、 さ ら に 伝 記 は(一) 赴 厨 賓 使 節 随 員 時 代、(一) 出 家 遊 歴 時 代、 日 帰 還 途 上、 (四) 帰 朝 以 降 と な る。(一) 赴 魔 賓 時 代 は 天 寳 十 載 (七 五 〇 ) か ら、 同 十 二 載 ( 七 五 三 ) の 間 で、 宙 官 の 張 翰 光 が 中 使 と な り、 ( 1 ) ( 2 ) 行 官 ・ 奏 傑 等 三 行 四 十 余 名 が 魔 賓 の 遣 使 に 対 す る 答 礼 使 節 と し て 彼 の 地 に 赴 く こ と と な っ た の で、 車 奉 朝 が 随 員 と し て、 ( 3 ) 左 衛 ・ 浬 州 四 門 府 別 将 ・ 員 外 置 同 正 員 と い う 肩 書 を 帯 び て、 ガ ン ダ ー ラ に 到 る 問 で あ る。 張 翰 光 の 遣 使 の こ と は ﹁ 経 記 ﹂ に よ る と、 同 九 載 ( 七 四 九 ) ( 4 ) に 厨 賓 か ら 大 首 領 の 薩 婆 達 幹 と 舎 利 越 魔 三 蔵 の 朝 貢 が あ り、 唐 朝 か ら も 遣 使 さ れ る よ う に 請 願 し た の で、 こ れ に 応 じ て の 派 遣 で あ っ た。 こ の こ と は 正 史 に は 見 当 ら な い。 正 史 に は 天 宝 時 代 の 両 国 関 係 と し て、 同 四 載 ( 七 四 五 ) に 勃 旬 準 を 闘 賓 王 に 冊 立 し た こ と、 同 七 載 ( 七 四 八 ) に も 恪 恒 国 と 共 に 来 朝 し、 そ の 後 同 十 二 載 ( 七 五 三 ) に 朝 貢 の こ と が 見 え る の み で あ る。 こ の 遣 使 の 意 味 は、 単 な る 通 交 の み な ら ず、 当 時、 吐 蕃 の 拾 頭 が い よ い よ 顕 著 な ら ん と す る 際 で も あ っ た の で、 唐 側 は こ れ を 牽 制 す る 意 図 が 強 く ふ く ま れ て い た。 そ し て 厨 賓 ( 5 ) ( カ ピ シ ー ) 側 に も 対 応 が あ っ た と 思 う。 思 う に、 安 西 副 大 都 護、 高 麗 出 身 の 将 軍 高 仙 芝 (1 七 五 五 ) が 歩 騎 一 万 人 を 率 い て、 ハ ミ ー ル か ら 坦 駒 嶺 ( u a r k t p a s s ) を 越 え て、 勃 律 ( ボ ロ ー ル ) に 遠 征 し た の は そ う し た あ ら わ れ の 一 で あ っ た。 そ れ は 天 宝 六 載 ( 七 四 七 ) の こ と で、 張 翰 光 一 行 の 出 使 に 先 き 立 つ こ と 三 力 年 前 に 当 る。 そ し て、 こ の と き の 遠 征 軍 に よ る 亀 弦 (安 西 ) か ら パ ミ ー ル 越 え の 通 路 は 遣 使 一 行 の 行 程 を 考 え る に 当 っ て 役 立 つ。 ﹁ 経 記 ﹂ に は ﹁ 安 西 路 を と り、 次 は 疏 勒、 次 に 葱 山 を 度 り、 揚 興 嶺 お よ び 播 密 川 ・ 五 赤 匿 国-ま た 式 匿 と い う-、 次 に 護 蜜 国 ﹂ と あ る。 高 仙 芝 の 遠 征 路 は ﹁ 両 唐 書 ﹂ 仙 芝 伝 に 記 載 が あ り、 ﹁ 新 唐 書 ﹂ 巻 一 二 五 で は、 天 宝 六 載、 仙 芝 に 詔 し 歩 騎 一 万 を 以 っ て 出 討 せ し む。 ・ ・ 乃 ち 安 西 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 よ り 棲 換 城 を 過 ぎ、 握 悪 徳 に 入 り、 疏 勒 を 経 て、 葱 嶺 に 登 り、 播 密 川 を 渉 り、 遂 に 特 勒 満 川 に 頓 す。 行 く こ と 凡 そ 百 日。 特 勒 満 川 は す な ち わ 五 識 匿 国 な り、 仙 芝 す な わ ち 軍 を 分 け て 三 と な し、 仙 芝 と 監 軍 の 邊 令 誠 と は 護 蜜 よ り と も に 入 り、 連 雲 墜 に 会 せ ん と 約 す。 と 見 え る。 さ ら に ﹁ 旧 唐 書 ﹂ 巻 一 〇 四 は、 安 西 ( 亀 弦 ) -十 五 日-揆 換 城 ( 温 宿 シ )-十 日-握 麸 得 ( ト ム シ ュ ク ) ー 十 余 日 ー 疏 勒 ( カ シ ュ ガ ル ) ー 二 十 余 日 ー 葱 嶺 守 捉 ヘ タ シ ク ル ガ ン ) ー 二 十 余 日-播 密 川 ( パ ミ ー ル ) -二 十 余 日-特 勒 満 川 H 五 識 匿 国 ( シ グ ナ ム )。 ( 6 ) と、 日 数 を も 記 載 し て い る。 護 蜜 国 は 一 に 達 摩 悉 鉄 帝 ・ 護 偏 ・ 鉢 和 と も し る さ れ、 ワ ッ ハ ン 渓 谷 に 当 り、 都 城 は 塞 迦 審、 す な わ ち 渓 谷 の 西 端 に 当 る イ シ カ シ ム (ishkashim ) に 擬 せ ら れ て い る。 こ こ か ら 更 に 遣 使 の 一 行 は 拘 緯-葛 藍-藍 婆 の 諸 国 を 経 て い る。 拘 緯 は 拘 衛 ま た は 倶 位 と も し る さ れ る 国 で、 商 弥 の 別 名 で あ る。 後 者 は s y a a k a ま た は s a m a k a raja の 対 音 と い い、 自 称 に も と ず く の に 対 し、 前 者 は khoq a r の そ れ で あ る こ と は す で に 藤 田 豊 八 博 士 の 考 証 す る と こ ろ で、 現 在 の O b i a -( 7 ) に 当 る。 ま た 藍 婆 は ﹁ 西 域 記 ﹂ の 濫 波、 ﹁ 慧 超 伝 ﹂ の 覧 波 で、 現 在 の lamghan or laghman 地 方 に 当 る。 中 間 の 葛 藍 は は っ き り し な い が、 ク ナ ー ル 河 ( k u n a r r ) に 沿 う て、 カ ー ブ ル 河 と の 交 流 地 点 に い た り、 そ こ か ら laghman 地 方 に お よ ん だ の で あ ろ う。 と こ ろ が、 さ ら に 西 北 に 位 置 す る 尉 賓 ( カ ピ シ ー ) の 都 城 に は 向 わ ず に 中 途 で 引 返 し た。 こ の 理 由 は、 当 時、 魔 賓 の 都 城 で あ る vegram は 夏 の 都 城 で あ っ た た め と 解 さ れ る。 こ の 国 は 二 都 制 を 採 つ て い て、 王 は 夏 と 冬 そ ( 8 ) の 治 所 を 更 え た。 た ま た ま 冬 期 の こ と で、 王 者 が 夏 都 た る Begram 日 に 居 な い こ と を 知 っ た か ら で あ ろ う。 藍 波 国 か ら は 葵 和 国 に 至 っ て い る。 藁 和 の 地 点 は は っ き り し な い が、 西 方 か ら ガ ン ダ ー ラ に 向 う い わ ゆ る 孔 道 を 取 ら な か っ た。 孔 道 と は カ イ バ ル 峠 越 え の 通 路 を 指 す。 も っ と も、 ・ ア レ キ サ ン ダ ー ( 前 三 五 六 ー 三 二 三 ) の 遠 征 路 が 示 す よ う に、 往 古 は 別 路 も 用 い ら れ た で あ ろ う。 一 行 は そ う し た 別 路 を と り、 藥 和 を 経 て、 先 ず 烏 杖 那 国 に 到 っ て い る。 こ れ は 当 時 こ ( 9 ) の 地 が 蜀 賓 王 の 管 下 に 属 し た こ と が 一 因 と 考 え ら れ る。 烏 杖 那 ( ウ デ ヤ ナ ) は 烏 長 ・ 烏 纒 に 作 り、 そ の 外 ﹁ 法 顕 伝 ﹂ の 烏 蔑、 s k t は uddiyana 等 に 作 る こ と は 触 る ま で も あ る ま い。 ﹁ 経 記 ﹂ に は 烏 侯 那 国 ・ 荘 識 勃 国 云 々 と あ る。

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こ の 荘 識 勃 国 は 荘 識 勃 城 と あ る べ き で、 ウ デ ィ ヤ ナ の 首 都 を 指 す と 考 え ら れ、 す な わ ち ﹁ 西 域 記 ﹂ の 曹 掲 楚 城 に 当 り、 現 在 の M iu g r a of mingaira に 擬 せ ら れ る。 そ れ に つ い て は 後 に も 言 及 す る。 か く て 烏 杖 那 の 荘 識 勃 城 か ら、 高 頭 城-摩 但 国-信 度 城 に 到 っ た。 信 度 城 は 信 度 河 に 近 く、 一 に 信 図 と も 辛 頭 城 と も い う と 註 記 し、 こ こ は イ ン ダ ス 河 に 臨 む 都 城 だ と あ る。 こ の 城 の こ と は ﹁ 慧 超 伝 ﹂ に も 見 え る が、 後 者 は 記 述 に 曖 昧 な と こ (10 ) う が あ り、 そ の た め 異 っ た 見 解 も あ る が、 同 処 を ﹁ 西 域 記 ﹂ の 烏 鐸 迦 漢 茶 城 に あ て る こ と が も っ と も 穏 当 と 思 う。 玄 は 烏 鐸 迦 漢 茶 城 か ら 烏 侯 那 に 往 復 し て い る が、 そ の 間 六 百 余 里 で あ っ た と し て い る。 こ の 城 は ﹁ カ シ ミ ー ル 王 年 代 記 ﹂ ( B a a t a r agini ) に も udabhandapura と し て し る さ れ、 古 く 地 理 学 者 の カ ニ ン グ ガ ム の 比 定 以 来、 諸 家 が 認 め て、 イ ン ダ ス 河 と カ ー ブ ル 河 の 合 流 点 近 く、 す な わ ち ataock の 東 北、 十 六 マ イ ル の 故 趾 ohind or hunf に 当 る と さ れ て い る と こ ろ で あ る。 そ し て か つ て 厨 賓 の 副 都 城 と も な り、 ﹁ 慧 超 伝 ﹂ に は、 そ こ か ら ペ シ ャ ワ ー ル の 東 北 部 の shah hi dheti に あ っ た 雀 麗 浮 図 ま で は 三 日 行 程 だ と し る さ れ て い る。 中 間 の 高 頭 城 と 摩 但 に つ い て、 前 者 を マ ラ カ ン ド (mala k a n d ) 附 近、 後 者 を マ ル ダ ン ( M ardan ) に 擬 し た こ と が あ (11 ) る が、 根 拠 の 薄 弱 の そ し り は あ っ て も、 一 行 が 烏 杖 那 か ら 健 駄 還 に 向 う 途 次 と し て、 こ の 地 方 を 通 過 し た 蓋 然 性 は 残 さ れ て い る。 一 行 が 信 度 城= 烏 鐸 迦 漢 茶 城 か ら 転 じ て ガ ン ダ ー ラ に 到 っ た の は 天 宝 十 二 載 ( 七 五 三 ) 二 月 二 一 日 で あ っ た。 ガ ン ダ ー ラ と は 冬 の 都= 東 都 城、 す な わ ち ﹁ 西 域 記 ﹂ の 布 路 沙 布 遷 " ペ シ ャ ワ ー ル (peshaqat ) で あ る。 信 度 城 を 往 訪 し た の は こ の 地 が 交 通 上 の 要 地 で あ っ た ば か り で な く、 政 治 行 政 上 で 重 (12 ) 要 で あ っ た こ と に も よ る も の で あ っ た。 厨 賓 王 の 勃 葡 準 の 在 位 中 で あ り、 彼 は 冬 期 の こ と と て、 こ の 城 か、 恐 ら く べ シ ャ ワ ー ル に 駐 在 し て い た で あ ろ う。 使 節 三 行 は べ シ ャ ワ ー ル に 到 り、 外 交 的 役 割 を 一 応 果 す こ と が で き、 い よ い よ 帰 還 す る こ と に な っ た と 思 わ れ る。 一 行 の 帰 還 途 上 の こ と、 帰 朝 報 告 の こ と な ど は 安 史 の 乱 の 勃 発 と い っ た 大 事 件 の た め、 遂 に 正 史 に 記 録 さ れ る に 到 ら な か っ た の は 残 念 で あ る。 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 ペ シ ャ ワ ー ル で 重 患 に 罹 っ て 取 り 残 さ れ た 車 奉 朝 は か く て 遣 使 随 員 の 身 分 を 離 れ る。 以 後 一 介 の 僧 侶 と し て の 修 行 時 代 が は じ ま り、 十 力 年 間 に わ た る の で あ る。 至 徳 二 載 (七 五 七 )、 車 奉 朝 は ガ ン ダ ー ラ で 越 魔 三 蔵 に つ い て 出 家 し、 法 号 を 達 摩 駄 都 (dharma dhatu )、 漢 訳 し て 法 界 と い っ た。 時 に 一 十 七 歳。 こ れ に 続 い て、 カ シ ミ ー ル 修 行 時 代 が 約 四 力 年、 再 び ガ ン ダ ー ラ に 戻 っ て か ら 約 ニ カ 年、 さ ら に 中 天 竺 の 聖、 入 大 霊 場 巡 礼 と ナ ー ラ ン ダ 寺 留 錫 期 間 が 三 力 年 余、 こ の 後、 烏 杖 那 を も 巡 礼 し、 遂 に ガ ン ダ ー ラ か ら 帰 国 の 途 に つ く の で あ る。 (13 ) 乾 元 二 年 ( 七 五 九 )、 法 界 は カ シ ミ ー ル の 蒙 靱 寺 で 具 足 戒 を 受 け た。 ﹁ こ の 蒙 靱 寺 は 北 天 竺 王 の 名 王 が 践 位 の 後 に、 こ (14 ) の 寺 を 建 つ ﹂ と し る し て い る。 こ の ﹁ 名 王 ﹂ に 該 当 す る の は ﹁ 王 年 代 記 ﹂ の カ ー ル コ タ 王 朝 (karkota ) の ム ク タ ピ ー ダ ・ ラ リ タ デ ー タ (muktapida lalitaditya ) に 該 当 す る で あ ろ う。 蒙 靱 (mounga ti ) も 恐 ら も muktapida の 略 と 思 わ れ る。 こ の 王 は 使 節 の 物 理 多 を 朝 貢 せ し め、 開 元 二 十 一 (15 ) 年 ( 七 三 三 )、 唐 朝 か ら 冊 立 さ れ て い る。 ﹁ 王 年 代 記 ﹂ に よ る と、 在 位 は 三 十 六 力 年 に お よ び、 名 王 の 誉 が 高 か っ た が、 法 (16 ) 界 の 留 錫 時 代 に 在 位 し て い た か 否 か は 微 妙 で あ る。 ﹁ 経 記 ﹂ に よ る と、 カ シ ミ ー ル に は 当 時 三 百 余 ヵ 所 の 寺 院 が あ っ た と い う。 玄 奨 は 伽 藍 百 余 カ 所 が あ り、 ア シ ョ カ 王 建 立 の 塔 婆 は 四 基 だ と い い、 五 百 羅 漢 に つ い て も 言 及 し て い る (17 ) が、 具 体 的 寺 院 名 は 必 ず し も 多 く な い。 ・ こ れ に 対 し て、 ﹁ 経 記 ﹂ は(一) 蒙 靱 寺 を は じ め、(二) 阿 弥 陀 婆 挽 寺、(三) 阿 難 儀 寺、 (四) 継 者 琴 寺、 (五) 悩 也 羅 寺、 (六) 将 軍 寺、 (七) 也 里 特 勤 寺、 (八) 可 敦 寺 を 挙 げ て い る。 地 点 の 不 明 な の が 惜 し ま れ る が、 こ れ ら の 寺 院 に つ い て、 ス タ イ ン が 考 証 を 試 み て い (18 ) る が、 今、 こ れ を 批 判 す べ き 用 意 を 欠 く。 在 地 諸 王 の 他 に、 也 里 特 勤 寺、 可 敦 寺 の ご と き、 突 厭 の 王 家 の 寄 進 に よ る 寺 院 が あ っ た こ と は 突 蕨 族 の 影 響 力 が こ の 地 方 に 及 ん だ こ と を 示 す も の で、 こ れ に つ い て は 改 め て 触 れ る。 こ の 他、 政 治 に 関 す る 事 柄 と し て、 カ シ ミ ー ル に 通 ず る 四 路 の う ち、 南 路 は 常 時 禁 断 し、 天 軍 の 行 幸 の み、 ] 時 開 く と あ る 点 で あ る。 こ の こ と に 注 目 し た ス タ イ ン が、 そ の 理 由 と し て、 ア ラ ブ 勢 力 の 東 漸 に 対 す る 警 戒 の た め と 指 摘 し た こ と は 傾 聴 す る に 足 り る。 な お、 カ シ ミ ー ル で の 戒 律 に つ い て、 法 界 は 具 戒 の 後、 蒙

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軽 寺 で 調 声 聞 戒 の 後、 根 本 律 儀 を 聴 習 し た が、 ﹁ 然 れ ど も、 北 天 竺 国 は 皆、 薩 婆 多 学 な り、 唐 に て は 根 本 説 一 切 有 と い う ﹂ と し る さ れ て い る 点 で あ る。 律 儀 の 聴 習 と は 果 し て 如 何 か。 当 時 カ シ ミ ー ル で 主 流 を し め た の は 薩 婆 多 律 で あ っ た が、 大 乗 派 も 一 部 行 わ れ た ら し い。 そ し て 薩 婆 多 は 梵 語 s a r vasti vada の 音 訳 で あ る の に、 撰 者 円 照 は と く に こ れ を 根 本 説 一 切 有 部

(mula sarvasti vasa

) と 根 本 を 付 し て い る (19 ) こ と で あ る。 大 暦 十 三 年 ( 七 七 八 ) の 四 分 律 愈 定 に 当 っ て 主 導 的 役 割 を 持 っ た 円 照 が と く に こ の よ う に 註 し て い る こ と も 課 題 で あ る。 カ シ ミ ー ル で の 修 行 を 遂 げ た 法 界 は ガ ン ダ ー ラ に 戻 っ た。 こ こ で の 滞 在 は 広 徳 二 年 ( 七 六 四 ) か ら 逆 算 し て、 七 六 二 ( 宝 応 元 年 ) ー 七 六 四 の 間 と 思 わ れ る。 留 錫 し た の は 如 羅 漉 王 寺 で あ っ た。 こ の 寺 院 は カ ニ シ ュ カ ( k a n ds k a ) 王 の 末 喬 の 建 立 (20 ) に よ る と い っ て い る。 有 名 な こ の 王 お よ び 王 朝 に 関 す る 問 題 に ま で 立 入 り え な い が、 こ こ で は 法 界 が ガ ン ダ ー ラ 地 方 の 寺 院 を 新 旧 の 貴 霜 系 ・ 突 厭 系 と い っ た 大 別 を し、 左 の 十 三 寺 を 挙 げ て い る。 (一) 如 羅 漉 王 寺、 (二) 可 忽 哩 寺、 (三) 績 芝 寺、 (四) 旋 檀 忽 哩 寺、 (五) 特 勤 漉 寺、 (六) 可 敦 寺、( 七) 阿 麸 咤 寺、 (八) 薩 緊 忽 哩 寺、 (九) 濁 賦 咤 王 聖 塔 寺、 (王) 闘 賦 旺 王 演 提 漉 寺、 (十 一 ) 蜀 賦 咤 王 氏 龍 宮 沙 弥 寺。 (九) (十) (十 一 ) の 三 寺 は 申 す ま で も な く、 貴 霜 朝 に は じ ま る 古 寺 で あ り、 法 界 が 留 錫 し た 如 羅 瀧 王 寺 も そ の 系 統 の 寺 院 と し て 考 え て い る ら し い。 寺 名 中 に し る さ れ る 漉 は Sa で あ り、 レ ヴ ィ 教 授 はli と 発 音 し て い る が シ ア の 音 が 正 し く、 恐 ら くs a d (21 ) な ど と 関 連 が あ る の で は あ る ま い か。 忽 哩 も ト ル コ 語 ら し い。 突 厭 王 家 と 関 連 の あ る 特 勤 お よ び 可 敦 の こ と は カ シ ミ ー ル の 寺 院 に お い て も 注 意 し た が、 濁 賓 の 領 域 に お け る 支 配 力 が 突 蕨 族 に よ っ て 及 ぼ さ れ て い た こ と 示 め す 点 で 重 要 で あ る。 こ の こ と に つ い て は ﹁ 慧 超 伝 ﹂ の 建 駄 羅 国 の 条 に も、 建 駄 羅 国 に 至 る。 こ の 王 お よ び 兵 馬、 す べ て こ れ 突 豚、 土 人 は こ れ 胡、 ・ ・ こ の 国 は も と こ れ 厨 賓 国 王 の 王 化。 こ れ が た め に 突 豚 王 の 阿 耶 が 一 部 落 の 兵 馬 を 領 し て 彼 の 尉 賓 王 に 投 じ、 後 に お い て 突 豚 の 兵 盛 ん と な り、 す な わ ち 彼 の 厨 賓 王 を 殺 し、 自 ら 国 主 と な る。 こ の 王 は こ れ 突 厭 な り と い え ど も、 甚 だ 三 宝 を 敬 信 し、 王 ・ 王 妃 ・ 王 子 ・ 首 領 等、 お の お の 寺 を 造 り、 三 宝 を 供 養 す。 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 と 見 え る。 こ の 条 に つ い て は す で に 藤 田 博 士 や フ ッ ク ス (w E u c k S ) 教 授 の 考 証 が あ る が、 桑 山 教 授 は 一 層 詳 密 な 考 究 を (22 ) 試 み る と 共 に、 十 一 力 寺 中、 そ の 七 力 寺 は ﹁ お そ ら く み な 突 厭 時 代 に な っ て か ら 改 名 さ れ た か ( 如 羅 麗 寺 )、 創 建 さ れ た も の で ﹂ あ る。 そ の 位 置 は 決 め が た い も の の、 カ ニ シ ュ カ 王 の 名 を 冠 し た 三 力 寺 の う ち、 聖 塔 寺 は ガ ン ダ ー ラ 所 在 で あ っ て、 こ と に 迦 賦 旺 王 伐 龍 宮 沙 弥 寺 は ﹁ 西 域 記 ﹂ の カ ゼ シ ー の 大 雪 山 龍 池 の 伽 藍 で あ る と の 所 見 を 提 出 さ れ、 ﹁ い ず れ に し て も、 法 界 に ま つ わ る 仏 寺 は 聖 塔 寺 の み が ガ ン ダ ー ラ 所 在、 他 は カ ピ シ-所 在 と い え よ う。 法 界 は ガ ン ダ ー ラ だ け に い た よ う に 書 い た が、 実 際 は カ ピ シ ー に も 行 っ て い た の で あ る。 す な わ ち 法 界 の 言 う ガ ン ダ ー ラ 国 は こ こ に 言 ケ 汎 カ ピ シ ー 国 な の で あ る ﹂ と 断 ぜ ら れ た。 聖 塔 寺 は 有 名 な 雀 麗 浮 図 伽 藍 の こ と で、 法 顕 ・ 宋 雲 ・ 玄一 が 何 れ も 巡 礼 し た dhah ji Uheti の 遺 跡 で あ り、 こ れ に は 異 論 が な い が、 果 し て ペ シ ャ ワ ー ル 滞 在 中 に 遠 距 離 の ベ ク ラ ム 方 面 に 赴 い た か 否 か、 実 証 の 限 り で は な い。 た だ し 帰 途 の 行 路 に 当 る か ら、 立 寄 れ る 蓋 然 性 は 大 い に あ る。 さ て、 ガ ン ダ ー ラ の 如 羅 漉 寺 に 留 錫 の 後、 い よ い よ 中 天 竺 の 八 塔 巡 礼 が こ れ に 引 続 く。 中 間 の 行 程 は 未 詳 で あ る が、 恐 (23 ) ら く パ ン ジ ヤ ッ プ を 経 由 し た で あ ろ う。 巡 路 が 入 塔 の 記 述 順 に よ っ て い る か 否 か、 問 題 で あ る が、 ブ タ ガ ヤ で 夏 安 居 し、 (24 ) 巡 礼 後 に ナ ー ラ ン ダ 寺 に 三 力 年 滞 在 し た と い っ て い る か ら、 ほ ぼ 四 力 年 近 い 遊 歴 に な り、 敢 て 擬 す る と、 ほ ぼ 七 六 四 ( 広 徳 二 年 ) ー 七 六 七 年 ( 大 暦 二 年 ) に 亘 っ た で あ ろ う。 引 返 し て ガ ン ダ ー ラ に 戻 り、 其 処 か ら 烏 侯 那 に お も む き、 同 地 の 荘 識 勃 寺 に 住 し た。 荘 識 勃 寺 は 同 名 の 荘 識 勃 城 に あ り、 ﹁ 西 域 記 ﹂ の 曹 掲 贅 城 に 当 り、 ミ ン ゴ ラ ( M i b gQ O r a ) の ブ ト カ ラ (B u tk a r a ) が 同 寺 の 遺 趾 と 考 え ら れ る こ と は 前 に も 触 (25 ) れ た。 同 地 の 名 刹 と し て、 こ の 他 に 蘇 詞 抜 提 (sukhavayi =、 目 宮 寺、 鉢 荘 抜 提 (padnmavati 蓮 華 寺 が あ っ た と し て い る。 ガ ン ダ ー ラ を 出 発 し て 陸 路 帰 国 の 途 に つ い た の は 後 述 す る 北 庭 出 発 の 貞 元 五 年 ( 七 八 九 ) か ら 逆 算 す る と、 七 力 年 余 り 前 の こ と と な り、 遅 く と も 七 入 二 ( 建 中 三 年 ) 頃 と な る。 別 離 に 際 し、 唐 朝 へ の 信 物 と し て 師 越 魔 三 蔵 が 授 与 し た も の は、 梵 本 ﹁ 十 地 経 ﹂ (dasabhumika sutra )、 ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ (pa (26 )

rinama cakra syt

﹁ 十 力 経 ﹂ (dasabala )。 釈 迦 牟 尼

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の 仏 牙 舎 利。 で あ っ た。 法 界 は ベ ク ラ ム か ら ヒ ン ド ウ ー ク シ 山 脈 を 越 え て、 ※ ア ム ダ リ ヤ 流 域 ( ト カ ラ 地 方 ) に 達 し た。 隊 商 と 合 流 し た 地 (27 ) 点 は 未 詳 で あ る が、 吐 貨 羅 国 五 十 七 蕃 を 経 て、 ア ム ダ リ ヤ の 河 北 の 骨 咄 国 に 到 っ た と あ る。 骨 咄 は ﹁ 西 域 記 ﹂ に 珂 咄 羅 と 見 え、 ﹁ 慧 超 伝 ﹂ に は 同 じ く 骨 咄 国 と あ る。 ア ム ダ リ ヤ の 支 流 の wakhsh ab の 流 域 の 鐘 沙 国 の 東 ー タ ジ ク 共 和 国 領 ー で、 (28 ) khuyyal or khuttalan と い わ れ る 地 域 で あ る。 ア ム ダ リ ヤ 右 岸 沿 い に 骨 咄=kuttal 拘 蜜 支=komeid ← 惹 麸 知 ← 式 匿 に 達 し た。 拘 蜜 支 の 王 名 は 頓 散 漉、 惹 悪 知 の (29 ) 王 名 を 黒 末 梅 と い っ た と あ る。 帰 途 の 場 合 は 護 蜜 に 触 れ て い な い。 若 し 略 し た の で な い と す る な ら ば ﹁ 新 唐 書 ﹂ 巻 二 二 一、 高 仙 芝 伝 の 記 事 の 逆 に、 倶 蜜 ︹ 陀 ︺ H 拘 蜜 支 (komeido or kalahum ) ← 東 南 五 百 里 ← 識 匿 (一 棄 尼 )= 式 匿 (shignam ) ← 東 五 百 里 ← 葱 嶺 守 捉 (tashkurghan ) と い う 行 程 が 考 え ら れ、 ア フ ガ ニ ス タ ン 領 ワ ツ ハ ン は 経 過 せ ず、 主 と し て ソ 聯 タ ジ ッ ク 領 を 経 過 し て 新 彊 に 達 し た こ と に な る。 か く て ア ム ダ リ ヤ 流 域 か ら タ リ ム 盆 地 に 出 る ま で 三 力 年 を 要 し た の で あ っ た。 タ リ ム 盆 地 に お け る 法 界 の 消 息 は 北 庭 ( B is b ib a lk ) を 起 点 と し て 逆 に 辿 れ よ う。 す な わ ち、 疏 勒 (kashgar ) ← 五 カ 月 ← 干 聞 (khota gostana ) ← 六 カ 月 ← 拠 麩 得= 握 麸 得 ( ト ム シ ュ ク ) ← 威 戎 城 ( 鉢 院 ・ 怖 汗 barxuan= 温 宿 ) ← 安 西 ( 亀 藁 kutehe ) ← 一 年 余 ← 焉 者 ( k a r a s b a r) ← 三 カ 月 ← 北 庭 州 (B is b a lk )。 (30 ) 北 庭 州 ー 略 し て 北 庭、 北 庭 都 護 府 の 治 所 で、 法 界 が こ の 地 を 去 っ た の は 貞 元 五 年 ( 七 八 九 ) で あ る か ら、 東 ト ル キ ス タ ン ( 天 山 南 路 ) に は 前 後 合 せ て 五、 六 年 間 の 遊 歴 と な る。 こ の 問、 法 界 に つ い て 先 ず 語 ら な け れ ば な ら な い こ と は 将 来 し た 梵 來 の 訳 出 に つ い て で あ る。 す な わ ち ﹁ 十 力 経 ﹂ 一 巻、 亀 薙 の 蓮 華 寺 の 勿 提 提 犀 魚 ( 蓮 華 精 進 ) 訳。 ﹁ 十 地 経 ﹂ 九 巻 お よ び ﹁ 廻 向 輪 経 ﹂ 一 巻、 北 庭 の 龍 興 寺 の輪 羅 達 摩 (戒 法 ) 訳。 勿 提 提 犀 魚 の 出 身 は 未 詳 で あ る が、 羅 達 摩 は ホ ー タ ン 出 身 の 三 蔵 で あ り、 訳 出 に 当 っ て は 龍 興 寺 の 大 震 (筆 受 )、 法 超 (潤 文 )、 善 信 (証 義 ) が 協 力 し、 法 界 ( 証 梵 ) も 参 加 し て い る。 ﹁ 十 力 経 ﹂ は 如 来 の 有 す る 十 種 の 大 智 力 を 説 い た も の で、 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 後 に 宋 の 施 護 等 の 訳 し た ﹁ 仏 十 力 経 ﹂ に 先 立 つ も の で あ る。 (31 ) ﹁ 廻 向 輪 経 L は 雑 密 系 の 経 典 で あ る。 ﹁ 十 地 経 ﹂ 九 巻 は も っ と も 大 部 で、 ﹁ 華 厳 経 ﹂ の 十 地 品 に 該 当 し、 初 訳 で は な い が、 華 厳 の 十 地 思 想 を 述 べ る も の と し て、 三 訳 中 も っ と も 注 目 す ( 32 ) べ き で あ る。 法 界 が 留 錫 し、 ﹁ 十 力 経 ﹂ の 訳 経 を 託 し た 蓮 華 寺 は 亀 弦 城 の 西 門 外 に あ っ た と い う。 管 内 に は こ の 外 に、 {一) 前 践 寺、 (二) 耶 婆 麸 鶏 寺、 (三) 東 西 拓 蕨 寺、 (四) 阿 遮 哩 戴 寺 な ど が あ っ た。 阿 遮 哩 載 寺 は ﹁ 西 域 記 ﹂ の 東 西 昭 枯 螢 伽 藍 で、 鳩 摩 羅 什 伝 に 見 え る 雀 梨 大 寺 と 同 じ く、 ス バ シ ( s u b a s b i ) 近 辺 の 故 趾 に 擬 せ ら れ て い る。 そ の 他 に は 法 界 の 掲 げ る 寺 名 に 該 当 す る も の は 見 当 ら な い。 た だ 日 の 東 西 拓 蕨 寺 と あ る の は 地 名 に よ る 呼 称 と 考 え ら れ、 恐 ら く 拓 厭 関 と 関 連 が あ る で あ ろ う。 後 者 は 質 耽 ﹁ 道 里 記 ﹂ に 見 え る 亀 弦 西 方 の 関 門 で あ る。 亀 弦 の 城 内 に は 大 雲 寺 と 龍 興 寺 の 二 漢 寺 の あ っ た こ と を 慧 超 は 伝 え て る し、 北 庭 に も 龍 興 寺 の 外 に 漢 寺 が あ っ た の で は あ る ま い か。 法 界 の し る す と こ ろ は、 北 庭 の 龍 興 寺 の み で あ る。 こ の 寺 が 元 初 ま で 存 続 し て い た こ と は、 長 春 真 人 ﹁ 西 遊 記 ﹂ に、 竈 思 馬 大 城。 ・ ・ 因 り て 風 俗 を 問 う に、 乃 ち 日 く、 こ れ 大 唐 の 時 の 北 庭 端 府 ( 都 護 府 )。 景 龍 三 年 ( 七 〇 九 )、 楊 公 何 が 大 都 護 と な り て、 徳 政 あ り。 諸 夷 は 心 服 す。 恵 み は 後 人 に 及 び、 今 に 於 て こ れ に 頼 る。 龍 興 西 寺 に 二 石 刻 の あ る あ り。 功 徳 は 換 然 と し て 観 る べ し。 寺 に 仏 書 一 蔵 あ り。 唐 の 辺 城 に 往 々 な お 存 す。 と 故 城 と 古 寺 の 存 在 を 伝 え て い る。 龍 興 西 寺 と あ る は 或 い は 開 元 東 寺 が あ り、 相 対 し た こ と を 示 す の で は あ る ま い か。 (33 ) 安 西 都 護 府 下 に お け る 土 着 の 王 と し て、 ﹁ 経 記 ﹂ は 疏 勒 の 斐 冷 冷、 干 關 の 尉 遅 曜、 亀 薙 の 白 環、 焉 者 の 龍 汝 林 を 伝 え て い る。 こ れ ら の 王 姓 は い ず れ も 久 し く そ の 地 域 で 世 襲 し た が、 そ の う ち 尉 遅 曜 が 帰 化 し た 尉 遅 勝 の 弟 と し て 王 位 を 継 い だ こ と は ﹁ 両 唐 書 ﹂ や ﹁ 冊 府 元 亀 ﹂ 等 に 見 え る。 (34 ) 鎮 守 使 と し て 疏 勒 の 魯 陽、 干 聞 の 鄭 篠、 嫁 蘇 得 の 質 詮、 焉 替 の 楊 目 祐 が 登 場 す る。 と く に 四 鎮 節 度 使 ・ 安 西 副 大 都 護 の 郭 所 と 北 庭 節 度 使 の 楊 襲 古 に つ い て は、 前 者 が 功 臣 郭 子 儀 ( 六 九 七 ー 七 八 一 ) の 一 門 と し て、 ﹁ 両 唐 書 ﹂ 巻 一 二 〇 ・ コ ニ 七 に 附 伝 が あ り、 本 紀 一 地 理 志 ・ 回 鵤 伝、 あ る い は ﹁ 通 鑑 ﹂ 巻 一 一 一 七、 ﹁ 唐 会 要 ﹂ 巻 七 三 な ど に も 言 及 さ れ、 建 中 二 年 (七 八 (35 ) 一 )、 四 鎮 留 後 か ら 昇 進 し て、 こ の 位 置 が 与 え ら れ た。 ま た 北 庭 節 度 使 は 先 天 元 年 ( 七 一 二 ) に は じ ま る が、 当 初

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は 伊 西 北 庭 節 度 使 と い い、 開 元 十 五 年 ( 七 二 七 ) に 伊 西 と 北 庭 を 分 離 し て 北 庭 節 度 使 と し、 そ の 後 多 少 変 改 は あ っ た が、 (36 ) 玄 宗 の 末 年 以 後 は 変 更 し な か っ た。 楊 襲 古 は 就 任 最 後 の 人 で、 悲 劇 的 結 末 を 遂 げ た。 北 庭 が 吐 蕃 の た め に 陥 落 し、 貞 元 六 年 ( 七 九 〇 ) に こ の こ と に 関 連 し て、 回 鴫 の 大 相 の 頷 干 伽 斯 の た (37 ) め に 高 昌 ( ト ル フ ア ン ) で 殺 害 さ れ た か ら で あ る。 法 界 が 遠 く 北 庭 に お も む き、 さ ら に 回 鴫 路 を 迂 廻 し た の は ﹁沙 河 通 ぜ ざ る た め ﹂ で あ っ た。 沙 河 に つ い て は 遠 く ﹁ 法 顕 伝 ﹂ や ﹁ 慈 恩 伝 ﹂ に 言 及 さ れ て い る が、 こ れ は 広 義 に は 流 砂 (38 ) の 道 と い う に 同 じ で あ る。 法 界 は 干 聞 に 達 し た と き、 す で に 南 道 が 吐 蕃 の 進 出 に よ っ て 障 げ ら れ、 迂 回 を 余 儀 な く さ れ た の で あ っ た。 さ ら に 焉 誉 に 到 る や、 こ こ か ら の ロ ブ ノ ー ル 沿 い の 道 も ま た 危 険 な の を 知 っ た に 相 違 な い。 加 う る に ト ル フ ァ ン ← ハ ミ 路 も ま た 同 様 (39 ) で あ ろ う。 か く て 安 全 な 通 路 と し て 新 た に 利 用 さ れ る に 至 っ た 大 迂 回 の ウ イ グ ル 路 を と る こ と に な っ た の で あ る。 法 界 の 最 終 行 程 は 貞 元 五 年 ( 七 八 九 ) 九 月、 四 鎮 北 庭 宣 慰 使 ・ 中 使 段 明 秀 に 附 し て、 北 庭 か ら 廻 鴫 路 を 経 由 し、 翌 六 年 二 月 長 安 に 帰 着 す る ま で で、 そ の 期 間 は 約 六 カ 月 間 で あ る。 ﹁ 元 和 郡 県 志 ﹂ 巻 四 〇 は、 北 庭 都 護 府 か ら 廻 罷 衙 帳 ま で 東 北 三 千 里 で あ る と し、 衙 帳 は オ ル コ ン 河 (orhon glo ) と 烏 徳 鞭 山 (utukan ) の 間、 今 の k a r a balgassun の 廃 嘘 に 当 る と さ れ、 ﹁ 道 里 記 ﹂ に よ る と、 唐 か ら は 二 道 が あ っ た と し て い る。 一 行 が 衙 帳 に 立 寄 っ た か 否 か、 詳 か で な い も の の、 こ の と き の 可 汗 は 頓 莫 賀 達 干= 合 骨 咄 砒 伽 (alp qutlur ) で、 そ の 在 位 は 大 暦 十 四 年 ( 七 七 九 )-貞 元 五 年 ( 七 八 九 ) で あ っ た か ら、 彼 の 最 晩 年 に 当 っ た。 こ の 可 汗 は 唐 か ら 武 義 成 功、 ま た 長 寿 天 親 と い う 徽 号 を 与 え ら れ、 成 安 公 主 の 降 嫁 な ど も あ り、 両 国 は 友 好 的 で あ っ た も の の、 安 西 や 北 庭 に 勢 力 を の ば し、 唐 側 は そ の 地 方 で は あ た か も 附 庸 関 係 に 在 り、 道 (40 ) を そ の 管 下 に 假 ら ざ る を 得 な く な っ て い た。 こ れ は ﹁ 上 記 ﹂ の ﹁ ま さ に 沙 河 の 通 ぜ ざ る た め に、 廻 鵤 路 を 取 る ﹂ と い う の と 一 致 す る。 つ い で な が ら、 ﹁ 経 記 ﹂ が 回 絶 路 と せ ず、 廻 鵬 (41 ) 路 と し て い る こ と に つ い て も 注 意 し た い。. ﹁ 経 記 ﹂ に 収 載 す る 同 六 年 五 月 の 制 勅 に は 単 に、 ﹁ 流 沙 よ り 越 え、 陰 国 を 渉 る ﹂ と し る し て い る。 漫 然、 陰 国 と あ る の み で あ る が、 陰 山 山 脈 に 沿 う 行 程 を 指 し、 そ し て そ れ を 終 っ た 後、 恐 ら く 振 武 ← 太 原 ← 河 東 ← 長 安 へ 辿 っ た で あ ろ う。 同 空 海 の 将 来 し た ﹁、 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 年 入 月、 長 安 を 発 っ て 北 天 竺 に 遣 使 し た 尉 賓 出 身 の 般 若 三 蔵 の 逆 行 程 が そ の こ と を 裏 書 し て く れ る、 そ し て、 後 者 に は ︹ 貞 元 六 年 ( 七 九 〇 ) の 七 月 ︺、 時 に 般 若 三 蔵 は 王 命 を 奉 じ て 北 天 に 出 使 す。 路 を 太 原 に 取 り、 途 に 振 武 を 経、 廻 鵤 に 入 遊 す る な り。 沙 場 異 域、 山 川 を 践 歴 し、 暑 往 寒 来、 忠 を 奉 じ 法 を 奉 じ、 二 周 載 に 向 (な ん な ん ) と し て、 太 原 に 旋 る。 す な わ ち 貞 元 八 年 ( 七 九 二 ) 三 月 な り。 公 牒 に よ り て 行 き、 四 月 上 旬、 上 都 に 還 る ( ﹁ 大 唐 貞 元 続 開 元 釈 教 録 ﹂ 巻 上 )。 と あ る。 振 武 は 黄 河 北 岸、 中 受 降 城 で あ る。 こ の 般 若 三 蔵 こ そ、 (42 ) 空 海 が 留 学 中、 右 街 の 醗 泉 寺 で 親 交 を 持 っ た 名 僧 で あ っ た。 長 安 に 帰 着 し た 法 界 は 中 使 一 行 に 随 従 し た 関 係 で 躍 龍 門 使 院 に 安 置 さ れ た。 躍 龍 門 は 南 内 興 慶 宮 の 北 面 の 正 門 で あ る。 そ こ に 中 使 の 発 着 の 役 所 兼 宿 舎 が あ っ た の で あ ろ う。 中 使 の 張 翰 光 や 段 明 秀 は 宙 官 で、 そ の 経 歴 は 未 詳 で あ る も の の、 最 後 に 登 場 す る 寳 文 場 は 左 神 策 護 軍 中 尉 ・ 左 街 功 徳 使 と し て、 (43 ) 赫 々 た る 勢 威 を 持 つ 人 物 で あ っ た。 彼 の 仲 介 に よ り、 法 界 は 在 俗 の 車 奉 朝 と し て、 壮 武 将 軍 ・ 守 金 吾 衛 大 将 軍 ・ 員 外 置 同 正 員 ・ 兼 試 太 常 卿 を 勅 授 さ れ た。 改 め て 正 度 の 上、 悟 空 の 法 字 が 許 可 さ れ、 章 敬 寺 に 居 住 す る こ と に な っ た。 章 敬 寺 は 東 城 通 化 門 外 に あ り、 粛 宗 の 皇 后、 代 宗 の 生 母 に 当 る 呉 氏 の 追 福 の た め に 宙 官 の 魚 朝 恩 が 自 己 の 荘 園 を 寄 進 し (44 ) (45 ) て 造 営 し た 大 寺 院 で あ っ た。 撰 者 円 照 は 西 明 寺 の 大 徳 で あ っ た も の の、 章 敬 寺 と も か ね て 関 係 が あ り、 悟 空 か ら 親 し く そ の 体 験 を 聞 く を 得 た。 そ し て 新 訳 将 来 の 三 部 十 一 巻 を ﹁ 貞 元 (46 ) 新 定 釈 教 目 録 ﹂ に 編 入 す る と 共 に 自 ら 代 っ て 経 序 を し る し た こ と は 屡 説 し た ご と く で あ る。 彼 は 結 び と し て、 伏 し て、 お も ん み る に、 一 た び 聖 唐 を 辞 し て よ り、 今 に 四 代。 霜 を 凌 ぎ、 雪 を 冒 し、 四 十 年 を 経 て、 聖 躍 を 尋 礼 せ り。 経 る と こ ろ の 国 邑 或 は 一 た び 謄 礼 し、 或 は 旬 時 に 漸 み、 或 は 数 月 に 盈 ち、 或 は 住 る こ と 一 歳、 二 三 四 年、 或 は 吉 祥 に 遇 い、 或 は 劫 賊 に 遭 う。 安 楽 の 時 は 少 く、 憂 悩 の と こ ろ 多 し。 心 を 宣 べ て、 一 一 縷 説 す る あ た わ ざ る も、 幸 に 明 聖 に 逢 い ま つ り て、 ほ ぼ 大 綱 を 挙 ぐ。 と 綴 り、 ま た こ れ に 加 え て、 ﹁ す な わ ち 章 敬 に 帰 し、 次 に は 郷 園 に 反 り て、 二 親 を 訪 問 す る に、 墳 樹 は す で に 撲 ( ひ と か か え ) た り、 兄 弟 子 姪、 家 に 三 人 と て な し、 疏 遠 の 諸 房、 少 し く 聞 見 を 得 た る の み。 \ \ 辛 卯 ( 七 五 一 ) に 西 征 し、 今 に 庚 午 ( 七 九 〇 )、 奉 養 せ ざ る 悲 し み、 明 時 に 遇 う を 喜 ぶ ﹂ と (47 ) も 述 べ て い る。 円 照 自 身 に つ い て は、 ﹁ 再 び 翻 訳 に 登 り、 図

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紀 を 続 修 し て、 真 乗 を 讃 述 し、 な ら び に ﹃ 大 唐 貞 元 続 開 元 釈 教 録 ﹄ を 修 む ﹂ と 言 及 し て い る。 再 び 訳 経 に の ぼ る と は 般 若 三 蔵 の も と に、 円 照 が 西 明 寺 と 崇 福 寺 の 訳 場 に 筆 受 と し て 列 ら な っ た こ と を さ し、 ﹁ 図 紀 ﹂ と は ﹁ 般 若 三 蔵 続 古 今 訳 経 図 紀 ﹂ 二 巻 の 略 で あ ろ う。 こ の 書 は 貞 元 十 年 ( 七 九 四 ) の 撰 述 (48 ) で あ る。 な お、 ﹁ 大 唐 貞 元 続 開 元 釈 教 録 ﹂ 三 十 巻 の 編 修 さ れ た の は 同 十-十 一 年 で あ る か ら、 要 す る に ﹁ 経 序 ﹂ の 執 筆 も 貞 元 十 一 年 以 降、 ﹁ 貞 元 釈 教 録 ﹂ 完 成 の 貞 元 十 五 年 ( 七 九 九 ) の 問 に 限 定 で き る。 註 ( 1 ) 行 官 ・ 奏 傑。 行 官 は 使 節 の 下 に 属 し、 四 方 に 使 い す る も の。 ﹁ 通 鑑 ﹂ 唐 紀 ・ 代 宗 広 徳 二 年 条 の 胡 注 に 当 節 鎮 州 府 皆 牙 官 ・ 行 官 あ り と 見 え る。 奏 廉 は ﹁ 旧 唐 書 ﹂ 巻 一 〇 四、 封 常 清 伝 に、 毎 に 出 軍 す る こ と に 奏 廉 を 従 え る こ と 三 十 余 人 云 々 と あ る。 出 軍 出 使 に 際 し、 幕 下 に 随 従 す る も の で、 廉 人 ・ 廉 従 の た ぐ い で あ る が、 も と 奏 上 し て 随 従 の 許 可 を 得 た の で あ ろ う。 印 本 に 奉 簾 に つ く る は 誤 り。 ( 2 ) 蜀 賓。 一 に 迦 畢 試 ・ 迦 習 施 に 作 る。 階 唐 時 代 の 蜀 賓 は ア フ ガ ニ ス タ ン の カ ー ブ ル 河 流 域 の k a P is a に 当 る こ と を 論 証 し た の は 白 鳥 庫 吉 博 士 ( ﹁魔 賓 国 考 ﹂ ) で あ る が、 レ ヴ イ 教 授 も ﹁ 悟 空 伝 ﹂ 訳 の 附 録 に お い

て le kipin sirpin situation

を 取 上 げ て い る。 玄 奨 も 貞 観 三 年 (六 二 九 ) に そ の 国 都 を 通 過 し、 情 況 を 述 べ て い る ( ﹁ 西 域 記 ﹂ 巻 一 )。 本 文 に し る す ご と く、 天 宝 年 間 の 厨 賓 朝 貢 の こ と は、 天 宝 四 載 (七 四 五 )、 同 五 載 ( 七 四 六 )、 同 七 載 ( 七 四 八 )、 同 十 二 載 ( 七 五 三 ) な ど が 見 え る。 ﹁ 冊 府 元 亀 ﹂ 巻 九 七 一 ( 朝 貢 )、 巻 九 六 五 ( 封 冊 )。 ﹁ 経 記 ﹂ に よ る と 天 宝 九 載 ( 七 五 〇 ) に も 来 貢 し た の で あ っ て、 一 行 は そ れ の 答 礼 使 で あ っ た。 な お 蜀 賓 問 題 に つ い て は 近 時 桑 山 正 進 ﹁ 迦 畢 試 国 編 年 史 料 稿 ﹂ 上 下 ( ﹁ 仏 芸 ﹂ 一 三 七 ・ 一 四 〇 号 ) が あ り、 参 考 に 資 す る と こ ろ が 多 か っ た。 ( 3 ) 左 衛 ・ 浬 州 四 門 府 別 將 ・ 員 外 置 同 正 員。 左 衛 は 階 唐 時 代 の 近 衛 兵 の 所 属 す る 十 二 衛 中 の 一。 一 に 左 饒 騎 と も い う。 関 中 の 折 衝 府 の 軍 士 は 十 二 衛 に 分 属 し た。 四 門 折 衝 府 は 浬 州 管 内 に あ っ た 六 府 (脛 陽 ・ 四 門 ・ 興 教 ・ 純 徳 ・ 粛 清 ・ 仁 賢 ) の 一。 脛 州 は 現 在 の 甘 粛 省 浬 川 県 に 治 す。 別 將 は 折 衝 府 所 属 の 武 官 で、 通 常 は 府 事 を つ か さ ど ら ず、 従 六 品 下 の 待 遇 で あ っ た ( ﹁ 通 典 ﹂ 巻 二 九 ・ 折 衝 府、 ﹁ 新 唐 書 ﹂ 百 官 志 ・ 果 毅 都 尉 の 条 )。 員 外 置 同 正 員 は 散 官 で は あ る が、 職 事 官 と 同 待 遇 の 意 味。 ( 4 ) 大 首 領 ・ 薩 婆 達 幹。 ﹁ 慧 超 伝 ﹂ の 謝 麗 国 の 条 に、 ︹ こ の 国 に ︺、 一 大 突 蕨 首 領 有 り。 娑 鐸 幹 と 名 つ く。 毎 年 一 廻、 金 銀 を 設 け て、 ︹ 供 養 す る こ と ︺ 無 藪、 彼 の 王 よ り 多 し。 と あ る。 藤 田 博 士 は こ れ に 注 し て、 案 ず る に 沙 鐸 幹 は 殆 ん ど こ れ ﹁ 十 地 等 経 記 ﹂ の 薩 波 達 幹。 云 え ら く、 蜀 賓 国 の 大 首 領、 天 宝 九 載 庚 寅 の 歳、 来 り て 闘 に 詣 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 る と。 当 時 は 謝 麗 国 ( ザ ブ リ ス タ ン ) は す で に 厨 賓 に 属 す。 故 に 厨 賓 国 の 大 首 領 と い う。 そ の 実 は 謝 麗 の 大 首 領 な る こ と、 こ の 伝 に よ り 証 す べ し。 鐸 幹 は 達 幹。 ﹁ 唐 書 ﹂ は 達 千 (tarkhan darghan )。 突 豚 の 大 臣 に し て、 そ の 官 を 世 ︹ 襲 ︺ す る も の。 と さ れ て い る。 達 干 は 突 厭 の み で な く、 廻 乾 な ど で も し ば し ば あ ら わ れ る。 古 く か ら 中 国 で は 顕 官 を 意 味 す る 言 葉 を 達 官 と い っ た が、 こ れ が ト ル コ 語 に 音 写 さ れ、 そ れ が ふ た た び 中 国 に 伝 え ら れ て ﹁ 達 干 ﹂ と 写 さ れ た も の で は あ る ま い か と さ れ て い る ( 護 雅 夫 ﹁ 西 突 蕨 伝 訳 註 ﹂ 東 洋 文 庫 )。 ( 5 ) 王 忠 ﹁ 新 唐 書 吐 蕃 伝 箋 証 ﹂ 天 宝 十 四 載 の 条 に は ﹁ 通 鑑 ﹂、 ﹁ 新 唐 書 ﹂ 護 密 伝、 同 箇 失 密 伝、 ﹁ 冊 府 元 亀 ﹂ 外 臣 部 請 求 な ど の 記 事 を 引 用 し て、 こ の こ と に 言 及 し て い る。 ( 6 ) 棲 換 城 は ﹁ 西 域 記 ﹂ 巻 一 の 蹟 禄 迦-ふ る く は 姑 墨 と い い、 亟 墨 と い う-に 当 る。 ﹁ 新 唐 書 ﹂ 地 理 志 に は、 頁 耽 ﹁ 道 里 記 ﹂ に も と ず き、 揆 換 城、 一 日 威 戎 城、 一 日 姑 墨 城、 南 臨 二 思 渾 河 一。 と あ る。 思 渾 河 は 略 し て 渾 河 と い っ た と あ り、 現 に 温 宿、 阿 克 蘇 の 西 側 を 流 れ て い る ク ム ・ ア リ ー ク (k u m -a r ik ) に 擬 せ ら れ る。 こ の 河 は 一 名 ア ク ス (b k -s u ) と も い う が、 そ れ が ﹁ 水 経 注 ﹂ の 姑 墨 川、 ﹁ 道 里 記 ﹂ の 思 渾 河 に 当 る。 撲 換 は 梵 語 の B a lu k a ア ラ ビ ヤ 語 の barkhuan 姑 墨 は ト ル コ 語 の k u ( 沙 ) に 対 応 す る と い い、 さ ら に ア ク ・ ス と は 白 水 の 義 と さ れ る。 要 す る に 姑 墨 国 は 漢 代 以 来、 史 書 に 見 え、 揆 換 ( 威 戎 ) 城 は そ の 中 心 で、 地 趾 は 今 の 温 宿 県 と 拝 城 の 中 間、 ほ ぽ 喀 拉 玉 爾 渡 の あ た り と 考 え ら れ る。 ﹁ 経 記 し も 帰 途、 こ の 地 に つ い て 言 及 し、 ﹁ 次 に 威 戎 城、 ま た 鉢 涜 国 と 名 つ く。 正 し く は 怖 汗 国 と い う ﹂ と あ る。 握 悪 得 は ﹁ 経 記 ﹂ の 櫨 悪 得、 ﹁ 道 里 記 ﹂ の 擦 史 得 と 同 じ で、 ﹁ 道 里 記 ﹂ は、 揆 換 城-三 六 〇 里-篠 史 得 ( 亀 弦 の 境 に あ た り、 三 名 を 轡 頭 州 と い う )-四 八 ○ 里 -疏 勒 鎮 と し て い る。 篠 史 得 ー 擦 麸 得 に つ い て は 赤 河 の 北 岸 の 孤 石 山 に 在 り と あ り、 そ の 地 理 的 考 証 は 黄 文 弼 ( ﹁塔 里 木 盆 地 考 古 記 ﹂ ) に く わ し い。 要 す る に、 シ ヤ ヴ ァ ン ヌ は 巴 楚 県 治 の 焉 劇 ホ 巴 什 ( Maralbachi ) に 擬 し、 さ ら に 東 北 の ト ム シ ュ ク ( 図 木 野 克 ) 詳 し く は 托 和 沙 頼 塔 格 の 故 趾 に 当 る と い い、 大 谷 探 瞼 隊 の 渡 辺 哲 信 師 も ト ム シ ュ ク を 去 る 西 北 四 十 五 分 ば か り 歩 い た と こ ろ の ジ ャ ー ル ・ バ ル ・ バ ル が 嫁 史 徳 で あ る と し て い る ( ﹁ 西 域 旅 行 日 記 ﹂ 新 西 域 記 下 巻 )。 ペ リ オ は ト ム シ ュ ク の 西 南 六 キ ロ の 台 地 の 遺 跡 を 発 掘 し、 こ の 付 近 と 考 え る な ど、 嚴 密 に は 糠 史 得 の 位 置 に つ い て も 問 題 は あ る が、 高 仙 芝 伝 の 握 遜 得 は ﹁ 地 理 志 ﹂ の 擦 史 得 と 同 地 点 で あ り、 こ れ ま た 悟 空 が 帰 途 通 過 し た 擦 悪 得 城 と 同 じ で あ る こ と は 繰 返 す ま で も な い。 そ し て ﹁ 経 記 ﹂ は、 干 聞 ( コ ホ タ ン ) ← 威 戎 城 (鉢 涜= 怖 汗 国 ) ← 篠 麸 得 城 ← 安 西 ( ク チ ャ ) と し る す が、 こ の 順 序 は、 干 閲 ← 糠 悪 得 城 ← 威 戎 城 ← 安 西 と す べ き で、 円 照 の 執 筆 に 前 後 入 替 り が あ る こ と を か っ て 指 摘 し た ( 拙 稿 ﹁空 海 將 来 の 悟 空 入 竺 記 と そ の 行 程 ﹂ 東 洋 学 術 研 究 十 五

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巻 三 号 )。 ( 7 ) ﹁ 新 唐 書 ﹂ 巻 二 二 一 下、 西 域 伝 ・ 護 密 の 条。 藤 田 豊 八 ﹁ 慧 超 往 五 天 竺 国 伝 箋 釈 ﹂ 遊 方 伝 叢 書 頁 五 二-五 四 参 照。 ( 8 ) ﹁ 慧 超 伝 ﹂ に は、 こ の 覧 波 国 よ り 西 行 し て 山 に 入 る。 経 る こ と 八 日 程 に て 闘 賓 国 に 至 る。 こ の 国 ま た こ れ 建 駄 羅 王 の 所 管 ○ こ の 王 は 夏 は 蜀 賓 に 在 り、 涼 を 逐 い て 坐 す。 冬 は 建 駄 羅 に 往 き、 暖 をす い て 住 す。 彼 は 即 ち 雪 な く、 暖 く し て 寒 か ら ず。 そ の 厨 賓 は 冬 天 は 積 雪、 こ れ が た め に 冷 ゆ る な り。 と あ り、 ﹁ 経 記 ﹂ の、 乾 陥 羅 国 ー 梵 言、 正 し く は 健 駄 羅 国、 こ れ す な わ ち 厨 賓 の 東 都 城 獄 り。 王 者 は 冬 は こ の 地 に 居 り、 夏 は 麗 賓 に 処 り て、 そ の 喧 涼 に 随 い、 も っ て そ の 性 に 順 う。 と あ る の と 対 応 す る。 ( 9 ) ア レ キ サ ン ダ ー 遠 征 隊 は O r a お よ び bazira の 二 都 市 を 占 領 し た と い う。 ス タ イ ン

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が あ る。 拙 稿 ﹁ ス ワ ー ト 紀 行 と 烏 佼 那 の 玄 奨 ﹂ (﹁ 仏 芸 ﹂ 一 二 七 号 ) で こ の こ と に 触 れ た。 た だ し 一 行 が ガ ン ダ ー ラ を 後 廻 し に し て、 先 ず 烏 杖 那 に 向 っ た の は 蜀 賓 王 が 鳥 侯 那 王 を も 兼 ね て い た た め と い う こ と が 一 因 と 考 え た い。 天 宝 四 載 ( 七 四 五 ) に 厨 賓 王 の 勃 葡 準 を し て 蜀 賓 及 烏 杖 国 王 に 冊 し た こ と が ﹁ 両 唐 書 ﹂ 西 域 伝 お よ び ﹁ 冊 府 元 亀 ﹂ 巻 九 六 五、 外 臣 部 封 冊、 ﹁ 唐 会 要 ﹂ 巻 九 九 に 見 え る。 ( 10 ) 藤 田 博 士 は ﹁ 慧 超 伝 し に、 こ の 城 は 辛 頭 大 河 に 傭 臨 し て 北 岸 に 置 く。 こ の 城 よ り 西 の か た 三 日 程、 一 大 寺 を つ く る。 す な わ ち こ れ 天 親 菩 薩 無 著 が 所 住 の と こ ろ。 こ の 寺 は 葛 諾 歌 と 名 づ け、 一 大 塔 あ り。 と い う に 対 し て、 ﹁ カ ニ ン ガ ム 氏 云 う、 今 ハ ス テ ナ ガ ー ル ( 国 甲 St in a g a r ) の 境 は ス ワ ー ト 河 の 北 岸 に 在 り。 ア リ ヤ ン ( b r ia U )、 ス ト ラ ボ ( s tr ab ) な ら び に 云 う、 城 は 信 度 河 に 近 し と。 蓋 し、 支 を 誤 っ て 本 と な す。 古 人 往 々 に し て 然 り。 す な わ ち 此 の 伝 の 辛 頭 大 河 に 傭 臨 し て 北 岸 に し て 置 く と は 殆 ん ど 布 色 掲 遷 伐 底 ( p u sk a ) な り ﹂ と さ れ た が、 矢 張 り 信 図 ・ 辛 頭 を 発 音 通 り 受 け と り、 こ れ を 玄 突 の 烏 鐸 迦 漢 奈 城 に 擬 し た い。 こ の 城 は 八 世 紀 中 葉 に は 厨 賓 の 都 城 で あ っ た と も あ る。 こ れ に つ い て は 桑 山 教 授 も 言 及 し て い る (上 掲 論 文 お よ び 同 ﹁ 大 理 石 ヒ ン ド ウ ー 像 は ヒ ン ド ウ 王 朝 の も の か ﹂ 東 方 学 報 四 三 号 )。 ( 11 ) 拙 稿 ﹁ 空 海 將 来 の 悟 空 入 竺 記 と そ の 行 程 ﹂ ( 12 ) 勃 葡 準 は 勃 飼 準、 略 し て 勃 準 に も つ く る。 天 宝 四 載 ( 七 四 五 ) に 厨 賓 王 及 鳥 莫 王 に 冊 立 さ れ、 左 曉 衛 將 軍 あ る い は 右 驕 衛 將 軍 に 封 ぜ ら れ た と い う。 厨 賓 国 王 の 男 と も 子 と も 記 し、 こ の 蜀 賓 王 と は 烏 散 特 勤 麗 で、 そ の 間 に 開 元 二 六 年 ( 七 三 八 ) に 冊 立 さ れ た 佛 林 蜀 婆 な る も の が あ る か ら、 そ の 系 譜 は 烏 散 特 勤 漉 ( → 七 三 七 ) 彿 蒜 厨 波 (七 三 七 ー 七 四 五 ) 勃 葡 準 ( 七 四 五 ← ) と な る。 勃 葡 準 は 天 宝 七 載 お よ び 同 九 載 時 代 も な お 在 位 中 と 考 え ら れ る ( ﹁ 冊 府 元 亀 ﹂ 巻 九 六 五、 外 臣 部 封 冊 )。 ( 13 ) 原 文 に は 近 円 と い う。 近 円 は upa sampanna ( 鄙 波 三 鉢 那 ) 空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹂

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密 教 文 化 の 訳 で、 具 足 戒 を 受 了 す る こ と。 ﹁ 南 海 寄 帰 伝 ﹂ 第 三 に す で に 受 戒 し 巳 れ ば 鄙 波 三 鉢 那 と 名 つ く。 邸 波 は こ れ 近、 三 鉢 那 は こ れ 円。 浬 葉 を 謂 う な り。 今、 大 戒 を 受 く れ ば す な わ ち 浬 葉 に 親 近 す。 旧 く 具 足 と い う は そ の 汎 意 を 言 う な り。 と あ る。 三 師 七 謹 は 具 足 戒 を 受 け る と き に 三 師 (戒 和 尚 ・ 掲 摩 師 ・ 教 授 師 ) 七 謹 (尊 証 師 七 名 ) が 立 会 う。 ﹁ 四 分 律 ﹂ 巻 三 一、 ﹁十 請 律 ﹂ 巻 二 一、 そ の 他 参 照。 ( 14 ) 名 王。 原 文 闘 を 見 よ。 高 麗 本 も 同 じ で あ る が、 印 本 は 名 王 の 二 字 を 抹 削 し て い る。 名 主 と い う に 同 じ。 ( 15 ) ﹁ 冊 府 元 亀 ﹂ 巻 九 六 四、 外 臣 部 封 冊 の 条 に、 開 元 二 十 一 年 四 月、 箇 失 密 国 王 木 多 筆 を 冊 し て 国 王 と な す と あ り、 冊 文 を 掲 げ て い る。 同 書 巻 九 七 五、 外 臣 部 褒 異 の 条 に は、 木 多 筆 が 大 徳 僧 の 物 理 多 年 を 遣 し て 来 献 せ し め た の で、 内 殿 で 宴 し、 絹 五 百 匹 を 与 え て 帰 還 せ し め た と あ る。 ﹁新 唐 書 ﹂ 巻 二 一 一 下、 西 域 伝 は、 箇 失 蜜。 あ る い は 迦 湿 弥 遷 と い う。 ⋮ ⋮ 王 は 棲 羅 勿 羅 布 遷 城 に 治 す。 西 は 弥 那 悉 多 大 河 に 瀕 す。 ⋮ ⋮ 開 元 の 初 め、 使 者 を 遣 し て 朝 す。 八 年 ( 七 二 〇 )、 詔 し て そ の 王 の 真 陀 羅 秘 利 を 冊 し て 王 と な す。 ま た 胡 楽 を 献 ず。 天 木 死 す。 弟 の 木 多 筆 立 つ。 使 者 物 理 多 を 遣 し て 来 朝 せ し む。 と あ り、 一 は 大 徳 物 理 多 年 と あ り、 一 は 物 理 多 に 作 る。 ス タ イ ン は 揆 選 勿 遷 布 遷 は p ra v a ra p u r a の 対 音 で、 ス リ ナ ガ ラ の 古 名 と し て い る。 ( 16 ) ﹁ 王 年 代 記 ﹂ と 対 照 す る と、 眞 陀 羅 秘 利=cansrapid vajraditya 天 木=tarapida-udayaditya 木 多 筆= M u k ta p Hd a-a li t it y a と な る。 ス タ イ ン は muktapida の 在 位 を 七 〇 〇 ー 七 三 六 と し、 桑 山 氏 は 七 三 〇 ー 七 六 六 と し て お ら れ る。 悟 空 の ス リ ナ ガ ラ 留 錫 は 七 五 七 -七 六 〇 と み な さ れ る か ら、 王 の 崩 後 か、 そ れ と も 在 生 中 か が 問 題 と な る。 ( 17 ) ﹁ 慈 恩 伝 ﹂ 巻 三 ・ ﹁ 西 域 記 ﹂ 巻 三 に 見 え る 寺 院 と し て 左 の ご と き が あ る。 (ー) 護 麸 迦 羅 寺 国 u sk a r a -v (在 石 門 以 東 ) (二︶ 達 摩 舎 羅 ( 在 王 城 以 西 ) (三) 闇 耶 因 陀 羅 寺 q a y a in d ra (在 王 城 内 ) (四) 仏 牙 僧 伽 藍 ( 在 新 城 東 南 ・ 旧 城 北 山 下 ) (五) 観 自 在 小 伽 藍 (在 仏 牙 伽 藍 南 ) (六) 大 山 下 古 伽 藍 ( 在 観 自 在 小 伽 藍 南 ) (七) 北 山 下 石 堵 婆 小 伽 藍 (在 仏 牙 伽 藍 東 ) (八) 商 林 伽 藍 ( 在 王 城 西 北 二 百 余 里 ) (ポ) 大 衆 部 伽 藍 ( 在 王 城 西 百 四、 五 十 里 ) ( 18 ) s te

in: notaes ongs accouny of kacmir

さ ら に 水 谷 真 成 ﹁ 訳 註 大 唐 西 域 記 ﹂ 巻 三 は fergysson: histor

Iindian and eastern arshiecture vol marry

handbook for trave

等 を 挙 げ て お ら れ る ( 19 ) 静 谷 正 雄 ﹁ 小 乗 仏 教 史 の 研 究 ﹂ 説 一 切 有 部 の 分 立 と 変 遷 参 照。 ( 20 ) 高 田 修 ﹁ 仏 像 の 起 源 し ク シ ャ ー ン 族 の 征 服 の 章 参 照。 ( 21 ) sad は shad と も つ づ る。 護 雅 夫 教 授 は ﹁ 西 突 豚 伝 ﹂ 訳 註 に お い て ﹁ 設 は シ ャ ド (sad ) の 音 写 で、 殺 ・ 察 な ど と も 写 さ れ、 可 汗 の 一 族 ー 阿 史 那 氏 族 ー の 出 身 で、 一 種 の 封 建 領 を 授 け ら れ

(20)

た も の が 帯 び た 稻 号 ﹂ で あ る と し て い る。 漏 承 鈎 訳 ﹁ 西 突 豚 史 料 ﹂ 第 三 篇 は 上 掲 ( 12 ) の 魔 賓 王 烏 散 特 勤 麗 に 注 し て、 地 名 の brokhadj に も と ず く 葛 遷 達 支 特 勤 と は 異 構 同 一 人 で あ る と し て、 同 書、 九 九 頁 に、 此 鳥 散 特 勤 (tegin ) 麗 (chad )、 鷹 三 即 七 一 九 年、 或 七 二 〇 年、 冊 封 為 三 蜀 賓 王 之 arokhadj 特 勤 つ marqurt 以 為 此 烏 散 特 勤 濯 与 下 悟 空 行 紀 中 建 二 立 健 駄 羅 寺 一之 突 豚 王 子 特 勤 濯 上 得 レ為 三二 人 一。 と し、marquart eransahr に 拠 る と し て い る。 桑 山 氏 は ﹁ マ ル ク ワ ー ル ト は 特 勤 灘 を 鳥 散 特 勤 濯 に つ な げ て 考 え る こ と を 確 実 で は な い と し な が ら も、 こ れ に 注 意 し て い る ﹂ (前 掲 論 文 ) と し、 や や ニ ュ ア ン ス を 異 に し て い る が、 こ こ で は 灘= 洒 も ま た 設 ・ 殺 ・ 察 な ど と 同 じ くsad の 音 訳。 そ れ と も ま た k a hana

の sahi or sahis alberuni

の shahiyas と 関 係 が あ る か も 知 れ な い。 な お 忽 哩(houli ) も ま た ト ル コ 語 で あ る と し て い る

(note assitionnelle kipin

)。 た だ し、 屈 支 ( ク チ ャ ) の 昭 惜 麓 を tchao hou li と 発 音 し て、 同 じ 用 例 と 考 え る の は 検 討 の 必 要 が あ る。 ( 22 ) 桑 山 氏 は ま と め て、(1) 建 駄 羅 王 は 法 界 の 当 時 は 突 豚 種 で あ っ た。(2) 突 豚 種 で は あ る が ヒ ン ド ウ ー ク シ ュ 以 北 の 突 豚 と は 異 種 で あ り、 八 世 紀 初 期 を さ ほ ど さ か の ぼ ら な い 七 世 紀 の あ る 時 点 で 王 家 の 纂 奪 が 行 わ れ て、 も と の 厨 賓 王 と 交 替 し た。(3) こ の 突 豚 王 は も と も と 少 数 勢 力 で あ っ た と し て い る ( 前 掲 論 文 )。 ( 23 ) 八 大 霊 塔 の 巡 路 に つ い て ﹁ 経 記 ﹂ は、 (一) 迦 砒 羅 伐 翠 都 (kapilavastu ) 降 誕 処 塔 ← (ニ) 摩 掲 提 国 菩 提 道 場

(magadha bodha gaya

) 成 仏 処 塔 ← (三) 波 羅 痘 斯 城 鹿 野 苑 ( v aranasi mrgadava ) 初 転 法 輪 処 塔 ← (四) 鷲 峯 山 (grdhra kura ) 説 法 華 経 処 塔 ← (五) 広 嚴 城 (v a is a ) 現 不 思 議 処 塔 ← (六) 泥 幡 犠 多 城 (u ev a r a ) 従 天 降 下 三 道 宝 階 処 塔 ← (七) 室 羅 伐 城 逝 多 林 給 孤 独 園 (O r a v a st jetavana anarh ) 説 摩 詞 般 若 波 羅 蜜 多 度 諸 外 道 処 塔 ← (八> 拘 那 城 娑 羅 双 林 (k u s i agarasala ) 現 入 浬 葉 処 塔 と な っ て い る。 こ の 順 序 に よ る 巡 礼 で あ っ た か 否 か。 こ れ を 玄ー の 場 合 ﹁ 慈 恩 伝 ﹂ (巻 二 ・ 三 ) に 比 較 す る と、 (六) ← (七) ← (ー) ← (八) ← (三) ← (五) ← (二) ← 那 燗 陀 寺 ← (四) の 順 序 に な る。 法 界 は (二) ブ タ ガ ヤ で 安 居 し た と い い、 記 述 の 順 序 の ま ま の 巡 礼 で あ っ た か 否 か は 明 か で な い。 ( 24 ) 那 燗 陀 寺。 ビ ハ ー ル 州 バ ル ガ オ ー ン 村 に 在 り、 詳 し く は 室 利 那 燗 陀 莫 荊 蹴 詞 羅

(sri nalanda mahavihara

) と い う。 施 す こ と 厭 く な し の 意 に も と ず く と さ れ る。 五 世 紀 ー 十 二 世 紀 に わ た る 最 大 の 仏 教 大 学 で、 玄 奨 も 約 五 年 留 学 し、 そ の 様 子 を 伝 え て い る が、 寺 誌 の 古 記 録 と し て は 義 浄 の ﹁ 求 法 高 僧 伝 ﹂ 巻 上 が 詳 し い。 一 九 一 五 年 以 来 組 織 的 発 掘 調 査 が 行 わ れ て い る。 (b

Ohosh guide to naland

﹁ 世 界 考 古 学 大 系 ﹂ 巻 八 )。 ( 25 ) 玄 奨 の し る す 都 城 が mingaora で あ る こ と を 提 唱 し た の は イ タ リ ヤ の チ ベ ッ ト 学 者 tucci 教 授 (preliminary

On an archaeolgical survey swat 1958

) で、 ほ ぼ 定 説 化 し て い る。 ブ ト カ ラ の 発 掘 報 告 と し て は faccenna and

m taddei sculptures from the

空 海 の 将 来 し た ﹁ 大 唐 貞 元 新 訳 十 地 等 経 記 ﹄

参照

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